仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ〜7

第十二話 私的お大師さん考A

前回から始まりました「私的お大師さん考」の二回目です。今回も、偏見に満ち満ちて書きます。不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。どうぞ、御許しのほどを・・・。

さて、中央の超エリート大学に18歳で入学したお大師さん。なんと、1年ほどで大学に通うのを辞めてしまいますな。ま、そりゃそうだよね、と私などは思います。いくら辛抱強い方でも、耐えられないでしょうな。なぜか・・・。それは、大学内の様子がこのようだからです。現代風にアレンジして書いてみましょう。
「なぁなぁ、この間の試験、できはどうだった?」
どこかの公家の息子(13歳)がご学友に尋ねますな。尋ねられたのも当然公家の息子(13歳)ですな。
「あぁ、あれ。あんなの白紙さ。だってわかんねぇもん」
平気な顔でそう答えます。彼らの周辺にご学友連中が集まってきますな。
「俺もほぼ白紙。あんなの習ったってさ〜、役に立つのか?」
「タタネェ、タタネェ。なにが漢詩だよ。あんなのどうでもいいんだよ。それより、いかに庶民から金を搾り取るかってことを教えろよ、って感じだよな」
「そうそう、俺たちゃエリートなんだからさ」
「でもさ、白紙ってやばくねぇ?。あの鬼教官、うるせぇんだよな・・・」
「大丈夫だよ、オヤジに言えば、あんなヤツ、縮み上がってしまうさ。ま、お前の親父の力じゃあ、そういうわけにはいかないか?。あはははは」
「だよな、だよな、こいつの家は、下級官僚だからな。ま、しょうがねぇからよ、俺の親父にお前のことも頼んでやるよ」
「よろしく頼むよぉ〜。俺も、あの試験、ほぼ白紙なんだよねぇ・・・。今度、注意されたら、俺退学させられるかもしれねぇし」
「よし、じゃあ、親父に頼んでやるよ。その代り・・・」
「わかってるよぉ・・・、ちゃんということ聞くよぉ」
と、まあ、こんな具合ですな。エリートお公家たちの御子息は、お勉強などしないんですな。親の権力で入学し、親の権力で卒業するのですから、勉強などする必要がないのです。大学を卒業してから、親にくっついて、宮中の習慣や出世する要領、媚の売り方、お遊びなどなどを学んでいくのですな。ま、その時に必要になったら、知識をあわてて詰め込めばよい、というわけですな。なので、勉強などしません。ある程度、綺麗な文字が書ければよいのだし、和歌なんぞを作れるようになればよいのです。そういうことは、御幼少のころから家庭で行っていますな、エリート官僚の御子息は。

そういう様子をお大師さんは、毎日のように見せつけられるんですな。エリート官僚の御子息たちにとっては、お大師さんは、5歳も年上です。もはや「オッサン」ですな。お大師さんからしてみれば、彼らは「ガキンチョ」ですな。しかも、バカですし。そんな連中とほぼ毎日のように一緒にいたら、そりゃあ、嫌になるでしょう。お大師さんにしてみれば
「なんだと、あの試験ができなかっただと?。あんな簡単な問題が?。あぁ、こんな連中が将来、この国を背負って立つのか・・・・。何と嘆かわしい。これじゃあ、ダメだろ。だいたい、この学校はなんなのだ。バカの集まりか?。私は、あれほど猛勉強し、苦労して入学したというのに・・・。こんなに低レベルだとは・・・・。こんな学校に意味があるのか?。ここにいる価値があるのか?」
と悩むのは当然ですよね。周囲の御子息連中だって
「なんだ、あのオッサンは。一人だけ、ずば抜けているじゃん。うっとうしいよな。一人だけあんなにできがいいとさ、俺たちがバカに見えるじゃん。みんな同じレベルにしてくれないとさぁ、まずいんだよねぇ。あんなの邪魔だよな」
てなものでしょう。一人突出した天才は、お公家さんの御子息たちにとっては、不必要どころか、眼の上のたんこぶ。邪魔な存在以外なにものでもないですな。

このような状態であることは、お大師さん、入学早々気が付いたことと思います。で、すぐに失望したことでしょう。でも、1年ほどは我慢したのです。1年もすれば、バカな公家の息子連中だって、少しは変わるだろう、と様子を見ていたのかも知れません。あるいは、耐え忍んで卒業すれば、自分も官僚の端くれになれるかもしれない、それが我が家のためだ・・・と思っていたのでしょう。しかし、出世できても下級官僚。そう、よくて下級官僚ですな。いわば、官僚の中でもパシリ役ですな。しかも、何か不祥事があれば、全責任を負わされる立場ですな。そんな立場の者になって、どうするのか?・・・・。あるいは、叔父さんみたいに親王の家庭教師になるか?。もし、お世継ぎ問題でその親王が失脚したら、当然ながら家庭教師も失脚。良くて島流し、悪けりゃ死がやってくる・・・。それに何の意味があるのだ・・・。
お大師さん、大いに悩みますな。こんなことのために自分は勉強してきたのか、こんなくだらないアホな公家を守るために勉強するのか・・・・。そりゃ、嫌になりますわな。
お大師さん、誤魔化し誤魔化し、なんとか我慢をして、1年ほど大学に通いますな。が、しかし、我慢も限界が来ていたのでしょう。
お大師さん、ある日のこと、大学をさぼりますな。授業に出ません。ブラブラと野山を歩きます。気がめいった時は、自然の中を散策するのがいい・・・とでも思ったのかもしれません。
生まれ育った四国香川県善通寺市は、当時は自然がいっぱいですな(ま、今でも田舎ですが)。一方、大学がある中央は、その当時では都会ですな。威張ったお公家連中が闊歩しております。
「もう、うんざり・・・・」
だったのでしょう。その日を境に、お大師さん、本格的に大学をさぼりますな。叔父さんの家に帰ることもなくなりますな。野山を散策し、野宿をするようにもなります。実は、お大師さん、このころから一度目の行方不明になってしまうんですな。

19歳のころ、大学を飛び出したお大師さん。24歳になって「三教指帰」という小説・・・戯曲になっています。お大師さんの出家宣言書と言われています・・・を持って叔父さんの前に現れる間、行方不明になっていたんですな。どこで何をやっていたのか・・・。
三教指帰には、そのことに関して、ほんの少しだけ書いてありますな。
「19歳の時、大学で勉強していた。
そんなころ、一人の沙門(しゃもん)に出会った。
その沙門に「虚空蔵求聞持法」を教わった。
四国は阿波の大竜ヶ岳(現、徳島県阿南市大竜寺山)や土佐の室戸岬(高知県室戸岬)で、その虚空蔵求聞持法を修行した。
すると、明けの明星(金星)が現れ、経典に書かれている通りの現象がおきた」
はなはだ簡単ですな。これ以上のことはわかりません。つまり、一人の沙門に出会い、虚空蔵求聞持法を教えてもらい、それを四国のあちこちで修行した(ほかの地でも修行したでしょうが・・・)。そしたら、その求聞持法が成功したのだ、ということですな。これだけしか書いていないんですね。あとは、想像するしかないんです。といっても、まあ、山野を駆け巡り、修行しまくっていた・・・以外には何もないんですけどね。そう、このころのお大師さん、和歌山や四国、三重県あたりも含まれていたかもしれませんが、あちこち旅をしながら、修行をしていたのでしょう。

お大師さんの第一の転機が、この19歳のころに出会った沙門ですな。この沙門に出会わなかったら、お大師さん、求聞持法を学べなかったかもしれません。後の人生が大いにくるってきますな。
沙門というのは、本来は出家前の修行僧のことを言います。出家したら僧侶ですね。正式な僧侶となる前は、皆さん沙門です。ですが、沙門は、普通はお寺で小僧をしていますな。野山をウロウロしていません。そんな怪しい沙門はおりませんな。ま、あえて言えば、違法な出家者・・・私度僧(しどそう)・・・も沙門と呼んでもいいでしょう。
正式な沙門・・・お寺にいる出家前の小僧さん・・・は、当然ながら子供ですな。そんな子供が虚空蔵求聞持法という秘法を知っているわけがないです。ですので、お大師さんが出会った沙門は、私度僧に間違いないのです。
私度僧・・・そう、正式な出家者ではなく、勝手に出家したお坊さんです。現代風に言えば、拝み屋さんですな。ま、当時の拝み屋さんは、今の拝み屋さんと異なり、真面目な方が多かったでしょうけどね。
で、その私度僧にお大師さん、きっと見込まれたのでしょうな。
「おい、そこの若いの、なんでこんなところをウロウロしているのだ?」
お大師さん、ある日のこと、ある山の中・・・奈良の葛城山周辺か、四国の山中か、それはわかりませんが・・・を歩いておりますと声をかけられますな。
「いや、まあ、なんとなく、山をブラブラと歩いていたのです。気が滅入ってしまっていてね・・・」
「ふむ、見たところ、なかなかの相を持っておるのう・・・。お前さん、坊主にならんか?」
「えっ?、どういうことですか?」
てな具合に会話が進んだのでしょう。勝手な想像ですが・・・。ま、こんな感じで一人の私度僧と知り合い、
「まあ、話でもしようじゃないか。ほう、大学をさぼっているのか。まあ、当然だな、あんなものは腐っている。それよりも、人を救うにはもっといい道があるぞ・・・・」
と、その私度僧からいろいろ教えを受けたのでしょうな。私度僧は、当然ながら、山野をウロウロしております。各地を巡り歩いておりますな。ですから、物知りです。地元と都、あとは周辺の山々しかしらないお大師さんにとって、それは魅力的な話が多かったでしょう。
「いいか、今の日本は儒教が主体だ。儒教は、国を管理するには都合がいいかもしれぬが、民衆にはなじまない。そこに登場するのが、道教だ。道教は、仙人の教えでもあり、仙人になれば楽になれる教えだな。しかし、これも庶民にはなじまない。そう簡単に仙人になれるわけがないからな。そこに登場するのが、仏教だ。仏教は庶民にも分かりやすい教えがあるし、国を守る教えもある。奥も深い。だからこそ、彼の聖徳太子も仏教の教えに基づいた国家を作ろうとしたのだがな・・・」
というような話をしたのでしょう。で、話すうちにお大師さんの聡明さがわかってきますな。ふと、その私度僧、思います。
(この者なら、わしが成し遂げれなかった求聞持法を成功させることができるかもしれぬ・・・)
そこで
「お前さんにとっておきの秘法を教えてやろう。これは、ただの仏教の修行ではない。今、唐の国で大流行している密教の修行法だ。密教というのは、わしもよくわからんのだが、仏教の中でも特殊な教えらしい。仏教は誰でも学べるが、密教は人を選ぶという。その密教の秘法をわしは知っている。知ってはいるが、わしは成功しなかった。密教に選ばれなかったのだ。お前は若い。しかも、なかなかの相を持っておる。ひょっとすると、密教に選ばれるかもしれん。お前さんなら、この秘法を成功するかもしれん。どうだ?、やってみるか?」
とお大師さんに尋ねますな。お大師さん、すっかり私度僧の話に魅了されていますから、
「やります!」
と即答したことでしょう。こうして、お大師さん、私度僧から「虚空蔵求聞持法」を学ぶのですな。
この秘法中の秘法、求聞持法に関しては、次回にお話しいたします。
合掌。


