あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「一体どうやって、ここを脱出するんですか?」
俺は、太っちょ坊さんの、その自信ありげな態度にちょっとムッとして聞いた。
「簡単簡単。それはね、ここの人のために祈ったらええの」
太っちょ坊さんのどや顔が妙にムカついたため、俺は太っちょ坊さんの言葉の意味を理解し損ねた。太っちょ坊さん、「えっ?、わかれへんの?」みたいな、ちょっと小馬鹿にした顔つきになる。これがまたムカついた。
「い、いや、そりゃ、私は素人ですから・・・」
「ま、そやね、あんたさんは、どう見ても坊さんちゃうからな。そりゃ、わかれへんやろな。ほな、教えたろか」
なんなんだ、このうざい態度は。ホント、ムカつく・・・と思いつつも、俺は「教えてください」と言ったのだった。
「あのね、ここには苦しんでいる人がたくさんいてるんやろ。で、そいつらは、まあ罪も犯したから罰を食らうのもしゃーないけど、坊さんやったらそんなこと言ってたらアカンでしょ。罪があろうがなかろうが、苦しんでいるなら祈ってやろう、救われるように拝んでやろう、反省するんはそれからでええやろ・・・、そう思うのが坊さんや。そうやないとあきません。で、俺やったら、托鉢の時とか、清掃の時とかに、罰を受けてる罪人のために般若心経をあげますがな。光明真言も唱えますがな。さらには、破地獄真言を唱えますがな。そしたら、罪人も自分も救われるでしょうに」
勝ち誇ったようなどや顔の太っちょ坊さん。その顔が妙にうざくてムカつくけど、言っていることは「なるほど、確かに・・・」であった。
「さすがですね、ただエロい坊さんじゃなかったんですね」
先生鬼が笑いながら言った。
「なんやのん、それ。言っておくけど、俺はね、そりゃエロいよ。風俗行っていたし。でもね、ちゃんと支払いはキッチリしてまっせ。それに18歳未満はお断りやし、エンコウなんてしたことないし、ましてやエンコウの相手に偽の金渡すような、そんなチンケなこともしませんよ。そこは真面目ですよ!」
風俗に通う坊さんのどこが真面目なのか、今一つ納得いかなかったが、まあ先ほど裁かれた坊主どもよりも数倍、いやなん十倍もいいお坊さんだということはわかる。まあ、お坊さんも男ですからね、仕方がないこともあるでしょう。

ムキになって言う太っちょ坊さんに、みな大笑いであった。
「冗談ですよ、本気で言ってません」
先生鬼の言葉に、太っちょ坊さん、先生鬼を睨みつけ「かなわんなぁ、鬼が冗談いうんかい」と突っ込んでいた。先生鬼、それを無視して
「いや、それにしても大したものです。大正解です。あのお坊さんたちも、それに早く気付いてほしいんですけどね。まあ、なかなか気付かないでしょう」
「つまり、自分も厳罰を受けながらも、この地獄にいる罪人のためにお経をあげる、真言を唱えるとかすれば、あの坊さんたちも罪人も救われる、ということですか?」
俺の質問に先生鬼は大きくうなずいた。
「そうですね、その通りです。もっとも罪人のほうは、一つか二つ上の地獄に上がる程度ですが。あぁ、でも、自分のために祈ってもらった、お経をあげてもらったという喜びは残りますからね。罪人の心も変わってくることは間違いないです。お経をきっかけに、反省の心がわいてくるんですよ。なので、地獄を脱出するのは、早くなります」
「お坊さんの方は?」
「お坊さんは、もっと早く地獄を抜けますよ。罪人のために祈る、お経をあげるのが我らの仕事と気づき、実践していくうちに・・・いつの間にか天界へ行ってます。中には、このままここに残ってもう少し修行をしたいという方もいますし、餓鬼界や畜生界へ行って修行をしたいという方もいます。まあ、多くは天界へ行きますね」
「さっき、太っちょ坊さんが般若心経や光明真言、それと・・・あぁ、破地獄真言を唱えるって言ってましたけど、それじゃなきゃダメなんですか?、もしそうなら・・・」
「いいえ、何でもいいですよ。南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、観音経でも阿弥陀経でも、なんでも大丈夫です。大事なのは、罪人のためにお経やら真言やら名号やらをお唱えする、ということですからね」
なるほど・・・と俺はようやく納得した。それが、菩薩行なのだろう。お坊さんたちを責めているとき、「坊主の本分とは?」と鬼たちが尋ねていた。その答えは、「上には覚りを求め、下には衆生を救う、という上求菩提下化衆生」であった。その実践こそが、彼ら地獄で修行をせよと命じられた坊さんたちがすることなのだ。そこに気付くことが大事なのだ。
「その通りです。地獄で罰を受け、修行を命じられた坊さんたちは、菩薩行の実践をすることで救われるのです。だから、太っちょ坊さんが、そんなの簡単や、とおっしゃたのですよ」
先生鬼の言葉に、ますます胸を張ってどや顔をする太っちょ坊さんだった。
「あんまり褒めると、自惚れるぜ。まあ、それくらいにしときな。けけけけ」
夜叉が大笑いしてそう言うと、「そうですね、これくらいでやめておきましょう」と先生鬼も大笑いしたのだった。

「ところで、太っちょ坊さんのお寺はどんなお寺だったんですか?」
俺は、彼に興味がわいて尋ねてみた。
「うちはね、そりゃもう、ものすごい貧乏寺や。もともと俺も在家出身やしね」
「お寺の跡継ぎじゃなかったんですか?」
「あぁ、そうや。まあ事情はいろいろあってやね、俺はね、高野山に放り込まれたんや、親にな。まあ、最初は親を恨んだよ。あんな山奥やし、何にもないし、寒いし・・・。でもね、高野山大学で学んでいくうちに、『あ、俺の道はこれや』って思ったんよ。で、修行して坊さんになったの。せやけど、在家出身者はお寺がないやろ。だから、しばらくは高野山に残って、本山で職員をしていた。で、それから高野山を降りて、知り合いのお寺さんに勤めるようになったんや。そんな時に、いつまでも雇われの身でもアカンやろ、言うてくれた人がおってな、とあるお寺の住職をせんか、ゆうてくれはったんや。そらもう、喜んでしますよぉ、って引き受けたら、それがあんた、山奥のやボロ寺や。檀家は三軒だけや。しかも、もういつ死ぬかわからんようなお年寄りばっかりや。寺は雨漏りはするし、ネズミはぎょうさんいてるし、畳は腐ってるし・・・もうえらいこっちゃやがな。『うわー、騙されたー』って思ったがな。せやけどな、そんな寺でも本尊は立ってはるんよ立派にね。それを見たら、『あぁ、この寺は、俺を待っていたんやな』って思ってしもうた。でな、貯金はたいてあちこち修繕したんや。いろいろ寺の歴史も調べたら、結構歴史が古い寺やったし、本尊さんかて文化財級のものやったんや。で、村役場に掛け合って道も整備してもらった。『寒村の寂れた寺やけど、お話し聞きまっせぇ〜』ってHPも作ってな、村おこしにも協力したんや。そしたら、ネット見て来たちゅう変わりもんがおってな、ボチボチ参拝者も増えたんやでぇ、へへへへ。ま、あんまり金にはならんかったけどな。とりあえず収入は、以前役僧をしていた寺に頼んで、また役僧をさしてもらって何とかしたんや。まあ、俺一人やし、食うには困らんし、風俗にも行けるだけのお金にはなったし、車もあるしで、充実した坊さん生活やったわ。けど、道半ばで死んでしもうた。まあ、ええけど・・・。俺のあとは、似たような坊主が一生懸命やってるみたいやし、まあ、俺は満足やな」
腕を胸の前で組み、太っちょ坊さんは、しみじみとそう語った。
「結構、苦労されたんですねぇ」
俺はそういった。恵まれたお寺とは全く違う。どうりで、檀家がたくさんあって、贅沢三昧をしている坊さんとは違うはずだ。
「苦労・・・って言や苦労かもしらんが・・・でも、坊さんやったらそれでえんちゃいますの?。っていうか、俺はねおっきな檀家寺で、そこに生まれたっていうだけで偉そうにしている坊さんが大嫌いやねん。しかも、その寺のバカ息子が後を継ぐやろ。仏教のこと、な〜んも知らんと、ただお経だけあげてりゃええわっちゅう、あの根性が嫌いやねん。ああはなりたくない、ただそれだけや。せやけど、修行して、苦労してよかったわ。あんなクソ坊主やったら、自分も同じように地獄で苦しむことになるんやからね・・・。そや、ところであの坊さんたち、いずれまた坊さんに生まれ変わるの?」
太っちょ坊さんは、先生鬼にそう尋ねた。
「そうですね、またお坊さんになる方が多いですね。でも、次は、あなたのように苦労されるお坊さんになりますよ。在家に生まれてお坊さんになるとか、後継ぎが嫌で寺を飛び出して一般の社会人となり、挫折を味わって寺に戻り出家するとか・・・ね。まあ、先の話ですが・・・」
「ということはやね、俺もその昔、大きなお寺のバカ息子かなんかやったわけや。そんで、仏教のことようしらんと坊主になって贅沢三昧してた・・・ってことか?」
「そういうことですね」
先生鬼は、すました顔でそう言った。

「現世において坊主をやっていたということは、その昔も坊主をやっていた可能性は高いな。しかし、その時は、覚れなかったのじゃ。覚れなかったどころか、大きな罪を犯し、地獄へ落ち、そこから少しずつ這いあがってやっとこさ人間界に戻り、それから何回か生まれ変わり、ようやく坊主に戻れた、ということもあるのじゃよ」
それまでニコニコして太っちょ坊さんたちの話を聞いていた御老僧が突然話し出したことに俺は驚いた。
「わしも同じじゃよ。何度も生まれ変わってようやくここまでたどり着いたのじゃ。その昔、あの時、真面目に修行して、坊主の本分を全うしていたら、とうの昔に天界に行っていたはずじゃ。愚かなことに、ここまで来るのに多くの時間を要してしまったのう。あの坊さんたちも、はよう気が付いて上がってくるれるといいがのう・・・」
御老僧はしみじみとそう言った。
「せやねぇ・・・、あの愚かな坊さんたちの姿は、俺の昔の姿やったんやねぇ。アカンわ。あの坊さんたち、馬鹿にしたらアカンわ。俺もおんなじや」
「そういうことじゃ。謙虚にならな、あきませんよ」
御老僧と太っちょ坊さんは、大きくうなずき合ったのだった。
「と、ということはですよ、ひょっとしたら、私も坊さんに生まれ変わる途中かもしれないんですよね?。いや、ひょっとしたら、私もず〜っと昔にお坊さんをやっていたかもしれませんよね?。で、やっぱり何か罪を犯し、地獄に落ちて下から這い上がって、ようやく人間界に戻り、人間を何回かやって今に至る・・・のかもしれませんよね?」
俺は、ちょっとドキドキしながらそう質問をした。
「なぜ、そう思うのじゃ?」
御老僧は、穏やかな表情で俺に聞き返した。
「はぁ、その・・・私は死んでしまったのですが、死んでからもあの世の取材をしろといわれ、さらに四十九日が終わってからは、地獄を巡って来いと言われたんですよ。これって、仏教にめちゃくちゃ縁があるってことでしょ?」
「ほっほっほっほ。そうかそうか、そうだったのか。お前さん・・・ひょっとして、こういう姿のお坊さんに言われたんじゃないのか?」
御老僧が言った姿かたちは、まさしく先輩のおじいさんだった坊さんだ。で、俺に指示をした坊さんそのものだったのだ。
「いやいや、粋なことをなさるなぁ、あのお方は。その御老僧、私の師だった方じゃ。厳しい方じゃったなぁ・・・。そうか、今はお孫さんが継いでおるのか。あの寺も、檀家を持たない信者寺じゃった。そうか、あのお方のお孫さんの後輩か。ほっほっほ、これは偶然ではないのう」
御老僧が口にした先輩のおじいさんのお坊さんは、太っちょ坊さんも知るところだった。「むちゃくちゃ有名な人ですよ、その方」らしい。先輩はそうでもないのだが・・・。まあ、あの先輩は、どちらかと言えば引きこもりの方だから・・・。

