仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ〜11

第十七話 神が上か仏が上か?
今さら神様が上か、仏様が上かって・・・皆さんには聞き飽きた話だと思いますが・・・。しかし、それをちゃんと説明しようとすると、ちょっと厄介だなと思うこともありますよね。特に、知識のないお坊さんから「神様の方が上なんだよ」なんて教えられた人がいたりしたら、その誤解をどのように解くかは難しいことかもしれません。実は、そのようなメールをいただいたんです。どうやって誤解を説いたらいいのでしょうか?、という。そこで、あらためて神様と仏様の地位についてお話をいたしたいと思います。

まずは簡単にどちらが上なのかを示す十界の話からですね。
この世界は・・・宇宙をすべて含めて・・・十段階の世界でできています。と、仏教では説いていますな。その十段階の世界とは、下から順に
@地獄界 A餓鬼界 B畜生界 C修羅界 D人間界 E天界 F声聞界 G縁覚界 H菩薩界 I佛界
ですね。で、@〜Eまでが輪廻する世界です。皆さんよくご存知ですな。なぜ、@〜Eの世界が輪廻する世界かと言いますと、この世界の住人には欲があるからです。欲がほんの少しでもあるうちは輪廻する世界からは出られないんですな。ただし、Hの菩薩戒だけは別です。菩薩は、人を救いたいという欲を持っています。しかし、その欲は超純粋な欲なので別枠ですな。個人的な欲は一切なく、ただただ人々を救いたい、という欲のみですからね。そのためには何でもする・・・というのが菩薩です。なので、菩薩は特別な世界ですな。
さて、では神様は、どこに入るかというと、Eの天界ですね。天界は神々の世界です。当然のことながら日本古来の神様もこの中に入りますな。なぜなら、神々はまだ個人的な欲望を持っているからです。個人的な欲望を持っているかからこそ、大切にされないと「祟る」のですよ。菩薩や仏様は祟りませんな。
ちなみにF声聞界は悟りを得た仏弟子(お坊さん)の世界ですな。G縁覚界は一人で修行をして悟りを得た人が行く世界ですな。FGの世界は、圧倒的に少数派ですね。きっとその世界の住人はほとんどいないでしょう。まあ、悟った世界ですから、その世界にたった一人ぼっちであろうと、本人は全く気にしないでしょう。それよりもさらに修行を重ねるでしょう。その結果、望まなくてもさらに上の世界へ行くことになりますな。

さて、天界は神々の世界だと言いました。で、日本の古来の神様もこの枠に入るのだと言いました。そのように言ったのは、神様には種類があるからなのです。日本の神様は大きく分けて三種類に分かれますな。
1、自然の精霊から神になった神様。自然エネルギーを神と見立てた神様
2、インド伝来の神様
3、人間が神になった神様
1は、日本古来の神々のことです。古事記に登場する神々ですな。いわゆる、山の神・海の神・河の神・道の神・火の神・水の神・・・などなど。自然そのものを神格化して生まれた神様ですね。いいかえれば、自然エネルギーを神様の力として、そこに神を見出したわけです。たとえば、火山に祀られている神様がいい例でしょう。火山に祀られている神様は、火山のエネルギーを神様に見立て、火山が噴火しないようにその神に祈ったのですな。火山のものすごいエネルギーが神様を生んだわけです。こうした例はたくさんありますな。水害が多くあった場所に祀られる神は、その水害のエネルギーに神を見出し、祀ったのです。そこから川の神や海の神、津波の神、水の神、龍神などが生まれていますね。あぁ、火山の神の中にも竜神さんは含まれますな。箱根の九頭竜さんは、箱根の山が噴火し溶岩が九つに分かれて流れ出たところから生まれた神様でしょう。このように日本古来の神様の中には、自然エネルギーから生まれた神様があるのです。そうした神様は、自然の精霊でもあるのですな。ですので、天界の住人というよりは、自然界の住人と言ったほうがいいですな。

2は、仏教とともに日本に伝わった神様です。代表的な神様に弁財天様、稲荷(初めは稲の神だったがインドのダキニ天と合体しインドの神様に取って代わられた)、毘沙門天、鬼子母神、聖天さん、帝釈天・・・などがありますな。大黒天さんも本来は大国主命だったのですが、インド伝来の大黒天と発音が似ている(大国・・・だいこく)ということで、同一化してしまいましたな。本来は大国主命は次の3に入る神様だったんですけどね、大黒天に乗っ取られてしまったのですよ。
もともとインドの神様ですからね、天界の住人ですな。

3は人間から神様になったパターンです。代表者は天神さん・・・菅原道真公ですな。まぎれもなく、天神様は、元人間です。大黒天も先ほど言いましたように、元は大国主命ですな。出雲国の国王ですな。その息子は諏訪の神様になっていますな。天照の軍団に出雲国は襲われ、戦いに敗れてしまいますな。大国主命は天照に国を譲ります。しかし、大国主命の息子は最後まで抵抗しますな。しかし、結局敗走します。逃げた先が長野の諏訪ですな。諏訪の人々は、その逃げてきた息子を怖れ、死してから祟らないように祀り上げますな。それが諏訪の神様になったわけです。なので、諏訪の神様も元人間ですな。
皆さんが住んでいる地域に「地主神」という神社があったなら、それは遥か大昔のその地域を支配していた村の代表者・・・いわば村長さん・・・ですな。あまりにも強大な力をその村に及ぼしていたので、死んでからも村を守ってもらうように、あるいは村に祟らないように神様として祀ったわけですな。精霊を祀った神様やインド伝来の神様以外の神様は、みなこの元人間ですな。ちなみに、天照大神も元は大陸からやってきた人々ですな。力が強かったから日本の支配者となり、日本の神様となったわけですね。

ちょっと待ってよ、2はそもそもインドの神様だから天界の住人というのはわかりますよね。3も元は人間ですから、天界の住人としてもいいでしょう。しかし、1の自然エネルギーから生まれた神様は元は自然ですから天界の住人とは言えないのではないでしょうか?。ましてや仏陀であるお釈迦様ですら人間です。人間は自然のエネルギーより上ではないでしょう・・・という意見も出てきますよね。となると、仏様より神様の方が上では?、と考える人が出てきても当然でしょう。しかし、それはちょっと違うんですな。なぜなら、仏様は真理そのものだからです。真理は宇宙でもあります。地球の自然は当然のことながら、宇宙のほんの一部にしかすぎません。つまり、地球は仏様の中のほんの一部なのです。なので、地球上の自然の精霊である神様も、仏様のほんの一部にすぎないのですな。ここがよく迷う点ですね。

ちょっとまった!。仏様が宇宙そのものってどういうこと?、と疑問に感じた方、それは正しいですな。そこのところをちょっと説明いたしましょう。
法身・応身・報身という言葉を聞いたことがあるでしょうか?。仏教でもちょっと難しい話になってきます。一般仏教では学ばないかもしれませんな。つまり、これは奥深い密教の話になるのですよ。
仏様の姿には、三種類があります。それが、法身・応身・報身ですな。順に説明しましょう。
法身とは真理そのものを意味します。真理そのものですから、宇宙と言ってもいいでしょう。宇宙すべてが仏様の法身ですな。真理そのものですから本来は姿形はありません。ですが、それではわかりにくいので、方便として宇宙を表す象徴を造りました。それが大日如来ですな。すなわち、大日如来を見る者は宇宙そのものを見る、というわけです。
(かなり大雑把に説明しております。本当は、大毘廬遮那如来と毘廬遮那如来の区別を説明しなければいけないのですが、難しいですし面白くもないので省略します)
ともかく、法身は宇宙そのもの、真理そのもののことですな。
応身とは、衆生の求めに応じて法身が変化して現れた姿の仏様ですな。言い換えれば、真理の具現化ですね。真理そのものは、真理の状態では真理の教えを説けないため、方便として阿弥陀如来、薬師如来などの仏様の形をとって現れた場合のことを言います。ですので、実際にこの世にいた仏様ではありませんな。教えとしてお経の中に登場する仏様です。宇宙の中の遠い世界でのお話に登場する仏様ですね。
報身とは、実際にこの世に誕生した仏陀のことです。前世の因縁の報いにより、菩薩が人間として生まれ、修行をし仏陀となった姿を報身といいますな。これは、お釈迦様のことですな。お釈迦様は、菩薩であった前世の報いにより、この世で修行をして仏陀となったのです。生きた仏様ですね。

仏様・・・仏陀・・・は、本来は真理そのものです。法身であれ、応身であれ、報身であれ、仏陀となったからには、真理をすべて悟ったのですから、真理そのものなのです。すなわち、仏陀であるお釈迦様は真理なのです。宇宙なのです。真理・宇宙がお釈迦様の姿をしているにすぎないのです。なので、お釈迦様は神通力を使い、自然をも支配しますな。いい例が、仏陀は好きな時に地震が起こせます。また、人間の姿をして寿命はありますが、人間の姿を終えてしまえば真理そのものに戻りますので、それは永遠の命になりますな。それは自然以上のものですね。なぜならば、自然もいつかは滅びるからです。

地球が滅びれば、地球のエネルギーの象徴である自然界の神様も滅びますな。山の神も海の神も川の神も地の神も滅んでしまいます。つまり寿命があるのです。とてつもなく長いでしょうが、寿命があるんですよ。しかし、仏様は、真理そのものですから、永遠ですな。たとえ宇宙が滅んだとしても、真理は関係ないですね。宇宙の存在に関係なく、真理は存在しているのですから。真理を真理として認識する生物がいなくなるだけのことであって、真理は真理として永遠に存在し続けるのです。仏様は真理そのものです。寿命はありませんな。これで、仏様が上である、ということがよくわかっていただけたでしょう。
また、自然の精霊から生まれた神様も宇宙の一員ですから、天界の住人になるのですな。地球という宇宙に浮かぶ世界の神ですからね。

そもそも仏様が上か神様が上か、と比較すること自体が仏教にとっては無意味なことなのですよ。それがわかっていないお坊さんは、まあ、勉強不足なのでしょうが、しかし、これは深い深い教えなので、一般仏教(顕教)のお坊さんには理解できないことかもしれません。密教の世界ですからね。
ま、そこら辺の山の神や川の神が、仏様と肩を並べるなことはないわけです。真理そのものは最上なのですから。
合掌。


