バックナンバー(八) 第四十四話〜第四十八話
俺は、ババアの言葉が気になっていた。 『ましてや、次に控える仏様は・・・・。』 いったいどんな仏様がいるというのだろう。一回目の裁判と同じように、裁判官がいて、その後ろに仏様が控える、というパターンだろうか。その仏様は、不動明王よりも恐ろしい仏様だろうか・・・・。 確かに、素っ裸で裁判所に行くのは失礼だろう。だから、おそらくは、どんな死人もあの木の葉っぱを下着代わりにつけるに違いない。そうしなければ、前には進めない仕組みになっているのだろう。葉っぱは、身体にくっついて落ちることはなかった。女性の場合は、葉っぱは3枚になるのだろうか。 ふと前を見ると、強欲爺さんの後姿が見えていた。 「じーさーん、聞こえますか〜。」 と俺は声を掛けてみた。しかし、強欲爺さんは振り返らなかった。 「あ〜、聞こえてないんだ。前のように自由に会話することはできないんだろうか。と言うことは、追いついたりはできないんだろうな。まあ、走ろうと思っても無理なようだからな・・・。」 そうなのだ。どうやら、俺も前を行く強欲爺さんも一定の間隔をあけて、一定の速度で進んでいるようなのだ。だから、走ることもできなければ、追いつくこともできない。どうやら、我々は次の領域・・・・とでも言えばいいのか・・・・に入ったようなのだ。 俺は、もう一度、前を行く強欲爺さんの後姿をよく見てみた。先ほど見たとき、ちょっと違和感を感じたのだ。 「あ、やっぱりそうだ・・・。あれは、パンツだよな、どう見ても。爺さん、パンツをはいてる!。どうなってるんだろう。」 俺は、自分の股の葉っぱを見てみた。それは確かに葉っぱだった。 「おかしいな。前を行く爺さんも確か葉っぱをつけたよな・・・。でも、パンツになっている。どこかで着替えたのか・・・。そうならば、俺も着替えができる・・・というか、いつかはこの葉っぱがパンツに変わるはずだが。」 俺は、後ろの人が気になって振り返ってみた。後ろの人もパンツをはいているのだろうか。確か、後ろは・・・・、あぁ、暗いじいさんは第一裁判所で地獄に落とされたんだっけ。どんな人だっだかな・・・などと思いながら、俺は後ろを振り向いてみた。 後ろには、やはりパンツをはいたお爺さんがいた。極普通の、どこにでもいるようなお爺さんである。そのお爺さんもパンツ一枚だったのだ。 おかしい・・・。前を行く強欲じいさんもパンツをはいている。後ろのお爺さんもパンツ姿だ。なのになぜ俺は・・・・。 わからなかった。俺だけパンツがもらえないのだろうか。俺だけ、葉っぱなのか・・・・。何かわけがあるのか・・・・。 俺は不安になってきた。 そうこうするうちに、前のほうに大きな建物が見えてきた。大きな門も見える。前を行く強欲爺さんの後姿が、さっきより大きく見えるようになった。それどころか、爺さんの前の人物の姿も見える。どうやら、前の人との間隔が詰まってきているようだ。ということは、裁判所が近いのだろう。おそらく、あの門で戒名をチェックされるのだろう。で、また裁判所前で並ぶのだろう。 俺の予測は当たっていた。門の前には、俺と同様の死人が並んでいたのである。その死人たちは、みんな下着をつけていた。男性はパンツ、女性はスリップのようなものを着ていた。もちろん、中が透けて見えるようなことはなかった。死者の誰もが、一様にキョロキョロしていた。周りを気にしているようなのだ。その死者の列は、少しずつではあるが、前に進んでいた。 俺は、前に並んでいる強欲爺さんに声を掛けた。 「ようやく追いつきました。また、裁判ですね。」 「おう、そのようだな。ここでも会話はできるらしいな。途中で、何度も振り返って呼びかけてみようとしたんだが、振り向くことができなかったんじゃ。ここでは、あちこち見ることはできるようじゃがの。」 爺さんは、周りをキョロキョロしながら小声で答えた。一応、周りを警戒しているのか。まあ、こんなところでは、ひそひそ話になっても仕方がないが・・・。 「え、そうなんですか。私は振り向けましたよ。それに、声を掛けてもみたんですが・・・。聞こえませんでしたか?。」 「そうなのか・・・。何も聞こえなかったがのう・・・。ところで、お前なんでパンツをはいているんじゃ。わしは葉っぱのままなのに。いや、お前だけじゃない、わし以外はみんな下着をつけておる。こんなのおかしい、ずるいじゃないか。」 「えっ?、ど、どういうことですか? 私は葉っぱしか身につけてないですよ。パンツをはいているのは、あなたじゃないですか。いや、確かに周りの死者は、みんなパンツやスリップのようなものを着ていますよ。でも、あなたもパンツをはいてるじゃないですか。葉っぱなのは私だけです。」 「はは〜ん、そういうことか。おそらくこれは、自分のものは葉っぱに見えるが、人のものは下着に見えるようになっているのだろう。そういう仕組みのようじゃな。」 「あぁ、なるほどね。そういうことですか。それなら納得いきます。よかった・・・。実は、私だけ葉っぱなのかと思って不安だったんですよ。」 「わしもそうじゃ。一人だけ葉っぱなのかと不安だったんじゃ。まあ、わしは仕方がないか・・・と納得はしていたがな。お前さんは、罪が少ないほうだから、余計に不安になるじゃろ。」 「周りの死者も、不安に思っていたでしょうね、きっと。みんなキョロキョロ周りを見回してましたからね。でも、我々の会話を聞いて、不安も解消されたでしょう。葉っぱを身に着けているのは自分だけじゃない、と知ってね。」 「そうじゃな。よいことをしたな。はっはっは〜。」 「そういうわけにはいかないんだな、これが。」 いきなり、俺と強欲爺さんの会話に割り込むものがあった。俺はその声のするほうを見てみた。そこには、牛頭が一人(?)立っていた。その牛頭は、俺に近付いてきて言った。 「盗み聞きしたわけじゃないぜ〜。聞こえてたんだ、これが。まあ、ここで会話ができるのは、釈聞新、お前さんだけだからな。声が聞こえるのもお前だけだしな、これが。」 「どういうことですか?。他の方には、私の声は聞こえてないんですか? いや、我々の会話も聞こえてないんですか?。」 「そういうことだね。三途の川からこっちは、初めの頃とちーとばかし違うんだな、これが。」 「え、そうなんですか。じゃあ、ひょっとしてあなたの声が聞こえるのも、私だけ?・・・なんですか?。」 「よくわかったじゃねぇか。その通りだよ〜ん。俺の声はお前にしか聞こえないんだな、これが。だから、お前の前にいる爺さんにも俺の声は聞こえてないんだな、これが。」 「どうしたんじゃ、いきなり黙りよって。なにかあったのか?。」 