仏様神様、よもやばなし


ばっくなんばぁ〜2

第七話 ドラゴンボールの中の仏教@
前回に予告しました「ドラゴンボールに見る仏教観」というタイトルで話をしようかと思ったのですが、ちょっと堅苦しいのでタイトルを変えました。ま、内容は同じなんですけどね。
「ドラゴンボール」は、みなさん御存知でしょうか?。有名なマンガですね。アニメも有名です。バトル漫画の原点ともいえましょう。知らない方はいないんじゃないかと思います。いや、知らない方でも「カメハメ波(は)」といえば、わかるんじゃないでしょうか。それほど知られている日本を代表するマンガが「ドラゴンボール」です。題名は知っていても読んだことがない、と言う方は、ぜひ読んでみてください。面白いです。保証します。
さて、そのドラゴンボールと言うマンガ、これが仏教の教えをたっぷりと含んでいるんですよ。深く深く読めば、いやそんなに深く読まなくても、「あぁ、これは仏教の教えと同じだなぁ」という場面や設定に出くわすんですよね。作者の鳥山明さんにぜひ聞いてみたいです。「仏教を意識していたんじゃないですか?」とね。

ドラゴンボールのどこが仏教なのか?。
ドラゴンボールとは、龍の珠のことです。マンガでは、世界中に飛び散っている龍・・・神龍(シェンロン)・・・の7つの珠を集めれば何でも願い事がかなう、という設定になっています。その珠を求め、少女が旅をしているのですが、旅の途中で出会うのが孫悟空という少年。縁あって、少女と孫悟空は龍の珠を一緒に探すことになります。
さてさてここで早くも仏教関連が二つ出てきます。一つは、龍の珠ですね。
みなさんは龍神の絵や彫刻などを見たことがあるでしょうか?。そうした龍神は、必ず右か左の手に珠をもっています。そう、龍神の珠ですね。
仏教の説話の中に、如意宝珠と言うものが出てきます。よくお寺の欄干やお堂のてっぺんに、饅頭型の金色の丸いものがのっかっているのを見たことはないでしょうか?。あるいは、お地蔵様が持っているお饅頭のような珠を知らないでしょうか?。先端がとんがっていて、全体は丸い形をしているアレです。あの珠のことを「如意宝珠(にょいほうじゅ)」といいます。
如意宝珠は、「それを手にした者は何でも意のままになる」と言われている宝の珠のことです。一説によると「龍の肝の中にある」とか「龍の脳の中にある」とか言われています。大乗仏教では、如意宝珠を手にした者は、すべて思うがままになる、と言われています。ほらこれ、ドラゴンボールと似ていません?。
ドラゴンボールは7つ集めると、どんな願い事でも叶えてくれる、という設定になっています。如意宝珠は一つですけど、内容は同じですよね。つまり、ドラゴンボール=如意宝珠、と考えてもいいと思うのですよ。おそらく、仏教の如意宝珠の話や龍が持っている珠と合わせて、ドラゴンボールの話が生まれたのではないかと、そう思うのです。しかも、7という数字が大事です。
仏教でも7と言う数字は特別な意味があります。真言も7回唱えることが多いですね。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開くまでも7日間の瞑想でした。人が亡くなってからは7日ごとに裁判があり、7×7の49日めに生まれ変わり先が決まります。すべて、7と言う数字が基本になっています。
これは、インドの思想が元になっています。インドの古来の思想では、7は永遠を表す数字と言われているそうです。6は輪廻の象徴ですね。6までは、生まれ変わる数字なのですよ。で、6を超えた7は、6道を超えると言う意味で、解脱を表します。よって、7は悟りの数字、永遠の数字を意味する、となるわけです。
すなわち、ドラゴンボールも、3や5、6ではダメなんですね。10でもダメなのです。永遠を表す数字である、7であるべきなのです。
これららは、決して「こじつけ」ではありません。仏教的な目でドラゴンボールを読むからこそ、気がつくことなんですよ。

さて、二つ目です。こちらは、もろに仏教関係です。
孫悟空と言う名を聞いて、みなさんすぐにピンときませんか?。孫悟空といえば、そう「西遊記」ですよね。私が高校時代にドラマをやっていました。堺雅章(こんな字でしたっけ?)さんが孫悟空役でしたね。夏目雅子さんの玄奘三蔵役が妙によかったですな。ゴダイゴのテーマソングもよかったですね。懐かしいですなぁ・・・。
西遊記とは、唐の高僧・玄奘三蔵が、天竺(今のインドですね)へ、大般若経典などをとりに行く話です。そのお供に孫悟空や沙悟浄、猪八戒を連れていき、天竺に至るまでに玄奘三蔵を守りながら色々な妖怪と戦う、と言う話です。そのもとは、玄奘三蔵の、インドまで経典をとりに行き唐に戻った旅のことを綴った「大唐西域記」ですね。それが戯曲化されたのが西遊記です。
マンガのドラゴンボールは、この西遊記をモデルとしています。玄奘三蔵役はブルマですね。孫悟空はそのままですね。猪八戒役は、ウーロンです。沙悟浄は・・・・ヤムチャのなるのかな?。ちょっと似てないですが・・・。
ま、それはいいとしまして、西遊記さながらにブルマ、孫悟空、ウーロンの旅が始まります。目的は、経典ではなくドラゴンボール、というわけです。

どうです?。ここまで見ただけでも、仏教っぽいでしょ。ドラゴンボールの設定自体が、仏教的なんですね。しかし、ここまでは単に設定が仏教っぽい、と言う程度です。大事なのは、中身ですよね。設定だけでは、ドラゴンボールと仏教の関係が深いということは言えません。そうなんです、設定だけではないんですよ。マンガの内容に沿ってお話いたしましょう。
旅を始めたブルマと孫悟空、猪八戒役のウーロンに出会う前にカメを助けます。これは、竜宮城の話がヒントになっていますね。助けたカメによって、亀仙人と出会いますな。で、カメを助けたお礼に筋斗雲(きんとうん)を貰います。
西遊記を御存知の方なら筋斗雲がどんなものかは御存知でしょう。本家西遊記の孫悟空が乗ってる雲ですね。マンガの孫悟空もそれを手に入れるのです。
ただし、マンガの孫悟空が手に入れた筋斗雲は、清い心をもった者しか乗れません(なんと、亀仙人は乗れないんですね。きっと、私も乗れません)。清い心・・・すなわち清浄なる心ですが、これは普通の人間は持ち合わせていません。なぜなら、貪欲だからです。
欲望をもっていてはいけない、と言ってるのではありません。余分な欲望、貪りをもっていてはいけない、のです。お腹がすいたから食べる。ただし、余分な食料を手に入れ、捨てるようなことはしない。食べ物に関し、贅沢は言わない。あるものを必要なだけ食べる。こうした行為には、余分な欲望がありません。生きるための基本的欲求があるだけです。
夜だから寝る。たくさん働いて疲れたから休息をとる。これも基本的欲求ですね。生きる上で、必要な行為です。そうした、最低限の基本的欲求があるだけで、余分な欲望がない者の心が、「清い心」といわれるのです。
ということは、多くの人間が筋斗雲には乗れないわけです。乗れるのは、菩薩か仏様ですね。神でも難しいでしょう。相当上級の神様にならないとね。神でも欲望がありますから。帝釈天などは、絶対に筋斗雲には乗れないですな。
すなわち、筋斗雲に乗れたマンガの孫悟空は、少なくとも菩薩の心をもった者であるのです。菩薩のように清浄な心をもった者なのですね(これは後々証明されていきます)。
ドラゴンボールを読み始めた人は思うでしょう。
「あぁ俺も筋斗雲が欲しいなぁ。あったら便利だなぁ、でも絶対に乗れないなぁ・・・・」
とね。貪る心がある者、心が歪んでいる者、性格が悪い者は乗れないのです(従ってブルマも乗れません。彼女は正確に問題があるからです)。もし、筋斗雲がこの世に存在していれば、清い心をもったものかどうか、たちまちにわかってしまいますな。なんという、恐ろしい乗り物でしょうか。やはり、貪りはいけませんよねぇ・・・・。
余談ですが、この筋斗雲には、後に孫悟空の嫁となるチチも乗ることができます。ただし、子供のころのチチ、です。きっと、大人になったチチは乗れないでしょうねぇ。子供のころのチチは、水洗便所のように清浄な心をもっていましたから。
なお、ここも大事です。水洗便所は清浄なところです。トイレは決して、汚いところではありません。汚くしているのは、人間です。トイレを綺麗に保つのも、汚くするのも人間なんですね。トイレは、人間ん汚物を処理するところです。水洗便所の水は、自らが汚れて人間の汚れを流しているのです。それは、自らが汚れても人々を救おうとする菩薩の心と同じなのですよ。すなわち、トイレは菩薩様なのですね。ですから、チチが言った「私の心は水洗便所のように綺麗だ」というのは、とても言い喩えなのです。逆に言えば、人間の心は、水洗便所よりも汚れている、と言うことですね。あぁ、恐ろしい。
このあたりで牛魔王の話が出てきます。牛魔王のお城が火で包まれているんですね。で、それを亀仙人が消しに行くのですが、牛魔王は自分が集めた宝を盗られまいとして、お城に近付く者を殺していました。亀仙人は牛魔王のところへ行ったとき、それを戒めますな。「評判が良くないぞ、宝を守るためとはいえ殺生はいかん」とね。素行があまりよろしくない亀仙人ですが、殺生は戒めるんですね。

