仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ〜8

第十二話 私的お大師さん考H

お大師さんと最澄さんの関係。初めはいい関係でした。最澄さんはお大師さんより7歳年上です。しかも、僧侶としては地位が高いですな。天皇に近い位置にいます。一方、お大師さんは、地位なんぞありません。密教経典をたくさん抱えている一介の僧侶に過ぎないのですが、この密教経典をたくさん抱えている、密教に精通しているということが何よりの武器ですな。しかも、その武器は、天皇たちがのどから手が出るほど欲しているものです。
最澄さんは、前回も書きましたように全く純粋な人です。清浄すぎるほどでしょう。正直が歩いているような人です。その最澄さん、お大師さんより7つも年上だし、地位もあるのですから、ここは自分が一肌脱がねば、と思ったことは間違いないでしょう。で、その計らいでお大師さんは高雄山寺に入ることができたわけですな。これは前回にも書いたことです。
このころは、最澄さんはお大師さんから密教経典を借りていますな。もうそれはそれはせっせと借りています。お大師さんも気前よく貸しております。いい関係ですな。
弘仁2年11月から弘仁3年10月までお大師さんは、乙訓寺(おとくにでら、京都長岡京市)も別当を命じられますな。別当というには、まあ臨時の住職と思っていただいていいでしょう。天皇からの命令で、一時的にお大師さんが乙訓寺の住職になったのですな。実はこの寺、怨霊の寺として知られておりました。おそらく、嵯峨天皇はお大師さんの密教で怨霊を鎮めさせようとしたのでしょう。そのことについては、後にお話しいたします。その前に、この寺でのお大師さんと最澄さんのエピソードがあります。なんと、お大師さんがこの乙訓寺の別当をしているとき、最澄さんが泊まりに来ているのです。奈良から比叡山に帰る途中で寄ったらしいのです。おそらくは、この国の仏教の在り方というか、未来についてどうするべきかを大いに語り合ったのでしょう。しかし、私が思うに、この時二人が語り合ったことにより、お大師さんは最澄さんの底を知ってしまったのではないかと思うのですな。なぜなら、それ以降、最澄さんへのお大師さんの態度が変化しているように思うのですな。

最澄さんは、何度も言うように純粋な人です。まっすぐな性質です。しかも、完璧主義だったのでしょう。自分のところ・・・比叡山・・・に、欠けた経典類があるのが許せなかったのでしょうな。欠けた経典類とは、密教経典のことです。だから、せっせとお大師さんに借りたのです。欠けた部分を埋めるために。しかし、最澄さんは、何といっても天台の人です。天台の教えが一番、ですな。仏教の中で最上は天台の教え・・・すなわち法華経のお教え・・・なのです。密教もいいけど、最澄さんの中では、一番は法華経なのです。
密教の思想は、包括です。すべてを包み込む、という思想ですね。一番とか、これは二番目とか、そんな区別はないのですな。どれもこれも、すべて密教の一部に入っている、という考えかたです。ですので、法華経も密教の一部なのですな。それが密教の基本思想です。これが理解できなければ、密教は理解できません。最澄さんには、その思想はなかったのです。お大師さんは・・・きっとうすうすは気付いていたのでしょうけど・・・、はっきりわかってしまったのです。最澄さんは密教が理解できていない、ということにね。否、このままでは密教を理解できない、と。
お大師さんも、このころはまだ若かったのでしょう。もう少し先のお大師さんだったら、きっとそんなお節介はしなかっただろうと思います。それは、最澄さんに一から密教を教えたほうがいい、と思ったようなのですな。純粋に最澄さんに密教を理解してほしい、と考えたのでしょう。その思いが、後の最澄さんを結縁灌頂を受けさせる、ということへつながっていくのではないかと私は思います。

乙訓寺を出たあと、お大師さんは高雄山寺に戻りますな。そこで日本初の結縁灌頂が行われます。弘仁3年11月のことですから、高雄山寺に戻ってほどなくですな。
結縁灌頂というのは、密教の入り口の灌頂です。これは在家向けの灌頂ですな。僧侶は受けなくてもいい灌頂です。否、たいていの僧侶は受けないですな。現在でも高野山では5月のゴールデンウィークと10月1〜3日に結縁灌頂を行っております。どなたでも受けられます。在家用ですからね。いい経験ができますから、是非とも受けていただきたいと思ます。
お大師さんは、その在家用の結縁灌頂を最澄さんに受けさせているのですな。これはとても失礼な話なのですな。たとえばこれは、他宗派の本山の管長さんが、高野山ではなく地方の一寺院で、在家の者に混じって灌頂を受けることと同じことなのですな。もう少し具体的に言えば、たとえば禅宗や日蓮宗、浄土宗、浄土真宗のような大きな宗派の管長さんや代表者が、地方のたとえば我々岐阜のお寺で開かれる在家向けの結縁灌頂を受ける、と同じことなのですよ。有り得ませんな、そんなこと。いくらなんでも失礼すぎます。
が、最澄さんはとても素直な人なので、「密教を理解するには、まず結縁灌頂から」と言われれば「はい、そうですか。では受けます」と言ったことでしょう。一方、お大師さんは、なんとしても最澄さんに密教を理解して欲しかったのでしょうから、そのためには一から始めなければという純粋な思いから、結縁灌頂を勧めたのでしょう。お大師さんとしては、「一度、自分を捨て去って在家の気持ちに戻るべきだ。一度、自分自身を白紙に戻すべきだ」と考えたのでしょうな。天台の教えが詰まっており、地位や名誉も抱えている最澄さんでは、密教は理解できないのですな。お大師さんは、頭をからっぽにし、全くの無の状態から始めよ、という思いを込めたのです。
ところが、最澄さんは、このお大師さんの気持ちを全く理解していなかったようです。なぜなら、最澄さんはこの後すぐに「阿闍梨灌頂を受けたい」と申し出ているのですな。
「阿闍梨灌頂」とは、今でいう「伝法灌頂」のことでしょう。私たちは真言宗の僧侶は、得度を受け、受戒を受け、四度加行を受けて伝法灌頂が受けられます。そうして「阿闍梨」となるのですな。ちなみに、お大師さんは先にこの灌頂を受けております。恵果阿闍梨からすぐに灌頂を受けよと言われたのですな。で、そのあとに加行を行っております。ま、器が違いますからな、お大師さんは。当時は、そういう仕組みでもありましたし。灌頂を受け、縁のある仏様の教えを伝授される、というのが本来の在り方ですからね。しかし、とはいっても、灌頂をすぐに受けられるわけではありません。それを受けられる器の者でないと、この灌頂は受けられないのです。現在は、先に加行を行い、伝法灌頂を一応受けられる最低限の器を作っておくのですな。
その灌頂を受けたいと最澄さんはお大師さんに言ったのです。いつ受けられるのか、早く受けたいのだ、と。
これにはお大師さんもあきれたことでしょう。「あぁ、やはりこの人はわかっていない。結縁灌頂の意味すら理解できていないのだ」とショックを受けたことでしょう。ですので、最澄さんの依頼に対し、
「阿闍梨灌頂を受けるには・・・・3年はかかります。3年ほど密教を学ばねばなりません」
と答えているのですな。
これを「お大師さんは意地悪をしたのだ」とする学者さんもいるようです。「ここぞとばかりに自分の方が上だと示したのだ」ということらしいのですが、そういう学者さんは密教を知らぬ方ですな。というか、そういう考え方の方がひねくれていますな。そういう考え方ができるというのは、きっとご自分も、長く日陰にいたのか、僻み根性が強すぎるとしか言いようがないですな。ま、それはいいのですが、最澄さんは、お大師さんの言葉にどう答えたのか・・・。それは
「ほう、そうですか。では仕方がないですな。私にはそんな余裕がありません。ですから、私の弟子を送りますので、その者に密教を教えて、灌頂を受けさせてください」
と頼んでいるのです。もうここまで来ると、「いい加減気付けよ、この朴念仁が!」と言いたいくらいですな。ひとこと、
「ふむ、そうですか。では一から密教を教えてください」
といえば、3年もかからないで灌頂を受けられるのに・・・と思いますな。とても残念です。お大師さんも、残念に思ったことでしょう。「3年かかる」というのは、おそらくはお大師さんが最澄さんを試しただけに過ぎないのですよ。「わかりました、密教を学びましょう」と言えなかった最澄さんにお大師さんは、ここで見切りをつけたようですな。密教の基本を理解できているかいないか、で二人はすれ違ったのです。はっきり言ってしまえば、最澄さんは密教を理解できるほどの器ではなかった、ということになりますな。このような背景があったからこそ、のちの「『理趣釋経(りしゅしゃくきょう)』を貸してくれ」、「いや貸せない」というもめ事へと発展するのですな。それが理趣釋経事件です。

