あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「よく言った。それでよいのだ。その気持ちを忘れなければ、汝は地獄から出られるであろう。今のその気持ち、決して忘れてはならぬ。よいな」
心に染み入るような声で観音様は、覗き見教師に言った。彼は、大きくうなずいた。決して忘れませんと・・・。
「では、覗見教師、汝をもとの場所に戻す。早く脱出できるといいですね」
平等王は、優しく覗き見教師に語りかけ、彼を見送った。彼は、スーッと消えていった。元の地獄へ戻ったのだ。
「さすが観音様だな。あの頑なな男の心を反省に導いたのだからな。まあ、あの声で優しく語りかけられたら、どんな悪者も泣いちゃうよな」
夜叉は、一人で頷きながら納得していた。しかし、夜叉の言うとおりだ。あの心を包み込むような、心にしみこんでくるような声で語りかけられたら、どんな悪者でも反省するだろう。赤ん坊のように無垢になってしまいそうなくらいだ。何もかもさらけ出してしがみつきたくなってしまう、甘えたくなってしまう、そんな優しさを感じる声だった。いや、声だけじゃない、ここの空気がそうなっているのだ。ここにいると何とも居心地がいいのだ。
「それはね、観音様がいらっしゃるからだよ、聞新君」
平等王が、ぼそりと言った。
「観音様がいらっしゃるから、このような空気になるのです。ですから、観音様の本拠地である補陀落山へ行けば、もっと居心地の良い、すごく幸せな気持ちになれるんですよ。いつか、あなたも訪れることができたらいいですな」
その時であった
「聞新よ」
観音様が俺に声をかけてきたのだ。それだけで俺はものすごく幸せな気分になった。
「聞新よ、これから汝はいろいろな世界を見ていくであろう。そこで多くのことを学ぶであろう。それはいいこともあり、嫌なこともあるであろう。怒ることもあろう。しかし、相手の立場に立って、素直なまっさらな心で、観るがいい。これから訪れる世界を、そこにいる者たちをまっすぐに観察するがよい。よくよく観察せよ。それが汝の使命なのだよ、聞新」
「あ・・・、はい、わかりました。よく観察します。相手の立場になって、よく考えます」
声がふるえてしまった。ものすごくいい気持ちなのだが、ものすごく緊張してしまった。隣で夜叉が「いいなお前」みたいな顔をしてみているのがわかる。
「夜叉よ、聞新をよく支え、手助けしてあげてくださいね」
「は、はい、もちろんです。観音様。命を懸けてでも聞新を助けていきます。ありがとうございます」
夜叉は、涙を流して喜んでいた。

やがて観音様の空気が消えた。もとの平等王がいるだけの空間となった。
「よかったですね、夜叉殿も聞新さんも。励みになったことでしょう。さて、これ以上、百か日の裁判を見る必要はないと思いますが、どうですか?」
「ほかの死者の百か日もあるんですか?。あぁ、そういえば、俺の裁判の前後の人たちは、当然百か日の裁判を受けているんですよね」
「前にも言ったと思いますが、最近は百か日の供養を省く方が多いのですよ。それは、ものすごく大きなチャンスを逃していることなんですけどね。最近の僧侶どもは、その事をすっかり忘れているのか知らないのか、『まあ、百か日の供養はいいでしょ』なんて軽く遺族に言ってしまうんですよ。きっと、本音は供養するのが面倒なんでしょうな。ちゃんと百か日の供養の重要さを説明すればいいのに、それを怠るのですな。なので、百か日の裁判を受ける方は少ないですなぁ・・・」
「それはもったいないことですよね。でも、百か日の供養がなくても、観音様の慈悲でここに呼ばれるのではないですか?」
「いいえ、それはないですな。先ほども言いましたが、かの覗き見教師の方は、異例です。その罪に対して刑罰がちょっと重すぎるのではないか、と観音様が思ったからこそ、ここへ呼ばれたのですよ。原則、百か日の供養がなければ、ここへは呼ばれません。つまり、観音様と会うことはできないのです」
なんともったいないことか。観音様と会えないのだ。いや、それはもったいないことだ。是非とも観音様に会うべきなのだ。49日の間、仏様や菩薩様に会ってきたが、観音様ほどの幸福感を感じた仏様はいらっしゃらなかった。確かに心に染み入るような優しを感じたけど、観音様ほどではなかったのだ。そのチャンスを逃すのは、あまりにも惜しい。
「大慈大悲観世音菩薩・・・観音様のことです。観音様は大慈悲心の境地にいらっしゃる菩薩様です。この境地にいらっしゃる菩薩様は観音様だけです。その境地にほんの少しでも触れられる百か日は、本当はものすごく大切な日なんですけどねぇ」
平等王はちょっと悲しそうにそう言った。そのあとで、「私もヒマですしねぇ」とぼそりとつぶやいたのだった。

「そうそう、あなたも知っている拝み屋のオバサン、あの方も百か日の供養がありませんでしたよ。なので、ここには呼ばれておりません」
「ということは、あのおばさんの刑罰は相応しいんですね」
「そう言うことですな。それに、観音様がおっしゃるには、『まだ、あの者には反省の種ができていない』とのことです。どうやら、未だに自分は優れているのに、と思っているようですな。哀れなものです」
「地獄にいたお坊さんたち。彼らはどうですか?。さすがに百か日の供養はするでしょう?」
「そうですなぁ・・・。百か日の供養があった方もいましたが、無かった方もいましてね。宗真でしたか、あの方の宗派は百か日の供養をしないのでしょうかねぇ。同じ宗派の方たちは、ここには呼ばれませんでしたね。他のお坊さんたちは呼ばれましたよ。皆さん、観音様の御心に触れ、感動していました。観音様からは、『本来ならば、生きているうちにその感動を得てなければいけないのですよ』と諭されていましたな」
なるほど、坊さんなのだから、生きているときにちゃんと修行して、菩薩の境地に至っていないといけないでしょ、と注意されたのだ。
「そりゃ、あの坊さんたちもシュンとしていたでしょうね。見たかったなぁ」
「まあ、彼らも反省して地獄で修行しますと言っていたから、すぐに地獄を出られるでしょうね。その姿を見れば、ここに呼ばれなかった坊さんたちも、気が付くでしょう、地獄の出方をね」
あの太っちょ坊さんが言っていたことだ。地獄を出るのは簡単だよ、その方法を坊さんは知っていなければいけないんだ、と言うようなことを言っていた。そのことであろう。
「まあ、坊さんたちも真剣に修行するでしょう。素地はあるのですから」
それもそうだ。一応、仏教を学んでいるのだから。
「あなたが知っているほかの方は、百か日の供養があった方もいましたが、無かった方もいます。あなたはその方たちと地獄ではあっていないでしょ。なので、その方たちのことは伏せておきます。いずれ出会うでしょうから、その時によく観察するといいでしょう」
平等王はそう言うと、「もうそろそろ帰ったほうがいいでしょう」と俺たちに変えることを促した。
俺たちはその言葉に従い、平等王の裁判所を出ることにした。
「といっても、どうやって帰ればいいんでしょうか?」
そう言う俺に、平等王はにっこり微笑んで「ほいやぁ」と小さく叫んだ。その途端、
「あれここは・・・」
「ここは寺だぞ。知っているのか、ここ」
夜叉が俺に尋ねた。知っているも何も
「ここは先輩の寺ですよ」
俺たちは、先輩の寺の門前に立っていたのだ。

「勝手知ったる先輩の寺。さぁ、中に入りましょう」
俺は夜叉にそう言うと、さっさと寺の中へ入っていった。夜叉は
「お前さんの先輩ということは、あっ、あのジイサンのお孫さんか。いいのか俺も入って・・」
などと言っている。そう、あのジイサン坊さんの孫なのだ。そうか、夜叉も一目置くあのジイサン坊さんだ。その孫と聞いて、少しビビっているのか。
「まあ、いいんじゃないですか。なんにも動じない人だし。むしろ、夜叉さんを見て、喜ぶかも・・・」
「それもまた怖いんだけどな」
果たして先輩はいるのか。たまにお祓いなどで出かけているからいないかもしれない。暇だといいのだが・・・などと思いながら本堂に入る。すると、本堂奥のふすまの閉まっている部屋から先輩の声が聞こえて来た。
「あのね、そう頑なになっていると、ご家族の方から嫌われますよ。お孫さん、可愛いでしょ?」
「うぅぅぅ、もう嫌われておるわい」
「それでいいのですか?。いい年なんだから、少しは折れたらどうです?。もう、現役じゃないんだし。老いては子に従え、でしょ」
「そうなんだけどなぁ、頭ではわかっているんだけどなぁ」
「意地っ張りですな。いいおじいちゃんの方が、いつまでもお孫さんと話ができますよ。そのほうが嬉しいでしょうに」
「あぁ、そうだのう。孫といつまでも話ができるか・・・」
「そう、いっそのこと、お孫さんと遊ぶようにしたらどうですか?。一緒にゲームとかすればいいじゃないですか」
「ゲームねぇ・・・できるかのう、わしに」
「できるでしょ。おじいさんでもできるゲームに参加すればいいんです。頑なに拒んでないで、今の時代を受け入れる、そうしないと待っているのは孤独死ですよ。お孫さんとラインでやり取りすりゃあいいじゃないですか」
「できるかなぁ・・・」
「できるかなぁ・・じゃなくてやるんです。これから携帯屋さんに行って、さっさと年寄り用のスマホを手に入れるんですな」
先輩のちょっと怒った声が本堂にまで聞こえていた。
しばらくして、「ありがとうございました。そうします」と言う声が聞こえてきた。ふすまが開く。そこには頑固そうだが人のよさそうな老人が立っていた。
「あまりうるさく言わないようにね。遊び心を忘れないでください。もう、あなたの時代じゃないんですから」
老人の背中に、先輩は厳しい口調でそう言った。老人は、「はぁ〜」と溜息をつき、「そうですな」と笑って帰って行ったのだった。
「そんなところに突っ立ってないで、中に入れよ・・・。おや、これは夜叉じゃないか。うへぇ〜、本物の夜叉を見るのは初めてだ。すげぇ」
なんとも下品な感想である。語彙がないのか、先輩は。
「お前に言われたかないね、三流雑誌記者のお前にね。さぁ、どうぞ、夜叉殿、中に入ってください。べつに祓おうなんてことはしないですから」
ニコニコしながら先輩は俺たちを部屋に招いた。弘法大師の掛け軸が床の間に掛かっている。いい香りが漂っている。いつもの先輩の寺だ・・・と思い、俺と夜叉は先輩の正面に座った。
「いやはや、生きているうちに善良な夜叉さんに会えるとは。嬉しい限りですな」
「いえいえ、あなたのおじいさまにはいつもお世話になっております」
「あぁ、ジイサンね。まあ、あの人に勝てる人はいないよな。俺も負けるよ」
「えっ?、先輩もですか」
「当たり前だろ。この寺を造った本人だぞ。この寺の初代住職だ。そんな人に俺が敵うわけがない。俺はジイサンの残したものに乗っかているだけだからな」
そうだったのか。あのジイサン坊さん、この寺の創始者?・・・と言っていいのか・・・だったのか。
「あの人はな、まあ、破天荒だったんだよ。法力もあるしな。普通はそうは説かないだろう、ということを平気で説いていたな。しかもそれがうまく当てはまって、多くの人を助けたんだ。まあ、俺のオヤジは、ジイサンのことが大嫌いでサラリーマンになったけどな」
「えっ?どういうことですか?。先輩のお父さんって、坊さんじゃないんですか?」
「違うよ。この寺の2代目住職・・・先代の住職だな・・・は、ジイサンの弟子だ。俺のオヤジは、坊主になるのが嫌でここから出ていったんだよ。俺も坊さんになるまでは、ここに住んでいなかった。親父の家に住んでいたんだよ。ここに来るようになったのは、高校のときかな・・・。いい機会だ。その辺のことを話してやる。お前、聞いたことないだろ?」
「初耳です」
そういうと、先輩はそうかそうか、そうだよな。とボソボソ言っている。
「そうだな、夜叉殿にも会えたので、まあ、これもジジイのおかげだしね。話してやろう」
先輩はそう言って奥に引っ込んだ。しばらくすると、手にお茶とお菓子を乗せたお盆を持っている。
「俺は直接飲むが、あんたたちは香りを楽しんでくれ」
それはいい香りのお茶だった。隣で夜叉も満足そうな顔をしている。

「さて、何から話そうか。そうそう、ジイサンな。あの人は、寺の子供じゃない。親は繊維関係の仕事をしていたそうだ。その親がある日、目覚めたんだな。弘法大師が下りてきた、と言い出したんだ。ジイサン、ビックリしたらしい。親父が狂ったと大騒ぎだったそうだ。あのジイサン、実は全くの無宗教でな。というか、宗教なんぞ世の中に必要ない、と思っていたそうなんだ。だから、自分の父親が、弘法大師だの、仏様など言いだしたから、もうびっくりどころか、自分の親を嫌いだしてね、家を出たそうだ。ジイサンの親父さんはその後、拝み屋を始めてね。まあ、結構な人気だったらしいよ。拝み屋としては、うまくやっていたらしい。そんなころ、ジイサンは大学に行っていたんだが・・・それも理系だよ、驚くだろ・・・体調を悪くしたんだな。ま、悪い霊にとり憑かれたわけだ。そう言うことを全く信じていなかったジイサンだったが、病院に行っても治らない、そのころ住んでいたアパートの部屋の電化製品が次々と不審な故障をする。ジイサン、理系だっただけに家電品の扱いは得意だったらしい。で、その家電製品があり得ない故障を起こしたんだそうな。体調は悪い、家電品は壊れる・・・。そのうちに声をが聞こえるようになった。その声は『助けて、助けて苦しい苦しい』と言っているんだそうな。ジイサン、そんな自分を『頭がおかしくなってしまった』と思い込んだらしい。で、精神科にも行ったそうだが、異常なしだと言われた。安定剤でも飲んで様子を見て、で終わったそうだ。医者に言われるままに安定剤を飲んだが、ついに見てしまったんだな」
「まさか、幽霊を?」
「そう、幽霊を見たんだ。若い女の幽霊をな。で、大嫌いだった父親のもとに駆け込んだんだ」
「それで助かったんですか?」
「あぁ、ジイサンの姿を見るなり、『なんでもっと早く来なかった。すぐにお祓いだ』と怒鳴られたんだそうな。ま、そりゃそうだな、俺でも怒鳴るよ、そんな状態を見たらね」
「お祓いで助かったんですね」
「あぁ、助かった。それどころか、それがきっかけでじいさん目覚めてしまった。それ以来、いろいろなものが見えるようになってしまったんだよ」
それは災難だったろう、と俺は思った。こっちの世界、死者の世界が見えるのは、厄介なことだと、今ならわかる。
「そう、厄介なことにな・・・見える、聞こえるようになってしまったんだ」
先輩はそう言うとお茶に手を伸ばしのだった。


