仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ~4

 第九話 神様の話⑤
2、仏教の神様 その2
前回、個人的ご利益をもたらす神々の話をしますと予告したのですが、その前に日本の神々が仏教の神々と同化していく過程をお話ししておきます。そうしないと、なんで日本の神とインドの神が一緒になったの?、ということになりますので・・・。
前回、お話ししたように仏教はシャーマニズム的土着宗教だった日本の神々を支配してしまいます。支配というとおかしいですね。呑み込んでしまった、と言ったほうがいいかもしれません。ま、いずれにせよ、日本の神々は、仏教の中に取り込まれ、仏教の神々の中に入ってしまったのです。それは、日本の神々が仏教の神々や菩薩などにすり替わるという現象をもたらします。たとえば、道端や四つ辻に祀られていた「塞の神」が「お地蔵様」になっていくように・・・・。
こうしたすり替えは、人々の要求にこたえる形で必然的に現れたのだと思います。
もともと日本の宗教は、シャーマニズム的でした。これは、人々の個人的要求にこたえる宗教ですよね。人々が、卑弥呼のようなシャーマンにいろいろ相談に行くわけです。で、お告げをもらうんですね。お告げをもらうのは庶民だけでなく、為政者もいました。その為政者が、シャーマンから神のお告げと称していただいたお告げにしたがって政治を行っていたのです。
が、それは危険ですよね。「神のお告げ」も、本物かどうかはわかりません。シャーマンの都合で答えているのかもしれませんし、あらかじめ為政者に都合の良い答えが用意されているのかもしれません。いずれにせよ、「神のお告げ」で政治を行うのは、危険極まりないですな(もっとも、現代でも似たようなことはあるようですが・・・。どこかの国のアホな政治家は、占い師に相談に行くそうですからねぇ。それじゃあ、国がよくならないのは当たり前のことですな)。
神のお告げによる政治が危険だとわかったからこそ、聖徳太子の民主的な政治が誕生したのですな。そこに仏教が深くかかわっていくのですね。
初め、仏教は鎮護国家を中心とした国のための宗教でした。また、仏教的精神を為政者たちに浸透させることにより、反乱やクーデターを防止しようとしたのですな(ま、それでも反乱やクーデターは起きましたが)。
こうした鎮護国家の宗教は、庶民は関係ないですね、まったく。庶民にとっては国家よりも日々の暮らしが重要なのです。なので、庶民の間では、相変わらずシャーマンが幅を利かせています。
「困ったことがあったら、あの神がかりのオババのところへ相談に行け」
ということですな。あのオババところに行けば、神のお告げがもらえる・・・ということなのです。なので、庶民の間では、まだまだ古来よりのシャーマンが活躍していたのです。

仏教を国の宗教として、国民に浸透させたい為政者にとって、古いお告げ宗教は邪魔なんですな。そうした者たちが固まって、シャーマンの中にかつての卑弥呼のような存在が生まれると、これは危険なわけですよ、国にとって。新しい国家・大和朝廷にしてみれば、クーデターや反乱は怖いのですな。
これを防ぐには、庶民の間に信仰されている古来の神やシャーマンを支配する必要があります。それには、
「日本の古来の神々は仏教の中に入っている、如来や菩薩の下なのだ、仏教の神々と同等なのだ」
という思想を浸透させる必要があるのですな。
しかし、これには随分と時間がかかったようです。最終的には、密教の教えが必要となりました。密教には数多くの神々が存在していますから、日本の古来からの神々を仏教の神々と同じだ、とすることは簡単なことだったわけです。
とはいえ、密教が日本に伝わるのはまだまだ先です。そこで、古来からの神のお告げに頼るのはよくないことだ、それよりも智慧が大事だ、ということを浸透させることになるのですな。そのほうが実用的だ、ということを教えるわけです。
ここで活躍したのがお坊さんですね。それも、お寺の中にいてお経を読むお坊さんではなく、勝手にお坊さんになってしまった私度僧(しどそう・・・許可なくお坊さんになったお坊さんのこと)と呼ばれる旅の坊さんなのです(弘法大師空海・・・お大師さんも初めは私度僧でした)。

私度僧には、中国から流れてきたお坊さんもいたでしょうし、また中国へ密入国したような日本人もいたでしょうし、働くのが嫌で流れ者になった果ての乞食僧(こつじきそう)もいたでしょう。こうした私度僧は、野山で生活しているので、知識が豊富なのですね。また、中国渡りの私度僧は当然ながら最新科学を知っているわけです。
病気も作物の出来も、みんな神のお告げに従っていた民衆にとって、薬草を使い病や怪我を癒し、雲の動きや温度の変化などによって作物の出来を予測し、あるいはいろいろな作物の種を持っていたであろう私度僧は、神のお告げしかしないシャーマンよりも頼りになる存在へとなっていくのですな。しかも、いろいろな仏教の教えの話をしてくれるので、考え方や生き方をも指導してくれたのです。となれば、シャーマン的オババより、私度僧のほうが頼りになるのは間違いないですよね。こうして、昔からいるお告げオババのようなシャーマンは、次第に消えていくのです。私度僧に取って代わられたわけですな。

私度僧の果たした役割はそれだけじゃないですね。民衆がお寺へ足を運ぶ・・・ということも促します。仏教の民衆への浸透ですね。民衆はお寺へ足を運びます。寺に行けば食事の施しを受けることもできますし、祈ることにより心の安心を得ることができるようになります。仏教はこうして民衆の中にも定着していくのですな。
しかし、民衆はそれだけじゃ満足しないんですよ。お寺に足を運んでありがたいお話を聞いても、貧しいのは変わりません。病気は治りません。苦しい暮らしはよくなりません。かろうじて、祈ることや来世の幸せにすがって生きていけるだけです。自分の貧しい家に戻れば、将来が不安なのは変わらないのですな。そうした不安を抱えていると、この先どう生きればいいのか心配になります。あるいは、思うようになってほしい、希望がかなってほしいと願いますな。
お寺の坊さんは、「祈りなさい、祈ればよくなる」とか、「来世を信じよ」とか、「日々の暮らしにおいてこのように生きるのが大事だ」とかしか説かないんですね。具体策がそこにはないんです。民衆にしてみれば、
「そんなことを言われても暮らしはよくならねぇ、貧しいのは変わらねぇ、不安は消えねぇ」
なのです。そういうことは、やはりお告げオババのような身近なシャーマンの役割なのです。私度僧では、物足らなくなってくるんですね。まあ、なんとわがままな生き物なのか、人間は、と思います。

が、これも私度僧が取って代わりますな。そんなころには、密教の断片が日本に伝わってきております。いわゆる「雑密(ぞうみつ)」と呼ばれるしっかりした教えを伴わない、祈願を中心とした密教が伝わっていたのです。しかも、それを体得していたのは、お寺にいるお坊さんではなく、私度僧だったのですね。新しいタイプの私度僧が登場してくるのです。
そうした雑密を会得していた私度僧は、不思議な儀式によって、庶民の望みをかなえてくれますな。また、先祖が祈っていた神様なども否定せず、お参りしていいと説きますな。むしろ、先祖が守ってきた神ならば大事にせよ、という。お告げオババも否定しませんな。否定しないどころか、仲間になって新しい拝み方などを教えたりもしますな。
「そもそもその神は、仏教でいうところの○○の神と同じなのだ。だから拝んでいいし、これからは、こういう呪文を唱えるといい」
などと、真言を教えたりもします。真言などという呪文の言葉は、初めて聞く言葉だったでしょうから、お告げオババも民衆も驚きますな。しかも、霊験あらたか。あっという間に、密教系私度僧の評判は広まりますな。しかも、それは同時に、日本の神々は、仏教の発祥地である天竺の神々と同じ神なのだ、名前が違うだけなのだ、という考え方も広まっていきますな。日本の神様も仏様をお守りしている神様と同じなんだべぇ・・・というわけですね。神様だけじゃない、仏様や菩薩様が変身して現れた姿なんだ、という話も広まっていきますな。
ちなみに、お大師さんも、京の都の大学での授業があまりにもバカバカしくなって、時折山に登っていたころ、とある私度僧に出会うんですな。で、その私度僧から新しい仏教を教えてもらうんです。で、そちらにのめり込んでしまい、大学を辞めてしまいますな。で、自分も私度僧となり、秘法を行いながら山野を旅するようになるんですね。