さて、お大師さんと最澄さんが仲違いする理趣釋経事件を話す前に、乙訓寺のことを話しておきましょう。この乙訓寺、怨霊の寺として知らておりました。誰がこの寺の住職をしても、長続きしなかったようですな。どなたもこの寺の住職になることを拒否していたというわけです。そこで嵯峨天皇は、この寺を何とかしたいという思いから、お大師さんに臨時の住職となるよう命じたのですな。お前さんの密教の力があれば、怨霊も何とかなるだろう、ということですね。つまり、天皇はお大師さんを試したわけです。
どのような怨霊があったのか・・・。この乙訓寺は桓武天皇の弟であった早良(さわら)親王が幽閉され、餓死させられた寺なのです。まあ、早良親王にクーデターの疑いありということで、幽閉されたのですな。早良親王の死後、桓武天皇はその怨霊に悩まされたらしいのですな。また、その祟りは平城天皇にも及んだらしく、平城天皇のご乱行は早良親王の怨霊によるのだと伝わっているそうです。こうして乙訓寺は、当時は、怨霊の寺として怖れられていたわけです。平城天皇が祟られたのですから、嵯峨天皇も怖れていたんですね。祟りが怖かったのです。そこでお大師さんに命じたわけです。怨霊を鎮めることを。
天皇の命令には逆らえませんな。しかもこれから打って出なければいけない立場にあるお大師さんとして見れば、いいチャンスです。誰もが尻込みをする怨霊の寺を密教の力で鎮めることができれば、大きな信頼を得られます。ということでお大師さん、乙訓寺に住むことになりました。
寂しい陰気くさい寺だったようです。お大師さん、多少陰鬱になっていたようですな。体調もあまりすぐれなかったそうです。まあ、しかし境内に実ったミカンを天皇に贈ったりもしています。ただし、そのころは目上の人に食料品を送るという習慣はなかったので、これはかなり失礼な贈り物だったことは確からしいですな。お大師さん、気が動転していたのか、それともそんなこと意に介さず、単なる経過報告のついでに贈ったのか・・・。まあ、おそらくは、経過報告とともについでにミカンを贈ったけなんでしょうけどね。
それでも、怨霊が強かったせいなのか、あるいは陰鬱で淋しい寺の雰囲気に嫌気がさしていたのか、さすがのお大師さんも調子はあまりよくなかったらしいです。もともと、海や山が好きなお大師さんですから、陰鬱な寺の生活は窮屈だったのかもしれません。高雄山寺は、山林がありますからね。平地は、どうもお大師さんは合わないのかも知れません。
とはいえ、1年ほどで怨霊は何とかなったようですな。ひろさちやさんは、「逃げ帰ったというのが真相かも知れない」(空海入門)と書いておりますが、それはないでしょう。なぜなら、お大師さんが住職を務めた後、乙訓寺は発展しております。一時期は、10ほどのお堂を抱えるくらいの寺にまでなっております。信長の焼打ちに遭うまでは大寺だったのですな。そのあと、衰退しますが江戸時代に復興し、現在は牡丹で有名なお寺となっております。つまり、早良親王の怨霊は鎮まった、ということですな。そうでなければ、お大師さんと嵯峨天皇のいい関係が生まれてこないでしょう。1年ほどかけて、お大師さんは早良親王の怨霊を鎮めたのですな。
お大師さんでも、強い怨霊を鎮めるのに1年ほどかかったのですから、我々なんぞは、数年かかってもおかしくないですな。数年かかっても無理かもしれません。強い怨霊の場合は、鎮めるのに時間がかかります。そこらへんの拝み屋さんが言うように、簡単には事はすまないんですよね。簡単にお祓いできますよ、なんていう拝み屋さんは、やっぱり信用できないですな。
これが、怨霊の寺だった乙訓寺のエピソードです。

さて、お大師さんと最澄さんが決別する「理趣釋経事件」ですが、それについては、次回にお話しいたしましょう。
合掌。


第十二話 私的お大師さん考I

今回は、お大師さんと最澄さんが仲違いをしたお話をいたします。これにより、高野山と比叡山は、長年交流がありませんでした。しかし、去年だったか、一昨年だったかちょっと忘れましたが、お互いの管長どうしがお互いの山を行き合うという交流が持たれました。これで、長年のわだかまりも消えたことでしょう。めでたしめでたしです。
さて、お大師さんと最澄さんのケンカに関しては、世間ではいろいろ言われております。どちらかというと、お大師さんが不利ですね。
「最澄さんにお経を貸さなかったからだ。ケチだからいけない」
「預かっていた最澄さんの弟子を最澄さんの元に返さないという意地悪をした」
まあ、こういう評価が多いですね。司馬遼太郎さんも「空海の風景」で似たようなことを書いて批判をしておりますな。
ま、確かに表面だけを見れば、お大師さんは悪者のように見えます。最澄さんに意地悪をしたように見えますな。しかし、それはあくまでも表面だけを見れば、の話です。密教者という立場から見れば、誤解も甚だしい。いや、密教者という立場じゃなくても、真相を知れば、お大師さんが意地悪をしたのではなく、最澄さんが気が付かなかったというだけのことなのですよ。そこからこじれてしまった、ということなのです。そこのところを詳しくお話しいたしましょう。

お大師さんと最澄さん、お大師さんが乙訓寺にいた時は、大変仲が良かった。最澄さんが持っていない密教経典も惜しみなく貸していました。しかし、その乙訓寺に最澄さんが泊まりがけで来た時から、どうも風向きが変わってくるのです。このころから、最澄さんの密教に対する姿勢というか、理解をお大師さんは疑い始めるのです。いや、密教に対する姿勢だけではなく、最澄さんその人自身に疑問を感じたのではないかと思うのです。ま、これは私の考えですが・・・。つまり、お大師さんは
「最澄さん、あなたはいったい何がしたいのですか?。そんなに経典ばかり集めて、何が目的なのですか?。人々を救う、国家を安定させる、人々のための仏法という考えはないのですか?」
と疑問を感じたのでしょう。最澄さんは、まっすぐな方です。きっと、
「私はありとあらゆる仏法を学びたいのです。そのためには、すべての経典を比叡山に揃えねばなりません。どうか協力してください」
などとお大師さんにお願いしたのではないかと思うのですよ。さらに、そのようにすべての経典をそろえたうえで、その最上にあるのは法華経であり、すべての仏法の教学の最上にあるのは天台の教えだ、という考えをお大師さんに語ったのではないかと思うのです。お大師さんは、それが最澄さんの考えである、と理解したのでしょう。
実は、これでは密教は理解できません。密教とは、すべてを包括する、という教えなのです。悪も善も、仏も神も、いや悪魔さえも、また、どんな教えも、異教の教えであろうが、なんだろうが、すべてを包括してしまう、というのが密教なのです。
「すべての存在、事象は、みな大日如来の中にある」
これが密教なのですな。どんなことも、どんな人間も、すべて大日如来の中の存在なのです。そこには差別がないのです。これが一番上とか、これが最上とか、俺が最も優れているとか、いくら威張ってみたって、結局のところ大日如来の一部分、ほんのちょっとした細胞程度のことにしか過ぎないのですよ。これが密教の思想です。
それを逆に言えば、「我も大日如来」となるのです。当然ですね。自分も大日如来の一部分、一細胞の端くれなのですから、自分も大日如来には違いはないです。大日如来の中で生きている、生かされているのが自分なのです。
ですから、天台の教えにこだわる最澄さんには、密教は理解できないのです。お大師さんは、それがわかってしまったのでしょう。だから、高雄山寺での結縁灌頂を最澄さんに受けさせたのでしょう。だからこそ、阿闍梨になるには3年かかると言ったのでしょう。当然これは意地悪ではなくて(司馬氏は意地悪だと言っていますが)、
「初心に帰ってください。天台へのこだわりをいったん捨ててください」
というお大師さんのメッセージだったのですな。
しかし、そうしたお大師さんの投げかけに最澄さんは気が付くことはなく、
「3年もかかっては無理です。私も忙しいので・・・。なので、優秀な弟子の泰範(たいはん)をあなたに預ける。彼に密教を教えてやってください」
とお願いするのですよ。お大師さんにしてみれば、「それかよ!、弟子かよ!」と突っ込みたいところですな。

「ストレートに、『最澄さん、それでは密教は理解できないですよ。いったん、天台を捨ててしまわないと』と言えばいいのに」
とおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。でもね、よく考えてみてください。そんなこと、言えますか?。とても失礼でしょ、そういうことを言うのは。しかも、これだけ鈍い人・・・いや、純粋に天台に心酔している人・・・に向かって、ストレートに言っても答えは同じでしょう。
「えっ?、そうなんですか?。いや〜、私は天台の教えを捨てられませんよ。そうか・・・じゃあ、私の弟子に教えてやってください」
となるでしょう。結果は同じです。ならば、ストレートに言わない方が、相手も傷つかないでしょ。まあ、もっとも最澄さんは、純粋な方ですから、お大師さんの言葉の意味に気付かず、「あぁ、そうですか」で終わると思いますけどね。
あ、でも後々、最澄さん「最近、活躍している真言僧は、文書による伝承をわきまえぬ」などとボヤイタそうなので、やっぱりストレートに言わない方がよかったでしょうな。これは、お大師さんに対するあてつけで言った言葉ですな。でも、文書で仏法が伝承できると思っているところが最澄さんらしいですけどね。

お大師さんも、ちょっと最澄さんにこだわりすぎたところは、否定できないかなと思います。お大師さんにしてみれば、比叡山のトップであり、天皇にも顔の利く最澄さんが密教を得とくすれば、日本全体に密教が早く広まる、と考えたのでしょう。密教が早く広まれば、それだけ早く多くの人が救われる、と考えたのでしょう。だからこそ、最澄さん、だったわけです。弟子じゃあ、話になりません。しかも、最澄さんの弟子じゃあ、最澄さんほどの頭脳は持ち合わせていないでしょうしね。だから、最澄さんにこだわったのだと思います。ですが、もっと早くに見切りをつけていれば、後のケンカ沙汰にまで発展しなかったかも知れませんな。

