あの世の旅

第2部 六道輪廻編

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「天界へ行けるって・・・ここから天界へ行けるんですか?」
「あのな、下へ落ちることもあるんだ。上に上がることだってあるだろ? それが道理だよな」
俺の方に向けた夜叉さんの顔は、「お前はアホか」と言っているような表情だった。
「あっ、まあ、確かにそうですね。でもそれって難しくはないんですか?」
「まあ、そうだな・・・。まず、ここで真面目に仏教を学ぶことだな。そして、子孫からの供養が怠りなくあること。この二つがそろわないと、天界へは行けないな」
ここでも子孫からの供養が関わってくるわけだ。子孫からの供養がなければ、下の世界・・・修羅なのか畜生なのか餓鬼か地獄か・・・へ落ちることがある。しかも、真面目に仏教を学ばないといけない。
子孫からの供養が怠りなくあり、自らも真面目に仏教を学べば天界へ行けることもある。まさにここは待機所なのだ。
「天界へ行ける子孫からの供養って、どれくらいのものなのですか?」
「供養の頻度か? そうだな、先祖代々之供養に加え、亡くなった人の供養を月一回のペースで行うこと、あわせて年忌供養・・・法事だな・・・を怠らず行うこと。あぁ、たまに法事をまとめて行う寺があるが、あれはよろしくないな」
「法事をまとめて行うって・・・」
「たとえばな、今年は春に7回忌の人がある、秋には13回忌の人がある。じゃあ、7回忌に合わせて13回忌の人も一辺に供養してしまおう・・・。これはダメだ。7回忌は7回忌、13回忌は13回忌で、分けないといけないな。亡くなった月が一緒ならばいいが、月が違うなら別々に供養した方がいいな。また、法事の場合、命日より遅れて供養を行うのもよくないな。一般的に命日の一ヶ月前くらいから命日の間に供養を行うのがいいな。一般の先祖供養、月に一回の先祖供養ならば、命日にこだわる必要は無いけど、法事・・・年忌・・・の場合は、命日に注意した方がいいな。そういう心遣いも大事なんだよ」
「ちゃんと一人一人、亡くなった命日に合わせて年忌供養をした方がいい、ということですね」
「その通り」と夜叉さんは、うなずいたのだった。

「まあ、天界へ行くと言っても、下の方だろうけどな」
「下の方?」
「天界は広いんだ。世界も多い。俺でも行ったことのない世界もあるくらいだ。その下の方にしか行けないんだよ。一辺に高いところへは上がれないからな。下から一歩一歩進むんだ。何にしても同じだろ? なんでも少しずつ積み上げていかなきゃモノにはならないよな」
「まあ、そうですよねぇ。しかし、そう思うと何だか虚しいですね。生きているときもコツコツ積み上げていって、で、死んでからもコツコツ積み上げていくって・・・。じゃあ、一体いつ休めるんですか?」
「そりゃ、簡単さ。休み方を覚えればいいんだ。生きているときだって、休むだろ? 息抜きはするだろう。それが下手なヤツは辛いだけ、ってことだろ。うまく息抜きすれば、そんなに苦しくはない。要は、バランスさ。仕事をする、勉強をする、コツコツ積み上げる・・・それと同時に息抜きもする、リフレッシュする。そのバランスが大事なんだよ」
「はぁ、まあ、そうですね、バランスですね」
「そう、それが大事。この待機所の世界だって、息抜きをしている者はいるし、天界だって息抜きはする。というか、天界は基本的に快楽の世界だからな。結構、楽しい世界だよ。たとえ一番下の天界であってもな」
「天界は快楽の世界なんですか?」
「あぁ、そうだよ。まあ、その快楽を得るにも努力は必要だがな。初めから快楽が与えられているわけじゃない。まあ、基本的ベースは違うけどな」
「基本的ベース?」
「お前は、考えないのか? 少しは自分で考えろよ。地獄は基本が苦の世界だろ?」
「あ、あぁ、そういうことですか。そうですね。基本が違いますね。地獄は基本的に熱くて苦しい世界でした。普通でいるのが辛い世界ですね。餓鬼は猛毒の世界でしたね。夜叉さんすら長居したくないくらいの猛毒でしたね。畜生は生き物が争う世界だし、いたぶられる世界でもありました。修羅はやっぱり環境は悪くて暑苦しい世界でした。イライラしやすかったですね。そうか・・・、ここは環境はいいですよね。暑くもなく寒くもなく。明るいし」
「そういうことだ。天界は、基本的にウキウキする世界なんだよ。そういう環境なんだ。ここは、確かに環境はいいけど、ちょっとピリピリしているだろ。そうだな、優秀な予備校の教室というか、受験会場というか・・・。そんな緊張感があるだろ」
確かに夜叉さんの言う通りだった。ここにいる人たちは、単に真面目なだけなく、どこか受験生のような緊張感が漂っているのだ。
「そりゃな、下手すりゃ下に落ちることもある。必死にもなるよな。ああやって肩叩きを実際に見ちゃうとさ、次は俺じゃないか、私じゃないか、とも思うだろ。子孫はちゃんと供養してくれるだろうか、という心配もある。緊張感も漂うよな」
そう、ここも決して安楽な世界ではないのだ。常に下に落ちるかも知れないという不安がつきまとっている世界なのだ。
「待機所も、決して安心できないんですね」
「ここにはここの苦があるんだよ。その苦をなくすには、まあ、悟るしかないな」
「でも、それって・・・」
「まあ、無理だな。あとは、苦を受け入れる、かな。ほら見てみろよ。ああやってのんびりしている者いるだろ」
夜叉さんが指さした方にいたのは、一人のおじいさんだった。そのおじいさん、縁側に座ってニコニコしながら外を眺めている。仏教の勉強をしているわけではない。ただ、外を眺めているだけだ。一体どういう心境なのだろうか?
「あのじいさんに直接聞いてみればいいだろ? お前さんの足りない智慧で推理しても答えは出ないぞ」
俺は一瞬ムカッとしたが、確かに俺の智慧は足りない。それは事実だ。夜叉さんの言うことは間違ってはいない、いないが、ムカつく。が、怒っては負けなので、俺はおじいさんの方に向かった。

「あの、ちょっといいですか?」
「うん? なんじゃね? 珍しいですね、誰かが話しかけてくるなんて」
「そうなんですか? 話しかけてくるってことはないんですか?」
「あぁ、ないですねぇ。みんな勉強に忙しいですから。自分だけは下へ落ちたくない、と思っていますからね。そうですな、さっきみたいに天界へ行く人がいると拍手をしたり『よかったですね』なんて声をかける者もいますが、心の中は複雑でしょう」
俺は、そのおじいさんの隣に座った。
「一応、会話はできるんですか?」
「できますね。ここへ来たばかりのころは、挨拶する者もいるし、いつ亡くなったのかとか、どうやって死んだのかとか、家族はとか聞く者もいますが、まあ、そのうちに会話しなくなりますな。そういう雰囲気じゃないですしね。みんなピリピリしているんですよ。ちょっと空気が重いんです。わたしゃ、ちょっと苦手でしてね、ああいう空気が。できれば、こうして話をして和気藹々としたいんですけどねぇ。それは無理かな・・・・」
そう言っておじいさんは、遠くを見つめたのだった。見えるのは、延々と続くお花畑である。
「こうして花を眺めていてもね、いつも一緒でしてね。花の景色は変わらないんですよ。季節感がない。なんだか、つまらないですねぇ。季節の移ろいや人の温かみ、そんなものはここにはないんですな。寂しいし、虚しいですなぁ」
「ここは長いんですか?」
「長い・・・・? さて、長いのかな? それとも・・・ついこの間のような気もするし。あぁ、でも、ここに来た頃には、私も仏教書を読みあさりましたねぇ。もう今じゃあ読みませんけどね。そう思えば、長いのかも知れませんな」
「仏教書は読まないんですか?」
「えぇ、もういいんですよ。書いてあることは同じですからね。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦・・・・。だが、悟れば常楽我浄。何ものにもこだわることなく、ただただ空を行く雲の如く、流れる水の如く生きる・・・・。空気と己の境をなくし、一体渾然となる。行き着く先は、皆同じですな。それしか書いてない。確かに、そこに至る方法は、いろいろ書いてはあるが、難しいんですよ。そう思ったら、仏教書は読めなくなりました」
「はぁ、そういうもんですか」
「えぇ、だから、こうして変わらぬ花を眺めているんですよ。ボーッとね」
「おじいさんは、供養とかしてもらっているんですか?」
「供養? あぁ、私には子孫はいません。連れ合いもいませんでした。だから、懇意にしていた住職に永代供養をお願いしてあったんです。わしが死んだら頼む、とね。まあ、そのおかげでここでこうしていられるのかも知れませんな。そうか・・・、そう思うと、ここにいるのも長いのでしょうな」
そう言っておじいさんは、遠くを見ている。その目には、このお花畑が映っているだけなのだろう。・・・・ちょっと待てよ。夜叉さんが言っていたじゃないか。ここはイメージの世界だと。俺にはお寺のように感じられるが、人によっては、オフィスのようだったり、教室のようだったり、体育館のようだったり、講堂のようだったりと、それぞれ感じ方が違うのだ。おじいさんが見ているお花畑と俺が見ているお花畑は、決して同じではないのだ。そのはずだ。なぜなら、この世界はその人自身のイメージで変わるからだ。

「あの、変なことを聞きますが、おじいさんの目には、お花畑が見えているんですよね?」
「えぇ、そうですよ。きれいな色とりどりの花が咲いていますけどね、あれ、変わらないんですよ。まるで絵ですな」
「えっ?、色とりどりの花?」
「そうですが、何か・・・? おや、そういえば前にもこんなことが・・・。私が見ているものは、私にしか見えないとか・・・」
「そうなんですよ。ここは、その人の心のイメージというか、思いに合わせて変わってくるらしいんですよ。私に見えるお花畑は黄色なんです。一面、菜の花畑なんですよ。それはたぶん、お花畑と言えば菜の花畑という思い込みが自分にはあるからだと思います」
おじいさん、そのときおやっという顔をしたのだった。
「あっ、そう・・・そういうものなんですか? でも、今座っているところは縁側ですよね?」
「それは同じです。縁側です。古い大きなお寺の広縁っていうんですか? そういう縁側です」
「おやおや、私は田舎の座敷によくある縁側に座っていますが。目の前にあるお花畑も色とりどりですが、その向こう、遠くには雪山が見えています」
「そ、そうなんですか? 私には、ただただ延々と続く菜の花畑ですが・・・。想像力の違いかなぁ」
「いえいえ、きっと私が育った故郷のイメージなんでしょう。小さい頃に住んでいた家なんです。あぁ、そういえば、みんな感じ方が違うから、話が合わないと言って会話ができなくなったんです。そう、ここでは無駄な話ができないんですよ。共通の話題は、仏教のことだけ。それ以外、会話することがないんです。だから、自ずと話さなくなるんですな。そうか・・・イメージか。忘れていました」
「そう、イメージなんです。ならば、自分のイメージを変えれば、見えているものも変わるってことですよね」
俺は、単に思ったことをつぶやいただけだった。だが、そのつぶやきにおじいさんは、
「そうか、そうだったんだ!。ありがとう君、ようやくわかったよ。己の目で見ているものは、己の心の反映なんですよ」
と言って、興奮気味に叫んだのだ。俺はビックリして周りを見回した。やはり、おじいさんの大声に反応してみんながこちらを見ていた。その目は、「うるさいな、何なんだ」という抗議の目だった。しかし、おじいさんは何もかまわず、穏やかに話し始めたのだった。
「分かりましたよ。私たちが見ているものは、真実の世界ではないんです。私が見ていた変わらないお花畑も、あなたが見ていた菜の花畑も、いずれも心を映しただけであって、真実ではないのです。ということは真実の心を持てば、真実の世界が見えてくるのです。その真実の心とは、無なんですよ。ということは、見えるものなんて何もないのです。すべては無。何も感じないし、何も見えないし、何もない。無いと言うことも無い。あぁ、ありがとう。私は今、至ったのです」
そう言ったおじいさんの姿は、光り輝いていたのだった。

目映いくらいの光だった。その光がスーッと消えると、おじいさんの姿はどこにもなかった。
「あ、あれ? おじいさん? どこに行ったんですか? おじいさん?」
俺は縁側を降りて立ち上がり、外からおじいさんの姿を探した。が、どこにもおじいさんは見つけられなかった。
「一体どこへ・・・。ひょっとして天界へ行ったのかな? あ、でも、迎えのお坊さんは来てなかったし・・・」
「あのおじいさんは、悟ったんだよ。輪廻から解脱したんだ」
「えっ? あっ、夜叉さん」
いつの間にか、夜叉さんが横に立っていた。
「悟ったって・・・・」
「悟ったんだよ。ここで座って、まあ、いろいろ思っていたんだろうな。で、お前さんの言葉がきっかけになって、分かったんだ」
「分かったって・・・」
「何が分かったか、なんて口では説明できないな。だが、あのおじいさんは、分かったんだよ。一人で勝手にわかっちゃったんだな。今まで学んできた仏教書に書いてあることが実感できたんだろ。で、悟った。一人で勝手に悟ったから、縁覚という世界へ行ったんだ。そこは、輪廻から外れた世界だ」
「輪廻から外れた世界。そんな世界が・・・」
「あぁ、そうえいば、お前さんは六輪廻の世界を取材しているんだったな。いいか、世界は、六道だけじゃない。その上にもあるんだ。だが、その上の世界は、悟った者にしか行けない世界なんだよ」
「悟った者にしか行けない世界?」
「あぁ、そうだ。はぁ、面倒だけど、教えてやるか」
「はい、ぜひお願いします」
俺はそう言って夜叉さんに頼んだのだった。