細かいところをあげるときりがないので、大事なところをお話していきます。悟空が少年時代で、特に仏教的と思われるところ紹介していきましょう。
まずは、天下一武道会ですね。そもそも会場が武道寺というお寺なんです。忘れられていることなのですが、一回目の天下一武道会では武道寺の管長さんが挨拶をします(「わん」の一言だけですが・・・)。これは、少林寺にならっているのでしょう。
少林寺と言えば、武道で有名な中国のお寺ですよね。孫悟空とともに亀仙人のところで修行したクリリンは多林寺の出身です。これも少林寺のパロディですね。
一回目の天下一武道にはナムという選手が出場しますが、このナムはもちろん南無のことでしょう。南無から名前をとっているんですね。というか、そもそも南無はサンスクリット語のナマを音写したものです。ナマステのナマですね。ナムの意味は、帰依する、従う、信じて従う、です。仏教の基本ですな。さて、このナム選手、姿形もインド風なのですが、必殺技を出した時まさに仏教。なんと、「南無阿弥陀仏」と叫ぶんです。こりゃあ、もろに仏教ですよね。それ以外の何ものでもありません。それだけではありません。ナム選手、仏を信ずる者、とまで言っています。殺生はしないのだ、と。
ですが、この辺りも仏教的なのですが、大事なのはそこではありません。大事なのは、このあとの亀仙人の言動なのです。

亀仙人も、一回目の天下一武道会に出場します。名前をジャッキーチュンと変えて(笑えるでしょ。パロディですね)。何のために出場したのかと言うと、孫悟空やクリリンが武道会で優勝させないためです。なぜなら、もし子供のうちに、世間知らずのうちに大きな武道会で優勝してしまったら、自分は天下一だとうぬぼれてしまい、後々の修行に身が入らなくなり、伸びるはずの才能を潰してしまうからです。これはよくあることですね。
世間では、小さな子供がとんでもない素晴らしいことをすると、やれ天才だのなんだのともてはやします。子供は、世間知らずですから、周囲からちやほやされてしまうと、お天下様になってしまいがちなんですね。特に昨今、マスコミのバカ騒ぎのおかげで、折角まだ伸びる才能があるはずなのに、潰してしまうことが多く見受けられるんですね。こうした罠を防止するため、亀仙人は自ら進んで武道会に出場したのです。
で、これのどこが仏教的か?、なんですが・・・・。
仏教の修行で最も気をつけなければいけないことは、「増上慢(ぞうじょうまん)になってはいけない」ということです。「増上慢」とは、簡単に言えば「うぬぼれ」のことです。
ある程度修行をしていくと、仏教の理屈がわかり、人々に説教ができるようになります。それらしい話ができるようになるんですね。お釈迦様時代で言えば、神通力も使えるようになったりもします。そうなると、世間の人々は、「聖者様」として扱うようになるのです。
ところが、ここに落とし穴があるんですね。まだ、悟ってもいない者が聖者様扱いを受けるとどうなるか・・・・。とうぜん、うぬぼれますな。俺は偉いんだ、と勘違いします。ここに慢心が生まれます。そうなると、修行をしなくなるんですね。当然です。辛い修行なぞしなくても、みんなちやほやしてくれるんですから。面倒な修行なぞしなくても、立派だ素晴らしい聖者だと褒め称えてくれるんですから。こうなると、本当の悟りは得られません。それどころか、どんどん威張りだしますな。謙虚さもなくなるし、本来の目的である悟りも忘れてしまいます。人間ってそんなものなんです。簡単に威張っちゃうし、簡単にうぬぼれてしまうんですね。で、いつの間にか、お偉いさん、になってしまうんです。こうなると、いけませんや。あとは、堕落の道ですね。どんどん落ちていきます。何事も、ですね。修行だけじゃありません。
増上慢にならぬようにする。亀世人の配慮は、まさしく仏教の修行と同じなのです。

もうひとつ。亀世人、ナム選手の望みを叶えてあげるのですが、ナム選手が
「このご恩は決して忘れません」
と言ったことに対し
「忘れていいよ」
と答えます。まさに、菩薩そのものですね。単なるスケベじじいじゃないんですよ、亀仙人。助けてあげたことに対し、そんなことはどうでもいいんだ、と言う態度。これぞ菩薩ですよね。
ごく一般の人間では、こうはいきません。いつまでも
「あの時助けてやったじゃないか。あの時の恩を忘れたのか」
などとしつこく思っています。口には出さなくても、思うのが人間です。特に年寄りになると、
「育ててやった恩を忘れよって・・・・」
などと思うこと、しばしばですよね。
こうした恩の押し売りは御免こうむりたいですな。恩を押し付けると、余計に返したくなくなるものです。人間はへそ曲がりなところがありますからね。
しかし、助けてあげたことなど忘れて、恩など返さなくてもいいよ、なんて言ってくれる人のことは、かえって気になるものです。いつか、恩に報いねば、と思うものなんですね。
尤も、恩なんて忘れていいよ、といった方は、覚えてなどいないでしょうけどね。まさに、菩薩ですね。

どうです?。マンガも捨てたものじゃないでしょ。深く読めば、こんなにも大事なことが含まれているんですよ。


ドラゴンボールの中の仏教A
前回は、第一回天下一武道会でのことまでをお話いたしました。そのあとドラゴンボールのストーリーは、レッドリボン軍編に入るのですが、ここはほぼ戦いですので仏教的な話はありません(漫画の内容的には面白いところなんですがね。悪の組織レッドリボン軍をゴクウが一人で壊滅する話ですので。興味のある方は読んでみてください)。
ただし、レッドリボン軍と争うこととなったのは、ドラゴンボール集めがきっかけなのですが、その目的はレッドリボン軍に殺されてしまった罪のないある人を生き返らせることでした。あくまでも自分の欲望を達成するためにドラゴンボールを集めたのではないのです(ただ、その目的も途中からです。初めは修行を兼ねておじいさんの形見である一つのドラゴンボールを探すのが目的でした)。
後々、ドラゴンボールを創った本人(神様・・・このことについても後にお話しします)も言うのですが、誰もが己の欲望を満たすためにドラゴンボールを集めますが、ゴクウだけはそうではなかったんですね。欲望、という汚れた心はゴクウにはないのです。
その証拠が、このレッドリボン軍の話の仕上げ部分とも言うところで証明されます。
ドラゴンボールは7つ集めないと願い事を叶えられません。悪の組織レッドリボン軍を壊滅させてドラゴンボールを手にれたゴクウですが、あと一つが見つかりません。そこで、占いババアのところへ行きます。この占いババアは亀仙人の姉なのですが、タダでは占ってはくれません。法外な占い料を請求します。もし、払えないというのなら占いババアが雇っている武術選手と戦って勝たなくてはなりません。ゴクウたちも最後のドラゴンボールのありかを占ってもらうために占いババアのところへ行くのですが、お金がありません。そこで、武術選手と戦うことになります。その中の一人にアックマンという選手がいます。まあ、名前を見ればわかりますが、悪魔なのですよ、ソイツは。で、必殺の攻撃がアクマイト光線という光線(笑えますが)。
すみません、あくまでも漫画なので・・・。そのあたりは・・・。しかし、このアクマイト光線、恐ろしい攻撃なのです。なんと、この光線を受けてしまうと、心の中の悪の心が膨張して爆発してしまう、という恐ろしい光線なのです。それはたとえほんのわずかな悪の心であっても、なのです。もし、その光線を私が受けたら・・・・ひとたまりもないですな。あっというまに大爆発ですな。悪の心がないわけないですからね。いや、この光線を受けて平気なのは、赤ん坊だけでしょう。ほんの少しでも悪意があれば終わりなのです。
が、ゴクウは平気だったのです。悪の心が一かけらもないんですね。人間では考えられません。
悪意と言うのは、誰の心の中にも存在しています。もし、悪意がなくなれば、それは悟ったことと同じになります。悟った者は、善の心で埋め尽くされます。いや、悪の心がなくなってしまうのです。すなわち、悟った者、解脱したものには、悪意が一切ないのですね。
かつて、社会的犯罪を犯したオーム真理教の教祖は、自らを解脱者と言っていました。ならば、彼には悪意はなかったはずです。悪の心がほんの一欠けらも存在していなかったはずです。しかし、彼は犯罪に走りました。殺人を犯し、サリン事件を起こしました。それは、悪の行為であり、悪の心がなした事件です。ということは、彼は解脱者でも何でもなかったわけですね。未だに、彼を解脱者とあがめている者がいるそうですが、悪意のある人間は解脱者にはなりえません。彼はニセ解脱者なのです。
いや、この世界に解脱者などいません。どんな人にも必ず悪意があるからです。解脱者など、存在しないのですよ。ですから、「私は解脱者である」とか「私は悟った者である」とか言う者がいたら、それは嘘つきである、と思っていいでしょう。お気を付け下さい。
話がそれました。アクマイト光線を受けたゴクウは、平気だったんですね。これは、悟った者と同じ心を持った者、と言っていいでしょう。ですから、「こだわり」がありません。「こだわり」がないから、悩みとか辛いとか思わないのです。周囲から見れば、レッドリボン軍とたった一人で戦うなど、辛いし苦しいしなんでそんなこと・・・・と思うのですが、ゴクウにはそれがありません。相手が戦いを挑んでくるから、戦うだけ、なのです。悪意がないんですね。レッドリボン軍が憎いから戦う、潰したいから戦う、打ち破って英雄になりたいから戦う、と言うわけではないのです。そもそもレッドリボン軍がドラゴンボールを渡してくれたら、戦う理由はなくなるのです。つまり、我欲で行動しているわけではないのです。あ、唯一つの欲がありました。それは「強くなりたい」だけです。
それは、菩薩が「人々を救いたい」という願いを持つことと同じでしょう。ゴクウにとっては「強くなりたい」、ただそれだけなんですね。それ以外の欲・・・あれがしたい、これがしたい、あれが欲しい、これが欲しいという欲・・・はないのです。
なので、理不尽な攻撃を受けても、尻尾が千切れてなくなっても、厳しい修行を課せられても、「ま、いいか」で終わって行くのです。この「こだわりのなさ」が大事なんですね。