さて、問題の「理趣釋経」です。発端は、最澄さんが「理趣釋経」を貸してほしい、という要望からでした。
理趣釋経(りしゅしゃくきょう)とは、理趣経の注釈書です。お経ではありません。理趣釋経などといいますが、理趣釋が正しいですね。
理趣経は、毎朝我々真言僧が読んでいるお経です。供養や法事、お葬式にも読みます。真言宗の中心的お経の一つですね。このお経、大変難解で、注釈書がないとわからないんです。その注釈書の中でも理趣釋は、最も重要なものです。理趣経とセットのようなものです。この理趣釋には、理趣経の拝み方、曼荼羅、供養法などが説かれているのです。いわば、真言宗の秘儀の中の秘儀、秘法中の秘法ですね。特に理趣経の供養法・・・理趣法といいます・・・は、加行を終え、伝法灌頂を受けた阿闍梨にしか伝授されません。つまり、伝法灌頂を受けていないと教えてもらえない作法なのです。理趣釋には、そうしたことも書いてあるのですな。
さすがに、これは貸せません。秘伝ですからね。学びたいのなら弟子になれ、という内容のものなのです。だから、お大師さんも「貸せません」と言ったのですな。お大師さんは、最澄さんに理趣釋を貸せないというお断りの手紙を書いたのです。ただ、その手紙の内容が一般的に「キツイ」と言われているのです。これでは、最澄さんがかわいそうだろ、みたいな。でもね、そのお断りの手紙の内容をちゃんと読めば、結構親切なことを書いているんですけどね。ちょっと抜粋してみます。
「理趣を貸せと言われるが、理趣とは『道理』のことです。あなたは、私にどの道理を貸せというのか?」
「理趣には、心の理趣、仏の理趣、衆生の理種がある。それらは、本来、自分自身に備わっているものです。それがなぜわからないのですか?」
「法を学ぶには、順序があります。正しいやり方がるのです。それを間違えると、それは法を盗んだことになります」
お大師さんは、理趣釋を学びたいのなら、ちゃんと密教を一から学びなさい、と教えているんですね。
が、最澄さんは、当然ながら理解できず、「なんだこの手紙は、失礼にもほどがある!」と怒ってしまったのですな。

最澄さん、何度も言いますが、純粋な人です。ですが、純粋な人は、自分が信じることを一番だと思い込みがちですね。純粋であるがゆえに、他の意見を認めない・・・よくある話です。ちょっといい加減なところがある人は、他人の意見にもいい加減で「いいんじゃない、そういうのも」と寛容的です。しかし、純粋な人は、あくまでも純粋で、「それはダメでしょ」となりがちですよね。
最澄さんは、天台教学が一番だ、最も優れているんだ、ということに純粋に信じていました。ですから、他を認めないのです。天台以外の教学は劣っている、と決めつけていたのですな。ですから、奈良仏教の僧たちとも揉めます。奈良仏教の僧たちは、自分たちの教えも間違っていない、と主張します。それは当然ですな。でなきゃ、やってられませんし、お釈迦様の教えを否定することにもなります。しかし、最澄さんは奈良仏教の僧たちの意見を聞き入れません。最澄さん、亡くなるまで論争を続けております。最澄さん、意外と好戦的なのですよ。

ま、それはいいとしまして、怒ってしまった最澄さん、お大師さんに預けていた弟子の泰範に比叡山に帰るように手紙を送りますな。しかし、泰範は、帰るのを嫌がります。比叡山よりもお大師さんの元がいいんですね。で、最澄さんの手紙を無視していたのですが、再三再四、手紙はやってきます。そこで泰範、お大師さんに相談しますな。お大師さん、泰範の比叡山への帰山拒否の手紙を書いてあげます。まあ、ここまで来ると、ちょっとお大師さんも意地が悪いかな、とは思います。何もそこまでしなくても・・・とは正直思いますが、毒を食らわば皿までも・・・ということなのか、最澄さんの目を覚まそうというつもりだったのか・・・。いずれにせよ、理趣釋を貸すことを拒否した手紙と泰範帰山拒否の手紙のダブルパンチで最澄さんは
「もうあんなやつとは付き合わない。あんな礼儀知らずで失礼な奴は、知らん」
とキレてしまったのですな。
これが、お大師さんと最澄さんの仲違いの全容なのです。

ケンカ両成敗。確かに、ケンカにどちらかが一方的に悪い、ということはありません。感情のぶつかりあいがケンカですからね。片方が、感情を抜きにして相手にしなければケンカにはなりませんから。一方的な拒否で終わってしまいます。つまり、ケンカはお互いの感情がぶつからないと成立しないのですな。
お大師さんも、感情が残っていたのです。ついつい、イラっとしてしまったのですな、最澄さんの態度に。最澄さんの鈍感さに。
密教は、知識だけではわかりません。実践を行わないと理解できません。しかも、柔軟な頭がないとダメです。こういうことはダメ、これじゃあダメといった否定的な考え方をしているようでは、密教は理解できないでしょう。これもいいんじゃない、これでもいいんじゃない、それもありでしょ、そういうのもいいね、という肯定的な考え方をしないと理解不能になります。なので、固い考え方の人には不向きですな。真面目なコチコチ人間には理解できないどころか、かえって毒にもなります。自由で幅広い考え方を持っていないと、密教は理解できないのですよ。なので、最澄さんには、不向きだったのです。お大師さんも、まあわかってはいたのでしょうが、期待し過ぎてしまったのでしょうねぇ。その期待を裏切られたのが、ちょっと頭に来たのでしょう。そういう意味では、お大師さんもちょっと大人げなかったのかもしれません。
この後は、お大師さん、たぶん周囲の者や他の僧侶に期待しないようになったと思います。ケンカは、しなくなりますからね。一切の仏法上での論争はしていませんから。最澄さんは、してましたが。
お大師さん、悟ったのでしょう。自分のレベルまで来られる者はいないのだ、ということを。密教は難しいのです。

さて、この後、お大師さんは高野山を開いたり、満濃池を整備したりと、大活躍を始めます。そのあたりのことをさらっと話をして、できれば、お大師さんの御入定についてまでお話ししたいと思っています。どうぞお楽しみに。
合掌。


第十二話 私的お大師さん考J

最澄さんと決別したお大師さん、それからも活躍はすさまじいものです。それらを順を追って紹介したいと思います。

*高野山の開創
43歳のとき(816)、高野山を開きます。この時に泰範事件も起きております。泰範は、他の弟子とともにお大師さんより先に高野山に登り、整備をしておりました。お大師さんが、高野山を開いた際には、すでにお山にいたわけですな。つまり、泰範は、高野山を下りたくない、と最澄さんに告げたわけです。
さて、この高野山開創にはエピソードがいくつかあります。その代表的なものを紹介しておきましょう。
お大師さんが中国を去る前に海岸で三鈷という仏具を投げたというお話をしたと思います。「日本で私が根本とする場所を示したまえ」と祈願して投げたという三鈷ですな。確か、それが日本まで飛んでいくわけがない、そのように祈願したことに尾ひれがついた・・・というようなコメントをしたと思います。これには続きがあります。
ある日のこと、お大師さんが密教の本拠地となる場所を探しておりましたところとある山中に入って行きました。しかし、お大師さんは道に迷ってしまいます。するとどこからともなく2匹の犬が現れました。その犬は、お大師さんを誘うようにしております。お大師さん、素直に犬につき従って山を登っていくと、山頂であるにもかかわらず、平地のように開けたところへでてきました。しばらく歩いていくと、木に何か光っているものが見えます。その木は松の木でした。その松の木に近付いてよくよく見ますと、なんと三鈷が引っかかっているではありませんか。
「おぉ、この三鈷は、私が唐の国から投げたものに違いない。そうか、この地こそが密教を広める根本道場となる場所なのだ」
とお大師さんは悟ったのです。そして
「すると、先ほどの犬は・・・おぉ、この地の神の使いであったか・・・。この地の神が私を導いてくれたのだ。ありがたいことだ」
とわかったのですな。
その三鈷が引っかかっていた松は、現在も伽藍の御影堂(みえどう)の前に植わっております。ただし、その時代の松ではなく、三代目だとか・・・。また、この松の葉は、2本ではなく3本になっております。ゆえに、この松は「三鈷の松」と呼ばれております。
昔は、高野山を訪れる参拝者の皆さんは、この三鈷の松の葉っぱを拾っておりました。お守りになる・・・ということですな。今では、それを知らない方が多く、三鈷の松の葉っぱを拾う方は珍しくなりましたね。私は高野山に行くと、この三鈷の松を拾ってくることがあるのですが、横を通り過ぎていく方は、「何をやってるんだろう?」みたいな顔をし通り過ぎていきますな。もったいないことです。一言尋ねてくれれば教えるのですが、聞かれないので黙っています。
なお、高野山の神様は、地主神で高野明神と呼ばれております。伽藍に祀られておりますな。
来年、平成27年は、高野山開創1200年祭ですな。機会がありましたら、どうぞご参拝ください。そして、三鈷の松を拾って、お守りにしてくださいな。
そうそう、もう一つ高野山の伽藍にまつわるお話を。伽藍には蛇腹道という名の道があります。この道は、なかなか整備が大変だったそうです。人の手ではどうにもならないくらいだったのだそうです。そこでお大師さんが祈ると、龍神が舞い降り、あっという間に道を作ってくれたのだそうです。龍が通った道ですな。なので、蛇腹道と呼ばれるようになったのだそうです。
まあ、そのほかにも高野山にまつわるいろいろな伝説があります。検索してみてください。