「そりゃ、厄介ですねぇ」
俺はしみじみとそう言った。死者の姿が見える、その声が聞こえるのは・・・そりゃ嫌だろう。下手をすれば気がおかしくなるんじゃないかと思う。
「そう、ジイサン、気が狂いそうだったらしい。で、父親に見えないものが見える・聞こえない言葉が聞こえるという話をしたら、『すぐに高野山に行け。わしの師匠に話をしてやる』と言われ、大学を中退し高野山のとあるお寺に入ったんだよ」
「でもそれだけじゃ・・・」
「そう、見える聞こえるは無くならない・・・と思うだろ?。それが不思議なことに、それが治まったんだ。毎日、朝夕の勤行に出ていたら、一月ほどして幽霊を見なくなったし、幽霊の声も聞こえなくなった。それで、ジイサン治ったと思い、大学に復学できないかと大学に相談に行こうとして高野山を下りたんだな。そしたら・・」
「また見たり聞いたりしたんですね?」
「あぁ、そうだ。山を下りて街に出たとたん、そこら中に幽霊がいるのを見たんだな。で、助けて・・・という声や恨みの声が聞こえて来たんだそうだ。ジイサン、すぐさま高野山に逆戻りだ。で、正式に坊主になることにしたんだな。ま、それは流れ的にそうなるよな。ジイサンもそう思ったんだが、あのジイサンのすごいところは、『これは一種の能力に違いない。ならば、この能力をコントロールできないだろうか。いや、この能力を自由自在に扱えるようになるまでは、高野山を下りないぞ』と決めたんだな。普通は、コントロールしようなんて思わないんだな。勘弁してくれ、あんなの見たくないし、あんな声聞きたくもない、と思うのが普通だ。ジイサンは、自分の支配下に置こうとしたんだな」
「それができたんですね」
「あぁ、一年ほどで一通りの僧侶としての修行を終え、灌頂を受け、いろいろな伝授も受けたんだな。だが、それでも十分ではなかったらしく、さらに三年ほど高野山にいたらしい。その間、何をやっていたかは詳しくは知らない。ジイサン、その間のことは言わないんだよ。ま、いろいろな次第や経文を読み漁っていたんだろうな。あとは、いろいろな作法を伝授してもらっていたんだろう。で、幽霊が見える・幽霊の声が聞こえるという能力を自由自在に扱えるようになったんだな。それどころか、そいう者への対処方法も身に付けた。それで山を下りて、ジイサンの親がやっていた拝み屋で活動を始めたんだ」
「あのジイサンのお父さんは、その拝み屋だったわけでしょ。ならば、信者と言うかそういう人たちもいたんですよね。お父さんの立場は、どうなるんですか?」
「その頃も、ジイサンの親父さんは拝み屋をやっていたそうだ。信者も結構な数がいたらしい。ま、流行っていた拝み屋だな。ところが、ジイサン、高野山から帰ってくるなり、自分の父親がおかしくなっていると気づいたらしいんだ。『わしのオヤジは欲にとり憑かれていたんだよ。餓鬼がはびこっていたんだな』と言っていたな。で、ジイサン餓鬼の退治をした」
「餓鬼ですって!」
「なんだよ、そんな驚くことはないだろう。あぁ、そういや、お前さん百か日だったぞ。ちゃんと供養はしておいたからな。心配するな。まさか、餓鬼の世界に行っているんじゃないだろうな。いや、そもそも、何でお前らがここに来た?。俺はてっきり百か日の供養のお礼に来たのかと思ったが・・・。ははぁ〜ん、またジイサンに何か頼まれたな?。ふん、おそらく六道を巡ってこいとか言われたんだろう」
その通りである。お陰で俺は生まれかわり先がまだ決まらず、流浪の身である。
「やっぱりな。あのジイサンのやりそうなことだ。で、地獄を見終わって、今は餓鬼の世界か?」
「そうなんです。その通りです。さすが先輩、何もかもお見通しですね」
「そんことが言えるようになったんだ、お前も。出世したじゃないか」
「そう言う嫌みを言わないでくださいよ。本気で言っているんですから。先輩の読み通り、ジイサンに頼まれたんですよ。六道を取材しろって。で、私の四十九日が終わった後、地獄めぐりがスタートしたんです。で、地獄が終わって、今は餓鬼の世界を見て来たところです。夜叉さんと一緒に」
「ほう、夜叉殿は案内人か。それはまた厄介なことを押し付けられましたな。あのジイサン、人使いが荒いからな」
夜叉さんも俺も「そうそう、その通り」と、首を縦に何度も振った。
「で、なんでそのお前たちがここにいるんだ?」
「実は、餓鬼を追って現世にやってきたんですよ」
俺は現世にやってきたいきさつを先輩に話した。餓鬼の世界にいて、その世界が他の世界につながっていることを知ったこと、まずは人間界に行ってしまう餓鬼を追いかけてきたこと、現世に来たら夜の新宿に到着したこと、そこで多くの餓鬼を発見したこと、その餓鬼の一匹が人にとり憑いたこと、それを追いかけようとしたら百か日の供養があり観音様のところへ飛ばされたこと、そこで観音様の心に触れ感動したこと、そしてそのあとこの寺に飛ばされたのだ、ということを簡単に説明した。
「そうか、観音様にお会いしたか」
先輩はそう言って、本尊様の方を見た。先輩の寺の本尊は観音様である。
「まあ、そうだよな、百か日だからな。観音様にも会うよな。最近は、百か日をしない坊さんも多いが、もったいないよなぁ。観音様と会えるチャンスを失くしているんだからな・・・。まあ、ちゃんと供養したおかげで、お前は観音様に会えたわけだ。奥さんと俺に感謝しろよ」
と先輩はふんぞり返りニヤニヤしたのだった。こういうところがムカつかせるところなのだ。しかも、俺がムカつくことを知っていてわざと言っている。ある意味、嫌な先輩である。なので、俺はすかさず
「もちろん、感謝していますよ」
と言い返した。が、これが失敗なのだ。「感謝している」という、この言葉を言わせたかったのである、先輩は。俺に説教をするために、である。
「うそつけ、忘れていたくせに。お前、奥さんとどれだけ会っていない?。少しは、覗いたのか自宅を?。子供の様子を見に行ったか?。どうせ、地獄巡りが忙しくて四十九日以来、一度も自宅を覗いていないだろ。そういう奴だよお前は。仕事熱心なのはいいが、家庭を顧みないのはいかんな。生きているときからそうだったから、早死にするんだ。仕事なんぞ、そこまで熱心にするもんじゃない。ジイサンの依頼なんぞ、適当に流しておけばいいものを・・・。まあ、お前のそういう性格を見込んで、ジイサンもお前に依頼したんだろうけどな・・・」
そう捲くし立てられた俺は、何も言い返せなかった。まさにその通りである。すっかり家のことを忘れていた。百か日も忘れていた。仕事が面白くなり、夢中になると周囲のことが見えなくなる・・・。どうもこの性格は、死んでも治らないらしい。バカは死ななきゃ治らない、なんて昔の人は言ったそうだが、死んでも治らないのが現実だ。
「ふん、少しは反省したようだな。まあ、心配するな、お前の奥さんはしっかりしている。なんせ、守護霊がいいからな、元気でやっているよ。安心しろ」
俺は素直に頭を下げ、「すみません・・・」と言った。ついでに女房の守護霊のおじいさんにもすみません・・・と声には出さず頭を下げたのだった。隣で夜叉が「やれやれ」と言う顔で俺を見ているのがわかった。

「しかし、よくもまあ、お前さんもやっているよなぁ。ホント好きだねぇ。こんなことを引き受けてなけりゃ、今頃は天界で天女と戯れていたかもしれないのにねぇ」
先輩は、俺の顔を「なんて気の毒な人なんだろうな」と言う目で見つめていた。ある意味、気の毒かもしれない。しかし、いい思いもしているのは確かだ。何よりも、いろいろな世界を巡るのは面白い。一種の海外旅行だと思えばいいのだ。
「なるほどねぇ。まあ、お前さんにしてみれば海外旅行のようなものか。付き合わされる夜叉殿はいい迷惑でしょう」
先輩はそう夜叉に問いかけると、夜叉は「とんでもない、結構楽しいですよ」などと言って笑ったのだった。先輩は笑った夜叉は迫力があるな、ちょっと怖いぞなどと言って喜んでいた。
「そうか、そういうわけでここに来たのか。なるほどね、じゃあ、ジイサンの話もちょうどよかったんだな」
「そうそれですよ。ジイサンのお父さん、餓鬼にとり憑かれたんですか?」
「まあ、ジイサンにはそう見えたんだろうな。餓鬼が父親の背に乗っていたそうなんだ。ま、たまに見るけどね、背中に餓鬼を乗っけている人は」
その話を聞いて、やっぱり餓鬼は人の背中に取り憑くんだ、と思った。俺たちが見た餓鬼もそうだった。
「餓鬼って、背中に張り付くというか、取り憑くんですね・・・」
「なんだ、見たのか、餓鬼がとり憑く様子を」
「はい、目の前で見たんです。あの餓鬼があんなに素早く動けるなんて・・・、ビックリしましたよ」
俺は、餓鬼が酔っ払いにとりついた時の様子を先輩に話した。先輩は、ニヤニヤと頷きながらその話を聞いていた。
「まあ、そうなんだよ、餓鬼がとり憑くときは。素早いんだよな、そういうときだけは。あぁ、逃げる時も案外早いな・・・。ま、それはいいとして、ジイサン、父親に言ったそうだ。『あんたは餓鬼にとり憑かれている。いったいいつからだ?。欲深くなったのはいつからだ?』とね。それを聞いた父親は、激怒したそうだ。『生意気言うんじゃない。俺は欲なんぞに負けていない』とな。だけど、ジイサンも負けていない。『オヤジ、そんなことを言っても無駄だぞ。俺には見えているんだから、背中の餓鬼がな』と言ったんだな。その途端、父親は顔面蒼白になり『うるさいうるさい出ていけ』といきなり暴れ出したそうだ」
「餓鬼にとり憑かれるとそんなふうになっちゃうんですか?」
「まあ、そうなるな。正体を見破られると、暴れるしかないだろ、餓鬼なんて本体自体は弱いからな」
そう、餓鬼は弱いのだ。蹴飛ばせばバラバラになって死んでしまう。まあ、すぐに生き返るのだが・・・。
「あのジイサン、そういう者が見える上に、いろいろな祈祷法を身に付けていたから『ち、仕方がないな。オヤジ、悪いな』とか言って、さっさと背中の餓鬼を打ちのめしてしまったんだな。ま、親父さんは当然気絶した。で、親父さんの目が覚めた時にいつから欲に負けたかと問いただしたそうだ」

先輩の話よると、拝み屋はちゃんとした修行をしていないから誘惑に弱いそうなのだ。また、拝み屋をやっていると、これが結構相談者がやってくるのだそうだ。一種の新興宗教じみた感じなってくるのだそうだ。で、その拝み屋を信じ込んでしまった人は、いくらでもお金をつぎ込むようになってしまうのだ。拝み屋もそれがわかると、もっとお金を取ろうという欲が出てくる。さらに、一種の教祖的存在になるから、人々から尊敬されるようになる。多少のわがままも信者は聞いてしまうようになる。そのうちに天下を取ったような気分になってしまうのだそうだ。自分に酔ってしまうのだ。さらに悪い拝み屋になると、信者の異性に手を出す者もいるらしい。幸いあのジイサンの父親は、女性には手を出さなかったらしい。まあ、危ないところではあったそうだが・・・。もう少しジイサンが家に帰るのが遅かったら、おそらく女性にも手を出したのではないか、とジイサンは言っていたそうだ。ジイサン、自分の父親を相当追求したらしい。そのためか、親父さんは拝み屋としての自信をすべて失ってしまったのだ。もうやっていけない・・・、もうわしはダメだ・・・そう言って、しょぼくれてしまったのだ。結局、そのまま拝み屋を引退することになった。父親のもとに集まっていた信者は、息子であるジイサンが引き継ぐことになったのである。
「あのジイサン、それから十年後にこの本堂を建てたんだな。まあ、土地も少し買い足したようだ。『そりゃ、必死に働いたぞ』とジイサン言っていたな。まあ、いい信者さんもついたしな。寄付金も結構集まったらしい。で、拝み屋から寺に昇格させたんだな」
そう一気にしゃべった先輩は、ぬるくなったお茶を飲み
「だから、あのジイサンには勝てないんだよ。俺は適当だからな」
とつぶやいた。

「先輩のジイサン、お坊さんの名前はなんていうんですか?」
「あ?、あぁ、ジイサンか、法栄だ。ホウエイ」
ちなみに、先輩は教栄という。
「法栄僧正だな。ジイサン、この寺を建てたころに結婚をした。本人は結婚なんぞするつもりはなかったそうだが、信者の勧めもあってね。で、子供はできたんだが、跡を継がせる気は初めから無かったらしい。『世襲は寺をダメにする。寺は住職個人のものではない。だから、世襲はしない』と宣言したそうだ。まあ、俺のオヤジも初めから坊主になる気はなかったそうなので、ちょうどよかったんだけどね」
「それで弟子を取ったんですね」
「そう、弟子が跡を継いだ。ジイサンは、弟子を取ると厳しく鍛えたそうだが、その弟子はおとなしい人だったそうで・・・。まあ先代だから、俺もよく知っているんだが、うん、おとなしい人だったな。控えめで目立たない人だった。でも、法力はあったほうだ。よく祈願も効いたようだし、お祓いもやっていたからな。ただ、話がな、ジイサンのようにはいかなかったんだな。ジイサンは、相手を丸め込むような話術を持っていたからな。聞いているほうは、いつの間にか黒いものが白くなったような、そんな感じになってしまう。ジイサンと話しているうちに、いつの間にか悩みがなくなってしまうんだな。先代には、それがなかったな・・・。ま、それが普通なんだけどな。ジイサンが異常なんだよ」
「そうなんですよねぇ。あのジイサンに言われると、なんかいつの間にかあのジイサンのペースにはまっているんすよね。で、知らないうちに『はい、わかりました、引き受けます』って言っているんですよ」
隣で夜叉がうなずいている。
「あっはっはっは、そうそう、そうなんだよ。それ、あのジイサンの得意技。一番の得意技じゃないか、人を丸め込むこと。ジイサン、自分で言っていたよ。『わしにこんな才能があるとは、学生の頃は思っていなかった。もっとも、これほど話がうまくできるのは、本尊様のおかげだがな』とね。まあ、そう言うもんなんだろう」
先輩は、ちょっと遠くを見るような目をしてそう言った。
「ところで、先輩はどうして坊さんになったんですか?。さっき、初めは寄り付かなかったようなことを言ってましたが。確か、ここに来るようになったのは高校生の頃とか・・・」
「うん?、そんなこと言ったか?・・・まあ、いい、ついでだから話しておこうか」
先輩はそう言うと、いったん黙り込んだ。どこから話そうか迷っているかのようだった。



