あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「あれはいつだったかな・・・。我らが天界へ移り住んだころだったか。まだ、閻魔様が天界にたどり着いていないころだったと思う。
その頃、天界を支配していたのは帝釈天様だった。あぁ、いや、今でも天界の支配者は帝釈天様だな。一応な。一応と言ったのは、帝釈天様もお釈迦様が仏陀としてこの世にあらわれてから随分と変わったからだ。お釈迦様出現以前の帝釈天様は・・・まあ、暴君じゃないけど、どちらかというと暴れん坊だった。ちょっと我がままだったんだな。まあ、なにせ帝王だからな。
我々夜叉族も天界に移り住んだときは、帝釈天様に挨拶に行ったんだぜ。これからは、こちらに住まわさせていただきますってな。帝釈天様は、天界は広いから自由に住んでいいぞ、ただし、秩序は守れよ、とおっしゃった。うん、懐かしいな。ま、そんな感じで、現実世界から天界へ移り住んだ神々は、皆、帝釈天様の支配下に入った。
ところが、天界には、帝釈天様のように初めから天界に住んでいる神々もいたんだな。そういう神々も帝釈天様に従うものが多かったが、中には、帝釈天様と対等だと思っていた神もいたんだ。少数だったがな。で、その代表が阿修羅様だった。阿修羅天とも言うな」
「阿修羅って・・・阿修羅・・・修羅?」
「そう、修羅界の主だ。その頃の修羅界は、こんなんじゃなかった。まあ、楽園だな。しかも、修羅界のあった場所もここじゃない。遥か宇宙の彼方・・・天界の中だ。ここ修羅界はどこに存在しているか、お前さんわかるか?」
「えっ?、どこに存在してるかって・・・?。あの霊的世界でしょ。地球上ではなく・・・。現実世界に添うようにして存在している霊的な世界・・・じゃないんですか?。地獄界や餓鬼界のように・・・」
「まあ、そうなんだが、その・・・なんていうかイメージがあるじゃないか。例えば、地獄や餓鬼界は、地下にあるとか」
「あぁ、そういうことですか。ならば・・・この感じからすると、火山の中?ですかねぇ・・・」
「そう思うだろ。まあ、間違いではないがな。実はここは、海底の中だ」
「か、海底?」
「そうだ、海の底のマグマがうごめいている海底火山の中に並行して存在しているんだ。地獄は地球上の地下深くに並行して存在している霊的世界だ。餓鬼界はやはり地球上の地下だが、そんなに深いところではない場所に並行して存在している霊的世界だ。天界は、宇宙空間に並行して存在している霊的世界だな。で、この修羅界は地球上の海底火山の地下深くに並行して存在している霊的世界なんだよ」
「はぁ・・・そういうことですか」
改めて説明されると、何とも答えようがない。まあ、確かに霊的世界は存在しているのは事実だ。それは、俺の存在が証明しているし、夜叉さんもそうだ。この霊的世界の取材を依頼してきた先輩のジイサン坊さんも霊的存在である。
霊的世界は、通常の場合、人間には見えない。感じる人はいるようだが・・・。まあ、それでもその存在をはっきり知っている、理解しているという人は、かなり少ないだろう。ほとんどの人が、現実世界に並行して霊的世界が存在しているなどとは、思ってもいないだろう。俺だって、死んでから知ったことだ。生きているうちは、そんなことは知らなかったし、そんな話を聞いても「何をバカなことを」と一笑に付していただろう。が、死んでみたらわかるのだ。確かに現実世界に並行して霊的世界は存在しているのである。一種のパラレルワールドのように。
で、今、俺と夜叉さんが立っている溶岩の塊でできた世界は、地球の海底火山の地下に並行して存在してるのだそうだ。

「理解できたか?」
夜叉さんが俺を見て言った。俺はうなずいた。
「本来、修羅界は宇宙空間に並行して存在する霊的世界だった。俺たち夜叉一族が天界に移り住んだときには、もう修羅界は存在していたんだ。そこは、阿修羅様が支配する世界だったんだ。阿修羅様を中心にした国家だったと思っていい。そうだな、そう例えたほうがわかりやすいな。帝釈天様は大国の国王だったんだな。で、他にも小さな国々があった。その小さな国々の多くは、帝釈天様の大国に従っていた。いわば属国だったわけだ。阿修羅様の国は、小国だったが、帝釈天様には従っていなかった。完全独立国家だ。阿修羅様自身は、対等だと思っていただろう。しかも、阿修羅様の国は、正義と秩序を守る役目をはたしていたんだな。天界で、間違ったことや秩序を乱すような行為があった場合、阿修羅様がそれを収めたんだ。阿修羅様は正義を振りかざし、天界の秩序を乱す神を成敗したんだな。いわば、天界の警察であり、裁判所だったわけだ。阿修羅様は、正義の神だったんだよ。ところが、ある日のこと、その正義の神である阿修羅様を狂わす事件が起きたんだ。
阿修羅様には、そりゃもう綺麗な美しい娘がいた。名前を舎脂(しゃし)と言った。阿修羅様は、この美しい自慢の娘を実は帝釈天様に嫁がせようと考えていたんだな。そうすれば国としても安泰だしな。しかし、阿修羅様には、一つ気がかりなことがあった。それは、帝釈天様の浮気性だ。帝釈天様は、まあ、帝王だからな、そりゃもう女好きだったんだ。いつも数人の女神を自分の周りに置いていたし、嫁は・・・その時何人いたんだろうか・・・というくらい、とっかえひっかえだったんだ。女癖が悪かったんだな帝釈天様は。阿修羅様は、それが気に入らなかった。なんせ、正義の神だからな。不倫なんて、許せないんだ。だから、娘を帝釈天様に嫁がせる条件として浮気しないと約束させようとも思っていたんだ。阿修羅様のもとには、『帝釈天様は阿修羅様のお嬢様を嫁に欲している』という情報も入っていたしな。阿修羅様にとっては、娘を嫁に出す代わりに、天界の王である帝釈天様の行いを正すことができ、なおかつ阿修羅様の国の安泰にもなる、一石二鳥だと企てていたんだよ。ところが、そうはうまくいかないものでな・・・。
ある日のこと、帝釈天様が誰の支配下にもない楽園の上空を飛んでいたんだな。まあ、散歩のようなものだ。そこで帝釈天様は見つけてしまったんだ。花畑で戯れる女神たちをな。しかも、その中には、天界一美しいといわれる弁財天様のような美しさと輝きを持った女神が一人いたんだ。そうそれが、阿修羅様の娘の舎脂だった。帝釈天様は、あっという間に上空から降りてきて、舎脂をさらっていってしまったんだ。簡単に言えば、自分好みのいい女がいたから拉致してしまった、というわけだな。舎脂と一緒にいた女神たちはびっくり仰天。あわてて阿修羅様に報告したんだ。当然、阿修羅様は大激怒だ。で、大軍を率いて帝釈天様に戦いを挑んだ。『娘を誘拐した罪で逮捕する!』というわけだな。
そのころ、帝釈天様はというと、舎脂といちゃついていた。舎脂は、自分をさらってくれた帝釈天様の勇敢さにベタぼれ。もともと、天界の王であり、天界一のイケメンだった帝釈天様のことが大好きだった舎脂だから、そりゃベタぼれにもなるだろう。で、阿修羅様が軍勢を率いて帝釈天様の国に『お前を逮捕する』と乗り込んできたときは、舎脂と帝釈天様は、ラブラブの最中だったわけだ。
いいところを邪魔された帝釈天様は、そりゃあ怒るよな。で、阿修羅軍団を蹴散らせと命を下すんだな。舎脂も『もう、お父様ったら、バカじゃないの』なんて怒り出す始末だ。
結果、阿修羅軍団は簡単に負けて敗走。あわてて阿修羅界に帰って行ったんだな。しかし、どうしても阿修羅様は腹の虫がおさまらない。で、軍勢を立て直し、再び帝釈天軍団に挑んだんだ。その時は、日ごろ帝釈天様のことを憎らしく思っていた神々も阿修羅軍団に加担した。少数だったがな。うん?、俺たち?。俺たちは、外野だ。まあ、そう言う戦いは好きじゃないし、性に合わないしな。で、眺めていたんだよ。もっとも、帝釈天様にかなうわけはないと思ってはいたがな。
当然ながら、2度目も帝釈天軍団の勝利だ。阿修羅軍団は、あっという間に蹴散らされてしまったんだな。
帝釈天様の偉いところは、深追いしないところだ。帝釈天様のような帝王ならば、普通は、敵対してきた相手を皆殺しにしてしまうだろう。負けた国王は、斬首だよな。だが、帝釈天様はそんなことはしないんだ。相手が敗走を始めたら追わない。追い詰めないんだ。つまり、防衛するだけなんだな。無益な攻撃はしないんだ。そのてんは、さすが帝釈天様だと神々の評価は上がったな。それでこそ、天界の王だ、とな。
阿修羅様は、それで懲りなかったんだな。また、戦いを挑むんだよ。しつこいんだな。どうしても帝釈天様が許せなかったんだよ。自分の顔も潰されたしな。しかし、3度目は、他の神々は、協力してくれなかった。やっぱり帝釈天にはかなわない、といって、帝釈天様側についてしまったんだ。それどころか、阿修羅様に『勝てるわけないから、戦いをやめようよ』と諫めたりもしていたんだな。が、そんな言葉は阿修羅様の耳には入らない。3度目の戦いを挑んだ。で、やはり負けだ。そんなことを7回繰り返したんだ。
あぁ、そう言えば、あれは何度目だったか。一度だけだが、阿修羅軍団が帝釈天軍団に勝ちそうな時があったんだぜ。その時は、阿修羅軍団の勢いに、帝釈天軍団は圧されて敗走気味だったんだな。帝釈天様を先頭に逃げに回ったんだ。阿修羅様は『このまま帝釈天の国まで侵入して娘を取り返せ〜』と攻めに攻めた。帝釈天は、逃げる。俺たちは、珍しいこともあるもんだ、と不謹慎だが、面白がって眺めていた。するとだな、突然、帝釈天様が止まってしまったんだ。帝釈天軍団、突然の敗走ストップだ。いったい何があったのかと思ってよく見て見ると、帝釈天様の前をものすごい数のアリが横切っているんだ。何十万?、何百万のアリだ。そんなアリ、踏みつぶしていけばいいのに、帝釈天様は止まってしまった。『殺生はいかん。このアリを踏みつぶすわけにはいかん。引き返して、阿修羅軍団を討つぞ』と声高々に宣言して、Uターンしてしまうんだ。で、阿修羅軍団に向かって行ったんだな。びっくりしたのは阿修羅軍団だ。急な展開に驚いて、ビビってしまった。戦いは、慌てたら負けだな。あっという間に阿修羅軍団は総崩れ。逃げ出してしまったんだ。あの時は、惜しかったが、まあ、帝釈天様には、やはり勝てないな、と俺たちは話し合った。アリを踏みつぶさない、そんな余裕が帝釈天様にはあったんだ。敗走中にも関わらず、だ。そんな余裕のある相手に、戦いを挑むのは愚の骨頂だろう。そんなことがあって、他の神々は、阿修羅様に『もういい加減に戦いをやめたらどうだ。お前さんの娘だって、今は幸せそうじゃないか。お前さんの娘と暮らし始めてから、あの女好きだった帝釈天の女遊びはピタリと止まっているじゃないか。もういいだろ、矛を収めよ』と何度も注意したんだな。しかし、阿修羅様は聞き入れなかった。周囲の神々もあきれ果ててしまったんだよ。
で、7度目の敗戦の後だ。帝釈天様のもとへ天界の神々が集まって、こう言ったんだ。
『阿修羅をこのままにしておけば、いつまでたっても天界に平和が訪れない。阿修羅は、天界にはふさわしくない。天界は、明るく楽しく愉快な世界だ。阿修羅は、それを台無しにしている。我々の意見も聞こうとしない。こうなっては仕方がない。阿修羅を天界から追い出してはどうか?』
とね。帝釈天様は、
『仕方がないな。では、皆がそう言うのなら、そうしようか』
と言って、阿修羅様を天界から追い出したんだ。で、落ちていった先が、ここだったんだ。天界から落ちてとどまったのが、この海底だったんだよ。こんな処まで落ちてしまった阿修羅様だが・・・これが未だに怒っているんだよねぇ。怒りは治まっていないんだ。それどころか、ここに落ちてきて以来、光り輝くものが大嫌いになったらしく、時たま太陽や月の輝きを邪魔したくなるんだそうだ。それが、日蝕や月蝕になっていると神々や古代のインド人の間で信じられていたくらいだ。まあ、こじつけだがな。阿修羅様も、その点はいい迷惑だろうけどな。
ま、こういうわけで、この修羅界はできあがったんだよ。ここは、正義の心が行き過ぎて、歯止めがかからなくなり、悪へと転じてしまった者がたどり着く世界なんだ」
「なんだか・・・、ちょっと悲しいですね。元は、正義の心だったのに・・・」
「そうだな。しかし、正義も行き過ぎれば、悪になるんだよ。人間界だってそうじゃないか。正義の名のもとに、戦争を仕掛ける国が未だにあるじゃないか。あんなの、偏った正義だろ?。自国に都合が悪いから、正義を振りかざし処罰するとか言って戦争しているんだろ?。愚かなことだよな。正義も行き過ぎれば悪になるんだよ」
確かにそうだ。ある国にとっては、正義かもしれないが、相手の国にとっては、それは悪になることだってある。正義は、その人の主観によるものだから、自分が正義だと思ってもほかの人から見れば正義でない場合だってあるのだ。また、正義にこだわり過ぎれば、視野も狭くなるだろう。余裕がなくなるのだ。アリを踏みつぶさなかった帝釈天に負けるはずである。阿修羅には、余裕がないのだ。怒りで周りが見えなくなっているのである。
正義も過ぎれば悪になる。
まさにその通りである。阿修羅は、未だにそれが理解できないのだ。愚かな者である。

「うるさ〜い!。わしに文句を言うものは誰じゃ!」
ものすごい轟音が鳴り響いた。と思ったら、目の前で溶岩が飛び出した。小さな噴火が起きたのだ。
「うわっ!」
俺は叫んで、転んでしまった。夜叉さんを見ると飛び上がっている。
「助けてくれないんですか!」
「今、助けてやるよ。慌てるんじゃない」
夜叉さんは、そう言うと、地面にはいつくばっている俺を抱えて再び上昇した。空中に漂っている。
「別にお前を抱えなくても、大丈夫なんだけどな。まあいい、いったん降りるぞ」
安全そうな場所に俺たちは下りた。その時だ
「お前ら、わしの悪口をいうとは、許さんぞ!」
と腹の底に響くような声が聞こえた。そして、俺たちの周りに噴火が起きた。俺たちは、溶岩の噴水で囲まれてしまったのだった。