第十八話 改心した神様の物語@
神様の中には、元悪神という神様がいます。神様だって、改心していい神様になった神様もいるんですよ。その多くはインド伝来の神様ですね。つまり、仏教とともに入ってきた神様です。そんな元悪い神・・・というか悪魔ですな・・・をご紹介いたしましょう。
@まずは鬼子母神。鬼子母神は、そもそも人間の子供食べてしまうという悪魔だったのです。
鬼子母神は、本名を「ハーリーティー」と言います。もとはインドの魔神ですね。日本での名前は、インドでの名前をそのまま音写して「訶利帝母(かりていも)」といいます。この訶利帝母にはこんな過去の話があります。
お釈迦様がいらしたころ、マガダ国の首都ラージャグリハでは、夜になると幼い子供がさらわれてしまうという事件が起きていました。国王は、その事件の真相を調べるように命じました。すると、子供をさらっているのは魔神だということが分かったのです。ある魔神が夜な夜な子供をさらっては食べていたのです。相手が魔神では国王の軍隊でも歯が立ちません。そこで、人々や国王はお釈迦様にどうしたらいいか相談します。というか、何とかしてくださいと頼みにいったのですな。人々の依頼を受け、お釈迦さまは立ち上がり、訶利帝母の住まいに行きますな。お釈迦さまは平気なのです。お釈迦さまは魔神も怖くないのですな。
お釈迦さま、訶利帝母の住まいに行くと、そっと様子を伺います。そして、訶利帝母が留守だと知ると、彼女が一番かわいがっていた500番目の娘ヒリョウカを神通力で隠してしまったのです。訶利帝母には、子供が500人いたのですが、末娘のヒリョウカを最もかわいがっていたのです。そのヒリョウカをお釈迦さまは隠したわけです。お釈迦さま、そのまま何食わぬ顔をして精舎に戻ってしまいますな。
さて、訶利帝母、住まいに戻るとすぐにヒリョウカを呼びますな。が、ヒリョウカから返事はありません。いつもなら、「は〜い、お母様」などと言って訶利帝母の膝に座りますが、その日は何の返事もない。ほかの娘たちに聞いても「ヒリョウカ?、知らないわ」という始末。訶利帝母は必死になってヒリョウカを探しますな。しかし、見つからない。訶利帝母は魔神ですから神通力も使えます。そこで得意の神通力・・・なんでも見通す力・・・を使ってヒリョウカを探しますな。が、いません。
「ぎゃ〜、どこへ行ったのヒリョウカ!、あぁぁぁ私は狂いそうだ〜」
と叫んだかどうかは知りませんが、魔神が鬼の形相で子供を探しているのですよ。しかし、見つかりません。訶利帝母、
「あぁ、こうなったらお釈迦様に相談するしかない。お釈迦様なら、何でもご存じだから、きっと見つけてくれるに違いない」
と言って、お釈迦様のもとへ相談に行きますな。
訶利帝母が泣いて訴えかけます。
「お釈迦様、お釈迦様。私の大事な大事な末娘のヒリョウカがいなくなってしまいました。私の神通力をもってしても探し出せません。お釈迦様の神通力は私たちの力よりはるかに優れております。お釈迦様、なんとか娘を探し出してください」
涙ながらに訴えます。そんな訶利帝母の姿にお釈迦様は冷たいですな。
「訶利帝母よ、汝には500人も子供がいるではないか。一人いなくなってもいいじゃないか。まだ499人もいるんだから」
お釈迦様の言葉に訶利帝母、気が狂わんばかりになりますな。
「ぎゃー、なんていうことを!。お釈迦様ともあろうお方が!。お釈迦様、親にとっては子供はみ〜んなかわいくて大切なものなのですよ。一人でもいなくなったら、それはそれはもう気が狂いそうになるものなのですよ!。お願いです、お釈迦様。ヒリョウカを探してください」
訶利帝母、必死に訴えますが、お釈迦様は平然としていますな。
「お前さんさぁ、そんなことを言うけど、お前さんだって人間の子供をさらっているだろ?。それっておかしくないかい?。人間は500人も子供がいないんだよ。よその家の子供をさらっておいて、自分の子供が一人いなくなったかっらて、そんな大騒ぎするのはおかしいんじゃないか?。子供をさらわれた人間の親の嘆きは、どうでもいいのか?。それはちょっと自分勝手すぎないかい?」
お釈迦様にそういわれた訶利帝母、ふと泣き止み考え込みますな。「あっ」という感じで気づくわけです。しばらくして
「あぁぁぁ、私が愚かでした。私は・・・私は、今までなんということをしでかしていたのでしょう・・・。私に子供をさらわれた親は、今の私と同じように嘆き悲しんでいたのですね・・・。私はとんでもないことをしてしまったんですね。あぁ、きっとそのせいでヒリョウカがいなくなってしまったんだわ・・・。あぁ、バチが当たったんだ〜」
と、今度は別の意味で泣き出しますな。お釈迦様、そんな訶利帝母に問いかけます。
「子供を亡くした親の気持ちがよく分ったかい?」
「はい、よくわかりました」
「これからは、子供をさらったりしないかい?」
「はい、もう二度と子供をさらうようなことはしません」
「そうか。では、今日からは子供をさらう魔神をやめて、子供を守る母なる神となるがいい」
「こんな私でもなれますか?」
「子を思う気持ちがあれば、なれるさ」
「わかりました。今から私は子供を守る善神になります。もう魔神はやめます」
「よろしい。では、汝に返そう」
そう言って、お釈迦様は神通力で隠しておいたヒリョウカを訶利帝母に返しますな。ヒリョウカを見た訶利帝母、ひっしと彼女を抱きしめ
「母が悪かった。もう二度と悪いことはしない。これからは、わが子を守るように、人間の子供も守ることを誓うよ」
と宣言したのです。こうして、魔神・訶利帝母は善神・訶利帝母へと改心したのですな。こうしてマガダ国では、子供を守る神として訶利帝母を祭るようになったのですな。それが仏教とともに日本に伝わったのですな。
鬼子母神、よい神様なのに名前が不吉ですな。なぜ鬼子母神というかは、訶利帝母が改心したこのエピソードによります。もとは子供を食う母鬼ですからね。なので鬼子母神なのですな。
鬼子母神を祭ってあるお寺は、東京入谷にありますな。日蓮宗のお寺です。「恐れ入り谷の鬼子母神」という江戸ダジャレで有名ですな。神様が本尊ですが、神社ではありません。お寺です。インドの神様ですからね。
鬼子母神と言いますが、その姿はきれいな女神像です。鬼の形相ではありませんな。周囲に子供が2〜3人遊んでいる画像が一般的ですな。手には吉祥果という、ザクロに似た果実を持っています。この果実は、日本にはないそうです。
これは俗説ですが、人間の子供を食べることをやめた訶利帝母は、人間の子供に似た味がする果実である吉祥果を食べていたそうです。それが日本に伝わった際に、ザクロと間違われ、ザクロは人間の味がする・・・と誤解されたようですな。へんなところに仏教のちょっとしたエピソードが影響しているんですねぇ・・・。もっと大事なことが影響すればいいんですが・・・。
さて、子供を食らっていた魔神ですら改心して子供を守る神になれるのです。子供を育てるにあたって、子供につらく当たってしまう母親だって、改心することは可能ですな。子供につらく当たり、虐待するような母親であっても、子供を守る母親になれるのですよ。なぜなら、子供を大切に思う気持ちは、同じだからです。ただ、大切に思うあまり虐待してしまうのか、大切に扱えるのか、その表現方法が異なるだけなのですな。心の根底に流れているのはどちらも、子供は大切だ、という思いです。あとは、子供が大切だということをどのように表現すればいいか、ということを学べばいいのですな。
「あぁ、私はなんてひどい母親なんだろう・・・」
と気づいたならば、こっそり鬼子母神にお参りして、鬼子母神を見習ってみましょう。そんな母親に対して鬼子母神は
「私も以前はそうだったんだよ。でも改心できるんだよ」
と力を貸してくれることでしょう。

A大黒天
ここでいう大黒天は、日本古来の大黒天・・・大国主命・・・ではありません。インド伝来の大黒天です。
インドの大黒天は、「マハーカーラ」というのが本名です。「マハー」は「大いなる」、「カーラ」は「黒」という意味です。なので、インドの本名も「大黒」なんですな。日本名は翻訳した名前なのです。ここがややこしくなった元なんですけどね。
大黒天と翻訳したがために、大国主命である「大国」と被ってしまったのです。性質は全く異なるのに、いつの間にか混同されてしまったのですな。ただし、宗教界ではそんなに混同はされていません。大黒天は「マハーカーラ」として祀られていますし、大国主命は出雲大社の神として祀られていますな。しかし、意味は混同されていますな。そこは否定できません。
マハーカーラである大黒天は、インドでは破壊の神として恐れられていました。そもそも「黒」はインドでは不吉な色ですな。「死」や「破壊」を表現しております。なので、大いなる黒い神となれば、それは大きな破壊や死をもたらす神なのですな。マハーカーラが大いなる破壊や多くの人々への死をもたらさないように、インドの人々はマハーカーラを祀ったわけです。ここのところが日本の神様の祀り方と同じですな。本来、日本でも神様は「祟らないように・・・」という願いを込めて祀ったのですからね。
しかし、このようなマハーカーラ、お釈迦様に諭されますな。
「マハーカーラよ、お前さんは、ものすごいエネルギーを持っているんだな。だから、ちょっと指先を動かしただけでも大きな破壊をもたらしおてしまう。それを人々は恐れているんだな。まあ、恐れているから、お前さんは祀られているんだが、そんな祀られ方は嫌じゃないか?。それよりも、英雄として祀られたほうがいいんじゃないか?」
「英雄として祀られる?」
「そう、恐れらるのではなく、尊敬される・・・そういう祀られ方だ」
「尊敬・・・ですか?。この私が?」
「あぁ、そうだ。よいか、お前さんの持っているものすごいエネルギーをいいことに使ったらどうだ?」
「いいこと・・・?。例えば、どんなことに・・・」
「そうだな。破壊をするのではなく、構築するのだ。造り上げるには力が必要だ。だから、悪を駆逐し、善を構築しようとするものに力を貸してあげるのだ。そうすれば、お前さんは悪をくじき善を行う人々を守る戦いの神となれる」
「あ、なるほど・・・・」
「たとえば、穀物を作るには自然の驚異がつきものだ。嵐が来たり日照りがあったり・・・。お前のエネルギーならば、嵐を防ぐことはできよう。日照りが続くとき、雨の雲を引き寄せることができよう。そうすれば、お前さんは穀物を守る神となる」
「おぉぉ、それはすごい。はい、そんなことくらいなら簡単にできます」
「そうだろ、そうだろ。一生懸命働いて、財を築こう、その財を人々のために役立てよう・・・という心を持って働くことは、大変良いことだな?。そういう志を持ったものをお前さんは、応援してやればよい。お前さんのエネルギーを少し貸してあげるだけで、そのものは大いなる力を持つであろう。心清らかで大きな志を持ったものを応援してやる、そういう神になればいい。そうすれば、お前さんの周りには、お前さんを慕って多くの人々が集まるであろう」
お釈迦様のこの言葉に、マハーカーラは感動するのですな。そうして、「破壊神・マハーカーラ」は「善なる神・大黒天」へ改心するのですよ。
改心した大黒天は、正しい戦い・・・人々を苦しめる国王を倒すとか・・・をするものを守る戦いの神であり、農作物を自然の驚異などから守り豊作をもたらす農耕の神であり、人々の暮らしをよくしたいという志をもって働くものを守る財産の神になったのですな。こうした善神になった大黒天が日本に仏教とともに伝わったのです。その日本には、よく似た響きを持った神がすでにいたのですな。大国主命です。大国主命も豊作の神であり、財をもたらす神ですな。米俵に乗って打ち出の小槌を持っております。
一方、大黒天は、本来の姿は、恐ろしい姿ですな。目は三つもあるし、牙は生えていますし、髑髏なんぞで着飾っておりますな。最近の若い方は「いけてるじゃん」というかもしれませんが、髑髏は死をイメージしていますな。不吉な姿をしているのが大黒天なんです。
が、しかし・・・。日本に伝わったのは、改心した大黒天です。姿かたちは、人々には伝わらなかったのでしょう。ひょっとしたら、お坊さんたちがあえて隠したのかもしれません。鬼子母神だって、魔神の時の姿は伝わってないですからね。
で、大黒天と大国主命の姿は混同されます。名前が混同され、姿も同一視されるようになってしまうのですな。そして、日本独特の大黒天が生まれるわけです。
さてさて、どんな暴れん坊もきっとマハーカーラにはかなわないでしょう。マハーカーラほどの暴れん坊はいないと思います。ならば、人間界の暴れん坊なんぞ、小さなものですな。もし、力が有り余って、暴れ足りないのなら、悪いことにその力を使わずに、人の役に立つことに使ったらどうでしょうか?。マハーカーラのように、農業を守る力に使えばいいじゃないですか。あるいは、労働をすればいいじゃないですか。悪いほうへ有り余る力を使って人々から嫌われるよりも、その力を人々のために使って尊敬さるほうが、気持ちいいと思うんですけどね。
恐れらるよりも尊敬される・・・。蛇のように嫌われるよりも人々に役立って尊敬されるもの・・・そうなったほうが気分はいいでしょう。ちょっと力の使い方を変えるだけで、尊敬を得られるのです。力が有り余って、暴れたい!と思っている方は、大黒天を見習って、忌み嫌われる存在から尊敬される存在へ転身したほうがいいと思いますな。そういうかたは、まずは大黒天に祈って、誓いを立てましょう。そうすれば、きっと大黒天が力を貸してくれるでしょう。