「お前さん、取材をしておるのじゃろ?」
御老僧が俺に尋ねた。
「はい、そうなんです。取材をするように言われまして・・・」
「ということは、お前さんが推理した通りじゃよ。お前さんも、はるか昔はお坊さんだったのだ。で、大きな罪を犯したのじゃよ」
「ということは、私もあの裁かれた坊さんたちと同じだった・・・わけですね」
「そういうことじゃな」
「へっへっへ、一体何をやらかしたんやろうねぇ。まあ、女がらみやろうな、そう思うわ」
太っちょ坊さん、笑いながらそういった。そして、「あんたも仲間やね」とつぶやいたのだった。
「そうじゃな、みんな仲間じゃ。お前さんも、あんたも、先生鬼も夜叉殿も、あの愚かな坊さんたちも、皆同じじゃ。通る道は同じじゃ。今、どこを通っているか、そこが違うだけじゃな」
「ということは、私もいつか坊さんに・・・」
「そういうことじゃの。取材が終わったら、人間界へ戻って坊さんになるのか、天界へ一度行って、それから坊さんとして下りてくるのか・・・、それはわからんがのう。いずれ、わしらが通った道と同じ道を歩むのじゃろうな。ほっほっほっほ」
俺は、取材を任された理由がなんとなくわかったような気がしたのだった。

「さて、お話はこれくらいにして、そろそろ行かれますか?」
先生鬼がそういうと
「そうじゃな。では、皆さんお達者で」
「俺も行きますわ。御老僧、よろしくお願いいたします」
御老僧と太っちょ坊さんはそういうと、ふっと消えたのだった。
「じゃあ、俺たちも次へ進むとするか」
夜叉は、そう言って立ち上がった。
「次は餓鬼界ですか?」
俺がそういうと、夜叉は人差し指を立て「ちっちっち」と言いながら、「いいや、違うな。もう一つのVIPルームだ」と言ったのだった。
「あぁ、そこに行くんですか、それはそれは・・・」
先生鬼は、夜叉の言葉を聞いて急に暗い表情となり、そう言った。そして、「お気をつけてくださいね」と俺に暗い顔を近づけて、そう言ったのだった。
「もう一つのVIPルームって、危険なんですか?」
俺はそう尋ねたが、夜叉と先生鬼は顔を見合わせ、二人同時にこう言った。
「行けばわかるさ」
「行けばわかりますよ」
と・・・。


立ち上がった夜叉は、何も言わず歩き出した。俺は、黙って後をついていった。振り返ってみると、先生鬼もいなくなっていた。坊さんたちが責められていた建物もなくなっていた。見渡す限り何もない。遠くにかすかに赤い影のようなものが見えるだけで、あたりは薄暗い世界である。罪人の叫び声も聞こえず、無音の世界でもあった。
「こんなんだったんだ・・・」
俺は改めてお坊さん用のVIPルームがあった世界を見渡してみた。
「ここは何もない世界だったんですね。この世界は、いったいどこまで続いているんですか。まるで果てがないように思えるんですが・・・」
俺の質問に夜叉は立ち止まって
「俺も知らないよ。端っこまで行ったことはないからな。きっと、果てなんかないんだろ。宇宙と同じだ」
「じゃあ、どこまで歩くんですか?。道だってあるようでないようだし・・・。このまま歩き続けていいんですか?。次のVIPルームに行けるんですか?」
俺は不安になって次から次へと質問を浴びせた。夜叉は、ちょっとうっとうしいそうな顔をしたが、大きくため息をつくと
「まあ、不安になるのも仕方がないな。そろそろ次のVIPルームが近づいているからな」
と言った。そして、「俺もあそこは好きじゃないな・・・」とぼそりとつぶやいたのである。
「夜叉さんも嫌いな場所?・・・それって・・・」
「まあ、行けばわかるさ。でもな、そこに近付くと、なんだかわさわさした気分になるんだよ。うまく表現ができないんだが、ものすごく不安な気分になるんだよ。そうした気分は、そのVIPルームに近付けば近付くほど強くなる」
夜叉は、ちょっと厳しい顔をしてそう言い、歩き始めたのだった。

二人は、無言で歩いていた。夜叉にはVIPルームに至る道が見えているようで、さっさと歩いている。俺はそのあとをついて言っているだけだ。いや、ついていかないと不安なのだ。それは、歩が進むにつれ、強くなってきている。もしはぐれたら・・・と思うと、全身から冷や汗が出てきそうなくらい怖いのだ。
どうもいけない、これ以上進んじゃいけない・・・俺はそんな気分になってきた。ものすごく嫌な予感がするのだ。
「夜叉さん、そこって行っていいんですか?。あまり気分が乗らないんですが・・・。なんだか、すごく嫌な予感がするんですよ」
たまらなくなって俺は、夜叉に言った。
「そう・・・だろうな・・・。俺もできれば行きたくはない。しかし、お前さんを案内しなきゃいけないからな。あの和尚に頼まれているし・・・。和尚も、俺だから耐えられる、と思って俺に頼んだろうしな。まあ、俺は耐えられるけど、お前さんには、ちょっと辛いかもな・・・」
「この嫌な気分を何とかする方法はないんですか?。あぁ、そうだ。弥勒菩薩の手形に頼んでみればいいかもしれませんよね」
俺はそういうと、弥勒菩薩の力がこもった手形を出した。そして、念じてみた。「この不安な気持ちを解消してください」と。
「無駄だよ」
夜叉が冷たくそう言い放った。確かに、俺の気持ちには何の変化も現れていない。
「無駄だ。こればかりは、弥勒菩薩様の手形でもどうにもならない。そもそも、その気持ちを経験しなきゃ、取材にならない。目的は果たせないんだよ」
そういう夜叉の眼は、怖かった。これが本来の夜叉の眼なのかもしれない、と俺は思った。まるで、食われそうな眼付きだ。じっと見ていると、身動きが取れなくなりそうだったので、俺は視線を外して
「そう・・・そうですか・・・。じゃあ、仕方がないな」
と小声で言ったのだった。それ以上の言葉は何も出てこなかった。

さらに無言で歩いた。俺は前に進むのが嫌で嫌でたまらなかったが、ここで置いて行かれる方がもっと恐ろしい。ただ、その恐怖の思いのみで夜叉の後をついて行っているだけだ。
ふと、夜叉が立ち止まった。
「あそこに見える暗闇を抜ければ、次のVIPルームだ。あれを抜ける時は、ちょっと苦しいぞ。腹に力を入れて、弥勒菩薩様の手形を握りしめていろ」
真剣な顔をして、夜叉はそう言った。気が付けば、周りはほんとに暗かった。自分の周辺・・・と言っても、ほんの数歩先しか見えていないのだ。真っ暗闇を提灯かローソク程度の明かりで進んでいるようなものだ。だから、この先の暗闇と言われても、俺にはよくわからなかった。
「あぁ、あの暗闇はまだ見えないか・・・。まあ、近付けばわかるさ」
そういうと、夜叉はゆっくり歩き始めた。そろそろと進んでいるような感じである。
どのくらい進んだのか。時間でいえば、ほんの1〜2分かも知れない。ゆっくり歩いていた夜叉の目の前に、黒い煙のようなものが見えた。
「なななななんですか、あれは・・・」
俺は思わずのけぞった。それは絶対に近付いちゃいけないものだ、と俺の中で俺が叫んでいる。俺の心の中は、「行くな、行っちゃいけない。ダメだ、引き返せ!」と叫び続けていたのだ。
「あれが、次のVIPルームへの入り口だ。なんだ、腰を抜かしているのか?。しょうがねぇな」
俺は知らないうちに、その場に座り込んでいた。夜叉に「立て、立ってみろ」と言われても、あまりの恐怖に俺は立てなかったのだ。
「まったく・・・。腰抜け野郎だな」
と夜叉は言って、俺の腕を引っ張りあげた。そして、夜叉は俺の腕をつかんだまま、「行くぜ」と言うと、その黒い煙のようなものの中に飛び込もうとしたのだ。
俺は抵抗した。「嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・」と叫びながら暴れた。が、夜叉の力は強かった。肩をがっしり掴まれてしまった。もう身動きは取れなかった。
「うるさいな。ほら、手形を持って・・・そうだ。それで腹に力を入れろ。大丈夫だ、俺もお前を掴んでいてやる。いいか、行くぞ!」
夜叉の掛け声とともに、俺は捕まれていた肩をポンと押された。黒い煙が目の前に迫る。そしてそのまま、俺は黒い煙の中に吸い込まれていったのだ。「あっ、そんな」という叫び声を残して。後ろから「大丈夫だ、俺もいく」という声がしたような気がした・・・。

ふと気がつくと、そこは暗闇の世界だった。自分の周り・・・ほんの数十センチくらいが明るいだけだ。
「ここはどこだ・・・。あれ?、や、夜叉さんは?・・・まさか、はぐれたのか?」
俺は立ち上がって周りを見てみたが、暗くてよく見えない。近くに夜叉の姿は見当たらなかった。俺は焦った。冷や汗がたらたら流れているような気分だ。
「おいおいおいおい、こんなところではぐれたら・・・俺はどうすりゃいいんだ?」
ふと手元を見ると、俺は弥勒菩薩の手形を握りしめていた。
「あぁ、そうだ、これがあった・・・」
俺は手形に向かって「ここはどこですか、教えてください」と言った。しかし、何の反応もない。続けて「夜叉さんを出してください」と言ってみたが、やはり何の反応もなかった。
「おいおいおいおい、ちょっとマジで一人ぼっちになっちゃったよ。え〜っと、何だったっけ?、俺たちは、何をしていたんだっけ?」
俺はそこに座り込んだ。下手に動かないほうがいい、と思ったのだ。地面に触ってみる。どうやら、そこはサラサラの砂のようだった。手ですくい、じっくり見てみた。
「う、うわっ」
俺は叫んで手にした砂を放り投げていた。その砂は、真っ赤だったのだ。いや、赤黒いと言ったほうがいいか。そう、それは血の色だったのである。
「こ、ここは、血の砂でできているんだ。あぁ、そうだ思い出した。俺は、夜叉さんとともに次のVIPルームに向かっていたんだ。で、あの黒い煙の中に放り込まれたんだ・・・。ということは、ここが地獄の次のVIPルームなのか・・・」
周囲を見渡す。目が慣れてきたのか、少し遠くまで見えるようになった。が、そこはどこまでも赤黒い砂だらけの世界だった。誰一人いないのだ。人もいなければ、物もない。何もないのである。
「こ、困った・・・。どうすれば・・・。あっ、ひょっとして、ここが噂に聞いた孤独地獄か?。確か・・・自殺した人が落ちるという・・・。あ、あれは・・・あれは、人じゃないか?」
ちょっと行った先に人影のようなものが見えた。俺は、知らず知らずのうちに走り出していた。とにかく、あの人影に会わなければ、と思ったのだ。
やはり、それは人のようだった。その人は、若そうに見えた。だが、まだ距離がある。あと50メートルくらいか。俺は走った。こんなに走るのは、久しぶりだった。
しかし、いくら走っても、その人には近づけなかった。俺は叫んだ。
「お〜い、そこの人、聞こえたら返事をしてくれ、お〜い、聞こえるか〜」
が、響くのは俺の声だけだった。俺の声だけが、あたりに響き、消えていった。
いくら走っても近づけない人。声をかけても聞こえない。向こうの人からは、何の反応もない。やがて、その人はいつの間にか消えていた。また、孤独がやってきた。