「世界は、六道だけじゃないんだよ。その上があるんだ」
夜叉さんは、外を眺めながらそう言った。
「六道の上の世界、それは解脱した者だけが行ける世界だ。俺も行けない世界だな」
「夜叉さんも行けない世界?」
「そうだ。すべてのこだわり、欲、思い、そうしたものから解放された者だけが行ける世界だ。六道の輪廻から外れた世界だからな。もう生まれ変わることはない世界だよ」
「それは・・・」
「地獄から餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの世界は、生まれ変わる世界だろ」
「はい、そうですね。その世界をいろいろと生まれ変わっているんでしたよね」
「そうだ。だが、その上の世界は、もう生まれ変わらない世界だ。二度と生まれ変わることのない魂だけの世界になるんだよ」
「真実の精神世界ってことですか?」
「そういうことだな。だから、おいそれと簡単には行けない世界なんだ。一切の欲を超越し、一切のこだわりや執着をなくし、自らが空となっていないと行けない世界だな。あのさっきのジイサンは、自らが空となったのだろう。もう欲とはかけ離れたような感じだったしな。お前の言葉がきっかけで、空を体得したんだ」
「で、その解脱の世界へ行ったのですか? もう二度と生まれ変わることがない世界へ」
「そういうことだ」
「そ、そんなに簡単に行けるものなんですか? 俺の言葉がきっかけ程度で・・・」
「いや、きっと、それまでに精神的に高いレベルに達していたんだろうな。あとは、ほんの一押しが必要だったんだろう。こんなことは稀だよ。あのジイサン、よほど修行していたんだろうな。まあ、解脱したとはいっても、きっと縁覚だろうしな」
「縁覚? それは・・・」

夜叉さんは、俺の方へ向き直って話し始めた。
「解脱の世界にも段階があってな。一番上が、まあこれは仏様の世界だ。完全なる悟りを得た仏陀の世界、如来の世界だな。そこには、当然誰もいけない。選ばれし者しかいけないな。次にその世界に行くのは、弥勒菩薩様だ。弥勒菩薩様が、弥勒如来となったとき、この宇宙の最高峰の世界・・・仏界・・・に到達するんだ」
「仏界ですか。それは仏陀の世界だから、もうそれ以上はないんですね」
「そうだ、それ以上はない。で、その下が菩薩の世界・・・菩薩界だ。ここは、まあ、ものすごく修行すれば、人間界からでも行けなくはない、かな。まあ、難しいな。でも、可能性が無いわけでは無いな。生きたまま、菩薩のような生き方をすれば、死後菩薩界へ行けるしな。もっとも、生きているときに菩薩のような生き方なんてのは、無理だけどね」
「人間が菩薩のように生きるなんて無理ですよ。まねごとすらできないでしょう」
「まあ、そうだな。菩薩界は慈悲の世界だからな。慈悲心の塊にならなければ行けない世界だ。ただ、この菩薩界は特殊でね。救いたい、という欲望は強く持っているんだ。困っている人を救いたい、迷っている人を救いたい、自分を犠牲にしてでも救いたい、そういう欲望は強くある世界が、菩薩界だ。しかも、数多く、できるだけたくさんの人々を救いたいと願っているんだ。そういう気持ちを持てば、人間からも行ける世界だな」
「そりゃ、無理ですよ。そんなのはできません。人間は個人の欲がありますから」
「まあ、そうだな」
そう言って、夜叉さんは、「ふははは」と笑ったのだった。声を出して笑うとは、夜叉さんにしては珍しいことだった。
「ま、菩薩界と言えば、観音様やお地蔵様、文殊菩薩様、普賢菩薩様など、有名な菩薩様のいる世界だな。でもな、この菩薩の世界にも段階があって、有名な菩薩様、お前らでも知っているような菩薩様だな、そういう菩薩様は、菩薩界でも最上位にいらっしゃる。で、菩薩界の下の方は、もと人間・・・まあ修行僧だな・・・という方もいらっしゃるんだよ。だから、絶対に行けない世界では無いな。生きている内にせっせと菩薩行に励めば、もしかしたら行ける世界だ」
「先輩なんてどうなんでしょうか?・・・あぁ、でも、あの人は口が悪いから無理か。菩薩って感じじゃないですもんね」
「怒られるぞ、お前。まあ、可能性はない、とは言わないが、本人は無理と言うだろうな。行きたくもない、というかも知れないし」
あの先輩なら、そう言うだろう。人を救うなんておこがましい、と日頃思っているようだし。たまたま、そういう能力があったから坊主をやっているだけだ、と言っている人だ。積極的に人を救おうなんて思ってもいないのだろう。
「先輩らしくないですしね」
俺の言葉に夜叉さんは、うんうんと何度もうなずいたのだった。

「菩薩界の下が、縁覚という世界だ。さっきのジイサンは、そこに行ったのだと思う。縁覚は、何かがきっかけで、ハッと悟った人が行く世界だ。修行をしていて、理屈ではよく分かっているんだが、あと一歩何かが足りない、う〜ん、もどかしい、と言うような状態で、ちょっとしたきっかけによって、『わかった!』となれば、それが縁覚の世界だな」
「あぁ、ということは、さっきのあのジイサンは、本当に分かるところまでいっていたのですね」
「おそらく、口ではうまく表現できないが、精神的には、ほぼほぼ悟りに近い状態だったんだろう。あと一押しが必要だった、そんな精神状態だったんだろうな」
「その一押しが、俺の話だったわけですか」
「そういうことだな。縁覚はさ、花が散るのを見て、『あぁ、そうか!、そうだったのか』と分かれば行ける世界なんだよ。だから、比較的、行きやすい世界ともいえるが、そのきっかけで分かるという状態に達していないと行けないからな。あと一歩、の状態になっていないといけない。そこまでが難しいかな」
理屈では悟りの世界がわかる、というのも難しいだろう。理屈はあくまでも理屈だ。理屈だけではなく、ある程度の実感がともわなければ、分かった!なんてならないのではないか。
「そうだな。こだわりや執着、欲もほぼほぼ無くて、空の状態にものすごく近づいている精神状態が必要だな。そこまでいくのは、まあ時間がかかるだろう。あのジイサンだって、ここで長くそれを修行したんだろうな」
長かったのだろう。だが、その長さという感覚すら、忘れ去っていた、いやこだわっていなかったのだろう。時間なんてどうでもいい、という境地だったに違いない。
「そうだな。そういう精神状態にならないと、あのジイサンのようにはなれないだろうな。なかなかそういう境地に達するのも難しいけどな。いろいろなものを捨て去らないと、そうした境地には至れないだろうな」
そうか、捨て去るのか・・・・。人間は、いろいろなものを抱え込んでいる。その抱え込んでいるものを捨て去らないと、空という状態には近づけないのだろう。捨てることができること、捨てられないこと、それは人によって様々だが、捨て去ってしまったほうが、本当はいいのかもしれない。
「つまらんこだわりを持っているのは、疲れるだけだぞ」
夜叉さんが、ボソッとそう言ったのだった。

俺のこだわりとは何だろうか? 何にこだわっているのだろうか? 捨てられないものとはなんだろうか? いろいろな思い? 生きている家族への思い?・・・あぁ、それはあるな。それはいつも心の片隅にあることだ。女房子供を残して早くに死んでしまったのだから、思いはたっぷり残っている。こうして、死後の世界を眺めて旅をしてきているが、それでも家族への思いを忘れたことはない。いつもどこかで引っかかってはいる。心の奥底に存在している、とでもいえばいいか。だが、それは捨てていいものではないだろう。捨てられないし。その家族への思いを捨ててまでして、自分だけ悟りの世界へ行きたいとは・・・思わないだろうな。いや、そんなのは無理だし、イヤだ。
「お前さんの気持ちはよく分かる。だから、そういう思いを捨てろなんて言わないさ。我々だって悟りの世界へ行こうと思う者は少ないしな。閻魔様の周辺で仕事をしている方が楽しいからな。まあ、捨てられない思いってのは、あってもいいものさ」
そういえば、夜叉さんたちは天界の住人なのだ。修行によっては、悟りの世界へも行ける存在だ。環境的にも行きやすいのだろう。だけど、あえて悟りの世界へは行かないのだ。そこには、捨てられないことがあるのだろう。まだ、天界を楽しみたいのかも知れない。

「縁覚の下が、声聞だ。これは、教えを聞いて悟った者が行く世界だ。まあ、修行者のうちで悟った者が行く世界だな。真面目に修行したお坊さんで、悟りに達したお坊さんが行ける世界だよ」
「えっ、それじゃあ、その世界は誰もいませんよね」
「あははは、お前、辛辣なことを言うな」
「だって、今の時代、お坊さんで悟った人っていますか? いないですよね。欲まみれのお坊さんが大半でしょ。ならば、その世界は誰もいませんよ」
「まあ、いないな。いるとすれば、お釈迦様の弟子たちだな。未だに、お釈迦様の弟子たちは、声聞界で修行をしている・・・かもしれない。俺も行ったことがないからわからないな」
「お釈迦様の弟子たちですか。未だにいるんですかねぇ。もう2500年以上になりますけど」
「気になるなら、見に行ってこいよ。声聞以上の悟りを得られれば行けるぞ」
「そりゃ、無理ですよ。何言ってるんですか・・・・。あ、でも、そういうことなら、さっきのジイサンは、縁覚の世界へ行ったのだとしたら声聞の世界も見ることができるんですよね」
「もちろんな。だが、見ないだろうな。気にもならないさ」
「あぁ、そうか、悟りの世界ですもんね。そんなことは気にしないか」
「そう。その世界に誰がいるかなんて気にしているようじゃダメなんだよ」
そうだ、悟りの世界は、こだわりが全くない世界なのである。ならば、声聞だ、縁覚だ、菩薩だ、仏界だ、と分けることも本当はナンセンスなんじゃないのだろうか?
「そうだよ。そんな分類は、人間が勝手にやっていることだ。悟りの世界から見れば、全く意味の無いことになる。分類や分析なんてのは、人間がやることだ」
「そんなんじゃあ、悟りの世界は遠いですねぇ。そもそもそうした分類を越えなきゃ行けないんじゃ・・・・」
「一切のこだわりをなくすと言うことは、そういうことなんだよ。まあ、俺も無理だな。まだまだ、上から人間界を見ていたいしな」
夜叉さんも、そういう欲が残っているのだ。天界から人間界を眺めるというのは、よほど楽しいらしい。
「まあな、人間は愚かだから。そういうのを見て楽しむ、というのは・・・・まあ、悪趣味だな」
「それは悪趣味です。そりゃ、意地悪ですよ。根性が腐ってます」
「そういうがな、人間は面白いぞ。下らんことばかりするからな」
夜叉さんの気持ちも分からないわけではない。確かに、人間は愚かだ。だが、面白い。そこがいいのかも知れない。もし、自分が次どこの世界へ生まれ変わるか、選択できるとしたら、もう一度人間界を選ぶかも知れない。もっとも、まだ天界を見ていないから確定的なことは言えないが、人間界も案外面白いのだと思う。もちろん、辛さや苦しみは伴うけど・・・・。

「おや、あっちで何か騒いでるな。案内のお坊さんがやってきたぞ」
お坊さんが一人、お婆さんに近付いていった。何か、お婆さんに話しかけている。
「えっ、本当ですか?」
お婆さんの顔が輝いた。とても嬉しそうだ。
「はぁ、修行のかいがありました。ありがとうございます」
お坊さんに何度も頭を下げている。
「そうですか・・・。私のひ孫の子供に・・・・。ようやく、ようやく戻れるのですね。あぁ、できれば、ここでの記憶をすべて持っていきたい・・・」
どうやら、あのお婆さん、自分のひ孫の子供に生まれ変わるようだ。
「あの、今、あのお婆さんが言っていたことなんですが」
「なんだ?」
「ここの記憶を持っていくとか・・・」
「あぁ、ここでの記憶を持ったまま、人間界へ生まれ変わりたい、と願ったんだろう」
俺と夜叉さんが話しているうちに、お婆さんは、案内のお坊さんに連れられて外へ出て行った。人間界へ生まれ変わっていくのである。
「人間界へ戻るんですね」
「そうだな。まあ、いいことなのか、悪いことなのか、それは分からんが、もう一度人としての人生を歩むんだ」
「ここで学んだことは持って行けないんですか?」
「すべては無理だろうな。いや、本当は記憶の中に残っているはずなんだが、引き出せないんだよ。記憶というか・・・意識と言った方がいいかな。ここでは肉体は無いから、脳に記憶することはできない。魂に・・・つまり意識だな・・・に刻むしかないんだ。意識の中にいかに深く刻んでいるか、それが大事だな。深く残っていれば、自然とここで学んだことが生活している内に現われるかもしれないな」
前世の記憶・・・・。そんなものが本当にあるのかどうかは知らない。実際、うさんくさい話は、聞いたことはある。しかし、そんなものは証明のしようが無いから、本当かどうかはわからない。だが・・・・。もし、ここ、待機所での記憶が少しでも残っているのなら・・・・。
「まあ、まっとうな人間になるだろうな。信心深くてね。初めから思慮深いだろう」
「あぁ、そうですよね。仏教を学んでいるんですから」
その学んだことが少しでも残っていればいいな、と俺は思った。大きなお世話だが。

「前世の記憶って、あるんですかねぇ」
あのお婆さんのことを引きずっていたわけではないが、ふと口から出てしまった。
「ふん、あると言えばあるし、ないといえばない、な。確かに、人間でも尊敬できる立派な人間もいれば、まるで猿並だなという人間もいるけどな。それが前世の記憶によるものなのかはわからないだろ。本人だって気付いていないんだし。気付いていれば、考えるということをするだろう」
「ですよね。でも、どうして人間に智慧の差がついてしまうんでしょうね。ここから、みんな人間界へ生まれ変わるのなら、それほど差がつくとは思えないんですけどね」
「それはな、面倒な仕組みがあるんだよ。話せば・・・・難しいなぁ。そもそも前世の記憶なんて無理だろ。脳は引き継いでいないんだから」
そうなのだ。人間は死んでしまえば、その肉体はなくなってしまう。いろいろ記憶しているはずの脳も無くなるのだ。その時点で、記憶は途切れるはずなのだ。
「だけど、さっき言ってたじゃないですか。魂には刻んであると」
「あぁ、言ったよ。そうだな、魂は記憶を継続するよ。実際、今まで会ってきた生まれ変わってきた連中も、記憶を引きずっていたじゃないか」
その通りである。あのアリに生まれ変わった青年も、クモのオッサンも、カエルの女子高生もブタオヤジも、みんな生きていた時の記憶を持っていた。
「それは魂に刻んであるのさ」
魂に刻んである記憶、それがいわゆる前世の記憶なのだろうか。俺は、夜叉さんの横顔を見て、じゃあ、俺の前世の記憶はどうなんだろうか、と考えたのだった。


