あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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俺は確かに鳥居をくぐった。そして、鳥居の中へ吸い込まれるように入って行った。温かな渦に巻き込まれ、流れるようにそのまま・・・。

ふと気が付いたら、俺は薄暗い空間に立っていた。いや、薄暗いのではない。自分が立っている周辺だけがぼんやり明るいのだ。その周辺は、暗闇だった。だから、この空間がどれほど広いのかもわからないし、周囲に何があるのかもわからない。ただ、自分の周辺だけがぼんやりと明るいだけで、自分から遠くは暗いのだ。
「ここはどこだ・・・。俺はいったいどこに生まれ変わったんだ?。こんな場所があるなんて聞いてないけど・・・。まさか・・・地獄?」
俺は無性に不安になってきた。
「誰かいませんか?」
声に出してみた。しかし、返事はない。
「誰かいませんか!!」
叫んでみた。やはり返事はない。俺の声は響きもせず、吸い込まれるように消えていった。
「まいったなぁ・・・。まさか、こんなところに来るなんて・・・。これは、どうやらとんでもないところに来てしまったらしい。まいった・・・」
俺はがっくりと座り込んだ。どうやら、俺は、俺しかいない世界へと来てしまったらしい。たぶん、地獄の一種だろう。確か・・・孤独地獄とかいうところだ。
「だよなぁ・・・。行けども行けども何もない。自分一人だけの世界。孤独地獄だ・・・。何で俺がこんなところに・・・」
こんなはずじゃなかった。俺は絶対に天界に行けると思っていた。で、修行をして神通力を身につけ、現世に戻るつもりでいたのだ。それなのに・・・。俺が何をしたっていうんだ?。あの世の取材を命じられ、その挙句がこの仕打ちか?。今までのことは何だったんだ・・・。全身の力が抜けたようになり、俺は大の字になってひっくり返った。
「あぁ・・・このまま消えてしまいたい・・・」
俺は放心状態になってしまった。もう、何も考えられなかった・・・。

「いや〜、すまんすまん、遅れてしまった!」
どこからか、妙に明るい声が聞こえてきた。俺は、起き上がって周りを見渡した。
「待たせたな、申し訳ない」
その声は、どんどん俺の方に近付いてくるような気がした。
「うん?、なんだ泣いているのか?」
「あっ、あなたは!」
その声の主と俺は同時に言った。
「な、泣いてなんかいませんよ。それよりここはどこなんですか?」
「あははは、まあ、そう怒るな。いや、申し訳ない。ちょっと用事があってな、遅れてしまった。悪い悪い」
その声の主は、黒い衣に黄色い袈裟をつけた、お坊さんの恰好をしたおじいさんだったのだ。そして、その声は、俺にあの世の取材者になれといった本人だったのだ。
俺は立ちあがって、その老僧に尋ねた。
「いったいあなたは誰なんですか?。もういい加減に教えてくれてもいいでしょう。それにここはどこなんですか?。俺は一体どうなってしまうんですか。何もかもわからないことだらけで・・・」
「まあまあ、落ち着け聞新。遅れたのは悪かったのだが、そういっぺんに質問されても答えられんだろうが」
その老僧は、ニヤニヤしながらそう答えた。その態度がますます俺をイラつかせた。
「なに笑っているんですか?。俺はね、ものすごく不安だったんですよ。こんな薄暗い、誰もいないところに一人放り出されて・・・。こ、こんな、こんなところ・・・」
「孤独地獄だと思ったか?。わっはははは」
俺は、怒る気力も失せてしまい、がっくりと肩を落とした。
「もういいです。もういいですよ。もういいから、俺をここから出してください。俺の生まれ変わり先は、本当はここじゃないんでしょ。あなたが、ここに来たということは、どうせまた俺に何か命令するんでしょ。もういいですよ、他の人に頼んでくださいよ。もう嫌ですよ、付き合ってられません。あぁ、もうたくさんだ。俺は平穏が欲しいんです。もう嫌です。はい、さようなら。あぁ、気が狂いそうだ。もうやってられねぇ!」
俺はそう叫んで、歩き出していた。
「おいおい、どこへ行くんだ?。そっちに行っても壁にぶつかるだけだぞ。この空間は狭いからな」
その言葉通り、俺は数歩歩いた時点で壁にのようなものにぶつかった。その壁のようなものに沿って歩くと、老僧を中心として円になっていた。つまり、ここはそれほど広くないのだ。8畳くらいのスペースだろうか。しかも、出入り口がない・・・・。
俺は老僧を見た。
「まあ、死人に言うのもなんだが、お前真っ青だぞ」
相変わらず、老僧はニヤニヤしている。そのニヤニヤした口が言った。
「まあ、落ち着けって。わしの正体も教えてやるから。まあ、まずは座ろうじゃないか」
そういうと、老僧はそこにどっかりと胡坐をかいた。袖の袂から何かを取り出す。
「まあ、茶でも飲め。うまいぞ、天界の茶は」
それは何と、急須と湯呑だった。湯呑に茶を注ぐ。俺は、溜息を一つついて、老僧の正面に胡坐をかいた。

「ようやく聞く気になったか。まあ、茶でも飲め。いや、本当にうまいぞ。天界の茶だからな。それも弥勒菩薩様がいらっしゃる兜率天の茶だ。うまさが違う」
俺は、勧められるままに湯呑に口を付けた。ただし、その老僧をしっかり睨みながらだ。この老僧は、油断ならない。まあ、どうせ俺は死人だから、これ以上死ぬことはないから、毒を盛られても平気だ。だから、お茶を飲むことにしたのだ。
一口、お茶を飲んだ。
「うまい・・・。こんなおいしいお茶、飲んだことがない。いや、それどころか・・・」
「気持ちが爽やかになったろ?。軽やかと言ったほうがいいかな?」
その通りなのだ。老僧に対する怒りも、この変な場所に対する不安も、俺に対する仕打ちへの恨みも、焦燥感も、悔しさも、何もかもが吹き飛んだ。
「いや、ホントにすまんかった。お前を出迎えるつもりだったのだが、野暮用で遅れてしまったワイ。ま、事情を話すから、ゆっくり聞いてくれ」
老僧は、そういうと、背筋をしゃんと伸ばし、ニヤニヤ笑いをやめ、真面目な顔つきになった。
「本来は、お前さんは天界に生まれ変わることになっていた」
「やっぱりそうだったんですね」
「あぁ、そうだ。まあ、最後まで聞け。天界は、兜率天だ。さっきもゆうたが、弥勒菩薩様が教えを説いている天界だ。そこには、あの弘法大師様もいらっしゃる。弘法大師様は弥勒菩薩様に仕え、現世の人々を救うお仕事をされている。その手伝いというか、手先というか・・・う〜ん、まあ、使いっぱしりの小僧をしているのがわしじゃ。で、お前さんも、本来は、兜率天に迎えるつもりだった。しかし、あそこは素晴らしい世界じゃ。あんな心地よいところにお前さんが来たら、これからお前さんにやってもらおうという仕事をお前さんは拒否するだろう。いや、絶対に拒否するに決まっている。なにせ、お前さんは出家者じゃないからな。一般在家の者だ。折角、居心地良い天界に来て、しかも神通力を学ぶことができ、現世に帰ることも自由な立場になったら・・・そりゃ、うっとうしい仕事を任されるのは嫌だろうからな」
俺は再び口を挟もうとしたが、老僧はそれを手で制した。俺は黙って聞くことにした。
「お前さんは、そんなことはない、と否定するかもしれんが、いや、あの兜率天に来たならば、まずはそこから動くことを拒否するだろうな。しかも、その仕事は義務ではないからな。やるやらないは自由だからだ。いくら物好きなお前さんでも、兜率天に来てしまっては、引き受けてはくれないだろう・・・。いや、百歩譲ってお前さんがその仕事を引き受けたとしよう。しかし、きっと、お前さんはこういうだろうな。『神通力を身につけてからにしてください』とな。そう思って、ここにお前さんが来るように弘法大師様に頼んだのだよ」
確かに、俺はそう言うだろう。その仕事がどんな仕事かはしらないが、この老僧が俺に頼む仕事である。どうせ、取材関係に違いない。ということは、地獄を取材しろ、ということもあるだろう。それは危険じゃないだろうか?。そういうことならば、ある程度、神通力を身につけてからでないと、危なくって仕方がないではないか。

「ふむ、なかなか察しが良くてよろしい。さすが、わしが見込んだだけのことはある」
どうやら、俺の心を読んだようだ。
「いや、おだてているわけではないぞ。本心からそう思っている。でなければ、お前さんに頼むことはないからな」
また、俺の心を読んだようだ。神通力を身につけている人たちは、本当にやりにくい。先にこちらの考えを読んでしまうから、言いたいことも言えなくなってしまう。
「まあ、よいではないか。で、お前さんも気付いたように、その仕事とは、取材だ」
「嫌です」
俺は即答した。
「そうか、嫌か・・・ふむ、困ったのう・・・。おぉ、そうそう、お前さんの前に並んでいた、あの強欲なじいさん、どうなったか知っているか?」
老僧は、またニヤニヤしながら俺の顔を見た。痛いところをついてくる。きっとその次は・・・。
「ふむ、あの女性な。魅力的だったな。なかなかかわいらしくて、チャーミングじゃ。わしでも心を動かされるのう。むっふっふ。ま、少々浮気が過ぎたようだがな。その女性はな、実はな・・・おっと、それ以上は言えないな。こっちの世界・・・霊界でのルールがあるからな。他人であるお前さんには、教えられんなぁ・・・・」
くそジジィ横目で俺を見て、ニヤニヤしている。ホント、ムカつくジジイだ。そして、ニヤニヤ笑いのまま
「お前さん、気にならんのか?」
と聞いてきた。まるで、悪魔の囁き、誘惑だ。始末に悪い。
気にならないわけがない。強欲じいさんの行く先も、あの浮気女の行く先も、お坊さんじいさんの行先も、途中で連れ出されてしまったあの覗き見教師の行先も気になるに決まっている。気にならない方がおかしいだろう。しかし、彼らがどこに生まれ変わっているかわからない以上・・・覗き見教師はきっと地獄だろうし・・・危険が伴うところへ取材などいけるわけがない。
「気になりますけどね、そんなことは、私が神通力を身につけてから調べればいいことでしょ。まずは、天界へ行って、神通力を身に着けることが最優先でしょう」
「何年かかるかのう?」
老僧は、ぼそりとそう言った。