俺は跪き、泣いていた。いや、死人だから涙すら出ない。目の前にあるのは、血の色をした砂だけだ。
頭が狂いそうだった。見渡す限り暗闇。下は真っ赤な砂。どこへ行っても何もない。誰もいない。俺は座りなおした。そして周囲を見渡す。時折、人の姿が見える時がある。立ち上がって走り寄るが、どうしても近づけない。叫んで呼びかけるが、その人は振り向きもしない。男か女か、若いか年寄か、それがわかるくらい近付くことができることもある。だが、話しかけることはできないし、相手が気が付くこともない。見えているのに・・・。すぐそこにいるのに・・・。誰も見向きもしてくれない。誰も反応してくれない。誰もかまってくれない・・・。それはまさに孤独という地獄だった・・・。
「な、なんで俺が?。なんで俺がここに・・・?。俺は自殺していないのに・・・」
俺は座り込んでいた。何の気力も湧いてこない。そしてそのまま、後ろに倒れ込んだ。大の字になって寝たのだ。
「はぁ・・・。このままここに閉じ込められるのか?。ならば、動かないほうがいいな。もういいや、このまま寝てしまえ」
俺はふて寝することに決めたのだ。が、それは許されなかった。
「うわっ、あち、あち。なんだこれは」
地面が急に熱くなったのである。寝ているどころではなかった。
「これじゃあ、寝てらねぇじゃねぇか。うわっ、熱いって」
結局、俺は走っていた。熱くない地面を求めて走ったのだ。
「はあはあ、まあこの辺でいいだろう。なんで死人なのにこんなに疲れるんだ・・・」
息切れがしている。喉も乾く。疲れがどっと身体にのしかかる。
「こんなに疲れたのは、久しぶりだなぁ・・・。しかし、喉が渇いた。おかしいなぁ死人なのに・・・」
しかし、喉が渇いたと言っても、飲める水があるわけではない。とにかく何もないのだ。山もないし、川もない。見渡す限り真っ赤な砂漠である。
「いや、そうでもないぞ。あれは・・・」
遠くに小高い丘のようなものが見えた。その丘には、小さな滝のようなものが見えたのだ。
「あれは滝だろ。ならば、水がある。よし、行くか」
俺はその滝に向かって歩き始めた。が、行けども行けどもたどり着くことはできない。その滝は見えているのだ。確かに見えているのだ。だが、近づけないのだ。
「くっそ〜、これは地獄の罠だな。くっそ〜、きっと、永遠に近づけない滝なんだ。へっ、そっちがその気なら、もういい。どうせ俺は死人だ。死は怖くない。水なんぞ飲まなくても平気だぜ」
そう言って、俺は滝に向かって歩くのをやめて寝転がった。目を閉じる。すると・・・。
水の流れる音が聞こえた。目を開けてみると、目の前に滝があった。
「いつの間に?」
滝に手を近づける。触ってみる・・・。それは・・・水だった。
「水じゃないか。やった!、飲めるぞ」
両手で滝の水を受けて、俺は水をすすった。
「うえっ、ぺっぺっ」
それは砂だった。口から吐き出されたのは、赤い血の色の砂だったのだ。

「誰か〜、誰かいませんか〜。お〜い、夜叉〜、どこへ行ったんだよ〜。俺を置いてどこに行ったんだよ〜。ひょっとして、お前も俺を探しているのか〜」
じっとしていると、地面が熱くなるので、歩いているしかなかった。しかも、時折、変な虫が出てくるのだ。その虫は、あの地獄の便所・・・糞尿地獄・・・に住んでいたうじ虫とよく似ていた。座り込んでいると、そいつが手や足や尻を噛むのだ。
初めは何かと思った。指に激痛が走ったのだ。「痛てぇ、痛い」と思って手を見てみたら、指先にうじ虫が噛みついていたのだ。俺は手を振り払い、うじ虫を掴み、投げ捨てた。しばらくすると、今度はお尻に痛みが走った。尻にうじ虫が食らいついていたのだ。
「つまり、じっとしているな、ってことだな。夜叉を探せってことだな」
俺はそう独り言を言うと、歩き始めたのだ。
たまに人に出会う。しかし、話しかけることはできない。もちろん、近付くこともできない。ほんの数メートル先なのに、相手は俺に気付きもしない。まれに、すぐそばまで近づけることがある。手を伸ばせば、触れるくらいに近付いたこともあった。一度、ものすごくキレイなお姉さんがすぐそばまで近づいたことがあった。そのお姉さんは、スタイルがよく、タレントさんみたいだった。俺は話しかけたのだが、全く反応はなかった。思い切って手を伸ばしてみたのだが、そのお姉さんに触れることはなかった。消えてしまったのだ。そう、きっと幻覚なのだろう。俺の心の中の願望が出てきたのだ。
時々、水の湧いた泉が現れる。それも俺の願望だ。車が現れたこともあった。その車は、俺が生きているときに一度は乗りたい、と思っていたGTスポーツの高級車だった。もちろん、触ることもできなければ、乗ることもできなった。近付けば消えてしまうのだ。
水、食べ物、車、女性・・・。最もつらかったのは。女房や子供が現れた時だった。
「おい、俺だよ。俺だって!」
叫んで走ったが、当然、話をすることはできなかった。しかも、近付いてよく見れば、それは俺の知らない女であり、知らない子供だった。女房や子供ではなかったのだ。
「ちくしょう、遠くにいる時は、俺を嬉しがらせて、近付けば違う人か?。俺をそんなにがっかりさせて何が楽しいんだ!」
涙なんて出ないのに、俺は泣き続けた。泣いて泣いて泣き疲れてしまった。
「ここに落ちて、一体どれくらいの日にちが過ぎたのだろうか」
それは、ほんのちょっとの時間にも思えたし、もう何年もたっているようにも思えた。夜叉とはぐれてから、どのくらいが過ぎたのだろうか?。まるで見当もつかなかった。そして俺は、疲れ果てて、その場に倒れ込んだのだった・・・。



「ちょっと薬が効きすぎたかな。おい、しっかりしろ、目を覚ませ」
その声と肩をゆすられていることで俺は気が付いた。
「あっ・・・ここは・・・どこ・・・」
「ここは地獄の第2VIPルームだ。おい、しっかりしろ!、忘れたのか?」
俺の目の前にあった顔は、夜叉さんだった。
「や、夜叉さんじゃないですか!、今までどこに行っていたんですか!。俺は、俺は・・・わぁぁぁぁぁん」
俺は泣き叫んでいた。
「すまんすまん、悪気はなかったんだがなぁ・・・。俺は気乗りしなったんだが、あの和尚さんがね、どうしてもお前に経験させたほうがいいだろうと言ってな・・・」
夜叉が何か言っている。俺には何も聞こえていなかった。
「おい、しっかりしろよ。全く世話が焼けるぜ」
そう言った瞬間、夜叉の右手の掌が光った。その光った手を俺の頭に載せたのだった。その手はとても暖かく優しかった・・・。

「ふ〜」
俺は大きく息を吐いた。
「落ち着いたかい?」
夜叉が俺に尋ねた。
「はい、何とか・・・。ところで俺は何日くらい彷徨っていたんですか?」
「あぁ、そうだな、まあ基本的にここには時間がないんだけどな・・・。まあ、現世の時間でいえば、せいぜい5分程度かな」
「5分?、たった5分?。たった5分であの苦しみだったの?・・・。もう1週間くらい彷徨っていたかと思っていた・・・。はぁ〜」
俺と夜叉は、この真っ赤な砂漠の中、ゴザのようなものを敷いた上に座っていた。そのゴザは、夜叉が神通力で出したもので、このゴザの上に座っていないと夜叉ですらお尻を火傷するらしい。さらに、あのうじ虫が噛みつくのだ。このゴザを敷いていれば、火傷からもうじ虫からも守られるのだそうだ。
「まったく〜、何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ・・・」
「だからな、あの和尚が言ったんだよ。お前に経験させたほうがいいだろうって。そのほうがこの地獄の苦しさがよくわかるだろうって」
「くっそ〜、あのクソ坊主めぇ・・・。恨んでやる!」
「やめたほうがいいぞ。あの和尚さんは、この地獄でマジで1週間過ごしたそうだから。お前が5分で気絶したこの場所でな。恨んでも跳ね返されるだけだ」
「い、1週間?。そんなに耐えられたの?」
「あぁ、1週間過ごして、『もうこの地獄の苦しさにはどれだけでも耐えられる』と言って、この地獄を出たそうだ」
俺はそれを聞いて、目眩がした。先輩のおじいさん和尚は、とんでもない人だった。
「くっくっく。まあしかし、この地獄の辛さが分かっただろ?」
夜叉は、真面目な顔をしてそう尋ねて来た。
「はい、もう十分にね。それにしても、こんな地獄に誰が落ちてくるんですか?。この地獄が、いわゆる孤独地獄でしょ?」
「あぁ、そうだ。ここが孤独地獄と言われている地獄だ。地獄の中でも特別な地獄だな。だから、VIPルームと言ったんだ。で、この地獄に落ちてくるものは、決まっている」
「やっぱり・・・自殺した人ですか?」
「その通りだ。自殺は、どんな理由があれ、大きな罪だからな」
「そこがイマイチよくわからないんですよね。なぜ、自殺が大きな罪になるのか・・・。まあ、現実世界から逃げたってことで、それがいけないんでしょうけど、逃げざるを得ない場合だってあるじゃないですか。その情状酌量っていうか、同情せざるを得ないな、っていう場合もあるじゃないですか。自殺したみんながみんな、この地獄に落ちるっていうのは・・・なんだかかわいそうな気もしますよ」
「そう思うかもしれんが、仕方がないんじゃ」
俺と夜叉の会話に割り込んできた声があった。
「その声は、先輩のジイサン!」
そうなのだ、俺をこんな目に遭わせた張本人の和尚である。
「和尚!、あんたのせいで俺はエライ目に遭ったんだよ!。何なんですか、この地獄はっ!。他の地獄が楽に思えるくらいじゃないですかっ!。もう、とんでもない目に遭わせやがって!。あぁもう、どうしてくれよう、この怒り!」
「まあ、まあ、落ち着け。お前さん、どうもなっとらんじゃないか」
いつの間にか姿も現した先輩のおじいさんの和尚、涼しい顔してそう言った。そしてニヤニヤしている。何とムカつく坊主だろう。俺は、怒りをこらえて唸ってしまった。
「落ち着け、怒るな。冷静になってよ〜く考えてみよ。お前さんは、もう気が付いているはずだぞ。なぜ、自殺した者がこのような地獄に落ちるのかをな」
和尚の言葉に、俺は次第に落ち着いていった。
「わ、わかりましたよ。考えますよ。まったく〜」
俺は、しばらく考え込んだのだった。

「自殺っていうのは、自分を殺すこと・・・ですよねぇ・・・」
俺は、考えたことを確かめながら話し始めた。
「えっと・・・。殺人は、一発で地獄行きですよね。まあ、殺人でも単純な殺人・・・はずみでとか殺すつもりはなかったとか頼まれてとか・・・は、地獄でも初めの方の地獄、つまり刑罰が軽い地獄ですよね。まあ、それでも地獄なんですが・・・。命を奪ってしまった相手の人数が増えると、刑罰も重くなりますよね。つまり、下の地獄へと落ちていきます。また、暴力の上で殺したとか、計画的だったとか、強盗殺人だったとか、強姦の上殺してしまったとか、放火殺人とかそうなるともうかなり下の方の地獄ですよね。でも一番下の地獄は、主に宗教関係の人が罪を犯したときに堕ちる場所だったですよね。あるいは、地獄で鬼に逆らったとか、同じ刑罰を受けているものを蹴落とすとか出し抜くとか、地獄でさらに罪を作った者が落ちますよね。でも、自殺は自分を殺すことになりますから、正規の地獄の刑罰ではちょっと合わないですよねぇ・・・」
そこまで話して、また考え込んだ。
「いいところまで行っているぞ。もう少しだ」
和尚がニヤニヤしながらそう言った。俺は、ちょっと和尚をにらみつけた。
「そんな目で見なくてもよかろう。よほど応えたようだのう・・・」
「応えましたよ。恨みますよ、和尚さんをね」
そう言って、俺はまた考えながら話し始めた。
「自殺って、特殊ですよね。特殊だから、普通の地獄の刑罰では反省は促せない・・・んでしょうねぇ。しかも、周囲の人たちにかなり迷惑をかけますよね。悲しませますし。事件や事故で亡くなってしまったなら・・・こういう言い方も変ですが、仕方がないと思えるところがありますけど、自殺された場合は、周囲の人って割り切れないですよねぇ。なんか、心にずっしりくるというか、無念というか・・・。そう考えると、自殺した人って・・・こう言っちゃ悪いけど自分勝手ですよねぇ・・・」
そうなのだ。自殺の場合は、遺族をものすごく悲しませることになる。遺族がいなければ問題なのかもしれないが、それでも近所でかかわりがあった人たちを悲しませることになるだろう。しかも、遺族は責任を感じてしまうこともある。
助けられなかったのか、相談してくれればよかったのに、もっと話を聞いてあげればよかった、もっと気遣ってあげればよかった、私の言ったあの一言がいけなかったのか、励ましがかえって苦しかったのか・・・。遺族はいろいろ考え、悩むだろう。自分たちが悪かったのではないかと。遺族がいない場合でも、近所の人たちが思うだろう、気付いてあげられなかった私たちがいけないんだよね、もっと話をすればよかった、何とかできなかったのかねぇ・・・と。
自殺した者は、その時の苦しみから解放されたいから、行き詰ってどうしようもなくなったからその打開策として自殺を選ぶのだろうけど、それは残された者をものすごく苦しめることになるのだ。これは大きな罪であろう。自殺した者は、なぜ周囲の人に助けを求めなかったのか、なぜ、周囲の人の気持ちを考えられなかったのか・・・。もっとも、その余裕があれば自殺などしないのだろうけど。しかし、自分勝手すぎる、と遺族に言われても、残された者に言われても仕方がないだろう。
それに、関係のない人にも迷惑をかけることになる。特に電車に飛び込んで自殺した場合、多くの人に迷惑をかけることになる。迷惑をかけるどころではない。恨みも買ってしまうことになる。俺も通勤時に人身事故の電車に乗っていて、大いに迷惑をこうむったことがある。電車が止まり、事故処理に時間がとられたため、取材ができなったのだ。相手にはすぐ連絡し謝罪したが、どうやら相手を怒らせてしまい、その後の取材を拒否されてしまった。迷惑な話だ。全く関係のない自殺者のおかげで、こっちの仕事が一つパァーになってしまったのだ。そういう話は、都会でサラリーマンをしていればよく聞く話だ。仕事が終わって居酒屋で一杯やっているとき、彼らは愚痴っている。「なんで電車に飛び込むかなぁ。おかげでとんでもないことになったよ。まったくいい迷惑だ!」と。
止まってしまった電車の中でも誰もが騒いでいる。「まったく何だよ、急いでいるのに。迷惑なヤツだ。死ぬなら電車じゃなくて、ほかに行けよ」
言わなくても心の中でそう思っているだろう、迷惑なヤツだ、と。
高いビルから飛び降りても、迷惑をかけるのは同じだ。掃除をしなければいけない人たちにとっては、迷惑な話である。部屋の中でひっそり首をつっても同じだ。結局は、誰かに迷惑をかけているのだ。つまり・・・。
自殺は、残された者を悲しませ、責任を負わせ、心に重いものを残し、迷惑をかけ、多くの人に恨まれることもある、という死なのだ。普通の死とは違うのである。事情はどうあれ、あまりにも身勝手な死なのだ。遺族はそう言われると辛いだろうし、俺もそう言いたくはないが、客観的に見れば自殺は身勝手な死なのである。
だから、俺は和尚にそう言った。