一方、朝廷側もなかなかうまくいかない政治にイライラし始めますな。奈良の僧侶たちがいくら祈っても、疫病は流行るし、謀反を起こすものは絶えない。挙句の果てには僧侶の中から謀反人が出る始末。そんなこんなで、遷都をします。新しい都を造って気分転換しよう、というわけですな。で、遷都が終わり、新しい都で新しい政治をしようとして、いろいろ模索していた天皇の耳にも密教の噂が入ってきます。平安初期ですね。今までの鎮護国家よりも、もっと強力な鎮護国家の法を持った新しい仏教・・・密教が中国では大流行しており、国が繁栄しているという話を聞くのですね。そうなれば、天皇も密教を欲しますな。そうした社会状況の時に中国から最新の教えである密教を持ち帰ったのがお大師さんだったのですね。
お大師さんの持ち帰った密教は完璧でした。今までの日本の仏教はもちろんのこと、土着の宗教や日本古来の神々をも呑み込んでしまう教えを持っていたんですね。いや、ただ呑み込んでしまうだけでなく、密教は呑み込んだ後、すべてを密教化して吐き出してしまったのです。
もともと、日本に仏教が伝わったころ、仏教は日本の神々を従えてしまいました。しかし、それは文字通り従えたのですね。仏教が上で日本の神々は下、という位置付けをしてしまったのです。ですから、日本古来の神を信仰していた者にとってみれば、仏教は敵ですね。支配者であり、仲間ではないわけです。仕方がなく従ってやっている、という立場ですよね、日本の神々にしてみれば。
ところが、密教は違います。従えるのではなく、仲間になるんですな。たとえば、仏教の神々より下とされていた大国主命も仏教の神である大黒天と同じなんだ、位置づけるんです。そうなると、今まで低く見られていた大国主命も大黒天と同じ立場まで上がってくるわけです。こんな具合に・・・。
「大国主命さんってさぁ、我々の密教からすると、大黒天と同じなんじゃない?。いや、同じだよね。字も似てるしさ。大国も読み方を変えればダイコクだしね。今後はさぁ、大黒天と名乗ったらどう?。大国主命は今まで忘れられていたけど、大黒天となれば復活できるよ」
「えっ、いいんですか?。大国主命なんですけど、大黒天って名乗っていいんですか?。今まで仏教に支配されて・・・まあ、負けちゃったんですけどね・・・冷や飯くらいだったんですよぉ。もし、大黒天様と一緒になれるのなら、ありがたいなぁ」
「いいでしょ。だって、似たような名前だし。まあ、働きも同じようだしね。あ、ちなみにね、大黒天は昔は破壊の神だったんだけどね。仏教の教えを聞いて、生産の神になったの。大国主命さんもさぁ、これからは生産の神になればいいでしょ。もともと、そういう素質もあったんだし。そうだねぇ、米俵の上に載ってさ、打ち出の小づちなんか持って、豊穣の神となればいいでしょ。大黒天に生まれ変わればいいんだよ」
というわけで、大国主命は大黒天へと変身したのですな(神々の間でこのような会話があったかどうかは定かではありませんが)。

密教は、このように日本の神々とインドの神々をすり替えていくんですね。すり替えというより、同化させていくんですな。あるいは、日本の神は仏教の如来が変化した姿だ、という説を広めるんですね。日本の神の本体は、如来である、という思想ですな。
たとえば、有名なのは天照大神は大日如来の変化身とか、八幡様は阿弥陀如来だ、とかね。八幡様は阿弥陀如来の変化身で、菩薩様である、などという話も流れ、これは定着していますな。なので、八幡様は八幡大菩薩ともいいますな。もとは、製鉄の神様なんですけどね。
さて、このように同化してしまった神はほかにもいますね。お稲荷さんなどは典型的ですね。もとの神すら忘れ去られています。稲荷明神は、もともと稲の神で、男神・・・おじいさんの姿・・・だったようです。弘法大師御絵伝(弘法大師の一代記の絵巻物)に、稲荷明神と仲良くするお大師さんの姿が登場しますが、この時に描かれている稲荷明神は男神ですね。翁姿です。それが、いつの間にやらダキニ天という女の女神にすり替わっていますな。このダキニ天、もともとは魔神ですな。人肉を食らう魔物の神だったんですね。それがなぜか稲の収穫の神となってますな。
取って代わったわけではなく、もともと日本の神様のような顔をしているのインドの神もいますな。鬼子母神などよい例ですね。鬼子母神は、もとはカーリーティーという人間の子供を食う魔物です。
平安時代から江戸初期あたりまでの長い時間をかけて仏教の神々は、日本の神々とすり替わったり、同化したり、取って代わったり、もともと日本の神にいたような顔をしたりして定着していきますな。でもって、インド伝来の神様も日本古来の神様も、同じ神様だからといってみんな鳥居を設けるんですな。そうなると、インドから来た神様も日本の古来の神様も皆同じですな。ごっちゃ混ぜ、です。人々も、どなたが日本古来の神でどなたがインドの神なのか、そんなことは気にしなくなりますな。それに、密教によれば、もともとは同じだということですから、まあいいか、なのですね。
こうして、日本古来の神も仏教の神も境がなくなったわけです。

ま、明治の廃仏毀釈の時に、多少影響を受けまして、仏教系神社は神道系神社へと脱皮したところもありますけどね。本来は、お寺とともにあった神社も、お寺を切り離して神社だけになった、という場合もあったようですね。あるいは、お坊さんと神主さん混在していた神社もあったのですが、そういう神社はお坊さんを排除しましたな。また、そのような神社は、日本古来の神を前面に祀るようにしたようです。弁天様の神社がこのような例に当たりますね。
たとえば、江の島神社は、密教の僧であった文覚上人が弁財天を祀った神社です。同時に、海の神である「辺津宮」も祀っていますな。本来は、弁財天を祀っていたのですから、お坊さんがお経をあげるのが当然なのですが(弁天様は密教系寺院が祀ります。弁天様特有の作法もあります)、ご存じのとおりあそこは神主さんが管理をしていますな。お坊さんじゃありません。このような弁天様を祀った神社はたくさんありますね。
逆に豊川稲荷は、神社の形式をとっていますが、管理しているのはお坊さんですな。稲荷神=ダキニ天も密教系の神様で、特殊な作法があります。本来は、密教のお坊さんがお経をあげ、特殊な作法をするものです。豊川稲荷はそれを継承していますが、ほかの稲荷神社は神主さんになっていますね。
このような混乱・・・とまでは言いませんが、入れ違いのような現象が起きたのは、廃仏毀釈という明治政府の行った馬鹿げた政策によるものですね。余計なことをしてくれたものです。

さて、以上のような経過で、日本の神様と仏教の神様は、かかわりを持ってきたのですな。ということで、次回こそ神様別ご利益のお話をいたします。


第九話 神様の話⑥
2、仏教の神様 その3
今回は、前回のお約束通りに、仏教の神様別ご利益についてお話しいたします。

①大黒天
日本の大黒天は、インドの大黒天・・・マハーカーラ・・・と、日本の古来からいらっしゃる神「大国主命」と重なった神様です。融合した、と言ったほうがいいですかねぇ。ですので、その性格というか性質は、両方を兼ね備えています。
そもそもインドの神であったマハーカーラは、破壊の神です。マハーカーラとは、「大変、黒い」という意味です。つまりは、暗黒で真っ黒な神なんですね。黒い、暗黒というのは、恐怖にも通じます。つまり、マハーカーラは、大いなる黒い神として、恐れられていたわけです。まあ、いわば魔神ですね。魔物系神と言ったほうがわかりやすいでしょうか。
で、そのマハーカーラは破壊の神でした。すべてを破壊する、荒ぶれる神だったのですが、それが仏教に入ってきますと、破壊だけでなく再生の神となります。破壊と再生ですね。で、次第に破壊の属性は無くなり、再生から生産へと変化していきます。こうして、仏教のマハーカーラ神は、生産の神と生まれ変わったんですね。日本に伝わったときは、マハーカーラをそのまま翻訳して「大黒」としました。で、天部の神なので「大黒天」という名前で日本に伝わったのです。
一方、大国主命は、稲の神様ですね。農産物の生産の神です。また、日本の出雲の国の統治者でもありました。出雲の国は、当時の日本を代表する大国だったので、いわば日本の代表でもあったわけです。まあ、しかし、国譲りがあり、仏教が日本に伝わったころには日本の代表は降りています。一神様ですな。農作物の生産の神として(特に稲ですね)信仰されていました。
大黒天は生産の神、大国主命も生産の神、どちらも読み方は「ダイコク」と読めます。で、両者は融合します。そして新しい、日本独自の大黒天が生まれますな。しかし、融合しても、農作物生産の神としての信仰は変わりません。大黒天のご利益は、生産であります。特に農作物ですね。また、米の神でもあります。ちなみに打ち出の小づちで金銀が生まれる、小判が振り出される、というのは、あとで作られたお話です。打ち出の小づちは別のめでたい道具だったのですが、大黒さんに持たせちゃえ、ってことで、いつの間にか大黒天のアイテムになってしまったようですね。打ち出の小づちで大判小判・・・は、後付けのお話ですな。
姿かたちは、俵の上に乗って、打ち出の小づちを持ち、大きな福袋を肩にかけ、頭巾をかぶっている、という姿が有名ですね。これは、どちらかというと大国主命のスタイルですな。二つの俵の上に座って真っ黒な姿をしている、というのは、融合したスタイルですな。元の大黒天は、恐ろしい姿かたちをしていますが、それは日本では見られません。
そうそう、天台宗で祀る三面大黒などは、真っ黒でちょっと恐ろしい顔をしていますな。正面が大黒さんの顔で、確か向かって右側が毘沙門天、左側が弁財天だったと思います。ひょっとしたら左右反対かもしれません。なにぶん、真言宗では三面大黒さんは祀らないので・・・・。ま、三面大黒さんは、恐ろしげな顔をしていますが、性質は怖くはありません。この三面大黒さんは、大黒さんのさらに融合型ですね。大黒天と毘沙門天と弁財天を融合させたものです。めでたい神を合体させてしまったんですね。真言宗の場合は、融合せず、三体で祀ります。
さて、その祀る場所ですが、これはもう決まっています。台所です。今でいえばキッチンですな。昔は、台所は窯でした。クドといいますな。薪で火を焚いて食事を作ったのですな。薪を焚くので、台所は煤で真っ黒です。真っ黒でしかも米を扱う場所が台所ですな。となれば、ここに祀る神は、大黒天以外ないでしょう。真っ黒で、農作物の生産の神、稲の神である大黒天はうってつけの場所ですよね。昔から、台所、クドには大黒天を祀ったのですな。それは、食べることに困らないよう、お米が尽きないように、という祈りこめて祀っていたのですな。
ということで、大黒天さんのご利益は、食べることに困らないようにしてくださる、というものです。祀る場所は、台所、ですな。
ちなみに、密教では破壊神としての大黒天の作法がないわけではありません。しかし、これはいわゆる邪法にあたりますので、やらない方がいいですね。知らないに越したことはありません。呪いは自分にも帰ってきますしね。