*満濃池の整備
お大師さん48歳の時(821)にお大師さんは、満濃池の整備に香川に向かいます。満濃池は、その3年前に決壊して周辺は泥沼の状態になっておりました。以来、誰も修復できずにあたりは手が付けられない状態だったのです。どうやって修復していいかわからなかったのですな。なので、3年も放置状態だったわけです。
そこでお大師さん、一計を案じます。満濃池が決壊して以来、讃岐の人々は本当に困っておりました。田畑への水はない、飲み水も不足する・・・。お大師さん、生まれ故郷の窮状に、何とかしてやらねば、と思ったのですな。そこで・・・これはあくまでも一説ですが・・・讃岐の人々に嘆願書を書かせるのですな。しかし、一般市民では嘆願書の書き方がわからないし、上手に書けないのです。そこで、お大師さん「わしが代筆してやろう」といって、嘆願書を自ら書いたのです。まさか、自分で書いてそのまま役所に提出、ということはないとは思いますが、その嘆願書、字もきれいならば、内容も美文なのですな。一般庶民が書けるわけがない。
まあ、そのころのお大師さんにしてみれば、天皇に自分で
「故郷の満濃池が決壊したまま放置状態になっています。これを何とか助けたいので、私に任せてはもらえませんか」
と一言頼めば、「善きに計らえ」となったのでしょう。しかし、お大師さんは、それはしていません。それは、おそらくは、そういう裏道的なことはしたくなかったのでしょう。一応、役所を通し、見え見えの嘆願書かもしれませんが、筋を通したかったのでしょうな。裏から手を回せば、役所のうるさ型から
「偉そうな坊主め、天皇に取り入って」
などと言われ、あらぬ噂・・・権力を我がものにしようとしている・・・を立てられても困りますからね。一応、筋道だけはしっかり通しておかねば、誤解を招きます。そこで、正規ルートで嘆願書を出したのですな。
その甲斐ありまして、821年(弘仁12年)5月27日付で讃岐国満濃池の修築別当を任ぜられますな。で、さっそく讃岐国への下向が命じられます。お大師さんが満濃池に到着したのが、6月10日頃。で、その年の9月6日にはお大師さんは京都に戻っています。帰りの期間を差し引きすれば、お大師さんが満濃池を出たのは、8月20日頃となります。つまり、お大師さんが満濃池にいたのは2カ月少々ですな。3年ほど放置してあった満濃池の工事がたった2か月少々で終わってしまったのです。もちろん、お大師さんの頭脳が優れており、人を動かす能力が優れており、知識が優れているのはわかります。そりゃそうでしょう。天才ですな。しかし、それにしても、と思いませんか?。その当時の役人がいかにぐうたらだったか・・・。ま、そのころだけじゃないかもしれませんけどね。今だって、役人の無能さは皆さんよくご存知のことで・・・。
東北の大震災の後処理だって、お大師さんが今いらっしゃったなら、きっと1年もかからずに終わっていたことでしょうな。
「この国の役人は、相変わらず無能だのう」
きっと、お大師さんは嘆いているでしょうな・・・。

*東寺の整備
東寺は平安京遷都の際に宮中の東を守護するという意味で796年に創建されました。と言っても、その年に建築がはじまった、ということですが。ところが、その建築や整備が遅々として進まなかったのですな。30年近くになっても完成はおろか、創建時のままだったそうです。
3年間放置状態だった満濃池を2カ月少々で片付けてしまったお大師さんの腕前を見て、嵯峨天皇はお大師さんに
「東寺の整備を頼む」
と依頼したのですな。お大師さん、「では、東寺をください」ということで、東寺はお大師さんに給預されますな。これが、823年(弘仁14年)、お大師さん50歳のことです。これを機に、東寺は教王護国寺と名を改め、真言宗固定の寺となりますな。そのころは、宗派が固定されたお寺はありませんでした。東寺が初めてですな。今でも東寺で通用しますが、正式名は教王護国寺です。真言宗の寺・・・東寺派(古義)・・・ですな。
お大師さん、東寺もあっという間に整備してしまいますな。いったい今まで何をやっていたんだろう、と人々は思ったことでしょう。お大師さん、ちゃっちゃと伽藍の設計図を書き、材木を調達し、ちゃっちゃと工事を進めていきます。なんにも完成していなかったお堂が完成していきますな。
できる人間は違いますねぇ。きっと、役人連中からは嫌われたでしょうなぁ。もっとも、そんなことは意に介さなかったでしょうけどね。そもそも役人は大嫌いだったでしょうから。本当にできる人間は、周囲の評判など、どうでもいいのですな。周囲の評判が気になる者は、まだまだ小物なのですよ。評判など、どうでもいいのです。自分の仕事をしっかりやればいい、それだけですな。

ちなみに、お大師さんが大活躍しているこのころ、最澄さんが亡くなりますな。822年(弘仁13年)のことです。このころは、比叡山もパッとせず、最澄さんも失意のうちに亡くなっていったようです。しかし、最後まで奈良仏教側の僧侶たちと手紙で論争を続けていたそうです。争いからは何も生まれませんな。争うより、仲良くなることですな。いや、取り込むことですな。それが自作自演だろうと、ヤラセだろうと構わないじゃないですか。それで人々が救われ、寺が整備され、庶民の役に立つのならば。争ったって、人々は救われませんからね。いくら仏教の解釈のこととはいえ、そんな論争に明け暮れていたのでは、大乗仏教の目的の一つである「人々を救うこと」は果たせませんからね。
まあ、余談でしたが。

*宮中での雨乞い
824年、元号は天長となります。天長元年の2月、干ばつに見舞われます。雨が降らないんですね。一般の人々は飲み水にも事欠くほどで困窮しておりました。そこで、天皇の勅命により、お大師さんは雨を降らす御祈祷を行います。
「龍神に祈りますゆえ、神泉苑を使いたい」
お大師さんは、そう申し出たそうです。この許可はすぐに下り、お大師さんは、宮中の神泉苑にて請雨法(しょううほう)・・・いわゆる雨乞い・・・という祈祷をいたします。
これは7日間行われました。まあ、重要な御祈祷の場合、3日間とか7日間、21日間、というように行われますな。何日間行うかは、その祈祷をする導師が判断することです。この宮中での雨乞いは、7日間の御祈祷となりました。
7日めの御祈祷が終わった日、空は曇り始め、雨が降り出したのですな。その雨は3日間降り続いたそうです。このことは、今昔物語にも記載されています。雨乞いは成功したのですな。
ちなみに、この雨乞いの祈祷成功に批判的な方もいらっしゃるようです。そういう方は
「弘法大師は、唐にて気象学も学んだであろう。雲の流れや、季節、風の向きなどでだいたいの天気はわかったはずである。したがって、この雨乞いの御祈祷も雨の降る日を予測し、逆算して御祈祷を始めたに違いない。弘法大師のパフォーマンス好きならば、それぐらいのことはしたであろう。あるいは、官位・・・僧の位をあげたかったのかもしれない」
と言うのですな。まあ、ここまでうがった見方ができるって・・・よほどひねくれた性格の持ち主なんでしょうな。きっと、日常でも捻くれた生活を送っているため、友達なんていないんじゃないか、と思いますよね。まあ、大きなお世話ですが。
いずれにせよ、あまりにもひどいですな。
確かに、この雨乞いの成功の後、お大師さんは「少僧都(しょうそうず)」に任ぜられています。今では「少僧都」はそれほど上位の僧階(そうかい、僧侶の階級)ではありませんが、当時は上位の階級ですな。したがって、いろいろと役職が回ってきます。現代では、僧侶の位が高かろうが低かろうが、役職はやりたい人か人望のある方が引き受けます。しかし、当時は階級により役職が決まっていたようですな。当時の僧侶の階級は、官位と同じです。窮屈なんですよ。
お大師さんは、そうした官位が大嫌いな人でした。自由がありませんからね。そこで、官位を辞する嘆願書を出しております。が、これは通りませんな。「ダメ、空海上人は少僧都って決まったんだから」というわけで、辞退はできなかったんです。
お大師さんにしてみれば、民衆のために御祈祷や祈願をするのは、これは当然だと思っていたことでしょう。国が安定することも願ったことでしょう。しかし、それと官位は別ですな。官位を与えられれば自由な生活を放棄しなければいけません。そう、いつも宮中か都の近くの寺にいないといけないのですな。お大師さんの根本道場は高野山です。高野山の整備がお大師さんの一番の仕事なのです。が、天皇たちはそれを許してくれないのですな。
「高野山の整備は、弟子でもできるじゃないか。しかし、都には空海さん、あなたが必要なのですよ」
ということですな。もし、お大師さんに官位を与えなければ、お大師さんはさっさと高野山に行ってしまうであろう、と天皇たちは考えたわけです。
お大師さんが少僧都に任ぜられた3年後の827年には大僧都(だいそうず)になっていますな。これも病気を理由に辞退したのですが、認められませんでした。天皇は、お大師さんを離しませんな。
ならば、都にいるうちにやりたいことをやっておこう、と考えたのかどうかは知りませんが、その翌年828年に、お大師さんは東寺の隣に私立の総合学校を設立しますな。これは日本初の試みでした。

*綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
この学校は、民衆のための学校です。貴族や公家のための学校ではありません。しかも、宗教学校でもありません。総合学校です。この学校には誰でも入ることができ、好きな学問を学べました。もちろん、仏教も学べます。他に、法律・政治・道教(陰陽道)・天文学・数学・土木建築・医学・薬学・音楽・美術などなど。お大師さんが唐で学んだことをすべて伝えることができるような学校だったのです。しかも、学費は不要です。住み込みなので、住居の心配も食事の心配も不要です。どんな貧しい者でも、学びたいという意欲があれば、入学できた学校なのです。
全寮制で費用が一切掛からない総合学校。それが綜芸種智院です。そこに入学すれば、その生徒にあったコースが選択でき、好きな学問を学ぶことができ、就職まで斡旋してもらえる。理想ですな。学校の理想でしょう。貧富の差がないのです。意欲さえあればいいのです。
本来ならば、国が国費でこのような学校を作るべきなのですな。しかし、当時は公家のための学校、貴族のための学校、豪族のための学校、金持ちのための学校はあったのですが、一般民衆のための学校はなかったのですな。
こんな理想的な学校を創ってしまったお大師さん。その費用はどうしていたのでしょうか?。パトロンがいたのですな。天皇を始め貴族たちの懐から頂戴したのです。
「だって、都にしばりつけておく気なら、それ相応のことはしてくださいよ」
というのがお大師さんの考えですな。「それが嫌なら、高野山に引っ込みます」というわけです。まあ、お大師さんだからこそ、できた技ですな。それほど実力もない者がこのような振る舞いをしても相手にされませんね。「どうぞご勝手に」と言われるだけです。
ちなみに、お大師さんが高野山で入定した後は、綜芸種智院は経済的援助がなくなり、閉鎖となっております。お大師さんだからこそ、なのですな。というか、お大師さんにしてみれば「弟子のヤツラめ、不甲斐ないのう。やり手のヤツは一人もいなかったか・・・・。真面目だけではダメなんだぞ・・・」てなもんでしょう。駆け引きが上手じゃないとね、貴族たちの言いなりになってしまいますな。それでは、ダメななのですよ。彼らの上をいかないとね・・・。