「あぁ、相変わらずだな・・・」
夜叉さんは小声でそうつぶやいた。
「そ、そんなゆうちょなことを言っている場合じゃないんじゃないですか。炎に囲まれてますよ。け、結構熱いんですけど」
「まあ、熱いけど、死にはしないからな。お前はもう死んでいるし・・・、うん?、どこかで聞いたことがあるセリフだな」
「な、何言ってるんですか。炎の輪が縮まってますよ! このままじゃ・・・」
「うるさいなぁ、少しは落ち着けよ。はぁ・・・、しょうがないな」
夜叉さんは、そう言ってから顔を上の方に向け、大声で言った。
「阿修羅様、阿修羅様、まあそう怒らないで。ここに来るものは少ないでしょ。久しぶりに話ができる者の訪問なんですから、少しは喜んでくださいよ」
そんな言い方で、この炎は収まるのか? むしろ、煽ってないか?、と俺は不安になったが、炎の輪の進行は止まったようだ。心なしか、炎も小さくなってきている。
「ふん、確かに、ここにはロクな者は来ない。いや、来てもせいぜい餓鬼どもだけだ。あのクソ餓鬼ども、わしの世界にやってきては汚物をまき散らしやがる」
「でも、すぐに焼いちゃうんでしょ。餓鬼はうっとうしいですからね」
「あぁ、あんな奴ら、すぐに燃やしてやるよ。跡形もなくな」
俺たちがここに来たように、当然餓鬼たちもあの川沿いの光る場所からここに来る餓鬼がいるのだ。川を歩いて行って2番目に光っている場所だ。一番目に光っている場所は、人間界に通じている。2番目はここだ。ただし、その光の中は二手に分かれていて、片方は人間界の修羅界・・・ちょっとややこしいのだが・・・に通じているらしい。いずれにせよ、ここに送られてくる餓鬼も多いようだ。

「阿修羅様、そろそろ炎を消してくれませんかねぇ。いくら私でも熱いですよ」
「ふん、夜叉族か。お前らでも熱いか。魔物のくせに帝釈側につきよって・・・裏切り者めが。もう少し焼いてやってもいいのだが、まあ許してやろう。で、そこの人間は誰だ?」
そう阿修羅が問うと同時に、炎の輪が消えた。どうやら、阿修羅の我々に対する怒りは収まったようだ。夜叉さんは小声で
「裏切ったわけじゃないですけどね」
と言った。すかさず
「知っているわい。お前らは日和見だからな」
と阿修羅は受け答えた。その様子からどうやら、阿修羅は会話を楽しんでいるようである。しかし、ちょっとした小声の話も、阿修羅はキャッチしているようだ。気をつけたほうがいいかもしれない。下手なことを言って、怒りを買ったら恐ろしい。
「こいつは、見た通り人間の死人です。とある人物から厄介なことをこいつは頼まれましてね」
「とある人物?・・・どうせ天界の・・・ふん、あの忌々しい空海とかいう菩薩の手下だろう。なんだ、またおせっかいか? わしは動かんぞ!」
「いやいや違います。違いますよ。とある人物は、確かに兜率天のお大師様のお弟子さんですけどね、何も阿修羅様を説得しようという話ではないんですよ。だいたい、こんな者にそんな大それた話なんてできないでしょう」
夜叉さんは、俺の肩を掴みニヤニヤしながらそう言った。俺も思わずうんうんとうなずいてしまった。いかにも小心者であると演技したわけではない。本当にビビっているのだ。
「うわっはっはっは。いかにも、そんな小粒じゃな。よく見りゃ、何の神通力もないただの人間じゃないか。そんなヤツがいったい何をしに来たんだ?」
「えぇ、ですから、こいつは、兜率天の弘法大師様の弟子に、六道の世界を取材しろ、と命じられたんですよ」
「な、何だと?、なんじゃそれは?」
「なんじゃそれは・・・なんですよ。あのですね、人間界では、今や人間が死ぬと六道に輪廻するということが信じられていないようになったんですよ。そんな話は、もう消えそうなんですよ」
「なんと!、人が死んだら六道に輪廻するのは当然なのに・・・。それを信じない者がいるのか!」
「信じないどころか、六道も輪廻も知らない人が増えているんですよ」
「うわっはっはっは、相変わらず人間は愚かよのう。釈迦がいくら説法しても、そのありさまか。こいつは笑える。わははは」
「そう言うことですから、当然、阿修羅様のことも知らないわけで・・・」
「何だと、わしのことも知らないだと?」
「全く知らないことはないですけどね。とあるお寺の阿修羅様の像が人気でして。それで知っている人は多くいるのですが・・・」
「ふん、あれはわしの若いころの姿だ。あんなもの!・・・わしの真の姿ではない!」
「ですよね。まあ、いろいろと誤解もあるようですし。あぁ、そう言えば、帝釈天様は、イケメンの神だと言われ、大人気ですよ」
「な、何だと! くっそ〜、許せん! あのクソ帝釈天が人気だと! 人間どもめ! クククク、どうしてくれようか!」
「あぁ、そう怒らないで、阿修羅様の怒りは、人間界では火山の噴火になりますから」
夜叉さん、ちょっと調子に乗り過ぎ、口が滑ったようである。俺の方を向き、ベロを出して、しまったという顔をした。そして、
「今ので、海底火山が噴火したな。やばいやばい、気をつけないとな」
と俺にささやいた。しかし、夜叉さんの乗りが軽い。ひょっとしてわざとやっているのか?。どうやら、夜叉さん、阿修羅を少しからかっているようだ。
なお、後で知ったのだが、この時、日本の太平洋沖で海底火山が噴火し、島ができたそうだ。その噴火は、結構続いたらしい。からかうのはいいが、とばっちりは人間界に起きる。下手なことはやめて欲しいものだ。俺は当然、責任は取れないのだから。
そう思っている俺にニヤニヤ顔を見せてから、夜叉さんは話を続けた。ニヤニヤしたのは、「大丈夫だ」と言う意味だろう。

「ちなみに、帝釈天様の人気と言うか、ブームは、もう今は下火のようですよ。阿修羅様の姿は相変わらず人気ですが。特に若い女性の間で人気があるようです」
「ふん、そりゃそうだろ。あの帝釈なんぞ、わしの若いころの姿には及ばんからな。しかし、あんな姿はな・・・。どうでもいいわい!」
「ともかく、この者は、こうして六道を巡り、六道の世界を取材しているのですよ」
夜叉さんは、話を強引に戻した。
「それは・・・変わり者だな。夜叉よ、お前はその御守りか?」
「はぁ、そう言うことです。まあ、貧乏くじを引いたわけで・・・」
「あはははは、これは愉快じゃ。あの魔族の、魔物の夜叉がな、人間の御守りとは。人に恐れられていた夜叉がな・・・これは笑える」
「時代は変わっていくんですよ。諸行無常ですな」
「ふん、で、わしのことも忘れ去られているわけか・・・」
「若いころの阿修羅様しか知られてないですね。あの正義の神だったころの・・・」
「いうな!、夜叉よ、さっきから口が過ぎるぞ!。所詮、夜叉族。偉そうにするな」
「これは申し訳ないです。何も阿修羅様に意見をしようなんて、そんな腹積もりはありません。私は、事実を言ったまでで・・・」
「ふん・・・、確かに、あの像のことはわしも知っている。若かったな。まだ、幼かった。人々を正義に導くにはどうすればいいのか、わしは悩んでいた。あの頃の姿だ、あの像はな。どこの誰があんな像を造ったのかは知らないが、癪に障るわい。あの像ができたころは、わしはもうこの世界にいたのに。嫌みな人間め。あんな像を造られたところで、わしの気持ちは変わらんのだが・・・ふん」
どうやら、阿修羅の本心は、そんなに悪いわけではないようだ。怒り続けている、とは言うものの、どこかで後悔の念はあるのではないか。ただ、それを受け入れたくないだけなのではないか。本当は、怒り続けることに疲れているのではないだろうか・・・。夜叉と阿修羅の会話で、俺はなんとなくそう思ったのだった。実際、怒り続けるというのは、疲れるものである。

「バカモノ!。わしが怒りを解くと思うか? この愚か者め。人間の分際で偉そうなことを思うな!」
どうやら阿修羅は俺の心を読んだようだ。しかし、怒り方が激しくない。穏やかな怒りだ。
「あのな、たかが人間に本気で怒っても仕方がないだろ。象がアリを踏むとき、全力を使うか? アリ、くっそ〜、帝釈め、アリごとき踏みつぶせばいいものを。アリを殺すのはいかんとか言って格好つけやがって・・・。逃げていた者が反対に攻めてきたら、こっちはビビるだろうが・・・。あぁ、惜しかった。もう少し冷静であったなら、あのまま帝釈の都を滅ぼせたものを・・・。あぁ、悔しい!」
どうやら帝釈天に対する怒りは、全く消えていないようである。
「あの・・・、もういいじゃないですか。もういいとは思わないのですか?」
「何だと、コゾウ。もういいだと?。どういうことだ、あぁ?それはどういうことだ?」
俺の足元がきゅゆに熱くなってきた。俺は、少し後ずさった。
「あの、そう怒らないでください。落ち着いて聞いてください。たかが人間の、小さな人間の素朴な疑問なんです。いいですか?」
「ふん、好きにしろ。だが、ムカついたら、お前なんぞ、一瞬で焼いてやる。魂もろともな。うふふふ、あはははは」
魂も一瞬で焼かれたら、それはまずいのではないだろうか。俺は、ビビった。しかし、言いたいことは言わなきゃいけない。俺の記者魂・・・そんなものがあったとは思えないが・・・が、俺の口を動かした。俺は、弥勒菩薩様の手形をしっかり握りしめ、勇気を振り絞って言った。
「なぜ、怒り続けているんですか?。もう娘さんは帝釈天と仲良くやっていますよね?。聞くところによれば、帝釈天は浮気もやめたそうじゃないですか。娘さん一筋ですよ。しかも、きっとお釈迦様や菩薩様の目もあるでしょうし。帝釈天も好き勝手はできないでしょう。もういいじゃないですか。怒りを解いて、帝釈天を許してやったらどうですか?」
「バカモノ!」
その一声で俺は吹っ飛ばされた。爆発が起きたのだ。幸い、夜叉さんが後ろで受け止めてくれたので、潰されずに済んだ。いや、そもそも阿修羅も、本気で俺を消し去ろうとしたわけではないのだ。本気を出せば、俺なんぞ瞬殺である。きっと夜叉さんの神通力も間に合わないだろう。下手をすれば、夜叉さんもろとも瞬殺である。阿修羅が本気を出せば、それくらいどうということはないのだ。ということは、阿修羅も心のどこかで怒り続けていることに疲れを感じているのかもしれない。本当は、もう怒ることを止めたいのかもしれない。
「お前はバカか! わしが怒りを止めるだと? そんなことはな、あの憎たらしい帝釈が死んでもあり得んことだ。わしの怒りは、そんなことでは収まらん。あの帝釈をこの手でギッタギッタのボッコボッコのケッチョンケチョンにしたって収まらないんじゃ!」
阿修羅は、そう捲くし立てたあと、思い切り「ふーん」と鼻息をだした。そして、ぼそぼそと話し始めたのだ。
「あのな、本音は、今でも帝釈を潰してやりたい。できれば、この手でひねり潰してやりたい。帝釈の味方をしたほかの神々も同じだ。あんな世界・・・天界をこの手で壊したいのだ。わしをこんな世界へ落としやがって・・・。夜叉よ、お間らも同罪だ」
夜叉さんが隣で首をすくめた。
「わしの正義の剣で天界なんぞ、ぶった切ってやりたいんだ。それが本音だ。だがな、そんなわけにもいかないことくらい、わしにもわかっておる。やりたい、だがやってはいけない、できない・・・。そのイライラに身も悶え、心は苦しく燃え上がるのだよ。あぁ、許せん、すべてが許せん。我が身を含めて、何もかもが許せんのだ!。それがわしの怒りじゃ!」
そう阿修羅が叫んだと当時に、どこか遠くで「ボーン」と音がした。この世界のどこかで噴火が起きたのだろう。
阿修羅は、実はよくわかっているのだ。いつまでも帝釈天に怒っていても仕方がないことだということを。しかし、だからと言って帝釈天を許す気にはなれないのだ。同じく、帝釈天に従っている天界の神々も許せないのだ。できれば、すべてをぶち壊したい、だができない・・・。阿修羅は、そのジレンマに陥っているのだ。
「そうか、この世界の正体は、ジレンマなんだ。壊したいが壊せない、許すのが本当なのだが、許せない。頭ではわかっているが、感情がどうにもならない。やってはいけないのにやってしまう・・・。心と体のアンバランス、思考と行動のアンバランス、正義と悪のアンバランス・・・。その狭間がこの世界なんだ」
「そう言うことだな。よく気が付いたな。となると、この世界にやってくるものがどういう者か、わかるな」
夜叉さんが、優しくそう言った。阿修羅は、無言だ。何も言わない。そのことが、俺の言ったことの正しさを証明している。
「この世界には、人間界からもやってくるのでしょ?。生まれ変わってくるんですよね?。きっと、その人たちも、やっちゃいけないけどやってしまうとか、怒っちゃいけないけど感情が抑えられなかったとか、思いと裏腹に行動が出てしまうというジレンマに陥った人たちなんですよね? その人たちは、一体どこにいるんですか?」
しばらく沈黙が続いた。誰も何も言わない。噴火の音や溶岩が流れる音が不気味に聞こえてくるだけだ。
「見たいのか?。まあ、見に来たのだから、見たいのだろうな。だがな、お前さんが言ったような、きれいごとではないぞ。言葉で説明をすれば、綺麗に聞こえるが、さもアイツラが哀れなように聞こえるが、現実はそうではない。醜いものだ・・・わしを含めてな。わしも、きれいごとを言うつもりはない。所詮、怒り続けるということは、どんな事情があるにせよ、醜いものなのだよ。そのつもりで見ることだな」
阿修羅の声は、重かった。どんよりして、さっきまでの勢いもなかった。だが、何よりも重いものだった。
「覚悟はあります。今まで、恐ろしい光景はたくさん見てきました。醜い光景も見てきました。人間の愚かさを嫌と言うほど見てきました。だから・・・」
「わかった。夜叉よ、お前なら大体わかるであろう。ここより南西に進めばいい。そこに目的の場所はある。さっさと行け。邪魔はしない」
それっきり、阿修羅の息遣いも気配も何も感じなくなったのだった。
「ふう。じゃあ、この修羅界に生まれ変わった愚かな人間を見に行くか」
夜叉さんは、まるでピクニックに行くかのような軽いノリでそう言ったのだった。