「俺がジイサンと関わるようになったのは、高校生の時・・・高校1年だったな」
先輩は、腕を組んでそう話し始めた。
「きっかけは、高校受験だ。受験前にジイサンに合格祈願をしてもらおうという話になった。その頃は、先代の住職も弟子としてここで働いていたな。まあ、俺としては、いくら合格祈願なんぞしても関係ないと思っていたから、合格祈願なんかどうでもいいと思っていたんだがな・・・、あ、今は違うぞ、合格祈願もやったほうがいいと思っているぞ。効果はある。祈願はすべきだ。寺も儲かるし。むっふっふっふ」
真面目な話の間に、こういうせこい話を入れてくるのが先輩だ。もっと真面目に、真摯に話をすれば信者さんも喜ぶんじゃないかと思うのだが・・・。
「バカたれ。こういうゲスな話をするのは、お前だけだ。普段は真面目に話しておるわい。まったく、冗談も通じないのか、お前は。バカモノ!」
隣で夜叉が笑っている。先輩のこういうところは、ジイサン坊さんに似ているんじゃないか、と俺は不貞腐れながら思った。すると、
「似てない、断じて似ていない!」
とすかさず飛んできた。やっぱりそっくりだ・・・。
「くだらないことを考えているなら、話を止めるぞ・・・。まあいい、続けてやる。中三の時にジイサンに高校合格祈願をしてもらいにここに来たんだよ。その時にな、ジイサンに言われたんだ。ジイサンは、俺をじーっと見て、俺だけに聞こえるように
『お前、なんとなく人の心が読めるな。いや、たまに見えてはいけないものが見えるだろ』
と言ったんだ。俺はドキッとしたよ。その通りだったからな。だけど、親の手前もあって、俺は『はぁ?、何のこと?』としらばっくれた。するとジイサン
『まあいい、いずれお前はここにやってくるからな、その時に話そう』
と、また小声で俺に言ったんだ。あとから父親に『オヤジ、何か言っていたが、何のことだ?』と聞かれたよ。ま、俺は『もっと頑張らないと落ちるぞ』と言われただけだ、と答えておいたがな。それに、寺に来る気もなかったからな。どうでもいいや、と思っていたから。まさか、受験が終わって高校へ通いだしてから、間もなくジイサンのもとに来るとは思わなかったよ」
先輩は、そう言うとちょっとむすっとした顔をして茶を飲んだ。

「高校へ通い始めたころ、どうも教室が・・・いや学校自体が黒いものに包まれているような気がしたんだな。なんだか、嫌な雰囲気だったんだ。で、そのうちに体調が悪くなってきた。しかも、妙な声が聞こえるようになった。初めは、うなるような声だったんだが、そのうちにはっきりしてきた。それは、恨み言だったんだよ。
『なんで成績が上がらないんだ・・・あの先生の教え方が悪いんだ』
『また振られた・・・なんで俺はもてないんだ、何であいつばかり・・・』
『あぁ、もういや、死にたい!』
などなど、高校生なら誰もが思う悩みの声や恨みの声、嘆きの声が聞こえるようになったんだよ。それは・・・」
「それは、死霊の声ではなく、生きている者の声・・・心の叫び・・・だったんですね」
「そうなんだ。俺はな、中学の頃からも多少そのケはあったんだが、ジイサンが言った通り、何となく人の心がわかってしまうんだ。中学の頃は、まだたいしたことはなかった。うっとうしいな、と思っていただけだ。勉強にも差支えはなかった。人間関係もとりあえずうまくやっていた。俺が、周囲の心の声を無視すればよかったからな。それに、それほど強烈にわかったわけではなかったんだよ、中学時代は。おそらく、ひどく敏感になったのは、この寺に来たせいだろ。そのせいで、敏感になってしまったんだろうな。ジジイが悪いんだ」
先輩は、さも忌々しそうにそう言った。もっともジイサンが悪いわけではない。ジイサンは、きっときっかけにすぎなかったのだろう。人の心が読めてしまうというのは、もともと先輩の能力と言うか、素質だったのだ。
「そんなことはわかっているよ。ホント、嫌な能力だよ、これは・・・。人付き合いできないからな・・・」
先輩は下を向き、フッと苦笑いした。

「まあ、そんなんで、俺はあわててここに来たわけさ。ジイサンに相談したんだ。ジイサン、
『この状態では、高校生活はままならないな。どうだ、高野山に行くか?。高野山高校に転校しないか?』
と言い出すんだな。俺は坊主なんて絶対いやだったからすぐに断った。ジイサンも『そりゃそうだな』などと笑っている。全くそう言うところがムカつくんだな。何もかもわかっているような態度がな」
そう言う先輩も同じである。本人は気づいていないのだろうか?
「似てない。断じて似てない、同じじゃない。それでな、ジイサン
『しょうがないな。その力、抑えておいてやろう。しかし、抑えるだけしかできない。その力、無くすことは無理だ。しかも、抑えは3ヶ月ほどしか保たない。だから、3カ月ごとに来い。しかしまあ、時期が来たら、その力を制御できるようにするんだな。それまでは・・・仕方がなかろう』
と、その時は妙に優しく言ったな。きっと、高校生でそんな力があることを憐れんでいたんだろうな。ま、そういうことで、俺はここに3ヶ月ごとに通うことになった。面倒くさいことにな。でも、一度、さぼったことがあってな。その時は大変だったな。一気に周囲の者たちの心の声が俺の頭に流れ込んできて、俺は気絶してしまったんだ。だから、真面目に3ヶ月ごとジイサンのもとに来たんだ。ジイサン、そのたびに『高野山に行く気はないか?。坊主にならないか?』と言うんだが、いつも俺は拒否していたな。大学も工学部だったしな」
そうなのだ。先輩は俺と同じ大学なのだが、向こうは工学部、俺は社会学部だったのだ。先輩と知り合ったのはサークルでだった。
「しかし、結局、大学で妙なサークルに入っちまった。世の中の不思議を解明しようなんてバカなサークルだったよな」
「あの時の部長のセリフ、まだ覚えていますよ。世の中に不思議はない、すべて解明できるんだ、科学的にな。いや、心理的にも、だ・・・なんて、息巻いていましたからね」
「あぁ、宗教のウソをあばく、とかな。だからこそ、そこに入ったんだけどな、俺も」
「そんなに宗教が嫌いだったんですね」
「大学時代も言っただろ。宗教なんて嘘の塊だ、人間の心の弱みに付け込んで、金儲けする汚いものだ、ってな。まあ、今となっては、そんな俺が宗教者だからな、わからないものだ。もっとも、今でもインチキな宗教は嫌いだけどな。人を洗脳するような、バカバカしい宗教なんぞ、クソくらえだと思ってるからな」
昔から先輩はそうである。新興宗教の奇跡的な話んぞ、これっぽっちも信じていなかった。ある宗教者のことを何が解脱者だ、なんて吐き捨てるように言っていた時期もあった。坊主なんぞ、クソの役にも立たない、なんて息巻いていた時もあった。
「それが今じゃ坊主だ。もっとも、腐った坊主ではないがな。それもこれもジイサンの影響だな。大学時代も俺は相変わらず、3ヶ月ごとにジイサンのもとに通っていた。まあ、ジイサンの祈祷で俺の変な力は抑えられていたんだが、妙な心境だったよ。片方で宗教を否定し、奇跡を否定し、御祈祷を否定しながら、その御祈祷にすがっているんだからな。矛盾してる人生だな。ま、抵抗していた、だけなんだけどな。素直じゃなかったんだよ。だけど、大学になってからは、ジイサンの話も聞けるようになってきた。少しずつな。で、本来の仏教が目指していたものを知ることになった。今の仏教とはまるで違うんだな。本来の仏教は、一種の心理学だ。心の病を治す、そんな教えだ。そこから仏教に興味を持ち始めたんだ」
「それで大学を卒業すると高野山に行っちゃったんですね」
「あぁ、就職するのも嫌になってたしな。一生、ジイサンに頼るわけにいかないしな。向こうの方が早く死ぬし。しかも、仏教では俺のこの変な力は何ともならなかった。だから、ジイサンが言う『密教でしかお前の力は制御できないぞ』という言葉を信じて、俺は高野山に行って、修行することにしたんだ。そのおかげで、今では、仕事以外では、人の心を読むことはなるべくしないようにしている。制御できるようになったんだよ。お陰で結婚もできた。それまでは、恋愛も難しかったからな。なんせ、相手の心がわかってしまうからな。恋愛は長続きしないよ」
そういえば、先輩が彼女を連れて歩いている姿は、あまり見なかった。彼女ができても結構早く別れることも多かったように思う。ノリで風俗なんかにも行ったことはあったが、あまり面白そうではなかった。それもこれも、相手の気持ちが、本音がわかってしまったからだろう。知りたくもない心の声、知らないほうがいい本音を知ってしまうのは、辛いことだと思う。
「そう言うことだ。彼女も、付き合い始めは楽しい。相手も心から楽しんでいるのがわかる。だがな、人の心は移ろうものさ。次第にいろいろな欲求や不満が出てくる。浮気心も出てくる。それは彼女も俺も同じなんだけどね・・・。まあ、わかってしまう俺のほうが不利だよな。何とか彼女の欲求にこたえようとすると、初めのころはそりゃ『どうしてわかったの?』なんて喜んでくれるからいいけど、そのうち『怖い・・・ひょっとして盗聴でもしているのかも・・・』になっちゃうんだよね。だから、彼女の欲求に応えるバランスが難しいんだな。そのうち面倒くさくなってくる。
『俺は人の心が読めてしまうんだ』
なんて告白しようものなら、笑い飛ばされるか、頭がおかしいんじゃないのと言われる始末だ。気味悪がられるんだよ。ま、高校時代からそうだったから気にもならないけどね。でも、寂しいわな。なんで、俺だけが・・・なんて悩んだり恨んだりしたこもあったけど、そんなことをしてもどうしようもないわな。だから、この力をうまく制御できるようにしようとしたんだよ、ジイサンがしたみたいにな」
そう言った先輩は、どことなく寂しそうで悲しそうだった・・・。

「ま、高野山に行ってよかったよ。人の心がわかってしまう能力もコントロールできるようになったし、お前らみたいな幽霊とも渡り合えるようにもなった。ジイサンのおかげでいろいろな作法も身に付けた。いろいろなことがわかるようになったからな・・・。しかも、結婚もできた。うちのカミさんは、面白いヤツで初めて会ったとき、
『俺は、人の心が読めてしまうんです。そんなんでも付き合えますか?』
と言ったら『それがどうしたんですか』と答えたんだよな。そんな女、一人もいなかった。すぐに結婚する気になったよ」
確かに先輩の奥さんは変わっているほうなのだろう。見た目は、ものすごくキレイなのだが、本人は全くそのことを意識していない。しかも、腹が座っているというか、物事に動じないような感じがするのだ。度胸が据わっていると言ったほうがいいかもしれない。見た目とは全く違うのだ。ああいう女性は、先輩のような人しか扱えないのかもしれない。
「しかも、
『私を扱うのは難しいって人は言うから、私の心がわかってくれる人の方がいいと思います』
と普通の顔をして言うんだよ。これには俺の方が驚いたよ。実は、紹介された時にどんな女性か心を読もうとしたんだが、よくわからなかったんだよな。うまく読めなかった人は、カミさんだけだった。あの人は特殊なんだよ、きっと。案外、俺の心を読んでいるのかもしれない、と思うこともあるしな」
と先輩が言ったとき、
「一人でそうやってしゃべっていると、頭がおかしい人だと思われるわよ。もう少し小さい声でしゃべってください」
と言いつつ、先輩の奥さんがコーヒーを持って我々のいる部屋へ入ってきたのだった。もちろん、奥さんには我々の姿は見えていない。だけど、そういう時は幽霊としゃべっているんだと心得てはいる。なので、先輩の向かいのほう、俺たちが座っているほうを見て、少しニヤッとしたのだった。そして
「聞新さん、自宅も覗いてくださいね。こんなところでうろついていないで」
と言って部屋を出ていった。俺はびっくりしてしまった。先輩はニヤニヤ笑っている。
「あの・・・奥さん、俺たちが見えているんですか?」
思わず先輩にそう聞いてしまった。そんなはずはないと思うのだが・・・。
「見えてないよ。話の内容でお前が来たと思ったんだろ。見えてない証拠に夜叉殿には声をかけなかった。もっとも、夜叉殿を見たら、さすがに驚くよ」
先輩はそう言って笑っていた。
「ま、俺がコーヒーを飲みたがるタイミングは絶妙だがな。あれは、テレパシーかもしれないな」
コーヒーを飲みながらそう言う先輩は、嬉しそうな顔をしていたのだった。
「ところで、先輩の後は誰が継ぐんですか?」
先輩には子供がいたはずだ。確か男の子も女の子もいたと思う。先輩のお子さんは、お坊さんになるのだろうか?
「俺も世襲は嫌いだ。坊主は世襲じゃないほうがいいと思っている。だから、息子には跡を継がせない。もっとも、本人も坊さんなんてやりたくないと言っているがな。子供たちは、ここには寄り付きもしないよ。まあ、それでいいんだが」
「じゃあ、やっぱり弟子を?」
「そうだな。そうなるな。ただいま、絶賛募集中だ。だけどな、最近は坊さんになりたいっていう者は少ないようだ。寺の息子でも跡を継ぎたがらない時代だからな。うちなんて檀家寺じゃないから気楽なんだけどね。ま、その反面、坊主としての腕が悪けりゃ、生活に困ってしまうけどね。いずれにせよ、そのうちいい弟子が来るだろ。すべて本尊さん任せだな」
やはり先輩も世襲はしないようだ。本来そう言うものだし、寺を私物化してしまうのは問題だから、先輩はそう言うのだろう。そのあたりはジイサン坊さんにそっくりだ。

そんなことを考えていると、先輩がニヤニヤして
「さて、本題に入るかな」
コーヒーカップをテーブルに置いて先輩はそう言った。
「え?、本題って・・・」
「お前、死んでから物忘れが激しくなったのか? 地獄で毒気に当たり過ぎたのか? 何しにここに来たんだ? あぁ、飛ばされたと言っていたな。俺はよく覚えているぞ。飛ばされたなら飛ばされたで、何か意味があるはずだろ?。意味もなく、観音様がここへお前らを飛ばすわけはないだろうが」
いつもの先輩らしくなってきた。俺を見下すような、その態度。いや、俺だけじゃない。すべてを見下すような態度が先輩の普段の姿である。
「バカモノ、俺はすべてを見下してなんかいないぞ。バカな連中だけ見下しているんだ。そう言う連中が多いだけだ。その代表がお前だ。そんなことはいいから本題に入れ。わからないのなら、その腐った頭で考えろ!」
先輩の罵倒・・・いつものことだが・・・が本堂まで響いたのだった。