「お前さん、そう簡単に神通力が身につくと思うのか?。お前が神通力を身につけようと修行をしている間に、彼らはまたどこか違うところへ生まれ変わってしまうかもしれないんだぞ。たとえばだ、このあと、一般的には百か日の供養がある。まあ、やらない連中もいるがな。しかし、もし百か日の供養を行ったら、四十九日で決まった生まれ変わり先が変わってしまうこともある。百か日の仏様は観音様だ。観音様は、お優しい方だ。百か日の供養があったということだけで、地獄から亡者を掬い取ることもなさるだろう。そうすれば、彼らの本来の生まれ変わり先がわからなくなってしまうことにもなる。それは・・・本来の姿とは異なる、ということにならないかのう?。真実が曲がってしまった、ということにはならないかのう?」
痛いところをついてきた。我々ジャーナリスト・・・三流ではあったが・・・は、真実を追求したいのだ。真の姿を見たいのだ。そういう習性が身についている。それがなければ、雑誌記者とか、ジャーナリストなどは務めることはできない。それほどハードな仕事なのである。
「真実を知りたいと思わんか?」
老僧は、俺の心の迷いに追い打ちをかけた。再びの悪魔の誘惑である。
「そ、そりゃ、真実は知りたいですよ。できれば、今すぐあの人たちの生まれ変わり先を知りたいと思いますよ。あっ・・・」
言ってしまってから、しまった、と思った。俺は、すぐに老僧から目をそらし、横を向いた。
「ふむふむ、知りたいよなぁ・・・。まあ、それが人情ってもんだよなぁ・・・。もう、知りたくて知りたくて、うずうずしているよなぁ・・・。なんせ、ジャーナリストだからなぁ・・・」
嫌なジジイである。
「もう勘弁してくださいよ。そりゃ、取材はしたいですよ。俺だって記者の端くれですからね」
あえてジャーナリストとは言わなかった。
「ですけどね、今度の取材は生まれ変わり先でしょ?。ということは、そこには地獄も含まれるわけじゃないですか。それって、危ないでしょう。そんな危険なところへは取材にはいけません。俺は戦場カメラマンじゃないですから。都会派なんですよ、俺は」
俺は、語気荒くそう言った。しかし、俺の主張は、軽く受け止められたらしい。老僧は、相変わらずのニヤニヤ笑いのまま言った。
「何が都会派だ。笑わせるねぇ、まったく。まあいい。確かに、今回の取材は、生まれ変わりの世界だ。あぁ、人間界以外となるがな。なので、地獄も含まれるし、餓鬼の世界へも行くことになろう。まあ、危険と言えば危険・・・かな。しかし、お前さん、死人じゃないか」
うん、まあ、確かに死人ではある・・・。うん?、何か変だ。ちょっと待てよ・・・。俺は四十九日が過ぎたはずだ。ということは、どこかに生まれ変わるはずだ。今は、こんなところに迷い込んでいるが、本来は天界へ生まれ変わるはずだった。ということは、天界へ行けば、肉体が持てる、ということだ。そう言えば、女房の守護霊のおじいさんは、すごくいい男に生まれ変わった、と言っていた。そう、本当ならば、俺は肉体を持っていなければいけないはずなのだ。いつまでも死人である・・・という状態が変なのだ。
「おっと、気が付いたか」
俺の考えを読み、老僧はぬけぬけとそう言った。
「おっと、気が付いたか・・・じゃないですよ。やっぱり騙すつもりだったんですね」
「いやいや、そうじゃない、そうじゃないが・・・。まあ、気が付かなければ、それはそれでいいかな・・・。なにせ、今回のミッションは特殊なんでな」
ミッションときたか・・・。笑わせる。
「わかった。すべてを話そう。これは、おいおい話すつもりだったんだが・・・。あのな、このミッションを受けてくれるのなら、お前さんは、特別扱いとなる。その特別扱いとは、生まれ変わりの時期を延期する、ということだ。生まれ変わりの場所は、兜率天と決まっているが、その時期は、先延ばしになる。つまり、お前さんは、その状態のまま、死人のままで取材に行くことになるのだ」
老僧は、どうだすごいだろ?、みたいな得意顔でそう言った。
「ど、どういうことですか?。生まれ変わりの時期を延ばすって・・・。死人のままって・・・、どういうことなんですか?」
俺の頭は混乱したのだった。


「ふむ、お前さんでも混乱するのだな」
老僧は、そんなのんきなことを言った。
「当たり前じゃないですか。私は、あの鳥居をくぐったんですよ。あれをくぐったら、生まれ変わるはずじゃないですか。それを・・・死人のままって・・・。混乱するに決まってるじゃないですか」
「まあまあ、そういきりたちなさんな。だから、ちゃんと話すと言っておるじゃないか」
老僧はそういうと、俺を睨み付けた。その眼力に俺は思わずひるんでしまった。何というすごい眼力だ。こんな目で睨まれたら、そこらへんのヤクザならちびってしまうかもしれない。
「落ち着いたか。よし。まあ聞け。いいか、お前さんは、わしの依頼を受ければ特別扱いとなる。それはなぜかと言えば、わしの依頼が、多少だが危険を伴うからだ。
まず、そのわしの依頼だが、それは六道輪廻の世界を巡ってもらうことだ。あぁ、細部にわたって巡るものではない。大まかに、だ。とはいえ、地獄から始まり、餓鬼界・畜生界・修羅界と進んでもらう。最も広いのが地獄だ。しかも、ここは過酷である。普通の肉体を持っている者ではとてもじゃないが、行くことはできない。たとえ、お前さんが予定通り兜率天に行って、神通力を身に着けたとしても、お前さん程度が身に着けられる神通力では、地獄を巡ることは無理だ。わしでも遠慮したいくらいだからのう。まあ、お大師様ほどの方や天界の主クラスの神々になれば問題はないが、神々でも地獄は嫌がるからのう。おっとまった、話の腰を折るな。お前さんの言いたいことはわかる。神々ですらいくのが嫌な場所へなんで行かねばならないのか、ということだろ?。それはな、お前さんの好奇心のためだ。それと同時に、地獄や生まれ変わり先の様子を人間界の人々に伝えたいからだ。ライブでな・・・。おい、笑うな。ライブという言葉くらいは知っておるぞ。まあ、それはいい。で、だ。まあ、特に地獄は危険なわけだ。ただし、それは生きた肉体を持っている者にとっては、という話なのだ。わかったか?」
老僧の説明を俺は理解したが、素直には聞き入れることはできなかった。
「話は分かります。そりゃ、死人ならば、どれほど危険な場所に行っても、平気でしょう。肉体がないのですからね。暑さも寒さも、痛みも感じませんから。でもね・・・」
「でも、なんじゃ?」
老僧、涼しい顔をしてそう聞き返した。
「う〜ん、なんか納得できないなぁ。なんか、騙されている気分だ。いや、言いくるめられている気分だ。う〜ん、なんだ、この感じは・・・。こういうパターンって・・・」
この言いくるめられているような、目くらましを食らってはぐらかされているような、この感覚。どこかで味わったことが・・・。いや、しょっちゅうこの感覚を俺は経験している。そうだ、先輩である。先輩と話していると、時々、こんなふうに丸め込まれたり、煙にまかれたり、ごまかされたりするのだ。
「おいおい、あいつと一緒にするな。わしは、素直に正直に話しているぞ」
「あいつ?」
「お前さん、まだ気づいていないのか。案外鈍いのう。お前の先輩のアレは、わしの孫じゃ」
「あっ!」
そう言えば似ている。話し方など同じだ。この、人を丸め込むような話し方、そっくりである。
「おい、一緒にするなと言っておるだろう。アレは、まあ、変わり者だからのう」
「似たようなモノでしょ。そう言えば、聞いたことがあります。先輩のおじいさんは、確かあの寺を始めた方ですよね。初代住職ですよね。先輩言ってましたよ、『オヤジは普通の坊主だったが、じい様は超変わり者だ。俺以上だ』とね。なるほど変わり者ですよね。死人にあの世の取材をさせたり、さらには、生まれ変わるはずの者をその生まれ変わりの時期を延長して、地獄や餓鬼を取材しろだの、そんなことを思いつくなんて、変わり者以外いないでしょ」
俺の言葉に老僧は目を丸くした。びっくりしたのか、図星だったのでたじろいたのか・・・。
が、そう思った俺は甘かった。やはりこの老僧、先輩のじい様は食えない人なのだ。
「ぐわっはっはっはっは・・・」
大爆笑である。
「こりゃ傑作じゃ。アイツがのう、わしの方が変わり者だと?。ま、アレならいいそうだがな」
そして、ふと真面目な顔になった。
「で、わしのミッションを受けるのか受けないのか?。どうなんだ?」
老僧は、そう言って俺の顔を覗き込んできたのだった。

「しょうがないじゃないですか」
俺は横を向いて小声でそう言った。
「うん?、なんだと?」
「しょうがないじゃないですか。他に選択の余地はないんでしょ?。やらなきゃ・・・仕方がないんでしょ?。だったらやりますよ」
「おぉ、そうか、引き受けてくれるか。お前さんならそう言ってくれると思っていたよ。いやいやよかった、よかった」
満面の笑みである。こうなることは、初めからわかっていたくせに。すべて予定通りなのだろう。あぁ、なんだ、この屈辱感は・・・・。
「まあ、そう嫌な顔をするな。不貞腐れることはなかろう。ま、やってみれば楽しいことだとわかるし。いいぞ、肉体がないということは。すごく便利だ。ある意味な。いやいや、やれやれだ。ありがたいありがたい」
なにがありがたい、だ。ホント、うそ臭い。
「おぉ、そうそう、取材にあたってな、お前に渡しておかねばならないものがある。これがないと、いろいろ不都合だからな」
そう言って老僧がだしてきたのは、いわゆる「通行手形」だった。
「な、あんですか、これ?。これって、よくお土産にある通行手形じゃないですか」
そう、木でできた、将棋の駒型のものである。大きく墨で「通行手形」と書いてある。紅白の紐までついている。鈴がないだけマシだ。むちゃくちゃダサい。
「これ・・・、ちょっとダサくないですか?。こんなの持って歩くんですか?」
「そう、これを持って歩くのだ。裏を見てみろ」
そう言われて、俺はそのダサい通行手形を裏返して見た。
「梵字が書いてある。仏様の文字だ。ここに仏様・・・弥勒菩薩様だ・・・の神通力が封印してある。よいか、その通行手形を額の前に掲げろ」
俺は老僧の言う通り、通行手形を自分の額にあてがった。すると老僧は、なにやら呪文めいたことを唱えだした。