「お前、今、そんな気楽でいいのか・・・と思っただろ?」
夜叉さんが俺を振り返って言った。「いや、そんな・・・」と言おうとしたが、相手は俺の心を読んでいるのである。下手なウソやお愛想は言わないほうがいい。だから、
「えぇ、思いましたよ。なんだか、軽いノリだったようですから」
と言った。夜叉さんは、前に向き直って歩きながら言った。
「あのな、俺もな、実はドキドキだったんだよ。つい勢いで阿修羅にいろいろ言ってしまったが、綱渡りの気分だったぜ。何事もなくすんで良かった・・・と実は思っているんだよ」
「だから、軽いノリになったんですか?」
「あぁ、そうでもしなきゃ、ドキドキが治まらなかったからな」
俺の方を振り返ってそう言った夜叉さんは、よく見るとちょっと疲れた様子だった。
「いくら俺でも・・・夜叉族の俺であっても・・・阿修羅相手では疲れるよ。全く、厄介な仕事だぜ。久しぶりの緊張感だった。実際、一つ間違えば、一瞬にして吹っ飛んでたこともあるからな。あれでも慎重に言葉を選んでいたんだぜ。ま、阿修羅も、もう本気で怒ることはないのかもしれないけどな・・・」
ひょっとしたら阿修羅も怒り続けることに疲れているのかもしれない。今は、ただただ静かにしていたいだけなのかもしれない。ただ、阿修羅界の王と言うメンツがあるため、その立場があるため、怒り続けているふりをしているのかもしれないのだ。本気で怒っているなら、我々など瞬殺だろう。そう思うと、この世界に追いやられてしまった阿修羅が何だか哀れだ。ちょっとかわいそうな気もしないでもない。
「同情をかけられると、それこそ阿修羅は怒るぞ。阿修羅様の立場を理解してやるんだな」
あぁ、その通りだ。下手な同情は、蔑みと同じだ。今、俺は上から目線になってしまっていた。同情とは、そう言うことである。自分が優位な立場にいると思っているから、同情できるのだ。そこには必ず優劣の気持ちがあるのだ。裏を返せば、同情は相手をバカにしているのと同じになってしまうのである。それなのに、同情を求めるものが多いのには驚くのだが・・・。同情されるということは、見下げられていることにもなるということを知ったほうがいいと思う。
「私がよくなかったです。失礼でした」
夜叉さんは、俺を振り返ってうなずいた。

「なんだか、ちょっと蒸し暑くなってきませんか?」
しばらく黙って夜叉さんの後を歩いていたが、我慢できなくなって俺はそう口に出した。死人だから汗は出ないが、生きていたら汗ダラダラの湿度と気温である。蒸し暑い梅雨のような、あるいはサウナの中のような、そんな感じがしてきたのだ。
「あぁ、そうだな。そろそろ目的地に近付いたからな。え〜っと、そうだな・・・。うん、あの山に登ろうか」
夜叉さんは、立ち止まって前方を指さした。確かに、そこには、小高い山があった。標高100メートルくらいの小山である。山と言っても、木なんぞは生えていない。岩山である。しかも、冷えて固まった溶岩の石がゴロゴロしている。そんな山が左右に広がっていた。地面と全く同じ色、同じ景色なので、山と気付くまでに俺は時間がかかってしまった。目の錯覚を起こしていたのだ。
「あれ、山だったんですね。気付かなかった。結構、横に広い山ですね。あれ?、途中で曲がっていませんか?」
「あぁ、緩やかにカーブしているよ」
その小高い山は、ずーっと遠くまで続いているのだが、緩やかに中へとカーブしているのだ。我々が立っている方向とは逆の方へカーブしているのである。
「なぜ、そうなっているかは、あの山に登ればわかるさ」
そう言うと夜叉さんは再び歩き始めた。
そんな急坂があるわけでもない小高い山は、容易く登ることができた。
「なかなかいい山ですね。蒸し暑いのが気持ちよくないですが。というか、この蒸し暑さ、なんだかイライラしますね。これでそよ風でも吹いていれば、修羅界のオアシスなのに」
「そう言うのんきなことを言えるのも終わりだよ。下をよく見て見な」
夜叉さんにそう言われ俺は下を眺めてみた。
「えっ?、あれは人ですか?・・・人ですね。うん、間違いなく人です。それも、結構大勢いますよ」
そう言って、夜叉さんを見て、俺は気付いた。
「あれ?、この山って・・・」
「そうだ。この中を囲っているようにできている山だ。そうだな、巨大なクレーターのようになっていると言えばいいかな。もしくは、ここは、巨大な競技場だな。下が競技場。俺たちが立っている山が観客席、かな」
夜叉さんの言った通りだ。ここは巨大な競技場だ。100メートルくらいの山で囲われているのだ。この山は、まるで観客席である。で、その競技場にいるのは、人である。結構な人数の人だ。しかも、なぜか固まっている。人の塊があちこちに出来上がっているのだ。
よく見ると、どうやら固まっている人たちは、何か争っているようである。
「もっとよく見たいだろ?。できれば声も聴きたいよな。俺は、視力いいし、聴力いいから、アイツらがやっていることや言っていることがよくわかるが、人間のお前さんには、よくわからんだろう」
夜叉さんはそういうと、「ほれ」といって、双眼鏡のようなものを差し出してきた・いったいどこから出してきたのか。まるで〇らえもんである。
「あんなデブの猫型ロボットと一緒にするな」
とベタな返事を夜叉さんは言った。そして「いいから見てみろ」と促した。

夜叉さんが渡してくれたものは、まさしく双眼鏡だった。俺は、それで下にいる人間たちを見てみた。すると・・・。
「えっ?、これって、声も聞こえますよ」
「そうだ、その双眼鏡は、普通の双眼鏡プラス集音機になっているんだ」
そうなのだ。これは便利である。遠くのものが見えるだけでなく、その見ているものが発する音まで聞こえるのだ。俺は、その双眼鏡で、下にいる人間たちを見てその声を聞いた。

「おい、今ぶつかっただろ」
「あぁ?、ぶつかってねぇよ。なに言いがかりつけてんだよ」
「うるせーな、お前ら黙れよ。蒸し暑くてうっとうしいんだよ」
「ウルセーこのデブス!。女のくせに粋がってるんじゃねーよ」
「なんだと、もう一遍言ってみろ」
「あー、てめーらうるせーんだよ。キー」
「あっ、このクソ女、蹴りやがったな」
「お前らがウルセーからだよ」
「このヤロウ」
うわ、バキ、ボキ・・・。あとは殴り合いであった。老若男女が殴り合いのケンカをしているのである。俺はほかの塊も見てみた。
「おい、近付くじゃなねぇ、暑苦しくてうっとうしいんだよ」
「触るなスケベオヤジ!。ちょ、何してくれるんだよ」
「触ってねぇよ、お前みたいなブス、相手にするか」
「あんだと、このヤロウ」
「あーうるせー、ケンカならよそでやれよ」
「あー、てめぇが、一番うざいんだよ」
結局、殴り合いのケンカが始まった。よその塊は・・・同じである。どこの塊も、やれ肩がぶつかった、ガンつけた、見てんじゃねーよ、触るなスケベ、どこ見てんだよ、ウルセーな、黙れ糞ヤロウ・・・と男女問わず、年齢問わず、叫び、殴り合い、蹴りあいのケンカである。。
皆、言いがかりのつけ合いだ。初めからケンカ腰である。みんな、この蒸し暑さにイライラしているのだ。
殴り合いをしている塊は、そのうちによその塊にぶつかり、ケンカが大きくなる。そうこうしているうちに、大勢での殴り合い、蹴り合いが始まるのだ。
「痛ぇ、イテテテ、やったな、このヤロウ」
「まて、まて、腕が折れた」
「うるせーな、腕の一本や二本くらい、こうしてやる」
殴り合いの中で、やがてケガ人が多数出ている。それでもケンカは終わらない。倒れた者は、踏みつけられ、グシャっと嫌な音を立ててつぶれてしまった。あちこちで、つぶれるものが出てきた。やがて、立っているのは二人だけになる。
「殺してやる」
「お前こそ死ね」
そう言ってお互い殴り合い、やがて二人とも動かなくなった。ケンカをしていた大きな塊は、誰もいなくなってしまった。残っているのは、潰れた死体の山だけである。
ぼわっと、炎が上がった。そして、その炎は消える。ほんのわずかな時間だ。そこには、人が寝転がっていた。彼ら彼女らは、起き始める。初めのうちは、てんでバラバラに動き出した。お互いに距離を取り、うろうろしているだけである。そのうちにその距離が縮まってくる。すると
「何見てんだよ」
「見てねーよ、ブス」
「あんだと、てめーの方がブサイクじゃねぇか」
「あーうるせー、ダマレ糞女」
「ウルセー、クソジジイ」
「近付くんじゃねぇよ」
などという言いあいの塊があちこちでできてくるのだ。その塊は、ちょっとした小競り合いから、殴り合いのケンカへと発展していくのだ。そして、塊は他の塊とぶつかり合い、ケンカが大きくなっていく。そして、殴り合い、潰し合い、殺し合い・・・だ。全員が死ぬと炎が上がり、また元の人間に戻るのだ。その繰り返しである。
「あ、あれは・・・。まるで愚かな・・・。彼らはバカなんですか?」
俺は、双眼鏡を降ろして夜叉さんを見て言った。夜叉さんは、座って下の様子を眺めていたようだ。
「まあ、バカだな。同じことを繰り返しているからな」
「だって、あれって、痛いでしょうに」
「普通に殴り合っているのと同じくらい痛いよ。いや、人間界での殴り合いより、もっと痛いだろうな。こぶしがつぶれても、腕が折れても殴り合いは続くからな。で、最終的には、弱い奴から順番に踏みつぶされて死んでいくしな。相当痛いし、苦しいだろうな」
「そ、そんな淡々と言われても・・・。これが、修羅界ですか」
「そう、これが修羅界だ。アイツらは、この争いが愚かな行為だと気が付き、止めるまで、ずーっと殴り合っているんだよ」
「気付くんですかねぇ・・・」
「さぁな。どうだろうね。ここも餓鬼界同様、管理者はいないからな」
そうなのだ。ここも、餓鬼界と同じように、地獄の鬼のような存在はない。だから、地獄で鬼がしてくれたようなアドバイスは無いのである。こうしてみると、地獄は案外親切である。鬼が、事あるたびに「なぜここに来たかを考えろ」、「反省しろ」などとヒントをくれるのである。餓鬼界もここ修羅界もそういうヒントをくれる鬼のような存在はないのだ。自分で気が付かねばならない。
「そう言う点では、厳しいな。ま、だけどな、餓鬼界よりはましだけどな。ほれ、見てみな」
夜叉さんが、そういって指さしたほうを見てみた。その塊は、俺がさっき見ていた塊よりは、ちょっと遠くにある塊だった。
「おい、今、肩がぶつかっただろ」
「ぶつかってねーよ。ウルセーな」
「てめー、誤魔化すんじゃねー」
「お、ケンカか、やれやれー、ほれ、殴り合えよ」
「なんだと、ウルセーなクソジジイ。てめーから死ね」
「おい、止めろよ。そんなジジイ殴っても仕方がねぇだろ」
「何だてめぇーは、いい子ぶるんじゃねぇよ」
「いい子ぶってねぇーよ。そんなジジイ放っておけ、って言ってるんだよ」
「ウルセーな、てめーから殺してやる。あ、避けやがったな」
「あははは、お前、下手くそだな。人を殴るっていうのは、こうやるんだ!。
えっ、何で当たらない?。てめー、逃げんるじゃなねーよ」
「逃げてねーって、お前らが下手なだけだろ」
「ウルセー、こら!、死ねよ!」
「あははは、当たらねーでやんの。アイツら、人を殴ったことないんじゃねーの。キャハハハ」
「ウルセー、クソ女」
「痛い!、よくも殴ったわね。お返ししてやる」
結局、殴り合いが始まった。だが、一人だけ、殴られていない者がいたのだ。それは、ジイサンを殴ろうとした者を止めた若者だった。その者だけは、誰にも殴られていないのだ。微妙に避けているのである。それだけではない。彼は、飛んでくるパンチや蹴りをよけながら、
「や、止めろよ。ケンカはやめろ、ちょっと待て、ストップ、おい、止めろ、止めないか・・・あ、それは、痛いだろ、止めろって」
と叫び続けているのである。
結局、その彼以外、全員死んでしまった。
「あぁ・・・。だからやめろって言ったのに・・・。愚かな奴らだな」
彼は、死体の山の中にぽつんと立っていた。やがて、
「こんなところに居てはいけないな。出口を探さなきゃ」
と言って歩き始めたのだった。その若者が、死体の山から離れると炎が上がった。そして、死体の山は、元の人間に戻った。そして、またケンカが始まるのだ。
彼はというと、ケンカをしている塊を避けながら、一人フラフラと歩いて行く。どこかあてはあるのか?・・・いや、ただ歩いているだけのようだ。そして、ふっと消えてしまったのだ。
「あ、あれれ?、どこへ行ったんだ?。消えてしまいましたよ」
「修羅界を出たんだろ。ここを脱出できたんだ。だから、人間界か、天界の端くれか、だな。そこへ生まれ変わったんだよ」
「あぁ、そういうことですか。彼はケンカをしなかったし、止めてましたからね。そのおかげでここを脱出できたんだ。ほう、なかなかの若者ですね。ケンカはダメだ、と覚れるなんて」
「覚ったわけじゃないさ。おそらく、彼の家族、両親が供養を一生懸命にしてくれたからだろうな。その供養のおかげで、気付かされたんだろ。しかも、殴ってくるパンチや蹴りも自然に避けてくれている。これも、供養のおかげだろうな。あの若者が意識して避けてたわけじゃないさ」
そう言うことだったのか。あの若者の遺族・・・おそらくは両親だろう・・・が彼のために供養をしたのだ。それも、一回だけではないだろう。おそらくは、月に一回の供養を何年もしたのだろう。で、その功徳のおかげで、彼はケンカに巻き込まれなくなったのだ。それだけでなく、ケンカが愚かなことだと気づかされたのだ。だから、ケンカを止めに入ったのだ。
「彼の偉いところは、一人で逃げていかなかったところだな。ケンカを止めに入った。それは、結構勇気がいることだ。なにも他人のケンカを止める必要はない。自分がまきこまれるからな。だが、彼は、あえて止めに入った。まあ、腕に自信もあったんだろうけどな。でも、ケンカを止めるまでに心が成長していたんだな。おそらくは、相当供養されたのだろう。もしくは、相当力のある坊さんに供養してもらったのだろうな」
「はぁ・・・、じゃあ、いいところに生まれ変わってますね、きっと」
「うん。だといいな」
夜叉さんは、立ち上がると
「これが修羅界さ。愚かなところだろ」
と言ったのだった。


