仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ〜10

第十三話 現代訳「三教指帰」G
巻の下 仮名乞児(かめいこつじ)論

仮名乞児くんは、親を捨てても、その者が出家すれば、その家の先祖は救われ、子々孫々栄えるから、目先の親孝行なんぞどうということはない、そんなものは本当の親孝行ではない、という忠孝論を主張していますから、両親や兄弟姉妹、親戚にもあまりかかわることがありませんな。浮草のように諸国を旅してますな。しかし、天の川の星影を眺め、石山の洞窟で暮らしていても空腹には耐えられませんな。仮名乞児くん、ふと思います。
「仏教の経典には、人は食べ物によって住ず、と説いている。また、仏教以外の中国の書物にも学問よりも食べ物が先だ、と説いている。私は今、空腹だ。その空腹を満たすために豊かな里に行くに越したことはない」
そこで、森を出て人々が集う都に行き、少欲知足の心をもって托鉢をしますな。小僧も連れず、ただ一人経典を抱えて托鉢に歩きますな。
とある一軒の家から声がしますな。兎角公の家です。中から亀毛先生と虚亡隠士が何やら論争をしている様子・・・。その二人を見ますと、このように見えてきますな。
「雷のようにはかなく消える身体をもって様々な生まれ方にとらわれ、夢のような心をもって眼・耳・鼻・舌・身・意の中に生きている。色・受・想・行・識の虚しい城を築き、泡のような軍勢を地・水・火・風の仮の世界に興している。蜘蛛の網を兜とし、極小の虫のような馬に武器を付け、しらみの皮の太鼓を打って敵陣を驚かし、蚊の羽を旗として軍勢のしるしとしている。実体我に対する執着という矛をもち、浅薄な知識という剣を振るい、霜のようにくだけやすい腕でお化けの原野に戦っている。私利私欲の論談をきそって、俗論を戦わせている・・・」
と。つまり、仮名乞児くんからみれば、二人の論争は、小さな虫が争っているようにしか見えないのですな。くだらん・・・のです。

仮名乞児くん、二人が「自分が正しい、相手が間違っている」という論争に耳を傾け、眼をしばたたいておりますな。そこで思います。
「この人たちの水滴のようなささやかな弁舌や、かがり火のような小さな光でこのありさまである。自分は仏陀法王の子である。私の虎や豹のような強大なマサカリをもって、あの人たちのカマキリの斧を打ち砕いてやろう」
彼は、ついに仏教の悟りの智慧という刀を研ぎ、弁舌の泉をわかし、何事にも耐えるという忍耐の心の鎧を身にまとい、仏教の慈悲の馬にまたがり、速くもなく遅くもなく、亀毛先生の陣に入り込み、驚かずまたはばかることもなく虚亡隠士の軍勢に対陣したのですな。仮名乞児くん、敵陣で暴れまわり、降伏を進め、勧告書を示しますな。すると、亀毛先生も虚亡隠士も恐れをなして戦意を失い、降伏したのですな。しかし、二人ともまだ本当に仏教の深さを理解できず、疑っているようでもあるのですな。
そこで、仮名乞児くん、涙を流し、頭を撫でて悲しみの気持ちを込めて二人を諭しますな。
「水たまりに泳ぐ小魚は、大きさ千里のコンという大魚を見ることはできない。垣根に飛ぶ鳥は、9万里を飛ぶ鵬(ほう)という大鳥を知らない。だから、海辺の馬鹿者は魚ほど大きい木はあるまいと思うし、山上の愚者は木のように大きい魚はいないと思う。そういうわけで離朱(りしゅ)のような眼の良く見える人でなければ毛の先は見えないし、子野(しや)のように耳の諭い人でなければどうして鐘の響きを聞き分けられようか。目が見えるものと見えないもの、愚かな者と愚かでないものと、その隔たりは本当に大きい。私が君たちの議論を聞いていると、たとえて言えば、氷に字を彫り付けたり、水に絵を描こうとするようなもので、労して益がないから、本当につまらない。亀毛のカモの足も必ずしも短いとは言えないし、隠士のツルの足も長いとは言えない。あなたたちが説く教えも五十歩百歩で大差ないのだ。あなたたちは、仏陀大覚世尊の教え、真理の帝王の道を聞いたことがないのか?」
諭すというか、ちょっと怒り気味ですな。まあ、仏教の説を聞いたことがないのでしょうから、仕方がありませんな。なので、仮名乞児くん、あきれ気味ですが、仏教を説いて聞かそう、と言いますな。

「私は、これからあなたたちのために、仏道の大綱をのべよう。秦の始皇帝が持っていたと言われる偽りを映し出す鏡でも見るがよい。龍を愛好していた葉公がいざ本物の龍を見て失神気絶してしまったというが、そのような迷いを改めよ。群盲が象の身体の一部に触れ、それぞれが違った答えを出したというが、そのような迷いを覚まして、ともに仏道を学ぶがよい。儒童(孔子のこと)や迦葉(かしょう、老子のこと)はみな私の友達であるが、この人たちは、私たちの師である仏陀釈尊があなた方のような愚昧を哀れんで、以前に中国に遣わし孔子と老子としたのである。中国の人々の素質が劣っているので、まず仮に浅薄な二つの教えである儒教と道教を説いたのであり、仏教の過去・現在・未来にわたる真理をまだ説いていないのだ。それなのに、君たち二人は儒教と道教という、おのおの違った道に執着して優劣を争っている。それは迷いもはなはだしいものだ」
ひどい言いようですなぁ。孔子と老子の教えは劣っている、とはっきり断言していますな。そんな劣った教えどうしで言い争っても、それは迷いである、ということですな。まあ、確かにそうではあるのですが・・・。しかし、態度がでかいですな、仮名乞児くん。

こんなエラそうなことをいう仮名乞児くんに虚亡隠士が尋ねますな。
「あなたはどう見ても世間の人と違っている。頭を見ると髪の毛は一本もない。身体を見ると、多くのものを持っている。あなたは、どの州どの県の人なのか?。いったい誰の子で、誰の弟子なのか?」
こういう質問をすれば、当然のことながら笑われますな。仮名乞児くん、大笑いをして答えます。
「迷いの三界に一定の家などない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の中で固定したところにいない。六道に輪廻する者は、ある時には天を国とし、ある時は地獄を家として住むこともある。あるいは、あなたの妻子となり、あなたの父母ともなる。ある時には魔王を先生とし、ある時は異教徒を友とすることもある。餓鬼や禽獣は、みな私とあなたの父母でもあり、妻子でもあった。始めから今までに切れ目などなく、今から始めまで固定した在り方もない。環のようにグルグルと四生(胎内から生まれる、卵から生まれる、湿気の中から生まれる、化生する)に生まれ変わっている。車輪のように六道の中を回っているのだ。あなたの髪は雪のように白いけれども、必ずしも年上の人ではないし、私の鬢の毛は黒々としているが、年下であるとは言えない。なぜなら、あなたと私は始めのない昔から、代わる代わる生まれ変わり死に変わって転変し、常住ではないからだ。だから、固定した州とか県とか親族はないのだ。
まあ、しかしながら、近頃のことを言えば、しばらくの間、幻のように南閻浮提(なんえんぶだい・・・この現世)の中の、日出づる国である日本の天皇の治下にある玉藻よる讃岐の島、楠が太陽をさえぎる多度の郡、屏風ヶ浦に住んでいる。思う人・・・御仏様・・・の所へもまだ行けないうちに早くも24年を過ぎてしまった・・・」
仏教修行者に「どこの人ですか?、どこに住んでいるのですか?」と虚亡隠士のような人が質問をすれば、からかわれるのは当然ですな。こういう質問は、愚問です。仏教修行者にとって、住まいは宇宙ですからな。悟ってない以上、六道のどこか、となります。まあしかし、そんなことを言ってからかっても仕方がないので、一応、この世での出身を言いますな。それは、お大師様の出身地であります、香川県多度郡屏風ヶ浦ですな。お大師さんの故郷であります。で、修行もままならず、今だ悟りも得られず、24年が過ぎたと嘆いております。これは、お大師さんの、その時の心情でありましょう。
さらに、虚亡隠士の質問に答える形で、その当時のお大師さんの気持ちを述べますな。仮名乞児として・・・。

「行為がよくなければ、その行為の報いとして、牛頭・馬頭などの地獄の鬼どもが自然に現れ苦しみを与える。その反対に、心の用い方が善ければ、金銀でできた楼閣が急に空から飛んできて甘露が与えられる。自分の心を改めることが難しいのであり、天界とか地獄とかが固定して在るのではない。私も以前はこのことであなたのように迷って疑っていた。しかし、この頃になって、たまたまよい先生の教え(=仏教)にあい、すでに前世からの迷いを覚ましたのだ。
そもそも私の師である釈尊は、人々を救おうという深い誓願を前世からずっとお立てになり、仮の姿でこの世に80年間出現され、限りない慈悲をもって30歳でブッダガヤで悟りをひらき、人々を教化した。時に仏のに縁のある者は、龍神でもなんでも、甘露の法雨である仏の不死の教えに浴した。枯れ枝にも花が咲き、やがて実を結ぶように、人々が成仏する時期を仏は予言した。しかしながら、過去世に善根を植えなかった不幸な人々は、身分の上下に関わらず、いつでもタデを食っていること(辛い思いをしていること)を知らず、厠に住んで臭いとも思わず、仏法の醍醐味を忘れているのだ。
そういうわけで、大慈悲の聖なる帝王である仏陀世尊は、入滅の日に、次に仏となるはずの弥勒菩薩や前に七仏の師であった文殊菩薩に丁寧に遺言して、後継者としての印璽を弥勒菩薩に授け、衆生済度のことを弟子らに教えたのだ。そこで、仏国の大臣にあたる文殊菩薩や迦葉羅漢(マハーカッサパなどの羅漢)が仏陀の告文を諸州に配分し、当来仏・弥勒の即位を一般民衆に宣言したのだ。
私はその告文の趣旨をうけたまわって、馬にまぐさをやり、馬車に油をさし、旅支度を整えて仏道に入り、昼夜の区別なく弥勒の浄土である兜率天に向かうところなのです。その道中には困難が多く、人のいない里を行くようなものだ。道路はいくつにも分岐し、どの道を行けばいいのかわからないこともある。ある者は馬に乗り、車を走らせて先にすでに出発している。だから、私はこまかい道具を捨てずに、ただ一人で担っていくのだ。食料はなくなり、道に迷っていたが、ありがたいことにこの門のそばまで来て、道中に必要なものを乞うているのだ」
お大師さん、お釈迦様の教えに出会い、迷いが消えたのですな。しかも、次の如来である弥勒菩薩が教えを説いている兜率天を目指す決心をしたのですな。今は、その道中である、ということなのですな。
その修行の最中・・・托鉢しながら歩いていたのでしょう・・・道に迷ってしまったわけです。食料もつき、困っていたら、この家から論争の声が聞こえてきた。あぁ、ありがたや、人がいるじゃないか、という状況だったわけです。
つまり、お大師さんは当時、大学の学問に疑問を持ち、迷っていたところ、仏法に出会い、修行を決意したわけです。で、弥勒菩薩の住まう兜率天を目指すため、山中などで修行に励んでいたのですな。仮名乞児の口を借り、現況をさらっと書いているわけですな。まあ、いずれ、叔父に見せるつもりもあったのでしょう。実際、この三教指帰を叔父に渡し、行方不明になっていますからね。これを読めば、叔父も安心するだろう・・・というか、あきらめるだろうし、親にも伝わるであろう、という予測で書いているのでしょうな。ま、このあたりが、三教指帰がお大師さんの出家宣言書とも言われるゆえんでありましょうな。
さらにお大師さんの、その頃の思いは語られていくのです。
合掌。



第十三話 現代訳「三教指帰」H
巻の下 仮名乞児(かめいこつじ)論

さて、仮名乞児くん、手にしていた金色に輝く錫杖(しゃくじょう)を振ってジャラジャラ音を鳴らしながら詩を歌い始めますな。その声たるや珠を鳴らすような和やかな声です。いい声なんですよ。で、「無常の賦」という詩と「受報の詞(ことば))を朗々と歌い上げますな。亀毛先生たちにこれを聞かせたのです。