「その通りじゃ。自殺は身勝手な死だ。究極的に身勝手な死だ。しかも、『生きる』という大事な修行を途中で放棄しているからな。だから、地獄は免れない。しかし、単なる地獄じゃ、その身勝手さを本人は理解できないだろう。いくら責めても、自殺した者は「だって仕方がないじゃないか、そうせざるを得なかったんだから。他にどんな方法があるっていうんだ」と反論するだろう。鬼たちは、「それでも自殺はいけない、自分を殺してはいけないのだ。途中で生きるという修行を放棄してはいけないのだ」としか言いようがない。自殺した者は、地獄の責め苦が理不尽だと思うだろうな。生きているとき地獄を味わったのに、死んでからも救いがないのか!とな。そうなれば、この世には神も仏もないじゃないか、という怨念しか残らないのだ。神や仏を呪うことは、地獄では最悪の行為だな。最も下の地獄へ落ちることとなる。それでは、本当に救いがなくなってしまう。それは地獄の存在意義に反することだな。地獄は反省を促し、自分を知るための場所だ。だから、自殺者には、特別な地獄が必要になったんじゃ」
和尚は、そう語ったのだった。
「そうですよねぇ。自殺した人には悪いけど、実際は周りにいっぱい人がいるんですよね。なぜ、そういう人に相談しなかったのか、なぜ助けを求めなかったのか・・・。もし、誰かに相談していれば、死ぬことなんてなかったかもしれないのに・・・」
「それをわからせるための孤独地獄なんだよ。お前も体験してよく分かっただろ?。自分の周りには多くの人がいるんだってことがさ」
夜叉が、悲しそうな眼をしていった。
「あれは辛かったですよ。自分の周りには人が大勢いるのに、誰にも話しかけることができないんですよね。誰も自分を相手にしてくれない。世間で自分は孤独だ、自分は誰にも相手にしてもらえない、孤独だ・・・・。あぁ、そうか、自殺した人の境地はまさにそれなんだ」
「そういうことじゃ。この孤独地獄は、自殺した者が『あぁ、ここでも自分は孤独なんだ。誰も助けてはくれないんだ。いや、待てよ、生きているとき、こんなに周囲の人に関わろうとしただろうか?。こんなに心から救いを求めただろうか?。誰でもいいから助けて!、と思っただろうか?・・・自分は、あまりにも自分の中だけで生きて来たのではないだろうか、もっと周囲の人たちに助けを求めるとか、相談するとかすればよかったのではないか、孤独になっていたのは、自分からそうしていたのではないか・・・。自分は、あまりにも自分勝手だったのではないだろうか・・・』と考えてくれるように仕向けているんじゃ」
「なるほど、自分の生前のことを考える時間を与えてくれる場所なんですね」
「そうじゃ。それに気づけばあとは簡単じゃ。じーっと座禅して、自己反省をすればいい」
「えっ?、だってじーっとなんてできないですよ。ちょっと座り込むと、下が熱くなったりうじ虫がケツを噛んできますから」
「はっはっは。まあな。だがそのために彷徨うことになるだろ?。彷徨えばいろいろな人と出会う。で、彷徨いながら考える。ある時、ふと気が付く。あぁ、自分が間違っていたんだ、自分の周りにはこんなに自分のことを思ってくれる人がいたんだ、とな。そうすると、座り込んでも砂はあまり熱くはならないし、うじ虫も出てこなくなる。考えの深さに応じて、砂もうじ虫も変わるんだよ。いい仕組みだろ?」
和尚は、そういうとカラカラと笑った。
「まあ、確かにいい仕組みですけどね、でもあれは辛いわ・・・。しかしですね、あの辛さでは、そう簡単に気が付かないんじゃないですか?」
「そうじゃな。時間はかかるだろうな」
「ということは、自殺した人たちは、気が付くまでずーっと彷徨うわけですよね」
「仕方がなかろう。地獄だからな。そう甘くはない。だがな、その救いのために供養があるんだろ?」
和尚は、俺を見てニヤッとしながらそう言った。
「しょうがねぇな。自殺した者がどうなるか、具体的に教えてやろう」
和尚はそういうと、ちょっと真剣な眼差しになったのだった。


「自殺した者は、現世において、相当つらい目にあった者たちだ。生きているのがどうしようもなくつらくて、苦しくて、耐えられないから、そこから救われたい一心で自殺してしまうのだな」
和尚の言葉に俺は、深くうなずいた。まさにその通りである。悲惨で凄惨なイジメから救われたい一心で自殺を選んでしまう学生も然り、会社で責任を負わされ、理不尽な圧力でへとへとになり死を選んでしまう会社員然り、多額のローンをかかえたあげく、家族からも見放され孤独の果てに自殺する大人も然り、恋愛や結婚生活でつらい目に遭った、ひどい目に遭った苦しい思いをした、追い詰められたそのあげく、死を選ぶ女性も然り・・・。誰もかれもが、その時の耐えがたい辛さ、苦しみから解放されたいがために、自ら死を選ぶのだ。誰も、好き好んで自殺するわけではない。できれば死なずにいたいものなのだ。だが、そうは言ってられないくらい苦しいから自殺するのである。それにしても、苦から逃れたい、解放されたいがために死んだ先が、さらに苦しい世界だとは・・・なんとも悲しい話である。
「自ら死を選びたくなるほどつらい・・・それは悲しいことじゃな。しかし、そうは言っても、自殺はやはり罪なのだよ。さっき、お前さんが理解した通りだ。だからと言って、ほかの罪を犯した連中と同じ地獄というわけにはいかない。罪の種類が違うからな。自殺した者は、十善戒を犯したわけではない。むしろ真面目な実直な者たちが多いのだ。だから、ほかの地獄とは異なる地獄が必要になったのだな」
そうなのだ。自殺者では、俺が見て来た通常の地獄では、対応は難しい。自殺者には自殺者用の地獄が必要なのだ。それが、あの孤独地獄なのである。

和尚の話は続いた。
「さて、一般的に亡くなった者は、葬式をした際にあの世へ行くことになる。お前も経験したな。死出の山を通り、裁判が始まるな。49日まではこの世と裁判所のあるあの世と行き来は自由だ。そして、49日に生まれ変わり先が決まる。まあ、極悪人は裁判をせず、葬式が終わると・・・葬式をしない場合もあるがな・・・地獄へ直行じゃ。火車が迎えに来るわけだ。逆に極善人は、葬式が終わると、阿弥陀様やら菩薩様が極楽に迎えに来るか、あるいは、天女たちが天界へ迎え入れてくれる。まあ、これが通常の場合だな。自殺者は、この通常のお迎えは来ない。特殊な死だからな」
「ど、どうなるんですか?」
「お前さん、覚えてないのか?。お前さんが亡くなってすぐのころだ。お前さん、『自殺した人は、案外、現世の苦しみから逃れホッとしているかもしれない。孤独を楽しんでいるかもしれない』なんてことを考えていたろうが」
俺は、自分が死んだときのことを思い出していた。さて、死んだばかりの頃、俺はどうしていたっけ・・・。
「あっ、思い出しました。確か、死んだばかりで退屈だったんですよ。話しかけることもできず、触れることもできず、寂しかったんです。で、孤独だなぁ・・・と、そう感じていました。その時に、そう、自殺した人は、現実の煩わしさか逃れたのだから、孤独でもホッとしているんじゃないだろうか、と思ったんですよね。そしたら・・・」
「そう、わしの登場だ。『そんなことはないぞ』と言ったはずだ」
「はい、聞きました。で、そのあと、大きな渦に巻き込まれて・・・地獄へ落ちていく光景を見せてもらったんですよ。確かに、その時見たのは、地獄そのものでした。俺が地獄めぐりで見たものと同じだった・・・。えっ、ちょっと待てよ。あの時見た地獄の様子は、通常の地獄でしたよ。俺が体験した孤独地獄じゃなかった。あれは、自殺者が行くところじゃないでしょう」
「わははは。ようやく気が付いたか。あの時はな、お前さんが考え違いをしているから、わざと通常の地獄を見せてやったんだよ。それくらいの神通力はわしにはあるんでな。ま、そうでもしないと、お前さん、『自殺者は気楽だなぁ』なんて思いこんでしまったろう」
まあ、確かにそうかもしれない。あの時、俺は死んだことの寂しさや、女房や子供へのいろいろな思いもあったが、どこかで気が楽になっていたのだ。だから、自殺した人は、案外ホッとしている・・・なんて思ったのだ。確かに、地獄の光景を見せてもらっていなければ、勘違いをしたままになっていただろう。だから・・・。
「はぁ、そうですね。確かに、あれを見てなければ、勘違いをしたままでした」
「自殺者は、決して気楽じゃない。生きているときよりも苦しいんだよ」
和尚は、しんみりとそう言った。

「いいか、自殺した者は、通常、葬式が終わると、炎の渦に吸い込まれる。お前さんに見せた大きな渦と同じだ。その一人用と思えばいい。自殺者の葬式が終わると、彼らは炎の渦に吸い込まれていく。そしてそのまま、ここへ落ちてくるんだ。あとは、お前さんが体験した通り。近くに家族がいても、友人がいても会社の同僚がいても、誰にも気づいてもらえない。寂しくて寂しくて誰かを求めて彷徨い歩いても何もない。のどが渇いても水はなし、腹が減っても食い物もない。疲れ果て、倒れ込むと砂の中からうじ虫が出てきて、そいつを食い散らかすのだ。血は砂にしみこみ、やがてうじ虫に食われている中、激痛に苦しみながらこの地獄での死を迎える。その時はきれいな骨になっているな。すると、すぐに熱風が吹き、その骨は風化していく。サラサラの砂になってしまうんだ。で、ふと気が付くと、自殺した場所に戻っている。そう、自分が自殺したあの時間、あの場所に戻っているんだ。そして、その者はまた自殺をするのだ。で、また炎の渦に呑み込まれ、ここに落ちてくる。自殺者は、それを延々繰り返すのだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。えっ?、どういうことですか?・・・え〜っと」
「まあ、ゆっくり考えろ」
「っていうことは、この赤い砂って・・・自殺した人の血と骨?」
「ま、そういうことだな」
俺は「うえぇ〜」と声を出して、思わず立ち上がった。隣で夜叉が「今更どうした」と笑っている。まあ、確かに今更どうした、である。俺は、この砂の中を歩き、砂の上に座り、砂の中のうじ虫に驚き、この砂の中に倒れ込んだのだ。
「あっ、ということは・・・。自殺した人、たとえばその人をAさんとしましょう。Aさんは・・・そうですねぇ・・・電車に飛び込んで亡くなったとします」
「一体、何が始まるのかな?。まあ、見物させてもらうか」
和尚は、ニヤニヤしながら、座りなおした。俺は、夜叉が出した敷物の上に立ったまま、身振り手振りを混ぜながら話し始めたのだ。

