ばっくなんばぁ〜1
うちの寺の本尊様誕生秘話@ 今回から、新しい内容を始めます。題して 「仏様神様、よもやばなし」 神様仏様・・・・の方が言いやすいのですが、仏様優先に致しました。お寺のHPですからね。 内容は、仏様や神様に関する「へぇ〜」とか「ほぉ〜」とか「あらそう」みたいな、気楽なエピソードを紹介していこうかな、などと考えています。お堅い内容ではなく、気楽な読み物、という内容にいていきます。皆さまのリクエストもお待ち致しております。たとえば、 「○○の仏様に関する昔話ってありますかぁ〜」 「仏様の面白話・・・落語とか・・・ってあるんですか?」 のようなリクエストがあるとありがたいですね。できれば、マニアックなリクエストは遠慮して欲しいです。たとえば、 「○○の如来の浄土は・・・にあるそうですが、大きさとか、その内容とかどうなっているのでしょう」 「○○菩薩の悟りはどの段階にあるものなのでしょうか」 などという、小難しい専門的なリクエストはやめてくださいね。難しいことは答えられませんから。 ここでは、とにかく気楽な読み物、という感じで進めたいので、そのてん、御了承願います。 で、今回は一回目と言うこともあって、うちの寺の本尊様・・・観音様にまつわる話をいたしたいと思います。 うちの寺の本尊様は、観音様です。正確にいえば、「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」という名前になります。「聖」が付いているのは、「大元」という意味です。 観音様と言えば、ごく普通の観音様があれば、千手観音、十一面観音、如意輪観音、白衣観音・・・・など、い〜っぱいいろいろな観音様があります。仏様の中でも、その変化した姿・・・○○観音・・・が最も多いのが観音様でしょう。変わったところでは、キリシタン信者が信仰を逃れるためにつくった「マリア観音」という観音様もあります。ま、これはキリシタンが弾圧から逃れるためにつくった観音様ですから、本当はマリア様ですけどね。 ま、ともかく、全国各地に、なんとか観音という観音様が存在していることは、みなさんよくご存じでしょう。で、そのなんとか観音の大元になるのが、 「聖観世音菩薩」・・・・「聖観音(しょうかんのん)」 なのですね。で、うちの御本尊様は、この聖観音様なのです。 なぜ聖観音様を御本尊に?。 と問われれば、これがちょっと長い話になるのかな?。まあ、簡単にお話ししましょう。 そもそも我が家はお寺ではありませんでした。私の父親(いまでも健在です。隠居状態ですね)は、アパレル関係の仕事をしていました。主に紳士服・・・ポロシャツのような紳士物・・・・をデザインし、見本を製造し、注文を受けて加工屋さんに作ってもらっていたのです。 私のおじいさんも宗教関係の人ではありません。私が物心ついた時には、すでに隠居してましたが、昔は桶職人だったそうです。風呂桶やおひつなどの桶を製造販売していたのですね。なので、宗教とは縁もゆかりのない家なのです。 岐阜は、昔からアパレルで有名です。岐阜駅前は繊維問屋が軒を並べています。今じゃあ、岐阜の繊維も不景気で、繊維問屋街も半分がシャッター街となっていますが・・・・。ま、とりあえずは、アパレル関係の仕事は岐阜の中心産業なのです。今も昔もね。大きな機織り工場を経営している人もいれば、洋服のデザインをし、注文を受けて製造する工場もありました。今でも多少残っています。が、多くは、個人経営で、個人でデザインして、問屋を通じ注文を受け、加工屋さんと呼ばれる内職のおばちゃんたちにミシンで縫ってもらうんですね。ま、我が家はそういう仕事をしていたのです。 そういえば、大学1年(東京のとある理系の大学です)の冬・・・クリスマス前だったかな・・・のこと。私が吉祥寺の商店街をぶらぶらと歩いていますと、見覚えのあるキルティングジャンパーがとある店の前においてあるんですね。ハンガーにいっぱいかかっているんです。で、それをちょっと見ていましたら、店員さんが 「これは今年の流行りですよ〜、ひとついかがですかぁ〜」 というんですね。なんと、そのジャンパー、父親が造ったものなんですな。なので、 「これ、うちで造ったものなんだけど」 と言ってあげました。店員さん、びっくりですな。それにしても、定価には驚いたことを覚えています。 「卸値は確か・・・・円のはずなのに、定価はこれ?。ぼったぐるなぁ・・・・」 と思ったものです。日本の流通の無駄は、庶民の財布を直撃するんですな。 話がそれました。戻します。 ある日のこと・・・・大学1年も終わろうかというころ・・・・父親が急にアパレル関係の仕事を辞めてしまったんですね。で、 「今日から観音様を祀ることにした」 というのです。その知らせを聞いた私は、驚きましたねぇ。そりゃ、驚くでしょ、普通。すぐに岐阜に飛んで帰って 「何をバカなことをいってんの。観音様を祀るって?、どうかしたのか?。そんなんじゃ、生活できないだろ。俺の授業料はどうなるの?。あほくさい!。宗教なんて!」 ずいぶんと責めましたねぇ。そりゃそうです。岐阜の田舎から東京に出てきていたのです。まだ、あと3年もあります。授業料はもちろんですが、生活費はどうするの!、と叫びたくなりますよね。いい加減にしろ、なに寝ぼけてるんだ!ってね。まあ、今思えば、脛かじりで、勝手なことをほざいていたんですが、子供としては親の財布は当てにするわけで。授業料や仕送りがあるからからこそ、東京の大学を受けたわけで。まあ、それがどうなるか不安ですから、怒りたくもなりますよね。 そもそも私は宗教なんて大嫌いでした。いまでも胡散臭い信仰をしている人はイヤですからね。宗教オタクとかね。やたら宗教に詳しくて、知識豊富な人にも、もっと他にやることあるだろ、と言いたくなります。特に、若い人で、何だかわけのわからない信仰をしている人を見ると、 「やめなよ、もっと遊びなよ」 と思うくらいです。いつだったか、若い独身男性の方が写経をたくさんもってきていたので 「写経する暇があるなら、女性でもナンパしてこい!」 と言ったほどですからね(その独身男性の方、結婚願望があるので、そういったのですよ。写経が悪いというわけではありません。写経をしていても恋愛は舞いこんで来ないでしょ、という話をしたのです。誤解なきよう、お願いいたします)。 若者には、若者のやるべきことがあるでしょ。宗教にとぼけてなんていないで、もっと青春しろよ!と思うのですよ・・・・。 あぁ、また話がそれました。話を戻します。 宗教嫌いだった私の家が、なんと宗教系の家になってしまう・・・・これは耐えられませんねぇ。びっくりを通り越してあきれるばかりです。まあ、驚いていても、怒っていても仕方がありませんから、父親に問いました。 「なんでいきなり観音様を祀ることになったの?」 とね。これが約30年前のこと。私は19歳でしたねぇ・・・・。青春真っ只中、東京の昼や夜?を楽しんでいたころのことです。髪の毛だってロン毛です。パーマなんかもしてましたし。おぉ懐かしい・・・。 それが今や・・・坊主頭ですからねぇ。人の人生なんてわからんものですなぁ・・・。 ま、それはいいのですが。 「なんでいきなり観音様を祀るのか」 この問いに対する父親の答えは、到底信じらない、嘘八百の話にしか聞こえませんでした。 「あぁ、親父は狂ってしまった・・・・」 と思ったほどです。その答えとは・・・・。親父の語り口調(岐阜弁ではないですよ)で紹介いたしましょう。 「去年の夏くらいのことかなぁ・・・。左の胸が痛くなってな。特に左腕の下のところがな、チクチクと痛んだ。で、自分でさするだろ、痛いところを・・・・。そうすると痛みが治るんだな。痛いのがすーっと引いていくんだ。そんな日が続いたんだな。そう、あれはいつだったか、秋のころかなぁ・・・・。外回りから帰ってきたある日の午後、なんか急に眠たくなったんだな。で、ベットで転がっていた。そしたら・・・・・初めは誰だか分らなかったんだけど、あとから知ったんだけど・・・・弘法大師が現れて・・・・夢じゃないんだ、これが。目はあいていたように思うし・・・・こういうんだな。 『お前の命は助けてやった。だから、これからはその命を人々のために使え。仕事を辞めて無になれ。観音様をお前においていく。早々に祀るように』 初めは信じられなかったから、夢だと思って無視していた。変な夢だな、程度で済ませていた。そしたら、同じようなことが何回かあったんだな。で、うっとしいので何回目かの弘法大師が現れた時に 『仕事は今波に乗っているときだし、もうけも大きい。なんで辞めなきゃいけないんだ。観音様も祀る気はない』 と拒否をしたんだ」 ここまで聞いて、私も内心 「そりゃあ、拒否するわな。そんな話はないだろう。うそくさいし」 と思ったんですね。オヤジ、正常じゃん・・・ってね。じゃあ、なんで、仕事を辞めて観音様を祀る宣言になるの?と疑問がわきますよね。なので、話の続きを聞いたんですね。それがまた、驚きの内容だったんですねぇ。 「そういって弘法大師のいうことを拒否すると、お大師さん、怒るんだな。めちゃめちゃ怒るんだ」 父親は、萎れてそういうんですな。以下、父親とお大師様とのやり取りです。 『観音様を祀ることができるというありがたい話をお前は断るというのか。命を助けてもらっておいてか!』 『命を助けてもらったかどうかは、わからないことだし。観音様を祀ることも受け入れれられない。今、仕事も順調だから』 『いつまでもその順調が続くと思ったら大間違いだ。このままだと、お前だけでなく家族も苦しむことになるぞ。それでも仕事を辞めないというか』 『そんな・・・・いきなり言われても・・・・・単なる夢としか思えないし・・・・』 『そうかそういうことを言うのか。よし、それなら証拠を残しておいてやろう』 お大師様はそういうと、大勢の子どもを呼んだんだそうです。その子供たちは、手に木の棒をもっていたそうです。で、お大師さん、 『この者を打ちすえろ!』 と言ったんだそうですよ。なんとひどい・・・・。お大師さん、そりゃひどいでしょ、と思いますよねぇ・・・。 お大師さんの号令のもと、子供たちは一斉に父親に向かっていったのですな。棒を振りかざして。子供と言えど、大勢だし、棒をもってるし、逃げるしかなかった、と父親は言ってました。逃げまどう父親・・・。ついに転びますな。そこへお大師さん、 『これは戒めだ!』 そう言って、金剛杖で、父親の右ひざを打ちすえたそうです。そこで夢から覚めたそうです。 「起きてみたら、右ひざが痛いんだ。で、ズボンをめくってみると赤くはれ上がっている。それで夢じゃないと思った」 さて、あなたは信じらますか?。私は、この時点では、全く信じてませんでした。そんなの夢であって、足は寝がえりを打ったときにどこかにぶつけたんだろ、としか思いませんでした。まあ、常識的判断ですよね、これが。ところが、父親は信じてしまったんですね。で、お大師さんの話を受け入れたのです。 うちの寺の本尊様誕生秘話A 突拍子もない前回の話の続きです。皆さんは、前回の話をどう思われたでしょうか?。自分の身に同じようなことが起きたら、みなさんは素直に受け入れますか?。 「いや〜、まさかぁ・・・・」 という方が多いのではないかと思います。まあ、その当事者になってみないとわからないことですけどね。案外、すんなり受け入れてしまうものかもしれません。 そう、私の父親は受け入れてしまったんですな。で、 「もう仕事は辞める。明日からは、お大師さんに身を任す。観音様の救いに縋る」 と言い出してしまったわけです。 これで驚かない家族がいたら、会ってみたいものです。当然驚くでしょ。驚かないわけがない。家族はびっくり仰天ですよねぇ。 当時、私は学生。私には姉が二人いましたが(私は末っ子の長男です。