バックナンバー(六)    第三十五話〜第三十九話

「あぁ、落ちていったなぁ・・・・。」
船頭さんは、ちょっと悲しげにそうつぶやいた。
「ま、しょうがねぇなぁ。自分の責任だからな。しかたがねぇよ・・・・。」
まるで自分に言い聞かせているような言い方だった。
「滝に落ちていく人は、結構いるんですか?。」
黙っていることがつらくて、俺はそう聞いてみた。他に聞くことが思いつかなかったのだ。
「滝に落ちていく人間かい?。あまりいねぇなぁ・・・。そこまで罪の重いヤツは、たいていは地獄に直行さ。普通は、どんなに溺れそうになっても、なんとか向こう岸に渡れるってぇもんさ。まあ、あのオバサンの場合は、本当なら地獄へ直行していたところを、お不動様の温情でチャンスをもらったんだろうに。惜しいことをしたねぇ・・・。」
船頭さんの言葉の中に「チャンス」と言う言葉があったことに、俺は何よりも驚いた。

「なんでぇ、なに驚いた顔してるんでぇ。滝に落ちるヤツが少ねぇってことが、不思議なのかい?。」
「あ、いや、そうじゃなくって、その船頭さんが『チャンス』なんて言葉を使ったから。」
「なに言ってんだ、おめぇは。ワシはな、400年以上、ここにいるんだ。今時の言葉くらい、覚えるよ。お前さんたち死人が教えてくれるからな。はっはっは・・・。」
船頭さんに笑顔が戻った。
「そういえば、さっきも『スカウト』って言ってましたよね。」
「気付くのが遅いんだよ。ここの連中は、みんな今時の言葉を知ってるぜ。ただ、あまり使わないだけさ。」
「しかし、そうか・・・。そうですよね。ここで滝に落ちて行くような者なら、初めから地獄へ行ってますよね。ま、あのオバサンも、今頃は自分の愚かさに気づいているかな・・・。」
「どうだろうねぇ。自分が愚かだってことは、なかなか認めたくないからね。」
「はぁ、ごもっともです。」
「えらく殊勝じゃねぇか。どれ、もうそろそろ滝だぜ。ゆっくり立ってみな。」
そういわれて、俺は、ゆっくり立ってみた。船が揺れる。俺はびっくりして、腰を下げた。
「なにびくびくしてるんだ。いいから、立って見てみなよ。」
「は、はい。しかし、ちょっと揺れるんで・・・。」
そう言いながら、俺はそろそろと立って、滝のほうを見てみた。

そこは大きな黒い穴だった。船は、三途の川が、その大きな穴に落ちていく、ギリギリのところまで来ていた。
「こ、こんな、穴の際まで来て大丈夫なんですか。お、落ちないですよね。」
「な〜に、でぇじょうぶだよ。ワシを信じな。それよりも、すごいだろ。中が見えるか。」
「は、はい・・・。否、中は見えないです。真っ黒で・・・。黒い・・・というより、何ていうか・・・。真っ暗闇というような、そんな感じですね。重くて苦しい、いや〜な感じがします。」
「そりゃ、まあ、そうだろうな。なんせ地獄の入り口だからな。暗くてもしょうがねぇや。」
「ここへ落ちると、どれくらいの速さで地獄へ行くんですかねぇ・・・。」
「そりゃ、まちまちよぉ。地獄にもいろいろランクがあらぁな。」
「ランク?。地獄にランクがあるんですか?。」
「おうよ。地獄でも軽い地獄から重い地獄まであるのさ。詳しいことは知らねぇが、何でもお釈迦様を殺そうとしたダイバダッタは、未だに地獄へ落ち続けてるってぇ話だからな。」
「それ、お釈迦様がいた頃の話でしょ。今から2500年くらい前の話ですよ。」
「そうよ。ま、ワシも詳しくは知らねぇけどよ。そうらしいんだよ。でな、地獄でも段階があって、それによって落ちていく速さも違うらしいよ。」
「そうなんですか。でも、裁判なしで直行する場合は、迎えが来るんじゃないですか。確か、火の車の迎えが来るんですよね。私、それに会ったんですよ。」
「そうかい。あんた火の車に会ったのかい。誰が乗ってた?。」
「否、誰も乗せていませんでした。迎えに行くときだったんで。」
「そうかい。ま、あれに乗って地獄に行くヤツは、速くいっちまうんだろうな。地獄へな・・・。さあて、そろそろいいかい。船を向こう岸に向けるぜ。」
「あぁ、はい。もう十分見ました。あんな暗黒の世界に落ちなくてよかった。悪いことはしちゃいけないですね。」
俺は、そういうと、静かに座った。

暗黒・・・。思い出すだけで背筋がぞっとする。生前の罪により、あの暗黒の世界に行くものもいるのだと思うと、あらためて自分がそんな罪を犯していなくてよかったと、ほっとするのだった。それにしても、あの暗闇は深かった。とてつもなく深かった・・・。
その時ふと思いついた。あの暗闇は、重い罪を犯してしまった者の、その心の暗闇なのではないだろうかと。
人間誰しも、心の中に闇の部分は持っていよう。暗い部分がない者など、おそらく一人もいまい。その闇の部分が強い者が、闇の部分に光を当てることができぬ者が、重くて深い罪を犯してしまうのだろう。
だから、地獄へ通じる滝の穴が、暗黒であっても仕方がないのだ。地獄そのものが暗黒の世界だし、心に暗黒の世界を持ち過ぎた者が、地獄へと堕ちていくのだろうから。
だから、あの暗黒は、地獄へ堕ちた者の心そのものなのだろう。