ここに誰かほかの人がいたら、不思議に思うことだろう。いや、中には「あぁ、ついに住職が狂った」と思うかもしれない。なぜなら、先輩は誰もいないのに会話をし、怒鳴っているのだから。
「大きな声を出すと、先輩が狂ったかと思われますよ」
俺はそう言い返した。
「誰もそんなことを思わないよ。たまに姿が見えない相手としゃべっているところを目撃されているからな。ウチへお参りに来る信者さんは、もう慣れっこだ」
ふん、と鼻息を飛ばし、先輩はそっくり返った。はぁ・・・この人には勝てないや、と俺はため息をつく。
「俺に勝とうなんざ、百万年早い。さぁ、どうなんだ、考えたのか?」
観音様が俺をここに飛ばした理由・・・確かに、何の意味もなくここに飛ばすわけはない。だとすれば、答えは一つだ。それは
「餓鬼について教えてもらえ、ということですね」
俺はちょっと真剣な感じでそう言ってみた。
「ふん、そうだ。少しは頭が働いたか?」
そう言って、俺を見る。ふっと先輩が笑った。
確かに、俺の頭は鈍っていたかもしれない。地獄を見て回り、餓鬼の毒気に当たり、俺の取材者としての頭の働きは鈍っていたかもしれない。以前ならば、ここに来た途端、「なぜここにいるのか」ということを考えただろう。
「餓鬼界はな、餓鬼そのものは地獄のように罰を受けるわけではない。食えない・飲めない、すぐに身体が壊れる・・・ただそれだけだ。そんな刑罰って辛いか?。お前、餓鬼たちを見て辛そうに思ったか?。地獄に送られた者のような苦しさが餓鬼にあったか?。以前のお前ならば、気が付いたはずだぞ、そんなことくらい。よほど、地獄の毒気、餓鬼界の毒気は強烈だったようだな」
そう言われて初めて気が付いた。そうだ、餓鬼って・・・それで罰になっているのか?。あいつらは、それほど苦しそうではなかった。ただ、ひたすら川に向かって歩いていただけだ。もちろん、身体は脆い。すぐに壊れる。餓鬼同士争うこともあるが、すぐにお互いが壊れ、再び蘇るだけだ。そこに苦しみはあるのだろうか?。あの地獄のような苦痛はあるのだろうか?。
川に至り、その水を口にしたとたんの苦しみや痛みはあるだろう。絶望感もあるに違いない。しかし、川の水を口にし焼けただれても、死んですぐに餓鬼に生まれ変わる。また川の水を口にしたにしても、死んで生まれかわるだけだ。しかも、それを繰り返しているうちに学習する。川を下り始め、他の世界へ流れていくのだ。そこには苦しみはあるのだろうか?。ただ流されて生きているだけではないのか?。それが罰に当たるのだろうか?

「ようやく頭が回り始めたな。夜叉殿もこんな鈍い奴と一緒じゃあ、疲れますな」
「いえいえ、それなりに楽しんでますよ」
なんと夜叉がそう答えたのだ。先輩は、「夜叉がしゃべった。なかなか渋い声だ!すげぇ」などとはしゃいでいる。
「夜叉の声だぞ。なかなか直接聞けるものじゃないぞ。嬉しいじゃないか。それだけでもお前がここに来た甲斐はあったな。もう帰ってもいいぞ。あはははは」
全く、本気なのか冗談なのか・・・。それにしても、俺もうかつだった。餓鬼の苦について、考えてもみなかったのだから。話をもとに戻そうと、俺は質問した。
「餓鬼界って、六道輪廻で言えば、下から二番目ですよね。つまり、それだけ苦しい世界だ、ということですよね。でも、意外と餓鬼たちは苦しんでいなかったように思います。今から思えば・・・そうですね、餓鬼たちは、その世界をたくましく生きていた、と言う感じなんですよね。それで地獄に次ぐ苦の世界と言えるんでしょうか?」
「今頃気付くとは・・・。もっと早く気づけよ。あのなぁ、餓鬼はな、ちょっと特殊なんだよ」
そういうと先輩は俺をまっすぐに見て来たのだった。
「餓鬼は確かに身体が脆い。すぐに壊れる。壊れる時の苦痛は、地獄の刑罰で受ける苦痛と変わらない。だが、壊れるのは一瞬だ。つまり、痛みも一瞬で終わる。で、すぐに元の姿に生まれてくるのだが、その時も苦痛を伴う。復活の痛みだな。その痛みも地獄で受ける刑罰並みの痛みと苦しさだ。だが、これも長い苦痛ではない。お前も見ただろ、餓鬼の復活を」
「えぇ、意外と早く復活していました」
「だよな。だから地獄のように長い苦痛じゃない。もちろん、身体は腐っっているから、絶えずどこかは傷んでいる。だから、痛いとか苦しいとかは感じているだろう。しかし、地獄ほどではない。耐えられる痛みや苦しみだ。地獄の刑罰はその苦しみや痛みに耐えられないから、罰を受けるものを縛ったりするがな、餓鬼は放置だ。逃げ出したくなるような苦しみではない、ということだ。あいつらは、ただ飢えているだけなのだよ。ま、飢えの苦しみはそりゃ大変だろう。しかし、地獄に比べれば雲泥の差だな。飢えて死んで生き返り、身体が壊れて死んで生き返り・・・それを繰り返しながら、あいつらは川へ向かうんだな。そうだっただろ?」
俺はそう問われて、気付いた。先輩は餓鬼の世界を見たんだろうかあ?。あまりにも詳しすぎる。
「俺が餓鬼の世界に行くわけがないだろ。お前の見たものを俺も見ているだけだよ。もっと簡単に言えば、お前の餓鬼界での記憶を観てるだけだ」
「ちょちょ、ちょっと待ってください。それって・・・俺の記憶を見てるって、本当ですか?、もし本当なら、それって・・・ヤバいじゃないですか」
「バカモノ、心配するな。必要なことしか見えないから大丈夫だ。というか、観音様の力によって必要なことを観させてもらっているんだよ。もっとも、お前の性的行為が今必要なことならば、そのまま見えるがな」
先輩は横目で見て、ニヤッとした。
「ちょっと待ってくださいよ。まさか・・・」
「だから、必要じゃないから見てないって。お前と・・・相手は誰か知らんが、そのシーンを見る必要はないだろ。全く・・・。何もかも見えているわけじゃない。必要最小限のことだけだ」
俺はほっとした。まさか、女房との夜の行為まで見られたら、それは嫌だ。あ、そういえば、相手は誰か知らないが、と言ったが、それは断じてない。絶対ないとは言わないが、そんなに回数はない。そうか、そこは見えていない、と言う意味で言ったのか・・・。
「そういうことだ。関係のないことは見えていないよ。今は、餓鬼界のことが必要なことだから、お前が見た餓鬼界を俺も見ているだけだ。だから、さっき言っただろ、俺は中学生のころから、何となく人の心がわかってしまうって。高校生になって、それが激しくなったって。俺の話には無駄はない。こうなることを予測して、俺の話をしておいたのだ。応用しろよ。お前が、そこに気付かないから話が横道にそれたじゃないか」
そう言うことだったのか。先輩がお坊さんになった過程を話したのは、相手の心が読めてしまう、ということを俺に教えるためだったのだ。
先輩が、相手の心を読めるのはある程度は知っていた。俺の心を見透かすことがよくあったからだ。生きているときも死んでからも・・・。だが、記憶がそのまま見えることは知らかなかった。それも観音様の力なのだ、と先輩は言うが、持って生まれた性質というものもあるのだろう。それにしても驚かされる。
「驚かないように、前もって話をしておいたのだ。応用できないお前の頭が悪い。話を戻すぞ。いいか、俺はお前が見た餓鬼の世界を見てるだけだ。それを忘れるなよ」
先輩は、俺を一睨みしてから話しを始めた。

「お前も見たとおり、餓鬼たちはそれほど苦しんではいない。地獄のような苦しみはないのだ。じゃあ、なぜ、餓鬼界は下から二番目に苦しい世界に位置しているのか?。それはな、一言で言えば、絶望感だ。餓鬼界には希望がないのだよ。それを餓鬼たちはよく知っているのだ。その醜い姿、食えない飢えた状態、簡単に壊れる身体、死んでも死んでも死んでも餓鬼に戻ってしまう状況・・・。救われるという希望がないのだよ、そこにはな。餓鬼たちはいつもそう思っているんだ。救われない・・・永遠にこのままだ・・・とな。いいか、地獄はまだ希望があるんだよ。刑罰を耐え忍べば、地獄から解放されるかもしれない、という希望があるのだ。鬼たちもそう導くよな。鬼たちは、いろいろ脅し文句や罵声を浴びせながら、どうすれば地獄から脱出できるかを教えていただろ?」
「はい、そうでした。鬼たちは何かと罪人の罪を口にし、反省を促し、心を改めることを罪人を痛めつけながら話していました。あぁ、そうか。餓鬼界には鬼はいなかった。というか、管理者がいなかったですね。夜叉さんから教えてもらったのですが、みんな餓鬼界の毒気にやられて餓鬼化してしまうため、管理者を置かなくなったそうです」
「それって、見捨てられたことと同じだろ?」
「あっ」
「あっ、じゃないよ。そんなことも気が付かなかったのか?。まあ、仕方がないか、あそこの毒気はすさまじいそうだからな。なあ夜叉さん」
「はぁ、我々でも長期間は耐えられません。狂ってしまいます」
「そう言う世界なんだよ、餓鬼界は。だが、餓鬼たちは馴染んでしまうんだな。、その毒気に。で、管理者もいない、見捨てられた世界・食べ物も飲み物もない世界で生きていかねばならない、そう言う絶望の中であいつらは生きているんだ。周りは敵だらけだ。誰も協力しない。自分が最も大事、と言う世界だ。ウロウロしていれば潰され続ける。他の餓鬼の犠牲になるのは嫌だ、かといって助かるすべはない。せめて、皆が移動する方向へ移動するしかない・・・。そう考えて餓鬼たちは、絶望の中にも川へ行けば何とかなるかもと言う希望を抱き、川へ向かって移動するんだな。しかし、川に行きついてみれば、そこにも絶望しかないんだよ。こんな苦しみってあるか?。餓鬼界は、絶望の世界なんだよ」
「そうか、だから彼らは移動し続けるんだ。移動すれば何とかなるかも知れないという希望を持っているんだ。じっとしていれば、そこには絶望しかないから、歩かざるを得ないんだ」
「そういうことだ。しかも、期限がない。地獄はまだ期限がある。鬼もそういう。あと何年この刑罰を受ければ救われるぞ、もしそれが嫌なら、お前の子孫に供養を頼め。供養があれば、少しは楽になれるぞ・・・。そう救いを説くんだな、鬼たちは。しかし、餓鬼界には、供養を頼めば救われずかもよ、と説く鬼はいないのだ。すべて自分で何とかしなければならない。周りは敵だらけだしな。そんな世界に行きたいか?」
俺は自分のうかつさに恥じ入った。そこまで気が付いていなかった。何なんだこいつらは、こんなので罰になっているのか?、とそんなことしか思っていなかった。そうか、餓鬼たちは、救いを求めてひたすら移動しているのだ。飢えた状態で、あの身体で、敵だらけの中を進んでいるのだ。希望なんてないに等しいのに・・・。それは、肉体的にも精神的にも苦痛であろう。いや、精神的苦痛はすさまじいに違いない。何より餓鬼たちは、見捨てられた存在なのだ。鬼にすら見捨てられているのだ。それを彼らは承知しているのだ。十分に・・・。そこには、悲しみしかないのだろう。そんな世界は、俺は御免だ。絶対に行きたくない。
「そうだろ。行きたくないだろ。餓鬼界は、もしかしたら、地獄よりも苦しいかもしれないんだよ」

「餓鬼たちは移動してどこへ行った?」
しばらく沈黙をした後、唐突に先輩はそう俺に尋ねた。
「そう、そこですよ。彼らは最初に光っていた場所に入り込んだんです。そこは人間界につながっていました」
「そうだ、この世界にやってきたわけだ。そこで餓鬼は何をした?」
「まず、俺が見たのは、ゴミに集っている餓鬼でした。ゴミあさりです。夜叉さんによると、彼らはそれで飢えをしのいでいるのだと・・・」
「そうだな、ゴミの気を吸収しているんだな。それと、飲食店の換気扇の下だな。そこらへんにあいつらはたむろしている。でも、それだけでは足りないんだよ、あいつらは。餓鬼だけに満足を知らない。もっと気が欲しい、と思うんだな。で・・・」
「人間にとりつくんですか?」
「そういうことだ。お前も見ただろ。餓鬼どもは、とり憑きやすい人間を見ると、ものすごく素早い動きで人間にとり憑くんだ。それは俺も実際にこの目で見たことがあるから、よく知っている」
「以前に見たことがあるんですか?」
「そりゃあるさ。街中に行けば・・・ここから都心は近いからな・・・餓鬼どもがウロウロしているのは前から知っているよ。まあ、俺には近づいてこないがな。消されると思っているんだろ。で、たまに人間に飛びついて、その背中にとり憑くことがある。あぁ、あの人餓鬼にとり憑かれたな、気の毒に・・・とは思うが、餓鬼にとり憑かれるような心を持った方が悪いのだ。自業自得、でもあるからな。仕方がないだろ」
相変わらず、冷たいものだ先輩は、と思ったが、それもそうかと思いなおす。餓鬼にとり憑かれた人に、「すみません、あなた餓鬼にとり憑かれてますよ」などとは言えないだろう。そんなことを言ったら、下手をすれば警察の厄介になってしまう。黙っているのが、得策である。
「そう言うことだ。その人が、私はおかしい、何か変だ、と気付いてうちのようなところに相談に行くまで、救いようがないな」
その通りである。なんとも救う手立てはないのだ。
「ところでそのとり憑いた餓鬼はどうなるんですか?。希望を持てるんですか?。絶望感から解放されるのですか?。いや、そもそも人間界に来た餓鬼には、希望は生まれるのですか?」
俺はついつい勢い込んで質問を重ねてしまった。これは、先輩が嫌うことだと分かっているくせにだ。案の定、先輩は嫌な顔をして
「うるせい奴だなぁ。そう矢継ぎ早に質問をするなと何度も言っただろ。学習能力がないのか、お前は。それはな、今話そう思っていたところだ、バカモノ!」
結局、罵倒される俺だった。