世間では、末っ子の長男は甘えて育つため、どうしようもない男になる、と言われてます。が、自分ではそんな風にはならなかったと思っています。が、頼りないことは間違いないかな?)、上の姉は嫁に行っていました。家に残っているのは下の姉ですな。この姉、子供のころよりはねっ返りで、まあ、よく父親に怒られていたもんです。 で、この時も相当もめたようですな。私は東京で一人暮らしをしていましたからそんなことはつゆ知らず。前回の話もあとから聞いたことですし。というか、私と父親が話し合う前に、姉と父親が大いに揉めていたそうなんですな。まあ、当然と言えば当然でしょう。しかし、昔からうちは封建主義でして。父親の言うことは絶対だったんですね。唯一逆らって家を飛び出したのは私だけなのですな。どうしても自由のない家が嫌で、早く家を飛び出したかったのですが生活ができません。そこで、楽に生活ができ、なおかつ家を出ることができる方法が大学受験だったのです。そこで、私は東京を選んだのですが(遊べるしぃ〜)、それはもう無理やりだったわけですね。そういう家だったのですよ。今の私の自由主義(なんでもいいじゃ〜ん主義)は、封建主義的家庭に育った反動ですね。ある意味、いい家庭だった?、とも言えますね。 ま、そんなだから、姉と父親は大いに揉めたそうです。 「生活はどうするの?。食べていけるのか?」 まあ、結局はここを責めるわけですな。当たり前の話です。生活しなければいけないですから。収入がなければ人は生きてはいけないですから。しかし、結局は 「生活はなんとかなる。お大師様はそう言った。贅沢はできないが、最低限の暮らしはできる、保証する、と。仏様は・・・お大師様は嘘はつかない、だから・・・・わしに逆らうな!」 のひとことで片付いたそうです。いやはや、今じゃあ信じられないような家庭ですな(えっ?、まだまだこういう家庭はある?。もしそういう家庭なら、今すぐ破壊しなさい。悪いことは言いませんから)。 さてさて、そんなこんなで父親は仕事をやめてしまいました。で、何を始めたかというと、今でいう「拝み屋」ですね。町の拝み屋、です。 具体的にどんなことをするのかとういうと、訪れる人の悩み事を聞いて解決したり、御祈祷をして病気を治してあげたり、おかしな状態になった人のお祓いをしたり・・・・ですな。まあ、今でも私がやっていることと変りはないのですが、当時は宗教法人になっていませんので、いわゆる無許可営業のようなものですな。別に法に触れるわけではありませんが。 ともかく、どこから聞いてききたのか、口コミでいろいろ人がやってくるわけです。 「病気が治るって聞いてきたんですが」 「失せものを見てもらえるって聞いてきたんですが」 「悩み事を解決してもらえるって聞いてきたんですが」 「ツキモノを祓ってくれるって聞いてきたんですが」 こんなような人が、毎日ではないですがやってくるわけです。で、お布施をおいて行くんですね。それで生活が・・・・成り立つんですよ。今思えば、流石にお大師様は嘘はつかない、ですね。その当時も今も、なんとか生活は出来てますからねぇ。 まあ、私としては、仕送りも途絶えることなく、相変わらず大学はテキトーに済まし、バイトと遊びに明け暮れていましたけどねぇ。実家はいつの間にか、座敷に祭壇がしつらえられ、なんだか怪しい宗教っぽいような雰囲気に変わっていたのです。それを知ったのは、春休みのことでした。 春休みに久しぶりに実家に帰りますと、座敷が騒々しいんですな。知らない人が来ているわけです。当然、私は避けます。なぜ実家に戻ったのか・・・。それは高校時代の友人と楽しむためです。それ以外ありません。なので、座敷には一歩も足を踏み入れてませんでした。 「もう岐阜には帰ってこない。遊びでは帰るけど、この家には住まない」 と言って家を出たので、実家には私の部屋はありませんでした。正確に言えば、部屋はあったのですが、姉に占領されていたんですな。まあ、住むつもりはないからいいのですが、そうなると私の寝る部屋がありません。以前は座敷で寝ることができました。が、今回は、どうもそんな気にはなれません。なぜなら・・・・。 「線香くさい」 からです。家の玄関に入ると、線香臭いんですな。これが嫌いでねぇ・・・・。今では好きですが。 それだけではなく、なんだか座敷が暗い、陰気臭いんですな。近寄りがたいといいますか、重苦しいぃ感じが漂ってくるわけです。そこで、座敷横の応接間(昔の家にはありましたよね。リビングじゃなく、応接間。応接セットが置いてある、あの応接間です)で寝ることにしたのです。 春休み、実家に帰ったその日の夜。応接間にある(昭和の香りがする)椅子を横にどけ、布団を敷いて私は寝ました。まあ、半分酔っぱらっていますな。遅くまで、友人と酒を飲んでいたんですね。で、家に戻って風呂に入って、そのまま寝ますな。学生ですし。「うげぇ〜、飲み過ぎたぁ〜」などと言いながらね。で、即爆睡ですな。が、夜中のことです。身体が重く、息苦しくなったんですね。 「く、く、苦しいっ・・・・、む、胸が・・・・」 と目が覚めます。が、身体が動かないんですね。いわゆる金縛りですな。 「こ、これが金縛りかっ!」 てなもんです。で、ふと目を開けると、なんと!、花嫁衣装で顔のない女性(たぶん女性、顔は真っ黒でした)が、私の胸の上で正座しているじゃないですか!。驚かないわけがないでしょ。しか〜し、身体は動きません。焦りますな、普通。が、意外と私は冷静だったのですな。 その顔のない女性を驚きの目で見つつ、指先で電灯の紐を探していました。私は、生まれついての面倒くさがり屋なので、寝ながら枕元の電気を消せるように、枕元にある電灯のスイッチに長い紐をつけておいたのです。そうしておけば、腕を頭の方に延ばさなくても、布団の中で紐を引っ張れば電灯をつけたり消したりできるでしょ。なんとものぐさな!、と思うかもしれませんが、本当にものぐさんですよ。その紐が首に絡むなんてことは、少しも思いませんでしたし(今思うと、よく首に絡まなかったなぁ・・・とぞっとします。ものぐさはいけませんよ)。 なので、指の近くに電灯の紐があるはずなんです。なので、指先で必死に紐を探していました。かろうじて、指先だけは動いたのですな。 紐はありました。ひっぱります。電気が付きます。一瞬眩しいですが、すぐに目がなれます。すると、さっきまで体が動かなかったのが嘘のように、起き上がれます。花嫁衣装の女性はいません。当然ですね。 「は、目の錯覚か」 そう思って私は再び爆睡します。幽霊とかいうのは信じてませんでしたからね。変な夢だ、くらいで、また眠りについたわけです。 どれくらい時間がたったかは知りません。眠りの中で、足音がするのが聞こえ始めたんです。私の周りを子供たちが走り回るんですね。うるさいんです。キャッキャいいながら走っているんです。 「うるさいなぁ〜、なんなんだ」 と思って起き上がろうするのですが、また身体が動かないんですね。 (ここまで読んできて、いったい観音様はどこに出てくるんだ、と思った方も多いと思いますが、もうしばらくの辛抱です。もうすぐ出てきますから) で、再び指先を動かしますな。その間、私の周囲では子供たちが走り回っていますな。中には覗き込んでくる者もいました。真っ暗なのに、なぜか 「子供が覗きこんでいる」 とわかるんですね。それも一人じゃないです。2〜3人です。走り回っているのはもっとでしょうか?。数人はいたと思います。 ようやく、指が紐を探り当てますな。で、ひっぱります。電気が付きます。何事もなかったように、あの暗い変な重苦しい空気は一瞬で消えますな(金縛りにかかりやすい方、毎晩幽霊により金縛りにかかる方、この対処方法はいいですよ。霊は明るさに弱いですからね。まあ、根本的解決にはなりませんが・・・・)。 「何なんだ、うっとうしいぃ」 と言って再び寝ますな。信じてませんから、幽霊なんて。なので、ただの夢、で終わるのですな。今思えば、無謀な、なんですけどね。 翌朝、その話を父親にしますな。変な夢を見た・・・・と。 一瞬、父親の顔が曇ります。ヤバイ!って感じですね。で、 「う〜ん、やっぱり早めに本尊様をおかねば・・・・」 とつぶやくんですな。その時には何のことかさっぱり・・・ですね。 2〜3日後、春休みも終わりに近づいたので、東京に戻ろうとする私に父親は言いました。 「お前が今度帰ってくる家はここじゃないから。この家は売ってしまうから。このままでいると、悪い霊が溜まってくるからな。ちゃんと供養できるようにするつもりだから、ここはもうないぞ」 そうなのです。私の経験がサインだったのでしょう。父親は、家を売って、別の場所へ移り、仏様を祀ることにしたのです。 「まあ、前からお大師様にはそうしろ、と言われていたからなぁ」 「家を売ってどうするの?。(お大師様に)なんて言われてるの?」 お大師様のことは当時は信じていなかったのですが、まあ、私も少しは大人になっていたのでしょうねぇ、話を合わせたわけですな。 「あぁ、観音様を祀れ、と言われているんだ。で、その姿形もわかっている。お大師様が指定した姿形の観音様を探さなければいけない。方角も分かっている。北の方で探せということだ。で、その指定された観音様を求め、見つけたらそれを祀ることになる」 「ふ〜ん、あっそう。大変だねぇ。じゃあ、俺東京へ戻るわ」 全く関心のない息子の言葉をどう受け止めたのか、その時の気持ちは知る術もありません(もうとっくに忘れていますからねぇ、このころのことは)。が、勝手なことを言ってる、ぐらいには思ったのでしょう。もしや、そんな言葉は耳に届いていなかったかもしれません。観音様のことで一杯でね。 ともあれ、このようないきさつがあり、観音様を早急に祀らねばならぬ、ということになったのですな。 その年の5月のこと。 東京にいる私のもとに電報が届きますな。今では慶弔のときくらいしか電報は使いませんが、当時はまだ携帯電話もなく、イエ電も高くて、学生には引けないものでしたから、電報は緊急の連絡には欠かせないものでした。 その電報によると(正確な内容は忘れましたが)、 「5月17日に観音様を奉安する。帰ってこれたら帰ってこい」 というものでした。で、新住所が書いてあります。 「本当に引っ越したんだ。で、本当に観音像を祀るんだ。いや〜、まいったなぁ〜」 それがその時の率直な感想でした。 カレンダーを確認すると、その日は日曜日。なんとも思っていなかったはずなんですが 「帰ってみよいうか・・・・」 と自然に思ったのは、やはり縁があったからんでしょうねぇ。そのころから、流れはすでにできていて、いつの間にか知らないうちに、私はその流れに乗っていたのでしょう。巻き込まれていた、というべきかもしれません。自分では全く気付いていなかったのですが・・・・。 実家に戻りました。そこは借家だったのですが、妙な造りをした家でした。外から見ると倉庫のよう。で、外階段を上って玄関を入ると、だだっ広い空間がありました。個室が2〜3位ありましたかねぇ。あまり覚えてませんが・・・・。 広い部屋にはいると手前にU字型のカウンターがありました。バーみたいですな。あとから聞いた話では、持ち主がお遊び用に造った家なのだそうです。で、お客用の寝室と、バー付きの広いリビングがあったのです。 で、そのリビングは、半分が畳敷き、半分がカーペットになっていました。奥が畳敷きですな。その奥まったところに、白い布につつまれたものが立っていました。まあ、それが観音様なんですが、その時はまだ公開されていません。 そのうちに知らない人が、ぞろぞろとうちの中に入ってきますな。私はカウンターの中に入り、座り込んできょろきょろしていました。で、とうとう座敷もカーペットも人でいっぱいですな。 しばらくすると、坊さんが入ってきました。かなりのお年寄りでした。