強欲爺さんが俺に聞いてきた。牛頭の言ってることは、どうやら本当のようだった。爺さんには俺と牛頭の会話が聞こえていなったのである。だから、俺がいきなり黙ったと思ったのだ。俺は、あわてて説明した。 「いや、黙り込んだわけじゃないです。今、私の横にいる牛頭と話をしていたんですよ。で、その会話は、あなたには聞こえないんです。」 「ふん、確かに、お前さんの横には牛頭がいるようだがな。そいつと話をしていた、ということなのか。で、それはわしには聞こえないと・・・。そういうことか。」 「どうも、そういうことらしいですよ。」 「お前さんに、話しかけることはできるのか。いや、すでにできているから、それはできるんだろうな。う〜ん、ややこしい、いったいどういう仕組みになっているんじゃ。」 「そ、そうですね。どうも会話のルールがあるらしくて・・・。ちょっと聞いてみます。しばらく、沈黙することになりますから、待っていてください。」 俺は、強欲爺さんにそういうと、隣に立っていた牛頭に尋ねようとした。ところが、先に口を開いたのは牛頭のほうだった。 「まったく、俺のことは牛頭って呼び捨てか〜? ひでぇーよなー、これが。」 俺と強欲爺さんの会話を聞いていたのである。 「あぁ、いや、すみません。呼び捨てって・・・、その深い意味があったわけじゃなく・・・。え〜っと、じゃあ、なんてお呼びすればいいのでしょう・・・。」 「へっへっへ〜。そうだな。とりあえず俺の略名を教えておいてやるぜぇー。俺はな、第二裁判所前勤務牛頭第一っていうんだ、これが。本名はもっと長げぇーんだがな、これが。でも、面倒だから、略式名で呼んでもらってもいいぜぇ〜。」 「はっ? 第二裁判所前・・・なんでしたっけ?。」 「面倒くせぇーやつだな、お前。本当に記者だったのか、お前。まあいいや、面倒くせぇーから牛頭さんでいいよぉー、これが。へっへっへ。」 牛頭は、ニヤニヤ笑っていた。 「お前、聞きたいことがあったんじゃねぇのか、早くしねぇーと、門の中に入っちまうぜぇー、これが。中に入っちまうと、俺とは話できねぇーぜ、これが。」 「そうなんですか。じゃあ、早速教えてください。先ほど言っていた、ここでの会話のことなんですが。私には聞こえるけど、他の死者には聞こえないとか・・・・。」 「あぁ、そのことか。いいぜぇー、教えてやるよ。あのな、お前さんは、特別扱いなんだな、これが。だから、誰の会話も聞こえるし、誰にでも話しかけることができるんだな、これが。ところが、他の者はそうはいかねぇー。話しかけたり、会話を聞いたりはできねぇーんだよ、これが。まあ、裁判が始めれば、そんなことはないけどな。ただし、聞くことはできても、他の者に話しかけることはできねぇーんだな、これが。裁判で自分の前の者が責められたりする内容は聞こえるんだな、これが。だが、死者同士での会話はできねぇーんだよ、これが。それができるのは、おまえさんだけなんだな、これが。」 「そうなんですか。でも、前の強欲爺さんは、私に話しかけてきましたよ。」 「それはな、一度お前さんに声を掛けられて、会話をした死者は、お前にだけは話しかけることができるんだな、これが。」 「なるほど。ということは、強欲爺さんは、私が話しかけたから、私に話しけることができるんですね。他の者は、私が声を掛けていないから、私に話しかけてはこれないんですね。」 「そういうことなんだな、これが。」 「一度、私が話しかければ、私とその者は通常に会話ができる、ということですね。」 「そういうことなんだな、これが。」 「ただし、その時の会話は、第三者には聞こえていないんですね。」 「そうそう。わかってきたじゃなぇーか。その通りよ、これが。」 「じゃあ、一度会話をしたもの同士が集まって会話をする場合は、どうなります?。」 「あん?、どういうことだ?。」 「え〜っと、どういえばいいのか。そう、一度私が話をしたことがあるものが三人寄った場合、三者での会話は成立するのでしょうか?。」 「あ〜ん、そういうことか。それはできないんだな、これが。お前との会話はできるが、他の死者同士の会話は無理なんだよ、これが。だから、三人で話した場合、お前と誰かとの会話は、そこにいるもう一人には聞こえない。つまり、複数とは会話はできないんだな、これが。」 理解した。俺は、常に一人としか会話はできないのだ。つまりだ・・・・。 俺は、俺が話しかけたもの以外とは会話はできないのだ。俺が話しかけない限り、その者は、俺に話しけることができない。ただし、一度話しかければ、それ以降は、その者は俺に話しかけることができる。 しかし、その時に、俺が他のものと会話をしていたら、割り込むことはできない。その会話自体も聞くことはできないのだ。 だから、俺と牛頭の会話は、強欲爺さんには聞こえないし、周りのものにももちろん聞こえない。強欲爺さんと俺の会話も周りの者には聞こえない。だが、牛頭には聞こえていた。まあ、牛頭はこちらの住人なんだから、当然ではある。 こういうルールなのだ。三途の川の前は、もう少し自由だったように思う。あの霊感オバサンや強欲爺さんの横暴な言動が、俺以外の死者にも聞こえていたようだったから。 「そういうことなんだな、これが。三途の川からこっちは違うんだな、これが。あの川は、ただ死者の罪を見るだけじゃねぇー。他の意味もあるんだな、これが。」 「他の意味、ですか? それはどういうことなんですか?。」 「それかぁ〜、面倒くせぇーから、それは中で聞きな。」 「そんなこと言わずに、教えてくださいよ。」 「いんや、無理だな、これが。だって、もうすぐ門だからな。お前の確認の番が廻ってくるぜぇ〜。」 門が目の前に迫っていた。そこには、馬面の門番がいて、一人一人、戒名の確認をしているのだった。 「覗見教師信士だな、よし入れ。」 強欲爺さんの前の中年男が呼ばれたところだった。 「え〜っと、次は、と・・・。あぁ、オバサンが一人流されてるんだな。じゃあ、次、強欲院金泥腹黒厚顔大居士、入れ。」 馬面は、ノートのようなものを見ながら、強欲爺さんに言った。爺さんは、「おう」と返事をしただけで、おとなしく門の中に入っていった。 「次、釈聞新。中に入れ。おっと、先に言っておくがな、取材は拒否だぜぇ〜。」 馬面は、チラッと俺のほうを見てそう言ったが、すぐに目をノートに移した。しかし、俺は取材拒否には慣れている。なんせ、生前は三流雑誌記者だったから、拒否されるのは日常茶飯事だったのだ。 「取材拒否ですか?。それはなぜですか?。私には取材する権利が与えられているんですよ。閻魔様から、取材には協力するように言われているんじゃないですか?。」 