第十二話 私的お大師さん考B

私度僧から「虚空蔵菩薩求聞持法」を学んだお大師さん、さっそくこの修行法を試みます。しかし、本来、この求聞持法というのは、簡単にできるものではありません。本当ならば、私度僧ごときが知っている修行法でもないはずなのです。お大師さんに求聞持法を教えた私度僧、どこでどのようにして求聞持法を知ったのか・・・・。
一般のお大師さんの伝記では、このことには詳しくは触れておりませんな。なぜならば、正式な求聞持法を伝授されたとは、とても思えないからです。
「虚空蔵菩薩求聞持法」という修行法は、本来は密教の正式な修行コースを終えてからでないと伝授されるべき修行法ではないのです。いくら当時の密教の修行の順番と現代の密教の修行の順番が異なる、とはいえども、そこは変わりません。ちょっと補足しておきますが、現代では、四度加行という修行を終えてから灌頂を受けますが、お大師さんがいらした当時は、まず灌頂を受け、その時に縁のあった仏様の修行法を伝授される、という順番でした。灌頂とは、敷いてある曼荼羅に樒の葉を目隠しして投げ、その葉が落ちたところの仏様と縁がある、と判断する作法です。これに、金剛界と胎蔵界があります。それぞれの曼荼羅の仏様の上に落ちた樒の葉っぱで、どの仏様と縁があるか、ということを判断するのですな。で、その縁のあった仏様の修行法を伝授されるのです。ちなみに、これはのちに話しますが、お大師さんは金剛界、胎蔵界ともに真ん中の大日如来に樒の葉が落ちました。ですから、金剛界も胎蔵界も、大日如来の修行法を伝授されております。ちなみに、我々も灌頂を受けましたが、どこに葉っぱが落ちたかは知りません。どこに落ちようとも、「すべて大日如来」と決まっております。四度加行は、大日如来の作法を行いますからね。

話を戻します。私が思うに、きっと私度僧も正式に求聞持法を伝授されたわけではないのでしょう。経典をみたのか、もしくは誰かに聞いたのか、それはわかりませんが、詳細に知っていたわけではないと思います。なぜならば、お大師さんが求聞持法を修行した場所が、本来の修行場所とは違うからです。
求聞持法は、詳しくは書けませんが、お堂の東に窓を設けます。本尊の虚空蔵菩薩は普通とは逆に祀ります。つまり、南か東に本尊さんを祀るのですな。作法をする壇も当然必要です。で、主な修行は虚空蔵菩薩のご真言を百万遍唱えるのですが、これを50日か、100日きっかりで終わらねばなりません(70日という法もある)。しかも、その終わりの日(満願日といいます)を日蝕か月蝕にあわせなければなりません。最低でも、新月の日にあわせることが必要です。日蝕や月蝕など、そうそう何度もあるわけないですからね。
お大師さんが行った求聞持法は、このような作法にのっとったものではなかったのではないかと思います。まあ、そんな必要はなかったのでしょうけどね。
おそらくは、大地が道場で、まさしく虚空が本尊様だったのでしょう。宇宙そのものが本尊である、と感じられたからこそ、そのような方法でも求聞持法ができたのでしょうな。これが一般の密教の僧ならば、ちゃんとした作法にのっとって行わいとできないことなのでしょう。いや、それでも成功するとは限りませんな。

私度僧から教わった求聞持法は、おそらくは、
「お前さんが、ここだ!、と感じる場所でいい。そこが海に突きでた岬であろうが、山の頂上であろうが、どこでもいい。ただし、空が見えていなければいけない。宇宙を感じられる場所でないといけない。そうした場所で、一心に虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるのだ。もし、この修行法が成功すれば、明星がお前の口の中に飛び込んでくるだろう。よいか、大事なのは、明星が見える場所、宇宙・・・すなわち虚空が感じられる場所を選ぶことだ。お前さんなら、成功できるだろう。わしは、何度も試みたが、いまだに成功していない。否、もはや試みる気力も失ったな。わしは、その器ではないのだよ。しかし、お前さんならその器がある。必ず成功するだろう」
と、このように伝授されたのでしょうな。そのほうが自然だと思います。なぜなら、お大師さんが求聞持法を行ったのは、徳島の大滝岳や室戸岬の洞窟、あるいは山々の頂上などなんですね。現代の作法とは程遠いですな。形よりも、内容が大事、といういい例でもありますな。ま、力がそもそもない者は、形から入るしかないのですが・・・・。

さて、宇宙を抱き、虚空蔵菩薩のご真言を百万遍唱えるという求聞持法を試みたお大師さん、見事成功しますな。明星(金星)がお大師さんに飛び込んできます。こういう兆候がないと、成功とはいえないのですな。こうした現象がない場合は、失敗ですな。なので、お大師さんも何度も試みております。一回で成功するようなものではないのですな。よく
「私は求聞持法もやってますからね」
と自慢する真言僧がいますが、一回しかやっていなくて、しかも不思議な現象が起きていないなら、まあ、大したことはないですな。もっとも、一回もやっていないという者よりはましでしょうけど。ちなみに、私は一回もやっておりません。なので、エラソーなことは言えませんけどね。ま、やったとしても、成功しないしねぇ、きっと・・・。そんな器じゃないですからね。
ま、それはともかく、この求聞持法に成功するとどうなるのか。それはすごいことになるのですな。なんと、一度見聞きしたことは絶対に忘れない、一回見聞きすれば、すべて記憶できる、という超記憶能力を手に入れることができるんですな。
たとえば、本を読みます。求聞持法を成功したものが本を読めば、その本に書いてあることがすべて記憶できるのですな。暗記できるのです。で、忘れないのですよ。びっくりでしょ。受験生が求聞持法を行い、成功すれば、東大も楽々合格ですな。高校の三年間、受験勉強などしないで、求聞持法にかける・・・という手もあり?かも知れませんね。成功すれば、教科書をすべて読み漁るだけで、全部記憶できますから、東大合格間違いナシですな。ただし、求聞持法に失敗した場合は、この限りではありませんけどね。多少記憶力はよくなるかもしれませんが・・・。
さて、あなたなら、どちらにかけますか?。ま、冒険する人はいないでしょうなぁ。いたら、面白いけど、アホだ!とは言われますな。間違いなくね。

さて、スーパー記憶能力を手に入れたお大師さん、次は何をしたか・・・。24歳で「三教指帰」という小説を書いて、叔父さんに渡しておりますから、おそらくは、仏教、儒教、道教について、徹底的に学んだのでしょうな。「三教指帰」の「三教」とは、仏教・儒教・道教のことです。で、「三教指帰」では、それらの内容を比較検討し、どれが最も優れているかということを、戯曲仕立てで書いてあるのですな。
この「三教指帰」の下書きと言いますか、原本が残っています。それを「聾瞽指帰(ろうこしいき)」といいます。お大師さんは、まずこの「聾瞽指帰」を書いて、そのあと「三教指帰」として書き直したのですな。「聾瞽指帰」は、なんと、お大師さんの直筆が残っております。高野山の霊宝館にいけば見られます。達筆です。見事な字です。きっと、文字も求聞持法が成功しておりますから、ちょっと練習すればたちまち素晴らしい字が書けたのでしょう。後に唐に渡った時も、唐の皇帝から「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号をいただいているくらいですからね。
さて、「三教指帰」ですが、これは先にも書きましたように、仏教・儒教・道教を比較して、仏教が最も優れているという結論を戯曲風に書いたものです。簡単に(大雑把に、乱暴に)説明します。
とあるところにダメ息子がいました(いつの時代もダメ息子がいるんですな)。このダメ息子、今でいうニートですな。で、
このニートを何とかしようと儒教の先生が説教にきます。が、うまくいきませんな。ニートな息子、「う〜ん、そうかなぁ、そうかも」などと煮え切りません。そこへ、「それじゃあダメだね」と道教の先生が説教にきます。「儒教じゃ救えない、ダメダメ」てなもんですな。道教の先生、仙術などを説き始めますな。ニートな息子、最初は「おぉ」と関心を示すのですが、またまた途中から煮え切りません。「おらには無理だ」って感じですかねぇ。そこへ「仮名乞児(けみょうこつじ)」という私度僧らしき僧侶が現れ、儒教じゃあダメ、道教も無理、この者を救うには仏教だよ、ということで説教しますな。その説教に儒教の先生も道教の先生も感服します。ニートな息子もその親も、「やぁ、仏教はすごい」って感じになりますな。で、みんなで仏教を讃える詩を唱え、終わります。
この仏教を説いた「仮名乞児」は、当然お大師さんでしょう。「乞」とは乞食・・・食べ物を乞う者・・・という意味で、旅の僧侶を意味しています。「児」は若い者、若輩者、という意味でしょう。すなわち、「仮名乞児」とは、「名前はあかせないが、旅をしている若い僧侶」という意味ですから、当時の自分自身だったのでしょうな。きっと、儒教の先生は叔父さんだったのでしょう。
お大師さんは、「三教指帰」を叔父に渡すことにより、「儒教じゃあ、世の中の人々を救えませんよ。国も変えられません。人々を救い、国をよくするのは、仏教以外にないですよ。だから私は仏教を学びます。さよらな叔父さん」と、叔父さんに別れを宣言したわけです。
なぜなら、これ以来、お大師さん、2回目の行方不明になるのですから。

一回目の行方不明が19歳〜24歳までです。この間は、行方不明と言っても、一人の私度僧から求聞持法を学び、四国やその周辺地域の山野で修行していた、ということがわかっています。どこで何をしていたか、だいたいのことはわかっていますな。旅の僧・・・という姿で、修行していたわけです。
ところが、2回目の行方不明は、お大師さん、どこで何をしていたのか、まったくわかりません。
2回目の行方不明は、24歳〜31歳の7年間です。31歳の時に叔父さんのところへ現れたお大師さんは
「遣唐船に乗りたい。何とかなりませんか」
という唐突なお願いをしに来たのです。「叔父さんなら何とかなるでしょ」てなもんでしょうかねぇ。なんとまあ、失礼な、という感じはしますけど、また、これが通ってしまうのですからすごいんですな。
いずれにせよ、24歳〜31歳の7年間については、お大師さん、一言も語らなかったんですな。この時代は、昔から学者さんを悩ましているんですねぇ。
31歳で、叔父さんの前に現れたお大師さん、「唐へ行きたい」ということだったのですが、なんと「資金はある」というのですな。「お金は持っているから、遣唐使船に乗れるようにしてくれ」と頼んだのです。そう言われた叔父さん、びっくり仰天です。この時のいきさつはこんな感じだったのでしょうかねぇ。
「叔父さん、お久しぶりです」
「うん?、おぉ、お前は真魚(まお、お大師さんの幼名)か?。なんだ、その姿は。汚らしいというか、みすぼらしいというか・・・」
「あぁ、あちこち旅をしてましたから」
「ふ〜ん、で、お前、何をしている?。なぜ、戻ってきたのだ?」
「はい、遣唐使船に乗りたいと思いまして。唐へ行きたいのです」
「おいおい、遣唐使船に乗るって言ったって・・・・。資格も必要だし、第一大金がいるぞ。国から行けるわけじゃないし」
「大丈夫ですよ、叔父さん。お金は持ってます。ほら。確か・・・留学生(るがくしょう)という資格なら、遣唐使船に乗れたはずですよね。個人的にでも」
「まあ、確かにそうだが・・・。しかし、留学生は、20年間唐にいなきゃいけないのだぞ。その程度の金では・・・」
「あぁ、これは一部ですよ。20年分のお金は持っています。よっこらしょっと・・・。ほらね」
「お前、こんな大金・・・いったいどうやって・・・」
「まあ、いいじゃないですか。それよりも、遣唐使船に乗れるのですか?、乗れないのですか?」
「いや・・・、まあ・・・それは、何とか・・・。お前、唐に行って何をするのだ?」
「密教を学びます。仏教のさらなる上の教えですね。あぁ、ちなみに、唐の言葉は大丈夫です。通訳ができるくらいですから、心配はいりません。ですから、密教を学ぶ僧侶として、遣唐使船に乗れるように計らってください」
「う・・・うん、わかった、何とかしよう・・・」
と、まあ、こんな感じだったのでしょうか。いずれにせよ、叔父さんの前に7年ぶりに現れたお大師さん、大金を持っていたのです。