そのあとに、衣をきた父親が続いています。 「な、ななな、なんだ?、なんだ、あの格好?」 いつの間にか、父親は高野山で「得度」をしたらしいのです。その時に世話をしてくれたのが、先頭を歩いていた年寄りの坊さんだったのですね。 高野山で得度をする場合、地方寺院の紹介がなければできません。いきなり高野山のお寺に行って 「得度させて下さい」 と言っても、無理なんですね。地方寺院の紹介が必要なのです。で、父親もそのお坊さんの紹介で高野山の「報恩院」様で得度をしたのです。私も報恩院様で後にお世話になるのですが、このときはまだまだ・・・・。ただただ、 「知らない間に、こんなに話が進んでいたんだ」 と驚いただけでした。まあ、私には関係のないことでしたからね。 チーンチーンという鐘の音でお経が始まりますな。今思えば、それがどんなお経だったのかはわかりますが、当時は何とも思っていませんから、 「つまらん」 と思っていただけです。それよりも、白い布で包まれているものが見たかったですね。早く見たないなぁ・・・てなもんです。 で、いよいよ、いわゆる除幕式ですな。観音様の登場です。 金ぴかだ・・・・。 それがその時の感想です。 普通、お寺の本尊様と言えば、真っ黒な木彫りの像、じゃないですか。私もそんな姿を想像していました。なので、ちょっとあっけにとられたというか、えっ?、というのが正直な感想でしたね。 しかし、これにはわけがありました。その話は、父親がその日参りに来たみなさんに話したことです。細かいことは覚えてませんが、だいたいこんなことでした。 「普通、仏像と言えば、真っ黒な姿を想像されることでしょう。しかし、どのお寺の仏像も、本来は金箔に包まれていました。仏様は、黄金に輝いているのです。その姿を現した仏像は、やはり金色に輝いていないといけません。しかし、多くの仏像が長年の時を経ることによって、金箔がはがれてしまったのですね。古いお寺の本尊様の姿は、長い歴史を背負った姿です。 ここはこれから始まる寺です。今日がスタートです。ですから本尊様の姿は黄金に輝いていなければなりません。 この仏様は聖観世音菩薩と言います。お大師様が私に不思議な力を貸して下さったときに、聖観世音菩薩を祀れ、と命じられました。お前に与えた力は観音様の慈悲の力であるから、と。そして、お大師様はその姿も指定されました。 右手は前に差し出す与願印であること。左手には開かれていない蓮を持っていること。たち姿で、黄金に輝いていること。目の前に浮かんだ姿は、まさにこの観音様の姿でした。このような姿をした観音様を北に行って探せ、とおっしゃいました。 私は探しました。そして、人伝えに高岡にそのような姿をした観音様を鋳造する仏師がいると知りました。さっそく高岡にいくと、なんとこの観音様があったのです。その仏師の方は 『近いうちにこのような姿の観音様の像を求める者が来る。その者は観音様の使いである』 という夢を見たので、早速造っておいた、まさか本当に来るとは・・・・・、 と言っていました。 この観音様は、お大師様がもたらした観音様です。そして、私の不思議な力は観音様から借り受けている力です。この観音様を拝む方は、観音様とお大師様のお力を授かることができるでしょう。どうぞみなさん、御参拝してください」 とまあ、うちの寺の本尊の観音様には、このようなエピソードがあるんですねぇ。 これが、昭和56年5月17日のことです。私が20歳になる年、今から29年前のことなのです。 ちなみに、今でも、うちの寺は大きな法要をするときは、5月の中旬に行います。できれば17日に行います。それは、その日が初めて観音様を祀った日だからです。それを記念して、今でも大きな法要は5月に行っているのですよ。昭和56年5月17日はうちの寺にとって、原点なのですね。その時は、まさか私が跡を継ぐなんて思ってもいませんでしたが・・・・。 さて、うちの寺の本尊様・聖観世音菩薩様にまつわるお話、楽しんでいただけたでしょうか?。次回は、本尊様の姿の話や観音様の有名な昔話などをしてみたいと思います。 うちの寺の本尊様誕生秘話A+α さてさて、前回までのいきさつがありまして、うちの本尊様はめでたく鎮座いたしました。当時は、仮住まいだったので、天井も低く、狭いところで、本堂などとはとてもとても呼べないようなところでした。まあ、いわば町の拝み屋ですから、場所は仕方がないのですが、その拝み屋にしては、分不相応な本尊様だったことは否定できませんね。誰もが、 「うわ、大き過ぎやしないかい?」 と思ったのではないかと思います。 ところで、うちの本尊様は、青銅純金メッキです。なので、中は実は空洞です。木彫りの本尊様は、現代では寄木造になっています。一木から掘り出したものではありません。 古い仏像は一木造りが多いですね。特に奈良時代以前は、一木からそのまま彫った仏像が多いです。そのため時間がたつと割れてしまうんですね。木が乾燥して割れてしまうのです。奈良時代以降、割れを防ぐために、木の中を掘り出すようになりました。中を空洞にするんですね。そうすれば、割れることはなくなります。また、漆を塗って、その上に金箔をはるようにもなりました。そうすることにより、仏像の割れや痛みを防止できるんですね。 ちなみに、金ぴかの仏像は珍しいかもしれませんが、古い仏像も造られた当初は金ぴかだったんですよ。あの奈良の大仏様だって・・・・あの大仏様も銅製ですが・・・できた当初は金ぴかだったんです。多くの仏像は、出来た当初からあんなに真っ黒だったわけではなく、金箔が施されていたか、彩色が施されていたんですよ。それが長年にわたり人々に触れていたためと、線香やローソクの煙や煤で真っ黒になっていったのです。あるいは、戦火に焼かれて黒焦げに・・・・という場合もあります。しかし、いずれにせよ、仏像は本来金ぴかに輝いていたのです。 で、その仏像の中なのですが、一木でそのまま仏像を造ると割れてしまいますので、中を掘って空洞にするようになりました。あるいは、手や足、光背、などを別に造って組み合わせる技法も生まれました。胴体を空洞にし、手足をあとから組み合わせ、さらに光背をくっつける・・・というようにすれば、まず割れることはないんですね。で、漆を塗り、金箔をはったりしたのです。あるいは、彩色を施したのですね。 これは、鋳造された仏像も同じです。同体は空洞ですね。手足はあとからくっつけるということはありませんが、光背はあとからくっつけてあります。うちの本尊様で言えば、光背と左手に持った蓮の花は取り外しができます。あとは、全部同じ、一つの型で造ってあります。もちろん、同体の中は空洞ですね。 これが重いんですよ。中が空洞なのに・・・・。 ですが、うちの本尊様、空洞の中身は一杯になっています。いっぱい詰まっているんですね。何が詰まっているかと言えば、それは写経です。うちの本尊様、お腹の中は写経でパンパンなんですよ。 いったい何巻詰まっているのか、検討もつきません。1千巻はあると思います。なんせ、普通の般若心経の写経ですから、一枚一枚はペラペラでしょ。それが頭の先から台座のギリギリまで、満杯に詰まっているんです。すべて般若心経の写経です。唯でさえ重たい鋳造の仏像なのに、写経用紙が満杯に詰まっているものですから、その重さは倍増ですな。尤も年末の大掃除のとき以外は動かしませんから、重たくても構わないのですが・・・・。 しかし、当時の皆さん、よくそんなに写経をされたな、と思いますね。皆さん、まじめで純粋だったんだなぁ・・・と思います。あ、いや、今お寺にお参りにこられている方が不純だと言っているわけではありませんよ。誤解のないようにお願いいたします。 当時は、父親が拝み屋を始めたばかりの頃です。それなのに、よくまあそんなに写経が集まったな、と感心しているんですよ。みなさん、よくまあそんなわけのわからない拝み屋さんを信じるなぁ、とね。当時の私だったら全く信じませんからね。みんな、そんなことして何になるの?、って聞いたかかもしれません。写経って何よ、意味あるの?って聞いたかもしれません。 幸い、私は関わらないという姿勢をとっていたため、誰に問うこともなく過ぎていったのですけどね。それにしても 「よくやるねぇ・・・・」 と言うのが正直なところでした。宗教は怖い、とも思っていましたね。集団でお経をあげている姿を見ると、一種異様な感じしましてね・・・。今でも、狂信的にお経をあげている霊能者などをTVで見たりすると、違和感は覚えるし、嫌悪感も感じますけどね。 まあ、それはいいとしまして、うちの本尊様の中には、何巻もの写経が詰まっているのです。その写経には、きっといろいろな願いが書かれていますから、そう思うと、本尊様大変だなぁ・・・とつくづく思いますね。そんなに多くの願いを背負うなんて、とてもじゃないが人間には無理ですな。あぁ、そう思うから、悟りを得られないんですねぇ・・・・。否、悟りを得ているからこそ、多くの願いを背負うことができるのか・・・。表裏一体ですな、それは。 ま、いずれにせよ、我が家は拝み屋さんになってしまい、高さ約1m20pの金ぴかの観音様が鎮座する家になってしまったのです。慈悲の本尊様、観音様は、無慈悲にも私から実家での休息を奪ってしまったのですな。 そう、観音様は慈悲の観音様です。今回は、その話を中心にしようかと思っていたのですが、なんと、 「それよりも聞きたいことがある。それはどういう経過で宗教嫌いの和尚さんが坊さんになたのか、ということです。ぜひその話を」 というリクエストが相次ぎまして・・・・。 ということで、ちょっとここで内容を変更しまして、うちが拝み屋から寺になるまでをお話しようかなと思っています。そうですよえぇ、みなさん不思議に思いますよねぇ。単なる一般の人の家が、お寺になってしまうんですからね。そんなことは多くあることではないでしょう。アパレル関係の仕事をしていた人が、いきなり拝み屋になり、その息子は宗教嫌いだったのに坊さんになってしまったって・・・・。あり得ない話の展開ですよね。そりゃ、興味がわくことでしょう。なので、 「拝み屋から寺へ」 と題名を変更します。まあ、よもや話ですから、それもいいですよね。 さて、私が大学2年の5月に我が家は本尊様の観音様を迎え入れ、正式に拝み屋さんになりました。拝み屋さんに正式なのがあるのかどうか知りませんが、まあ、我が家は宗教関係になってしまったのは間違いありません。私にとっては、うんざり・・・ですな。もういけません。それ以来、実家には戻らなくなりました。その年の夏休みは、岐阜へは一度も帰りませんでしたね。東京でバイトと遊びに明け暮れておりました。 その年の秋に実家はまた移動します。観音様を迎え入れた場所は仮の宿、ということだったんですね。しかし、その時もまた借家でした。古い家で、トイレも汲み取り式でしたねぇ。 引っ越した、という連絡を受けたのは、その引越しが終わったあと、冬休みになる前です。手紙で私のもとに知らせが届きました。どんなところに引っ越したのかも気になりましたし、正月くらいは実家に戻ったほうがいいかと思いましたので、あれは確か、おおみそかでしたかねぇ、夜行列車で岐阜まで戻ったんですよ。今でもあるのかな、東京駅から大垣までの普通列車。夜中走るんですよね。普通列車なので、特急券がいらないんです。もちろん、椅子は直角椅子。眠れるものじゃありません。若かったですからねぇ、徹夜も平気でした。なので、よくこの列車を利用しましたよ。 実家へ戻ってびっくり。兎も角古い。ぼろい。昔、その家は店舗を営んでいたそうで、一階が店舗と奥に台所、風呂、トイレがありました。で、二階が3部屋ほどありましたかねぇ。せまくはなかったですが、広くもありません。その当時、姉は二人とも嫁に行ってしまっていましたから、家には父親と母親のみでしたからね。せまくはないでしょう。 