俺は、少々強気に出てみた。しかし・・・・。 「うるさいな。うるさいのは嫌いだ。次、あぁ、次の爺さんも前の裁判で消えたんだったな。え〜っと、じゃあ次は、釈通普信士、入れ。」 全く、俺のことは無視である。 「あ、あんた、そんなことでいいのか。閻魔様に怒られるぞ。おい、何とか言えよ。」 俺は、食い下がってみたが、馬面は何も答えなかった。淡々と名簿チェックをしているだけである。俺の後ろの爺さんの後ろ、中年のやや色っぽい女性が呼ばれた。 「フン、次、釈尼妙艶信女、入れ。」 そうして、俺は前へ前へと押しやられて行ったのだった。 「くっそ〜、仕方がない。他のヤツに聞くか。え〜っと、誰か暇そうなのは・・・。」 俺は、辺りを見回してみたが、誰一人として暇そうにしているものはいなかった。今までのパターンならば、たいてい誰かが(馬面か牛頭が)、俺に話しかけてくるのであったが、ここでは誰も話しかけては来なかった。それどころか、門番の馬面以外、誰もしゃべることなく、黙々と働いているのだ。といっても、そんなにたくさんの者がいるわけではない。馬面以外には、四人いるだけである。手にほうきを持って掃除している者が二人、、我々が並んでいる列を少し離れて見守っている者が二人。後は誰もいないし、誰も話をしないので、しーんと静まり返っているのだ。それだけではない。妙な緊張感も漂っていたのだ。 門の中は、どうも空気が違うようであった。静かなだけではない、緊張感があるだけではないのだ。空気が違うのである。ちょっと冷たいような、頭がスキッとするような、だけどもさわやかで、落ち着く・・・・。そんな感じがするのだ。黙っていても、気持ちが落ち着いて、何の不安もない、そんな空間が広がっているのだ。 俺は、ここから動きたくないなぁ・・・、というような、そんな気持ちになっていた。 「爺さんも、そんな気持ちだろうか。」 俺はそう思って、前に並んでいる強欲爺さんに小声で 「ここって、落ち着きますよね。そう思いませんか?。」 と声を掛けてみた。強欲爺さんは、 「あん? お、おう、そうだな。何だか、うん、妙に落ち着くな。神聖な場所に入ったような気がする。」 と、神妙な顔をして、やはり小声で答えてきたのだった。しかし、爺さんはそれ以上は話そうとはしなかった。すぐに前を向いてしまったのだ。俺には、爺さんの背中しか見えなかった。その背中は、 「ここは落ち着く場所だが、話をすることは、ハバカラレル場所でもある」 と語っているようであった。確かにそうだ。ここは、気持ちは落ち着くのだが、緊張感も十分漂っているのだ。やはり、爺さんも、その妙な緊張感を感じているのだ。否、爺さんだけではない。きっと、ここで並んでいる死者の誰もが、この緊張感を感じていることだろう。 列は、少しずつではあるが、前に進んでいた。前回の裁判所のように 「え〜、地獄行きなんですか?。そんな〜、助けてください・・・。」 というような嘆きの声は、全く聞こえないし、それどころか咳払い一つ聞こえない。足音すら聞こえないのだ(おっと、これは当然なのかもしれない。なんせ死人なのだから。しかし、一応、足はついているのだけどね・・・。)。門のところで馬面が戒名を確認する、その声も聞こえない。門からは、そんなに離れているわけではないのに・・・・。 唯一聞こえるのは、建物の入り口が静かに開いて(その建物は大きなお寺のような造りだった。扉の前には三段ほどの階段があった)、 「次の者、入れ。」 という声だけである。それも静かで、厳かな声であった。ここは何もかも、落ち着いた処なのだ。 ふと、前を見ると、俺の順番が近付いてきていた。意外にも早く進んでいるようである。入り口のところよりも静けさが深まっているようであった。同時に緊張感も深まっていた。空気がピンと張り詰めている、そんな感じであった。ともかく深い静けさであった。 ここの裁判では、あまり責められることはないのだろうか・・・・。 俺は一人考え始めていた。ちょっとした確認で終わるのだろうか。ここに並んでいると、どうしても安心した気分になり、これからのことを楽観してしまうようだった。 しかし、あの大きな木の下で、着ているものを剥ぎ取っていたババアは、この裁判所へ罪の重さを報告するのだ、と言っていたはずだ。とすると、ここでは、罪が重いか軽いか、確認するだけなのか・・・。その時、ふと恐ろしいことが思い浮かんだ。まさか、この深い静けさは・・・。 「次の者、入れ。」 そう言われて、建物の中に入っていったのは、強欲爺さんの前に並んでいる中年男性の前のおじいさんだった。そのおじいさんは、一礼して中に入っていった。扉が静かに閉められる。辺りは、再び静寂に包まれたのだった。 俺は再び、先ほど思いついた恐ろしいことを考え始めていた。まさか、ここですべてが終わってしまうのではないだろうか・・・・と。この深い静寂は、ここにいるみんなが、中に入ったとたんに消されてしまうからではないだろうか、と。すべての死者は、静寂に還っていくのではないか、と。だから静かなのだ。だから、冷んやりしているのだ。そうだ、そうに違いない。 しかし、同時に俺は、そうではなくて、その考えは間違っていて、俺の不安は取り越し苦労に過ぎない、とも考えていた。この建物の中も、ただ静かで落ち着いている場所であるというだけであって、それを誰もが感じているから、騒がないのかも知れない。しかし、それは、ひょっとしたら希望的観測なのか・・・・。 俺は、冷や汗が流れるような、そんな感じがしていた。建物が近付くにつれ、緊張感はさらに深まっていった。のどが渇くような、そんな気さえしていた。一人で考えていることにものすごく不安になってきた俺は、前にいる爺さんに声を掛けようかどうしようか、迷っていた。実際には、声を掛けたかったのだが、この緊張感が俺に声を出させないようにしている・・・。俺には、そうとしか思えなかった。 「次の者、入れ」 そう言われて、中年男性が扉の前の三段ほどの階段を昇り、中に入っていった。入るとき、やはり彼も一礼をして入っていった。その顔は、緊張のせいで引きつっているかのように見えた。どうやら、緊張しているのは、俺だけではないようだ。もしかすると、誰もが俺と同じような考えをしているのかもしれない。 否、きっとそうなのだろう。きっと、誰もが俺と同じような不安を持っているのだろう。ひょっとしたら、ここで消されてしまうかもしれない、そう感じているのかもしれない。この静寂が、大きく我々にのしかかっているのだ。静寂がこんなにも恐ろしいものだということを、俺はその時、初めて知ったのであった。 