「前世の話となると・・・俺より、お前の先輩のほうが適役だな」
「先輩ですか?」
夜叉さんは、「あぁ、そうなんだ」とうなずくと
「じゃあ、先輩の寺へ行くか」
と言って、さっさとお堂の出口の方へと向かった。案内役のお坊さんや、指導役のお坊さんに挨拶をしながら、すたすたと出口の方へ向かう。俺もその後に続いた。
「おや、もうお帰りですか?」
門の所までくると、そこにいたお坊さんに声を掛けられた。
「あぁ、いいものを見せてもらったしね。こいつも満足だろ」
「ちょうどよかったですね。あぁいうことは少ないんですよ」
「あぁいうこと?」
俺が尋ねると、お坊さんは
「六道を越える人は滅多にいません。いいタイミングだったと思いますよ」
とにこやかに答えてくれた。大変珍しいことなのだ、とうなずいていた。
「先輩にいい土産話が出来たな」
夜叉さんは、そう言うと二〜っと笑ったのだった。そして、「じゃあ行くか」と言い、お坊さんに挨拶を済ますと、光の見える方へと歩き始めたのだった。

いつものように光の輪をくぐり抜けると、そこは先輩のお寺の本堂だった。
「う〜ん、霊界もパワーが充填されるけど、ここの空気はなかなかいいものだ。安心できる空気が流れている。落ち着くな」
「そうなんですか? 夜叉さんにとっては、ここよりも霊界のほうがいいんじゃないですか?」
「いやいや、霊界にもよるさ。餓鬼は毒素が強いし、地獄は血なまぐさいし重たい。畜生は糞尿臭いしジメジメしている。修羅は暑苦しいしな。落ち着かんよ。霊界で空気がきれい、落ち着く、パワーがみなぎると思えるのは、天界以上だ。人間界では、よくお参りされているお寺だな。ここは、いい味がしている。安心感があるな」
「まあ、確かにここは落ち着きます。いつまでもここにいたい、という気分になりますよ」

「おや、また来ているのか? どうだった待機所は?」
俺たちが本堂の真ん中あたりでゴロゴロしていると、どこかへお祓いにでも行っていたのだろう、先輩が帰ってきた。
「お祓いですか?」
「あぁ、そうだ。さまよっている奴らがいたんでね。ちょっと封印してきて連れてきた。ほら、ここで自由にしていろ。まあ、ここで仏教を学ぶことだな」
と先輩は言うと、鞄の中から何か紙包みを取り出した。それを本尊脇の不動明王の前に置いた。その包みからは、黒いモヤのような煙のような物が立っていた。
「あぁ、迷える霊ですか」
夜叉さんは、それを見てそう言った。「これはまた、随分と古い」とつぶやいている。
「古い霊なんですか?」
「あぁ、そうだ。長年の怨みやら辛みやら、そういったよくない記憶の塊だな。それが霊化しているというか、まあ、もとは霊体なんだがな。あぁいうものになってしまったんだ」
先輩が指さした方には、黒い塊が包みの上に浮かんでいる。それは、ちょっと見ているだけでも気分が悪くなるような塊だった。
「お不動様が見張っているから何も出来ないよ。そのままここで順に浄化されていく。よそへ移動することは出来ないからな。あわせて、この黒い塊の元の霊体自体も供養するしな」
「ここでなら、そんなに時間はかからずに、きれいになるでしょうね」
夜叉さんの言葉に、先輩は
「だといいんですが、なかなか頑固でねぇ。ちょっと手こずりましたよ。さてと、お昼を済ませてきますんで、まあゆっくりしていってください。お前も話すことがあるんだろ? 今日は、午後からは誰も予定が入っていないから、ゆっくり話していけ」
先輩はそう言うと、奥へと引っ込んでいった。

「前世の記憶ねぇ・・・・」
先輩は、お茶を飲みながらそう言った。俺は、待機所・・・霊界での人間界・・・であったことをすべて話した。
「記憶って脳に残るものじゃないですか。と言うことは、脳が無くなったら消えるものでしょ? 死体が焼かれてしまえば、脳も無くなります。そうなれば、記憶も消えるはずですよね。記憶している本体がなくなるんですから。でも・・・」
「お前には記憶がある、だろ?」
「そうなんですよ。霊体である俺には、過去の記憶があります。でも、俺が俺になる前の記憶は無いんです。俺が生きていた時の記憶はありますが、それ以前の記憶は無い・・・。なんかしっくりきません。理由が分からない。そもそも肉体がないのに記憶があること自体、矛盾していますし」
「今までよく疑問に思わなかったな」
「はっ? あっ・・・」
「あっ、じゃないだろ。待機所に行かなければ気がつかなかったのか? 大ボケだな」
「あ〜いや〜、なんか、それが当たり前だと思って・・・」
「ふん、まあ、誰も疑問には思わないけどな。こっちの世界と霊界は、まあつながっているからな。肉体があるかないかの違いだけだしな」
「そうなんです。なんか自然に裁判を受けることになってましたから、疑問には思わなかったですよ」
「まあ、そういうもんだ。夜叉さんは、肉体がなくても意識が覚えている、って教えてくれたんだろ」
「はい、そうです」
俺はそう言って夜叉さんの顔を見た。夜叉さんは、うんうんとうなずいている。
「そのまんまだよ。意識が覚えているんだ。意識というのがわかりにくいのなら、魂と言おうか。意識は魂と同じだ」
「えっ、あの、それって」
「生きているとき、いろいろと考えるだろ。悩んだり、考えたり、苦しんだり、怨んだり、喜んだり、悲しんだり・・・。いろいろなことをするよな。それは頭の中で生まれた感情だな。そうした感情的な思い、それが意識だな。意識は脳から生まれている。だが、その意識は、魂という目には見えない精神的なモノを作り出しているんだ。つまり、魂は意識の塊だ。魂は、意識でできあがっているんだよ。それは、脳から作り出されているから、一種の電気的エネルギーに似ている。全く同じじゃないがな。その電気的エネルギーに似た意識の塊・・・魂・・・が今のお前だな」
「え〜っと、つまり、俺は意識の塊ってことですね」
「そう、その意識は脳から生まれているから、当然、記憶を持っている。まあ、いろいろ覚えているわけだ。記憶も電気的エネルギーに変換されているからな、脳内で」
「だから、その記憶に従って、こうして肉体があったときのような姿になっているんですね」
「そう、死の直前の姿だな」
「でも、例えば畜生界に生まれ変わると・・・」
「お前が出会ったアリとかクモとかカエルとかは、初めから前世の記憶を話したか?」
「あぁ・・・、そういえば、俺と話が出来るように夜叉さんが神通力を使って・・・」
「だろ? と言うことは、そのアリやクモ、カエルは、忘れていたわけだ。だが、霊界の畜生界では違うだろ?」
「はい、でも、あれも自分で思い出したのではなく、思い出させられた、って感じですよね」
「だな。だから、本来は忘れているんだ。しっかり、前世の記憶をもって生まれ変わるのは、地獄と待機所くらいだ」
なるほど、地獄ではなぜ地獄に来たのか、皆わかっている。その上で、刑罰を受けているのだ。反省を促されている。ところが、餓鬼は前世の記憶など無い。ただ、ひたすら光に向かって進んでいくだけだ。畜生も、俺が関わらなければ、あのアリもクモもカエルも、何も思い出さなかったのだろう。修羅界もそうだ。ただ、戦っているだけである。なぜ、ここにいるのか、そんなことは誰も意識していない。現実世界の人間界に生まれ変わっても、前世の記憶など無い。うさんくさい占い師が、あなたの前世は・・・なんてインチキ臭いことを言うが、そんなことは証明されないから何とでも言える。確かに、俺自身、前世の記憶など持っていない。

「だから、肉体がなくなったと同時に、記憶はなくなるんだよ。ただ、意識が覚えている。しかし、それも強くはない。ただし、どこにも生まれ変わらず、意識のまま残ってしまえば、その記憶も強く残るけどな」
そう言って先輩は、お不動様の方を見た。
「あの包みのように、強く意識が残ってしまえば、未だにその時の記憶を持ち続けているのだ。あの意識・・・魂・・・は、生まれ変わることを拒否して、この世にとどまってしまった、哀れな意識なんだよ。それを人は幽霊というのだ」
俺もお不動様の下に置いてある包みを見た。相変わらず、その包みの上には黒い球のような塊が浮かんでいた。
「まあ、あれは人の形すらとれない状態だがな。幽霊にすらなれない。怨念の塊だ。生きていた時の記憶にとらわれた意識の塊だな。いいか、人は、死んだら記憶は失うのだ。脳が無くなるからな。しかし、意識には記憶が残る。そしてそれは、生まれ変わり先が決まるまで残るんだ。つまり、死後、49日の間は生きていたときの記憶を引きずっているんだ。しかし、生まれ変わり先が決まれば、それも失う。ただし、地獄と霊界の人間界・・・待機所・・・だけは、生きていた時の記憶が残っている。それは、必要だから残してあるのだ」
「必要だから? あぁそうか、地獄ではなぜ地獄に来たのか、という理由が必要ですからね」
「そうだ。だから地獄へ行った者は、生きていた時の記憶をもって生まれ変わる」
「待機所もそうですね。生まれ変わりを待っているのですから、その理由が必要になります。だから、記憶を残してあるんですね」
先輩は、嬉しそうにうなずいた。そして、ちょっと意地悪そうな顔をして
「じゃあ、天界の住人はどうだ?」
と聞いてきた。「前世の記憶は残っているのか?」と。

俺はしばらく考えていたが、ふと女房の守護霊のおじいさんを思い出した。あのおじいさんは、前世の記憶をちゃんと持っていた。だから
「天界の住人は、前世の記憶を残しているんじゃないですか」
と答えた。
「ブッブー、残念でした。外れだね」
「えっ?、でも・・・」
「でもじゃねぇよ。あのな、天界の住人は、神通力の修行をして、前世の記憶を手に入れるんだよ。天界に生まれ変わったときは、なぜ自分がここにいるのか、それは分からないんだ。で、修行するように言われる。修行が進めば、生きていた時の記憶を取り戻す。分身の術も使えるようになる。天界から現実世界へ影響を与える力・・・守護霊になる力・・・も身につく。だが、修行を怠れば、どれも身につかない。天界も初めは生きていた時の記憶は持っていないんだよ」
「ということは、前世の記憶は、地獄と待機所に生まれ変わった場合のみ、ということですか」
「そう、あとは、生まれ変わり先が決まるまでの49日間だな。あとは、霊体として残ってしまった場合だ。つまり、幽霊だな。あぁ、お前の場合は、例外だな。まあ、幽霊の部類ではあるがな。あはははは」
確かに、俺の立場は幽霊と同じなのだろう。生まれ変わり先にも行けず、あちこち霊界をさまよっているわけだから。幽霊と変わらない。
「じゃあ、待機所から人間界へ生まれ変わった、あのお婆さんも」
「待機所での記憶は無いし、生きていた時の記憶は無い。その時の脳が無いからな」
「そういうことですよね。でもなぁ、なんだか、それって・・・。じゃあ、あの待機所で勉強していたことは、意味が無いじゃないですか」
「そんなことはない。いいか、待機所での記憶は無いが、待機所でやったことは意識が何となく覚えているんだ。だから、待機所から生まれ変わった者は、自然に仏教に親近感を持っている。中には、信仰心が強い人もいるし、仏教学をいずれ学ぶ者もいる」
「それって、あぁ、そうか。たまに家がお寺でもないのに仏教系の大学へ進んだり、出家したりする人がいますよね。そういう人が、待機所出身だったりするんですね?」
「そういうことだ。全部が全部とは言わないがな。あのな、前世の記憶は無いが、前世の影響は残るんだよ。それを人は因縁というんだ。因縁は、前世の影響のことだ。それは記憶とは違うだろ」
そうか、俺は混同していた。前世の記憶を持って生まれてきたら、それは混乱してしまうだろう。そんな記憶は無くて当然なのだ。そもそも肉体が違うのだし、脳も違うのだ。記憶なんて無い。俺が気にしていたのは、前世の影響の方なのだ。それは記憶などでは無い。
「前世の記憶など、まあ、大抵の人間は持っていない。たまに、断片的に前世の記憶を持っている人がいるが、それは当てにはならない。単なる幻想かも知れないし、思い込みかも知れない。まあ、中には本物もいるかも知れないがな。いずれ、そうした者も完全に思い出しているわけではなく、何かのきっかけで断片的に思い出す、頭に浮かぶ、と言うことが起きるだけだ。記憶と言えるほどのものではない。そうした場合は、意識に記録された断片的な映像が出てくるだけだな。つまり、意識・・・魂・・・が思い出した、ということだ」
「前世の記憶については、よく分かりました。俺が気になっていたのは、前世のからの影響です。そう、そっちの方なんですよ」
「混同していた、んだな。まあ、よく混同することだ、それは。前世の記憶は無いが、前世の影響はあるよ。因縁な。それはある。お前だって見てきただろ? 現実世界の人間界でさ」
先輩の言葉に、俺は考え込んだ。一体どのことを言っているのだろうか、と。