「これが修羅界ですか・・・。ここは、イライラして、そのイライラが我慢できなくて、頭に血が上って、とにかく八つ当たりと言うか、そのイライラを暴力的に発散したくなり、それを実行してしまう世界なんですね」
「そうだ。ここへ生まれ変わってくるものは、生きている時も同じような性格だったヤツだよ」
「怒りっぽくって、いつもイライラしていて、暴力的だった・・・」
「そうだ。そう言う連中が死ぬとここに来るのさ。まあ、下から上がってくる奴もいるけどな」
「下からですか?。例えば餓鬼界からとか?」
「う〜ん、餓鬼界から来ることは稀だな。多くは、畜生界からだな。畜生界は、修羅界と似ているところがあるからな。例えば、現実世界の野生の動物でも争うだろ? 縄張り争いとかするじゃないか。まあ、人間はイラつくだけで争うけどな」
「はぁ、まあ、何となくわかりますが、いずれにしても、生きているとき粗暴だった者が、ここに来るわけですね。で、下の世界・・・地獄とか畜生界・・・からも生まれかわって来ているんですね」
「そうだ。地獄に行った者も、地獄での罰を終えると、たいていは畜生界かここ修羅界にくる。下から上がってきたものと、上の世界である人間界から落ちてきた者が、ここで争っているんだ。愚かなことだ。人間は、いつまでたっても愚かだなぁ」
人間は愚かだ。お釈迦様がいた2500年前から、文明や科学は発展したけど、人間性は変わっていないのではないか?。毎年数多くの啓発本や生き方の本や考え方の本が出版されるが、あまり役に立っていないように思う。宗教だっていろいろあるのに、信仰する者だって多いのに、争いは絶えない。
確かに、毎日のように仏壇で「ナンマンダブ、ナンマンダブ」とお参りしている婆さんが、嫁をいじめている・・・なんて話は、よく耳にする。坊さんだって、口では偉そうなこと言っているが、その裏ではどうなのか?。金にまみれて、贅沢をして、権力を争って・・・なんてこともあるだろう。心を正しくあるように指導する者が、愚かなことをしているのだ。
結局、人は愚かなのだ。
「愚かですね。本当に人間って愚かですね」
声に出していってみると、益々救いがないように思えてきた。
「それでも、その愚かな人間の中でも、まともな人間もいるさ。じゃなきゃ、地獄もここも人間だらけでいっぱいだ。東京の満員電車並みになってしまうだろ?。人間も捨てたもんじゃないさ。愚かな者が多いってだけだ」
「まあ、そうかもしれませんが・・・。いや、しかし、こんな世界ばかり見ていると人間が嫌になりますよ。俺も人間ですけど・・・」
「そうかもな・・・。さて、これが精神世界の修羅界だ。覚えているか?。人間界での修羅界もあると言っていたことを。餓鬼界から修羅界へ通じる光の道は二つに分かれている。一つは、ここだ。もう一つは人間界の中だ。そっちを見てみるか? まあ、想像はつくだろうけどな」
夜叉さんにそう言われた俺は、しばらく考えた。人間界の修羅界・・・。確かに、ここを見ていれば想像はつく。現実を見なくても「ああいうヤツらだろ」と思い当たる連中はたくさんいる。それを果たして見るべきか。見る必要があるのか・・・。

「想像できますよ。というか、そんな連中嫌と言うほど知っていますよ。生きながらに修羅界にいる連中。いつもイライラして、チャンスがあればケンカを吹っ掛けてくる若者、やたらと難癖をつけて脅迫して金品を奪おうとするヤツラ、ケンカ上等なんて言って騒いでる暴走族、街のチンピラ、反社会勢力の連中、あおり運転するヤツ、何かとクレームをつける者、若者だけじゃない、老人だって最近じゃ増えてますよ、悪質クレーマーは。医者に暴力を奮う老人もいます。老人ホームでケンカする年寄りもいます。自分勝手な行動をとり注意されると逆ギレする者もいます。このところの日本は、イライラが蔓延しているようにも思えます。みんな何かイライラしているような・・・。多くの者が、修羅界の人間のような、そんな気さえしますよ」
「そうだ、その通りだ。一時、日本の人間界は、餓鬼が蔓延していた。そのため、餓鬼が貧乏神にまで成長した時代があった。バブルとバブル崩壊の頃だな。どん底になった日本は、そこから徐々に這い上がっていったんだな。餓鬼界から上がっていったんだ。で、ようやく景気も安定してきた。まあ、その間、いろいろな事件や事故、災害もあったけどな。まあ、何とか乗り越えた。で、餓鬼がまたまたはびこり始めたころに、リーマンショックがあった。これでまた貧乏神が少し生まれた。まあ、大した貧乏神じゃなかったからよかったけどな。そんな状態を生きてきた日本人は、知らないうちに「我慢、忍耐、辛抱」と言うのが嫌になってしまったのだろう。石の上にも三年・・・なんて言葉もなくなり、耐え忍ぶ、我慢してみる、根性で頑張る・・・なんてことが、くだらないってことになってしまったんだな。メディアでも『我慢しなくていいんだよ』的なことを宣伝するようになっていった。我慢はウツの元だから我慢するな・・・、頑張る必要なんてない・・・、という時代にいつしかなってしまったんだ。しかし、現実はそうはいかない。我慢しなきゃいけないことはたくさんあるし、辛抱しなきゃいけないことだってたくさんある。頑張らなくていい・・・なんて言っていたら、どんどん取り残されて行ってしまう。結局は、耐え忍ばなきゃいけないし、辛抱しなきゃいけないし、頑張らなきゃいけない。そうした者だけが生き残っていけるんだ。現実と思いのギャップに、みんなイライラするばかりさ。そりゃ、修羅化するよな」
「あぁ・・・確かにそうですね。今の日本人は、我慢とか辛抱、頑張るってことをやめてしまったようなところがあります」
「だろ?。確かに、心を病んでしまった人には、我慢しない、辛抱しない、頑張らないということは、必要かもしれない。だけど、心を病んでいない者にとっては、それは必要ないことだろ?」
「ダメですよ。今は誰でもウツなんですから。ちょっと嫌なことがあって、会社行きたくないな、学校に行きたくないな、なんかやる気が出ないな・・・なんて状態になったら、み〜んな『ウツですね』になってしまうんですから」
「そうしてしまったのは、マスコミか?」
「まあ、そうですね。マスコミの責任は大きいでしょうね。頑張らなくていい・・・なんて言いふらしていたのは、マスコミに多く登場する教育者や精神科医だったりしますからね」
「だけどな、それは、本当に心を病んでしまった人向けのメッセージだろ?」
「そうなんですけど、TVを見ている人は、『あ、自分のことだ』と思っちゃうんですよ。で、『頑張らなくていいんだ、辛抱しなくていいんだ。我慢しなくていいんだ』と勘違いしてしまうんですよ」
「愚かだな。こんな愚かな人種は、TVなんぞ見ちゃダメだな」
「本当にそう思います。TVなんてウソが多いし、いい加減だし、責任は取りませんからね。その時に流行っていることをやって騒ぐだけですから。で、その結果が人々にどういう影響を及ぼすか、なんてことは考えてませんからね」
「心を本当に病んでいる人向けに言った『我慢しなくていい、辛抱しなくていい、頑張らなくていい』が、一般に広まってしまったわけだな。現実はそうはいかないのにな。だから、そこにギャップが生まれるんだよ」
「それでイライラする人が多くなったんですね。今や、1億総クレーマーですから」
「イライラして、クレームをつけたり、言いがかりをつけたり、脅迫したり、挙句の果てには暴力だ。ここと変わらない」
夜叉さんの指摘の通り、今の日本は、ここ修羅界と変わりはないように思う。みんなイライラして、目が合った、肩がぶつかった、何だその顔は・・・なんて因縁をつけてケンカになる修羅界。同じようなことが現実世界の日本でも多々起きている。
そうか・・・、今の日本人は修羅界の人が多いのだ。イライラしている人は、注意が必要だ。イライラを克服するようにしないと、死後はここに来ることになるのだ。

「私の子供のころは、こんなんじゃなかったんですけどね。みんな、我慢しなきゃいけないことが世の中にあるんだ、ということは知っていましたし、辛抱することの大切さも知っていました。頑張る意味も知っていました。そう、みんな『お互い様』ということ知っていたんですよ。それなのにいつの間にか・・・」
「いいか、それを知っているはずの年寄りが、我慢をしなくなったんだぞ。お互いさま、を知っているはずの老人が、自分勝手にふるまうようになったんだぞ。上がそうなれば、下も習うさ」
「いい手本がないんですね。今の世の中は・・・。はぁ、現実世界は見なくていいです。益々落ち込んじゃいますよ」
「ふん、何を弱気なことを・・・。現実を、事実を素直に受け入れるんだな。で、自分はそうならないように気をつければいいだけだろ」
「確かにそうですね。自分はそうならないようにすればいいだけですね。そういえば、昔のことわざには、そうした教えがたくさんあったんですけどね、いつの時代からか、ことわざを教えなくなってしまったんですよね。これもいけないんでしょうね」
「さっき言った、石の上にも三年とか?」
「人の振り見て我が振り直せ」
「いつまでもあると思うな親と金」
「う〜ん、まあ、それもアリかな?」
「働かざる者食うべからず」
「あ、それ禁止用語なんですよね。禁止ことわざか」
「は?、どういうことだ?」
「そのことわざ、言っちゃいけないんですよ。差別になるからって」
「差別だ?、なんでだ」
「例えば、定年退職して仕事をしなくなった方が、『なんだ、俺たちは食ってはいけないというのか』とクレームをつけたりしたんです。また、障害をお持ちのお子さんを持ったご家族が『うちの子は働けないから食べてはいけないというんですか』というクレームを入れた問題が起きたんですよ」
「それって意味が違うじゃないか」
「そうなんですけどね。いくら説明しても、受け入れられなかったんでしょうね。あるいは、説明が下手だったか・・・。いずれにせよ、教えてはいけないことわざになったんですよ。ま、そうこうしているうちにことわざは古臭いとか言って教えなくなったみたいですが・・・」
「お、愚かな・・・。だって、あれは働けるにもかかわらず、働かない者に対して注意する意味で言った言葉だろうに」
「そうなんですけどね、まあ、問題になると面倒なんでね。面倒なら、止めてしまえというわけで・・・」
「ふん、お得意の事なかれ主義か。事なかれ主義もいい時もあるけど、教育に関してはダメだろ。そんなんだから、働いたら負け、なんてクソみたいなヤツが出てくるんだ」
夜叉さん、そんなことまで知っているんだ、と俺は感心してしまった。そうなのだ、今の日本には、働かないで引きこもっている人が、ものすごくたくさんいるのだ。15歳以上だと100万人を超えるらしい。50歳以上で働かない人口は、なんと60万人もいるのだそうだ。
「それにしても夜叉さん、いろいろ知っていますね。ことわざまで知っているとは。ましてや働いたら負けって・・・」
「まあな、暇だからな。ことわざは、凝った時があってな。随分前のことだから、忘れてしまったけどな。働いたら負け、っていうのは、たまたま知ったんだよ。日本には、引きこもりが多いってことも知っているよ」
「はぁ、そうですか・・・。まあ、いずれにせよ日本人は、辛抱・我慢・頑張るができなくなってしまったんですよ」
「そう言う漫画は流行るのにな」
あっ、確かにそうだ。我慢して、耐え忍んで、頑張って、努力して悪いヤツを倒して、負けても這い上がって、頑張りぬく・・・なんていう漫画流行っている。そういう漫画の王道みたいなストーリーは、今でも大いにウケるのだ。
「相変わらず、人間は矛盾しているな。求めているなら、素直に真似すればいいのにな」
「う〜ん、できないからこそ、あこがれるんでしょうね。自分では無理、と初めから思ってしまうんでしょうね。それにしても、漫画まで知っているんですね」
「暇なんだよ」
なぜか、夜叉さんは、横を向いてしまった。暇だといわれるのが、嫌なのかもしれない。

「まあ、なんだ、どうでもいいが、どうするんだ?。現実世界へは行かなくていいんだな?」
いきなり話を戻した夜叉さんに、ちょっとびっくりしたが
「あ、あぁ、そうですね。見なくてもイライラした人が増えているってことはわかっていますし。修羅化しているんだなって思いますしね」
「そうだな、そのうちにマスコミが『辛抱も必要ですね、我慢しきゃね、頑張らないといけませんね』って言いだすだろうな」
「もう言ってますよ、スポーツ選手なんかがいい成績を出したときなんかはね」
「それを応用できないのがいけないな」
「あきらめの時代なんですよ」
「いや、あきらめたふりの時代だ。あきらめたつもりでも、どこかに不服があるんだ。承服できないことがあるんだよ。だからイラつくんだ。本当にあきらめていないんだ」
さすがに夜叉さんだ。鋭いことを言う。
「そうです、まさにその通りです。すごいです夜叉さん」
素直にそういうと、なぜか夜叉さんは照れたように笑ったのだった。夜叉さんでも、すごいといわれると嬉しいらしい。
「まあ、そんなことはどうでもいい。じゃあ、また餓鬼界に戻るか」
「はい、次は畜生界ですね」
「そうだ。じゃ、行くぞ」
急に真面目な顔をして仕切り始めた夜叉さんであった。