「Aさん、電車に飛び込んで自殺しました。で、葬式をします。すると、Aさん、いきなり炎の渦に巻き込まれ、あ〜っと言っている間にここに落ちてきます。Aさんは思います。『ここはどこだ?』と。周りを見渡すと、薄暗い赤い砂だけの世界。空はあるのかないのかわからない。ちょっと先は真っ暗で、先がどうなっているかわからない。しかも、そんな世界にたった一人でいるのですよ。Aさん、仕方がないから彷徨い歩き始めます。すると、すぐ近くに家族がいる。Aさん、あわてて声をかけながら走り寄ります。が、家族はAさんに気が付かず、楽しそうな様子を見せ、ふと消えてしまう。Aさん、気が付くと一人ぼっちです。ふと振り返ると、同僚が楽しそうに会話をしている。喜んで声をあげながら近づくと、また消えてしまう。一体どうなっているんだ・・・と悩みながら、また彷徨い歩き始めます。Aさん、そのうちに妙に暑いことに気付きます。異常な暑さで、のどが渇きます。どこかに水でもないか・・・とあたりを見渡します。でも先が暗くてよく見えません。仕方がないから、とぼとぼ歩き始めます。すると、知らない人が通りかかります。Aさん、声をかけますな。『あぁ、ちょっと、そこの人、ここはどこなんですか?。妙に暑いんですけど、水とかありませんか?』そう声をかけても、その見知らぬ人は、知らんぷりして通り過ぎます。そんなことを何度も繰り返しますな。そのうちに絶望感に襲われます。絶望しながら、『これは自殺した俺への罰なのか・・・』と思いながら、とぼとぼ歩きます。ふと見ると、滝が見えます。『あれは滝ではないか?。ひょっとしたら水が飲めるかも』・・・喜んで駆け出します。が、行けども行けども滝には近づけません。疲れ果て、倒れ込みます。すると、砂の中から、あのうじ虫が出てきて身体を噛み始めます。あれは痛いんですよ。思わず立ち上がってしまいます。しかし、じっとしていると、足の裏をあのうじ虫が噛んでくるんです。仕方がなく、歩き始めます。ふと見ると、すぐ近くに滝があります。喜び半分、恐れ半分で滝に近付きます。滝の水に手を突っ込みます。『やった、水だ!、水が飲める!』そう思って、手に水を汲み、口にもっていき、水を飲むと・・・口に入ったのは熱い砂
です。思わず吐き出します。その時のショックは・・・言葉では言い表せません。俺が一体何をしたというんだ、何でこんなに苦しまなければいけないんだ、なんで俺ばっかり・・・と嘆きますが、何も変わりません。呼べど叫べど誰も来ない。誰かの姿を認めて、叫んでみても無反応。中には、すれ違うほど近くに人がいるのに、声をかけても届かない、触れることもできない。ワイワイ騒いでいる人たちを見つけて駆け寄っても無視をされる。この野郎と殴り掛かってみても、手ごたえはなく、そのうちふと消えてしまう。気が付くと、この赤い砂の中に一人ぼっち・・・。そんなことを繰り返しているうち、とうとう空腹とのどの渇きですなの中に倒れ込んでしまう。途端にうじ虫が砂の中から現れ、身体中に噛みつき始める。激痛にうじ虫から逃れようとするが、身体が疲れ切っていて思うように動けない。やがて、うじ虫に身体中を食われながら、大量の出血をし、激痛の中、死んでいくんです。Aさんはきれいに骨になってしまいます。すぐに、熱風が吹いてきて、その骨も砂へと変わり果ててしまいます。ふと気が付くと、Aさんは、自分が飛び込んだ電車が通るホームに立っています。周りをキョロキョロします。目に時計が飛び込んでくる。その時間は、自分が電車に飛び込んだ時間のほんのちょっと前。ということは、もうすぐ電車がやってきて、その電車に向かって自分が飛び込むのだ・・・。Aさんは、戦慄します。いかん、飛び込んじゃいかん、飛び込めばそのあとにさらに苦しみが待っている、飛び込んじゃいかん・・・そう思うAさんですが、その時間になると、Aさんは電車に飛び込んでいます。もちろん、Aさんはもう死んでいる人ですから、人身事故にはなりません。電車は、幽霊のAさんを轢いてしまうだけです。一方、再び電車に飛び込んでしまった幽霊のAさんは、また炎の渦に巻き込まれ、この赤い砂の上に落ちてくるのです。そして、同じことを繰り返すのです。何度も何度も・・・。それが、この地獄の罰なのですね」
そこまで語って、俺はがっくりと肩を落とした。語っていて、本当に悲しくなってしまったのだ。そう、ここには、絶望しかないのだから・・・。それに気づいてしまったから、俺は疲れ果ててしまったのだ。

俺は、ドサッと、座り込んだ。
「疲れました・・・。自分で語ってみて、この地獄の恐ろしさがよくわかりました。ここには・・・絶望しかない」
「ここでの体験が役に立ったな。よくここの恐ろしさを理解したようだのう。お前さんが、今熱を込めて語ったように、自殺した者は、自殺の無限ループに陥るんだ」
和尚は、ニヤニヤ笑っている。それが妙にムカついた。
「笑ってる場合じゃないですよ。これじゃあ、救いがないじゃないですか。ここには絶望しかないんですよ。永遠に絶望しかないんですよ。それじゃあ、救いがないじゃないですか!」
「いやいや、だからさっき言っただろ、その救いは供養で得られると。いいか、供養があれば、この孤独地獄でも、少しは楽に過ごせるんじゃ」
和尚は、大きな声でそう言った。
「いいか、供養があれば、砂の滝も本当に水の滝に変わるんだ。熱い砂も、普通の温度の砂になる。うじ虫だって、そんなに噛みついてはこない」
「じゃあ、供養があれば、ここから脱出できるんですね?」
俺は勢い込んで和尚に尋ねた。しかし、和尚は、渋い顔をしていった。
「いや、供養だけでは、ここから脱出はできない。供養は、ここで苦しまなくて済むようにしてもらえるだけだ。ここから出るには、気付かなきゃいけないんだよ。気付かないとな」
「あぁ、気付かなきゃいけなんですね。自殺してしまった、その罪の深さを。その愚かさを・・・」
そう言って俺は泣いた。

自殺する人だって、好きでするわけではない。どうしようもなくなって、仕方がなくって自殺をしてしまうのである。しかし、それはやはり、いけないことであって、自分勝手な行為であって、ほかに対処方法はあるわけで、逃げ出すことであり、どこか卑怯だし・・・死へ逃げるのは、やっぱり許されない行為なのだ。逃げ道は、死ではないところにもあるのだ。八方塞がりとかいうけど、本当に八方塞がりなんてないのだろう。死ぬ気になれば、どうにでもなるものなのだろう。死を選ぶ前に、自分のプライドを捨てることが大事なのだろう。そう、プライドとか、見栄とか、世間体とか、そんなものを捨ててしまえば、どんなことでもできるのだ。泥水すすっても生きてやる・・・という、図太さを持ったほうがいいのである。
そんなにつらい仕事なら、ブラック企業だというのなら、辞めてしまえばいいのだ。仕事を辞めたら生活できなくなる・・・なんてことはないのだ。たとえ、見栄えがいい仕事でなくても、求めていた仕事でなくても、希望していた仕事でなくても、ちゃんと休みがあり、一般的な給料がもらえ、圧迫がないのなら、どんな仕事でもいいのである。妙なプライドで、あんな仕事は嫌だ、あれは底辺の仕事だ、あんな仕事は自分には不釣り合いだ、自分の価値はもっと高い・・・なんて思っているから仕事がなくなるのである。どんな仕事でも仕事は仕事であり、社会に役立っているのである。社会に役立たない仕事なんてないのだ。
イジメは確かにつらいだろう。最近では、先生まで一緒にいじめるケースもある。だけど、自殺はダメだ。死を選んで、死に逃げてはいけないのだ。みんなしてイジメる学校ならば、行かなければいいのである。勉強なんて、その気になれば、学校に行かなくても自宅でできる。むしろ、塾だけの方がいいかもしれない。余分な人間関係がなくて、勉強しやすいだろう。死へ逃げ込むのではなく、学校に行かない、よその学校へ行く、そういう選択肢もあるのだ。安易に死へ逃げ込んではいけないのである。
会社が倒産した、家庭が崩壊した、みんなバラバラになった・・・だからと言って、死を選んではいけないのだ。生きてさえいれば、いつか家族にあうこともあるだろう。プライドを捨てて、仕事に励めば、また日の当たる場に立つことだってできるであろう。途中で投げ捨ててはいけないのである。たとえ、リストラにあって、定年を前に職を失ったとしても、死を選ぶくらいなら、死ぬ気になって何でもいいから仕事をすればいいのだ。道は、いくらでもあるのである。八方塞がりなんてないのだ。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、そこから逃げるために自殺をしてはいけない。自殺以外にも逃げ道はあるのである。自殺を選んでも、その先は、生きているときよりも苦しい状況が待っているのである。それほど、罪深い行為なのだ、自殺というものは・・・。
「ま、そういうことだな。お前さんもよくわかっただろう」
「ここをさまよっている人たちが、はやく気付いてくれることを祈ります・・・」
俺はそう言って、目を閉じたのだった。



「さて、これで地獄のすべてを見たことになる」
夜叉が唐突に言った。俺は、思わず「えっ?」と言って、夜叉を見た。
「まあ、感傷に浸っているところ悪いんだけどな、これで地獄めぐりは終わりだ」
「あっ、あぁ・・・。そうですか・・・。じゃあ、私は、地獄のすべてを巡ったんですね」
「そういうことだな。よく頑張ったな」
和尚が優しく微笑んでそう言った。珍しい、あの和尚が優しい顔をしている・・・と思い、ホッとした瞬間、俺はドキッとした。これはおかしい、絶対ワナがあると・・・。
「お前さん、何か妙なこと考えていないか?。わしはお前さんを罠にはめたことなんかないぞ」
和尚が俺に顔を近づけてにんまりとして言う。いやいや、そのにんまりが怪しいわけで・・・。
「まあ、確かに罠にはまったわけじゃないですが・・・、いやいや、いろいろな取材に巻き込んだのは和尚さん、あなたでしょう」
「わしは依頼しただけじゃが。その依頼を快く引き受けてくれたのは、お前さんだよな」
「快く・・・ではないですが、ま、まあ、そうともいうか・・・」
俺はなぜかしどろもどろになった。
「そうじゃな。で、続きの取材なんだが」
「続き?。地獄は終わったんでしょ?」
「地獄は終わったよ。だから、次じゃ。さぁ、夜叉殿や、よろしく頼むぞ」
「和尚様、承知しました。この腰抜けを引き連れ、次へ行きますよ・・・。お前だって、次が見たいだろ?」
夜叉の言葉に、「いや、そんなことはない、休みたい」と言えない自分がいる。死んでからも、地獄の苦しみを知ってからも、記者根性が抜けない自分にほとほと嫌気がさしてきた。えぇぇぇい、こうなったらとことん付き合ってやる。俺はそう決めて
「確かに次があるなら見たいですよ。あぁ、そうだ、次は・・・地獄の上というと餓鬼の世界ですね?」
「そうじゃ。夜叉殿、餓鬼界へ移動じゃ。よろしくな」
「承知しました。では、餓鬼界へ行きます」
「和尚さん、あなたはどうするのですか?」
俺は、立ち上がった夜叉と並んで、和尚に尋ねた。
「わしか?。わしは、これから天界へ戻って天女と酒でも飲んでくるよ。天界の酒はうまいんじゃ、これが。わはははは」
豪快に笑って和尚は消えてしまった。聞くんじゃなかった。俺は餓鬼界で、和尚は天界で天女とお戯れ?・・・。がっくりと肩を落としていると
「さぁ、いくぞ」
という夜叉の冷めた声が聞こえたのだった。

