あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「餓鬼も死んだら終わり・・・というわけではない。地獄の罪人と一緒だな。何度も生まれ変わるんだよ。まあ、地獄のような刑罰はないがな」
夜叉はそういうが、ここでの存在自体が餓鬼の刑罰なんじゃないか、と俺は思った。目の前の光景は、まさに刑罰そのものだ。
餓鬼は、何体も重なり合って一方向に進んでいる。その方向には水辺があるという。その水辺を求めて進んでいるのだろう。何体も重なり合っている餓鬼は、お互いにのしかかり、潰しあい、足を引っ張り合い、頭を蹴り、崩されていく。バラバラになった身体は、転がっていき、自分の頭や手足を求めさらに転がっていく。転がり落ちた身体や頭は、ほかの餓鬼に蹴飛ばされる。身体はさらに転がり、肉が削げ落ち、骨となり膿や血の溜まった泥の中でバラバラとなる。しばらくすると身体が復活し、転がりながら頭を探す。転がっていた頭もほかの餓鬼に潰されたのちに、復活し身体の方向へ転がっていく。身体も頭も引き合いながら転がっていくうちに、肉は削げ落ち骨が顕わになる。さらに、ほかの餓鬼にまた踏みつぶされたり、蹴られたりもする。一度、バラバラになってしまうと、何度復活しても元の餓鬼の姿になかなか戻れない。仕方がないから、餓鬼の集団の後ろの方へ転がって復活する。ということは、求めている水辺から遠のくということだ。
つまり、餓鬼たちは、集団で水辺へ向かっているが、その間に何度も潰され、ぐちゃぐちゃにされ、元の姿に戻るために集団から離れ後退しなければいけないのだ。それを彼らは繰り返しているのだ。
ということは、ほとんど永遠に水辺に至ることは不可能であろう。同じ場所で、前と後ろが交代しあっているだけで、この集団は全くと言っていいほど前進していないのだ。これでは、水辺にはたどり着けない。これは、地獄の苦しみと変わらない。恐ろしい刑罰だ。
俺が餓鬼の集団の動きを見てそう考えていると、夜叉が言った。
「そうだ。その通りだ。こいつらは、同じところでぐるぐる回っているだけで、前には進んでいないんだよ。だが、どいつもこいつもそんなことには気が付かない。こいつらがやることと言えば、前に進む、ほかの餓鬼を蹴散らす、ほかの餓鬼の足や手を引っ張り引きずりおろす、踏みつける、それくらいしかできない。で、自分も同じようにされるんだ。こいつらは、何も考えていないし、何も考えられない。アノ腐った頭の中にある小さな脳のなかには、ただひたすら水辺に向かうことしかないんだ。それが餓鬼の刑罰だな」
あまりにも虚しく哀れな刑罰だ。俺はしばらく言葉が出なかった。

「ところで、なぜ餓鬼は水辺に向かうんですか?。そこに何かあるんですか?」
「水辺には水があるに決まっているだろ。餓鬼は、その水を求めているんだ。さっきも見ただろ?。餓鬼は、物が食べられない。何かを口に含めばそれは炎となってしまう。しかし、餓鬼はいつも飢えている。食いたくて食いたくて仕方がないんだな。だが、食えない。それは食い物が口に入れると炎と化してしまうからだ。じゃあどうすればいいか?。答えは簡単だ。炎を消す水があればいい」
「なるほど・・・。だから、こいつらは水を求めているんですね」
「そうだ。水さえあれば、物が食える・・・。そう思っているんだな、こいつらは。哀れで愚かな奴らだよ」
「えっ?、どういうことですか?。っていうことは、こいつらは水が飲めないんですか?」
「あぁ、そうだ。たとえ水辺にたどり着いても、こいつらは水が飲めないんだよ。まあ、見てみりゃあわかるさ」
そういうと夜叉は歩き始めた。餓鬼を乗り越え、たまに餓鬼を踏みつぶしながら、夜叉は前に進んでいく。踏みつぶされた餓鬼は「ギャー」とか「ギー」とか言っている。
「おい、何をボーっと突っ立ているんだ?。そんなところに突っ立ていると、餓鬼が登ってくるぞ」
少し離れたところで夜叉は振り返って俺にそう言った。餓鬼が登ってくる?俺に?・・・そう思った時だ。足元がむずむずする。下を見ると、餓鬼が俺の足にしがみついている。
「うわっ」
思わず俺は餓鬼を蹴飛ばしてしまった。蹴られた餓鬼は、サッカーボールのように飛んでいき、地面に当たってバラバラに飛び散った。血やら膿やら何やらがそのあたりに骨のように細い手足と一緒に飛び散ったのだ。
「う、うへぇ・・・。気持ちわりぃ・・・」
「あぁ、お前も立派な餓鬼殺しになったな。あははは」
一部始終を見ていた夜叉が、大きな声で笑ったのだった。
「何も気に病むことはない。それでいいんだ。こいつらは何度もここで復活したほうがいい。たんだん、強くなっていくからな」
「は?、どういうことですか?」
「あぁ、こいつらはな、死んで復活するたびに、ほんの少しずつだが、身体の肉質が固くなり、手足が取れにくくなるんだよ。簡単に言えば、身体が丈夫になる、ってことだ。だから、お前さんが餓鬼を踏みつぶしても罪の意識は持たなくていい。むしろ、こいつらはほんの少しだが丈夫になれて嬉しいだろう」
なんということだ。餓鬼は、死ねば死ぬほど強くなっていくのだ。ということは、この集団の中には、なかなか死なない強い餓鬼もいるのだ。
「あぁ、そう言うことだな。こら、登ってくるんじゃない」
夜叉は、その辺を蹴散らしながら言った。
「ということは、この餓鬼の世界に長年いる餓鬼は、結構強いってことですか?」
「そうだな。何百年もいれば、強い餓鬼になるな。ま、そういう餓鬼は、さっさと水辺について、別の道を見つけるんだけどね・・・」
な、なに?、どういうことだ? 別の道?・・・俺は訳が分からなくなってきた。
「それはな、おいおい説明するよ。ともかく水辺に行こう。じゃなきゃ、わからないからな」
夜叉はそういうと、「行くぞ」と声をかけ歩き始めた。俺も仕方がないから歩き始める。しかし、餓鬼を踏みつける、踏みつぶすというのはどうもできない。空いている隙間を見つけては、飛びながら進んだ。しかし・・・。
「あっ、踏んじまった!・・・あぁ、なんで飛び出してくるんだよぉ・・・。うへぇ、気持ちわりぃ・・・。足がぐちょぐちょじゃないか・・・」
隙間を狙って飛び跳ねたところに、餓鬼が転がってきたのだ。その餓鬼を俺は見事に踏みつぶしてしまった。その瞬間、ぐちゃっと餓鬼はつぶれ、いろいろなものが飛び散り、それは俺の足にもかかったのだ。足は餓鬼の体液やら血やら膿やらでぐちょぐちょである。気持ちが悪いことこの上ない。
「えぇ〜い、こうなったらもう同じだ!。くっそ、踏まれたくなきゃ、どくがいい!」
俺はそう叫んで、夜叉の方へどんどん進んでいった。何匹もの餓鬼が俺に踏み潰されていった・・・。
「うえ、お前さん、なかなかワルだのう・・・」
夜叉がニヤニヤしながらそう言った。
「ワルにならなきゃ、やってられませんよ。こうなりゃ、地獄の鬼の気分ですよ!」
もうヤケだ、ヤケクソだ。俺は開き直った。そうしなきゃ前には進めないのだから。

ようやく夜叉の言るところまでたどり着いた。その間、一体どれだけの餓鬼を踏みつぶし、蹴散らしただろうか・・・。いや、それは考えないことにした。そんなことを考えたら憂鬱になってしまう。あぁ、そうか、昔は夜叉たちが地獄の番人を手伝っていたと言っていた。なるほど、嫌になるわけだ。夜叉と言えども感情がある。罪人だからと言って人間を切り刻んだりするのは憂鬱になるだろう。たとえ、その昔は人間を食らっていたとしても、だ。夜叉の気持ちが少しだけわかったような気がした。
「ま、沈み込むのは勝手だがな、さっきも言ったが、じっとしていると餓鬼が登ってくるぞ。ちなみに、大量の餓鬼に登ってこられたら、俺でも太刀打ちできない。こいつらの身体は脆いが、噛みつかれると結構痛い。大量の餓鬼に一遍に噛みつかれたら、本気で戦わないと餓鬼に食われてしまう。いや、餓鬼は食えないが、俺たちは噛み千切られることになる。そうなると、死ぬからね。お前の場合は、魂を食い千切られることになるから・・・」
「ど、どうなるんですか?」
「消滅だな。消えてしまう・・・・。だから、歩くぞ・・・なんだ、そう心配するな。餓鬼は弱いし、歩みも遅い。身体に登ってきそうになったら、蹴散らせばいいんだ」
それを聞いて俺は本当にほっとした。餓鬼に食われるなんて・・・考えただけでもおぞましい。こんな奴らに・・・・。ところで、何で人間はこんな奴らになってしまうのだろうか・・・。
地獄へ落ちる理由はわかる。人を殺したり、暴力振るって人を苦しめたり、強盗殺人をしたり、何度も強姦や覗き見、不倫などをして周囲を苦しめたり、詐欺をして人を不幸に陥れたり、自殺に追い込んだり、悪徳坊主だったり・・・。まあ、地獄へ生まれかわ理由は大体納得できる。他人の生きる権利を奪ったり、他人を陥れたり、他人を不幸な目に遭わせたりすれば地獄へ落ちるのだ。
しかし、餓鬼はどうなのだろう?。なぜ、人間はこのような醜い姿になってしまうのだろうか・・・。
「それはな、こいつらは人間だった時、ドケチでがめつくて、強欲だったからさ」
夜叉が俺の考えを読んで言った。
「餓鬼になるには、強欲でなければいけない。しかも、その強欲さは、自分だけの強欲なんだよ。例えば、ある者が、一生懸命にお金を稼いだとする。そいつは周囲からは守銭奴なんて陰口を言われるくらい、強欲に金を稼いだ者だ。しかし、そいつは、そのお金を貧しい人を救うために稼いでいた。そういう者は、いくら強欲でも餓鬼にはならない。強欲に金を稼いで、その金を自分のためだけ、自分の快楽のためだけに使ったもの、そいつは餓鬼になるだろう。
金だけじゃない。食べ物に関してもそうだ。あぁ、お前は聞いたことがないか?、お釈迦様の弟子の目連さんの母親の話を・・・」
歩きながら夜叉はそう尋ねて来た。俺は知らなかったので、
「いや、聞いたことありません」
と素直に答えた。
「そうだよな、まあそういう話は今はしないだろうな・・・。クソ坊主ばかりだからな。いや、坊主の中にも知らない者がいるくらいだしな・・・。一般人が知っていることは少ないだろうな・・・」
夜叉は、きっとお釈迦様の教えや話が、今の日本人に広まっていないことを嘆いているのだろう。夜叉が言った言葉の裏には「こんなことも知らないのか・・・」という思いがにじみ出ていた。
「じゃあ、教えてやろう。立ち止まらずに聞いていな。
目連さんというのは、お釈迦様の弟子の中でもすごく優秀な方だった。俺は、直接知っているからな。その優秀さは、よくわかる。お釈迦様の弟子で、最も優秀だったのはシャーリープトラ尊者だ。この方は、智慧第一と言われた方だ。誰もが、お釈迦様の跡を継ぐのはシャーリープトラ尊者だと思っていたよ。だが、お釈迦様よりも早くに亡くなってしまったんだな・・・。そのシャーリープトラ尊者と肩を並べて優秀だったのが目連さんだ。モッガラーナ尊者というんだ。日本名は目連さんだな。目連さんは神通力が得意でな神通第一と称されていたよ。目連さんは・・・ちょっと怖かったなぁ。何もしていなんだが、金縛りにかけらたらどうしよう・・・なんて不安に思ったことがあったよ。まあ、本当は優しい方だったんだけどね・・・」
そうか、夜叉たちはもう何万年と生きているんだ。お釈迦様その人自身に諭され、人を食らうことを止めた一族なのだ。当然、お釈迦様の弟子も知っているはずである。
「あぁ、そういうことだ。俺は・・・俺たちは、お釈迦様の弟子やその弟子たち、さらにその弟子たち・・・みんな知っているよ。どんどんダメになっていくこともな。ま、たまに優秀な修行者が現れるけど、少ないんだよなぁ・・・。まあ、それはいいとして、目連さんの話だ。
目連さんは、早くに母親を亡くしていた。それは、目連さんが友人だったシャーリープトラ尊者と一緒に修行者になると言って村を出たすぐあとらしい。いろいろな聖者の下で目連さんとシャーリープトラ尊者は修行したのだが、やがてお釈迦様の弟子になるんだな。その経緯は、まあ、またの機会に話をしよう。
さて、目連さん、お釈迦様の下で修行に励み、ついに悟りを得たんだ。その際、優れた神通力も身についた。その神通力は、お釈迦様に次いで、すごい神通力だったんだ。で、目連さん、その神通力を使って母親がどこに生まれ変わったか探したんだ。そう言うことができるんだよ、神通力は。お前も少しは知っているだろ?」
夜叉にそう言われ、すっかり忘れていた女房の守護霊のじいさんのことを思い出した。天界で、いろいろな神通力を身に付ける修行をしていると言っていた。その神通力の一つに、現世で亡くなった者がどの世界へ生まれかわったかを見ることができる神通力があるのだ。夜叉が言っている神通力はその事だろう。
「そうそう、その神通力。それを使って目連さんは、母親の生まれかわり先を探ったんだ。
目連さん『母はとても優しくて働き者だったから、きっと天界にいるに違いない』そう思ってまずは天界を見てみた。とても広い天界を隅々まで探してみたのだが、母親らしき姿は見られなかった。目連さん焦って『まさか、地獄じゃないよな』と心配しながら地獄を眺めてみた。当時の地獄はそりゃもう罪人でいっぱいだったんだよ。今のこの餓鬼のようにな。罪人が重なり合うくらいいたんだ。その中を目連さんは神通力で必死に探したわけだよ。ところがいないんだな、お母さん。で、次に畜生の世界を覗いてみた。もしかしたら動物に生まれ変わっているかもしれない、昆虫かもしれない・・・と思ったんだな。しかし、動物でも昆虫でも母親は見つからなかった。ひょっとして、人間界に戻ってきているかも・・・そう思って人間界を探ってみたけど、人間にも生まれ変わっていないんだ。で、次に修羅の世界を見てみた。修羅の世界は、争いの世界だ。そんなところに母親は縁はないだろう・・・と思ったけど、一応探ってみた。しかし、やはりいない・・・。となると、残りは餓鬼の世界だけだ。目連さんは、母親は最も餓鬼とは遠いだろう、と思っていたんだな。だから、あえて餓鬼界を覗かなかった。しかも、もし母親が餓鬼界に生まれ変わったとしたら、どうやって救えばいいのかわからなかったんだ」
「悟っていたのに?」
つい俺は口をはさんでしまった。夜叉は、口を挟まれたことに嫌な顔もせず
「そうなんだ。悟っていたけど、それはわからなかったらしい。他の世界に生まれ変わっていたのなら救う方法は知っていたんだが、餓鬼だけは知らなかったんだ。当時は、餓鬼界は、地獄よりも上だけど、ある意味地獄よりも苦しいんじゃないか、と思われていたんだよ。それは餓鬼を救う方法がよくわからなかったからだ」
今、俺は餓鬼の世界にいる。その俺が、ある意味、ここは地獄よりも苦しいかも・・・と思ったのは正解だったのだ。確かに、この餓鬼たちは言葉が話せない。ギーギーと言っているだけだ。しかも、ともかく我武者羅に水辺に向かっているだけの存在だ。こんな者たちにお釈迦様の教えは通じないように思う。いや、そもそも言葉が通じるのだろうか?。地獄は、刑罰を受けながら、鬼がそれとなくヒントを与えていた。地獄の罪人は一応、聞く耳を持っていた。まあ、中には鬼の話なんぞ聞かずに逆らう者や逃げようとする者もいたが、それでも地獄は、罪人が反省するように仕向けられていた。しかし、ここは・・・今見る限りでは、反省を仕向けられているようには思えない。いや、こいつら、聞く耳なんてないだろう。自分勝手に我武者羅に、我れ先にと進んでいるだけだ。こんな者たちを救う方法なんて・・・果たしてあるのだろうか・・・。