人は、こだわるから悩むんです。悩みは、人が造り出しているものなのです。悩みと言うものは、初めから存在しているものではありません。悩まなければ悩みなど生まれて来ないのです。人間は、勝手に創りだした悩みに悩んで、苦しむのです。悩みなど、存在していないのに、です。
では、なぜその悩みを造り出してしまうのか。それは、欲があり、その欲にこだわるから、悩みを造り出してしまうのです。
たとえば、車が欲しいという欲望を持ちます。しかし、手元にお金がありません。仕方がないからローンで車を手に入れます。ここで、
「お金がないから、あきらめよう」
「お金が貯まってからにしよう」
とは思わないんですね。欲にこだわってしまうわけです。で、無理してお金を借りてまで車を手に入れるんですね。
順調に返済できるうちはいいです。しかし、欲しいものは車だけではありません。あれも欲しいしこれも欲しい。たまには贅沢な食事もしたいし、旅行もしたい。そうなるとお金が足りない。さてどうしよう。これ以上は働きたくないし、働けない。さぁ、困ったどうしよう。お金がないぞ、困ったぞ・・・・。と悩んでしまうわけです。悩みを造っているんですね。

他のことでもそうです。人間関係でも、悩んでしまうのは、自分の思うような人間関係にならないからでしょう。
「まあいいか、所詮そんなものだし」
と受け入れてしまえば、悩みなどなくなるんですね。たとえ、それがイジメであっても、
「まあ、いいか」
と受け入れてしまうことができたなら、辛くもなくなり、悩むこともなくなるのです。ゴクウはそういう境地にいるのです。自らその境地に至ろうとして至ったわけではありません。初めからそういう心の持ち主なんです。
話の中で仲間のヤムチャが言います。
「あいつつらいと思ったことあるのかな・・・・」
ないんですよ。人が辛いと思うことが、ゴクウは楽しく思えるからです。苦を楽と思うことができるんですね。それはまさしく、菩薩と同じ心なのです。
ですから、もしみなさんも、辛いことが楽しいこと、ワクワクすること、と思えるようになったなら、それは菩薩になった、と思ってくださっていいでしょう。
「辛いことなんてない、世の中楽しいことだらけ」
と思えるようになったら、それはものすごく幸せなことなのです。いや、それこそが本当の幸せなのです。

さて、話は進んで第二回の天下一武道会に入ります。ここでは、亀仙人がとても大事なことを言います。それは、悪の道に入ろうとしていたテンシンハンに対しての言葉です。
テンシンハンは、亀仙人のかつてのライバル鶴仙人の弟子でした。しかし、この鶴仙人は亀仙人と違って悪人なのです。弟は殺し屋タオパイパイ(ゴクウにやっつけられます)。悪者なのですな。テンシンハンはその弟子なので、当然悪人なのです。その時点では、完全な悪人にはなっていなかったのですが、いずれはタオパイパイのような殺し屋を目指していたんですね。で、戦い方も悪人の戦い方になるのですが、天下一武道会での戦いを通じて心が揺れ動くのですな。特に亀仙人に説かれて・・・・。
亀仙人はテンシンハンに言います。
「安易な影の道から抜け出せ。陽の光に満ちた世界を走ってみよ」
「たいしたことをいっているわけではない。明るく笑ってのんびり暮らしたほうが、この世は楽しいといっておるだけじゃ」
「明るい道を歩んで大物になれ」
この言葉に悪の道に入ろうとしていたテンシンハンは迷い始めます。

安易な道は、影の道なのです。安易な道・・・それは怠惰であり、働かずしてお金を得たり、努力をしなかったり・・・という道なのです。そうした道をたどれば、やがて犯罪に走ったり、僻んでいじけて生きていくことになったりするのです。そうした安易な道は、陽のあたる場所ではないのです。
お釈迦様は言います、怠惰を避けよ、努力せよ、安易に欲を貪るな、と。これと同じことを亀仙人は言っているのです。
安易な道は、確かに楽な道ではあるでしょう。しかし、そんな安易な道ばかり進めば、単なる怠け者になり努力を惜しみ、世をすねて僻んで恨んで生きなければならなくなります。人間は、努力しなければ生きていけません。怠けてばかりでは、前に進めなくなります。そして、それは陽の当らない道になるのです。
陽のあたる道は、明るく楽しい道でしょう。しかし、そうした場所を得るには、努力をしなければ得られないのです。何もしない、怠けている、悪の道に入る・・・では陽のあたる場所は得られないのですよ。
若い人で、犯罪に走るものは、怠けというものにとりつかれている人が多いですね。窃盗・殺人・詐欺・・・犯罪はいろいろありますが、そうした犯罪を犯す者の多くは、「無職」です。コツコツ働かないのです。コツコツ働いている人は、犯罪など犯さないのです。滅多にね。犯罪を犯すものは、
「努力しないで大金を稼ごう」
「努力しないで自分の我が儘を通そう」
という者なのです。安易な方法を選んでいるのです。その結果が犯罪者なのです。

陽のあたる道は、安易なことでは得られません。しかし、何も大金を得る必要はないのです。幸せはそんなところにありません。陽のあたる道とは、もっと単純なのです。それが
「のんびり暮せ、笑って楽しく暮らせ」
という言葉になるのですね。陽のあたる道は、のんびり笑って過ごすことなのですよ。
それは、無闇な欲を出さず、まあいいじゃないか適当でさ、という程度の暮らしをすればいい、ということですね。これは、仏教の目指す在家の生活そのものなのですよ。
仏教では、余分な欲を慎んで、安楽に生きなさい、と説きます。欲しいものが手に入らなくてもいいじゃないか、お金がたくさんなくてもいいじゃないか、みんなで笑ってのんびり過ごせばいいじゃないか、楽しく過ごせばいいじゃないか、と説くのが仏教です。なにも、毎日毎日戒律通りに厳しく生活せよ、などとは説いてはいないのです。それはあくまでも出家者に対しての教えですよね。在家の皆さんには、平和にのんびり暮らせばいいのだ、と説いているのです。
欲を慎み、人と争うことなく、我を張らず、まあいいか・・・という生活をしていれば、こんな気楽なことはありません。悩みなど全くないですね。あれが食べたいこれが食べたい、あれが欲しいこれが欲しい、などという欲など、どうでもいいのだよ、ということです。のんびり生きていけば、それは幸せなのですよ。それは仏教の教えそのものなのです。

お釈迦様は、人間の心の弱いところをよく知っていました。人間はもともと怠け者である、ということを認識していたのです。ですから、怠るな、と口を酸っぱくして言っています。しつこく説いています。それが安易な道に行くな、ということなのですね。
人は、努力し続けることが辛くなることがあるのです。なかには、初めから努力などしたくない、と言う者もいます。そうした者が至る世界は、影の世界・闇の世界で決して陽のあたる場所ではありません。
また、ガツガツ欲をむき出しにしていないで、みんなで笑って楽しく生活をしなさい、ともお釈迦様は説いています。仏教の目指すところは、欲をうまくコントロールして、楽しくのんびりと、平和に暮らすことです。人々が争うことなく、のほほんと生きていく世界、それこそが、極楽の世界なのですよ。
亀仙人は、そういう世界に生きよ、とテンシンハンに説いているのです。まさに、仏が衆生に説教した内容と同じなのですよ。
そうしてみると、やはり亀仙人はただ者ではありませんな。ふむ、ドラゴンボール、奥が深いですねぇ。