話がそれました。この綜芸種智院、現代でも大学として残っております。綜芸種智院大学ですな。京都にあります。私が高野山にいたころは、東寺の近くにあって、小さな大学でしたが、学問は充実していた、という話をよく聞きました。お大師さんの意志を引き継いでいるのだ、と。実際はどうかは知りませんが、評判の良い大学でした。今は、生徒さんの数も増え、結構大きな大学なっているそうです。
また、学校の先生や先生を目指している方は、綜芸種智院式というお大師さんの論文がありますので、ぜひ読んでいただきたいな、と思います。

さてさて、都に縛られ、自由な活動ができないお大師さんは、それならば、と都でしかできない理想を現実化していきました。都にいても助けることができる者はいるのですな。
しかし、やはりお山が恋しいのですな。出し続けていた官位辞退の嘆願書がようやく認められたのは、832年(天長9年)お大師さん59歳の時でした。
お大師さんが入定されたのが、62歳の時です。そこまで書こうかと思いましたが、次回に致します。今回は、ここまでです。
合掌。



第十二話 私的お大師さん考K

お大師さんのお話も今回で最後となります。最後は、やはり御入定についてですね。
お大師さんが、すべての官職を辞め、高野山に入ったのは832年(天長9年)、59歳の時でした。そして、御入定されたのが62歳の時です。高野山にいることができたのは、ほんの3〜4年ほどです。が、それ以降、永きにわたってお大師さんは高野山にいらっしゃいます。高野山の奥の院にて御入定以来、人々を見守り続けているのです。
お大師さんの御入定には、説がいくつかあります。代表的なものには、天皇の病気を身代わりになったという説、本当は120歳まで生きるつもりだったけど肉体があるのが煩わしいがため早くに肉体を放棄したという説、純粋に病気だったのではないかという説などなど。私は、これらの説はバラバラではなく、全部まとまったものが本当のところではないかと思っています。しかし、それだけではお大師さんの御入定という選択は、はっきりと理解できないとも思っています。

なぜ、お大師さんは御入定を選択したのか?。普通に涅槃に入るのではなく、御入定という形を選んだのはなぜか?。
一般に、当時のどんな高僧も御入定という選択はしておりません。どんな高僧も名僧も、最後はお釈迦様と同じように、北に頭を向け、右を下にし、横を向いた形で眠るように死を迎えます。そうして、大涅槃に入るのです。この形は、仏教修行者としては当然のことなのです。皆、お釈迦様と同じになりたいと願いますからね。だから、お釈迦様のマネをして最期を迎えるのです。ですが、お大師さんだけは、御入定という形を取ったのです。
そういえば、この御入定という最期の迎え方は、お大師さんが初めてではないですな。お釈迦様の直弟子の中には、入定された方がいます。代表的な方は、マハーカッサパでしょう。
マハーカッサパは、お釈迦様の後を継ぎ、お釈迦様の亡きあとの仏教教団をまとめました。第一回の結集・・・弟子が集まってお釈迦様の教えを確認し合うこと・・・も行っています。
そのマハーカッサパは、霊鷲山の岩山を砕いてその中に入り、
「弥勒如来がこの世に降りてこられるまで、ここで瞑想して待つ」
と言い残し、神通力で岩山を閉じてしまった、と言われています。神通力を取り除いてこれを読み解けば、マハーカッサパは、弥勒菩薩がこの世に如来として下りてこられるときまで、「霊鷲山の岩の洞窟などに入って、入り口を閉じてしまい、中で瞑想をしたまま涅槃に入った」ということになりましょう。
一方、お大師さんも
「私はこれより弥勒菩薩のおられる兜率天に行く。そこで弥勒菩薩の元で修行をする。そして、弥勒菩薩が如来としてこの世に下生されるとき、私も一緒に下りてこよう」
と言い残しております。同じですよね、マハーカッサパと。
当然、お大師さんはマハーカッサパの最後のことは知っていたことでしょう。ひょっとしたら、
「これは使えるなぁ」
と思ったのかもしれません。しかし、「使える」って、なんのために「使える」のでしょうか?

高野山に入ることができたお大師さんには、大きな仕事が残っていました。それは、弟子の育成と真言宗が長く続くための基礎を作ることでした。高野山は、真言宗・・・密教・・・の根本道場です。ここが廃れてしまっては、弟子の育成などできません。いくら東寺があるといっても、東寺では都に近すぎ、純粋な密教の修行はできないのではないか、という懸念があります。そう、都に近いため、国に利用されやすいのですよ。それに、優秀な弟子ばかりではないでしょう。中には、天皇や貴族などに近付き、戒律を犯す者や権力にする寄るものも出てくる可能性があります。金や酒、女に溺れてしまう可能性もあります。なにせ、都にあるのですからね。誘惑もいっぱいです。
それにくらべて高野山は、登るのも大変、下りるのも大変。深山幽谷の中にあります。
そういえば、私が初めて高野山に行ったとき・・・電車で行ったのですが・・・
「こんな山の中で本当に暮らしていけるのだろうか?」
と心配になったくらいですからね。それくらい、山の中なのですよ、高野山は。参拝したことがある方はご存知でしょうけど。
標高約900メートル。山頂は、周りを山に囲まれた平地です。都などほど遠い。権力者の息など及ばぬところですな。それは同時に、人々から忘れ去れる可能性もある、という危険を含んでおります。遠すぎて行けない、ということですな。それは、どういうことかと言いますと、寺院を維持する資金、弟子を育成する資金に影響を与える、ということでもあります。
お大師さんは、考えたことでしょう。自分の弟子たちを見て、
「さて、この中にわしのように貴族を相手にして、資金を調達できるようなものはいるかいのう?」
とね。
「資金の調達」
これは、難しいことなのですよ。

貴族や公家、天皇、大きな豪族、有力な商人などお金を持っている人たちは、見返りがないとなかなかお金を出してはくれないのですな。お大師さんだからこそ、みんな資金提供をしたのです。それは
「何か困ったことがあった時、お大師さんならば助けてくれる」
という気持ちがあったればこそ、お大師さんの申し出に「いいでしょう」といって資金を提供してくれたのでしょう。いわば、保険のようなものですよね。何か困ったことがあったら、「あの時、お金を出してやったじゃないか、助けてくださいよ」と言えますからね。
もちろん、純粋に寄付金をだした公家や貴族、豪族もいたことでしょう。しかし、それもお大師さんがいたからでしょう。お大師さんだからこそ、寄付金を出せたのです。
実際、お大師さんが入定されたあと、東寺の近くにあった綜芸種智院は、資金不足で潰れてしまいましたからね。寄付者は、お大師さんだからこそ、安心して寄付金を出せたのです。お大師さんの弟子じゃあ、物足りなかったのですよ。期待できなかったのですよ。
お大師さんは、それをよくわかっていたのでしょう。
「はぁ・・・、どいつもこいつも真面目なものばかりだなぁ。金儲けができるような裁量のある者はいないのか・・・。困ったものだ。このままだと、わしが亡きあとは・・・孫弟子あたりまでで終わりかのう。ここ高野山は都から離れておる。離れている分、修行はよくできるであろう。妙な誘惑もないしな。しかし、都から離れている分、公家たちからも忘れられるということがある。それは資金不足に直結することだ。さて、なんとか資金不足にならぬように・・・なにか対策を取っておいてやれねばな」
お大師さんは、そう考えたに違いないと私は思うのですよ。お大師さんは、そういう人ですからね。

何かやろうとするならば、お金が必要なのです。お大師さんは、それを痛いほどわかっていたことでしょう。
「資金がなくては、何もできぬ」
だからこそ、儲けることが上手かったのです。
振り返ってみてください。大学を辞め、叔父さんの庇護を捨て、故郷とも連絡を絶って、7年間行方不明になったお大師さん。そんなお大師さんが再び都に帰ってきたときは、20年分の留学資金を持っていたのです(もちろん、これも一説ではありますが。資金は親王が用意したという説もあります)。
高野山を開くにあたり、やはり資金を集めねばならなかった。綜芸種智院を開くにあたり、これも資金が必要であった。きっと、あちこちの貴族に頼んだり、手紙を送ったりしたのでしょう。これこれこういうことをするから、バックアップをしてくれとね。
なかには、「資金提供をしてもいいから、一筆書いてくれ」という公家もいたことでしょう。あるいは、御祈祷を願い出た公家もいたかもしれません。いずれにせよ、何かにつけて資金は必要なのです。
「わしはいい。わしは稼ぐ算段を知っている。しかし、弟子たちは純粋に修行をしている者たちばかりだ。維持するための資金は、わしが捻出している。そこまで頭が回るものが・・・いないんだよなぁ、これが・・・。よわったのう」
お大師さん、頭が痛かったかもしれませんな。

ここまで説明すればもうおわかりでしょう。なぜ、お大師さんが御入定という選択をしたか、という問いへの答えが。わかりませんか?。
お大師さんは、「レジェンド・・・伝説・・・になる必要があった」のです。
今から振り返ってみれば、お大師さんの計画は大成功ですな。「今もお大師様は高野山奥の院にいらっしゃる」という信仰は、全国各地に広まっております。お陰で高野山も維持ができていますね。お大師さんのもくろみ通り、お大師さんは「レジェンド・・・伝説」になったのです。
いったいどこまでお見通しだったのか・・・。「お前らのことはすべてお見通しだ!」と奥の院で笑っていらっしゃるのでしょうか?。
「わしが伝説になれば、それだけで人々が高野山にやって来るであろう。わしを利用して、うまく信仰を集め、高野山を維持していくための資金を集めるのだぞ」
そういう願いを込めて、お大師さんは御入定という選択をしたのではないかと私は思うのですよ。それは、事実が裏付けていますよね。
確かに病気だったかもしれません。肉体があることに不便を感じていたかもしれません。天皇の病気を身代わりに、と思っていたかもしれません。しかし、それよりも何よりも、「密教の法灯を消してはいけない」という思いの方が強かったのではないかと思うのですよ。恵果阿闍梨から託された密教。それを絶えさせてはいけない、益々この国で盛んになるようにしなければいけない、それが恵果阿闍梨との約束である・・・・。お大師さんはそのために入定したのではないでしょうか。