「まあ、そういうことで餓鬼界は、人々に恐れられていたんだな」
夜叉は一つ頷くと、俺の考えていたことには触れずに話を進めた。
「目連さん、その餓鬼界を眺めたんだよ。そのころも、ここは今と変わりない世界だ。今と同じように、餓鬼どもが重なり合い、ひしめき合って水辺へと突き進んでいたんだ。この光景は、もう何千年も変わらないんだよ・・・。
その中に目連さんは、母親の姿を見つけてしまったんだな。その時の目連さんのショックは計り知れないものだった。
『な、なんで?、なんでお母さんが餓鬼に・・・』
と叫んだそうだ。で、哀れに思ったんだろうな、托鉢でいただいた食べ物を持って餓鬼界にやってきた。母親に食べさそうとしたんだな」
「え?、だけどこいつらは・・・」
「あぁ、そうだ。目連さんのお母さんも例外じゃない。目連さんが差し出した食べ物を口したとたん炎に包まれ死んでしまった。そして、また餓鬼に復活だ。目連さん、食べ物がいけなかったんだと思い、今度は水をあげた。それも結果は同じだ。水は炎と化して母親である餓鬼を焼いてしまった・・・」
餓鬼は、本当に哀れなのだ・・・俺はその時思ったのだった。


「神通力第一の目連さんでも餓鬼を救えなかったんですか?」
「あぁ、そうだ。目連さんでも、こいつら餓鬼をどうすることもできないんだよ」
「じゃあ・・・」
「だから、目連さんはお釈迦様にすがったんだ。餓鬼になってしまった母親をどうしても救いたい。いったいどうすればいいのでしょうか?とな」
「お釈迦様は何と・・・」
「お釈迦様は、目連さんに餓鬼を救う方法をこのように教えた。
『間もなく雨期明けの最初の布薩が行われる・・・布薩っていうのは、修行僧の反省会だ。月に2回、1日と15日に行われる。その布薩では、あちこちに散らばっていた修行僧もやってくる。その数10万人と言われているが、それは大げさだ。多くて数千人かな。俺たちのような者も含めてもそのくらいだな。それでもすごい数の修行者が集うのだ・・・その布薩に集まる修行者の食事の用意をしなさい、とお釈迦様は目連さんに言ったんだな。つまり、布薩に集う数千人の修行者の食事を接待しろ、というわけだ」
「ちょっと待ってください。確か、その当時の修行僧は托鉢で生活していましたよね。お金は持ってはいけないはずではないですか?。目連さんは、接待なんてできないじゃないですか。どうやって食事の用意をするんですか?」
「そうなんだよ、修行僧はお金を持っていない。だから、自分で食事の用意はできない。だから目連さんは、自ら托鉢をして食事を集め、さらに有力な信者・・・まあ、お金持ちの信者だな・・・に頼んだんだ。食事の用意をするのに協力してほしいと」
「それでもいいんですか?」
「いいんだよ。それにそうするしか方法はないだろ。有力な信者に頼む・・・それ以外、目連さんにできることは、なるべくたくさん托鉢に回ることだけだ。まあ、そうやってだな、数千人分の食事を目連さんは手配したんだよ」
「たった一人で?」
「あぁ、そうだ。今回の布薩の食事は、目連さんが彼の母親を救うためのに行うものだから、誰も手伝ってはいけないことになっていたんだ。だから、目連さん、たった一人で数千人分の食事の用意をしたんだよ。もちろん、神通力はなしだ」
これまたすごい話である。まあ、仏教の話というのは、大袈裟な部分が多い。特に数字的なことは、話半分に聞いておかないといけない。だから、この話もちょっと大袈裟さかもしれない、と俺は思ったのだが
「大袈裟じゃないぞ。まあ、伝わっている話は、10万人の修行僧だが、これは大袈裟だ。しかし、目連さんが、たった一人で布薩に参加する数千人の修行僧の食事の用意をしたのは本当の話だ。俺はこの目で見たし、この耳で聞いたからな」
夜叉は力を込めてそう言った。そうなのだ、夜叉はその時を知っているのだ。実際にその場にいたのだから。
「そういうことだ。で、布薩が終わった夜のこと、修行たちがそれぞれ自分の寝屋に入ろうとしたころだ。とても心地よい音楽が流れてきた。また、何とも言えぬ芳香が漂い始めた。すると、地面が急に明るくなって、そこから何人もの人が湧いてきたんだ。その人たちは、地面から浮き出てくると、そのまま天に昇って行ったんだな。その中には目連さんの母親もいたんだ。もちろん、目連さんはそれを見ていた。他の修行僧もそれを見た。あぁ、俺も見たんだけどね。あれはすごかったなあ。何人もの人間が、光に包まれ天に舞い上がっていくんだ。あの光景は、忘れられないね・・・」
「ということは、目連さんの母親は助かったわけですね」
「あぁ、そうだ。天界へと生まれ変わったんだな。そういえば、目連さんは、天界に昇っていく母親を見て、思わず踊り出したんだぜ」
「目連さんが・・・ですか?。神通力第一と言われた高弟ですよね?。しかも、悟りを得ていた人でしょ?。そんな修行者が踊ったんですか?」
「あぁ、そうだ。嬉しさのあまり、両手をあげて、ぴょんぴょん跳ねたんだ。『あぁ、よかったよかった。嬉しい嬉しい』って言いながら。それを見ていたほかの修行僧も何だか楽しくなってな、一緒に踊り出した。その時には、祇園精舎が光り輝いていた、精舎から天人が昇っていった、なんだか精舎が騒がしい・・・ってんで、多くの街の人たちも集まっていたんだ。彼らも、目連さんや修行僧につられて、踊り始めた。いつの間にか、祇園精舎は踊りの輪ができていたんだよ。実は、それが現世で行われる盆踊りのもとさ」
「えっ?、そうなんですか?。盆踊りにはそんな話があったんですか?」
「あぁ、そうだ。いいか目連さんが母親を救おうとした布薩は、雨期明けの最初の15日だった。この話は当然ながら、仏教伝来とともに日本にも伝わっている。目連さんにならって、雨期明けの15日は、多くの人に食事の接待をしようとお寺で始まったんだな。で、さらに目連さんにならって、夜通し踊ろうじゃないか、ということになった。これがお盆の始まりであり、盆踊りの始まりさ。日本では、梅雨明けの最初の15日にこれが行われた。だからお盆の行事は、8月15日が、本当はメインなんだよ。そこから、時代と共にいろいろな行事が付け加えられるようになったんだよ」
「それがお盆の行事の始まりだったのですか・・・」
「そうだ、だから、本来お盆は餓鬼を救うためにある。だから、施餓鬼がこの季節に行われるんだよ。ま、余談だがな・・・」
夜叉はそういうとちょっと照れた顔をした。

「ところで、ほかの地面から浮いてきた人は、どういう人なんですか?」
俺は話を戻した。
「それはな、目連さんに協力して食事の用意をした人たちの先祖のうちの一人だな。数多くいる先祖の中には、餓鬼界に落ちている者もいるんだよ。目連さんに協力をした金持ちや商人、托鉢に応じた人たちの先祖にも餓鬼界に落ちている者は一人や二人はいるんだよ。そういう連中も、一緒に救われたんだな」
「なるほど・・・、目連さんに協力をしたことによって、その人たち先祖の中で餓鬼の世界に堕ちている者も救われた、ということですね」
夜叉は、大きくうなずいた。そして、
「こいつらはな、こいつらの子孫や縁者が、坊さんに食事の接待をすれば、救われるんだ。もしくは、お寺に見返りのない、文句や不平不満のない、純粋な寄付をすれば救われるんだよ」
と餓鬼を蹴飛ばしながらそう言ったのだった。

「純粋な寄付・・・ですか?」
「あぁ、そうだ。一般的にな、お寺が寄付金をよこせ、というときは、そのお寺の修繕費用のためか、建て替え費用のためだな。たまに、本堂じゃなく庫裡の建て替えなんかでも寄付を要求する寺があるがな。そういう寄付の場合、檀家たちはたいてい文句を言う。しかもそういう寄付は高額なことが多い。今のご時世、そんな金は出てこないのが現状だ。だから、たいていの場合、檀家は文句を言うな。そもそもお寺側が、普段から節約して修繕費などを貯金しておけばいいのに、それをしないんだな。高級車を乗り回したり、贅沢な衣を買ったり、奥さんや子供に贅沢をさせたりしているんだな。少しは坊さんたちも節約して貯金していれば、そんな文句は出ない。だから、こうした文句のくっついている寄付金では、もし先祖の中に餓鬼がいたとしても、その先祖は救われないんだ。餓鬼を救うには、純粋な寄付金・布施じゃないといけない。もちろん、見返りなんぞも求めてはいけない。純粋な布施だからこそ、その人の先祖に餓鬼がいたら、その餓鬼を救うことができるんだ」
つまり。餓鬼を救うには、純粋な布施しかない、ということなのだ。
もし、我が家の先祖に餓鬼になっている者がいたとしたら・・・。その餓鬼を救うには、お寺に何の見返りも期待しない、何の要求もしない、単なる寄付をするしか方法はないということだ。
「しかし、自分の家の先祖が餓鬼になっているかどうかなんて、普通はわからないですよね?」
「そうだな。だがな、たいていどの家でも、その家の先祖の中には、一人や二人は餓鬼がいるんだよ」
「でも、それって気がつなかいじゃないですか?」
「そうだな・・・どう言えばいいかな・・・」
そういうと、夜叉は餓鬼を蹴散らしながら、「う〜ん」と唸って考え込んだ。当たりは、餓鬼がガチャガチャと動く音と、時折聞こえる「ぎー」という餓鬼の叫び声だけになった。あぁ、それと我々が餓鬼を踏みつぶす音も聞こえている。結構、不気味な世界である。と、その時ふと思った。ひょっとしたら、この餓鬼たちの中に俺の先祖もいるかもしれない、ひょっとしたらその先祖を蹴飛ばしたり潰したりしたのか?・・・と。俺は不安になってきた。