「人ってぇのは、どんなヤツにも暗い部分はあらぁな。しかし、その暗い部分を大きくしちゃならねぇ。ワシはそう思う。心の中の闇を大きくしちまった者が、深い罪を犯すんだ。そういうもんじゃねぇかなぁ・・・。」
「船頭さんもそう思いますか。私もそう考えていたところなんです。」
「そうかい。あんたもそう思ったかい。心の闇は誰にでもある。あんたもワシもそれが大きくならなくってよかったなぁ。」
「はい、そうです。よかったです。早死にしちゃいましたけどね。もう少し生きたかったんですけどね。」
「そりゃ、長生きしたに越したことはねぇ。人間、生まれた以上、自分の寿命は全うするものだ。心の闇を大きくしたくねぇからといって、自分で死を選んでいいわけじゃねぇ。大事なのは、心の闇にとっ捕まれないようにすることさね。」
「心の闇に捕まれる?。」
「おうよ。その闇に己が捕まって、どうにもならなくなった時、人は罪を犯すんじゃねぇのか。他人に対する怨みとか、妬みとか、羨みとか、憎しみとか、そういうもんに捕らわれたとき、罪を犯すんだろう。或いは、自分を卑下するとか、やるせないとか、嫌気が差したとか、誰もわかってくれないとか、そういうもんに捕らわれたとき、自分の命を絶つんじゃねぇのか。
そういう連中は、いずれも己の心に巣くう闇に捕らわれた者たちなんだろう。」
「なるほど、そういうことですよね。その闇に捕らわれなければ、罪を犯さないわけだ。」
「そういうことだ。誰もが持っている心の闇に、光を当ててやれば、誰も罪なんぞ犯しゃあしねぇよ。ワシはそう思うよ。」
「でもどうやって光を当てるんですか。」
「そりゃ、家族であったり、友人であったり、先生であったり、いろいろさ。本当は、そいつは坊さんの仕事なんだろうがな。ま、ま、最近の坊主は銭勘定の方が忙しいからな。普通の人より欲がふけぇ。嫌な時代だな。」
「そういう坊さん多いですからね。中にはまじめな坊さんもいるんですけどね。」
「まじめねぇ・・・・。」
そういうと、船頭さんは渋い顔をして黙ってしまった。仕方がないので、俺もしばらく黙っていることにした。別に他に質問も思いつかなかったし・・・。

どれくらい黙っていただろうか。ふと、船頭さんが口を開いた。
「ま、大方の坊さんが勉強不足よ。魂の存在を認めねぇ坊さんまでいるってぇじゃねぇか。」
「えぇ、そうですね。それはどの宗派の本山でもそう言っているようですね。」
「そんなわけねぇのにな。魂の存在を認めなかったら、ワシらはいったいどうなるんだ。否、それより、仏様の存在はどうするんだ。それも否定するのか。魂の存在を否定するのなら、仏様を拝む意味もなくなっちまうよ。」
「まあ、そうなんですけどね。たぶん、各宗派の本山が、魂の存在を認めないのは、霊が憑いているとか、水子が祟っている、なんていう怪しい霊能者がはびこっているからでしょう。」
「だからよ、そこじゃねぇか。そういうおかしな連中がいるからこそ、坊さんたちが正しい霊の話をしてやればいいんだろ。霊はいるんだよ。だけど、そう簡単には憑いたりはしねぇとか、先祖は祟らねぇとか、水子は祟らねぇとかさ。」
「えっ? 水子って本当にあるんですか?。」
「なんだ、おめえさん、水子知らねぇのかい。お前さんも水子なんてウソだと思ってるくちかい?。」
「あれは、インチキ霊能者の金儲けの種でしょ。水子が祟っているとか言って、恐怖心をあおり、水子の霊をお祓いするとか供養するとか言って、高額のお布施を要求するんでしょ。ああいうのがいるから、いけないんですよ。さっき地獄へ堕ちていったオバサンもそのパターンですけどね。」
「そうかい、そうかい。あんたは水子はいねぇって、そう言うんだな。」
「えぇ、まあ、そうですよ。いませんよ、そんなの。」
「そうかい。ふ〜ん・・・・。そうさな。ここら辺りならちょうどいいだろう。おい、お前さん、ちょっと川の中に手を突っ込んでみな。」
「川の中にですか?。いいですよ、けどそれが何か・・・・。あっ、な、なんだこれ。」
俺はびっくりして手を引っ込めた。川に手を入れたとたん、何かヌルヌルするものが手に絡んできたのである。
川から引き出した俺の手には、ヌルッとした粘膜のようなもので覆われた、玉状のものが絡んでいたのだった・・・・。

俺を乗せた船は、いつの間にか滝から遠ざかり、川幅の中ほどまでに進んでいた。ここまで来ると、対岸の様子がおぼろげながら見える。対岸は、河原が大きく広がっていた。そして、その向こうは、それほど高くはない山がいくつか連なっていた。河原には・・・、あれは何が動いているのだろうか、よくは見えなったが、何かが動いているような、そんな気がした。
しかし、それよりも気になったのは、この俺の手に絡み付いている得体の知れないヌルヌルの物体だ。これは、いったいなんなのだろう。気味が悪かった・・・。

「こ、これってなんですか?。この、気持ちの悪い、ダラーッとした、球状のものは何なんですか?。なんか、ヌルヌルしますよ・・・・。」
「このあたりの川の水には、そいつがいっぱいいるんだよ。船に乗ったすぐの頃には、この川の水は、ただ濁っていただけだろ。だがな、ここいらじゃあ、そいつがいっぱい流れてくるのさ。」
「流れてくるって・・・、いったいどこから・・・?。あっ、ひょっとして・・・。まさか、そんな。」
「ふん、気付いたかい。そうよ、それは、現世から流れてくるのさ。それが、水子だよ。水子の魂さ。ちゃんと生まれることができず、胎児のまま死んでいった子供の魂よ。」
俺は、あわてて手を振った。そのヌルヌルの球状のものを払い落とそうとしたのだ。
「川の中に手を突っ込みな。自然に流れてくさ。」
俺は、言われた通りに川の中に手を入れ、そのヌルヌルのもの・・・・水子の魂・・・を川へ戻した。それは、俺の手から離れ、自然に流れていった。
「あ、あれが、水子の魂なんですか・・・。そ、そんな・・・。ほ、本当に?」
「うそ言ってどうなるよ。ワシが、お前さんにうそつく必要があるかい?。・・・・まあ、信じられねぇのも無理はないかも知れないが、ありゃあ、水子の魂さ。うそじゃねぇよ。・・・・子供を産まねぇ事情はいろいろあるだろうが、どうあれ堕ろされた子供の魂は、すべてここへ流れてくるんだよ。」
「そ、そうだったのか。じゃあ、水子の霊って、本当にあったんですね。」
「あぁ、もちろんさ。困ったもんだぜ、こんなに川を汚しちまってよ。母親の身体の事情でどうしようもない場合は仕方がねぇが、遊びの果てに処分するヤツがいるってぇのが、許せねぇ。そういうやつは、一度ここへ来て、川の掃除をしてもらいたいね。いったい、命ってぇものをどう思っているんだろうね。」
船頭さんは、はき捨てるようにそういった。