「行くって、どうやって餓鬼界にいくんですか?」
「まずは、ここから出る。ちなみに、ここは他の地獄と違って、出口だとか門だとかはない。ここは完全に閉ざされた世界だ」
「じゃあ、ここから脱出は無理じゃないですか」
「そうだな、一般の者には無理だろう。だが、俺は夜叉だ。隠された出口を知っている」
夜叉は、そういうとニーッと笑った。笑うと、口が耳まで裂けて恐ろしい顔になるのだが、もうそれには慣れた。
「ということで、ついて来い。あぁ、絶対にはぐれるなよ。ここで迷子になったら、もう終わりだからな」
そういうと、夜叉は歩き始めたのだった。
俺は、絶対にはぐれないように夜叉と並んで歩いた。それにしても、見渡す限り、真っ赤な砂漠である。その中を人がウロウロ歩いている様子が見えた。
「見えるか?。彼らは、自殺者だ。お前が経験したように、今彷徨っているわけだ。彼らには、ほかの自殺者と会話することは、当然できない。ほんの近くに同じ自殺者がいるのに、話すことはできないんだ。ま、彼らは幻の家族や知り合い、水や食べ物を求めてうろついているわけだけどな」
夜叉の言っていることはよくわかった。何せ、俺はそれを経験している。あのウロウロしている若い女性や男性、少年、少女、オジサンにオバサン、そしてお年寄り・・・みんな自殺した人たちだ。そんな人たちが寂しそうな、不安そうな顔をして、ウロウロしているのだ。ふと、消える人もいる。きっと、自殺した現場に戻っているのだろう。そして、また自殺して、炎の渦に包まれ、ここに落ちてくるのだ。彼がいつか、その無限であり夢幻のループから出られるように、俺は改めて祈ったのだった。
「おい、ボーッとしていると、はぐれるぞ」
夜叉の声に我に返ると、隣に夜叉はいなかった。あやうくはぐれるところだった。あわてて、夜叉のそばに走り寄り、
「あ〜、ビックリした。いかん、自殺した人たちに魅入られてしまいました・・・」
「そう、ここは恐ろしいところなんだよ。下手に同情すると、あっという間に引っ張られてしまうぞ」
「そ、そうなんですか?。でも、彼らには我々は見えないでしょ?」
「あいつらには見えないよ。でも、我々には彼らが見える。彼らの虚ろで不安で寂しい目を見ていると、そのうちに彼らの仲間になってしまうんだよ。彼らに引き込まれてしまうんだ。魔に魅入られるようにな。ここはそういうところなんだ」
「ひょっとして、過去にそういうことがあったんですか?」
「あぁ、まあな。昔は、ここにも管理者がいたんだよ。他の地獄に鬼がいるようにな。でも、その管理者は、みんな消えてしまった。どこに行ったかはわからない。未だに彷徨っているかもな。みんな、あの自殺者の虚ろな目、不安そうな顔、寂しそうな姿に魅入られてしまい、仲間になってしまったんだよ。だから、管理者を置くことを止めたんだ」
そういえば、ここには鬼の姿はない。地獄を管理している者も番人もいない。そういえば、ここには出入り口も門もないと夜叉は言っていた。
「この世界の果ては、どうなっているかわからないんだ。いったい、どうやってこの孤独地獄を創ったのか・・・。まるで分らん。謎だな。他の地獄は、すべて鬼たちが造り、現実世界の人たちの怨念・恨み・怒りなどのエネルギーで維持している。まあ、地獄特有のエネルギーもあるがな。しかし、すべて門があり、出入り口がある。上の地獄へ行ったり、下の地獄へ落ちたりと、地獄の上下関係が成り立ってもいる。だが、ここだけは独立している。どことも通じてはいない。供養や改心によって、この地獄を出ることになった者は、ただ消えるだけだ。供養もない、改心もない者は、永遠に彷徨うことになる。その果ては、どうなるのか俺にもわからない。何万年も彷徨うのか、それともそのうちに消滅してしまうのか、あるいは、砂の中のうじ虫に生まれ変わるのか・・・。全くわかっていないんだ。ここがいつできたのかも、誰が創ったのかもわからない世界、それがこの孤独地獄だ」
「え、閻魔様も知らないんですか?」
「閻魔様は、『この地獄は、いつの間にかできてしまったんだよな』とおっしゃっていた。閻魔様すら、この孤独地獄の全貌を把握していないとおっしゃっている。ま、おそらくは、自殺者の妄念が創り出してしまったのではないか、と言われているよ。自殺者の『こんなはずじゃなかった。もう一度生き返りたい、もう一度家族と会いたい、友人と会いたい、仕事をしたい、みんなと仲良く話したい、喜びにしたりたい・・・』という強い思いが、これを創り出してしまったんだろうな。ま、悲しい場所だな。だから、気を付けないと、その悲しみに引き込まれてしまうんだ」
そうか・・・ここの独特の雰囲気は、自殺者の妄念によるものなのだろう。出入り口のない閉ざされた世界・・・。それは、自殺した人たちの、自殺する寸前の心の世界と一致しているのかもしれない。ということは、ここは自殺者の心の中の世界なのかもしれない・・・。いや、おそらくそうなのだろう。自殺した人たちの孤独な心の世界を反映して、ここが出来上がったのだろう。でも、そんな世界でも、脱出口があると夜叉は言っていた。
「そうだ、ここにも脱出口はある。それは、彼らには見えないんだ。昔、管理者が使っていた出入り口なんだよ。それがいまだに残っている・・・はずだ」
「はずだって・・・そんなことで大丈夫なんですか?」
「うん?、あぁ、もしなかったら、神通力で抜け出すから平気さ」
な、なんだと・・・。そういえば、あの和尚だって消えたではないか。ならば・・・・。
「神通力を使ったほうが早いじゃないですか。なんで使わないんです?。あの和尚のように、ささっと消えてしまえばいいじゃないですか?」
と、俺は抗議した。夜叉は俺の顔を覗き込んで
「お前を置いてか?。だったら、神通力を使ってもいいけど。お前は、神通力を使えないだろ?」
なるほど、そういうことね。でも・・・。
「もし出口がなかったら神通力を使うと言ったじゃないか」
「そんときは、非常手段ってやつさ。こっちから、SOSを弥勒菩薩様に送るんだよ」
あぁ、そういうことか・・・。俺は納得した。できれば、通常の方法でここを抜け出ろ、ということなのだ。もし、それが不可能な場合は、助けてやるぞ、ということなのだ。ということで、我々は、再び歩き始めた。

夜叉は、ときおり立ち止まって周囲を見回している。何の起伏もない真っ平なここで何を見ているのか?。目印になるようなものなど何一つないのに・・・。
「俺たちにはわかるんだよ、匂いでな。かすかなにおいの変化で出口がわかるんだ。こっちだ。間違いない。出口の匂いがする」
夜叉はそういうと、歩き始めた。俺もすかさずついていく。やがて
「あったあった。ここだ」
夜叉はそう言ったが、出口と思われるようなものは何一つない。相変わらずの真っ赤な砂漠だ。その砂漠の赤い砂を手で払いのけている。いや、掘っているのか。しばらくすると、丸い鉄板のようなものが見えてきた。まるでマンホールのふたのようだ。
「ここだ。あったあった、よかった。このふたを開けると、暗闇のトンネルがある。ま、お前らのいいかただとワープするトンネルかな。さ、入るぞ」
夜叉はマンホールのような、ふたを開けた。そして、
「飛び込め。俺もすぐ行く。行きつく先は、閻魔堂の前だ」
と言い、俺の背中を押したのだった。あっという間もなかった。俺は真っ暗な穴の中に落ちていった・・・。

ふと気が付くと、大きなお堂が目の前にあった。
「あぁ、これが閻魔堂か」
俺がそうつぶやくと、いつの間にか隣に夜叉がいて、「そうだ。帰ってこれた」とほっとした様子でいった。
「ひょっとして、不安だったんですか?」
「実は・・・な。もう随分使っていない道だったからな。ちょっと不安だったんだ」
「あの、マンホールのようなふたは、我々が使った後どうなんているんですか?」
「すぐに消えてなくなるよ。赤い砂の中だ。あれは、我々にしか見つけられないものだ。いくら自殺者があの辺りですなを掘っても、あの出口は出てこないさ」
どうやらそういう仕組みになっているらしい。
「さぁ、御堂に入るぞ。お前は初めてだな」
そういえば、閻魔様に合うのは、五七日裁判の時以来だ。あの時のお堂とここは違うのだろうか?
「ここは、裁判の時のお堂とは違う。閻魔様が普段いらっしゃるお堂だ。裁判の時の閻魔様は、分身だよ。まあ、もっとも、ここの閻魔様も分身だけどな。御本体は閻魔天という天界にいらっしゃる」
閻魔天という天界・・・どっかで聞いたような・・・。俺は思い出した。閻魔天と言えば、女房の守護霊である、女房のひいおじいさんの本体がいるところじゃないか。そういえば、ひいおじいさん、どうしているだろうか・・・。
「そこは違うだろ?。女房はどうしているだろうか?・・・だろ」
夜叉が俺の心を読んでそういった。その言葉に、妙に女房のことが気になりだした。だがしかし・・・。帰ることはできないのだろう。それは、この取材という役目であってもなくても、同じことだ。まあ、天界にでも生まれ変わり、神通力を身に付けることができれば、現世を見ることも可能なのだろうが、それはそうそう簡単ではないことは女房のひいじいさんから聞いている。だから
「いや、まあそうですが、でもみんな会えないわけだし。それは仕方がないですよね」
と俺は軽く言った。夜叉は
「まあ、そうだな。しかし、人間は・・・哀れだな」
と、ちょっと悲しそうに言い、「中に入るぞ」とぶっきらぼうに言った。きっと、照れ臭かったのだろう、と思う。
「一応な、地獄めぐりの終わったことを報告する。俺にはその役目があるんでな。お前さんは、あの和尚がいきなり取材という役目を押し付けたからいいが、俺は閻魔様の指令でこの役目を受けているんでな。報告をしなければいけないんだ。こっちの世界でも、『ほうれんそう』は大事だ」
そういうと夜叉は、「ケッケッケ」と笑ったのだった。しかし、すぐに引き締まった顔に戻った。
「さぁ、閻魔様の御前にいくぞ」
キリリとした顔をして、夜叉はお堂の中の一室へと入っていった。俺もそのあとに続く。
そこは、明るく静かな部屋だった。すごくいい匂いがした。清々しい気分になる匂いだ。正面には大きな机があって、その前にあの閻魔大王の姿があった。その閻魔大王が
「ご苦労だったな」
と微笑んだのである。


あのいかつい顔の閻魔大王が微笑んだことに俺は驚いた。
「何を驚いていておるのだ。このいかつい顔でも笑うことくらいはするぞ」
そう言って、「ふっふっふ」とさらに笑いながら
「夜叉よ、ご苦労だったな。どうだ、久しぶりの地獄めぐりは」
と夜叉に声をかけたのである。
「はぁ、疲れました。相変わらず、地獄は悲惨ですね。まあ、昔と比べれば、随分と罪人は減りましたが・・・」
あの夜叉が、神妙な顔をして答えている。これにもちょっと驚いた。なんだか、現実世界の会社の部下と上司の会話のようだ。
「一応な、私は夜叉の上司だ。で、夜叉たちは、私の部下である。私の命令によって、裁判所で働いたり、地獄や餓鬼、畜生、修羅などの偵察をしたり、手伝いをしたりするのだ。それが夜叉たちの仕事なんだよ。お前さんのガイド役もその一つだな」
閻魔大王は、俺に向かって優しく話してくれた。
「そうだな、昔と比べてみれば、地獄の住人もずいぶんと減ったよ。よいことではあるがな、その代わりほかの世界がなぁ・・・。結局は、人々が賢くなり、仏様の教えが浸透したから地獄の住人が減ったわけではないのだ。ただ罪の種類が変わっただけなのだよ。まあ、ほかの世界を見れば、私のいうことがよくわかるであろう、のう、聞新君よ」
そう言われた俺は「は、はぁ・・」とうなずくしかなかった。まだ見ていない世界のことはよくわからない。ただ、人々に仏教が浸透して、賢くなった、愚か者がいなくなった・・・ということは断じてない、ということはわかる。仏教は、人々の間に浸透するどころか、最近ではますます遠くなっていくように思う。むしろ、江戸時代の方が仏教が浸透していたのではないだろうか。
「そうだな。今は、正しい法を説く僧侶が少なくなったからのう。お前さんも見ただろ、今の僧侶の姿を・・・」
閻魔大王は、俺の心を読み取って、そう俺に問いかけてきた。しかし、閻魔大王は、俺の返事を待たずに、また話し始めたのだった。
「今の僧侶はなぁ・・・僧侶としての自覚がないのか、その本分を忘れている者が多すぎだ。彼らが、もっと教えを説いていればなぁ・・・。まあ、努力している僧侶もいるのだが、どうも各地方にいる僧侶がいかんようだな。目先の金儲けばかり追っておる。世襲にこだわって、どんどん僧侶の質を落としておる。各本山も、真の僧侶を育成することをもっと追及すべきだな。どうもアマアマになってしまっているようだ。お釈迦様も嘆いておられるほどだ・・・。ま、お前さんに言っても仕方がないことだが・・・。まあ、それでも戦国時代の頃の僧兵たちの所業に比べれば、大したことはないのだが・・・。すまんのう、愚痴ってしまった」
閻魔大王にもこういう人間臭いところがあったことに、俺はまた驚いたのだった。
「では、私は引き続き、この聞新を連れ、次の世界へ行きます」
夜叉が堅苦しくそう言った。
「そうか、次は餓鬼界だな。聞新よ、餓鬼界は・・・あぁ、言わぬほうがいいな。お前さんの目でしっかりと見てきなさい」
な、なんだ、その思わせぶりは・・・と思ったが、閻魔大王は俺に、変な先入観を与えたくなかったのだろう、と理解した。なので、
「はい、しっかりと見てきます」
と答えたのだった。