一瞬、眩いほどの光が走った。すると・・・。
「立ち上がってみろ。肉体がないと不便だから、一応、仮の肉体を与えておいた。ま、これも弥勒菩薩様の力だがな。あぁ、肉体があるといっても死人であることには変わりはない。いわば、意識のあるゾンビだな。わはははは」
立ち上がった俺は、ちょっと驚いた。生きていた時の肉体そのものである。感覚がある。立っているという感覚があるのだ。驚きのあまり、老僧の失礼な言葉に突っ込みを入れ忘れた。なにがゾンビだ!。
俺は、自分で自分の腕を叩いてみた。が、痛くはない。触っている感覚はある。しかし、痛くはないのだ。不思議なものだ。顔をつねってみる。やはり痛くはない。しかし、触れているという感覚はある。
「痛みは感じない。また、怪我をすることもない。死人だからな。しかし、大地を踏んでいるという感覚や、触っているという感覚はある。もう少し詳しく言えば、感覚は触れている、という触感があるだけで、そこから派生する痛みや快感、熱さ冷たさなどは感じない。火にも強い。燃えることはないわけだ。叩かれても壊れることはない。仮の肉体だからな。それと、今はお前さんはほぼ裸同然だが、これからは違う。お前さんが意識した衣装に変えることができる。ま、動きやすい恰好を意識するんだな」
そういわれて俺はもっとも動きやすい恰好を意識してみた。ジーンズにジャケット、シャツ、スニーカーだ。
「ほう、そういう格好で生きていた時は取材していたのか。スーツじゃないんだなぁ」
「スーツは動きにくいんですよ。今はノーネクタイが多いですしね。この格好がもっとも動きやすいんです。まあ、うちの会社は、低レベルでしたし・・・」
大手だとスーツがまだ主流なのだろう。しかし、うちは三流だったので、この格好が主流である。
「ふむ、恰好も決まったことだ。では、出発するか。まずは地獄からなのだが、まあ、そこに行けばわかるがな、門がある。そこの門番にさっきの通行手形を見せろ。そうすれば、わかるように手配してあるから大丈夫だ」
「はぁ、わかりました。しかし、それはいいのですが、その門へはどうやって行けばいいのですか?」
「ふっふっふ、それはわしに任せておけ」

老僧は、衣の袖から丸い厚紙を出してきた。それには、文字が書かれていた。先ほどの通行手形の裏のような文字、梵字である。
「これは特殊な梵字を書いた紙でな、5枚ある」
老僧はそう言いながら、その丸い梵字の書かれた紙を円を描くように配置した。
「さて、お前さん、真ん中に立て。うん、そうそう。よく見てみろ。この5枚の紙で円が描かれているだろ。で、お前さんは、その中央に立っている。でだな、わしが呪文をゴニョゴニョと唱えれば・・・」
老僧はそう言い、両手を合わせ、妙な形を指を絡みあわせて組むと、呪文を唱え始めた。
今回の呪文はやや長いようだ。しかし、ものの2〜3分もすると、5枚の梵字を書いた紙が光りはじめた。そして、その光が全体を包み込むと・・・。
「じゃあな、後は頼むぞ」
老僧がそう言って笑っているのが、眼の端に見えたのだった。

気が付くと、大きな門の前に立っていた。
「ここは・・・、あぁ、俺は飛ばされたんだ。しかし、先輩のじいさんにも困ったものだ。はぁ・・・何で俺がこんなことを・・・・。でも、断れないよなぁ・・・。ま、仕方がないか。それにしても大きな門だ。ビルで言えば、10階建てくらいの高さはあるかな?」
それほどの大きな門だった。その大きな門の上の方には、またまた大きな額が掲げてあった。
「地獄門」
そこにそう書かれていた。
「うへぇ〜、本当に地獄の門なんだ。マジで来てしまったんだ・・・」
今さらながらに、嫌になってきた。俺の役目は、あの門に行って、門番に通行手形を見せ、地獄へ入れてもらうことである。簡単なことなのだが、足がなかなか進まない。俺は、周囲を見回してみた。周りは薄暗い。冬の夕方のようだ。しかも、荒涼としていて、周囲には何もなかった。ただ、何もない地にどでかい門だけがぽつんと立っているのである。それも妙な姿だった。
「はぁ・・・。仕方がない。行くとするか」
俺は、一度大きく深呼吸すると、腹に力を入れ、気合を込めた。そして、門に進んでいったのである。

門の下には、身長170センチくらいの鬼・・・なんだろう・・・が二人いた。二人とも頭には2本の角が生えている。顔は赤く、眼が大きくらんらんとしている。口も大きい。筋肉質で、いわゆるマッチョだ。腕なんぞ、丸太のようである。上半身は裸だった。腹筋が見事に割れているのがよくわかる。腰には短いスカートのようなものをつけていた。ミニスカートだ。足も太い。筋肉隆々である。鬼は二人とも裸足で、槍を持っていた。その槍は、先端に刃が三つついている。真ん中の刃は、普通の両刃の刀の形である。その左右に、細い三日月形のような剣が付いていた。それを片手に掴み、杖のようにして立っているのだ。
「あのう・・・」
俺は恐る恐る声をかけてみた。そりゃ、怖い。相手は鬼なのだから。いくらこちらは死者だからと言っても、できれば刺されたくはない。
「なんだ?。うん、なんだお前?。さっきからウロウロしているが、何ものだ!」
向かって左側の鬼がそう答えた。口調は横柄だ。怒っているのかもしれない。だいたい、先ほどから俺は門の前できょろきょろしていた。挙動不審である。怪しまれているに違いない。
「えっと、地獄の門の門番さんですか?」
どうせ挙動不審者である。俺は、開き直ってそう尋ねた。
「如何にもそうだが、お前は誰だ。場合によっては・・・」
そういって、その鬼は槍でトンと地面をたたいた。横を見ると、もう一人の鬼がこちらを睨んでいる。
「あの、地獄の門番さんにこれを見せろと言われまして・・・」
俺はそう言って、老僧から渡された通行手形を見せた。
「うん?、これは・・・。通行手形か。裏を見せろ」
言われるままに俺は通行手形の裏を見せた。
「ほう、間違いないな。そうか、お前か。お前が聞新だな?」
鬼はそういうと、ニヤッと笑った。口の中の鋭い牙が見えている。
「そうかそうか、お前が物好きな聞新か。あははは、あははは、わはははは」
ニヤニヤしていた鬼は、とうとう二人とも笑い出してしまった。笑いながら、「お前か、物好きなヤツは」と言っている。
ひとしきり笑い終わると、
「いや、すまんすまん、そんな物好きなヤツが珍しいもんでな。ついつい笑ってしまった。すまんすまん。まあいい。しかし、ホント、お前も変わっているなぁ」
そういうと、二人の鬼は顔を見合わせ
「ようこそ地獄へ。さぁ、中に入りたまえ」
とハモったのだった。


二人の鬼は、俺の前を歩いて案内してくれた。一人の鬼が振り返った。相変わらずにこやかな顔をしている。
「しかしなぁ、お前も物好きだなぁ。地獄なんぞ、見て回って面白いかぁ?」
「面白い・・・というか、頼まれたからというか・・・。まあ、興味もあるんですけどね」
「頼まれた?・・・あぁ、あの和尚だな。ふっふっふ、あの和尚も変わり者だからなぁ。ま、僧侶としては正しい生き方かもしれないが・・・」
「あの和尚さん、地獄に来るのですか?」
「あぁ、来るぞ。たまにな。たぶん、あの和尚がいた寺で法事か供養があったんだろうと思う。でな、その先祖が地獄にいたりすると、あの和尚がやってきて、その先祖を地獄から連れ出したりするんだな。ま、連れ出せずに説教だけして帰る場合もあるけど・・・」
なるほど、弘法大師のお使いをしているとか言っていたのは、どうやら本当のようだ。
「まあ、しかし、地獄はな、あの和尚でも嫌がるからな。地獄にやって来ると、『うへぇ、ここは何回来ても慣れんのう。こんなところによくいられるなぁ、お前ら。少しは反省して、地獄を出ることくらい考えたらどうじゃ』とか言ってるからなぁ」
「そうそう、しかも、滞在時間は短いしな。ありゃ、本当に嫌なんだよ」
あの老僧でも嫌がる地獄。そういえば、神々でも嫌がるとか言っていた。弘法大師クラスでないと、耐えられないとも言っていた。
「そ、そんなところ、私は耐えられるんですかねぇ・・・」
「あぁ、お前は大丈夫さ。その通行手形があるだろ。そいつは優れものだぜ。それさえあれば、地獄のどん底に突き落とされても、痛くもかゆくもないさ」
「ま、無くしたら大変だけどな。わははははは」
「そうそう、せいぜい落っことさないように注意することだな。さぁ、着いたぞ」
そこには、どこでも見るようなお寺のような建物が立っていた。
「ここが地獄の・・・う〜ん、事務所のようなものか。まあ、中へ入ってみればわかるさ。後は、中の者が手配してくれる。じゃあ、俺たちは門に戻るからな」
二人の鬼は、俺を一人残し、来た道を帰って行った。俺は、しばらく佇んでいたが、ともかく中に入らないと始まらないので、お寺のような建物の入口へと向かった。
引き戸を開ける。開けた正面に鬼が座っており、座卓で書類のようなものを見ていた。その周囲は三方を壁に囲まれている。八畳くらいの広さだろうか。小さな事務所と言った感じだ。鬼の後ろはどうやら引き戸になっていて、その奥へと通じているようだ。
「なんだ?。罪人か?。今日は罪人が来る予定はないが・・・」
「あ、いや罪人じゃあないです。あのこれ・・・」
そう言って、俺は通行手形を見せた。
「あ、あぁ、それ、お前・・・聞新か。むふふふ。お前がねぇ・・・。話は聞いている。なんでも地獄を巡りたいそうだな。ふっ、物好きな・・・」
ここでも物好きと言われてしまった。まあ、神々でも嫌がるようなところを巡ろうというのだから、物好きに違いない。俺は、妙に納得してしまっていた。
「で、それで、どこから行くんだ?。一番軽い地獄からか、それとも最悪の地獄からか?」
「それはどういうことですか?」
「なんだ、お前知らないのか?。そんなことも知らないで地獄を巡ろうというのか。ふ〜ん、まあ、妙に知識がない方がましかもしれないけどな。あのな、地獄っていうのは、大きく分けて8か所あるんだ。軽い地獄から最悪な地獄まで八つに分類される。一番軽いのは、等活地獄(とうかつじごく)、次が黒縄地獄(こくじょうじごく)、衆合地獄(しゅうごうじごく)、叫喚地獄(きょうかんじごく)、大叫喚地獄、焦熱地獄(しょうねつじごく)、大焦熱地獄、阿鼻地獄、となっている。ちなみに以上が一般的な地獄で、熱系の地獄な。このほかに寒冷系の地獄もあるが、それはあまり一般的ではないな。罪人もものすごく少ないし・・・。さて、どこから巡るのかな?」
どこから巡るのか・・・と聞かれても、すぐには答えられなかった。とりあえずは、熱系か寒冷系かを決めたほうがいいだろう。
「普通は、熱系地獄なんですよね。じゃあ、熱系地獄へ行きます。それで、まあ、やっぱり軽い方から順に巡って行った方がいいと思いますんで、そうしてください」
「わかった。じゃあ、等活地獄からな。では、案内をつけるからそこで待っていろ。あぁ、案内がないと地獄は廻れないぞ。迷子になったら・・・帰ることができなくなる・・・場合もあるからな」
そういうと鬼はにーっと笑い席を立って、奥の引き戸を開け、その中へと入って行った。俺は、座卓の前に座ったまま待たされる格好になった。