②稲荷神
お稲荷さん、という名称で親しまれていますが、この稲荷神も融合タイプです。
日本の古くから祀られている稲荷神は、翁の姿だったようです。稲の神ですね。稲が成る→いねなる→いなり・・・となったという説が有力ですね。つまり、稲荷明神は、稲が成ることをご利益としている神だったわけです。
一方、日本の稲荷明神と融合して、その名前を乗っ取ってしまったのがダキニ天です。実はこのダキニ天、なぜ稲荷明神と融合してしまったのか、よくわかりません。性質は全く違います。ダキニ天は魔神そのもの、いや、魔物ですな。インドの場合、魔物であっても、神として祀ります。普通は、魔物は悪魔として忌み嫌うものですが、インドは違うんですね。魔物であろうと、悪魔であろうと強いものは神なんですな。特別な存在なわけです。ダキニ天もそれにあたります。
そもそもダキニ天は、人の肝を食う魔物でした。生き胆が大好物なんですな。人の生き胆、もしくは新鮮な肝をダキニ天にお供えすれば、どんな願いも叶えてくれる・・・のです。まあ、特に呪い系ですけどね。あいつを殺してほしい、呪ってほしい、というものですな。そのほかには、大金持ちになりたい、出世したい、統治者になりたい、王になりたい・・・など、ドロドロの欲を叶えてくれるのが、ダキニ天だったわけです。ただし、それには人の生き胆、生きていなくてもいいけど新鮮な肝・・・肝臓ですな・・・が必要なのです。大金持ちになりたければ、大量の肝臓が必要なわけですな。ご利益は、お供え物の肝臓の量と質によります。
この恐ろしいダキニ天、ジャッカルに乗っている女神です。女性の神なんですな。性格は気まぐれでわがまま。気位が高いですな。高慢ちきな女神なんです。まあ、性格の悪い、威張った、わがままで気まぐれな美人、といったところでしょうか。
この稲荷明神とダキニ天が日本では融合してしまっています。融合と言うよりは乗っ取りですな。今、日本でお稲荷さんと言えば、狐に乗った女神がその姿になっています。これは、ジャッカルに乗ったダキニ天の姿ですね。元の翁姿の稲荷明神は消えてしまいました。まさに、ダキニ天に食われてしまった・・・・のですな。いやはや、女は恐ろしい・・・。
お稲荷さん、そもそもは稲の豊作の神だったのですが、ダキニ天の性質が入ったため、ご利益が増えますな。金持ちになる、商売繁盛、出世などが増えてきます。出世稲荷などいうお稲荷さんも出てきますな。これは元はダキニ天のご利益ですね。で、生き胆の代わりに油揚げをお供えするようになりました。これは、狐が油揚げを好む、という伝承から生まれたらしいですが、根拠はよくわかっていません。実際、狐って油揚げを食べますか?。食べないでしょう。油は舐めるかもしれません。しかし、油を嘗めるのは猫ですよね。これは、昔の行燈の油は魚油を使っていたから猫が嘗めに来た、ということらしいですな。キツネも油をなめるのですかねぇ。
一説によると、お寿司の稲荷寿司は稲の俵の形をまねているということで、その稲荷寿司に使うアゲをお稲荷さんにお供えしたところから、油揚げを供える習慣が始まったらしいとか・・・。
まあ、本当にご利益がほしいなら、人間の生き胆が一番いいとは思いますが、これは手に入りませんからね。それはできませんな。

そうそう、これも伝説ですが、某TV局でやってます平清盛(私は見ていません。そのTV局が大嫌いだからです)ですが、あの清盛が天下を取ったのはダキニ天のお陰だそうです。ダキニ天のご利益なんですな。
清盛は、若い時分、どうしようもないダメ男だったそうです。うだつの上がらない、何をやっても裏目に出る、運のない男だったんだそうです。野心ばかりが先走り、プライドが高かったせいでもあるんですけどね。そういう者は、出世しませんし、嫌われますからな。
若き日の清盛君、ある時、高尾山(東京都の高尾山です。ミシュランガイドにも掲載された高尾山さんですな)をぶらぶらと登っておりますと、天狗にあいますな。で、その天狗が言います。
「お前、天下を取りたいという野心でいっぱいだな。だが、お前には無理だ」
まあ、心を見抜かれたうえに、才能がないことも見抜かれてしまったのですな。清盛君、当然腐ります。「チェッ、クッソ」てなもんです。天狗はさらに言葉続けますな。
「ふん、面白い、そんなに出世がしたいのか?。ほう、男に生まれたからには・・・か。才能がなくても野心ばかりは天下一だな、わはははは。お前のその願い、叶えられないこともないぞ」
いわゆる悪魔の誘惑ですな。清盛君、がぜん興味がわきます。「天下が取れるのか、教えてくれ、その方法を!」と天狗に迫りますな。天狗は答えます。
「ダキニの法をせよ」
と・・・・。これは、悪魔の法なんですよ。ダキニ天と契約を交わすのです。その契約とは、
「お前が天下を取ったら、お前の生き胆をいただく」
というものです。自分の願いが叶ったら、自分の生き胆をダキニ天に差し出すのです。それがダキニ天との契約なのですな。
清盛さん、天下を取りますな。ダキニ天の法をしたのでしょう。なので、晩年の清盛、やたらめったら仏法を頼りますな。金銀で写経したお経を奉納したり(厳島神社の平家納経)、高野山には巨大な曼荼羅(通称血曼荼羅。清盛の額を割って血をだし、朱に混ぜて色が塗ってあるので血曼荼羅と呼ばれいる)を奉納したり、あちこちで御祈祷したりします。しかし、原因不明の高熱で倒れますな。自分の寝床の周囲に結界を張り、御祈祷させますが、効果はなし。そりゃそうです。ダキニ天との約束がありますからね。清盛の晩年は、多くの人間を殺したがための怨霊に苦しめられているのではありません。ダキニ天が生き胆を取りに来ているから苦しんだのですな。素直に渡してしまえば苦しまなくても済むのですが、素直に渡したら、死んでしまいますからね。で、清盛は抵抗したわけですな。ダキニ天と言えども、たかが天部。その上を行く佛・菩薩に祈れば、何とか助かるのではないか、と考えたわけです。しかし、契約は契約。約束は約束ですな。たとえ清盛が地獄へ落ちようとも、肝を取りに行きますな。
これは、とある説、ですので、真実かどうかは知りません。知りませんが、もともとのお稲荷さんの性質を考えれば、あながちウソではないと思います。私は、ひそかにこの説を信じていますけどね・・・・。

さて、お稲荷さんのご利益ですが、稲の豊作がその代表ですが、今では商売繁盛、出世、などもそのご利益になっています。しかし、なにぶん気まぐれで我が儘な神様なので、取り扱いは注意が必要です。家に祀ったりしないようにしてくださいね。江戸時代や戦前に、家に稲荷社を祀ることが流行った時期があったそうですが、新たに祀ることはやめた方がいいでしょう。ご利益は確かにありますが、その反動もあります。お稲荷さんの場合、ダキニ天の性質が未だに残っていますので・・・というかダキニ天そのものですが・・・、扱いが難しいのです。
まあ、信仰は自由ですが、くれぐれもご注意を・・・。