「さて、また餓鬼界に戻ってきたぞ。ふん、相変わらず嫌なところだ」
俺たちは、修羅界を後にして、また餓鬼界に戻ってきた。前と同じように餓鬼界の中にある川の流れに沿って歩いて行き、今度は三番目の光の中に飛び込むのである。その光の先は、畜生界とつながっている。
「今度は畜生界だが、この畜生界にも精神世界の畜生界と現実世界の畜生界がある」
「人間界の中の動物とかが現実世界の畜生界ですね?」
「あぁ、そうだ。動物だけじゃない。虫も入る。小さなものではダニやノミといったものも畜生界に入る」
「ということは、ダニやノミに生まれ変わる・・・ってことですよね?」
「そう言うことだ。ダニやノミも、元をだとっていけば人間だった時があるかも知れない」
人間からダニやノミって・・・。考えただけでも恐ろしいと俺は思った。
「いったい何をしたらそんなものに生まれ変わるんですか?」
「そうだな、まあ、多くは地獄からの転生組だな。地獄での刑期を終え、畜生界にやってくる場合は、初めはノミやダニ、ゴキブリ、ハエとか言った、人間に忌み嫌われるものに生まれ変わるんだよ」
「地獄であれだけ苦しんで、その次は人間に忌み嫌われる生き物か・・・。いやいや、恐ろしいというか、哀れというか・・・」
「だから、地獄へ落ちる様な大きな罪は犯さないほうがいいな」
地獄で極卒の鬼たちから、反省しろだの自分の罪を認めろだの苦しめられながらさんざん言われ、ようようその気になって反省し、自分の犯した罪と見つめ合い、「もう二度とこのようなことはしない」と誓った結果、地獄を出られる。しかし、その先に待つのは、嫌われる虫である。それでは、救いがないのではないか・・・。ちょっとそれはひどすぎないか・・・。俺はそう思った。
「まあ、そう言われれば確かに救いがないようにも感じられるがな。しかしな、それは正規のルートで地獄から他の世界へ転生した場合だ。地獄で一応の刑期を終えた者がたどるルートだな。ところが、遺族や関係者からの供養があると、そうでもない場合もある」
「どういうことですか?」
「供養が頻繁に・・・まあ月一回くらいな・・・行われれば、たとえ地獄に落ちていても救いは早くやってくるし、本人の反省も早い。鬼たちも親切に指導する。で、その後の転生先も、ノミやダニなんて嫌われる生きものにならないことも多い。案外、綺麗な鳥とか、高級ペットとかになる場合もある。人から好かれる存在だな。供養によっては、地獄から天界へ行く場合もある。まあ、稀だがな。だから、救いがないわけじゃない。問題は、供養があるか無いか、その供養が継続されているかどうか、なんだよ」
あぁ、そう言う話は以前にも聞いたような気がする。あまりにも衝撃的なことが多くてすっかり忘れていた。そうだ、供養という救いがあるのだ。
「すっかり忘れていましたよ。供養がありましたね。供養があれば、救いもあるんですね」
「この餓鬼界の毒気にやられてきているな。気を付けたほうがいいな。さて、一つ目の光が見えてきたな。人間界への入り口だ」
川のほとりが光っている。そこは、人間界への入り口だ。相変わらず、餓鬼どもがたむろしている。押し合って、他の餓鬼を押しのけ、攻撃しながら餓鬼たちは光の中へと吸い込まれていく。

「そういえば、地獄から餓鬼界への転生は少ないんですか?」
「無いわけじゃないがな、餓鬼界はちょっと特殊だからな。前にも言ったように、ある意味、地獄より苦しい。指導者がいないからな。だから、地獄から餓鬼界への転生は少ないな。多くは、畜生界か修羅界だな。供養が優れていると、一気に天界だな」
「人間界はパスなんですね」
「人間界への生まれ変わりは難しんだ。縁がないと人間界へは生まれ変われないからな。人間界が一番、生まれかわってきにくい場所だな」
「あぁ、そうか、その転生する者の縁ある人が人間界にいないと生まれ変われないんでしたよね。しかも、その縁のある人が結婚をしていて妊娠をする可能性のある人でないと、もしくはそういう人が縁者にいないと生まれて来れないですからね」
「そう、だから、お経にも書かれている。人身受け難し、とな。人となって生まれてくるのは難しいのだよ。お釈迦様はな、その事をたとえ話で言っている」
「たとえ話ですか?」
「あぁ、そうだ。太平洋にな、大きな亀がいるんだ。その亀は、100年に一度、息を吸いに水面に顔を出す。そういう亀がいるんだな。で、太平洋にはその亀の頭がすっぽり入るような穴が開いている大きな板が浮かんでいるんだ。その亀が、その板の穴に頭を突っ込む確率が、人間として生まれ変わってくる確率と同じなんだそうだ」
「ちょちょ・・・ちょっと待ってください。その亀って100年に一度しか水面に顔を出さないんでしょ?」
「そうだな」
「太平洋ってものすごく広いですよ。で、その太平洋に穴の開いている板が浮いていて、その穴にその亀が頭を突っ込むって・・・。とんでもない確率じゃないですか」
「人間に生まれ変わって来るというのは、それほど難しいことなんだよ」
亀が水面に顔を出すのは100年に一回だ。もすうでにそこで100年かかっている。問題は、ここからだ。太平洋に穴の開いた板が浮かんでいて、その板の穴に亀が顔を突っ込むって・・・。考えられない。とんでもないことだ。もしかしたら、今日がその100年に一度亀が水面に顔を出す日かも知れない。で、たまたま・・・本当にたまたま、板の穴に顔を突っ込んだ、ということはないわけではない。しかし、それは・・・。いやいや、そんなことは期待できないことである。人間に生まれてくるというのは、それほど難しいことなのか・・・。
「実際にな、現世に誕生する確立は、確か科学的も計算されていて、その確率はとんでもない数字だったように記憶しているが」
夜叉さんの言葉を聞いて思い出したことがある。うろ覚えだが、その話は聞いたことがあるのだ。
「あぁ、なんかの取材の折にその話聞いたことがあるように思います。確か、とんでもない確率だったんですよね。まず、男女二人が出会う確率が低いんですよね。妊娠に適した年齢の男女の出会う確率ですからね、そりゃ低くなるでしょう。人口分の適齢期のうちの一人ですからね。で、その二人が出会う確率がまた低い。いくら男女が出会っても、結婚に至る確率が低くなりますからね。で、次に妊娠する可能性ですよね。精子は何憶分の一ですし、卵子とそれが出会い卵子の殻を破り受精する確率は実は低いのだ、と言っていたと思います。で、その受精卵が正常に成長する確率も低いのだそうで、さらには受精卵が着床するかどうかも確率は低いのそうです。その後の成長、出産の危険性、そうしたものをすべて掛け合わせると、確か人として誕生する確率は何兆分の一だったような・・・」
「まあ、そんなものだよ。どうだ、亀が太平洋に浮かんだ穴のある板の穴に頭を突っ込む確率と、そんなに変わらないんじゃないか。おっと修羅界への入り口の光だな。次の光が畜生界だ」

いつの間にか、俺たちは進んでいたようだ。もう修羅界への道までたどり着いている。次の光っている場所が、畜生界への入り口だ。
「人間界へ生まれ変わる確立の話をしていたら、結構進みましたね。いやしかし、人に生まれるって・・・本当に難しいんですね。それにしても、お釈迦様はすごいですね。まだ、科学的な根拠がないころに、すでにそんなたとえ話で人間に生まれる確率を計算していたのですから・・・」
「仏陀だからな。仏陀は、この世の初めから終わりまで、すべて知り尽くしている存在だからな。それくらいはわかるんだよ。いずれにしても、人間に生まれてくるのは、難しいことなんだ。せっかくその難しい人間に生まれてきたのに、その命を無駄にする者がいる」
「犯罪を犯したり、自殺したり・・・ですね」
「そうだ。だからな、そういう者が苦しみの世界・・・地獄界とか餓鬼界とか畜生界に生まれ変わっても仕方がないだろ」
「まあ、いわば、とてつもなく貴重なものを無駄にした、ということですからね。それなりの罰は当然受けることになりますよね」
「そうだ。当然の帰結だ。犯した罪の重さによって、いろいろな苦しみの世界へ生まれ変わるのは、当然のことなのだよ。筋が通っているじゃないか」
確かにその通りなのだろう。罪を犯しても、その後苦しまないのであれば、罪を犯して平気、となってしまう。あぁそうか。簡単に人の命を奪ってしまうような者は、そんなことをしても苦しみの世界へ生まれ変わると信じていない、あるいは知らないという者なのだ。だから、罪を犯しても平気なのである。
「死んだ後に、こんなに苦しい世界が待っていると知っているか知っていないかだけでも、罪の抑止力にはなるよな」
「その通りです。まあ、若い子でもバチが当たる、なんて言いますけど、どこまで本気で言っているのかわかりませんしね。そう思うと生まれ変わりのシステムを現世に伝えるのは、大切なことなんですね」
「それを担ってきたのが僧侶だな。出家者だよ。坊さんだ。が、最近の坊さんは、そういうことは説かなくなってきたな」
「まあ、下手に言うと、うちの先祖が罪を犯したっていうのか?、地獄へ行っているっていうのか?なんて言いがかりというか、クレームをつけられますしね。それに証明できないことですから、話しにくいですよね・・・」
「それだよ、それ。昔の坊さんは・・・ちゃんとした坊さんだけどな・・・ある程度の神通力を持っていたもんだ。亡くなった者がどこへ生まれかわったかわかるような神通力をな。だがな、最近は・・・」
夜叉さんの顔がゆがんだ。頭を横に振り
「何なんだろうな、日本の仏教界もな・・・」
と遠くを見るような目をしたのだった。
「いや、真面目に一生懸命やっている人もいますから。全部が全部、嘆かわしい坊さんばかりじゃないですよ」
「ま、そうなんだけどな。ふう、あそこが、畜生界への入り口だ。相変わらず、餓鬼どもが群がっているな」
夜叉さんは、乱暴に餓鬼たちを蹴散らし
「さて、今回は、どっちかな?。現実世界の畜生界か、精神世界の畜生界か。どっちへ行くのかな」
ニヤニヤしながらそう言って、光の中に入っていった。俺も慌てて後に続いた。

「ここは・・・」
「どうやら人間界へ来たようだな。ここはどこなんだ。う〜ん、どう見てもド田舎だな」
俺は周囲を見回した。全く知らない場所だ。しかし、風景は知っている。田舎の風景だ。そう、周囲は田んぼに山、ちらほらと民家がある。それだけだ。日が差している。時刻は昼頃のようだ。
「こりゃまた田舎に来てしまったな。なんでこんなところに・・・。俺は都会がよかったな。俺はあの都会の喧騒が好きなんだよ」
夜叉さんは、溜息をつきながらそう言った。夜叉さんって、都会が好きだったんだ。そんなイメージはなかったが・・・。
「なんでこんなところなんでしょうかねぇ。きっと理由があるはずですよね」
「おそらくな。どうせ、裏でコントロールしている奴がいるんだよ、きっとな。で、そいつの意図があるんだろ。ここで探索しろ、ということだろうな」
明らかに夜叉さんは嫌がっていた。気力を失くしているようである。
「どこへ行けって言うんだ? まっ昼間だし。周りは田んぼだし。田んぼなぁ・・・。えっ?、ウソだろ、おい。そんなの嫌だぞ。はぁ・・・」
夜叉さん、一体どうしたのか?。一人でブツブツ文句を言っている。挙句の果てには、頭を抱えだし
「あぁ、それは嫌だ、汚れるじゃないか」
などと叫んでいる。幸い、周囲には誰もいないからいいようなものだが、おっとどうせ誰にも見えないのだ。当然声も聞こえない。俺たちの存在は普通の人にはわからないのだ。
「一体どうしたんですか?。なにかわかったんですか?」
「おい、見ろよ」
夜叉さんは、田んぼを指さした。そこには水が溜まっている。水田だから当然だ。
「もっとよく見ろよ」
「水の中を・・・ですか?。あぁ、虫がいますね。あれは、アメンボですか?」
「お前はのんきでいいな。気付かないか?、あぁ、気付かないよな。神通力がないからな。えっ?、ってことは俺一人で行けってことか?。いやいやそれはないだろ。俺は案内人だし。主役は、コイツだし。ってことは・・・。おい、弥勒菩薩様の手形を出せ」
夜叉さんに言われるままに弥勒菩薩様の手形を出し、夜叉さんに渡した。夜叉さんは、それを受け取ると、両手に挟み目を閉じ、祈るような姿勢になった。
「ふん、そうか・・・。そんなこともできるのか。さすが弥勒菩薩様の手形だ。わかったよやりますよ、やりゃあいいんでしょ。まったく・・・。今回は貧乏くじだったと思うぞ」
そうぶつぶつ文句を言いながら、俺に手形を返してきた。そして
「手形を両手で挟め。そう、合掌するんだ。で、願うんだ。この環境に適応しますように、とな」
「えっ?、人間界ですから、もう適応してますよ」
「うるさいなぁ、いいからそう願うんだよ」
夜叉さんのいつもにない剣幕に驚きつつ、俺は言うとおりにした。すると、強烈な光が手形から出てきた。そしてそれは俺の全身を包んだ。
「やっぱりな。そうだよな。じゃあ、仕方がない、俺もそうするか」
声がする方を見てみる。
「えっ、あれ?、どうなっているんだ?、夜叉さんが・・・とてつもなくでっかい!。なんで?、えっ?」
「俺がでかくなったんじゃない、お前が縮んだんだ」
「えーーーーーー!」
俺はあわてて周囲を見回した。なんと、稲の下の方がものすごい大木のように見えている。地面に転がっていた石ころが、大きな山になっている。あっ、あれは
「うわー、あれ、アリですよ、アリ。やばい、アリに食われる」
「待ってろ、すぐに行くから」
そう夜叉さんが言った瞬間、強烈な光がさした。と思ったら、隣に夜叉さんがいた。
「はぁー、でっけーな。アリが象のようだ。相当小さくなったな」
そう言いながら、夜叉さんは、手のひらをアリの方へ向けた。何となくうっすらとした光が夜叉さん手のひらから出たような気がした。すると、我々の方へ向かっていたアリは、急に方向転換したのだった。
「今、何を・・・」
「神通力の一つだ。手のひらからな、気を発射したんだ。まあ、かめはめ波みたいなものだ」
「か、かめはめ波?。どういうことですか?」
「説明は面倒だ。ちなみに、小さくなったのも神通力の一つだ。さぁ、小さくなったぞ。これから畜生界、特に虫の世界の探索だよ!。やってられないぜ、くっそ〜!」
夜叉さんは、ヤケクソ気味に叫んだのだった。