「はぁ〜、全くお前ってやつは・・・」
先輩は大きくため息をついて、俺をにらみつけた。俺は思わず恐縮してしまう。「ふん」と俺をにらみつけてから先輩は続きを話し始めた。
「まずは、人間にとりついた餓鬼がどうなるか、だ。そこから話そう。
例えばだ、お前が見たサラリーマンだが、そもそもその男はなぜ餓鬼にとり憑かれたのか、そこが重要だ。おそらくその男は日ごろ欲望を強く感じていたはずだ。しかも、その欲望はいろいろな理由で全く満たされていない。つまり、欲求不満な状態だな。欲求不満でイライラがピークに達している状態だ。ドロドロの心の状態、そう言う心理的状態でないと、餓鬼はとり憑くことはできない。だから、お前が見たサラリーマンも、欲求不満でイライラがピークに達していたのだろう」
「そういえば、かなり酔っぱらっていましたし、なんか文句を言っていましたよ」
「だろうな。そうでなければ餓鬼はとり憑けないんだよ。つまり、欲求不満で、イライラがピークに達しているような人間に餓鬼はとり憑くんだ。きっとお前が見たサラリーマンは、上司に怒られ部下にバカにされ、家では家族に見下され、それでいてプライドは高く、イライラして爆発寸前・・・ってとこだったんだろうな。だから餓鬼がとり憑くんだ。
で、餓鬼にとり憑かれるとどうなるか。その男は今まで抑えていた欲望を発散するようになる。きっと、今まで言い返せなった上司に反論し・・・たとえば『だったらお前がやってみろ』とかな・・・、部下に『バカにするな糞ヤロウ』と叫び、気に入っているOLさんがいたりすれば『今度、デートしよう』とか『一回付き合ってよ』ぐらいのことは言うだろうな。セクハラするかもしれない。家に帰れば奥さんや子供に向かって『誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ』と叫ぶだろうし、下手をすれば奥さんや子供を殴ったりするかもしれない。ともかく、今まで抑えていたこと、やりたくてもできなかったことを実行するようになるんだよ。ま、とり憑いた餓鬼の欲望の深さにもよるがな」
「とり憑いた餓鬼によって差があるんですか?」
「まあな。ベテランの餓鬼・・・と言うのも変だが、まあ餓鬼界に長年いた餓鬼であればあるほど、欲望が強くなるからな。そう言う欲望が強い餓鬼にとり憑かれると、大変だな。とり憑かれた者は、自分の欲望に従って大暴れ・・・だな。犯罪者になる可能性もある。突然、人を刺したりとかな、強姦したりとか・・・。年数が経っていない餓鬼にとり憑かれると、もう少しおとなしいな。サラリーマンなら、ガゼン仕事に燃え出すとかな。バリバリ仕事をするようになる」
「えっ?、それならいいことじゃないですか」
「ふん、甘いな。餓鬼がとり憑いて張り切りだすんだぞ。そんなのまともじゃないに決まっているだろう?。張り切って仕事をしても的外れ、結局周りがやり直しをしなきゃいけないほどの不出来、バリバリ仕事をしているように見えるが全然進んでいない、内容がめちゃくちゃ、ただパソコンをにらんでいるだけ、仕事もないのに残業はする・・・てなもんだ。会社でたまにいないか?、仕事をしているようなそぶりはしているが全くしていないヤツって」
「あぁ、います、いますねぇ、そういうヤツ。一生懸命に仕事をしているんだけど全然的外れで役にたってないとか、むしろ邪魔とか・・・。仕事をしているフリだけのヤツもいましたよ。取材と称して経費だけ使って遊んでいるヤツとかね・・・」
「だろ?。そういうヤツも、実は餓鬼にとり憑かれているヤツかもしれない。で、その餓鬼はベテラン餓鬼ではなく、新米の餓鬼なんだな」
「なるほど・・・、餓鬼にも餓鬼界にいる年数によって差があるんですね」
「新米の餓鬼にとり憑かれている人は、世の中に案外いるんだよ。餓鬼界から結構な数の餓鬼がなだれ込んでいるからな。それは都会に限らず、だ」
「ひょっとして、この世界・・・人間界の欲望は餓鬼のせいとか・・・」
「まあな、そう言う部分はあるな。否定はできない。例えば、何かの研究者でも、家庭も顧みず何もかも忘れて研究に没頭してしまうような研究者なら餓鬼にとり憑かれているかもしれないな。ただし、そう言う研究者は成果は上がらないけどな。教育熱心な親にも餓鬼にとり憑かれている親がいるかもしれない。あまりに熱心過ぎて子供を虐待する親とかな。まあ、しつけと称して子供を虐待するような親はほとんどが餓鬼にとり憑かれているな。権力の座にしがみついている者もいるよよな。スキャンダルや不正があったにもかかわらず、逃げたり開き直ったりして自分の立場を守ろうとするヤツ。それも餓鬼がとり憑いているんだよ。権力欲餓鬼とか名誉欲餓鬼だな。仕事は適当にして昼間っから女とたわむているとか風俗へ行きまくっているような男も餓鬼にとり憑かれているな。そう言う餓鬼は色餓鬼だな。きっとその餓鬼は生前に女を抱きたくて抱きたくて仕方がなかった者だろう。その思いを達成できずに死んでしまい、エロへの執念の塊になってしまったんだろうな。で、餓鬼界へ転生した。やがて人間界へ流れてきて、似たような男にとり憑いたんだな。で、その男が淫欲に溺れる・・・となるんだな。逆に女性にとり憑けば、淫らな女になるわけだ」
「餓鬼にもいろいろ種類があるんですね」
「あるさ。餓鬼は餓鬼界へ生まれ変わる前の欲望を引きずっているんだよ。人を恨んで憎んで、その恨みを晴らしたくてもできなくて死んでいった者は、『人を憎む、恨む、殺したい』という執念を持って餓鬼界へ生まれ変わる。で、その餓鬼が人間界へ流れてきて、同じような心を持った者を見つけてとり憑けば・・・」
「あぁ、殺人事件を起こすんですね。ひどい場合は無差別殺人とか大量殺人とかになるんですね」
先輩はうなずき、さらに話を続けた。
「教育熱心で、子供を東大へ行かせたかったがそれを果たせず、死ぬまで『子供を東大へ行かせられなかった。うちの子は頭が悪かったから・・・』なんて恨み言を言い続けていれば、その人は餓鬼界へ行くだろう。で、餓鬼から人間界へ流れてくれば、ちょっと過激な教育熱心な親にとり憑き、かなり異常な教育熱心な親へと変貌させるんだ。で、事件になる場合もあるし、子供がひねくれてしまう場合もある」
「じゃあ、本当は女遊びをしたくてたまらなかったのに、お金も勇気もなくて、死ぬまで『いっぱいHがしたかったなぁ。あぁ、したいしたい・・・』なんて死んでいった者は、さっき先輩が言ったような色餓鬼になるんですね?」
「そう言うことだ。で、その色餓鬼にとり憑かれると・・・」
「仕事もせず、淫乱な生活にふけるんですね」
「だな。ま、その餓鬼の度合いによって差はあるがな。だから、お前の同僚で取材と称して経費を使って風俗ばかりに行っていた者は、きっと色餓鬼がとり憑いているんだよ。ま、今会社に行ってみてくればわかるがな・・・」
先輩はそう言うと、ちょっと残念そうな笑いをした。確かに、残念かもしれない。もし俺がその同僚にあったなら、「あぁ、残念なヤツだな」と思うだろう。「だから風俗ばかりに行っていたのか」と納得できる反面、「餓鬼にとり憑かれるなんて・・・哀れなヤツだ」とも思うだろう。しかも、そうしたとり憑かれた者の行く末は・・・。
「餓鬼界だよ。まあ、ひどい犯罪を犯せば地獄経由だけどな。一度地獄へ行き、そのあと餓鬼界だな。長いよな〜、その刑罰は。お前が今思い浮かべた連中は、まあ、このままなら餓鬼界だな」
「はぁ・・・きっと、そうですよねぇ」
俺は追わず溜息をついた。
「だが、どうすることもできないぞ。救うことなんてできないからな。元同僚だろうが、根はいいヤツなんですと思ってもだな、どうすることもできない。それは忘れるな」
そうなのだ。俺がいくら残念に思っても、どうすることもできない。元同僚のもとへ行って、「おい、お前、餓鬼がとり憑いているぞ。このままじゃダメだぞ」とささやいてもどうしようもないのだ。いや、ささやくことすらできないだろう。つまり、俺は元同僚の餓鬼に気が付いても、彼らを救うことはできないのだ・・・。
「餓鬼にとり憑かれた者が救われる方法はただ一つだ。その者が『なんか自分はおかしいぞ。どうしたんだろう。欲望が強すぎてイライラする。やっていることもちぐはぐだ。どうも変だ、おかしい・・・』と気付いて、うちのようなところに相談に行き、正しい対処をしてもらうことだ。もしくは家族が気が付いて相談に行くことだな」
「そうですよね。まずは自分で気が付かないといけないですよね・・・。家族でもいいんですか?」
「まぁな。家族が来たことで、そこから救うきっかけが生まれるかもしれないだろ。うまく餓鬼を取り除くことができるかもしれない。ただし、その方法をよく知っている者のところへ行かないとだめだけどな」
「あぁ、そうですよね。変な拝み屋のところなんかに行ったりしたら、大金を取られるだけで何にもなりませんよね」
「悪化する場合もあるな。大金を巻き上げる様な拝み屋は、その拝み屋自身が餓鬼だったりするからな・・・。そんなところへ餓鬼にとり憑かれた者が相談にいくと、大金は巻き上げられるし、餓鬼の力が増大してしまうからな。元よりもひどくなる」
「じゃあ・・・、結構餓鬼から救われるのは難しいじゃないですか」
「まぁな・・・。う〜ん、だけどな、難しくもあるし、案外簡単でもあるんだけどなあ・・・。問題は、気付きなんだよな・・・」
「なんですか、その言い方。先輩らしくないじゃないですか。はっきり言ってくださいよ」
「うん、そうだな・・・。まあ、その前に、今までのことをまとめてみろ」
奥歯にものが挟まったような言い方をする先輩にちょっと不信感を抱きながらも、まとめるのも大事かと思い、俺は今までの話を簡単にまとめてみようと思った。
「えっとですねぇ、
@まず餓鬼には、新米からベテランまで経験の差があり、その経験の差によって餓鬼の力に違いがある。
A餓鬼には種類と言うか特徴がある。それはその餓鬼の生前の強い思い、執念、欲望によって異なる。例えば、他人への恨みつらみを持ち復讐心を持てば、その餓鬼は人を恨みその恨みを晴らそうとする餓鬼になる。異常な性欲を持って餓鬼に生まれ変われば、その餓鬼は色餓鬼になる。う〜ん、支配欲が強過ぎてそれが執念となってしまえば餓鬼界へと生まれ変わり、支配欲の強い俺様餓鬼になる。まあ、いずれにせよ、生きていた時の執念や欲望により、餓鬼の種類も変わるのである。
B餓鬼にとり憑かれる者は、欲望が強いがその欲望が抑えつけられ、異常な欲求不満状態になり、イライラがピークに達していて爆発寸前の心理状態にある場合が多い。
Cとり憑く餓鬼は、そのとり憑かれる人の欲望の種類や性質により異なる。
と、こんなところですかねぇ」
俺がそういうと、先輩は満足そうにうなずいたのだった。

「よくまとめたな。さすが元ジャーナリストだ」
「イヤミを言わないでくださいよ」
そう言う俺の言葉を無視して先輩は話を続けた。
「ところでだ、餓鬼には、スーパー餓鬼というか、超ベテラン餓鬼と言う餓鬼がいるんだ。知っているか?」
「はい?、なんですかそれ。スーパーサイヤ人みたいな餓鬼ってことですか?」
先輩は俺を冷ややかな目で見てから
「まあそうだな。普通の餓鬼・・・ベテラン餓鬼をも超える餓鬼がいるんだよ。まあ、そう言う意味では、スーパーサイヤ人に例えても間違いではないな」
と、ちょっとバカにしたような口調でいった。すみません例えが貧困で・・・と俺は心の中で謝ったが、意外とわかりやすいのではないか、とも思ったりしていた。
「あぁ、わかりやすいよ。そうだよ。スーパーサイヤ人餓鬼だ。そう言う餓鬼がいるんだよ。稀にな」
ほら、まれなんでしょ。そう言う意味でもスーパーサイヤ人に例えればわかりやすいじゃないですか、と俺は心の中で一人納得した。
「最近じゃあ、スーパーサイヤ人も大安売りにみたいになってるがな」
なんだ、先輩も知っているんじゃないですか、と思ったら、思いっきり睨みつけられ、俺は思わずふるってしまった。というか、ちょっと恐怖すら感じた。
「お前が悪い霊ならば、たいていそれでビビッておとなしくなる。まあ、お前は悪い霊ではないから、怖っ、と思った程度だけどな」
なるほど、先輩はそうやって悪霊をビビらせるのだ。それはかなり効果があるだろうと俺は思った。実は、かなり怖かったのである。
「まあ、そんなことはどうでもいいことで、大事なのは餓鬼の中には、スーパーな餓鬼がいるということだ。この餓鬼は、かなり厄介だ。こいつにとり憑かれると・・・知らないうちに、気付かないうちにすべてを失う。しかも、それは周囲に被害を与える。そんな餓鬼がいるんだよ」
「えっ?、気付かないうちに・・・。でも、普通の餓鬼にとり憑かれても気付かない者もいるじゃないですか」
「あぁ、新米餓鬼の場合はな。しかし、新米餓鬼の場合は、やることも小さいだろ。せいぜい会社の経費で風俗に通い詰める程度だ」
いやいや、それでも異常ですけどね、と突っ込みたかったが、先輩の空気がそれを抑え込んだ。
「そんな程度じゃないんだよ、スーパー餓鬼は。こいつらは、別名『富める餓鬼』ともいう。つまりだ、豊かな餓鬼なんだよ」
そう言った先輩の目は、鋭い眼だったが深い暗闇を含んでもいるようだった。俺はその眼を見て、ぞっとしたのだった。


