あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「お釈迦様が、マガダ国に滞在していた時のことだ。アーナンダと言う弟子は、お釈迦様の侍者をしていた。お世話係と秘書のようなものだな。ある日の夜、アーナンダが寝ていると餓鬼がやってきて言ったんだ。『アーナンダよ、お前は三日後に死ぬ。ケケケケ』とな。それだけ言って餓鬼は去っていった。朝、目覚めたアーナンダは、あれは単なる悪い夢だ、と思ってはいたが、心配になったのでお釈迦様にそのことを尋ねたんだ。するとお釈迦様は、『餓鬼の言ったことは本当だ。このままだとお前は三日後に死ぬ』と言うんだな。びっくり仰天のアーナンダ、お釈迦様に『何とか助かる方法はないのですか?』と必死に尋ねたんだな。お釈迦様は、『助かる方法はある。明日の布薩の食事を人数分用意することだ』と教えた。布薩と言うのは・・・」
「毎月1日と15日に行われる修行者たちの反省会ですね」
「そうだ、よく覚えていたな」
「覚えてますよ。でも、それって目連さんの時と同じじゃないですか?」
「あぁ、同じだ。違うのは時期だけだな。アーナンダの場合は、8月じゃないけどね。だけど、目連さんの時と同様、布薩の会に参加する修行者の食事の接待を用意するのは同じだな。まあ、餓鬼から救われるには、この方法が一番手っ取り早いんだな」
「多くの修行者の食事の接待をする・・・ですね」
「そうだ。で、アーナンダもそうした。街を回り、頭を下げ、街の人たちに協力を頼んで、布薩に集まる修行者の分の食事を用意したんだ。ただし、それだけではないんだな。ここで、お釈迦様は、秘法をした。マガダ国にうろついている餓鬼を集め、その餓鬼が食事をとれるようにしてやり、餓鬼界から救われる作法をしたんだ。それが、施餓鬼作法なんだけどね」
「それは、一般の人には教えられないんですね」
「そうだ。これは修行僧がやることなので、一般の人には教えられない。ちなみに、この施餓鬼作法は、本来、毎日やってもいいものだ。我々は修行中は毎晩やっていた」
「えっ?、なぜですか?」
「決まっているだろ、餓鬼に修行を邪魔されないようにだ。自分が餓鬼にならないようにだ。修行中は、いろいろな魔に襲われる。それは自分の中から来るものもあれば、外部から来るものもある。外部から来る邪魔で、もっとも厄介なのが餓鬼だ。修行中は、食事が満足に取れないから飢餓状態になりやすい、そこを餓鬼が狙ってくるんだな。だから、施餓鬼作法をして、餓鬼の難を避けるんだよ」
「そうか、その施餓鬼作法をすれば、お盆を待つことなく餓鬼を救うことができるんですね」
「そうだ。だから、もし餓鬼にとり憑かれたら、お盆まで待たなくても施餓鬼作法をしてやれば、餓鬼はその人から離れるんだよ」
ならば、いつ餓鬼にとり憑かれても救われるのだ。お盆まで待つ必要はないのだ。

しかし、僧侶の修行と言うのは、やはり厳しいようだ。飢餓状態と言うか、飢えた状態にまでなるのだから。目の前にいる先輩もそれをしてきたのだ。
「それにしても、やっぱり修行って厳しいんですね。飢えた状態になるんですね」
「まあな。宗派によっても違うがな。真言宗は厳しい方じゃないか。食事の量は少ないし、本来夕食はないからな。まあ、それは自由だったんだけどね」
「えっ?、どういうことですか?」
「本来、出家者は午前中しか食事を取ってはいけないことになっている。お釈迦様時代の戒律だな。午後からは、水分と果物だけはとっても良いとされていた。で、現代も本当はそうしなければいけないのだが、そんなことをしていたら身体を壊すだろ?。夕食を食べないわけにはいかないよな。で、今では修行中も夕食が出るようになった。ただし、個人の申し出で、夕食を食べない修行者もいるんだ。そういう者は、余計に餓鬼に狙われやすいな。だから、修行中の施餓鬼は重要なんだよ」
「先輩は、夕食を食べたんですか?」
俺がそう聞いた瞬間、先輩は思いっきり鋭い目で俺を睨んだ。が、すぐにいつもの目つきに戻り、
「俺は夕食を食べなかった。おかげで最初の頃は、立ち眩みに悩まされたな。でも、そのうちになれるんだ。いつの間にか、夕食を取らないのが苦にならなくなったな。体重は8sほど落ちたけどな。その頃は、もうガリガリよ。今じゃあ、そのころの面影はなく、腹が出てきたがな」
思った通りだ。本来、修行中は夕食を取らない、ということをこの人が知ったら、じゃあ本来の通りでやりましょう、と言うに違いないからだ。そういう人なのだ、先輩は。
「そうかぁ、施餓鬼作法ですか・・・。あぁ、そうか、目連さんの時もアーナンダの時も、どちらも餓鬼が関わっていて、どちらも食事の接待で餓鬼から救われたんですね。それで、お盆の時期に施餓鬼をするようになったんですね」
「ほう、珍しく頭がさえているじゃないか。その通りだよ。あぁ、そうそう、アーナンダだけどな、布薩での接待のおかげで餓鬼の難から救われた。それどころか、120歳まで生きたそうだ。だから、施餓鬼には、寿命を延ばすという功徳もある」
「へぇー、そうなんですね。ということは、餓鬼を救えば、寿命が延びる、ということですね?」
「そういうことだ。案外、餓鬼を救うとご利益は大きいんだよ。例えば、貧乏神にとり憑かれた場合だが、その貧乏神を救ってやれば、その貧乏神は、福徳の神になるんだよ」
「貧乏神って、あのスーパー餓鬼の?、ですか?」
「それを含めて、庶民にもとりつく貧乏神・・・まあ餓鬼だな、ニセ貧乏神だな・・・、それから逃れる方法があるんだよ」
「今までの話からすると、大勢のお坊さんに食事の接待をすればいい・・・じゃないですか?」
「まあ、そうだが、そんな機会ないだろ?。餓鬼にも種類があると言ったろ?、その中でも貧乏神の場合は、ただの寄付じゃダメなんだよ。盂蘭盆会の法会とか、施餓鬼法会とかに参加する、だけじゃダメなんだよ。食事が絡んでいないとね。そこが貧乏神系の厄介なところなんだけどね」
俺は考えてみたが、確かに大勢のお坊さんに食事の接待をする、と言う行為は、まずできないであろう。そういう機会がないからだ。じゃあ、お寺に寄付をすればいいかといえば、そう言うことではないらしい。食事が絡んでいないとダメななのだ。貧乏神にとり憑かれたとなると、それがエセ貧乏神であったとしても、盂蘭盆会に参加したり、施餓鬼に参加するだけではダメらしい。どうやら、食事が関係してくるらしい。

「施餓鬼作法だけじゃダメなんですか?」
「それだけじゃ、ダメだな。それプラス、やることがある。それは簡単なことなんだけどね。なかなかやりにくいことではあるな」
なんだ、その思わせぶりな言い方は。そう言われると余計に聞きたくなるではないか。
「できないことなんですか?」
「できないわけではない。やりにくいだけだ。簡単なことだけどやりにくい」
「なんですか、それは。はっきり言ってくださいよ」
「いや、本当に簡単なことだ。食事を一人分、余分に作るだけだ」
「簡単じゃないですか。食事を一人分、余分に用意するだけでしょ?」
「そうなんだけどね。それを毎食、毎日、その貧乏神が福の神に代わるまで続けなきゃいけないんだよね。初めのうちはできるんだ。そう、1週間くらいは続くかな。でもね、そのうちにイヤになるんだよ。こんなことやっていて本当に効果があるのだろうか、ってな。しかも、余分に作った食事は、自分たちは食べてはいけないんだよ。こっそり、川に流すのがいいんだが、今じゃあ流せないだろ。それも重なって、やる気をなくすんだよね。だから、簡単なことだけど、実行するのは難しいんだ」
「じゃあ、貧乏神からは逃れられないじゃないですか」
「だから、代替策を考えるんだよ」
「代わりの方法があるんですね?」
「あぁ、そうだ。それはな、一食分にかかる費用を寄付することだ」
「えっ?、寄付ですか?。さっき、寄付じゃダメって言ったじゃないですか」
「単なる寄付はダメだ。食事代を寄付するんだ」
イマイチ意味がよく分からなかった。食事代分の寄付って、どういうことなのか?
「例えばな、朝飯に・・・まあ、俺の場合だと食パン一枚に牛乳にヨーグルトだが、その金額はいくらくらいになる?」
「そうですねぇ・・・ざっと計算して・・・200円くらいですかねぇ」
「まあいいよ、それで。で、その200円を貧乏神さんの朝ごはん代、としてどこかの募金箱に入れるんだ。で、昼食も同じようにする。もし、外食してお昼代が1000円かかってしまったら、同じように1000円をどこかの募金箱に寄付するんだ。貧乏神さんのお昼代ですよ、という思いをもって」
なるほど、そういうことか。自分が食べた食事代・・・おおよその食事代・・・を貧乏神の分として、どこかの募金箱に寄付すればいいのだ。
「そう、それを毎日、毎日行うんだよ。毎日、貧乏神さんにご飯代を払うというわけだ。自分と同じ分のね。自分だけ豪勢な食事をして、貧乏神の分は100円、と言うのはダメだ。あくまでもほぼ同額じゃないといけない。そうしないと、貧乏神は怒るな。貧乏神が怒れば、益々貧乏になるばかりか、周囲にも影響を及ぼす。職場の同僚、友人、ご近所で付き合いのある人などなど、周囲へ貧乏をまき散らしてしまうんだ。だから、自分の食事代と同じ額を寄付するんだよ」
「そうすれば、貧乏神も福の神に代わるんですね」
「そうだ。貧乏神のもとは餓鬼だが、その餓鬼は毎日毎食の食事代の寄付によって、餓鬼から天界へと向かうんだ。目連さんの母親のようにな。で、その恩返しをしてくれるんだよ。だいたい、霊体っていうのは、ちゃんと供養してもらえたり、救ってもらえたりすると、ちゃんと恩返しをするんだよ。律儀にな。生きている人間のように、恩を仇で返す様なことはしないな。恩を仇で返すのは、生きている人間だけだ。だから、餓鬼も救われれば、それ相応の恩返しをしてくれるんだよ」
「それが、寿命であったり、ほかのご利益であったりするんですね」
「そういうことだ。特に貧乏神の場合だと、金銭的な恩返しをしてくれる場合が多いな」
「金銭的な御利益ですか?」
「あぁ、旦那が突然出世するとか、給料のいいところへ転職するとか、まあ、稀だが宝くじに当たるとかな」
「そんな直接的な恩返しもあるんですね」
「あるんだよ。だから、餓鬼を天界へ生まれ変わるようにすることは、本当は自分たちの御利益なんだよね」
餓鬼を救うことは、実は自分たちのためでもあるのだ。いや、自分たちの生活を豊かにするため、あるいは、無病息災とか、寿命を延ばすとか、そうした現世利益・・・と言っていいのだろう・・・のためでもあるのだ。ということは、それを目的として、餓鬼を救うことをしてもいいのか?。もし、いいのなら、大いに餓鬼を救うことをすべきだろう。
「いいんだよ、それで。目的が自分たちの御利益のためであってもいいんだよ。それを求めて施餓鬼法会や盂蘭盆会に参加してもかまわないさ。ご利益は方便だからな」
「方便?ですか?」
「そう、方便。そうした御利益を求めていろいろな仏教行事に参加したり、仏事に参加したりするのは、それはそれでいいんだよ。そのうちに、その行事の大事なことに気付き、仏教を学ぶようになるからね。だから、そうした行事の時は、ちゃんと法話があるだろ」
「そういうものですか・・・。じゃあ、御利益を求めていろいろな行事に参加してもいいんですね」
「そう、いいの。で、次第に教えを知るようになるのさ。で、仏様を信じるようになり、心が変わっていく。安心を得る。穏やか人間になれるんだな」
なるほど、それが我々在家のための仏教なのだろう。穏やかさや、怒りや苦しみのない人生を得させるというのが、在家のための仏教なのだ。そうした生き方を得るには、施餓鬼や盂蘭盆会など、お寺で行う行事や法事や供養などを行うことなのだ。
「もっとも、そこの寺の住職が金まみれの金欲住職じゃあダメだけどな。餓鬼にとり憑かれているような住職じゃ、本末転倒だ。ちゃんした住職じゃないとね」
それもある。金まみれの坊さんじゃあダメだ。俺が地獄で見て来たようなお坊さんじゃダメなのだ。ちゃんと教えを説く坊さんじゃないとダメなのだ。坊さんの本分は何なのか、ということをよく理解している坊さんじゃないとダメなのだ。
「そういう意味では、坊さんの責任は重いよなぁ。俺なんか、言いたいことを言って、適当にさぼって、ぐうたらしているから・・・まあ、ダメ坊主の方なんだろうな」
「一応、自覚があるんですね」
これくらいは先輩に言ってもバチは当たらないだろう。少しくらいは嫌みも言いたいものだ。
「もちろん、自覚はあるよ。もっと、修行しなきゃいけないな、とは思っているさ。ま、それも時期があるからね」
俺はおや?と思った。いつもの先輩なら、「生意気言うんじゃない」くらいは言うと思ったのだが・・・。
「俺はな、殊勝なんだよ。謙虚なんだよ。謙虚が衣着て歩いているような坊主なんだよ。わかったか」
なんという図々しさ。どこが謙虚なのいか。大体自分で謙虚と言うものほど謙虚じゃない、って言っているのは先輩本人じゃないか。と思ったが、いろいろわかってそう言っているんだろうな、この人は。一体何を考えているのかわからない人である。