「お前・・・大丈夫か? 死んでから頭の回転が鈍くなったんじゃないか? まあ、生きているときもたいしたことはしてないがな。何せ三流出版の低俗雑誌の編集者だったからな」
ひどい言われようである。だが、確かにあの世の世界をうろついているうち、若干、頭の働きが鈍くなったような気もする。これはあの世の空気のせいなのだろうか?
「いや〜、夜叉さんも大変ですね。こんな鈍いヤツの相手しているんだから。お前、夜叉さんがしてくれたこと思い出せよ」
夜叉さんは、横目で俺を見てニヤニヤしている。というか、今にも大笑いしそうなところを我慢しているようだ。
「クククク、難しく考えすぎだよ。今までのことを思いだせば分かるだろ?」
笑いをこらえながら、夜叉さんは、そう言った。
今までのこと・・・。あっ・・・。
「わかりました! 前世の因縁ですよね。簡単じゃないですか。地獄の人たちも、餓鬼界の連中も、畜生界であったアリもカエルもクモも・・・そうですよ、みんな前世の因縁であの世界に生きているんですよね」
「やっとわかったか。それぞれの世界に生きている生き物は、みんな前世の因縁でその世界にいるんだよ。ただし、記憶は無い。夜叉さんの神通力を使わないと、前世の記憶なんぞは蘇らない。それも、魂に働きかけているから蘇るだけだ」
そうなのだ。地獄の人たちは別として、他の世界の住民は、前世の記憶を持っていない。アリはアリである。クモはクモだ。カエルだってそのままである。精神世界の畜生界の連中でも、訳が分からず絡み合っているか、罰として無理やり思い出させられているのだ。その場合は、罰を与える係が神通力めいたものを使って強制的に思い出させていた。
「あのな、実際にこの世に生きているアリに、お前は前世で何をやってここにいるのだ? と聞いても答えないだろ。当たり前だよな。それは猫でも犬でもそうだよな。聞いたって答えない。答えさせようと思えば、夜叉さんの神通力が必要なのだよ。そうではあるが、どんな生き物も、現実世界も精神世界もあわせて、すべての生命体は、前世の影響を受けているんだよ。それに本人が気付いていないだけだ」
「じゃあ、俺もそのうちに今の記憶は消えるんですか?」
「お前はアホか?」
「はあ? いきなりなんですか。真面目に聞いているのに」
俺がそう言うと、先輩は大きなため息を吐き、夜叉さんのほうを見て
「これだから・・・。夜叉さんも本当に大変ですね」
と言い、また大きくため息を吐いた。そして
「お前は肉体があるのか? 脳みそがあるのか? お前はなんだ?」
と吐き捨ているように言ったのだった。
「あっ」
「あっ、じゃないだろ。ホントにバカだな」
そうなのだ。俺には肉体がない。魂の存在である。ということは・・・。あっ、でも
「でもですね。待機所から別の世界に生まれ変わると、記憶がなくなるじゃないですか。待機所の人たちは魂的存在ですよね。なのに・・・」
「だから、記憶は魂には残っているんだって。さっきからそう言っているだろ。ただ、その魂の記憶を蘇らせる能力がないだけだろ。さっきから何度同じ事を言えば分かるんだ」
「あぁ、はい、そうでした。ようやく理解できました。ということは・・・、もし俺が人間界に生まれ変わったら、今の記憶は魂には残っていますが、俺自身は記憶していないのと同じ事、ということですね」
「そういうことだ。ようやく理解できたか。まあ、お前が天界に生まれ変わったら別だがな」
「天界ですか? あぁ、そうか、天界の人々は精神世界の人々だから、肉体じゃなく霊的存在になりますもんね。今の俺と同じ状態ですね。あぁ、そなればこの記憶も継続できるんですね」
「まあな。ただし、やはり初めはその記憶には気がつかないだろうな。まずは、神通力を身につけてからだな。そうですよね、夜叉さん?」
そう尋ねられた夜叉さんは、
「その通り。まずは、神通力を身につけないと、前世のことは思い出さないですな」
と教えてくれたのだった。

「それにしても・・・、じゃあ、あの包みはどうなっているんですか?」
と俺は、不動明王の前に置かれている包みを指さしてそう尋ねた。相変わらず、包みの上には黒いモヤのようなものが漂っている。ものすごく嫌な感じがするモヤだ。
「あぁ、あれか・・・。あれは怨念の塊だ。あの世に行くことを拒否し、この世に怨みを残し、この世で関わった人々を強く呪った人間のなれの果てだ」
「それも前世の因縁になるのですか?」
「前世じゃないな。あれは生まれ変わっていない存在だからな。肉体はとうの昔に滅んでいるが、どこにも生まれ変わらず、この世に残った存在だ。前世も何もない。ただの怨念の塊だ。あれが影響するのは、あれと関わりのある人々だけだな」
どういうことなのだろうか? 先輩はあまり詳しく語ろうとしないが、そうなると詳しく聞きたくなるのが人情だし、記者根性でもある。俺は、詳しく教えてください、と頼んでみた。
「まあなぁ、何から話そうか。うん、元はな、古い話なんだよ。江戸の終わりのころまで遡る」
「そんな古いことが、現在にも影響するんですか?」
「現に影響しているんだよ。あれを見れば分かるだろ。あの黒い塊は、江戸時代の終わり、幕末の頃から続いているものなんだよ」
先輩はそういうと、あの黒い塊を睨み「よくまあ続くもんだな」とつぶやいた。

「ある家族がいた。その家族は、借金を抱えていて困窮していた。幕末の話だぞ。ある日、その家族に金になる話が舞い込んできた。ただし、その話は当然だが悪い話だ。その家族には、普段、何かと世話になっている人がいた。借家の大家だな。大家と言えば、まあ金は持っている。金持ちだ。で、そこに目をつけた悪い連中がいたんだな。幕末の混乱期だから、その混乱に乗じて大家の金を盗もうという話だ。で、その家族に、大家の家の鍵を開けさせ、賊を導き入れろ、という話が来たんだよ。当然、いうことを聞かないと、命がないと思え、という脅迫付きだ」
「その家族の人、いうことを聞いたんですね」
「あぁ、賊の言うとおりにしたんだな。大家一家は全員殺された。だが、大家は、死に際に言ったんだ。『お前は、脅されてやったんだろ。仕方が無い。お前を怨むのは筋違いだな。だから、安心せい』とな」
「じゃあ、問題ないじゃないですか」
「そこで終わっていればな。だが、話はそこで終わらない。その家族の・・・まあ主人だな・・・は、大家が死んだと思って、大家の衣類を盗んだんだ。で、それを大家に見られた」
「大家さん、死んでなかったんですか?」
「あぁ、生きていたんだよ。で、それを見た大家は『お前、あれほど助けてやったのに・・・。賊と手を組んだのは・・・進んでやったことだったのか・・・。お、お前・・・こんな悔しいことが・・・ある・・・だろうか・・・。くっ、くっそ〜・・・いいか、何でも好きな・・・ものを持って・・・いくがいい。そ、そのかわり・・・お前の家を・・・七代まで祟ってやる・・・ゆめゆめ忘れるな』と言って死んだ。それが最後の言葉だ。つまり、呪ったわけだ」
「それは・・・そのことは、その家族の子孫は知っていたんですか?」
「あぁ、知っていた。代々、当主のみが伝えられているんだよ」
「えっと、それで実際にその怨みはというか呪いは、効いていたんですか?
「もちろん。祟りは有効だ。あれだぞ」
そういって先輩は、不動明王の下にある包みを指さした。
「衣類などを盗んだ主人は、すぐに故郷を脱けた。一家全員でな。借金も踏み倒しだ。そう思えば、何も賊の手引きなんぞしなくても、さっさと夜逃げしていれば本当はよかったんだよ。そうすれば、罪は借金の踏み倒しだけだ。それが、殺人の手引きと窃盗という罪を抱えてしまった。さらに、子孫には呪いがかけられた。代償はとてつもなく大きなものだ。ま、その時はそれどころじゃなかったから、気付くのはもっと後だけどな」
「夜逃げして、その後はどうなったんですか」
「盗んだものを売ったら結構な金になったらしい。そこから流れ流れて今の埼玉のとあるとろこに居着いた。そんなころは、もう明治になっていたらしい。だが、その頃から呪いが効いてたんだそうだ。まずは、当の本人・・・賊を導き盗みを働いた本人だな・・・が、妙な病気に罹ってもがき苦しみながら死んだ。伝えられたところに依ると、全身が真っ黒になり、どんどん干からびて、まるでミイラのようになって死んだそうだ。その死に際に、苦しみながらも、これは大家の祟りだ、大家を供養しろ、と言ったそうだ」
「それで、そうしたんですか?」
「いや、当主の葬式やら何やらで忙しくて忘れてしまったらしい」
「そんな・・・死に際の言葉ですよね?」
「まあそうなんだけど、家族はそれほど気にしていなかったか、詳細を知らなかったんだろう。今でも詳しい話は、当主のみに伝えられているそうだ。まあ、今はご主人さんは、結婚の際に奥さんに話したそうだがな。うちは祟られている家だが、それでも結婚してくれるかって」
「いいご主人さんですね」
「そうだな。普通は隠したがるが、今のご主人さんは、そういうのはフェアじゃないから、と言っていたよ」
そういうと、先輩は、奥に行ってコーヒーを頼んだ。

コーヒーとちょっとしたお菓子を奥方が運んできた。その際、「あらまあ、またいらしているんですね」と俺の方を見ていった。奥方も多少は、分かるようだ。
「あれもな、少しは分かるんだ。夜叉さんのほうは見ないようにしているらしい。怖いんだって」
先輩がそう言うと、夜叉さんは「まあそうですよね」と笑っていた。
「本題に戻ろう」
コーヒーを飲みながら、先輩は続きを話し始めた。
「当主が死んだのは、明治の初めの頃だそうだ。次の当主、まあ、祟りを受けてから数えれば二代目当主だな。その当主が死んだのは、明治の終わり頃。結婚して、子供をもうけ、仕事に励み、子供も進学し始めた頃・・・そうだな、幸せの絶頂期だったのだろうな・・・初代当主と同じ病気で亡くなった」
「ま、マジですか・・・」
「なんだ、その反応は。う〜ん、まあ、一般人はそういう反応になるかな。まあいい。で、その時、二代目は死に際に『これは、オヤジから聞かされていた呪いだ。あの大家の供養をしろ』と言って亡くなったそうだ。さすがに、二代続くとちょっとヤバイと思ったんだろうな。残された家族で、その大家というのを調べてみた。幸い、二代目の母親・・・初代の奥さんだな・・・は生きていたので、大家のことを聞いてみた。するとだな、初代と大家の関わりを訥々と語ったんだな。この家は呪われているのだ、とな。しかし、供養と言っても、大家の戒名も分からないし、お墓も不明だ。で、檀那寺の住職に聞いてみた」
「ひょっとして、その住職、否定したんじゃないですか?」
「その通りだそうだ。そんな、祟りなんぞあるわけない。まあ、明治と言えば、文明開化の時代で、怪異とか妖怪とか祟りとかは無いものだという風潮だったからな。読み物などでは人気だったようだが、それは物語だからだ。実際には、多くの人が否定的だった。ましてや、寺は明治の初めにひどい目に遭っているから、あまり怪異を語りたくはなかっただろうしな」
「今でも、そういう話を否定する僧侶や住職は多いですからね。逆にうさんくさい坊主がそういう話を使って金儲けしていますからね」
「まあ、そんなもんだよ。その二代目の奥方もな、どこで聞いたのか知らないが、拝み屋に相談したんだそうだ。すると、その拝み屋、『この家は、呪われている』、まあ、初めからそう申告しているんで、驚くことはないんだが、拝み屋に言われるとなんだかもっともらしいじゃないか。で、家人は『やっぱりそうですか、なんとかしてください』となったんだな」
「で、お祓いですか? でも、そんなの効果ないでしょう」
「まあ、本物がやれば、ある程度は効果はあるがな、本物はそんなにいないからな。それでも、お祓いをしてもらったんだよ。で、それからは何事もなく平穏無事だ。もっとも、初代が死んだ後だって平穏無事だったんだけどね」
初代がなくなった後は、供養しなかったにもかかわらず、何事もなく過ごしたそうだ。それで祟りなんぞ忘れたいたらしい。で、二代目が死んだ際に思い出したのだ。で、お祓いをしてもらった。しかし、本来その必要はなかったわけである。初代と同じなら、二代目がなくなった後も、しばらくは平穏無事のはずだからだ。
「ところが、三代目となるはずの長男が結婚を目の前に、例の難病で亡くなってしまった。初代・二代目と同じ真っ黒に縮んでしまう病気だ。しかも三代目も『これは大家の祟りだ』と言って亡くなっている。母親は半狂乱だったそうだ。そりゃそうだろうな。お祓いしてもらったから安心していたのに同じ事が起こってしまった。しかも、今回は結婚前だ」
「まさか、またお祓いを?」
「いや、母親は、そういうのを信じないタイプだったらしい。だけど、放っておくのは怖かったのだろう。檀那寺とは別の寺で大家の俗名で供養してもらったのだそうだ」
「それはよかったですね」

「まあ、それで終わったわけじゃない。終わったなら、あそこにあれはない」
先輩はそう言うと、またあの包みを見たのだった。包みの上には、相変わらず黒いモヤが浮かんでいる。時々、その形を変えている。こっちの話を聞いているのだろうか?
「この話は、当然、あの包みにも聞こえているよ。まあ、本当の話だし、本人は事実を知ってもらえるから気分は悪くはないだろ」
先輩は包みを眺め、ちょっと悲しそうな顔をした。まあ、大家は、哀れであることは間違いない。でも、そこまで祟るのはどうなのだろうか・・・。
「殺された大家は、七代祟ると言ったよな。これがどういう意味か分かるか? ちなみに、三代目は大正時代の初めの頃に死んでいる」
「七代祟るてことは、つまり・・・七代まではその家系は続くって事ですよね」
「少しは、頭が働くようになったな。そういうことだ。七代祟ると言うことは、七代まではその家を続かせようと、そういうことだな。で、その間、恐怖に戦け、と言うことだな」
「執念深いですね」
「それが祟りというものだ。祟りを甘く見てはいけない。で、四代目は次男がなった。その次男だが、ちょと変わり者だったそうだ。まあ、今で言えば、発達障害があったのだろうな。仕事は続かず、家でぶらぶらしている毎日。時たま癇癪を起こして暴れる。困った人だったらしい。それでも、幼なじみの娘と結婚をした。その幼なじみは、この人は私の言うことは聞くから、と言って嫁に来たらしい。しかし、結局働かない。働いてもすぐに辞める。家計は厳しくなっていったそうだ。それでも、子をなして、なんとか生活をしていった。しかし、この四代目、息子たちが成長しても死ななかったんだ」
「えっ、それって・・・。じゃあ、祟りは?」
「おいおい、よく考えて見ろ。このどうしようもない四代目が長生きすることは幸せか?」
「あ〜、そうか。それは・・・まあ、こういう言い方はよくないですが、長生きされると返って迷惑ですよね」
「そう。家人も困ったそうだ。息子たちは次々戦争に取られ、戦争が終わって気がついたときには、どうしようもない旦那とまだ幼い男の子が一人いたそうだ。この四代目、子作りだけは元気だったそうで、男の子ばかり5人ほどいたんだそうだ。で、4人が戦死した。残ったのは、幼子一人。その幼子が成長したのが、昭和33年の頃。そんな頃に結婚をした。それを見届けると、四代目は例の病気で亡くなった。その際『祟りは終わってない。大家の供養をしろ』と言い残したそうだ」
本堂には、暗い空気が漂い始めていたのだった。