落ち込んだ夜叉さんの姿を見たのは初めてだった。夜叉は、一種の神である。一応、神々の世界の存在だ。そんな神である夜叉でも落ち込むことがあるのだ、と俺は新しい発見をした気持ちになった。
「あのな、神であっても落ち込むこともあるんだよ。というか、何でそこまでしなきゃいけない?」
「どういうことですか?」
「お前はいいよな・・・。人間はのんきでいいよ。はぁ、この姿を見てさ、想像できないか?」
我々は、小さくなっている。アリが象のような大きさに見えるくらい縮んでいる。もっとも、俺は肉体がない存在だから、大きさは自由に変えられるのかもしれない。しかし、夜叉さんは・・・。あぁ、神通力の一つだとか言っていたな。その神通力で小さくなっている。おまけに、さっきはかめはめ波だとか言っていた。で、夜叉さんは落ち込んでいる。全く意味が分からない。
「小さくなったってことは・・・そうですね、アリより小さいんですから、畜生の世界の時に昆虫の世界を見てみろ、ということですよね」
「そういうことだ」
「それでなぜ落ち込むんですか? 昆虫の世界を昆虫目線で取材しろ、ってことでしょ? そうすればいいんじゃないですか?」
「お前はいいよ、お前はな。だけど、俺はな・・・疲れるだろ?汚れるだろ?・・・例えば、さっきのようなことがあるだろ?」
「アリが襲ってきたことですか?」
「あぁ、そうだ。あのまま放置していたら、お前はアリの餌食だ・・・。あ、それはないのか・・・。あぁ、俺としたことが、焦って混乱していた。いいか、お前は霊体だ。アリに襲われることはないのだ。しまった!助ける必要はなかったんだ。相手はアリだ。阿修羅の攻撃のようなことはないのだ。魂を消されるようなことはないのだ。あぁ・・・俺としたことが・・・」
そう言えばそうだ。それは霊体だ。ということは、現実世界のアリから見た場合、きっと俺たちは見えないはずだ。人間からも見えない存在だ。当然アリからも見えないだろう。ひょっとしたら、野生のカンで何となく存在に気付くかもしれないが、その程度だ。実際に食われることはない。アリが俺を咥えようとしても、スカスカだ。
「そういうことなんだよ。それなのに俺はお前を助けなきゃと思って、無用な神通力を使ってしまった。余計なエネルギーを消耗してしまったじゃないか。これも焦ったせいだな。いや、畜生道を見るだけだと思っていたのに、こんな田舎に飛ばさるから、そのせいだ。いいか、確かにお前の言うように昆虫の世界をまず見てみろ、ということだよ。落ち着いて考えてみれば、昆虫類は、お前や俺を食うことはできない。我々は霊体だからな。スカスカだ。その点は恐れることはない。しかし、タダ昆虫の世界だけを見る、それでは終わらないだろ? ここに田んぼがある。これは、ひょっとして水に入れということか? 水の中の生物も見ろ、ということか? それはないよな。それは嫌だろ。俺はな、水が嫌いなんだよ!」
夜叉さんは一気にまくしたて、最後に「もううんざりだ!」と叫んだ。よほど水が嫌いらしい。

「なんだか申し訳ないです。すみません」
俺は殊勝に謝った。いや、本当に何だか悪い気がしたのだ。
「いや・・・俺こそすまん。はぁ・・・これじゃあいかんな。一応、俺も神のはしくれだ。落ち着こう。ちょっと愚痴ってみただけだ。気にするな」
「いや、ホント、何だか悪いです。あの、田んぼは後にしましょう。あ、それに水に入るのは俺だけで大丈夫です。どうすればいいかだけ教えてもらえれば、俺一人で水に入りますから」
「うん、あぁ・・・まあ、そうだな。その時はその時だ。まずは、アリの方へ行くか」
夜叉さんは一回下を向くと、「ウン」と気合を入れて顔を上げた。その顔つきはいつもの夜叉さんに戻っていた。その様子を見てホッとした俺は聞きたかったことを口にした。
「あの、さっきのアレなんですか? かめはめ波みたいなものだとか言ってましたが。というか、夜叉さんってかめはめ波、知っているんですね」
「あぁ、あれな。まあ、かめはめ波みたいなものだよ。あの漫画はな、神々の間でも有名だぞ。神々の世界が登場しているからな。あの作者、よく研究しているぞ。仏教の宇宙観を参考にしているに違いない。だから、俺たちもあの漫画は見ていたんだよ。あっちの世界からな」
夜叉さんたちが、よく人間界を覗いているという話は前にも聞いた。しかし、漫画まで見ているとは・・・。
「ほかにもアニメは見ているぞ。まあ、言わないがな・・・。暇なんだよ、神々は」
「はぁ、そうですか。あ、で、そのかめはめ波なんですが・・・」
「あれはな、我々神々が使う念だよ。念力の一種だ。手のひらに霊的エネルギー溜めて発射するんだ。さっきアリに向けたのは、ごくごく弱い念だったからアリは方向転換したが、思い切りエネルギーを溜めて打てば、アリなんぞ消し去ることもできる。だけど、大量にエネルギーを使うんでやらないけどな。疲れるから。阿修羅王と帝釈天様が戦った時も、かめはめ波の打ち合いだよ。武器は使わない。殴り合いの肉弾戦もない。それが神々の戦いだからな」
「それって、エネルギーの強い方が勝つってことじゃないですか?」
「そういうことだな。あと部下の多さだな。部下たちのエネルギーを結集するからな。そう思えば、いくら阿修羅王でも、帝釈天には勝てないさ。エネルギーの量が違うからな」
「それでも戦いに挑んだ・・・あぁ、だから天界を追われ、あの地の世界に修羅界を作る羽目になったのですね。愚かな戦いを挑み続けているから」
「そういうことだ。身の程を知らないからそうなる」
「しかし・・・夜叉さんもいろい神通力を使えるんですね」
「当たり前だ。一応、神だぞ。神通力くらい使えるさ。魔神だったころは、破壊系の神通力は結構強かったんだぞ」
そう、夜叉という神は、元は魔神だったのだ。しかも人の肉を食う、人間を食う魔神だったのだ。一たび集団で暴れれば、人間なんてあっという間に食いつくされてしまうという恐ろしい神なのだ。お釈迦様に諭され、人間を食べることを止め、お釈迦様を守護する存在になった。そして今では、閻魔大王の配下にあり、天界で暇を持て余しゴロゴロしているのだ。時々人間界を覗いて・・・。
「ほかにも神通力ってあるんですか?」
「まあな。ま、これから見せることもあるだろうよ。というか、こうして縮んでいるのも神通力の一つだからな。修羅界の時、空中を飛んだのも神通力の一つだ。お前は、当たり前のように思っているかもしれないが、結構エネルギーを使うんだぞ」
そういえば、夜叉さんはチョコチョコ神通力を使っているようだ。人間界にいる餓鬼・・・俺の同僚にとり憑いた餓鬼・・・を追いかけているときも、タクシーに乗るために人間を操った。あれも神通力の一つだ。夜叉さんは、そのたびにエネルギーを消費していたのだ。
「えっ?、じゃあ、夜叉さんは、どこでエネルギーを補給しているんですか? 俺の場合は、たぶんですが、供養があるから補給できているんですよね?」
「そうだ、お前の場合は、自宅でお前の奥さんが線香やローソクをともし、お供えをしてくれているから、日々のエネルギーは補給してもらえる。その上、お前の先輩のお坊さんが、毎月お前の供養をしてくれている。これが大きいな。さらに、この間、そのお坊さんのお寺に行っただろ? これがまた大きい。あそこでかなりのエネルギーの貯金ができているはずだ」
そう、お寺に行くとぐっと力が湧いてくるのだ。ものすごくエネルギーをもらったという気分になる。
「じゃあ、夜叉さんも先輩のお寺でエネルギーを補給したんですか?」
「あぁ、確かにあそこで結構もらったよ。しかし、元々のエネルギーの蓄積量がお前らとは違うからな。俺にはエネルギーの貯金がたくさんあるんだよ。それに、一瞬でいいから天界に帰れば十分補給ができるしな。ま、心配はいらないんだよ」
何のことはない。エネルギーの心配はいらないのだ。神通力を使うとエネルギーを使う言ったのは、ちょっと文句が言いたかっただけなのだろう。実際は、それほど使ってはいないとみえる。そう思っていると、夜叉さんが横目で俺を睨み「フン」と鼻息を出しニヤッとした。どうやら俺の考えは当たりらしい。夜叉族の持っている霊的エネルギーは、相当な量があるのだ。ひょっとしたら、あっちの世界から仲間が供給しているのかもしれない。
「さて、こんなところでじーっとしていても始まらん。アリがいる方へ行くか」
そういうと夜叉さんは草むらの方へと歩き出したのだった。

アリがいる。そりゃそうだ。アリなんかはどこにでもいる。今の俺にとってアリは大きい。象のようである。それが十数匹ウロウロ歩き回っている姿は、意外に恐ろしい。しかも、動く速度が速い。いくら俺が霊体でアリに食われない存在であるとしても、やはり恐い。アリどもは、ちょこまかちょこまか歩き回っている。いつ何時、こっちに向かってくるかわからない。俺は完全にビビっていた。
「そんなにビビらくてもいいだろ。噛みつかれても平気なんだから」
「本当に平気なんですか? 何のショックもないんですか」
「うん、まあ、ほとんどないな。そうだなぁ、身体の中を風が通り抜けていくようなそんな感じはあるかも知れない。ちょっとぞくっとするというか、ぞわっとするというか・・・」
「痛くはない?」
「痛くはないだろ。っていうか、痛みは感じないはずだが」
まあ、そうだろう。暑いとか冷たいとか、臭いとかは感じる。今まで痛いと思ったことはない。地獄の中にいても耐えることもできた。すべては、弥勒菩薩様の手形のおかげだ。ということは、今回もきっと大丈夫だ。信じろ、と俺は自分に言い聞かせ、アリに近付いていった。
「おぉ、その調子、頑張れ!」
後ろで夜叉さんが、励ましているのか、からかっているのかわからないような声をかけてきた。そこで俺はふと気が付いた。
「あのー、アリに近付くのはいいんですが、それからどうすればいいんですか? 近付いて何か意味があるんですか?」
「うん?、あぁ、そうだな。まあ、お前さんが近付いても意味はないな」
「えー、じゃあダメじゃないですか。なんだ、じゃあこれ以上進まなくてもいいじゃないですか」
俺は口をとがらせ、そこで立ち止まった。アリとの距離はまだ結構ある。が、アリの方から近付いてきた。
「やば、近付いてきましたよ。やばくないですか?」
「おお、チャンスだ。もう少し近付いてくれないかな」
「ちょちょ、怖いじゃないですか。大丈夫ですか?」
「だから、食われないって。よーっし、いい距離だ。いいか、俺があのアリに神通力の術をかける。よーっくみとけよ」
そういうと夜叉さんは、俺たちの方に近付いてきたアリ・・・距離にして3メートルくらいだろうか・・・に手を向けると、何やら呪文のようなものを唱えた。その途端、アリは身体をクネクネしだしたのだった。アリが苦しんでいるようにも見える。しばらくしてアリはおとなしくなった。
「よし、これでOKだ」
「何をやったんですか? あのアリ、死んでませんか?」
「死んでないよ。あのアリの魂に働きかけ、前世の記憶を蘇らせたんだ。しかも、言葉が通じるようにした」
「そ、そんなことができるんですか?」
俺が驚いてそういうと
「そんなことくらい朝飯前だ」
と胸を張って夜叉さんは言ったのだった。
「さぁ、聞いてみな。お前が聞きたいことを聞いてみるんだ」
俺は疑いつつも、おとなしく動かないアリに聞いてみた。
「なぜアリになったんですか?」

質問が悪かったのか、アリは頭をかしげている。しばらく待っていると
「えっ、えっ?、いつの間に?・・・いつ俺はアリになったんだ? えっ?、どういうこと? えっ?、なに?、なんで?・・・」
どうやら混乱しているようだ。本人?、いや、そのアリ本体もなぜ自分がアリなのかわかっていないようである。隣で夜叉さんが笑いを必死でこらえている。どうやら質問が悪かったようだ。なんて聞けばいいのか・・・。そういえば、夜叉さんは前世の記憶を蘇らせたと言っていた。ならば・・・。
「えーっと、いいですか? あぁ、はい。あのね、あなたは、何らかの原因によってアリに生まれ変わったんですよ」
「生まれ変わった?・・・あっ、そうだ。俺、死んだんだ。そうだ・・・。確か、胸が苦しくなって・・・あぁ、何となく思い出した。救急車に乗ったんだよな。その間も胸が苦しくて苦しくて・・・。そのあと・・・あぁ、病院に運ばれたんだけど、間に合わなかったんだ。そのまま死んだんだ。確かそうだ。まだ30歳前なのに。女の子も知らないのに。死んじゃったんだ。うわぁぁぁぁぁ」
大きなアリが頭を振って泣き叫んでいる。それは、あまりにも滑稽で俺はドン引きしてしまった。
「まあ、落ち着いてください。その、お気の毒なんですが・・・。えーっと、30歳前だったんですか? 若くして死んだんですね」
泣き声が少し収まるのを待って俺は質問してみた。アリは泣きじゃくりながら話し始めた。
「そ、そうなんですよ。ひっく、まだ、まだ30歳前で・・・。29歳でした、ひっく」
「そうだったんですか。お仕事は何をされていたんですか?」
「し、仕事? そ、そんなものしてないよ。ひっく・・・。俺は・・・ひっく・・・社畜になんかならない、ひっく」
「ひょっとして引きこもり?」
「うるさい!、俺は好きで引きこもっていたんだ。いいか、働いたら負けなんだ!」
「あーそういうことですか」
どうやら、このアリの前世はニートの引きこもりだったらしい。
「いつから引きこもりを?」
「中学の時からだよ。文句あるのか!」
「いえいえ文句ないですよ。ほう、中学1年からずーっと引きこもりですか?」
「中学2年からだ。1年の時はちゃんと学校に行った」
「これは失礼しました。じゃあ、中2からずーっと引きこもりで。じゃあ、ずーっと29歳まで部屋の中ですか?」
「バカにするなよ、コンビくらい行ったよ」
「お風呂とかは・・・」
「風呂も入ったし、飯も食ったさ。くっそー、何で俺がアリなんだよ。あー、きっとあのクソババアもクソオヤジも俺が死んで清々しているに違いない。くっそー、何で俺ばかりこんな目にあうんだ!」
アリは頭を振り上げ、前足をぐるぐる回しながら叫んでいたのだった。