で、その一階の店舗だったところを改装して、小さなお堂にしてあったんですね。当時の写真が残っていないし、記憶もあいまいなので、説明のしようがありませんが、まあ、店舗を一応内陣と外陣にわけて、お堂のようにしてありました。本尊様の観音様も堂々と立っておりましたな。一応、それらしくはなっていたという記憶はありますね。そこには、それ以来・・・私が大学2年の秋、20歳のころから・・・4年ほどいましたか。拝み屋さんをそこで営んでいたわけです。 ここは、なんとなく居心地は良かったですね。私は2階に籠っていればいいわけですし、下のお堂にはよりつかなければいいですから、まあ、なんていうことはないですな。なので、そこへはちょこちょこと帰りましたね。高校時代の友人にも会いましたし。 ただし、決してそれは自分も拝み屋になる・・・ということではありません。ただ、夏休みとか冬休みなどに帰りやすくなった、というだけのことですな。宗教は一切関係していませんでした。 が、私が大学3年も終わろうとしていた年の2月のことです。私の人生を変えるできごとが起きたんですねぇ。 私は東京のとある国立大学に行っていました。理系です。そんな優秀&有名な大学ではありません。まあ、中間クラスですねぇ。入れたのはまぐれだったと今でも思っています。運が良かったのだと・・・。 ま、それはいいのですが、私は、毎年住まいを変えておりました。1年のときはぼろアパート。台所とトイレはついておりましたが、日の当らないオンボロアパートですな。窓を開けると隣の家の壁、という、まあ、都会ならではのアパートだったんですね。 大学2年のときは、友人と共同生活を始めました。今でいうルームシェアですね。そんないいものじゃありませんが。相手は、神戸のヤツで今ではもう付き合いはありません。まあ、キッチンと呼べる代物、洋式のトイレ、風呂が付いていまして、生活はしやすかったですね。しかし、家賃が高かったということもあり、また、共同生活というのは不便さもあるので、3年になった時に引っ越しをしました。もっとも、共同生活をしていたヤツも、引越し先の隣の部屋だったんですが・・・。 そう、その引越し先がちょっといわくつきだったんですよ。 そこは、もと病院でした。病院と言っても、昭和30年代の建物。まあ、古いですな。で、院長が亡くなったとかで、その奥さんが下宿屋に改造したんですね。改造と言っても、もと病室をそのまま貸しただけですが・・・。 共同炊事場、共同トイレ、風呂はなし。一階が二部屋、2階が5部屋ありました。一階は、受付の部屋と処置室が、二階は病室が3部屋に看護士さんの控えの部屋と院長室が、貸し部屋に出されていたんですね。私は、そのうちの2階の3号室。東南の角で日当たり良好でしたし、1号室・2号室にはないロッカーがありました。 一階は1号室と2号室。2階は、1号室〜3号室と5号室・6号室。そう、4号室はありません。5・6号室は和室で押入れもあり、広かったと思います。まあ、看護士さんや院長の控えの間ですからね。当然と言えば当然でしょう。 4号室は病院だったのでありません。それも当然ですね。が、口の悪い友人たちは、私の部屋のロッカーを「4号室への扉」と呼んでいましたねぇ。なんとなく不気味だ・・・などと言って・・・。 もと病院です。 気になる方は気になるでしょう。当然のことながら、亡くなった方もいらっしゃいます。でも、気にしない人は気にしないんですよ。私も私の友人たちも、全く気にしませんでした。実際に、何事もなく日は過ぎて行きました。快適でしたね、ここでの暮らしは。バカな連中が集まって、毎日が宴会の日々でした。バイトも充実していましたし。そう、ちょうど高橋留美子さんの「めぞん一刻」のような感じですな。古さも似たり寄ったり。あのバカ騒ぎ加減も同じような感じでした。あのマンガが流行っていた時期でもありましたし、住人はみんな一刻館とダブらせていましたね。 そんな平和な日々がどんどんと過ぎていきます。が、年が明けてからですか。私が体調を崩したのは・・・・。 初めは腰痛からでした。腰が痛いんですね。その兆候は秋のころからあったんですが、そんな頃は大したことはなく、湿布を貼っておけば治る、というものでした。ところが、年が明けて2月も近くなった頃、どうにもこうにも腰が痛くてたまらなくなったんですねぇ。 私は、単に筋肉痛かヘルニアかと思っていたのですが、どうもそうではなかったようなのです。それは・・・・。 ま、続きは次回ということで。 拝み屋から寺へ・出家のきっかけ 前回お話ししたように、私は元病院・・・それもかなり古い、マンガ「めぞん一刻」の一刻館のような・・・に住み始めました。大学3年の春のことです。元病院と言っても、何事もなく、快適に暮らしていました。年が明けるまでは・・・・。 年が明けてから、どうも体調が思わしくないんですね。腰が痛くて痛くて仕方がなくなったのです。とはいっても、立てないほどではないし、湿布を貼っておけばなんとかなる、というものでした。が、あれは2月のころです。とうとう歩けないくらいの激痛に見舞われたのです。 ちょうど、羽田でしたっけ、飛行機が機長の「逆噴射」によって滑走路手前で落ちてしまったという事故がありましたよね。あの頃のことです。覚えてますかねぇ。若い方は知らないんじゃないでしょうか。そのあと「逆噴射」が流行語にもなったりしましたが(不謹慎な話なんですが)。 そんな頃の話です。 もう腰が痛くて痛くて、ついに立てなくなってしまったんです。で、どうもこれは様子がおかしい、なんか変だ、と感じたんでしょうね。病院へ行くより前に実家へ電話を入れました。一階の玄関口に赤電話(知ってますよね、ピンク色の公衆電話)があったんですよ。で、そこまでなんとか這いずって行ったんですね。で、実家へ電話を入れました。すると・・・。 「そろそろ電話があると思ってた。それはお祓いしなきゃ治らないぞ。そんな処に住むからいかんのだ」 と父の返事。私としてはわけがわかりませんな。しかし、頭のどこかで「ヤバイ、普通じゃない」というのはわかっていたんですね。なので 「すぐにお祓いに来て欲しい・・・・」 と言っていました。まあ、藁にもすがる思い・・・だったのかもしれませんが。 その日の夜、父親が私の住んでいる元病院にやってきました。で、ざっと部屋を見渡し、「ふむふむ」とうなずいてますな。窓から外も眺めています。特に東側の窓は気になるようでしたね。 実はその元病院、お稲荷さんを祀ってあったんですね。玄関の横にちょっとしたお稲荷さんの神社・・・というほどでもないのですが・・・社があったんです。人の身長ほどの高さの鳥居もあって、個人の持ち物としては立派なものでしたね。そのお稲荷さん、私の部屋の東側の窓の真下なんですね。で、父親はそれをじーっと見ているんです。 「なるほどな。よしわかった。じゃあ、始めるか」 そういったかと思うと、何やら道具を出してきまして(仏具ですな。当時は知りませんでした)、線香やらローソクやらつけますな。線香は、私が使っていたラーメンどんぶりに塩をたっぷり入れて立てるんですね(これはお祓いにいったとき、結構便利ですね。私も使っています)。そりゃあ、煙たいのなんのって・・・・。私といえば、ベットの上でうつ伏せになって唸っている状態です。動けないんですね。痛くって。顔だけ横にして様子を見ていますな。父親はいつの間にか着替えていまして、私が使っていたちっこいテーブルの上に仏具を並べ、お経本なんぞを広げ、棒で水なんぞを降り注ぎますな(洒水・・・しゃすい・・・です。清めの水ですね)。そしてお経を読み始めました。いよいよお祓いの始まりらしいです。 今は、それがどんなお経なのかわかりますが、当時はもちろんわかりません。拝み屋さんなので、「九字」も切ったりします(まあ、私もお祓いのときにはしますが。私も拝み屋ですからね)。お経と真言の繰り返しですね。それが延々と続くんです。なんと、それは翌朝までかかったんですねぇ。もう大変です。当時、私は21歳、父親は50歳ですな。あぁ、今の私の年齢とほぼ同じです。おっと、今の私に一晩中お祓いできる体力あるか?・・・いけませんねぇ、さぼってますな、わたし・・・。 まあ、それはいいとしまして、そのお祓いが終わったのは翌朝、日が昇ったころなんですね。 「よし、もういいぞ、起きられるだろ」 と言う言葉で目が覚めました。私はすっかり寝ていたんですね。お祓いの途中から気持ちがよくなり、腰の痛みもなくなり寝てしまったんですな。なんだか、久しぶりにぐっすり眠ったような感じがしました。 で、父親の言葉に気がついて、起きてみますと・・・・これが痛みなく立ち上がれるんですね。いやはや、なんとまあ・・・です。 「しばらくは、筋肉痛があるだろうから。それは仕方がないな。余韻があるものだから。それで、原因だが・・・・」 そう、腰痛の原因です。これが肝心。お祓いで立てるようになったのですから、単なる腰痛でないことは確かでしょう。父親は、ポラロイド写真を数枚、私の前に出してきました。どうやら、お祓いの途中で撮っていたようです。私はその写真を手に取ってみました。すると、そこには・・・・。 「まずは、この女性。これはここで亡くなった人だな。お前の上に乗っているわけだ。それと入口に立っている女性。恨めしそうに眺めているな。それからここ、押し入れの扉にキツネが二匹。これは下のお稲荷さんからやって来ているキツネだな。その他もろもろの霊がこの扉にはいるな。ま、これらが腰痛の原因だな。特にこの押し入れの扉はダメだな。向うの世界とつながっているようだ」 なんとまあ、その写真には、そのようなモノが写っていたわけでして。しかも、友人たちが冗談で「4号室の扉、不吉な扉」と呼んでいた押し入れの扉は、まさしく不吉な扉だったわけで、そこからいろいろな霊が入り込んでいたのですよ。 もちろん、にわかには信じられないような話ですが、私は実体験してしまいましたからねぇ。なんといっても、立てなかったくらいひどい腰痛が、お祓い後に治っていたので、これは信じないわけにはいかないでしょう。しかも、ポラロイド写真には、はっきりと私の上に乗っている女性や入口にたたずむ女性、扉のキツネ2匹などがしっかり写っているんですからね。いくらそういう世界を信じない私でも、これは信じざるを得ないのですよ。 「まあ、御札をはっておいたから、この部屋には何も出て来ないだろうし、キツネどももしばらくは大人しいだろう。何も悪さはしないだろう。しかし、ここに長く住み続けると、その保証はないな」 その時のお祓いは、臨時なのです。女性の幽霊はもう出ないとのことでしたが、キツネの方は、一階の玄関横にお稲荷さんがある以上、そのうちにまた出てくる可能性があるんですね。今回は、「ちょっかい出すな」と叱っておいただけですからね。ほとぼりが冷めて、こちらが油断すれば、また悪さをする可能性があるんですね。お稲荷さんは大家さんの持ち物ですから、勝手に封印するわけにはいかないですからね。また、4号室の扉である押し入れは、御札により、あっちの世界とのつながりを断ってあるとのことで、普通に使ってよくなりました。そこからは、もう出て来ないのです。 いや、しかし、何とも不思議な体験だったのですよ。 実は、この体験がもとで、私は霊的な世界を受け入れるようになったんです。で、そういう世界も「面白い」と感じるようになったんですね。あの世があって、その世界にいけない者がいて、この世をさ迷っていて、この世に生きる者に影響を与える・・・・そういう世界があるのだ、と受け入れ始めたわけです。 ちょうどそのころ、私は大学が嫌になっていました。理系の大学の暗さ、それと己の数学的センスのなさ、物理学だの工学実験だの電磁波学だの・・・・あぁ、もうわからん!、という状態だったんですね。