<無常の賦>
「よくよく考えてみると、高くそびえる須弥山は天の川にまでとどくほどであるが、世界の終わりには劫火に焼かれ滅びて灰となる。広々とした四大海の水は深くて果てしもなく、天空の果てまで広がっているが、その時にはいくつもの太陽にさらされ水が乾いて消えてなくなる。広大な大地も世界の破滅の水災の時には、漂い動いて砕け裂けてしまう。弓なりに曲がる大空も焼かれて砕け折れてしまう。すると、静かな悲想非非想天における八万歳の長寿も、稲妻のようにすぐに消え去り、心の自由な神仙の数千年の長い命も、雷が撃つようにはやく終わってしまう。
ましてや我々人間が授かった肉体は、金剛石のように堅固ではなく、瓦礫のように砕けやすいものだ。身心を形成する色・受・想・行・識は真実のものではなく、水に映る月のように偽物なのである。
万物を構成する地・水・火・風の四大元素は無常であり、かげろうのようにはやく過ぎ去っていく。十二因縁は動揺する心を掻き立て、生老病死その他の八苦は常に心の源を悩ます。貪・瞋・痴の三毒の煩悩の炎は、昼夜にいつも燃え盛り、こんもりと繁る百八煩悩の藪は年中盛んである。疾風に吹かれて翻る塵埃のようにもろい肉体は、命が終わるときには春の花のように飛び散り、嵐に散る仮の命は、四大が離散するときには秋の葉のように乱れ散るのだ」
この世は無常ですな。ですから、この台地も海も、否、地球自体もいつかは滅びます。たとえエベレストであっても、崩壊するときは来るのですな。地球上はやがて炎に包まれ、焼けてしまいます。まあ、太陽は膨張しておりますので、いずれ地球は燃るのですよ。当然、水は涸れますな。そう、地球が燃え尽きるときは、いつかはやって来るのです。
そんな時がくれば、いくら寿命が長い仙人や神々といえども、虚しく消えてしまいますな。地球とともにさようなら、ですな。ましてや人間なんぞ、あっという間に滅びますな。
しかし、そんな終末を待たずとも、人間はいつかは死にます。今生きているこの姿は、真実の姿ではありませんな。仮の姿です。偽物の姿ですな。たまたま、物質が寄り添ってできただけ、のものです。しかも、もろいですな。簡単に病気にはなるし、老いていくし、怪我もします。ちょっと階段から転げ落ちれば死んでしまうかもしれないくらいにもろいですな。
ついさっきまで笑って過ごしていたのに、今は病院のベッドの上。この後は火葬場・・・てなことはよくある話ですな。まことに人間なんぞは虚しいものですな・・・と仮名乞児くんは歌いますな。その歌はさらに続きます。

「高価な玉のように美しい人の姿は、寄せ来るさざ波に先だって黄泉に沈み、万乗の天子の高貴な姿は、焼かれてわずかな煙とともに大空に昇る。美人の細い眉は霞をおって雲上に飛び、貝のように白い美女の歯も露とともにすべて抜け落ちる。絶世の美女の花のような眼は、たちまち緑の苔が浮かぶ沢となり、真珠の耳飾りをつけた美しい耳も、すみやかに松風のふく谷となる。紅をさした瞼はついにあばたの群がるところとなり、赤く染めた唇は鳥などのにつつかれ喰われるところとなる。以前に様々になまめかしく笑ったことは、今の日にさらされた骸骨の中に見出すことはできない。前には様々にあでやかな媚態を示したが、今の腐りただれた身体では誰も近付こうとはしない。そびえたつ豊かな黒髪は、散り乱れて藪のあたりの塵となる。ほっそりと柔らかな白い手は草の中に沈んで腐敗する。蘭のような芳香は、八方からふく風により飛び去ってしまった。臭い汁が身体の九つの穴からじくじくと洩れる。以前にまといついていた妻子は、今では楚(そ)の宋玉が夢で見た女神のようにはかない。壮大な宝蔵は鄭交甫(ていこうほ)が仙女と契った言葉のように空しい」
いくら美女と言っても、時がたてばババアですな。やがては黄泉の国へ旅立ちます。美人だから死なないってことはありませんな。身分が高い人でも、金持ちでも同じですな。いずれ死んで燃やされて灰となりますな。美しい歯並びをキラッと輝かせていたあの美女も、年を取れば歯が抜け落ちますな。キスしたいくらい美しい眼だって、涙がショボショボ出てくるようなしわくっちゃの眼になってしまいますな。耳だって、瞼だって、唇だって皆同じ。やがては、見るも無残な姿になってしまうのですな。いや、これは男女を問わずですよ。美女もイケメンも、死んでしまえば、やがて腐ってきてウジ虫がわき、汁が垂れ、悪臭を放ちますな。あ、ゲームのバイオハザードに出てくるゾンビや死体のようなものですな。ウジ虫の湧いた死体が想像できない方は、バイオハザードを見てみるのもいいかもしれませんな。
ま、いずれにせよ、美女だろうが、イケメンだろうが、金持ちだろうが、貧乏人だろうが、みんな死んでしまうのですよ。

「さらさらと鳴る松風が涼しく襟元に吹いても、それを聞いて喜ぶ人の耳はもうない。皓皓たる月の光が美しく額を照らすけれども、それを見て楽しんだ人の心は、今はどこに行ってしまったのか。こうして知るのだ。袖の長いうす絹の衣も愛し喜ぶべきものではなく、こんもりと繁るつたかずらこそ、変わることのない飾りであると。赤土を塗った白壁の家は長く残らない。松やひさぎの木の生えている墓地こそ、人間が長く宿る住処なのである。
仲睦まじく暮らした妻子や兄弟も、ひっそりとした墓所で再び会うことはできない。仲の良かった友達も、荒れ果てた墓で再び談笑できるわけではない。亭々とそびえる松の木の陰にただひとり突っ伏して空しく滅び、鳥のさえずりとともに、いたずらに一人草の中に沈んでしまう。たくさんの蛆虫がうごめいて目からも口からも続いて這い出し、歯をむき出して争う多くの犬が次々に続けて額でも足でもところ構わず噛み砕いてくる。妻子はそれを見て鼻をふさいで嫌がって後ろに退き、身内の者も他人も顔を隠して逃げていく。あぁ、なんと痛ましいことであろう」
人がいなくなれば、風が吹いていい音を奏でてもそれを楽しむ人はいません。満月の輝きを楽しむ人もいませんな。花鳥風月を楽しんだ人の、その心はどこへ行ってしまったのか・・・・。いつかは、この地球上から、人類が消えてなくなる日がやって来るのでしょうな。
人は死にます。そうなれば、楽しく過ごした我が家から出され、墓地に放置されますな。本当は、あの楽しい我が家は我が家ではなく、この墓地こそが我が家なのかもしれません。家に住むのが長いのか、墓地に住むのが長いのか・・・、果てどっちが本当の住家なのだろうか・・・と仮名乞児くんは問いますな。
仲が良かった妻子や家族も、兄弟も、友人も、死んでしまえば、もう会うことはできませんな。当時は、死体は人が寄り付かない山や森、林に捨てましたから、鳥や犬、野生動物が食い散らかしますな。そんな姿を見れば、残された家族は逃げ出すことでしょう。気持ち悪いですからね。人なんて、そんなものです。何と哀れなものなのでしょうか・・・仮名乞児くんは、そう無常を歌いますな。

「いろいろな御馳走を食べてたおやかであった美女の身体も、今は犬や鳥の大小便となり、多彩に装って美しかった麗人の姿は、今は虚しくかがり火に焼かれてしまう。春の園に遊んで憂いの心を消し、秋の池に戯れて宴会することはもうできない。あぁ、悲しいことだ。潘安(はんあん)が亡き妻を追悼した詩を詠んで、いよいよ涙を流し、伯姫(はくき)の追悼歌を歌えばかえって胸が張り裂ける思いがする」
いろいろな贅沢な食べ物を食べていた美女だって、死んでしまえば、犬や鳥の食べ物となりますな。その犬や鳥も糞をしますな。ということは、その糞は、元はあの美女だった・・・ということもありますな。あの美女も、やがては鳥や犬の糞になってしまうのですよ、と仮名乞児くんは言います。
そう、現代で言えば、あの美しい女子アナも女優さんも、やがては灰になるのですな。その前に老人という醜い者に姿を変えますな。どんなに美しい人であっても、どんなにイケメンであっても、しわくっちゃになり、目が衰え、耳が聞こえなくなり、認知になってしまうこともあるのですよ。浮世を流したあの人も、大金を稼いだあの人も、モテモテだったあの人も、みんな一緒。やがて老い、病になり、死んでいくのですな。

「無常の嵐は神や仙人でもまぬがれることはできないし、人の精気を取る悪鬼は身分の上下を問わない。それをのがれるために財宝をもって買収することはできないし、また権力をもって命を延ばすこともできない。寿命を延ばす神丹を千両飲んでも、また人を生き返らせる不思議な香を百石焚いても、片時も生命をとどめることはできないのだ。誰でもあの世に行かずにはいられないのだ・・・・」
このような無常のからは、神も仙人も逃れられませんな。身分も関係ないですな。命はお金で買うことはできません。権力があっても寿命を延ばすことは無理ですな。永遠の命なんぞ、ないのです。
道教では寿命を延ばす薬や不老長寿の薬を説きますが、そんなものは存在しませんな。また、一度死んだ人間を生き返らすことも無理ですな。
伝説に、返魂香(はんごんこう)というお香がある、といいます。死者をあの世から連れ戻すお香だそうです。そのお香をどれだけたくさんたこうが、一度死んだ者は生き返りませんな。それは真理に反することなのですよ。
最近では、遺伝子の研究も進み、寿命を延ばすことができるかもしれないとか言ってますが、限界はありますな。ならば、その限界を迎えた肉体を機械で補えば・・・という考えもあるようで。つまり、サイボーグですな。これも限界はありますな。最終的には脳だけ人間で、あとはすべてサイボーグにするのか、ということになるのですが、脳だっていずれは腐りますな。永遠はないのです。不老長寿などはないのです。不老不死などはないのですよ。すべては無常なのです。
そう、仮名乞児くんは歌うのです。
さらに彼は、続いて「受報の詞」を唱えますな。

<受報の詞>
「死骸が草の中でただれて崩れてしまい、魂は地獄でたぎる釜の中で煮られ、思うようにはならない。あるときは、鋭くとがった刀剣の山に投げられて血が滴る。あるときは、高い槍の山に刺され胸を刺し貫かれて苦しむ。またあるいは、非常に重い車に轢かれ、あるいは底なしの冷たい川に沈む。またあるいは煮えたぎる釜の湯が腹に入っていつも熱で焙られ、あるいは火になった鉄が喉に流れ込んで、片時もまぬがれる方法がない。およそ飲み物というものは永久にその名を聞くことはないし、ほんの少しの食べ物さえも何万年もの間取ることはできない。獅子や虎やオオカミが口を開けて歓んで飛び上がり、馬の頭をした獄卒は目を見張って襲撃してくる。泣き叫ぶ声が毎朝空に向かって訴えるけど、罪人を許す閻魔王の気持ちは毎夕に消えてしまう。閻魔王に頼んでみても、地獄の人々を哀れむ心は全くないのだ。妻子を呼んでみても、そのすべはもうない。財宝をもって買収しようにも、珠玉一つすら持っていない。逃げて苦痛を逃れようとしても、地獄の城壁は高くて超えることはできない。あぁ、苦しいことだ、あぁ、痛ましいことだ。
昔、孟嘗君がしたように、鶏の鳴き声をまねて関所の門を開けさせ、閉門で困ったということを解消することはできないし、また秦王の蔵に入って皮衣を盗みだして死刑になるはずの孟嘗君を助けたような盗賊はいない。計画も方法もないので、千遍でも悔い、千遍でも心配する。盤石劫や芥子劫の長い時間にわたり、なおいっそう泣き叫ぶばかりだ。
あぁ、痛ましいことだ。あぁ、痛ましいことだ。自分がもしも生前に努力しないで、そのためにこのような地獄の責め苦にあうものなら、万遍も泣き、万遍も心を痛めたところで、誰の助けも当てにはできないのだ。だから、勤め励まねばならないのである」
受報というのは、「報いを受ける」という意味ですな。蛭牙くんのように怠惰でやりたい放題の生活をしていると、地獄に落ちるぞ、と言っているのですな。地獄に落ちれば、とてつもない刑罰を受け、苦しみますな。それが劫という長い時間(1劫は、宇宙のできた時間、約50億年。4里四方の固い石を百年に一度天女がその衣で擦り、その石がなくなるまでの時間、これを盤石劫という。とてつもない大きな城に芥子を満たし、百年に一度その芥子粒を一つとって、その芥子粒が城からなくなるまでの時間を芥子劫という)続くのですよ。飲み物はありません。そんなものは地獄には名前すらないですな。喉が渇けば、溶けた鉄を飲まされますな。食事もありません。何万年に一回、ほんのちょっともらえるかもしれません。その程度ですな。
その地獄から逃げる手段はありませんな。鬼を買収しようとしても無駄ですな。金がないですからね。地獄の底も金次第・・・というわけにはいきませんな。子孫を頼っても無理ですな。子孫が逃げますからね。
こんなことになるなら、生きているときにもっとしっかりしておけばよかった・・・と何回も何回も悔やんでも、無駄ですな。さらに、この先いつまで地獄で苦しむのだろう・・・と心配して無駄ですな。後悔と苦しみとで泣き叫ぶしかないのですよ。
こんな地獄に落ちたくないというのなら、勤め励まなければなりませんな、と仮名乞児くんは言うのです。