ドラゴンボールの中の仏教B
漫画ドラゴンボールに見られる仏教も3回目を迎えました。でも、まだまだ終わりませんよ〜。
前回は、第二回天下一武道会での亀仙人の話をいたしました。亀仙人がテンシンハンを諭すところですね。それにより、テンシンハンの心は揺れ動きます。また、試合に何の恨みも感情も持ち込まず、純粋に試合を楽しむゴクウの姿に、テンシンハンは武道家としての矜持に目覚め始めるんですね。そして、師匠の鶴仙人に逆らってしまうのです。つまり、改心するんですね。で、純粋に試合で戦うようになるんです。
この純粋さが重要なのです。素直さ、純粋さ・・・・・。これは、大人になればなるほど忘れ去って行くものです。素直に周囲の意見を聞く、純粋に取り組む・・・・。言葉では言えても、実践は難しいのです。
昔から「金言耳に逆らいやすし」といいます。重要なアドバイスというのは、なかなか聞き入れ難いものなのです。「間違っているよ、こうしたほうがいいよ」という言葉は、受け入れがたいものがあるのです。特に身内からの言葉は聞き入れないことが多いですね。
テンシンハンは、敵対する者からの言葉を聞き入れました。また、兄弟子の敵との戦いを通じ、純粋さを取り戻しました。だからこそ、悪の道に行かずに陽のあたる道を歩むことができたのです。素直に言葉を聞き入れ、アドバスを聞き入れ、なんの恨みも妬みも羨みも怒りもなく純粋に物事に取り組む。それは、とても大事なことなのです。
たとえば職場で。周囲との軋轢や嫉妬、恨み、競争心といった感情を取り除いて、純粋に仕事に取り組んでいる人はどれくらいいるでしょうか?。たいていは、上司への愚痴や取引先の愚痴、周囲への恨み事、妬み、羨みなどの感情が入り混じって仕事をしているのではないでしょうか?。純粋に仕事そのものを楽しむという人は少ないんじゃないかな、と思います。でなければ、ストレス社会、なんて言葉は生まれてきません。純粋に仕事をそのものを楽しめるならば、ストレスなんて溜まりませんからね。
映画「空海」の中にとてもいいセリフがあります。あぁ、密教そのものだなぁと思うセリフです。それは、お大師さんが(その時点ではまだ空海ですね)、唐に渡る途中、嵐にあった時です。
「この嵐を鎮めようと思うな。己が嵐になれ」
というんですね。これ密教の教えそのものなのです。
普通、嵐に遭えば、嵐が静まることを祈り、助けを願い、恐怖におののくでしょう。しかし、密教の教えは違います。祈るよりも己自身が嵐そのものになってしまえ、と説くんですね。嵐と一体化するわけです。純粋に嵐を受け入れてしまえ、というわけです。そこには、嵐に対する感情は何もありません。ただひたすら純粋に嵐を受け入れるんです。そして、嵐と溶け合って一つになるんですね。これは、密教の教えの重要な要素です。これは、理趣経に比喩として説くところの「純粋な愛情(慈悲)」にも通じています。
純粋さは愚痴を生みません。辛くても辛いと思いません。純粋に取り組んでいるとき、そのとき人は無になっています。無心ですね。
テンシンハンは、亀仙人の言葉を素直に受け入れることにより、己をより強く磨くという純粋さを取り戻したのです。若者を悪の道から救いだした亀仙人は菩薩であることは間違いないですが、それに応えて見事に悪の道から脱出したテンシンハンは善き修行者といえましょう。
ここ、大事ですね。素直さと純粋さ。大人になっても、年をとっても、持ち続けなければいけないと思います。頑固になってはいかんですし、心を閉ざしてはいかんですなぁ。

さてさて、漫画の方は天下一武道会が進みまして、漫画を読まれる方は、素直に戦いぶりを楽しんでください。こちらは、話が飛びます。
天下一武道会が終了しますと、ピッコロ大魔王編が始まります。このピッコロ大魔王というのは、悪の塊ですね。悪いことは大好き、善人は大嫌い、みんな悪いことをしまくれ、殺し合え、略奪しろ、この世を恐怖で満たせ、というとんでもない悪魔なのです。まあ、大魔王ですから、当然のことなんですけどね。
魔王は、仏教ではマーラと呼ばれています。マハーマーラで大魔王ですね。お釈迦様が悟りを開くことを邪魔したりもしました。また、仏教に出てくるマーラ・・・魔王・・・は、人々が快楽に堕落し、欲にまみれることを喜びとしています。
「人々よ、怠けろ、愛欲に溺れろ、金を奪え、殺し合え、名誉を欲しろ、戦争をしろ、この世の快楽を大いに楽しめ」
と人々の心に囁くんですね。まあ、悪魔ですから、欲に溺れるように仕向けますな。一方、ドラゴンボールの魔王ピッコロは、この世が恐怖で満たされることを喜びとしています。人間が恐怖におののく顔を見るのが大好き、というわけですね。魔物が考えることは、似たようなもので、この世が恐怖の世界になれば争いが増え、略奪は増え、快楽に溺れる者も増えるでしょう。それは、いつの世も、どこの世界でも同じですね。
で、こう言う場合、必ずや魔王に敵対する者が現れるんですね。正義の味方・・・じゃあないですが、魔王を何とかしなければ、という者が現れるんです。仏教では、それはお釈迦様ですね。お釈迦様が仏陀となって、魔を滅ぼします。お釈迦様が悟りを得た時、魔王マーラは
「あぁ、これで悪が滅びてしまう」
と叫んで奈落の底に落ちていったんですね(お釈迦様が年を取り、この世での寿命が近付くと、マーラは復活しますが・・・・。人間の心の中に潜んでいる小さなマーラが集まって大きなマーラ・・・大魔王になってしまうのです)。
ドラゴンボールでも大魔王ピッコロを封じ込めようとする者が現れます。亀仙人です。しかし、亀仙人は失敗してしまうんですね。自分の命を投げ出してピッコロに挑んだのですが、失敗してしまうんです。ゴクウも一度戦いを挑みますが、ボロボロに負けてしまいます。
まあ、ストーリーは、コミックを読んでみてください。ここでは、ストーリーを紹介するわけではないので、そこは省力いたします。大事なのは、ピッコロ大魔王が誕生した理由です。
これは、のちにしか分からないのですが(ですのでネタばれになります。ドラゴンボールを読んでない方、これから読む方、今読んでいる方は、この部分はあとで読んだ方がいかも・・・です)、ピッコロ大魔王は実は神様がその昔に捨てた、悪い心(分身)から生まれたものなのです。
後に登場する神様は、宇宙人・・・ナメック星人・・・でした。わけあって地球に漂着します。ナメック星人というのは、悪心を一切持たない、善の塊のような生命体です。悪の心が一切ないんですね。で、そのナメック星人が地球にやってきまして、成長していくうちに神の存在を知ります。彼は神の元に行き、修行をするのですね。やがて、彼はその神の後継者になりたいと願うようになります。しかし、神様は後継者になることを許してはくれません。それは、彼の心の中に、わずかではあるのですが悪の心があることを見抜いていたからです。ナメック星人は、さらに修行をして、その悪の心を捨てます。そして、晴れて神になるのです。が、捨て去った悪の心は、ピッコロ大魔王へと成長してしまうんですね。
本来、一切悪の心をもたないはずのナメック星人が悪の心を持ってしまった。それはなぜか・・・・。それは、ナメック星人が人間と触れ合ったからです。人間と触れ合うことにより、人間が持っている悪の心・・・妬み、羨み、恨み、怒り、ひがみ、意地張り、貪欲さ、愚かさ・・・に、ほんの少しなのですが汚染されてしまったんですね。真水に一滴の泥水を落としたようなものです。
ここが面白いところなのですよ。ナメック星人は悪の心もたない純粋な善の存在。ところが人間は悪の心を持った存在なのですね。で、その悪の心が成長すれば、大魔王が生まれてしまうんです。示唆的ですよね。ほんのわずかな悪の心でも、成長してしまえば、大魔王・・・大きな悪・・・へと変貌してしまうのです。それは、やがて大きな争いを生み、いくつもの命を奪うことになるのです。