簡単にいえば、行き詰っていた、はっきり言えば落ちこぼれていたわけです。限界を知ってしまったんですね。ですから、大学もどうでもいいや、と思うようになっていたわけですね。 そんなときに別の世界を知ってしまったのです。そして、それは自分にとって、とても魅力的な世界に見えました。その時は、単なる「逃げ」だったかもしれません。しかし、俄然、興味がわいたのは確かです。私は迷い始めたんですね。 この先をどうするか・・・・。このまま大学に居続け、つまらない、興味のない学問を学んで、就職していくのか、サラリーマンになるのか。それとも、父親のように拝み屋への道へ行くのか・・・・。 迷いながらも、学生ですから、あまり深く考えず、ふらふらと遊んでいましたな。ま、先のことは横において・・・・というわけですね。しかし、4年になると、研究室を決めなければなりません。そうなると後戻りできませんよね。時は迫ってきます。さてどうしたものか・・・・。 で、まあいいか、という軽い気持ちで、大学を辞めてしまいました。勉強はつまらんし、この先のことは見えてこないし、やりたくないことだらけで、挫折するのは目に見えているし、これなら辞めた方がましだ・・・・。そう、途中放棄ですな。すべて投げ出したのですよ。で、実家へ戻りまして、 「大学を放りだしたから、高野山へ行く。坊さんになるわ」 と、全く軽い気持ちで高野山に行く決心をしたのです。 まったく考えなしでしたね。何も考えず、本能に従ったというか、まあ仕方がないか、というか・・・・。しかし、これが運命というか、導きというか。そうなるようにできていた、としか言いようがないんですね。いや、あの時のきっかけをそのまま素直に受け入れてよかった、とすぐに気付くんですよ。 私は、父親の縁のある高野山のお寺に住みこむことになりました。私の師僧に当たるお寺ですね。その寺で約3年間過ごすことになるのです。高野山のお寺に住み込んだばかりの年は、高野山大学の聴講生をしていました。編入試験が終わってしまっていたんですね。で、何もしないのはいけないので、聴講生をしていたんです。まずは、仏教や密教を学んだのですな。翌年、高野山大学の3年生に編入しました。いわば、大学を転校したのですね。しかし、高野山大学での授業、お寺での生活は、実は快適だったんですよ。 高校時代は、漢文や古文の授業は好きではありませんでした。なので、苦手だったんです。高野山大学の授業はほとんどが漢文や古文です。当然ですな。だから、不安を持っていました。理解できるかな・・・・という。が、自分でも信じられないのですが、なんのことはない。すらすらと読めるし、意味もよくわかるんですよ。不思議な話なんですがね・・・。まるで、以前に習ったことがあるかのような、そんな感じがしたのです・・・・。 拝み屋から寺へ・その2 高野山大学に通うようになった私ですが、これがまた居心地がよかったんですねぇ。水を得た魚・・・のよな気分でした。これが運命と言うものか、と思います。 なにせ、あんなに苦手だった漢文がよくわかる。大嫌いだった宗教学が面白く感じる。仏教の根本や、弘法大師様の著作を読むと面白く感じる。いやはや、自分でも驚きました。試験など、試験勉強しなくてもいつも高得点(自慢じゃありませんが、エッヘン)。 自分では嫌っていましたが、坊さんと言う仕事は自分にぴったり合っていたのでしょうねぇ。ということは、好きなことが自分にあっているとは限らない、ということですな。嫌なことでも嫌っていたことでも、やってみれば面白い、楽しい、と言うことはあるものです。それは、対人関係にも言えるのでしょうね。嫌いだと思っていた人でも、実際によく話をしてみれば、案外仲良くなってしまうということもあるものです。見た目で判断して、嫌っていてもいけないんですねぇ。そう、食わず嫌いはダメなんですよ。とりあえず食べてみることが大事なんですね。 話がそれました。 ともかく、高野山大学での勉強は楽しいものでした。どれもこれも一度やったことがあるかのような気がしていましたし。なので、飲み込みも早かったですね(実際、前世で学んでいたのでしょう。まあ、そう言う話は、別のところで、いつかまた・・・・)。 さてさて、実家の方はその頃どうなっていたかと言いますと、父親が資格をとると言い出したのです。 高野山では、町の拝み屋さんの統率を図るべく、拝み屋さん用の資格を与える修行があります。 全国の拝み屋さんの多くは、密教系、修験者系が多いようです。神道の拝み屋さんもいますが、数は少ないですね。多くは密教系で、不動明王を祀ったり、弘法大師を祀ったりしている拝み屋さんが多くあります。なので、そうした拝み屋さんは、一度は必ず高野山にお参りに行ったりしているんですね。で、また高野山を利用したりもしています。勝手に高野山の名前を名のったりしているんですね。となると、高野山の評判にも影響・・・多くは悪い影響・・・を与えることも多々あることになります。 なので、そうした全国の拝み屋さんに、正しい知識や正しい作法を教える機会を設けているんですね。で「加持・祈祷してもよい」という免許を与えているんです。これで、表立って拝み屋を開業できるんですね。こうした免許がない場合、 「ニセモノ!」 と言われても仕方がないでしょう。拝み屋さんの仕事の特質上、やはりどこかの宗派に属していたほうがいいでしょうし、認可があるのならば、持っていたことに越したことはありません。ないよりはあったほうがいいです。 それに、拝み屋さんの中には、いい加減な知識で教えを説いている方もいます。それはまあ、たいした問題ではないかもしれませんが、宗派側からみれば、特に密教の話になると怪しい話が多く出回り人々を惑わすことにもなりかねないので、ちゃんとした教えを学ばせた方がいいんですね。 なので、高野山では毎年、拝み屋さんに「加持・祈祷の許可」を与えるために、講習会が開かれているんです。この講習会、約二週間なのですが、結構キツイようですね。まあ、正式な僧侶となるための四度加行ほどではないですが、スケジュールびっしりで休む暇もないくらいなんですよ。特に、町の拝み屋さんは、年をとっている方(中年以上ですかねぇ)が多いので、体力的にも堪えるようです。最近では、この講習を受ける人も少なくなったようですね。 で、この講習を受けると、「大師教会支部」を名乗ることができるんですね。単なる拝み屋から、高野山認定の拝み屋に出世するんですね。しかし、正式な僧侶ではないため、寺院の住職にはなれません。在家と坊さんの間の存在、のようなものですね。 父親は、私が高野山に登った年に、この講習会を受けたのです。で、認定のある拝み屋になったのですね。 その後、私は三年間高野山にまして、無事に高野山大学を卒業し、修行もすべて終えて、正式な僧侶になりました。で、地元の岐阜に戻り、多くの信者さんの御協力により、拝み屋だった「大師教会支部」を寺に昇格させたのです。それが、現在、私が住職を務めます「法恩院」なのです。つまり、このような経緯があって、法恩院は誕生したわけです。 このとき、当然のことながら、本尊さんは父親がやっていた拝み屋さん当時の本尊さんである観音様を本尊としました。うちの寺の本尊は観音様なのです。で、その観音様は、お寺ができる5年ほど前からみなさんに拝まれていたのですね。寺より先に本尊様があったわけです。 お寺になる前、拝み屋さんのときには仏様は観音様しかありませんでした。あぁ、小さな仏様・・・小仏像・・・は、お参りにこられる方が持ってきてくれたりしたので、いくつか納められていましたが、大きな仏様・仏像は、観音様だけだったのです。 で、拝み屋からお寺になるのだから、正式な形にしなければいけない、ということで、不動明王像と弘法大師像を購入したのです。ですので、お寺正面に安置されています観音様の向かって左手の不動明王像と向かって右側の弘法大師像は、お寺が誕生した時と同じなのです。観音様より5歳年下、なんですね。(そうそう、うちの不動明王像についていは、不思議なエピソードがあります。それは観音様の話が終わってからいたします)。 その後、拝み屋さんからお寺となってから5周年を記念して、大日如来像を知り合いの仏師に頼んで造ってもらいました。厨子もその時に特注しました。この大日如来像は、普段は厨子の扉が閉めてあるので、拝むことはできません。5年に一度、御開帳法会を行います。今年がその年でした。今年の5月に御開帳法会を無事に終えております。次は、平成27年の5月ですね。 ちなみに、5月に行うのは、本尊様の観音様が開眼されたのが5月17日だからです。なので、大きな法会は、5月17日周辺の日曜日に行うことにしています。 そう、大日如来のお姿を直に拝みたい、と言う方は、5年後の平成27年までお待ちください。 なお、この大日如来、そのお姿は金剛界の大日如来です。木造寄木造りとなっています。彩色は一部のみで、金箔の模様が入っております。台座、光背を含めて120センチほどでしょうか。正確な大きさは忘れてしまいました。 この大日如来像を彫ってくれたのは、実は高野山大学の後輩なのです。高野山では、同じお寺にお世話になっていました。北海道出身で、高野山大学を卒業後、仏師となっていたのです。 彼にも不思議なエピソードがあります。 その後輩、A君としておきましょう。A君、高野山高校に入学したと同時に、私がお世話になっていたお寺にやってきました。私が高野山2年めの時でしたかねぇ・・・。A君、あまり勉強ができるほうではありませんでした。高野山高校も苦労して卒業し、高野山大学もなんとかギリギリで入学したのです。 で、その後、私は高野山を下りて、自分の寺のことで忙しくしていましたから、彼がどのような大学時代を過ごしたかはあまり知りません。知っているのは、ある人に勧められて「仏像を彫ってみたら、すごくうまく彫れた」ということだけです。 A君、勉強の方はあまり芳しくありませんでした。しかも、口下手で、お経もあまりうまくありません。お説教もうまいとは言えません。むしろ、下手ですな。で、「この先、困ったなぁ」と悩んでいたんだそうです。「北海道へ帰っても、こうも口下手じゃあ知り合いの寺でも雇ってはもらえないんじゃないか、どうやって生活をしていこう・・・」ということなんでしょうね。詳しくは知りません。後に少しだけ聞いた話です。 で、そんなとき、お世話になっていたお寺に出入りしていた尼僧さん(私たちとは兄弟弟子になります)に 「暇なら仏像でも彫ってみたら」 と言われたのだそうです。これぞ御仏の導き、お大師様の救い・・・・と、あとからわかるんですが、その時は何も思わず、 「はぁ、やってみようかなぁ」 とだけ思ったんだそうです。で、道具を揃えました。彫刻刀や初心者用の寄木仏像の元などですね。それらが届くとA君、何も考えずいきなりせっせと彫り始めたのだそうです。そしたら、なんと、習ってもいないのに仏像ができてしまったんだそうです。それもスイスイと・・・・。 驚いたのは本人ばかりではありません。周りの人たち、師僧もそのご家族の皆さんも、学生仲間も、仏像を彫ることを勧めた尼僧さんも、みんな大驚愕です。才能とは恐ろしいものですね。あっという間にプロ並みの腕になっていたのです。聞くところによればA君、大学卒業後に仏師に弟子入りしようとしたのだそうです。ところがその尋ねた仏師の先生、A君の作品を見て 「私よりうまいじゃないか。君に教えることなんてないよ」 と言ったそうです。それで、仏師としてやっていける自信がついたのですね。 もし、あの時・・・・尼僧さんの勧めに素直に従っていなかったならば、彼は仏師としての才能を埋もれさせていたかもしれません。迷った時は、周囲の人の意見に素直に従ってみるのも大切ですね。思わぬ道が開けるかも知れません。素直さがないと、大きな損失を受けることになるかも知れませんねぇ。