「豊かな餓鬼・・・ですか?。それって矛盾してません?。だって、餓鬼は貧しいものでしょ?。食えない、飲めない、ですから」
「あぁ、そうだよ。餓鬼は基本的には貧しい存在だ。特に餓鬼界にいる餓鬼は、飲めない食えないで、いつも飢えている。だが、人間界にやってきた餓鬼は、そうでもない」
「あぁ、そうか。ゴミダメはあるし、飲食店の換気扇の下に行けば食べ物の気が得られますしね」
実際、俺もそう言う餓鬼を見たから納得できる。そういえば、人間界にやってきた餓鬼は餓鬼界の餓鬼のように飢えてはいないのかもしれない。
「さらにだ、人間にとり憑けば、その人間を通して飢えをしのぐことができるよな」
確かにそうである。餓鬼は人間にとり憑けば、その人間の欲望を操り、自らが望むものを手に入れることができる。食べ物を目いっぱい食べたければとり憑いた人間にとめどなく食べさせればいいのだ。あ、そう言う意味ではフードファイターは、餓鬼がとり憑いていると言えなくもないな・・・。性的欲望が欲しければ、その人間に風俗がよいをさせたり、性産業の仕事に憑かせればいいのだ。ということは、AV女優はエロ餓鬼がとり憑いていると言えよう。なるほど、人間にとり憑けば、餓鬼は飢えをしのぐこともできるし、己の欲求を満たすこともできるのだ。人間界は餓鬼にとってはパラダイスなのである。
「まあ、そういうことだな。人間にとり憑いた餓鬼は、餓鬼であっても飢えることは無くなるよな。ま、だからと言ってとり憑いた餓鬼が満足するわけじゃないけどな」
「満足はしないんですか?」
「満足しないからこそ餓鬼なんだよ。餓鬼は、満足を知らないんだ。だから、餓鬼の欲望はどんどんエスカレートしていくんだな」
満足を知らず、どんどん膨らみ続ける欲望・・・。餓鬼は、さらなる欲望を抱えて生き続けなければいけないのだ。
いや、待てよ・・・。餓鬼が人間にとり憑き、その人間が餓鬼に操られ、餓鬼の欲望を満たしていく。しかし、餓鬼の欲望はとどまることを知らず、どんどんエスカレートしていく。餓鬼に操られている人間の欲望もエスカレートしていく・・・。しかし、人間にも限界があるだろう。しかも老いていくし、やがて死んでしまう。その時、餓鬼はどうなるのだ?
「多くの餓鬼の場合は、欲望がエスカレートしていくと言っても、大したことはない。せいぜい、どんぶり飯を2杯食べていたのが、3杯になり、そのほかにおかずが付き、山盛りの飯となり・・・という程度だ。週一回の風俗がよいが、週2にになり、週3になり、ほぼ毎日になり・・・という程度だ」
いや、それでもかなりのエスカレートですが・・・。
「で、そのとり憑いた人間にもやがて限界が来る。いくらフードファイターがすごくても、限界値はある。しかも、いずれ老いてきて食べられなくもなるだろう。老いは、人間に餓鬼の欲望に応えられない限界をもたらすのだ。だが、餓鬼は老いない。餓鬼の寿命は長いからな・・・」
俺の突っ込みは無視され、話は進んだ。
「餓鬼の寿命って、そんなに長いんですか?」
「救いに出会うことがなければ、かなり長いな。何千年・・・という場合もあり得る。少なくとも人間の寿命の十倍以上は生きるよな」
「じゃあ、自分がとり憑いている人間が衰えてきたら、その餓鬼はどうするんですか?」
「もし、お前が餓鬼だったら、どうする?」
先輩は俺の質問に対して、質問で返してきた。ということは、「何でも聞くな、少しは自分で考えろ」という意味だ。なので、俺は素直に考えた。もし、俺が餓鬼ならどうするかを。

「新しい人間にとり憑きなおします。現在とり憑いている人間が衰えてきて、自分の欲望に応えられなくなったら、そいつを見限って違う人間にとり憑きますよ」
「正解だ。その通りだ。たまには正解するじゃないか。その頭は腐っていなかったわけだ」
ひどい言い方だが、これでも先輩は褒めているつもりである。そういう人なのだ、この人は。
「自分がとり憑いた人間が、自分の欲望に応えられなくなった時、その餓鬼は新しい宿主を探すんだな。しかし、そう簡単には見つからない。自分の欲望ととり憑くべき人間の欲望が一致しなければ、餓鬼は宿替えをできないわけだ。そもそも、餓鬼が飲食店の換気扇の下やごみ置き場でたむろしているのは、宿主を探しているからだ。それだけ、自分の欲望に一致した宿主が少ないんだよ。しかも、とり憑くスキがないといけないし、タイミングもある。なかなかとり憑くのも簡単ではない。ましてや宿主を替えようとするのは、至難の業だ」
「じゃあ、宿主を替えられなかった場合は・・・あぁ、飲食店の換気扇の下やゴミ置き場に戻るんですね?」
「そう簡単にはいかないんだな、これが。餓鬼はな、新しい宿主が見つからない場合、現在とり憑いている人間から離れられないんだな。ま、そこが餓鬼なんだけどな。餓鬼だけに、離れるのが惜しくなるんだよ」
「あぁ、そうか。とり憑いている人間から離れるということは、その人間を手放すということですからね。それは餓鬼にとっては、あり得ないことですよね」
「そう、それができれば餓鬼にはならないからな。だから、とり憑いている人間が衰え、自分の欲望に応えられなくなっても、新しいとり憑き先が見つからないうちは、そこにとどまるしかない」
「でも、いずれ死んでしまうじゃないですか。そうなると・・・」
「餓鬼も一緒に死ぬな」
「あっ・・・。ということは・・・」
「一緒に仲良く餓鬼界へ・・・だ。人間界にやってきた餓鬼で、取り付ける人間を見つけ、うまく取りついた餓鬼の大半は、その人間と共に死んでしまい、元の餓鬼界へ宿主の人間とともに行ってしまうのだよ」
そうしてまた餓鬼が増えていくのだ。で、その餓鬼は、川を目指して行進を始めるのだ。いくら人間界へやってきても、餓鬼には救いはないのである。絶望の無限ループに陥るのだ。
「そういうことだな。だが、餓鬼の中にも運がいい奴もいるんだよ」
「新しい宿主を見つけることができた餓鬼ですね」
「そうだ。とり憑く人間を次から次へと乗り換える、器用な餓鬼もいるんだ。まあ、そう餓鬼は、餓鬼の中でも欲望が広くて深い奴だ」
「あぁ、わかりましたよ。マッチするポイントが多いんですね。例えば、食べ物だけの欲求だけじゃなく、食べ物もあり、性欲もあり、名誉欲もあり、金銭欲もあり・・・と言った感じで、欲の範囲が広いんですね」
「そういうことだ。欲の選択肢が多いんだな。そう言う餓鬼は、とり憑く先の人間の選択肢も広がる。だから・・・」
「乗り換えができる・・・んですね」
「そう言うことだ。で、何度も何度も乗り換えを繰り返すうちにベテラン餓鬼となる。そして、そのベテラン餓鬼をさらに繰り返していくうちに、突如としてベテラン餓鬼を超える餓鬼に変貌する餓鬼がいるんだよ」
やっと本題に入ってきた。そうスーパー餓鬼の話だったのだ。確か「富める餓鬼」ともいう、と言っていた。
「それがスーパー餓鬼ですね」
「そうだ。ここまでたどり着くまでに長かった・・・と思ったろ?。だが、この前振りがなければ、どうやってスーパー餓鬼・富める餓鬼が生まれるか理解できないだろ」
ご指摘通りである。俺のことだ。どうしてそのスーパー餓鬼が生まれるんですか?、と聞くに決まっている。だから、先輩は先にその話をしたのだ。しかも、そのほうがわかりやすい。

「さて、そのスーパー餓鬼だが、このクラスの餓鬼になると、とり憑く相手も普通じゃない。そこら辺の小さな欲望の人間じゃないんだよ。会社の金で風俗通いするお前の同僚のような、チンケな人間じゃないんだよ。フードファイターのような者でもない。AV女優でもなければ、名誉にしがみついているクソジジイでもない。もっと・・・そうだな、ほとんどの場合は金持ち、だ。多くは経営者・・・しかも、年収が数千万円以上だな。ま、スーパー餓鬼にもランクがあるからな。スーパー餓鬼の頂点くらいの餓鬼だと、年収が億じゃないとな、とり憑かないな」
億・・・じゃあ、普通の一般サラリーマンや、ごく小さな経営者はスーパー餓鬼とは縁がないと言える。
「そういうことだ。一般人にはとり憑かないよ。だからこそ、スーパー餓鬼は、富める餓鬼なんだよ。裕福なんだよ」
「裕福な人にしかとり憑かない餓鬼・・・なんですね。通常の餓鬼・・・っていうのも変ですが、その通常の餓鬼は裕福な人にはとり憑けないんですか?」
「とり憑けないな。通常の餓鬼は、普通の人間で欲深なヤツにしかとり憑けないな。なぜなら、裕福な人間は、それなりに徳があるからな」
「徳がある?。あぁ、そうですよね。裕福である、金持ちである、経営者として成功している、という人たちは、確かに徳があると言いますよね」
俺はふと、あの強欲爺さんを思い出していた。政治家を裏で操っていた実業家だ。政界の、いや、日本のフィクサーと言われた人物である。そういえば、その強欲爺さん、餓鬼界にはいなかったのだろうか・・・。
「徳が高い、先祖も力がある、だから事業などで成功し、裕福になるんだな。裕福な人間は、それなりに徳があるんだよ。先祖の力も強いんだよ。だから、通常の餓鬼じゃあとり憑けない。跳ね返されてしまう。というか、近付くことさえ無理だ。まあ、ベテラン餓鬼の中には、まあまあの金持ちならとり憑くことができる餓鬼もいるがな。もっと上のクラスの金持ちとなると、ベテラン餓鬼でも跳ね返される」
「ちょっと待ってください。整理します。通常の餓鬼は、一般人で欲深の人間ならとり憑くことができるんですね。飲食店や繁華街にたむろしている餓鬼は、一般的な人間で欲が深く、少々歪んだ性格やイライラが募っているような者にとり憑きます。人間にとり憑くことを繰り返したベテラン餓鬼となると、一般人よりも金持ちで欲が深い者にとり憑くのですね。いわば、中堅クラスですね。一般的に金持ちと言われる人を相手にするわけですね。で、さらに、スーパー餓鬼クラスになると、とり憑く相手もスーパーになるのですね。なぜそうなるかと言えば、とり憑かれる人間の徳の差だったり、先祖の力の強さに影響されるからです。人間の徳の高さや先祖の力の強さにより、餓鬼のランクも変わってくるわけですね」
「うまくまとめたな。そういうことだ」

「餓鬼もとり憑く相手によっては、裕福に過ごせるのだよ。金持ちにとり憑けば、吸収できる気も良質で大量になるわけだな」
「あぁ、そうですよねぇ。食事でも金持ちが食べているものは、一般人とは違いますからねぇ。持っている物だって違いますよねぇ。贅沢な人間がいるのと同じように、贅沢な餓鬼もいるんですねぇ」
「そういうことだな。餓鬼にも格差があるわけだ。しかしな、その格差は結果にも影響するから恐ろしいんだよ」
「結果に影響する・・・ってどういうことですか?」
「通常の餓鬼は、その餓鬼がとり憑いている人間が衰えると、その人間から離れようとするな」
「そうでしたね、乗り換え先を探すんですよね」
「うまく乗り換えられれば、その餓鬼にとりかれた人はどうなる?」
「餓鬼が離れる、ってことになりますよね。あっ、そうなれば欲深も少しはおさまってくるんですね」
「そう言うことだな。餓鬼がとり憑いていた時よりも、欲はおさまってくる。衰えもあるから、おとなしくなってくるわけだ。餓鬼が離れた人間は、むしろラッキーだな」
「餓鬼が乗り換え先が見つからず、離れなかった場合は、そのまま餓鬼も死んでしまってとり憑き先の人間と共に餓鬼界へ、でしたよね」
「あぁ、餓鬼も餓鬼界へ戻されるな。で、それでおしまい、なわけだ。とり憑かれた人間の周りには直接的な影響は残さない。後に影響を与えることになるのだが、それはまたあとで話す。ま、これが通常の餓鬼だ」
後で話す、と言った言葉が気になるが、どうせ今聞いても答えてもらえないから、俺は話をここでは何も聞かないことにした。
「ベテラン以上の餓鬼になると、そうじゃないんですね?。周囲へ影響するんですね」
「ベテラン以上の餓鬼は、そのとり憑いた人間が死んでも、一緒に餓鬼界へは行かないんだよ。あいつらは、この世に残るんだよ。そこが恐ろしいところなんだ」
とり憑いた人間が死んでもこの世に残る餓鬼・・・。しかし、どうやって残るのか?。死んだ人間からどうやって離れるのか?。
「ベテラン餓鬼以上の餓鬼は、とり憑いた人間が死んでも平気なんだよ。なぜなら、その家にとり憑くからだ」
「家に?。家にって・・・」
「言っておくが、建築物の家のことじゃないぞ。その家系にとり憑く、その家族にとり憑く、そういえばわかるだろ。つまりは、その一族にとり憑くんだよ。で、その一族が破産して、何もかも失くすまでとり憑き続けるんだよ」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください。餓鬼ってそんなことまでするんですか?」
「あぁ、するんだよ。そこが、ベテラン餓鬼以上の怖いところだ。特に、スーパー餓鬼にとり憑かれた場合、結構な大企業でも大きな影響を受けてしまうんだよ。下手すりゃあ、一部上場企業だって吹っ飛ぶ」
「あっ」
俺は、思い出していた。確か、そう言う事件があった。大きな企業の御曹司がギャンブルにはまって数千億円の損失を出した、という事件だ。その御曹司、会社から縁を切られ、破産したのではなかったか。創業者の何代目かで結構な財産を持っていたが、その創業者一族は皆無一文になったはずである。
「そう言う事件もあったな。それは、その御曹司にスーパー餓鬼がとり憑いたんだな。で、一族を巻き込んで破産だ。まあ、企業が大きかったから、一族で仕切っていたわけではないので、会社自体は何とか無事だったがな。これが、一族で経営しているような会社なら、すべてパーだな。他にも、大きな企業で大失敗をして・・・投資や見通しの悪さで・・・会社に多大な損失を与え、倒産の危機に陥った企業もあるだろ。電気系の会社で、そう言う会社があったよな。それもスーパー餓鬼のせいだな。スーパー餓鬼が、その当時の会社代表にとり憑いていたわけだ」
規模が違うのだ。スーパー餓鬼がやることは、規模がでかいのだ。
「べテラン餓鬼だって、中小企業くらいなら倒産させることができる餓鬼はいるからな。ま、中小企業クラスになると、スーパー餓鬼になりたての餓鬼が多いけどね。一般的には、個人経営で年商数億円以上の会社だとベテラン餓鬼に狙われやすいな。ま、いずれにせよ、ベテラン餓鬼だろうが、スーパー餓鬼だろうが、規模はでかいし、一族破産、という場合が多いな。だから、こうしたベテラン餓鬼やスーパー餓鬼は、『貧乏神』と呼ばれているんだよ」
「えっ?、貧乏神って・・・ベテラン餓鬼やスーパー餓鬼だったんですか?。でも、神でしょ?。餓鬼じゃないですよね?」
「そのクラスの餓鬼となると、もう神と同じレベルの強さを持っているからね。特にスーパー餓鬼はね、神クラスだよ。だから、彼らは『貧乏神』なんだよ」
なんと、世に言う貧乏神は、スーパーな餓鬼だったのだ。俺は、少なからず衝撃を受けたのだった。