仮名乞児くんは、「無常の賦」という詩で、道教の不老不死・不老長寿、仙道を否定しました。また、この世の出世や栄達が、意味のないものだということを示しました。人は死ぬのだ、どんな身分になってもそれからは逃れらない、という無常をもって否定したのですな。
さらに、「受報の詞」で怠れば地獄に落ちることを示したのです。欲にかられて悪いことをしても地獄に落ちる。地獄に落ちたくなければ、勤め励みなさい、ということを説いたのですな。
この仮名乞児くんの歌と詞を聞き、亀毛先生らは、びっくりしてしまうのですな。その様子は次回にお話ししましょう。
合掌。



第十三話 現代訳「三教指帰」I
巻の下 仮名乞児(かめいこつじ)論

仮名乞児くんの<無常の賦>と<受報の詞>を聞き、亀毛先生らは、梅酢を大量に鼻に入ったかのような酸っぱい思いをし、また、苦い菜っ葉を大量に口にした時のような苦い思いをし、肝がつぶれるような衝撃を受けますな。火を飲んだわけではないけど、胃の中は火で焼いたような思いをしていますな。あるいは、刀で刺されたわけでもないのに胸に穴が開いた気分ですな。むせび泣いたり、胸を叩いて踊り狂ったり、地に倒れたかと思うと、割き殺されたかのような叫び声をあげて天に訴えたりしてますな。そのさまは、慈悲深い親に死に別れた時のようであり、愛妻を失ったときのようでもあります。彼らは、一度は恐ろしさにたまげ、次には自分の至らなさによる悲しみによって気絶してしまいますな。
そこで仮名乞児くん、水瓶をとり、その水にマジナイをしてから、彼らの顔に振りかけますな。彼らはしばらくして息を吹き返しますが、二日酔いのようにモノは言えないし、劉玄石が息を吹き返して墓場からはい出た時のようであり、高宗が父の喪に服している時のように黙りこくっています。
そんな亀毛先生たちだったのですが、しばらくして涙をいっぱい流し、五体を地に着け、額ずいて丁寧に礼拝していいますな。
「我々は今まで瓦礫のようにつまらない教えを弄び、いつも小さな楽しみに耽っていただけでした。たとえて言えば、蓼を食う虫が蓼の苦さに慣れてしまったようであり、厠の蛆虫がクソの臭さを忘れているようなものです。盲目を覆って険しい道に進むようなものであり、また足の不自由な馬を走らせて暗い道をいくようなものでした。それでは行き着く先がわからないし、どこへ落ちるかもわかりません。今、偶然に先生がお説きになった慈悲の教えによって、自分の道がいかに浅薄であるかがわかりました。臍をかむ思いで今までの間違いを後悔し、これからは粉骨砕身して正しいことを行います。慈悲深い大和尚様、どうかもう一度ご指導くださって、仏教の極意をお示しください」
仮名乞児くん、これに答えますな。
「そうだ、その通りだ。よろしい、君たちは遠くまで迷うことなしに戻ってきた。私がいま重ねて迷いの根源を述べ、また悟りの安楽の結果を教えよう。そのことは、周公や孔子もまだ説いていないし、老子や荘子も述べていない。その果報は声聞の聖位である四果(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果)や独覚も到達することもできない。次に仏となる菩薩や位の高い菩薩だけが至り得るところである。よく聞いて守るがよい。要点をあげ、大綱をつかんで、大概を君たちに示そう」
仮名乞児くんの言葉を聞いて、亀毛先生たちは椅子をおり、
「はい、かしこまりました。私たちは、心を鎮め、耳を傾けて、謹んでひたすら御高説を承ります」
と唱えますな。仮名乞児くんは、そんな彼らを見て、心の蔵の鍵を開け、泉のようにほとばしる弁舌をふるって<生死海の賦(しょうじかいのふ)>と<大菩提の果>を説きますな。

<生死海の賦>
六道に輪廻する生死の海は、欲界・色界・無色界の際まで広がって、見渡せばきりがない。また、世界の四州の外をとりまいて、広々として遠く、測ることもできない。それはすべてのものを生み出し、無数のものを総括する。生死の海は大きな腹を空にして多くの河川を呑み込み、大きな口を開いてもろもろの濠の水を呑み込む。丘にまでのぼる高波は激しく湧き上がって止むときはなく、岸をおかす波はどうどうと大きな音を立てて打ち寄せてくる。雷鳴のようにとどろく響きは毎日すさまじい。車のガタガタなる音は雷のように毎晩やかましい。多くのものが重なり合い、様々な品がたくさん集まる。そこにはどんな奇怪なものも育つし、どんな奇怪なものも豊かにある。
その海にいる魚類は、貪りと瞋(いか)りと愚かさの三毒の煩悩と大きな欲を持つ。長い頭や尻尾は際限がない。それらの魚はヒレををあげ、尻尾で水を叩いて、口を大きく開けて食物を求める。それらが波を吸うときは、貪欲の海を離れようとする船の帆柱が折れ、帆が隠れてしまう。それらが霧を吐くときには、慈悲を志す人々の船の舵は折れ、人々は滅んでしまう。これらの魚は、泳いだり沈んだりして、煩悩は気まぐれである。あるものは宝を貪り、食を貪って心は素直ではない。谷のように欲が深くて、後のたたりなどは眼中になく、鼠や蚕のように貪り食って憐れみもなく、かわいそうとも思わない。みんな永劫に渡る輪廻の苦しみを忘れて、ただこの世の限りの幸せを望んでいる。
その世界の鳥類には、へつらうもの・讒言しおもねるもの・そしるもの・粗悪な言葉を吐くもの・おしゃべりするもの・かまびすしく言うもの・驕慢なもの・かつての行為を悔いるものなどがいる。羽を整えて道に外れたほうに飛び、高く飛び上がって安楽を求める。常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)の四つの迷いの入り江でガヤガヤ騒ぎ立て、十悪業の沢で羽ばたいて飛んでいる。まっすぐな菱の実をついばみ、潔白な豆を食い散らかす。鳳凰や鸞などの鳥を見ると上に向かっておどし、鼠や犬をとらえて、うつむいて大声でわめき鳴く。飛び上がり、また鳴いて、眼の前の利欲に走る。生まれまた死んで、未来の苦しみの報いを忘れてしまう。ところがどうだろう、雁門(がんもん)の坂にはカスミ網が張り巡らされ、昆明の池には魚をとらえる大網が一面に仕掛けられ、弓の名手コウエイの矢は前から飛んできて頭を砕き、また養由基(ようゆうき)の矢が後ろから放たれて血を流すことなど知らない。
その世界のその他の雑多な動物は、たかぶり、怒り、罵り、妬み、自慢し、悪口を言い、だらしなく、度が外れており、恥知らずで、不信心で、無慈悲で、邪淫し、邪まに考え、憎しみと愛着を持ち、栄誉と辱めをし、殺し屋の仲間となり、闘争の一味などとなる。外形は同じだが心は別で、種類も違うし、名も異なる。のこぎりのような爪や鑿のような歯を持ち、慈しみの心は少なく、穀物を食う。虎のように見据えて睨み付け、朝露のようにはかない無常の人生に処する。獅子のように怒って吠えて、夜の夢のようにはかない人生を暮らす。それらに出会うものは精気を抜き取られ、脳みそを出され、はらわたをつぶされる。それらを見る者はおののき震え、心が怖気づいて眼がくらみ、怖くて下を向く。
このようないろいろな生物が、上は有頂天にひしめき、下は無間地獄まで埋め尽くしている。いたるところに櫛の歯のようにずらりと並び、津々浦々に住家を連ねている。その有様は、玄虚(げんきょ)の名筆をいくら多く集めても説明できないし、郭象(かくしょう)の霊筆をいくらたくさん集めても論じつくせるものではない。
だから、五戒によって悟りの彼岸を目指す小舟は荒波に漂流して、羅刹の港の方へ風のままに押し流される。十善戒の車も破戒の力に引かれて、悪鬼の隣へ騒がしい音をたてて近付くのだ」

<生死海の賦>は、この世界に輪廻する者の状態を述べております。仏教の世界観では、須弥山を中心として、その周りに海が四つあるとしております。で、州という大きな大陸があり、海やその大陸に生き物がすんでいる、としていました。
その須弥山を中心とした世界は、ずーっと上に行くと天界に続いております。海の底をずーっと潜ってさらに進んでいくと地獄につながっています。つまり、この世界は、最も下の地獄・・・無間地獄・・・から、最も上の天界・・・有頂天・・・に至るまで、つながった世界なのですな。
その世界を欲界・色界・無色界と三つのグループに分けております。欲界は欲のある者がすむ世界で、地獄から天界の下位までの世界で、肉体を持ちます。色界は、肉体はあるけど欲はほとんどない世界で天界の中間クラスがこれに相当します。無色界は、肉体を持たない精神世界で、よくもほとんどないかなり清浄な世界で、天界の上位クラスが相当します。まあ、ちょっと大雑把な説明ですが・・・。
この三つのグループの世界は、みな輪廻する世界です。たとえ精神世界の無色界の住民といえども、輪廻します。寿命があるのですな。まあ、しかし、須弥山の上空、高い位置におります天界の方々は、下々のような貪欲さとは縁遠いですねぇ。
そう、須弥山の下の方、まずは海に住まう者たちは、貪りと瞋(いか)りと愚かさの三毒の煩悩しかないと仮名乞児くんは言いますな。で、こういう者たちは、真面目に生活しているものや、慈悲の心を持った者や、貪欲を離れようとする者を邪魔しますな。というか、三毒が渦巻いている世界に住んでいると、慈悲の心をおこしてもすぐに折れてしまうし、修行しようと思ってもその志は長続きしませんな。必死になって這い上がろうとしないと、あっという間に煩悩の渦に巻き込まれてしまいます。目の前の欲に惑わされ、どんどん汚れていきますな。まあ、ちょっと周りを見てみれば、そんな世界に生きている人もいますよね。恥知らずで、厚顔無恥で、欲だけしかないような人間・・・・。そういう者は、須弥山の周りの海の底に住まうものなのですな。
陸へ目をむければ、ここでも様々な愚か者がすんでいますな。他人を妬み、羨ましがり、恨んだりする者。自慢したり、悪口を言いふらしたり、騙したりする者。くだらないおしゃべりばかりに興じ、我を忘れている者。ピーチクパーチクうるさい限りですな。中には、無慈悲で、邪悪な心を持ち、殺し屋の仲間入りをしたりする者や、残忍な行為に明け暮れる者もいますな。いや〜、いつの時代も同じですなぁ。いつの時代も、愚かな者はどこにでもいるのですよ。
このような愚かで無慈悲な連中がたくさん住んでいるこの世界は、本当にすみにくい世界なのですな。誰もかれも、その報いが来ることなど信じないで、自分勝手に振る舞っています。恐ろしいことですな。もはや、このように荒れ果てた世界は、仏教の基本の戒律である五戒も、人として守るべき戒律である十善戒も通用しませんな。そんなことを説いても、だれも見向きもしないのだ、と仮名乞児くんは嘆いているのですよ。
多くの人々が、この輪廻の海に溺れていくのですなぁ。