「次の者、入れ」 扉が開き、声がかけられた。俺の前の強欲爺さんが、静かに階段を昇っていった。扉の前で一礼する。その様子は、なんとなくぎこちなかった。どうやら、爺さんもかなり緊張しているようだ。爺さんが中に入ると、静かに扉が閉まった。 その扉を見ていると、不安は益々大きくなり、俺は全身が震えるような、そんな感じに包まれたのだった。それは、一回目の裁判とは全く違う、重苦しい緊張感によるものであった。 逃げ出したかった。ここから逃げ出したかった。ただただ、逃げたかった。何の考えもない。大きな恐怖と緊張感を前に、逃げたい、と思うだけだったのだ。 しかし、思いは全く身体に通じず、俺は一歩も動けなかった。そこに突っ立ているだけなのだ。 扉が開いた。いよいよ俺の番だ。 「次の者、入れ。」 俺の身体は、勝手に動き出していた。俺の意思とは裏腹に・・・。俺の足は、三段ほどの階段を難なく昇り、扉のほうへと歩いていった。 扉の前で、俺は一礼をしていた。一礼する、そんなつもりはなかった。否、自分の前の者がみんな一礼をしていたことすら、俺は忘れていた。身体が勝手に動いて、勝手に一礼をしていたのだ。思うに、俺の前の連中も、俺と同じように勝手に一礼してしていたのだろう。おそらく、俺と同じように、極度の緊張感で、打ち震えていただけなのであろう。勝手に身体が動いて、勝手に一礼し、勝手に中に入っていったのだ。 俺も同じように、俺の意思とは別に、俺の身体が勝手に頭を上げると、中に入っていったのであった。そして、扉が閉められた。 中は、やはり静寂に包まれていた。その静寂の中、俺の真正面に大仏様が座っていたのだった・・・・。 「あぁ、大仏様だ。奈良の大仏さんだ。」 思わず、俺は声に出していたらしい。入り口の脇にいた鬼(・・・なんだろうか。前に見た角の生えた、一般的な鬼とは違っていたが、ちょっと怖い顔、そう、悪魔的なとでも言おうか、そんな顔をしていた・・・)に 「聞新、静かに。」 と静かに重々しく注意された。そして、 「そこに座れ。」 と、その鬼のような者はいったのだった。その口調は、有無を言わせぬようなものであった。 俺は、大仏様から目を離して前を見てみた。俺の目の前には、前に並んでいた強欲爺さんを真ん中にして、右隣りに中年男性が座っていた。二人とも正面、大仏様がいるほうを向いていた。 強欲爺さんの左隣りには丸い座布団が置いてあった。どうやら、その座布団に座れ、ということらしい。俺は静かにその座布団に正座した。横の爺さんたちを見ると、やはり同じように正座をしていた。強欲爺さんは、何を考えているのか、緊張しているのか、静かに目を閉じて、うつむき加減でいた。 座ってから、俺は正面を見直した。真正面には奈良の大仏様のような仏様が静かに重々しく鎮座していた。その大仏様は、やはり、不動明王のときと同じように、半透明であった。向こうが透けて見えるのだ。そして、その前には、彼がここの裁判官なのだろう、聖徳太子のようなひげをはやした、ほっそりした男が椅子に座っていた。彼の前には大きな机があり、書類のようなものが積まれている。その机の前には、これから裁かれる死人のおじいさんが座っていた。そのおじいさんは、下を向いて何かブツブツ言っているようだった。よく聞いてみると、それは 「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・」 と、念仏を唱えているのだった。 まあ、こんなときである。後ろに大仏様もいらっしゃる。それにお年寄りだ。念仏を唱えたくなるのもよくわかる。お年寄りなら、みんな唱えるだろうな・・・、などと俺は一人納得していた。 裁判官は、机の上に積まれている書類のうちの一つをとって、彼の目の前に座っている男に向かって、ほとんど無表情で言った。 「あのねぇ、え〜っと、宗真。先ほどから念仏を唱えているようですが、こちらのお方は、阿弥陀様じゃないのですよ。」 裁判官の前に座っていた、宗真と呼ばれたおじいさんは、顔を上げ、びっくりしたように言った。 「えぇ、こ、こちらの仏様は阿弥陀様じゃないんですか。そうだったんですか。じゃ、じゃあ、こちらの仏様は・・・・。」 「こちらにお座りいただいている仏様は、お釈迦様です。仏教の開祖、仏陀世尊でいらっしゃるのですよ。」 「えぇ・・・。あ、あ、そうだったんですか・・・。はぁ・・。む、無知なもので、とんだ失礼を・・・。」 そのおじいさんは、あわてて土下座して謝っていた。生きているものなら、冷や汗をかきまくっていたろう。しかし、何もそこまで謝る必要はないように、俺には思えた。一般のおじいさんに、否、おじいさんでなくても、坊さんでもない一般の人に、ここにいらっしゃる大仏様が、阿弥陀さんなのか、お釈迦さんなのか、区別はつかないだろう。それは無理というものだ。 そんなことを考えていた俺の心を見透かしたのか、裁判官が話し始めた。 「普通は、こういう説明はしないのですよ。いくら死者の方が念仏を唱えていてもね。ここにいらっしゃる仏様が、お釈迦様であっても、まあ、一般の方は区別がつかないですからね。もちろん、『ここにいらっしゃる仏様はお釈迦様で、阿弥陀様じゃありませんよ。でも、念仏は唱えても構いませんよ。』と、一応、断りを入れますけどね。一般の方は、そんなものでしょう。特にお年寄りの方はね。それはそれでいいのですよ。ただねぇ・・・。あなたの場合は、そういうわけにはいかないのですよ。」 そういうと、その裁判官は、ちょっとしかめっ面をした。 「あぁ、そうそう。申し遅れましたが、私は初江王と申します。もうおわかりとは思いますが、私があなたを裁く、ここの裁判官です。ここは、第二裁判所です。現世では、今日はあなたが亡くなって、二七日(ふたなぬか)にあたります。わかってますか?。」 その裁判官・・・初江王というらしい・・・に問われたおじいさんは、 「え、は、まあ・・・あの・・・、はあ・・・。」 と、なんだかしどろもどろだった。 「はぁ〜、やっぱりねぇ。まあ、よくあることですから驚きませんが、本当にあなたたちは、勉強されていませんねぇ・・・。」 「いえ、その・・・・。面目ないです。はぁ・・・。」 「やはりね、私の名前も、二七日目にどんな裁きがあるのかも、ご存じないのですね。困ったものです。曲がりなりにも、現世ではお坊さんだったのでしょ?。まあねぇ、剃髪もしていないお坊さんですからねぇ。真のお坊さんとはいえないのでしょうけどねぇ。でもねぇ、一応、お寺にいて、僧侶の姿をして、袈裟を身につけて、お経を唱えていたのですから・・・。はぁ・・。