さらに、お大師様の救いはやはりあるのだなぁ、と実感いたしました。御仏様の力は大きいですねぇ。 ま、そんな後輩が彫ってくれたのが、うちの秘仏であります大日如来なのです。ですから、まだ新しいですね。約20年ほどしかたっていません。 本尊様の観音様が30年ほどです。お不動さんとお大師さんが25年、大日如来は20年ですね。まだまだ駆け出しのお寺です。ひよっこですな。 と、まあ、このようにうちは拝み屋からお寺へと発展していったんですね。 以上、脱線話でした。次回は、本題に戻ります。観音様のお話ですね。昔話などを紹介して、観音様の救いについてお話ししたいと思います。 観音様、昔話@ 今回から、本来のお話・・・仏様に関するよもやばなし・・・に戻します。まあ、前回までも、よもやばなしと言えばそうなのですけどね。まずは、前回予告したように、観音様の昔話などを紹介して、観音様の救いについて、ボツボツとお話などをいたしましょう。 観音様にまつわる昔話は、そりゃあもう、たくさんあります。地方に残っている伝説なんかを含めたら、とてもじゃないですけど、把握しきれないでしょう。わかっているだけでも、ここには掲載しきれません。当然ですよね。なので、面白そうな話を2〜3紹介したいと思います。なお、「わらしべ長者」のような有名な話は紹介するまでもないので、省きます。 昔話の特徴と言えば、当然のことながら「信心による御利益」です。ですので、だいたいのパターンは決まっています。 貧しい者が、一生懸命お参りして祈願していたら、お告げがあって、そのお告げの通りになり、幸せになった・・・・。 どの昔話も、御利益を得るという場合は、このパターンを踏襲していると言っていいでしょう。(これとは別に、罰を受ける昔話は、それはそれでパターンができています)。 話のパターンは同じなのですが、タイプが異なることがあるんですね。その違いがわかるような話を選んで紹介いたします。 まずは、最もオーソドックスなパターンからです(多少、話を省略してあります)。 「はかまをはいた観音」(今昔物語より) 昔、津国わたの里(つのくに、わたのさと・・・現在の大阪府摂津市あたり)に両親と娘の3人家族が暮らしていた。貧しい家ではなかったが、裕福でもなかった。娘はなぜか夫に恵まれなかった。両親は、娘の行く末を心配しつつも、やがて年老い、次々と亡くなってしまい、屋敷には娘一人となってしまった。娘は、家財道具など売れるものすべて売って生活をしていたが、ついに売るものはなくなり、明日の食事にも事欠くようになった。 屋敷の隅には観音を祀ったお堂があった。娘の両親は信心深く、その両親が建てたものだった。娘は途方にくれ、毎日、その観音堂に籠り、没落した家を嘆き、救いを求めて祈り続けていた。 ある日のこと、娘は夢を見た。夢に老僧が出てきて、娘に言ったのだ。 「お前の夫となるべき者を遣わそう。その者の言葉に従うがよい」 娘は、その翌日、夢のお告げを信じ、身体を清め、屋敷の片隅で座っていた。すると、そこに一人の男が訪ねてきた。 「突然で申し訳ないが、今夜、この家を宿として借りたい。供の者が大勢いるので、広い屋敷を探していたのだ」 30過ぎの高貴な身分の男だった。娘は、何もおもてなしができなくてもよければ、という条件付きで屋敷を貸すことにした。 その夜、7〜80人の男どもが屋敷にやってきた。男たちは屋敷を掃除し、持ってきた食糧で食事を作り酒を酌みかわし始めた。娘は、大勢の男に恐れをなし、観音堂に籠ろうと屋敷を出た。そこへ主の男がやってきたのだった。 「今夜は大勢で押し掛け、誠に済まぬことをした。私は美濃国のもので、これより若狭へ向かうのだ。ところで・・・あなたは、実は・・・・私の亡くなった妻に瓜二つなのだ。私は妻を愛していたので、後添えを貰えという話を今まで頑なに拒んできた。しかし、あなたを見て・・・心が揺れているのだ。どうか、私の妻になってはもらえぬだろうか」 娘は夢のお告げを思い出していた。「そうか、この人のことだったのか・・・・」と。しかし、あまりにも突然のことで、思わず問い返していた。 「もったいのうございます。本当に私のような貧しい行きおくれの女でよろしいのでしょうか」 男は喜んで答えた。 「もちろんですとも。私の若狭での所用は4〜5日で済みます。それまで一人では何かと不自由でしょうから20人ほど供の者を置いておきます。この者たちに何なりと言いつけてください。若狭から戻ったら、一緒に美濃へ行きましょう」 男は翌朝、若狭に旅立った。屋敷には男が言った通り、20人の供の者が残った。しかし、娘は困り果てていた。20人分の食料と、馬のえさを用意しなければならないのだ。その時だった。屋敷を訪ねるものがいた。それは身なりの良い女性であった。その女性は、にこやかに 「私はあなたの御両親にたいそう世話になりました。以前よりその御恩を返さねばならないと思っていましたが、こんなに遅くなってしまいました。お詫びもうしあげます。さぁ、お嬢様、何なりと私にお申し付けください。どんなことでも構いません」 と言ったのだった。娘は迷いながらも、事情を説明し、20人分の食料と馬のえさを願い出た。女性は、「喜んで・・・」といい、僅かの時間でそれらを用意したのだった。娘はおかげで20人分の食料と馬のえさを用意できたのだった。 数日後、主が若狭から戻ってきた。すると、その日にあの女性が現れて、 「今日はたくさんの食事がいることでしょう」 と、多くの食事などを用意して来てくれたのだった。さらに、娘と一緒に主や供の者の世話までもしてくれたのだった。 娘はその女性に礼を述べた。そして 「この家に残った唯一の大切な品です。どうかこれを受け取ってください」 と、紅色の絹の袴を差し出したのだった。女性は、 「それはあなた様が嫁入りの際に身につけられたほうがよいのではないでしょうか。今のそのお姿では・・・」 と遠慮したのだが、娘は 「私が貧しいのは主の方もよくご存じです。私はこの姿でも恥ずかしくはありません。どうかこの袴を受け取ってください」 となおも差し出した。女性は、その好意を受け取ることにした。「ではありがたく・・・」と袴を受け取り、どこへともわからぬまま屋敷を辞したのだった。 翌日、娘は男と一緒に美濃に旅立つことになった。娘は、世話になった観音堂をお参りしたいと男に申し出た。男は、「ならば一緒に参ろう」と娘と一緒に観音堂にお参りに入った。そして、二人は驚いた。 なんと、観音堂に祀られている観音様が、紅い絹の袴をはいていたのだ。 「あぁ、あの女性は・・・観音様だったのだ。なんとありがたい・・・・」 二人は涙を流して、観音様に礼拝したのだった。 数年後、男は益々裕福になり、嫁となった娘の生家を大きな観音堂に建て替えた。そして、毎年、大きな法会を催したのであった・・・・。 えー、突っ込みどころは一杯あるでしょうけど、そこは昔の話なので、目をつぶってください。 この話は、最も典型的な御利益話ですね。貧しい者が一所懸命に祈ったところ、幸せを得ることができた・・・。お馴染みのパターンですね。で、その御利益は観音様(あるいはお地蔵様、仏様などなど・・・)のおかげ、と種明かしがある、というパターンです。 確かに、おかしいだろそれ、という部分はありますが、それは大事なところではないので、スルーします(たとえば、娘だって働けばいいだろ、とか)。 大事なことは、「素直にお告げに従うこと」です。ここで重要なことは、この一点なんですよ。 わらしべ長者でもそうですが、初めに見つけたものを拾え、というお告げに素直に従っていますよね。最初に見つけたのは「わらしべ」ですよ。普通、そんなものは手にしません。でも、観音様のお告げだから、男は素直にわらしべを手に入れたわけです。 「はかまをはいた観音」でも、娘は素直に訪れた男を招き入れます。普通、いきなり男がやって来て、一晩宿を貸してくれと言われても断るでしょう。いくら、お告げあったとしても、そんな無謀な話は断るものです。 が、こうした昔話は、どんな理不尽な状況であっても、それが観音様(あるいは仏様)のお告げならば、素直に受け入れている、のですよ。ここがキーポイントなんですね。 この話の娘は、きっと、訪れた男が貧しくとも、ブサイクな男であっても、屋敷に泊めたでしょう。そこが、大事なところなんです。 私のところに相談に来る方でも、この素直さがない方がいるんですよ。 「・・・・とした方がいいと思う」、「こうしなさい」 と方向性を示すのですが 「えー、それは・・・なので、できません」、「それは無理です」 などといって、素直に聞き入れてくれない方がいるんですよね。そうなると、私もいいようがなくなるんです。 私は、決して無理なことを言っているわけではありません。できないことは言いません。ですが、聞いた方は、できない・・・とおっしゃる。あるいは、受け入れられない、とおっしゃる。それでは、御利益は得られないんですよね・・・・。 昔話はおとぎ話ではありません。昔話だから・・・と笑ってすますものではないのですよ。実は、そこに大事なことが隠されているのです。昔話だからと言って、バカにしちゃあいけませんよね。 さて、観音様の救いは、紹介した話のような、貧しいのだけど純粋な娘・・・という絵にかいたような者だけにあるのではありません。多少、不正を働いた者でも、実は救われたりするのです。 「え〜、それはいけないんじゃないですかぁ〜」 と思うでしょ。仏教的に、不正を働いた者を救っていいのか、とも思うのですが、いいんですよ、実はね。仏教は、そんなに厳格ではありません。皆さんが思っているほど、ガチガチの戒律主義ではないんです。そんな「いいのか、それで」というような話を次回に紹介いたします。 観音様、昔話A 今回は、観音様にまつわる昔話の中でも、 「えっ、そんなのいいの?。いけないんじゃないの?」 と思えるようなお話を紹介いたします。前回のお話と比較して読んでみると面白いです。昔話も、いいお話ばかりじゃないんですよ。 「観音の田植え」(古本説話集より) 昔、河内国(大阪府)に誰ひとり身よりのない貧しい女がいた。女は田植えの手伝いなどをして細々と暮らしていたが、あるときのこと、生活に困り果て20人もの人から金銭を前借りして、その代わりに田植えを手伝うという約束をしてしまった。 「とんでもないことをしてしまった・・・。もし同じ日に田植えが重なったらどうしようか。前借りしたお金はすべて使ってしまったし。今更断ることもできない・・・・あぁ、困った・・・・」 女は自分の行為を悔やみ、自分を責めた。しかし、田植えの時期は日一日と近付いてきた。 いっそのこと村を逃げようかとも思った。しかし、行くあてもない貧しい女は、のたれ死にするのが落ちだった。 「はぁ・・・。こうなったら観音様のお情けに縋るよりほかにない」 女はそう思い、日頃敬い拝んでいる観音像にひれ伏し、ひたすら祈った。 「どうか、どうか20軒の田植えが同じ日に重なりませんように・・・・・。どうかお願いいたします・・・・」 田植えの日がやってくるまで、毎日女は祈ったのだ。 そうこうすうるちに、女の家の戸をたたく者があった。戸をあけると、田植えの約束をした20軒のうちの一人だった。 「明日は田植えなんで、よろしく頼むよ」 その者はそう言った。女は笑顔で「わかりました」というよりほかはなかった。そして、心の中で手を合わせ 『観音様、残りの19人は明日になりませんように』 と祈った。しかし、祈りも虚しく、また戸をたたく者があり、 「明日の田植え、忘れないようにな」 と言ってきたのだった。女はまた笑顔で返事をした。 『仕方がない。朝早くに出かけて行って、一軒を済ませてしまおう。2軒くらいならなんとかなる・・・。残りの18軒は明日になりませんように・・・・』 女は再び、心の中で手を合わせたのだった。