「さて、餓鬼については、もう十分わかったろ?」
「はい、わかりました」
「じゃあ、どうするんだ?。わかったらどうするのだ、お前は」
どうするって・・・。何も考えていなかった。そうだ、俺はどうするのだ、この先?。餓鬼については十分学んだ。で・・・?
「まったく・・・、夜叉殿もあきれてるぞ」
何も考えていない。俺は、本当にバカだ。そうか・・・忘れていた。俺は、餓鬼界から人間界にやってくる餓鬼を追いかけて現世に戻ってきたのだ。
「この現世での餓鬼をもう少し見てきます。人間界での餓鬼の様子を観察してきます」
「やっとわかったか。やれやれだ・・・。おう、そうだ。その前に家に帰れよ」
先輩は、そういうとニヤッと笑ったのだった。


先輩の寺を出て、外の世界での餓鬼の姿を見てくることになった。
「やっぱり、寺っていいですねぇ。力がみなぎってきます。とてもいい気分だ・・・。夜叉さんもそう思いませんか」
「うむ。ここの寺はいい気分になるな。さすがだ。とても居心地がいい。ありがたいな」
「ここの寺って・・・よその寺でも気分いいんじゃないですか」
「いや、寺によっては、居心地が悪い寺もあるな。その差は、そこの寺の住職の差だがな」
「あぁ、なるほど・・・。地獄で見たような、ダメな坊さんが住職をやっているような寺は居心地が悪いんですね」
「そういうことだ。この寺は、実に居心地がいい。住みたいくらいだ」
先輩は、口は悪いがやることはしっかりやっているようだ。それが、寺に現れている。生きている人間にはどうかわからないが、死人の俺にはそれがよくわかる。
「居心地がいいですが、そろそろ出発しますか」
俺は夜叉を促し、夜叉と並んで寺を出ていった。その背中に
「餓鬼の世界は奥が深い。まあ、あいつは驚くことが多いだろうな・・・」
と先輩はつぶやいた。当然俺には聞こえていない。それを知るのは、これからだ。

「まず、どこへ行くのだ?」
夜叉が俺に聞いてきた。
「まずは、うちに帰ってもいいですか?。女房や子供の様子も見たいんで」
「あぁ、好きにしろ。人間界は久しぶりだから、普通の家庭を見るのもいいもんだしな」
と夜叉は、にやついている。俺も、心が弾んだ。勝手なものだ。今まで忘れていたくせに。
家に帰ると、ちょうど女房が夕食の用意をしているところだった。今日は、ハンバーグらしい。女房の手作りであり、得意料理でもあった。子供たちは、きっと大喜びだろう。
「俺が死んで、百日か・・・。もう女房も子供も普段の生活に戻っているんだろうな・・・」
そう思うと、ちょっと寂しくもあった。
「我々は、家庭を持たないので、お前の気持ちはよくわからんな」
夜叉がぼそりとつぶやいた。
「夜叉は、家庭を持たないんですか?。じゃあ、どうやって子孫繁栄するんですか?」
「子孫繁栄といってもな・・・。まあ、子を作ることはあるが、我々は寿命が長いんでな。あわてて子作りをする必要もないし。人間のように性欲が激しいわけでもないしな。絶えず盛んなのは人間だけだからな」
「そうなんですか?」
「必要もないのに性行為をするのは、人間だけだろ?。バカな連中だな、としか思えないな」
夜叉から見れば、我々の性行為はそのようにしか見えないのだ。愛とか、愛し合うとか、そう言った感情が無いのだろう。
「やっぱり、生き返りたいとか思うのか?」
夜叉が聞いてきた。
「そりゃ、そう思いますよ。こうやって家庭を眺めていると、あぁ、元に戻りたいな、あの席に座って子供たちと話したいな、女房ともいちゃつきたいなって思いますよ」
「そういうものか・・・」
夜叉の感想は冷たいものだった。
「あの、今日はもう外は暗いですから、ここでゆっくりしませんか?」
「はぁ?、どういうことだ?」
「いや、だから、今日は我が家で泊まりませんか?」
「あのな、お前、餓鬼の世界を見たいんだろ?。夜は餓鬼がうごめく時間帯じゃないか。それを見ないというのか?」
「あっ、いや〜、その・・・。明日の夜もあるじゃないですか。明日、朝から餓鬼を観察すればいいと思ませんか?」
「いいとは思えんな。でも、お前が今夜はここでゆっくりしたいならすればいい。じゃあ、俺は、一度本部に帰るよ。明日の朝、ここにやってくる。それでいいな」
「ありがとうございます。感謝します」
俺がそう言って頭を下げたとたん、夜叉の姿は消えていた。

「家庭はいいなぁ・・・。家族っていいなぁ・・・」
心からそう思った。子供たちは、ちゃんと宿題もやっているし、女房のいうことも聞くし、手伝いもしていた。いい子に育っている。女房に感謝だ。
久しぶりに見る女房は、綺麗だった。俺にはもったいないくらいの女房だ。そう思って漂っていると、女房の守護霊のじいさんがやってきた。
「久しぶりじゃないか。おおそうか、百か日か。それで来たのか?」
俺は苦笑しながら
「えぇそうです。百か日の法要があったんで、ちょっと帰ることができたんです」
「今は、どこにいるんだ?。天界じゃろ?。天界なら自由に帰れるはずじゃが・・・。あぁ、まだ修行中か。神通力はどの程度身に付けたんじゃ?」
「いや、その・・・実は・・・」
俺はじいさんに事情を話した。
「なんと、お前さん、そんなことをやっておるのか。ほう・・・。あの住職の爺様がなぁ、そんな人物だったとは。すごいもんじゃのう。わしもまだまだ修行が足らんのう」
「いや、まあ、半分無理やり押しつけられたようなもんでして・・・」
「まあ、無理やりでも何でも、それはいいことじゃ。いろいろあの世で優遇されておるのじゃろ?」
「はあ、まあそのようですね。今は、夜叉さんと一緒に地獄から餓鬼の世界を巡っています」
「なかなか経験できないことじゃ。ありがたいことじゃな。さてと、お前さんも久しぶりの我が家だからな、いろいろやることがあるじゃろうから、これで消えるわい。じゃあな」
そうして女房の守護霊のじいさんは、消えていった。気を遣ってくれたのだ。なんせ、女房とは久しぶりである。49日の法要にも帰れなかったし。
「あれは、先輩のじいさんが悪いんだ。俺を無理やりあんな世界に引き込んだのだから」
などと独り言を言いつつ、女房のそばに寄ってみた。そのあとは・・・秘密である。ご想像にお任せしよう。
そして、夜が明けた。

「おい、朝だぞ」
夜叉が女房の寝室で寝ている俺に声をかけて来た。
「霊体でも横になれるんだな」
「そうですね。別に寝ていたわけではないですけど、ただ横になっていただけです」
「あぁ、そうかい。そんなことはいいから、夜が明けたんだ。出かけるぞ」
「えっ?、もうちょっとここで過ごすわけには・・・」
「まだ、いたいのか?。いたいのなら俺は構わんが」
「じゃあ、もう少し・・・子供が学校に行くまで、ここにいます」
「じゃあ、俺はその辺をウロウロしようかな」
というわけで、子供たちが学校に出かけるまで、家にいることになった。
「行ってきまーす」の言葉とともに、子供たちは学校に向かった。女房も家に入った。
「じゃあ、行くか。子供は学校へ行ったんだろ?」
夜叉が、家の外で子供たちの姿を見ていた俺に話しかけてきた。
「まあな、未練はあるかも知れんが・・・。それくらいは俺もわかるが、いつまでもここに居られないしな。さぁ、行くぞ」
夜叉の言うとおりだ。未練がましいだけである。情けない自分に気合を入れて
「よし、じゃあ、行きますか。まずは、都心に向かいましょう」
我々は、都心に向けて移動した。

「ちょっと待ってください」
「うん?、なんだ」
「いや、あの鳩ですよ。あの鳩、なんか乗せてませんか?」
「あぁ、乗ってるな。ありゃ、餓鬼だな」
「えっ?、餓鬼って鳩にもとり憑くんですか?」
「あぁ、餓鬼は、まあ、何にでもとり憑くな。生き物ならな。もっとも、自分より体が小さいものは無理だがな」
「自分より小さいじゃないですか、鳩は」
「あぁ、あの程度なら餓鬼は自分の身体を縮められるな」
「えっ、餓鬼って身体を縮めたりできるんだ」
「あぁ、できるよ。まあ、限度はあるけどな。最小で鳩程度かな。もう少し小さくなれるかな。最大では通常の大きさだ。でかくなれないな。小さくはなれるが」
「そうだったんだ。先輩はそのことは言わなかったな。まさか、先輩がそれを知らないわけはないから・・・」
「わざと黙っていたんだ。いろいろ説明するよりも、実際に見たほうがいいだろうからってな」
「なんで夜叉さんが、それを知っているんですか?」
「神通力だよ。帰り際に、お前の先輩がそう言っていたんだ。それを聞いただけだ」
そうだったのか。確かに百聞は一見に如かず、だ。そもそも俺は記者だったわけだし、現場を見ることも大事なことはよく承知している。なんでもかんでも先輩に聞くべきでもないだろう。この目でしっかりと見ないといけないのだ。
「そういうことだな」
俺と夜叉は、フラフラと漂いながら、都心に向かっていた。餓鬼を乗せた鳩を見たのは、その途中の公園でのことだ。
「しかし、あの鳩、餓鬼を乗せていて困らないんですかねぇ」
「よく見てみなよ。あの鳩をな」
夜叉にそう言われ、俺は餓鬼を乗せた鳩をよく観察してみた。
餓鬼は、鳩の背中にしがみついている。だから、鳩が餓鬼を背中に乗せているように見えるのだ。よくよく見ると、鳩の目の色が、ほかの鳩よりも濁っているようにも見える。いや、それだけじゃない、目つきが獰猛だ。しかも、ほかの鳩より、異常にエサに食らいつく。焦ってエサに食らいつている、と言う感じだ。
エサらしきものを持ったおじいさんが公園にやってきた。
「そうら、お前らエサだぞ、食べるがいい」
などと言って、公園のベンチに座ったとたん、あの餓鬼鳩がおじいさんが持っているエサが入った袋をめがけて飛んできた。
「おいおい、何をする。そんなに慌てるな。いま、エサをまいていやるから」
おじさんは、驚いたようだ。びっくりした様子で、袋からエサをとりだし、まき散らした。一斉に鳩がやってきた。ところが、あの餓鬼鳩がほかの鳩を突きだしたのだ。他の鳩を威嚇して、エサを独り占めしようとしているのだ。
「な、なんだ、この鳩は。こら、みんな仲良くエサを食べなきゃいかんだろ」
おじいさん、そういって餓鬼鳩を蹴ろうとした。餓鬼鳩はさっと飛び上がると、おじいさんが持っているエサ袋に食らいついたのだ。「あっ」とおじいさんが叫んだと持ったら、餓鬼鳩はエサ袋を食わて空高く飛んで行ってしまった。
「な、なんなんだ、あの鳩は。あんな鳩、初めて見たぞ。欲深い鳩だ。今度あったら、懲らしめてやる」
おじいさん、怒りを顕わにして、ベンチに座ったのだった。
「いや、すごいですね、餓鬼鳩。あんなに獰猛になるんですね」
「餓鬼にとり憑かれると鳩でもああなる。いや、むしろ、人間のように理性がないから、欲望を丸出しにするな。あのじいさんは、驚いていたが、案外鳩にとり憑く餓鬼は多いんだよ。人間よりとり憑きやすいからな」
「あぁ、なるほど・・・。鳩は野生ですもんね。食べること、寝ること、敵から身を守ること、くらいしかしませんかねらね。とり憑きやすいと言えば、そうですね。でも、そうなら、餓鬼はみんな鳩にとり憑けばよくないですか?」
俺の質問に、餓鬼は指をさした。そこには、鳩にとり憑こうとしている餓鬼がいたのだった。

餓鬼は、自らの身体を最小に縮めて、必死になって手を伸ばしている。しかし、鳩の方はあちこち飛び回っているので、なかなか捕まらない。餓鬼は、逃げた鳩を追わずに、手近にいる鳩を狙っている。しかし、どうもうまくいかないようだ。鳩がスルスルと逃げているのである。まるで、餓鬼の存在を感じているかのようだ。
「あいつらは野生だろ。だから、動物的勘があるんだ。勘が鋭いんだ。だから、何となく餓鬼の存在がわかるのだろう。で、それが自分たちにとってヤバイものだということもわかるのだろうな。だから、うまく逃げているんだ」
「そうか、だから鳩になかなかとり憑けないんだ」
「そういうことだ。餓鬼も必死なんだけどな」
鳩にとり憑こうとした餓鬼の中には、鳩に蹴飛ばされて転がっているものもいる。転がった餓鬼は、バラバラになり、おそらく死んでしまったのだろう。そのまま消えてしまった。
「いま、鳩に転がされてバラバラになった餓鬼、あれは消えてしまったんだけど・・・」
「あぁ、あれはこの世界で死んでしまったから、また餓鬼界に戻されたんだ。また、餓鬼界のなかで、初めら川に向かってスタートするんだよ」
あの餓鬼は、鳩に蹴られ死んでしまい、また餓鬼界へ戻されたのだ。また一からやり直しである。せっかく、餓鬼界で何度も死にながら、苦しみながら川にたどり着いて人間界にやってきたのに、また初めからやり直しなのだ。
「そんなことを何度も繰り返しているんですね、餓鬼は」
「あぁ、そうだな。下手すりゃ、何百年だ」
餓鬼界は、恐ろしい世界なのだ。