この大金、現代で言えば、数億円だったのではないか、とも言われております。唐に20年間留学する資金です。その間、学問をするのですから、唐で働くことは禁止されています。20年分の生活費が必要、ということですな。しかも、国から遣唐使船に乗せてもらうわけではないので、自費となります。船賃を払わねばなりません。ちなみに、天台宗の最澄さんは国から唐へ留学しましたので、公費で行っています。しかも、唐での研修期間は2年となっています。唐での滞在費も国から出ますな。
ちょっと話がそれますが・・・。すべて自費で賄ったお大師さん。すべて公費だった最澄さん。大きな差がありますな。私が言うのは、身分的な差もそうですが、この時点で、二人の間は大きな差が生じていると思いますね。
身分は、当然ながら最澄さんの方が上ですな。現代で言えば、東大の教授が公費で2年間海外研修に行くようなものです。給料つきですな。一方、お大師さんは、すべて自費です。貧乏学生が、一生懸命働いて、留学費用を貯めて、やっと海外留学できる、という状態ですね。すごい差です。大きな差です。
しかし、私は、最澄さんの方が、この時点ですでにお大師さんには勝てないな、と思いますね。それは、お大師さんは、「生きる術」を知っているからです。
エリートで、何不自由なく来た人って、一つ大きな壁に当たると、ダメになってしまうことがあります。いや、そういうことってよくありますよね。それは、「生きることに苦労したことがない」からです。ところが、自分一人で生きてきた人は、苦労してきた分、どうやって生きていけばいいか、という「生きる術」を知っているのですな。こういう人間は強いです。どんな逆境にあたっても、くじけません。
温室育ちの坊ちゃんはとっても弱いけど、野生児は強い、ということですね。だから、大会社の息子はダメな奴が多い、と言われるのですな。あるいは、2代目はろくなヤツがいない、とも言われるのです。創業者は、苦労を知ってますが、2代目は知りませんからね。知らないどころか、親が育て方を間違うと、超ワガママなボンボンになってしまいますな。で、2代目で潰す・・・となるのですよ。お金の苦労を知らないのがいけないのですな。
お金の苦労などしたことがない最澄さん、ひたすら自分で稼いできたお大師さん。その実力差は歴然ですな。もうこの時点で、二人の将来は決まったようなものです。やはり、苦労はしておくべきですねぇ。アマちゃんじゃあ、世の中生きてはいけないですな。

話を戻します。20年分の留学費用を貯め込んでいたお大師さん。いったいどうやって稼いでいたのか・・・。
次回は、この謎について、私的考察をしてみたいと思います。
合掌。



第十二話 私的お大師さん考C

空白の7年間・・・お大師さんの生涯で、まったく語られなかった7年間です。この間にいったいお大師さんは、何をしていたのか。
事実としてわかっていることをここで整理しておきましょう。そして、それぞれについて考察していきたいと思います。お大師さんの空白の7年間でわかっていることは、
@大金を貯めていた。その額は、唐で20年間、働かずに暮らし、さらに学問をすることができるほどの額であった。
A密教を学びたいと決意していた。そのために唐に渡ると決心していた。
B唐の言葉に堪能になっていた。それは、通訳が可能なほどであった。
C唐の事情に詳しかった。特に唐では即興で漢詩が創れないと尊敬されない、ということも知っていた。
まあ、ざっとこんなところでしょうか。
@については、後ほど私流の推察をしてみます。ですので、他の項目について先に考察してみましょう。

Aについてです。お大師さんは、「三教指帰」を記し、叔父さんに渡して、行方不明になります。「三教指帰」は、儒教・道教・仏教のうち仏教が最上である、だから仏教を学ぶのだ、という出家宣言書でした。しかし、その時には「密教」という言葉は出てきません。お大師さんは、密教をいつ知ったのか・・・。
空白の7年間で、唯一わかっていることがあります。それは、久米寺で大日経と出会った、という伝説です。まあ、伝説というくらいですから、これは「後付けの伝説である」とか「最初の行方不明時代だろう」とか、説はいろいろあります(多くは後付けの伝説であろう説ですな)。しかし、私はこれは事実だったのではないか、と思っています。でないと、お大師さんと密教を結びつけるきっかけがないのですな。
まあ、求聞持法自体が、密教なのですが、その時は「密教」というものは、まだ意識していなかったのではないか、と思うのです。もし、意識していたならば、「三教指帰」に書いていたことでしょう。
ただ、求聞持法を教えてくれた私度僧から、「普通の仏教とは異なる教えがある。この求聞持法もその一つだ」くらいは聞いていたことでしょう。おそらく、お大師さんは、「三教指帰」を叔父さんに渡し、出家宣言をして、「密教」を求めて旅に出たのでしょう。
そんなころ・・・おそらくは旅に出てすぐのころ・・・お大師さんは、「大日経」に出会ったのではないでしょうか?。伝説では、仏様からの「久米寺に行け、そこに求める経典がある」という夢のお告げあった・・・となっています。
学者さんは、「夢のお告げ」という言葉を極端に嫌いますな。まあ、ご自分はそういう経験がないから信じないのでしょうが、案外「夢のお告げ」というものはあるものです。それに気が付かないか、気が付くかの違いだけなんじゃないでしょうか?。まあ、夢を見ても忘れてしまった・・・ということもありますけどね。
お大師さんの場合も、実際に仏様からの夢のお告げはあったのでしょう、きっと。でも、そんなことは大きな問題ではないのです。大事なのは、「大日経」と出会った、ということですな。

「大日経」とお大師さんは出会ったのです。これは、事実でしょう。そうでないと、お大師さんが密教を知るきっかけがないのですよ。まあ、7年間のうちに、密教に出会ったのだろう、ということは十分考えられますが、そうならば、久米寺で「大日経」と出会ったということを信じてもいいのではないかと思いますな。素直にね。なので、私は、お大師さんは、久米寺で「大日経」に出会った、という説を採用しますな。
お大師さん、夢のお告げ通りに久米寺に向かいますな。仏様は、久米寺の東塔へ行け、とおっしゃった。そこに求める経典があると・・・。お大師さん、久米寺に行き、
「私は旅の僧ですが、こちらの東塔にはいろいろな経典があると聞きました。ぜひ、拝見したいのですが・・・」
などと訪問の理由を述べますな。

あ、言い忘れておりました。お大師さん、当然ながら私度僧です。勝手に僧侶になっていますな。一説には、「三教指帰」を書く前・・・20歳のころ、大学を飛び出た後・・・に和泉国槇尾山寺(いずみこく、まきのおさんじ)の勤操(ごんぞう)大徳のもとで得度して出家した、沙弥戒(しゃみかい)を受けた、さらには22歳で東大寺で正式な受戒を受けた・・・という説がありますが、これこそ後付けでしょう。そんなはずがないのですよ。なぜならば、その当時の出家は国の許可がいるからです。それには、正式な文書で、推薦人や保証人等を付け、国に出家願いを提出しなきゃいけないのですな。もちろん、叔父さんに頼めば何とかなりますが、その時は大学を中退した時です。「三教指帰」すらも書いていません。まだ、仏教に目覚めた段階ではありません。その説は、あまりにも不自然ですな。なので、20歳のころに得度していたという説は、却下ですな。お大師さんは、あくまでも私度僧だったのです。まあ、現在では、「すでに出家していた説」を唱える方は、ほとんどいませんけどね。
ちなみに、出家名・・・僧侶としての名前・・・も勝手に名乗っていたようです。最初は、「空海」ではなかったらしいですね。
お大師さん、勝手に僧侶としての名を「教海」とか「海教」としていたらしいのです。まあ、私度僧ですから、勝手に名乗るしかないのですが・・・。しかも、幾度か変えて、最終的に「空海」に落ち着いたらしいですな。そう、「空海」という名は、自分で考え、自分で名付けたようなのです。
一般的に、僧名は自分ではつけられません。出家をさせてくれる師から授かるものです。師は名付け親ですな。なので、死ぬまで師に従わねばならないのです。これが、師と弟子の関係ですな。
しかし、お大師さんは、後に唐に渡って恵果阿闍梨のもとで修行するまでは師はいませんな。師は、いわば自然、宇宙ですね。ま、後々詳しくお話しいたしますが・・・。

話を戻します。Aについてですね。
お大師さん、空白の7年間の間に、大日経に出会いました。しかし、大日経は、読んでも分かりません。全部で七巻あるのですが、一巻しか理解できなかったのです。
「ふむ、これが密教の経典か・・・。なるほど難しい。教えの部分は理解できるが、この悟りを得るための修行法がわからん。あの私度僧に聞いても・・・わからんだろうな・・・。密教は難しい、と言っていたからなぁ・・・。なるほど、難しい。うぅぅん、こうなったら、唐に渡って学ぶしかないか・・・」
てな具合だったのではないでしょうか。
おそらくは、大日経に出会ったのは、早い時期だったのでしょう。ひょっとしたら、「三教指帰」を書いた直後、あるいは、執筆中だった・・・かも知れません。そうでないと、行方不明になる理由がありませんからね。お大師さんにしてみれば、
「唐に渡って密教を極める」
という目標ができたからこそ、すべてを捨てて山野を旅する決意が付いたのでしょう。
「唐に渡るにはどうすればいいか・・・・。ふむ、まず金が必要だな。そうだ、その前に言葉もできないといけない。会話ができなければ意味がないからな。そうか、ならば、まずは唐の言葉を覚え、金を稼ぐことだな」
おそらく、そのように決意したのでしょう。

目標が定まれば、人間強いものです。ましてや求聞持法を成功させたお大師さん、先が読めますな。言葉を覚える自信もあります。
「言葉は何とかなる。問題は金だ・・・。どうやって稼ぐかだ。いや、唐に渡り、密教を学ぶのに、いったいいくらいるのか。そこをまず計算しなければな」
ということで、お大師さん、何を始めたかというと、おそらくは唐からやってきた人と接触を試みたのでしょう。そう、唐の言葉を知るには、唐の人間と仲良くなるのが手っ取り早いですからね。唐の情報も入りますし、費用のことも分かります。
これが、BCに通じてきますな。

唐に渡るためには、唐の言葉や文化を手にしなければいけません。渡航費用のことも知らねばなりません。いつの時代も情報は大事ですな。そこで、お大師さんは、唐人と仲良くなったのでしょう。
お大師さんが若かりし頃、唐からはたくさんの渡航者がいました。中には、密航してきた者もいます。正式に遣唐使船などで来た唐人は、主に都に滞在し、唐の文化を日本に紹介したり、医学や建築学について最新の情報を提供していました。しかし、そうした正式な渡航者は、わずかな人数でしたでしょうし、情報も古いものが多かったようです。都の仏教文化は、当時の唐の仏教文化に比べ遅れていたのですな。唐では密教が盛んだったのですが、日本では奈良仏教・・・法相宗や三論宗が中心であった・・・が主流です。民衆の間・・・私度僧の間では、密教らしきものが伝わっていたのですが、それも正式な密教ではありません。雑密(ぞうみつ)と呼ばれている、整理されていない断片的な密教だけですな。ましてや、天皇の耳には密教が唐では盛んという情報はまだ入ってきてはいません。その情報が天皇の耳に届くのは、お大師さんや最澄さんが唐に渡った直後ですな。
「日本の仏教文化は遅れている」
そうお大師さんは痛感したでしょう。どこからその情報を仕入れたのか・・・。それは、おそらくは密航していた唐人だったのではないかと思います。