しかし、女の願いと裏腹に次々と約束を交わした家の者がやって来てしまった。しかも、すべてが「明日田植えをする」という。ついに、20軒の田植えが重なってしまったのだった。女は途方に暮れた。 『あぁ、願い事を叶えてくださるという観音様にすら、私は見放されてしまった・・・・。こうなったら死んでお詫びするしかない。そうだ、せめて死ぬ前に一軒だけでも約束を果たしておこう』 女はそう心に決めて、夜の明けるのを待ったのだった。 翌朝、女は明け方ころから一軒目の田植えに出た。死ぬ前にできるだけのことをしておこうと思ったのだった。女は必死に田植えをした。しかし、一日はあっという間に暮れ、たった1軒しか田植えができなかった。女は家に戻り、覚悟を決めて他の者たちが抗議にやってくるのを待った。そこで、事情を話し、心から詫びて死のうと決めていたのだ。 ところがいつまでたっても誰も抗議に来なかった。そうこうしているうちに女は疲れ果てて眠ってしまった。 戸をたたく音で女は目を覚ました。 「ついに来た・・・。覚悟はできている」 女はそうつぶやくと、覚悟を決めて戸をあけた。すると、そこには田植えに行っていないはずの19軒の家の人が、嬉しそうに並んで立っていたのであった。しかも、女が外に出ると、 「昨日はありがとう。御苦労さまだった。おかげでいつもより田植えが早く終わったよ。みんなも喜んでいる。ありがとう」 と笑顔で御礼の言葉を言っているのだ。そして、お礼の品だといって、畑で採れたもの山で採れたものを置いていったのだった。 女は何が何だか分からなかった。まるで狐につままれたようだ。女はともかく貰った品を家に入れ、家の中で考え込んだ。女は、そのうちにうつらうつらとしてしまった。 女はおかしな夢を見た。観音様が手に苗を持って泥だらけでたっているのである。女は観音様に尋ねた。 「観音様、どうなさいましたか」 「お前が困っているのを知って、私が残りの19軒分の田植えをしてきたのだよ。さすがに私もくたびれた」 「あぁ、なんというもったいないことを・・・。あぁ、もったいない、ありがたい・・・」 女は自分の声で目が覚めた。そして、あわてて観音様のところへ走った。すると、なんと観音様は腰から下が泥にまみれ、両手には苗を持っていたのだった。 「あぁ、夢は本当だったんだ。私のようなあさましい女のために、観音様は・・・・。なんとありがたいことか」 女は泣きながら、観音様の像を洗い清めたのであった。 その後、女は益々信仰心を深め、観音様に毎日礼拝することを欠かさなかった。また、観音様が田植えをした稲はすくすくと育ち、日照りにも害虫にも負けず、豊作となった。それは次の年も、また次の年も続いたそうだ。 こんなことっていいのか?、というような話ですよね。教訓にも何もなっていない。否、むしろ悪いでしょう。まあ、この話を聞いて、 「じゃあ、同じように俺もしてやろう。たくさん約束を重ねて、あとは観音様に任せよう」 などと不届きなことを企てれば、この話のようにうまくいくことはありませんけどね。この話の大事なことは、「純粋さ」ですね。 それにしても、いくら生活が貧しいからといって、仕事を重ねて請け負ってはいけません。というか、仕事を受けた時点で、日時を決めなきゃいけませんよね。この話の女は粗忽者で、だらしのない女に違いない、と思われます。 本来の仏教の教えならば、「田植えを契約した者たちから責められても仕方がない、自業自得だ!」となると思われるでしょ?。 ところが意外や意外。仏教はそんなに冷たくはないのです。皆さんが思っているほど厳格で厳しいものではないのです。そんなに厳格で厳しいものでは、救いがないではないですか。仏教は、救いの宗教です。自業自得だ、仕方がないだろ、反省してろ、と冷たく言い放つだけの宗教ではないのですよ。粗忽者で、お馬鹿で、ダメなものでも救ってくれるのが仏教なのです。ただし、そこに悪意がなく、純粋であることが条件ですけどね。 この話と似たような話で、「雪隠しの足跡」というお大師様伝説の話があります。それはこのような話です。 ある冬のこと、お大師様は美濃の山奥を旅していた。 「すまんが、一晩泊めてもらえないか」 ある小さな小屋を見つけたお大師様は、その家の戸を叩いて頼み込んだ。その家には、老婆が一人いるだけであった。 「旅のお坊様かえ。何にも接待できませんが、それでもよろしければ、泊っていってください」 老婆は、快く旅の僧を招き入れた。本当にその家には何もなかった。ただ、囲炉裏があり、暖だけは取ることができた。 「この鍋の中も、お湯しか入っていねぇ。それでよければあがってくだせぇ」 老婆は、欠けた器に白湯を入れた。旅の僧はありがたくをそれを頂いた。そして、 「温かくなったら眠たくなった。どれ、少し横にならさせてもらうよ」 といって眠りについた。老婆は、 「こんな貧しい家に来て・・・この御坊様も哀れな者じゃ。あぁ、なんとかこの御坊様に食べ物をあがってもらうことはできんかのう」 と考えた。ふと、老婆は思い付いた。 「裏の畑に大根と白菜が・・・。一つずつくらいなら・・・・」 裏の畑とは、他人が所有する畑であった。そこには、大根や白菜が植わっていた。老婆は、旅の僧をを起こさぬよう、そっと裏の畑に出た。そして、大根と白菜を一つずつ抜いてきたのだ。 家に戻ると、老婆は大根と白菜を煮込んだ。そして、旅の僧を起こした。 「どれ、大根汁ですが、召し上がってください」 「おぉ、これはありがたい」 旅の僧は、礼を言うと喜んで食べた。そして、 「外は雪が積もって寒いですなぁ。雪は今は降っていないかな?」 と言うと、裏口を開けた。するとそこには、老婆の家から畑に向かって、しっかりと足跡が残っていたのだった。それを見て、老婆は青くなった。オロオロとし、 「あれ、どうしましょうや。これは困ったことに・・・」 とつぶやいている。その様子を見た旅の僧、 「なに、心配はいらぬよ、お婆さん。あの足跡は消えてなくる」 とほほ笑んで言うと、何やらお経を唱え始めた。すると、先ほどまで晴れ渡り、星空だった天が、急に曇り始め、雪がたくさん降り始めたではないか。その雪は、あっという間に老婆の足跡を消してしまったのだった・・・・。 とまあ、このような話です。少々省略をしてあります。 これも老婆の罪を許して、さらには隠してしまっているという話です。厳密にいえば、老婆は泥棒、窃盗の罪を犯しているのです。しかし、それはなかったことにされています。なぜなら、老婆には悪意がないからです。 意外と仏教の話にはこのような話が多くあり、厳密に罪を追求するばかりではありません。案外、緩やかなものなのです。戒律戒律、とうるさくはないのですよ。 よく 「こんなことをしていて、バチが当たらないでしょうか?」 と聞かれることがあります。でも、そうやって聞く方は、やっぱり「いい人」なんですね。だから、まあ、罰は当たりません。許してもらえます。 そりゃあ、中には、「それは世間的にいかんだろう」というようなことをされている方もいます。が、しかし、何が何でも絶対的にダメ、ということはないのですよ。人によっては、許されることもあるのです。もちろん、人によっては許されないこともありますが。 罪も、人によっては罪にならない場合と、なる場合がある、ということなのですよ。同じことをしても、この人はまあいいだろう、この人はいけません、という区別はあるのですね。 「それは不平等だ。仏教がそんなことを説いていいのか」 と叱られそうですが、誰もかれもが同じことが平等ではありません。誰もかれもが同じならば、誰も努力はしなくなってしまいます。努力をたくさんした者に多くの利益が、努力を怠った者には少ない利益が、という差があるのが平等ですよね。 仏教的平等は、目に見えている努力のほかに、その人が積んだ徳・・・・今世や前世を含めて・・・・が、かなり影響しています。目に見えている努力だけでは、言い表せない何かがあるから、罪の度合いにも差が生じてしまうのです。つまり、前世や今世での徳のありようによって、差が生じているわけです。 しかも、その罪を犯してしまった理由が問われます。なぜそうなったか、なぜそんなことをしてしまったのか、ということですね。その理由に、信仰心が絡んでいたり、どうしようもなくって・・・という、理由があることによって、許しも変わってくるのですよ。 「罪は罪。だから、何が何でも許しません」 というのでは、息苦しくって楽しくありません。そこに「許し」がないと人間関係うまくいかないものです。何がなんでも、ダメなものはダメ、というのは、人間関係をぎくしゃくさせてしまいますよね。 特に観音様は慈悲の菩薩様です。慈悲が売り物(変な表現ですが)の菩薩様なのです。その菩薩が、厳格であったら、仕事になりませんね。観音様の慈悲とは、 「たとえ罪を犯した者であっても、心から反省し、懺悔し、改心するならば、許してあげよう、救ってあげよう」 というものです。だからこそ、貧しく苦しい生活を強いられてきた庶民に人気があるんですね。某国の某総理大臣も、庶民に慈悲の心をもってあたれば、支持率も上がるのにねぇ。まあ、それは余談ですが・・・・。 ともあれ、観音様は、純粋に信仰心をもっているものならば、たとえ罪深きものであっても許してくれるし、救ってくれる菩薩様なのですね。大事なことは、純粋な信仰心なのですよ。それは、困った時の神頼み的な信仰であっても、そのとき真剣に必死に無我夢中で祈ったならば、通じるものなのです。 それくらい仏教は緩やかで救いがある宗教なのです。 さて、もうひとつ、ちょっと変わった観音様の昔話を次回に御紹介しましょう。前回と今回とその内容を比較して読んでみるのも面白いと思います。観音様の救いもいろいろあるのだな、ということがよくわかると思います。 では、次回をお楽しみに。 観音様、昔話B 前回、「えっ、そんなのいいの?。いけないんじゃないの?」 と思えるようなお話を紹介いたしました。今回は、さらに「そんなのもあり?」というお話を紹介いたしましょう。前回と同様、仏教の救いが如何に大きいか、よくわかると思います。 「盗人から得た幸運」(今昔物語より) 昔、京の都に誰ひとり身よりのない貧しい娘がいた。その娘は、生きていくすべもなく、ただひたすら清水寺の観音様参りを続けていた。 ある日のこと、娘は清水の観音様の前で額ずいて言った。 「観音様、今日までの長い間、ただひたすらにお参りを続けてまいりました。それなのに、私の境遇は何一つ変わりません。前世によほど重い罪を犯したせいなのでしょう。でも、たとえそうだとしても、どんなささやかなことでも結構ですので、私を見捨てていないというしるしをお見せください」 何度も繰り返しそう唱えるうちに、娘はいつの間にか寝入ってしまった。すると夢に気高そうな僧が現れて娘に告げた。 「今夜、帰り道にお前に声をかける者があるだろう。必ずその者の言葉に従うがよい」 娘は驚いて目が覚めた。いつの間にかあたりは真っ暗になり、人影すらなかった。娘は夢は観音様のお告げだと思い、再び観音様に深く礼拝をし、真夜中の清水寺をあとにしたのだった。 しばらく行くと、暗闇の中から突然男の声がした。 「俺と一緒に来てくれ。わけはあとで話す。黙ってついて来てくれ」 娘は怯えて 「どこへ行くのですか?、あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか?」 と尋ねたが、男は何も答えなかった。娘はこの男こそ観音様のお告げの者だと思い、その男についていった。やがて、男は娘の背中を押して中に入るように言った。そこは八坂寺の塔(法観寺、八坂の塔)の中のようだった。 「驚かせて悪かった」 男は娘にそう言うと、娘の床を整え 「こうなったのも前世からの因縁だろう。そう思ってずっとここにいてくれないか。