閻魔大王との面会を終えると、夜叉は
「ちょっと寄るところがある」
と言って、閻魔堂の裏側へ入って行った。一体どこへ行くのかと後をついていったが、そこには、なんと夜叉がいっぱいいたのだ。そこは夜叉の溜まり部屋だった。
「うわっ、夜叉だらけだ。いったい何人いるんだ?。俺の知っている夜叉さんはいったいどこに・・・」
みんな同じ顔である。俺には全く区別がつかなかった。というか、恐ろしい。当然ながら、俺は部屋に入らず、廊下にたたずんだ。
「おう、紹介するよ。こいつが、アノ聞新だ」
夜叉が俺を紹介した。すると、同じ顔の夜叉たちが
「こいつが、アノ物好きな聞新か。ウケル、ケケケケケ」
などと笑いだしたのである。彼らは、物珍しそうに俺を眺めて
「しかし、まあ、よくこっちの世界をめぐる気になったな。地獄は楽しかったかい?」
「これからも大変だぞ」
などと話しかけてくる。中には、
「あの和尚に利用されたんだな。かわいそうに・・・。おっと、和尚に聞こえたら怒られるな」
などとつぶやいている夜叉もいた。何がなんだがさっぱりわからない。が、黙っているのも変なので、
「まあ、楽しかったわけではないですが、いろいろ見ることができてよかったですよ。確かに大変ですけどね・・・。ところで、あの和尚さんは、よくここに来るんですか?」
ち問い返した。夜叉たちは、
「いや、そんなにやってこないよ。立派な和尚様なので、お忙しいからね」
などと言っている。どうも嘘くさい。後で夜叉に・・・俺担当の・・・聞いてみよう。
そのあと、夜叉たちとは、今は案外暇なんだとか、もう人を食うのをやめて2千年以上たっているから人の肉の味を忘れたとか、人を脅すこともやめてしまったとか言った話をしてその部屋を出たのだった。
部屋を出てすぐに夜叉が話しかけてきた。
「俺と同じような者ばかりで驚いただろ?。区別がつかないだろ、お前さんには」
「びっくりしました。みんな本当に一緒なんですね。同じ顔、同じ姿・・・区別がつきません」
「でもな、よくよく見ると、顔が違うんだぜ。背の高さも若干異なる。太っている奴もいるしな。たぶん、そいつは人間界のお菓子を食べたやつだ。まあ、違反行為だがな。たまにそういうやつもいる」
「夜叉って聞くと、なんだか恐ろしい生き物・・・っていうのも変ですが・・・、そんな感じがしますが、皆さん気楽そうでしたね」
「あぁ、今は気楽さ。人間の肉を追いかけていたころは、縄張りもあったし、夜叉同士のケンカも多かった。帝釈天様のような神に見つからないよう、ビクビクしていた時もあった。帝釈天様に捕まれば、夜叉もイチコロ、地獄の罪人にされてしまうからな。もしくは、帝釈天様が乗る馬車のタイヤにされたりとかな、そりゃ怖かったよ。善神に捕まらないよう、ビクビクしながらも一方で、人肉を追い、また悪神としても祀られ、恐れられ、という存在だったんだよ、我々は。複雑な生き物だよな。それが、お釈迦様に出会い、諭され、そしてお釈迦様を守る役目を担ってからは、随分我々も変わったなぁ・・・。もっとも、中には、お釈迦様に逆らう者も当初はいたんだけどな、帝釈天様をはじめとする善神によって、処罰されたからな。みんなお釈迦様に従うこととなった。おかげで、今は平和で気楽さ。食事も天界の食事を食べられるようにしてもらえているしな。ま、それについては天界に行ってから教えてやるよ。それにしても、人間だって、お釈迦様の教えを素直に聞き入れれば、気楽な人生を送れるのに・・・。人間ってつくづく愚かな生き物だな、と思うよ」
地元に戻った気楽さからか、夜叉はいつになく饒舌だった。歩きながら、気楽そうに話しをしている。
「ま、お前さんはやっぱり特別なんだろうな。物好きにも、こっちの世界を取材するというんだから。珍しい人間だな」
「そうなんですか?。過去にも俺みたいにあの世の世界の取材を依頼された者はいるんですか?」
「あぁ、あの和尚がな、直々に頼んだことは何回かあるな。でも、すべて断られた。中には、若い坊主もいたがな。みんなNOだったよ。だから、お前さんのことをみんな『物好き』というんだよ」
なるほど、過去に取材を依頼したことはあったのだ。まあ、確かに、普通は断るのだろう。俺の方が異常なのかもしれない。というか、俺は知りたがりなのだ。何でも知りたいのだ。その性格が災いしたのだ。ま、今では結構楽しんでいるのだが・・・。
「お前さんのその性格がよかったんだな。さて、次は餓鬼界だ。また驚くことになると思うから、しっかり気を引き締めておけよ」
そういうと、夜叉は、いつもの引き締まった顔になった。いよいよ、餓鬼界なのだ。いつの間にか、閻魔堂の大きな門のところまで来ていた。
「さて、この門を出て、右に曲がると古い鳥居がある。そこをこれからくぐる」
「すると、餓鬼の世界へ行けるんですね?」
「そうだ。弥勒菩薩様の手形はちゃんと持っているな。なくさないように気をつけろよ。さて、行くぞ」
俺は夜叉に従って歩いて行った。大きな門を出る。そして右に曲がる。すると確かに古い鳥居があった。意外と大きな鳥居だ。見上げねばならないくらいの大きさはある。
その鳥居、古いというか、もはや腐りかけている。鳥居の上からは、何か得体のしれないものがいくつも垂れ下がっているし、鳥居の柱は、腐っているというか朽ち果てているようにも見える。よくそれで立っていられるものだ、と感心すらしてしまうほどの腐りようだ。さらには、
「な、なんか臭いですねぇ。物が腐ったような匂いがします」
「あぁ、餓鬼界の匂いが漏れてきているんだよ。困ったことなんだがな」
「この鳥居、こんなんでいいんですか?。もうすぐ倒れてきそうなんですが・・・」
「うん、そうだな、本当は建て直したほうがいいんだろうな。だがな、まだ限界ではないからな。とりあえず、持ちこたえているな」
夜叉は、鳥居の柱に触れながらそう言った。そして、
「あ、触るんじゃないぞ。人間が下手に触ると、腐ってしまうぞ」
と鋭く言ったのだった。俺は触ろうとしていた手をすぐにひっこめた。
「あ、危なかったじゃないですか。そういうことは、もっと早くいってくださいよ」
「すまんすまん、まあ、お前さんは、弥勒菩薩様の手形を持っているから、すぐに腐ることはないだろうが、一応な、触れないほうがいい」
真剣な物言いだったので、俺はそれ以上文句は言わなかった。それよりも、絶対触れないでおこうと心に誓ったのだった。
「ところで、この鳥居って、餓鬼界への入り口なんですよね?」
「あぁ、そうだ」
「地獄へ行くときは、こんな鳥居、無かったですよね」
「うん、地獄は特別だからな。この程度の鳥居では抑えが効かない。しかし、ここもなぁ・・・ちょっと抑えが効かなくなってきているな」
そう言って、夜叉は、俺の顔を眺めた。そして、溜息をついて、
「ちゃんと説明しようか。まだ、話してなかったな」
と言ったのだった。

「地獄はな、昔はものすごく人数がいた。だから、その入り口は、こんな鳥居程度じゃ抑えが効かなかったんだよ。抑えというのはな、地獄から漏れ出す邪気を抑えているんだ。地獄から邪気が閻魔様の敷地に漏れ出さないようにするんだ。そのために、鳥居を造ったんだが、鳥居じゃ抑えが不可能だと分かったんで、門にしたんだ。しかも、門番をつけて結界が緩まないようにした。そのおかげで、地獄からの邪気はここには来なくなったんだ。で、地獄もいろいろ分かれて来たから、その都度門を造って結界を張ったんだ。地獄以外の世界は、当時はまだ人数が少なくて・・・少なくてと言っても数人じゃないぞ、万単位の人間はいたんだが、鳥居でもぜんぜんOKだったんだよ。邪気が漏れ出てくることはなかった。この鳥居は、結界の役目を果たしているんだ。だが、どうやら、餓鬼界は鳥居じゃ保てなさそうだな・・・」
「地獄以外の世界は、みんな鳥居があるんですか?」
「あるよ」
「どこに?。見えないですが・・・」
「見えないよ。だって、用はないだろ。必要な場合のみ見えるんだ。今は、これから餓鬼界へ行くので、餓鬼界への鳥居しか見えないよ」
なるほど、そういう仕組みなのか。

閻魔堂のある敷地からは、ほかの世界・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・・・へと通じる道があるのだ。その道には鳥居がある。ただし、地獄だけでは、鳥居ではなく門になっている。鳥居は、各世界からの邪気を除けるための結界でもある。地獄の場合は、邪気が多くて鳥居では持ち堪えられなかったので、門にしたのだ。うん、待てよ、天界からも邪気があるのか?。俺はそれを尋ねた。
「天界からも邪気はあるさ。欲望が残っている世界だからな、天界も。欲望がある以上、邪気も存在するさ」
「この閻魔様の敷地はどうなんですか?。邪気は存在しているんですか?」
「お前さん、さっき閻魔堂に入ったろ?。いい香りがしたろ?。あれでこの世界の邪気を祓っているんだよ。もっとも、この敷地内の邪気は、ほんのわずかだけどな。みんなのんびりしているから」
そういうことらしい。邪気は、どこにでも存在するのだ。

「さて、うんちくはこのくらいにして、中に入るぞ。中は・・・地獄とは違った邪気にあふれているからな、覚悟しておけよ」
そう言って、夜叉は一度鳥居を見上げてから、意を決したようにうなずいてから鳥居の中に入っていった。俺も遅れてはいけないと思い、慌てて夜叉に続いて鳥居をくぐったのだった。
一瞬、暗くなった。それはよくあることだ。そして、ついたところは
「うわ、何だこの匂い、くっさい、くっせ〜」
そこは、とてつもなく臭いにおいの漂った世界だった。


あまりの臭さに、俺は吐き気がした。吐くものなど何もないのに・・・。
「臭いだろ、ひどいだろこの匂い。糞尿地獄の方がまだマシな匂いだよな」
「もう、息ができません・・・てか、死んでいるのだから、息をしなくてもいいのでしょうけど、でも・・・これはたまらん。いかん、オエッ、ゲッ、オエッ〜」
おまけに目も痛い。目に何かがしみてくるのだ。おかげで目も明けていられない。俺はうずくまって、吐き気をこらえるのに必死だった。
「しょうがねぇな。それじゃあ、取材なんてできないだろ。おい、しっかりしろよ」