もう少し仏教を勉強されてもよかったように思いますけどねぇ。」 初江王は、溜息まじりにそういった。どうやらこのじいさん、生前はお坊さんだったらしい。このおじいさん、すっかり恐縮してしまったのか、下をむいて黙り込んでしまった。 しばらくして、そのおじいさんが、ぼそぼそと語り始めた。 「は、はい・・・。申し訳ないです。私らは、ただ『ナンマイダ』と唱えていればいい、って教えてもらいましたから。なんで、檀家の人にもそれしか教えてないんです。・・・・ナンマイダとお唱えしていれば、阿弥陀様が極楽へ連れて行ってくれる、としか教えてないし、私らもそうとしか教えてもらっていませんし・・・。ぶっ、仏教の難しい教義は、私らは・・・。あぁ、本山の偉いお坊さん方は学んだのかもしれませんが、私ら地方の坊さんは・・・。その必要もなかったですし。葬式さえしていれば・・・・よかったもんですから・・・・。」 その言葉に、初江王は大きくため息をつくと、 「そうですよね。はぁ〜。そんなものですよね。はぁ〜・・・・。 檀家の人には、みんな死んだら極楽へ行くのだ、としか教えてないのですよね。そのために念仏を唱えろ、としかね。だから、阿弥陀如来もお釈迦様も区別がつかないのですよね。阿弥陀如来様以外は拝むな、なんておかしなことまで言うお坊さんまで出る始末。なんですか、阿弥陀様関係のお経だけ唱えていればいい、他のお経は学ぶな、というような横暴なことをおっしゃるお坊さんもいるとか。まあ、あなたのところの宗派だけじゃないでしょうけど、そういうことを言うのは。まったくねぇ、どうなっているのでしょうね・・・。 仏教の祖はどなたか、わかっているのでしょうか。だいたい、本来、坊さんがここへ来るべきじゃないでしょう。それなのに、いったい、現世はどうなっているのでしょうか。あ〜、もう、本当にイライラしますねぇ。あなた、出家者がそれでどうするのですか。あなた、わかってるの?。もう、地獄は坊さんだらけなのですよ。」 と愚痴りだしたのだ。この人、よほど腹に溜まっているものがあるようだ。さらに愚痴は続いた。 「まったく、私には信じられません。何がって、剃髪していない僧侶ですよ。出家者たるもの、剃髪するのが当たり前でしょ。執着心を捨てるべき者が、髪の毛に執着してどうするのですか。信じられません。それでよく立派な衣を着られますね。よく袈裟がつけられますね。それだけではありません。」 初江王は、興奮していた。口調も荒くなってきたし、目も据わり始めている。大丈夫なのだろうか、この人・・・。 「だいたい、今の出家者は、私生活も乱れているでしょ。出家者がそんなことでどうするのですか。あ〜、戒律はどこへ行ってしまったのでしょうか。それなのに、図々しくも、あなたたちは極楽へ行きたいという。極楽へ行けると思ってる。何てことでしょう。なんと図々しいことでしょう。それは、恐ろしく愚かなことではないでしょうか。そんな愚かな出家者ばかりだから、あなたがた出家者がしっかりしていないから、変な霊能者だの、新興宗教だの、カルト教団だのがはびこるんですよ。あなたたちが、しっかり霊の世界を把握していれば、こんなことにはならないのです。わかりますか?。あなたがたが、あなたがたがですよ・・・」 「これ、これ、もうよかろう。」 その時であった。重いのだが、優しい声が響いた。 「初江王よ。いい加減にしなさい。」 初江王は、あわてて振り返り、椅子から降りて、土下座したのであった。 「あ、はい、申し訳ございません。ついつい興奮してしまいました。」 そう、それは、お釈迦様の声だったのだ。お釈迦様は続けて話をされた。その声は、やはり優しく響いていた。 「まあよいではないか。霊の世界、死者の世界のことは、現世ではよく伝わっていないのは事実なのだし、それは彼の責任ではない。歴代の出家者の責任でもある。それは、私の責任でもあるのだ。そんなに彼を責めてはいけない。この世界のこと、こちらの死者の世界のことは、今や忘れ去られようとしているところだ。それを私も憂いていることは、初江王、お前もわかっていることでしょう。」 「はい、申し訳ございません。つまらない愚痴を言ってしまいました。この者に八つ当たりをしてしまいました。今、この罪をここに懺悔(さんげ)いたします。」 「もうよい。お前の気持ちもよくわかっている。さぁ、本来のお前の仕事に戻るがよい。お前も知っている通り、こちらの世界のことは、現世に伝えるようにしてある。そうであるな、聞新よ・・・。」 お釈迦様は、俺のほうをまっすぐ見て、そう言ったのであった。 お釈迦様に名指しされた俺は、ちょっとドキッとしてしまった。なので、 「え、あ、はぁ、まあ、その、そうです。あはは。」 などと、わけのわからないことを口走ってしまった。それを見た初江王は、 「あなた、大丈夫ですか?・・・・。」 と呆れ顔になってしまったのだった。俺は、 「あ、いや、大丈夫です。はい。ちょっと、びっくりして・・・。大丈夫です。話はよく聞いています。」 と、落ち着きを取り戻したように言い訳をした。初江王は、まだ呆れたような顔をしていたが、 「そうですか、じゃあ、しっかりと、よろしくお願いいたしますね・・・。」 などと、小声で言っていた。俺は、なんだか急に恥ずかしくなって、辺りをキョロキョロしてしまった。 「大丈夫ですよ。この会話は、他の死者には聞こえていませんから。彼等は静寂の中にあります。」 と、優しい声が響いてきた。お釈迦様である。 「え、そうなんですか?。今の会話は、私の前の死者の方には、聞こえてないんですか?。」 「えぇ、そうですよ。一般的に、ここでの裁判は、裁かれている本人のみにしか、内容は聞こえていません。そこで待っている死者には、何も聞こえていないのですよ。」 そう答えたのは、初江王であった。 「そうですねぇ。この宗真の裁判の前に、ちょっと説明をしておきましょうか。よろしいでしょうか、お釈迦様。」 初江王は振り返って、お釈迦様にそう尋ねた。お釈迦様は、何も答えず、ただこっくりとうなずいただけであった。それが、許可する、という意味なのだろう。初江王は、俺に向かって話を始めたのだった。 「ここでの裁判は、裁かれる本人にしか、その内容は聞こえていないのですよ。第一裁判所のように、裁きを待っている死者に見せ、聞かせ・・・ということはしないのです。待っている死者は、静かな闇の中にいるんですよ。あなたは、ちょっと特別ですね。まあ、使命がありますから。他の死者の裁判を見聞きして、現世に伝えるという使命がね、ありますから。あぁ、ちなみに、今の会話も聞こえていませんから。この宗真にもね。