「これが、いわゆるオフィス街か?」
夜叉が俺に尋ねた。
「そうですね。これが都心のオフィス街です。俺の勤めていた出版社は、ああ、あっちですね。もっと向こうです」
「ふ〜ん、おもしろそうだから、そこへ行こうか」
夜叉の提案に、俺は少し考えたが、あそこは餓鬼の巣窟かもしれないと思い、
「そうですね。面白いかもしれません。餓鬼がいっぱいかも。じゃあ、行きますか」
と言った。俺の勤めていたところである。餓鬼が多いんだろうな、と思いつつ、俺たちは歩を進めたのだった。
つづく。


俺が勤めていた会社どころじゃなかった。餓鬼はそこら中に存在していたのだ。餓鬼を背中にしょっている人も意外に結構いるのだ。これには正直、驚いた。この世に餓鬼がこんなに存在しているなんて・・・。衝撃的でもあったのだ。
「こ、こんなに餓鬼がいるんですね、この世には」
「あぁ、そうだな。まあこんなもんだろ」
「いや、多いと思いますよ。ほら、あそこのゴミ集積所、餓鬼がいっぱい潜んでいますよ。あんなに身体を小さくして固まっているんですね」
「あぁ、下手に外に出て踏みつぶされると死んでしまうからな。餓鬼も必死さ」
「踏みつぶされると死ぬんですか?」
「そうだよ。餓鬼は弱いだろ」
「そうでした。餓鬼って簡単に壊れるというか、バラバラになって死んでしまうんでしたね。だから、ああやって小さくなって固まっているわけだ」
「そう。で、とり憑けそうな人間や生き物がいたら、さっと襲い掛かるんだ」
「なるほど、それにはゴミ集積所はいい場所なんだ」
「ゴミの臭気を食って生きられるしな」
「まあ、中には食べ物のカスや残りもありますからね」
餓鬼がこの世で生きるのは、楽ではないだろう。餓鬼界で川を目指し歩いていたほうがまだましかもしれない。川で先祖からの救いを待っていたほうがもっとましだろう。しかし、そこは餓鬼なのだ。餓鬼は、欲が深い。その欲に従って、何も考えずに行動をする。その結果がこれだ。
「餓鬼は愚かだなあ」
と俺は思わずもらしていた。
「あぁ、そうだ。餓鬼は愚かだ。だから、ある意味、地獄より苦しいかもしれないな。誰も救いを教しえないしな」
そうなのだ。餓鬼は、救いがあることを教えてもらっていない。だからこそ、貪欲に生きようとするのかもしれない。

また、背中に餓鬼を背負っている人を見た。顔がちょっと歪んでいる。なんか、イライラしていそうな中年のオヤジだった。
「今すれ違った男、相当イライラしているな。餓鬼に操られているんだな。何にイライラしているのか知らないが、なんかしでかしそうだな、あの男は」
夜叉がすれ違った男を見てそう言った。当然、その男からは俺たちは見えていない。よほど修行を積んで霊感が強くなった人にしか我々の姿は見えないのだ。
「あの男、そんなにひどいんですか?」
「あぁ、もう少しで爆発しそうだったな。何の欲かはわからない。でも何か仕出かすな」
と、その時、怒鳴り声が響いた。
「お前、俺にぶつかっておいて謝らないのか、あぁ、おい、お前、聞こえているんだろう。バカかお前は!」
「ぶつかったって言っても、たいした当たり方じゃないですか。それにお互い様でしょ。私はわざとぶつかったわけじゃないですよ。むしろ避けようとしました。それなのに、あなたがぶつかってきたんじゃないですか」
「な、なんだと、この若造が!。あぁ、ムカつく。お前みたいな若造が偉そうなことを言うんじゃねぇ。このヤロウが!」
と叫んだかと思うと、その男は若い方の男に殴りかかっていた。若い方は中年オヤジのパンチを避けられず、「あっ」と言う声を発したかと思うと、顎にパンチを食らっていた。
「あっ、な、何するんですか」
「うるせいこのヤロウ」
続いて、中年オヤジは蹴りを入れた。若い男はダウンした。周囲は騒然としている。誰かが「警察を!」と叫んでいる。その間にも中年オヤジは若い男を蹴っていた。
「あぁ、やっぱりやらかした。どうやら、名誉欲の強い餓鬼だな。会社でも家庭でもちっとも褒められず、尊敬されもせず、小ばかにされ続けている男なんだろうな」
「その不満が餓鬼を招き寄せたんですね」
「そうだな。それで餓鬼にとり憑かれ、もっと名誉を、もっと尊敬を、もっと優しさを・・・てな感じで、あぁなったんだろうな」
「哀れですね。自分の実力を知っていれば、そんなことにはならなかったのに・・・」
やがて警察が来て、その男は逮捕された。救急車も到着した。若い男は、救急搬送されたようだった。
「まあ、これだけ人間がいれば、あんなことも起きるよな」
夜叉が、ちょっと悲しそうにそう言った。哀れな人間だと思っているのだろう。

そんな中、ようやく我々は俺が勤めていた出版社が入っているビルに到着した。
「このビル全部がお前のいた会社じゃないのか?」
「違いますよ。私がいた出版社は、極小なんですよ。小さい出版社なんです。だから、このビルの4階と5階がオフィスになっています」
「ほう」と言いながら、夜叉は、ビルに入って行った。俺もそのあとに続く。一応、エレベーターに乗ってみる。そのほうが、我々のエネルギーが節約されるのだ。俺たちも、エネルギーが永遠にあるわけではない。なるべく節約しないといけないのだ。特に俺の方は。
よく、心霊系のTV[番組で、幽霊が壁をすり抜けている、なんて話があるが、あれはウソだ。幽霊でも部屋に出入りするときは、出入り口を使う。壁を通り抜けるのは、意外とエネルギーを使うのだ。エネルギー補充が確実にできるなら、壁も抜けるし、フラフラ飛び回る。だが、その保証がないなら、生きているとき同様の行動をするのだ。そのほうが、エネルギーの消費も少なくて済むのだ。

「何階だ?」
夜叉が聞いてきた。
「あ、5階です」
と思って階のボタンを押そうとしたがうまくいかない。他に誰も乗っていないので、どうしようと思ったが、
「そうか、5階か。4階はいいのか?」
と言って、夜叉が軽く5階のボタンを押していた。エレベーターが動き出す。
「なんで夜叉さんはボタンが押せるんですか?」
「あぁ、これは押しているんじゃないんだよ。まあ、お前らの言い方をすれば『念』で押しているんだ」
「念ですか?」
「そう。念。一種の電気的エネルギーだな。お前たちの世界では、変な番組・・・えぇっと、そうそう心霊番組か、そう言うのやっているだろ」
「はい、やってますよ。最近は少なくなりましたけどね。インチキ臭いから」
「あれで、幽霊が物を動かすとか、あるだろう」
「あります。嘘くさいと思ってみていました」
「それが、まるっきりウソではないんだよ。エネルギーをたくさん持っている幽霊とか、エネルギー補充のあてがある幽霊なんかは、物を動かしたり、ボタンを押したり、TVのスイッチを入れたりできるんだな。まあ、お前は、死んでから間が立っていない新入りだから、無理だけどね。そうだな、幽霊になって100年もたつようなベテラン幽霊なら可能だろうな。人を動かすこともできるだろう、そう言う幽霊ならな」
そうなのか、知らなかった。ならば、先輩のお寺にいるならば、先輩のお寺のものを動かすくらいはできるのか。
「いや、それは無理だな。お寺の仏具は触れられないからな。外のインターホンくらいは押せるかもしれないけどね」
夜叉は、俺の心を読んでそう言った。
「で、4階はいいのか?」
「4階はいいんです。ゲラのチェックや新刊の保管場所なんで、人がいませんから」
「ふーん、そうなのか」と夜叉は、わかっているのかどうなのかわからないような返事をした。きっと、そんなに興味がないのだろう。
しかし、エネルギーがたくさんあれば、意外といろいろなことができるのだということが分かったのはよかった。そういえば、女房の守護霊のおじいさんも同じようなことを言っていた。エネルギーの消費を抑えられるようにならないと、守護霊になれないとか、なんとか・・・言っていたように思う。いろいろあり過ぎて、忘れてしまっていることが多くなった。
そうこうしているうちにエレベーターは5階に到着した。ドアをすり抜ける。通路をまっすぐ行くと、編集長の机がある。左右には、それぞれ担当の者の机が並んでいる。と言っても、左右に並んでいるのは机が二つずつだ。小さな出版社はこんなものだ。それでも、来客用のスペースはある。

机には、同僚だった、あの風俗好きのヤツ・・・助部(たすけべ)・・・が座っていた。なんだかイライラしている。彼の背中には、餓鬼がしっかりとり憑いていた。
「思った通り、餓鬼がとり憑いていますね」
「あぁ、だが、ちょっと小さくなっているな。少し弱っているようでもある」
「そうなんですか?。あれでも小さいんですか?」
「うん、餓鬼がエネルギーを満タンにしているときは、もう少し大きいな。それに、生き生きとしているしな。今は、なるべく動かないぞ、って感じだ。腹が減っているんだろうな」
「エネルギー不足なんですね?」
「そういうことだ。どれ、あいつの心でも読むか。あぁ、お前もそろそろできるんじゃないか。生きている人の心を読むこと」
「えっ?、どうやるんですか?」
「簡単だよ。あいつの心の声を聞こうと思えばいいだけだ。最初は集中力がいるけど、慣れれば、聞こうと思えば簡単に聞こえるようになる」
夜叉にそう言われ、俺は助部の心の声を聞こうと強く念じた。すると・・・。
(あぁ、やってられねぇな。あぁ、つまんねぇ。そろそろソープにでも行かないと、死んでしまうぞ。もう二日も行っていない。さて、どうやってボスを騙すかな。まあ、バレてはいるんだろうけど、言い訳は必要だよな。原稿の枚数がこれでは足りないとかいうか・・・)
なんてヤツだ!。アイツは、風俗へ行くことしか考えていないのか!
「そりゃそうだろ、餓鬼にとり憑かれているんだから。それにしても心がうまく読めたじゃないか」
横で俺の心を読んだ夜叉がそう言った。
「心の声を聞くことはできましたけどね、でもねぇ、ムカつきますよ。そりゃ餓鬼がとり憑いていることはわかっていますが、記者としてどうなんですかねぇ。まあ、いい記事を書けばいいんでしょうけど・・・。しかし、アイツ、俺がいたころより風俗好きが進んでいますよ」
「きっと、お前がいたころは単なる風俗好きっていう程度だったんじゃないか」
「まだ、餓鬼はとり憑いてはいなかったんでしょうね」
そんなことをしゃべっているうちに、助部は編集長のもとへと行った。
「編集長、どうしても原稿が埋まらないんです。もう一回、取材に行っていいですか?」
「なんだと。三日前に行ったばかりじゃないか。それでも不足なのか?」
「はい、どうしても聞きたいことができたんですよ。風俗嬢に。なんで、行っていいですか?。お願いしますよ。いい記事上げますから」
「はっ、お前の言葉はあてにならんがな。まあいい、記事に穴をあけられても困るしな。あぁ、領収証はもらえよ。いいな!」
「はい、わかりました。では、これから行ってきます」
そういうと助部は、意気揚々と会社を出ていった。
「後をつけましょう」
俺がそう言うと、「いや、ちょっと待て」と夜叉が言った。
「どうしたんですか?」
「まあ待て。面白いのが見られるかもしれんぞ」
夜叉がそう言うので、俺も待機することにした。

「まったく、あのスケベ、どうしようもないな」
編集長が毒づいた。スケベとは助部のことである。名前からのあだ名だ。それにしても、名は体を表す、そのものヤツだ。単純なヤツなのだ。
残っていた記者が編集長に言った。
「あれ、風俗に行きたいだけでしょ。いいんですか、そんなに経費を使って。いいなら、俺ももっと経費くださいよ」
「いいわけないだろ。キッチリ給料から引いておくさ。しかし、もうそろそろ、アイツも終わりだな。いい記事は書けなくなってきたし、頭の中は風俗嬢のことばかりだ。エロで頭が腐っているようだ」
「いつからそうなったんですか?。僕が入社した時は、あんなじゃなかったですけど・・・」
「そうだな、ここ最近かな。いや、ひと月前くらいかな・・・」
「そうでしたっけ?。まあ、もともと好き者でしたけどね」
「それはいいんだが、アイツの後釜が欲しいんだ。誰か、風俗担当者はいないか?」
「あ、俺やっていいですか?。スケベさんのように、あんなに風俗行きまくることはしないんで、担当したいです」
俺の知らない若い社員が手をあげた。俺が死んだ後に入った社員だろう。
「お前やるか?。意外ときついぞ。いい記事を書かなきゃ、すぐにクレームが来る。スケベなオヤジどもが多いからな。それにうちの雑誌は、これがメインのようなものだ。風俗情報誌としては、一流なんだよ。なのに、最近クレームが多いんだよ。あのスケベの記事がよくないんだ。あれ以上書けるのかお前は?。まだ新米だろう」
「もちろん大丈夫っす。任せてください。今まで書いた記事もいけてたでしょ?」
「まあなぁ。ま、若いヤツの方が今の時代はいいか。そうか、じゃあ、お前に任せて・・・スケベは解雇だな」
なんと俺の同僚は解雇の危機になっていたのだ。それはあの餓鬼のせいだろう。餓鬼の影響で、頭の中がエロばかり、風俗嬢のことばかりになっているのだ。
「な、いい話が聞けただろ」
と夜叉は得意げに言った。
「えぇ、いい話が聞けました。なんとか、アイツを止めないと・・・」
「おいおい、あのスケベ男を救う気か?。大変だぞ。餓鬼の手から救うのは」
「はぁ、大変だと思います。でも、やらないよりはやったほうがいいかなと・・・」
と言いつつ、そんなことをするとまた先輩に怒られることになるのかな、と頭のどこかでそう思っている自分もいるのだった。しかし、できれば助部を止めたい、という思いは強かった。何とかしないと・・・ヤツの家族だって大変だし・・・。と思うのだ。できるなら、あの餓鬼を取っ払ってやりたいのだ。
「とりあえず、助部を追いましょう。だいたいヤツの行く先はわかっていますし」
そう言って、俺は会社のドアをすり抜けた。あとに夜叉がついてくる。
「まあ、俺は面白いからいいが、変な手助けはしないぞ」
「もちろんです。俺も無理はしません。なんせエネルギーが少ないですからね」
「そうだ、無理はするな。俺に迷惑はかけるな。いいな」
「もちろん、承知してますよ」
と俺はそう言ったが、実は不安の方が大きかったのである。