835年3月21日(旧暦です)寅の刻。お大師さんは、現在の奥の院の地下あたりで入定しました。きっと
「わしのこの入定をうまく利用しろよ」
という思いを託して・・・。
が、お大師さんのお弟子さんたちは、皆さん真面目だったのです。お大師さんを利用しようなどという不遜で不敬なことを考える者は一人もいなかったのですな。
やがて、高野山は荒れてきます。仕方がないですな、資金不足なのです。国からは当然資金がおります。でも、それだけでは足りませんな。
お大師さん御入定から80年ほどたった921年のとある晩、醍醐天皇の夢枕にお大師さんが立ちますな。
「高野山(たかのやま) 結ぶ庵の袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」
天皇の夢でお大師さん、一句を読みます。天皇は愕然としますな。
「あぁ、空海僧都は今もいらっしゃるのか。あぁ、忘れておったわい」
とね。そこで、あわてて「弘法大師」の号を宣しますな。で、東寺の観賢さんがその勅旨を持って奥の院の石室を開けました。すると、生きているが如くのお大師さんが結跏趺坐していたのですな。髪は伸び、髭はぼうぼう。衣も朽ち果てていたのです。観賢さん、髪やひげを剃り、新しい衣ととりかえますな。それ以来、高野山では年に一回、お衣替えの儀式を行うようになりましたな。
この時以来、お大師さんは入定されたまま、高野山の地に生きている、という伝説がスタートしたのです。お大師さんにしてみれば、
「やれやれ、世話がやけるのう。もっと早くに気が付けよ」
てなもんでしょう。高野山の僧たちはいったい何をやっていたのか!といったところでしょうか。でもね、みなさん、真面目な僧侶だったんですよ。そんなこと気が付きませんよ。金儲けなんて縁がない、真面目な坊さんばかりだったんですから、そのころは・・・ねぇ。
さてはて、その後、高野聖なんぞも現れまして、弘法大師伝説をあちこちに伝えますな。それに呼応するかのように、各地にも弘法大師伝説が残っていたことが発覚しますな。まあ、その時出来上がったのかもしれませんけどね。いずれにせよ、各地方には、不思議な話が残っていたのですな。旅のお坊さんが、井戸を掘ってくれた、水銀を見つけてくれた、温泉が湧いた、橋をつくってくれた、病気を治してくれたなどなど・・・。ひょっとすると、若き日のお大師さんが、各地でいろいろ奇跡を起こし、そのお礼をもらってお金を貯めていたのかもしれません。行方不明の7年間にね。その時の話が残っていたのかもしれませんなぁ。

まあ、いずれにせよ、お大師さんの壮大な計画・・・「高野山の永遠の維持」・・・は、大成功だったのです。自らが伝説となることでね。
私たち真言宗の坊さんは、みんなお大師さんにおんぶにだっこなのですな。みんなお大師さんの伝説がなかれば、生きてはいけない存在なのですよ。お大師さんが、入定してくれたおかげで、私たちは生かされているのです。
すごいですな。お大師さんは、こうなることがわかっていて、入定をしたのです。
「伝説は金を生むのだ。お前らのために、密教の法灯を消さないために、わしは伝説となろう」
そのために、何カ月も五穀を断ち、水を断ち、清浄なる身体で入定したのです。ここまでくると、そのスケールの大きさに、驚くばかりですな。いったい何年先まで見通していたのか・・・・。
お大師さんのスケールの大きさ、懐の深さ、わかっていただけたでしょうか?。そう、お大師さんは、まさに空であり、海であるのですよ。

ながらく、私の勝手なお大師さん論に付き合っていただきましてありがとうございました。次回からは、別の話になります。今のところ内容に関しましては予定はありません。リクエストがあればメールか掲示板でどうぞ。
合掌。



第十三話 現代訳「三教指帰」@

「今回から、新しい内容にします、もしリクエストがあれば・・・」
と前回書いたところ、掲示板の方に「三教指帰(三教指帰)」の現代訳をお願いしますというリクエストがありました。折角のリクエストですから、応えねばなりません。ですので、今回からは、お大師さんの処女作である「三教指帰」について訳及び解説を始めたいと思います。
なお、そのまま訳すとわかりにくい部分もあるかと思いますので、落語風にアレンジして話を進めていきます。どうぞご了承ください。
では、はじまりはじまり・・・。

弘法大師空海、どなたも御存じのお大師様ですな。そのお大師様、たくさんの著作物があります。まあ、多くは難しい論文なのですが、その中に物語を書いたものがありますな。今でいう「戯曲」と言われる作品です。戯曲というとわかりにくいですかねぇ、まあ、お芝居の台本のような本ですな。その作品、題名を「三教指帰(さんごうしいき)」と申しますな。今回は、その「三教指帰」について、ちょいとお話をいたしたいと思います。
さて、三教指帰、序文と上中下の三部構成になっておりますな。序文は、この三教指帰を書くに至った理由を、その次から本文に入って行きます。「三教」と申しますは、儒教・道教・仏教のことですな。お大師さんは、この作品によって、儒教・道教・仏教を比較し、どの教えが優れているのかを論じているわけですな。お芝居を通じ、それぞれの教えの特徴を解説しつつうの、比較検討し、どれが優れた教えか、ということを論じているわけです。これが、お大師さん、24歳の時の作品っていうんですから、まあ、驚きですな。過去、その三つの教えを比較した人はおりません。天才は、過去の人と違うことをするもんですな。ま、それはいいとしまして、まずは序文からお話ししていきましょう。

序文
序文では、お大師さんが仏教に傾倒していった理由が説かれております。それによりますと・・・。
「文章を書くというのには、必ず理由がある」
という書き出しから始まりますな。人が文章を書くには、
「天が晴れていると気象のいろいろな現象が起きるように、人が感動すると文章を書きはじめるのだ」
とお大師さんは書いております。たとえば、
「老子の『道徳経』、『詩経』や『楚辞』に見える文章も、人の感動を紙に書いたものである」
と例をあげます。まあ、しかし、例にあげた作品は聖人と言われた人たちのものですな。今はまだ単なる若者のお大師さん、あまり偉そうなことは書けません。そんな聖人たちと比較などできませんな。
「聖人と私たちのような凡人とは人間が違い、昔と今では時代も違っているけれども、自分の心の中にあるもやもやしたものを言わないわけにはいかないのだ」
お大師さん、相当心に思うことがあったようですな。エラそうなことを書くかもしれないけれど、書かずにはいられないんだぁ〜という心の叫びが読み取れますな。

続いて、その「書かずにはいられないこと」を書きはじめますな。
「私は15歳になった年、母方の叔父である阿刀大足(あとのおおたり)・・・この叔父給料は2千石で親王の侍講(じこう、家庭教師のこと)であった・・・につき従って学問に励み研さんを重ねた。18歳で大学に入り、雪の明かりや蛍の光で書物を読んだ古人の努力に倣い、怠っている自分に鞭を打ち、首に縄をかけ眠らないようにし、眠たくなったら股にキリをさして眠気を覚ました人の努力を見習おうと思ったけど、それほどまでできない自分に怒ったりもした」
お大師さん、15歳の時に伊予親王の家庭教師をしていた叔父さんのもとで勉学に励むため、香川県は善通寺市から京都に上りますな。で、叔父さんに教えを受け、18歳で大学に入ります。そこでも必死に勉学に励みますな。いや〜しかし、昔の人の勉学の励み方は尋常じゃないですな。
自分に鞭を打つんですよ。さらに首に縄をかけて勉強するんですな。うっかり眠ってしまったら首が絞まってしまいますな。私なんぞ、いくら命があっても足りないくらいですな。しかし、そうならないように眠たくなったら、キリで太ももをさすんですな。いやはや、そんなことまでして勉強するのですな。これは、中国の故事に倣っています。宦官の登用試験に合格するためには、それくらい勉強したのだそうです。が、お大師さんは、そこまでできなかったらしく、昔の人の努力に至らない自分に腹が立っていた、と書いています。いや、いいんじゃないですか、それで、と私なんぞは思ってしまいます。そこまで勉強しなくても・・・とね。ま、お大師さんも迷っていたのでしょうな。そこまで勉強する意味があるのか、と。その悩みは大きくなり、お大師さんは、大学を休みがちになり、山をうろつくようになりますな。
登校拒否&逃避ですな。