その方が現当主ってことはないですね」
「あぁ、違うよ。その人・・・五代目だな・・・は、昭和33年に結婚をし、子供を二人得た。男の子と女の子だ。その女の子が、実は問題だった。中学生の頃から不良になってしまった。それが、昭和51年の頃だそうだ」
「相当荒れたんですか?」
「あの頃はな、まあひどい時代だからな。不良女子高生なんてのがいてさ、スケバンなんて言ってたな。ロングスカートに頭はパーマヘア。学生鞄はぺっちゃんこで中には鉄板が入っていた。これが当時の不良女子高生や中学生の定番だ」
「そういうグループに入っちゃったんですね」
「あぁ、そうだ。何度も警察のお世話になったそうだ。随分、娘には苦労させられたらしい」
「その娘さんは?」
「今は、いい奥さんだよ。お孫さんもいるくらいだ。今回のうちへの依頼もその娘さんがしたんだ」
「そうなんですか」
「五代目が、やはり同じ病気で死んだんだな。まあ、結構長生きしたそうで、平成23年に亡くなったそうだ。しかし、その時、やはり例の言葉を残して亡くなった。で、弟が六代目になるとなって、元不良の姉がこれはヤバいぞ、ということなったんだな」
「不良の勘ですか?」
「なんだ、それは。元不良娘っていうのは、案外気の優しい子が多い。純粋すぎたから不良になったんだろうな。そういうことは能くあることだ。たいてい、純粋すぎると、反発もしやすいからな。善と悪の両立が出来ないんだな」
なるほど、善は善、悪は悪で受け入れることができないからこそ、反してしまうのだろう。世の中、いい人ばかりじゃないさ、悪があって廻っているんだ、悪も必要なときがあるんだ、と早くから理解できていれば、親や教師にたてつくことはないだろう。大人なんて醜くて当然、やがて自分もそうなるのだ、と理解できている者は、親や教師なんてどうということはない、と思うからだ。逆らうよりも、従順なふりをして自分を貫いた方が生きやすいことを知っているのだ。そう考えれば、純粋なのは不良の方かも知れない。

「弟には、息子と娘がいる。息子は結婚したばかりだ」
「弟さんが、現当主ですよね。ということは、息子さんは七代目ですよね」
「そうだ。最後の当主になる予定だな。今、七代目は幸せなときにいる。と言うことは、現当主も今は幸せなときいるわけだ」
「あぁ、姉も今じゃいい母親だし、自分も息子が結婚をしてホッとしているときですもんね」
「五代目の葬儀も終わり、息子もいい女性と結婚をした。その息子だが、嫁には『この家は呪われている家だ、それでもいいか』と告げたそうだ。だが、この嫁さん『そんなの平気。私が跳ね返す』と言ったそうだ。そういう嫁なので、義理の姉、旦那の姉だな、ともよく気が合うのだそうだ」
「じゃあ、ものすごく平和で、楽しい家庭じゃないですか」
「そう、ということは、とても危険なのだよ。だが、当主は『そんなの平気だろう。まあ、オレが死ねばいいことだし』と言って動かなかったんだな。で、姉がこれじゃあダメだ、ってことで、知り合いを通じて、うちに相談に来たんだ」
「そういう経緯があったんですね。で、やっぱり呪いは・・・」
「あれだよ、元凶はね」
と言って先輩はお不動さんのお前においてある、黒い塊のモヤを出している包みを指さした。

「あれは、初代が大家の家から盗んだ衣類の残りだ。あれだけは、どうしても売れなかったそうだ」
「捨てることもできなかったんですか?」
「できなかったんだよ。だから、あそこにあるんだ。捨てようと、何回もしたそうだ。例の言葉を残して当主が亡くなる度に、あれがよくないんじゃないかと、まあ、誰もが気がつくよな。で、あれを寺へ納めようという話もあったのだそうだ。だが、いざ、あれを寺へ持っていこうとすると、大雨が降ったり、家族が突然、病気になったりとかで、納めるのが怖くなったんだな。捨てようとしたこともあったんだが、捨てようとした者は、原因不明の高熱にうなされる目に遭うのだそうだ。捨てるのを諦めると、高熱はすぐに下がるんだな。そんなことがあって、あれは屋根裏に長いこと放置されていたんだ。家を建て替えても、結局屋根裏に放り込んだんだな」
「触らぬ神に祟りなし、っていうか、怖かったんですね」
「そういうことだ。で、今日、俺が引き取ってきたんだ」
「そんなもの、よく引き取ってきましたね」
「簡単じゃないぞ。今回でその家に行くのは3回目だ。前回と前々回で、大家の霊に話をしたんだよ。もういいじゃないか、とね。説得に行ったんだ」
「じゃあ、その大家は納得して・・・」
「まあ、半分だけどな。怨み半分、納得半分、ってとこだな。じゃなければ、あんなに黒い塊にはならいだろ。こらから更に浄化していくんだ」
そういうと、また先輩は悲しそうな顔をしたのだった。
「あれは、前世とかじゃないんだ。江戸の終わりから、ずっと存在し続けている。たいしたもんだよ」
「そんな長く、どうやって存在してきたんですか? 魂の維持には、エネルギーが必要ですよね」
「そうだな。必要だ。そのエネルギーは、当主から奪っていたんだよ」
あぁ、そういうことか。当主が原因不明の病で亡くなったのは、あの大家の魂が奪っていたからなのだ。
「当主から、一辺に奪っていたんですね」
「そうだ。当主がなるべく一番幸せな時を狙って、奪ったんだよ。そういう時は、当主の魂のエネルギーが豊富だからな。で、不足してきたら、残された家族から少しずついただいていたんだ」
そうやって、長い間、魂を維持してきたのだ。そこまで、強く怨んでいるのだ。

「怨みはなぁ、苦しいんだけどね、怨む方も怨まれる方も。怨み続けるっていうのは、案外、難しんだけど、あいう怨みの塊になてしまうと、苦しくても平気になるんだろうな。ま、哀れなもんだよ」
「どこにも生まれ変わらず、この世にとどまる・・・ということは、あの世のルールに逆らっているってことですよね」
「そういうことだ。でもな、お前も何度か見ただろ。死んだ直後のことだ。あの世へいけず、さまよっている霊を見たはずだ」
そういえば、道の真ん中で突っ立ているお婆さんを見た。あれは・・・。
「あのときは、ただ働きさせられたからな。お前の大きなお世話で」
先輩は、そういうと、俺をにらみつけたのだった。
「す、すみません。あのときはご迷惑をおかけいたしました。まだ、霊界のルールがよく分かっていなくって・・・。面目ないです」
「ふん、分かればいいんだよ。あの塊も同じだよ。あの世へ行くタイミングをなくしてしまった、怨念の塊の哀れな存在だ。あの大家の遺族も今はいないそうだ。二代目や三代目あたりが調べたそうだが、大家が死んで間もなく、明治維新があって、そのどさくさに借家や持ち家は、奪われてしまったそうだ。まあ、当主の大家がいなくなったから、いいようにだまし取られてしまったのだろうな。ということは、結局は、大家一家は、何もかもなくなる予定だった、とも言える。たとえ、大家が生きていてもな。まあ、おそらくは、大家の先祖が結構あくどいことをしたんだろうな。因果応報さ」
そうか、そういうこともあるのだ。大家が強盗にあったのも、過去の・・・先祖の・・・因縁、とも言えるのだ。

「おそらく、あの大家の先祖は、ちょっとあくどいことをして土地を手に入れ、借家を建てたんろうな。まあ、金貸しとかやっていたんだろうな。で、ちょっと田舎の百姓にうまいことを言って金を使わせ、借金をさせ、その形に土地を取り上げた・・・と、まあそんなところだろうな」
「と言うことは、大家一家も呪われていた、ってことですか」
「まあ、そういうことだな。あの大家自身は知らないことだったろうけどね。でも、大家が殺され、その後の大家一家の離散を考察すれば、まあ、大家の先祖がろくでもないことをしたということは分かるよな。地主にはね、こういう話はよくあるんだよね。純粋に金を儲けて、将来値上がりの見込みがある土地を買っていった、というのなら、怨まれることはないが、金を貸して、その形に土地を取り上げて、地主になった場合は、怨みは残るよな。そういう地主は、いずれ消えて無くなるんだよ。因果応報さ」
因果応報・・・・。それは真理だ。逃れることはできないのだ。しかし、因果応報という言葉は、悪いことにのみよく使われるが、実際は、善いことをした場合にも当てはまる。つまり、善いことをすればよい結果がやってくるし、悪いことをすれば悪い結果がやってくる、と言うことなのだ。だが、往々にして善いことの方は省かれ、悪いことの因果応報のみが取り沙汰される。
「善いことが起きた場合、それは大抵は己の実力によるものだ、と思いたいからな、人間は。あのとき、善いことをしたことが、巡り巡ってやってきた、とは認めたたくはないだろ。自分のおかげだ、と思いたいのさ。逆に悪い結果がやってくると、それは自分のせいじゃなく、人のせいにしたがるものだ。自分以外の何かのせいにして、自分の責任を逃れたいんだな。だから、過去の因縁が現在の不幸を生んだとしたいのだよ。まあ、悪いことは全部先祖のせい、と言うことだな。それが外れではないこともあるし、当たっているかと言えばそうでもない事もある。確かに先祖の悪因が・・・と言うことはあるが、すべてではないな。まあ、多いけどね」
世の中の人は、それをどれだけ理解しているのだろうか? 自分の行為が子孫まで影響してしまう、ということを理解しているのだろうか? いや、ほとんどの人が理解していないだろう。ちゃんと因果応報を理解していれば、先祖の因縁で苦しむことはないのだし、現在においても犯罪は減るだろう。実際のところは、因果応報なんて誰も信じていない、のかも知れない。で、都合のいいときだけ、因果応報を持ち出すのだ。
「その通りだよ、よく理解しているじゃないか。世の中、そんなものさ。いくら我々が説教しても、変わらないな。もっとも、今じゃあ、因果応報は説教のときには使っていけないことになっているけどね」
そう言うと、先輩は再びあの黒い塊を見つめた。俺も一緒にそれを見た。

「あれ、前より薄くなっていませんか? 前は、ほんのちょっと前ですが、もっとどす黒かったと思うんですが」
「あぁ、ちょっと薄くなってるな。すこし、向こうが透けてみるからな。きっと、今の話を聞いていたんだろ。で、思い当たる節があったんだろう」
「先祖があくどいことをして儲けた、ってことですよね。それを少しは知っていたのかな」
「だろうな。で、あぁ、自分の家もそうだったのか、搾取したものは、搾取されるんだな、盗ったものは盗られるんだ、ということに気付いたんだろうな」
そうか、あの恨み骨髄の大家も、自分がなぜそうなったか、ということに思い至ったのだろう。だから、怨みの強さが弱まったのだ。
「そういう地主の運命というか、行く末というか、罪というか、そういうものは変えられないのですか?」
「あくどいことをして地主になった者たちの罪か? もちろん、消すことはできるよ」
「どうやってやるんですか?」
「その搾取した者を怨んで死んでいった者たちを供養してやれば、それで大丈夫だ。まあ、その供養は、長く続けなきゃいけないがな」
「でも、その相手のこと、よく分からないですよね。搾取した本人が、供養できればいいですが、そういうことってしないんじゃないですか? 搾取した本人は、借金の形で取り上げたんだから、と思ってますし」
「もちろんそうだ。搾取した本人は、供養なんてしないよ。そもそも、先祖の犯した罪が子孫に影響を与えるのは、罪を犯した者が死んでからだろ。先祖が犯した罪の影響で今の苦労がある、と気付くのは後の話だ」
「あぁ、そうか。で、先輩のような人に相談して、初めて先祖の罪が原因だと分かるんですよね」
「そういうことだ。だから、その時には、怨んでいる相手が誰だと言うことも、何人いるのかと言うことも、分からないんだよ。まあ、亡くなっているだろうということくらいしか分からないのだよ」
「じゃあ、どうやって供養するんですか?」
「その家の有縁無縁聖霊で供養すればいいことさ。怨んでいる者たちは、その家に縁はあったが、今は無縁だからな。だから、有縁無縁になるわけだ。それと罪を犯した張本人だな」
「そうやって供養すれば、子孫は難を逃れられるわけですね」
「そういうことだ。まあ、なんで先祖の罪の処理をしなきゃいけないのか、と思う者は多くいるがな、地主の場合、先祖からいただいている土地があるだろ。そりゃ、そういう財産には、罪もくっついてくるさ。財には罪がバランスよくくっついてくるものなのだよ。相続は、利益に対し、それ相応の罪ものっかて来るんだよ。そうやってバランスを取っているんだ」
利益と不利益、徳と罪・・・。それは、均等に平等にあるべき姿なのだ。なるほど、だから、地主の子孫がその土地を相続すれば、それで得た利益分の、先祖の罪も相続することになるのだ。バランスはとれているのである。相続というのは、目に見えている財産を相続するだけでなく、親の罪や徳をも相続することになるのだ。ならば、子孫のためを思うなら、罪はなるべく犯さない方がいい、ということになる。
「だからな、お釈迦様は、美田を残すな徳を残せ、と説いたんだよ。財産を多く残すよりも、徳を多く残した方が、子孫は繁栄するんだよ。それがこの世とあの世の仕組みなんだ。これは変えられないことだ。なぜなら、魂の世界とこの現実世界は、絶えずリンクしているからだ」
そうなのだ。この世とあの世は、常につながっている。お互いに影響し合っているのだ。その間を取り持っているのが寺であり、僧侶なのだ。そのことを俺は、あの世を巡ってきて、痛感したのである。
「あの世とこの現実世界の仕組みが、今はよく分かるだろ。これは本当のことだ。真実なんだよ。だけど、信じる人は少なくなってきたな。うちに相談に来ても、先祖の罪なんて話になると、そこで拒否反応を示す人たちもいる。そういう人たちに、この世とあの世の仕組みを説くには、骨が折れるよ。まあ、そういう時代になってしまったのかな、とも思うが、こういう話を説く僧侶が少なくなったことも事実だからな。我々も反省しなきゃいけないとは思うな」
難しい世の中である。真実が受け入れられなくなったのには、それなりの理由があるのだろう。TVによるオカルト的なショーや、インチキ宗教者やインチキ教祖、怪しい新興宗教などの存在もその原因の一つだろう。それよりも、そういうインチキをインチキ、と言えない僧侶もダメなのだと思う。いずれにせよ、本当の話が出来る僧侶が増えなくては、あの世とこの世のリンクの話も伝わらないのだろう。
「そう。これから宗教は、やりにくい時代が来る。今まで通りでは、真実は伝わらないだうな。だから、我々僧侶も、それこそ正念場だと言えるな。ま、お前の役割は大いに役立ったがな」
「俺の役割ですか?」
「お前、俺のじいさんに言われただろ、ただ取材をせよ、それを世に伝える者がいるから、とな」
「えっ?、あぁ、そういうことですか」
「そういうことだ。で、後は天界だな。天界に行って、神通力の修行をしてこい」
そういうと、先輩は珍しく大きく笑ったのだった。俺の横では、夜叉さんも笑っていたのだった。