霊的エネルギーを節約するため、走るようなことはせず、ゆっくり歩いていた。誰かタクシーにでも乗るようなことがあれば、それに便乗するのだが・・・そう言うことができるらしい・・・今のところ誰もタクシーを拾おうとはしない。仕方がないので、とぼとぼ歩いている次第である。夜叉さんだけなら、きっと飛んでいくのだろうなと思う。己の未熟さというか、修行ができていないというか、まあ、仕方がないのだ。死んで100日しかたっていないのだから。いくら優遇されていると言っても、エネルギー面は面倒を見てくれないらしい。
「仕方がないぞ、それは。お前はまだ死んで間もないからな。俺が持っているようなエネルギーをお前に与えたら、容量オーバーでお前の魂は破裂する」
「え、えー、そうなんですか?。破裂してしまうんですか?」
「そうだ。で、消滅する。消滅した後は、海に住む細菌からやり直しだ。亡くなってからの修行によって、エネルギーの容量も増える」
「そういうことですか。まるでTVゲームのようですね」
「まあ、似たようなものだな。というわけで、お前にエネルギーを分け与えるわけにはいかない」
確かにちょっと思っていたのだ。いざとなったら、夜叉さんにエネルギーを貸してもらえないのだろうか、と。甘い考えだった。まあ、自分で何とかするしかないのだ。

それにしても・・・。
「こうやって街を歩いているじゃないですか。そうすると、そこかしこに幽霊が立っていますよね。座っているのもいますが。彼らは、どこからエネルギーを取っているんすか」
「見てりゃ分かるが・・・ほれ、あの幽霊」
「あ、通りすがりのおじさんに触れたようでしたね」
「あの瞬間にエネルギーを少しだけいただいているんだ。触れた方は、風が吹いたと思う程度だな」
「なるほど、そうやってエネルギーを得ているんだ・・・。ああいう、犬や猫もですか?」
犬や猫の幽霊も存在している。特に猫はウロウロしていることが多いようだ。犬のほうは、意外にじっと座っていることが多い。ときおり、人にくっついて歩いている犬も見かける。きっと、そういう犬は、その人の飼い犬だったのだろう。
「犬や猫も人間や他の生きている動物から、こそっとエネルギーをもらっているよ。まあ、犬は飼い主にくっついていることが多いけどな。で、飼い主からエネルギーをもらうんだ」
「以前、交通事故で無くなったお婆さんが道に立ってまして・・・」
「知っているよ。余計なことをして和尚さんに怒られたんだろ?」
「知っていましたか・・・。怒られましたよ。その時はそこまで考えも回らなかったし、魂が生きていくエネルギーのことも知らなかっらから、何も思わなかったんですけど・・・あの人もきっと、そのへんの道を歩く人からエネルギーを得ていたんですね・・・」
魂は、その存在を維持するためにエネルギーが必要だ。幽霊は、生きている人からそっとそのエネルギーをもらうしかないのだろう。
「いや、それだけじゃない。とり憑けばいいじゃないか。餓鬼のように」
「あっ、そうか、その方法もありますよね。そうか・・・。でもめったに見ないですよね。餓鬼にとり憑かれている人は見ますが、人にとり憑かれている人は、あまり見ないなぁ」
「人だけじゃない、犬や猫だってとり憑くこともある。実際に猫やそれ以外の動物にとり憑かれている人間もこれから見られるさ。それより、あの男は、その店か?風俗店か?、にはどうやって行くんだ?。俺たちみたいに歩いて行くのか?」
夜叉さんにしてみれば、歩いて行くのが面倒なのだろう。彼のエネルギーにしてみれば、ここからアイツの行く風俗店まで飛んでいった方が断然早いのだ。
「アイツの行く店は吉原だから、電車で行って迎えを待つかタクシーです」
「そうか。じゃあ、歩いて行っていたら・・・」
「もう店に入ってしまうでしょう」
「アイツは、電車かタクシーか、どっちで行く」
「まずタクシーでしょう。経費で落ちると思っていますから」
「じゃあ、何とかタクシーに乗らないとな」

夜叉さんは、どこまで現実世界のことを知っているのだろうか?。時々、あれ?こんれは知らないんだ、と思うときもあるし、タクシーを知っていることもある。風俗店のことは知っているのだろうか?
「あのな、大体のことは知っている。だが興味の無いものは覚えられないこともあるんだ。それは人間と同じだろ?。ちなみに、風俗店か・・・内容はよく知っているぞ。どんなとこかってことはな。行ったことはないがな。最近の歌を歌っているヤツラの名前は知らないな。最近は、現世のTV番組は見ないからな」
「ちょ、ちょっと待ってください。現世のTV番組が、見られるんですか?」
「あぁ、閻魔大王の許可さえもらえば、現世の世界中のTVが見られるぞ。あぁ、TVがあるわけじゃない。神通力で見るんだ。だから、大方のことはわかる。それにな、神通力を使えば、現世の世界中のことが上から見下ろすことができるんだ。見ようと思えば、何でも見られるさ。ま、見る気はないけどな」
そりゃそうだ。夜叉さんクラスになれば、生きている年月も長いし、神通力もベテランだろう。知ろうと思えば、何でも知ることができるわけだ。だから、俺が先輩に怒られたことも知っているし、TVゲームのこともわかるのだ。ゲームとか、するのだろうか?
「しないよ、そんなもの。するやつもいたけどな。閻魔様に怒られてたな。それより、タクシーが捕まらんぞ。どうするんだ」
「どうすればいいですか?。待つしかないでしょ?」

一瞬、夜叉さんは、俺の顔を見つめて「ふん」と息を吐くと
「しょうがねぇなぁ」
と言って、ある男のそばによると、その男の手を取るようなそぶりをし、その男の手を上げさした。男は、えっ?というような顔をしつつも手を上げていた。当然、そんな姿を見ればタクシーは止まる。男は、乗り込んだのだが、なんで?という顔をしている。が、そのまま座った。夜叉さんが叫ぶ
「早く乗れ!」
俺はあわててタクシーに乗り込んだ。すると、夜叉さんが男の横から・・・きっとその男の声を真似をしたのだろう・・・「吉原まで」と勝手に言っている。その男は、キョトンとしながらも「行ってください」と続けて言ったのだ。さらには、「急いで」などと言っている。この男の人、吉原なんぞに行く気はないはずだ。たまたま、その辺を歩いていただけの男の人なのだから。その男は、「おかしいなぁ・・・」とブツブツ言いつつ、頭を振っていた。きっと、何で吉原に?と思っているに違いない。
「いいんだよ。この男も、息抜きしたいな、と思っていたんだから」
「吉原で、ですか?」
「そう。たまにはいいかなぁ、なんて思っていたんだよ」
「でも、本当は仕事があるんじゃないですか?。きっと、会社が終わってから行こうと思っていたんじゃないですか?」
「いいじゃないか、夜だって昼だって。大差ないだろ」
こういうところは、人間と感覚の違うところだ。夜叉さん自体は、どうでもいいと思っているのだろうが、人間界では迷惑なのは間違いない。この男性も戸惑っていることだろう。とはいえ、吉原へ、と運転手さんに言ってしまった以上、どうしようもないことだが・・・。

間もなくタクシーは吉原についた。俺は、取材で一度だけ来たことがある。しかし、どうもこの雰囲気に馴染めず、担当を代わってもらった。代わったヤツが助部だ。そう思うと、俺もいけなかったのかな、とも思う。しかし、まさかとんでもなくハマってしまうとは、俺も思わなかったのだ。とはいえ、責任を感じているところもある。だから、親身になってしまうのかもしれない。
タクシーを降りると助部の後ろ姿が遠くに見えた。ちなみに、夜叉さんに無理やりタクシーに乗せられた男は、「まあいいか」とか言いながら、ニヤニヤしてスマホをいじっている。たぶん、よさそうな店を探して、予約を入れるのだろう。なんてヤツだ。さっきまで頭をかしげていたくせに。こういういい加減なヤツはどの会社にもいるのだろうな、と思いつつ、俺たちは助部の後を追っていた。
ヤツが、とある店に入った。ヤツもあのタクシーの男のようにスマホで予約したのだろう。ニヤニヤして店に入っていく助部の横顔が見えた。
「あの店か、じゃあ、入るか。言っておくが、お前もいろいろなものが見えるようになっているから、イチイチ驚くなよ」
夜叉さんにそう言われ、「あぁ、はいはい」とだけしか言えなかった。いったい何があるのというのだ風俗店に・・・。

店のドアをすり抜ける。待合の方を覗いてみる。いた。助部がそこに座っていた。ニヤニヤしながら、店のタブレットを見ている。背中には小さくなった餓鬼がしっかりしがみついていた。その横には、店員が・・・背中に餓鬼を乗せて立っていた。俺は、「おっ」と声を出しそうになったが、一応、何とかこらえた。夜叉さんにも注意をされていたことだし。しかし、もし、大きな声を出して、「夜叉さん餓鬼ですよ」なんて言ったらどうなるのだろうか?
「大きな声を出せば、餓鬼がこっちに気が付くじゃないか。いいか、なるべく気を・・・気配をだな小さくして屈んでろ。餓鬼に見つかると面倒だからな。特に俺はな」
なるほど、夜叉さんが餓鬼に見つかると、餓鬼は、夜叉さんが、自分を捕まえに来たと勘違いするに違いない。そうなれば、おそらく餓鬼は夜叉さんに攻撃を仕掛けてくるか、逃げることになるだろう。そうなると、ちょっと面倒だ。俺は、静かにしゃがんだ。
助部は、「じゃあ、そいうことで」などと言ってにやついている。店員もニヤニヤしながら奥へ引っ込んだ。間もなくすると女性が助部に声をかけた。手を取って、「こちらへどうぞ」と彼を誘った。俺は、その女性を見て、思わず声を上げそうになった。もっとも、声を上げても人間は気が付かないが、餓鬼たちは気が付く。俺が驚いたのは、その女性に餓鬼を乗せた猫が、背中にしがみついていたからだ。その猫は、なまめかしい声で「にゃ〜」と鳴いた。もちろん、人間には聞こえていない。

ニコニコしながら女性は助部の腕にしがみつき、「こちらへどうぞ」と言って、部屋に入った。ドアが閉まる。そのドアの前で
「えーっと、中に入ったほうがいいんでしょうか?。それとも・・・」
と俺は夜叉さんに尋ねた。
「そうだな、中に入ったほうがいいだろう。お前の知りいあの餓鬼を取り除きたいのならな。だがな、相手の女がな・・・厄介だ。餓鬼を乗せた猫だしな。しかも、結構な年数を生きた猫だ、あれは。妖怪化しているからな。尾が二つに割れていた。下手をすると、強大化するぞ」
「ど、どういうことです?。あの女についている餓鬼付きの猫は、強いんですか?」
「強いぞ。そうだな、百年以上は、猫の幽霊の状態でいただろう。そうなると、もう妖怪だな。猫の妖怪。まあ、俺たちは魔物、というがな」
「夜叉さんでも勝てない?・・・・」
「そんなことはないが、俺は手を出さないぞ、と言ったと思うがな」
「そ、そうですが・・・・」
さて、困ってしまった。どうすべきか・・・。いろいろ考えているうちに、助部の餓鬼はどんどん大きくなっていくだろう。そうなると、当然、俺の手には負えない。夜叉さんは、手を貸してくれない。そもそも、現世のことに関わってはいけない立場のだ。夜叉さんに迷惑はかけられない。ならば・・・。
「あいつを助けるなら、今ですよね?。たぶん、まだ服を脱いでいるころだと思います。いろいろ話をしながら。一応、取材ですからね。よし、仕方がない。部屋へ入ってみます。夜叉さんは、手を出さないでくださいね」
「うん、そのつもりだよ、初めから」
何とも気の抜けた夜叉さんの返事に、心が折れそうになったが、意を決して俺は部屋の中に入った。