しばらく待っていると奥から甲高い声が聞こえてきた。
「面倒くせー話だな。まあ、地獄の中は俺の庭みたいなもんだからいいけどさ。全く物好きなものがいたもんだ。さて、そいつの顔を拝むとするかねぇ」
と同時に、座卓の後ろの引き戸が開いた。そこには、アニメに出てくるオオカミのような顔をした鬼?が立っていた。
「おう、よろしくな、俺は夜叉だ。あ、ちなみにここでは名前がない。こいつも『おい』とか呼ばれているだけだし、俺も『おい』と声をかけられてここに出て来た。ま、名前なんてここじゃあ、必要ないからな。けけけけ」
夜叉と名乗った者は、耳まで裂けそうな口を開けて、妙な笑い方をした。そいつは、頭には毛がまばらに生えているだけだった。眼はギョロッとしていてちょっと愛嬌があるが、ときおり睨むような目つきをすると、なるほど恐ろしい。耳は上の方がとんがっている。スタートレックのミスタースポックのような耳だ。口はその耳あたりまである。大きな口だ。その口からは、鋭い牙が見えている。身体はいかつい。やはり地獄では、マッチョじゃないとやっていけないのだろう。座卓に座っていた鬼もたくましい身体をしていた。で、皆一様に上半身は裸だ。短い巻きスカートようなものを身につけているだけで、他は何も着ていない。ジーンズにシャツにジャケットの俺が妙に浮いて見えた。しかも、彼らは裸足である。スニーカーを履いている俺の方が妙な格好に思えてくる。まあ、それはともかくも、俺は挨拶をした。
「どうぞよろしくお願いいたします。私は聞新といいます」
「あぁ、わかっているよ〜けけけけ。物好き聞新だろぅ。さて、じゃあ、さっそく等活地獄へ行くか、けけけけ」
物好き聞新・・・どうやら地獄の鬼や夜叉たちの間では、俺はそう呼ばれているらしい。まあ、確かに物好きではあるのだが、そうあからさまに言われると、あまりいい気はしなかった。しかし、そんな俺の気持ちは無視して、夜叉は
「じゃあ、行くぜぃ、早くついて来いよ。迷子になると面倒だからよぉ」
と言っている。俺は、小さくため息をついて、夜叉につき従った。

「さて、この道をちょっと行くと門がある。そこが等活地獄の入り口さ。ついてきな」
夜叉はそう言って、歩きだした。俺は、その後ろについて行った。ほんのしばらく歩くと、大きなお寺にあるような門があった。「等活地獄」と書かれた額が門の上にかかっていた。
「罪人はな・・・あぁ、ここでは地獄送りとなった死者は、罪人と呼ばれているんだ・・・そいつらは、こっちの道を歩いてくる」
夜叉は、門の前の横に通じている道を示した。俺たちはまっすぐ門に向かってきたが、門の前には横から通じている道もあったのだ。つまり、門の前の道はL字型になっているのである。
「この道は一方通行だ。この門は入口しかない。出口は別にある。しかも二つだ。出口は二つあるんだよ。どうしてかわかるか?」
俺はわからなかったので、「いや、わかりません」と答えた。
「そんなに固くならなくてもいいよ。もっと気楽にいこうぜ。ちょっとした旅行気分で行ったほうがいいと思うぞ。まあ、それはいいけどな。そのうちに慣れるだろうからさ。そうそう、出口が二つあるのは、一つはさらに下の地獄へ落ちる出口、もう一つは地獄から救われる出口だ。どっちの出口に向かうかは、そいつとそいつの子孫次第だな。けけけけけ」
夜叉は、大きな口をあけて笑った。
なるほど、子孫がちゃんと供養するかどうかにかかっている、ということなのだろう。子孫が、先祖の供養を怠れば、その先祖の中で地獄へ落ちている者がいたとすれば、その者はさらに下へと落ちる可能性がある、ということなのだろう。
しかし、地獄へ来てまでも競争社会のような仕組みになっていると思うと、ちょっとやるせない気分だ。現実社会でも、ちょっと勉強を怠れば、たちまち落ちていってしまう。勉強についていけなくなれば、それこそ学校が地獄のようなところになる場合もあるだろう。どこへ行っても、同じなのだ。まあ、死者の場合は子孫の行動・・・供養するかしないか・・・によるのだけど。いや、となると、地獄では自分の努力は意味はないのだろうか?。俺はその疑問を夜叉に聞いてみた。
「子孫次第っていうことですが、じゃあ、地獄では、本人の努力は意味がないんですか?」
「いいや、そんなことはないよ。本人の努力も意味のあることさ。どんな地獄の責め苦に遭おうとも、『すべて私が悪うございました。反省しております』なんて、しおらしくしてりゃあ、地獄を脱出できるさ。でもな」
夜叉はそういうと、俺を横目でにらんで口の片方の端をあげてニヤッとした。
「そんな殊勝なヤツは・・・イ・ナ・イ・ヨ。けけけけけけ」
大声で笑うと、夜叉は続けて言った。
「だいたいな、そんな殊勝なヤツなら、ここには来てないって。まあ、見てみるがいいさ、ここは、いや、どこの地獄もそうだが」
夜叉は、そこまで言って、たっぷり間をあけた。そして
「愚か者の巣窟だよ」
そういうと、夜叉はちょっと寂しそうに笑ったのだった。この夜叉、案外いいやつなのかもしれない。
「ま、ともかくだ。等活地獄の中に入ろうぜ」
夜叉は、そういうと門の中に入って行った。俺もそのあとに続いて門をくぐったのだった。

「おや、珍しいなお前さんがここに来るなんて」
門の中には、一人の鬼が立っていた。手には、書類のようなものを持っている。
「あぁ、今日はちょっと特別な用事でな。俺は、地獄の案内人になったのよ。で、依頼者はこの人。この物好きな・・・」
「あぁ、こいつか、物好きな聞新ていうのは!。うひゃひゃひゃひゃ。こいつかぁ、そうかぁ、へぇ・・・」
何か珍しいものを見るかのように、その鬼は俺を上から下までたっぷりと見回した。
「ふふふ。いや、本当に物好きだと思うよ。地獄を見たいなんてな。お前も案内人なんて初めてじゃないか?」
「そうよ。でもな、まあ、地獄は俺の故郷みたいなもんだからな。隅々まで知り尽くしているし。楽な仕事だよ」
「そうだなぁ、お前、地獄で何年になる?」
「かれこれ・・・数万年かな?。もう忘れちまったよ。けけけけけ」
なんと、夜叉は数万年も地獄にいるのだ。そりゃ、地獄にも詳しくなるはずだ。
「そうか、俺は2万年くらいかな。ここへ来たのが数千年前か・・・。以前は、地獄の総門にいたんだけどな」
俺が最初に立ったところの門だろう。一応、この世界にも移動があるようだ。
「なんだか、話を聞いていると、現実世界のサラリーマンみたいですね」
俺は、ついつい口に出していた。しかし、夜叉は
「そうそう、同じだよ。生きている人間も、俺たちも似たようなものさ。宮仕えはつらいものだよ。けけけけけ」
と快活に笑った。
「そんなことはいいから、中に入ろうぜ。いいだろ?」
「あぁ、わかっているから大丈夫だ。上から通達が来ているからな。それに・・・こいつは有名人だからな。うひゃひゃひゃ」
鬼は、俺を見て豪快に笑ったのだった。鬼が笑うのは来年の話を聞いたときだけじゃないんだ、とくだらないことを思い付いたが、口には出さないでいた。
「そうそう、なんで等活地獄っていうか知ってるか?」
鬼が聞いてきた。
「いや、知りません」
「まあ、見りゃあわかるんだけどな。一目瞭然。だけど、簡単に説明いておいてやるよ。あのな、個々の罪人は、そりゃもういろいろな責め苦に遭う。で、その結果、死ぬんだ。だけど、ほんのちょっと時間が経つと、生き返るんだ。死んだ時と同じ姿でな。で、何度も殺されるわけだ。つまり、等しい姿で生き返る、活動を始める、だから、等・活なんだよ。嫌な世界だろ。うひゃひゃひゃひゃひゃ」
嫌な世界だろ、と言いつつ、鬼は楽しそうに笑った。ま、そうでなければここの番人などは務まらないだろうけど・・・。
鬼の話によれば、この世界の罪人は、何度も同じ姿に生まれ変わって、何度も殺されるのだ。嫌な話である。というか、残酷な話だ。それがいったい何年続くのだろうか?
「さ、中に入ろうぜ。案内してやるよ。あぁ、先に言っておくが、ここが一番軽い地獄だからな。それと、罪人によって様々だから。それぞれ違いがあるから、よく観察しておくんだな」
そういうと、夜叉は真面目な顔つきなり、「行くぜ」と言って歩き出したのだった。
鬼に頭を下げて、俺は夜叉の後に続いた。すぐに飛び込んできたのは、光景ではなく音だった。それは、人叫び声だったのだ・・・。