鳥山明さん、すっごい嫌みですよね。人間に対する嫌み、皮肉、ですよね。人間の醜い部分をさりげなく批判している。それは、仏教で説くところの三毒と同じなのです。
仏教では、この心の悪のことを三毒・・・貪・嗔・痴(とん・じん・ち)といいます。三つの毒ですな。一つは貪りです。貪欲さですね。満足を知らず、もっともっと、もっと手に入れたい、という心です。お釈迦様はこのことを「たとえ黄金の雨を降らそうとも、人間の貪欲さは尽きることはない」と批判しています。この貪欲さは毒なのですよ。己を滅ぼす毒なのです。
次には、妬みやひがみ、羨み、恨み、蔑み、怒りといった負の心です。マイナス思考なんて言われていますね。たとえば、ひがんだ考え方をする者は、明るく幸せに生活している者が羨ましくもあり、また妬ましくもあり、恨んだりもし、また「ふん、どうせいずれは不幸になるのだ」と蔑んでみたりしますよね。そうした歪んだ心は毒なのです。そのような心を持った者は、やがて孤立し、誰からも相手にされず、寂しい人生を送り、さらに世の中を恨んで死んでいくのです。こんな不幸なことはないですよね。たとえ貧しくとも嫌な目にあったとしても、他人を恨むことなく、羨むことなく、妬むことなく、蔑むこともなく、ひがんだ考えを持つことなく、不当に怒ることなく過ごしていけば、陽の光を浴びる明るい生活が得られるものです。
最後の毒は愚かさですね。素直に周囲の意見を聞き入れず、物事を凝り固まった見方をし、頑固に己の考えに籠ってしまうという愚かさ、です。そうした者は、やはり孤立化し、誰からも相手にされなくなってしまいます。寂しいことですよね。少しは、他人の意見に耳を傾けるとか、偏見でなく、いろいろな方向から眺めてみるとか、頑固さをすてて周囲に合わせてみるとかすれば、この毒に侵されることはないのですが・・・・。特に年をとってくると、頑固になって周囲の言葉に耳を貸さなくなります。孤独老人の誕生ですね。頑固さを捨て、周囲と楽しくやっていこうという気持ちがあれば、孤独になることなどないのですよ。好かれる老人ですよね。
こうした三つの毒を人間は持っているのです。ところが、ナメック星人にはなかったんですね。で、不幸にも地球にやって来てしまったナメック星人は、この毒にほんの少し侵されてしまったのです。しかし、それを捨てることができたんですね。神になるために、三つの毒を捨て去り、克服したのです。が、しかし、捨てた毒は大きく成長してしまったわけなのです。ピッコロ大魔王となって。
そう、ピッコロ大魔王は、いわば人間が生んだものなのです。ですから、人間が処理・・・片付けなければいけないものなのですよ。
まあ、他にも理由があって、神自身がピッコロ大魔王を始末するわけには行きません。人間の力を・・・善なる力を頼らざるを得ないんですね。
しかし、頼みの亀仙人も死んでしまい、ゴクウも完敗。さてさてどうなりますことやら・・・・。
というコミックの内容はさておいて、次に進みます。

えー特別な修行をしまして、また特殊な薬を飲んで、ゴクウは強くなるんですね。ま、ここは漫画ですので・・・・。で、再びピッコロ大魔王に戦いを挑みます。で、なんとかかんとか、ピッコロ大魔王を撃退するんですな。しかし、ピッコロ大魔王は、死の直前に悪の種を残しておきます。二代目ピッコロ大魔王です。これを生んでいくんですね。ゴクウは、やがてこの二代目ピッコロ大魔王と戦うために、神のもとで修行するんですね。
三回目の天下一武道会で二代目ピッコロ大魔王と戦うのですが、その前に・・・。
人間がいて、魔王がいて、仙人がいて、神がいる。この仕組み、これは世界に共通している仕組みですよね。どの国の宗教でも、同じような仕組みを説いています。人々と人々を苦しめる魔物、悪魔と、人々を導く仙人や修行者、そして神・・・・。世界の宗教は、共通してこの仕組みを説いています。
尤も、仏教はさらに神以上の存在を説きますけどね。神で終わらないんです。そこが仏教の深いところでもあるのです。仏教は、地球上にとどまらず、宇宙へと世界を広げていきます。大日如来を中心に、東の仏国土、南の仏国土、西の仏国土、北の仏国土、そしてその仏国土の周囲の仏国土、上にある仏国土、下にある仏国土、四方八方、十方に仏国土・・・世界を説きます。密教で説く曼荼羅の世界ですね。
ドラゴンボールも、やがてこうした世界観へと発展していきます。表現は違いますが、東の銀河、南の銀河、西の銀河、北の銀河・・・というように。
曼荼羅上(密教の宇宙観)では、地球は北の仏国土に含まれます。北の仏国土の管理者・・・如来・・・は、お釈迦様ですから。ですので、密教では地球は宇宙の北側に存在していると説いているんですね。
なお、ドラゴンボールでの地球は、北の銀河の管理内に入っています。話が進みますと、北の銀河の管理者である界王(かいおう)が登場します。
このあたり、密教の世界観にそっくりですね。きっと、曼荼羅の思想を取り入れたに違いない、と私は睨んでいるのですよ。
ま、その話はもう少し先になります。今は、二代目ピッコロ大魔王ですね。この魔王をどうするのか、ただ倒す、殺してしまう、滅してしまうというのではないところが、ドラゴンボールのミソであるし、あぁ、仏教的だなぁ、密教的だなぁ、と思うところなのですが、それは次回にお話ししましょう。


ドラゴンボールの中の仏教C
漫画ドラゴンボールに見られる仏教、4回目です。もうそろそろネタ切れだろう、と思われますが、もう少しお付き合いお願いします。
さて、大魔王ピッコロを倒したゴクウですが、前回、書き忘れたことがありました。それは、ピッコロ大魔王を倒したのが誰かを世間に知らしめていない、ということです。
普通、一般的に、大きな事業を成し遂げた場合、それをなしたのは誰か?ということが問われます。また、その事業をなした人も多くの場合、「私です。私がやりました」とアピールしますよね。もっとざっくり言えば
「俺がやったんだぜぇぃ」
みたいに、普通は自慢しますよね。ましてやピッコロ大魔王を倒したのですから、それくらいはアピールするのが普通です。が、ドラゴンボールは違います。誰が倒したか・・・・それは問題にしないんですね。漫画の中でも、誰が倒したのかという問いに対し、ブルマ(登場人物の一人)は
「誰って?、正義の味方に決まっているでしょ」
とだけ答えています。「ゴクウっていう武道家がたおしたのよ」などとは言いません。そう、決して自分の業績を誇らないのです。それは、この先、ドラゴンボールの中でずっと続きます。ドラゴンボールの中では、
「誰が倒したか。誰が危機から救ったか」
は、どうでもいいのです。
ドラゴンボールの終盤、ミスターサタンという人物が登場しますが、この人物こそ一般人の象徴でしょう。目立ちたい、有名でありたい、自分が一番強い、勘違いも甚だしい、名誉を保ちたい・・・・などなど、人間の嫌な面をたっぷり持ち合わせたニセヒーローであるミスターサタン。この人物、一応格闘技の世界チャンピョンなのですが、実のところそんなに強くない。しかし、虚栄心だけは人一倍なんですね。ゴクウとは大違いですな。しかし、ゴクウが変っていて、ミスターサタンが一般的なのですよ。誰だって、自分の功績は世に知られたいでしょう。自分がやったんだ、とアピールしたい、認められたいのが普通なのです。そんなことはどうでもいい、という方が異常なのですよ。
「私はそんなことはない。世間に功績が認められなくても、そんなことはどうでもいい」
という方は、いないとは言いませんが、多くはない、否、少ないでしょうねぇ。人間ですから、それで当然なのです。
が、仏教的に言えば、名が知られることは実はどうでもいいのです。むしろ、
「こんなすごいことをやったんだぞ」
みたいなことは言わないのが、仏教的ですね。仏教は、悟りを目的としています。悟った者にとって、名前が売れるとか、有名になるとか、そんなことはどうでもいいのですな。自分の功績など、世間が知ろうと知るまいと関係ないのですよ。それが仏教なのです。
たまに、TVに登場してこんなことをしてるぞ、こんな素晴らしいことをしてるぞ、みたいなアピールをしているお坊さんがいますが、これは実は仏教的ではないのですね。お釈迦様の教えからすれば、自ら公の場所に出て、あれこれアピールする必要はない、のです。いわば、「売名行為」的なことは、仏教では是とはしないのです。そう、ゴクウのように、名前を言う必要はないのですよ。なぜなら、大事なことは、名前を売ることにあるわけではないからです。
目立つために修行したのではないのです。ゴクウの場合は、より強くなるために修行しているのです。坊さんは悟りのために修行しており、また人助けなどをしているのです。世間に教えを広めるのは、自分の名前を売るためでもなく、お金を儲けるためでもなく、多くの人々に仏教を知ってもらい、少しでも安楽なればと思ってやっていることなのですね。そして、それは自分の悟りにつながることになるのです。つまり、自分が悟りに至るために救いの行をしているのです。ですから、名前を言う必要はないのですよ。ゴクウもこれと同じですな。
名乗らない。素晴らしい業績を上げても、名のる必要などない。それが仏教なのです。