確かに、今の世の中、簡単に堕胎する若者が増えている。否、分別のあるはずの大人でもそうだ。不倫の果てに若い女性を妊娠させたりする大人もいるのだ。その挙句、堕胎をすることになる。それは、つまり、一つの命の火を消し去ることになろう。一種の殺人・・・・なのかも知れない。
この世に生まれていない、だから、戸籍もない・・・。ただ、それだけの理由で、罪にはならないのだ。しかし・・・。
しかし、罪にはならないからといって、堕胎を許していいものだろうか。どうしても仕方がない事情がある場合は別として、遊びの果てに、不倫の果てに、邪魔だから、面倒だから、産まれては都合が悪いから、という理由だけで、堕胎していいのだろうか・・・・。その点には、俺自身疑問も感じるし、憤りも覚える。しかし、水子の霊となると・・・・。

俺は、水子の霊なんてものは信じてはいなかった。しかし、あんなものを見てしまっては、触ってしまっては、信じなければ仕方がない。・・・・否、待てよ、確かにあの球状のものは水子の魂なんだろう。船頭さんがうそをつくとも思えないし。しかし、それと、現世での水子の祟りなどは関係ないんじゃないのか?
確かに、水子の魂というものはある。しかし、それと、現世への影響というのは、関係ないのではないだろうか。やはり、それは、いい加減な霊能者が金儲けのために、宣伝していることなのではないだろうか。俺は、その考えを船頭さんにぶつけてみた。

「そう言うと思ったよ。ま、百聞は一見に如かず、だ。もうすぐ、その理由が見えるから、待ってなよ。」
「えっ、どういうことですか、それ。」
「つまりよ、そのなんだ、水子の霊の現世への影響の理由だよ。ワシはな、祟りなんていう言葉は好きじゃねぇ。実際、ありゃあ、祟りじゃねぇ。水子は祟ったりはしないもんだ。ただな、現世へ影響を及ぼさなきゃならねぇ事情ってもんがあるのよ、水子の方にもな。ま、それが、目の当たりにわかるから、もうちょっと待ってな。」
「ということは、船頭さんは、水子が現世に影響を及ぼすことはある、というのですね。で、その理由はもうすぐわかる、というのですね。」
「そういうこった。ただし、ワシは、あくまでも影響はある、とは言うが、祟りとは言わねぇぞ。祟りって言う言葉は、あんたが言うように、インチキ霊能者が金を儲けるために、脅しに使う文句よ。ありゃ、祟りなんかじゃねぇ・・・・。そんなおどろおどろしいもんじゃなく、もっと悲しいもんよ・・・・。」
「なるほど・・・・。祟りではないが、水子は現世へ影響を与える・・・・ということですね。で、その理由が、もうすぐ見える・・・。うん?、わかるじゃなくって、見えるんですか?。」
「そうだよ。見えるんだ。もうすぐな。お前さんが着く予定の、向こうの岸を見てみな。うっすら山が連なってるのが見えるだろ。」
「はい、見えます。この船に乗ったときには見えなかったんですが、今はうっすらと・・・霞がかかった感じですが・・・・見えます。」
「その麓の河原は、見えるかい?。河原が、山の麓まで広がっているだろう。」
「はい、わかりますよ。見えます。そうそう、さっきも思ったんですが、その河原、なんか動いてますよね。うーん、虫のようなものが。」
「ほう、見えるかい。ま、もっと近付きゃ、それが何かはっきりするだろうよ。」

船頭さんがそう言ったときだった。船がいきなりグラッと揺れたのだ。俺は、びっくりして叫んでしまった。
「うわっ、な、なんだこれ。どうしたんですか。ゆ、揺れてますよ。あ、危ない。」
船頭さんも、これにはあわててた。
「おう、こりゃ、どうなっているんでぇ。何で揺れるんだ?。あ、危なねぇ。えいっ、くそ!。てやんでぇ、このやろう。」
船頭さんは、必死の形相で船の揺れに対応していた。しかし、船頭さんの意思とは反対に、船が大きく揺れたのだった。
「うわっ! ひっくりかえるぅ!」
俺は、そう叫ぶと、浮き上がった側の縁にしがみついた。船頭さんも、座り込み、船にしがみついた。
その時だ。手が、人間の手(だろう)が、傾いた側の船の縁をつかんだのである。
「う、うわっ!、手、手だ!。な、なんだこれ!」
俺は、恐怖で身動きが取れなくなってしまっていた・・・・。

その手は、船の縁をしっかりつかんだ、そして・・・。
「ぷはぁ〜、助かったワイ。はぁはぁはぁ・・・・。」
なんと、あの強欲爺さんだったのだ。強欲爺さんは、片手で船の縁に捕まり、頭を水面に出していた。おかげで、船は、大きく傾き、今にもひっくり返りそうだった。俺と船頭さんは、浮き上がってしまった側の縁にしがみついていた。
「な、なんだ、お前は。おい、ジジイ手を放しやがれ!」
船頭さんがそう叫んだが、当の爺さんは
「なんじゃと、手を放せだと!。ばか者、そんなことをしたら、ワシが溺れるじゃないか!。おい、いいから、早くワシを乗せろ!」
と怒鳴り散らす始末だ。これには、船頭さんも頭にきたらしい。
「馬鹿やろう、てめぇなんぞにバカ呼ばわりされるいわれはねぇんだよ!。とっとと手を放しやがれ。船が転覆しちまう!」
「はっはっは、なんだ、そうか。船が転覆しそうなのか。そりゃ面白い。どれ、もう片方の手も船にしがみつこうか。はっはっは〜。」
とんでもない強欲爺さんである。しかし、この爺さんは、確か船に乗れる資格はないはずだ。無理やり船に乗って、転覆させられたのだから。なのに、なぜ船の縁にしがみつけるのか。