いよいよ天界か・・・。そう思うと、なんだかドキドキしてきた。もちろん、心臓はないから、そういう気持ちなっただけなのだが。
「なんだか、ちょっと緊張しますね」
「まあ、今まで見てきた世界とは、ずいぶん異なるからな。ま、百聞は一見に如かず、だ。さっさと行って来い。夜叉さん、こんなヤツですが、もう少し付き合ってやってください」
「あぁ、いえいえ、大丈夫ですよ。私も結構楽しんでますから。なんといっても、閻魔様の宮殿で控えているのも、退屈ですからねぇ、はっはっは」
夜叉さん、妙に機嫌がいい。それも、天界を案内できるからなのか。
「そりゃ、夜叉さんだって、天界は楽しいだろう。今じゃあ、あまりよその天界へは行ってないのでしょ?」
先輩が夜叉さんに、珍しく質問をした。
「そうですな。はるか昔には、あちこち出歩きましたが、今じゃあ、行っても大した驚きはないですしね。人間界を覗いていたほうが、面白いですよ。いろいろなことをやってくれますから」
「あの、それは、人間が愚かってことですか?」
俺がそう聞くと、先輩が即座に答えた。
「当たり前だろ。人間は愚かな生き物なのだ。まあ、だからこそ、面白いんだけどな」
「そうそう、人間は愚かです。そこが、天界の住人にはない、面白さがあるところなんですよ。天界はね、神通力があるだけに、工夫も努力もないんです。まあ、あまりネタばれもいけませんから、詳しいことは言いませんけどね」
ネタばれ、なんて言葉が出てくるとは、思ってもみなかった。夜叉さん、なかなかの人間界通だ。
「暇があれば、いつも人間界を見てるからね。ま、いつも暇なんだが」
そういうと、夜叉さんは、苦笑いをしたのだった・・・ように俺には見えた。
「まあ、いいから、さっさと行けよ。ビビってんじゃないよ」
「あぁ、はい。行きますよ。魂のエネルギーも満タンになったようですし。でも、なんだか先輩の寺って落ち着くんですよね」
「当たり前だ。寺が落ち着かないようでどうする。寺に来たら、なんか落ち着く、気持ちいい、ってならないといけないんだよ。そうならない寺は、ダメな寺だ。うちは、ダメな寺じゃないからな。だから、相談に来る人も、みんな長居していくよ。帰りたがらない」
「やっぱりそういうもんですよね。エネルギーは満タンになったのはわかるんですが、なんか離れがたいというか、すっかり落ち着いちゃって、ここにず〜っといてもいいかなって思うんですよね」
「あのな、お前に居ついてもらっちゃあ、迷惑だから。さっさと行け」
冷たいなぁ〜、と俺はぶつぶつ言っていたが、夜叉さんも
「私も長居したくなりますな、ここは」
と小声で言っていた。それだけ、先輩の寺は気持ちがいいのだ。来る前は、どうせ嫌味を言われるし、小言をいわれるし、行くのは嫌だな・・・と思うのだが、来てみると落ち着くし、気分がいいのだ。
「さて、じゃあ、夜叉さん、お願いします」
「では、天界へ行きますか。それでは、住職、また報告に来ます」
そう言って、夜叉さんと俺は、本堂で手を合わせてから、先輩のほうに向き合った。
「じゃあ、先輩、天界へ行きます」
「おう、行って来い。天女の誘惑に気をつけろよ。あははは」
「な、何ですか、それ?」
と聞いている間に夜叉さんが光を放った。天界への移動が始まったのだ。俺の質問は、無視されたのである。

「ここは・・・」
そこは、山だった。どうやら、我々は、山の中にいるらしい。
「ここ、山ですよね」
なんとも無様な質問だが、そういうより他はない。
「あぁ、山だ。シュメール山だよ」
「シュメールって・・・それ、エベレストのことじゃないですか?」
「まあ、そうともいうな。でも違う。うぅん、経典では、須弥山と書いてあるな。昔々のインド人は、エベレストがとてつもない高さの山だ、という認識だったんだな。でも、頂上まで登れないわけではない。また、山の中に住む住民もいた。実際のエベレストは、当時のインド人でも手が届く範囲でもあったわけだが、彼らは、そこに神秘性を見たのだろうな。というか、感じ取るものがいたんだろうな。この山はね、精神世界の山だけど、人間界の山とつながっているんだよ。つまり、エベレストの延長にあるんだ」
「え〜っと、ちょっと待ってください。ということはですね。実際のエベレストの上に精神世界の須弥山が続いていると・・・そういうことですか?」
「そういうことだな。だから、ここは、地上ともつながっているんで、『地居天、じごてん』と呼ばれている」
「ほう・・・。えっ、ということはですね、エベレストを上って、頂上まで行きますよね。その上にこの山があるって・・・どういうことですか?」
「まあ、見えないからな。エベレストの頂上に行くと、目に見えない山の入り口があるんだよ。精神世界への入り口だな。そこへ入れば、この山に登ることができる。ただし、肉体がある場合は、登れないな。魂の状態にならないとな」
「えっ、じゃあ、もし、エベレストの頂上で、精神を統一し、そのまま死を迎えれば、この須弥山の入り口を見つけることができ、さらにこの山に来ることができるんですか?」
「それは可能であろう。そうやって、はるか昔のインド人の修行者は、ここを見つけ、それを地上にいる霊感の強い修行者に伝えたのだろうから。ちょうど、今お前さんがやっているようにな」
あぁ、そういうことか。俺は、ようやく納得したのだった。今、俺が霊界・・・あの世の世界を旅していることは、すべて先輩に伝わっている。先輩は、それを記録し、機会があれば人々に話をする。そうして、死後の世界を紹介しているのだ。同様に、はるか昔のインド人の修行者・・・その頃は仏教はないから、ヒンドゥー教なのか原始宗教なのかは知らないが、いずれにせよそうした修行者がエベレストの頂上に至り、魂の存在になって須弥山という、エベレストとつながった精神世界の山を見つけたのだ。そして、それを地上にいる、生きた修行者に伝えたのであろう。だから、インドではその世界観が定着したのだろう。それを仏教も取り入れているのは、当然のことだ。そういう世界観が信じられていたからだ。でも、実際、その世界があるのだから、はるか昔のインド人には驚かされる。
「さてと。門は・・・。あぁ、あそこだな」
夜叉さんが、指をさしたほうに、大きな門があった。そこへ我々は向かうのだ。我々は歩き出した。といっても、それほどの距離ではない。

門に至る。大きな門だ。京都の寺々にも大きな門があるが、その比ではない。数倍くらいの大きさはあるだろう。その大きな門は、開いていた。
「入るぞ」
「誰もいませんね」
「いや、いるさ。天界に生まれ変わるものは、必ずここに来る。だから、門番はいるよ。ほら」
我々が門に入ろうとしたとき、ふと、人のような姿が現れた。その姿は、兜をかぶり、甲冑を身に着けていた。まるで、戦国武将であるが、甲冑はスマートで、細めのものであった。
「おや、夜叉殿ではないか。なぜ・・・あぁ、そうか、案内役か? ということは、そこの者が聞新か?」
「あぁ、はいそうです。私が聞新です」
なぜか俺はテンパってしまい、硬くなってしまった。隣で夜叉さんが笑っている。
「何ビビってるんだ、お前。門番の姿に驚いたのか?」
「あぁ、この甲冑か? ここへ来るものは、みんな驚き、緊張するな。まあ、この姿が決まりだから、着ているだけなんだけどね。でも、緊張感を持つことは、いいことだな。それに、ごくごく稀に、間違ってここに来る者がいるからな。そういう場合は、この姿は有効だしね」
門番は、姿かたちはいかついが、話すとそこら辺のオッサンという感じだった。話しやすいタイプである。いや、それよりも、ごくごく稀に迷ってここに来る者がいるってどういうことだ?
「あぁ、本当は、天界へ生まれ変わる予定ではないのに、何の拍子か、ここへ来てしまう者が・・・そうだな、百年に一人くらいの割合でいるんだな。生まれ変わりシステムも、完全ではないのかもな。バグかな?」
門番は、俺の心の中の疑問を感じ取って、先に答えてくれた。それにしても、バグって・・・。
「そういう言葉も覚えるんだよ。そうじゃないと、門番も勤まらないさ。いろいろ話してくるしさ、質問してくるだろ? だから、現代人の言葉も覚えないとね。ま、これでも、最近の流行も知っているんだぜ」
そういうと、門番は肩を揺らせながら笑ったのだった。
「ところで、この門は、北の門だ。お前、知ってるか?」
「北の門?ですか?」
「なんだ、知らないのか。そうか、じゃあ、中に入る前に説明するか。っていうか、俺が説明してもいいのか?」
門番は、夜叉さんにそう尋ねた。夜叉さんは、「いいよ。教えてやってくれ」と軽く答え、「庭で休んでいるよ」と、門の中に勝手に入っていった。気楽なものである。勝手知ったるなんとやら、なのだろう。

「そうか、じゃあ、俺が説明してやる。まず、ここがどこだかわかるか?」
そう聞かれたので、先ほど夜叉さんに聞いた話をした。
「うんうん、じゃあ、この場所の名前は? ここは、何天でしょうか? 答えは10秒以内な」
「えっ、それは知りません。須弥山天?」
「ブッブー、残念。ここは下天だ。お前知らないのか? 織田信長の話」
そう言われ、思い出した。確か、信長が好んで舞ったという幸若舞の唄だ。そこに下天が出てくる。確か・・・。
「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり・・・ってか。あははは。それだよそれ」
俺が言う前に、門番が歌ったのだった。なんだか、軽いノリだ。
「軽いっていうな。楽しいヤツと言え。まあいい。ここは下天だ。ちなみにな、なんで人生50年、下天の内をくらぶれば、という言葉になっているかわかるか?」
「あ〜、わかんないです」
俺も口調が砕けてきた。
「そうだろそうだろ、わかんねぇだろうな。あのな、人間の50年が、ここじゃあ、たった1日なんだよ」
「えっ!、つまり、この下天で1日たったら、人間界では50年経過しているってことですか?」
「そういうことよ。ここの1日=人間界の50年、ってことよ」
あぁ、そういうことか。浦島太郎が、竜宮城から戻って、誰も知らない人ばかりだったというのと同じなのか。浦島太郎は、玉手箱を開けて、時間調整したのだ。浦島太郎の場合、竜宮城で3日間過ごした。帰ってきて、経過していた時間は、詳しくは書いていないが、おそらくは60年くらいだろう。ということは、竜宮城の1日=人間界の20年くらいか。
「そういうことだな。だいたい神々が住むところは、寿命が長いんだよ」
「じゃあ、もし私がここで1日過ごしたら、人間界では50年進んでいることになりますよね」
「そういうことだな」
じゃあ、ここでこうやって話しているうちにも、人間界では時間がどんどん進んでいることにならないか? 俺がこうしているうちに、先輩はどんどん年をくっていく、ってことにはならないか?
「あ、それは、大丈夫。まだ中に入っていないからな。今は、時間停止状態だ。でも、中に入れば時間は進むが、時間は調整できるんだよねぇ。天界側からな」
「はい?、それってどういうことですか?」
「う〜ん、今説明するとなると、難しいんだが、天界から守護霊としてきた霊体と会ってないか?」
あぁ、そう言えば、女房の守護霊のじい様と会ったことがある。そうか、その時の時間は、どうなっているのだ?
「そうそう。時間経過はあるんだけど、それは相対的なものでな。守護霊として天界から来ていても、人間界の時間が早く進むわけじゃない。人間界の時間は、通常で進む。それにこちらは合わせることができるんだよ。だから、心配はいらないんだな」
なるほど、天界から人間界へ行ったとしても、人間界の時間が速く進むわけはないのだ。来訪者は、現地の時間に合わせるのだ。
「ま、一種の相対性理論かな。あはははは」
いろんなことを知っている門番である。