ピッコロ大魔王を倒したゴクウ、さらに強くなるために神の世界、神殿で修行することを許されますな。しかし、ピッコロを倒したことで、少々うぬぼれてしまいます。そこを神殿で神の世話するミスターポポ(なぜかインド人風。ターバンを頭に巻いていますな)に指摘されます。ゴクウといえども、大事業を成し遂げたあとは、うぬぼれてしまうのですね、「俺は強い」と。
いや〜、気をつけなければいけませんな。この「うぬぼれ」、仏教では増上慢(ぞうじょうまん)といいますが、簡単にいえば、「俺ってすごいだろ」という慢心です。かつて、亀仙人がそうなってはならない、という思いで名前を変えてまで天下一武道会にでたほど、この慢心は恐ろしいものなのです。なぜなら、慢心を起こせば、その時点で成長が止まってしまうからなのです。
幸い、ゴクウの場合は、慢心したことをとがめられ、またミスターポポの強さに圧倒されたため、すぐに反省しますが、一般にはなかなかそうはいきません。自分を注意してくれるものが少ないですし、注意されても聞こうとしないからです。注意されると腹が立つんですよね、無性に。
人間、年をとってきたり、あるいは若くして成功したりすると、注意をしてくれる者が少なくなります。諫めてくれる者、御意見番という存在が少なくなってくるんですね。特に若くして成功したり、大きな会社の社長さんなどになってしまうと、周りの人が注意をしなくなってきます。注意されても、本人も耳を貸さなくなってしまいますね。それは、うぬぼれ、慢心によるのです。
慢心した者は、客観的に自分を評価できません。正確な自己評価はできないのです。ですから、周りの注意に耳を傾けることが必要なのですが、慢心しているとそれさえも聞こえなくなります。否、注意されると腹が立つんです。
「そんなこと言われなくてもわかってるわい!」
「うるせーな、大きなお世話だ!」
みたいにね。こう思ってしまう人は、その時点で終わり。もう伸びないですな。
「あぁ、慢心していた。危ない危ない。軌道修正しなきゃ」
と思える人は、またまた伸びていきます。これは、我々修行者も同じ。慢心は、間違った方向に自らを導いてしまうのです。恐ろしいですよね。私なんぞ、しょっちゅう慢心していますので、よく注意されます。ありがたいことですよねぇ。
ですから、ゴクウのように、「慢心してしまった」と指摘されたら、潔く反省することです。「面目ない」と。で、もう一度修行し直しだ、とやり直すことです。「原点に返る」ですよね。

さて、神殿で修行したゴクウ、ものすごく強くなっていますな。2代目ピッコロ大魔王を倒さなければなりませんからね。その場は、第三回天下一武道会です。
2代目ピッコロは名前を伏せて(マジュニアという名前で)登場します。世界を己のモノにするには邪魔なゴクウを倒さねばなりませんから、あえて名前を伏せて天下一武道会に出たのですな。このあたり、すでに2代目ピッコロは少しフェアです。初代ピッコロのような悪の塊であはりません。漫画では語られてませんが、おそらくはあくどい人間とそんなに出会わなかったのでしょう。初代ピッコロは神が捨てた悪の部分ですから、善が入り込む余地はなかったのですが、2代目はあくまでも2代目。人格が多少変わっていますな。まあ、いずれにせよ、ややフェアなところが生まれています。
天下一武道会も順調に進みまして、いよいよゴクウVS2代目ピッコロですな。お互い、いい勝負をします。手に汗握る、白熱した試合ですな。ピッコロも汚い手は使いません。純粋に力で倒そうとします。
で、ついに死闘の末、ピッコロを倒しますな。天下一武道会も優勝です。ゴクウ、初優勝。
ここで本来は、悪の根を断つために、ピッコロを抹殺しなければいけません。でないと、いつピッコロが復活してきて、世の中を恐怖の世界に変えてしまうかわかりません。悪の根は根絶すべきなのです。
ところが、ゴクウはピッコロを殺しません。むしろ、ピッコロを殺そうとした神を止めます。もちろん、ピッコロを殺してしまえば、神も死んでしまうという事情があります。なので、ピッコロを殺すことができないのですが、そうでなくても、ゴクウはピッコロを殺さないでしょう。後々でてくる悪の塊であるベジータも殺さなかったのですから。
そう、ゴクウは命を奪わないのです。本人はそのことに関し、「強いヤツがいなくなるのはもったいない」と言ってます。理由はともあれ、この「命を奪わない」というのは、後々大きく影響をしてきます。やがて、大魔王だったピッコロも善の心を持つようになるのですな。もし、この天下一武道会のときにピッコロを殺してしまっていたら、善の心をもったピッコロにはならなかったでしょう。悪のまま命を終わってしまいました。しかし、ゴクウはあえて命を終わらせず、善に転じることに賭けたのです。もし、悪のままなら、もう一度自分が倒せばいい、と決意し。
悪人だから殺せばいい、と仏教では説きません。そんな単純な答えは仏教にはないのです。悪人であっても、救うことができるならば、救ってやってはどうか、と説くのが仏教です。お釈迦様は、99人を殺して世間を恐怖の世界に陥れたアングリマーラを出家させ、自らの弟子にしてしまいます。理由は多くありますが、特に大きな理由は、殺人鬼のままで一生を終わらせてはならない、と思ったからでしょう。人の命を奪うことがどれほど大きな罪であり、どれほど苦しみを生みだすのか、ちゃんと理解して、反省して、己の罪の深さを知らしめるべく、弟子にしたのでしょう。殺人犯として、処刑されれば、反省も無ければ、被害者の心情も理解できずに生涯を終えてしまいます。それでは、何の改善にもなりません。「悪いことをすればこうなる」と、世間に知らしめる、いわば見せしめになるだけです。それでは、本人のためにも、世間のためにもなりません。なぜ人の命を奪うことがいけないのか、それを教えねばならないのです。アングリマーラも、それを知って生涯を終えるのか、知らずして生涯を終えるのかでは大違いなのです。これは大変大事なことだと思います。悪人だから殺せばいい、消滅させればいい、などという単純な考え方では、罪を犯す者は減ったりはしないでしょうし、恨みは消えないでしょう。
ドラゴンボールの大きなところは、たとえ罪を犯したものでさえも、やがては仲間になってしまう、というところなのです。ゴクウを通じ、極悪人であっても、魔王であっても、やがて仲間になり、力を合わせていく、というところに、ドラゴンボールの魅力があるのでしょう。敵対する者も仲間にしてしまう。いったんは戦うが、やがて仲間になってしまう。
先ほど述べたアングリマーラも同じですね。殺人鬼であっても、お釈迦様は仲間にしてしまったのです。こうしたことは、仏教の神話に関する部分ではよくあります。
有名なところでは、鬼子母神や大黒天ですね。鬼子母神は、人間の子供を食ってしまう鬼でしたが、お釈迦様の諭しによって心を入れ替え、子供を守る神になります。大黒天は元はマハーカーラといい、破壊の魔神でしたが、仏教の教えにより、生産の神になります。そのほかにも、ダキニ天(日本ではお稲荷さん)、ガネーシャ(日本では聖天さん)なども、元は悪魔や悪神でしたが、善神に転じています。
元は悪人や悪神、魔物であったとしても、仏教は見捨てるようなことや排除したりするようなことはしません。差別もしません。そうした悪人も魔神も魔物も、命は平等です。善人や善神らと同じ命を持っています。たまたま、悪行をしてしまっただけです。悪意を持って悪行をしたにしても、命は同じなのですね。ですから、仏教では「教えを説いて改心させる」という方法をとります。
しかし、すべてが改心するわけではないでしょう。中には、徹底的に逆らう悪神もいるかもしれません。意地を張って悪の道を走る悪人もいることでしょう。魔物だってそうです。魔物であることに誇りを持って生きる魔物もいることでしょう。そうした場合、仏教ではどのようにするのか?。
やはり、見捨てません。否、いったん見捨てたかのように見えるけど、見捨てていないよ、という方法を取ります。すなわち、寿命が尽きるのを待つのです。その悪の者が寿命が尽きて、生まれ変わり、自分の罪の清算を行い、そしてまた生まれ変わって来て、その時に教えを説く・・・・という方法を取るのです。生まれ変わって来ても教えを聞かないのならば、また次の世、そしてその次の世・・・・といったように、何度も何度も生まれ変わって行くうちに、少しずつ改心させていくのですね。仏教は長い時間で物事を考えます。いいかえれば、しつこいんですよ。改心するまで、どこまでも追いかけていきます。見捨てることはしないんですね。
さて、ゴクウも決して見捨てはしないんですよ。相手の命まで奪うことはしません。だから、魔王であるピッコロも悪の塊であるベジータも、命を奪うことはしなかったんですね。きっと、いつか心変わりするだろう、と信じて。