ヤツは・・・助部は、まだ何もしていなかった。「ちょっとお茶でも」という感じで、茶を飲みながら風俗嬢と話をしている。俺は、姿勢を低くしてゆっくりと進んだ。女にとり憑いている猫には気が付かれていなさそうだ。気配を消して、ゆっくりと助部の後ろに回った。夜叉さんは、こちらに来ないでドアのそばに立っている。だが、夜叉さんの気配は全くない。そのうちに姿自体うっすらとなっていった。
そうか、そこまで気配を消せ、ということだな、と俺は思い、さらに身を縮めるようにして、気配を消そうとした。
助部の背中はちょうど真上だ。餓鬼のケツが見えている。餓鬼は、早くエネルギーが欲しいのか、そわそわしているようだった。早く、女と助部を交わりさせ、生命のエネルギーを女から吸い取るのだ。
ちょっと待てよ、女にも餓鬼のついた猫がとり憑いている。ということは、女の餓鬼も助部の生命エネルギーを取ろうとするのではないか。となると・・・一体どうなるのだ。俺は混乱してしまった。どうすればいいのだ・・・。
その時だった。夜叉さんの声が響いてきた。
「とりあえず、お前の知り合いの餓鬼を取ってしまえ」
そうだ。あとはどうにかなるだろう。とりあえず、あの餓鬼を蹴り上げて、潰してしまい、さっさと逃げよう。女にとり憑いている猫だって、追っては来ないだろう、きっと。それは希望的観測かも知れないが、えぇい、こうなったらやるだけだ。
俺は一気にたちがり、すぐさま、助部の餓鬼を蹴り上げた。そして、餓鬼が落ちたほうに走り、思いきり踏みつぶした。餓鬼は、一瞬にして消滅した。きっと、餓鬼界に戻されたのだ。それを見届けた俺は、一気にドアを駆け抜けた。
はたして、助部はどうなったのだろうか?。そして女は、どう反応したのか・・・。
目の前には、夜叉さんが、にやついて立っていたのだった。


「なんとかできたじゃないか。あの男についていた餓鬼は、餓鬼界に戻されたぜ。まあ、まだ一匹残ってはいるがな」
夜叉さんは、ニヤニヤしながらそういった。どうやら、助部についていた餓鬼は、この世で死んで餓鬼界に戻されたようだ。何とかうまくいったらしい。しかし、もう一匹残っていると夜叉さんはいう。それはおそらく女にとり憑いている餓鬼のことだろう。助部の相手をしていた女には、猫がとり憑いていた。その猫にはさらに餓鬼がとり憑いていた。あの猫は俺に気付いていたようだ。俺の方を見て・・・そう、この餓鬼も何とかしてくれ、というような顔をしていたように思う。さて、どうしたものか・・・。助部の様子も気になるし、もう一度部屋に入ってみるかどうか、俺は迷った。
「気になるんだ?。お前の友人のことも、その女の餓鬼のことも。ならば、見に行けばいいじゃないか。まだ、お前のエネルギーは、それほど減っていないようだしな」
そうだ、俺の魂のエネルギーのこともある。どうやら、それほど減ってはいないようだ。確かに、苦しさもない。助部の餓鬼を蹴った時とそれほど体力というか魂力というか・・・は、変わりはない。ならば・・・。
「じゃあ、ちょっと部屋に入ってみます。助部の様子も知りたいし」
俺はそう言って部屋に入っていった。その背中に夜叉さんは
「俺はここで待っているぜ」
と言ったのだった。

部屋にコッソリ入ってみた。さっきと同様に気配を消してみる。助部は、先ほどと同じように女に話を聞いていた。
「ほう、そうなんですね。そっか・・・。じゃあ、そろそろあっちへ行きますか?。といっても、なんだかやる気が起きてこないんですよね」
助部は、どうやら性欲が減ったようだ。まあ、それでも元々好き者だ。やることはやるのだろう。取材ということもあるし。
女の方が積極的だ。まあ、猫と餓鬼がとり憑いているのだ。早く生命エネルギーが欲しいだろう。しかし、猫は俺の存在に気付き、こっちを見ている。その目で俺の方を見て、背中の餓鬼を見ている。どうやら目配せをしているらしい。餓鬼を取って欲しいのだ。
女は、服を脱ぎ始めた。早めにあの餓鬼を蹴り上げねば、チャンスがなくなる。ことが始まると、それどころではないだろう。餓鬼だって、エネルギーを得れば、あんなに小さくしょぼくれてはいないだろう。大きくなって力を得ると厄介だ。チャンスは、今しかない。

女が、服を脱ぎ下着姿のまま風呂の湯を入れに行った。チャンスだ。俺はそうっとその後ろに近付き、女が風呂の蛇口をひねり終わり、立ち上がったところを狙って背中を蹴り上げた。
餓鬼が転がっていくのが見えた。俺はそれを素早く追って、餓鬼を踏みつぶした。とたんに餓鬼は消えた。女の方を振り向くと、キョトンとして立っている。しかし、すぐに仕事にとりかかった。俺に背中を向け下着を脱ぎ始めた。その背中には、猫がしっかりととり憑いている。どうやら、猫は落ちなかったらしい。その猫は、俺の方を見て、ニヤッと笑った。そして、一つ頷くと女の背中にしっかりと張り付きなおしたのだった。こうして、俺の役目は終わった。俺はさっさと部屋を出た。

「うまくいったようだな」
部屋の外、廊下には夜叉さんが立っていた。
「はぁ、何とか・・・。でも、ちょっと疲れました。助部の時はそうでもなかったんですが、なんだか今回は疲れましたよ。息切れがするような感じがします」
俺は立ちあがることができず、両手を両ひざについた状態で、はぁはぁ言っていた。
「女の背中の餓鬼を蹴り上げた時に、あの猫に少しエネルギーを取られたんだろう。油断も隙もないな、あの猫。まだ若そうだったんだが、なかなかやるもんだ」
「そ、そうだったんですか・・・。だから、あの猫、にやついていたんだ。くそ、助けてやったのに、さらに俺のエネルギーを持っていくなんて・・・」
「この世にいる成仏できない霊体は、そんなもんだよ。隙さえあればさっさとエネルギーを奪うさ。もっとも、少しだけだけどな。ほんの一瞬触れ合うだけじゃ大量には奪えないからな」
「そうなんですね。じゃあ、少し休めば回復するかな」
「いや、そりゃ無理だ。お前も霊的エネルギーを補給しなきゃならない。仕方がない、俺が少し分けてやるよ」
そいうと夜叉さんは、俺に向けて片方の手を開いた。なんだか、暖かな風が来るような気がした。
「あったかいです。あぁ、気持ちがいい。あぁ、元気が出ました」
俺は立ち上がって、いや楽になりました、と言って夜叉さんに礼を言った。
「ま、俺が最初から餓鬼を潰していたのら、楽だったんだけどね。ついでにあの猫も霊界に放り出してやったんだが。ま、今回はこれでいいだろう。役目は果たしたのだから」
「ね、猫も消せたんですか?。あの猫は、霊界のどこに行くんですか?」
「霊界の畜生道だよ。この世の動物ではなく、霊の世界の動物界だな」
「な、なんですかそれは。霊の世界にも動物がいるんですか?」
「まあな。ま、そのうちわかるよ。餓鬼界の次は畜生道だからな。あぁ、ちなみにどの世界にも餓鬼はいるからな。覚えておくように」
そうなのだ。餓鬼の世界は、川の流れをたどって行けば、いろいろな世界とつながるのだ。川にたどりついた餓鬼たちは、川の流れに従って歩く。そのうちに他の世界とつながっている光を見つけるのだ。一番早い光が、この人間界へとつながっているのだ。
「とすると、次の光は・・・」
「さぁな、どこなんだろうね。ま、行ってみればわかるさ」
夜叉さんは、そう言うとちょっと笑ったのだった。

「さてと、とりあえず目的は果たしたな。これからどうする?」
「そうですね・・・。もう少しブラブラしてから餓鬼の世界に戻りますか。餓鬼が活躍する夜の様子も見たいですし」
「じゃあ、ここを出るか」
夜叉と俺は、その風俗店を出た。すぐに夜叉が話しかけてきた。
「もし、お前の友人が、また餓鬼にとり憑かれたら、お前はどうする?」
「もし、アイツがまた餓鬼にとり憑かれたら・・・そうですねぇ。その時にならないと分からないですが、きっともう助けることはないと思います」
「ほう・・・。随分と変わったな。前のお前なら、また助けに来ますよ、と言っていただろう」
「そうですかねぇ。そうかなぁ・・・。死んだばかりの俺だったらそう言っていたかも知れないですね。いや、きっと言っただろうな、助けに行きますって。でも、いろいろ学びましたよ。そこまでする事じゃないってことも。あとは、アイツの責任です。今は、そう言えます」
確かに、これで助部は救われるだろう。餓鬼が離れたのだから、使い込みまでして風俗店に行くことはなくなるだろうと思う。だが、アイツは元々スケベだ。また、どこかで餓鬼を拾う事があるかも知れない。しかし、その時は自己責任だ。俺はもう助けない。もう俺の出番はないのだ。今回きりである。

街中には、餓鬼がうようよしている。コソコソ影に隠れるように動いている。街の隅っこに固まり、とり憑きやすい人間を探しているのだ。中には、鳩やカラスにとり憑くやつもいる。犬や猫などのペットも、その対象となるのだろう。食欲の旺盛なペットは要注意だ。
何気なく歩いている人の背中に、餓鬼が張り付いている光景は珍しくはなかった。子供連れた母親の背中、真面目そうなサラリーマン、学校の教師らしき人、駅員さん、病院から出てきた患者やそれを見送っている看護師さん、医者・・・。背中に餓鬼を背負った人は、職業を問わずいっぱいいるのだ。改めて人間の欲の深さに驚くとともに、ガッカリもした。昼間から、これほど多くの餓鬼を見るのだ。夜になるといったいどうなるというのだろうか・・・。
「げんなりするだろ。嫌気がさすよな。人間の欲の深さにな。でもな、餓鬼って簡単にとり憑くんだよ。貪欲に出世欲のあるやつ、うるさい教育ママ、欲求不満の学校教師、客にイライラしている駅員や店員、文句ばかり言っていた病人、今夜の合コンのことばかり考えているちょっとエロい看護師、変態系の医者・・・。そこら中に餓鬼がいるさ。けど、これでも減ったんだぞ」
「餓鬼がですか?。こんなにいるのに?」
「お前は、バブル時代を知っているか?」
「その時代を経験してはいませんが、取材などで知ってはいますよ。ま、一言で言えば狂喜乱舞の時代ですよね。あっ」
「気付いたか。バブルの時代は、国を挙げての餓鬼時代だった。餓鬼が喜んで太った時代だな。どいつもこいつも浮かれて金は舞い上がり、男も女もやり放題だ。不倫は当然、性行為をしない者はバカにされた。高級車を乗り回し、高級なものを身に付け、高級な場所で食事をした。そんな時代だ。そんな状態を餓鬼が見逃すはずがない。というか、みんな背中に餓鬼をしょっていたんだよ。で、餓鬼に食いつくされ、バブル崩壊だ。バカな人間どもだな、と思ってみていたよ。餓鬼に食いつくされた後は悲惨だったな」
「倒産が相次ぎました。あれは・・・銀行が真っ先に餓鬼にとり憑かれたんですかねぇ」
「銀行員、証券マン、そんなところだろ。金の欲に取り憑かれた連中さ。餓鬼の大好物だな。隙も多かっただろうし」
「人間は本当に愚かですね。でも、バブル崩壊で随分学んだんじゃないですか。あんな欲はもう出さないぞって」
「学んだことは多かっただろうな。だが、今はIT連中がヤバいんじゃないか?。ネット通販でぼろもうけしている社長とかな」
夜叉は、どこでそんな情報を得るのか。あぁ、上から見ていれば全部わかると言っていたな。なかなか侮れない。人間界を見下ろせるようになると、夜叉のようにすべてを見通せるのだろう。
「全部知っているわけじゃないし、先を見通すことはできない。予測はできるがな。お前らよりまともな予測はな、それはできる。だから、バブルの頃、それが崩壊するのもわかっていた。どっちにしろ、諸行無常だ。バブルが続くわけなんぞないからな。それを注意する者はいなかった。坊さんですらだ。みんな餓鬼に侵されたいたからな」
「バブル崩壊後の餓鬼はどこへ行ったんですか?。随分太ったんじゃないですか?。栄養を十分とったんでしょ?」
「餓鬼なんぞ、すぐに腹が減る。だからこそ餓鬼なんだよ。バブルが崩壊しても、餓鬼は餓鬼だ。またあちこちにとり憑いて、さらに栄養を補給したんだ」
「あぁ、だから失われた10年とか20年とか言われているんですね」
「そうだ。餓鬼がどんどん栄養を吸収したから、日本経済は立ち直るのが遅れたんだな。もはや、餓鬼はバブルの頃に貧乏神になっていたんだよ。日本は、長く貧乏神にとり憑かれていたんだ」
「でも、最近、立ち直っていますよね。バブル期よりも景気がいいなんて話もあります」
「あぁ、そうだな。なぜそうなったかわかるか?」
夜叉さんにそう言われ、俺は考えてみた。しかし、思い当たることはない。政治家がよくなったからか?。官僚がよくなったからなのか?・・・いや、そうではないだろう。ならば、自然に餓鬼がいなくなったのか・・・。それもあり得ないだろう。なんせ餓鬼だ。次から次へと湧いてくる。では、なぜ、日本は立ち直ることができたのだ。なぜ、餓鬼が減ったのだ?
「わからないか?。まあ、わからないだろうな」
そう言うと、夜叉は黙ってしまった。遠くを見るような目をしている。どう話せばいいのか考えているのか、押し黙ったままだった。その間も、餓鬼はそこら辺の影の中で、とり憑きやすい人間や生き物をじーっと見ている。もし、それが見える人間がいたら、イヤナ感じどころじゃないだろう。あぁ、だから先輩は街中を嫌うのか。そう、先輩は人込みや街中を嫌うのだ。だから、普段は引きこもっているようなものだ。仕事以外で出歩くことがほとんどない。街中がこれじゃあ、先輩のような人間は疲れが倍増するだろう。いくら無視をしても目に入るのだから。
夜叉が黙っている間、俺はそんなことを考えていた。