さてさて、このような感じで、改心した神様を次回も紹介していきます。中には、自分とダブル神様もいるかもしれません。参考にするのもいいでしょう。あるいは、「へぇ〜、そうなんだ。神様にも暗黒の過去があったんだなぁ・・・」と知るのもいいことでしょう。神様だって、初めから神様だったわけではないのですからね。
合掌。


第十八話 改心した神様の物語A
前回の続きで、元悪神という神様を紹介いたします。

B第六天魔・他化自在天(たけじざいてん)
天界は、いくつかに分かれております。大きく分けて欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)となっております。皆さんがよく名前を聞く神様は、ほとんどが欲界の神様です。
その欲界も6種に分かれております。下位のランクから下天・?利天(とうりてん、または三十三天)・夜摩天(やまてん)・兜率天(とそつてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天となっております。最下位の下天は四天王の世界、?利天は帝釈天が支配する世界、夜摩天は閻魔様が支配する世界(閻魔様は死後の世界の閻魔大王で有名ですが、本拠地はこっちです)、兜率天は次に仏陀となる菩薩が法を説く世界(現在は弥勒菩薩が法を説いております)、楽変化天はその名の神が支配する世界、最上位の他化自在天もその名の神が支配する世界です。
で、問題はその他化自在天です。初めに第六天魔と表記したように、他化自在天という神は、「魔」です。魔物の神ですね。「第六」というのは、欲界に属する天界の下から6番目の天界である、という意味です。位は、欲界の天界の中では最上位にランクされます。強力な神ですな。が、魔神です。
どんな魔神かというと、快楽の魔神です。欲望で人々を翻弄するのが好き、という神ですな。なので、真面目な人間は大嫌いですな。一説には、一切を破壊しまくる神、ともいわれております。また、仏法の敵でもあります。ですので、あの織田信長が自ら「第六天魔」と名乗っておりました。「我は第六天魔・織田信長なり」と言っていたのだそうです。その名の通り、比叡山を焼き討ちしたり、石山本願寺を攻撃したりしました。ちなみに、高野山もあやうく焼き討ちにあうところでしたが、焼き討ち決行の寸前に信長が明智光秀のクーデターにあってしまいましたな。高野山はこれで難を逃れております。

余談でしたが、このように他化自在天はよく仏法の敵、仏敵と称されます。それには理由があります。実は、他化自在天はお釈迦様が覚りを得るために菩提樹の下で瞑想をしていた時、その邪魔をした魔王パーピマンの一族なのです。つまり、他化自在天はお釈迦様の覚りを邪魔しようとした魔物たちの仲間なのですな。
多くの魔物は、消されてしまいますな。魔王パーピマンだけは、時々お釈迦様にささやきかけてきますが、他の魔物は打ち砕かれてしまいます。他化自在天もその一人なのですが、他化自在天は消されずにその魔力だけを抜かれてしまいますな。で、もともといた天界に戻されます。魔力を抜かれた他化自在天は、のんびり余生を楽しんでいる隠居のじいさんみたいな神様になりますな。もう仏法の敵には戻りません。戻りませんが、人々はお寺に災難があったり、尊敬を集めるお坊さんが難にあったりすると「第六天魔」のせいだ、と言いますな。他化自在天もいい迷惑でしょう。
「かんべんしてよ、もう仏法に敵対しないのに。おとなしくしているのに・・・。勝手に第六天魔なんて言わないでよ」
と思っているかもしれません。まあ、お釈迦様の邪魔をしたんでね、罪は大きいですな。しかし、その罪も免除され天界に住まわせてもらっているんですから、昔の名前が出ても辛抱してほしいですな。
ちなみに、魔王パーピマンは住む世界が違うそうです。まあ、パーピマンは欲望の根源・心の弱さの源ですからね。つまり、人間の心の中に住んでいるわけです。
もとはお釈迦様の邪魔をした他化自在天、仏敵と称された他化自在天ですが、今は隠居生活の身です。おとなしく、穏やかに過ごしておりますな。

C大自在天(だいじざいてん)
よく他化自在天と混同されたりしますが、全く別の存在です。住む世界も違います。他化自在天は欲界ですが、大自在天はその上の色界です。いわば中間層の神ですな。位も上のほうになります。
もともとは、この大自在天はシヴァ神ですな。暴力と悪と治癒の神です。ヒンドゥー教では、恐ろしい力を持ち悪を打ち負かすだけの悪を持ち、さらには治癒までしてくれるということで絶大なる信仰を集め、最高神の名を得ますな。
このような大自在天、その性質は暴悪です。まあ、悪いことが大好きなわけです。で、人々が悪に染まるのも好きなのですな。悪人が信仰してくれて、さらに悪行をすれば喜びは絶大なわけです。まさに悪神ですね。そういう神ですから、信仰が増えれば社会は乱れますな。悪人跋扈する世の中になります。やがて、そのような世の中がやってきてしまったのですよ。
世の中は乱れました。大自在天の影響です。大自在天とその妃ウマが悪をばらまいているのです。そうなれば、世界は悪が支配するようになりますな。そうした世の中で、人々の中から救いを求める声が大日如来のもとに届きます。大日如来、大自在天の行状を見て、
「これはひどい。このまま放っておいてはいけない」
と思い、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)に大自在天を懲らしめるように命じますな。降三世明王、
「ガッテン承知いたしました」
とは言わなかったでしょうが、すぐさま大自在天のもとへと飛んでいきますな。で、いきなり、
「こら、お前ら、いい加減にせいよ」
と叫んだかどうかは知りませんが、大自在天とその妃のウマを踏みつけますな。これ以来、降三世明王の像や図像は、常に大自在天とウマを踏みつけた姿になっております。
こうして、大自在天の悪行はおさまりますな。で、世の中は平和になるのです。大自在天も、それからは、治癒の神として働くことになりますな。今では、シヴァ神は、繁栄と治癒の神となり、信仰を集めております。心入れ替え、悪の神をやめたのですな。

D聖天(歓喜天)
聖天さんは、商売繁盛や恋愛成就の神様で有名ですね。ただし、その姿はほとんどの場合、拝見することはできません。たいていは、丸い厨子の中に隠されております。まあ、秘仏ですね。
どんな姿をしているかというと、頭が象の人間が立って抱き合っている姿です。頭が象といえば、ガネーシャですな。そう、聖天さんは、もとはガネーシャなんです。二人のガネーシャが立って抱き合っているんですな。ハグしているんです。
ガネーシャは、当然ながらインドの神ですね。一時期、本でもブームになりましたからご存知の方も多いでしょう。
ガネーシャは、インドでは単身で祀らていますが、日本ではそれはありませんね。ヒンドゥー教のガネーシャと仏教のガネーシャは異なりますからね。
そもそもガネーシャは、頭が象ではありませんでした。人型の神様です。しかもイケメンだったそうです。彼は、大自在天の息子です。強力な神で、元は悪神だった神の息子ですから、まあ、甘えん坊でわがままですな。お決まりの不良のコースを進みます。それも半端ないワルの道を進みますな。そのころの大自在天は降三世明王により、更生しています。ガネーシャは、ヴィナーヤカ(一説にはガネーシャの別名)という不良集団を作りますな。悪魔軍団です。で、人間界に降りてきて殺す、盗む、犯す、破壊する・・・ありとあらゆる悪行三昧をするのです。これには、さすがの大自在天も手を焼きますな。しかも、ほかの神々から「お前の息子を何とかしろ」と文句は来るし、人間界へ迷惑をかけすぎているので、そのうちにまた降三世明王に怒られる可能性もありますな。早く手を打たねば・・・・と焦った大自在天、ガネーシャを呼びつけます。
「お前、いい加減にしろ。悪行も大概にせいよ!」
怒鳴りつける大自在天。しかし、ガネーシャ、屁とも思いませんな。とうとう堪忍袋の緒が切れた大自在天、ガネーシャの首をはねてしまいますな。で、
「最初に出会った生き物の首をはねて、その体にくっつけろ!。そうでもしないと、お前の悪行はおさまらん!」
と命じますな。さすが神だけあって、首をはねられただけでは死にません。しかし、首なしというわけにもいかないので、父神の言いつけ通り、最初に出会った生き物の首をはねてくっつけました。それが象だったわけです(別の説では、大自在天に首をはねられてしまい、死んでしまうといけないので、母神のウマが、すぐそばにいた象の首をはね、慌ててくっつけた、というものがあります。また、似たようなストーリーで若干異なる話もあります)。こうして、現在見られるガネーシャの姿になったのですな。
確かにこの後、ガネーシャの悪行三昧はおさまります。が、今度はガネーシャ、引きこもりになりますな。
「こんな醜い姿になってしまった・・・。もう生けてはいけない」
元がイケメンですから、ショックが大きすぎたのですな。で、ある日のこと、ついに意を決して死のうとしますな。大自在天のいる世界の海に一人で入っていきます。海で死のうとしたのですな。海の水が胸あたりまで来たときでしょうか、彼に声をかけるものがいました。
「待って!、死なないで!。そんな姿は、あなただけではないのよ。私も同じなの!。こっちを向いて・・・」
その声はそういいました。その声に誘われ、ガネーシャが振り向くと、首から上が象で首から下が女性という、自分と同じ姿をした者がいたんですな。しかも、その女性、豊満な肉体です。ガネーシャ、思わず死ぬのをやめて海から出てきますな。
「なぜ?、どうして?、なぜあなたは?・・・・」
ガネーシャ、そういって近付きますな。似た者同士、醜い姿をした者同士、見つめあいますな。そして、熱い熱い抱擁をするのです。
「私も同じ。これからは二人仲良く生きていきましょう・・・・」
女性の象人間はそういいます。こうして、ガネーシャは立ち直るのですな。