「そうだな、例えばだ」
急に夜叉が話し始めた。
「こういうことは経験ないか?。例えばな、無性に物が欲しいとか、無性にやりたいことがあって、それにとらわれてしまうとか、そんなことは経験ないか?。あるいは、一つのことに執着をしてしまい、忘れられないとか、そればかりしてしまうとか・・・」
夜叉の言いたいことは、何となくわかったので、俺は考えてみた。俺自身は、もともと何かに熱中する方ではない。中学高校時代も周囲の連中は、アイドルに熱をあげていたが、俺はそう言うことはなかった。中には、性的に目覚めたヤツもいて、やたら性的に関連したものを集めていたヤツもいた。そう言えば、そういう何かに熱中しているヤツラの中には、高額で手に入らないグッズを万引きしてしまう者もいた。どうしても欲しくて、ついつい手を出してしまった・・・という者もいたのだ。
そう振り返ってみると、会社にもやたらガツガツしていたヤツがいた。そいつは、他人のスクープを横取りして、自分の手柄にしてしまうようなヤツだった。そういえば、そいつは会社の金だからといって、しょっちゅう飲みに言っていたし、風俗にも取材と称して会社の金で行っていた。特ダネを掴むと、相手に記事にしない代わりに金を要求することもあった。まあ、そうしたいろいろな悪事が発覚して結局、会社をクビになったのだが、嫌なヤツだったことは確かだ。
「そうですね、確かにそういう人間はいましたよ」
俺はそう言って、こんなヤツがいた・・・と話した。もっとも、夜叉は俺の心を読んでいるから、説明する必要はないのだが・・・。
「そういう物事や金などに執着して、周りを害する者の先祖には、必ず餓鬼がいるんだよ。先祖に餓鬼がいるからこそ、そういうヤツらが生まれてくるんだけどな。で、そいつらも死後、餓鬼になってしまうんだな」
ということは、俺の先祖には餓鬼はいなそうだ。なんせ、俺は妙にあさっりしたところがある。何事も熱中しない方だ。だから、周りから冷めてるだの冷たいだの揶揄されることもある。ま、いずれにせよ、俺の先祖には餓鬼はいなさそうだ。一安心である。

「そもそもだ、なんでこんな醜い姿になると思う?」
夜叉は、餓鬼を蹴り飛ばしながら俺に聞いてきた。
今までの話から察するに、どうやら執着心が強すぎて、周りに迷惑をかけた者が餓鬼になるように思う。そう思ったので、そのまま夜叉に言ってみた。
「そうだ、その通りだ。こいつらは、生前、物に執着しすぎて、周りものを不幸にしたり、迷惑をかけた者たちなんだよ」
「じゃあ、目連さんの母親も?」
「あぁそうだ。目連さんの母親は、目連さんにはとても優しかった。いい母親だったんだな。だから、目連さんも母親がどこに生まれ変わったか探したとき、真っ先に天界を探したんだな。しかし、いい母親を演じていたのは、目連さんの前だけだんだ。実際は、ドケチでうるさい嫌なオバサンだったんだよ。目連さんの母親は、托鉢に来る修行者は悉く追い返していた。で、目連さんら子供たちに聞こえないようにこう言うんだ。
『お前ら、他人の食い物を当てにしないで、てめぇで働いて食い物を手に入れな。このクズどもめ!』
ものすごい形相でな、そう言うんだよ。たいていの修行者はビビって二度と目連さんの家には来なくなる。また、目連さんの母親は、自分で小さな畑で野菜などを作っていたんだが、そうした野菜が余分にとれたときでも決してよその家にあげようとはしなかったんだな。よその家から、『たくさん取れたね〜』なんて言われようものなら、『あれは全部家で食べてしまったよ』と慌てて言い返した。実際は、食べきれずに腐らせたものが山ほどあったんだがな。目連さんの母親は、他人に物をやる、あげる、という行為が大嫌いだったんだな。その反面、他人からモノをもらうことは大好きだった。たとえそれがいらないものであっても、ただで配っているモノなら、何でももらったんだな。他人が、たくさん野菜などを抱えていたら、『どうれ、私が持ってあげるよ』と親切に言い寄って、持ってあげた野菜などを半ば強引に『手伝ってあげたんだから、これはもらっといてやるよ』と、そのままもらってきてしまうんだ。まあ、すごいせこい人だったなぁ。目連さんは知らなかっただろうけど、そこいらでは有名なドケチババアだったよ。そうした話が、俺の耳にも入ってきたくらいだからな、相当なドケチだったと思うよ。で、その結果が餓鬼界さ。こいつらは、ドケチとか、何かものすごく執着したものたちなんだよ」
夜叉の話を聞いて、俺は考え込んだ。ということは、あのクビになったヤツも、いずれはここに来るのかもしれない。いや、ほかにもアイドルに夢中になって万引きを繰り返した連中も、ここに来るかもしれない。いや、待てよ・・・。現世で問題になっているゴミ屋敷の住人なんて、餓鬼確実じゃないか?。なんでも拾い集めてきて、「これは俺の大事なものだ」と叫び、周囲に迷惑をかけ、誰にも手を出させないようにしている・・・。あぁ、確実に餓鬼界だな、そういう連中は。というか、そういう者たちは、その者たちの先祖の中にも餓鬼がいるのだ。先祖の中に餓鬼がいるから、そういう何かに過度に執着してしまう者が生まれてくるのだろう。つまり、餓鬼の悪循環が起きているのである。
「そういうことだな」
夜叉は、俺の心を読んでそう言ったが、ちょっと深刻な顔をして付け加えた。
「餓鬼になるのは、実は簡単なんだよ。お前が思っているような者だけじゃない、ちょっとした執着心から餓鬼になってしまう者もいるんだ。まあ、そういう者は、何かのきっかけで気づけばすぐに救われるけどな」
「どういうことですか?」
「なに、簡単なことだよ。例えばな、『食べ物は、こういう環境で作られたものしか食べません』なんて言って、妙にこだわっている人たちがいるだろ?。そういう人たちも一種の餓鬼なんだよ。まあ、周りに迷惑をかけずに、一人でひっそりとこだわっているならいいんだが、それを家族に押し付けたり、周りの人に押し付けたりするのはな・・・どうかな?、と思うんだな。一歩間違えれば、餓鬼の世界さ。
例えばな、教育にうるさい母親がいるだろ?。学生の間は、勉強だけしていればよろしい、友達と遊び行くのは、働き始めてからでいい、恋愛なんてもってのほか、学生がやるべきことは勉強だけです・・・なんて母親がいるとする。それはまさしく餓鬼だよな。そんな母親に育てられた子供たちは、学生の間に育つはずの感情が育たなくなるよな。他人とどう接していいかわからなくなってしまう。ましてや異性となると、もう大変だろうな。つまり、そうした母親は、アンバランスな人間を作ってしまうわけだ。これも大きな罪だよな。
例えば、好きな人ができて追いかける。やがてストーカーになってしまう。ストーカーは、まさしく餓鬼だよ。一人の人間を追いかけて、その人に執着してしまうんだからな。で、やがて相手に危害を加えるようなことまでしてしまう。餓鬼そのものだな。
酒が好きで、いろいろな酒を飲んでいるうちに、仕事も忘れアル中になってしまう・・・これも餓鬼だな。
ダイエットにこだわって、もう痩せているのにさらに痩せようとして拒食症になってしまう。これも一種の餓鬼だ。逆に、食べることが大好きで、どんどん太ってしまい、医者や周りが痩せるように言っても言うことを聞かず食べ続けてしまう者、そういう者も餓鬼だよね。
いいか、程度をわきまえず、過ぎてしまえば餓鬼になるんだ。餓鬼になるのは簡単なんだよ。周囲をちょっと見渡せば、餓鬼なんじゃないか?と思われる人は結構いるんじゃないか?。餓鬼の恐ろしさは、ここにあるんだよ。誰でも簡単になってしまう、というところにな」
夜叉は、そういうと苦々しい顔をして俺を見つめたのだった。



誰でも簡単に餓鬼になってしまう。しかも死んでからではなく、生きているうちに・・・。
そう思えば、今の世の中、餓鬼か?と思えるような人が結構いるように思えてきた。何か一つのことにこだわって、それに夢中になってしまう・・・。趣味のうちはいいのだが、それがいつの間にかエスカレートして周囲の人に迷惑をかけてしまう。ゴミを集めるゴミ屋敷に住む人、引きこもってネットばかり見ている人、あるいは働かずゲームばかりしている人、遊びにばかり張り切る人、色事に夢中になる人、やたらとクレームばかりつける人、子供の教育にうるさい人、これじゃなきゃダメというこだわりを持った人・・・。そんな人は、巷にあふれている。こうした人たちは、餓鬼なのかもしれない。ということは、街には餓鬼がいっぱいいる、ということだ。
「だから、景気がパッとしないのかなぁ・・・、世の中に餓鬼がはびこっていたりして・・・」
俺は、ふとつぶやいていた。
「なんだ、わかっているじゃないか」
夜叉は、感心したように俺の顔を見た。
「わかっているって・・・?」
「あてずっぽうで言ったのか?。まあいい、きっと感覚的に気付いているんだろうな。いいか、日本はバブル時代ってぇのがあっただろ?。実は、あのバブルの頃に日本には餓鬼があふれかえったんだよ。あの頃は、金に土地に株に餓鬼が群がったんだ。いや、餓鬼になった人間が群がったんだな。いや、餓鬼にとり憑かれた人間があふれかえった、ともいえるか。で、挙句の果てには、その餓鬼に食われて、餓鬼が残した貧乏神がはびこった。おかげでたくさんの企業が倒産した。ま、未だにその影響が残っているともいえる。現実世界はまだまだ餓鬼がはびこっているな」
夜叉はしみじみとそう言った。しかし、今の話、何かおかしくないか・・・?
「うん?、ちょっと待ってください。餓鬼が現実世界にやってきていたんですか?。なんかおかしくないですか、その話。餓鬼にとり憑かれたって・・・どういうことですか?。それとも、あの頃の人間はみんな餓鬼になってしまったということですか?」
「いやいや、そもそもお前さんが言い出したことじゃないか、世の中に餓鬼がはびこっていたりして・・・って。ふん、やっぱりあてずっぽうというか、そんな気がした、ということだったのか」
「えっ?、どういうことですか?。意味が分かりませんよ」
「あのな、実はな、ここにいる餓鬼の中には、人間界へ行ってしまうヤツらもいるんだよ。で、人間界に住みついたり、人間にとり憑いたりすることもあるんだ」
なぜか、夜叉はむすっとした顔をしてそう言った。
「まだ、話したくはなかったんだがな。お前さんが余計なことをいうから、順番が変わっちまった」
「えつ?、俺のせいですか?。順番って・・・」
「話には順番があるってもんだ。う〜ん、どっちから話すべきか・・・。まあ、いい。先に人間界へ行ってしまう餓鬼の話をするか」
夜叉は、そういうと、ちょっと遠くを眺め始めた。

「実は、もうそろそろ川が近い。こいつらのゴールも、すぐそこに来ているってことだ」
「でもこいつら餓鬼は、川についても何もできないんじゃ・・・」
「そうだ。川の水を飲もうとしても焼けてしまうだけだ。しかし、川の中には入ることができる」
「川に入れるんだ、へぇ〜」
なぜか、俺は感心してしまった。
「あぁ、水を飲まなければな。それに川と言ってもめちゃくちゃ浅い。こいつらが歩いて渡れるような深さしかない。水たまり程度の深さの川だ。幅もそんなに広くはない。ま、小川ってことはないが・・・そうだな、川幅は10メートルくらいだろうか」
「そんなに大きな川じゃないですね」
「あぁ、しかも浅い。で、こいつらは、川の流れに乗って下流へ歩き始めるんだよ。ところで、お前さんは、ここに川があること自体、何とも思わないのか?」
「何とも思わないのか・・・と言われても、そういうものかな、としか・・・。だって、地獄だっていろいろなものがあったし。池や山、葉っぱが刃物の木とか・・・。まあ、川くらいあってもいいかなとしか思いませんよ」
「あぁ、まあそうだな。地獄に比べれば、ここには川しかないからな・・・。で、その川なんだが・・・、あぁ、見えて来たな、あれだ」
夜叉が指さしたほうに、確かに川らしきものが見えた。と言っても、水がほんのわずかな光に反射しているから、川なんだろうなと認識できるだけだ。川までは、まだ少し距離があった。夜叉は、ちょっと小走りになり、川へ近付いていった。俺もそのあとに続いた。
「ほれ、川だろ。しかも浅い」
夜叉は、川の中に立っていた。夜叉の足元には、餓鬼たちが群がっている。中には、川の水を飲み、燃えている餓鬼もいた。
川の水は、夜叉の足首くらいしかなかった。その浅い川に、餓鬼が群がっているのだ。
「本当だ、川だ。ごく普通の川ですね」
俺は、周辺の餓鬼を蹴散らして川辺にしゃがみ、水を手ですくってみた。ただの水である。匂いを嗅いでみたが、何の匂いもしない。さすがに飲む気にはならなかったが、きれいな水であることは確かだ。俺は立ち上がって、川の流れていく方向を眺めた。そこには、やはり餓鬼たちがうごめいていた。餓鬼たちは、重なり合いながら、下流に向かっているようだった。彼らは、もう水を飲むことはなかった。どうやら餓鬼でも学習するらしい。
「そう、ごく普通の川だ。水もきれいだ。飲めるくらいにな。餓鬼は飲めないが・・・。さすがに餓鬼どもも、水を飲めば焼け死ぬ、ということは学ぶんだよ。だから、川にたどり着いたばかりの餓鬼は、水を飲んで焼け死ぬが、同じことを2〜3回繰り返すうちに、水は飲めないとわかるようだ。で、やることが無くなった餓鬼どもは、川の流れに従って、下流へと歩き始める。他にやることも無いしな。さて、この川は、果たしてどこへ続いているのか・・・」
川の中に立ったまま、下流を見て夜叉はそう言った。