「ベテラン餓鬼やスーパー餓鬼は、貧乏神だったんですか・・・。はぁ・・・なんだか、すごい話ですよね」
俺は大きくため息をついた。あの餓鬼が・・・。ちょっと蹴飛ばせばバラバラになってしまう餓鬼が、ガチャガチャ音をたてながら川に向かって進むことしかできないあの餓鬼が、時を経ていくとやがて神クラスの餓鬼になれるとは・・・。恐ろしいやら、どこか納得できないやらで、俺は複雑な気持ちになった。
いや待てよ、例えば運が悪く、何をやっても損ばかりしているヤツがいるが、そういうヤツに対して「貧乏神が憑いているんだよ」と揶揄することがある。また、働いても働いても何だかんだと言って出費が重なり、いつも貧乏暮らししている者に対しても「あいつは貧乏神がとり憑いているんだよ」とか「あいつは貧乏神なんだ」という場合がある。その貧乏神と神クラスの貧乏神とは違うのだろうか?。
先輩は、貧乏神は、スーパー餓鬼あるいはベテラン餓鬼で、金持ちしか相手にしないと言っていたが、そこのところはどうなのだろうか?。一般人にも貧乏神はとり憑くように思うのだが・・・。
「いい疑問だ」
先輩は俺の思考を読み取ってそう言った。
「だって、そういう話よく聞くじゃないですか。昔話にもありますよね、そう言ったたぐいの話」
「ああ、あるよ。結構、貧乏神は庶民的だよな。昔話なんかは、真面目で働き者の家に住み着く・・・なんてのもある。今でも、お前が思ったように損ばかりしているヤツ、働いても貧乏な人、そういう人に貧乏神が憑いている、というよな。だがな、あれは、本物の貧乏神じゃないんだ」
「本物じゃない?」
「そう、偽物なんだよ。あれはな、本物の貧乏神・・・ベテラン餓鬼やスーパー餓鬼だな・・・それにあこがれる餓鬼が真似しているんだ」
「えっ、え〜、ど、どういうことですか?」
「餓鬼にもいろいろあると言っただろ?。エロが好きな餓鬼もいりゃ、食が好きな餓鬼もいる、働きまくる餓鬼もいれば、権力欲の餓鬼もいるし、支配欲の餓鬼もいる。そういう餓鬼の中で、金が大好きという餓鬼もいるんだよ。その金が大好き餓鬼にも種類があって、とり憑いた人間をとにかく守銭奴のように金に汚いドケチ人間にしようとする餓鬼もいれば、賭け事大好きな人間にしてしまう餓鬼もいる。とり憑いた人間に一生懸命に働かせ、稼いだ金のエネルギーを吸い取っていく餓鬼もいるんだ。で、その中で最後に言った金のエネルギーを吸い取る餓鬼が一般に貧乏神と言われているんだな」
「あっ、なるほど、そういうことですか。それで偽物の貧乏神なんですね」
「そういうことだ。本物の貧乏神じゃない。ベテラン餓鬼でもなければスーパー餓鬼でもない。ただの餓鬼レベルなのだが、金の亡者の餓鬼なんだよ。で、その金の亡者餓鬼は、貧乏神になりたいんだな。貧乏神様にあこがれているんだ。だから、貧乏神の真似をするんだ。そういう餓鬼にとり憑かれると、貧乏になってしまう。で、世間では、こういう餓鬼のことを貧乏神と呼んでいるんだな。本当の貧乏神は違うんだけどね」
ようは、たんに金好きの餓鬼、金の亡者の餓鬼なのだ。そういう餓鬼にとり憑かれると、本物の貧乏神にとり憑かれた場合と同じになってしまうのだ。なぜなら、そうした金の亡者餓鬼は、貧乏神になりたがっているからである。
「そういうことだ。たとえば、食事が大好きな餓鬼だって、フードファイターになる場合もあれば、宿主に過食症や拒食症を起こす餓鬼もいる。そこに怠け者の要素が加われば働かずにネットばかりを見てポテチにコーラ、ピザにコーラで一日中過ごすニートになる場合もある。そういうヤツは、たいてい太っているよな。食事系の餓鬼でもざっとそれくらいの種類がいるんだ。餓鬼も個性が豊かなんだよ」
餓鬼の個性が豊かでも、それはいいことでも何でもない。が、餓鬼も元は人間なのだ。それぞれ個性が豊かになってもそれは当然のことであろう。
「そうか、じゃあ、貧乏にあえいでいる一般庶民の場合は、エセ貧乏神がとり憑いていると思えばいいのですね」
「そういうことだな。まあ、一般的にはエセはつけないけどな。大きくひっくるめて、貧乏神になってしまっているな」
「貧乏神にとり憑かれている、って言われますが、それは一般的な餓鬼なんですね」
本物の貧乏神は金持ちしかあいてをしない。なぜなら、そういう餓鬼はベテラン餓鬼だったりスーパー餓鬼だったりするからだ。いわば、餓鬼の器が違うのだ。ちょっとやそっとの金のエネルギーでは、足らないのである。だから、本物の貧乏神は、大金持ちにとり憑くのだ。が、金の亡者系の餓鬼でも貧乏神にあこがれているような餓鬼だと、貧乏神の真似をして、その人や家を貧乏にしてしまうことがある。エセ貧乏神、ミニ貧乏神なのだ。

「ところで・・・」
俺は改まった態度をした。ちょっと真剣な眼差しを心掛けた。先輩は、「うん?」という顔をした。反応は良い。
「先輩が、後回しにした話が二つあります。おそらくそれは、餓鬼から救われる方法に関係している話でしょう。それについて話してください」
「ほう、俺が後回しにした話があるとな・・・。ふん、よく覚えていたな。一応、ジャーナリストだったからな、お前も。で、その後回しにした話とは何だ?」
「一つは、ずばり餓鬼から救われる方法です。先輩は、そんなに難しいことじゃないんだけどね、といって茶を濁すような言い方をして流してしまいました。一応、本人がおかしいと気づくか、家族が気付いて、先輩のような人のところに行けば救われる、といってました。で、その方法も難しくないと・・・。ただ、その方法の具体的な話はしていません。流されました」
「うんうん、流した流した。で、もう一つは?」
「餓鬼がとり憑いた人が死んでしまい、その影響がその家に残る話をしましたが、その詳細については『後で話す』と言って、その場では話しませんでした」
「あぁしたした。そう、餓鬼がとり憑いている人が家族にいて、その人が餓鬼がとり憑いたまま死んでしまうと、餓鬼界へ転生するよな。で、やがて遺族にもその影響が出る、という話はしたな」
「しました。でも、話はそこで終わっています」
「そうか・・・。じゃあ、その影響の話からするか」

「餓鬼がとり憑いた人が死んだ場合、その人は餓鬼界へ行く。とり憑いた餓鬼と共に。しかし、餓鬼界へ行ってもとり憑かれているわけではない。とり憑いていた餓鬼は宿主から外れてしまう。で、お互いに餓鬼同士になるのだな。とり憑いていた餓鬼は、ちょっとベテランだな。二期生かもしれん。一方、餓鬼にとり憑かれてしまって、その結果餓鬼界に生まれ変わった者は、新米餓鬼だ。新米餓鬼は、ベテランの餓鬼からいじめられるだろうな。そうじゃないですか、夜叉さん?」
それまで、俺たちの話を黙ってじーっと聞いていた夜叉に先輩は話をふった。問われた夜叉は、ちょっとびっくりしたようだが、
「そうですね。初めて餓鬼界へ生まれて来た者は、もともといた餓鬼から虐げられますね。思うように前に進めないし、よく潰されています」
と渋い声で答えた。先輩は、ウンウンとうなずいている。
「で、新米餓鬼はどうするかというと、『苦しい、助けて欲しい』という信号を発信するんだな。まあ、ほかの餓鬼もその信号は絶えず発信しているんだが、長年餓鬼界にいると、だんだんその信号は弱ってくる。餓鬼界に馴染んでくるからな。何度も人間界やほかの世界に行って戻ってきた餓鬼となると、救いの信号は弱くなってくるんだ。だから、餓鬼が、その世界から救われるのは、新米餓鬼の方が有利なんだ。救いの信号・・・救難信号が強いからだ」
「そんな信号をあいつらは出していたんですね」
「地獄の世界もそうだろ?。助かりたければ、救いを子孫に求めろ、と鬼は言うよな?。供養をしてもらえ、と」
「はい、そうすれば、早く地獄から抜け出れらると鬼は言いますね」
「それが、地獄から早く救われる方法だな。餓鬼も同じだよ。子孫に供養してもらえばいいんだ」
「だけど、供養してもらえと教えてもらえないですよね、餓鬼は」
「そう、だから自ら救難信号を発するんだ。子孫に『苦しい、助けてくれ』とね
。個人的に子孫を指定して助けを求めることもあるな」
「ひょっとして、それが餓鬼にとり憑かれている人が死んだ後の子孫への影響ですか?」
「正解だ。珍しく、冴えているじゃないか」
当然誉めているわけじゃない。からかっているのだ。
「素直じゃないねぇ。いつからそんなに捻くれたヤツになったのかねぇ」
先輩と付き合い始めてからです。とは言わなかったが、当然、俺の心は読まれている。
「何でも人のせいにしてはいけないよ、君。ま、それはいいとしてだな、新米餓鬼は、子孫に助けて欲しいと救難信号を出すんだ。その場合、子孫全体に出すこともあれば、個人を指定して出すこともある。まあ、これは餓鬼界でも地獄でも同じだがな。で、信号を出された側・・・子孫もしくは指定された人物だな・・・は、その信号を拒否できない。必ず受け取ることになる。するとどうなるか?。子孫の生活や健康状態などに影響が出るんだな。個人指定された場合は、その人自身の健康に影響が出たり、生活に支障をきたすことが出てくる」
「具体的にどうなるんですか?。どんな影響が出るんですか?」
「まあ、多くは遺族の誰かの体調不良だな。遺族みんなが体調不良を起こすこともあるな。なんか調子が悪いから始まって、食べられない、あるいは無性に食べたい、身体のあちこちが痛む、あるいは身体のあちこちが無性に痒い。そうだな、痛痒いと言ったほうがいいか。全身に蕁麻疹のようなものができることもあれば、できものができる場合もある。とり憑いていた餓鬼の種類によっては、金銭面に影響が出る場合もある。急な出費が重なるとか。個人指定された場合は、そうしたことが個人に起きる。急な病気、しかも特殊な、だな。病院に行ってもなかなかな治らないような病気だな。金銭面に影響がある場合は、急に賭け事に狂い始めるとか、女狂いになるとか・・・だな。地獄からの救難信号・・・供養して助けてくれという信号だな、その場合は体調不良・病気が大半だが、餓鬼界からの信号の場合は、種類も多いな。それは餓鬼の種類に応じている。ま、いずれにせよ、子孫に影響が出てくるのだよ」
「でも、それに気付かないといけませんよね」
「あぁ、例えば子孫の病気が亡くなった人からの救難信号だ、ということに気付かなければ、そのままだな。影響を受けている子孫は、病院に行き、『なかなか治らないねぇ』で終わっていくわけだ。こんな病気はおかしい、こんなことは変だ、何かあるのかも・・・と思った人は、うちみたいなところに来て尋ねるよな。それが、亡くなった人からの影響とかわからなくても、何かの祟りかも・・・といって、尋ねに行く。もっとも、変な拝み屋のところへ行けば、逆にとんでもないことになるけどね。まっとうなところへ行けば、そうしたことの原因は亡くなった人にある、とわかるんだけどね」
そこが問題でもあるのだ。まっとうな人がどれだけいるのやら、である。最近では、まともなお寺の住職でさえ、「なんで供養の必要があるの?」などというようだ。そういえば、地獄で見た坊主たちも同じだった。あんな坊主たちでは、救われない。
「救難信号を救難信号と思ってくれなかったら、意味ないですよね。あるいは、救難信号と子孫が気付いて、もしくはそうかもと疑って、お寺に駆け込んでも『そんな、供養の必要なんてないよ』って、坊さんに言われたら、どうしようもないですよね」
「まあな、だからうちらみたいな寺もあるんだが・・・。ま、基本的に坊さんは頼りにならないな」
「そんなあっさりと・・・」
「だが、先祖が地獄や餓鬼に生まれ変わって、その苦しさから救難信号を送っている、その影響で子孫が苦しんでいる・・・ということに気付かなくても、救われる方法はあるんだけどね」
「えっ?、そうなんですか?。気付かなくても大丈夫なんですか?」
「まあ、宗派にもよるけどなぁ・・・」
「なんですか、それは?」
「ほら、お盆になると、たいていは、お盆の供養があるだろ」
「でも、お盆って、故郷に帰って墓参りに行くだけじゃないですか?」
「お前は故郷に帰って墓参りすらしなかったけどな」
「俺のことはどうでもいいんです。だから、早死にしたんですよ」
「なんだ、よくわかっているじゃないか。奥さんも気の毒にな。いや、むしろ、喜んでいるかな?」
なんだ、そのイヤミは!。そうですよ、どうせ俺なんざ、いてもいなくてもいい存在でしたよ。どうせATMですよ!。全くムカつく先輩である。
「まあ、そこまでは言っていないが、たまには奥さんのもとに気配くらい出さないと、な。奥さんも寂しかろう」
「あっ・・・」
「あっ・・・じゃないよな。まあいいや。うちの寺でも行うんだが、施餓鬼とか盂蘭盆会な、あれが餓鬼から救われるいい方法なんだよね。まあ、宗派によってはやらない寺もあるけどね。でも、せめてお盆の先祖供養くらいはやるべきだよなぁ。どこぞの宗派は、そんな必要はない、なんて言っているけど、それは間違っているよな。お盆くらい、せっかくみんな集まっているんだから、お坊さんを呼んで先祖供養くらいすべきだよねぇ」
「お盆の供養ですかぁ?、それで餓鬼から救われるんですか?」
「うぅぅん、まあな、ちゃんとした施餓鬼供養をすれば大丈夫だな。施餓鬼というくらいだから、それは餓鬼専用の供養法だしね。まあ、少なくとも、普通の先祖供養でも、地獄や餓鬼に生まれ変わった先祖へ、いい影響はあるな。多少の救いにはなるよ」
「多少の救い・・・ですか」
「だけど、それがきっかけで、また供養をする場合もあるじゃないか。先祖供養したら、先祖からの悪影響はしばらくは治まるだろうから、そこに気付けばな、供養を続けることになるだろ。お盆の供養も、しないよりはしたほうがいいさ。施餓鬼は、是非すべきだな。そう思うよ」
「その施餓鬼をするだけで救われるんですか?。本当に?、あの餓鬼どもが?」
「あぁ、救われるよ。なんせ、施餓鬼作法は、お釈迦様が説いた作法だからな。お釈迦様が、それで救われると言っているんだから、大丈夫だよ。そうだな、じゃあ、そのいわれを話してやるか」
お釈迦様が説いた餓鬼を救う方法。それは興味深いものだった。