「ぎゃ〜!!!!!、助けてくれ〜、イヤだ〜!!!」
「死にたくない、助けてくれ〜!!!」
「うぎゃ〜!!!、ギャ〜、死ぬぅぅぅぅ・・・」
「許してくれ〜、助けてくれ〜、お願いだぁぁぁぁ!!!」
それは耳をつんざくような叫び声だった。まさに絶叫である。俺は思わず、耳をふさごうとした。
「ダメだよ、耳ふさいじゃあ、ちゃんと聞かなきゃ」
夜叉が俺の手を取ってそういった。
「これが地獄なんだからさ、耳ふさいじゃ地獄がわからなくなるでしょ」
確かにその通りだ。しかし、その叫び声を聞き続けるのは、苦痛だ。頭がおかしくなりそうなのだ。
「眼も閉じちゃあダメだよ。まあ、薄暗いから、今のところよく見えないかもしれないけどね」
夜叉は、先に俺に注意をした。そう、等活地獄の中は薄暗かった。だから、あまり良く見えない。遠くの方に赤い・・・あれは炎だろうか・・・がちらちら見える。遠くの方と言ったが、まるで距離感がない。案外近いのかもしれない。
「まだここは入口だぜ。等活地獄の中に一歩入っただけだよ。それなのに、そんな苦しそうな顔をしていたら、奥には入れないぜ」
夜叉は俺の顔を見てそう言った。俺は、いわゆる「苦虫をかみつぶしたような顔」をしていたのだ。ひどいしかめっ面である。
「し、しかし、この叫び声・・・あまりにひどくて・・・頭に響くんですよ。こんな・・・声を聞いていたら・・・前に進めない・・・」
「しょうがねぇな。じゃあさ、通行手形を出してみな」
俺は、震える手で胸のポケットから通行手形を出した。
「それに向かって、『音声正常化』と言ってみな」
俺は言われた通りに『音声正常化』と言った。すると・・・。
「どうだ?。もう頭が痛くならねぇだろ。通行手形は、すぐれもんだぜ。それ、無くすなよ。まあ、お前は死人だから、もう死ぬことはないが、死ぬほど苦しい思いをするからな。そうそう、手形の先端に紐のようなものがあるだろ?。それ、引っ張ってみな」
頭が割れそうな地獄の叫び声は、もう気にならなくなっていた。遠くで誰かが叫んでいる、程度になっている。俺は、ホッとして、夜叉が言った手形の先端のひもを引っ張ってみた。すると、紐が伸びてきた。しかも輪になっている。
「首から下げることができるんだよ。落とさないようにな」
俺は、あわてて紐をクビにかけた。その紐は自動的に、適度な長さに調整された。
「それとな、手形にさ、『本来の状態』って言ってみなよ」
夜叉は、俺の方を見てニヤニヤしながらそういった。さっきと様子がちょっと違っていた。しかし、夜叉の言うことは、今まですべて正しいことだった。俺は、ちょっと不安を感じたが、すぐに『本来の状態』と手形に向かっていった。
「うわ、なんだ、これ・・・。蒸し暑い・・・・」
「そう、蒸し暑いだろ。これが地獄の状態さ。お前は、手形のお陰でこの蒸し暑さを感じなくなっているんだよ。しかしな、実際の地獄も知っておいた方がいいだろ。だから、その機能を解除したんだ」
「蒸し暑い・・・どころじゃない・・・。暑くて死にそう・・・だ。それに・・・臭い・・・。なんだ・・・この匂いは・・・」
「あぁ、血と死体の匂いだな。良い匂いじゃねぇか。死体を食っていた時のことを思い出すなぁ。まあ、今じゃ、食わねぇけどな」
夜叉は、大きな口を開けて笑った。それは、まさに夜叉本来の顔なのだろう。耳まで裂けた口には、鋭い牙がのぞいていた。遥か昔は、その口で人や人の死体を食べていたのだ。
俺は、あまりの苦しさにうずくまってしまった。
「おぉ、苦しそうだな。手形に『快適な状態』って言え」
「はぁ、はぁ、か・・・いてき・・・な・・・はぁ、はぁ・・・じょう・・・た・・・い・・・はぁはぁはぁ・・・」
「もう大丈夫だろ。ま、なんでも経験しないとな。あはははは」
「勘弁してくださいよ。いきなりあの状態は、辛いですよ。まいった・・・。けど、地獄の人たちは、あんな状態の中にいるんですね」
「あぁ、そうだ。気温は摂氏60度くらいかな。湿度は99%ってとろか。サウナの中にいるようなものだな。しかも、この匂いだ。正常な者は吐くな。で、失神する。そんな状態の中をここの住民は走り回っているのさ」
夜叉はそういうと、ある方向を指さした。そこには、逃げ回る者たちが大勢いた。
「そろそろ眼も慣れただろ。見えるだろ、あの連中」
「えぇ、走り回ってますよね。この蒸し暑い中よく走れますね」
「走って逃げ回らなきゃいけない理由があるんだよ。ちょっと近くへ行ってみようぜ」
夜叉はそういうと、走り回っている等活地獄の住民・・・夜叉によると彼らはこの世界の住民なんだそうだ。罪人とも呼ぶこともあるらしい・・・たちの方へ歩き出した。時折、「おぉ、頑張っているねぇ。走れよ、ほれ、もっと走らないと大変だぞ」とか声をかけている。
その中の一人の男が「助けてくれ!」と夜叉にしがみつこうとしてきた。
「やだよ」
夜叉は一言そういうと、さっと身をかわした。そのため、その男は俺とぶつかってしまった。
「あっ、あんた、助けてくれ」
その男は・・・34〜5歳くらいの年齢だろうか・・・俺にしがみついたのだった。
「あっ、ちょっと待ってください。助けてって、どうしたのですか?」
男は震えていた。その男の顔に俺は見覚えがあった。
「あっ、あんたあの殺人犯の!」
「そうだよ、そいつは殺人を犯したんで、ここに来たのさ。罪人だよ」
確かその男は、人妻に手を出し、その人妻と共謀し邪魔な夫を殺害した犯人だ。それは俺が死ぬ1年ほど前の事件だった。あぁ、そうだ、こいつ、服役中にくも膜下出血で急死したんだ。女の方はまだ服役中だ。
「そ、そんなことはどうでもいい。とにかく助けてくれ。鬼が・・・鬼が来るんだ」
男は必死にそう言って俺にしがみついた。男は震えていた。

俺はどうしていいかわからず、途方に暮れてしまった。夜叉の方をみて
「どうすればいいんですか?」
と聞いてみたが、夜叉は
「しらねぇよ、自分で決めな」
と言ったきり、知らん顔をしている。俺は困ってしまった。
そうこうしているうちに
「助けてくれ、助けてくれ」
「俺も助けてくれ」
「わしも助けてくれ」
「わたしも助けて!。私、女なんだから、私が先よ」
「あたしよ、あたしを助けて!」
などと、次から次へと人が集まってきてしまった。
「ちょ、ちょっと、待って、待ってください。そんなにいっぺんに・・・」
「ぎゃ〜、鬼が来る。早く助けろ!」
「うわ〜、殺される、おい、何やってるんだ!、俺を助けろ!」
「あたしが先よ。どいてよ」
「俺が先だ!」
「わしを先に助けろ!。年よりは大事にせにゃ」
「うるせいじじぃ、てめぇはすっこんでろ」
ある男が、年寄りのじいさんを殴り飛ばした。それをきっかけに男も女も若いも年よりも入り乱れて殴り合いが始まった。あっというまに、年寄りは殴られ蹴られて倒れ込んでいた。女が殴り飛ばされた。男が腹をけられてうずくまっている。ひどいありさまだった。
「おい、少し離れるぞ」
夜叉の声に俺は我に返った。あまりにもひどい殴り合い・掴み合いに俺は茫然としていたのだ。夜叉に引っ張られ、俺は数歩後ろに下がった。殴り合いを遠巻きに眺めている野次馬のような立場になった。
「おいおい、またケンカか〜。いけないなぁ、ここまできてケンカしちゃあ。あっ、誰だ、そこのじいさんを殺したヤツは。また、殺人の罪を重ねたなぁ〜」
そう言って現れたのは、鬼である。まさしく鬼であった。真っ赤な身体をしている。筋肉隆々である。身長は2メートルを超えているだろう。鋭くとがったいぼいぼが付いたお馴染みの金棒をもっている。もちろん、身につけている物は、虎の毛皮のパンツというか、腰巻だ。ミニスカートのようなものだ。その鬼が、5〜6人、ニヤニヤしながらゆっくり殴り合いをしている者たちに近付いてきたのだ。
鬼の姿を見た途端、殴り合いは納まった。殴り合いをしていた罪人たちは、全員、腰を抜かしたようにへたり込んでしまった。
「うわっ、お・・・鬼だ・・・。助けて、助けて、助けて・・・」
「神様仏様・・・、どうかお助けを」
などと言いながら、這いずって鬼から遠ざかろうと必死にもがいている。中には
「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」
と念仏を唱えている者もいた。
あっという間に、殴り合いをしていた罪人を鬼たちが取り囲んでしまった。

「おい、誰だ、助けてくれといったのは。お前か?、それともお前か?」
鬼は順に罪人を指さしていった。罪人は震えながら首を横に振っていた。やがて、鬼は一人の男を捕まえて
「お前だろ、助けてくれといったのは。嘘をついちゃいかんよな。言ったよな。助けてくれって」
と言った。掴まれた男は、震えながら「は、はい、いいました・・・」と小さな声で言った。
「お前、確か殺人の罪でここに来たんだよな」
男は、首を縦に振った。
「お前が殺したヤツは助けてくれと言ったか?」
「は、はい・・・言いました」
「で、お前はそれを助けたのか?」
男は、鬼から顔をそむけた。
「助けるわけないよな。助けたなら、殺人は犯していない。お前は、助けてくれと命乞いをするものを殺したんだ。そうだな」
男は、横を向いたまま気まずそうにゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ、俺も助けてあげない。お前がやったことと同じことをしてやろう」
そういうと、鬼は片手でその男の首をつかんで、その手を目いっぱい高く上に伸ばした。首つり状態である。
「お前は、助けを求め、命乞いをした女の首を絞めて殺したんだろ。その女は、こんなにも苦しんだんだ。お前もその苦しみを味わえ!」
「ぐぅ・・わ・・・」
男は、白目をむき、涎を垂らして絶命した。鬼は、その男を放り投げた。
「さて、次はどいつだ?」
絶望の叫びが何重にもなって鳴り響いたのだった。

鬼は何もせず、罪人たちを眺めていた。やがて、叫ぶことに疲れた罪人たちは、黙り込んだ。
「ふぅ、やっと静かになったな」
鬼の一言に罪人たちは固まって震えていた。
「お前らでも、そんなに仲良くなるんだな。おうおう、そんなに肩をくっつけて、仲がいいなぁ。がはははは」
鬼の笑い声が腹に響く。野太い声の笑い声だ。
「さて、そろそろだな。ふむ、誰かに殴られて死んだじいさんも生き返ったようだ」
確かに、殴り合いのさなか、誰かに殴り飛ばされ、踏んづけられて死んでしまったおじいさんは生き返っていた。死ぬ間際と同じ姿形で、罪人たちに寄り添っている。
「俺が放り出した男もそろそろ生き返る頃合いだな」
鬼はそう言いながら、男を放り投げたほうを見た。そこには、男の死体が横たわっていたが、やがてもぞもぞと動き出したのだ。
「う、うぅぅん・・・くる・・・しい・・・」
そう言いながら、男はゆっくり起き上がった。すぐさま、鬼が男の腕をつかんで、罪人が固まっているところに放り投げた。鬼が取り囲む輪の中だ。
「仲良く固まっているところ誠に恐縮なのだが、お前ら全員殺すぞ。ただし、あの山に一番に登った者だけ、助けてやる。さて、誰が助かるかな?」
鬼が指さした方には、小高い山があった。年寄りでも簡単に登れそうな山である。
「あ、あの山に一番に登った者は、本当に助かるのか?」
罪人の一人が聞いた。
「あぁ、助けてやるさ。無事にあの山に登れたらな。いいか、俺たちは、100数えてやる。その間に、あの山に登れば助かるんだよ。そうだ、鬼ごっこだ。鬼の俺たちに捕まらないように、上手に逃げるんだな。ただし、助かるのは一人だけだ。いいな。じゃあ、始めるぞ!」
そう鬼は言うと、大声で数を数えはじめたのだった。
罪人は、一斉に山を目指して走り出した。数人の鬼は、腕を組んで、それを眺めている。その中の一人だけが大声で数を数えていた。
もうすでに罪人たちの中では差がついていた。やはり、若い男性は、山のふもとにたどり着くのが早い。が、ここからが問題だった。
山の頂上に登るには、狭い道が一本あるだけなのだ。
一番最初にその道にたどり着いた者が、後ろから背中をつかまれ引っ張られて転がった。
「なにしやがる!」
「うるせい、邪魔だ!」
二人がもみ合っているうちに、次から次へと罪人たちが山道にやってきた。あっという間に殴り合いのケンカである。そのスキを突き、女が山道を駆け上がろうとした。
「そうはさせねぇ!」
男が女に飛び掛かる。参道の入り口は、取っ組み合いのケンカをする連中でふさがれてしまった。
「98、99、100!。さて、100まで数えたぞ〜、さぁ、殺しに行くぞ〜!!」
鬼たちは、一斉に雄叫びをあげて罪人がなぐり合っているところを目指し、走り出したのだった・・・。