「いや、待てよ、何かおかしいぞ・・・。だいたい、何でお前は人間のくせに小さいんだ!」
このアリの人、というか引きこもりの青年、相当混乱していたらしい。そりゃ、混乱するだろう。気が付いたら自分がアリになっていたのだ。
「わかった、これは罠だな。いや、陰謀だ。お前、人間じゃないだろ。エイリアンだろ。で、俺をアリに変えたんだな。そうだろ?。いったいどういう魂胆で、俺をアリに変えたんだ? 言わないと踏みつぶしてやるぞ!」
一体何を勘違いしたのか、アリの青年?は、俺をエイリアンと思い込んでしまったらしい。まだ、混乱しているようだ。いや、現実が受け入れられないのか。まあ、それもわかる。自分がアリになった現実など受け入れられないだろう。エイリアンに変身させられたという話の方が、現実味があるかもしれない。
「いや、私はエイリアンじゃないですよ。人間・・・元人間です。というか、死人なんですけどね」
「何わけのわからないことを言っているんだ! 白状しろ、地球を征服に来たのか?」
いや、とんだ中二病だ。すっかりエイリアン扱いになっている。ゲームのし過ぎじゃないのか?と俺は思った。
「ゲームじゃないんだから。ちょっと落ち着いて・・・。いいですか、説明しますよ」
「う、うるさーい、この宇宙人め!、俺をもとに戻せ!引きこもりだって生きる権利はあるんだ!」
アリの青年は、前足をばたつかせ暴れ始めた。どうやら、俺を殴っているらしい。だが、俺は霊体だ。夜叉さんの言うとおり、殴られてもスカスカだ。アリは空振りするばかりだった。
「チクショー、当たらないじゃないか。やっぱりエイリアンだ。こうなったら、噛みついていやる」
アリの青年は、あのアリの顎で俺に噛みついてきた。俺は一瞬ビビったが、殴ることができないのだから、当然噛みつくこともできないと思い、じっとしていた。思った通り、アリは空振りを食い、俺を通り越していった。
「お、お前、超能力を使ったのか?。いや、わかったぞ、お前は3D映像だな。本体は別のところにあって、映像を俺に見せているんだな。そうだろ!」
俺は、面倒くさくなってきた。この引きこもりの元青年、今アリは、完全な中二病だ。話が全く通じない。仕方がないので、この中二病のアリの話に付き合うことにした。
「はぁ、仕方がない。バレたようだな。実は私は君たちがいうところの宇宙人だ。遠い星からやってきた。だが、この姿は、君が言った通り3D映像だ。本体はここにはない」
「やっぱりか。あははは、俺も鋭いな。で、お前らの目的は、やっぱりあれか?地球制服か?」
「いや、違う。う〜ん、いずれそうなるかも知れないが、今は調査段階だ」
「ふ〜ん、まあ、何でもいいから、俺をもとに戻せよ。お前らがアリにしたんだろ?」
「いや、違う。君の記憶はある程度は正確だ。君は死んだのだ。引きこもりの君は、恋愛も知らず、もちろん女性と性交渉も知らず、画像の世界のみで生きていたのだが、ある日、心臓発作を起こし死んだのだ」
「くっそー、やっぱり俺は死んだのか・・・。あぁ、せめて一度くらいはリアルにHがしたかった。童貞のまま死んでしまったのか・・・。あぁぁぁぁ」
「まあ、仕方がないだろう。運動もせず、PCとTV画面ばかり眺めて生活していたんだ。寿命も縮むさ。どうせ毎晩ポテチとコーラ、ピザとコーラで過ごしていたのだろ?」
「うるさーい!それの何が悪い!」
「だから、病気になるんだよ。どうせデブだったんだろ?」
「デブじゃない!。ポッチャリだ!あぁ、こんなことなら、もう少し外で遊んでおけばよかったなぁ。でも、外は怖いからな。オタク狩りにあったらやだしな・・・」
「オタクが集うところへ行けばよかったじゃないか」
「田舎にはそんなところはないんだよ!」
これだから、引きこもりのオタクとは話にならない。あー言えばこー言う、理屈ばかり並べて何も実行しない。田舎が嫌なら都会に出ていけばいいのだ。ただ、それだけのことではないか。このアリ、本当に怠け者だったのだ。
「くそー、だいたい、俺が引きこもりになったのは、アイツらが俺をイジメたからだ。イジメさえなければ、俺だって・・・」
「ほう、イジメられたのか?」
「あぁ、中1の頃に、デブオタ、ピザヤロウ、ってイジメられて・・・。オタクの何がいけないんだ。アニメ好きの何がいけなんだ。アイツらだって、アニメ好きなくせに!」
「度が過ぎたんじゃないか。やり過ぎだよ。少しは、遠慮すればよかったなじゃないか」
「だってぇ、俺が好きなアニメのキャラの悪口いうからさ、ついついカッとなって言い返したら、キモイって・・・。そんなムキになるなよって・・・」
いや、それはキモイだろう。ムキになって言い返すことではない。
「言い返しただけなのか?何かしたんじゃないのか?」
「ふん、お返しにあいつらの好きなアニメのキャラグッズを踏みつけてやった。怒り返してきたから、ムキになるよ、って言い返したら・・・」
「それからいじめられた。というか、無視されたんだな」
「そうだよ。何だ、お前、俺を観察していたのか?俺はサンプルだったのか?」
いやいや、よくある話だろうそれは。誰だって、気が付くだろう。このアリの青年、あくまでも自分の性格に問題があるとは思わないようだ。
「で、それ以来引きもりなんだな。13歳から30歳くらいまでか?」
「29歳だ。別に誰にも迷惑なんてかけてないよ。家でおとなしくPC見たりゲームしていただけだからな。ふん、バカみたいに働く方がおかしいんだって。親だって、別に手間かかってないだろ。食い物はお菓子とコーラでいいんだから。たまにピザだよ。その注文だって自分でしたし。迷惑はかけてない!」
働かずに引きこもっていて誰にも迷惑をかけていないと言い切れるとは・・・。一体何を考えているのだろうか。いや、何も考えていないのか。これではいけないとか、引きこもりから立ち直ろうとか、そんなことは考えたことなんてないのだろう。働いたら負け、と本当に思い込んでいたのだ。働かずに怠けていた・・・。そうか、だから働きアリに生まれ変わったのか。嫌でもせっせと働かされるアリになってしまったのだ。

「本当に働かなくてよかったのか?そう思っているのか?」
「そりゃそうだろ。なんで働かなきゃいけないんだ。親がいるから働かなくていいじゃん。親が食わせてくれればいいだろ」
「親がいなくなったら?」
「親の財産で食っていけばいいだろ」
「それが無くなったら?」
「その時はその時さ。死ぬか、生活保護だな。働いら終わりだよ」
「君は、完全にいかれているね」
「な、なんだと!。いかれているだと!。許せん、くっそ、お前が宇宙人だということを拡散してやる!」
「いいよ、どうやって拡散するのか知らないけれど、やってくれ。あぁ、ちなみに、アリになったのは、生きているときに働かなかった報いだよ」
「な、なんだと、報いだと?」
「今、働かなきゃいけないだろ?」
「あぁ、そうだよ。本当は動きたくないのに、勝手に身体が動くんだよ。毎日毎日、朝から夕方まで外で食い物を取ってこなきゃいけないんだよ。とってこないと巣に帰れない。巣に帰っても、ちょこっとの報酬がもらえるだけですぐに食い物探しさ。それにな、アリは危険なんだぞ、いつ踏みつぶされるかわからないからな。危険と隣り合わせなんだ」
「ほう、普段、そういうことを意識しているのかい?」
「意識しているというか、本能的にわかるんだ。本当的に恐怖を感じるんだよ。というか、いつも恐怖なんだ。いつも、動いていなきゃ、動かなきゃ怖い、怖い、怖い、怖い・・・そんな感じがするんだ」
アリは、何も感じず、何も考えないで生きているものだと思っていた。ただ、プログラムされた行動によって縛られているものだとそう思っていた。いや、アリだけじゃなく、昆虫なんてそんなものだと思っていた。意識もなければ、気持ちもない、心もない、ただただ、自然にプログラムされている本能に従って生きているものだと思っていた。が、そうではないらしい。アリにはアリの恐怖があるようだ。
「毎日が怖いんだよ。巣の中でじっとしていられたらどんなに安心か・・・。でも、身体が勝手に動くんだ。恐怖を感じつつも、動かなければ怖いし、動いて外に出れば怖いし・・・。毎日恐怖なんだよ」
そうだよなぁ、そうでなければ、罰の意味がない。昆虫は畜生道である。畜生道は、地獄・餓鬼に続いて下から3番目だ。悪い方の世界だ。つまり、何らかの罪を犯したからこそ、畜生道に生まれ変わったのだ。罰として畜生道に生まれ変わったのである。ということは、地獄や餓鬼の生まれかわったものと同様に、何らかの苦しみがなければならない。苦しみが無ければ、罰にならないであろう。しかし、この畜生道にもそれを教えてくれる者がいない。生きているときに罪を犯したから、畜生道に生まれ変わったのだ、ということを教え、どうすればいいのかと説教してくれる存在はないのだ。彼らはどうやって知るのだろうか?

「あぁ、ヤバイヤバイ。こんなところでじっとしてちゃいけない。食い物を探さなきゃ。あぁ、怖い怖い。ねぇ、アリからほかの生き物に変われないのかな?ずーっと死ぬまでアリなの?」
「うん、まあ、ずーっとアリだよね。死ぬまでね。死んでからは、別なものに生まれ変わるんだろうけどね」
「そ、そんなぁ、だって君らが変身させたんじゃないのかい?。なぁ、頼むよ。アリはもう嫌だ。他のに変えてよ」
「じゃあ、誰かに踏まれて死ぬことだな。そのほうが早いよ」
「そ、そんなのいやだ〜、踏まれるなんて・・・助けてくれ〜」
アリは、前足を振り回し、身体をよじり始めた。
「あぁ、ダメだ、行かなきゃ。怖いけど行かなきゃ。えー、何で動かなきゃいけないの?・・・なになに、生きていた時の報いでこうなったの?俺、何も悪いことしてないよ。なんで、働きたくないのに、働かなきゃいけない?。あぁ、嫌だ嫌だ・・・」
アリはもじもじしながら、少しずつ歩き始めた。彼のブツブツが声がまだ聞こえてくる。
「あぁ、働きたくない、働きたくない、嫌だ嫌だ、怖い怖い、あぁ怖い・・・」
「一体いつまでしゃべっているんだ?ほかのアリ仲間に避けられるよ」
俺の言葉が聞こえていないのか、アリは「怖い、働きたくない」を連発していた。
「はぁ、ダメだな、あれは」
「あれがダメなことには賛成だが、もう神通力は切れているよ」
突然、夜叉さんがぬーっと現れた。
「び、ビックリした〜。どこに行っていたんですか?」
「ずーっと近くにいたよ。お前が気が付かなかっただけだ」
はたしてそうだろうか?。俺がアリと話していた時、夜叉さんの気配はなかったように思う。ひょっとしたら、閻魔様のところへ帰っていたのかもしれない。まあ、何事もなかったから、特に俺は責めたりはしなかった。それよりも。
「もう神通力は切れているって、どういうことですか?」
「もう、会話はできてない。あれは、普段のアリの嘆きだ」
「じゃあ・・・」
「そう、彼らアリは、いつも嘆きの中で生きているんだ。彼らの意識は、働きたくない、怖い、死にたくない、それしかないんだよ」
それ以外、何もないのだ。アリの生活は、ただ単に、何も考えず、何の感情も持たず、ただただ動くままに生きている・・・というわけではないらしい。働きたくない、怖い、死にたくない、ただそれだけの意識は持っているのだ。その意識の中で嫌々働き、嫌々ウロウロ歩き回っているのだ。つまり、生きていること自体が嫌なのだ。嫌々生きているのである。それは辛いであろう。
「畜生道に生まれかわった場合の罰がこれだな。特に昆虫はな。嫌々生きているんだ。その比は、人間の比じゃない。人間だって、嫌々生きているヤツもいるけどな、それでも好きなものは食べられるし、好きなことはできる。とりあえず、選択の自由はある。その選択の自由があるにもかかわらず、自分から選ぼうとせず、人から与えられたまま行動し、不平不満を言い、自分には自由がないと主張しているバカがいるけどな。まあ、そういう者が、畜生道に陥るんだけどね」
「あの若者みたいに、働いたら負けとか言って、引きこもりになってもそれを改めようとせず、親に甘え、社会に不平不満を持ち、怠けて生きているからアリになってしまうんですね」
「そう、嫌でも働かなければならない」
「選択の自由もない」
「そう、本当の選択の自由の無いということを知ることになるんだ。人間であることの優位さ、幸福さ、それを知らなきゃいけないねぇ、人間はね」
「しかし、アリがあんなことを思って行動しているなんて、気が付きませんでしたよ。というか、誰もそんなこと気付きませんよ。聞こえませんし」
「そうだな。聞こえないことには、知られないからな。でも、アリの気持ちになって考えてみれば・・・あぁ、そんなことをするようなヒマ人はいないか」
「昔は、お坊さんが、怠けているとアリに生まれわかってしまうぞ、と話をしたのでしょうけどね」
「昔のお坊さんはな、それが仕事だったからな。それを伝えるお坊さんは、もういないな」
結局は、生まれ変わりとかを説くお坊さんがいなくなったことがいけないのだ。いつも行きつく先は同じだ。六道輪廻の法則とか、因果応報とかを解き明かす、そういう僧侶がいなくなったのがいけないのだ。アリの気持ちがわかるようなお坊さんが、今の世にはいないのだ。
「まあ、だからお前が取材をさせられているんだけどね」
俺と夜叉さんは、思わず見合ってため息をついてしまった。現代のお坊さんのさぼっている部分を、俺たちが補っているのかと思うと、溜息も出るものだ。
「ま、そういうことだ。さて次はと・・・」
「田んぼですか?、いいですよ。入りますよ」
「まあ、慌てるなよ。ぶらぶら歩こうじゃないか。俺たちは踏みつぶされることも無いのだし」
田んぼから目を背けた夜叉さんは、そう言って歩き始めた。俺もその横に並ぶ。
「そのうちに別の虫に出会うさ」
「じゃあ、草むらのほうがいいんじゃないですか?」
俺が草むらを指さすと、夜叉さんは嫌な顔をしたのだった。