立ち直ったガネーシャの、この時の姿を像や図にしたものが、聖天さんですな。これ以来、ガネーシャは人々に繁栄の神として祀られるようになりますな。日本では、商売繁盛と恋愛の神ですね。
なお、女性の象人間は、観音様の化身です。観音様がガネーシャの心の中に、優しさや寂しさ、辛さ、そして何よりも本当は善神として祀られたかったという後悔があることを見抜き、ガネーシャを救うため、自ら彼と同じ姿に変身してガネーシャの妻となったのですな。菩薩は変身も分身も自由自在ですからね。観音様のおかげで更生したわけです。
「あぁ、俺にも観音様の化身の美しい女性が現れてくれないかな。そしたら、更生するのに、引きこもりをやめるのに・・・」
なんて思うのでしたら、聖天さんに祈ることですな。ニートを卒業させてくれる、素晴らしい女性が現れるかもしれませんよ・・・。
ただし、聖天さんは、一度祈願しだしたら途中でやめてはいけません。また、ちゃんとお礼参りをしましょうね。

次回ももう少し更生した神様を紹介し、まとめて終わります。
合掌。



第十八話 改心した神様の物語B
前回の続きで、元悪神という神様を紹介いたします。

E荼枳尼天(だきにてん、お稲荷さん)
ダキニ天というと分からない方も、お稲荷さんと言えばわかるでしょう。そう、ダキニ天は稲荷明神の御本体ですね。ただし、本来のダキニ天と本来の稲荷明神とは、本当は別物なんですけどね。
ダキニ天は、胎蔵界曼荼羅のもっとも外側に描かれております。その場所は、魔物の場所ですな。そもそもダキニ天は、大黒天・・・マハーカーラ・・・の眷属の夜叉女神でした。夜叉でも女性の夜叉ですな。夜叉と言えば、生きている人間の肝や心臓を食う魔神ですな。つまり、ダキニ天も生きた人間の心臓や肝を食って生きていた魔神なのですな。
マハーカーラ(大黒天)が、お釈迦様により魔神をやめ、善神に変わったがために、その眷属も自動的に善い神へと変わらざるを得なくなりました。なので、ダキニ天も善神へと変わったのです。
このダキニ天、そもそもは人の死を予告する神でした。人の死を半年前に知って、その人の臨終の際に心臓や肝をいただきにやってくるという夜叉神ですな。そういう神だから、人の死を予告できる力が欲しいと願う修行者の信仰を集めますな。そう願う修行者が居たら、その修行者に死を見通す神通力を与えたりしますな。ただし、その修行者の末路は悲惨なものとなります。そのほかには、大黒天の眷属として豊穣をもたらすという信仰もあったようです。こちらのほうは、当時のインドではあまり重要視されていなかったようですが・・・。
このようなダキニ天だったのですが、仏教伝来とともに日本に伝わった時、なぜか稲荷明神と同じだと説かれるようになったのです。おそらくは、日本の稲荷明神が
「犬やオオカミ、キツネなどを眷属として使っていた」
「稲をはじめ、農作物の豊穣の神だった」
という点が、ダキニ天の
「ジャッカルを乗り物や眷属として使っていた」
「大黒天の眷属として豊穣の神でもあった」
という点と、共通しているとして同一視されたのではないかと思われます。ちょっと無理があるようにも思うのですが、男神である稲荷明神と夜叉姫神であるダキニ天が、なぜ一緒になってしまい、しかも乗っ取られてしまったのかは、正確なところはよくわかりません。しかし、理由はよくわかりませんが、魔神の仲間であったダキニ天は、日本にやってきてからは、豊穣の神・商売の神として崇められるようになったのですな。
ちなみに、真剣にダキニ天と契約を結べば、天下人になれますな。それを実行した人が平清盛なんだそうです。彼は高尾山中にて天狗に出会い、天狗に勧められて(そそのかされて)ダキニ天と契約を結んだのそうです。契約内容は、天下人にしてやる代わりに生き胆をよこせ、というものですな。実際、天下人になった清盛は、ダキニ天が生き胆を取りに来るのが怖くて曼荼羅を高野山に奉納したり(血曼荼羅)、宮島の厳島神社に法華経を納経したり、様々な祈願祈祷をしたりしました。が、最後は熱病で亡くなっています。おそらくは、ダキニ天が契約の生き胆を取りに来たのでしょう。もし、ダキニ天と契約したい方がいるならば、最後は生き胆を取られる覚悟で契約してください。
お稲荷さんとして信仰を集めているダキニ天ですが、多くの方がお稲荷さんはキツネの神様と思っていることでしょう。しかし、御本体は「日本の稲荷明神を乗っ取ったダキニ天という女性の神様」なのですな。今では、それが定着してしまっております。
江戸時代には、稲荷信仰が盛んになり「江戸に多いもの、伊勢屋稲荷に犬のクソ」ともいわれるくらい、稲荷信仰は盛んだったそうです。ちょっと古い家には、お稲荷さんが祀ってある家もありますな。昔は商売をやっていた・・・なんていう家や、昔は大きな農家だった・・・という家には、お稲荷さんが祀ってあることがよくあります。ただし、昔は信仰されていたけど、今は誰も手を合わせない・・・といった状態が多いですけどね。
魔神から善神に変わり、日本では稲荷明神と名前を変えたダキニ天ですが、その性質に元の魔神っぽいところが若干残っております。まあ、多くの神様もそうなんですが、信仰をする者がいないと、さっさと天界へ帰ってしまうのですな。なので、その家で信仰されなくなった祠などは、もぬけの殻、ですな。しかも、お稲荷さん(ダキニ天)のたちが悪いところは、ダキニ天は眷属のジャッカル・・・日本ではキツネ・・・を3匹連れているのですが、そのうちの2匹を置いて行ってしまうことがよくあるのですよ。1匹は自分が天界へ乗って帰るのですが、ほかの2匹は置いてけぼりなんですな。で、その置き土産の2匹のキツネが悪さをすることがあるんですね。もっとも、こうなった原因は、信仰をしなくなった人間が悪いんですけどね。
ま、お稲荷さん信仰をするならば、ちゃんと一生続けるつもりで信仰するべきですな。願いが叶ったら、はいさようなら・・・では、ダメですね。清盛みたいに熱病でうなされ、生き胆を取られてしまうかもしれませんよ。


F帝釈天(たいしゃくてん)
帝釈天は、悪神ではありません。もともと善神の仲間です。しかも、力は強いですな。もとはインドラ神です。帝釈天、善神ではありますが、ただ一点を除いて、なのです。その一点とは、「女たらし」です。女性への欲望、性欲が以上に強いのですな。ま、英雄色を好むとも言いますが、こうのような神様の好色話は、古今東西を問わず、偉大なる神にはつきものの話ですな。
別に悪いことではないでしょう。神様ですからね。たくさん女性を侍らせても、そりゃ問題ないでしょう。ちゃんと神としての業務をはたしていれば。
ところがある一時期、帝釈天、何を思ったのか、性欲に溺れるのですな。手あたり次第、天女や神の娘、人間の娘を襲ったり、犯したり、かどわかしたりしますな。で、仕事も忘れ、性に溺れてしまいます。毎日、寝る・食う・エッチするの性交三昧ですな。さすがにこれには仏様もあきれます。
「いい加減しないと、それに応じた罰を食らうことになるぞ」
と注意されますな。それでも帝釈天、改まりません。するとある日の朝、帝釈天の身体に無数の女陰ができてしまうのですな。帝釈天の身体のあちこちに女性器が千個できてしまったのです。帝釈天、びっくり仰天ですな。
「これでは外に出られない、女性とも遊べない!」
と嘆きますな。で、一念発起します。これは性交に溺れすぎたからこうなったのだ、ならばこの女性器が消えるまで、女性とは交わらない、いや、もっと真剣に修行をしよう・・・。修行に入って3年(説はいろいろあり)、帝釈天は、見事に千個の女性器を千眼に変えますな。千の眼ですべてを見通すという神通力を得るのです。それ以来、ちょいワルな遊び人の帝釈天は、やめますな。しかし、好色がなくなったのは、阿修羅の娘と結ばれてからですけどね。
帝釈天は、阿修羅の娘にぞっこんになり、それ以来、天界の王として君臨しておりますな。女性の力は強いですねぇ。
ちなみに、阿修羅は正義の神だったのですが、帝釈天に娘を奪われて以来、
「顔を潰された、顔に泥をぬられた、もう許せない帝釈天め!」
と怒り続けているため、正義の神を降ろされ、天界を追われ修羅の世界の主へと落とされてしまいました。怒り続けるのもよくないですな。どこかで矛を収めないとね。


G夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)
夜叉とは、夜な夜な人間を襲い食べてしまうと恐れられていた魔神です。お釈迦様がいらしたころは、あちこちに夜叉を祀ったお堂があったそうです。なぜ祀るかと言えば、襲われたくないからです。夜叉を祀ってゴマをすっておけば、食われることはないだろう、ということですな。でも、しばしば、夜叉は人間を襲ったのです。羅刹も同じですな。羅刹も人を食っていた魔神です。
その両者とも、お釈迦様に説教され、改心しておりますな。夜叉なんぞは、お釈迦様を食べようとして反対に怒られ、説教されますな。で、それ以来、夜叉一族はお釈迦様の守護神となります。四天王も元は夜叉一族だったそうです。十二神将もそうですな。夜叉一族からの出世ですな。ほかにも金剛夜叉明王という明王も生まれております。大出世ですな。
羅刹は天界へと出世しますな。羅刹天として祀られます。十二天のうちの一人ですね。
このように人間を食って生きてきた魔神も、お釈迦様に導かれて以来、人を食べることをやめ、善い神へと変貌し、人間を守るようになったのですな。大変身です。


以上のように、元は悪い神で、人を食べたりしていた神だったのですが、お釈迦様に説かれ、よい神へと変身しているのですよ。神様だって元悪い神がいたのですよ。いや、元ワルの神様のほうが多いんじゃないかと思うくらいですな。
悪い神も、その行動や考え方ひとつ変えるだけで、よい神になれるのですな。神様ですら、自ら反省し、悪い神から善い神へ変貌しようとしたのです。そして、成功しているのです。神様ですら、です。いや、神様でも反省するのです。神が、ですよ。神様という存在なのに反省する、のですよ。で、自分の悪いところを直すのですよ。神様なのに・・・。
なぜ人間はそれをしないのでしょうか?。悪人も自分の行動を反省し、心から詫び、改心すれば、よい人間になれるはずですよね。でも、人間はなかなか反省しないんですよ。だから人間は、なかなか神の世界へはいけないのでしょうね。

人間を食べていた・・・つまりは人を殺して食べていた・・・悪い神・魔神ですら、反省し心を入れ替えれば、善い神として活躍できるのです。それどころか、人々の尊崇を集めることができるのです。かつては、人々は魔神を恐れて、怖がっていたから魔神の手にかからないように祈ったのですが、魔神が善神に変わったら、人々はその神に祈願するようになるのです。
人間だって、元悪い人間であったとしても、心から反省し、改心し、人々のために働くようになれば、誰もその人を蔑視するようなことはないでしょう。それどころか、社会の中で、正しく活躍できることだって可能なのです。実際に、元不良や元やくざという方が、活躍していることもあります。

神ですら反省し、改心するのです。人間がそれをしないなんて・・・。人間って、おこがましいですよね。
合掌。


第十九話 貧乏神
年明けして間もないのに貧乏神の話なんて!と思う方もいらっしゃることでしょう。しかし、年の初めのほうだから貧乏神について知っておいて欲しいと思うのですよ。だって、誰もが貧乏神を嫌うでしょ。早めにその実態を知っておいたほうがいいと思いますからね。今回は、貧乏神の実態を知って、貧乏神に好かれない方法をお話しします。

そもそも仏教の神様の中に「貧乏神」という神様はいません。この神は、日本独自の神様です。しかもかなり特殊です。似たような神様で、「疫病神(やくびょうがみ)」や「流行神(るぎょうじん)」という神様がいますが、貧乏神は、その神様たちとも異なります。
疫病神は「疫病(えきびょう)」をもたらす神ですね。そこから発展して「災い」をもたらす神としても活躍中ですな。流行神も病をもたらす神です。流行り病・・・おもに風邪・・・を世間に流行らせる神ですな。疫病神も流行神も、その地域全体に病という災いをもたらす神で、個人を狙って災いをもたらすことはないですね。なお、疫病神は病以外の災いをもたらす場合は、個人攻撃もあり得ます。しかし、そういう疫病神は、「疫病神と言われる人間」ですな。神様ではありません。本来の疫病神は、疫病を流行らせるのが役割ですな。
私たちが修行する供養法の表白文(ひょうびゃくぶん、この供養法は・・・のために修行するものです、願わくばこれらの祈願をお聞き届けくださいという文)の中にも、日本の神々の仲間として疫病神(表白文では「行厄神(ぎょうやくじん))という名前になっています)や流行神は登場します。しかし、貧乏神は出てこないんですね。

貧乏神は特殊なんです。どうやら、日本の古来の神々の仲間としても、あまり認められていないようですな。地域性もありません。貧乏神は個人をピンポイントで狙ってやってくる神です。その地域全体に関わるわけではありません。あくまでも個人攻撃です。貧乏神の影響が広がったとしてもせいぜいその家族まで、ですな。貧乏神が流行った地域・・・というのは聞いたことがありません。
日本の古来の神々の仲間ともいえない、地域性もなく個人もしくは家族に影響を与える・・・。ちょっと変わった神ですな。
一体いつどこからやってきた神なのか、それは不明なんですよ。仏教辞典にももちろんありません。仏教語大辞典にも載っていません。
ネットで調べてみましても、姿かたちや働きについては解説してありますが、その由来は?、となるとよくわからないようですな。ですが、奈良時代にはすでにその存在が知られていたようですな。

貧乏神は、一体いつどこからやってきたのか・・・。
これはあくまでも私の推論です。しかし、貧乏神の特性から考えると、あながちハズレではないと思いますので、お話ししたいと思います。
皆さん、餓鬼はよくご存じでしょう。六道輪廻の世界の下から二番目に悪い世界ですな。この世界に堕ちてしまうと、食べ物は食べられず、飲み物は飲めず、痩せてガリガリになり、骨と皮ばかりの生き物になってしまうのですな。それが餓鬼です。生きているときに、ドケチで、自分ばかり贅沢をして、欲の皮が突っ張り、あれもこれもと欲しがり、限度を知らないでいると、餓鬼に堕ちますな。あるいは、いつまでも過去の栄光や過去の贅沢な暮らしに執着して、現実を見ないで前向きにならず、いつまでもグチグチ言っていると、餓鬼に堕ちますな。あまりにも執着が強すぎると、餓鬼に生まれ変わるわけです。
そんな餓鬼は、先ほども言いましたように、満足に食事もできず、飲み物も飲めませんな。食べてもいいと許されている食事は、主に糞尿ですな。人間の排泄物です。ここから「糞餓鬼」という言葉も生まれていますな。昔は「食糞(くそ)餓鬼」という字を書いたようです。
そのほかには、ゴミですな。腐った食べ物です。餓鬼にとっての御馳走と言えば、お経のあがった食べ物ですな。お施餓鬼の時のお供えのご飯なんぞは、最高の御馳走ですね。餓鬼にお経のあがったご飯を与えると、病を取り除いてくれたり、寿命を延ばしてくれたりするのですよ。それがお施餓鬼の御利益ですな。
このように、餓鬼は食べ物を食べられないんです。つまり、人間でいえば貧しいわけですな。貧乏なのです。
ということは、貧乏神は餓鬼なのか?、と思いつきませんか?

餓鬼の中には、「富める餓鬼」という餓鬼が存在します。この「富める餓鬼」とは、大金持ちにとり憑いて、その人の栄養を吸い取るのだそうです。また、その家の米蔵に入り込み、米を食うのだそうです。つまり、お金持ちにとり憑いて、その家の食を食ってしまうのですな。ということは、金持ちは食われてしまうわけで・・・。そう、まさに貧乏神の働きですよね。
「富める餓鬼」にとり憑かれたお金持ちは、瞬く間にその財を失くしてしまうそうです。ですが、餓鬼ですから満足を知りません。大金持ちを貧乏にしたからと言って、餓鬼の命を終わるわけではありません。餓鬼は餓鬼のままですな。この「富める餓鬼」は、次のターゲットを探して世間をうろつき始めます。で、「こいつはいいや!」と思った相手がいたら、その人にとり憑き、その人の財を食いつくしますな。それは、まさに貧乏神なのです。
おそらく貧乏神は、この「富める餓鬼」が元になったのではないかと私は思うのですな。お金持ちの財を食いつくし、貧乏にしてしまう「富める餓鬼」。それが、貧乏神と呼ばれるようになったのでしょう。「富める餓鬼」って言いにくいですからね。御大尽を貧乏にしてしまうから貧乏神、それでいいんじゃないか、ということなのでしょう。つまり、貧乏神は、餓鬼の中から生まれたのですな。

さて、貧乏神の由来は・・・推論ですが・・・わかっていただけたかと思います。問題は、貧乏神がなぜとりついてしまうか、ということでしょう。それが分かれば、貧乏神に好かれない方法もわかりますな。
貧乏神は、その元が餓鬼と同じです。餓鬼から生まれたといってもいいでしょう。ならば、餓鬼にとり憑かれない方法が、そのまま貧乏神にとり憑かれない方法になります。
餓鬼は、物に執着する心が強い人間が、死んで生まれかわった姿です。自分だけ、もしくは自分の家族だけ贅沢をして、他人には冷たい態度でほんのちょっとの施しすらしない超ドケチとか、いつまでもいつまでも過去に執着しグチグチ言っている者とかが餓鬼に生まれかわります。ということは、そういう餓鬼に生まれ変わりそうな人は、アブナイわけです。生きているときから、餓鬼の匂いがするんですね。そういう餓鬼の匂いがする人に貧乏神・・・富める餓鬼・・・が近づいてくるのです。

たとえば、会社経営をしていて大きな財を成したとします。お金持ちですな。しかし、その財を成した人やその家族は、金持ちのわりにケチなところがある、とします。まあ、案外金持ちはドケチといわれますよね。そのケチさの度が過ぎると危険ですな。社長の家族は贅沢三昧、だけど社員には十分な賃金を与えない、ケチなことばかり言っている、会社の金で経営者一家は贅沢をし、会社を食い物にしている・・・。同族会社によくみられるパターンですな。これは危険なのですよ。こういうパターンは、貧乏神が好むパターンですな。社員の恨みもそこに加わりますしね。で、いつしか大きな失敗をし倒産・・・となってしまうんですな。大金持ちが一夜にして無一文・・・ということ実際にありますからね。こういう場合は、貧乏神にとり憑かれたのだ、といわれますな。

一生懸命働くのですが、なかなかお金を使わず、ケチケチでお金を貯めることだけに執着している・・・。小さな商売をやっている方にこういう方が見受けられますな。しかし、こういう人って、なかなかお金が貯まらないんですよね。なぜかある程度たまると出て行ってしまいます。で、さらにケチケチしますな。ものを惜しんで、時間を惜しんで、ケチってケチって暮らすんですが、なかなかお金持ちにはならない。こういう人も餓鬼の好みの人ですな。こういう人、そのうちにある程度お金が貯まると、ためた分以上に出て行ってしまう・・・ということが起きますな。で、また一生懸命に働く。ですが、以前のように収入が得られない。少しずつ、少しずつ収入が減っていきますな。しかし、出るほうは変わらない。いわゆる「じり貧」というパターンです。気がついたら貧乏になっていた・・・という話も実際に聞きますな。これも貧乏神のなせる業・・・かも知れません。