九州は、福岡や博多、長崎周辺。中国・韓国が非常に近いですな。国の正式な船以外にも当然のことながら、勝手な貿易船が運航していたことでしょう。それは、唐人だって、日本人だって同じことですな。お互いにお互いの欲しいものを交換する、売買するのは当たり前の行為です。儲けるためには、国に内緒でやったほうがいいですな。バレれば捕まりますが、そうじゃなきゃ平気です。捕まる可能性は低いですし、賄賂も効きますな。当然のことながら、密航者も来ますし、密航する者もいます。
一説に、お大師さんも唐に密航していたのではないか、というものがあります。あれほど唐の語学に堪能で、文化もよく知っており、最新の唐の技術や科学的なことも知っていたらしい・・・となると、密航説もあながちうそ臭くはない、とも言えます。が、密航していたなら、そのあと遣唐使船に乗る必要もなかったでしょう。わざわざ2度も危険な目にあう必要もありませんからね。唐へ渡るのは、死を賭けた行為ですからね。
これは後の話なのですが、お大師さん、唐から帰ってすぐ、大宰府のお寺にこもります。20年唐に滞在する約束を破って2年で帰ってきてしまったので、大宰府にある寺で謹慎していたのですな。唐から戻ってすぐに、福岡で船を下りているのですな。都まで戻りません。ということは、福岡あたりにも土地勘があったと考えられます。行ったことがない土地、あてのない土地で船を下りることはしませんからね。
そう、お大師さん、私が思うに、空白の7年の間に福岡、博多、長崎あたり、あるいは九州全般を歩き回っていたのではないかと思うのです。で、唐からの密航者と仲良くなって、唐の言葉、最新の文化、技術や科学を学んだのでしょう。求聞持法に成功していますから、記憶力は抜群です。あっという間に言葉を覚え、漢詩を自由に作れるようになり、技術・・・特には鉱物関係・・・を覚え、さらには医学、薬学を身に着けたのでしょう。
なぜか?。それは、金を稼ぐためです。

鉱物の見分け方、医学、薬学は、お金になるのですよ。
鉱物を見分けられれば、その鉱物が宝となるかならぬかがわかります。金鉱脈なんぞを見つければ一発でOKですな。ま、それは難しいですが、水銀鉱脈は見つけやすいですね。朱を見つければいいのですから。当時、水銀は高く売れたのですな。薬にも使われますし、金メッキにも使われます。朱、自体も塗装に使いますから、高値で売れます。金を稼ぐことができますな。
医学がわかれば、人を救うこともできますが、それと同時に金も稼げますな。お金持ちの重要人物の命を救えば、礼金は多額だったでしょう。重要人物と言っても、官僚じゃありません。公家なんぞ、そんなに金持ちじゃないですからね。相手は貿易商ですな。商人の方がお金はもっています。いつの世も同じですな。医学・薬学に通じていれば、お金を稼ぐことは容易なのですな。
最新技術もお金になりますな。井戸掘りや開墾技術、土木建築関係もお金になります。村に最新の技術で橋をかけてあげる、土地を開墾してあげる、井戸を発見し掘ってあげる、燃える水(石油のことですな)の使い方を教えてあげる、温泉の使用法を教えてあげる、薬草を教え育てさせ売買させる・・・・。情報はお金を生みます。
おそらく、お大師さんは、密航してきた唐人と仲良くなり、語学だけでなく、文化や唐の習慣、技術・医学・薬学・科学等を学んだのでしょう。そして、それらを屈指して、あちこち旅をしながら、お金を稼いでいったのだと思います。
「ふむ、情報は金になるな。時々、九州に戻り、唐人から最新の情報を仕入れねばな」
などと思っていたのでしょう。

四国八十八か所。これができたのは、お大師さんが入定したずいぶん後のことです。しかし、その中のお寺には、お大師さんが開基したお寺もあります。そういうお寺の中には、水銀鉱脈の上に建っている寺もあるのですな。そういえば、大垣の虚空蔵さんで有名なお寺さんは、ガラスの原料の上に建っております。この寺もお大師さんの開基だと伝わっておりますな。
各地に残る弘法大師伝説というのがありますね。錫杖でついたらお湯が出た、水が出た、石油が湧いた・・・などなど、そうした伝説が各地に残っています。その多くは、お大師さんが本当に行ったのではなく、鎌倉時代以降の高野聖が行ったことであろう、と言われております。が、しかし、私は、お大師さんが行ったことも少なからず入っているのではないかと思っています。もちろん、唐へ渡る前のお大師さんが行ったことです。しかも、関西から西に残っている伝説のみです。関東や東北地方の伝説は、後に創られたか、地方のお坊さんが行ったことをお大師さんが行った・・・としたのでしょう。
せいぜい東海までの、主に西に残っている弘法大師伝説は、あながち作り話とは思えませんな。そのベースには、空白の7年間、お大師さんがあちこちで行ったことがあるのではないかと思うのですよ。もっとも、お大師さんの目的は、人助けをしながら渡航費用を稼ぐ、というものだったでしょうけど・・・。

お大師さんは、よくわかっていたのです。何か事を行うには、お金が必要だ、ということを。国がお金を出してくれない以上、自分で稼ぐしかない、ということを。だから、お大師さんは稼いだわけです。しかし、そういうことは、あまり吹聴することではありませんね。しかも、国に認められる宗派を築いてからは、お金に不自由することも少なくなったでしょうし、弟子も国が認めた者ですから、お金に苦労したことのない者でしょう。だから、あえて、自分がどうやって渡航費用を稼いだか、などということは、言う必要がないですな。
「どうでもいいじゃないか、そんなこと」
ということでしょう。お大師さんにしてみれば、
「事実としてわかっていることだけでいいじゃないか。どうやってお金を稼いだかって?。そんなことを聞いたって、お前らにはできないことだよ。聞いても仕方がないことだろ。お前らには必要のないことだしね」
てなもんでしょう。
「必要のないことならば、あえて言うこともないさ。ま、秘密があったほうが、人間、面白味が増すからねぇ・・・」
とも思っていたことでしょう。だから、あえて7年間のことについては、黙して語らず、を貫いたのでしょうな。

空白の7年間。そう言われますが、空白ではないんですよ。事実がそれを物語っているでしょう。
唐の語学や文化に堪能であった→7年の間に学んだのだ。
唐で20年過ごせるだけのお金を持っていた→7年の間に稼いだのだ。
それだけがわかっていればいいじゃないか、ということなのですな。ぜんぜん空白じゃないでしょ、ということなのですよ。どうやって語学や文化を学んだのか、どうやって稼いだのか、それは知らなくてもいいじゃないか、知ってどうするの?、知っても役に立たないでしょ?、いや、むしろそんなことは自分で考え発見することじゃないかい?、そうじゃなきゃ、大きなことはできないよ・・・・ということなのでしょうな。
いずれにせよ、行方不明になって7年ぶりに叔父の前に現れたお大師さんは、唐人もびっくりなくらい唐の言葉や文化に堪能で、大金を所持していたのです。で、
「唐に渡りたい。密教を学ぶのですよ。叔父さん、遣唐使船に乗れるように手配して下さい」
と唐突に頼み込んだのですな。ま、その姿を見れば叔父さんも
「これは・・・案外、将来は大物になるのかも・・・」
と思ったのではないでしょうか?。もちろん、失礼な奴だ、とも思ったことでしょうが・・・。

が、しかし、お大師さんの行く手を国の制度が邪魔をするのですなぁ。それについては次回に・・・。
合掌。



第十二話 私的お大師さん考D

叔父に
「遣唐使船に乗りたいので、何とかして欲しい。お金はあります。唐の言葉もわかりますからよろしく」
と頼み込んだお大師さん。しかし、簡単にお大師さんはそう言いましたが(きっと・・・・)、事はそう簡単ではありません。叔父さん、
「ふむ、わかった。まあ、なんとかしてみよう」
と、おそらくはそう答えたのでしょうが、いくらなんでも通ることと通らないことがあります。まあ、そのことをわかったうえで、お大師さんは「なんとかしてくれ」と頼んだのでしょうけどね。叔父さんなら、いいアイディアがあるでしょ、何とかなるでしょ、という腹積もりがあってのことなのでしょう。

遣唐使船に乗るには、まず目的と身分がはっきりしていなければなりません。勉学のために行くのか、交易のために行くのか、身分は公家なのか、僧侶なのか、学生なのか、国から依頼を受けた商人なのか・・・。
お大師さんは、私度僧です。それは違法な存在である、と前に言いました。ということは、お大師さん、現時点で身分があやふやなのですな。どこの誰かはわかっております。讃岐の豪族・佐伯家の息子、ですな。しかし、学生ではありません。辞めてしまいましたからね。僧侶でもないですな。私度僧ですからね。さて、叔父さん、困ってしまいます。
遣唐使船に乗るには、国の許可がいります。書類を提出しなければなりません。
「困ったことになった。お前の身分があやふやだから、今のままだと遣唐使船には乗れないぞ」
叔父さん、お大師さんにそう告げますな。
「えっ?、どういうことですか?」
驚くのはお大師さん。
「いいか、遣唐使船に乗るには、国から依頼を受けた商人か、船を操る水夫か、唐の国へ親書を持っていく官僚か、勉学のために留学する貴族の息子か、仏道修行のために留学する僧侶でなくてはならないのだ。お前はそのどれにも当てはまらん」
「叔父さん、私は僧侶ですよ」
「おいおい、正式な僧侶じゃないだろ。私度僧じゃないか。それでは書類が通らんのだよ」
「ではどうすれば・・・」
「そうだのう、正式な僧侶になるしかないのう」
「なんだ、方法があるんじゃないですか。いやだなぁ、叔父さん、びっくりしましたよ」
てなわけで、お大師さん、あわてて正式な得度を受けますな。槇尾山仙薬院施福寺(通称・槇尾山寺まきおさんじ、大阪和泉市)の勤操(ごんぞう)師に従って得度し、戒を受けます。
ただし、これは一説であります。後でお話しする東大寺での受戒も、一説には・・・なのです。正式には、不明が本当です。もしかしたら、お大師さん、叔父さんと一緒に文書偽造したかもしれません。実は、正式な得度も受戒も受けていないのに、どこかわけのわからないような地方の寺と住職の名前を使って得度・受戒したことにした・・・のかもしれません。まあ、そういう可能性は低いでしょうけど、ないとは言えませんな。お大師さんにしてみれば、唐に渡ってからが本当の修行ですから、そっちで得度も受戒もすればいい、くらいにしか思っていなかったでしょうからね。まあ、しかし、ここは、一説に従って話を進めていきます。