「実は、この川はいろいろな世界に通じている」
「いろいろな世界って・・・人間界とか?」
「あぁ、そうだ。人間界にも通じている。地獄にも通じている・・・。つまり、この川は、天界以外の世界に通じているんだ。地獄・畜生・修羅・人間・・・それらの世界に通じているんだよ」
「え〜っと、ということは、それらの世界へ餓鬼は行ける、ということですよね。あぁ、それでさっき言ったようなことが・・・日本に餓鬼があふれかえったとか、人間にとり憑いたとか・・・あったわけですね」
「そういうことだ。この川を下流に沿って歩いていくんだよ。するとな、ぼ〜っと光った場所がある。まあ、川の中を歩いていこうじゃないか、餓鬼と一緒にな」
夜叉がそういうので、俺も川の中に入っていった。川は特に歩きにくい、ということはない。普通に歩ける。水も浅く、足首くらいしかないからどうということはない。
「ところで、この川はどこから流れてきているんですか?。下流は何となく想像ができます。最後は、きっと地獄へ落ちているんじゃないかと思うんですよね。でも川の源流はどこなのか、想像がつきません」
「そう、お前さんの言うとおり、この川の行く先は、最後は地獄だ。途中で川から上がって横道・・・ぼ〜っと光ったところ・・・にそれれば地獄へ落ちることはないが、もっと先があるかも、もっと先はいいところかも、と欲張って最後まで川から出ないと・・・地獄へ行く滝に落ちることになっている。餓鬼界から地獄界へ転落だな。あまり欲が深いとそうなるんだ。ま、餓鬼だけに、そういう連中が多いけどな。で、この川の源流だが、それは天界だ。天界の清浄な水がここに流れ込んできている。天界の川や湖、池の水など、あらゆる水は、不浄な水と清浄な水とに分けられ、不浄な水は地獄へ、清浄な水はここ餓鬼界へ流れてきているんだ。餓鬼を清めるために・・・な。もっとも、清められる餓鬼は少ないがな・・・」
この川で清められる餓鬼がいるのだ。清められるということは・・・救われるということなのだろうか?
「そういうことだ。この水で救われる餓鬼もいるんだよ」
「しかし、餓鬼は、水が飲めませんよ。清められると言っても・・・どうやって?。餓鬼は、水の中に入ってもきれいになっていませんよ」
おれは、周辺を見回してそう言った。どの餓鬼も、ギーギー言いながら、重なり合って、お互いを蹴り倒しながら下流へと向かっている。川に向かっていた餓鬼の行進と同じだ。こいつら、陸の上でも川の中でも全く同じことをしているにすぎないのだ。
「餓鬼が救われるには、その子孫がお寺に施しをすればいい、といったよな。見返りのない寄付をすれば、その家の先祖で餓鬼になった者は、すぐに救われる」「目連さんの母親のように」
「そうだ。そして、餓鬼を救う方法にはもう一つあるんだ。それは、お経のあがった供物を餓鬼に与えること、だ」
「お経のあがった供物?、なんですかそれは?」
「まあ、見たほうが早いだろう」
夜叉はそういうと、どこに隠してあったのか、また饅頭のようなものを取り出し、手のひらの上に載せている。
「これは、前に見せた饅頭とは違う。お経のあがった饅頭だ。つまり、お坊さんがお経をあげる場所・・・寺の本堂だな・・・にお供えしてあった饅頭だ」
なるほど、お経のあがった供物とは、お寺にお供えされた食べ物のことなのだ。
「さて、これを餓鬼に与えてみよう」
夜叉は、そう言って饅頭を放り投げた。一斉に餓鬼がその饅頭に群がる。あっという間に饅頭は、細かくなり、小さくなったかけらを餓鬼たちが手にしていた。そのかけらを餓鬼たちは口にした。
燃えない。饅頭は、炎と化しなかった。それどころか、ほんの小さな饅頭のかけらを口にしたことで、とても満足した顔になったのだ。饅頭のかけらを口にした餓鬼たちは、下流へ行進する餓鬼の群れから外れ、川岸に上がり座り込んでいた。彼らは、みんな嬉しそうな、穏やかな顔になっていた。
やがて、彼らの身体が輝きだした。そして、す〜っと消えていったのだ。
「ふむ、いい感じで生まれ変わっていったな。ま、どこへ行ったかは知らないがな・・・」
夜叉は、満足そうにそういうと、俺の顔を見てニコリと微笑んだのだった。

「生まれ変わったって・・・」
「あぁ、生まれかわったんだ。つまり、ここでの生を終えて、違う世界・・・畜生界なのか、修羅界なのか、人間界なのか、はたまた天界なのか・・・へ生まれかわったんだよ。どこへ行ったかは知らない。だが、餓鬼界より上へは行っているのは間違いない。つまり、俺が投げた饅頭を食った餓鬼たちは、餓鬼界から救われたんだよ」
「お経のあがった饅頭をたべたことで?」
「そういうことだ」
一体どんな仕組みがそこにあるのか・・・?。なぜ、お経が上がった饅頭で餓鬼が救われたのか、俺にはよくわからなかった。
「餓鬼を救う方法には、二つあるんだ。一つは目連さんがやった方法。つまり、見返りを期待しない寄付金をお寺にすることだな。もう一つは、お経のあがった供物を餓鬼に与える、という方法だ。これが施餓鬼と言われるものだ」
「施餓鬼・・・ですか・・・。あぁ、何となくですが、聞いたことがあります。確か先輩の寺でも施餓鬼をやっていたような・・・」
「やっているんだよ。真言宗、禅宗、天台宗などの宗派は施餓鬼を行う。浄土系や真宗系はやらない。施餓鬼も、夏に行う寺が多いな、お盆の行事として」
そういえば、先輩のお寺でもお盆前に施餓鬼法会を行っていた。俺は行ったことはないが、何かの用事で先輩の寺に行ったとき、法会の案内の看板が出ていたような気がする。うん、確かにあの看板には、施餓鬼法会と書いてあった。
「餓鬼が唯一食べられるものは、お経のあがった供物だ。水もそうだ。お経のあがった水ならば飲むことができる。つまり、お寺にお供えされた食べ物や飲み物ならば、餓鬼は食べられるんだ」
「しかし、お寺にお供えされた食べ物は、ここには届きませんよね?。ならば、餓鬼は食べられませんよ。それでは救われないですよね?」
「あぁ、そうだな。供物そのものは届かない。だが、『気』は届くんだ」
「き?。きってなんですか?、き?」
「まあ、匂いというかな。亡くなった者は、食べ物の香りや『気』・・・気配の『気』だ。それを食べる。食べるというか、エネルギーのもとにしている。お前さんだって、線香の香りや気で救われたことがあるだろ?」
そう言えば、亡くなってすぐのことだ。急激に腹が減ったような状態になり、慌てて線香の煙を吸ったようなことがあった。なるほど、それと同じ仕組みなのか。こいつら餓鬼もお寺に供えられた供物の気や香りを吸って魂を維持しているのだ。
「う〜ん、ちょっと違うがな。こいつらは、別に食べ物の気やにおいを吸わなくても生きている。それが罰だからな。こいつらは、欲望が強すぎるという罪で、餓鬼になったんだ。だから、餓鬼としての命は、何も食さなくても維持できる。それが罰だからだ。餓鬼として苦しみながら生き続けること自体が罰だからな。だが、もし子孫が、お寺の施餓鬼法会や、もしくは施餓鬼の供養を頼んだとしたら、こいつらのもとにお寺に上がった・・・つまりお経のあがった・・・供物が届けられる。もちろん、個人指定だ。数多くいる餓鬼のうち、その家の先祖の餓鬼にのみ、その供物の気は届くんだな。気が届いた餓鬼は、その供物の気をいただく。すると・・・」
「さっきみたいに、光り輝いてスーッと消えていくわけですね。で、どこかに生まれ変わる」
「そういうことだ。これが餓鬼を救う方法・・・施餓鬼だ」
「この方法は、どうやって生まれたんですか? 目連さんとは別ですよね?」
「この施餓鬼はな、やっぱりお釈迦様の弟子が絡んでいる。アーナンダ尊者だ」
俺は、少ない仏教の知識を引っ張り出そうとした。アーナンダ尊者・・・確かお釈迦様の侍者をしていたとか・・・だったかな?
「そうだ、お釈迦様が大涅槃に入るまで、侍者を勤めたお弟子さんだよ。優しい方で、俺は好きだったな。アーナンダ尊者が正式にお釈迦様の跡を継いでいたら、大乗仏教はもっと早く起きていただろうな。マハーカッサパ尊者が後を継いだもんだから、戒律主義がはびこってしまった・・・。あぁ、まあ、それはいいんだけどな。そのアーナンダ尊者にやってきた災難が元で、施餓鬼の作法が生まれたんだ」
夜叉は川の中にたたずんで、遠くを見るような目をしたのだった。


「お釈迦様やアーナンダ尊者たち、多くの弟子がマガダ国の竹林精舎にいた時のことだ」
夜叉は川の流れていく先を見つめながら話し始めた。
「ある日の未明のことだ。餓鬼が一匹、アーナンダ尊者の枕元にやってきた。で、こうささやいたんだ。『お前は三日後に死ぬ。死ぬんだ。助かりたければ、我を救え。ケケケケケ』
アーナンダ尊者、それから眠れなくなってしまった。魔物のたわごとだ、とも思ったそうだが、どうしても不安だったので、朝一にお釈迦様に、このことを尋ねた。するとお釈迦様、『餓鬼の言ったことは本当だ。アーナンダよ、すぐに食べ物をたくさん集め、精舎の修行者たちに施すのだ。そして、川べりに行き、餓鬼に施す作法を行うのだ。その作法は、その時に教えよう』
驚いたアーナンダ尊者、さっそく托鉢しまくり、精舎にいる修行者分以上の食事を集めてきた。お釈迦様は、余った食事を川べりに持っていくよう指示した。そこで、餓鬼に施す作法・・・真言や印だな・・・を教えたんだよ。アーナン尊者は、教えられたとおり、餓鬼に施しをした。で、三日後に死ぬはずだった難を逃れたんだ。それどころじゃない、アーナンダ尊者は、なんと120歳まで生きたんだ。この時、お釈迦様が教えた餓鬼への施しの作法が、施餓鬼作法なんだよ。で、それを行うのが「お施餓鬼」という行事だ。この行事を行うことで、参拝者は長寿を得られるという功徳があるんだよ」
「なるほど、その作法が、お経があがった食べ物や飲み水を作るんですね。で、それを餓鬼が食べるんだ」
「そう言うことだ。餓鬼は、そうした食べ物・・・お経があがった食べ物・・・なら食べることができる。しかも、それは餓鬼を餓鬼界から救うことにもなる。さっき見たように、お経があがった食べ物を食べた餓鬼は、違う世界へ生まれ変わることができるんだ」
先輩の寺でやっていた施餓鬼会という行事には、そういう意味があったのだ。
「じゃあ、たとえば先輩のお寺でやっているような施餓鬼法会に参加した人たちは、長寿になるんですか?」
「まあな、そう言われているがな、絶対に、必ずしも長寿になるとは限らんな。それ以外の徳を得ることもある。たとえば、食に困らないとか、餓鬼になりにくくなるとか、ちょっとした幸運に恵まれるとか・・・な。アーナンダ尊者の場合は、出家修行者の食事も用意しているからな。しかも一人で。アーナンダ尊者がやったくらいの施しをすれば、120歳くらいまで生きられる長寿になるかもな。ただし、金をかけないことが大事だ」
あぁ、そうか・・・。アーナンダ尊者は、托鉢で食事を用意したのだ。お金で買ったわけではない。そこがポイントだ。今の施餓鬼法会は、お布施をする。施餓鬼供養を行ってもらうために、お布施を出す。まあ、それが餓鬼への食事の代わりになっているのだろう。もし、誰かがお金をかけず、家々を回り現代人が食べられるような食事を集めてきて、その食事を多くの人に施したならば・・・
「アーナンダ尊者のようになれるさ」
夜叉は俺の考えを読み取ってそう言ったのだった。