「わかった!、わかりましたよ!」
「何がわかたんだ?」
いや〜な顔をして夜叉さんが言った。どうせ、俺の心を読んでわかっているくせに・・・。というか、わかっているから、あんな嫌な顔をするのか。口が完全にへの字になっているし、目は斜め上を見ている。ということは、俺の推察はあたりだということだ。
「夜叉さんは、虫とかカエルとか・・・オタマジャクシとかもですが、そうした昆虫類・爬虫類系が嫌いなんでしょ。そうでしょ」
俺がにこやかにそういうと、ムスッとした顔をして夜叉さんは言った。
「だとしたらどうなんだよ」
「まあ、どうっていうことはないですが・・・。夜叉族の方は、みんなそうしたものが嫌いなんですか?。それとも夜叉さんだけが嫌いなんですか?」
夜叉さんは、腕を組み、思い切り深い溜息を吐いた。
「まあ、嫌いな奴は多いな。虫嫌いは、確かに多いよ。爬虫類きらいもな。なかには、昆虫が大好きってやつもいるがな、少数派だな。そいつらは、死んだ昆虫を集めるために下界・・・この世界だな・・・にわざわざ降りてくる。夜中にコッソリな」
「昆虫採集とかしに来るんですか?」
「いや、生きている昆虫や生き物は採らない。殺生しちゃいけないんでな。だから、死骸だけだ。しかも、人間に虫が浮いているところを見られちゃいけないから、夜中に採りに来るんだよ」
「へぇ〜、あーそうか。夜叉さんたちの姿は、人間には見えないですからね」
「おかしな趣味だよな。あんなものの死骸を集めて何が楽しいんだか・・・。俺には理解できない」
夜叉さんはそういうと、「フン」と鼻息を出したのだった。
「俺はな、都会が好きなんだよ。こんな田舎は嫌いなんだ。虫とかカエルとか蛇とかいるだろ。おまけに野良猫までいる。俺はな、生き物が嫌いなんだよ。人間はな、利用しやすいからいいけどな、虫やカエルなんかは、利用する価値がないだろ。まったくつまらん。アイツら虫を見ていると、本当に虫唾が走る!。嫌いだ!」
夜叉さんは、都会の人間にくっついて、時には操って、都会をぶらつくのが好きなようだ。まあ、それも、閻魔様の許可を得てのことだろうから、それほど頻繁に人間界に来ているわけではないだろうけど。そうか、どうせ俺に付き合って人間界に来るのなら、できれば都会に行きたいのだ。だから、この田舎に降り立った時、めちゃくちゃ嫌な顔をしたのだ。今回は、まさに貧乏くじを引いたことになる。
「はぁ〜、虫好きなヤツと代わってもらいたいくらいだよ。なんで俺が・・・。夜叉族の中でも俺は特に虫が嫌いな方なんだよ。あー、嫌だ」
「すみませんねぇ。ご迷惑をお掛け致します。まあ、俺は別に虫もカエルも気になりませんから大丈夫ですよ。なんせ、田舎育ちですから」
そういう俺の顔を見て夜叉さんは、
「じゃあ、俺は遠巻きに見ているな。危険もなさそうだし。ま、せいぜいがんばれよ」
というと、ふっと空中に浮かんだ。遠巻きに見ているって、なるほど上から見ているわけだ。草むらの上、かなり上空まで夜叉さんは飛び上がった。神通力が使えるのは便利なものだ。
「ここから虫なんかがいるところを教えてやる。お前はそこへ移動しろ」
空中で胡坐をかいてエラそうに夜叉さんは言った。
「わかりました〜。指示してください」
と俺は大声を出して言った。いくら大きな声を出しても、どうせ人間には聞こえないから平気なのだ。
「そんな大声を出さなくても聞こえるんだよ。普通にしゃべればいい」
どうも生きているときの癖が抜けきらない。霊体なんだから、大声を出す必要などないのだ。いや、別に声を出す必要もない。思えば通じるのだ。
俺は、「はいはい、了解です」といいながら、歩き始めた。

「こっちでいいんですか?。何かいますか?」
「あぁ、そっち方向でいい。うえ、嫌なヤツがいる。草の中にあんなもの張りやがって」
「何がいるんですか?」
「クモだよクモ。あんなところに網を張っている。網に引っかかるなよ・・・あぁ、平気か。すり抜けられるよな」
「霊体ですからね。で、そのクモに出会ったら、また神通力をそのクモにかけてくれるんですか?」
「ち、しょうがねぇな。あぁ、かけてやるよ。会話ができるようにな」
俺は安心してまっすぐ進んだ。周りは草むらだ。草しか見えない。草と草の隙間を進んでいくのだ。きっと夜叉さんは、こういう草の中を歩くことすら嫌なのだろう。
草の裏側に小さな虫がついている。小さいと言っても、今の俺の大きさからすれば大型犬くらいの大きさはある。いったい何のか立ち止まって見てみた。なんだ、この生き物は・・・。
「あぁ、そいつらは草の裏側についているダニの一種だ。ハダニとか言われているやつらだろう。そいつらは、話しかけても無駄だぞ。神通力をかけてもダメだ。だから無視しろ」
「えっ?、そうなんですか?。ノミとかダニに生まれ変わるものもいるって前に言ってませんでした?」
「あぁ、そういうヤツもいるな。ダニやノミ、ミジンコなどの中には、人間の生まれ変わり・・・地獄や餓鬼から這い上がって来た者・・・もいるにはいる。少数派だけどな。だが、大半はそうじゃない」
「そうじゃないって、じゃあ、誰の生まれかわりなんですか?」
「実はな、昆虫の世界は特別でな。いや、昆虫というとよくないな。昆虫の中でも極小サイズのものだな。それとな、昆虫だけなじゃなく、水生生物のなかでも極小サイズのものは、別枠なんだよ。必ずしも人間の生まれ変わりとは限らないんだ」
「えっ?、どういうことですか?、意味が分からないです」
「まあ、そうだろうな・・・。う〜ん、どう説明すればいいか。お前が神通力が使えれば簡単なんだがな。面倒くさいなぁ・・・」
「すみませんねぇ。言葉で言ってもらえないと分からないです」
ちょっと嫌味を込めて俺は言った。嫌みは通じないけど・・・。夜叉さんは、「ちょっと考える」といって、黙り込んだ。仕方がないので、俺はクモと出会うまで、草をかき分けとぼとぼと歩くことにした。

「あのな」
いきなり夜叉さんが話始めた。
「びっくりするじゃないですか。急になんですか?」
「あぁ、悪い。いや、さっきの生まれ変わりの話だ」
「えっと、昆虫や水生生物の中の極小サイズの場合、ですよね?」
「そうだ。昆虫・水生生物の中の極小サイズのもの・・・昆虫系ならダニやノミ、シラミなんかだな。水生生物の場合はプランクトンにミジンコに・・・まあ、そんなやつらだ」
「大雑把ですね」
「いいんだよ、大雑把でも。とにかく、極小の生き物だ。そいつらは、必ずしも人間の生まれ変わりではないんだよ。何でもかんでも人間の生まれ変わりとは限らない、ということだ。人間から直接というだけでなく、人間から地獄・餓鬼を経てきた者も含めてだ。元人間といったほうがいいかな?」
「はい、わかります。人間から直接生まれ変わった者、地獄や餓鬼を経て生まれ変わった者、という意味ですね?」
「そうだ。この現実世界の極小サイズの生き物は、必ずしもそうした元人間の生まれ変わりとは限らないんだよ。たまに、人間からダニやノミなるヤツやミジンコになるヤツもいるけど、そういうのは少数だ。大半は違うところからきている魂だ」
「違う世界?。異世界ですか?」
「お前、異世界っていうけど、どんな世界か知らないだろ?」
知らない。ちょっと言ってみただけだ。
「知りませんよ。どんな世界なんですか?。魂がそこから来るということは、魂のストック場所みたいな世界ってことですか?」
「ほう、そうだな、そういうことなんだよ」
俺が言ったことは当たっていたらしい。とはいえ、わかって言ったことではない。あてずっぽうで言っただけだ。
「異世界・・・精神世界だな。天界や地獄・餓鬼・修羅がある世界だ。畜生界の世界もある。現実とは別の畜生界だな。そうした精神世界には、仏様の世界もある。佛・菩薩の世界だな。そうした精神世界は、いわばすべての魂が集う世界でもある。その中で、魂の根源的な世界もあるんだよ。魂が生まれる場所だな」
「魂が生まれる場所・・・。魂の根源的世界・・・」
「そうだ。すべての魂は、そこから生まれてくる。全宇宙の生命体の魂は、すべてがその魂の根源的世界から生まれてくるんだ」
「その・・・つまり・・・なんて言っていいのか・・・。えっと、すべての魂の大元の世界があるんですね」
「そう、あるんだ。理解できなくてもいい。ある、と思え。あるのだから仕方がない、と思え。理屈も理由も抜いておけ。あるものはあるのだ」
「は、はい、わかりました。ということは、俺も元はその場所からやってきた・・・ってことですか?」
「そうだな。何千年か前にな。何百年前かも知れないが」
「その魂の根源的世界からこの世界・・・現実世界にやってくるんですか?」
「そうだ。たまたま、この地球という世界に細胞ができた。単細胞だ。それは器だ。その器に魂の根源的世界から一つの魂が宿るのだ。で、生命体となる」
俺は黙って考えてみた。そして想像してみた。魂の根源的世界から一つの魂・・・光の珠だ・・・がこの地球の海で生まれた単細胞に飛び込むさまを。
「器は地球産、中身・・・魂・・・は根源的世界産、ということですね」
「そうだ。で、その単細胞は成長していく。進化していく。そのたびに新たな器が生まれる。その時は、すでに前の単細胞の魂があるから、それを利用すればいい。新しい器に、前の魂を入れればいいのだ」
「あー、なるほど・・・。例えば、10個の単細胞があって、その単細胞総てが進化します。進化するには、死を経るわけですね。つまり、単細胞は一回死んで次の生命体になるのですね。で、その生命体の魂は、前の単細胞の魂を使えばいいのですよ。そうすると、10個の単細胞の魂は、生まれかわった・・・進化した・・・10個の新たな生命体の中に入ればいいということですな。そういうことですね?」
「そうだ。その通りだ。だが、最初は10個の単細胞だったかもしれないが、そうした生命体は増えていくだろ?」
「増殖します。となると、魂は足りません」
「だから、足りない分を魂の根源的世界から補充することになる」
「あっ、そういうことか。昆虫の世界、イヤ、地球の生命体の世界、と言ったほうがいですね。この地球上の生き物の世界の中の極小サイズの生き物の中には、何かの生まれかわりだけでなく、魂の世界から補充されている生命・・・魂もある、ということですね」
「そういうことだ。わかりが早くてよろしい」
「じゃあ、日々、魂は補充されているんですね」
「そうだな、補充されている。でないと、器は増えるが中身がない、ということが起きてしまうからな。つまり、地球上の魂は一定量ではない、ということだ」
「新規の魂もいる、ということですね。そうすると、さっきの葉の裏のダニの中にも新規の魂のダニもいるかもしれないってことですよね」
「そうだ。だから、神通力をかけて話しても無駄になる。しかも、魂の根源的世界から来たばかりの魂は、神通力をかけても無駄だ」
「えっ?、なぜですか?」
「まだ、この地球に来たばかりだから、言葉も知らなければ、智慧もない。知識もない。蓄積されているはずの記憶もない。なんせ、魂の根源から来たばかりの魂は、まっさらだからな。予備知識も記憶も何もないのだから」
「そういうことですか。なるほど、それじゃあ、話しかけても無駄ですね」
「ごくまれに、ダニに生まれ変わってしまった元人間もいるがな。そんなのは稀だ。お釈迦様くらいしか見つけることができないよ」
「お釈迦様は、元人間のダニを見つけられるんですね」
「もちろんだ。仏陀の神通力は俺たちの比じゃない。とんでもない神通力だからな。宇宙と一体化したことによって得た神通力だからな。だから、宇宙の中のことはすべてわかるんだ」
それが仏陀なのだ。仏陀とは、宇宙と一体化した生命なのだ。
それにしても、魂の根源的世界があるとは。しかも、すべての生命の魂は、すべてそこから来ているのだとは・・・。驚きである。いつかはその世界を見ることができるのだろうか?
「覚ればな、見ることはできる。俺たちのように神通力を持った存在でも見ることはできる。近付くことはできないがな。遠くから眺めるだけだ」
「近付くことができるのは仏陀のみなのですね?」
「そうだ。まあ、天界の住人になって、神通力の修行をしっかりしてだな、特別な天界の人になれば、見ることはできるよ。ちなみにお前の先輩のおじいさんな、あの・・・嫌な坊さん・・・は、見ることができるんじゃないか」
夜叉さんは、なぜか「嫌な坊さん」を小声で言った。まあ、小声で言いたくなる気持ちはわかる。きっと、今もこの会話をどこかで聞いているに違いない。で、ニヤニヤしているのだ。確かに嫌な坊さんかも知れない。大した人物ではあるが。
「そういうわけで、ダニやミジンコに話しかけても無駄だな」
「いやいや、魂の補充があるということは、ダニやミジンコだけでなく、どんな生き物でも前の記憶がない生き物がいるってことですよね。純粋に、極小サイズの単細胞→ダニやミジンコクラスの生き物→アリなどの小さい虫類→昆虫類・・・って感じになるんじゃないですか?。虫でも人間から虫になったものもいれば、地獄や餓鬼から這い上がって来たものも言えれば、魂の世界からやってきたものもいる、ってことですよね」
「いいところに気が付いたな。そうだ、畜生の世界でも、特に昆虫類などのような小さい生き物は、魂の世界から進化してきたものも多くいる」
「じゃあ、そういうのに当たったら、話しかけても無駄じゃないですか?」
「そうだな。それは当たってみないと分からないことだ。さっきも言ったように、お釈迦様なら事前にわかるが、俺たち程度の神通力じゃ、事前にはわからない。神通力をかけて初めて判断できることだ」
「相手に神通力が通じなければ、そいつの魂は元人間ではなくて魂の根源的世界から補充された魂だということですね」
「そういうことだな」
「ということは、さっきのアリはラッキーだったんですね」
「あぁ、ラッキーだったんだ。まあ、生き物も大きくなるに従い、元人間が増えてくるんだけどな」
「そうしたものですか?」
「補充される魂は、そんなに多くはないからな。地球上で輪廻している魂の方が圧倒的に多いからね。おっと、そろそろ、クモのお出ましだぞ」
話に夢中になっていて、気付かなかったが、前方にクモの巣が見える。普通の人間サイズから見れば、気付かないほどのクモの巣だ。普通なら踏みつぶされてしまうだろう。そんなクモの巣だが、今の俺には、大きなクモの巣である。俺の身長と変わらないくらいの高さがある。葉っぱを利用して縦長にそのクモの巣は作ってあった。クモの巣の隅っこに中型犬くらいの大きさのクモがいた。さて、このクモは補充組なのか元人間なのか・・・。
「クモがいました。隅っこでじっとしてます。会話ができるようにしてくださいよ」
「ふん、仕方がないな。やってやるよ」
夜叉さんは、アリの時と同じように呪文のようなものを唱えたのだった。

つづく。


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