③閻魔天
閻魔さんは、上がったり下がったりの天界の神様です。変化が激しいですな。
もともとは、一人の青年でした。で、早くに亡くなります。インド神話では、人類の死者第一号が閻魔さんなんですね。インドでの名前はヤマです。これを音写して閻魔となりました。
ヤマは、死の世界を彷徨ううちに楽園を見つけます。これが後の閻魔天(ヤマ天)と呼ばれる天界になります。その後、閻魔さんに続いて死者が次々とヤマ天にやってきます。初めのうちは、いい人ばかりだったんですが、そのうちに悪い連中もやってくるようになりました。その対処のために地獄が造られます。さらに、悪人のその罪に応じて、地獄も八種類になり、地獄のほかに餓鬼の世界、畜生の世界が造られます。そんなころ、帝釈天と阿修羅との戦いがあり、阿修羅が敗退し、海底の奥底に鎮められます。そこで阿修羅の世界・・・修羅界・・・が造られます。こうして、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道輪廻の世界が完成するのですね。で、その輪廻を仕切っていたのが、閻魔さんだったのです。なので、閻魔さんは、インド神話ではいわゆる死神に相当する存在だったわけです。
実際、お釈迦様も亡くなりそうな悪人に「もうすぐヤマがやってくる、。お前はこれから死の世界に行き、地獄へと行くのだ」というようなことを言っています。経典にそういう話が出てくるのですね。ほかにも「ヤマはいつでも死へと誘っている」などと、閻魔さんが人間に死を与えるような言い方をしています。法句経にも見られますな。
つまり、閻魔さんは初めは死神役だったんですね。
やがて仏教に閻魔さんが取り込まれますと、閻魔さんの役割が変わってきます。死神ではなく裁判官になるんですね。おなじみの
「うそをついたら舌を抜くぞ!」
と死者に恐ろしい顔で迫る裁判官役ですな。しかし、恐ろしい顔をしていますが、閻魔さんは5番目の裁判官ですな。なぜ5番目になったかというと、優しすぎるからなんですね。閻魔さん、初めは一人で裁判官をやっていたそうですが、死者の
「死にたくありません。まだまだ、やることが・・・どうか助けてください」
と言うような泣き言についつい同情してしまいます。で、死者を生き返らせたりするんですね。さらには、
「地獄は勘弁してください。餓鬼も畜生も修羅も勘弁してください。できれば天界へ・・・。もし天界に行かせてもらえばもう悪さはしません。しっかり反省し、今度は立派な人生を歩みます」
なんていう罪深い死者の話を信じて、悪人を天界へ行かせてしまったんですな。そうなると、天界は犯罪者が増えてしまい、大混乱となります。ま、閻魔さん、ダメ裁判官だったわけです。で、後ろに下げられ、怖い顔をしているようにほかの裁判官からも、仏様からも注意を受けているんですな。
そもそも、死神だったのですから、死者に優しいのはおかしいではないか、と思われるでしょうが、本来は閻魔さん好青年だったんですよ。欲のない、菩薩のような青年だったんです。だからこそ、楽園を見つけることができたのです。たまたま、死者第一号だったということだけで、死神役をやらされていたんですね。閻魔さん、人がいいから頼まれると否とは言えなかったのでしょう。本当は、心優しい、好青年が閻魔大王なんですよ。あの恐ろしげな顔は演技ですな。髭は付け髭か神通力で変身しているのでしょう。一説には、閻魔大王はお地蔵様の分身とも言われていますな。お地蔵様は、お釈迦様が仏陀となる遥か以前から菩薩として分身をあちこちに派遣していましたから、閻魔大王=お地蔵様説は有り得ますな。
さて、現在、閻魔堂に鎮座まします閻魔大王には何を祈ればいいのか。それは決まってますな。
「罪を許してください。わかってはいるんです。やっちゃいけないことはわかっているんですが・・・。心弱き人間ですから、ついついやってしまうんですよ。日々、戒めに従って生活しなきゃいけないんですが、なにぶん誘惑も多くて・・・・。どうか、日々犯してしまう罪を許してください」
と、日頃知らず知らずのうちに、あるいは悪いとわかってて犯してしまう罪を閻魔さんの前で懺悔することですね。ただし、許してもらえるかどうかは、死んでみなきゃわかりませんが、生きているうちに閻魔大王と顔見知りになっていくのは、ちょっと有利でしょうな。これが、閻魔大王のご利益ですな。

さてさて、仏教とともにやってきた神様は、まだ他にいらっしゃいます。続きは次回に・・・。


第九話 神様の話⑦
2、仏教の神様 その4
④弁財天・弁才天
「弁天さん」の愛称で知られている神様ですね。弁天さんは、元はインドの河の神サラスバティーです。もともとは、インドの神様ですね。それが仏教に取り入れられたのです。
サラスバティーは、河の神ですから、当然ながら本来は水の神の仲間ですね。水神さんとは親戚関係です。
弁天さんは、河のほとりで美しい姿で楽器を奏でながらその土地の作物の豊穣を願ったり、自分を祀る人々に河の命の恩恵を与える神です。つまり、まずは水を与え、その水によっての作物の実りを与え、また河の生物を与えるのが弁天さんです。ですから、弁天さんを祀る場所は、河のほとりか海や湖のほとり、と決まっているのです。山に祀る場合は、その近くに必ず湖か池、水量の豊富な川があるはずです。弁天さんは水の神の仲間でもあるので、水がないと生きてはいけません。ですから、水辺以外では祀ることができないのです。もし、水がないところで祀るのであれば、池を作らねばなりません。自宅で弁天様を祀りたい、と思うのなら、水槽を用意し、きれいな水でいつも満たしていないといけませんね。なので、弁天さんが祀られている神社は、どこもかしこも海辺であったり、大きな池があったりするのです。
いま、弁天さんが祀られている神社、と言いましたが、なぜか弁天さんが祀られているところは、神社が多いのです。有名な神社は江の島ですよね。
たとえば江の島神社は、鎌倉時代に文覚上人が弁天様をあの地に祀ったそうなのですが、それ以前から海運の神が祀られていたそうです。弁天さんが祀られたのは、あとのことなのですね。つまり、初めに日本古来の海の神や海運の神、水の神が祀られていて、そこに弁天さんが入り込んできた、というわけです。その当時は、当然ながら神仏習合時代ですので、神社と寺が一緒にありました。明治になって廃仏毀釈があり、神社が残され寺が廃止されたのでしょう。その時に、神社に弁天様が引き取られた・・・というのが実情のようですね。まあ、しかし、「弁天さん」の名前の方が有名になってしまっていたので、寺は無くなったのですが「弁天さん」が中心になってしまったわけです。
そうそう、厳島神社は今でも寺が残っていますね。厳島神社の祭神は本当は弁天さんではないのですよ。弁天さんは、厳島神社の裏手にあるお寺の方で祀られているのです。各地にある厳島神社の分社も、本来は弁天さんではないのですが、どこの分社に行っても「弁天さん」となっていますな。「厳島神社の祭神=弁天さん」というイメージは出来上がっています。そう、ここでも、日本古来の神とインド伝来の神との融合が起きているんですね。日本古来の水の神は、弁天さんにその呼称を奪われてしまったわけですな。
ちなみに、琵琶湖の竹生島の弁天さんは神社ではありません。お寺です。真言宗寺院ですね。ここは、初めから弁天さんだけを祀っていたようです。日本古来の水神を祀っていたわけではないようです。一説によると、日本の弁天さんの大元は、この竹生島の弁天さんだそうです。日本で初めて弁天さんを祀った場所が琵琶湖の竹生島だったのです。そこから分身が各地に祀られた・・・のだそうです。つまり、日本各地の弁天さんは、みんな竹生島の弁天さんの分身というか娘・・・にあたるわけですね。

弁天さんは、中国では「宇賀神」と融合しています。宇賀神とは、白蛇の神様ですな。白蛇の神である宇賀神は、金運の神です。ここから、「白蛇を見れば金運がつく」という伝説が生まれたのです。
なぜ、宇賀神と弁天さんが融合したかというと、弁天さんは水の神だけあって、水の増減を支配する龍を支配する役割があるんですな。つまり、龍神さんは弁天さんの配下にあるわけです。簡単に説明しましょう。
神々の世界は、いろいろな組に分かれていると思ってください。たとえば、山組・陸組・水組・空組・・・というように。水組は、水神系の神々が集まって一家をなしています。水神会ですな。トップは水神さんですね。対等な扱いを受けるのが弁天さんです。で、配下に龍神世界を抱えていますな。その下が蛇の軍団です。中国の金運の神である宇賀神は蛇の神ですから龍神の下、になりますね。ですが、中国では宇賀神は格が高い神だったようで、仏教が中国に入り、弁天さんも伝わると、仏教独特の神の融合がおこったのです。弁天さんが宇賀神を飲み込んだのですな。ここで、弁天さんに「金運」のご利益が加えられます。この性質をもって、弁天さんは日本に伝わっています。
日本に伝わった弁天さん、姿形が二通りになっています。本来の河のほとりで楽器を奏でているサラスバティーの姿が琵琶を持った姿ですね。おなじみの姿ですね。こちらは、すらっとした美しい姿です。もう一つは、頭に宇賀神を載せ、鳥居の冠を被り、手は八本で様々な武器を持つ姿です。こちらは、少々大柄な姿です。豊満と言ったほうがいいですかねぇ。こちらの姿は、あまり見せません。多くは、琵琶を抱えた姿ですね。
さて、このような弁天さんですが、そのご利益は、水のご利益・・・豊穣・豊漁だったのですが、そのほかにも芸術的才能を与えるというご利益もありました。これは、河のほとりで楽器を奏でるということに由来しています。そこから、いろいろな才能を与えるというご利益が加味されます。芸術的才能だけではなく、智慧・弁舌・特殊な才能・・・ですね。また、神々の中でも最も美しいと言われているため、美を与えるというご利益もあります。
豊穣・豊漁のご利益、才能を与えるというご利益、宇賀神との融合による金運というご利益から、商売繁盛・事業繁栄・金運向上のご利益も上乗せされました。で、弁天さんそのものも性質により名前を書きかえられるようになったのです。すなわち・・・。
「弁才天」と書くときは、智慧や才能、学業成就、芸術的才能、技能向上といった才能系のご利益を主に担当し、「弁財天」と書くときは、商売繁盛・事業繁栄・金運向上・財運向上を主に担当しますな。ま、財を手に入れるには、運だけではなく才能も必要ですから、「弁財天」の場合は「弁才天」を含むと考えてもいいでしょう。
ちなみに、一説によると弁天さんは梵天さんの奥さんだったことがあるそうです。また、弁天さんには姉がおりまして、その姉は吉祥天なのです。なお、吉祥天は毘沙門天の奥さんでもあります。神々の婚姻関係ですね。
また、弁天さんをカップルでお参りすると、弁天さんがヤキモチを妬いて、そのカップルは別れるという説がありますが、これはウソです。なぜなら、弁天さんが、たかが人間のカップルごときに妬くはずがないからです。たとえ、弁天さんの前でイチャついても、
「そんな男に、よく惚れたねぇ・・・」
「そんな女のどこがいいのかねぇ・・・」
と思う程度でしょう。なので、カップルでお参りに行っても大丈夫です。なぜこのような説が流れたかというと、諸説ありまして、一つには弁天さんがお祀りしてある場所には色町が多くあったそうですな。そうなると、男は男だけで参拝したくなりますな。奥さんや彼女は邪魔なわけですな。それで、とあるお坊さんが「弁天さんは、男だけで参拝すべし。夫婦で参拝すると弁天さんの怒りに触れ別れることとなる」という話を流したとか・・・。
もう一つの説は、別れたいカップルが弁天さんを利用して流したという説ですな。まあ、しかし、この話は、先の話がベースにあったからこそ生まれたのでしょう。
なお、弁天さんにも秘術があります。その秘術をすれば、金運は格段に向上するとか。ただし、一生独身を通さねばなりません。女性の場合は、この秘術をすると自らが弁天様のようになれるそうです。男性の場合は、弁天様のような女性を手に入れることができる・・・ただし婚姻関係ではない・・・のだそうです。
しかし、これには条件が多々あります。その条件を満たしていないと、どれほど秘術しても格段に向上・・・というわけにはいかないでしょう。条件は厳しいですねぇ。ぜひ、挑戦したいというかたは、当方までご相談ください。