「ちなみに、目連尊者の場合も同じだな。金をかけず、何千人の人に食事の用意をしたならば、その家の先祖に餓鬼の人がいたとしたら、その餓鬼の人は一発で天界へ行けるな」
実際は、そんなことはできない。ならば、餓鬼を救うことは、難しいことになるのではないのか・・・。
夜叉は話を続けた。
「現実世界で、施餓鬼法をが行われると、ここの世界の餓鬼どものもとにお経のあがった供物の気が届く。その気を餓鬼どもは吸うんだな。また、この川の水も施餓鬼法会が行われたことによって、餓鬼が飲める水に一時的に変化するんだ。で、その水を飲んだり、水の中に入ったりして餓鬼は清められていくわけだ。ただし、一回だけの施餓鬼法会で餓鬼が他の世界へ生まれ変わることができるわけじゃない。積み重ねが必要なんだ」
「積み重ね・・・ですか?。それはどういうことなんですか?」
「餓鬼どもは、施餓鬼法会の功徳によってお経のあがった供物の気を得たり、お経のあがった川の水で清められたりする。しかし、一回だけの施餓鬼法会の功徳では、他の世界へ生まれ変わるには足らないんだ。それだけでは、罪は消えない。何年もお経のあがった供物の気を得たり、川の水で清められたりしながら次第に餓鬼の罪が消えていくんだよ。で、その罪がきれいに消えた時、他の世界へ生まれ変わることができるんだな。さっき、俺がお経のあがった饅頭を投げただろ。で、その饅頭を食った餓鬼は他の世界へと生まれ変わっていった。いいか、あの饅頭を食うことができた餓鬼は、もうすでに餓鬼としての罪が消えかかっていた餓鬼どもなんだ。そうじゃなければ、俺が投げた饅頭を手にすることはできないんだよ。つまり、あの饅頭を食えなかった餓鬼は、まだまだここでの修行が足りない餓鬼どもなんだ。もっと、お経のあがった供物の気をすい、お経のあがった水で清められないといけないんだ」
「あぁ、そう言うことだったんですか・・・。何年もここで、現実世界で施餓鬼法会が行われるたびに届く、お経のあがった供物の気や水で清められて、やがて罪が無くなったら違う世界へ生まれ変わっていくんですね・・・。いや、ちょっと待ってください。ということは、この餓鬼どもは、この川べりにいたほうが救われるんじゃないですか?」
「ほう、いいところに気が付いたな。その通りだ。ああやって、川の流れに沿って、下流へと移動する餓鬼には・・・本当の救いはないんだな。あいつらは、別の世界へ行ってしまい、そこで更なる苦・・・罰だな・・・を受けることになるんだ」
「そのことを餓鬼どもは・・・」
「知るわけないだろ。こいつらは、食うこと、飲むこと、ここから出たい、その三つの欲しかないんだよ。そのためなら、周囲の餓鬼どもを殺してもいい、そう思っている連中だ。自分のことしかない。たまたま川の流れに沿って下流へ行かず、川べりに残っている餓鬼たちは、その家の子孫が少しは仏縁があり、少しは先祖供養だの施餓鬼だのをしている家なんだよ」
「少しは・・・ですか」
「あぁ、そうだ。少しは、だ。強く仏縁があり、よく先祖の供養をし、よく仏法を聞いて行いを正しくしている家の先祖は、そもそもこの世界には来ないだろ。まれに、頑固で強欲なジジイだのババアがいて、そいつが死んでこの世界に来たとしてもだな、正しい仏教を信じ、熱心に先祖供養を行い、施餓鬼法会にも参加し、仏教の教えをよく聞き、自分の行いを正していれば、頑固で強欲なジジイやババアだって、早急に救われるさ」
それはそうだ。仏教を信じない、あるいは、先祖供養を怠っている、そういう家で、頑固で強欲な者がいたならば、その人は死んでからこの餓鬼界にやってくるのだ。ちゃんと先祖供養を怠らず、お寺の行事にも参拝して、説教を聞き、行いを正しているような人の家には、餓鬼になるような先祖はいないだろう。きっと、地獄に落ちている先祖もいないだろう。
で、少しは先祖供養を行ったり、仏事を行っている家の先祖に餓鬼になっている先祖がいた場合、その餓鬼は川べりでお経のあがった供物が届くのを待っているのだ。
「そう言うことだ。この川べりでおとなしくしている餓鬼どもの子孫は、少しは仏事を行っているか、もしくは最近仏教に目覚めたか、だな。川の下流へ進んでいる餓鬼どもの子孫は、仏事をそんなに行わない家か、全く行わない家か、なんだよ。仏事を行わない子孫の、その差によって、下流へ行く餓鬼どもの行き先も変わってくるという仕組みさ」
これが餓鬼界の仕組みなのである。

餓鬼界へ生まれ変わる者は、生きているとき強欲で、ケチで、自分勝手で、頑固で執念深い者である。そういう者は、死後に餓鬼界にやってくる。
ここでの罰は、物が食べられない、水などの水分も取れない。腐った身体を持ち、簡単に壊れてしまう。ちょっとしたことで身体はバラバラになり死んでしまうのだ。が、すぐに元に戻り、また水や食べものを求めて行進するのだ。お互いに殴りあい、殺しあって・・・。
やがて求めていた水がある川に到着するが、その水も当然飲めない。飲めば燃えて死んでしまう。水を飲んで焼け死ぬ・・・それを何回か繰り返すうちに、水が飲めないことを知る。ここから先が二手に分かれるのだ。
餓鬼どもの子孫が少しでも仏事を行う家ならば、その餓鬼は川べりに残り、静かにおとなしく、お経のあがった供物の気や水が届くのを待つようになる。
餓鬼どもの子孫が仏事を行わない、仏教や宗教などを信じない家だと、その餓鬼どもは川の流れに沿って下流へと歩き始める。その流れに従って歩いていくと途中ボーっと光ったところがあるらしい。それはきっと、4か所あるのだろう。で、その光に引き寄せられ、その光に入ってしまうと、餓鬼どもは違う世界へ行ってしまうのだ。そこは人間界なのか、修羅の世界なのか、畜生の世界なのか、はたまた地獄なのかはわからない。どこへ行くかはわからないが、その世界でさらなる苦しみを味わうことになるのだ。
これが餓鬼界の仕組みである。

「さて、ここに残っている餓鬼は、まあ放っておいてもいいだろう。残る理由は分かったのだから。問題は、あいつらだ」
夜叉はそう言って、下流に向かって行進をしている餓鬼どもを指さした。
「あいつらの後をつけていこうじゃないか」
そういうと夜叉は、ニヤッとしてさらにウインクをした。夜叉のウインクなんぞ、気味が悪いとしか言いようがない。そう思った俺の考えを読み取った夜叉は
「悪かったな!」
と不貞腐れたのだった。
「さっさと進むぞ」
そう言って、夜叉は足元にいた餓鬼を蹴り飛ばした。単なるヤツたりであろう。蹴られた餓鬼も気の毒だ。が、バラバラになって吹っ飛んでいく餓鬼を見て、笑ってしまった。気の毒だが、なんだか滑稽だ。
「お前もなかなか悪だのう。餓鬼がバラバラに吹っ飛ぶ姿を見て笑うとはな。人間は残酷で怖いねぇ。俺たちより怖いんじゃないか?」
嫌みである。さっきのウインクを気味悪がった仕返しがねちねちと続いているのだ。そんなに執念深いと餓鬼になってしまうよ、と思ったが口にはしなかった。どうせ、俺の心を読むのだから・・・。
「そうなんだよな。ここに長いこといると、執念深くなってくるんだ。で、頑固になっていき、自分勝手になる。さらにケチ臭くなるし、意地悪になり、嫌みになっていくんだ。だから、ここには番人はない。餓鬼界を見張るものはいないんだ」
あぁ、そうか、言われてみて初めて俺は気が付いた。地獄には、そこを守るというか、見張る門番がいた。もっとも地獄界は、大きく分けて8つの世界があったから、それぞれの門があり、門番の鬼がいた。あの鬼は何のためにいたのだろうか・・・。そうか、たまに逃げ出そうとする者がいたからだ。だから、門番が必要なのだ。
だが、ここでは、逃げ出すのも自由だ。川に沿って下流へ行き、光っている場所で、その光に入っていけば違う世界へ逃げ出すことができる。それを阻止する者はいないのだ。
「大昔はいたんだよ。俺ら夜叉族も餓鬼界の監視の役を担ったこともある。だがな、その監視者は、すぐにダメになってしまうんだよ。餓鬼界の毒にやられてしまうんだな。初めのうちはいい。餓鬼どもの醜い争いをバカにしてみていられる。たまに、餓鬼どもを蹴飛ばしてストレス解消もできる。しかしな、やがてそれもつまらなくなり、いつもイライラして、暴れ出したり、川の水を汚そうとしたりするようになるんだ。で、それでは役目ができないと言って閻魔様の元に戻されると、そいつは頑固でケチで自分勝手で意地悪で嫌味で執念深いヤツになってしまっているんだ。餓鬼になってしまっているんだよ。その結果、餓鬼界には監視者は置かないことになった。餓鬼の自由にさせてやろう、ということになったんだ」
そうか、それで餓鬼は、自由に違う世界へ逃げ出すことができるのだ。そこには更なる苦が待っているとは知らずに・・・。
監視者をも狂わす餓鬼界の毒素・・・俺はおののいた。きっと、弥勒菩薩様の手形がなければ、とっくのとうに俺は餓鬼化してしまったかもしれないのだ。恐ろしい世界だ、ここは・・・。
「そう、ここは恐ろしい世界だ。しかも、餓鬼の毒素には人間は弱いんだよな。簡単に餓鬼の毒素に負けてしまう。で、餓鬼化してしまうんだな」
「ということは、現実世界の人間で餓鬼のようになってしまう者は、ひょっとしたら餓鬼の毒素にやられている者なんですか?」
俺がそう問うと、夜叉は「ふっふっふっふ」と妙な笑い方をした。
「まあ、それを見に行こうじゃないか。まずは人間界に行った餓鬼がどうなるのか、人間たちにどう影響をしているのか、それを見に行こうじゃないか」
夜叉はそう言うと、妙に楽しそうに「へへへへ」と笑ったのだった。


「この川に沿って歩くぞ。で、最初のボーっと光っているところが人間界へと通じている道だ。まずは、そこを目指して歩く。そこは、そんなに遠くないのだが、餓鬼どもは争いながら、競争しながら、潰し合いながら、この道を進むから、こいつらのペースに合わせていると、なかなかたどり着けないことは確かだな。まあ、中には、この餓鬼の集団を抜けて必死に走る餓鬼もいるがな。そう言う餓鬼は、子孫に早く助けてもらいたいと強く願っている餓鬼か、誰かを恨んで復讐したいと願っている餓鬼だな。そういう意識が残っている比較的新しい餓鬼だ。そうでない餓鬼・・・自分がなぜここにいるかわからないような餓鬼が、この集団だ」
俺たちの目の前には、餓鬼の集団がある。それはちょっとした山のように盛り上がってしまっている。何匹もの餓鬼が重なって山になっているのだ。それが、ゆっくりと川の流れに沿って進んでいくのだ。何度もつぶれ、何度も死んで生き返りながら進んでいくのである。
「じゃあ、こんな連中に付き合っていたら、なかなかたどり着けないですね」
「そう言うことだ。だから、歩くペースを上げるぞ」
と、その時、すばしっこく走る餓鬼が一匹いた。その餓鬼は、山のような餓鬼の塊から横へ外れると、すばしっこく餓鬼の集団の脇を走り抜けたのだ。あまりのすばしっこさに、ほかの餓鬼がその餓鬼を掴むことはできなかったのだ。
それを見た餓鬼は、我先にと同じように集団から外れようとした。が、しかし、ほかの餓鬼に足を掴まれ、その足がすっぽ抜けて身体がボールのように転がってしまった。数匹の餓鬼が、コロコロと転がっていく。やがて止まると、足がないからか、その場から動かない。よく見れば、集団の中の餓鬼が、足をもって振り回しているじゃないか。抜け駆けしようとした餓鬼の足を引っこ抜いて、その足を振り回しているのだ。
すばしっこく先へ走っていた餓鬼を追って、俺たちも歩くスピード上げた。といっても走るわけではない。ちょっと速足になっただけだ。その程度で走り抜けた餓鬼に追いついてしまった。いくら速く走ると言っても、我々の速足程度の速度だ。
「この世界に来ると、初めのうちは何とか救われたいと思うんだな。だから、新しい餓鬼は元気に走っていく。だが、この世界に何年もいると、そのうちに次第にのろくなっていくんだ。怠けものになっていくんだよ。で、なぜここに来てしまったのか、どうしてここにいるかもわからなくなっていくんだ。ただ、お互いを潰し合い、殺し合って川へ向かっていく。川にたどり着いたら、供養があった餓鬼はそこにとどまるが、供養のない餓鬼は川の流れに沿って、再び潰し合いの行進を始める。ここに来て間もない新入りの餓鬼は、まだ元気がいいから、ああやって走り抜けていくんだ」
「新入りの餓鬼っていうのもなんか変ですが、彼らの子孫は供養とかしないんですかねぇ」
「しないんだろうな。供養があれば、新入りでも古株でも、川べりにとどまるからな」
ここに来て間もない・・・ということは、亡くなって間もない人もいるのだろう。まあ、地獄から上がってきたとか、上の世界から落ちて来たとかいう餓鬼もいるだろうが、亡くなって49日後にここに来た者もいるだろう。そうした者の子孫は、その人の供養をしないのだろうか?
「生きているとき、強欲で頑固でケチで自分勝手な者が餓鬼になるからな。よほど嫌われていたんじゃないか。そういうヤツは、下手したら葬式もされていないかもな。死んですぐに餓鬼界へ直行、ということもあり得るからな」
何とも虚しいことである。とはいえ、自業自得、自分で蒔いた種なのだ。
「そう、自業自得だ。にもかかわらず、子孫に供養を求めるんだよな。ま、それはここ餓鬼界に限らず、地獄でも同じなんだが・・・、自分勝手ではあるな」
「そこなんですよね。自分勝手な行動で、地獄とか餓鬼界へ落ちたくせに、助けてくれっていうのは・・・なんだか納得がいきませんよ。こんな連中、供養なんてしてやらなくてもいいのに、自業自得だろ、って言いたくなりますよね」
そう強く言う俺顔を見て、夜叉は
「ほう・・・やっぱり、お前さんも餓鬼界の毒素の影響が出始めたな。カリカリしている」
と真顔で言ったのだった。その言葉に、俺はドキッとした。
「あっ・・・、そうか、これか・・・。どうもさっきからイライラしていて・・・。こいつらを潰したくなってきているんですよ。妙に腹が立って・・・。そうか、弥勒菩薩の手形があっても、多少は影響があるんですね。気を付けなきゃ」
「そうだな。気をしっかり持って、腹に力をいれておくことだ。油断はしないほうがいいな。おっと、そろそろ光が見えてきたところだ」
我々の行く手にボーっとした薄緑色の光が見えてきた。