俺は身寄りは一人もない。お前を妻にしたいのだ」 と言った。そして、間仕切りの奥から見事な絹の反物を抱えてきて、娘に渡したのだった。娘はうなずくと 「私も身寄りのない者です。本心からそうおっしゃっていただけるなら、お言葉に従います」 と言葉を返した。男は安心した表情をし、 「これからちょっとでかけてくるが、夕方までには戻る。それまでどこにもいかないで、ここで待っていてくれ」 と言い残し、身支度をして外へ行ってしまった。娘は急な展開に驚いていたが、一人になると落ち着いて考えることができた。 ・・・観音様の言った通りだったわ。けど、あの人はいったいどういう人なのだろう。こんな塔の中を住まいにしているなんて・・・ あたりを見回すと、扉の隙間から差す朝日に年老いた尼僧の姿が映し出された。驚いてさらに見回すと、間仕切りがあり、その後ろには反物や香炉、仏具、高価そうな品物がたくさん積まれてあったのだった。娘は驚いた。 ・・・・あの男は盗人だったんだ。あの尼僧のような老婆は、見張りなんだ。こんなところにいてはいけない、逃げださないと・・・・ 娘はそう思ったが、観音様のお告げを思い出した。 ・・・・あぁ、お告げでは言葉に従えと。。。。どうすればいいの?。観音様、お願いです。この後はどうすればいいのでしょうか。お導きください・・・・娘は一心に祈った。すると、見張り役の年老いた尼僧が扉を開け、外をうかがうと、桶をもって外に出て行った。扉はしっかりと閉じられてはいなかった。 ・・・・あっ、これは逃げなさいという観音様の導きに違いないわ・・・・ 娘は扉を少しだけあけ、あたりの様子を見てみた。誰もいないのを確認すると、外に出ようとした。ふと足が何かに当たった。それは男から渡された絹の反物だった。娘はそれを懐にねじこんだ。そして、一気に外へ駆けだしていったのだった。 幸い、誰に見とがめられることもなく、やがて一軒の家にたどり着くことができた。娘はそこで休ませてもらえないか頼み込んだ。その家の主は気の良いひとだったので、娘を家の中に入れてくれた。娘は水をもらい一息つけた。しばらくすると外が騒がしい。どうやら役人が盗人をつかまえたらしい。よく見ると、そのつかまっている盗人はあの男だった。役人は捕まえた男を連れ、塔の方に向かった。これから塔を調べるようだ。 ・・・・よかった、あのままそこにいたら、今ごろ私は・・・・ 娘はぞっとした。娘のただならぬ様子をみたその家の主が、何があったのか尋ねた。娘は昨夜のことをすべて包み隠さず、その主に語った。主は、話を聞き終えると 「それはすべて観音様の導きだね。その反物も、観音様から頂いたものだよ。大切にし、それを生かしていくことだな。それで暮らしが成り立つようにすることだ。それが観音様への恩返しだよ」 と優しく説いたのだった。 その後、娘は反物を元手にし、蓄えを作っていき、暮らしも楽になっていった。やがて、素姓の良い人と出会い結婚をし、幸せに暮らしたそうだ。もちろん、観音様へのお参りは欠かすことはなかったということだ・・・・。 さて、みなさん、このお話を読んでどう思われたでしょうか?。前回の粗忽者の女よりも信じられない話だと思いませんか?。 順を追って考察してみましょう。 まず、最終的に結婚をするくらいですから若い娘であろうと考えられます。なのになぜか貧しい。貧しいということは仕事をしていない、ということですね。まあ、そこは百歩譲って仕事がないのだな、と好意的に解釈しておきましょう。きっと、公家のところで奉公もできないくらい身分の低い、女性だったのでしょう。 で、その生活からなんとか脱出したいと、清水寺に日参していたわけです。このときのこの娘の願いの言葉などは、半ば脅迫ですよね。 「こんなにお参りに来ているんだから、いい加減にその成果を示してよ!」 意味的にはこれと同じですよね。言い方が丁寧なだけです。普通は、「なんだその言い方、逆ギレか?」となるところですが、この願い通じるんですねぇ。 たとえば、仕事が欲しいからと営業マンが取引先に日参したとします。それは熱心に通ったとします。断られながらも、厄介払いされながらも、しつこく通ったとします。すると、多くの場合、 「そんなに熱心にきてくれるなら、まあ、少し回してあげようか」 となるのが人情ですよね。それと同じなんですよ、仏様の場合も。 熱心に祈り続ければ、仏様はちゃんと聞いてくれるのです。ここが重要なポイントです。大事なところ@ですね。途中で放棄せずに、あきらめずに、神仏を信じて願い続ける、どんなにつらくとも、時間がかかろうとも、願い続ける・・・・これが大事なのです。これが最低条件ですね。 で、その結果、願いは通じます。しかし、それは安易な結果だけを与えてくれるのではありません。幸福になるきっかけを与えてくれるのです。ここを間違ってはいけません。ここ、大事なところです。重要ポイントAですね。 なんとか少しでも生活が成り立つようにして欲しい・・・と願いました。熱心に願いました。その願いはやがて通じます。しかし、暮らしを楽に・・・と願っても、直接現金が降ってくるわけではありません。神仏は、そうした即物的なものを与えてくれるわけではないのです。暮らしが成り立つような「きっかけ」を与えてくれるのです。あくまでも「きっかけ」です。それを生かすか生かさないかは、祈願した者次第なのです。この与えられたチャンスを生かすこと、これが重要なのです。大事なポイントBですね。 このお話の場合だと、夢に高僧が出てきてお告げをします。娘はそのお告げを信じます。夢の中の言葉なのに信じるんですね。もっとも、それを伝えたのが高貴な僧だったからなのですが(私のようないい加減な僧が現れてお告げをしてもウソくさいですもんね)、ともかく、この「信じる」ということが重要ですね。信じて疑わない、この純粋さが必要なのです。これが重要ポイントCです。 で、お告げを信じ、素直にそれに従った結果、紆余曲折を経て娘は反物を得ます。ここも大事なところで、この娘、チャンスを逃がしていません。なかなか機転の利く娘です。ヤバイ、どうしよう、と思い、脱出を願いますな。もう心から観音様のことを信じているから、悪いようにはならない、と思い込んでいます。ですから、なんとかなりますように・・・と願うわけですね。 で、その願いも通じます。当然です。そういう環境に娘をおいたのは、観音様なのですから、ちゃんと責任はとってくれます。しかし、ここでもきっかけを与えているにすぎません。扉が開けておいたよ・・・・だけです。これが、ぼんやりした娘ならば、そこに気がつかず、チャンスを逃がしてしまうかもしれませんよね。ここも重要なのです。願ったら、よくよく観察していること、です。どこにチャンスが転がっているかわかりません。チャンスは与えられているのです。なのに、気付かずに通り過ぎているのかもしれません。 ですから、願ったのなら、願い続けているのなら、その願いを叶える「きっかけ」が与えられているかもしれない、ということに注意を払っていなければいけないのです。ここが重要ポイントDですね。 このチャンスをものにして娘は脱出成功を納めます。しかも、高価な反物つきです。しかし、その反物は盗品なんですな。普通は、盗品を持ち出してはいけません。犯罪ですよね。でも、いいんです、この場合は。なぜか・・・。それは観音様から頂いたものなのですから。 娘が脱出するときに、足元にあった反物に気付きます。ここも「気付き」ですよね。チャンスが与えられたわけです。ここをバカ正直に「これは盗品だから・・・」とか「これは盗人のものだから汚れているものだ」などといって、反物を持っていかなかったなら、その後の幸運はないわけです。そう、正直であることは大事ですが、バカ正直はダメです。この話の娘も、助けてもらった家の主に反物が盗品であることを告白しています。ここは「正直」なんですね。 こうしてみると、仏教の救い、菩薩の救いは、多少の違反行為は大目に見てくれる、ということがわかりますよね。前回のお話もそうでした。あきらかに自分のミスなのに、それには目をつぶってくれるんですよ。なぜか・・・。それは、そこに深い信心があるからです。 深い深い信心があり、どんなにつらくとも、どんなに大変であっても、信仰をあきらめない、そういうものに対しては、仏様は寛大なのです。これが、昨日今日お参りしただけで、 「なんだ、ちっとも願いがかなわないじゃないか」 という者であるなら、寛大な心は仏様は示さないのですね。つまり・・・。 仏様は、その者の信心が本物かどうか、ちゃんと見極めてから、願いがかなうように道を授けてくれるのです。上に解説した@〜Dのポイントをよくよく見てください。どうですか?。 @あきらめずに熱心に祈り続けること A目的のものに至るきっかけやチャンスを与えてくださるということ Bそのきっかけやチャンスをモノにするかしないかは、自分次第だ、ということ C純粋に神仏を信じる心を持っており、素直に神仏の言葉に従うこと Dよく観察をし、気付くこと こうしたことができるならば、幸福を必ず手にすることができるのですよ。 現代では・・・。 まず、信心をあきらめてしまいます。すぐに願いがかなわないと、簡単に信心を捨ててしまいます。これではダメですね。 求めるものが、即物的です。金、財産、才能、異性・・・。しかも、贅沢を言うんですね。自分の器量や器も考えてみろ、ときっと神仏は思うんじゃないかと思いますが、多くの方が「分不相応」な願いをするんですね。 まあ、それでも私はいいと思います。分不相応の願いであっても、いいんじゃないかと。しかし、勘違いしてはいけないのは、自分の努力も必要であるということです。ここを忘れている方が多いんですね。自分で努力もしないで、自分も変わらないで、 「いくら願っても、ち〜っとも願いがかなわない」 というのは、身勝手でしょう。信仰は、そんないい加減なものではありません。神仏は、そんな自動販売機のようなものではありません。そんなに安易ではないのです。 しかも、せっかく与えられたチャンスも 「気に入らない」、「面倒だ」 と放棄してしまうことが多いんですね。もったいないことです。少し考え、少し努力すれば、大きなものを手に入れることができるのに・・・・。もったいないことを人間はしているんですよ。 チャンスをものにして、ひとかどの人間になるかたは、気に入らないことであっても、辛いことであっても、大変であっても、努力を重ねるんですよ。そうした過程があってこその成功なんです。何も努力せずに成功など得られないですよね。 さらには、願いがかなわないからと途中であきらめてしまうんですね。これがいけません。また、たとえば供養や祈願でも、続けて行くことが大事なのですが、「もうこの辺りでいいだろう」と自分で決め込んでやめてしまう方が多いんですね。折角、続けてきたのなら、途中であきらめたり放棄したりしないで、本当に幸せになるまで、いや幸せを得てからも、続けていくべきでしょう。一時の幸福など、そんなに長続きするものではないですからね。 安易な世の中で、願い事も安易にかなうように思いこんでいる人々がいかに多いことか・・・。願い事は、自動販売機のように願ったらガッチャンと出てくるものではないのです。そこを忘れてしまうと、いつまでたっても願い事はかなわないんですよね。信仰とは、そうした安易なものではないのです。どんなにつらくとも、厳しくとも、信じ続けることが信仰であり、それを貫いた者が、神仏の加護を受けられるのでしょう。安易な信仰、お手軽な信仰、中途半端な信仰、それでは得られる喜びも、安易でお手軽で中途半端なものになるのです。 細々でもいいんです。細く長くでいいんです。信仰を途中であきらめない、放棄しない、安易にしない、それが大切ですね。昔話は、それを教えてくれているのですよ。 つづく。 |