⑤吉祥天
吉祥をもたらす女神です。吉祥天さんは、日本の神との融合型ではありません。インド古来の女神です。ただ、インドでもあまりメジャーではないですね。地味系の女神です。どうやら、中国に吉祥天が伝わったっとき、中国では人気があったようです。吉祥を好む中国人気質に合ったようですな。ですので、吉祥天の姿は、中国の貴婦人の姿となっております。一説によると、楊貴妃がモデルとか・・・。
吉祥天は必ずその手に「宝珠」を持っております。これは手放せないですな。この宝珠がなければ吉祥天ではなくなり、ただの貴婦人になってしまいます。この宝珠がミソなんですな。
吉祥天は、この宝珠の力により、人々にラッキーを与えます。吉祥をもたらす幸運の女神なのです。ですので、吉祥天を味方につければ、ことごとくラッキーが起きるのですな。昔流行った漫画の「ラッキーマン」のようですね。
なのですが、それ以外のご利益となると、どうもはっきりとしないんですね。まあ、ラッキーや幸運がもらえればいいじゃないか、ということなのですが、人間は欲が深いですからね、もっと具体的なご利益を求めるものなのですよ。
そのせいか、一時人気があった吉祥天ですが、弁天さんに取って代わられるんです。たとえば、七福神には弁天さんが入っていますが、もともとは吉祥天だったという説もあります。しかし、どうもパッとしないため弁天さんに代わったとか・・・。
弁天さんの姉である吉祥天は、やはりお姉さん気質なのか、しっかり者と言った感じですね。弁天さんは次女らしくはねっ返りというか、ちょっとやんちゃというか、そんなイメージがあります。また、吉祥天は美しいけど清楚、弁天さんはちょっとエロティック・・・というイメージもありますな。
そういえば、日本の古来の神にも有名な姉妹の神がいますね。岩長姫(いわながひめ)と木之花開耶姫(このはなさくやひめ)です。姉の岩長姫は美しくない女神だったのですが、妹の木之花開耶姫は女神一美しい神だったのですな。で、天孫の嫁に二人の姉妹はなるのですが、姉の方は美しくないがために返されてしまいます。まあ、神は美しいものが好きですからねぇ。しかし、そのかわり、岩長姫の持っていた永遠の命のご利益を受け取れなくなりました。このことにより、天孫に寿命ができてしまったのだそうです。ま、それは余談ですが、この妹神の木之花開耶姫は、弁天さんに重なって祀られたりもするようですな。姉の方は、あまり目立たない・・・というか、忘れ去れております。まあ、吉祥天は、弁天さんに次いで美しいですから、岩長姫のような扱いは受けておりませんけどね。
ちょっと地味で、固い感じのする吉祥天は、弁天さんほど人気が出なかったんですな。神は派手なほうが人気があるし、女神となるとちょっとエッチなほうが人気が出るんですねぇ。今でも、固いアイドルは人気が出ませんが、ちょっとエッチな感じがするアイドルは人気が出ますからね。それと同じでしょう。吉祥天、信仰をする者にはラッキーを与えるのですが、自分はあまり目立っておりませんな。しかし、それがアンラッキーであるとは限りません。なぜなら、吉祥天さん、結構充実しているからです。
弁天さんのところにも書きましたが、吉祥天さんは毘沙門天さんの奥さんです。毘沙門天さんは、まあいい男神ですな。イケメン・男前です。しかも、四天王でありながら、特別な働きをしております。毘沙門天さんは、いろいろ使命を帯びていて忙しいのです。働き者ですな。その奥さんが吉祥天です。女性としてみれば、これほどいい環境はないでしょうな。
旦那は働き者で崇められる、自分はちょっと控えめだけど美しく、幸運を与えるという仕事をしている・・・。理想的カップルじゃあないですか。一方、妹の方は梵天さんと夫婦だった時もあるようですが、現在は独身。まあ、独身を謳歌していると言えばいいですが、ちょっと寂しいかなとも思いますな。なので、派手にもなるのかな、と思います。
さて、吉祥天さん、ちょっと地味だけど、ラッキーがほしい、幸運がほしい、という方にはいい女神ですね。また、リア充を求める方もいいと思いますよ。特に女性ですね。リアルが充実したい!と願う女性の方は、吉祥天向きなんじゃないかと思いますねぇ。