得度の際、きっとこのようなやり取りがあったと思いますな。
「お前さん、唐へ渡るそうだな」
「はい、渡ります」
「唐に行って何を学ぶか?」
「はい、密教を」
「ほう・・・密教とな。それはまた・・・。未だ誰も理解をしていないが・・・・」
「だからこそ、です。密教は、今までの仏教を大きく超えた仏教です。密教でなければ、今の世の中は・・・」
「ふむ・・・。そうかもしれんなぁ。まあ、わしには密教は理解できぬがのう・・・。それはそうと、出家名はどうする?。お前さん、自分で決めておるのだろう?」
「さすがは大徳。すべてお見通しで・・・」
「そんな言葉はいらん。どんな名前じゃ」
「はい、空海と・・・。空と海と書きます」
「ほう、空海とな。こりゃ、また、大きく出たもんだのう。なるほど、お前さんなら密教をものにできるだろう」
お大師さんは、それまで「教海」とか「教空」とか、勝手に名乗っていたようですが、巡り巡って「空海」に落ち着いたのですな。空のように大きく、海のように深く・・・仏とはそういうものだ、ということなのでしょうな。

こうして、まずは得度を受けます。その後、東大寺において受戒しています。これが、4月9日のことらしいですな。遣唐使船の出発日は、5月12日なので、まあ、一か月はあるのですが、大急ぎだったことは確かですね。
なぜ、こんなに急いだのでしょうか。叔父さんは、お大師さんに尋ねますな。
「真魚・・・いや、空海か。空海よ、なぜこんなに急ぐのだ。遣唐使船なら、来年も出るだろうに」
「いやいや叔父さん、遣唐使船は、今回出た後、当分は出ないですよ。で、次に出る船は・・・・それは、きっと私が帰ってくる船になります。その後は、いつ出るかわからないでしょうなぁ」
「そうなのか?」
「はい、そうです。私の見立てではね。去年はびっくりしましたよ。私の予測では、遣唐使船は今年のはずだったのに、去年、急に遣唐使船が出たでしょ」
「あぁ、出たなぁ。瀬戸内で難破したがな」
「えぇ、それで私の予測が正しいことが確認できましたよ。私の予測では、遣唐使船は今年なのです。去年ではないのですからね」
「空海や、お前さん、未来がわかるのか?」
「まさか・・・いやだなぁ、叔父さん。未来はわかりませんよ。あははは」
と、煙に巻くお大師さん。しかし、おそらくは予測していたのです。先のことが分かったのか、占いをしていたのか、何か情報が入っていたのか、それは知りません。しかし、遣唐使船が出港するのは、その年であって、その船に自分は乗れる、と確信していたようなのですな。しかも、この先、いつ出港されるかわからないから、唐に渡るチャンスはこの船しかない、ということもわかっていたようですな。このチャンスを逃がすと、唐には渡れる時が来るかもしれないが、帰ってこれなくなる可能性がある、と思っていたようです。年齢的なことを考えると、このチャンスを逃すと、もう後がないぞ、というわけだったのですな。そこまで、お大師さんはわかっていたようですな。
実際、お大師さんが唐に渡ってあとの遣唐使船は、その2年後ですな。それは、お大師さんが帰りの船として乗ってきた船です。その後は、随分先にしか出港されておりません。お大師さんの予測通りですな。

さて、お大師さん、無事に遣唐使船に乗ることができます。身分は僧侶。唐への目的は、仏教を学ぶこと。20年間、唐で仏教を学ぶ留学生(るがくしょう)として、遣唐使船に乗りますな。お大師さん31歳の年です。
遣唐使船は4隻ありました。お大師さんは第一船に乗っています。他の主な乗船者は、遣唐大使の藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)、橘逸勢(たちばなのはやなり。後、嵯峨天皇・お大師さんとともに、平安の三筆と称される)。総勢23名だったそうです。
第二船には、最澄さんが乗ってます。偶然にも最澄さんとお大師さんは同じ時期に唐へ行ったのですな。ま、最澄さんは公費ですけどね。このとき最澄さん38歳ですな。最澄さんは、留学生ではなく、唐の滞在期間が短い還学生(げんがくしょう)という名目で唐に渡っています。
お互い、この時は面識はありませんな。お大師さんは、知っていたかも知れません。まあ、知っていたとしても「国の命で偉いお坊さんが第二船に乗っている」程度だったかもしれません。まあ、お大師さんにとってみれば、どうでもいいことだったでしょうけどね。

さて、難波を出港したのが5月12日。遣唐使船4隻は、順調に進み7月6日九州肥前田浦港を出港しています。が、その翌日、嵐に遭いますな。暴風雨です。
遣唐使船は、4隻ロープでつながっていたそうです。暴風雨に遭うと、このロープを切りますな。そうしないと、ともに沈没してしまうことがありますからね。
田浦港沖で、4隻の船はバラバラになります。第3船は、壊れてしまい田浦港に戻っています。無事に戻れたのですな。第4船は、消息不明。つまり沈没してしまったわけですな。
最澄さんが乗った第2船は、漂流しながらも9月1日明州寧波(みんしゅうにんぽー)に到着します。
お大師さんが乗った第一船は、これも漂流した挙句、福建省の赤岸鎮(せきがんちん)に漂着します。だいぶ南に流されていますな。最近では、福建省もウーロン茶の原産地で有名ですが、当時はど田舎ですな。しかも、赤岸鎮はど田舎の中のど田舎。漂着した遣唐使船の上陸を許しませんな。怪しい船だと思い込んでしまったわけです。
当時、すでに海賊がいました。中国は、海賊が跋扈していたのですな。しかも、密輸業者もいました。今も昔もやっていることはかわらないですねぇ。
ま、それはともかく、遣唐使船の者が何を言っても通じません。道も言葉も唐の言葉と違っていたようですな。訛りがひどかったのかもしれませんし、他の民族が多い地だったので、まだ漢語が定着していなかったのかもしれません。
ともかく、上陸はできなかったのですな。もう少し北へ船で行くと、福州の出先機関があるからそこへ行け、というようなので、船は再び海へ出ますな。で、その福州の国の出先機関がある地に到着したのが、約二か月後の10月3日のことだったそうです。日本を出発して約3か月で、やっと何とかなりそうなところまで来ました。まあ、沈没しなかっただけマシなんですけどね。

が、しかし、ここでも海賊扱いされ、遣唐使船第一船の乗員は、全員船を下され、砂浜に正座させられてしまうのですな。船は封じられます。つまり、お大師さん初め、乗員はみな、捕縛されてしまったのですよ。
お大師さん大ピンチですな。しかし、なぜか、超然としているのがお大師さん。平気な顔をして捕縛されております。否、むしろ、楽しんでいるかのよう・・・。続きは、次回にいたします。
合掌。



第十二話 私的お大師さん考E

海賊と間違われ、捕えられてしまったお大師さんたち一行・・・。
遣唐大使の藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)は、必死に書状で「我々は日本から来た遣唐使である。私は遣唐大使である」ということを訴えるのですが、これがどうにも通じませんな。向こうにしてみれば
「日本の遣唐大使の書く文章とはとても思えぬ。お前、偽物だろう。海賊に違いない。日本の遣唐使船の振りをしているのだな」
というわけですな。葛野麿、どうやら文章が下手だったようですな。というと、葛野麿がかわいそうなので、ちょっと弁護しておきましょう。
当時の中国の官僚は、直接的な文章を嫌ったようですね。いわゆる美文でないとダメだったようです。直接、身分や目的を淡々と書くのではなく、文章が装飾的でないといけなかったわけです。つまり、文書が優雅でないとダメなのです。目的や身分などを箇条書きにしてはいけないのですな。
ま、そのほうがわかりやすいのですが、これだと、誰でも書けます。誰でも書けるということは、偽物が誕生するということでもありますな。海賊どもが、日本から来た遣唐使船のマネをすることも可能なわけです。同じ中国内の商業船に化けることも可能です。
海賊と日本の官僚・・・公家、貴族・・・の違いは何か。あるいは、中国内の商業船との違いはなにか。それは、文化の違いですね。日本の官僚は、それなりに美しい装飾的な優雅な文章が書けます。中国内の商業船の船長や隊長でも、中国にはそういう文化があるとわかっていれば、ちゃんと学習しておきますよね。中国は遥か昔から、文章の国なのですからね。
しかし、海賊にはそんな文化はありません。美しい文章を書くなどという学習はしてませんな。そんな学習をしていれば、海賊にはなりませんな。
そこで、港を警備する唐の官僚たちは、美しい文章が書けるかどうかで、海賊か日本からの遣唐使か、商業船か、を見分けていたようですな。
そのことを葛野麿は、知らなかったのでしょう。

途方に暮れた葛野麿、頭を抱えますな。
「どうしたらいいんだぁ〜。このままでは処刑されてしまう・・・」
そこに助け舟が入ります。おそらくは、橘逸勢が進言したのでしょう。
「あそこにいる空海は、唐の国の言葉がペラペラです。漢詩もうまいらしい。あの者に文章を書かせてみてはどうですか?」
ま、ちょっとしたやり取りはあったのでしょう。「あんな者にできるのか?」とか「信用できるのか?」みたいなことは、葛野麿は言ったでしょうな。しかし、一応、留学生だし、僧侶だし、通訳もできるという触れ込みだし、橘逸勢殿が言うのなら・・・ということで、お大師さんに
「なんとかしろ。お前、唐の言葉がわかるんだろ。漢詩も得意なんだろ。お前がやれ」
みたいな感じで、命じたんでしょうね。
お大師さん、へいぜんと、「承知しました」とでも言ったのでしょうな。

結果を先に言えば、お大師さんの書いた文章は、とても美しい文で、装飾的で、優雅で、気品のある文章だったのですな。当然ながら、文字もうまい。素晴らしい文字で書いてあったのです。福州の官僚も
「これは素晴らしい。素晴らしい文章だ。あなたたちを日本から来た遣唐使と認めよう」
と言ったのですな。で、入国が許可されたのです。

「空海の風景」という本があります。作者は司馬遼太郎氏です。司馬さんは、この場面を大変批判的に見ていますな。正確な文章は忘れましたが、「ギリギリまで黙っているのは嫌らしい、嫌味な男だ、もっと早くに助けるべきだ」みたいなことが書いてあったように思います。「如何にも・・・的で、嫌な人間だ」のように司馬さんは受け取ったようですな。ま、誤解なんでしょうけどね。

一介の留学生が、遣唐大使に
「私がかわりましょうか?」
と言えますか?。言えませんよねぇ。身分が違います。また、そう言ったとしても、相手にされませんよね。
「はあ?、お前が?、あー無理無理、余計にこじらせるだけだ。引っ込んでろ」
と言われるだけですな。
お大師さんは、留学生として船に乗り込んでいるのです。唐の言葉もでき、通訳もできる、という触れ込みですが、官僚の葛野麿にしてみれば、相手にしませんな。「所詮、身分の低い乞食僧でしょ」と思っていたことでしょう。身分の差による偏見は、歴然としてあったのですよ。司馬さんともあろうお方が、そのあたりを考慮されていないことに、ちょっとびっくりですな。
あ、ちなみに、「空海の風景」は、ある意味、いい本です。読んでみるといいと思います。お大師さんのファンは、その内容にムカつくでしょうけどね。しかし、そういう見方もあるのだ、ということを学ぶことはできますので、ファンの方も一読するといいと思います。
ま、結局はお大師さんの書状のお陰で信用を得ることができ、一行は入国を許されますな。