強欲爺さんは、もう片方の手でも船の縁を掴もうとしたが、どうやら失敗したようである。危うく、船の縁を掴んでいるほうの手も放しそうになっていた。
「お、おい、船頭、なにやってるんだ。早くワシを助けんか!。へんなドロドロのものが絡み付いて気持ちが悪い。早くせい!」
「てやんでぇ!、おとといきやがれってんだ!、水子の魂にまみれてろ!。」
船頭さんも負けてない。さすがこの道400年である。しかし、あの強欲爺さんもたいしたものだ。
「ふん、そうか。じゃあ、このままでいてやる。こんなに船が傾いたんじゃ、先に進めないだろ。はっはっは、さぁどうする。」
その通りだ。こんなに傾いていちゃ、船を操れない。立とうとすれば、簡単に転覆してしまう。いったいどうするのか。こんなアクシデント、今までにあったのだろうか。
「せ、船頭さん、どうするんです。あの爺さんの言うとおりですよ。これじゃ、先に進めないし、いつか転覆してしまう。いったいどうするんですか?。」
「まあ、黙ってワシにまかせな。」
船頭さんはそう言うと、船底の板を一枚はがしたのだった。
「この板はな、緊急用の板なんだよ。船がひっくり返ったりしたら・・・まあ、そんなことは滅多にねぇんだがな・・・・勝手に船底から外れてワシや客を助けてくれるのさ。だからよ、仕方がねぇから、この板であのジジイを助けてやろうって寸法さ。」
「あ、なるほど・・・。」
俺は妙に感心してしまった。至れり尽くせりじゃないか。

船頭さんは、船底の板を外すと、片手で強欲爺さんの目の前に投げた。
「あんたを船に乗せるわけにはいかねぇ。そいつは決まりだからな。だが、それでよければ捕まっていきな。そいつに捕まれば川底に沈むことはねぇ。」
「なんじゃと、ワシにこの板で行けというのか。おい、そこの若いの、ワシと代われ。ワシが船に乗って、お前がこの板に捕まっていけ。どうじゃ、それがいいじゃろ。」
強欲爺さんは、無茶苦茶なことを言い出した。
「わからねぇジジイだな。あんたも懲りないねぇ。さっき、無理やり乗った船を転覆させられただろ。何度やっても同じだぞ。あんたが船に乗れば、この船といえども転覆する。その時は、あんた助からねぇぞ。ついでに言やぁ、あんたがこの船に少しでも無理やりに乗り込もうとすれば、足を引っ張られるところだったんだぜ。あんたな、ここは死者の世界だ。この世界のことは、閻魔様が決めているんだ。いい加減、それに従ったらどうでぇ!。」
船頭さんは、相当頭にきたのだろう、顔を真っ赤にして大声で怒鳴った。さすがにこれには強欲爺さんもびっくりしたようだ。従わざるを得なかった。
「ふん、仕方がない。まあ、この板で勘弁してやるか。」
強欲爺さんは、やっとのことで船の縁から手を放し、船頭さんの投げた板にしがみついた。しかし、どうもこの爺さん、泳ぎにくそうだった。それもそのはず、強欲爺さんの身体には、あのヌルヌルの球−水子の魂−がいっぱいまとわりついていたのである。

「おい、船頭、このヌルヌルのドロドロの球は何とかならないのか。」
やっとのことで船を立て直した船頭さんは、再び立ち上がって船を操りだしていた。船頭さんはニヤニヤしながら、強欲爺さんの問いに答えた。
「そのヌルヌルかい?。あぁ、何ともならねぇよ。・・・・それにしても、あんたには妙にまとわりつくなぁ・・・。ははーん、そうか。」
船頭さんは、そういうと、ニヤッと笑ったのだった。俺は気になって聞いてみた。
「あの爺さんに水子の魂がまとわりつく、特別な理由があるんですか。」
「あぁ、たぶんな。ま、聞いていな。」
船頭さんは、そういうと、強欲爺さんに話しかけた。


「あんた、随分と女泣かせたねぇ。そうだろ。おめかけさん、何人いた?。」
「ふん、大きなお世話じゃ。ワシはな、金もあるし、死ぬまで元気だったからな。女のほうでワシを放っておかんのよ。銀座に行こうが、祇園に行こうが、いつもモテモテだったからな。はっはっは〜。」
イヤなジジイである。俺のようなしがないサラリーマンには無縁の世界だ。
「そうだろなぁ・・・。で、そのおめかけさんには子供はいたのかい?」
「とんでもない。外で子供を作ったりしたら、相続のときにもめるだけじゃ。外には子供は作らんかったわい。」
さすが、強欲ジジイである。先々のことまで考えて女性と付き合っていたようだ。それにしてもイヤなジジイである。
「やっぱりな。それは、子供ができないようにしたわけじゃないだろ。堕ろしたんだろ。」
「ふん、それのどこが悪い。ワシの知ったことじゃない。ワシが堕ろしたわけじゃないんだからな。それに、ワシはちゃんと金を渡した。女も納得済みじゃ。それのどこが悪いんじゃ。」
なんてひどいヤツだ。避妊していたわけじゃないんだ。子供ができてしまったら、お金で解決していたんだ。闇から闇へと葬り去っていたんだ。しかし、この爺さんも爺さんだが、こんなイヤナジジイに群がってくる女も女だ。イヤナヤツばかりだ。これは、俺の僻みか?
「悪いなんて言ってねぇ・・・。ただな、堕ろされた子供の方はあんたを恨むわな。」
いいや、悪いヤツだ。断じて悪いやつだ。そうだ、堕胎された子供も恨むだろう。
「それがどうしたというんじゃ。関係ないだろ。」
「いいかい、爺さん。あんたにまとわりついているそのヌルヌルの球は、水子の魂なんだよ。現世に生まれることができなかった、胎児の魂なんだよ。」