何でも、自分たちと違ったものを排除することは簡単です。異質なものを認めず排除する・・・・。簡単なことですが、それはイジメや差別につながるでしょう。そこに間違いが生じるのですね。みんな同じ命なのに、何故差別されねばならないのか・・・。
たとえ悪人であっても、仲間に取り込んでしまうゴクウの心は、まるで曼荼羅ですな。胎蔵界曼荼羅は、一番外のわくには魔物や魔神が描かれています。確かに外の方ではありますが、曼荼羅の中に含まれています。排除されていませんね。仲間なのですよ、魔神でも魔物でも。その考え方が、世界を平和にするのですね。争いのない世界へ、差別のない世界へと導くのですよ。
ゴクウは、戦います、戦いますが、それは憎しみのための戦いでもないし、復讐のための戦いでもないし、恨みを晴らすべくための戦いでもありません。ただ戦うだけです。強い相手と戦って勝つ。それだけです。それ以外の感情を持ちこみません。負けたら修行し直して再度挑戦し、勝つまで戦う。それだけです。だから、差別は生まれないし、醜い戦いにはならないのですね。

さて、ドラゴンボールはその先、ベジータ編に突入します。地球内の相手でなく、宇宙へ飛び出すのですが、まあ、そこは漫画ですから。
宇宙に飛び出すその前に、ゴクウは死んでしまいますな。戦いで命を落とします。で、あの世で修行するのですが、その前になんと閻魔大王が登場します。もろ、仏教ですね。
閻魔大王、そのあともたびたび登場しますが、なかなか話のわかる粋な閻魔様です。そういえば、死者の列(魂の列)が閻魔大王のところまで並んでいるシーンが描かれていますが、これは仏教の説くあの世への道を参考にしていることは間違いないでしょう。ゴクウは、地球の神により、特別に肉体付きで閻魔大王の前に現れます。で、北の銀河を司る界王のところに行くのです。界王の存在も曼荼羅と同じだ、という話は前回しましたね。ですので、ここでは省きます。
それにしても、閻魔大王、あまり怖くありません。キャップなんぞを被っております。スーツ姿だし。しかし、仕事はきっちりしますな。ドラゴンボール終盤の魔人ブウシリーズでは、閻魔大王、死んでしまった魔王ダーブラを極楽へ送ったといいますな。地獄へ送ると魔王だけに喜んでしまう、だから極楽へ送った・・・のだそうです。面白いですよね。ひどすぎる悪人は、地獄へ落としても改心しないのかもしれません。むしろ、極楽へ送って、仏様の教えばかり聞かせていたほうが、すさんだ心が治るのかも知れませんね。
そう思うと、案外、地獄へ行くものはこの世で贅沢した者で、この世で心がすさんだ者は極楽へ行くのかも知れませんねぇ。まさに「悪人正機」ですかねぇ。こういうところが、ドラゴンボールが仏教くさいところだな、と思うのですよ。原作者の鳥山明さんは、結構、仏教に精通しているとしか思えないですよね。

ドラゴンボール本編の方は、このあとスーパーサイヤ人編に入るのですが、このスーパーサイヤ人、これはまさに不動明王ですな。ま、その話は次回に致します。次回は、この
「スーパーサイヤ人は不動明王?」
という話と
「ナメック星は極楽か?」
という話をいたしまして、ドラゴンボールと仏教の関係のお話を終えたいと思います。次回をお楽しみに。


ドラゴンボールの中の仏教D
長々と漫画ドラゴンボールに見られる仏教について語ってきましたが、今回が最終回です。もういい加減飽き飽きした頃でしょうが、最後ですので、辛抱してお付き合いください。
前回の続きでドラゴンボールはナメック星編へと突入します。その最後には、ゴクウはスーパーサイヤ人という境地に到達するのですが、その話の前にナメック星及びナメック星人についてお話しましょう。

ナメック星人。地球で大暴れした魔王ピッコロもナメック星人です。その昔、ナメック星が天変地異に見舞われ、星自体が滅んでしまいそうになったときに地球に向けて脱出した一人のナメック星人が地球の神でありピッコロだったのですな(詳しくは漫画を読んでください)。
そもそも、ナメック星人はとても穏やかな性格で争いを好まない人種でした。しかも、ナメック星人には性別もありません。男女の別がないんですね。なので、恋愛ということもありません。恋愛がないので、愛情のもつれによる争いもありませんし、不倫もありません。性行為もありませんし、そうした欲望もありません。そもそも性欲がないのですな。なので、異性にもてたいとか、異性からいい目で見られたいとか、異性と付き合いたいとか、異性を気にすることすらないのですな。また、性欲がないので、当然ながら同性愛もありません。ここが人間と大きく異なります。
また、衣服は自分で出せるんですね、ナメック星人は。神通力みたいなのがあって、自分の衣装は自分の好きなデザインでさっと出せるんです。自分オリジナルの衣装ですな。他人の衣装がいいと思ったら、真似をして自分も同じようなデザインの衣装を神通力で出せばいいんです。なので、ブランド物という概念がありませんな。洋服を買うという行為もありません。ここでも、他人と争うということがないんですな。
さらに、食べ物がいりません。ナメック星人は水だけで生きていけるので、水さえれば満足なのですな。水は生命が誕生した星ならば、いくらでもありますから、水で争うことがありません。つまり、食料により争うことがないのです。もっと美味しいモノ、もっといいものが食べたいという欲望がないのですね。水があればいい、というだけです。ここも人間と大きく異なります。
さらに、ナメック星人は長老が卵を産んで増えていきますので、人口増加の心配がありません。種が保存できる程度に増えればそれで十分なのですね。
人口も少なく、余分な食料を欲しないので、領地を広げようという欲もありません。ただ、星の環境を維持するために植物は必要です。ですので、彼らはせっせと畑を耕し、植物を植えます。それが仕事ですね。それ以外やることはありません。
他にやることがないので、仕事に精を出します。怠け者はいません。怠けてもなんの特にもなりませんし、たとえ怠けていても、注意されることもありません。毎日ボーっとしていてもいいのです。ひきこもっていても注意されません。ただ、やることがありません。必然的に、外に出てくるでしょう。で、畑を耕すんですな。
で、それ以外に文明がないので、欲しいものがないんですな。そもそもお金がありません。必要ないですからね。何も売ってませんから、ナメック星には。空も飛べますから車も飛行機もいりません。ナメック星中、すべてを見ることも旅行することもできます。飛んでいけばいいのですからね。食事の心配もいりませんし。もうホント、平和。平和そのものですな。
さて、この様子、どこかで聞いたことがないでしょうか?。
性別がない、欲がない、食事の心配もいらない・・・・。どことなく、極楽に似ていると思いませんか?。

極楽浄土・・・・御存知、阿弥陀如来の世界ですね。西方浄土ともいいます。極楽浄土に生まれ変わった者は、性別がありません。食事の心配はいりません。神通力も使えますから、空も飛べるし、着るものも心配ないですね。欲を出す必要がないのですな。
で、何をしているかと言えば、毎日阿弥陀如来のお話を聞いています。しかし、それも強制ではありません。聞きたいときに聞けばいいのです。というか、極楽浄土にいれば、どこにいても阿弥陀如来のお話は聞こえてきます。どれほど遠くへ行こうが、極楽浄土内にいるならば、否、宇宙の果てまで神通力を使って出かけて行っても、阿弥陀如来のお話は聞こえてきます。
で、それが苦痛に感じないのですな。心地よく感じるのです。
他には、何もやることがない、この世から見ればとてつもなく退屈な世界です。ナメック星もこれに同じですな。
ブルマ(登場人物。ちょっと変わった女子)などは、性別がないことを「かわいそう」といいますが、ナメック星人にしてみれば、なぜ「かわいそう」なのか理解できませんね。人間から見たら、ナメック星は退屈でしょうが、そこの世界から見れば、いろいろな欲にまみれ苦しみ、憎しみ合い、争っている人間が愚かに見えるでしょう。
同じように、極楽浄土に生まれ変わった者から見れば、人間界はさぞ醜く汚れた世界に見えることでしょう。だからこそ、ナメック星から地球に来てしまったナメック星人は汚され、欲を覚え、醜く変化してしまい、ピッコロという魔王へと変貌を遂げて行くのですな。ということは、ピッコロ大魔王は、人間の欲をすべて前面に出した姿というわけですな。あれは、人間から理性を取っ払った姿なのです。本当のナメック星人は、極楽浄土の人間と同じで、何の欲もなく、平和な人種だったのです。そう、ナメック星は、極楽浄土と同じなのですよ。経典には華々しく極楽浄土の風景が説かれていますが、案外ナメック星のように、豊かな水と緑の星が極楽浄土なのかもしれませんな。というか、本来は地球も豊かな水と緑の星だったんですけどねぇ。たまたま、そこにいる人類が愚かなだけでね・・・・。