この宗真も、今は『待ち』の状態ですから、あなたの横で座っている方たちと同じ状態にあります。」 「それは、なぜなんですか?。前の裁判所では、裁判を見せていましたよね。それは、待っている間に、死者が裁かれるのを見せて、自分の罪を反省させるため、でしたよね。『地獄行きです』という言葉を聞かせ、自分の罪を素直に認めるように促すため、裁判を見せていたわけですよね。」 「そうですそうです。その通りです。」 「じゃあ、なぜ、ここでは裁判の様子を聞かせないのですか?。もう反省させなくてもいいのですか。」 「そうじゃないですよ。ここではね、さらに深い反省を促しているんですよ。」 「さらに深い反省・・・?。」 「そうですそうです。その通りです。」 どうも、この初江王にも癖があるようだ。こっちの世界は、変わった人が多いようである。 「わたしは、別段変わってないですよ。ま、それはいいのですが・・・。」 しまった、ここでは、死者の考えていることは筒抜けだったのだ。 「そう、より深い反省を促しているのですよ。それは・・・。言葉で言うよりも、体験したほうがわかりやすいですね。」 「体験ですか?。」 「そうですそうで・・・。う、うん、あなたには、裁判のやり取りが聞こえています。ということは、あなた以外の死者がどういう状態なのかわかりませんね。その状態は、口で説明してもわからないでしょう。体験してみる方が早いです。じゃあ、静寂の世界に入ってみてください。」 「え?、今からですか・・・、あ、ちょ、ちょっと・・・・」 「いいじゃないですか、では・・・・。」 初江王の笑顔が段々と暗くなっていく。自分の声が、初江王の言葉が遠のいていく。すぐに周りは真っ暗になり、何も聞こえなくなっていった。 全くの静寂であった。耳鳴りすら聞こえない。全くの闇であった。目を閉じているよりもそれは暗かった。 何も見えない・・・・。いや、何も見えなくはなかった。そこには、俺が居たのだ。 それは、確かに俺自身であった。小さい頃の俺だ。覚えている・・・。確かに、あんな事をした。そうだ、ちょっとしたイタズラだ。そう、そんなことは大したことじゃあない。そう思いつつも、俺は妙な緊張感の中に居た。生きていれば、冷や汗が出ていたであろう。 目の前の俺は、どんどん成長していった。恥ずかしい場面が次々に再現される。心の奥底に閉じ込めていた、思い出したくない悪行・・・悪行というほどのことはないとは思うのだが・・・・が、俺の目の前で再現されているのである。 別段、俺は犯罪を犯したわけではない。警察のご厄介になるようなことは、何もしていない。しかし、そうではあっても、小さなイタズラや悪さぐらいは、やはりするものである。誰にでもそんなことはあるだろう。思い出したくないような、イタズラの一つや二つ、三つ・・・くらいは誰にでもあるものだ。そんなことくらいは・・・・。 成長した目の前の俺は、大人になっていた。大人になれば、それなりに大人の世界を堪能することになる。俺も男だ。それなりの艶っぽいこともあった。また、働いていれば、多少のうそだってつく。そりゃまあ、仕方がないことだ。 そう納得する、いや、納得しようとするのだが、気持ちはその反対に進んでいた。俺は、縮こまる思いだった。まるで、新入社員が上司にこってりお説教を食らっている、そんな心境だった。目を背けたかっただが、俺の隠しておきたい場面は、容赦なく目に飛び込んでくる。小さな罪から、ちょっとまずいよな、と思われることまで、いわゆる『罪』といわれる行為が、再現されているのだ。それから目をそむけることはできない。目を閉じてやり過ごすことはできない。目の前にあること以外は、すべて闇なのだから。何も見えないのだから。 自分がついたうそを聞き流すことはできない。言葉の罪も、悉く俺の耳に飛び込んでくるのだ。それを拒絶することはできないのだ。 「如何でした?。静寂の世界は。」 俺は、初江王の声で気がついた。いや、目が覚めたといったほうがいいか。今まで、悪い夢を見たいたようだ。 「だいぶ緊張されていたようですね。生きていたら、冷や汗をかいて、小さくなっていた・・・・といったところでしょうか。ほっほっほ・・・。」 「あ、あれは・・・。」 「えぇ、あなたが見たのは、あなた自身ですよ。そこで裁判を待っている死者は、みんな静寂の中に自分を見るのです。そして、自分自身に慄くのですよ。お隣をご覧なさい。」 初江王の言葉に従い、俺はゆっくり横を見てみた。俺の隣の強欲爺さんは、自分のひざを見つめるようにうつむき、目を閉じ、唇をかみしめ、難しい顔をしていた。堅く握り締められた両手は、それぞれひざの上にあった。今にもうなり声をあげそうな、そんな状態で固まっていた。 その隣の中年男性はというと、やはり同じように固まっていた。手を堅く握り締め、何かをぐっとこらえているかのような、苦しそうな顔をしていた。 きっと、二人とも、暗闇の中に己が罪を見て、苦しんでいるのだろう。気恥ずかしい思いをしているのであろう。強欲爺さんなんぞは、生前が生前なだけに、思い出したくない罪は多々あるに違いない。 「わかりましたか?。こういうことなんですよ。」 初江王の言葉に、俺は我に返った。 「は、はい、わかりました。では、ここでの裁判は、どの死者も、この状態を経てから、裁かれるのですね。」 「そうですそうです、その通り・・・。う、うん、はい、そういうことですね。」 「じゃあ、みんなとても素直に罪を認めるんじゃないですか?。」 「なぜそう思われますか?。」 「いや、だって・・・。あんなのを見せられたあとですからね。素直になるでしょう。」 「まあねぇ。確かに素直にはなりますね。でもねぇ・・・。人間って、なかなか手強いものなんですよ。」 そういうと、初江王は遠くを見るような顔をした。 「人はね、なかなか素直になるのは難しいものなのです。まあ、人にもよりけりですがね。」 「そ、そんなものなのですか?。私なら、あんなものを見せられたら、素直に罪を認めちゃいますけどね。」 「そうですか?。まあ、あなたはそうなんでしょうね。まあ、それも裁判を見ていればわかりますよ。百聞は一見に如かず・・・ですからね。では、宗真の裁判を始めましょうか。よく、見聞きしていてください。」 初江王はそういうと、顔を引き締め、 「宗真・・・裁判を始めます。」 と、裁判を中断されたおじいさん・・・生前はお坊さんだった・・・に向かって声を掛けた。声を掛けられたおじいさんは、それまでうつむいて固まっていたが、ハッと我に返ったように顔を上げた。 「さて、宗真、あなたの裁判を始めます。あなたは生前、曲りなりも僧侶でした。