「まあ、そう言うことを考えるのもいいが、答えはわかったのか?」
「わ、わかりません。どうして日本は立ち直ることができたのですか?。餓鬼はどうなったんですか」
「そうだな、ヒントをやろう。餓鬼が減った理由、それは災害だ。平成時代、災害が多かっただろ。それが餓鬼が減った理由だよ」
「どういう意味ですか、餓鬼と災害がどういう関係になっているんですか」
「それを考えろ、と言っているんだ」
そう言って夜叉は俺の顔をマジマジと見たのだった。


餓鬼は意外と弱い。助部の餓鬼は、俺が蹴飛ばしただけで消滅した。肉体のない俺が蹴飛ばしただけだ。それで消滅してしまうのだ。だとすれば、肉体を持った者が餓鬼を蹴飛ばしたら・・・。いや、そもそも肉体を持った者が餓鬼を蹴飛ばせるのか? 先輩は、いったい餓鬼をどうやって祓ったのか? よく思い出せ。先輩の話にヒントがあったはずだ。そうだ、確か先輩のおじいさんは、自分の父親に餓鬼がとり憑いていて、それを祓ったといった。ということは、肉体を持った者・・・生きている人間でも餓鬼を取り除くことができるということだ。蹴飛ばしてか? いや、そうではないだろう・・・。う〜ん、わからん。
と考えている俺の目の前で、何を思ったか一匹の餓鬼が道路へ飛び出してきた。だが、その餓鬼は走ってきた車にはねられ・・・はねられるのは当然だと思うが・・・あっという間に消滅してしまった。なんと、餓鬼は物体をすり抜けられないのだ。
「今の餓鬼、車に轢かれましたよね。で、消えてしまった・・・。餓鬼って・・・霊体のように物質をすり抜けることはできないんですね」
「あれは・・・そうだな、一種の生き物だな。ただし目には見えないがな。まあ、たまに見えてしまう人もいるだろうけど。まあ、餓鬼は他の生物に寄生できる
生き物だな」
餓鬼は生物なのだ。ただし、一般には見えないけど。しかも、弱い。めちゃくちゃ弱い。寄生できるくせに、だ。
「ひょっとして餓鬼が見える者がいたとして、その者が『うえ、何だこいつ』とか言って踏みつぶしたら消えてしまうんですね、きっと・・・」
「あぁ、そうだ。その辺にたむろしている餓鬼は、たまたまた人が踏んだりしたら消えてしまい、餓鬼の世界に戻るんだ。人や動物にとり憑いた餓鬼は、そんなことはないけどな。とり憑いた餓鬼を消滅させることができるのは、お前のような元気な霊体か、俺のような・・・霊界とでも言っておくか・・・の住人か、お前の先輩のような霊感を持っている修行者ぐらいだ」
「ということは、その辺にゴロゴロしている、あるいは隠れている餓鬼は、たまたま人が踏んずけたりしても消滅するんですね。とり憑いてない限り、餓鬼はそれほど弱いんですね」
「そういうことだな」
なるほど、ならば災害が原因で餓鬼が減ったということは理解できる。
「じゃあ、大雨が降って洪水になったりしても餓鬼は消えるんですね」
「そういうことだな。わかってきたじゃないか」
「えぇ、まあ。例えば大地震で・・・神戸や東北、大阪、熊本など多々ありましたが、それでがれきの下敷きになって死んだ餓鬼もいるんですね。あわててビルから飛び出した人によって、踏みつぶされた可能性もある。土砂崩れによって、多くの犠牲者も出ましたが、餓鬼も流されていったんですね。災害は、多くの人々に大きな被害をもたらしたのですが、それは同時に餓鬼にも及んだわけですね」
「その通りだ。災害は、多くの人にとって悲しい出来事だったが、餓鬼たちも多くが消滅したんだな。もっとも、餓鬼どもは、元の餓鬼の世界へ戻されただけだがな。だから、かわいそうも何もないんだが」
「なるほど、それで日本の餓鬼はバブル崩壊後から減ったんだ」
なんということか・・・。我々に甚大な被害と悲しみをもたらした数々の災害は、餓鬼にも及んでいたのである。その災害により、餓鬼も多数消滅したのだ。もっとも、夜叉さんがそう言ったように、アイツらは元の世界に戻っただけだ。同情の余地もない。そもそもこの世界に来なければいいのだから。
それにしても・・・。
「ひょっとして、平成時代のあの数々の自然災害は、餓鬼を整理するために神が起こした・・・ってことはないですよね?」
「お前、マジでそう考えたのか?。そんな考え方するのは、怪しい宗教者だけだぞ。いいか、よく自然災害は神が我らに天罰を下したのだ、などという者がいるが、そんなことウソに決まっているだろ。いいか、地球は生きているんだぞ。いろいろな活動はあるさ。大地だって動いているし、気象だって動いている。自然災害は避けられないよな。それはあくまでも自然現象だ。大体神々がそんなことをするわけないだろ。我々もと魔神の夜叉が言うんだから間違いないね。そりゃ、確かに、お釈迦様が・・・仏陀世尊が現れる前は、俺たちも大暴れをした。地震を起こした魔神・・・一応神だからな・・・もいたさ。でも、そうした魔神たちはすべてお釈迦様に説き伏せられ、善神へと変身したんだよ。それいらい、暴れる神などいないよ。みんなのんびりしている」
「いや、すみません。失言でした。そうですよね。神がそんな災害を起こすようなことはしませんよね」
「当たり前だ」
どうやら夜叉さんは、むくれてしまったらしい。

俺たちは無言で、東京の街をブラブラした。あちこちに餓鬼を背中にしょった人たちがいる。その中でひときわ目立ったのは、餓鬼を背負った人たちの行列だった。
「なんだ、あの連中は」
ぶっきらぼうに夜叉さんは言った。
「あぁ、あれは・・・何か無料で配布しているんでしょう。きっと食べ物かお花とか、販売促進グッズですよ。無料で何かもらえる、となると並んでまでもらおうとする人々が多いんですよね」
「ほとんどの者が餓鬼をしょってるな」
「まあ、タダでもらえるなら、ってことで集まるのですから・・・。まあ、欲の塊ですよね。そういうことをハシタナイ、と思う人には餓鬼は寄ってこないですよね」
「そうだな。タダでもらえると言って喜んで並ぶ連中は、餓鬼の的になっても仕方がないな。あっ、列の最後尾のヤツ、餓鬼を背負ってなかったのに、今とり憑かれたな」
「並ばなければ、餓鬼にとり憑かれなかったんでしょうね。かわいそうに・・・」
俺はもともと、タダで何かあげる、というイベントが大嫌いだった。しかも、たいていそれは不要なものだ。何でもいいからタダでもらえるなら並ぼう、という人たちを理解できなかった。よく、ビニール袋詰め放題なんてやっている店もあるが、それに群がる人たちもわからない。そんなにもらってどうするの?、と思う。いつだか、サンマ詰め放題とかがTVやっていたが、サンマ自体がつぶれるほど袋に詰めている主婦がいた。そんなサンマ食べられるのだろうか?。大半は捨ててしまうのではなかろうか、なんともったいない、などと腹が立ったこともあった。まあ、大きなお世話なのだが・・・。しかし、どうもそういう光景は、美しくない。みっともないのだ。いや、貧乏くさい。あぁ、だからこそ餓鬼が寄ってくるのだな。ただのモノに集る、詰め放題に集まる、そんな人間にはなりたくないものだ、と俺は思っていた。いくら貧乏しても、あんなふうにはなりたくないと・・・。
「だから、お前には餓鬼はとり憑かないんだ。余分な欲がないからな」
「そうか・・・。それで助かっていたんですね。よかったですよ」
とりあえず、幸いなことに俺は餓鬼にとり憑かれるような生き方をしてはいなかったようだ。

「あ、そういえば思い出しました」
俺の言葉に「何を?」という顔をした夜叉さんは、もう機嫌が治っているらしい。
「随分前のことですが、先輩が珍しくぼやていたことがあったんですよね。先輩の寺は、月に一回、先祖の合同供養法会があるんですよ。ほかにも護摩法会の日もあります。で、そういう法会の時、仏様にあがったお供えのお菓子などを小さなお買い物袋に入れて参拝された方に配るんです。袋の中は、ほぼ平等にお菓子類が入っているんだそうです。で、それを一家族に一袋、と言って渡すんだそうです。多くの参拝者の方は一家族に一つずつもらっていきます。文句も言わずに。ところが、ごく一部の参拝者に、まあ、欲深な人がいるんだそうですよ。その人たちは、『今日来られなかったあの人の分と、あの人の分ももらいたい』とか言うんだそうです。で、強引にお菓子の入った袋を持って行ってしまうんですね。で、ほかのまだお菓子の袋をもらっていない人の分が足りなくなることがあるんだそうです。まあ、もらえなかった人たちは、いい人たちなので『いいえ、大丈夫ですよ、気にしないでください』と言っていただけるそうですが、まあ、なんとも図々しいというか、嫌な話だと先輩はこぼしてましたね。いったい、お寺に何をしに来るのか、先祖供養が大事なのか、もらえるお菓子が大事なのか、そんなこともわからないようでは、何とも嘆かわしいな、と珍しく愚痴っていました」
「そりゃ、愚痴りたくもなるだろうな。お菓子をもらいにお参りに来るって・・・。餓鬼だな、それも」
「で、そういう図々しいことを言う人に限って、お供えなど一度もしたことがないんだそうです。まさにもらうだけの餓鬼ですね。先輩はこうも言ってました。『何年も何年も法会のたびに仏様のお話をしてきた。教えを優しく説いてきた。しかし、身になっていないものが多すぎるんだよな。まあ、きっとお釈迦様も同じことを思っただろうと思う。なんせ、〈救えるのは親指の爪に乗った砂〉程度だからな』なんて言ってましたよ」
「あぁ、お釈迦様も同じだったそうだよ。お前、その爪の上の砂の話、知っているのか?」
「確か、その時先輩が話してくれたんですけど・・・。いかん、思い出せない」
「お前もダメだな。いい加減に聞いているからだよ。しょうがない。俺が教えてやろう」
夜叉さんは、なぜか嬉しそうに胸を張った。
「お釈迦様がガンジス河のほとりにいた時のことだ。お釈迦様にいろいろ相談をしていた者がいてな、そいつがお釈迦様に言った。
『お釈迦様ほどの方なら、さぞや多くの人々を救うことができるのでしょうね』
とな。すると、お釈迦様は
『いいや、多くの者を救うことはできない』
と答えた。その男は、しつこくお釈迦様に言うんだな。
『イヤイヤそんなことはないでしょう。多くの人々を救えるはずです。いったいどれくらいの人々を救えるのですか?』
お釈迦様は、まあ言ってもわからないと思ったのだろう、お釈迦様が座っているところの砂を一握り持ったんだ。で、左手の親指を突き出し、爪を上に向けるんだな。でな、その爪に握っていた砂を上からサラサラっとかけるんだ。滝のようにな。すると、お釈迦様の親指の爪に砂が山のようになるんだな。で、お釈迦様、その爪に砂を乗せた手をトントンと突くんだ。当然、爪の上の砂もこぼれる。で、
『ガンジス河の砂は数えきれないほど多くある。人々も同じだな。その中で私が救えるのは、この爪に乗った砂程度なのだよ』
お釈迦様はそう言った。男は驚いて言った。
『この広大なガンジス河の砂の中で、その程度の砂しか救えないのですか?』
『あぁ、そうだ。たとえ仏陀であろうとも、救えるのはこの程度なのだ』
その時のお釈迦様の顔は悲しそうだったなぁ。ま、それほど人間は愚かだ、ってことなんだけどな」
夜叉さんも、哀しそうな顔をして話し終えた。話を聞いた俺も、なんだか切なくなってしまった。
「なんだか、悲しいですね。ホント、人間って愚かですからねぇ。なんでそんなことをする?、みたいなことをやっちゃたりしますし、いつもイライラしているし、勝手なことは言うし、大騒ぎはするし・・・まあ、人間は愚かですよね。いいところもあるんですけどね・・・」
「そのいいところだけ、それだけになればいいんだけどな。ま、難しいわな」
欲が深いのだ、人間は。いいところだけ残して悪を捨てるのは、難しいだろう。まあ、できる人もいるのだろうけど、それは少数だろう。

「日が暮れて来たな。餓鬼も活動しやすくなる。そうだな、もっと繁華街へ行けないか?」
「ここからなら、銀座や新橋が近いですね。とりあえず、銀座へ行きましょうか」
「ふん、銀座ね。高級店が集う街だな。夜になると、餓鬼の活動時間になる。昼間は、影や暗いところでひっそりとしていた連中も、一斉に這い出して来るからな」
そう、餓鬼は昼間は滅多に出歩かない。たまにフラフラっと出てくるものもいるが、多くは影の中や暗いところで固まってひっそりしている。で、日が沈み、夜の暗闇がやってくると這い出して来るのだ。
「しかし、東京の夜は明るいですよ。それでも平気なんですね」
「明るいと言っても昼の明るさとは違うだろ。闇は多い。その闇に隠れて宿主を探すんだ。新宿でも見ただろ?。あいつ等は、いつも闇の中から宿主を狙っているんだよ」
餓鬼とは、そういう生き物なのだ。人間界に来た餓鬼は、宿主を見つけ、成長し、長生きしていく。その中でも長年生きた餓鬼は貧乏神へと成長するのだ。世のためには、人間界にいる餓鬼をより多く排除したほうがいいのだが、人間界には餓鬼好みの欲深な人間が多くいるから、なかなかうまくは行かないだろう。
「ここが銀座ですよ」
我々は、銀座の大きなデパートの前に立っていた。とはいえ、誰からも見えなし、気付かれることも無い。かといって、生きている人とぶつかるのは気持ちが悪いから、我々は隅の方にいた。
「ほら、餓鬼が出歩き始めたぞ」
たくさんの餓鬼たちが、デパートの隅の暗闇から、銀座の街中に出てきた。その眼は、獲物を狙う獣のように、ぎらぎらと光っていた。