ここで、ちょっとしたトラブルがあります。あまり知られていませんが、唐の都の長安に入っていいと許されたメンバーの中に、当初「空海」という名前がなかったのですな。長安行のメンバーから、お大師さんは外されたのです。これにはお大師さんもあわてますな。急ぎ書状を出し、都で勉学したいといと訴えますな。その訴えにより、何とか長安入りを許されます。お大師さん、ちょっと焦ったことでしょうねぇ。
なぜ、そのような手違いが起きたか。説は二つに分かれております。一つは、福州の官僚がお大師さんのことを気に入って、しばらくそばにおいておきたくなった、日本のことや文章、文字について語り合いたかった、言葉も巧みだし、度胸もあるし、何かと役に立ちそうだと思った・・・、という理由から、長安に行かずにここにいなさい、ということになり、長安行のメンバーから外した・・・という説。
もう一つは、葛野麿が、長安行のメンバー申請時にお大師さんの名前を外していた、という説。これは、葛野麿が「あのヤロウ、俺に恥をかかせやがって・・・」という恨みから、わざとメンバーから外した、ということですな。「今後、一緒にあの有能な男と行動をすると、私がますます恥をかくではないか、ならばいっそのこと、ここに留めておくか・・・」というわけですな。ま、一種の意地悪、意趣返しのようなものですな。
多くは、初めの方の説をとりますな。しかし、葛野麿意地悪説も捨てがたいですね。如何にも公家や官僚がやりそうなことじゃないですか。身分が低い者のくせに自分より優秀だなんて・・・許せん!・・・てなもんでしょう。こういう話は、現代でもよく聞きますな。有り得そうな話です。
ま、いずれにせよ、当初は長安入りのメンバーから外されたお大師さんですが、無事に長安に行くことができますな。いよいよ、唐の都に向かうわけです。

唐の都についたのは、12月23日。遣唐使船が日本を出てから半年近く過ぎていました。なお、大使一行は、長安に入ってから間もなく日本に戻っています。お役目終了、というわけですな。
さて、唐の都に入ったお大師さん、まっすぐに密教の聖地「青龍寺」には行きませんな。橘逸勢ら留学生は、西明寺というお寺が寄宿舎になっております。お大師さんも橘逸勢らとともに、西明寺に滞在しますな。で、そこから、本来ならば、すぐに密教の寺「青龍寺」に向かわねばならないはずです。しかし、お大師さんは、「先ずは、語学」ということで、サンスクリット語を学びに行きますな。なぜならば、サンスクリット語を学ばなければ、真言を理解できないからですね。
当時、唐の都には般若三蔵と牟尼室利(むにしり)三蔵という二人のインド人の僧侶が来ていました。その二人が有名だったのですな。お大師さんは、まずは、この二人のインド人の元へ行っております。そこで、サンスクリット語とインド哲学などを学んだようですな。
しかし、ただ勉強だけをしていたわけではありません。ここがお大師さんのお大師さんらしいところですな。お大師さんは、街をぶらつくのです。
当時、唐の都・長安には世界一の・・・と言っても過言ではないくらいの・・・市場がありました。シルクロードを経て、西欧方面から様々な品物が入ってきていました。もちろん、それに伴い、いろいろな国の人、宗教、習慣も入ってきています。お大師さんは、市場や街をぶらつくことにより、世界の文化を学んでいたのですな。
やがて、市場の人たちとも仲良くなります。なんせ、語学が堪能だし、漢詩も得意だし、字もうまい。また、興味を引くものに関しては、何でも質問したでしょうから、市場ではちょっと知られた人物になってしまいますな。当時の中国では、先ず言葉が堪能であること、文字が上手いこと、漢詩が即興でうまく作れること、が尊敬を集める基本的要素なのですな。お大師さんは、そのどれもできたのです。あっという間に名前が広まったのも当然でしょう。
「今度日本から来た空海とかいう留学生の僧は、大したもんだ。言葉はうまいし、字もうまくかける。漢詩も得意と来ている。ありゃあ、我々以上だ。唐の人も顔負けだね」
といった感じでしょうな。しかも、気さくに話しかけるので、市場の人たちともすぐに仲良くなりますな。現代の若者のようにコミュニケーションが下手、なんてことはないのです。
あ、ちなみに、コミュニケーションが下手な人は、考え過ぎな方が多いですな。
「こんなことを言ったたら恥ずかしいんじゃないか、どうやって話そうか、なんて言えばいいのか、相手に嫌な思いをさせないか・・・・」
考え過ぎですな。相手は、そこまで考えていませんよね。聞きたいことを聞けばいいのです。それが常識に照らし合わせて失礼な質問でないなら、聞けばいいのですよ。何も考えずにね。「わからないから聞く」でいいのです。「わからない」、「知らない」は、恥ずかしいことじゃないんですからね。まあ、これも、日本の教育が悪いんでしょうな。親や教師に何か質問すると
「あら、そんなことも知らないの?」
なんて返事されるのがいけませんな。どんな質問に対しても
「いい質問だね」
と言ってあげれば、聞くことを恥ずかしがらない大人になっていくんですけどね。そういう教育が望ましいですな。
余談でした・・・。

話を戻します。
さて、都で評判の空海という若者。あちこちで引っ張りだこの人気者になりますな。食事のお付き合いも当然あります。髪の毛の色が違う、眼の色が違う女性がいるような酒席にも、きっと呼ばれたでしょうな。おそらく、橘逸勢などは
「おいおい、空海よ、そんな席に行っていいのか?。お前さん僧侶だろ?。戒律は大丈夫なのか?」
と心配したでしょうな。しかし、お大師さん、そんなことは何とも思いませんな。
「いいんじゃない。向こうが接待してくれるんだし。別に変なことをするわけでもない。酒を飲み過ぎて酔うわけでもない。それよりも、いろいろな国のいろいろな話が聞けて面白いぞ。世界は広いなぁ。日本は小さい・・・。どうだ?、お前も来ないか?」
と逸勢を誘ったくらいでしょうな。まあ、逸勢は語学が苦手だったようで、そういう席には行かなかったようですが・・・。

すっかり長安の都の有名人になってしまったお大師さん。そんなころには、サンスクリット語も堪能になっていました。インド哲学・・・梵我一如(宇宙も自分も一つである)・・・も理解しました。
「下準備はできた。さて、そろそろ密教を学びに行くか」
てな具合で、お大師さん、青龍寺に向かいますな。これが、長安に入った翌年の6月のことです。なんと、半年間もお大師さんは市場をうろついていたんですな。遊んでいたんです。まあ、ちゃらちゃら遊んでいたわけではないですけどね。市場や市井をうろつきながら、様々な文化や人間、経済などを学んでいたのです。これは、とても大切なことですね。そう、社会勉強、なのです。
これができていないと、「世間知らず」と言われますな。現実を知らない者、になってしまいます。世の中の下から上まで、西から東まで、いろいろと知っていないと、人を導くことなど難しいですよね。理想と現実は違います。いくら理想論を掲げても、いくら仏教の思想を説いても、現実はそう簡単にはいきません。苦しんでいるのは、現実なのです。そうしたものに、理想を説いても、説教をしても何の意味もないですな。
「そんなことはわかっています。でも、現実はそういうわけにはいかないのです」
と言われるのがオチです。世間を知らないと、現実は理解できません。また、人との交流もヘタクソになります。いろいろな人と交流をし、いろいろな文化や習慣などを学び、相手を知ることにより、人を見る目や人に話をするテクニックが身につくのですな。誤解を承知の上で言えば、
「世間を知らなければ、人を丸め込むことなどできない」
のですよ。宗教は、一種の洗脳です。丸め込むことも大切です。信じ込ませることができなければ、宗教家とはなりえませんな。単なる宗教学者になってしまいます。それは、お大師さんの目指すものとは異なるでしょう。お大師さんは、宗教学者になりたいのではないのです。人々を救える宗教者になりたいのですな。それには、人を知ることが大切なのですよ。だからこそ、街をぶらついていたのですな。
それを理解できない人がいるんですよねぇ。まあ、そういう人は、やはり学者系の人なんでしょうな。

青龍寺を訪れたお大師さん、すぐに奥に通されますな。そして師である恵果阿闍梨と初めて出会います。
「あなたが来るのを前から首を長くして待っていましたよ。あぁ、とてもよいことだ。さて、さっそく修行しましょう」
恵果阿闍梨の第一声がこれでした。それは、恵果阿闍梨がお大師さんの中に、非凡なる才能を見出したからこその言葉だったのです。
それを密教がわからないものは、批判的に見るのですな。先に紹介した司馬遼太郎さんがそうですね。「空海の風景」では、
「これは空海の演出である、策略である。前評判をよくしておいたからこそ、恵果阿闍梨は、あなたが来るのを待っていた、と言ったのだ。そうなることを計算して、市場を徘徊していたのだ」
と批判をしていますな。イヤな奴だ、と(文章は正確ではありません。このようなことを司馬さんは書いていた、ということを要約して書きました)。
ま、確かに見ようによっては、作戦に見えるでしょう。すべて計算のように、ね。しかし、それは、恵果阿闍梨をバカにしていることになりますな。いくら前評判が高くても、都で有名な僧であっても、密教の器・素質があるかないかは別問題です。いくらなんでも、密教の器がないものに、恵果阿闍梨のすべてを伝授するわけがありません。いくら市場で有名な者であってもね。司馬さんは、そのことをわかっていませんな。司馬さんの論で行けば、恵果阿闍梨は前評判で弟子を決めていた、となってしまいますな。それは、恵果阿闍梨をバカにしすぎですな。密教のトップである恵果阿闍梨です。そんな前評判に左右されるほど、小さい人物ではないですな。恵果阿闍梨は、人を見る目がない人物ではありませんな。
密教を理解していないものが、この場面を見ると、まあ、誤解するのは仕方がないでしょうけどね。もう少し突っ込んで言えば、
「自分の器でしかものを見ない者は、真の姿は見えてこない」
のでしょう。司馬さんの力量、視野では、密教は理解できないのでしょうねぇ。ま、それは仕方がないのですが・・・。だって、修行をしていませんからね。あくまでも、作家ですから、あの人は(決して、司馬遼太郎さんが嫌いなわけではありません。好きな作家です。ただ、『空海の風景』に関しては、偏った考え方だな、と思うだけです。でも、密教者はこれを読む必要はあると思います。こういう考え方もあるのだな、ということを知ることは大切ですからね)

さて、お大師さんの才能を一目で見抜いた恵果阿闍梨。病気の身体を無理して、数多くいる弟子の誰にも伝えていなかった金剛界・胎蔵法の両部の大法をお大師さんに伝授しますな。
続きは次回に・・・。合掌。