⑥歓喜天・聖天
二通りの呼び方がありますが、同じ神様です。しかも、ちょっと特殊な神様です。さらに、秘仏・・・とされることが多く、その姿を人目にさらすことは滅多にありません。多くの場合は、丸い厨子の中に入っております。固く閉ざされた扉の中に・・・。そして、一たび厨子を開けたり、拝み始めたら、それは寿命が尽きるまで止めてはいけません・・・。と言われております。そう、一度、聖天さんを信心したならば、よそへ乗り換えは厳禁なのですよ。そう、聖天さんのご利益を得るには、条件が厳しいのです。
一般の皆さんの場合は、毎日、聖天さんにお参りに行けなくても、いつも心に聖天さんを思っていることが必要です。ほかの神様には決して心を奪われてはいけません。聖天さん一筋じゃないとね。ただし、佛・菩薩・明王をお参りするのは大丈夫です。いけないのは、他の天部をお参りすること。いや、お参りはしてもいいでしょう、しかし、本命は聖天さんのみ、と心得ておくことです。浮気はダメなのですよ。また、願いが叶った場合は、必ずお礼参りに行かねばなりません。これを怠ると、願いが叶う以前の状態以上に悪い状態になってしまいます。願いが叶ったら、必ずお礼参りに行ってくださいね。
僧侶の場合。聖天さんをお祀りするのは密教系寺院だけです。聖天さんの供養作法が難しいからです。密教系寺院・・・真言宗・天台宗・・・の本堂には、必ず壇と呼ばれる机のようなものがあります。普通は四角四面ですね。ですが、聖天さんの場合は、円壇です。丸い形をしています。作法も、浴油という作法がありますし、お供え物は二股大根が最上、とされます。また、拝み初めに条件を付けなかった場合、毎日、聖天さんの作法をしなければいけません。24時間以内に一度は作法をしないと、聖天さんの怒りを買います。もっとも、拝み初めに条件を付ければいいですが・・・。たとえば、一週間に一度の作法をする・・・とか。まあ、作法の回数が減る分だけ、ご利益も減るだけのことですから。僧侶の場合、真剣に作法をしなければいけません。おざなりや、いい加減な気持ちで作法をしていると、たとえ毎日作法をしていても、聖天さんの逆鱗に触れることになります。恐ろしいです。なので、そのあたりの事情をよく知っている密教系の僧侶は、万が一聖天さんの厨子を見つけたとしても、絶対に開けることはしません。開けたが最後、ずーっと拝み続けねばなりませんから。
随分前の話ですが、とある古い寂れたお寺さんの整理を手伝ったことがあるのですが、その時に丸い厨子を見つけました。そこの老住職が
「これは何だろうねぇ」
と差し出してきたのです。その住職、その厨子を開けようとするではありませんか。思わず止めました。開けちゃったら大変ですからね。危なったですよ・・・。
これほど、危険な神が聖天さんなのですが、危険であるからこそ、ご利益も大きいんですね。ま、これはインド的考え方でもあるのですが・・・。
インドは、もともと善い神も祀りますが、悪い神を祀ることが多いのです。前回お話した大黒天もそうだし、ダキニ天もそうですね。ヤマは死神でしたしね。悪い神は、怖いから余計に祀るのですが、もう一つ別の理由に、悪い神は力が大きいから、その大きな力を自分たちのために使ってほしいと願うわけです。いい人より悪い奴の方がとんでもないことをしてくれるでしょ。それと同じなのですな。とんでもない願い事を叶えてもらうには、善神では力不足なんだ、という考え方をするのですよ。なので、インドの神は、破壊神が多いし、魔神系の神が多いんですね。実は、この聖天さんのそもそもの姿も魔神なのですよ。
聖天さん、インドではガネーシャとして民衆の信仰を集めております。ガネーシャとえいば、頭が象の神様ですな。正確には、ガネーシャ=聖天さん、ではありません。が、元は、ガネーシャです。
ガネーシャは、男性の神様です。シヴァ神(ヒンドゥー教の最高神ですね)の息子です。シヴァ神と言えば、破壊と再生の神ですが、そのほかに悪いことは何でもするという悪神でもあります。暴れん坊のやんちゃ神ですな。ドロドロの欲望が大好きという神でもあります。そのシヴァ神にはウマという妃がおります。この妃もシヴァ神に負けず劣らず欲望丸出しの妃なのです。贅沢が大好き、エッチなことが大好きという神ですな(ここがまたインドらしいところで・・・)。で、このシヴァ神とウマ妃、あまりにもその行動がひどすぎ、目に余るものがある・・・ということで、大日如来が「これはいかん、これではダメだ」とシヴァ神たちの存在を憂いはじめたのですな。そこで、大日如来、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)にシヴァ神夫妻の指導を命じます。降三世明王、命じられた通りにシヴァ神夫妻を降伏(ごうぶく)しますな。なので、降三世明王の像や絵画は、必ずシヴァ神夫妻を踏みつけております。で、シヴァ神夫妻は心を入れ替え、
「これからは、生産の神として、大日如来に従います」
と誓います。こうして、ヒンドゥーの悪神であったシヴァ神夫妻は、大自在天と名を改め、密教一派に入るのですな。それ以来、大自在天は大人しくなっています。大自在天法を極めれば、未来予告もできるようになりますな(弘法大師の師である恵果阿闍梨が得意でした)。
このシヴァ神夫妻にお子さんがいます。お坊ちゃんですな。名前をガネーシャと言います。これが何と、すごいワルなんですな。シヴァ神以上にワルなんです。改心する前のシヴァ神の息子なので、その悪さは半端ないものなんですな。親のシヴァ神夫妻も手を焼くほどのやんちゃぶり。途方もないワルで、ヴィナーヤカという悪魔集団を結成するくらいですな。まあ、今でいう暴走族のヘッドなわけです。それもただ走るだけの暴走族じゃあないですな。殺す、盗む、犯す、いたぶる・・・悪いことは何でもするという暴走集団です。シヴァ神もほとほと困っていました。
ある日のこと、シヴァ神、ガネーシャを呼びつけますな。このころのシヴァ神は、改心していますから、息子のことが心配なのですな。大日如来様に怒られて、神の座から落とされたら大変だ、とも思っています。なので、息子を改心したいわけですな。しかし、そんな打算的な考えで息子を改心しようとしてもダメですな。それはいつの世の時代も同じで、世間体が悪いから、親の立場がなくなるから悪行を止めなさいっていうのは、子供は聞き入れません。それは、子供のことを心配した言葉じゃなくて、親の保身から出た言葉ですからね。お子さんは、そんなことはすぐに見抜くのです。ガネーシャも同じ。自分のことを心から心配して注意してくれているわけじゃないとわかっていますから、シヴァ神の前でもふてくされた態度で立ってますな。シヴァ神、怒ります。
「お前、いい加減に悪魔集団なんぞ、やめんか。もう少し大人しくしていろ。今のままでは・・・」
「うるせぃ、勝手なこと言ってんじゃねぇよ。お前だってついこの間まで悪いことばかりしてたじゃねぇーか!」
痛いところを突きますな。しかし、こうした痛いところは、突いちゃあいけませんね。逆鱗に触れます。シヴァ神、ついに堪忍袋の緒が切れますな。大剣を振りかざし、ガネーシャの首をはねてしまいます。で、
「適当に頭をつけておけ」
「最初に出会った生き物の頭をつけておけ」
などと言ったとか。あるいは、はねられた首は遠くへ飛んで行ってしまったので、あわてた母親のウマがそばにいた象の頭を切ってガネーシャの身体につけたとか・・・。諸説あります。ま、いずれにせよ、ガネーシャは、首をはねられた後、象の頭をくっつけられてしまったのです。こうして、象頭人身の姿が出来上がったんですな(頭をはねられてもガネーシャは生きていたのです。いや、それどころか、記憶等も残っています。ということは、頭に脳はなかった?のですかねぇ。などと考えてしまうと、話が進まないのでそれは問わないことにしましょう。まあ、アンパンマンのようだと思っていただければいいかなと・・・)。
ガネーシャ、これはショックでした。頭が象です。そりゃあショックでしょう。で、引きこもりがちになってしまいますな。「こんな姿じゃあ、どこへも行けない!」ってことですな。もうすっかり落ち込んでしまいます(ガネーシャの姿を見て「かわいい~」と女性の方は言いますが、あれはデフォルメであって本来のガネーシャは本物の象の頭に人間の身体ですから。それはそれは不気味なんですよ)。
その落ち込みようはひどく、ある日のこと、ガネーシャ、自殺をしようとシヴァ神の世界にある湖のほとりにたたずんでいますな。湖に映る己の醜い姿を見つめますな。涙がハラハラと落ちます。
「こんな姿じゃあ、だれも相手にしてくれない。いっそ死んでしまおう・・・」
ガネーシャ、湖に入っていきますな。そこへ、
「ちょっと待って。ガネーシャ様、待ってください」
と止める声が・・・。その声にガネーシャが振り向くと、なんとそこには、自分と瓜二つの女性が立っていたのですな。女性とわかったのは、身体が女性だったからです。頭は自分と同じ象さんですな。ガネーシャは、もうびっくり。自分と同じ姿をしている者が、この世に自分以外にいるなんて!。ガネーシャ、駆け寄ります。
「あ、あなたは・・・」
「私もあなたと同じ・・・。この姿に苦しんでいます・・・・」
そうして、二人は湖のほとりで抱き合いますな。で、愛し合います。素敵ですな。
これを境にガネーシャは、改心しますな。父親に言います。
「私はよき伴侶に出会えた。これも父のお陰です。このような姿になったからこそ、素晴らしい妻をめとることができたのです。今日からは、私は、人々のために尽くそうと思います。私を心より信じ願う者がいたならば、私はその者の願いを叶えましょう。私を心より信じ願うものがあれば、私はその者を守りましょう」
こうしてガネーシャも無事に密教一派に所属するようになり、聖天さん(歓喜天)となったのですな。
なお、このときガネーシャを救ったのは、観音様の化身と言われております。あるいは、観音様の命を受けた天女なのかもしれません。いずれにせよ、ガネーシャを救ったのは、美しい愛だったのですよ。
ですので、ガネーシャ・・・いや、聖天さんは、その姿は、象頭人身の二人が抱擁している姿になっています。二人で一体ですね。
さて、そのご利益ですが、もともと破壊をしていた神なので、破壊を止めて生産の神となります。また、愛で救われたので、愛を与える神にもなります。ですから、そのご利益は、生産である商売繁盛、良縁成就、子宝・・・ということですね。
なお、このような経過をたどって善神になったので、多少性格的に問題があります。それが、裏切りを許さない、ということなのでしょう。一度信仰を始めたら、決して裏切ってはいけません。それだけは注意してくださいね。