「ほう、ここの餓鬼どもは、意外に大きいなぁ」
夜叉さんがそうつぶやいた。
「新宿で見た餓鬼とは、ちょっと違うな。少し太っているようだ。新宿の餓鬼は、もう少し痩せていて、いかにも飢えています、って感じだったが、銀座の餓鬼は・・・なんだか余裕があるな。そんな感じがするぞ」
「やはり、銀座という土地柄ですかねぇ。新宿と違って高級ですからね、銀座は。だから、餓鬼もちょっと上級なのかもしれませんね」
「そうか、銀座は庶民の街じゃないんだな」
「そうですね、新宿や新橋と違って、銀座は高級です」
「なるほど、そういえば新宿に比べて上品な感じはするな」
確かに、銀座を歩いている人たちは、新宿を歩いている人たちとは違う。一言で言えば、やさぐれていないのだ。いや、疲れていないと言ったほうがいいか。どこか余裕があるのである。
当然、新宿のような変な呼び込みもいないし、酔いつぶれて寝転がっているおじさんもいない。きれいな街なのだ。
「ほう、結構大きな餓鬼を背負った女がいるぞ」
夜叉さんが言った女性は、おそらくは銀座のクラブで働く女性なのだろう。ひょっとしたら、そのクラブのママなのかもしれない。その女性は、和服姿できれいだったが、背中に大きな餓鬼を背負っているのが妙にアンバランスでおかしかった。
「あんなきれいな女性でも、背中に餓鬼を背負っているんじゃねぇ・・・。幻滅ですね」
「まあ、一般人には見えないからな。ふん、みんな外見に騙されているってわけだ。面白そうだから、あの女の後をつけてみよう」
夜叉さんは、なんだか楽しそうだった。興味津々と言ったところか。
「滅多に体験できないからな。愚かな人間たちの集う世界は、勉強になるぞ」
そういうと夜叉さんは、和服の女性の後をついて行ってしまった。俺も慌ててその後を追った。

和服の女性は一軒のクラブへ入っていった。どうやら、その女性は、このクラブのママのようだった。
「こういう店のことを・・・」
「クラブといいます。ちょっと高級っぽいですね。あの和服の女性は、このクラブのママですね」
「あの女が、この店を仕切っているわけだな。お前は生きているとき、こういう店によく来たのか?」
「とんでもない。取材じゃない限り来れませんよ。安月給なんですから」
銀座の高級クラブなんて無縁だ。取材で一度だけ行ったことがあるが、経費が掛かり過ぎるからということで、その取材自体なくなってしまった。もっとも、俺は政治や文化担当だったから、風俗や飲み屋街などは無縁だった。そういうのも文化なのだが、俺が担当していた文化は真面目な方の文化だ。俺には関係のない世界である。
「きっと、このくらいの店だと、座っただけでン万円じゃないですか」
「金持ちしか来れないのか?」
「そうだと思いますよ」
「それにしても客は、あまり上品とは言えないな。上品な客もいるようだが・・・」
夜叉さんが、上品じゃないと言った客には、餓鬼が乗っかっていた。上品な客と言われた者には、餓鬼はいない。餓鬼にとり憑かれると、下品になっていくようだ。
「何だあの客は?」
夜叉さんが言った客は、「小さくて字が読めない」などと叫びながらおしぼりを放り投げていた。背中には餓鬼がしっかりと張り付いている。
「きっと、TVのCMの真似でしょう。女性たちが苦笑いしているのに、気付かないんですかねぇ」
「ふん、愚かだな。だから餓鬼にとり憑かれるんだ。あっちの客はひどいな。背負っている餓鬼が結構な大きさになっいるぞ。お、触手まで出している。ここまで育つとは・・・。あれはいずれ貧乏神だな。よほどいい獲物のようだ」
触手というのは、餓鬼の背中から出ている手のことだ。餓鬼は、両手両足だけ生えているのが通常なのだが、餓鬼のなかには、背中から二本の細い管のようなものが出ているものがいる。餓鬼の中で、いいとりつき相手に出会った餓鬼は、そこまで育つようなのだ。いずれ貧乏神になるかも知れない、餓鬼の中ではエリート餓鬼である。そのエリート餓鬼が、夜叉さんが指さした客についているのである。
「あれは・・・確か2020シティーというネット通販会社の社長ですね。いろいろ話題を振りまく社長で、今度、月へ行くそうですよ」
「ほう、だからあんなに餓鬼が育っているのか。しかし、危ういな。あの餓鬼が貧乏神になってしまうとな・・・。まあ、見ものではあるな」
と言いつつ、夜叉さんはニヤニヤしたのだった。

「な、何よ、あなた! どういうことよ。いい加減なこと言わないでちょうだい!」
その時だった。和服の女性・・・このクラブのママ・・・が、一人のホステス(今ではホステスなんて言わないらしい)に向かって叫んだのだ。
「いい加減じゃございません。オーナーからの正式の伝言です。これ、ほら、文書にしてありますから、読んでください。ちゃんと、あなたはクビ、ママは私に・・・って書いてあるでしょ」
ママは、その女から文書をひったくると、わなわなと震え出した。
「こ、これ・・・何かの間違いだわ・・・」
「いいから、早くここを出て言ってちょうだい。実はね、もうキャストの皆さんには伝達してあるの。知らないのは、あなた一人だけ。お客さんも御存じよ。でね、皆さん黙ってくださっているの。だって・・・そのほうがサプライズでしょ。おほほほ」
そばにいた客が、「実はそうなんだ。ごめんよママ。いや、元ママか、あははは」と笑ったのだった。
「どういうことだ?」
夜叉さんが俺に尋ねて来た。
「たぶん、あのママがクビになって、あの立っている女が新しいママになるんでしょうね。ちょっとした乗っ取りですね」
「じゃあ、今までのママは追い出されるのか?」
「そうなるでしょうねぇ。しかし、あの新しいママの背中にも・・・」
「あぁ、大した餓鬼がとり憑いているな。あの餓鬼も触手が生えかけてきている。あの女、相当な強欲だな」
まるで「黒革の手帳」みたいな話だ。こんなことが実際にあるんだな、と俺は驚いた。欲望渦巻く世界は恐ろしいものだ・・・。
「さぁ、出て行ってちょうだい。それとも・・・私の下で働きますか?。もっとも、あなたみたいなオバサンは、うちの店には不要ですけど。おほほほほ」
新しいママの嫌みに、他の女性たちや客も笑っていた。「あんたなら、他でもやっていけるよ」とか「潔く立ち去ったほうがいいぞ」などという声が、あちこちから飛んできた。ひどい話だ。今までさんざん「ママ、ママ」と言ってきた連中が、あっという間に手のひら返しだ。義理も人情も何もないようだ。
「ひどい話だな。こんなに冷たいものなのかね。まあ、冷たいことを言っている連中は、みんな餓鬼持ちだけどな」
夜叉さんでもひどい話だと思うんだ、と感心しながら、そうなのだ、と俺は確認をした。ひどいことを言っている客も笑っている女性たちも、そういう行動をしているものはみんな餓鬼がついているのである。女性たちの中でも、下を向いて悲しそうにしている者や、そこまでやらなくても・・・みたいな顔をしている者には餓鬼がついていない。客も同じだ。知らないふりをしている者や、「もういいじゃないか」と庇っている客には餓鬼はついていない。

「もういいじゃないか。そのくらいにしておきなさい。新しいママも、それ以上やると品が落ちるよ。ママ・・・今日からママじゃないかもしれないが、今までお世話になったね。感謝しているよ。さぁ、立って・・・。そう、堂々としてください。そのほうがあなたらしい」
客の一人が立ち上がってそう言った。その客には、当然ながら餓鬼はとり憑いていない。あの客は・・・確か大手の自動車メーカーの会長だ。自動車メーカーでも最大手だ。さすがである。大物は違うのだ。
「あぁいう者には餓鬼はつかないな。いや、それどころか、餓鬼を寄せ付けないパワーを持っている。ほら、何となく身体全体が光輝いているだろ」
夜叉さんにそう言われ、その客をじっと見ていると、確かにぼんやり光っているように見える。
「守られているんだよ。よほど前世がよかったのか、あるいは、この世でものすごく徳を積んでいるのか・・・まあ、両方だろうな。だから、守られているんだな。他の客とは格が違うな」
「行いによって差が大きく異なるんですね。みんなが笑っている中で、堂々とあんなことが言えるんですからね。それにしても、女性たちの中でも、餓鬼がついていない人がいますね」
「強欲じゃないんだよ、そういう者は。仕事としてここで働いているが、あくまでも仕事だと割り切っているんだろ。それ以上の欲を持っていないのさ。そこの新しいママのようにな」
その新しいママの背中にいる餓鬼は、とうとう触手を伸ばしだしていた。その触手で、新ママの首をがっちりつかんでいる。
「いずれ、この店もダメだな。欲望渦巻く嫌な店になるんだろうな。まだ、追い出されたママの方がマシだった・・・と言われるだろう。餓鬼があんなに成長したんじゃな・・・」
あの餓鬼は、この店の客や女性たちからたっぷりと欲望を吸い取り、さらなる大きな獲物を見つけ、あの新ママを見捨てて移動するのだ。その時は・・・
「この店も流行らなくなっているのでしょうね。オーナーは大変だな」
「いや、きっとオーナーとやらにも、大きな餓鬼がいるんだよ。そんなものさ。さて、面白いものが見られた。出るとするか」
そういうと夜叉さんは満足げな顔をして歩き始めたのだった。

それにしても餓鬼は恐ろしい。あんなにも弱くてもろいくせに、欲望が深いものにとり憑いたとたん、どんどん強くなっていくのだ。小物にとり憑いたなら、そのまま宿主と一緒に死ぬこともあるが、大物にとり憑けば、乗り換えも可能だ。
「やはり、銀座の餓鬼は違うな。大物ぞろいだ。貧乏神が生まれる温床だな、ここは」
それは、いいことではない。しかし、銀座が無ければ、それも日本にとっては良くないことだ。必要悪・・・とでも言おうか。なくては困るが、あっても困る。まあ、深い欲望を持たなければいいのだが・・・。
「大きな欲望は持っていいんだぞ。あの追い出されたママをかばった男のようにな。ダメなのは、我欲だ。自分のためだけの欲望だな。我欲の深いものが餓鬼を呼び寄せる。広く深く大きな欲望・・・この世界を救おうみたいな、我欲ではない公の欲望を持った者には餓鬼は寄ってこないよ」
「なるほど、我欲がいけないんですね。しかし、それは難しいですねぇ。人間なんて、我欲の塊のようなものですし、我欲が強くなければ銀座で飲めるような者にはなれませんしね」
「無理しなきゃいいんだよ。分相応を知っていればいいのさ。無理して大金持ちになって、威張って、でかい顔をするようではダメなんだな。自分というものを知っていれば、餓鬼にはとり憑かれないさ。もしくは、欲を慎むことだな。余分な欲を・・・」
「どうせ持つなら、とてつもない大きな欲・・・ですか?」
「そう、世界一の金持ちになって、その金で世界を救おうというくらいの心意気があれば、餓鬼にはとり憑かれないよ。餓鬼のこと、よくわかっただろ?」
「えぇ、よくわかりましたよ。でも、なんだか難しいですよね。欲がなければ進歩はしないし、欲がなければ救われる人も減ってしまう。ある意味、欲は大事ですよね。でも、その欲にとらわれてしまうと餓鬼にとり憑かれる。我欲にこだわれば、餓鬼のいい餌食になってしまう。その線引きが・・・難しいですよね」
「その線引きを教えてくれるのが、仏教だろ。お釈迦様の教えだ。そうじゃないか?」
「えぇ、そうですね。餓鬼にとり憑かれないためにも、本当はもっと仏教を学んだほうがいいんですけどね。それもなかなか難しいですよね」
「坊主が餓鬼にとり憑かれるような状態じゃな」
それからしばらく俺たちは無言で歩いていた。何も言えなくなってしまったのだ。結局のところ、お釈迦様の教えをちゃんと伝えることができる僧侶が少ないことが最大の問題点だと行きついてしまったからだ。もうこれ以上何も言えない。溜息しか出てこなかった。

「さて、餓鬼界に戻るとするか」
「そうですね。他の世界につながる道にも行ってみたいですし」
「よし、じゃあ、餓鬼界へ帰るぞ。餓鬼界の川のほとりだ」
そういうと、夜叉さんは「ほら、こっちだ」と言って、暗闇の方へと歩いて行った。
「こんなところに餓鬼界へ通じる道があるんですか?」
「うん?、ないよ。なければ道を作ればいいだろ」
夜叉さんは、ニヤッとしてそう言ったのだった。