いつまでも過去の栄光や、昔に贅沢した時代を忘れられず、「あのころはよかった」とか「あいつのせいで貧乏になった」なんてことをいつまでもグチグチ言っている人も危険ですね。こういう人は、なかなか前向きになれず、昔のことに執着し続けています。で、現在の苦しい状況を過去のせい、人のせいにするのですな。このような執着心の強い人は、餓鬼の大好物ですね。いつまでも過去に執着していると餓鬼(貧乏神)がやってきて、ただでさえ苦しいところをさらに苦しくしてしまいます。このような話もよく耳にしますな。金持ちじゃないのに、貧乏神に好かれてしまうというパターンですね。

貧乏神・・・富める餓鬼・・・は、なにも大金持ちだけにやってくるわけではありません。ごく普通の生活をしている人だって、場合によっては貧乏神に好まれてしまうことがあります。餓鬼の匂いがするところには、どこにでもやって来るのですよ。そこが怖いところですな。貧乏なのにさらに貧乏に・・・ってことだってありますからね。恐ろしいですな。
だから、貧乏神に好まれないようにしないといけないのです。それには、自分自身が餓鬼にならないことですね。餓鬼にならないようにするには
「物惜しみをしない、ケチケチしない、自分だけ贅沢して他人にはびた一文出さない、いつまでもどうしようもないことに執着しない、金金金・・・といつもお金のことばかり考えていない、もっともっとと欲を出さない、満足を知る、セコイことをやめる・・・」
というようなことに注意すればいいのです。お金を使うところは気持ちよく使い、ケチケチせず、少しはおおらかにお金を使うことですな。時には、寄付金などの施しもするといいですね。なによりも満足を知ることが大切ですな。
「足るを知るものは、常に富む」
と言われます。満足を知るものは、いつも心が裕福ですね。この「心が裕福」ということが大事なのですよ。貧乏神が最も嫌う心ですな。

しかし、貧乏神にとり憑かれてしまった場合は、どうすればいいのでしょうか?
それには、まずは自分の中の餓鬼の心を捨てることです。自分の心の中に餓鬼の心があることに気づいていない人は、まずそこからですな。周囲の人から、「ケチだからね」なんて言われている人は、素直に自分の心の中に餓鬼が住んでいるということを認めましょう。あるいは、「いつまでも昔のことにこだわって・・・」なんて言われている人も、自分の心の中に餓鬼が住んでいることを認めましょう。ちっとも働かないで怠けてばかりの人も同じです。自分の心の中に餓鬼が住んでいます。
いや、ほとんどの人が、自分の心の中に餓鬼が住んでいるのですよ。ただ、その餓鬼が成長するかしないかが問題なのですね。心の中の餓鬼が大きく成長してしまうと、貧乏神になってしまうのです。なので、その成長を止めることが大事なのです。そのためには、「誰の心の中にも、自分の心の中にも、餓鬼が住んでいるのだ」ということを認識することです。
そこがまず第一のポイントですな。
次に、できれば、ほんの少しでもいいから施しをしましょう。コンビニなどで寄付金の箱が置いてありますよね。そこにほんの少しでもいいから、寄付金を入れるといいでしょう。周囲への気配りも大事です。周囲へ気配りができる人には貧乏神は近付きませんな。

そんなことはやっているが、貧乏から抜け出せない!というかたは、とっておきの貧乏神退治方法があります。それは、食事を施すことです。昔は、貧しいながらも一食分を余分に作って、近所に配ったり、食べられない人に差し上げたりしました。これが貧乏神撃退方法なのです。食事を一膳余分に作って「貧乏神様、いただいてください」と言って、貧乏神にお供えするのですな。で、そのあと近所の人におすそ分けしたり、食べられない人に施したりするのです。しかし現代では、食事を余分に作って近所にあげるなんてことをするとかえって失礼に当たりますな。もらう方は困ってしまいます。ですので、一食分のお金を寄付することです。寄付はどこでもいいです。一食分、というのが大事です。一日三回食事をする方は、三食分になりますね。自分と同じ食事代をどこかに寄付するのです。たとえ苦しくても、そのお金が惜しいと思ってはいけません。自分と同じ食事代をどこかの誰かに使ってもらい、その人の命をつないでいくのです。それを続けていくと、貧乏神はやがて福の神に変わっていきます。もう貧乏神ではありません。福の神になっています。富める餓鬼が天界へ生まれ変わったのですよ。おそらく、そうした寄付を続けた人自身も豊かな心へと変わっていることでしょう。つまり、心の中に住んでいた餓鬼はいなくなっているのですね。それが貧乏神撃退の最も効果的な方法なのです。そうすれば、
「貧乏神、転じて福の神となる」
ということなのですよ。

私どもお寺は、よくお供え物が来ます。ご本尊様にお供えを・・・とお菓子類が本尊様の前に並べられたりしますな。こうしたお供え物、お寺の家族が独り占めしているわけではありません。ほとんどのお寺さんは、お参りに来た方に分けて施しておりますな。「本尊様のおさがりですよ」と言ってね。うちの寺も、月参りの時に、参拝された方に「おさがり」として、お渡ししています。修行者は本来、仏様のお供えに上がった食べ物は口にしないものなのです。と言っても、お供え物によっては、急いで食べなければいけないものもありますし、皆さんに分けられないものもあります。そうした場合は、申し訳ないのですが、その寺の方々がいただいておりますな。ですので、もし、皆さんが仏様に・・・とお供えをするならば、「日持ちがするもの」、「参拝者の皆さんに分けられるもの」がいいですね。
中には、ご住職さんに喜んでもらおうともって・・・とお供えをもって来られる方もいらっしゃるようですが、それはお供えにはなりません。それはご住職さんへの手土産ですな。そのようなご住職さんへの手土産よりも、仏様へのお供えのほうがご利益がありますよね。皆さんに喜んでもらえるのですから。一人に喜んでもらえるよりも、大勢に喜んでもらえたほうがいいでしょ。その気持ちが大切なのですな。
話がそれました。元に戻しましょう。お寺がお供え御物を皆さんに分けるのも、独り占めして餓鬼にならないように、ということなのです。お供え物を独り占めするような住職さんがいる寺は、貧乏神にとり憑かれてしまい、やがて誰もお参りに来なくなってしまいますな。餓鬼は、どこにでもいるから怖いのですよ。

皆さんいかがでしょうか?。皆さんの近くに貧乏神を背負った方はいらっしゃるでしょうか?。貧乏神に好かれそうな方はいらっしゃるでしょうか?。いや、自分自身はいかがでしょうか?。貧乏神に好かれそうな餓鬼の心を持っていませんか?。まあ、普通の人は持っていることでしょう。でも、成長させなければいいのです。皆さん、お気を付けください。ちょっとしたことで、あなたの心の中の餓鬼は成長してしまいます。心の餓鬼が成長すれば、貧乏神になってしまうかもしれません。どうぞ、自分の心の中をのぞいてみて、餓鬼が大きくなっていないか観察してみてください。
もし、大きくなっていたら・・・。貧乏神に成長しないように、お気を付けくださいね。いやいや、他人ごとではありませんな。私自身も注意しないとね。
合掌。



第二十話 福の神
前回、貧乏神についてお話ししましたので、今回は福の神についてお話ししましょう。
実は「福の神」という名の神様はいません。福の神は、福をもたらす神の総称です。福の神という固定した神がいるわけではないのですな。ただし、昔話や狂言には「福の神」として、翁姿の神が登場しますな。この場合は、この神様は誰か、ということは問題ではなく、福の神の存在が話の中心なので、神様を特定する必要がないわけです。ようは、神がだれであってもいい、福の神でありさえすればいい、ということなのです。「まあ、誰でもいいから福の神がいてさ・・・」ということなのですな。
さて、そんな福の神ですが、どんな神様が福の神なのか、やはり知りたいですよね。そこで、代表的な福の神と言われる神様を紹介しておきましょう。