その山への逃避中、一人の沙門・・・修行僧・・・に出会います。
「ここに一人の修行僧がいて、私に『虚空蔵求聞持の法』を教えてくれた。そのお経に説くところによると、『もし人が、この虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱えれば、直ちにすべての経典の文を暗記し、その内容を理解できる』とある。なので、私は仏様の真実の言葉を信じて、一生懸命努力した。阿波の国(徳島県)の大滝嶽(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐(高知県)の国の室戸岬で一心に修行した。谷がこだまを返すように修行の成果は現れた!。虚空蔵菩薩の化身である、明星が飛び込んできたのだ!」
その修行僧にお大師さん、「虚空蔵菩薩菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)」という極めて特殊な修行法を教えてもらうのですな。おそらくは、その前にお大師さん、この修行僧から仏教についていろいろ学んでいたのでしょう。そして、その奥の教えもあるんだぞ、ってんで「求聞持法」をその修行僧はお大師さんに教えたのでしょうな。
この法、とんでもなく大変な修行法ですな。虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱えなきゃいけません。それも、細かな制約があります。百万遍に達成する日が、満月か新月か月蝕の日じゃないといけません。そのほかいろいろ制約があるんですが、まあ、それは端折りまして、この修行法を成功すると、なんと一度読んだ文章は絶対忘れないという「スーパー記憶術」を身につけることができるんですな。受験生の皆さん、一度トライしてみては???
しかし、求聞持法、なかなか成功をすることができません。お大師さんですら、7回目だかに成功を納めます。そう、明星・・・金星ですな・・・が口に飛び込んできたんですな。求聞持法には、「明星が奇瑞を表したら成功したと言える」と説いていますな。ただ、真言を百万遍唱えればいいってもんじゃありません。まあ、それすら大変なんですけどねぇ。で、お大師さんの場合は、7回目の挑戦の時に明星が口に飛び込んできたのだそうですな。ただでさえ、天才的に頭がよかった人が、スーパー記憶術を手に入れたのですから、そりゃもう大天才ですな。一度見た文章、一度聞いたこと、み〜んな覚えてしまいます。いやはや、なんと便利な・・・。
ま、こうして、お大師さんは、仏教にのめり込んでいったのですな。

「こうして私は世俗の栄華を厭うようになり、山林に立ち込めるもやをいつも慕うようになったのだ。軽く暖かい衣服を着て、肥えた馬に乗り、流れる水のように速い車に乗る人たちの暮らしを見ると、この世は稲妻や幻のように無常な世界であるのだと嘆く心がたちまちに起こり、醜い者や貧しい者を見ては、前世の業の報いなのだなと悲しみの心がわいたのだ。目に触れるものはみんな、私に出家を勧めた。誰も吹く風を止めることができないように、私のこの出家の決意を止めることは誰にもできないのだ」
すっかり仏教にのめり込んでいったお大師さん、もう都の空気が嫌になっておりますな。山や森をふらふらしている方が落ち着くのですな。都の公家さんが豪華な衣装を身に着け、どっしりとした馬に乗ったり、速く走る車に乗ったりしているのを見ると、「あぁ、何と哀れな・・・。その栄華もほんの一瞬の出来事なのに・・・。そんなことにも気が付かず、あぁ、哀れな者たちだなぁ」と思ってしまうのですな。逆に貧しい人たちを見ると「あぁ、かわいそうに・・・。あのような貧しい家に生まれたのも、前世の報いなのだなぁ。きっと前世において罪を犯したのだなぁ。あぁ、何とか助けられないか・・・」と嘆くようになったのですな。もう大学で勉強どころではありません。
山野を歩いておりますと、虫や草花が「出家しなさい、仏道修行をしなさい」と、囁きかけてくるような気さえします。もうすっかり気分は出家ですな。それ以外考えられません。そう、その気持ちは、だれにも止められないのですな。
ところが、そのお大師さんの決意にうるさく文句を言う者がいるのですな。

「ここに何人かの親戚や知人がいて、儒教に説くところの五常のきずな・・・仁・義・礼・智・信・・・で私を縛ろうとしている。忠孝に背くといって私の出家に反対するのだ。私が思うに、いろいろのものはその性質が違っている。たとえば鳥は空を飛ぶが魚は水に沈む。そのようにみんな性質が違っているのだから、聖人だって人を導くのにも三種の道があるのだ。それは、仏教・道教・儒教である。この三つの教えは、それぞれ教義に浅いとか深いとかの違いはあるだろうけど、どれも聖人の教えだ。その中の一つの教えに入っていれば、忠孝にそむくこともない」
とかく外野はうるさいのですな。本人が出家したいと言っているのだから、そうさせてやればいいものを、やれ親の意向に背くのか、親を見捨てるのか、それで仁義は通るのか、人としてどうなのか、忠孝に背くのではないか・・・などとうるさいのですな。その人の人生はその人のものです。親のものじゃあありませんな。ま、そなんことを言ってしまうと角が立つので、お大師さんは、みんな誰も性質が違うでしょ。だからこそ、聖人はその違いに応じて、三つの教えを用意したのでしょう。仏教、道教、儒教のね。その三つの教えのどれかに入っていれば、親不孝ってことはないでしょう、と正論で押しますな。もし、仏教が親不孝なら、お釈迦様は最大の親不孝者になってしまいますな。聖人ではなくなってしまいます。ま、そう言われると、親戚筋の人もぐうの音も出ませんな。
しかし、お大師さん、もう一つ懸念があります。

「また、私には母方に甥が一人いるのだが、この者、性格はねじけ、狩猟や酒や女に溺れ、いつも賭博や悪行ばかりをしている。こういう悪い習性は、悪い環境に染まってしまったせいであろう。親類や知人の反対とヤクザな甥のことが、私の気にかかることである。そこで、亀毛(きぼう)先生に登場してもらい儒教を説くお客様とし、兎角(とかく)先生にお願いして主人役になってもらう。また虚亡隠士(きょぼういんし)においで願って道教に入る趣旨を述べていただき、仮名乞児(かめいこつじ)を煩わして仏教の教理を解き明かしてもらう。ともに論陣を張って、ヤクザな蛭牙公子(しつがこうし)を戒める。これ、全三巻とし、題を『三教指帰』という。これはただ、自分の心につかえるはやる気持ちを述べただけで、他人に見せるつもりは全くない。延暦16年12月1日のことである」
お大師さんには、母方にヤクザな甥っ子がいたのですな。こいつが、もう悪くて悪くて。楽しむため・いたぶるために狩りをするのですな。動物虐待です。酒を飲み、女をあさり、賭け事に興じる。飲む打つ買う、ですな。どうしようもない甥っ子です。この甥っ子のことも放っておくわけにはいかない。
親戚や知人は、出家を反対する。甥っ子のことも気になる。困った・・・と悩んだ末、ヤクザな甥っ子を儒教の先生、道教の先生、仏教の修行者にそれぞれ説教してもらい、その教えの比較をするという物語を書こう!と思いつくわけですな。そうすれば、自分の気持ちを表現できるじゃないか、と考えたわけです。そうして書き上げられたのが、この「三教指帰」なのですな。
とまあ、序文には、この三教指帰を書いた理由が述べられているのですよ。以下、まとめておきます。

三教指帰 序文 現代訳

「文章を書くというのには、必ず理由があるものだ。天が晴れていると気象のいろいろな現象が起きるように、人が感動すると文章を書きはじめるのだ。老子の『道徳経』、『詩経』や『楚辞』に見える文章も、人の感動を紙に書いたものである。聖人と私たちのような凡人とは人間が違い、昔と今では時代も違っているけれども、自分の心の中にあるもやもやしたものを言わないわけにはいかないのだ。(だから、それを文章にするのである。)
私は15歳になった年、母方の叔父である阿刀大足(あとのおおたり)・・・この叔父給料は2千石で親王の侍講(じこう、家庭教師のこと)であった・・・につき従って学問に励み研さんを重ねた。18歳で大学に入り、雪の明かりや蛍の光で書物を読んだ古人の努力に倣い、怠っている自分に鞭を打ち、首に縄をかけ眠らないようにし、眠たくなったら股にキリをさして眠気を覚ました人の努力を見習おうと思ったけど、それほどまでできない自分に怒ったりもした。(だが、次第に大学にいることを疑問に感じ始め、山野を徘徊するようになった。そんな時に・・・・)
ここに一人の修行僧がいて、私に『虚空蔵求聞持の法』を教えてくれた。そのお経に説くところによると、『もし人が、この虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱えれば、直ちにすべての経典の文を暗記し、その内容を理解できる』とある。なので、私は仏様の真実の言葉を信じて、一生懸命努力した。阿波の国(徳島県)の大滝嶽(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐(高知県)の国の室戸岬で一心に修行した。谷がこだまを返すように修行の成果は現れた!。虚空蔵菩薩の化身である、明星が飛び込んできたのだ!。
こうして私は世俗の栄華を厭うようになり、山林に立ち込めるもやをいつも慕うようになったのだ。軽く暖かい衣服を着て、肥えた馬に乗り、流れる水のように速い車に乗る人たちの暮らしを見ると、この世は稲妻や幻のように無常な世界であるのだと嘆く心がたちまちに起こり、醜い者や貧しい者を見ては、前世の業の報いなのだなと悲しみの心がわいたのだ。目に触れるものはみんな、私に出家を勧めた。誰も吹く風を止めることができないように、私のこの出家の決意を止めることは誰にもできないのだ。
しかし、ここに何人かの親戚や知人がいて、儒教に説くところの五常のきずな・・・仁・義・礼・智・信・・・で私を縛ろうとしている。忠孝に背くといって私の出家に反対するのだ。私が思うに、いろいろのものはその性質が違っている。たとえば鳥は空を飛ぶが魚は水に沈む。そのようにみんな性質が違っているのだから、聖人だって人を導くのにも(その性質に合わせて)三種の道を用意したのである。その三種の道とは、仏教・道教・儒教のことである。この三つの教えは、それぞれ教義に浅いとか深いとかの違いはあるだろうけど、どれも聖人の教えだ。その中の一つの教えに入っていれば、忠孝にそむくこともない。
また、私には母方に甥が一人いるのだが、この者、性格はねじけ、狩猟や酒や女に溺れ、いつも賭博や悪行ばかりをしている。こういう悪い習性は、悪い環境に染まってしまったせいであろう。
親類や知人の反対とヤクザな甥のことが、私の気にかかることである。そこで、亀毛(きぼう)先生に登場してもらい儒教を説くお客様とし、兎角(とかく)先生にお願いして主人役になってもらう。また虚亡隠士(きょぼういんし)においで願って道教に入る趣旨を述べていただき、仮名乞児(かめいこつじ)を煩わして仏教の教理を解き明かしてもらう。ともに論陣を張って、ヤクザな蛭牙公子(しつがこうし)を戒めるのだ。
(こういうストーリーの物語を書く)。これ、全三巻とし、題を『三教指帰』という。これはただ、自分の心につかえるはやる気持ちを述べただけで、他人に見せるつもりは全くない。
延暦16年12月1日のことである」
合掌。