「ところでお前、お盆の意味を知っているか?」
さっきまで「お盆、お盆」と言っていた先輩が、いきなりそんな質問をしてきた。
「な、何を今更・・・。お盆って・・・8月の中頃に行う先祖供養でしょ?。あるいは、お墓参りとか・・・。さっきまでその話していたじゃないですか。お盆の休みに家族が集まったら、先祖供養くらいすべきだって。お盆なんだから、って。そういえば、そのころ会社などはお盆休みなんて言いますからね。あぁ、そうだ、7月に先祖供養とか行う場合は、新盆とか言いますよね。8月は、旧盆ですよ。だから、お盆の意味って、その頃に先祖供養しましょうってことでしょ?」
それくらいは知っている、と思って答えてみたが、これが案外明確に答えられなかったことに俺は気付いた。ふと先輩を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしている。これは、思いっきりバカにされるなと思っ瞬間、
「はぁ・・・、そんな程度か・・・。それでも、ジャーナリスト?、いや、仕方がないか、三流週刊誌の記者程度じゃなぁ・・・。まあ、これも世の中の坊さんがいけないのか・・・。ちゃんと、お盆の意味を伝えてない坊主が悪いんだな。あぁ、でも・・・、うちでも毎年お盆の意味を話すけど、きっとみんな覚えていないんだろうなぁ・・・。先祖供養するとき、くらいの認識しかないんだろうな・・・。あぁ、嘆かわしいなぁ・・・」
などと、嘘くさい嘆きのセリフを吐き出した。先輩、目が嘆いていませんよ、セリフが棒読みですよ、と言いたかったが、反撃が怖いので黙っていた。
「ま、その程度の認識だよな。世間の人はね。残念だ。仕方がない、お盆の話をするか・・・」
先輩は「長く座っているとケツが痛いんだよな」などとブツブツ言いながら、座りなおした。そして
「お盆の盆ってなんだ?」
と質問してきた。
「お盆の『お』は、接頭語の『お』だよな。漢字で書けば『御』だ。敬意を表したり、謙譲の意を表したり、丁寧な話し方につけたりするよな。『お』は、そういう意味だ。じゃあ『盆』は?」
さぁ、答えてみろ、という目つきである。しかし、俺はわからなかった。改めてそう問われると・・・確かに『盆』ってなんだろう。コップや皿など食器を運ぶときの「オボン」の「ボン」じゃないよな。
「知らねぇよなぁ。まあ、一般の人は知らないよな。毎年、8月になると『お盆、お盆』って言っている割には、知らないよなぁ。しょうがないから教えてやるよ。『盆』はな、元はインドの言葉だ。そもそもはウランヴァナとかウッランヴァナ、ウランヴァーナとか発音するインドの言葉だよ。それを音写したんだ」
「音写って・・・それじゃ『盆』にならないですよ」
「当たり前だ。中国で仏典を翻訳した時、ウランヴァナは翻訳しにくかったんだな。で、音写した『盂蘭盆、ウラボン』とな」
「あ」
「あ、じゃないよ。中国の当時の翻訳家たちには、ウランヴァナは『ウラボン』って聞こえたんだな。これを漢字で書くと『盂蘭盆』となる。漢字は当て字だ。漢字自体には意味はない。発音が大事なのだ。なぜ、音写したのか。翻訳できなかったんだよ。なぜなら、『ウランヴァナ』という言葉は、状態を表す言葉だからだ。どういう状態かというと『人がさかさまにぶら下げられて苦しんでいる状態』だ。実は、餓鬼界に落ちた者が味わう苦しみは、人がさかさまにぶら下げられて放置された時の苦しみと同じなのだそうだ」
人がさかさまにぶら下げられて放置されると、当然ながら血液は全部頭に集まる。そのうちに顔がむくんできて、鼻血が出てくるだろう。耳からも出血するかもしれない。目からも出血するかもしれない。吐きそうにもなるだろう。いや、そもそも、ちょっとした逆立ちだって苦しい。鉄棒に足を引っかけてさかさまにぶら下がっても、すぐに苦しくなる。それをずーっと続けている状態が『ウランヴァナ』なのだ。なるほど、それは翻訳できないだろう。
「そう翻訳できないんだ。『盂蘭盆経』というお盆の由来を説いたお経があるが、それを訳すと、『人がさかさまにぶら下げられて苦しんでいる状態を説いたお経』となってしまい、なんだそりゃ・・・となってしまうだろ。だから、あえて訳さなかった。それでだ、『ウランヴァナ』を音写した『盂蘭盆』を見て、何か気付かないか?」
「お盆の『盆』の字が入っています」
「まあ、それくらいはわかるよな。その通りだ。お盆は、『盂蘭盆』を略したものだ。昔から、日本人は省略するのが好きだったんだねぇ。盂蘭盆というのが面倒だから、そのうちに『お盆』になってしまったのだよ」
「じゃあ、お盆は、そもそも『盂蘭盆』であり、『ウランヴァナ』なんですね」
「そういうことだ。餓鬼の苦しみのことを言っているんだよ、お盆はな」
何ということだ。普通にお盆お盆と言っていたが、もとは餓鬼の苦しみを言っていたのだ。えっ?すると盆踊りは・・・。
「じゃあ、盆踊りは、餓鬼の踊りですか?」
「それは違うんだな。そいつはまた別のことだ。盆踊りは、またちょっと意味が違うんだよ。まあ、あとで話すよ。まずは、『お盆』の由来だ」

「お釈迦様の弟子に目連さんという方がいたのは知っているか?。聞いたことはある・・・、まあその程度だろうな。お釈迦様の弟子で有名な弟子が舎利弗と目連だ。舎利弗は智慧第一と呼ばれた弟子だな。で、目連さんは神通第一と呼ばれた弟子だ。この弟子のことを二大弟子といい、いつもお釈迦様の両脇に控えていた。目連さんの神通第一とは、弟子の中で最も神通力に優れている、という意味だ。神通力・・・まあ、超能力だな」
「それは、女房の守護霊のじいさんから聞いたことがあります」
「そうか。じゃあ、神通力の話は省略する。目連さん、ある日のこと、自分の亡くなった母親がどこに生まれ変わったかを知りたくなったんだな。で、神通力で生まれ変わった母親を探したんだ。地獄を見てみたが、母親はいなかった。天界を見てもいなかった。人間界にも修羅界にも、畜生界にもいなかった。最後に見たのが餓鬼界だ。なんと、そこにいたんだな。目連さんの母親は餓鬼に生まれ変わってしまったんだ。母親は、何も食べられず、何も飲めずに苦しんでいた。そこで目連さん、神通力を使って母親のもとへ行き、食べ物を渡した。しかし、母親が食べようとすると食べ物は燃えてしまい、母親は口から喉にかけて大やけどをおい、余計に苦しんでしまった。目連さん、慌てて水をやるとさらに燃えてしまったんだな。どうやっても、目連さんの神通力をもってしても救えないんだ。で、お釈迦様に相談した。どうやれば母親を餓鬼から救えますか?、とな。お釈迦様は、
『来る雨期明けの最初の15日は、反省会がある。この反省会は、久しぶりであるから、多くの修行者がここ祇園精舎に集まる。その時の食事の用意を、目連、汝がするのだ。そうすれば、汝の母親は餓鬼界から救われる』
と教えてくれたんだな。なお、その反省会に集まる修行僧の数は10万人とも言われているが、まあ、大袈裟だな。だが、千人位はいたかもしれないな。それでも相当な数だ。それだけの食事の用意は、簡単ではない。しかし、餓鬼となった母親を救うには何としてでもやり遂げなければならない。他に方法はないのだ」
「それが餓鬼を救う方法ですね」
「そうだ。まあ、慌てるなよ。そう教えてもらった目連さんだが、食事の用意をしろ、と言われても出家修行者はお金を持っていない。今から、托鉢で食事の用意をしようとしても、一人の力じゃあ間に合わない。しかし、自分一人でやれ、とお釈迦様は説いた。さて困った、どうしようか・・・。神通力で食事の用意をするわけにいかない。そんなものは、幻だからな。現実に食事を用意しなければいけない。そこで目連さん、在家の人たちに片っ端から頭を下げて
『今度の15日の反省会の食事を少しでもいから用意してもらえいないか』
と頼みまわったんだな。優れた弟子で有名だったから協力者もたくさんあった。おかげで大勢集まった弟子たちの食事を全部賄うことができたんだな。無事、反省会は成功する。そしてその夜。目連さんが、後片付けなどをしていると地面が光り出した。すると、地面から様々な人々が湧き出て来たんだな。その中には、目連さんの母親も当然いた。地面から湧いてきた人々は、みんな元餓鬼だったんだ。目連さんが食事の用意を呼び掛け、それに賛同し協力した人々の関係者だったかもしれないし、そうでない人々かも知れないが、多くの人々が餓鬼界から救われ、天界へと昇って行ったんだ。それを大勢の人々が見ていた。その人たちは、みんな祇園精舎に集まり、多くの餓鬼だった者が救われ、天界へ昇ったことを喜び合ったんだな。目連さんもついつい嬉しくなり、踊ってしまった。それにつられて集まっていた人々も踊って喜んだ」
「あ、それが盆踊りの由来ですか?」
「あぁ、そうだ。もっとも、この話は後付け臭いけどな。本来は、日本古来の民間信仰の儀式などと統合されたのが盆踊りなんじゃないか、と思うけどね。まあ、目連さんの話も少しは絡んでいるのだろうと思うよ。いずれにせよ、盆踊りは、本来は先祖を慰める踊りだったようだ。それが、先祖と共に楽しく踊ろうになった。死者も生者も一緒に楽しもう、というわけだな。だから、盆踊りで踊っていると、たまに亡くなった人に会うことがある、と言われているな。ま、それはいいが、餓鬼を救う方法はわかったか?」
「目連さんのようにすればいいのですね?」
「そうだが、具体的はどうするのだ?」
「多くの修行僧に食事の接待をする・・・それじゃないですか?」
「そうだな。昔は・・・はるか昔だ・・・梅雨になるとお坊さんは『雨安居(うあんご)』と言って、お寺にこもったんだな。お釈迦様がいらしたころにならって、日本の雨季を寺の中で過ごしたんだ。で、雨期明けの最初の反省会・・・反省会は通常、1日と15日に行われていたんだけどね・・・、その最初の反省会の日に盂蘭盆の法会を行ったんだよ。これを盂蘭盆会(うらぼんえ)という。それが日本ではたいてい旧暦の7月15日になったんだ。新暦なら8月にずれ込むな。で、8月15日に盂蘭盆会が行われるようになった。本来は、雨安居が終わったお坊さんたちに、多くの人々が食事の用意をして、その代わりに坊さんたちはお経をあげたんだけどね。で、食事の用意をした人たちの先祖が餓鬼界から救われる、ということだったんだけどね。今では、食事の用意がお金に代わったんだな。また、お坊さんへの食事の用意は、何も先祖だけが救われるわけではないんだ。用意をした人たち自身も、餓鬼にならない、餓鬼にとり憑かれないようになるんだよ。つまり、現代でも盂蘭盆会に参加し、お参りをすれば、その人の先祖が餓鬼界から救われるだけでなく、その人自身も家族も餓鬼になりにくくなるし、餓鬼にとり憑かれにくくなるんだよ。それが盂蘭盆会だな」
そう言うことだったのだ。つまり、お盆のお寺の行事である盂蘭盆会に参加し、お参りをすれば、もし先祖が餓鬼界に落ちていたとしたら、そこから救われるのである。それだけではない。参拝した人は、その家族を含め、餓鬼になりにくくなるのだ。餓鬼にとり憑かれる可能性も低くなる。ならば、餓鬼にとり憑かれてしまった人も盂蘭盆会でお参りをすれば、その餓鬼は取り除かれるのであろう。
「そういうことだな。餓鬼にとり憑かれたなら、盂蘭盆会でお参りすればいい。そうすれば救われる。ちなみに、お盆に先祖供養をすることも、この盂蘭盆会に参加することに準じる。つまり、盂蘭盆会に参加しなくても、お盆にお寺さんに来てもらい供養をしてもらえばそれでいいのだ。お盆の先祖供養は、単なる先祖供養じゃないのだよ」
「そう言うことだったんですね。だから、お盆の先祖供養は大事なんですね」
「そう、餓鬼化を防ぐためでもあるんだ。ちなみに、この盂蘭盆会は遥か昔から行われている。西暦600年代の頃から行われている行事だ。それだけ重要なんだな。あぁ、そうそう。お盆が13日〜15日なったのは、江戸時代からだそうだ。この時期に江戸の商家に奉公に来ている田舎の子供たちが、里帰りするんだな。なので、三日間になったわけだ」
そこで、俺は一つの疑問が浮かんだ。

その疑問とは、時期の問題だ。餓鬼にとり憑かれるのはお盆の時期だけではないはずだ。いつでもどこでも餓鬼にとり憑かれる可能性はある。もし、餓鬼にとり憑かれたのが、お盆も過ぎてしまったころならば、その餓鬼を取り除くのは次のお盆まで待たないといけないのか?。いやいや、それだけではない。もし、自分の身内がお盆を過ぎてから亡くなってしまい、その亡くなった人が餓鬼界へ生まれ変わってしまったとしたら、その人が救われるのは、その翌年のお盆まで待たないといけないだろうか?。それはちょっと辛いんじゃないか?。タイミングが悪いと、苦しみが長くなることになるではないか。
「お前の疑問はよくわかる」
先輩は、俺の思考を読んでそう言った。
「だから、餓鬼を救う方法はもう一つある。それは、時期に関係なくできる方法だ。これは施餓鬼作法と言われている。目連さんの故事にちなんだ法会は盂蘭盆会だ。だが、もう一つの作法は、施餓鬼作法・・・餓鬼に施す作法だ。つまり、直接餓鬼を救う方法だな」
「そんな方法があるんですか?」
「あるんだよ。真言宗の坊さんは、修行するとき、毎晩この作法をする。自分が餓鬼にならないよう、餓鬼にとり憑かれないようにな」
「それはいったいどういう方法ですか?」
「具体的な作法は教えられないな。出家して修行すれば教えてやれるがな。だが、いわれは教えることはできる」
「ぜひ、教えてください」
そういうと、先輩はニヤッと笑い、「それは、お施餓鬼と言われている作法なんだけどね」といい、
「じゃあ、話すとするか。お釈迦様の弟子にな、アーナンダという人がいた」
と施餓鬼の由来を話し始めたのだった。

つづく。

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