日本でも、いや日本だけではなく、世界中で毎日誰かが誰かの手によって命を奪われておりますな。くだらないTV番組を見て笑っているその隣で、無残な殺人事件が起きていることもあるのです。平和なのか、平和でないのか・・・・。
お大師さんがいらしたころよりは、少しはましにはなっているかもしれませんが、でも人間はあまり進歩していませんよね。文明は随分と進歩しましたが、人間の心は、お大師さんのころ・・・いや、お釈迦様がいたころから、ちーっとも進歩していないのです。だから、地獄や餓鬼、畜生の世界に生き物がうごめいていても仕方がないですよね。

なぜ、仮名乞児くんはこんな話をしたのか。それは、まずは、この世界は愚かしい世界なのだ、欲の塊の世界なのだ、みんな欲に惑わされて貪欲になっている世界なのだ、ということを認識せよ、ということなのでしょう。まずは、現実をしっかり見なさい、ということですな。この世界のあるがままを外側がらしっかり見つめなさい、ということなのです。この世界の中にいてはわからないことが、外側から見ればよくわかるからです。中にいて物事を判断するから、出世や孝行が人生の大事だと勘違いしたり、永遠の生命を求め空を飛んだり酒を飲むことを求める生き方が大事だと勘違いしてしまうのですな。外から眺めてみれば、そんなことも欲の世界のことだし、愚かしいことだと気が付くのです。それを仮名乞児くんは理解させようとして、このような話を説いたのですな。
この世を客観的に眺める。これが重要なのです。

では、その次にはどうすればいいのか。こんな汚れて世界で生きていくにはどうすればいいのか・・・。それを説くのが、<大菩提の果>です。それは、次回にいたしましょう。
合掌。



第十三話 現代訳「三教指帰」J
巻の下 仮名乞児(かめいこつじ)論

<生死海の賦>を唱えた仮名乞児くん、続いて<大菩提の果>を唱えますな。
「この世はこのように汚れた世界なのだよ。だから、悟りを求める心を因として夕べに起こし、最も優れた報いを果として朝に仰ぐのでなければ、広々とした生死の世界・・・迷いの世界・・・の海底から抜け出て、偉大なる法身大日如来の位に昇ることなんてできないのである。六波羅蜜の修行を筏として迷いの河に船出し、八正道を船として棹を愛欲の浜辺に漕ぎ、精進の帆柱を立て心の統一という帆を上げ、忍辱の鎧を身に着け諸々の煩悩を防ぎ、智慧の剣をもって多くの敵を威嚇するのだ。七覚支(しちかくし)の馬にムチ打って速やかに苦海を越え、四念処(しねんじょ)の車に乗って高く煩わしい俗世間を越えるのだ。そうすれば転輪聖王からその頭頂の宝珠をいただいて国土を与えられるように、舎利弗が未来に成仏するであろうと世尊から予言をいただく春と同じように、仏の秘法を与えられて未来の成仏を許された龍女が首飾りを仏に奉納して成仏した秋のように、無尽意菩薩が首飾りをささげて最高の位に昇ったように、仏道の最高の位に昇るだろう。菩薩の十地の長い修行の道程も一瞬に経てしまうし、三無数劫(さんむしゅこう)という長い時間に修行を完成させることは難しいことではないのだ。」
仮名乞児くんが言うには、この世は汚れた世界、苦しみの世界、迷いの世界である、のですな。まあ、確かにそうですな。この世は、苦の世界です。楽な世界じゃありません。で、その苦の世界から抜け出なきゃいけません、と仮名乞児くんは説きますな。そして、大日如来の位までたどり着け、と説きます。それが理想ですな。
そのためには、
@六波羅蜜・・・布施をし、戒律を守り、耐え忍び、努力をし、禅定をし、智慧を磨く・・・を修行し、
A八正道を実践し、
B七覚支・・・よく念ずること、真偽を見極めること、教えを実践すること、修行過程を喜ぶこと、心身ともにこだわりなく軽やかであること、禅定をすること、すべてに平等であること・・・の実践をし、
C四念処・・・身が不浄であるという認識、受は苦であるという認識、心は無常であるという認識、存在はすべて無我であるという認識・・・の実践をする
ことなのだ、と説きますな。そうすれば、仏道の最高の地位に昇れるのだ、と説いているのですね。そして、その境地は、至るには長く時間がかかると言われていた境地なのですが、仮名乞児くんは、その地位に昇れる、と説いています。そう、これ、即身成仏と同じですな。
お大師さんは、この三教指帰を書いた時点で、すでに即身成仏を理解していたようですな。生きたまま、この世で、仏になれるのだ、と説いているのです。三教指帰を書いたころには、すでにある修行僧と出会って、求聞持法を授かり、実践していましたから、密教の真理はすでに理解していたのですな。さすがに、器が違いますな。まだ20歳そこそこの若者が、ですよ、密教の真理に達していたのですから・・・。驚きとしか言いようがないですな。
ま、それはいいとしまして、仮名乞児くんの説教は続きますな。

「そうした後に、菩薩が除くべき十種の障害を捨て、真如を証得して仏の位に達する。煩悩の障害と正しい智慧を妨げる障害である二転を越え、常の住居たる仏国土において真理の帝王となるのだ。絶対平等の真如の世界は理にかなっており心には差別なく、四つの鏡に喩えられる仏の智慧は遥かに毀誉褒貶を離れている。それは生滅を超越して改変することなく、増減を越えて衰えず、とてつもなく長い時間を越えて円寂である。それは、過去・現在・未来に渡って絶対無限なのだ。まことに偉大であり、まことに広大である。古代中国の聖王と言われる黄帝・帝堯・伏羲(ふつき)なども履物を取る資格はなく、インドの転輪聖王や帝釈天・梵天も、その車を動かす手伝いすらできないのだ。天魔や仏教以外の教えを信仰する者が百項の否定をあげて論戦を挑んでも及ばない。声聞や縁覚が、よろずの肯定をもって称讃しても足りないのだ。」
仏道の最高の地位に達したら、何の障害もなくなりますな。すべてを超越した世界に入ります。絶対的世界に入ります。それは、どんなものが論戦を挑んできても論破できない境地ですな。

「仏の教えはこのように偉大であるが、菩薩が一切衆生を救いたいという誓願を全うしないうちに、一切衆生はすべてはかない境涯におちいる。仏はこれを見て悲しみ、また哀れに思う。そこで盧舎那仏は百億の国土に百億の化佛を出現させる。仏は本来無相であり無形であるが、仮の姿を十方に示すのだ。久遠実成の仏道は釈尊の生涯の八相にはじまる。仏身は苦・集・滅・道の四つの真理のなかにある。仏の教えと仏の弟子たちは、八方の国々の果てまで至り、仏の大いなる慈悲のふれを十方に分かち与えるのだ。
このようにしてすべての衆生が雲に乗って雲のように流れていき、様々な生き物が風に乗って風のように集まるのを待つ。天上からも地下からも、雨の降るように、泉の湧くように集まる。清浄な世界からも不浄の世界からも、雲のように煙のように集まる。天に昇り地に下り、また地に下り天に昇る。天龍などの八部衆や、比丘・比丘尼などの四衆は、区別はあるが、お互いに交わり、一体となっている。彼らは仏の徳を称え唱え、その声は太鼓を打つように、また馬が走るように響く。あるいは、金を打つようにも聞こえる。その美しい姿は花が美しく咲き誇るように間断なく連なっている。八部衆や四衆の姿は、玉石のように輝き、馬車の音は大きく響き、その馬車はたくさん並んでいる。大衆の集いは、目にあふれ、耳に満ち、天にも地にも満ち満ちている。そこにいる衆生はかかとを踏み、踵を踏み、ひじを張り、肩を張ってひしめき合っているが、仏に対しては礼を尽くし、最上の敬意をもち、慎み深く、信仰心を持っている。」
仏様の教えは偉大ですが、菩薩が一切衆生を救いたいと願っている間に人々は死んでしまいますな。菩薩と衆生との時間の流れは全く異なっていますからね。たとえば、仏様が、瞬きを一回している間に人の一生は終わってしまう、とも言われますな。なので、菩薩が衆生を救おうと思ったときには、衆生は死んでしまいますな。
それではいけないというので、仏様は本来姿形はないけれども、方便として姿形を表し、人々に対して慈悲を与えますな。その慈悲に多くの人々が群がってきます。それは迷える衆生だけでなく、修行者も天人も、龍や迦楼羅などの伝説の鳥や天界に住まう者たちも、一斉に集まってきます。そのものたちは、みな口々に仏様を称える言葉を唱えていますな。それは、最上の信仰なのです。

「すると、仏は同一の言葉をもって説法し、衆生の迷った我執を砕くのだ。三千大千世界を引き抜いて他の世界に投げつけ、須弥山を削らずに芥子の中に入れるのだ。衆生に対して甘露の法雨を降らして導き教戒する。仏教の法味を分け与えて、その中に智慧と戒律を含ませておく。一切衆生は泰平の世を謳歌し、腹鼓をうち、土をうち、『君きたらば蘇がえらん』の歌をうたって、あまりの平和に君主の功を忘れるくらいである。無量無数の国々の人々が、法帝である仏に対して帰依して集まり来たり、一切有情が仏を仰いで集まってくる。大覚世尊こそ最も尊く、最も勝れているから、人々は世尊のもとに集まり、崇め奉るのだ。
あぁ、なんと偉大なであることよ。大覚世尊はなんと高大であることよ。これに比肩するものはなく。きわめるものはない。
これこそ、まことにわが師世尊の遺された教えであり、真如の法のなかのほんの一部の教えである。あの道教の仙人の小さな術や、儒教の俗世の微々たる教えなどは、このほんの一部の教えに足らないものであり、すぐれているなどとはいえないのだよ」
仏様は、すべて平等の心をもって教えを説きますな。これが同一の言葉をもって説法をする、の意味ですな。で、その説法は、とてつもなく偉大ですな。まるで、宇宙のとある銀河をむしり取って、他の銀河に投げつけるような、それくらいスケールが大きいですな。あるいは、エベレストを芥子粒の中に入れてしまうほどの不思議さで教えを説きますな。その教えが人々の間に広まっていけば、世の中は平和になるのですな。あまりに平和でその国に国王がいることすら忘れてしまうくらいですな。仏法というものは、それくらい平和をもたらす教えなのですよ。それを説いたお釈迦様は、他と比べる者がないほど偉大ですな。道教の教えも、儒教の教えも、仏教の教えのほんの一部にも及びませんな・・・。
と仮名乞児くんは説いているのです。
まあ、確かに、仏教の考え方は世界に平和をもたらす、とよく言われますな。仏教だけが争いを生まない宗教である、とも言われております。ですから、世界的に仏教を学び実践していけば、世界からは戦争はなくなりますな。仏教ほど、平和な教えを説く宗教は他にはないでしょう。仏教は、すべてを認めますからね。他を認めない一神教の宗教とは、根本的に考え方が異なっていますからね。神々をも超えた教えが仏教ですから。ま、道教や儒教など、足元にも及びませんな。