まずは、何といっても七福神ですな。七福神は、福の神の代表でしょう。七福神というくらいですから、これは福の神が七人集まっているのですね。皆さん、よくご存じだと思います。起源は、室町時代あたりなんだそうですよ。そんなころに、福の神を七人集めて、福をたくさんいただこう・・・という信仰が生まれたのだそうです。
さて、その七人の神様のメンバーです。一人ひとり紹介しておきます。
@大黒天
前にも紹介しておりますから多くは語りません。元は日本の大国主命なのですが、仏教系のマハーカーラ・・・大黒天・・・が、合体して一体化してしまった神様ですね。大国天とも書きます。日本の神様とインドの神様の合体身です。
大国主命は豊作の神ですな。五穀豊穣の神です。なので、その姿は米俵の上に乗っています。また、福袋を肩に担いでおります。これ、まさしく福の神の姿ですね。五穀豊穣の神なので、昔から台所に祀られることが多いですね。昔の台所は竈(かまど)ですから、すすけます。真っ黒になりますな。そこから大黒天を祀るようになった、という説もあります。いずれにせよ、食に関する福の神ですな。
A恵比寿明神
ご存じ、海老で鯛を釣る、の恵比寿さんですね。小さな元手で大きく稼ぐ、という福を授ける神様ですな。なので、昔から商売を生業とする人たちからの信仰を集めております。七福神の中で唯一の純粋な日本の神様です。
B福禄寿
中国は道教の神様ですな。福と給料(禄)と寿命を授ける神様なので、福禄寿といいます。
C寿老人
これも中国は道教系の神様ですね。寿命に特化した神様です。長寿を授けるわけですな。昔から、長寿は幸福と言われていたのです。特に中国では不老長寿は憧れでしたからね。ただし、いくら長寿であっても幸福とは限りません。健康とお金と親族に恵まれていないと、長寿であっても幸福とはいいがたいでしょう。いくら長寿でも病気だったり、お金がなかったり、孤独であったりしたならば、長生きもつらいものですからね。そうした点を寿老人と福禄寿でカバーしているのですな。寿老人で長寿を、福禄寿で健康という福と金銭と寿命を、授けるわけですな。
D布袋
中国の禅僧がモデルと言われております。布袋禅師という禅僧がおりまして、この方、いつも上半身裸の太っちょの禅僧だったそうです。で、いつもニコニコ微笑んで、周囲の人たちを和やかに、幸せに導いたのだそうですな。そこから、福の神の仲間入りを果たしようです。姿は、上半身裸で、おなかがでっぷりとした姿です。大きな袋を肩に担いでおりますな。この袋の中には、幸福が入っております。そこから福を取り出し、人々に分け与えるのですな。
そういえば、痩せぎすの福の神はいませんね。たいていは小太りか太っている方が多いですな。大黒天も恵比寿さんも布袋さんと同じく太めですね。まあ、太さでは布袋さんが一番でしょうけど。まあ、太っているほうが福々しいですからね。
E毘沙門天
毘沙門天は単独や七福神で祀られる時は、毘沙門天という名前になります。四天王として祀られる時は、多聞天と呼ばれますな。名前は変わりますが、同一の神様です。ただし、四天王の時・・・多聞天の時・・・は、北方を守護する神様ですね。魔物から仏様を守る役目を担っております。毘沙門天となると、役割が変わってきますな。
毘沙門天は戦の神ですね。戦いを守護し、勝利に導く神です。そこから、勝負に勝つ、商売に勝つ、ということで、福の神として祀られるようにもなったのですな。また、宝塔を手に持っているのですが、この宝塔は文字通り宝の塔なのですな。この塔から宝を生むのです。一説によると、毘沙門天は夜な夜な、この宝塔から生まれる宝をもらってくれる人を探しているのだそうですよ。もし出会うことができたら、大金持ちですな。
F弁財天
七福神の中の紅一点、弁財天さんです。弁才天とも書きますな。もとは、サラスバティーという河の神様ですね。川岸で琵琶を弾きながら、河の恵み・・・清らかな水、魚などの食料、砂金などの宝物・・・を与える神様ですな。琵琶の弾き語りをするので、音楽の才能・芸能・弁舌の神としても祀られるようになります。この二つの特色から、財をもたらす神、才能をもたらす神、として祀らるようになったわけです。また、弁天様は神々の中で最も美しい神なので、美の神としても信仰されますな。財と才能と美の神様ですな。さらに、6人の男性の神を侍らせているということで、遊女からの信仰も集めます。遊女でなくても独身の女性は、弁財天信仰をするとご利益が大きい、とも言われておりますな。さらにさらに、弁財天さんが「これは!」と見込んだ男性は、財と名誉を手に入れるとされますな。女性にもモテるようになりますな。ただし、在家の男性のみですね。ま、なかなか見込まれるのは難しいですけどね。
なお、弁天さんをカップルや夫婦でお参りすると、弁天さんが妬いて別れさせられる・・・というのは、迷信です。これは、弁財天さんを祀ってある寺社仏閣周辺には色町があり、そこへ男性だけで行きたいがための方便としてまかれたデマですな。弁天様信仰にかこつけ、生きた弁天様を抱こうとした男たちのためのウソなんですよ。
以上、福の神の代表である七福神でした。

さて、七福神のほかにも福の神様は存在しておりますな。たとえば吉祥天がそうですね。
吉祥天は、その名の通り「吉祥・・・ラッキー」を与える神様です。吉祥天を信仰すれば、とにかく運がよくなる、ラッキーに恵まれる・・・ようになるのです。また、吉祥天は、その手に宝珠を持っております。これは宝を生む珠ですな。この珠から宝を生んで授けてくれるわけですね。実は吉祥天は、七福神が信仰され始められたころは、そのメンバーに入っていたんですな。七福神は弁財天を含む七福神と、吉祥天を含む七福神と、2種類あったそうなのです。どうも庶民の受けが弁天さんのほうがよかったようで、吉祥天は七福神から消えてしまったのです。
なぜ吉祥天は受けが良くなかったのか。それは、美の点で弁天さんに負けたのだと思われます。あからさまに言ってしまえば、弁天様のほうがエロかったのですな。当時は、信仰は男性が主にするものでした。特に福の神は、商売人が祀る神様です。なので、男性受けする神様のほうが人気が高いわけですな。まあ、何といっても神々の中で最も美しいのは、弁天様です。男はきれいな女が好きですからね。で、吉祥天は負けちゃったわけですね。
ちなみに、吉祥天と弁財天は姉妹です。姉が吉祥天、妹が弁財天ですな。一説には、もう一人妹がいて、その妹は禍をもたらす神だあったため福の神になれなかったそうです。なお、この説は、あまりメジャーではありません。
さらに、吉祥天と毘沙門天は夫婦です。この点も吉祥天が七福神に残らなかった理由でもありますな。七福神の中に夫婦者がいると、ちょっと興ざめ・・・ということなのでしょうね。それよりも独身の美しい女神がいたほうが華やぎますからね。
もう一つちなみに。弁財天さんは、離婚歴があるという説があります。かつては、梵天様の奥さんだったらしいのです。梵天様は、宇宙を創っている神ですね。まあ、いわば地味な神様です。で、それが嫌で弁天様は梵天様と別れたのだそうですよ。地味な神様の妻でいるより、独身で自由に遊びたい・・・ということなのでしょうかねぇ。

商売の神様といえば、よく信仰されるのが稲荷明神ですね。いわゆるお稲荷さんです。本来は、翁姿の稲の神様だったのですが、仏教伝来により、インドの神であるダキニ天に乗っ取られますな。大黒天と同じパターンです。そういえば、ダキニ天は大黒天・・・マハーカーラ・・・の眷属ですな。つまり、部下なわけです。ということは、上司が大国様を乗っ取って、部下が稲荷明神を乗っ取ったということになりますな。なんだか、ちょっとエグイ話ですな。乗っ取ったというと聞こえが悪いですから、合体したと言いましょうか。吸収合併でもいいですな。神々の世界でも吸収合併があるのですよ。
ダキニ天、上司のマハーカーラに倣って、稲荷明神と合体しますな。で、姿かたちを翁からジャッカル(日本ではキツネ)にまたがる女神へと変貌しますな。働きは、元のままですな。稲の豊作、五穀豊穣の神ですね。そこから、商売繁盛の神へと拡大していきます。
江戸時代に稲荷信仰は爆発的に流行しますな。ちょっとした商売屋さんは庭にお稲荷さんを祀ったりしますな。庄屋さんも然りです。街中には、共同でお稲荷さんの祠を祀ったりもしたようです。そこら中にお稲荷さんの小さな祠があったそうですよ。で、江戸の人たちは、江戸の町にあふれているものとして「伊勢屋、稲荷に、犬のクソ」と言ったのだそうです。まあ、それほどお稲荷さんは、信仰を集めたわけですね。
ちなみに、いまだにお稲荷さんのことをキツネの神様と思っている方がいますが、キツネは部下ですから。ダキニ天の乗り物であり、パシリですから。そこを間違えないようにしてください。お稲荷さんは、ダキニ天という女神です。

そのほかにも福の神と言われる神様はいらっしゃると思いますが、まあ、多くの神様を信仰するより、ピンポイントのほうがいいでしょうから、これくらいにしておきます。たくさんの神様を知っていても、信仰しなければ意味がないですからね。
ちなみに、あちこちの神様を信仰するのは良くないとか、あちこちの神様のお守りを持つのは良くないといいますが、これは本当の話です。神様の場合は、できれば一点集中のほうがいいですね。なぜなら、神様は、神様といえどまだ欲がいっぱい残っている存在だからです。
一人の神様を信仰した場合、その神様はオンリーになるわけですから、神様にしてみれば
「そうかそうか、我一人だけを信仰しているのか。ならば、我が守護してやらねばいけないな」
となりますよね。ところが、複数の神様を信仰した場合は、
「あっちの神様に頼めばいいだろ。あたしゃ知らないよ〜」
となってしまいますな。お互いに「あっちの神様に行けば」となってしまうのですよ。なので、複数の神様を信仰しないほうがいいわけです。神様どうしが、お互いに譲り合ってしまうわけですな。
なので、この神様が私にはあっている!、と思ったならば、よその神様にふらふらいかないで、一途に信仰をすることですね。
最近は、パワースポット巡りなんていって、あっちの神様にお参りして、こっちの神様に祈り、そっちの神様で手をあわせ、なんてお参りの梯子をしている方・・・特に若い女性、特に独身女性・・・がいますが、これは無意味ですな。神様だって、
「どうせあちこち回っているんだろ。じゃあ、別に我が出る必要もないわいなぁ〜」
と思うでしょうからね。しかも、神様にも得手不得手のことがありますから。五穀豊穣の神様に恋愛や結婚を祈っても、それはどうかな、と思いますな。まあ、神社側もブームに乗って、良縁成就の神様でないはずなのに、いつの間にか良縁成就を謳っている神社もありますからね。まあ、単なるお遊びの範囲ならいいですが、真剣に祈るなら、そこの神社の神様の由来や歴史をよく知ってからのほうがいいと思いますよ。

いずれにせよ、福の神と言われる神様は、福を授けるのが仕事ですから、自分にとっての福がなんであるかをよく考えて信仰したほうがいいですな。何でもかんでもいい、福をくれ〜、ではいけませんよね。
それと、祈願したならば、ちゃんと自分も努力しないとね。神様だって見ているはずです。
「願いはわかった。しかし、本人はどれくらい努力しておるかのう」
とね。一生懸命に努力しているならば、
「よし、なかなかのものじゃ。ならば、力を貸してあげようかのう」
となるでしょう。それが努力もしないで、祈願したからいいや・・・なんて過ごしていると
「あのバカたれが、なんだ、願い事は真剣な願いじゃなかったのか。じゃあ、我も知らないっと」
となってしまうことでしょう。すると人々は
「あそこの神社で祈願したけど〜、ち〜っとも効果がない。インチキだ〜」
というのですな。神様にしてみたら、ムカつく話ですよね。「あたしゃ、お前さんの奴隷じゃない」といいたいでしょうな。

神様が上なのか、人間が上なのか。
いつ間にか、人々は、神様に祈るのではなくて、頼む・命じるようになってしまっていますな。神社などに行って、ちょっと手をあわせ、賽銭をちょこっと入れて、ごにょごにょと願い事をいう・・・。で、なんだちっとも効果がない、あの神社ダメ〜、というのは、自分の立場がわかっていない証拠ですな。神様は、人間の召使や奴隷ではありませんな。立場をはき違えると、そのうちに手痛いしっぺ返しが来ますよ。なんせ、神様は、まだまだ欲の世界に生きている存在ですからね。怒りもします。
人間は、自分の立場をよく知ったほうがいいですな。その上で、よくよく信仰し、祈願をしましょう。そうすれば、きっと福を授けてくれるでしょうからね。
ただし、あまり強欲なことばかり言っていると、貧乏神がやってきますから、願い事もほどほどにすることです。そして、願いがかなったならば、必ずお礼参りに行きましょう。願いを叶えていただいた、のですから、お礼は当然ですよね。
くれぐれも人間の立場、神様の立場を間違えないように心得てください。
合掌。