ですから、あなたは、一般の方よりも罪が重いです。そのことは、おわかりでしょうね。」 そう初江王に言われたそのおじいさんは、びっくりしたような顔を初江王に向けたのだった。 「えっ、私は、一般の人より罪が重いのですか・・・・?。」 「そうですよ。第一裁判所で言われませんでしたか?。あなたは出家者ですから、一般の方とは異なるでしょ。戒律も授かってますよね。ですから、出家していない、一般の方より、罪が重くなるのは当然でしょ。まあ、一般的に出家者は、出家していない方の七倍罪が重い、といわれてますね。ですから、あなたの罪も七倍重いものになるのですよ。」 「な、七倍ですか・・・。はぁ〜、そうなんですか・・・。はぁ、確かに、戒律は受けてますが・・・。私は・・・、その・・・。」 お坊さんであったおじいさんの言葉は無視された。 「それにしても、第一裁判所では説明がなかったのですかねぇ。これは手抜きですね。ちゃんと言っておかなきゃいけないですね。まあ、それは、いいでしょ。ともかく、あなたは、一般の方より罪が重いのですよ。」 なんだか初江王は、またイライラし始めていたようだ。少々ヒステリックになってきている。初江王は、どうやら出家者・・・お坊さんが嫌いなように思われる。きっと、そうなのだろう。後で聞いてみよう・・・。 「さて、奪衣婆(だつえば)からの報告によると・・・・。」 初江王は、手元の書類のようなものを見て言った。やはり、あの木の下のババアから、報告が来ているようだ。 「ほう・・・罪軽し・・・か。あなた、お坊さんの割には罪は多くないようですね・・・。ふん、真面目だったのですね・・・。」 初江王は、なんだか不服そうだった。 「は、いや、まあ、真面目だけがとりえだったんで・・・。」 「罪は軽いが、徳もなし・・・か。ま、そんなものでしょう。お坊さんとしては、大したことはないですからね。ふむふむ・・・。ほう、葬式でも多額の布施を請求したりはしなかったんですね。」 「はぁ、貧しい田舎のことなんで・・・。決まりもありましたし。まあ、欲を出さずに日々暮らしていければ、私は十分だったんで・・・。」 「あぁ、いい考え方ですね。余分な欲は出さず、与えられた範囲で生活をする・・・。大切なことですな。」 面白くなさそうに初江王は言った。 「そうやって、村の方にも指導したのですよね?。出家者ですから。」 「はぁ、いやぁ・・・。そんな指導なんて・・・。私は、ただ・・・。」 「ただ、なんです?。」 「私にできることをただ淡々とこなしてきただけで・・・。私にできることといったら、葬式して、お経をあげて、法事などをして・・・。で、何も望まず、分相応の暮らしをしていくことだけで・・・。女房などは、つまらん人生だ、つまらない夫だと言ってましたが、私にはそれだけで十分でしたので・・・。それに・・・。」 「それに?。」 「それは私の生き方であって、人に押し付けることでもないですし・・・。」 この元お坊さんのおじいさん、なかなかしっかりしているようだ。自分の考えををしっかり持っており、それを他に押しつけようとしていない。近頃の坊さんと来たら、遊んでばかり、金儲けのことばかりしか考えていないような、そういう印象だが、なかなかどうして、いいお坊さんじゃないか、とそう思えてきた。 「なるほどね。そういうことで罪は軽いんですね。しかし、そういう生き方はとても仏法に適っていますが、あなたはなぜ、人にそれを説かなかったのですか?。」 「はあ、それは私の生き方であって・・・そんな立派なものじゃないですし。それが仏法に適った生き方なんて・・・今の今ままで思いもしませんでした・・・。仏法って、そういう生き方を指導するものだったんですか。」 初江王は、思わず絶句した。まるで、のどに何か詰まったような顔をして 「・・・・ま、まあ、そうなんですが・・・。あなた、仏法のことは、本当に知らないんですね。」 とだけ、言ったのだった。 「はぁ・・・。知らんのです。私がいた宗派は、仏法のことをあまり詳しくは教えてくれませんでした。僧侶の資格は、ほんの何日かの講習を受ければ、得られることができましたし。まあ、位は一番下なんですけど。でも、それでも、葬式をしたり、法事をしたりするには、何の支障もなかったですから、上を望む必要もなかったですし・・・。檀家の相手をする分には、それで十分でした。ですから、難しいことは何もわかりませんです。」 「ははぁ〜ん、わかりました。あなた、面倒なだけだったんですね。何も欲を出さない生活・・・というのは、ネガティブな考えから発生しているのですね。」 「ネ、ネガティブ〜?。」 俺は驚いて、思わず裏返った声で叫んでしまった。 「あ、いや、すみません。邪魔しました。びっくりしたもので・・・。」 俺は恐縮した。 「う、ううん・・・。」 初江王は、赤面して咳払いをした。 「え〜っと、あなた、積極的に仏教的生活をしていたわけではないのですね。ただ、そうしたかった、面倒なことは避けたかった、それだけなんですね。」 「はい、面倒といわれれば、面倒だったです。それでいいと思っていましたし。坊さんだ、僧侶だ、といっても、髪を剃っているわけでもないですし、ちょこっとお経が読めると・・・、ただそれだけでして・・・。」 「そんなんだから、罪は軽くても、徳もないのですよ。そういう生活をもっと広めるとか、お釈迦様の教えはこういうものだ、私はそれを実践している、とかね、そういう話をしていれば、今頃こんなところへ来ないで、そうですねぇ・・・兜卒天(とそつてん)くらいへは行けたでしょうに。ま、今からじゃあ遅いですが。」 「と・・・兜卒天?、ですか。」 「知りませんか?。」 「はぁ、知らないです。すみません、勉強不足で・・・。」 「次に如来になる弥勒菩薩様が教えを説いている天界です。極楽とは違いますよ。知りませんか?。」 「はぁ・・・申し訳ないです。」 「まあ、いいでしょう。知識もないけど、罪もなし・・・ですから。まあ、今時は、知識もないくせに偉そうに威張っているお坊さんが多い世の中ですからね。金儲け、夜遊び、異性との交際、そんなことばかりしているお坊さんが多いですから。あなたは、いい方でしょう。地獄へ行かなくてすみそうですから。ほっほっほ・・・。」 冷ややかな笑いだった。この初江王、完全に現代のお坊さんをバカにしているのだ。 「ところで、基本的な罪や徳についてはいいのですが、あなた、ここでは特にどんな罪について問われるかご存知ですか?。あぁ、知らないですよねぇ、もちろんのこと。」 「はぁ、面目ないです。知りません・・・。」 お坊さんじいさん(俺はこう呼ぶことにした)は、益々小さくなってしまった。 