「さて、下天には、実は、入り口が四方にある。東西南北だな。で、お前が住んでいた世界、地球は、北の宇宙に属する」
「ちょっと待ってください。どういうことですか?」
「あぁ、そうだな。古代インド人が感得して得たことなんだがな。彼らは、大したものだよ。生きながらにして、精神世界にやってきて、我らやもっと上級の神々と交流をもってだな、宇宙の形というか、構造を教えてもらったんだな。で、その宇宙の構造だが、中心に大日如来がおわします。そこに巨大な星があると思いな。ま、宇宙の中心だからな。その大日如来を中心として、東西南北に巨大な世界があるんだ。う〜ん、宇宙全体を大宇宙とすれば、東西南北の宇宙は、中宇宙だな。で、その東西南北の中宇宙の中に、○○系の小宇宙が存在する。北の中宇宙の中には、太陽系という小宇宙があるんだ。お前らが住んでいる宇宙だな。北の中宇宙には、太陽系以外にも、実は小宇宙があるんだが、太陽系の住人じゃ行けない小宇宙だ。気づいている者も・・・まあ、いないよな。まあ、それはいいとして、お前は北の小宇宙の住人だから、下天も北の入り口に来ることになっているんだ」
「じゃあ、例えば、南の中宇宙の住人が亡くなって、天界へ生まれ変わることになれば、その人は下天の南の門に来るんですね」
「そういうことだ。わかっているじゃないかい」
まあ、それくらいのことはわかる。
「そりゃそうだな。俺の説明がバッチリだからな。イェーイ」
門番は、そういったと同時に、変なポーズをした。
「なんだお前、ジョジョ立ちを知らないのか? つまんねーヤツだな」
なんだそりゃ。というか、ジョジョ立ちくらいは知っているが、まさか天界の入り口の門番がやるとは・・・。大丈夫なのか、この門番。
「おっと、それは余計な心配だぜ。俺はしっかり、きっちり仕事をしているからな」
やれやれである。

「さて、この北の下天の守護神はどなたか知っているか?」
「いえ、知りません」
「そうだろそうだろ。知らないよな、一般人は。いいか、ここの守護神様はな、毘沙門天様だ」
「毘沙門天?・・・えっと、四天王の、あの毘沙門天?」
「そうだ。毘沙門天様、いいか様だ。下天はな、四天王が守っている世界なんだよ。東は持国天様、南は増長天様、西は広目天様、そして我らが北は毘沙門天様がいらっしゃるのだよ。下天は、四天王様の世界でもあるんだ。とは言っても、ここは天界の入り口であるだけなんだけどね」
そういうと、門番はちょっと寂しそうな顔をしたのだった。


「まあ、いいや。中へ入れば分かるさ。ま、俺の説明も以上までだ。あとは、中に入って毘沙門天様に直接聞きな」
門番は、そう言うと、また妙なポーズで中を指さした。小声で「ノリが悪いねぇ」などと言っている。
俺は、門の中に入っていった。中は、広い和風の庭になっている。もっとも、これも俺のイメージでそう見えているに過ぎないのだろう。見る人によっては、洋風だったり、お花畑だったりするのだ。俺には、お寺の池を囲んだ庭園に見えていた。中に入るとすぐ、夜叉さんが長椅子に座っていた。
「よう。門番の話は終わったようだな」
そう言いながら、夜叉さんは立ち上がった。
「はい、これから中の建物に入って、毘沙門天さんから話を聞けと」
「門番は、そう言ったんだ。ふむ、なかなかわきまえている門番だな」
とニヤニヤしていた。そして、「ここから入るんだ」と言って、大きな建物・・・これも俺のイメージなのだが、それは巨大寺院に見えていた・・・の入り口を示した。

中に入る。ちょっと薄暗い。長い通路があって、そのまま俺たちは進んだ。通路の左側は庭、右側は部屋のようだ。夜叉さんは、勝手知ったるなんとやら、のようにどんどん通路を進んでいった。通路の先は行き止まりで、大きな扉がついていた。夜叉さんが、その観音開きの扉を開いた。
「待っていたぞ、門新。どうやら、門番のおしゃべりに捕まったようだな。ふっふっふ」
声の方向・・・この部屋の正面・・・には、大きな毘沙門天様が立っていた。その身長は、6メートルほどあろうか・・・。右手に槍、左手に塔のようなものを持っている。鎧甲冑に全身を包んでいる。まさに、絵で見たことがある、毘沙門天そのものだった。
「よく来た。門新。何なりと聞くがよい」
俺は、毘沙門天の姿に圧倒され、しばらく声が出なかった。
「おい、何ビックリしてるんだ。しっかりしろ」
夜叉さんがそう言って、俺の背中を叩いた・・・ように俺には感じた。そのおかげでようやく俺は我に返ったのだった。
「あ、あぁ、はい。私は門新です。えっと、お聞きしたいのは、ここの役割です。門番の方は、『ここは天界の入り口であるだけ』と言ってました。それはどういう意味なのでしょうか」
話しているうちに、緊張感がとれてきた。いい調子だ。
毘沙門天様は、「ふむ」とうなずき、
「そのままだ。ここは天界の入り口にしか過ぎない。だから、ここにとどまる者はいない」
「つまり、ここは通過点と言うことですか」
「そうだ。北の世界で天界に生まれ変わることが決まった者は、必ずここに来る。それは門番に聞いたな」
「はい、聞きました」
「なぜ、ここに来ることになるのか。それは、ここに来た者が、本当に天界に生まれ変わることが決まったものかどうか、確認しているのだ」
「ということは、中には間違ってくる者もいるのですね?」
「そうだ。まあ、100年に一回くらいの割合だがな。天界に生まれ変わるはずでは無いものが、やって来ることがある。そういうものが来たとき、正しき生まれ変わり先に送り返すのが、ここの役目だ」
なるほど、それが門番が言っていた「稀に間違ってやってくる者」のことだったのだ。
「それだけではない。中には、修行者が瞑想中にここに来ることがある」
「瞑想中に? それは生きている人間が、ということですよね」
「そうだな。厳密に言えば、生きている修行僧の魂が、ここに来ることもあるのだ。天界に通じようとすれば、まずはここに来ることが決まりだからな」
そういうこともあるのだ。しかし、瞑想して、天界に来られるというのは、その修行僧はかなりの達人なのではないか。
「もちろん、今ではそういう修行僧も少なくなったのだがな。全くいないわけでは無い。ほんの僅かだが、そういう能力を持った修行僧もいるのだよ。お前の先輩のような者がな」
「せ、先輩が? あの先輩が?」
「驚くことでは無いであろう。あの者は、霊界に迷っている魂を送り込んでくることもある。瞑想中に天界を覗くこともあろう。そうしたとき、ここを通るのだよ。また、お祓いなどで我等四天王の力を借りに願うこともある。あの者は、不動明王様や観世音菩薩様、弘法大師様とも深く感応道交しているようだしな」
あの先輩が・・・と思ったが、なるほど、そうでなければ、大きなお祓いはできないだろう。あのとき見た執念の塊の黒い魂・・・。あんなものを扱うのだから、多くの神々や仏菩薩の力を借りなければならないのだろう。となれば、普段から天界や仏界・菩薩界などと通じている必要があるのだ。
「だから、あの者は、口には出さないが、結構いろいろなこと知っているぞ。通じる者には、少しは話しているようだがな」
毘沙門天様は、そう言うと少し微笑んだ。

「さて、ここの役割はわかったな」
「はい、わかりました」
「というわけで、ここは退屈なところだ。なので、私は、分身を使って、日本全国で活動しているのだ。遙か昔からな。さて、どうする? ここにいても仕方が無いぞ。次へ進むか?」
「はぁ、そう言われるとなんと言っていいのやら・・・。そうですね。特に尋ねることも無いですし・・・。次の天界と言うと、どこになるのですか?」
「次は、トウリ天だ。帝釈天様が仕切っている天界だ。別名、三十三天とも言う。その名の通り、三十三の国がある。段階といった方がいいかな。簡単に言えば、サザエのような渦巻き貝を想像するがいい。下から段階的にその国のレベルが上がって行くのだ。三十三番目の国が一番下だな。てっぺんが帝釈天様が住まう国だ。その差は、ものすごく大きい。帝釈天様が住まう国のレベルは、他の天界のレベルよりも上だとも言われている。なかなか到達できない世界だな。天界に生まれ変わる者の多くは、このトウリ天に行く。何番めの国に行くのかは分からないが、多くは三十三番〜二十五番あたりだな。まあ百聞は一見にしかず、だ。見た方が早いな」
天界にもレベルがあるのだ。それにしても、帝釈天が仕切っている世界は、とてつもなく大きいようだ。なにせ、三十三カ国あるのだ。それが渦巻き貝のように上に伸びているらしい。巨大な渦巻き貝になっているのである。三十三番目のものが、帝釈天の住まう頂上に行けるまでには、どのくらいの修行が必要なのだろうか。
「それは、トウリ天の住人に聞けば分かるであろう。まあ、許されるなら、直接、帝釈天様に聞けばいい。ま、許されるならば、の話だが」
許されるなら、帝釈天様にも会えるのか・・・。
「そのチャンスは、ゼロとは言わない。夜叉さんも同行しているようだし」
俺は、その言葉を聞いて、わくわくしてきた。それにしても、夜叉さんは、どれだけの者なのだ。帝釈天様とも関係があるのか・・・。
「夜叉殿も、なかなかたいした者なんだよ。なあ、夜叉殿」
その言葉に、夜叉さんは「いやいや、買いかぶりですよ」とニヤニヤしていた。天界の神々の人間関係、じゃない神関係はよく分からない。
「詳しいことは、実際にトウリ天に行って、そこの住人に聞いた方がいいだろう。さぁ、早く行くがよい」
「はい、分かりました。でも、そのトウリ天にはどうやって行けばいいのですか」
「ここを出て裏の山を登るだけだ。夜叉殿が知っているさ」
そういえば、ここシュメール山の頂上は、帝釈天の世界につながっているということを夜叉さんが言っていたような気がする。

早く行け、という毘沙門天様の言葉にしたがい、俺と夜叉さんは、巨大な建物を出て、裏山に向かった。
「天界に生まれ変わることが決まった人は、みんなこの建物を出て裏山を登るんですか?」
俺は、夜叉さんに尋ねた。
「あぁ、そうだ。天界に生まれ変わることが決まった者は、必ず毘沙門天様に会い、間違いが無いか確認されて、裏山に向かうんだ。で、登る。ここがその入り口、天界へ生まれ変わるための登山道の入り口だ」
そこには、二人並んで歩けるくらいの幅の道があった。
「登山道に入る前に、そこの右の方へ行ってみな」
夜叉さんが指さした方へ俺は移動した。そこは、見晴らしのいい場所だった。なにげに上を見る。そこには・・・。
「な、なんですかあれは! シュメール山の頂上に・・・なんですか、アレ? 大きな、まさしくサザエのようなものが乗っかっていますよ!」
「あれが三十三天、トウリ天だよ」
シュメール山の頂上にそれは乗っていた。岩でできた巨大な渦巻き貝のようなものだ。その渦巻き貝のてっぺんは、霞がかったようでよく見えない。よく見えないが、とてつもなく高いことは分かる。
「めちゃくちゃ大きいじゃないですか。いや、その大きさは、理解できないですよ」
「ま、宇宙にあるようなものだからな。大きさは、計り知れないさ。で、あそこに行く為にそこの登山道を登るのだが・・・」
「あんな遠くにあるんですよ。果たしてたどり着けるんですか?」
「と、まあ、誰しも思うだろうな。だが、登ってみるとそうでもないんだよ。で、アレを見て、『これでは天界に自分は到達できない』と思った者は、脱落する。簡単に言えば、待機所に行くことになる。まあ、そういう者は少ないけどな。天界に行けるチャンスをもらったからには、登ってやる、と思う方が多い。まあ、肉体もないし、供養があれば疲れることも無い。その供養がなければ、落ちることになるけどな」
「落ちるって、登山道からですか?」
「そうだ。登山道からだ。その場合、待機所を過ぎて更に下に行く場合もある。子孫の信仰の問題だな。全く供養がなければ、かなり下に行くだろうな」
ここでも、供養が必要となるのだ。
「通常の供養がある場合、多くの者は、目的の国に到着するのに約1年かかる。つまり、1周忌の頃にトウリ天の何番目かの国に到着するわけだ。だが、1周忌が無いとその国に入れず、下に落ちることになる。どこに落ちるかはわからない」
そんな仕組みになっているのか・・・。これでは、「やったー、天界に生まれ変われるぞ!」と喜んでばかりもいられない。ここでも、子孫の供養が頼りなのだ。

「だが、中には例外もある。生きているとき、ものすごく徳を積んだ者は、この登山道を通らず、毘沙門天様の建物を出た途端、自分が行くべき国に到着している。まあ、そういう者は稀だが、いないわけではない」
「そういう人は、よほど信仰が深かった人なんでしょうね」
「それだけじゃ無い。社会にも貢献していただろうし、多くの人の為になることをした者だろうな。あるいは、多額の寄付をしたとかな。大きな徳をもった者は、登山道はパスできるんだ。本当は、そうした説明を各個人にするのが毘沙門天様の役割だ」
そういうことだったのだ。毘沙門天様の存在は、そこに来る死者・・・天界に生まれ変わることが決まった者・・・に対し、各個人事に登山道の仕組み、供養の必要性、人間界の時間で目的地に到着するのに約1年かかるなどの説明をするのだ。そして、登山道をパスして、直行で目的地に行ける者には、その説明もするのだ。
「そういえば、我々がいたとき誰もいませんでしたよね?」
「あの長い通路を忘れたのか? 右側は全部部屋だったんじゃないか?」
「えっ? ということは、各部屋でみんな説明を受けていた、と」
「毘沙門天様は、分身ができると言っていただろ」
あぁ、そういえば、退屈だから分身して日本全国に散らばっていると言っていた。そうならば、俺がいた部屋以外で、他の者に、説明をしていたことは容易に考えられる。
「それにな、お互いに出会わないようにできているんだ、ここは。待機所や今までの世界のように混沌としていないんだよ。ここは整理されているんだ。だから、誰とも出会わない。なぜなら、お互いどこの国行くかも分からないし、レベルも違う。そんなことを話し合われても、意味が無い。しかも、国に着いた頃、その者は生まれ変わっているのだ。どういう姿で、どういう状態で、その国に着いて生まれ変わるのかは、皆知らないだろ。この姿のまま、国に着きましたー、と言うわけじゃないんだよ。旅行じゃ無いからな」
意外と厳しいルールがあるようだ。どうやら、この登山道に来る者は、誰とも会わないようにできているらしい。その方が、ここに来る人たちの為になるのだろう。