「道を作る? そんなことできるんですか?」
夜叉さんは、ニヤニヤしながら
「おいおい、俺を誰だと思っているんだ? 夜叉だぞ。夜叉一族の一人だぞ。それくらいの神通力は使えるさ」
そうなのか。そりゃ、そうかもしれない。夜叉さんは、そりゃもう長く生きているのだし・・・。
「あのなぁ、長生きしてればいいってもんじゃないんだぞ。まあいい、餓鬼界へ帰る前に我ら夜叉族のことを教えておいてやる。いいか、俺たち一族は、お釈迦様が仏陀になられて、我々を導かれるまでは、一応『神』だったんだぞ。まあ、『鬼神』だがな。『魔神』ともいうがな。お前らが言う霊界と現世とを自由に行き来し、人の死肉を食らい、時には生きている人間も食べていた存在だ。だから、人々から恐れられていた。人々は我々を恐れ、崇め奉ったんだな、神として。様々なお供え物を我らに施し、人間を襲わないように願った。さらには、我らの力・・・神通力を頼って、いろいろな願いもした。我らは、供え物によっては、それらの願いも叶えてやってきた。恐れられ、また同時に崇められてもいたのだ。お釈迦様が仏陀となられて、我らを諭し、仏陀の配下とされたことで、我らは鬼神をやめたんだ。お釈迦様の・・・まあいわば家来になったわけだ。だが、神通力はそのまま残っている。我らの仲間には、さらに修行を積んで『金剛夜叉明王』にまで上り詰めた者もいる。いいか、金剛夜叉明王だぞ。その者は、不動明王様の配下になられた。ま、俺は修行をさぼっていたから、底辺役人のままだがな。もっとも、ほとんどが底辺の役人で、閻魔様や他の菩薩様たちの手伝いをしているのだがな。それが我ら夜叉一族なのだ。だから、この現世と霊界とを自由に行き来できるんだよ。普通はしないがな。わかったか」
夜叉さんは、胸を張ってそう言った。俺がかしこまっていると
「本当は、我々が、一人間に付き合って、霊界と現世と行き来するようなことはない。何で我らが好き好んで人間なんぞに付き合わなきゃいけないんだ? あの和尚のせいで俺はこんな目に遭っている。全くあの和尚の我がままと言ったら・・・」
「す、すみません。ご迷惑をかけています」
「ふん、いいよ、気にしなくても。お前さんも振り回された口だからな。ま、それに結構楽しいからな。ふっふっふ」
「楽しいんですか?」
「いいか、ここだけの話だぞ」
そういうと夜叉さんは声を潜めた。声を潜めてもバレるんじゃないかと、俺は気にしたが、夜叉さんはお構いなしだった。
「実はな、俺は閻魔様の配下だったんだが、これが退屈でな。いつも仲間とゴロゴロしているか、現世を覗き見しているかくらいしかやることがなかったんだよ。お前のお供を言い使ったとき、他の連中は『貧乏くじを引いたな』と笑っていたが、何のことはない。久しぶりに現世に来れたし、いい退屈しのぎだ。たまには現世の空気もいいものだ。まあ、今じゃ、誰も俺を恐れてはいないけどな。だが、それはそれで気楽でいい。しかし、何年ぶりだろうか、現世に来たのは」
「そんなに楽しかったんですか。なら、もう少しゆっくりこっちにいてもいいんじゃないですか?」
「まあな。だけど、長くいる処じゃないな。仕事で来るからいいんだろうな。やっぱり、あっちの世界の方が落ち着くしな」
そんなものらしい。いわば、我々人々が、ちょっと旅行に行くような、そんな気分なのだろう。旅行へ行っているときは、それはそれで楽しい。しかし、我が家に戻ると、「あぁ、うちがやっぱり一番いいね」などと思ってしまう。夜叉さんもそれと同じなのだ。人も神も同じような思いを持つのだろう。
「神は、人と同じようなものだからな。人よりも力がめちゃくちゃ強い、寿命がめちゃくちゃ長い、ってとこが違う程度かな。あまりにも寿命が長いんで、神様も退屈している者が多いな。人間どもは勝手な願いしかしないしな。小銭の賽銭でな。だから、閻魔様や菩薩様・仏様の配下にない神様たちは、たいていは飲んだくれているか、異性と戯れているな。気楽なものだよ」
それが神様なのか?、と思ったが、確かに人間側の方が身勝手なのだろう。10円や100円・・・下手したら5円とかの賽銭で、無理難題の願いをしていくのだから。神様にしてみれば、「アホか」という気分なのかもしれない。
「まあ、そう言うことだ。無駄話もここまでだ。餓鬼界に行くぞ」
夜叉さんは、そういうとビルの谷間の人が来ないような路地裏に入り、何もない空間に向かって両手をかざした。すると、両手の先の部分が光り出した。その光は次第に大きくなり、人が通れるくらいにまで広がった。
「さっさと入れ。人には見えないはずだが、中には勘の鋭い者がいる。見られるて騒ぎになっても困るからな」
夜叉さんにそう言われ、俺はあわてて光の中に飛び込んだのだった。

着いた先は、餓鬼界の川のほとりであった。相変わらず異様なにおいがする。霊界の番人すら苦しめたという餓鬼界の毒気のガスだ。目の前には餓鬼どもが川の流れに従って行進している姿がある。我先にと争い、引っ張り合い、踏みつけ合って進んでいる。愚かな姿がそこにあった。
「相変わらず嫌なところだな、ここは。さて、次は・・・修羅界か。じゃあ、行くか」
そういうと、夜叉さんは足に絡みつく餓鬼を蹴り飛ばし、踏みつけながら川を下っていった。俺もその後に続く。しばらく歩くと、川のほとりに光る場所が現れた。
「あの光っているところは、人間界への通路ですね」
「そうだ。あそこに入ると、また人間界へ行ってしまう。修羅界は、もう少し先、次の光る場所だ。ところで修羅界は行き先が2か所ある。まあ、修羅界だけじゃなく、畜生界もそうなのだが、場所が2つあるんだ」
「場所が2つ? どういうことですか?」
「いわば霊界の修羅界・畜生界と人間界に存在する修羅界・畜生界だ」
「人間界に存在する修羅界・畜生界・・・ですか? そんなの存在していますか・・・。あっ、確かに動物や昆虫などは、人間界に存在する畜生界・・・と言えますよね」
「そうだ、その通りだ。同じように修羅界も人間界の中にある。まあ、こっちはちょっと難しいかもしれんがな。まあいい、まずは、どっちに向かうかだ。霊界の修羅界か、人間界の修羅界か」
「選択できるんですか?」
「うん、まあ、たぶん・・・できると思う。ひょっとしたら勝手に流されるかもしれないが・・・。まあ、俺もあの光の道は通ったことはないからな。おそらくは、道が二手に分かれていると思うのだが・・・。その二手に分かれた道も、先がどっちの世界につながっているかは不明かもしれないがな。いずれにせよ、光の中に入ってみないと分からないな・・・」
どうやら夜叉さんも自信は無いようである。
「どっちでもいいですよ。もし、現世側に行けば、また現世に戻れるんですから、それはそれで楽しいですしね」
俺の言葉に「それもそうだな」とうなずく夜叉さんだった。

俺たちは、餓鬼どもを蹴飛ばし、踏みつけながら、川のほとりをしばらく歩いた。すると2番目の光が見えてきた。
「あれだ、あれが修羅界への道だ」
夜叉んが指さす方向には、最初の光をとおり過ぎた餓鬼どもが群がっていた。
「さて、俺たちも入るとするか」
光の中に入るときに夜叉さんは、俺を振り返り
「どっちに行くかな?」
と言ってニヤッとしたのだった。
光の中に入ると、その光は確かに左右二手に分かれていた。「どっちにする?」というような顔をして夜叉さんが俺を見て来たので、俺は迷わず左側を指さした。夜叉さん頷くと、左側の光の方へと進んでいった。俺もその後に続く。すうと、急に光が強くなったかと思うと、一瞬にして光が消えた。
そこは、荒れ果てた平野だった。見渡す限り、荒れ果てていた。地面は、ゴツゴツとした岩場だった。所々、地面が割れて赤くなっている。あるいは、蒸気のようなものを吹き出している光景も見れた。俺は、肉体はないはずなのに、妙に暑く感じた。暑くて息苦しい。
「俺たちが立っている場所は、まだましな方だ。ここは、霊界の修羅界だ。現実世界ではない」
「霊界でも一応というかリアルな地面があるんですね」
「あぁ、ここはな、他の霊界と違って、しっかりとした固い地面がある。所々割れて赤くなっているのは、あれは溶岩だな」
「よう、溶岩? じゃあ、ここは火山なんですか?」
「山ではないがな。平地だが、火山と同じような状態になっている。たまに溶岩が噴き出すこともある。久しぶりに来たが、相変わらず異常な暑さだな。まあ、溶岩の上にいるのだから当たり前だけどな」
なんと、俺たちが立っているのは、溶岩が固まって岩になったところらしい。いわば平たい火山の上に俺たちは立っているのだ。熱いはずである。
「ひょっとして、この足元からいきなり溶岩が噴き出す・・・ってことは、ないですよねぇ」
「う〜ん、あり得るかもしれないな。まあ、そういう時は、異常な振動があるからすぐにわかる。地震のような振動があったら、飛べばいいのさ。あぁ、お前は飛べなかったなぁ。仕方がないから、その時は溶岩に呑まれるか。どうせ肉体はないのだから、死にはしない。魂自体が、結構なダメージを食らうだけだ」
「えっ、そ、そんな〜。魂が大ダメージを食らったら・・・確か、消滅してしまうかもしれないんじゃなかったですか?」
「そうだな、消滅することもあるな。まあ、溶岩が噴き出さないよう、幸運を祈るしかないな。ちなみに、俺は飛んで避けるけどな」
夜叉さんは、意地悪そうに笑ってそう言ったのだった。そうは言っているが、もし溶岩が噴き出すようなことがあったら、きっと夜叉さんは助けてくれるに違いない。俺はそう自分に言い聞かせて、足を踏ん張った。
そんな俺を無視して、夜叉さんは話し始めた。

「修羅界っていうのは、ちょっと特殊でね。この世界ができた理由がほかの世界とは違うんだよ。ついでだから、六道ができた経緯を話しておくか。ちょっと長くなるぞ」
夜叉さんは、そういうと、荒野の果てを見るようにして語り始めたのだった。
「修羅界のほかの世界・・・地獄、餓鬼、畜生の世界は、必要に応じて造られた世界だ。閻魔様を始め、初期に亡くなられた人々が、必要に応じて造った世界だな。天界は、元々あった世界だ。人間界もそうだな。自然にできた世界だ。神々が造った世界じゃない。人間は神が造ったとかいう者がいるが、それは間違いだ。それは愚かな話だよ。
地球ができて、生命が自然に生まれ、やがて人間へと進化して人間界は出来上がった。その進化の過程で、我々のような夜叉族が誕生したり、後に神と言われるような特殊な種族が生まれたんだな。が、そうした特殊・・・我々や後に神と呼ばれる者たちは特殊な進化だったんだ・・・特殊な生命たちは、現世では生きていけなかった。普通の人間たちの方が圧倒的に数は多かったし、環境への適応能力も高かったんだな。我々や後に神と言われる種族は、力はあり人間に恐れられたが、環境に馴染まなかったんだ。人間界が住みにくかったんだよ。で、天界があると知った我々は、そこへ移住したんだ。元々、我々にはそういう力・・・一種の神通力・・・があったんだな。だから、後に神と言われるようになるのだが・・・。
天界は、元々存在していた。我々や後に神と言われる特殊な種族は、天界に存在する楽園を見つけた。楽園は多数存在していた。しかも、その楽園は、楽園どうし自由に行きできた。我々は、種族ごとにそれぞれの楽園に住むことにした。
そうこうするうちに、人間界で死者が出た。それが閻魔様だ。閻魔様は、人間界での死者第1号だったんだ。閻魔様は、天界の中の一つの楽園に自然にたどり着いた。俺たちは、それを別の楽園から眺めていたわけだ。
閻魔様の後にも次から次へと人間は死んでいった。そして、その亡くなった人間も、閻魔様がたどった道に従い、閻魔様が見つけた楽園にやってきた。やがて、閻魔様の見つけた楽園は人間でいっぱいになってきた。すると、その中には、悪者もいたのだな。楽園を乱す悪い連中がいたんだ。そこで、閻魔様を始めとし、初期に亡くなった人間7人が集まって、汚されていく楽園をなんとかしなければ、という話になった。なぜ、その7人かというと、初期に亡くなったその7人の人間は、特殊な能力・・・神通力・・・を得ていたんだ。なぜ、そんな力を身に付けたのか、詳しいことはわからない。我々夜叉族ではない、別の神々の中の誰かが、面白がってその7人だけに神通力を授けたのかもしれないし、楽園の持っている自然の力がその7人に働きかけたのかもしれない。いずれにせよ、その7人は、神通力を持っていたのだ。だから、多くの真面目な人々から崇められ、楽園を統治するようになっていた。
で、その7人は、話し合って、悪人の罪に応じて放り込む世界を造ったのだ。いわば、島流し用の島を造ったんだな。それが、地獄・餓鬼・畜生の世界だ。で、その7人が、死者を諮って、天界がいいのか、人間界がいいのか、地獄なのか、餓鬼なのか、畜生なのか、を振り分けたんだ」
「それって・・・」
「そう、お前が受けた裁判だな。7人とは、その時の裁判官だ」
「そういう理由で、裁判が始まったんですか」
「そういうことだ」
「ちょっと待ってください。その造った世界の中には、ここ修羅界はないですよね? 修羅界はまだ出てきていないですよね?」
「そうだ、その通りだ。なぜなら修羅界は、閻魔様たちが造った世界ではないからだ」
夜叉さんは、そこで一呼吸置くと、
「これから、いよいよ修羅界ができた話に入る。本題に入るわけだ」
と、眉間にしわを寄せるような表情で言ったのだった。

つづく。



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