「おい、ちょっと待て」
その時だった、不意にどこからか声が聞こえて来た。
「わしじゃわしじゃ。そこへ行ってもいいんだが、わしもそこの毒素は苦手での。そこへ行くとイライラして余計に怒りっぽくなるからの。声だけで失礼するぞ」
その声に夜叉が
「あっ、これは和尚様ではないですか。何の御用で・・・」
と答えたの聞き、俺は声の主に気が付いた。俺に取材を依頼した和尚だ。先輩のおじいさんである。
この和尚、こっちの世界ではなかなかの人物らしく、閻魔大王すら一目置く存在らしい。なので、この俺にこっちの世界を自由に取材させることもできるのだ。夜叉たちも、この和尚には当然かなわない。あの夜叉の言葉が急に丁寧になったのもうなずける。
「おい、聞新。わしに気付くのが遅すぎる。ははあ〜ん、餓鬼界の毒素に侵され始めているな。そこはな、長くいると性根が腐ってくるからな。ある意味、地獄よりも厄介じゃな」
「そうですね、ここは私たちでも苦しいですからね」
あの夜叉が調子を合わせている。そのうちに揉み手でもするんじゃないか。
「ほう、夜叉殿は正常だの。よほど修行を積んだと見える。なかなかの者じゃ」
和尚に褒めらて夜叉はニヤニヤしていた。嬉しいのだろう、あの和尚に褒められたのが。
「ふん、相変わらずひねくれているのう聞新は・・・。まあいい、ほかでもない、聞新、お前の百か日が迫っている。まあ、放っておいても自動的に現世に戻されるが、お前さんたち、ちょうど人間界へ通じる道を通ろうしていたんでな、お知らせしてやろうと思ったんじゃ」
百か日・・・すっかり忘れていた。そうか、俺が死んでから百日が経つのか・・・。49日を経て、地獄の世界に行かされてから50日だ。地獄の世界や餓鬼界など、こっちの世界の時間の流れはとてつもなく遅いから、すっかり忘れていた。そうか・・・、おれは人間界の世界での約50日をかけて地獄をすべて回ったんだな。50日間地獄界の旅だったわけだ。
「というわけでな、人間界へ行ってもすぐには餓鬼を追えない。まずは、百か日の法会があるからのう。行く先は・・・まあ、お愉しみじゃな」
和尚の言葉に、「ははぁ、わかりました。ではそのように心得ておきます」
などと夜叉がかしこまっている。なんだか、滑稽である。と、夜叉が小声でいった。
「この方は立派な和尚様なんだぞ。頭を下げろ」
まあ、こっちの世界の者にとっては立派なお方かもしれないが、俺にとっては、迷惑なジイサンでもある。素直に頭を下げる気にはならない。
「まあ、なんでもいいよ。ふっふっふ。とりあえず、教えたからの。あぁ、そうそう、人間界へ戻ったら、孫に会え。わかったな。さらばじゃ」
俺の態度に怒ることも無く、和尚の声や気配は消えた。もっとも、俺に無理やりこの取材を押し付けたのだから、俺の態度が悪くても何も言えないだろうけど・・・。
「お前なぁ、よくあんな態度ができるなぁ・・・。どうなっても俺は知らないからな」
夜叉があきれ顔で俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですよ。そんなにあの和尚が怖いんですか?」
「そうだな、今では優しいがな・・・。あの時は・・・思い出しただけで震えがくるぞ」
どうやら夜叉たちは、あの和尚に痛い目に遭わされているようだ。
「一体どんな目に遭ったんですか?」
「いや、いい。俺の口からは言えない。そのうちに和尚様から聞くがいいさ」
そいうと、夜叉は口を閉じてしまった。

「光が近付いていきたな。さて、あの光の中に入れば人間界へ行けるのだが・・・、おそらくはいったん人間界へ行っても、お前はあっちへ飛ばされるんだろうな・・・。さてどうしたものか。ま、俺も付き合ってあそこへ行ってもいいんだが・・・。そうだな、面白いから俺も付き合うかな」
そういうと夜叉は俺の顔を見てニヤッとしたのだった。
「あそこって・・・どこなんですか?。教えてくださいよ」
「いやいや、教えられないな。和尚様が内緒にされたんだ。俺の口からは言えないよ」
そういうと夜叉は、「ま、とりあえず光に入ろう」と言ったのだった。
「こういう所に入る時って、何か妙な感じが身体に走るんですよね。ちょっと気持ちが悪いというか、なんだか身体がもぞもぞするような・・・」
「そんなこと言ってないで、さっさと入るぞ。ほら、餓鬼どもも光の中に入っていくだろ」
川の流れに沿って行進している餓鬼の集団はかなり後ろの方になった。そこから外れて走ってきた餓鬼や、前の集団から零れ落ちた餓鬼どもが、この光に入ろうとして固まっている。おそらくは数十匹はいるのだろう。ヤツラはお互いを押しのけ合って光の中に入ろうとしている。ここでも餓鬼は変わらないのだ。前にいる餓鬼の集団は、その行進を止めずに川に沿って進んでいる。後ろの集団もそうなるのだろう。その行進はいつ終わるのだろうか・・・。
「おい、何をボーっと突っ立ているんだ。さっさと入るぞ」
夜叉は、光の中に我先にと入ろうとしている餓鬼たちを蹴飛ばし、我々が光に入りやすくしていた。
「あ、すみません。今行きます」
こうして俺は夜叉のすぐ後に続いて光の中に入ったのである。足元には、俺たちと一緒に光の中に入っていこうとする餓鬼が2〜3匹いたのだった。

「ここはどこだ?」
夜叉はあたりをキョロキョロしながらそう言った。
「え〜っと、ここは新宿ですねぇ。日本一の繁華街というか、歓楽街というか・・・。まあ、賑やかなところですよ」
「新宿かぁ・・・」
俺たちは、新宿は歌舞伎町にいたのだった。時間は、夜だ。何時かはわからないが、すごい人でにぎわっている。そこで俺は気が付いたのだが、我々の姿は、当然人間には見えていないのだろう・・・と思ったのだが、本当にそうなのか?。
「夜叉さん、人間には俺たちの姿は見えていないんですよね?」
「当然だ。多少、霊感がある者でも俺たちの姿は見えない」
「霊感がある者?、ま、そういう人もいるようですけど・・・ちょっと胡散臭いな、そういう人」
「中には、本当に霊が見えてしまう人はいるんだよ。もっとも、そういう人の目に映る霊は、対した霊じゃないけどな。どっちかというと、恨みも怨念もない単純な霊か、悪だくみのない・・・人間を利用しようとするような悪意のない・・・霊だ。あるいは、そいつの先祖だな。助けを求めている先祖だな。我々のような高度な霊体や悪意を持った霊、悪だくみをしている霊なんぞは、巧妙に隠れている」
「そう言うものなんですか?。そういえば、俺が死んであちこちウロウロしていた時、足とか肩とかに絡みつくようにいた霊体を見ましたよ」
「あぁ、そういうのはきっと、地獄や餓鬼・畜生道に落ちた先祖が救いを求めている霊体だな。本体は、地獄や餓鬼・畜生の世界にいるが、思いが霊体となって子孫にからんできているんだろう」
「そうみたいですね。先輩もそう言ってましたよ」
「それにしてもうるさい街だな、ここは。不夜城か・・・。よく言ったもんだ。ここは、欲望の渦が巻いている街だな」
「東京には、こんな処はたくさんあるでしょう。渋谷もそうだし、六本木だって同じですよ。上野や浅草もあります。みんな似たようなもんですよ。色町に行けば、別の欲望が渦巻いていますしね」
「まさに餓鬼の巣窟だな」
そう言って夜叉は指をさした。その方向を見ると、なんとあの餓鬼の世界で見た連中が、ガチャガチャとうごめいている。そこは、ビルとビルの間のちょっつとした隙間だった。
「あっ、あいつらあんなところに固まってやがる。いったい何をしようて言うんだ?」
餓鬼たちは・・・十匹ぐらいいただろうか・・・固まってお互いを潰し合っていた。やることはここでも同じだ。と思っていたら、どうやらそこはゴミ置き場だった。そこには、飲食店から出たゴミが置かれていたのだ。餓鬼どもは、そこに群がっていたのである。
「あいつら・・・、ゴミをあさっているんですか?」
「そのようだな。もっとも食べることはできないけどな。多少、ゴミの気を得ることはできるかもしれないが・・・。ほれ、あそこを見てみな」
次に夜叉が指をさしたのは、細い路地である。その路地は、小さな飲食店が集まっている通りだ。その小さな店の片隅にも餓鬼が群がっていた。いったい何をやっているのか俺は見に行くことにした。
そこは、小さな店の横の隙間だった。そこには、店の換気扇があった。餓鬼どもは、その換気扇の真下にいて、そこから漏れてくる料理の匂いを嗅いでいたのだ。中には、壁をよじ登って、換気扇に近付くものもいた。しばらく見ていると、そいつは換気扇に近付きすぎて風で飛ばされてしまった。
「あれも食べ物の匂いから漏れ出る気を食おうとしているわけですね?」
「そう言うことだ。ここには、食べ物の気があふれている。餓鬼界は全く食べ物の気は存在していない。しかし、現世は、その気であふれているからな。多少は、あの餓鬼どもだって吸い込むことができるんだ。それに、ここにはもっとすごい気があふれているからな」
「すごい気?ですか・・・。それってどう意味なんです?」
「なに、ここには欲望があふれているだろ?。その欲望は、餓鬼に相通じるものがある。ガツガツしすぎた欲望の持ち主が通れば、あいつらは仲間と思うんだよ」
「あぁ、なるほど・・・。餓鬼もその欲望のなれの果てですもんねぇ。でも仲間と思ったとしても所詮餓鬼ですよ。人間とは・・・あ、ひょっとしてあいつら、自分たちと似たような人間を見つけると付いて行ってしまうとか?」
俺がそういうと、夜叉は「ふふふ、まあ、、見てりゃわあかるよ」といって、さっきのゴミ溜めの方を指さした。
ゴミ溜めには、相変わらず餓鬼どもがへばりついていた。すると、その餓鬼どもの塊から、一匹だけがフラフラと飛び出してきた。そいつは、餓鬼の群れから離れ、こそこそと歩き始めたのだ。もちろん、誰もその存在に気付くものはいない。その餓鬼は、踏みつけられないようにコソコソ歩き回っている。もっとも、生きている人間に踏みつぶされることがあるのかどうか、はなはだ疑問だが、餓鬼どもは、一応警戒はしているようだ。
そいつは道の隅っこで止まった。きっとそこなら踏みつぶされることはないと思ったのだろう。餓鬼にそこまでの智慧があるとは思えないが、本能的にそうしているのかもしれない。
そいつは、上を見上げキョロキョロとしている。何かを探しているような感じだった。人を見ているのだろうか・・・。ふと、キョロキョロするのを止め、一か所だけをじーっと見つめだした。やはり人を見ていたのだ。気になる人物がいたらしい。その人を見つめているのだ。
その餓鬼が見つめている人は、酔っ払いのおっさんだ。何かぶつくさ文句を言いながら歩いている。そのおっさんに餓鬼はススススと近付いて行った。すると次の瞬間、その餓鬼は・・・餓鬼ってあんなに早く動けるのか!・・・と驚くくらいのスピードでそのおっさんの背中側の首から肩に張り付いたのだ。
「あっ、あいつ!・・・あのおっさんの首に張り付きましたよ。いいんですか、あれ?」
「あぁ、やっちまったな。まあ、いいんだよ。ああやって、餓鬼は人間にとりつくんだからな・・・」
餓鬼に乗っかられたおっさんは、
「うん、何だよ、首が・・・あぁ、何だよ、もう・・・」
と文句を言いながら首を回している。手で首の後ろを払っているようなこともした。もちろん、そんなことをしても餓鬼には全く影響はない。首の後ろに張り付いたままである。あの餓鬼、手足を思いっきり広げ、その爪をしっかりそのおっさんに食い込ませている。そして、大きな口をあけておっさんのクビに噛みついたのだった。
「うん、なんだ・・・なんかチクッとしたんだけど。おい、誰か俺に針を刺したな?、誰だ、このやろう!!」
酔っ払いのおっさんは、酔っぱらっているだけに誰も相手にはしない。みんな知らん顔をして通り過ぎていくだけだ。
「クソ、どいつもこいつも俺を無視しやがって!。クソ面白くねぇ!」
おっさんは、そう叫ぶと、フラフラとしながら新宿駅の方へと向かって行ったのだった。背中に餓鬼を張り付けたまま・・・・。
「夜叉さん、追いましょう。あのおっさんがどうなるか見たいです」
「うん、まあ、それはそうなんだがな。それがそうもいかないんだ」
「何を言っているんですか。ほら、早くしないと見失いますよ」
「うん、だから、時間切れなんだよ。とりあえずは、百か日の裁判が先だ」
夜叉がそう言った瞬間、俺はまばゆい光に包まれていたのだった。