一瞬、強欲爺さんの顔が引きつったようだった。しかし、さすがに強欲爺さんである。
「ワシが堕胎させたのは、もう随分前の話じゃ。何で今頃、ワシに絡んでくるんだ。」
「匂いがするんだよ。水子の匂いがな。あんたの身体には、堕胎された子供の怨みがついているから、それがここに流れている水子の魂たちにはわかるんだよ。だから、あんたにしがみついて来るんだよ。まあ、せいぜい、そのヌルヌルを味わうがいい・・・。」
「ふん、そんなもの、気になるかっ! ワシは平気だ。」
そういうと、二人とも黙り込んでしまった。さすがに、強欲爺さんといえども、自分のしてきたことを反省しているようだった。あるいは、単に気味が悪かった・・・・だけなのかもしれない。船頭さんは、そんな強欲爺さんに話をしてやるのが嫌になっていたようだった。その顔には、「救いようのないジジイだ・・・」という表情が読み取れた。
否、それは、ただ俺がそう思っただけかもしれないが・・・・。

しばらくは、だれもしゃべらなかった。強欲爺さんは、船に遅れないように、板に身体を載せた状態で、必死に手足をバタバタさせていた。その時、また爺さんが叫んだ。
「いて!、なんだこの板切れは!。くっそ〜、人にぶつかりよって。」
「あぁ、それは供養の塔婆だよ。現世のほうで、塔婆供養した場合、その塔婆はここへ流れてくるんだよ。」
「塔婆って、あの板のですよね。お墓なんかに立てかけてある・・・。」
「おおうよ、あの塔婆よ。昔は、供養が終わると、川へ流したもんさ。三途の川を伝って、死者のいる世界に届くようにと願いを込めてな。今は、小さな塔婆は流すようだが、川が汚れるってんで、大きな塔婆は燃やしちまうだろ。だがな、本当は流すもんなんだよ。そのほうが供養になるんだな。・・・ま、流さなくても、ここには届くがな、こうやってな・・・。」
「ふん、いろんなものが流れてくる川じゃな。迷惑千万だ。」
「あんたが流したものもあるだろ。・・・・大体な、この川は塔婆とかで汚れてるんじゃないんだよ。あんたのような汚い心の持ち主が現世で増えたせいなんだよ。現世に人間が、きれいな心を持ちゃあ、この川は汚れねぇんだよ。みんな、あんたのような人間のせいなんだよ。責任取れよ、爺さん。」

船頭さんの言葉に、強欲爺さんも黙らざるを得なかったようだ。いきなり、口をつぐんでしまった。なので、俺も黙って川面を見つめていた。
『生きている人間の心が汚れているから、この川も濁る』
船頭さんの言葉は、重く俺にのしかかった。確かに、生きている人々の心は汚れているかもしれない。しかし、そうじゃない人もまだまだ大勢いるはずだ。否、どちらかといえば、穢れている人のほうが少ないんじゃないか・・・。否、それとも、船頭さんの言うように、人間の心は汚れているのだろうか・・・。
「汚れきってしまっている人間は少ないだろうが、少しの汚れがたくさん集まったらどうなるよ。生きている人間たちの多くは、汚れきった心を持っているわけじゃねぇ。だがな、一人一人の少しの汚れがここには集まっちまうんだ。少しの汚れでも、たくさん集まればこんなになっちまう。だからな、なるべく、穢れた心は持って欲しくないね。こんな汚れた川は見たくねぇよ・・・。」
船頭さんは、寂しそうにつぶやいたのだった・・・。

そうこうするうちに、船は、向こう岸に近付いていた。今や、向こう岸が良く見える。驚いたことに、そこには、いっぱいの・・・否、無数の子供たちがいたのだった。
「あ、あれは、なんですか。子供じゃないですか。しかも、あんなにたくさん・・・。いったいなんで・・・。」
「あの河原が有名な賽の河原よ。あそこにいる子供たちは、川を流れてきたんだよ。」
「あれが賽の河原・・・。子供たちは流れてきたって・・・、子供は川を流れてなかったですが・・・。あ、そうか、でも、まさか・・・。」
「そのまさかよ。あの子供たちは、水子の成れの果てさ。三途の川を流れてきた水子の魂は、みんな、あの賽の河原に流れ着くのよ。で、そこで成長するんだ。赤ん坊にな。その後、すぐに2〜3歳くらいの子供になる。見てみな、それがよくわかるぜ。」
船頭さんは、重苦しそうな顔をして、そう言ったのだった・・・。

船は、賽の河原の少し手前で停まった。その位置からは、賽の河原の様子が良く見えた。
「なんじゃ、向こう岸へ渡らんのか。」
船と一緒に、板につかまりながら泳いできた強欲爺さんが聞いてきた。
「あぁ、渡らん。ここでしばらく賽の河原の様子を見ていくんだ。それに、この船やお前さんがたどり着く岸は、もう少し上流のほうだ。まあ、あわてなくても大丈夫だよ。あんたも、今後のために見ておくといいぜ。あの様子を・・・・。」
船頭さんは、ちょっと悲しそうな表情でそう言った。

賽の河原には、先ほどから川を流れてきている水子の魂−あのヌルヌルの球状のもの−が、いくつも流れ着いてきていた。その魂たちは、岸に流れ着くと同時に見る見るうちに成長を始めた。本来は母体内で成長したはずなのであろう。それが現世ではそうならずに、魂のうちにここへ来てしまった。そして、その魂は、今、俺の目の前で岸に流れ着いたところで、成長を始めたのである。
それは、急速な成長であった。見る見るうちに手や足がわかるようになり、顔がわかるようになり、次第に赤ん坊へと変身していったのである。
やがて赤ん坊は、川べりで「おぎゃー」と泣き声をあげた。何人もの赤ん坊が「おぎゃー、おぎゃー・・・」と泣いている。この賽の河原で産まれた赤ん坊−まさにここで産まれたのだ!−たちは、母乳も与えられないのに育っていった。手足をバタバタさせたかと思うと、笑うようになり、やがてハイハイしながら、川岸をあがっていった。次から次へと、ハイハイしながら赤ん坊たちは、岸を這ってあがっていったのだ。