「どきやがれ!、俺が山に登るんだ」
「うるせー、邪魔だ!」
「早くしないと、鬼が来る!、どいてよ!」
罪人たちが入り乱れての取っ組み合いだった。そのうちにじいさんが弾き飛ばされた。すでに絶命していた。おっさんが蹴り飛ばされ、そこにおばさんが馬乗りになり首を絞めていた。そのおばさんの首に後ろからけりが入った。おばさんが転がって行ったが、起き上がってくる気配はなかった。死んだのだ。おばさんが首を絞めていたおっさんも死んでいた。おばさんを蹴り飛ばした男は、後ろから羽交い絞めにされバックドロップをくらい絶命した。気が付けば取っ組み合いのケンカをしていた連中も残りは三人となった。その中の若い男同士がお互いの身体をつかんでいるすきに若い女が山道に入ろうとした。
「あっ!、テメー汚ねぇーことするんじゃねぇ!」
腕をつかまれていた男が、その腕を振り払い女の足をつかんだ。女は勢いよく前に転んだ。
「痛ってぇ〜、テメー何しやがるんだ!」
とても若い女性とは思えない言葉遣いだ。なるほど、地獄の落ちるはずである。見た目は若くてまあまあの女性なのだが、やることや話し言葉はひどいものである。女は起き上がった時に大きな石を持っていた。その石で自分の足をつかんだ男の頭を殴った。男は「ぐぇー」という声とともに絶命した。
「ひでぇ女だな。石で殴り殺すとは」
「うるさいね、あんたに言われたくはないわ」
「そこを通せ」
「嫌だね。山にはあたしが登るんだ」
そういうと女は振り向きざまにダッシュした。しかし、男も甘くはなかった。腰に手を回すと、思いっきり後ろに放り投げたのだ。女は細身だったので、軽々と飛ばされた。女が転がっているすきに男は山道へかけていった。
「あっ・・・くっそ〜、待ちやがれ・・・、くっそ〜、痛ってぇ・・・」
女ははいずりながら山道へと進んでいった。その時
「ぎゃー」
という叫び声が山から響いた。
「あはははは。引っかかったな。バカな奴だ。あははは」
気が付けば、鬼がすぐそばまで来ていたのだった。

「なんだ、お前は生き残ったのか」
鬼が若い女に向かっていった。
「ふ〜ん、運がいい奴め」
「運が・・・いい?、どういうことだよ、それ」
「知りたいか?。知りたいなら見せてやる」
鬼はそういうと、山に手のひらを向けると、何かゴニョゴニョと呪文を唱えた。すると山にはえていた木々がなくなった。はげ山になったのだ。しかし、そこには木が一本だけ残っていた。いや、それは木ではなかった。山に駆け登って行った男が、山から突き出た鋭い針のような刃物で突き刺されている姿だった。
「あっ、あっ・・・」
女はその姿を見ると、後ろへと這いずって行った。
「な、お前は運がいい。いや、どうやらお前に少しだけ供養が届いたようだな。それなのに、お前は石で男の頭を殴り殺した。折角、現世から供養が届いたのに、お前はまた罪を犯した。哀れなものだ。折角の功徳もここで犯した殺人でチャラだな。この男を殴り殺しさえしなければ、地獄を出られたかもしれないのに・・・。残念なことだ」
女はポカンとして鬼を眺めていた。鬼の言っている意味が解らないのだろう。
「しょうがないな。そろそろ死んだやつが生き返るころだ。全員生き返ったら説明してやろう。おっと、その前にあの男の針を抜かなきゃな」
鬼はそういうと、また山に向かって手のひらを向け、ゴニョゴニョと呪文を唱えた。すると、男の意突き刺さっていた針のような刃物がスーッと消えたのだった。男の死体が下に落ちた。
しばらくすると、
「痛ってぇ・・・痛ってぇ・・・、あぁ・・・くそ痛ってぇ・・・」
と言いながら男が起き上がった。すぐに鬼が男に近付き腕を捕まえ、他の罪人が集められたところにひきずっていった。集められた罪人たちは、バラバラだったが全員正座をして、肩を落としていた。
「お前ら本当に愚か者だな。バカだな。何度死んだらわかるんだ?。えぇ?、おい!。お前ら何度死ねばいいんだ?。いい加減に気が付けよ。俺が俺が、私が私が、と我先に周囲の者を押しのけて山に登ろうとするから救われないんだよ。しかも、自分以外の者を邪魔だといい、殺してしまうとはな!。そんなんだから、この世界にいるのだ。そんなことを繰り返していると、さらに下の地獄へ落ちることになるぞ。いい加減に気が付けよ!。いいかお前ら、お前ら何でここに来たんだ?。答えてみろ!。おい、そこのじいさん、お前、何でここに来た?」
鬼に指をさされたじいさんは、
「ひ、人を殺したからです・・・」
とボソボソと答えた。鬼は、順に「お前は?」、「お前は?」と聞いていった。全員が「人を殺したからだ」と答えたのだった。当然のことながら、ここは全員人殺しが集まっているのだ。
「そうだよなぁ。人を殺した罪により、この地獄へ落ちてきた。そうだな。それなのに、反省もせず、また人を殺している。それがどういうことかわかるか?」
鬼の問いかけにおばさんが
「また・・・罪を犯している?」
と小さな声で答えた。
「その通りだ。それはどういうことだ?」
「さ、さらに下の・・・地獄へ落ちる?」
「ピンポ〜ン。大正解。現世で殺人を犯した罪により、最も軽い地獄に落ちたお前らだが、その最も軽い地獄、ここでまた殺人を何度も繰り返した罪により、お前らはさらに下の地獄へ落ちることとなった。バカな奴らだ。いいか、お前らが救われる道はただ一つ。他の奴の命を救うことだ。ホッントにバカだなぁ。鬼ごっこはな、その大きなチャンスだったんだ。お前らが、お前らが、お前らが、お互いに殺し合いなどせず、『自分はいいから、あなた山に登りなさい』と譲っていたら、その者は助かったのだ。この地獄を出られたのだ。いいか、全員がお互いに道を譲り合っていたら、お前らは全員この地獄から脱出できたのだ。それなのにお前らは我先にと周りの者を殴り蹴り飛ばし首を絞め、石で殴り放り投げて殺し合いをした。この地獄を脱出できる折角のチャンスを自らの手で潰したのだ。だから、残念ながら、お前らは下の地獄へ移されることとなった。哀れだのう」
鬼はそういうと、どこからかロープを取出し、罪人たちの手と腰を縛ったのだった。いや、最後に生き残った若い女だけが縛られることはなかった。
「おう、そうそう、お前は下へは行かない。助かったな。理由は、さっき言ったとおり、現世から供養が届いたからだ。一回だけだけどな。まあ、その一回によって、さっきの鬼ごっこで殺されることはなかったのだが、もしお前が石で殴り殺していなければ、誰も殺していなければ、お前は供養のお陰で地獄を脱出し、二段階特進したんだけどな」
「二段階特進?」
「そう、この上は地獄ではなく餓鬼界だ。その上は畜生界だ。だから、お前がさっきの鬼ごっこで殺しをしていなければ、供養の功徳と重なって、畜生界へ行けたのだ。ひょっとすると蝶々くらいには生まれ変われたかもしれないな。ま、お前なら蛾が似合っているけどな。あはははは。いずれにせよ、もう遅い。次の鬼ごっこのチャンスを待つんだな。あはははは」
鬼は大笑いをすると、他の鬼に「連れていけ」と言った。縄で縛られている罪人は一段階下の地獄へと連れられて行ったのだった。

「どうだい聞新?。これが地獄だよ。しかも、一番軽い等活地獄だ。ひどいもんだろ?」
夜叉が俺に聞いてきた。
「えぇ、ひどいですね。いや、ひどいのは、あの罪人たちのことですよ。彼らは、反省も何もないのですかねぇ・・・」
「ふむ、いいところに目をつけているな。さすが、取材者だけのことはある。鬼の連中をひどいと言わなかったのは、大したものだ」
夜叉はそういうと俺の方を見てニヤッと笑った。そして目を下の地獄へ連れられて行く罪人に向けて言った。
「なにも反省しないからここに来たんだよ。あいつらだって一応、裁判は受けたんだ。現世でもこっちの世界でもな。現世では刑務所に入った。ここではこの地獄だ。しかし、彼らは、どこに行っても反省などしなかった。現世にいて反省をしなかったから地獄へ来たんだ。現世の裁判でも刑務所でも反省をしているふりをしただけで心から反省しなかった。だからここに生まれ変わったんだ。少しでも・・・ほんの少しでも心から反省していれば、地獄じゃなく・・・そうだな、虫にでも生まれ変わることができただろうに・・・」
そう言った夜叉はどことなく寂しそうだった。この夜叉は、案外人間が好きなのかもしれない。
「こんな状況を見続けているとな、人間って本当に愚か者だなぁ、と思うよ。哀れな生き物だなぁってな。何とかならないのかな、ってな。もっと、心の教育っていうのか、それをすれば防げるんじゃないかな、と思うよ。でな、うんざりするんだ、そのうちに・・・」
夜叉はそういうと、
「さぁ、次の刑場・・・あぁ、罰を受ける場所な・・・そこへ行こうか。あぁ、ちなみに、お前らが現世でいう針の山は、さっきの山のことだ。鬼ごっこでよく利用するんだ。一見、普通の山に見えるが、さっきのように人を押しのけて我先にその山に突っ込むと、針が下から出てくる。しかも、山に入ってすぐじゃない。少し喜ばせてから下から突き出てくるんだ。イヤな装置だろ?。巧妙にできているよなぁ・・・」
と歩きながらボソボソと話したのだった。
この夜叉、かつては地獄にいたと言っていた。地獄の番人をしていたらしい。だから地獄の隅々まで知っていると豪語していた。それは本当のことなのだろう。長年・・・何千年なのかは知らぬが・・・地獄にいて、この光景を見続けた結果、うんざりしたのだ。愚かな人間にうんざりしてしまったのだ。ひょっとしてそれが原因で、この地獄での仕事が続けられなくなったのではないだろうか・・・。現世の行き詰ったサラリーマンのようにウツになってしまったのかもしれない。それは考え過ぎだろうか?。夜叉のさっきの寂しそうな様子を見ていると、それもあながち考え過ぎとは思えない。この夜叉、いいやつなのかもしれない。そんなことを考えながら、黙って夜叉の後をついて俺は歩いていったのだった。