第十二話 私的お大師さん考F

密教の聖地、青龍寺。その頂点にいらっしゃるのが恵果阿闍梨です。お大師さんが青龍寺を訪れた時、恵果阿闍梨は病気だったそうです。
いまだ、恵果阿闍梨は密教のすべてを誰にも伝授していませんでした。密教のすべてとは、金剛界・胎蔵法の教え及び修法です。千人を超すとも言われていた弟子の中で、誰一人その両部の秘法を受け継いだ者はいなかったのです。それを日本から来た留学僧があっという間に伝授されてしまったのです。弟子の中から不平不満が出るのは当然でしょう。
今まで恵果阿闍梨の元で修行重ねてきた弟子たちにとってみれば
「なんで?、なんであの者が?。ついこの間、日本から来たばかりじゃないか。ちょっと都で評判がいいからって、我々を差し置いて、両部の大法(金剛界・胎蔵法の教え・修法)を伝授されるとは!。恵果阿闍梨はどうされたのだ!」
と、言いたくなるでしょうな。実際、そのような声も多々あったようです。が、恵果阿闍梨、
「器の問題じゃ。お前らには、両部の大法を受け入れるだけの器がない。この者・・・空海には、その器がある」
と一言で片付けますな。そして、それは
「すぐに証明される」
とも。
それは、灌頂の儀式ではっきりします。灌頂の儀式の中で、「投華得佛(とうげとくぶつ)」という儀式があります。両手で印を組み、その印の指に樒の房を挟みますな。で、敷いてある曼荼羅に向かって投げます。この時は、樒を投げる者は目隠しをされていますので、どこに落ちるかはわかりませんし、どの仏様を狙おうか、ということもできません。
「はい、樒を挟んで、はい投げて」
と言われるがままに投げますな。
現在の灌頂では、指先を目いっぱい伸ばすように指示されます。そうすると、敷いてある曼荼羅のちょうど中心・・・大日如来のいらっしゃるところ・・・に指先が来るようになります。そのまま、そっと指を開けば、樒の房は大日如来の上に落ちるようになっていますな。
ところが、昔は違っていたようで、敷いてある曼荼羅に向かって投げるようにしたらしいのです。そのようなやり方では、とうてい大日如来に樒の房は落ちませんね。どこに飛んでいくかも予測不能ですな。曼荼羅上に落ちるだけよし、というくらいだったのでしょう。多くの者は、曼荼羅の上にすら落ちない・・・といった状況だったのでしょう。
お大師さん。なんと、金剛界も胎蔵法も、投げた樒は曼荼羅の中心の大日如来に落ちますな。これは、奇跡的ともいえます。いや、まさに奇跡でしょう。そんな者は、いなかったのですから。
「これぞ、密教の両部の大法を受け継ぐ者の器じゃ」
そういうことなのですな。これで、誰もお大師さんが密教の正式な継承者になることを批判しなくなったのですな。
また、この時に恵果阿闍梨から「遍照金剛」の号を与えられますな。「遍照」とは「普く照らす」という意味です。これすなわち「大日如来」のことですね。「金剛」はダイヤモンドのことで、大変堅固であることを示しています。
「大日如来のように堅固で不変である者」という称号ですな。お大師さんは、この時、大日如来となったのですよ。なので、我々は仏様を拝むようにお大師さんにも同じように
「南無大師遍照金剛」
と唱えて祈るのですな。

さて、めでたくお大師さん、両部の大法、すべてを伝授されます。跡継ぎができたことにホッとしたのか、まもなく恵果阿闍梨は涅槃に入りますな。
「早く日本に帰って密教を広めよ」
という遺言をお大師さんに残しますな。お大師さん、その遺言に従うべく、大急ぎで曼荼羅や密教経典の書写、仏画・仏具・仏像類の製造などを依頼します。そのために20年分の留学費用をすべて費やしますな。それらが出来上がる間、お大師さんは王宮に招かれたりしていますな。唐の国王からの招待を受けていたのですな。
その席で、お大師さんは書を披露します。屏風にすらすらと漢詩を書くわけですな。そのことにより、国王から「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与えられますな。
この「五筆和尚」については、妙な伝説があります。
国王の前で、お大師さん筆を両手両足に持ちます。さらにもう一本の筆を口にくわえます。そして、屏風の前に座ると、なんと両手両足口の五本の筆で、さらさらと一気に五行の漢詩を書き上げた・・・・。
ウソですな。これじゃあ、大道芸です。大道芸でも無理でしょう、そんなこと。できる人がいたら、今頃TVに引っ張りだこですな。
「五筆和尚」・・・これは、どんな書体でも書くことができる、書の達人という意味の称号ですな。書には、楷書・行書・草書・隷書・篆書の5種類の書体に加え、雑書体という字があります。ちょっと特殊な文字ですね。お大師さんは、それらすべてを書くことができたんですな。だから「五筆和尚」の称号を与えられたわけです。まあ、まさか、両手両足に挟んだ筆と口加えた筆で書をしたためた・・・なんて伝説信じている人はいないと思いますが、念のために解説しておきました。

さて、そんな中、遣唐使船がやって来るという情報をお大師さんは手に入れますな。
「おう、いい機会だ。逸勢、今度やって来る遣唐使船に乗って、日本に帰るぞ」
とお大師さん、橘逸勢に言いますな。逸勢はびっくりです。
「おいおい、待てよ空海。俺たちは20年間、唐に滞在する約束で来ているんだぞ。それを破って日本に帰ったりしたら、とんでもない罰を食らうぞ」
「そんなことはないさ・・・いや、俺は罰を食らうだろうけど、逸勢、お前さんは大丈夫だ。身分が身分だからな」
「お前・・・罰を食らうことをわかって、日本に帰るっていうのか?」
「もちろん。いいか、逸勢。この船を逃したら、いつ帰れるかわからないぞ。ひょっとしたら、もう船は来ないかもしれない。そうなれば、密入国で日本に帰らねばならぬ。そのほうが罰は重い。それに、密入国では、堂々と世に出られないからな。だから、今度来た遣唐使船で帰るのだ」
「し、しかし・・・、俺は、まだ何もやってないし・・・。唐の言葉も覚えていないし・・・。なんの成果もなしに帰ることなんて・・・」
「お前なぁ、この1年半、何やっていたんだ?。少しは何か身につけただろう?。唐の歌とか、楽器とか、覚えたじゃないか」
「あっ、あぁ・・・。その程度だが・・・」
「それで十分さ。お前は、語学が苦手だからな。まあ、それでいいじゃないか。書だってうまいんだし、俺と一緒に宮中だって行ったんだから、土産話の一つや二つはあるだろう」
「そんなんでいいのか?」
「そんなんでいいのさ。日本は今、20年の約束を端折って帰ってきてしまった貴族の息子にとやかく言う余裕なんてないさ」
てなやり取りがあったかどうかは知りませんが、急に日本に帰るぞ、と言い出したお大師さんに橘逸勢が慌てたのは確かでしょう。実際、彼は語学が苦手で、唐の都に2年近くもいたにもかかわらず、まったく唐の言葉ができなかったそうです。ただ、書は、お大師さんと嵯峨天皇とともに、「平安の三筆」と称されるほどの腕前でした。また、唐の楽器を巧みに奏でることはできたそうです。

鉄は熱いうちに打て。
取れるものは取れるうちに取れ。
チャンスを逃がしてはいけません。日本に帰ることができるチャンスはここだ、とお大師さんはわかっていたのでしょう。実際、そのあとしばらくは、遣唐使船はお休みいたします。
「あぁ、しまったあの時がチャンスだったのだ」
という後悔は、お大師さんにはありません。密教を極めた者は、時勢を読むことにもたけますな。否、世の中の流れ、自然の流れがわかるのです。たとえて言えば、川の流れに丸太が流れてくるのをひょいひょいと飛んで、川に落ちないように流れに乗っていける・・・それが密教を極めた者なのですね。
そう、お大師さんは、流れに乗っているだけなのです。
船がやってきた、じゃあ乗ろうか・・・・。自然の流れに従っているだけなのですよ。もっとも、その流れを見極められないのが、凡人なのですけどね。だから、凡人は後悔をするのです。

日本に戻る前の伝説で重要なことが一つあります。それは、お大師さんが海岸から
「私が日本に戻った時に根本となる地を示したまえ」
と言って三鈷(さんこ。密教の仏具の一つ)を投げたことです。その三鈷、そのまま中国から日本に向かって飛んでいき、高野山の松の木に引っかかっていたのですな。日本に帰って高野山を天皇に下さいと頼み、許可が下りてお大師さんが高野山に登ってみると、一本の松が光り輝いているのですな。その光は、太陽の光を受けた三鈷だったのです。それを見てお大師さんは
「あぁ、この地が日本に密教を広める根本の地で間違いなかった」
と感激したのです。このことにより、その松の木は、葉っぱが3本になったそうです。それ以来、その松の木は「三鈷の松」と呼ばれており、今も伽藍の御影堂(みえどう)の前に立っています(もちろん、オリジナルではありません。何代目かの松です)。葉っぱは、普通の松は二本ですが、この松は三本です。
と、まあ、このような伝説がるのですが、もちろん伝説です。
三鈷の松は、ちゃんと実在していますよ。三本に分かれた松の葉がお守りになるといって、以前は皆さん拾っていかれたのですが、最近では拾う人はあまり見かけないですね。きっと、この伝説を知らない人が多いのでしょうな。ま、信仰心で高野山に来ているわけではなく、観光で高野山に来ている方が多いですからね。高野山に参拝ではなく、観光に来ているのですな。まあ、それでも誰も来ないよりはいいのですけどね。ちょっと寂しいですな。

話は戻ります。さて、そのお大師さんが投げたという三鈷、現存します。といっても、伝説ですから、本当にお大師さんが投げた三鈷かどうかは怪しいですが。それに、その三鈷、とても大きいのですな。あんなの投げられやしません。あんなの投げることができるのは、スーパーマンくらいですな。まあ、お大師さんは、ある意味スーパーマンですが・・・。
きっと、おそらくは、日本に帰る前にお大師さんは、祈願をしたのでしょう。日本に帰って、密教を広めるための根本となる地を私に示してください、とね。それが後々、三鈷の伝説となったのでしょうな。
あ、そうそう、この伝説について、次のようになことを言っている方もいらっしゃるそうです。
「空海は、日本に帰って2年の間、山野を徘徊していた。その間に、きっと高野山にも登っていたのだろう。そこで、高野山の地が気にいった空海は、高野山の山頂にあった松の木に三鈷をあらかじめ縛り付けておいたのだ」
どこまで、ひねくれた考え方をしておるのでしょうかねぇ。信じられませんな。こういう考え方できるっていうことは、その人、よほどひねくれているんでしょうねぇ。どうしてそんな目で人を見るかな、と思いますな。かわいそうな人だな、とも思いますな。まあ、こういう哀れな人は相手にしない方がいいですな。

さて、20年いる予定だったお大師さんと橘逸勢。やってきた遣唐使船に乗せてください、という嘆願書を出しますな。逸勢の分もお大師さんが書いてあげます。で、それを遣唐大使の高階遠成(たかしなのとおなり)に渡します。もちろん、素晴らしい文章だったのでしょうね。そういうことならば・・・ということで、高階遠成は二人の帰国を許しますな。こうして、お大師さんは、日本に帰ることとなったのです。

日本に到着する前に、有名な伝説がありますので、ご紹介しておきます。
帰国の途中、お大師さん一行は、嵐に見舞われます。海は大荒れですな。今にも船は沈没してしまいそう・・・。お大師さん、それを予期していたのか、船に乗ってから不動明王の像を木で彫り続けておりました。そして、嵐に見舞われたとき、お大師さん、自らが彫った不動明王像に嵐を沈めるように祈願をしますな。すると、不動明王が海の上に現れ、船に向かっていた大波をその剣で真っ二つに割ってくださったのです。船は、その割れた波の真ん中をすーっと進んでいった・・・のだそうです。これが有名な波切り不動の伝説ですね。このときの不動明王像は、高野山に残っております。電車で高野山に登りまして、バスに乗りますと、「波切り不動前」というバス停があります。そこがそれですな。
是非一度、御参拝くださいませ。

さて、お大師さんらが乗った船は、無事に九州までたどり着きます。難波の港や都まではもう少しですな。が、お大師さん、何を思ったのか、九州で船を下りてしまいます。高階遠成に唐から持ってきた密教経典や絵画、仏像、法具等を記載した目録(御請来目録・・・ごしょうらいもくろく)を天皇に渡すようお願いして、船を下りてしまったのです。そして、そのまま大宰府にこもりますな。まあ、謹慎した、ということなのでしょうか。
が、お大師さん、それから約2年ほど、またまた行方不明になってしまいますな。さてはて、どこで何をしていたのか・・・。それにつきましては、次回に・・・。合掌。