「ここは・・・どこですか?」
その時俺は、霧の中にいるような、そんな感じがしたのだった。夜叉が、隣にいることだけは確認できた。だから、俺は隣にいる夜叉にそう尋ねたのだ。
「これからお前は百か日の裁判を受けるんだ。ここは、そこへの入り口だ。よく見ろ」
そう夜叉に言われて周りを見回すと、次第に霧が晴れていくように俺の目の前に大きなお寺のような建物が現れた。
「でかい寺だ・・・」
「まったく、そんな感想しかないのか?。そんなんでよく雑誌記者をやっていたな。あぁ、三流雑誌の記者だったから、そんなものか・・・」
「ひどいですよ、夜叉さん。っていうか、周りには何もないし、見渡す限りだだっ広い世界ですよ。しかも明るい。輝いているんだけど、柔らかい輝きだからまぶしくもない。そんな中に巨大なお寺ですよ。お寺ですよね、これ? うん?、あれ・・・なんだか妙に癒される感じがします。あぁ、いい香りがしてきた。えっ、えっ?、すごく気持ちのいい音楽が流れてきてますよ。ちょっと、夜叉さん、ここはどこなんですか?」
俺の顔はにやけていたに違いない。なんだか、とても気持ちがよかったのだ。真綿に優しく包まれているような、とても暖かく気持ちがよかった。耳に聞こえる音楽も表現できないほどきれいで心地いいのだ。いい香りが漂い、ず〜っとここに居たいという気分になっていた。
「あぁ、ここは観音様がいらっしゃる御殿だからな。そりゃ、癒されるだろうな。まあ、ここで立っていても仕方がないから・・・あぁ、ほら、馬頭がやってきたぞ」
大きなお寺・・・観音様の御殿と夜叉は言っていた・・・から、しずしずと一人の馬頭がやってきた。その馬頭は、俺が49日間の裁判で見て来た馬頭とは全く違っていて・・・外見は変わらないのだが・・・ものすごく上品に感じられたのだった。その上品な馬頭が俺に向かって言った。
「聞新様でいらっしゃいますか?。どうぞこちらへ・・・」
馬頭は俺も迎えに来たらしい。馬頭に従って俺はついて行った。その後ろを「俺もいいだろ?」と言いながら夜叉が付いてくる。馬頭は、ニコッとしてうなずいたのだった。

「聞新様ですね。どうぞこちらへ」
あの巨大なお寺・・・観音様の御殿・・・に入ると、別の馬頭が立っていて俺たちを案内した。建物の中も明るくいい香りが漂い、素晴らしい音楽が流れ、心地よい空気が俺たちを包んでいた。
廊下のようなところを通り、何度か曲がっていきついたのは、広い部屋だった。部屋の真ん中に大きな机があった。それ以外は何もない。壁もなければ柱すら見えない。ここもだだっ広い空間と言った感じである。この空間にもいい香りが漂い、心地よい音楽が流れていた。目の前にポツンと大型の机があった。そこには中国の皇帝のような人がいた。
「私は平等王という。汝の百か日の裁判を行う。といっても、ここでの裁判はいわば再審である。49日に生まれ変わり先が決まったのだが、その後の50日間で、その生まれ変わり先が汝にふさわしいかどうかを判断するのだ。さて、汝の生まれ変わり先は、汝にあっているか否か・・・・。と通常は語るのですよ。聞新君」
その皇帝風の人は、ニコッとして俺を見つめた。俺は、何も答えられず、ぽかんとしてしまった。
その平等王は、優しい落ち着いた口調で話を続けた。
「まあ、汝の場合は、特殊ですからね。生まれ変わり先も決まっているのだけど、そこへは行っておりません。輪廻の世界を取材しているそうですね。ですので、通常の裁判・・・再審ですね・・・はできませんね。ですから、ここでの裁判の説明を続けましょう」
そう言うと平等王は、夜叉の方を見て「傍聴しますか?」と尋ねた。夜叉は、すぐにうなずいた。
「では、夜叉様は、ちょっと後ろに下がって・・・あぁ、その位置で結構です。静かに聞いていてください」
夜叉は、無言で俺の数歩後ろに下がったようだ。

「では、改めて・・・。聞新君、先ほど言ったように、百か日では49日に決まった生まれ変わり先がその人にふさわしいかどうかを再審します。再審の仕方は、生まれ変わり先からの報告書があります。それをもとにして判断するのです。しかし、それだけではありません。私も自分の神通力により、再審を受ける方の心を読みます。また、生まれ変わり先での様子を見ます。これらの情報をもとに、生まれ変わり先が妥当ならばそのまま、妥当でないなら変更をするのです」
「あの、質問しても大丈夫でしょうか?」
こっちの口調まで、丁寧になってしまった。俺の問いかけに、平等王は手を前に出し「どうぞ」と言った。
「もし、再審を受けている死者が、生まれ変わり先が納得できず、不満を言ったらどうなるのですか?」
「それはよくあることですよ。多くの死者の方が、生まれ変わり先に不満をお持ちです。ですので、死者の意見も聞きます。聞きますが、それが結果に反映されるかどうかはわかりません」
「以前での裁判では、大勢の死者が裁判を受けるべく並んでいたのですが、ここでは並んでいません。それはどうしてですか」
「百か日の再審は個別で行います。それぞれ、生まれ変わり先へ行っているので、49日までとは環境が異なります。他の死者とは関係もありませんしね。もう、生まれかわっているので『地獄だな』という声を大勢の死者に聞かせる必要もありません。ですから、完全個別再審となっているのですよ」
「なるほど・・・。でも、なんだか寂しいような・・・。仲間がいないというのは、なんだか気が抜けたような気がします」
平等王は、俺の感想にうなずきながら
「それでいいのです。自分を見つめなおすには、孤独のほうがいいでしょう」
と優しい声でいった。「自分を見つめなおす・・・か」それは、地獄にいた者や餓鬼界にいた者にはできないことであろう。あの場所で自分を見つめなおすような余裕はない。ましてや、生まれかわって約50日しかたっていないのだ。地獄や餓鬼に行った者にとっては、それどころではないだろう。そういう意味では、この百か日目の再審は、いいタイミングなのかもしれない。こんな居心地のいい、気持ちのいい場所に呼ばれたなら・・・。少しは休憩もできるというものだ。
「やはり、地獄や餓鬼に行った者などは、ここへきてホッとするんでしょうね」
「ほっほっほ、そうですね。地獄や餓鬼、畜生、修羅に生まれ変わった者は、ここで一息付けますからね。ですが、安心していてはいけません。ここはあくまでも再審をする場所ですから。そのことは、私も注意しますよ。気を抜いてはいけませんよ、とね。もっとも、そういうときの方が説教も耳に入るのでしょう」

説教で思い出した。49日までの裁判では、いろいろ諭してくれる仏様が裁判官の後ろに控えていた。しかし、ここでは見当たらない。百か日には、仏様はいらっしゃらないのだろうか?。しかし、夜叉は「ここは観音様の御殿だ」とも言っていた。ならば、観音様がいてもおかしくはない。俺は、平等王にそこのところを聞くことにした。
「49日までの裁判では、弁護役というか諭し役というか・・・仏様がいらっしゃいましたが、ここではいらっしゃらないのでしょうか?。夜叉さんは、ここは観音様の御殿と言っていたのですが・・・」
平等王は、俺の話を遮るように手のひらを俺の方に向け「はいはい」と言った。
「ここでも、弁護役の仏様はいらっしゃいます。そう、観音様です。ここは観音様の御殿です。今もあなたを見ていらっしゃいますよ」
平等王にそう言われ、俺はあたりをキョロキョロと見回した。しかし、観音様の姿は俺には見えなかった。
「あぁ、今は、お姿を隠されております。あなたと私の会話を観察していらっしゃるのでしょう。観音様は、どの死者の再審の場合でも、初めは姿を隠され私と死者の会話を聞き、様子を観察されるのです。そして、私の神通力が及ばない、死者の深い深い心の中を読み取っておられるのです。聞新君、あなたの本心も、今観察されているのですよ」
そう言って、平等王は「ほっほっほ」と笑ったのだった。

俺の本心・・・それは俺にもよくわからない。俺の本心って、いったい・・・。
取材は面白いがこのままでいいのか、とも俺は思っている。俺の生まれ変わり先はどこなんだろうか、という不安もある。現世に行って家族の様子も知りたい。いや、知りたいのは家族の様子だけじゃない、こちらの世界のことももっと知りたい。49日の裁判の間に出会った死者たちにも会ってみたい。地獄で会った者もいたが、ほかの人のことも気になる。う〜ん、俺の本心とは・・・。何が本心なのだろうか?
「どれも本心ですよ」
その声は、とても耳に心地よい響きであった。いや、心の奥底までとろけるような、一気に疲れが吹っ飛ぶような、心がきれいに洗われたような、そんな感じを与える声だった。
「あぁ、観音様」
平等王と夜叉が同時に言った。その美しい声は、観音様の声だったのである。

観音様である。まさしく観音様である。美しい姿であった。様々な宝飾品を身に付け、ふわふわとした衣装を身にまとっている。左手には蓮華を持っている。その観音様が、空中に立ち姿で浮いていた。観音様は、優しく微笑んで俺に言った。
「聞新よ、今あなたが思った心、それはすべてあなたの本心です。家族にも会いたい、生まれ変わり先を知りたい、取材を続けたい、こちらの世界をもっと知りたい、出会った死者のその後も知りたい、でも面倒だ・・・、そのどれもがあなたの本心です。
「でも面倒だ」は、俺も気付いてはいたがスルーしていた心だ。しっかり見抜かれている。俺は、ついつい頭をかいていた。しかし、俺が思っていたことは、すべて俺の本心なのだ。本心は、一つではないのだ。そう言うことなのだろう。
「その通りです、聞新。本心は一つではありません。心は移ろいやすく、欲望は多々存在しています。あれもこれも、それもどれもと欲するのが人間の本心なのですよ。それに気が付くことは大切なことですね」
「え〜っと、つまり、本心という一つの中にいろいろな欲が詰まっている、ということですね。その欲が本心を形成しているといってもいいのですよね?」
「そうです。ただし、その欲もきれいな欲もあれば、そうでない欲もあります」
「きれいな欲・・・ですか?」
「えぇ、清浄なる欲もあるのですよ。いいえ、究極的には、きれいも汚いもない、すべて清浄なのですけどね。まだ、そこまでは理解できないでしょう・・・」
きれいも汚いもない?、すべて清浄?、そんなことはないんじゃないか、と俺は思った。いや、一般的に欲は汚いものだろう。あれが欲しい、これが欲しい、あれは嫌だ、こうしたい、こうなりたい・・・。欲望は、汚いものであろう。だから、欲深い人間は嫌われるのだ。汚い人間だ、と思われるからである。その欲が清浄とは・・・。
「よいのです聞新。今は理解できないでしょうから。しかし、欲だけでなく『一切は本来、清浄である』のですよ。これが分かれば、悟りの世界を知ることができるでしょう。今は理解できなくてもいいですが、頭の隅に置いておくとよいです」
俺は何が何だか、よくわからなかった。なので「はぁ」というしかなかった。間抜けのようだが、仕方がない。観音様も今は理解できない、とおっしゃっているのだし。まあ、観音様の言わるように、「一切は本来清浄である」という言葉を頭の隅に記憶しておくことにしたのだった。

「さて、聞新よ、あなたの場合、生まれ変わり先が決まっておりません。いや、決まってはいるのですが、こちらの世界の取材があってまだいけません。ですので、この百か日の再審の様子が分かりにくいでしょう。それでは、あなたの仕事になりません。ですから、取材がしやすいようにしてあげましょう」
観音様はそう言うと優しく微笑んだのであった。
「ど、どういうことですか?。取材がしやすいようにって・・・」
俺の問いかけはスルーされ、観音様は微笑みながらその衣の袖で俺を包み込んだのだった。その瞬間、まばゆい光が走った。

ふと気が付くと、俺は上の方から平等王を見下ろしていた。平等王の前に立っているのは、あの覗き見教師だった。
「彼は、地獄にいたはずだったけど・・・。あぁ、百か日の再審がこれから始まるんだ」
と俺にはなぜかそれが分かったのであった。
「覗見教師信士、これより汝の再審を行う。その前に、困ったことに汝の遺族は、百か日の供養をいたしていない。つまり、供養の徳はここには届いていない。残念だな、覗見教師信士よ。さて、覗見教師信士、地獄はどうだね?」
平等王は、優しい口調で厳しいことを尋ねたのであった。