川岸をあがって行ったところは、広くなっており、3〜4歳の子供たちが走り回っていた。先ほどの赤ん坊たちもその中に混じって、ハイハイをしている。しかし、その赤ん坊たちもやがて立ち上がり、他の子供たちと同じように走り廻るようになった。
しかし、またハイハイしている赤ん坊たちがやってきた。あとから流れてきた水子の魂が成長したのだろう。そうして、次から次へと赤ん坊は増えていくのである。


「どういうことなんじゃ、あれは・・・・。」
強欲爺さんがつぶやいた。
「この岸に流れ着いた水子の魂は、この岸で急速に成長するんだよ。それで、あっという間に3〜4歳くらいの子供になっちまう。あの子供たちがそうだ。大勢いるだろ。あの子達は、現世で堕胎された、或いは流産しちまった命のなれの果てだよ。」
「あれ以上は大きくならんのか。」
「ああ、そうだ。あれ以上は、なぜか育たねぇ。おう、爺さん、あんたの子供もあの中にいるんじゃねぇのか。」
「ま、まさか・・・・。そんなわけはなかろう・・・。」
そういうと、強欲爺さんは黙り込んでしまった。あんな強欲な爺さんでも、さすがにあの哀れな裸の子供たちを見ているのは、忍びないのだろうか。

「あれ?、船頭さん、あの子達は何をやっているんですか?」
俺は、子供たちの中に、座って石を積み上げている子供たちが何人かいるのを見つけたのだ。
「あの子供たちって、あの石を積んでる子供かい?。」
「えぇ、そうです。あれ、他の子供たちもやり始めましたね。石を積み始めている。」
「あれはよ、河原の石で塔を作っているのさ。」
「塔?・・・・ですか?」
「あれじゃろ?、賽の河原で石を積む・・・。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは故郷の・・・だったかのう・・・。」
「なんだ、爺さん知ってるのか?」
「伊達に年食ってるわけじゃない。全部知ってるわけじゃないがな。・・・・しかし、まさか、あの歌が本当だったとは・・・・。」
「あぁ、ワシも死んでここに来たときは驚いたがな。あの歌は本当だったんだよ。」
「じゃあ、あの子供たちは、親や兄弟のために、石で塔を作ってるわけじゃな。」
「そういうことだ。」
「ということは、鬼も・・・・出てくるのか?。」
「ああ、もうすぐ出てくるだろう。まあ、見てな。」
「あの〜、ちょっと待って下さいよ。その歌ってなんですか?。塔ってどういうことなんですか?。鬼って、あの第一裁判所にいたような鬼ですか?。」
「なんだ、お前、本当に何も知らないんだな。しょうがねぇなあ・・・。」
「す、すみません・・・。」
なんだか俺は、取り残されているような、とっても惨めな気がしてきた。

「お前さん、恐山は知ってるだろ?。」
「恐山って、青森県の?。」
「おうよ、その恐山よ。あそこに賽の河原ってのがある。そこへ行くと石がたくさん積み上げられたものが見られるんだが、見たことないかい?。」
「あぁ、そういえば、TV番組だったかな・・・・。見たことあるような気がします。確か、石を積み重ねたものがいくつも立ってたような・・・。」
「なんだ、情けねぇ。まあいいや。その石を積み重ねたものと、あの子供たちが積み重ねてるのと同じなんだよ。あれはな、仏様の塔−仏塔−を真似してるんだよ。インドの古い言葉で言えば、え〜っとストゥーパだ。卒塔婆のことだな。つまりは、供養のための塔だ。言やあ、お墓のようなものだな。」
「なんで、それをあの子供たちが作ってるんですか?。」
「それがさっきの歌よ。あれはな、現世にいる親のためや自分の兄弟姉妹のために建てているのさ。泣かせるじゃねぇか。えぇ、おい。自分は生まれてこなかったのによ、否、産まれてきちゃまずい存在だった場合もあるから、無残にも命を奪われたのによ、それなのに、現世の親のことを心配しているんだよ。自分が親の腹の中に宿っちまったから、そのせいで親が堕胎の罪を犯しちまった。責任は自分たちにある、だからせめて親の罪を軽くするために、ここで石の塔を作り拝んでいるんだよ。」
「え?、だって、あの子たちには罪はないじゃないですか。親の都合で堕胎したんでしょ。まあ、不幸にも流産って場合もありますがね。それにしても、多くの場合は、欲望の果てに、子供の命を奪ったんでしょ。その爺さんと愛人みたいに。」
俺は、強欲爺さんにあてつけで言ってやった。しかし、爺さんは何も言わなかった。強欲爺さんは、板に捕まりながら、じーっと賽の河原を見つめていた。なんだか拍子抜けである。

「あぁ、お前さんの言う通りなんだがな、そんなことは子供のほうは知らねぇことだろ。ここへきたのは、自分のせいだと思ってるんだよ。だから、親たちに迷惑かけねぇように、ああして塔を作って祈ってるのさ。けなげなもんじゃねぇか。」
船頭さんは、涙ぐんでいた。
「おい、なんだか、暗くなってきたんじゃないか。」
強欲爺さんが、ぼそぼそと言った。そういえば、なんとなく暗くなってきたような気がする。