第十三話 現代訳「三教指帰」A

今回から、いよいよ三教指帰の本文に入ります。本文は、物語になっていますので、解説はほとんどいらないと思います。ですので、わかりやすいように落語風に話を進めていきたいと思います。難しい儒教などの書の名前や、儒者についての解説はあえて省きます。そういう難しい本があるのだ、そういう偉人がいたのだ、という程度で読み流してください。そうした書や人物に意味があるのではないですからね。

巻の上 亀毛(きぼう)先生論

亀毛先生という方がおられます。この方、生まれつき弁舌が立ちますな。顔や体つきも大きく、堂々としております。この方、儒教の先生で、儒教の九経とかいう難しい教えや古い史書なんぞを覚えておりますな。三皇(さんこう)の書なんていうわけのわからない書や八卦にまで通じています。まあ、儒教を極めている方でありますな。この方が一度演説すると枯れ木にも花が咲く、と言われております。あるいは、一言発すれば日にさらされた死骸も生き返るほどですな。中国の名高い弁士の蘇秦(そしん)や晏平(あんぺい)もこの方には舌を巻きますな。張儀(ちょうぎ)や郭象(かくしょう)のような雄弁家も遠くから見るだけで黙ってしまいますな。それほど、優れた儒者であります。
その亀毛先生、お休みの日に兎角公の屋敷を訪ねますな。兎角公、亀毛先生の来訪を喜んで、御馳走の席を設けますな。まあ、一杯どうぞ、いやいやあなたこそなどと、親しく酒を酌み交わし、食事などをして語り合いますな。楽しいひと時を過ごしております。そんな時に、兎角公、ふと思ったことがありますな。

実は兎角公の母方の甥に蛭牙公子(しつがこうし)という者がいます。この者、ちょっと問題児でありまして、その心は狼のようにねじくれているというのですから、非道な若者なのですな。人が教えてもそれには従ったことがない。凶暴で、礼儀などわきまえたことがない。賭け事を生業としていますな。職業は博徒なのです。狩猟を楽しみ、仲間も悪く、ヤクザなゴロツキですな。とんでもなく思い上がっていて、どうしようもないヤツです。当然ながら、仏教の因果の教えも信じていませんな。ですから、罰が当たる悪行の報いが来る、なんてことも認めませんな。深酒をし、たらふく食い、女を漁りますな。いつまでも寝ていて、起きてきません。飲む打つ買うで、さらに怠け者ときています。親戚に病人があっても見舞いどころか心配すらしない。どんな立派な方が目の前にいても敬うことなど一切しない。父にせよ目上の人にせよ、ナメテかかっております。徳のある立派なお年寄りなんぞ、小ばかにして相手にもしませんな。兎角公、この甥の蛭牙公子が、悩みの種ですな。

兎角公、意を決して、亀毛先生にお願いしますな。
「聞くところによりますと、中国では古くから、王豹(おうひょう)という方が歌を好んだので高唐地方の人々はそれに倣ったそうですな。また、縦之(しょうし)という方が学問を教えたところ巴蜀(はしょく)地方の人々はそれに教化されたそうですな。あるいは、中国では橘や柚子を淮河の北に移植するとひとりでにカラタチになってしまうという。さらには、曲がった蓬(よもぎ)を麻の中に入れて植えると、つっかいがなくてもまっすぐ立って育つという。本当に中国の教えは深いですな。先生は、その深い中国の教えに精通されている。そのような先生にお願いがあります。どうか先生、その儒学の極意を披露されて、このならず者の蛭牙公子の心を覚まし、その秘訣を示して、この愚か者の心を何とか教えて導いてはもらえないだろうか」
兎角公、必死に亀毛先生に頼み込みますな。すると先生
「昔から言う通り、賢い者は教えなくてもものがわかるし、愚かな者は教えても賢くはならない。昔の聖人も、このことについては随分悩んだ。ならば、今どきの愚かな若者となると、教えるのはとてもたやすいとは言えませんな」
と、どうも乗り気ではないですな。兎角公、引き下がれません。
「いやいや、物にちなんで心の思いを述べる、ということは、昔の賢人でも言っております。その時どきの心に従って、文章を作ることは、昔から人々が尊重してきたことでしょう。だから、韋昭(いしょう)が『博奕論(はくえきろん)』を書き、元淑(げんしゅく)が『疾邪賦(しつじゃふ)』を記したことは、書物にも載っていて、それらは時代を経た今でも戒めとなっているではありませんか。また、鈍い刀で骨を切るには砥石の助けがあるように、重い車が軽く走るのは油をさすからでしょう。心のない鉄や木でもこのようになるのですから、情を持っている人間がどうして、その戒めを尊敬しないでよいものでありましょうか。先生、どうか蛭牙の愚かな心を洗い清め、その迷った道を正しい方へと指し示し、道理に暗い若者を教えて、正しい道に立ち返らせてください。そうすることは、大変立派なことであるし、また先生にとっても愉快なことではないでしょうか」
兎角公、知っている限りの知識を使い、亀毛先生を追いつめますな。さすがの亀毛先生も、さてどうしたものか、と思い煩い始めますな。なかなか決心がつかぬのか、ボウとしてため息なんぞついています。空を仰いでみて悲しそうな顔をしますな。かと思うと、下を向き、考え込んでしまいますな。兎角公も困ったことを言ってくれるわいてなもんなのでしょう。
しかし、その名を知れた亀毛先生、そのまま逃げるわけにはいかないですな。しばらくして、にっこりとほほ笑んで言いますな。
「三度もあなたから懇ろに頼まれたのでは、イヤとは言えませんな。仕方がない。私の考えをしぼって、できるだけ今までの行状を蛭牙君に言い、私のつまらない意見でもって彼の心を修める方法を述べましょう。私には立て板に水のような流暢な弁舌の才能はありません。また、鄭玄(じょうげん)のような智慧もありません。文章によって帝王の頭痛を忘れさせたという陳琳(ちんりん)の名文など、私には思いもよらぬものです。敵将を殺すほどの名文を書いた人のマネもできません。私にできることは、古今のことを述べ、それに託して私の考えの一端を述べることくらいです。その他のことは、他の人に任せましょう」
と、まあ、言い訳を交えながら、なんとか蛭牙公子への説教を引きうけますな。さらに、蛭牙公子への説教を引く受けるに至った心の内を語り始めますな。
「物事を考えますと、天地創造の後に人類の歴史は始まったのでしょう。人間はみな天地陰陽の気を受けてこの五体をそなえているのですな。しかしながら、人間のうちで賢い人は優曇華のように稀であり、愚か者はケ林(とうりん)の樹木のように多い。善を尊重する人は麒麟の角のように稀だが、悪に耽る人は龍の鱗よりも多い。箕星(きせい)は風を好み、畢星(ひっせい)が雨を好むように、人の行動は様々である。人の顔が皆違うように、心に思うことも違う。玉と石が似ているが違うように、人間も九等の区別がある。狂った者と賢い者では格段の差があるのだ。好むことをやればスラスラ運ぶけれども、嫌なことをさせれば、水と油のようにうまく合わない。干物を売る店から干物がなくなってもそのにおいが残るように、悪の影響はいつまでも残ってしまう。麻がまっすぐ伸びるような人間のよい性質はなかなか芽生えない。頭髪の虱は髪の色と同じように黒くなる。晋人の歯の色はナツメを食うため黄色になる。このように人は環境によって左右され、心を汚染されるのだ。そうすると、外面は虎の皮のように美しくあるが、内身は錦袋のクソであり、学問をしなければ禽獣と同じであると一生涯非難される。さらに、頭に盆を被っているから天を見ることができない、といつまでもバカにされる。まことに恥ずかしいことではないか、悲しいことではないか・・・・」

どうもこのあたりから、その場に蛭牙公子がいるような感じがしますな。兎角公が、亀毛先生が語っている最中に、奥から連れてきたのかもしれません。ま、場面的には、亀毛先生の話の途中から、蛭牙公子もその場に座っていた、と思ったほうが話が分かりやすいですな。
しかし、とうの亀毛先生、蛭牙公子がいようがいまいが、勝手に語っておりますな。語り続けています。
「私が思うに、楚の玉が光るのは、磨きをかけることがどうしても必要であろう。蜀江の錦が美しい色彩を出すのは、長江で洗うからであろう。元は強盗であった戴淵(たいえん)は、教えられて将軍の位に上った。周処は無頼漢であったが心をを改めて、ついに忠孝の名を得た。したがって、玉は磨くことによって車を照らす器となるように、人間も修養と勉学によって英才となるのだ。円のようにまろやかに教えに従えば、普通の人でも大臣の位にまでのぼれるし、方形のように角ばって人の諌めに逆らえば、たとえ天子の子孫でも庶民となってしまうのだ。材木は黒縄によって真っ直ぐとなると古人の教えで言われている。また、人は諫言を聞き入れて聖人になるということも、今でも十分に通用することだ。上は天子から下は一般庶民の子供まで、学問をしないで覚ったり、教えに背いて自ら道理に通じた者は一人もいないのだ。夏の殷の国が滅び、そのあと周と漢が興ったのは、殷の転覆を手本として周や漢が誡めた美風によるものである。だからこそ、誡めなければならないのだ。慎まなければならないのだ。のう、蛭牙公子よ。
さて、蛭牙公子よ。耳を傾けて、目を見張って、よく注意して私の教えを聞き、お前の迷いの道を考えようではないか」
長い前置きが終わりまして、いよいよ亀毛先生の説教が始まりますな。さてはて、超悪者の蛭牙公子、亀毛先生の教えを聞き入れますかどうか・・・。
それは次回のお楽しみで。今回は、これにて終了です。
合掌。


ばっくなんばぁ〜9


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