「じゃあ、教えてあげますが、ここでは、盗みの罪について、特に裁かれるのですよ。」 「ははぁ〜、盗みですか・・・。」 お坊さんじいさん、うなるしかないようだ。確かに、答えようがない。 「そうです、そうです、その通りです。・・・う、ううん。」 初江王は、俺のほうをチラっとみて咳払いをした。俺は、余計な突っ込みは入れなかった。これでも、場をわきまえているつもりである。 「そう、ここでは、盗みの罪について裁かれるのですよ。第一裁判所は、殺生について問われましたよね、覚えてますね?。」 「えっ、えぇ、お、覚えてます・・・。」 「ふ〜ん、まあ、いいでしょう。そういうことですから、これから、あなたの盗みの罪について問います。いいですね。正直に答えてください。」 「はい、わかりました。」 初江王は、また手元の書類のようなものを見た。それは、死者についての資料なのだろう。きっと、生前どんなことをしたか、事細かに書いてあるに違いない。俺は、ちょっと嫌な感じがした。なぜなら、生きているとき、いつも見張られていた、というように思えたからだ。もし、初江王が持っているのが、死者の生前の行動が書いてるものならば、我々は、絶えず見られていたことになる。そんなことを知っていたら、息が詰まって生活できない。 そんな俺の思いに気付いたのか、 「これはね、生前のあなたの罪が記されている資料です。といっても、あなたたちには見えません。読むことはできないものです。それと、あなたたちが生きているとき、こちらからあなたたちの行動を見張っていて、逐一この書類に書き込んでいた・・・というわけではないですよ。 本当のことを言えば、実は、初めから何もかかれていません。生前の罪が記されている、というのは・・・まやかしですね。だいたい、そんな資料を読まなくても、こちらの世界に来れば、あなたたちの生前の行動は一目瞭然、すべてわかってしまいますから。」 と、初江王は説明してくれた。なんと、資料には何も書かれていない、資料を読むのは単なるまやかしだという。では、なぜそんな資料を読んだりするのか・・・。 「私が、これを読むのはね、う〜ん、振りですね、振り。こうやって資料を読んでいる振りをすると、死者はみんな『あ、あそこに私の罪が全部書かれているんだな』と思うでしょ。逃げられないな、と観念するんですよ。だから、資料を読む振りをしているんですよ。ほっほっほ。」 な、な、なんと、単なるパフォーマンス・・・なわけであったのだ。いろいろ、演出しているのだ。ご苦労なことである。ということは、それほど死者は、自分の罪を認めないわけなのだろう。 「ま、そういうことです。それはいいのですが、あなたの盗みの罪ですが・・・。う〜ん、そうですか、ほとんどないんですね。まあ、そうでしょうね、消極的人生、面倒ごとを避ける人生を送ってきたのですから、そんなものでしょう。」 「はあ、確かに、盗んだことはなにもないです。自分のところに手に入ってきたものだけで十分でしたし。周りには興味はありませんでしたから・・・。」 「はいはい、いいです、よくわかりました。あなたは、お坊さんとしては、まあ、失格・・・なんでしょうが、人間としては、罪も少ないですし、先に進んでいいでしょう。」 なんと、あっけない幕切れだ。 「えっ?、そうなんですか?。じゃあ、地獄へ行かなくていいんですね。ありがとうございます。」 お坊さんじいさんは、そういうと深々と頭を下げた。 「そうそう、大事なことを言い忘れるところでした。」 初江王の言葉に、坊さんじいさんは、不安そうな顔をした。 「まだ、何か・・・・。」 「あ、いや、悪いことじゃありません。あなた方死者にとっては、いい話です。」 「いい話・・・ですか?。」 「そう、いい話です。何かといいますと、あなたは死者ではありますが、現世に戻ることができます。生き返るわけじゃないですよ。現実世界にちょっと帰る、ちょっと様子を見にいける、それだけです。」 「そうなんですか?。戻れるのですか?。」 そういえば、そんな話を聞いたことがあった。どこで聞いたのか。確か、あれは・・・。 「そう、戻れるのです。ただし、魂のまま、つまり霊体ですから、ご遺族の方に話しかけたりはできませんよ。」 「はあ、そりゃまあ、そうですねぇ。」 「それと、次の裁判が現世の時間で一週間後にあります。その時に呼び戻しがあります。ですから、それを拒否しないようにしてください。呼び戻しがありましたら、素直に従ってください。いいですね。」 「はい、わかりました。」 「では、行っていいですよ。」 初江王の言葉に、鬼が一人、お坊さんじいさんに静かに近付いた。その鬼は、じいさんの腕を取り、立ち上がらせると、そのまま初江王に向かって右手の方へと連れて行き、そのまま外へと出て行ったのだった。 すっかり忘れていた。そういえば、死出の山で、山おとこさんや山おんなさんから聞いていたのだ。ある場所を越えると、現世に戻ることができる、と。ただし、裁判には帰ってこないといけない、と。ところが、中には戻ってこないものもいて、そのまま幽霊になってしまうのだ、と。すっかり忘れていた。 「そうなのですよ。私も危うく忘れるところでした。」 初江王が、ニヤニヤしながら俺のほうを向いて言った。 「実はね、三途の川、あったでしょ。あれを渡ったら、現世に戻ることができるようになるのです。あの川は、単なる罪を測る川ではないのです。」 「そうなんですか?。何か特別な役割が他にもあるんですか?。」 「えぇ、まあ、そうなんですけどね。ま、それは、あなたの順番がきたら、教えてあげましょう。まずは、次の方ですからね。」 そうか、そうだったのか。三途の川は、別の意味合いもあったのか。どんな意味があるのだろうか。俺は、自分の順番が待ち遠しくなった。次の人は、早いのか、長くかかるのか・・・。 それにしても、坊さんじいさんは、本当にあっけない幕切れだった。あれだけ長く責めておきながら、最後は責める材料がなかったのか。あのお坊さんじいさん、本当に何もない人生だったのだろう。 まあ、しかし、盗みといっても、そうそう犯すものじゃない。人のものを盗むことなどしたら、それこそ逮捕されてしまう。そんなことをするものは、それこそ地獄行きで、こんなところには来ないのではないか。 とすれば、次の人は、早く終わる可能性があるはずだ。 「それがね、そうでもないんですよ。まあ、次の裁判を見ていればよくわかりますよ。じゃあ、次の者、覗見教師信士(しけんきょうししんじ)こちらへ座りなさい。」 初江王は、俺のほうを見てそう言うと、またまたニヤッとしたのだった。 つづく |