余談ばかりが多くなって、数がこなせませんでした。インドの神様の話は、結構面白いですからねぇ。ついつい話がそれてしまいます。ご了承ください。では、続きは次回に。


第九話 神様の話⑧
⑦鬼子母神
「おそれ入谷の鬼子母神」で有名な「鬼子母神」です。きしもじん、と読みます。「おそれ入谷の・・・」で有名な、と言いましたが、若い方は知らないんですよ、この名句「おそれ入谷の鬼子母神」。東京は入谷の鬼子母神は有名なお寺ですな。寺名は真源寺と言います。法華宗ですね。「おそれ入谷の鬼子母神」は江戸時代に流行った駄洒落ですね。余談ですが、このような駄洒落はほかにも「その手は桑名の焼き蛤(その手はくわないよ)」なんてものが有名ですね。
さて、鬼子母神です。仏教の天部なのですが、「天」が最後につかずに「神」がついています。珍しいタイプですね。普通、「神」が付く場合は、日本の古来の神様なのですが、この鬼子母神だけは仏教の神、インド出身の神なのです。「鬼子母天」と言いにくかったから「鬼子母神」になったのかもしれません。
この鬼子母神、もとは夜叉の仲間です。本名は「ハーリーティー(訶利帝母かりていも)」といいます。夜叉族ですな。夜叉というのは、本来人間を食らう悪魔です。悪鬼とか羅刹とかの仲間ですね。人を襲い人肉を食べる魔物です。インドは、魔物でも信仰の対象になります。魔神ですね。夜叉や羅刹は、魔神・鬼神として祀られてもいたのです。鬼子母神ことハーリーティーも魔神として信仰の対象ではありました。このハーリーティーは、子供を食らうのが大好きで、人々は我が子が取られないようにと、ハーリーティーに祈ったりしたのですな。
しかし、あまりにもハーリーティーはひどかったんですな。人々の祈りなんて全く無視して、子供をさらいまくって食いまくっていたのです。人々は、お釈迦様に「何とかして欲しい、助けてください。あの恐ろしいハーリーティーを抑えられるのはお釈迦様しかいません!」と助けを求めてきたのですな。お釈迦様、「わかりました。任せなさい」と言いますと、ふと姿を消しますな。神通力でハーリーティーの家に飛んで行きます。ハーリーティーには、子供が500人(他説に千人とも1万人ともあります)いました。人の子を食らう魔神と言えども、自分の子はかわいいのですな。特に末っ子のビンカーラ(氷羯羅天のこと)は溺愛しておりました。お釈迦様は、ハーリーティーの家に子供だけしかいないと確認すると、神通力でビンカーラを隠してしまいますな。で、精舎に戻ります。
精舎でいつものように瞑想をしているお釈迦様のもとにハーリーティーが駆け込んできますな。
「お釈迦様、お釈迦様、助けて下さい。私の子のビンカーラが行方不明です。どこを探してもおりません。きっと悪いヤツにさらわれたのです。あぁ、ビンカーラにもしものことがあったら、私はどうやって生きていけばいいのでしょうか?。あぁ、何とかしてください。お釈迦様、助けてください」
必死の形相で助けを求めるハーリーティーに、お釈迦様ちょっと冷たく言い放ちますな。
「何をあわてているのだ。えっ?、子供が一人いなくなった?。いいではないか、汝には子供が500人もいるであろう。500人もいるのだから、一人くらいいなくなっても問題ないであろう」
「何をおっしゃるお釈迦様!。子供は何人いようともとても大切なんですよ。500人いようが、千人いようが、1万人いようが、子供はみんな平等にかわいいものです。その中の一人でもいなくなれば、親として悲しむのは当然でしょう」
涙やら鼻水やらを垂らしながら、子供はかわいいのだと必死に訴えますな。
「あぁ、助けてください、お釈迦様~!」
「おいおい、そうは言うがな、汝は、人間の子供をさらって食っているではないか。人間の子供はさらっていいのか?。親は悲しまないか?。人間の場合は、子供は一人しかいない場合もあるぞ。子だくさんの家でも数人の子供しかいないぞ。それを汝はさらっているのだぞ。自分の子は、500人もいるのに一人いなくなったら大騒ぎするのか?。それっておかしいのではないか?。あまりにも自分勝手じゃないか?」
お釈迦様、徹底的に追求しますな。ハーリーティー、急にしおれます。
「えっ、あぁ、はい、まあ・・・・それを言われると・・・・。確かに・・・・」
「ハーリーティーよ、人でも汝ら魔神でも子供は大切なものだ。汝は、その大切な子供をさらって食っているのだよ。自分の子供は大切だけど、人間の子供はどうでもいいというのか?。どうなのだ、ハーリーティーよ」
お釈迦様の厳しい言葉に、ハーリーティーがっくり肩を落としますな。
「申し訳ございません。私は、今までひどいことをしていました。もう二度と人間の子供をさらうことはしません。いや、人を食らうこともやめます。私の悪業の報いで、ビンカーラがいなくなってしまったのでしょう。私が悪いのです」
「もう二度と人間の子供をさらって食べないか?」
「はい、もう二度と人間の子供をさらって食べるようなことはしません」
このやり取りを3回繰り返しますな。そこでようやくお釈迦様、優しい顔つきになります。そして
「よし、では汝の子供を返してあげよう」
と言って、神通力で隠していたビンカーラをハーリーティーに返しますな。感激の親子対面です。二人はひしと抱き合って喜びますな。お釈迦様、ハーリーティーにきつく言いますな。
「善いかハーリーティー、これより汝は、子供を守る神として生きよ。善神に生まれ変わるのだ。よいな」
ハーリーティー、二つ返事ですな。こうして、鬼神であったハーリーティーは善神となったのです。これ以来、ハーリーティーは、子供を守る神となったのです。
鬼子母神の名前の由来は、元々鬼であったハーリーティーが、子を守る母親のごとき愛情ある神になったからついた名前ですね。ですから、鬼子母神のご利益は、当然ながら子供に関することですな。子宝、子育て、子供病気平癒、子供のことなら何でも・・・というわけです。
お子さんをお持ちの方で、子育てに悩んでいる方も、鬼子母神にお参りするのはいいと思いますよ。育児ノイローゼなんか吹っ飛んでしまうかも・・・・しれませんね。

⑧帝釈天
帝釈天についてですが、帝釈天にはエピソードがたくさんあります。さすがに神々の帝王と呼ばれるだけのことはあります。元は、インドラ神ですね。
帝釈天は、元は人間です。インドのある国のバラモンでした。名前をキョウシカといったそうです(諸説あり)。彼には32人の部下がいて、一緒に亡くなったとか。それで、三十三天(忉利天・・・トウリテン)という天界を創設したとか言われております。
この帝釈天、インドでは戦いの神とされています。武勇の神ですね。また、雷を司るとも言われています。ですので、手には、雷の形の武器を握っています(金剛杵の場合もありますが、本来は、雷をかたどった武器ですね)。帝釈天、戦いの神だけあって、強いんです。なので、神々の帝王になれるのですが、まあ、強いとね、やはりいろいろと問題も起こすわけですよ。特にこの帝釈天、女性には弱いですな。弱いというか、はっきり言えばスケベオヤジですな。美しい女性を見ると、もういてもたってもいられなくなります。自分のものにしたくなるのです。どこにでもいますな、こういうオヤジ。。たとえば、大会社の社長か何かで、威張っていて、お酒と女が大好きで・・・みたいな人。それと同じです。帝釈天、酒と女が大好きなのです。その手に関するエピソードは山のようにあるらしいです。大体は、美しい女性を見ると、さらって自分の城へ連れて行く、というパターンですな。ま、その場でHしてしまう、というのもあるようです。相手は、未婚既婚にかかわらずですな。たちが悪いのですよ。そんなエピソードをひとつ紹介しておきましょう。
ある時、帝釈天、仙人の奥さん(仙人に奥さんがいるのか、とも思うのですが、いわゆる仙人とはちょっと違うようです)に横恋慕してしまい、その奥さんを誘惑しますな。帝釈天は、イケメンですから、仙人の奥さん一発で帝釈天の誘惑にはまってしまいます。帝釈天、仙人の奥さんを自分の天界の城に連れて行ってしまいますな。
怒った仙人・・・そりゃ怒りますよね、仙人でも・・・帝釈天に呪いをかけます。すると帝釈天の身体に千個の女性器ができてしまったのです。すさまじい呪いですな、これ。いったいどんな呪いをかければ身体中に女性器ができてしまうのでしょうか?。驚きです。ま、それはいいのですが、さすがに帝釈天、これには参りますな。これでは女は口説けません。いや、それどころか、裸になれなません。部下に裸を見られらたら・・・、いや、顔さえ見せられません。顔にもできているのですからね。帝釈天、大いに反省します。で、
「久しぶりに、マジで修行するかな」
と言ったかどうかは知りませんが、真剣に仏道修行に励みますな。山に籠ること数十日・・・かどうかは知りませんが、真剣に仏道修行した結果、仙人の呪いは解けます。それどころか、千個あった女性器を目に変えてしまいますな。千眼となったわけです。つまり、すべてを見通すといわれる神通力の千眼を身に着けたのです。普段は、その眼は隠しておきますな。千眼天(千眼通)を使うときだけ、浮き上がってきます。このときは、帝釈天も相当ビビったようですな(一説には、あまりにも遊び過ぎる帝釈天に、お釈迦様が罰を与えたという話もあります)。
このように帝釈天は、超遊び人だったのですよ。えっ、誰ですか、うらやましいと言っているのは?。もし、あなたが本当にうらやましいと思うのなら、帝釈天の座を奪うことですな。帝釈天と言えども、天界の神ですから寿命があります。また、一説によると、帝釈天は、素行の悪さから、お釈迦様に
「あまり素行が悪いと寿命を待たずして、お前から帝釈天の位置を取り上げるぞ。そして、他の者に帝釈天の位置を与えるぞ」
と言われているのです。つまり、帝釈天の位置は、取られることがあるのですな。ま、いわば、お釈迦様に任命されているようなものです。帝釈天をやらせてもらっているわけですね。
そのようなことを言われているので、帝釈天は人間界に真面目に修行する者がいるとビビってしまいますな。自分の位置を取って代わられるといけないというので、帝釈天、その真面目な修行者を神通力を使って誘惑しますな。たとえば、女性の姿となって誘惑するとか、大金を見せて誘惑するとか、名誉を与えて誘惑するとかしますな。そうやって、真面目な修行者を堕落させるのです。悪い神ですよねぇ、帝釈天・・・・と思うでしょ。でも、そうでもないのですよ。
帝釈天の誘惑に乗ってしまうような修行者ならば、それは偽の修行者ですよね。それは化けの皮がはがれるということですから、いいことですな。エセ真面目修行者に騙されていた人々は救われます。帝釈天も、偽物の修行者とわかってほっと一安心ですな。もし、帝釈天の誘惑に負けなかったら・・・。それは本物の真面目な修行者ということでしょう。そのような修行者ならば、帝釈天より上の世界・・・天界よりも上、悟りの世界・・・に行ってしまうことでしょう。つまり、帝釈天の位置は脅かされません。帝釈天、安心ですな。帝釈天のやっていることは、一見自分の保身のための行動と見えますが、偽の修行者かどうかを判別していることにもなります。修行者にとっても、誘惑に負けてしまったならば、自分の弱さがわかって反省できるでしょう。誘惑に負けなかった修行者は、ますます自信をもって修行に励むことでしょう。つまり、帝釈天にとっても、修行者にとっても、この帝釈天の誘惑は善いことなのですよ。

このようなちょっとオチャメな帝釈天ですが、その最大のエピソードは、何と言っても阿修羅天との戦いですね。阿修羅天と書きましたが、阿修羅はもともと天界の神だったのです。一時、阿修羅像が大人気で話題になっていましたな。かっこいいとか、表情が素敵とか・・・。仏像ガールなども誕生しました。そういえば、帝釈天も東寺展でその像が展示されたとき「イケメン神」として話題になっていましたな。まあ、話題になるのはいいのですが、本質は忘れないで欲しいですねぇ。
ま、それはいいのですが、阿修羅天、そもそもは、アスラという正義の神でした。それが、帝釈天との戦いに敗れ、海底の底に追いやられてしまうのです。で、阿修羅天は阿修羅となり、戦い続ける世界・・・修羅道の象徴となってしまうのですな。
いったい帝釈天と阿修羅天の間に何があったのか・・・・。