「地獄はどうだねって・・・苦しいに決まってますよ。あんなところ、早く逃げ出したい・・・」
「ふむ、そりゃそうだな。では、汝に聞くが、なぜ汝は地獄へ落ちたのだ?」
「そ、それは・・・の、覗きを・・・盗撮を・・・したからです。だ、だけど、たった盗撮をしただけで、何であんな・・・あんな苦しいところへ行かなきゃいけないんですか?。こんなことなら、生きていて罪を償ったほうがましだ」
「たった盗撮ねぇ・・・。それだけですか?。あなた、裁判中に暴れませんでしたか?」
平等王に突っ込まれ、彼の覗き見教師は黙って下を向いてしまった。そして、横を向く。その顔は不貞腐れていた。
「どうなんです?。暴れましたよね?」
「う、うん、まあ、その・・・。あの時は、怖かったんですよ。みんなして地獄行きだ地獄へ行けなんていうから・・・。それに閻魔様は・・・」
「あなた、自分の過去を見ることが怖かったんじゃないですか?」
平等王にそう言われた覗き見教師は、ハッとした顔をして平等王を見つめた。そして、下を向く。彼は泣き始めていた。泣きながら彼は言った。
「あんなことをした自分を・・・見たくなくて・・・。あれは自分じゃない・・・そう思いたくて・・・。未だにわからないんですよ、なぜあんなくだらないことをしてしまったのか・・・」
「本当にわからないですか?。困りましたねぇ。先ほども言いましたが、ここは再審の場です。汝の態度次第で、生まれ先が変わるかも知れません。本来ならば、百か日の供養がないので、ここまで親切に問うことはありません。百か日の供養がないという時点で、『汝の遺族は百か日の供養を怠った。しかるに再審は行われない。一周忌まで今の世界にいるがよい』と私に言われ、再審の場を失うのが通常です。ですが、汝の場合、罪に対して刑罰が重すぎるのではないか、と観音様がおっしゃったのですよ。ですから、特別に再審を行っているのです。もう少し、真剣に考えたほうがよろしいんじゃないですか?」
平等王は、ちょっと不貞腐れたような口調でそう言った。

どうやら百か日の供養をしていないと、この再審は開かれないようだ。呼び出されはするようだが、再審は開かれず、生まれ変わり先の考慮もされないのだ。地獄や餓鬼のようなところへ行っている者にとっては、これは辛いことであろう。ちょっと無慈悲なような気もするが、しかし、観音様の要請によっては、再審が開かれることもあるようだ。観音様が、生まれ変わり先の刑罰が重すぎると判断した場合は、その者に問うのだろう、如何に反省しているか、を。
49日までの裁判では、本人がどれだけ反省しているか、それによりどの程度の覚悟ができているのか、罪の意識、それに対する償い、それらをどう考えているかを問われていた。ここも同じである。自分の罪をいかに見つめられるか、そしてどの程度反省しているか、償いはどうするのか、それが問われるのである。
果たしてあの覗き見教師はどうなのだろうか?。裁判中に逃げた男である。また、逃げるのかもしれない。俺はそう予測したのだった。
「し、真剣に・・・真剣に考えています。真剣に考えても・・・なぜあんなことをしたのか・・・わからなくて・・・」
最後はぼそぼそと言っていて何を言っているのか、よく聞き取れなかった。やはり、これではダメだろう。また地獄に逆戻りか、下手をしたらもっとひどい地獄へ行くのではないか。平等王は、大きくため息をついて言った。
「はぁ・・・。困りましたねね。あなた、どんな地獄にいるんですか?」
「えっと、き、きれいな女性が木の上で手招きしているんですよ。で、それに誘惑されてその木を登ってしまうんですが、その木の幹や葉っぱは鋭い刃物でできていて、その刃物でずたずたに切られるんです。血が流れ肉は削げるのですが、でも木の上の女に会いたくて・・・。でも、木の上にはなかなか登れないんですよね。何とか頑張って木の上の女のところへ着くと、その女、今度は下にいるんですよ。上から見ると、胸の谷間をチラつかせたりして、わ、私を誘惑するんですよね。あれはひどいですよ。誘惑なんてしなきゃいいのに。誘惑がなければ、私はあんな女なんかにはつられないのに。全くムカつく女なんですよ。だから、説教してやろうと思って、木を下りるんです。でも、木を下りると身体が刃物で裂かれるんですよ。もう痛くて痛くて、何度も死にました。でも、やっぱり生き返って、で女が木の上から呼ぶんです。短いスカートなんかはいて・・・そのチラチラ見えるんですよ。だから・・・」
「あぁ、もういいです。あなた、何も反省していませんね。あなた、単に女性が好きで、覗くことが好き、っていうだけでしょ。だから、覗き見をしたのだし、木にも登るんでしょ?」
「い、いや・・・ですが、あの女の子たちも悪いんですよ。妙な色気を振りまいて、短いスカートなんかはいて、チラチラ見せるから・・・」
「だからと言って覗きをしていいのですか?。学校のいろいろなところに盗撮用のカメラを仕込んでいいのですか?」
平等王は、もはやあきれ返っていたのだろう。突き放したような言い方になっていた。まあ、しかし、呆れ果てるのも無理はない。あの覗き見教師、自分が悪いなどと少しも思っていないのだ。
「えっと・・・、カメラは・・・その・・・」
「もういいです。汝が犯した罪によって、汝の家族はどうなりましたか?。汝のお子さんは?、奥さんは?・・・いったいどうなりましたか?」
「そ、そんなことを言われても・・・。だって仕方がないでしょ。まさか、バレるとは・・・」
「あぁ、もういいです。よろしいですよね、観音様?」
平等王は、後ろを振り返ってそう言った。

とても優しい声が響いてきた。その声は、心をまろやかに包んでくれるような、とても安心した気分にさせてくれるような声だ。その声は、観音様の声である。観音様がその声で覗き見教師に言った。
「哀れな者よ。なぜ、汝は自己反省ができぬのか。自分が悪かった、と一言でも言えば救われたものを・・・。なんと悲しい者よ。汝のような反省のない、罪の意識のない者は、私にも救うことはできぬ。仕方があるまい、もう一つ下の地獄へ送ることにしましょう。そこで、自分の犯した罪を理解し、反省し、償うにはどうしたらいいかを考えなさい」
観音様は泣いているようでもあった。
「えっ、えっ、ちょっと待って、待ってください。そ、そんな・・・。もう一つ下の地獄って・・・、なんで、なんでそうなるのか・・・。わ、悪いとは思っていますよ。そりゃ、教師でありがら女子生徒の裸とかを盗撮したのですから、そりゃあ悪いとは思っています。はい、確かに悪いことはしました。反省しております」
覗き見教師は、慌ててそう言った。しかし、その言葉に誰が真実味を見出すであろう?。とってつけたような言い草に、俺は怒り心頭になり、思わずバカヤロウーと叫びそうになった。すんでのところで、いつの間にいたのか、夜叉さんが俺の腕をつかんだのだった。
「あっ、はぁ・・・、いたんですか夜叉さん」
「こんなこともあろうかと思ってな。後ろに控えていたんだ」
「た、助かりました。もう少しで叫んでいるところでした」
「役に立っただろ?。叫んだりしたら大変だぞ」
「ですよねぇ・・・。だけど、あのヤロウ、ホント、ムカつきますよ。ぶん殴ってやりたいくらいです」
「まあ、地獄でそれは味わうからな。お前さんがやらなくてもいいことだ」
確かに俺がすべきことではない。俺は単なる傍観者だから。それでもあの覗き見教師の態度には腹が立って仕方がなかった。あんな者にでも、観音様は慈悲を与えるのだろうか?
「それは見ていればわかるさ」
夜叉は、ちょっと冷たくそう言ったのだった。

「反省していると口では言うが、それは真実の言葉ではない。悲しいかな、ここまで来てまだウソを言うとは・・・。正直に、『私は女が好きなんです。どうしても好きなんです。特に若い未成年の女子が好きなんです。我慢できないんです』とでも言えばよいものを・・・。そうすれば、その性癖を取り除くこともできたのだが・・・。よいか、汝はこれからも女性の誘惑に遭うであろう。その誘惑にのらず、我慢して、辛抱して、耐え忍んでみるがいい。そうすれば、汝は地獄から出られるのだ」
観音様は、そう優しく諭すように言った。
「そうですよ、好きですよ。女子中高生が大好きですよ。学校で子供たちに勉強を教えながら、頭の中では、どうやって覗こうかということばかり考えていましたよ。いつ実行しようか、どうやったら見つからないか、そんなことばかり考えていました。悪いこととはわかっていても、ついつい考えがそっちの方向へ進んでいってしまうんですよ。それを我慢するのが苦しいんです。それを耐え忍べって・・・。そんなの無理ですよ。だって、いつだって覗きたいんですから・・・」
それは、覗き見教師の告白であった。ついに彼はその本音を語ったのだ。
「これって病気・・・なんですかねぇ・・・。子供の時から、いや、物心ついたときから覗きたかったんです。何か穴がると覗いていたんです。こっそり覗くと楽しかったんです。いろんなところを覗きました。両親の性の営みも覗きました。小学生の頃は、女子のスカートの中を覗きました。担任の女の先生の胸元やスカートの中も覗こうとしました。中学や高校へ行ってからは、いつも女子の着替えを覗く方法を考えていました。結局、実行できませんでしたが・・・。大学へ行ってからは、覗きのある風俗店を見つけて自分の性癖を誤魔化してきました。でも、どうしても覗きが実行したくて、それで学校の先生になったのです。やっとチャンスが巡ってきて、覗きを実行したら・・・バレて死んでしまった・・・。バチが当たったのかなぁ。そのために妻子や親にもすごく迷惑をかけた。学校にも迷惑をかけました。ひどい人間です、私は。そんなことはよくわかっています。どんなひどいことをしたのか、十分にわかっています。ただ、それを見るのが怖かったんです。自分がしてきた過去を見せつけられるのが・・・怖かったんです。だから、閻魔様のところから逃げたんです」
観音様の言葉がきっかけで、彼は心の内を一気に話したのだった。それは、全く自己中心的で身勝手な話だったが、彼の本音ではあるのだ。彼は、本音を語ったのである。
「私だって、覗きが悪いことくらいは知っています。性に関して異常だってことは承知しています。だけど・・・どうしても止められないんです。ついつい覗こうとしてしまう。私だって苦しみましたよ。カメラを仕掛ける時だって、もう一人の自分がやっちゃいけない、そんなことはダメだ、と叫んではいたんです。でも、もう一人の自分が、大丈夫見つかりっこないさ、と言っているんです。盗撮用のカメラを買った時だって、それを喜んでいる自分と恐がっている自分がいました。苦しかった・・・。ものすごく苦しかった・・・。なんで自分はこんなにも異常なのかと悩んだりもしました。いや、今でも悩んでいます。どうして自分だけが・・・と。でも、もう一線は超えてしまいました。その罪で地獄へ行きました。それも仕方がない、と思っている自分もいます。でも、何でこんなに苦しまなきゃいけないのか、生きている時だって苦しんできたのに、と思う自分もいます。そして、女性が誘ってくれば、反省や苦しみなど忘れて、女性に向かって行ってしまう自分もいるし、そんな自分が嫌だし、でも誘惑に負けてしまうし・・・、もう何が何だかわからなくて・・・。いったい、私はどうすればいいのでしょうか?。どう生きていたら正解だったのでしょうか?」
覗き見教師は、そういって泣き崩れたのだった。そんな彼を観音様は、悲しそうな眼をして眺めていた。そして
「苦しかったであろう、辛かったであろう、大いに悩んだであろう。誰にも言えず、相談することもできず、さぞ辛かったであろう。どう生きていたら正解か・・・。女性が好きだ、覗きたい、という欲求は、それ自体は間違った欲求ではないのだよ。欲求が外に出た時に、間違いかそうでないかが分かれるのです。犯罪を犯せば、それは間違った行動となるでしょう。犯罪にならない範囲でおさまっていれば、それは間違った行為ではありません。あなたが、子供時代や青年時代に自らの性癖を誤魔化しながら生きていたこと、それは正しい生き方だった。学生時代に自分の性癖を満たす風俗店があり、そこで対処してきたこと、それも正しい生き方だった。間違ったのは、学校にカメラを仕掛けた、という点であろう。カメラさえ仕掛けなければ、道は外れなかったのだ。別の方法で誤魔化していれば、間違った方向へは進まなかったのだ。子供時代や学生時代には、それができていたのだよ。だから、自分を誤魔化し続けて生きていく、それがよかったのであろう。あるいは、奥さんに、結婚前に正直に自らの性癖を告白しておくのもよかったのであろう。それで結婚がダメになってもよかったのだ。汝の性癖を理解してくれる相手に会うまで、性癖を誤魔化しながら生きていく、という生き方を選択すべきだったのであろう。その選択を汝は間違っただけである」
観音様の言葉は、まるで覗き見教師の罪を許すかのような印象を俺に与えた。いや、観音様自身は、彼の罪を許しているのであろう。それほど彼は生きているときに苦しんだのである。妙な性癖を持って生まれてしまったが故の苦しみだ。確かに、俺にそんな性癖があったら、と思うと・・・。俺は普通だったからこそ、罪を犯すことがなかったのだ。そのことに感謝すべきなのだろう。
「選択を間違っただけ・・・。そうか、いくつかある選択肢を選びそこなっただけなのか・・・。そうか、そういえば学生時代は、自分の性癖を隠そうとして我慢してきたよなぁ。いったいいつそのタガが外れてしまったんだろうか・・・。我慢できていたのに、耐え忍べたのに・・・。いつ弱くなってしまったんだろうか・・・」
彼はそう言うと、目をとじた。涙が流れている。口は真一文字に閉じられている。何かをこらえているような表情だった。
しばらくして、彼は目を開け、なにかを決心したような顔をした。そして
「観音様にお願いがあります。本当はもう一つ下の地獄へ行かなきゃいけないのでしょうが、もう一度チャンスをください。今の地獄の、あの木の上の少女の誘惑に勝って見せます。すぐにはできないかもしれません。ですが、必ずや、あの少女の誘惑に勝ち、木に登らないよう努力します。お願いです。私を今の地獄へ戻して下さい」
覗き見教師は、今までにないよく通る声で力強くそう言ったのだった。

つづく。

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