第一裁判所を出て以来、辺りは曇りの日の日中くらいの明るさがあった。この三途の川もそうだ。結構明るいほうだった。しかし、今は、まるで夕方が迫ってくるような、そんな陰りが見え始めたのだ。
「山のほうから暗さがやってくるんじゃな・・・。」
強欲爺さんが、またつぶやいた。この爺さん、何か知っているのか、感じているのか・・・。確かに、賽の河原の向こうに見える山の上空が暗くなり始めている。
「お、鬼が、鬼が来るんじゃな・・・・。おい、船頭、そうなんじゃな。」
強欲爺さんは、ちょっと取り乱しているようだった。
「ああ、そうだ。なんだ、あんた鬼が怖いのか。鬼なら、第一裁判所にもいただろう。」
「はっ、何を言うか。ワシに怖いものなんぞない。じゃが、ここの鬼は・・・・。さっきの裁判所の鬼とは違うんじゃ。ここの鬼は、乱暴じゃろうが・・・。」
「どういうことなんですか。ここの鬼が乱暴って・・・。」
強欲爺さんは、「もうすぐわかる・・・」などといいながら、船の裏側−岸とは反対側−に泳いでいった。そして、船の影からそうっと岸を覗いているようだった。いったいどうしたというのだ。不動明王とも渡り合ったあの強欲爺さんが、今や小さくなっている。それどころか、怖がっているのだ。
「いったい、どうしたというんですか。ねぇ、何があるんですか?。」
俺は、気になって仕方がなく、そう聞いてみたが、強欲爺さんは何も答えてはくれなかった。ただ、船の陰から、賽の河原を見つめているばかりだった。
「な〜に、見てればわかるさ。あわてるんじゃねぇ。その爺さんが、怖がるわけももうすぐわかるよ。」
船頭さんがそう言ったときであった。
「うぅぅぅ〜、おぉぉぉぉ〜、うぅぅぅ〜、ぐぅおぉぉぉぉ〜。」
という、腹のそこに響くような、いや〜な音が聞こえてきたのだった。その音は、賽の河原の向こうの山のほうから聞こえてきた。
「あぁ、来た、来たんじゃ。鬼がきよった・・・。」
強欲爺さんが震えた声でそう言った。
「鬼ですか?。あの声は、鬼の声なんですか?。」
俺はそう尋ねてみたが、誰も答えてはくれなかった。それどころか、嫌な声−強欲爺さんによると鬼の声らしい−は、益々大きくなっていった。

さっきまで石を積んでいた河原の子供たちは、このイヤな声が聞こえると、一斉に逃げ廻り始めた。てんでばらばらに、あちこちに走り廻っている。いわばパニック状態だ。どうやら、声の主やこの後何が来るのか知っているようであった。

「ぐおおおおお〜、お前ら、また塔なんぞをこしらえているのか。」
その声とともに山の中から現れたのは、鬼だった。確かに鬼だったが、それはでかかった。十メートル以上はあろうか。河原の子供たちなどは、小さなものである。
「こんなものを作っても何にもならんぞ〜!」
鬼はそう叫ぶと、子供たちが作った石の塔をその大きな足で踏みつけた。子供たちは、走り回って逃げ惑うばかりだ。
「せ、船頭さん、子供たちが危ないじゃないですか。助けなくていいんですか。」
「助けるわけにはいかねぇな。そりゃ、無理ってぇもんだ。それとも何かい?。お前さん、あの鬼と戦おうってぇのかい?。もし、そう言うんなら、船を岸につけてやるぜ。」
船頭さんは、そう言うと、俺の顔を見てニヤッとした。
「そ、それもそうですね。あんなでかい鬼、俺に何とかできるものじゃないですね。しかし・・・。」
「胸が痛むかい?。そりゃ、あんたが正常な心の持ち主だって証拠さ。まあ、しかし、黙ってみてなって、目を逸らさねぇようにな、辛いかも知れねぇがな。」
船頭さんは、そういうと、岸のほうを見据えたのであった。俺もそれに習い、岸を見つめた。岸では、鬼が子供たちを追い回し、暴れ廻っていたのであった・・・・。

子供たちは逃げ回っていた。一生懸命造った石の塔も蹴散らされていた。鬼は、
「さぁ〜て、どの子を地獄へ連れて行こうかぁ〜。イヒヒヒヒ。」
と嫌な笑い声をあげながら、子供たちを追い回していた。それは、とても見るに耐えない光景であった。
「もう、そろそろかな・・・。」
「えっ?、何か言いましたか?」
「いや、何でもねぇ。まあ、よく注意して見てな。」
船頭さんは、何が言いたいのだろうか。しかし、船頭さんが注意して見てろ、と言うのだから、きっと何かあるのだろう。俺はさらによく川岸を見つめた。


「うん?、何かいい匂いがしてきませんか?。」
「気がついたかい。いい香りがするだろ。」
「はい、何だか、心が落ち着いてくるような、そんな香りですよね、これ。」
「よくわかってるじゃねぇか。で、他に気付いたことは?。」
船頭さんは、ぼんやり川岸を見つめながら聞いてきた。
「他に・・・。うーん、あぁ、そういえば、何となく、さっきより明るいような気もしますが。違いますか?。」
「正解だ。山の方を見てみな。明るいだろ。」
船頭さんの言葉に、俺は山の上を見てみた。すると、どうだ。そこには、一筋の光が差しているではないか。
「あぁ、光の筋が・・・。」
それは、雲間から差し込む太陽の光に似たような、そんな光の筋だった。異なるのは、その光は金色にキラキラ輝いていることだった。


その美しさに俺は言葉も出なかった。光の筋は、次第に太くなってきた。
「ほうら、いらっしゃった。おい、爺さん、そんなところに隠れてないで、出てきな。ありがたいぜ。」
船頭さんは、船の陰に隠れ、黙りこくっている強欲爺さんに声をかけた。
「ど、どういうことなんじゃ。何がおきるんじゃ。」
「なんだ、あんた、あの歌を全部知ってるんじゃないのか。」
「あの歌って、一つ積んでは父のため・・・の歌か?。」
「あぁ、そうそう。その歌の最後まで知ってるわけじゃないのか。」
「わしが知ってるのは、鬼が出てきて子供たちを地獄へ連れて行く、ってところまでじゃ。その続きがあるのか。」
「おうよ、あるんだよ、続きがな。ま、よく見てみなよ。わかるから。」
船頭さんにそういわれ、強欲爺さんは、船の陰からそうっと顔をのぞかせた。あのいまいましい強欲爺さんも、これじゃあ形無しである。

山の上の光は、次第に川岸にその光の向きを変えていった。子供たちも山の上の光に気がついたのか、その光に向かって走り出した。今や、岸いっぱいに光が届いている。
鬼は、なぜか子供たちを追うのをやめ、山のほうを見ていた。
「あ、あれは何ですか?」
「あれは何じゃ!」
俺と強欲爺さんが同時に叫んだ。なんと、山の上に大きな顔が現れたのである。その顔は、まさしくお地蔵さんであった・・・。
「これ、鬼や、子供たちをいじめるんじゃない。」
お地蔵さんは、ニコニコしながら優しい声でそう言った。