さて、このように仮名乞児くんの教えを受けた亀毛先生や虚亡隠士たちがどうなったか・・・。それは、次回に致します。次回で、三教指帰も終わりの予定です。
合掌。



第十三話 現代訳「三教指帰」K
巻の下 仮名乞児(かめいこつじ)論

仮名乞児くんの話を聞いた亀毛先生たち、仏教で教える悪業の報いを怖れはじめますな。また、自分の悪業を恥じます。さらに、今まで仏教を知らなかったことを悲しみ、今話を聞いて仏教を知ったことを大いに喜びますな。仮名乞児くんが教えを説くにあわせて上をむいたり下をむいたり・・・。水が器の形に従うように教えのままに従いますな。そして、喜んで踊りあがって言いますな。
「我々は幸いに優曇華の花のようにあい難い大阿闍梨にお会いできて、この世間から解脱するための最上の教えをいただきました。こういうことは昔に聞いたこともないし、後の世にもないでしょう。私たちがもい不幸にして和尚様にお会いできなかったら、色・声・香・味・触に対する欲の世界に永久に沈んで、きっと地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるでしょう。今、ようやく先生のご指導を得て、身も心も安らかです。たとえば、春雷が鳴ると冬眠中の虫けらたちが外に出るような、朝の太陽が出て氷が解けるように闇の夜がなくなるような、そのようなものです。あの周公や孔子の儒教や、老子・荘子の道教などは何と浅薄な教えでしょう。これからは『華厳経』に説かれているように、皮膚をはいで紙とし、骨を折って筆を作り、血を流して墨の代わりとし、頭蓋骨をさらして硯に使い、つつしんで大和尚の慈悲の教えを書き記し、それをこれからの世々に生死の海を渡り、悟りの世界に向かう船や車といたしましょう」
つまり、素晴らしい教えを聞きました、この教えは、儒教や道教に勝るものです。仏教に比べたら、儒教も道教も浅く薄っぺらな教えです。もし、この仏教を教えてもらえなかったら、我々は地獄や餓鬼、畜生に堕ちているでしょう。これからは、一生懸命に骨身を惜しまず努力し、後の迷える人々のために仏教を伝えるようにいたします・・・・。
と誓ったわけですな。この言葉を聞いて、仮名乞児くん、冷静にまとめに入りますな。

「元の席に戻りなさい。これから、この三つの宗教を十韻の詩にまとめましょう。これをあなた方の遊びの歌や囃子歌の代わりにするといいでしょう。
日月の光は暗い夜の闇を破り 儒・道・仏の三教は愚かな迷いの心を導く
衆生の性質と欲求はさまざまであるから 医王如来の治療法もさまざまである
儒教の三綱・五常を孔子が述べ これを学べば高官の位に登る
天地・陰陽の変化を老子が教え この教えを伝授して道観に居る
仏陀世尊の大乗仏教は その教義と利益が最も幽玄である
自己と他人とを救済し それは禽獣などの六道の生けるものに及ぶ
春の花は枝の下に落ち 秋の露は葉の前に沈む
逝く水の流れはしばらく止まらず 疾風がいくたび吹いて音を立てたことか
感覚の世界は人々を溺れさせる海 常・楽・我・浄の仏の徳こそ帰依すべき峰
今や三界の束縛の苦を知った 俗服を脱ぎ捨てて出家するがよい」

以上が三教指帰現代訳でした。
三教指帰は、儒教と道教と仏教を比較し、どの教えが優れているか、を説いた物語です。当時としては画期的な表現方法です。一種の戯曲になっており、これは日本初のもの、と言われておりますな。
内容を簡単にまとめますと、
儒教は世の中で出世するための方法を説いてある教えであって、どっぷりと俗世間にはまった教え。
道教は、それよりましで、俗世間の虚しさやバカらしさを説いてはいるが、そこから逃げる教えであり、現実逃避である。
仏教は、欲を超越し、一切の苦しみや迷い、来世の呪縛から解放される教えである。
となりますな。こうやって並べてもわかるように、教えとしては仏教が優れているのは一目瞭然です。これをお大師さんは、具体的に示したわけです。

宗教は、人それぞれです。誰が何を信仰しようと自由です。儒教であっても、道教であっても、神道であっても、イスラム教であっても、キリスト教であっても、仏教であっても、何でもいいでしょう。宗教を信じないで科学だけを信じる人にとっては、その科学が宗教と同じ役割を持っていますから、それでもかまいません。何を信じ、何を信仰しようが勝手です。自由です。ただし、人に押し付けるのはよくありません。自分の宗教が一番だから、最上だから、といってそれを他者に押し付けたり、強制したりする権利は誰にもありませんね。
「自分たちが信じている宗教を信じない者は皆殺しにするのだ」
などというのは、大きな間違えであり、神への冒涜となるでしょう。もし、そんな神がいるのなら、それは神ではなくて悪魔と言われるものです。誰が何を信じようとかまわない、という寛大な心が無くては、神は務まりませんからね。

三教指帰は、決して仏教を押し付けているわけではありません。もともとは蛭牙公子というどうしようもないダメ坊ちゃんをどの教えが救えるか、という話です。
ダメ人間に対して、儒教の教えで現実の出世や金持ちになることなどを説いて、頑張らせるのも一つの手でしょう。ニンジンを鼻先にぶら下げて働かせるわけですな。しかし、これが上手くいくとは限りませんな。どうしようもないダメ人間は、働くことを途中で放棄してしまいがちですし、早く良い結果が得られないと嫌になってしまいますな。
そんなことよりも仙術を学べよ、仙術を。仙術を学べばこの世は快楽じゃ〜と道教の教えを展開しますが、所詮これは現実逃避であり、結局は薬に頼って安易な方法へ逃げていきますな。ダメ坊ちゃん仙術を真面目に修行するわけないですからね。結局、薬で幻覚の世界へ逃げて行ってしまうことになるでしょう。
仏教は、強制はしませんな。いいんじゃないそれで、と説きますな。その代わり、地獄で何千年・何万年も苦しむことになるだけだ、ずーっと迷いの世界で溺れていればいいじゃない、ダメ人間のままで死んで地獄へ行けばいいじゃない、とビビらせますな。でも、ただ単に怖がらせているわけではないのですよ。現実を見せているのです。この世が今のお前にとって地獄だろ、よく見ろよ現実を!、と目を覚ますように説きますな。で、この地獄のような生活が嫌ならば、そこから自分で脱出しなさい、と説きますな。すべては自分の努力によるのだ、と。
こうして三つの教えを説いておいて、どれを選ぶかは説いてません。ま、明らかに仏教が救いの道、と説いているので、蛭牙くんがどの教えを選んだかは説かなくてもよかったわけですな。
いずれにせよ、仏教を押し付けているわけではないのですよ。

よく新興宗教の方で、勧誘をされる方がいます。あれは間違っていますな。自分にとっていい教えが他人にとっていい教えとは限りません。他者が助けて欲しいと望んできたら、その時は自分の信じている教えを説くのはいいとは思いますが、無理やり連れて行くのはどうかと思います。家々を訪問して勧誘する宗教というのは、本人たちは正しいと信じて行っているのでしょうが、それは教えの押し売りとかわらないですな。
人間、救われたくなったら自ら宗教を求めるものです。ですから、勧誘なんぞしない方がいいですな。すがってくるまで待っている、それが菩薩の心でもありますな。そうでなくては、本当の仏教とは言えないと思いますな。

さてさて、長いあいだ三教指帰について話をしてきました。次回からは、また別の話をしたいと思います。今のところ、予定はなしです。何かこれについて話しをして欲しい、ということがありましたらメールを下さい。わかることでしたらお答えします。わからないことでしたら、ご勘弁を。何もなければ、適当に思いついたことを書いていきます。
合掌。


第十四話 開創1200年大法会
無事に終わりましたようで。法会期間(4月2日〜5月21日)に参詣に来られた方は、60万人を超えたとか・・・。大変にぎわって本当によかったと思います。我らの本山が世に知れ渡る、これをきっかけに仏教や密教に興味を持つようになる・・・これは大きな意味があることだと思いますな。少しでも多くの方に高野山のことを知っていただけたのは、素晴らしいことだと思います。
私も4月11日の東海地区主催の法会に参列いたしました。朝9時からの法会に、初めは「めんどくせー」と思っていたのですが、いざ法衣を身に着け、列をなして歩いていくうちに身も心も引き締まりましたねぇ。あの沓(鼻高・・・びこうといいます)が歩きにくいので、こけないように足元ばかり気になってはいましたが、やはり気分はいいものです。それにしても高野山金堂での法会に参加できるというのは、ありがたいことですな。金堂内陣に座ってお経を読む・・・。参列したくてもできない人だっているのに、自分は恵まれているんだな、と実感いたしました。

今回の開創1200年法会での目玉は、なんといっても金堂の御本尊の御開帳でしょう。秘仏の御本尊が、御開帳されたのは初めてのことですな。
現在の金堂は昭和9年に再建されたものです。それまでの金堂は、昭和元年に焼失してしまったのですな。まるっきり全焼です。この時、御本尊も燃えてしまいました。で、金堂再建とともに、御本尊も造り直し・・・となったのですが、ここで問題が生じたそうです。焼失してしまった御本尊を誰も見たことがなかったのですな。
以前の金堂は、外からも見えますのでわかります。屋根が二層になった建物でした(現在の金堂は一層))。どんな仏様がお祀りしてあったかもわかります。ただ一点を除いては・・・。そう、御厨子の中の御本尊だけがわからなかったのです。誰も見たことがなかったのですよ。秘仏として扱われていたので、誰も厨子を開けたことがなかったのです。
一説によると、大正時代だかに3人の高僧が見たことあったそうですが、その高僧の方は厨子を開けて御本尊の姿を礼拝した後、しばらくして相次いで亡くなってしまったとか・・・。まあ、うそ臭い話ですな。仏様がそんなことをするわけがないですからね。これはきっと後から作られた話でしょう。秘仏にはよくある後付け話ですな。
いずれにせよ、御本尊の姿を誰も見たことがないんですな。ですから、全く同じに造り直すことは不可能ですな。ならば、金堂の御本尊は薬師如来なのだから、新たに薬師如来像を彫ってもらえるように注文すればいいのです。
そう、金堂の御本尊は薬師如来・・・そう伝わっていたのですな。私が高野山で修行していた時も、そのように聞いておりましたし、そう伝わっておりました。ところが・・・。

金堂再建が決まり、本尊様も造りなおそうとした時にさらに問題が生じたのですよ。実は、金堂の本尊様は阿?如来(あしゅくにょらい)である、という説がある、というのですな。
歴史を紐解いていきますと、伽藍の金堂には「薬師如来を本尊とすべし」とあるらしいのですな。で、伽藍の講堂には「阿?如来を本尊とすべし」とあるらしいのです。そんな中、高野山の伽藍の金堂は、果たして金堂なのか、講堂なのか・・・という疑問があったのだそうです。金堂は、本山の中心的な御堂で、本山の様々な行事・法会が執り行われる場所。講堂も同じく本山の様々な行事や法会が行われる場所。金堂も講堂も混同されますな、シャレではありませんが・・・。
さてさて、高野山の伽藍の金堂は、果たして金堂なのか講堂なのか・・・。
なぜ、こんな疑問が生まれたかと言いますと、金堂の本尊様が阿?如来であると伝わっていたからですな。脈々とそう伝わっていたのだそうです。我々、末端の僧侶は知りませんでしたが、内部のごく一部ではそういう伝説があったのだそうです。私たち末端の僧侶、いや多くの真言宗の僧侶は、金堂の本尊様は薬師如来と教えられてきました。が、本当は、別の伝説があったわけなのです。

おそらくは、金堂と講堂を兼ねていたのであろう、と思われます。密教は、不二一体とよく説きます。金剛界・胎蔵界と分けるけど、それは本来一体であって二つではない、という説ですな。もう少しわかりやすく言えば、人と仏と分けるけども、本来は人も仏も一緒、二つではない、という教えです。区別や差別はない、というのが密教ですな。人だ・仏だ、迷いだ・悟りだ、と分けているうちは、密教は理解できませんね。煩悩即菩提、即身成仏・・・これは、迷いも悟りも同じ、人も仏も同じ、不二一体という教えなのですな。
で、金堂です。金堂ならば本尊は薬師如来です。講堂ならば、本尊は阿?如来ですな。しかし、金堂と講堂を二つ建立することはできない。ならば、二つを一緒にしようではないか、金堂・講堂、不二一体だ・・・となってもおかしくはないですな。
となると、本尊様は?、となりますよね。なるほど、外見上は金堂だが、講堂も兼ねているならば、本尊様は阿?如来でいいじゃないか、という結論になりますな。本尊様を薬師如来にしてしまえば、これは誰がどう見ても完全な金堂になってしまいます。講堂の入る余地はないですな。自然、本尊様は阿?如来となりますな。
こういうことは伽藍の大塔と西塔にも見られます。大塔は、金剛界を立体的に表しておりますが、その中心の大日如来は胎蔵界の大日如来ですな。一方、西塔は胎蔵界の表しておりますが、中心の大日如来は金剛界の大日如来ですな。大塔と西塔の大日如来は、トレードされているのですよ。これは、金胎不二一体を表現しているのです。金堂にもこれと同じことがおこった・・・のでしょう。