しかし、そんなナメック星には欲を叶えるドラゴンボールがありました。何のためにあるのかわかりませんが、なぜかナメック星にもドラゴンボールがあるのです。また、一応、外敵から守るためなのか、戦士もいます。戦うことができる戦士ですね。
まあ、極楽浄土にも浄土を守るための天人がいます。それは、たとえて言うならば、四天王や金剛力士のような存在ですね。一応、何があるかわからないから、ガードマンは必要なわけです。
ナメック星の中では、何か望みがあると7つの村にあるドラゴンボールを求めて、村を訪ねます。で、村の長老と問答したり、話し合ったりしてドラゴンボールを借りてきます。もしも、ドラゴンボールを求める者に邪悪な心があれば、それを渡すことを拒否します。願いは純粋でなければなりません。この辺りは、極楽浄土にはないところですが、そこはまあ、漫画の設定上しかたがないことですね。

さて、そんな平和なナメック星が危機に陥ります。原因はドラゴンボールですな。これを欲する邪悪な者が、極楽であるナメック星にやってくるわけです。その邪悪な者は、とてつもなく強く、大人しく平和なナメック星人ではとても太刀打ちできませんな。
ま、いろいろ事情があって、地球からナメック星にゴクウたちがやってきますな。ナメック星で悪の塊のベジータとも再会します。さらには、その親玉であるフリーザという悪以外の何ものでもない強敵とも出会いますな。で、ゴクウと対戦することになるのですが、その途中で、ゴクウの仲間のクリリンがフリーザに殺されてしまいますな。惨殺です。それをきっかけにゴクウはスーパーサイヤ人へと変身します。その姿は、まさに不動明王ですなぁ・・・・。
平和な星を己の欲望のためにめちゃめちゃにしてしまったフリーザをゴクウは許しませんな。しかも、殺さなくてもいい相手を平気で次々と惨殺してしまう態度に切れてしまうんです。怒りでもうどうしようもなくなった時、ゴクウはスーパーサイヤ人へと変化するのです。その状態を本人は
「穏やかな心を持ちながら、激しい怒りによって目覚めた戦士」
といっています。
ゴクウは、本来、争いを好みません。試合はします。強い相手と戦って勝つのが楽しいのですな。で、負けてしまったら修行し直して再び挑戦する。そこには、憎しみも恨みも怒りも何もありません。純粋に試合がしたいだけです。ですので、普段は大変穏やかな、こだわりのない心をもっています。
しかし、そんなゴクウも罪のないものを次から次へと簡単に殺してしまうフリーザにブチ切れてしまうんですね。その切れてしまった姿が、スーパーサイヤ人なのですよ。それは、悪を決して許さない不動明王の姿そっくりなのです。

不動明王は、仏の教えに従わず、悪の限りを尽くす者に対し、恐ろしい姿で登場し、力尽くで改心させようとします。いわゆる降伏(ごうぶく)させようとするのです。とはいえ、相手の命までは奪いません。仏教ですから殺生はしないんですね。不動明王は、手にした剣で相手を脅し、あるいは痛めつけて、で、持っているロープで縛りあげ、
「仏様の教えを聞くか?。改心して悪さをしないか?。どうなんだ」
と問いかけますな。で、相手が
「ごめんなさい、もう悪いことはしません。許して下さい。これからは、仏様の教えを聞きます」
と言えば、許してくれるのですね。それが不動明王です。不動明王は、憐みの涙を流しながら、悪人を叩き、痛めつけ、縛り上げて改心させるのです。不動明王の怒りの根底には、大いなる慈悲心があるのです。慈悲の心がない怒りは、単なる怒り、我から生じる怒りにすぎません。不動明王の怒りと人間の怒りの違いは、慈悲心に基いた怒りなのかどうか、ということなのです。自分勝手な怒りではないのですよ。

さて、ゴクウです。スーパーサイヤ人となったゴクウ、それまで苦戦していたフリーザに対し、圧倒的な強さを見せつけます。フリーザは、どうあっても勝てませんな。
で、ついに死にそうになってしまいます。で、フリーザ、命乞いをしますな。ふつう、そんな相手を助けはしませんな。相手は、命乞いをした者を平気で殺してしまうような悪人です。いや、命乞いの時さえ与えず、問答無用で命を奪ってきたものです。誰も、そんなものを助けたりはしません。
が、ゴクウは違いますな。そんなフリーザですら、生きるチャンスを与えるんです。決して命は奪わないんですね。が、フリーザは助けてくれたゴクウに攻撃してきますな。愚か者ですねぇ。ホント、愚か者。助けてくれた恩人に襲い掛かるなんて・・・。が、人間はこういうことすることがあるんですよ。
昔々の話です。ある旅人がある村で行き倒れてしまいます。村人は、大変だと思い、助けますな。その旅人、復帰しますと恩返しに、ということで村のために働きますな。せっせと働きます。村には、そこまで働ける若者はいませんから、みんな喜びます。そうこうするうちに、村一の金持ちのお嬢様がその旅人に惚れてしまいますな。で、めでたく結婚。二人は村のため、家のため幸せに過ごしたのだそうだ・・・・というのもつかの間。旅人、欲が出ますな。助けてくれた人々にも辛く当たるようになります。なんせ、村の長老の婿になったわけですから、急に偉くなってしまったのですね。威張りだすわけですよ。メッキがはがれた、ともいいますな。そのうちに、嫁の親が疎ましくなりますな。で、やがて善からぬことを考え、嫁の親を排除しようと・・・・。
まあ、こんな話は、昔話でなくてもあることで、恩を仇で返す、とも言われておりますな。人間は、否、人間の中でも愚かな者は、こうした恩を仇で返すようなこをするんですよ。
で、結局は、不幸な目に遭うんですけどねぇ・・・・。

フリーザも、折角ゴクウに助けてもらうのですが、恩を仇で返そうとしますな。が、いかんせん、力量が違いました。結局は返り討ちですな。しかし、そんな非道なフリーザに対し、殺されても仕方がない、命を落としても仕方がない、むしろ、ふんず蹴られ、グチョグチョにされ、地獄に落ちてウジ虫になれ!と呪いの言葉を吐きかけられても仕方がないフリーザに対し、ゴクウは涙を見せるんですねぇ。憐みの目でフリーザの最後を見るんですな。まさに、慈悲の心、まさに不動明王ですな。
スーパーサイヤ人のゴクウは、姿形も不動明王に似たところがありますな。不動明王は、炎に包まれておりますが(この炎は煩悩を焼き尽くす炎です)、スーパーサイヤ人は金色に輝いています。不動明王は、腕も足も筋肉隆々です。そこは、スーパーサイヤ人も同じですな。
おそらくは・・・否、絶対にスーパーサイヤ人は不動明王をモデルとしているに違いありません。性格的に同じですからね。

さて、五回にわたってドラゴンボールと仏教の関連性を偏見に満ち満ちた内容で色々と語ってきましたが、今回をもちまして終了といたします。長い間、私の偏見と趣味にお付き合いいただきましてありがとうございました。
最後に、これも仏教的だなと思うゴクウの言葉を紹介しておきます。あまり明るい話ではありませんが、印象的ですので・・・。
フリーザと戦っている最中の、ゴクウとフリーザの会話です。
ゴクウ「罪もないものを次から次へと殺しやがって・・・・」
フリーザ「偉そうなことを言いやがって・・・・、お前らサイヤ人は罪のないものを殺さなかったとでもいうのか?」
ゴクウ「だから滅んだ」
そう、ゴクウの生まれた星、サイヤ人は滅んだんです。ゴクウの父も母も、みな滅んだのです。それは、殺戮を繰り返した報いなのです。因果応報ですね。罪のない者の命を奪った結果、自らも滅んでしまったのです。宇宙一強いと誇っていたものであっても、因果の巡りには勝てないのですよ。

人間よ、驕るなかれ。人間の地球に対しての行為は、やがては自らに跳ね返ってくるであろう。
人間よ、驕るなかれ。己の行動の責任は、結局は己が取ることになるのだ。
ドラゴンボールは、そんな仏教の基本的なことを教えてくれている漫画なのですよ。ぜひ、そうした目でもって、ドラゴンボールを読んでみてください。いいや、ドラゴンボールだけではありません。他のコミックも、仏教的な視点で読んでいくと、案外
「おっ、これは・・・」
ということに出くわすものです。コミックと言って、バカにしたり、「あれは子供が読むものだ」と決めつけないでくださいね。特に、この国の大人ぶった大人たち(その内実は愚か者)は、コミックの良さを見直して欲しいですね。
合掌。



ばっくなんばぁ〜3


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