「なるほど、仕組みは分かりました。でもですね、我々も約1年かけて、あそこを登るんですか?」
「そんなわけにはいかんだろう。俺だってそんなの嫌だ。登りたいならお前一人で登れ」
「ですよね。俺も嫌ですよ。登りたくないです。なので、ここは夜叉さんの神通力で、ってことですよね」
そう言うと、一瞬、嫌な顔を夜叉さんはしたが、
「まあ、その通りなんだがな。はぁ〜、仕方が無いから、トウリ天の最下位の国に即座に行くことにする。あそこだ。このシュメール山とくっついている所にある国だ」
俺は上空を見上げた。よく見れば、シュメール山の頂上、そのとんがった所は、渦巻き状の下の部分、平らなところに突き刺さっているように見える。どうやら、その突き刺さったところに国があるらしい。
「いいか、行くぞ」
夜叉さんがそう言うと、いつものように我々は、光に包まれたのだった。


着いたところは、俺の想像とは全く違った世界だった。
天界と言えば、まずはお花畑じゃないか。一面花が咲き乱れ、あちこちの木々にも花が咲き、いい香りが漂い、明るく、春のぽかぽか陽気といった感じで、空には天女が舞っている・・・・。それが天界だろう。
だが、ここは違った。
「な、なんですかこれ、足下は砂利だし、妙に殺風景だし・・・」
「まあ、仕方が無いな。ここは天界と言っても最下層だ。トウリ天の一番下、三十三番目の天界だからな」
「と、言ってもですよ、舗装すらされていない道と、この殺風景さ。人間界の方がまだマシじゃないですか。しかも、向こうの方は、モヤがかかって何も見えないし」
そうなのだ。この世界は、全体的に霧がかかっているのだ。おかげで、先がよく見えない。これでも天界なのか?
「ま、いろいろ事情があるんだよ。それよりも、ちょっと先に進もう。誰かいるはずだから」
夜叉さんは、さっさと前に進んでいく。と言っても、道などないように思う。何もない砂利だらけの広場だ。建物も森も花も何もない。

しばらく歩いて行くと、大きな池に出た。池なのか? 否、これは湖といったほうがいいか。水面は、霧がかかっていてよく見えない。それでも、目をこらしていると、所々に蓮の花が咲いている。
「これ・・・」
「湖だよ。蓮の湖だ。だから、この辺にいるはずなんだが・・・あ、いたいた」
湖の畔を誰かが歩いている。どうやらこちらに向かっているようだ。靄っていて、影しか分からない。
「あぁ、すみません。湖の周りを点検していたんですよ」
そう言いながら、その影は近付いてきた。その影が、姿を現した。それは、まるでギリシャ彫刻のようだった。

「え〜っと、あなたたちは正規ルートの方じゃないですね。あぁ、その姿は夜叉様。で、お連れがいると言うことは・・・あなた方、こちらの世界を取材している夜叉様と聞新様、ですね」
「あぁ、そうだ。俺は取材してないがな。取材しているのはこいつだ」
そう言って、夜叉さんは、俺を親指で示した。
「はぁ、取材者の聞新です。よろしくお願いします」
何だか少しやりにくい。ギリシャ彫刻に話しかけているようだ。
「はい〜、こちらもよろしくお願いします。うん? あぁ、この姿ですか?」
「えっ、あぁ、はい、その・・・・」
「天界では、まあ、神通力がついてからですが、外見は自由にできるんです。自分が好きな姿になることができるんですよ。私は、人間だったとき、ギリシャ彫刻が大好きだったんです。一度、あんな姿になりたいと、そう思っていたんですよ。だから、この姿なんです」
そう言って、ギリシャ彫刻男は、ポーズをとった。すると、その男は、どこかで見たことのあるようなギリシャ彫刻の像になったのだった。
「あぁ、はい、まさしく・・・」
「でしょ。私は、この姿が気に入っているんですよ」
「先ほど、人間だったときと言いましたが・・・」
「あぁ、それも神通力がついていれば、の話なんですけどね、自分の前世が分かるんです。大雑把ですけどね」
なるほど、神通力を身につければ、いろいろなことができるのだ。
「尤も私の神通力なんぞ、まだまだですけどね。夜叉様の足下にも及ばないほどですよ」
その言葉に、夜叉さんは、軽くうなずいていた。何だか、ここに来てから夜叉さんは反応が鈍いというか、素知らぬ顔をしている。否、この男が来てからだ。夜叉さんの嫌いなタイプなのかも知れない。
「あの、ちょっと質問していいですか」
と言う俺の言葉にギリシャ彫刻男は、「うんうん」と軽くうなずいた。
「ここって、天界ですよね。その割には、花もなく木もなく、森もなく、天女もいないし、何だか天界って感じがしないんですけど」
俺がそう言うと、ギリシャ彫刻男は、大きくため息を吐いた。そして、
「仕方が無いんだよねぇ。だって、ここ一番下だもん。あのね、天界って言っても、差がすごいんだよねぇ。全部が全部、人間界に伝えられているような、森があって、木々があって、花が咲き乱れ、春のぽかぽか陽気のような暖かさがあり、天女が舞い・・・なんてのは、ないんですよ。残念ながら。もう少し上に行けば、そういう世界が見えるかなぁ・・・」
とギリシャ彫刻男は、そう言うと、上を見て、下を見て、また大きくため息を吐いたのだった。それから俺の方を見て、
「でも、こんなに大きな湖もあるし、蓮の花だって、ほら、ちらほらと咲いているでしょ」
と、両手を広げ、湖の方に身体を向けたのだった。しかし、どうリアクションを返していいのかわからない。俺も夜叉さんも、何も言えなかった。

ギリシャ彫刻男は、ゴホゴホと咳払いをして、
「正規ルートでないあなたたちは、シュメール山とこことのつながり場所を見ていないですよね」
「そんなところがあるんですか? あるなら、ぜひ見たいです」
「そうでしょそうでしょ。シュメール山のほぼ頂上にそれはあるんですけどね、そこを通過しないと、天界には生まれ変われないんですよ。じゃあ、早速行きましょう。私の神通力でお二人をお連れします」
ギリシャ彫刻男がそう言うと、夜叉さんは
「あぁ、俺は勝手に行くから、そいつを連れて行ってくれ。二人分の神通力も一人なら、少しはエネルギー消費も節約できるしな」
と言い、行った途端、消えてしまった。やはり、この男が嫌いなのだ。まあ、俺も苦手なタイプではある。なんせ、ギリシャ彫刻男だし。
「あぁ、流石は夜叉様、あっという間に消えてしまわれた。では、我々も行きましょう。は〜い!やー!」
なんだ、その気合いは・・・。と思っているうちに、俺の身体は浮いた。
「じゃあ、飛びますよ〜、着いてきてください」
「えっ?、瞬間移動じゃないんですか?」
「私一人ならできますが、二人だと・・・」
「なら、夜叉さんと私が行けばよかったじゃないですか」
「あぁ、そうですね、そういう手がありましたよね。でも、もう遅いんで、私の神通力が切れる前に、さっさと行きましょう」
俺はものすごく不安になったのだった。もし、途中で神通力が切れたら、俺はどうなるのだろうか・・・?

不安を抱えつつも、俺は、ギリシャ彫刻男の後を追って、ふわふわと飛んでいった。地の果てのような所を飛び、ふいと端が見えた。その端をぐるっと下に回り込むと、なんと、シュメール山の頂上付近に着いたのだった。
「ふ〜、何とかたどり着きましたねぇ。イヤイヤ、落っこちなくてよかった。まあ、落ちてもシュメール山のどこかに落ちるだけですから、大丈夫ですけどねぇ」
「あぁ、そ、そうなんですか。へぇ〜」
じゃあ、お前は落ちればよかったじゃないか、端っこからダイブしろよ、お前一人でな!と、俺は心の中で叫んだ。おそらく、こいつは俺の心を読む神通力は持っていない。持っていないはずだ。もし持っていたなら、俺がギリシャ彫刻男の姿を思いっきりバカにしているのが分かるはずだからだ。だが、この男は気付いていない。俺の心が読めないのだ。
「じゃあ、ここからは少し歩きま〜す」
「あ、歩くんですか?」
「大丈夫ですよ、すぐそこですから」
やはり、コイツ、心は読めないようだ。それにしても、何なんだ、コイツのこの脳天気さは・・・。俺は、大きくため息を吐いたのだった。
しばらく歩くと、大きな池?湖が現われた。そこには、夜叉さんがいた。ボーッと、湖を眺めている。
「さすが夜叉様。速いですね〜」
夜叉さんは、ちらっとギリシャ彫刻男を見たが、何も言わずため息を吐いた。きっと、お前が遅いんだよ!と言いたかったのだろう。

その池というか、湖には、蓮の花が、あちこち咲いていた。
「ちょうどどなたか、天界へ生まれ変わる方がくるといいんですけどね」
ギリシャ彫刻男は、そういうと下の方を覗いている。
「あぁ、いい感じに来ますよ。これはグッドタイミングですね。いや〜、聞新さん、バッチグーです」
コイツ、ちょっと言葉遣いが古いようだ。待機所生活が長かったのかも知れない。
「我々の姿が見られると困るので、ちょっと隠れましょう。あぁ、そこの影がいいですね」
ギリシャ彫刻男が指さした先には、大きな木があった。そこに隠れろというのだ。
「さぁ、行きましょう。夜叉様も行きますか?」
「俺は姿を消せるからいい」
夜叉さんは、ぶっきらぼうにそう言った。いや〜、夜叉さんのこんな態度、初めて見た気がする。よほど、嫌いと見える、このギリシャ彫刻男のことが。俺は、なんだか、面白くなってきた。この先、あの天界の中をこのギリシャ彫刻男が案内すると言いだしたら、夜叉さん、どうするのだろうか? 俺は、その時が楽しみなってきたのだ。
『バ〜カ、帰るに決まっているだろ、お前に一人で付き合えばいい』
途端に夜叉さんの声が頭に響いてきた。ま、そりゃそうですよね、帰りますよね。ちょっと、残念な気もするけど・・・。『うるさい』夜叉さんの声は、それきりになった。

俺とギリシャ彫刻男が、大きな木の陰に隠れて見ていると、お婆さんが一人で山を登ってきた。
「はぁ、やれやれ、やっと頂上だわいのう。毘沙門天様は、湖があるから、そこで待っとれと言っておったが・・・。あぁ、この湖かのう。まあ、たいそうな湖じゃのう。ほう、綺麗な蓮の花じゃ。な、なんじゃあれは!」
婆さんが驚いたのは、湖の向こうの方から巨大な蓮の花が流れたきたからだ。それは、よく湖にあるスワンボートような感じだった。大型のスワンボートくらいの大きさの蓮の花が流れてきたのである。その蓮の花は、お婆さんの前で止まった。
「はぁ、これに乗るのかいのう。待っとるようじゃから、乗るかえ」
お婆さんは、蓮の花に乗ったのだった。そして、その蓮の花は、ゆっくりと向こうの方へ流れていったのである。
「どうですぅ、これが本来のルートなんですよ。で、あの蓮の花は、トウリ天のどこかの湖に流れ着くんですよぉ。んで、湖に着くと、その時は蓮の花は閉じているんですけどね、それがプワ〜と開くんですぅ。すると中から・・・」
「まさか桃太郎みたいに、赤ん坊が出てくるって言うんじゃないでしょうね」
「いや、そうなんですよ、その通りなんです。聞新さん、よっくわかりましたねぇ」
いや、誰だってそう思うだろ、という言葉は飲み込んだ。
「そのシーンも見たいですよねぇ」
「そりゃ、もちろん見たいですが、今のお婆さんだって、三十三天の中のどこに行くか分からないですよね。もしかしたら、それが分かる神通力を使えるんですか?」
「もちろん、そんな高度な神通力使えませんよ。あはははは。だから、私のいたところで待ってましょう。大きな蓮の花が流れてくるのを。大丈夫ですよ。すぐに流れてきますから」
コイツの言うことなんて当てになるのか?、と思ったが、ほかに方法はないようだし、夜叉さんはきっと知らない顔をするだろうから期待できないし、じゃあほかに方法はなさそうだから
「そうですか、じゃあ、戻りますか?」
と俺は言ったのだった。ギリシャ彫刻男は、
「そうですね、戻りましょう戻りましょう」
とニコニコしながら言ったのだったが、どうもギリシャ彫刻の像、ニコニコしてはしゃぐ姿が違和感ありすぎだ。とてもついて行けない・・・。
「で、どうやって戻るのですか?」
俺は、息苦しさを感じながらも、ギリシャ彫刻男に聞いてみた。
「そうですねぇ、方法はいろいろありますが、さっき飛んだので、神通力のエネルギーがもうほとんど残っていません。なので、タクシーを呼びます」
「タ、タクシー?」
「あぁ、さっきのお婆さんのと同じ方法ですよ。蓮の花を呼び寄せ、それに乗って、戻るんです。これだと、ほとんどエネルギーを使わないんですよ」
ギリシャ彫刻男は、ニコニコしながらそう言ったのだった。
おい、ちょっと待て、と言うことはだな、俺は、この男とあの蓮の中で二人っきりになるというのか? おいおい、それはないよ、夜叉さん何とか、と思い、夜叉さんの方を見ると、夜叉さんは肩を振わせていた。笑っているのだ。しかも、きっと大笑いだ。と言うことは、夜叉さんは、俺を助ける気は無い、ということだ。あぁ、この世の終わりだ。

ということで、俺はギリシャ彫刻男と一緒に、蓮の花に乗ることになったのである。いよいよ蓮の花が流れてきた。ギリシャ彫刻男が、まず乗った。
「さぁ、早く乗ってくださ〜い」
真っ白なギリシャ彫刻の像が、何か言っている。仕方が無く、俺は蓮の花に乗り込んだ、その時だった。
『大丈夫だ。本の一瞬さ』
と言う声が聞こえてきた。いやいやいや、一瞬じゃないだろ、お婆さんの乗った蓮だって、ゆらゆらと流れて行ったぞ。まあ、思うより早く消えたけど。
『だろ。ほんのちょっとの辛抱だ、あはははは。ギリシャ彫刻の像が重くて沈んだりしてな。ぎゃはははは』
俺はもう、何も言えなかった。

つづく。


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