地獄は広い。どのくらい歩いただろうか?。
「広いだろ?。罪人はな、罰を受ける場所を振り分けられている。どういう理由で振り分けてあるかは知らない。一つだけわかっていることは、さっきの鬼ごっこが下へ落ちるか、上へ行けるかの試験であることは確かだ。他の刑場でいろいろな罰を受けた罪人が、最後にさっきの鬼ごっこグループに回されるんだよ。で、何回か鬼ごっこの試験を受ける。一度でも合格すれば、上に行けるんだな。すべての試験に落ちれば、下の地獄へ行くんだ。まあ、さっきの若い女のように特別に鬼ごっこグループに残されることもあるがな。あの女は、また試験を受けることになるのだ。
その試験の前に罪人はいくつかの罰を受けるんだが、罪人同士が接触しないようにしてあるんだ。だから地獄は広くなっている。刑罰を受けている者が、他の罰を見ることはできないんだ。まあ、そんな余裕もないけどな。さぁ、そろそろつくぞ。今度は、あの有名な血の池地獄さ」
夜叉はそういうと、岩がごつごつしたところを指さしたのだった。
「この岩場を登るんだ」
夜叉は岩場にある通路を登って行った。上に行くに従い、煙・・・いや、湯気が立っているのがわかる。時々「ポコン、ポコン」という音が聞こえてくる。
「煮えたぎっているんだよ、血の池地獄は・・・。あの『ポコン』という音は、沸騰した血の泡が割れた音だ・・・。何度聞いても嫌な音だ・・・」
岩場の通路を登りながら夜叉は時々説明をしてくれた。その口調は、決して楽しそうではなかった。むしろ、憂鬱そうな話し方だった。
「ここが血の池だ」
岩場の一番上まで登りきると、夜叉が下を指さしてそう言った。夜叉が指さした方には、大きな池が広がっていた。その池は、赤黒い色をしていた。どうやら沸騰しているようで、ねっとりとした泡が時々「ボコン、ボコン」とはぜている。
「ちょうど罪人が血の池に放り込まれるようだ。よく見ておくんだな」
夜叉は厳しい目をしてそう言った。
夜叉が言ったように、鬼に罪人が10人ほど連れてこられた。誰もが手と腰をロープで縛られている。彼らは、血の池の横にある広い平地に立っていた。そこは、どうやら血の池に飛び込むように作られている場所のようだった。
「お前ら、血の池は初めてだな?。前の刑罰はどうだったか知らないが、ここは最悪だ。覚悟しておくんだな。さて、手と腰のロープを取る。ロープから解放された者から、血の池に飛び込め。わかったな!」
鬼が大声で怒鳴った。その声で罪人たちは震えあがった・・・ように見えた。
罪人たちは順に手と腰のロープを外されたが、誰も血の池には飛び込まなかった。
「なんだなんだなんだぁ〜?、誰も飛びこまないのかぁ?。しょうがねーなー。まあ、俺たちがお前らを突き落としてもいいんだが、それじゃあ面白くないし、地獄らしくねぇよなぁ・・・。なので・・・」
そういうと鬼は罪人を全員見渡し、ニーっと笑った。
「お前らで突き落とせ。突き落としあえ!。最後に残った者は・・・落ちなくて済むぞ。むふふふふ」
鬼は嫌な笑い方をしたのだが、驚いたのは鬼のその言葉を聞いて罪人たちがホッとしたような顔をしたことだった。
「聞新、気が付いたか、罪人たちの表情」
「えぇ、気が付きましたよ。あの鬼の言葉を聞いた途端、ホッとしたような顔になった。いや、それどころかニヤニヤ笑った者さえいた。彼らの本心が見えましたよ」
「そうだ、あれが人を殺した者の本心だよ。ちっとも反省していない。むしろ、殺し合うことを喜んでいるような・・・そんな感じさえする。ここに来る前の刑罰はなんだったかは知らないが、相当イライラしているようだ。まあ、イライラがピークになった状態だからこそ、ここに連れてこられたのだろうがな。ここは、本当に地獄だからな」
夜叉は、吐き捨ているようにそう言った。そして、小さな声で「始まるぜ」と言ったのだった。

「いいかぁ、お前ら。俺がよし!と言ったら、お互いに突き落としてもいいぞ。最後に残った者は、池に落ちなくてもいい。約束しよう。いいか、よしっ始めろ!」
鬼がそう言ったとたん、罪人たちの取っ組み合いが始まった。やはりここでも年寄りの罪人が不利だった。あっという間にじいさんが落ちた。
「ぎゃー!」
池に落ちた途端、じいさんは絶叫した。助けを求めて水面・・・血面と言ったほうがいいのか?・・・に突き出した手は、肉がただれ落ちすぐに骨となった。
次の落ちたのは若い痩せた男だった。この男も落ちた瞬間に叫び声を発した。あわてて水面に顔を出したが、その顔はとても見られるものではなかった。顔の肉がただれ落ち、目の玉が飛び出たかと思うと、あっという間にそれも溶けてしまった。血の池の血が顔の上をドロドロと流れ落ちる。痩せた若い男はすぐに骸骨へと変わってしまった。俺は肉体がないのだが、吐き気がしてきた。
次々と人が落ちていく。ついに池の端の広場に残ったのは屈強の男が二人だった。お互いに睨み合っている。そして、組み合った。まるで相撲を取っているようだ。お互いに必死だ。どちらも譲らない。と次の瞬間、彼らがいた足場が崩れた。相撲を取っていた男たちは、「あー」という叫び声を残して池に落ちていった。
「あぁ、足場が崩れるとは予想外だったなぁ。わはははは」
鬼は大声で笑ったのだった。結局、一人も生き残るものはなく、罪人は全員血の池へ落ちていったのだった。すべての者は死んでしまった。
いや、待てよ、ここは等活地獄だ。罪人たちは、死ぬ前と同じ姿でまた蘇るはずである。しかし、彼らの死体は煮えたぎる血の池だ。どうやって生きかえるのだ?。池の中で生きかえってしまっては、またすぐに死んでしまうだろう。
「お前の疑問はすぐに解けるさ」
夜叉は俺の方を見ず、池の上を見ながらそう言ったのだった。


「お〜い、引き揚げろ!」
鬼の声が響いた。すると「じゃらじゃらじゃら・・・」という音とともに血の池から網のようなものがせり上がってきた。中には・・・見るも無残な白骨死体が何体か折り重なっていた。俺は思わず目をそむけた。仮の肉体なのに、吐き気がこみ上げてきた。
「こういう仕組みなっているんだよ」
夜叉は、吐き捨てるように言った。
「初めから網が仕込んであるのさ。網は鎖で吊るしてあるんだ。で、全員が池に落ちたら、頃合いを見計らって網をあげる。中には白骨化した遺体がある。で、その網の中の白骨を岸に上げるんだ。ああやってな」
夜叉が指さした方は、罪人たちが争っていた場所だ。そこに網から白骨化した遺体を落とした。まさに落としたのだ。網の底が左右に開いて、骨となった遺体がバラバラと落ちていったのだ。岸には、バラバラになった骨が積み重なっていた。
「ひどいもんだろ。生前、いったいどんなことをしたらあんな目に遭うのかねぇ・・・」
夜叉はしみじみと言った。
「まあ、見てな。ここは等活地獄だ。あの白骨もすぐに動き出す」
そう夜叉が言っているうちに、骨ががしゃがしゃと音を立て、崩れ始めた。バラバラだった骨は、一体二体と人の骨の形を取り戻し、動き始めている。人の白骨標本が這いずっているようなものだ。やがて、骨はいつの間にか元の人の姿に戻っていった。
「ほう、全員生き返ったようだな。あははは、どうだ血の池地獄は。いい湯加減だったか?。なに?、熱すぎる?。そうだよなぁ、すぐに骨になっちまったからな。苦しみも一瞬だったよな。それじゃあ、お前らが殺した者の苦しみがわからないよな。しょうがねぇから、血の池の温度を低くしてやるよ。いい湯加減にな。やけどをして痛くて苦しくてのた打ち回るくらいの湯加減にな!。がはははは」
鬼の大きな笑い声が響いた。罪人の一人が泣きながら叫んだ。
「や、やめてください!。助けてください!・・・どうせ殺すのなら、一気に殺してください。く、苦しむのは・・・」
「ばかやろう!。お前らがそんなこと言えるのか?。お前ら、いったい何をした?。嫌がる者を、恐怖におびえるものを水に沈めただろ!。お前らに殺された者は、息苦しくて息苦しくて・・・苦しんだ上に死んでいったんだ。おい、お前!。お前は、火をつけて殺したな。家と人に火をつけて殺しただろ。火に焼かれたものがどんなに苦しいか、お前も同じ目に遭え。いいや、もっと苦しいこの地の池で、お前が殺した者の痛みと苦しみを知れ!。お前らは、自分のしたことを反省もせず、助けてくれという・・・。お前らにそんな資格があるか!」
鬼の声が地獄にこだました。その声は、腹の底に響き、罪人どころか、俺までもビビらせたのだった。

「な、なるほど・・・。彼らは、そんなひどいことをしたんですね」
「そういうこった。水に沈めて人を殺した、火をつけて人を殺した・・・。船から人を突き落とした、川や海に人を突き落とした、放火した、熱湯の中に人を突き落とした・・・。そんな連中だよ。あぁ、ちなみに、我が子を熱湯の中に落とし、大やけどと窒息で殺してしまった親は、もっと下の地獄へ行っている。ここはまだ、比較的軽い方だ。親殺し、子殺しは、もっと罪が深い。特に子殺しはな、最低の地獄だな」
嫌な世の中である。自分で産んだ子供を殺してしまう親が実際にいるのだ。虐待死をさせる親がいるのだ。子供を大切に思わない親はいない、なんていう言葉は、もはや通用しない。我が子を憎む親もいるのである。それが現実だ。しかし、我が子を虐待死させてしまった親は、きっと後悔しているだろうし、生きている時も苦しみで心が痛んでいるであろう。しかし、それで終わらないのである。自分が死んだ後、我が子が味わった苦しみの何十倍もの苦しみを味わうことになるのだ。それでやっと親としての責任が取れるのだろう。悲しい話である。腹が立つ話である。そんな俺の憤りを鬼の声が破った。
「おい、お前ら、これで済むと思うなよ。これで終わりじゃない。もう一回、お前らで争ってもらう。さぁ、いいか、最後の一人になるまで争え。血の池に突き落とし合うんだ。ただし、時間制限がある。3分だ。3分たって、一人しか残っていなければ、そいつは助けてやる。が、3分たって、二人以上残った場合は、全員、俺たちが血の池に落とす。わかったな。さぁ、バトル開始だ!」
血の池地獄の刑罰は続いていたのだ。