「あれは、お地蔵さんじゃないか。いったい・・・。いったいこれからどうなるんじゃ。」
「爺さん、あんたも救われるから、まあ、黙って見ていな。そんなコソコソしてなくても、堂々と見ていればいいんだよ。」
船頭さんは、笑顔で強欲爺さんに声をかけた。

お地蔵さんは、河原に降りてきた。お地蔵さんは、もちろん石のお地蔵さんではなく、まるでお坊さんのようだったが、もっと神々しい姿であった。その姿を見て、子供たちは、一斉にお地蔵さんのほうへと走っていった。お地蔵さんは、山の上から覗いていたように大きな姿ではなく、鬼とほぼ同じ大きさになっていた。
「これこれ、鬼よ、そう子供たちをいじめるんじゃない。」
お地蔵さんは、鬼に向かって、ニコニコしながらやさしく言った。
「そ、そうは言いますが、こやつらの罪は深いんで・・・。こやつらを捕まえて地獄へ連れて行くのがわしの役目ですから。邪魔しないで下さい。」
「まあ、あわてるでない。そんな怖い顔で睨むもんじゃない。この子らも怯えているではないか。この子らに罪がない・・・とはいわない。しかし、地獄へ連れて行くほどでもなかろう。」
「いや、地獄へ連れて行きます。こやつらの罪も罪ですが、ひどいのは、こやつらの親ですから。自分の子をここへ流しておいて、自分たちの都合で子供を始末しておいて、後は知らん振り。その親たちに知らしめるためにも、こやつらを地獄へ連れて行き、罰を与えねばいけませんから。」
「この子らの親でも、悲しんでいるのはたくさんいるぞよ。ちゃんとこの子達のために供養をしている親もいる。」
「いいえ、そんなのは、現世の悪者の金儲けのいい道具にされているだけでしょう。水子の祟り、とか称して。本物の供養をされる水子などそういないです。さぁ、子供をこちらに渡して下さい。」
「いいや、それはならん。見るがいい、本当の供養をされている子供もちゃんといることをな。」
お地蔵さんはそう言うと、右手のひらを上に向け、肩くらいの高さのところに置くと、
「さぁ、供養をされた子供たちよ、ここに乗るがいい。私がよいところに連れて行ってあげよう。」
と子供たちに声をかけた。すると、お地蔵さんの足元にしがみついていたり、お地蔵さんの衣に隠れていたりした子供たちのうちの何人かが、お地蔵さんの手の平の上にスゥーっと乗っかっていったのであった。しかし、それは、お地蔵さんにしがみついていた子供たちのうち、ほんのわずかな数だった。その様子を見て、鬼は勝ち誇ったように言った。
「そうら見てみなさい。本当の供養をされた水子たちは、そんなに少ないではありませんか。残りの子らの親は、現世のいい加減な連中に騙されたか、或いは、供養なんて思ってもいないか、そのどちらかでしょう。やはり、その子らを地獄に連れて、現世の親たちに思い知らさねばなりませんな。」
形勢が逆転してしまった。鬼の言うことのほうが尤もである。これでは、お地蔵さんもなすすべがないのではないか。お地蔵さんは、いったいどうするのだろうか。

「いやいや、それはならん。では、こう言おう。私の手には乗れないけれど、少しでも供養をされた子供たちは、私のすそにしがみつくがいい。そのまま、よいところに連れて行ってあげよう。」
お地蔵さんが、そういうと、残っていた子供たちの多くが、お地蔵さんの衣にしがみついた。それは、衣の上のほうにしっかりしがみついているものや、危なっかしくしがみついているもの、下の方で衣の端を握っているだけのものなど、様々であった。
「どうだ、鬼よ。これで、お前が地獄へ連れて行こうとする子供たちはいなくなっただろう。」
お地蔵さんは、力強くそう言った。これで、一気にお地蔵さんが有利な展開になった。しかし、鬼も負けてはいない。
「いいや、まだまだ、子供たちが其処彼処にうろついてますぞ。その子らを連れて行きましょう。」
「それはならん。まあ、待つがよい。そこらでうろついている子供たちの親も、やがては供養をするだろう。それまで、しばしの間待ってあげなさい。どうだね。」
お地蔵さんは、そう言うと鬼の方へ一歩前に出た。鬼は、その気迫に押されたのか、一歩下がった。
「どうだ。うん?、どうだね、鬼よ。これだけ言ってもこの子らを地獄へ連れて行くのかね?。」
お地蔵さんは、また鬼に迫った。今や、鬼はたじたじである。
「わ、わかりました。仕方がありませんな。わしは、一人で地獄へ戻りましょう。しかし、また、子供たちがここに溜まってきたら、子供たちの親がこの子らの供養を忘れたら、ここに再びやってきましょう。その時は、今度こそ、子供らを地獄へ連れて行きますぞ。いいですな、お地蔵様。」
鬼は、そういうと、山の方へとすばやく去って行ってしまった。岸には、お地蔵様と子供たちだけが残っていた。こうして、子供たちは、一人も地獄へと連れて行かれることはなかったのであった。

「よかったですね。みんな助かりましたよ。さすがは、お地蔵さんだ。やっぱり仏様の救いってあるんですね。」
俺は、ほっとしてそう言ったが、船頭さんは、ちょっと渋い顔をして、
「うん、まあな・・・。だが、みんな助かる・・・というわけじゃないんだ。」
と言った。
「どういうことですか?。あの子達、みんなお地蔵さんに、いいところへ連れて行ってもらえるんでしょ?。」
「いいや、そういうわけじゃねぇんだ。」
「なんじゃ、歯切れが悪いじゃないか。あの子ら、みんな助かったわけじゃないのか。」
強欲爺さんも元気を取り戻したようだ。いつもの口調に戻っている。
「うん、まあ、とりあえず助かったには助かったんだが、いいところ・・・お地蔵様のもとへと連れて行ってもらえるのは、みんなじゃねぇ。」
船頭さんの言葉を待っていたかのように、お地蔵様が子供たちに向かって話し始めた。お地蔵様の顔は、とても悲しそうだった・・・。


つづく。




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