なるほど、そういう意味だったか、だから金堂の本尊様は薬師如来なのだが、その実は阿?如来であるという伝説があったのか・・・・と当時の上層部の方々は納得されたのでしょう。
こうして、金堂の本尊様は阿?如来となった・・・らしいのです。まあ、金堂が創建された当時からそう伝わっていたのだそうですから、素直に伝説に従ったのですけどね。しかし、その伝説の理由も大事ですからね。
現在の高野山金堂の御本尊様は、高村光雲作の阿?如来像です。姿は阿?如来ですが、薬師如来でもあるのですな。

しかし、私はこうも思います。「そんなこと、どっちでもいいじゃないか、仏様は仏様でしょう」と。それにすべての仏様は、大日如来の化身です。つまり、薬師如来であっても阿?如来であっても、その御本体は大日如来ですな。
こんな話があります。
とある御老僧が、弟子を呼んで「答えてみよ」とひとこと言いました。弟子は、「ははぁん、何か問答があるのだな」とピーンと来ました。この弟子、優秀な弟子でして、「よし、論破してやる」と、やる気満々ですな。
御老僧、そんな弟子の様子なんぞ意に介さず、結跏趺坐して印を組みます。印とは、手や指を組み合わせ仏様を表すことですな。まずは、左手の人差し指を右手でくるむという智拳印を結びますな。そして「これは?」と問いますな。弟子は、なんだ簡単じゃないかと思い、すかさず「金剛界大日如来」と答えますな。次に阿弥陀如来の印を組み「これは?」と問います。弟子はすかさず「阿弥陀如来」と答えます。次に文殊菩薩、不動明王、観世音菩薩などなど、次々と印を組み「これは?」と尋ねますな。弟子は、もういい加減にしてくれ簡単すぎだよ、と思いつつ、これも次と次と答えていきますな。
そして最後に御老僧「これが最後じゃ。では、これは?」と胎蔵界の大日如来の印を組みますな。すかさず弟子は「胎蔵界大日如来」と答えますな。御老僧、大きく息を吸います。そして
「この大バカモノ!、お前は零点じゃ!」
と一喝しますな。弟子はびっくり仰天。「な、な、なんでですか?」と尋ねますな。そりゃそうです。完璧に答えたのに、0点って・・・、誰でも驚きますな。すると御老僧
「これはわしじゃ、わしはわしじゃ、すべてわしじゃ、このたわけものがっ!」
と答えたのです。
お分かりいただけたでしょうか?。答えは簡単。どんな印を結ぼうとも、御老僧は御老僧ですよね。姿形に惑わされてはいけない、という教えなのですな。つまり、「本質を見抜け」ということです。そんな理不尽な・・・と思うでしょうけど、言葉で教えても伝わらないことは、こうして教えた方がわかりやすいですな。言葉で「外見に騙されるなよ、姿形に惑わされるなよ、本質を見抜けよ」と教えられても、なかなか身には付きませんな。そこで、こうした手段をとったわけです。こういう教え方は、「自分は優秀だ」と思っている者ほど効果的ですね。
それはさておき・・・。本質はこのようなものです。姿形は変わっても、本質はすべて大日如来・・・宇宙そのもの。それが密教ですな。なので、薬師如来でも阿?如来でもいいのです。

ところで、金堂の御本尊様、御開帳は実に80年目にしてようやく・・・です。80年間、秘仏として御厨子の扉は開けらることはなかったのですな。この1200年大法会まで、誰も見たことがありませんでした。あぁ、もっとも最初に金堂に安置されたときは、高野山の僧侶の皆さんは礼拝されたのでしょうけど、それ以来、扉は固く閉じられましたな。そう秘仏となったのです。
よく秘仏秘仏と言いますが、秘仏とはなんぞや・・・ですよね。秘仏は、その字のごとく秘密の仏様、秘密の仏像、のことですな。なぜ、秘密にするのか・・・。答えは簡単、もったいないから見せられない、のですよ。あまりにも神々しくて、あまりにも威光が強く、直接お目にかかるにはもったいないくらいの仏様・・・・だから隠すのです。
こう言ってはなんですが、いつ行っても見られる、いつでも会える・・・という人や物は、そんなにありがたみがありませんな。いつでも会えるアイドル・・・なんてのが流行りましたが、そのアイドルと握手をしようと思うならば、握手券なるものを手に入れねばなりませんな。一回ならともかく、何回も・・・となると、かなりハードルが高くなりますな。結局、いつでも会えるアイドルではなくなっています。価値観は、こうして高められていくのですよ。
隠せば、なかなか会えなくなります。自然とその価値は上がりますな。いつでも拝める仏様もいいけど、滅多に会えない仏様・・・となると、会いたくなる、拝みたくなるのは人間の心理ですな。価値観を高めるわけです。
こうして、秘仏は誕生したのですよ。そうする必要があったのですな。そこまで人々の正しい信仰を集め、維持するためにも、必要なことだったのです。
ま、いずれにしても、なんでもあからさまになるより、少しくらい秘密があったほうが、楽しいじゃないですか。手品のタネは、知ってしまうとな〜ンだ、ですが、わからないうちは不思議なのですからね。世の中、何でもかんでもわかってしまうと、つまらないと思いますよ。秘密のある男性・女性の方が、興味をそそれますからね。そういうものですな。

さてさて、高野山開創1200年に際し、あちこちで「なんで薬師如来なのに阿?如来?」という疑問を多々耳にしましたので、お答えをしておきました。ご納得いただけたでしょうか?。
次回は、まだ何も決まっておりませんが、何かネタを探しておきます。ではでは。合掌。


第十五話 仏教に天国はない?
ニュースやワイドショーなどで、時折、芸能人の葬儀のシーンが放送されることがあります。そうした場合、その関係者がインタビューをされます。よく見る場面ですね。そんな時、多くの方が
「天国で安らかに眠ってください」
「天国から見守ってください」
「天国で楽しんでください」
などと答えています。まあ、これもよく耳にする言葉ですな。
しかし・・・、悲しみの中、誠に失礼なのですが・・・仏教には天国はないんですよね。天国はキリスト教で説かれるあの世の国なんですよ。仏教には、残念ながら天国はありませんな。

「そんなことはないだろ、仏教だって神様がいるんだし、天界があるじゃないか。極楽だってあるじゃないか」
という反論はあると思います。が、それはやはり「天界」であり「極楽」なんですな。細かいことを言うようですが、天国はキリスト教のものであって、仏教のものじゃないんですよ。なので、仏教で葬儀をした場合、「天国でやすらかに・・・」というのは、間違っているんです。

そもそも天国とは?なのですよ。天国とは、キリスト教で説く、死後の世界ですな。キリスト教では、人は死ぬと最後の審判を受けて、天国か地獄かへ振り分けられますな。神を信じ、信仰深く、教えをよく守り、また守れなかった人は神の許しを受けた・・・そういう人生を送ってきた人は審判で天国行きを言い渡されるそうですな。神を信じることなく、悪いことばかりし、反省も懺悔もしなかった者は、地獄行きを言い渡されるのですな。まあ、良い人間は、死後いいところへ・・・悪い人間は死後に罰を受ける場所へ・・・というのは、ほとんどの宗教に共通した考え方ですな。こうした考え方の中で、最も分類が多いのが仏教ですな。キリスト教やユダヤ教、イスラム教などは、天国か地獄しかありませんから、仏教よりも単純です。あちらの国らしい考え方ですよね。白か黒か・・・ですから。

仏教は違いますね。白か黒か・・・ではなく、段階があります。白と黒の間があるのですな。地獄があり、餓鬼があり、畜生があり、修羅があり、人間界があり、天界があるんですね。ここまでが生まれ変わる世界ですな。さらに生まれ変わらない世界もあります。声聞、縁覚、菩薩、如来の世界ですな。しかも、それぞれに細かい段階がある世界もありますな。
地獄だけでも大きく分けて八段階あります。餓鬼だって、底辺の餓鬼もいれば富める餓鬼もいます。畜生の世界だって忌み嫌われる生きものから贅沢なペットまで様々ですな。人間界だってランクがありますからね。貧乏人から超セレブまでね。
天界だって差があります。一番下の下天から有頂天まで、そりゃたくさんの世界がありますな。帝釈天の世界なんて、そこだけで33段階ありますからね。
菩薩の世界だってランクがあります。十地といいますが、十段階の菩薩に分かれているんですな。よく耳にする菩薩・・・観音さんやお地蔵さん、文殊さん、普賢さんなどなど、有名どころは皆最高ランクの菩薩ですな。如来だって、大日如来を頂点としていますな。まあ、そんなに差はないですが・・・。
が、仏教以外の場合は、天国か地獄か、白か黒か、なんですね。
あぁ、ちなみに神道はというと、黄泉の国と神々の世界に分かれますな。こちらは天国か地獄かに似ていますが、神々の世界が多種多様ですね。死後に神になった場合、どのランクの神になるかはわかりませんな。そう、神道では死者は神になれるのですな。さらに言えば、悪人は黄泉の国かもしれませんが、超悪人は神に祀り上げられますな。あるいは、死後に祟った者も神に祀られますな。菅原道真公がいい例ですね。あの方は、藤原の陰謀で失脚し大宰府に左遷され、藤原家を恨んで死んだため、死後に藤原家に祟ったのですな。で、恐れをなした藤原家の皆さんは菅原道真公を天神様として祀ることにしたのですな。それ以来、菅原道真は天神様・・・学問の神様となり、信仰されるようになったのです。信仰されるようになったら、祟るわけにはいきませんな。一種の褒め殺しですな。神に祀り上げて封印するのですな。諏訪神社の神も同じですな。
ま、このように神道では人は死後に神になれますな。もちろん神としてのランクはありますが・・・。一般人から神になった場合は、最低ランクの神からスタートですな。できれば、超悪人(世界中が震撼するような)か超祟る幽霊になったほうが、ランクが上位の神になりやすいかも知れませんね。

話がそれました。そうそう天国はキリスト教のものなのですよ。仏教や神道のものじゃないんですね。ということは、もともと日本の言葉ではなかったわけです。この「天国」という言葉と概念は、日本にキリスト教が伝来した時に、一緒に入ってきて定着したんですな。なので、戦国時代以降の言葉なのですな。今では、何の違和感もなく天国という言葉を使いますね。が、我々仏教者には、ちょっと違和感はあるのですよ。なので、天国という言葉を聞くと「仏教では天国はないんですけどねぇ」と思ってしまうのですな。

仏教で天国の概念に近いものはというと、まあ極楽浄土でしょうな。ちなみに浄土は極楽浄土だけではありません。極楽浄土は阿弥陀如来の世界ですが、他にも浄土はあります。薬師如来の瑠璃光浄土は有名ですね。
浄土とは、如来が人々の教化(きょうげ)を完全に終わって、すべての衆生を悟りに至らしめると浄土となりますな。つまり、阿弥陀如来は、自分の住まう世界の衆生・・・生きとし生ける者・・・をすべて悟りに導いたのです。なので、浄土となったのですな。
地球のあるこの宇宙・・・太陽系・・・は、宇宙の中心から見ると、北側の空間に存在しています。阿弥陀如来の世界は宇宙の西側に存在していますな。なので、極楽浄土のことを西方浄土ともいいます。
我々の住む世界は、宇宙の北側で、そこを担当する如来はお釈迦様ですな。釈迦如来の世界です。この宇宙の北側の世界は、まだ浄土化されていません。穢土です。汚れたままですな。つまり、まだ釈迦如来はこの世界の衆生すべてを悟りに導いていないのです。まあ、お釈迦様がこの世に出現してから、まだ2千5百年ほどしかたってませんから無理もないですけどね。なので、他の浄土から様々な如来や菩薩が派遣されていますな。宇宙の中で、浄土化されていないのは、北方のこの世界・・・娑婆世界・・・のみなのですな。他は東も南も西も浄土化されています。最後に残った最も欲深く、最も汚れた生物がすむ北方の世界をお釈迦様が担当したのですな。お釈迦様、貧乏くじを引いたわけですな。