鬼の声を合図に10人ほどの罪人たちは、一斉に争いを始めた。バカバカしい。彼らは気付かないのか?。答えは争うことじゃないのに。争わず、反省することなのに。争ってばかりいたら、いつまでたっても地獄からは抜けられないのに・・・。俺がそう思っているうちに一人が血の池に落ちた。
「うぎゃー、熱い、熱い、熱いー、助けてくれ〜!」
どうやら、今度は落ちた瞬間に死に至ることはないようだ。血の池に落ちた者は、池の中でもがき苦しんでいた。しかも、池の深さはそれほどでもないようだ。さっきは、池に落ちた罪人は沈んでしまったが、今回はかなり浅くなっている。立てば膝くらいの深さだろうか。その中をのたうちまわっているのだ。その苦しみの叫び声に、争っていた罪人たちは、争いをやめ一斉に池の中を覗き込んでいた。
「ひゃ、ひゃ〜!」
全員が、血の池地獄でのた打ち回る者を見て後ずさってしまった。そりゃそうである。俺も思わず顔をそむけた。こみあげてくる吐き気が止まらない。吐くものなんてないのに。吐くことなんてできないのに・・・。
血の池でのた打ち回っている者は、見るも無残な姿をしていたのだ。顔どころか、全身やけどで・・・肉が・・・ダラダラと溶けるように落ちて・・・骨が次第に露出していった。あぁ、これ以上、見ていられない。血の池地獄は、想像以上に悲惨だった。
「おい、どうした。時間が来るぞ。このままでは、全員落ちることになるぞ。それでいいのか?」
悪魔の誘惑だ。鬼の言ったことは、悪魔の誘惑だ。その誘惑に乗っちゃいけない。答えは、争わないこと!、なのだ。すんでのところで俺はそう叫ぶところだった。夜叉が俺の腕を掴んで、それを止めたのだった。
「口出しはいけないぜ。我々はあくまでも傍観者だ。一切口出しは、しちゃならない。言いたい気持ちはわかるがな・・・」
そう言った夜叉の目は、厳しい目つきであったが、どこか悲しみを含んでいた。
「あ、あぁ、はい、ありがとう。もう少しで叫んでいるとこだった・・・。すまん、迷惑をかけてしまった」
「いや、いいんだ、わかってくれれば。お前の気持ちはよくわかるからな。はぁ、結局は、争いは止まらなかったな」
夜叉は、罪人たちがいる岸を見てそう言った。そこでは、再び争いが始まっていたのだ。
「ブッブー、時間切れだ。お前ら、本気でやってないな。なにをビビってしまったのか知らないが、仕方がない。お前ら全員、落下だ」
鬼がそう言うと、罪人たちが争いをしていた岸に鬼が数名現れた。鬼たちは「さぁ、落ちろ、落ちろ!」と叫びながら、罪人たちを追い回した。罪人たちは逃げ回っていたが、やがて「ぎゃー」という叫び声とともに一人が落ち、二人が落ち・・・そして全員が血の池に落ちていったのだった。苦しみの叫び声が、血の池からいくつも響いてきた。

先ほどと同じように岸に白骨化した遺体が放り出された。その骨はやがて肉体を持ち、元の罪人たちへと戻っていった。
「お前ら、わかっているのか?。わかっていないだろ。なんでお前らがここに落ちてきたのか、全くわかっていないだろ!。そんなことではダメだな。よし、ここで争って血の池に落とすというのは、止めだ。今度は、お前ら全員、血の池からスタートだ」
どうやら刑罰が変わるようである。
「いいか、お前ら全員血の池に入れ。あぁ、大丈夫だ。今はちょうどいい湯加減だ。わはははは」
鬼の持っている槍のような武器につつかれながら、罪人たちは血の池の中へ降りていった。池の深さは、先ほどより深くなっていた。腰くらいになっている。
「全員下りたか。どうだ?、熱くないだろ?。ちょっと熱めの風呂と言ったところだ。まあな、熱湯の中に落とすばかりじゃあ、かわいそうだから、ちょっと休憩だ。温泉気分も味わってくれ。気持ちいいか?。おい、お前、気持ちいいか?」
指をさされた罪人は、「あぁ、はい、はい、気持ちいいです」と答えた。すぐさま、鬼は大笑いしながら
「ひどい奴だな、お前。その池の血はな、お前が殺した者の血も混じっているんだぞ。この血の池の血はな、お前らが殺した者の血でできているんだ。あぁ、もっとも、お前らだけじゃないがな。過去、理不尽に殺されてしまった者の怨念がこもった血なんだよ。だから、殺人者にまとわりつくんだ。ねっとりとな」
鬼にそう言われ、罪人たちは手で血を掬ったりしだした。確かに、血の池の血は、どろっとしていた。ねっとりとした血なのだ。
「どうだ、お前らにまとわりついてくるだろ。それはな、恨みや苦しみが、その血に含まれているからだ。さて、この池は、だんだんと深くなってくる。それと同時に、熱くなってくる。やがて、熱さと深さで、お前らは溺れ、火傷を負い、痛みと苦しみの中で死んでいく。助かるには、早く岸に上がることだ。わかったな。俺が何を言いたいか、わかったな。いいか、助かりたければ、早く岸に上がるのだ。ただし、上がれる岸は、あそこ、お前らが立っているところから一番遠いところだ。あそこしかないから」
鬼が指さした方向には、確かに岸に上がれる梯子がかかっていた。それも人が一人登れるだけの、普通の木でできた梯子である。いや、普通のはしごと違っているところがある。それは、どうやらその梯子は木が腐っていて、今にも折れそうな梯子だということだ。おそらく、人が二人その梯子につかまったら、折れてしまうのだろう。これも鬼ごっこと同じパターンである。きっと、罪人たちは争いながら、我先にとあの梯子に向かうだろう。周囲の者を蹴落としながら、殴り飛ばし、足を引っ張り、頭を押さえつけながら、梯子に向かって駆け出していくに違いない。そして、その結果は・・・。
初めからわかっている。何人かの者が梯子につかまり、梯子の上で争っているうちに梯子が折れて全員血の池に落ちる・・・。鬼の思う通り、台本通りである。必ず、そうなるのだ。
「では、始めるぞ。スタート!」
鬼の合図とともに、罪人たちは梯子に向かって駆け出して行った。

果たして、それは俺の予想通りの展開だった。
「思ったとおりの展開でがっかりだったか?」
夜叉が俺の方を見て聞いてきた。
「そうですね。予想通りの展開でした。彼らは、考えないのですかねぇ。我先にと梯子に向かって、先にたどり着きそうな者の足を引っ張り、頭を踏み、身体をつかんで後ろに放り投げ、蹴り合い殴り合いをし、で、結局は梯子を壊してしまい、全員池に落ちていく・・・・。これを繰り返すんでしょ?。それなのに、気が付かないのですか?。それほどまでに、彼らは愚か者なのですか?」
「そうだな。2回目が始まるからよく見てな。鬼の思惑に気が付くやつもいるんだけどな・・・」
夜叉がそう言っている間に、2回目のはしご争奪戦が始まった。するとその中に一人叫んでいる者がいた。中年のオッサンである。
「おい、待て。おい、お前らちょっと待て!」
「なんだ、うるせーぞ、オッサン」
数名の男が、中年のオッサンの声に立ち止った。
「おい、他の者も止まれよ」
「バーカ、お前なんかと話している暇はねぇんだよ」
「わかった。じゃあ、走りながらでもいいから聞いてくれ。お前らが聞かなくても俺は話すぞ!」
「勝手にしろや、オッサン!」
そう言って、立ち止っていた数名の男たちも走り出した。仕方がないので、オッサンも走り始めた。
「いいか、これは鬼たちの罠だ!。あの梯子は結局は壊れるようになっているんだ。いや、一人だけなら何とかなるかもしれねぇ。そこでだ。誰か一番軽い奴がまず岸に上がるんだ。梯子が壊れていなければ、体重の軽い順から岸に上がるんだ。一人だけ助かるとは、鬼は言ってねぇ。梯子が耐えられるうちは、梯子を使ってあがるんだ。梯子が壊れたら、岸に上がったやつがまだ池にいるヤツを引っ張り上げるんだ。そうすれば、全員助かる。どうだ、そうした方がいいと思わねぇか」
オッサンは、まとわりつく血に足を取られそうになりながらも、懸命に叫んでいた。しかし、
「バカかオッサン。あの梯子は、一人登ったら壊れるさ。それによ、こいつらが信用できるか?。みんな自分さえ助かればそれでいいと思っているヤツばかりだぜ。そういう俺も同じだけどな!」
オッサンの声に応えた若者は、そういうとまとわりつく血を蹴散らして、前を行く男の背中を蹴った。蹴られた男は、血の池に倒れ込んだ。そこを次々と罪人たちが踏みつけていく。倒された男は、沈んだまま起き上がってこなかった。
「オッサン!、エラそうなこと言っても、おまえも同じじゃないか。オッサンも、今の男を踏みつけただろ。どいつもこいつもみんな同じだよ。自分が一番大事なんだよ!」
そう叫んだ若い男は、他の男に掴みかかっていった。梯子は目前である。醜い争いは止まらなかった。作戦を提案した中年のオッサンも、結局は争いに巻き込まれていったのだった・・・。
「ああやって、鬼の思惑に気が付くやつもいるさ。いるけどな・・・、こいつらは、猜疑心と自分さえよければいいという欲の塊の連中だ。人を信用するなんてことはない。信用した振りをして、裏切ることはするがな・・・」
夜叉は、吐き捨てるようにそう言ったのだった。目の前の光景は、今回も鬼の台本通り、全員が血の池に沈んでいく・・・というものだった。
「馬鹿な奴らだ。いいところに気が付いたんだけどな。しょうがないな。もう一回だ」
鬼は、ふんっと鼻息を出すと、ちょっと残念そうな表情をしたのだった。
「鬼も、本当は彼らが気が付くことを望んでいるんですね」
「そりゃそうさ。鬼だって、好きで罰を与えているわけじゃない。あいつらも本当はいいヤツラだ。結構、心が痛むんだぜ、この仕事は」
夜叉は、俺の顔を見て優しそうな笑みを浮かべたのだった。
「そういえば、今はお彼岸だな。ひょっとしたら面白い光景が見られるかもしれない。ま、期待はできないけどな。こいつらの子孫が・・・わけないよなぁ・・・」
夜叉は、伸びをしながらそう言ったのだった。

つづく。

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