第十二話 私的お大師さん考G

都へは行かず、九州は大宰府で船を下りてしまったお大師さん。なぜ船を下りてしまったのか・・・。
一説によれば、20年留学するという約束を破ったために都に入れなかった、というものがあります。大宰府で謹慎していなさい、ということですな。そういう命令が都からあったか、遣唐大使の高階遠成の判断であったか、それはわかりませんが、とにかく約束違反だから大宰府で謹慎して処分を待て、ということだった、という説ですな。
しかし、これもはなはだ弱い説なのです。処分を下すなら、都へ呼ぶはずです。都に連れ帰り、しかる場所で謹慎させるでしょう。寺へ預ければいいのです。しかも、橘逸勢は都に帰っています。まあ、彼は貴族ですから、お咎めはないでしょうけど。もちろん、二人の帰国を許した高階遠成もお咎めは無し、です。ならば、お大師さんにしたってお咎めはないはずでしょう。そこで考えられるのは、「自主的謹慎」ですね。
御請来目録には
「20年唐で留学するはずが、2年で帰ってきてしまいました。これは死罪に値するほどの罪ですが、とても素晴らしい得難い教えをたくさん持って帰ってきました」
とあります。なので、お大師さんは、都に入れなかったのだ、と言う説を皆さんとられるのですね。ですが、これは唐の表現、その当時の表現法であって、まあ大げさなのですな。深く詫びている文と考えるのが妥当のようです。
「空海の風景」の司馬遼太郎さんは、
「わざと大宰府で船を降り、唐から持ち帰った経典の目録を天皇に献上することで、都での空海の評判が上がることを待った。当時は、最澄が先に密教を持ち帰っておいて、宮中はちょっとした密教ブームになっていたため、空海が持ち帰った経典類に天皇が興味を持つことは間違いなかった。そこまで読んで空海は大宰府で船を下りたのだ」
と推察していますな。まあ、これも間違いではないと思います。おや、ここでは司馬さんを責めないのかい?、と問う声も聞こえそうですが、司馬さんの推察もあたってはいるでしょう。お大師さんは、自分が持ち帰った経典類に対し、天皇たちが興味を持ち、見たい・聞きたいと思うに違いない、と言うことはわかっていたのです。そりゃ、それくらいは誰でもわかるでしょう。

当時、宮中はちょっとした密教ブームでした。最澄さんがお大師さんよりも密教を先に持ち帰っていたんですね。天皇も唐で流行っている密教にすごく興味を持ち始めたころだったので、最澄さんが持ち帰った密教は、瞬く間に宮廷で広まったのです。最澄さんの心とは裏腹にね。
最澄さんは、密教は帰国の際に立ち寄った港でほんのちょっと学んだだけでした。事のついでに密教の経典も学んでおこう、程度だったわけです。最澄さんの目的は本場の天台山で本場の天台教学を学ぶことだったのです。そして、それを日本に広め、天台教学による日本仏教の刷新を考えていたのです。ダメになっている日本仏教を天台の教えで立て直す、という目的があったのですな。最澄さんにしてみれば、天台教学が最も重要なのです。密教は、ついで、だったのですな。
ところが日本に帰ってみますと、「天台はどうでもいい、密教じゃあ〜」と天皇たちが騒ぐのですな。そこで、最澄さん、うろ覚えの密教を披露することになります。灌頂(密教では最も重要な儀式)なんぞも行ったりしますな。天皇を始め、貴族たちは大喜びですが、最澄さんの気持ちは・・・心苦しかったでしょうねぇ。いい加減なことが大嫌いだったようですからね、最澄さんは。
都がその当時、密教ブームにあったことや最澄さんが渋々密教儀礼をおこなったことは、当然ながらお大師さんの耳にも入っています。そこへいきなりお大師さんが登場しても、これはうまくないでしょう。おそらくは、
「空海、最澄殿に密教を全部教えて、最澄殿を支えなさい」
となるに決まっていますな。つまり、その状況でお大師さんが都に帰っても、お大師さんは最澄さんのサポート係になってしまう可能性が高かったわけですな。これはいけません。なぜなら、最澄さんは密教人間ではないからです。お大師さんは、なんとなくそのことに気付いていたのでしょうねぇ。しかも、最澄さんは国が認めたトップの僧侶です。いわば官僚側ですな。そうした者に、民衆の声は届きにくいでしょうな。お大師さんは、どちらかと言えば民衆よりですな。官僚側ではないのですよ。その点でも、最澄さんは密教人間にはなりにくい、とお大師さんは考えていたのではないかと思います。
なので、最澄さんがもたらした密教ブームを利用させてもらおうと判断した、というのは、これから人々のために密教を広めようと思っているお大師さんにしてみれば、当然の戦略だったと思います。むしろ、そうしなきゃダメでしょう、ということですな。これは悪いことではありませんよね。

もう一つ都に入りたくない理由があったと思います。これは私的考えです。それは、密教の作法を練習したかった、ということです。というより、密教のあらゆる作法を完璧にこなせるよう練習したかった、ということですね。
密教には、いろいろな作法があります。修法といいます。金剛界・胎蔵法の修法はもとより、いろいろな仏様の供養法があります。また、護摩のような特殊な修法もあります。灌頂の儀式もあります。それぞれ、印や真言が異なりますな。いくらお大師さんが求聞持法を成功し、スーパー記憶術を手に入れていても、その修法を効果あるように行うには訓練が必要でしょう。やりこなすことが必要、と言ったほうがいいですかね。
記憶はしていても、中身が大事なのです。修法の順番や印や真言は覚えていても、我がものになっていなければ、効果は期待できません。密教には、実践が必要なのです。おそらくは、お大師さん、大宰府で船を降りた後、いろいろな寺や山などで、密教の修法を実践してみたのでしょう。何度も何度も行うことで、すべてを自分のものしたのでしょうな。そのための時間が必要だったのです。と、私は思っています。きっと、お大師さんは、
「おう、この作法はこのような効果が期待できるのか。ふむ、なるほど、ではこれは・・・おぉ、仏と一体化できるぞ。ならばこの作法は・・・・」
といって、試していたのでしょうね。唐ではそんな時間はとれなったですからね。お大師さんは、九州の山々や寺、そこからさらに足を進め、四国や近畿地方の山や寺で修法を行いつつ、旅をしたのではないかと思うのですよ。都に出るチャンスを狙いつつね。当時は、宮廷の力を利用しなければ、何もできない時代です。日本に密教をもたらし、その効果を与えるためには、天皇の力は絶対に必要です。お大師さんは、天皇や貴族に利用されるのは嫌ったでしょうけど、天皇や貴族を利用し、彼らが持っている力や財力を民衆のために還元したかったのではないかと私は思っております。お大師さんが後に行ったことから考えますと、それは外れではないと思うんですけどねぇ。まあ、そのことはおいおい話していきましょう。

さて、お大師さんの消息がはっきりするのは、大宰府で船を降りてから約2年後のことです。お大師さんは、和泉国(大阪府和泉市)の槇尾山寺(まきのおさんじ)にいました。大同4年(809年)のことです。その年のいつからいたのかはわかりませんが、7月までは滞在していたようです。そして、そのころからお大師さんは最澄さんと手紙のやり取りをしていたようです。いや、それどころか、経典を最澄さんに貸し始めていたのですな。逆に言えば、このころから最澄さんの経典コレクターが始まったのです。
お大師さんから最澄さんへ接触があったのか、最澄さんからお大師さんへ接触があったのか、それは定かではありません。定かではないですが、この大同4年の2月頃から親交があったのは確かなようです。最澄さんの目的は、自分のところにない密教経典を貸してもらうことでした。そのため、自分の弟子をお使いに槇尾山寺まで派遣していますな。お大師さんは、何かを要求した・・・わけではないようです。仏教学者のひろさちやさんは「空海入門」で「朝廷に紹介して欲しい、あるいは寺が欲しいと頼んだのではないか」と推察しています。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。それを裏付ける資料はないのですから、あくまでも推察です。
私は、そのような要求はしなったと思います。自分からそれを頼んではいけませんからね。相手にそれを言わせなければいけないと私は思っております。こっちから頼んだのでは不利になります。「朝廷に紹介しよう」というセリフは、相手に言わせなきゃいけないセリフですな。
最澄さんは、その名の通り純粋に澄んだ人です。全く他意はなく、ただ純粋に経典を写したかった、自分の手元にない経典を補充したかった、のでしょう。純粋なコレクターですな。お大師さんは、まあ人を食ったようなところがあります。交渉事は上手ですな。人を見る目も持っておりますし、相手の懐に飛び込み、仲間にしてしまう特技もあります。流れを見て、先のことも判断できますな。
最澄さんと親交を持っていれば、自然に最澄さんは自分を朝廷に紹介するであろう・・・・。
お大師さんならずとも、予測できることですな。最澄さんは、純粋に朝廷でお大師さんのすごさを吹聴すること間違いない、と誰もが判断するでしょう。ま、ちょっと先が読めるものであればわかることですな。
つまり、自ら頭を下げて頼まずとも、相手から来なさい、というのを待っていたのです。で、その通りになったのですな。

ちょうどその年・・・大同4年は天皇が変わった年でもあります。24歳という若い天皇・・・嵯峨天皇がその年の2月に即位しています。嵯峨天皇、俄然お大師さんに興味を持ちますな。しかし、即位したては何かと忙しかったのでしょう。お大師さんに命が下ったのは、その年の7月のことでした。その命には、
「都に来い。高雄山寺(たかおさんじ)に入れ」
とありました。その命に従ってお大師さんは、8月には高雄山寺に入ったのです。
この高雄山寺、貴族の和気氏の寺です。この和気氏、最澄さんとは親交が深かったようです。ですので、おそらくこの命は最澄さんが働きかけたものがあったと思います。最澄さんを通じ、和気氏へ、そして天皇へ、という流れですかねぇ。ま、いずれにしてもお大師さんは都に入ったのですな。
その後、10月には嵯峨天皇から書の依頼がありますな。そして翌年の11月(大同5年は9月18日までで翌日から弘仁となっている)には、お大師さんは天皇の許しを得て「鎮護国家」のための修法を行っていますな。
つまり、大同4年の10月から1年間かけてお大師さんと天皇の親交は深まって行ったと考えられますな。ま、初めは書のやり取りだったのでしょう。平安の三筆と後に称されるお大師さん、嵯峨天皇、橘逸勢です。当然のことながら、橘逸勢もここに加わっておりますな。三人で書のやり取りなんぞをしていたに違いないですな。
お大師さん、順調に人脈を築いていったのですな。

さて、お大師さんと最澄さんの関係ですが、これは避けては通れない話なので、次回に詳しく述べるとします。このころは、お大師さんと最澄さんは、非常に仲が良かった。が、どちらかというと、その関係は、最澄さんがお大師さんに経典を貸して欲しい、という関係であったのですな。お大師さん側から最澄さんに頼むことは一つもなったのです。一方的と言えば一方的なのですが、まあ、お大師さんも大人ですし、貸せるものは貸しますな。お互いに日本のために正しい仏法を広めようとしているのですからね。まあ、志は似ていますな。同じではありませんが・・・。なので、ケチケチせず、お大師さんは最澄さんに経典を貸します。
が、次第にお大師さん側も、おかしいぞ最澄さん、と思うようになるのですね。続きは次回に・・・。
合掌。



ばっくなんばぁ〜8


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