ま、それはさておき。極楽浄土が天国に近いというのは、極楽浄土には苦しみがなく、善人しか住んでいないという点ですな。天国も極楽浄土も悪人はいませんな。苦しみもない。大変穏やかな、素晴らしい世界です。私は天国の詳しい状況は知りません。が、天国というくらいですから、そこには悪は一切ないのでしょう。苦しみも悩みも存在していないのでしょう。ならば、極楽浄土と同じですな。
ちなみ、極楽浄土では性別はありません。男女の差はないのです。性は一つに統一されています。従いまして、子孫繁栄のための性行為は一切ありません。もちろん、同性愛者も存在していません。性的欲求はないのです。
極楽浄土では、皆蓮の花の中から生まれてきます。容姿の差はあっても、それをとやかく言うようなものは一人もいません。お腹がすいたら勝手に食事があらわれます。お風呂に入って清潔にしたいと思えば、綺麗な温かい泉がわきだし、身体を清浄にしてくれます。お金もありません。着る物はなく、身につけているのは天人が着る衣です。というか、身体から生えているので、着たり脱いだ入りするものではありませんな。仕事はありません。では何をするのかと言えば、仏様の教えを聞く、それをみんなで話し合う、瞑想をする・・・くらいですな。まあ、退屈と言えば退屈かもしれませんが、極楽浄土の人々は、退屈だと思いません。満足しています。
きっと、キリスト教でいう天国も似たようなものだと思います。なのでキリスト教でいう天国は、仏教では極楽浄土にあたるわけですな。

天界は、輪廻の世界ですから、当然極楽浄土とは異なりますな。極楽浄土は、もう二度と生まれ変わることない世界ですからね。天界は、まだまだ欲望のある世界です。どちらかというと快楽の世界ですな。天界に生まれ変われば、神通力を使って、子孫を守ったり、子孫の繁栄を願ったりすることもありますな。いわゆる守護霊になれるわけです。子孫を見守るのは、天界に生まれ変わった先祖ですな。天国に行った先祖、すなわち極楽浄土に行った先祖は見守りません。そっちの世界は、もう悟った世界ですから子孫とは関係なくなりますな。なんせ、遠い遠い西方の宇宙、遥か彼方へ行ってしまったのですからね。子孫のことが心配ならば、極楽浄土を目指さずに、天界を目指すことですな。

まあ、しかし、どう頑張ってみても、極楽浄土にはいけませんな。生き仏のような人だ・・・と世間で言われ、それが偽善でなく真実の行動である・・・という人がいれば、その人は極楽浄土へ行けることでしょう。それくらい難しいのですよ。まあ、望むのならば、天界ですな。
ですので、もし身内の方、お知り合いが亡くなった場合は、
「あの方はきっと天国にいかれ、私たちを見守ってくださっていることでしょう」
などと言わずに、
「あの方はきっと天界に行かれ、神通力を身につけて私たちを守護してくださるでしょう」
と言うべきですね。
少なくとも、「天国」は使わない方がいいかな、と思います。せめて極楽、天界・・・と言って欲しいですな。仏教で葬儀をするのならばね。そのほうが、亡くなった方も迷わないと思いますよ。
「おいおい、天国へ行っているって?、そりゃどこだよ・・・。天国なんてないじゃないか!」
なんて思っているかもしれません。無いところへはいけませんからね。
合掌。



第十六話 バチはあたるか?@
「そんなことをしたらバチが当たるよ!」
と、お子さんを叱っている母親の声は、いつの時代も聞かれますね。その声を聞くと「あぁ、今でもバチが当たるって通用するんだ」などと感慨深くなりますな。もはや「バチが当たる」は死語になっているのかな、なんて思っていましたから・・・。
「バチが当たる」という叱り方をし始めたのは、いつの時代からなのでしょうか?。まあ、少なくとも江戸時代にはあったのだろうなと思います。江戸時代と言っても長いですけどね。その中のいつ頃なんでしょうかねぇ。あるいは、江戸時代以前のころからあったのでしょうかねぇ・・・。まあ、いつの時代から始まったにせよ、「バチが当たる」は日本人には深く浸透しているようですね。若いかたでも「バチが当たるよぉ〜」なんて言っているようですからね。きっと、親がそう叱ったんだろうな、と思います。ついつい自然に口から出てしまうのでしょうな。これは日本人独特の意識なのかな、と思います。

さて、本当にバチは当たるのでしょうか?
と、その前に、バチってなんぞや、ですよね。この「バチが当たる」の「バチ」とは、「罰」のことですな。「そんなことをするとバチが当たる」とは、正確には「そんな悪いことをする罰が下る」という意味ですな。つまり「悪いことをすると、誰かが自分に対して何かしら悪いこと、痛いこと、辛いことと感じる罰を与える」ということです。「バチ」=「罰」ですな。
では、いったい誰がその罰を与えるのでしょうか?・・・神様?、仏様?、御先祖様?・・・・さてはて、罰を与えるのはいったい誰なのでしょうかねぇ・・・。

基本的に仏教には「バチが当たる」という教えはありません。「自業自得」、「因果応報」という教えはあります。つまり、
「誰かが悪さをした者に対して罰を与える」=「バチが当たる」
という教えはないのです。
「自分でしでかしてしまった悪事の結果、その報いが自分にやって来る」
「悪いことをした結果、その報いとして禍や苦しみががやって来る」
という教えはあります。いずれも「自業自得」、「因果応報」という教えですね。仏教では、罰を与えるという思想はないのですよ。
「そりゃウソだね!」
と言われる方もいらっしゃいましょう。「じゃあ、なぜ地獄があるんだ?、地獄の鬼は何で苦を与えるんだ?」という疑問をお持ちになるでしょう。「地獄が罰でなくてなんだというのだ」ということですよね。でもね、地獄は罰ではないのですよ。あれは、自分のせいなのですな。

なぜ地獄落ちるのか?。それは悪いことをしたからですね。人の命を奪った、人の所有する者を奪った、性に乱れ溺れて性犯罪を犯してしまった、他人をだまし大金を詐欺で奪った・・・などなど、罪深い行為は山ほどありますが、そうした悪い行為の報いとして地獄があるのですな。悪いことしなきゃ地獄なんぞにはいかないのですよ。なので、罰ではなくて、自業自得、ですな。わざわざ地獄へ落ちるような道を歩んだだけです。もっというなら、地獄は罰ではなくて必然ですね。
犯罪者が裁判を受けて刑務緒に入る、それは本来、罰ではないのですよ。当然ですよね。悪いことをしたから身柄を拘束される、監禁される・・・それは当然なことです。そういうルールなのですから。バチが当たったわけではありませんな。
それと同じで、悪いことをすればその報いを受けるのは当然ですね。なので、誰かがバチを当てているわけではありません。
じゃあ、鬼は?。鬼は地獄に落ちた人間を痛めつけるじゃないか・・・と思いますが、これもバチが当たっているわけではありません。鬼は、罪人の罪に応じて、その報いの行為をただひたすらに行っているにすぎないのですな。バチを当てている、わけではないのです。罪人は自分の罪の報いを受けているのですが、鬼がそれを代行しているのですよ。つまり、罪人は自分の犯した罪に苦しんでいるだけなのです。罰が下っているわけではないのです。最近のネット用語でいえば「ブーメラン」というのでしょうかね。自分がやった行為が戻ってきた、だけなのですよ。ただし、戻ってきたときに利息が付いて、自分のやったことの何倍にも何十倍にも膨れあがっただけのことです。つまり、バチが当たったのではなく、自分の行為の報い、というだけですな。しかし、ネットの住民の皆さんの言葉は言い得て妙ですな。「ブーメラン」とは、まさにその通りで、理解しやすいですな。ま、余談ですが・・・。

このように、仏教には「バチが当たる」という教えはないのです。自業自得、因果応報という教えはあります。が、これはよいことにも使える教えですからね。「善因善果」とも言いますな。いいことをすれば、その報いとして良い結果がやって来る、という教えですね。いい種をまけばよい実ができる、ともいいますな。このように、自業自得、因果応報はよい意味でも使用します。
じゃあ、バチは当たらないのか?・・・いやいやそんなことはありません。悪いことをしたらその報いはきます。つまり、よくないこと・・・苦しみ・禍、不幸などがやってくることでしょう。それは、報いですね。そうした報いのことを人々は「バチ」と呼んだのでしょうな。だから、バチは当たるのです。ただし、それは、誰かが「お前に罰を与えてやる」といって当てるものではないのですよ。報いとして、放っておいてもいつかはやって来るものなのですな。そう、悪いことをすれば、いつか自分に返ってくるブーメランなのですよ。その帰ってくるブーメランが、自分のところに戻ってくる時には、巨大で強くてギラギラの鋭い刃がついているかもしれない・・・のですな。恐ろしいことです。

「あぁ、バチが当たった・・・」
などと人は嘆きますが、違います。「あぁ、己の行為の報いが来た」が正解ですな。「自分が投げたブーメランが鋭い刃を持って帰ってきた」という考え方が正しいのですよ。自業自得ですな。
「と、おっしゃいますが、いくら悪いことをしてもその報いを受けてないヤツもいるじゃないですか。ブーメランはどこかへ行ってしまうことがあるんですか?」
と疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。また、
「じゃあ、仏罰とか神罰とかはないのですか?。昔からよく聞く話なのですが。特に神様は、不敬なものに対しては罰を与えると聞きますよ」
という疑問を持つ方もいらっしゃることでしょう。いずれも「いい質問ですね」と言いたいですな。
この質問には次回にお答えいたしましょう。ですので次回は
@本当に悪いことをした報いは来るのか?、悪いことをしてものうのうとしている者もいるじゃないか
A仏罰、神罰はあるのか?
という疑問に対してお答えいたします。では次回に・・・・。
合掌。



第十六話 バチはあたるか?A
前回の続きで、バチはあたるか?についてお話しいたします。前回、二つの疑問が生じる、と書きました。それは、
@本当に悪いことをした報いは来るのか?、悪いことをしてものうのうとしている者もいるじゃないか
A仏罰、神罰はあるのか?
ということでした。今回は、この疑問に答える形で話を進めていきます。まずは、@についてですね。

@仏教では、因果応報を説きます。悪いことをすれば悪いことが報いとしてやってくる、善いことをすれば善い結果が生まれる・・・悪因悪果・善因善果・・・と言われる教えです。自業自得とも言いますな。この教えについては、皆さん、ある程度納得できるのではないかと思います。この教えが根拠となって、「バチが当たった」という言葉が生まれたのでしょうから、昔から人々は「悪いことをすれば何か罰が下る、善いことをすれば何か善いことが起きる」と信じていたのですね。
しかし、世の中には、悪いことをしても何の罰も受けずにのうのうと暮らしていると思われる人がいます。いや、そう信じられていますな。なので、
「あんな悪いことをしているのに、アイツには罰は当たらないのか!」
という言葉をよく耳にしますよね。こういう言葉は、政治家やお金持ちなどに向かって発せられることが多いようですな。また、ヤクザな生活をしている者や、暴力を振るう人たち、街中で傍若無人に振る舞う人たちに向かっても発せられます。街中で、ひどいマナー違反をしている者を見て、「バチが当たらないんだろうか?」とか「バチが怖くないのか?」とか「バチが当たればいいのに」と感じる方はよくいると思いますし、そう思う方は「正常」であり「常識人」だと思います。まあ、一般的な人々・・・といえるでしょうね。
では、人によってバチは当たらない・・・すなわち因果応報の教えは当てはまらない・・・のでしょうか?。
そんなことはありません。必ず、自分で犯した罪の報いは返ってきます。因果応報は絶対です。もちろん、善いほうも悪いほうも、です。悪因悪果・善因善果は真理ですから、絶対です。
「だけど、のうのうとしている連中だっているじゃないか」
と反論される方もいますでしょう。そうですね、そういう方は、「まだ結果がやってきていない」だけのことなのですよ。