夜叉はそういうと、うずくまって口を押えている俺を立たせた。そして、
「おい、弥勒菩薩様の手形はどうした?。まさか落としたんじゃないだろうな?」
と鋭く聞いてきたのだ。俺は焦った。確か、鳥居をくぐるときは、手にしっかりともっていたはずだ。目を半開きにし、口を手で押えながら、俺はあちこち探してみた。
「あっ、バカヤロウ、お前ってやつは・・・。あぁ、ここにあるじゃないか」
弥勒菩薩様の手形は、俺の足元に落ちていた。きっと、あまりの臭さに吐き気をもよおし、両手で口をふさいでしまったときに落としたのだ。
「早く握れ。で、餓鬼界の環境に対応できるようにと願うんだよ」
夜叉がいつになく厳しい口調でいった。俺は言われた通り、片手で口を押さえ、片手で手形を握り、「餓鬼界の環境に対応してください」と強く願ったのだった。
その瞬間、手形が輝いた。そして、俺の吐き気はすっと楽になった。まるでよく効く胃薬を飲んだように・・・。
「落ち着いたか」
夜叉が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ぷは〜。はぁはぁはぁ・・・もう大丈夫です。しかし・・・すごい匂いでしたよ。窒息死するかと思いました・・・」
「ここの匂いは、地獄よりもきついからな」
「夜叉さん、よく耐えられますねぇ」
「うん、まあな・・・。慣れというか、人間ほど匂いに敏感じゃないんだろ、我々は。まあ、もともと血の匂いや、腐った肉匂いを嗅いでいたからな。食ってもいたし・・・」
そうだ、夜叉の一族は、そもそも人間を食べていたのである。腐った死体さえも食べていたそうだ。ならば、この匂いにも耐えられるのかもしれない。いや、それにしても、ここの匂いは腐った死体どころではない。それ以上に臭いのだ。これはもう、猛毒薬と変わらない兵器に値するだろう。こんな匂いを嗅いだら、人類は滅亡するに違いない。
「まあ、そうだろうな。人間には耐えられないだろうな」
と夜叉は気の毒そうな顔をして俺を見つめた。
「臭いどころの話じゃないですよ。普通の人間なら、死んでますって。この匂いは、腐った糞尿にどぶ臭さを混ぜて、さらにそこにカニやエビの甲羅を腐らせたような匂いを混ぜ合わせ、腐った動物の匂いのようなものを注入し、その上に体中から染み出るような膿の匂いを混入して、卵の腐った匂いをトッピングしたような・・・あぁ、もう何と言っていいかわからないけど、ともかく臭いですよ。弥勒菩薩様の手形の力で防いでもらっていますが、今でも臭いですよ。たまらんですよ、この匂いは。あぁ、くっせ〜」
餓鬼の世界は、とてつもなく臭かった・・・それが餓鬼界の第一印象であった。

「まあ、落ち着け、落ち着けって。臭いのはわかった。俺たち夜叉一族が、匂いに敏感じゃないことも分かった。だが、臭い臭いと騒いでも仕方がないだろう。早く慣れろ。それしかないぞ。そうじゃなきゃ、この先に進めないだろう」
夜叉の言うとおりである。この匂いに慣れなければ、この先には進めないのだ。先に進めば、もっと臭いかもしれない。きっと、鼻が落ちてしまうほど臭いかもしれないのだ。俺は、うんうん、とうなずいたが、まだ目には涙がたまっていた。
「匂いもそうなんですが、目にしみるんですよ、ここの空気が。この世界って、なんか毒ガスとか噴出しているんじゃないですか?」
「あぁ、たぶん、餓鬼界の連中の身体から放つ匂いが、水分をともなっているんだろうな。液体の毒ガス・・・って感じかな。まあ、あいつらの身体は腐っているからなぁ」
「餓鬼界の生き物・・・って、ほとんどが元人間ですよね。彼らの身体って腐っているんですか?」
「あぁ、腐っているんだよ。全身、腐ってただれている。いつも身体から汚い膿を出してるんだ。で、かゆくてたまらないから、かきむしるだろ。そうすると、身体の肉がボロボロと落ちていくんだ。激痛を伴ってな。ま、餓鬼がどんな姿なのか、見たほうが早いだろ。だから、先に進むぞ。ここは、餓鬼界のほんの入り口だ。ここからは、餓鬼の姿は拝めないからな」
そういうと、夜叉はスタスタ歩き始めたのだった。

夜叉の後ろについて歩き始めると、進んでいる方向から、カサカサと音が聞こえ始めた。
「なんか、カサカサという音がしませんか?」
「あぁ、するな。あれは、餓鬼たちが出している音だ。それも見ればわかるよ」
夜叉はそっけなくそう言った。まあ、ともかく見てみろ、ということなのだろう。そして、その光景は、突如として目の前に現れたのだった。
「う、うわっ、こ、これは・・・」
それは何と言っていいのか、うまく表現できない光景だった。カニのような、骨の固まったような、肉の塊に骨の手足と頭がくっついているような、そんな未知の生き物がものすごい数量でいたのだ。

そいつらは、お互いに重なり合って、ある一方向に進んでいる。ある者は別のものに乗りかかり、押さえつけて前へ前へと進もうとしている。ある者は、その骨のような細い手で、前にいるその生き物・・・餓鬼・・・の足を引っ張っている。お互いに頭を押さえつけ、足や手を引っ張り合いながら、もがくように前へ前へと進んでいるのだ。俺はその光景を見た時、ある国のカニの行進のシーンを思い出した。
そのカニは産卵のためなのか、何匹も重なり合って、海の方向に歩いていた。何匹も重なり合っているカニもいた。はさみを振り回し、他のカニが進むのを邪魔をするカニもいた。どのカニも一心不乱に、海に向かっているのだ。目の前にある光景は、そのカニの姿に重なったのである。
「まあ、こいつらも同じだな。こいつらは、一斉に水辺に向かっているんだよ。その、現実世界にいるカニが海に向かっているようにな」
夜叉が、俺の思考を読んでそう言った。そして、
「とりあえず、こいつらの姿がどんなものか、じっくり見たほうがいいだろう。こう何匹も重なっていたら、餓鬼の本来の姿がよくわからないだろ?。俺が一匹捕まえてきてやるから、じっくり観察するといい」
というと、餓鬼がたちが重なっている流れの中に入って言ったのである。

それにしても、一体何匹の餓鬼がいるのだろうか・・・。おびただしい数だ。それがもそもそとうごめき、一方向に向かって集団で動いているのである。何か強大な生物がうねっているようにも見えるし、汚れた巨大な川が流れているようにも見える。
「そうだな、まあ、こいつらの数は、億はくだらないだろう。数えたことはないが、数億匹ぐらい入るんじゃないか?」
そう言いながら戻ってきた夜叉の手には、一匹の餓鬼を掴んでいた。
「こいつらは、身体を優しくつかんでやらないと、すぐに身体がバラバラになってしまうんだ」
そう言いながら、夜叉は、そっと餓鬼を地面に置いた。その時気が付いたのだが、ここの地面は、どこもぬかるんでいるような感じがする。薄っすらと泥が地面を覆っているような、そんな感じがするのだ。決して、足がずぶずぶと入り込むようにぬかるんでいるわけではない。固い地面の上に薄っすらとぬるぬるする泥のようなものが乗っかっている、といったほうがいいだろう。なんだかベタベタもする。
「ここの地面は、こいつらの膿や腐った身体の肉で、少しぬかるんでいるんだよ。固い地面の表面をこいつらの腐った肉や膿や血が混ざったものが覆っているんだ」
俺はめまいがした。なんていうところだ。まだ地獄の方がましだったかもしれない。あそこの地面は突起物や針があって、罪人の足を刺していた。確かに罪人たちは、歩けばその針や突起物が足に刺さり痛いだろう。しかし、そんなに嫌な感じではなかった。しかし、ここは痛くはないが、気持ちが悪いのである。肉体的痛みは我慢できるかもしれないが、精神的な気持ち悪さは俺には耐えられない。俺は、再び吐き気がしてきた。横で夜叉が「全く人間はヤワだな」とあきれていた。
「まあ、いいや、ともかく餓鬼の説明をしてやる、ちゃんと聞いていろよ。失神するんじゃないぞ」
夜叉は、そう言って俺を一睨みすると、餓鬼の説明を始めた。

「当然のことながら、こいつらは元人間だ。現実世界で亡くなった後、この餓鬼界に生まれ変わった者もいれば、地獄から上がってきた者もいる。また、畜生や修羅の世界から堕ちて来た者もいる。天界から落ちてきた者もいる。天界から餓鬼に堕ちる者は、案外少なくない。まあ、いろいろな世界からやってきた連中だな、こいつらは。
姿かたちを説明しよう。身長は大きくても60センチくらいだ。ま、いつもこのように尻を地面にくっつけて座っていたり、這いずり回っていたりするから、実際にはもっと小さく見える。見たは40センチくらいかな。
この肉の塊のようなものは、身体だ。この身体は、腐っている。ほれ、ちょっとつつくと指が中にめり込んでいく。おまけに流れてくる体液は、膿だ。まあ、腐っているんだな、この身体は」
指を身体に突っ込まれた餓鬼は、「ギーギー」という声を出した。たぶん声なんだろうと思う。それにしても、平気で腐った肉の中に指を突っ込む夜叉に驚いてしまった。俺は、またまた軽く吐き気を覚えた。
「まあ、これくらいはな。平気じゃないと、こんな世界、案内できないよ。それと、さっき聞こえただろ、『ギーギー』という音。これは餓鬼の鳴き声だ。まあ、声だな。餓鬼は話すことはできない。そういう点では、地獄よりも苦しいかもな。こいつらは、『ギーギー』とか『ギャー』とかしか言えないんだよ。哀れな奴らだな」
夜叉は一呼吸置くと説明を続けた。

「さて、このボール状の腐った身体に、そのボール状の身体を一回り小さくしたくらいの大きさの頭がくっついている。見たとおり、これが頭だな。首はあるのだが・・・ちょっとまってろよ、そう〜っとやらないと肉が崩れるからな。ほら、首はこのように肉に埋もれている。まあ、首と言っても、人間の小指のような太さだからな。首と言えないかもな。でも一応、これが首だ。こんなに細いから、ちょっと頭をつつけばすぐに身体から頭は転がり落ちるな。ほれ、そこらへんで頭が転がっているだろ?。あれは、餓鬼どうしがぶつかって、転がり落ちたんだよ。まあ、すぐに近くにある頭を拾って、この肉の塊に差し込むから問題はないがな。実際にやってみようか」
そういうと、夜叉はそこに座っている餓鬼の頭を軽く小突いた。その途端、頭は身体から転げ落ちたのである。転げ落ちた頭から『ギーギー』という声がした。声が出る仕組みがどうなっているのか、よくわからない。きっと、あの細い首・・・それは喉でもあるのだろう・・・から音を出しているのだろう。
夜叉は、その落ちた頭を拾うと小指のような細い首が着いたほうを下にして、肉の塊である身体に刺した。餓鬼は、くっついたばかりの首を左右に振っていた。まるで、おもちゃである。夜叉は、「ほらね」という顔を俺に向けた。
「説明を続けるぞ。頭には当然顔がある。ちょっと見にくいか?。顔色がこんな茶色だからな。当然、この顔の肉も腐っている。だから崩れやすい。取扱注意だ。ほれ、これが口だ。左右に裂けた大きな口をしているだろ?。普段は、この口を閉じているからあまり目立たないんだな。でも、一たび口を開ければ、こんなに広がる」
夜叉は餓鬼の口を上下に引っ張った。まるで、ワニの口を開けるショーを見ているようだ。
「あまり無理やり口を開けると、顔の肉が崩れて落ちてしまうから、このくらいにしておこう。で、鼻はこれだ。ご覧のようにつぶれている。小さな穴が二つ空いているだけだ。目も普段は、開いているんだか開いていないんだかわからないくらいだが・・・、だが食い物や飲み物を見つけると、カッと見開かれる。ちょっと見せてみよう。ほら、食い物だぞ」
そういうと夜叉は、どこから持ってきたのか、饅頭のようなものを餓鬼の目の前に出した。その瞬間、餓鬼の目は飛び出るほど大きく開かれ、口は顔以上に大きく開かれたのだ。その口で、夜叉の手に乗っている饅頭に食らいつこうとした。
夜叉は、さっと手を引く。スカを食った餓鬼は、ギギギーという音を出し・・・きっと怒ったのだろう・・・細い骨のような手を振り回した。
「ふん、どうせ食えないだろ。ま、食ってみな」
夜叉は、そういうと餓鬼の大きく開かれた口に饅頭を放り込んだ。その途端、
「ギャ〜」
と叫び餓鬼は転がりまわっている。餓鬼の口からは、炎があふれていた。

もはや、身体も頭も手も足もバラバラに散らばっていた。
「餓鬼はな、物が食べられないんだよ。無理に食べると、口の中で燃えてしまうんだ。で、手足も身体から落っこちて、頭も落っこちて、この通りバラバラだ」
バラバラに散らばった身体、手足、頭はもぞもぞと動いていた。そして、次第に手足と頭は身体の方へと移動していった。やがて、腐った肉の塊に手が刺さり、その手で足を拾い身体に刺した。続いて、その細い手は頭を抱えると、自分で身体に突き刺したのである。
「餓鬼は、こうやって復活するんだ」
夜叉は、吐き捨てるようにそう言った。

つづく。

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