正義の神である阿修羅には美しい娘がいました。名前を舎脂(しゃし)といいました。彼女は、天界で一二を争うほどの美しさでした。当然ながら、阿修羅はこの娘が自慢でした。できることなら、帝釈天の妃にしたいと望んでいたのですな。そのとき、帝釈天にはすでに妃はいたのですが、浮気者の帝釈天です。美しい娘をみれば、今までの妃など捨ててしまうだろう、そして、娘に夢中になり浮気などしなくなるだろう、と阿修羅は思い込んでいたのです。それに阿修羅は正義の神です。自分が舅の立場になれば、少しは帝釈天も素行がよくなるだろう、よくしてやろうなどとも思っていましたな。正義の神ですからね、帝釈天を戒めてやろうくらいに思っていたのです。
まあ、この時点で阿修羅と帝釈天は性格が合わないことは、普通ならわかるのですが、阿修羅は正義感の塊の神ですから、性格が合わないなどとは思わないですね。神としても、阿修羅の方が古く、帝釈天はまだ若い神ですから、自分が帝釈天の素行を正してやろうと思ったわけです。ここが、正義感の強い人の勘違いですね。人間でもそうですが、正義感が強すぎると、周囲の者の間違いを正そうなどと考えますな。これは、実は大きなお世話です。相手は自分が間違っているなどとは思いません。ですから、正される筋合いはないのですな。それは正義の押し付けになるのです。阿修羅がこのとき抱いていた帝釈天への思いは、大きなお世話なのですな。阿修羅の正義と帝釈天の正義は、当然のことながら違うのですから、阿修羅の思いは押し付け以外の何物でもありません。正義感が強すぎるのも、困りものですねぇ。
さて、ある日のこと、阿修羅の娘・舎脂は、ある天界のお花畑に一人でいました。説はいろいろあるのですが、一般的には友人を待っていた、とされています(帝釈天を誘惑しようとしていた、という説もあります。偶然そこにいたという説もあります)。舎脂、お花畑で友達を待っていますな。美しい女性がお花畑にいます。絵になりますね。光り輝いていたことでしょう。そこを帝釈天がたまたま通りかかるのです。帝釈天
「あの花畑にいる美しい娘は・・・・いやいや、彼女は俺のものだ!」
帝釈天、家来たちをさっさと城に戻し、舎脂に襲い掛かりますな。そうなのです。帝釈天は、
「おぉ、汝は美しい。私のものとなれ。私は帝釈天だー」
と言いながら(きっとそうだと思います。無言で襲い掛かることはないでしょう)、その場で彼女を押し倒してしまうのです。ま、いわば強姦ですな。人間ならば犯罪です。しかし、そのまま彼女を捨てしまうことはしません。帝釈天、彼女を犯した後、彼女を自分の宮殿に連れて行ってしまいます。強姦のうえに人さらい、誘拐ですな。ひどいものです。傍若無人もいいところ。帝釈天なら何をやってもいいのか!、と思うでしょ。いくらなんでも、これはひどすぎでしょ。と、誰もが思うのですが、最も怒り狂ったのは何といっても父親の阿修羅ですよね。
「あの若造が!、わしをなめくさって!。自分が強いからと言って何でもしていいと思うなよ!。うぉぉぉぉ、許せん。ぶっつぶしてやるぅ」
と叫んだかどうかは知りませんが、愛娘が帝釈天に強姦され、さらには連れ去れてしまったと知るや否や、阿修羅は烈火のごとく怒り狂いますな。
「全軍、帝釈天めがけ、総攻撃じゃあ!」
ここに阿修羅VS帝釈天の戦争が幕を開けたのです。

第一回戦、阿修羅軍の大敗。帝釈天は神々の帝王、武勇の神、戦の神です。簡単に阿修羅軍を退けますな。阿修羅の軍隊など、屁でもありません。しかし、阿修羅、引き下がりませんな。体勢を立て直し、再び帝釈天軍に挑みます。が、あっさり敗退です。阿修羅、あきらめません。三度、戦いに挑みます。が、やはり負けですな。それでもあきらめません。さらに挑みます。戦いは、6度目に及びます。まあ、6度目も勝てませんな。もう、阿修羅、何が何だかわかりません。何のために戦っていたのかもわからないくらいですな。とにかく、帝釈天に戦争を仕掛けたいだけ、です。まあ、怒り狂っているのは阿修羅だけなんですけどね。当の帝釈天と言えば、舎脂とラブラブですな。戦争なぞ、部下に任せておいて、二人で終日イチャイチャしていますな。舎脂も幸せいっぱいです。帝釈天は、舎脂を城に連れ帰るや否や、第一妃にしてしまいます。今までいた妃や妾達は、追いやってしまいますな。もはや妃は舎脂だけ。憧れの帝釈天様の妃してもらい、浮気もしないで自分だけを大切にしてくれる・・・・。舎脂にとって幸せこの上ないですな。なので、
「お父様、私は幸せなんですよ。帝釈天様にとても大切にしていただいています。ですから戦いをやめて下さい」
と阿修羅に願うのですが、阿修羅は聞く耳を持ちませんな。阿修羅は、娘が今幸せだろうがなんだろうが、もうどうでもいいのですね。とにかく、帝釈天を打ち負かしたい、ただそれだけなのですな。
こうなると、周囲の誰もがドン引きですな。最初は阿修羅が正しい、阿修羅に味方しようなんて思っていたほかの神も、いいかげんにうんざりしますな。
「もうさ、帝釈天のことはいいじゃん。娘も幸せにやってるんだし。あの帝釈天が、浮気もしないであんたの娘べったりなんだし。だいたい、勝てないって。もう矛をひっこめなよ。娘も幸せにしているようだから、帝釈天、貴様の不埒な行動は許してやる、って、それでいいじゃん」
などと、周囲の神々もたぶんアドバイスしたのではないかと思うのですが、阿修羅は聞き入れませんな。怒り狂っています。こうなると、周囲の神々も阿修羅を見放しますな。もうこうなると、阿修羅の独り相撲。誰も阿修羅を相手にしません。
帝釈天と言えば、戦争は部下に任せ、舎脂とラブラブ。あぁ、そうそう。たまたま帝釈天が指揮を執って戦に出た時のこと。その日は帝釈天、調子が悪かったのか、早く城に戻りたかったのか、阿修羅軍に押され気味でした。帝釈天軍、立て直しのため一時退却します。ところが、行く手に何万匹という蟻の隊列を見つけますな。蟻の大群が道を横切っているのです。帝釈天、全軍ストップさせます。
「蟻を殺すわけにはいかん。殺生の罪は重い。仕方がない、阿修羅軍に向かうぞ」
と言って、敗退中だったにもかかわらず、阿修羅軍に攻撃を仕掛けますな。びっくりしたのは阿修羅軍。逃げていたのが、いきなり攻撃してきたのですから、びっくり仰天してビビってしまいます。戦はビビった方が負けですな。哀れ、阿修羅軍、結局負けてしまったのですな。
ま、このように、阿修羅軍は勝てないのですよ。帝釈天軍は、余裕があるのです。この戦いは、帝釈天側にとってみれば、お遊びのようなものです。そもそ戦い挑む方が間違いなんですな。阿修羅は、戦いでなく、話し合いで帝釈天に頭を下げさせる方法をとればよかったのですな。手段を間違えたのです。
結局、頭を冷やせと言わんばかりに、阿修羅は天界を放逐され、魔物とされて海底に沈められてしまいますな。それでも頭を冷やすことなく、カッカと怒り続けているのです。これが、修羅界の始まりですね。

確かに帝釈天の行動はいけません。強姦したうえにさらってしまったのですから。しかし、実はこれ、被害者はいません。強姦され、連れ去れた舎脂本人は、妃になったので大満足です。帝釈天も、浮気癖がなおったかのように、舎脂にぞっこんです。本来ならば、阿修羅の出る幕はないのですな。阿修羅は、
「やり方がひどいだろう。せめて結婚式くらいあげてくれよ」
と頼めばよかったのですな。ですが、正義の神阿修羅は、不正なことが許せませんから、帝釈天の行動そのものが許せなくなってしまったのですね。被害者がいないにもかかわらず。これは、阿修羅の正義の押し付けですな。帝釈天も娘の舎脂も、いい迷惑な話なのです。正義感が強すぎるのも考え物ですな。もう少し阿修羅に余裕があれば、阿修羅も神の位置にいられたのですけどね。
しかし、この話、人間にも通じますな。あまり正義感が強すぎて、堅苦しいことばかり言っていると、余裕が無くなり、生きにくくなりますな。少しはユルユルでないと、自分で自分の首を絞めることになります。四角四面もほどほどにしないと、誰からも相手にされなくなりますな。特に日本人は、ちょっとストイックなところがあります。戒律主義というか、真面目というか。清いことを好みますな。しかし、正義や清浄だけでは、解決できないこともあるのです。少しは、汚れも知らなきゃいけないし、悪い部分も理解しなきゃいけないこともあるのです。特に政治とか、経営とかはね。清濁併せのむ度量がなければ、大きなことはできませんな。

さて、帝釈天のご利益ですが、それは何といっても「勝利」ですね。「勝ち取る」ことです。戦いに勝つ、ということですから、受験もいいし、就職祈願もいいですね。何よりも、「人生勝ち続けるぞ」という祈願が最もいいかもしれませんね。なお、「浮気ができますように」という祈願は、自分が帝釈天のようにイケメンで力がある場合には、通じると思います。そうでないなら、祈願するだけ無駄ですな。

次回ですが、七福神を中心にお話しする予定です。お楽しみに。

つづく。

ばっくなんばぁ~5


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