お釈迦様が説いた「法句経」にこのような言葉があります。
「悪が熟さない限り、たとえ悪者といえども楽しみを経験する。しかるに悪が熟するや、悪しき者は、もろもろの悪を経験する」(法句経119)
「わたしにはついにそれ(=悪の結末)はやってこないだろうと、悪を軽く見てはならない。水滴が落ちて水瓶を満たすように、愚か者は少しずつ悪を積みながら、(悪で)いっぱいになる」(法句経121)
つまり、悪いことをした報い=悪い結果が、まだやってこないのは、悪い結果がまだ熟していないからであり、また、その人の悪の器が悪でいっぱいになっていないからでもあるのです。
ということは、悪いことをしてすぐに何か悪い結果がやってきた・・・バチがあたった・・・人は、悪がすぐ熟す人であり、また悪の器が小さい人なのです。
さらに、ということはですね、悪いことをしても悪の報いがなかなかやってこない人は、悪の結果がなかなか熟さない人であり、悪の結果が入る器が大きい人なのですな。
もうひとつさらに、悪の結果がなかなか熟さないということは、悪の実=悪の結果が大きいということであり、また悪の結果の器が大きいということは、悪の結果がやってきたときはそれはとてつもない報いがやって来る、ということですな。
すなわち、何かちょっと悪さをして、すぐにバチが当たる人は、悪の結果が熟しやすい人であり、悪の器が小さい人なのです。いわば、善人ですな。
そう、「悪いことをしたのに、のうのうとしている連中」というのは、悪の報いの結果が大きい人であり、悪の器の大きい人なのですな。なので、ひとたびその報いがやってきたときは、もう終わり・・・なのでしょう。バチが当たった程度ではすまないのですな。

バチは当たるのですよ。ただし、それは、すべて「身から出た錆」であり、「自業自得」であり、「悪因悪果」なのです。つまり、自己責任ですな。すべて自分のせいです。誰かが悪いことをした人に罰を与えているのではなく、自分の行いの報いが戻ってきているだけなのですよ。その戻ってくる時期、タイミングが早いか遅いかの違いがあるのです。できれば早い方がいいのですな。早ければ、罰は小さくて済みます。
たとえば、旦那さんが浮気をしました。まあ、奥さんでもいいですが・・・。その浮気が一回だけで、浮気したてで発覚してしまった場合、いきなり離婚・・・なんて大きな話にはならないでしょう。まあ、そうなる場合もありますが・・・。たいていは、その場で怒って、今後は浮気しないという誓いを立て、何か罰を与えられて終わりますな。しかし、これが長年続いた不倫だった場合、その程度では終わりませんな。まあ、揉めるでしょうねぇ。下手すりゃ泥沼ですな。
浮気なんぞは、早めに見つかったほうがバチは小さくて済みます。って、そういう話ではないのですが・・・。
ま、いずれにせよ、悪を犯せば、その報いである罰は必ず来るのです。それは自業自得です。神仏が怒って罰を与えているのではありません。すべて身から出た錆、自分のせいですな。

それともう一つ。それは、「バチが当たればいい」、「バチが当たらないなんておかしい」と思っている相手の真実はわからない、ということです。もっと簡単に言えば、その「バチが当たればいい」と思う相手の私生活は、周りにはわからない、ということです。
悪いことをしてものうのうとしている、バチなんて当たっていない、なんてやつだ・・・と思っていたら、実際は不治の病で苦しんでいた・・・なんてこともあるでしょう。あるいは、金銭的に苦しんでいるとか、家庭内で揉め事を抱えているとか、なにか大きな悩みを抱えているとか、そういうことがあるかもしれません。もうすでにバチが当たっている・・・悪行の報いが来ている・・・かも知れないじゃないですか。そうしたことは、外へは漏れにくいことでしょう。
つまり、表向きは幸せそうにしているかもしれないけれど、実際のところはわからないのです。うまくいっているかどうかなんて、本人や本人の家族や関係者しかわからないことですよね。いや、家族にすら話していない場合だってありますから。一人で
「あぁ、ついに悪行の報いが来たか・・・。しかし、これは誰にも言えない」
と苦しんでいるかもしれません。表向きはそうでもない顔をしていて・・・。そういうことだってあるのですよ。他人のことなんて詳しくはわからないですからね。

いずれにせよ、悪因悪果・善因善果はあるのです。人はその中でも悪因悪果だけを取り上げて「バチが当たる」と称したのですな。人々への、自分への戒めとしてね。


A仏罰、神罰はあるか・・・ですが、確かに、仏罰という言葉はありますな。それに神様は祟りますな。「さわらぬ神に祟りなし」なんて言う言葉もありますしね。ということは、神様は祟る、ということですな。
ちなみに仏教語大辞典には「仏罰」という言葉はありませんな。国語辞典には「仏罰(ぶつばち)・・・仏から受ける罰」とありますな。このことからもわかるように、「仏罰」は本来の仏教の言葉ではありません。日本で一般社会の中から生まれた言葉ですな。たぶん「仏様のバチが当たるぞよ」などと坊さんが言ったのでしょう。そこから広まっていたのだと思います。
本来、仏教は誰かが誰かに罰を与える、という思想はありません。前回そう書きましたよね。「バチが当たった」と思われる結果は、その人自身の悪行の報いなのです。自分で悪いことをした結果、自分に返ってきた、ということですね。仏様が罰を与えたわけではありません。では、本当に仏様は罰を与えないのでしょうか?
こんな話があります。昔々のこと、人々の快楽を糧とする大自在天がちょっとやり過ぎたことがありました。人々を悪に染め、働かず快楽や悪行三昧に陥れたのです。大自在天自身も悪行三昧を繰り返しました。その結果、人々の世界は荒廃し、人は働かなくなり、快楽に入り浸るばかりとなってしまったのです。その様子を見て、大日如来様は
「こりゃいかん。大自在天に悪行の報いが来るまで待つわけにはいかない。おい、降三世明王よ、ちょっと大自在天の所まで行って懲らしめてきなさい」
と降三世明王に命じます。降三世明王はすぐさま大自在天のもとに行き、大自在天とその妻のウマを足で踏んずけて懲らしめますな。それ以来、降三世明王は二度と大自在天と妻のウマが悪さをしないように、踏み続けています。まあ、行動を縛っているわけですね、暴走しないように。その結果、人々は正しい日常を取り戻したのです。
このお話、いわば仏罰を下した・・・というものでしょう。ということは、一応、仏罰は存在するようですね。ただし、それは一般人に対してではなく、神々に対してのようですな。しかも、罰というよりは「暴走を止める」と言ったほうがいいでしょう。何か処罰を与えるのではなく、行き過ぎを止めるのですね。神々ですから、力は強いです。当然ながら口で言って止まるものではありません。暴走中なのですからね。力で止めざるを得ないわけです。それが、人々から見れば「仏様が罰を与えた」と見えるのでしょうな。きっと、お坊さんが暴走しても、罰を与えるのでしょうな。ま、本当の坊さんに対してですが・・・。坊さんなのか在家なのかわからないような中途半端な有髪の方に対しては、一般人扱いかも知れませんな。
このように考察してみますと、仏罰は神々が暴走した時に発せられる、と理解した方がいいですな。一般人に対しては、仏様は罰を与えるようなことはしない、のです。

では、神罰はどうでしょうか?。先ほども言いましたように神様は祟ります。神様に対して無礼なことをすれば、バチが当たります。この場合のバチは、自業自得かもしれませんが、「神が無礼者に対して罰を与える」のです。つまり、「誰かが誰かに罰を与える」というパターンであり、「誰かが悪い行為をした者に対して罰を与えるわけではない、自分の悪行の報いがやってきただけ」という仏教の教えから外れますな。もし、仏教の教えに従うならば、神様が罰を与えなくても、いずれ神様に無礼を働いた者はその報いを受けるのです。神様は自ら手を下す必要はないわけです。しかし、神様は己に対し無礼な行為をした者には、容赦なく罰を与えるのですよ。なぜなら、神はまだ悟りの境地に至っていないからです。つまり、欲がありますし、怒りもあります。いったん神が怒れば、それはもう大変ですな。その力が異常に強いから神になったのですからね。一般の力とは全く異なりますな。一族郎党にまで神罰は及びます。恐ろしいですな。
それでも、神様はそう簡単には怒りません。自分が怒ればとんでもないことが起きることを知っているからです。なので、神様が怒りを爆発させるようなことは滅多にないでしょう。まあ、とんでもないことをしでかさない限りは・・・。
たとえば、あるオジサンが酔っ払って鳥居におしっこをかけてしまったとします。立ちションですな。こともあろうに鳥居にかけてしまった・・・。これはもう神罰ものですな。では、どの程度の神罰が下るのか・・・。多くは風邪に似た症状ですが、風邪が悪化した状態ですな。高熱にうなされたり、腹痛に見舞われたり・・・。病院に行っても原因は不明ですな。あるいは、男性器の異常ですな。激痛が走るわけです。当然、病院に行っても異常なしですな。
あるいは、心臓に負担が来る場合もあります。心臓のあたりが痛い、息が苦しい・・・というパターンですな。たとえば、神殿の中の触ってはいけないものに触れてしまったとか、御神木を切ってしまったとか・・・。悪意なく、知らず知らずのうちにやってしまった場合でも、神様は罰を与えます。まあ、命を取られるようなことはありませんが、かなり苦しむことは間違いないですな。

特に多いのが、庭木を切ってしまったら身体に変調をきたした・・・という例ですね。案外、庭木も古くなれば神が宿ることもあります。樹神(じゅしん)と言います。あるいは、神様の休憩ようの木にしている場合があります。そうした木を切ってしまえば、神様は怒りますな。もちろん、人間側は悪意があってやったわけではありません。邪魔だった、手入れができなくなった・・・などの理由で切るのです。しかし、神様側からしたら「俺の居場所がなくなった」となるのですな。人間にしてみれば、神様が見えないので不可抗力です。仕方がないですな。しかし、神様は我が儘なところがあるので(神様は自分で偉い存在だと思っているから)、怒ります。で、その木のあった家の家族の誰かに怒りの矛先を向けますな。すると、その人は原因不明の病気になったりするのですよ。下手に庭木を切ってはいけませんな。古い木ならば、ちゃんとお祓いをしてから切ったほうがいいでしょう。古くない場合は、自分で木を切る前に塩やお酒をお供えして「いついつ木を伐りますので、立ち退いてください」とお願いすることですな。

このように神罰はありますな。神様は自分が人間などよりはるか偉い存在であることを知っていますし、大いなる力を持っていることも知っています。なので、我が儘なところがあるのですな。断りもなく、勝手に神様の所有物に触ったり、汚したり、傷をつけたり、切ったり壊したりしたら、やはり罰が与えられます。ご注意くださいね。近くに地主神様が祀られていたら、1年に一度くらいはご挨拶とお礼のお参りをした方がいいでしょうな。地元の神様にゴマをすることはいいことですよ。

というわけで、バチは当たると言えば当たるのです。その真実は、単に自分の悪い行為の報いが自分に巡ってきただけ、のことなのですが、人々はそれを「神様や仏様が罰を与える」と解釈したのですな。そこから「バチが当たる」という思想というか習慣が生まれたのです。しかし、神様は本当に罰を与えるので注意しましょうね。
いずれにせよ、悪いことをすればその報いは必ず来ます。放っておいても、からならず悪行の報いは誰でもやってきます。それだけは間違いありませんな。
それにしても、この「バチが当たる」という教えというか習慣は、案外いい効果をもたらしていると私は思います。バチが当たるという思想があるからこそ、日本人は比較的マナーがいいのでしょう。頭の中にいつの間にか刷り込まれている「バチが当たる」という思い。これがあるからこそ、日本人は礼儀正しいのだと思います。日本人の中で、マナーの悪い人間は、きっと親や周囲の人から「バチが当たる」と教えられてこな方なのでしょう。あるいは、何かバチが当たったようなことがあっても
「ほら見なさい、バチが当たった」
と言われたことがないのでしょう。そう思うと、「バチが当たるよ」という教えは、結構効果的なのかもしれませんな。

そういえば、他の国の人たち・・・特にお隣の国のマナーの悪さはひどいですな。バチが当たるという思想はありませんからね、彼の国には。キリスト教やイスラム教には、やはり神罰がありますからね。ま、イスラム教の場合は原理主義の過激な人々は除きますが(彼らは、彼ら以外の教えを信仰している者に対して罰が下ると思っていますからね)。
こうして世界を眺めてみますと、悪いことをすれば神の罰が下る、地獄へ落ちる、という宗教がある国は、マナーがいいですな。その中でも日本は一番でしょうけど、まあ、これは国民性もありますからね。宗教のない国は、地獄の存在もないし、罰を与える神々もいませんからね。マナーは自然と悪くなるでしょうな。
つまり、「バチが当たるよ」という教えは、大切なのですな。ならば、「バチは当たる」としておいた方がいいのでしょう。というわけで、
「バチは当たります」
という結論になりました。
合掌。


ばっくなんばぁ〜11


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