第二十一話 仏教的親孝行
今回はちょっと趣向を変えて仏教における親孝行論のお話をいたしましょう。
親孝行・・・日本では結構重視されますよね。最近の若い方でも「親孝行はしたい」と思っている方は多いようですな。まあ、それ自体は誠にいいことだと思いますが、親世代に関しては少々問題もあるようでして・・・。親が親孝行を強要することがあるのですな。
「ここまで育ててもらった恩を返せ」
「誰のおかげで大学まで行けたんだ。その恩を返すべきだろ」
などなど、お得意の「誰のおかげで」をひけらかして親孝行を強要するのですな。
「そうやって強要されると、せっかく親孝行しなきゃと思っていた気分がなえてしまいます」
という話はよく耳にします。親世代も言葉には注意したほうがいいですね。

さて、日本は親孝行という思想が意外と浸透しております。それは当然な行為だ、という認識が強いですね。
「仏様もそう説いているでしょ?」
などとたまに質問されますが、本来の仏教はあまり親孝行を説きませんな。が、「父母恩重経」という「父や母の恩」を説いたお経もあります。父や母の恩は、海よりも深く山よりも高い・・・とそれには説いております。なので、親の恩に報いることは重要だ、親を泣かせることはするな、親を大切にしなさい・・・とも説いてありますな。まあ、当然と言えば当然ですが、どうも仏教っぽくはありません。儒教の匂いがプンプンしますな。このお経は、中国色が強いお経と言えるでしょう。

本来の仏教は、覚りが目的です。そのためには、父母のことは二の次でいい・・・というところがあります。そもそも、お釈迦様自身が、国王の座を捨て、親を捨て、奥さんを捨て、子供を捨てて、修行の旅に出てしまいます。お釈迦様は、釈迦国の王族のたった一人の息子です。将来、釈迦族の王として国を率いていかねばならない立場です。なのにすべてを捨てたのです。
お釈迦様は、お子さんの時から聡明だったので、親は大いに期待したでしょう。お釈迦様が誕生した時、アシタ仙人は「世界を支配する転輪聖王(てんりんじょうおう)か、伝説の仏陀になる」と予言しました。そんな予言を聞いた国王は、そりゃもう転輪聖王になると思い込んでしまいますな。なのに、お釈迦様は国を捨ててしまいます。こんな親不孝なことはないでしょう。ですが、お釈迦様は「この親不孝者!」と責められることはありません。なぜか・・・。それは仏陀になったから、です。いや、たとえ仏陀にならなくても、仏教では「出家した」ということだけで、大きな親孝行をしたことになるのですな。

儒教的に言えば、また今日の日本の道徳的な考え方から言えば、お釈迦様の行為は、無謀かつ親不孝な行為、と言えるでしょう。批判されるべき行為です。実際、お釈迦様の父親や育ての母、妻のヤショーダラ、大臣たちは、かなり嘆いたようです。ショックも大きかったようですな。
「なんてヤツだ。全責任を放り出して!」
と怒ったりもしたようです。ですが、インドではこれはアリなのですな。家を出て、修行をして、聖者になれば、親不孝者ではないのです。いや、聖者にならなくても、修行者になれば親不孝ではないのですよ。仏教もこの考え方を踏襲しておりますな。

仏教では、出家が最優先されます。もちろん、未成年者の場合、出家には親の許可が必要でした(仏教教団が設立された当初は、許可は必要ありませんでした。しかし、親からのクレームが相次いだため、未成年者は親の許可が必要、となったのです)。出家は、家や親、世間と縁を切って、仏教教団内で修行に励む修行者になる、ということです。親や家、親類だけでなく世間とも縁を切ります。そこは徹底していますな。ですから、未成年者の出家者でなくても、家を出てしまい、縁を切ってしまうことを嘆く親もいます。代表的な例に高弟のシャーリープトラの母があげられます。
シャーリープトラの母親は、彼が家を出て修行者になったことを深く嘆いていました。彼は、子供のころからものすごく母親に可愛がられていたのですな。しかし、幼馴染のモッガラーナと若くして家を出てしまいます。で、いろいろな師について修行するのですが、お釈迦様に出会い「この方だ!」とひらめき、モッガラーナとともにお釈迦様の弟子となるのですな。その後、シャーリープトラは実家に行き、弟もお釈迦様の弟子にしてしまいます。母親は、怒り狂いますな。
「弟まで出家させて!、この家が絶えてしまうじゃないか!」
シャーリープトラの母親の言い分は、多くの方が、「お怒りごもっとも」と思うことでしょう。この怒りの言葉は、今の日本でもよく聞く言葉ですね。「家が絶えてはいけない」という考え方からでる言葉です。「誰が墓守をするのだ。誰が家を継ぐのだ」という、まあ、お年を召したかたがよくいうセリフですな。それと同じことをシャーリープトラの母親も彼にぶつけたのですな。しかし、シャーリープトラ、シレッとして言いますな。
「別に絶えてもいいではないですか。それよりも、この世への執着心を捨てて、覚りに向かう修行を一緒にしませんか」
家が絶えることよりも、覚りへの修行のほうが大切なのです。仏教ではね。

我々が出家をするとき、その作法の中で「父母と縁を切る」という作法があります。我々出家者は、本来は家を出たものですから、苗字も捨てるべきなのですな。私は、出家した時点で、ただの「廣栄」になったのです。ま、ですが、日本の法律上の問題で、苗字を捨てるわけにはいきません。なので、心の中で捨てたつもりになるのです。出家者は、出家した以上、家という固有のものにとらわれてはいけないのです。もう家族にも父母にも執着してはいけないのですな。なかなか難しいことなのですけどね。

では、親孝行はどうなるのでしょうか?。仏教では出家が最大の親孝行になります。たとえ、家が絶えても、出家者が出たことで、先祖は救われるのですよ。むしろ、自分の代で家を終わらせることもよいのです。仏教では、儒教のように先祖代々ずーっと家を絶えさせずに続けることが重要である、とは説かないのです。家が絶えてもいいのですよ。
「でも、それって出家者の場合でしょ?」
という質問もよくあります。その答えは、同じです。「いいんです、家が絶えても」です。
「それって親不孝なことではないのですか?。親孝行はできないんじゃないですか?」
とも聞かれますな。その答えはこうです。
「仏教では、それは親不孝ではありませんよ。絶える家ならば、それはそれで仕方がないことです。絶える絶えないにこだわる必要はありません。それと親孝行とは関係のない話です。家が絶えて親不孝だ、というのなら、絶える家にしてしまったあなたたちの親の責任のほうが大きいでしょう。あなたの責任ではないのですよ。なので、あなた自身が親不孝だ、と責任を感じる必要はありませんよ」
まあ、たいていの方は驚きますな。

日本は、江戸時代に儒教を基本とした習慣を庶民に広めました。特に「家を絶えさせない」ということは重要事項でした。家が絶えれば、どんな身分のものであろうとも領地や身分は没収されます。武家は特に大変ですな。地方の大名のお殿様から旗本や八丁堀に至るまで、「家を絶えさせてはいけない」という呪縛に悩みますな。それが市民にも浸透していきます。特に大きな商家は、家が絶えれば商売の許可証も取り上げられてしまいますので、そりゃもう必死になって家を絶えさせないようにしますな。豪農や庄屋さんも同じですね。そんな思想が、世の中に広がっていくのですよ。
で、明治維新以降、武家や大きな商家、豪農・庄屋の思想であった「家を絶えさせてはいけない」という考え方が、庶民にも広がっていきます。明治政府も神道や儒教を重んじましたから、家を大切にするという思想はどんどん広がっていきますな。で、いつの間にか、先祖が大したことがない家でも「家を絶えさせてはいけない。親不孝になる」という思想が根付いたのですよ。多くの家が、明治になってやっと苗字を名乗ることが許されたのですけどね。そんなに先祖が続いているわけでもないのにね。ですが、いつの間にか「我が家は歴史が古くて・・・」とか「我が家は由緒正しくて・・・」と創られていくのですな。真実は、江戸時代は苗字もない、どこそこ村の何とかさんだったにもかかわらず・・・。

「家が絶えてはいけない」
「親孝行をしなきゃいけない。だから親を大切にしろ」
という考え方は、実は儒教の考え方であって、仏教にはない思想なのですよ。仏教では、むしろ
「家が絶えてもいいじゃないか」
「親孝行は、親に直接返さなくてもいいじゃないか」
という考え方なのです。出家してしまえば、親に直接恩を返すことにはなりませんが、出家するような者を育てた親ということで、大きな徳を親は得ますな。それが「出家が最大の親孝行である」という理由ですね。
「じゃあ、出家しなきゃ親孝行はできないんじゃないですか」
と思われるでしょう。そうじゃありません。親孝行は、出家しなくても、できるんですよ。
「じゃあ、儒教と同じじゃないか」
とも思う方もいることでしょう。でも違うんです。仏教では、
「親孝行は、直接親に返さなくてもできる」
と説くのですな。どうするのか?。それは「社会に返せばいい」のです。ま、社会貢献ですな。

もっとも簡単で大きな社会貢献は、実は納税なんですよ。皆さんが払った税金で世の中は成り立っているのです。納税者は、大きな社会貢献をしているのです。あなたが払った税金は、道路を造る費用の一部に充てられているのです。インフラ整備の費用の一部になっているんですね。皆さん税金を払うのは、不服でしょう。もちろん、私もうれしくはないです。できれば払いたくはないお金ですよね。でも、その税金がなければ、世の中は成り立たないのですな。税金は、いわば社会を作るためのお金なのですよ。皆さんが払う税金は、社会を作っているのです。ということは、これは大きな徳積みでもあるのですよ・・・・と、こう考えるのが仏教なのです。

親に育ててもらった恩がある。いつか親孝行して、その恩に報いたい。ならば、たくさんお金を稼ぐ人間になって、たくさん税金を納めよう。社会貢献しよう。親の恩に報いるならば、社会へ貢献すればいいのだ・・・。
これが親孝行なのですな。仏教では、親不孝者とは、親を捨てる人間ではなく、世間で事件を起こすような者を親不孝者というのです。世間で事件も起こさず、普通に働いて、普通に税金を納めているならば、その人は社会に貢献している人でありますから、親不孝なものではないのです。

こんな話があります。あの経営の神様と言われた松下幸之助さんに関する話です。
松下幸之助さんがまだまだ元気だったころ、新入社員一人ひとりに話をしたそうです。で、松下さんはその新入社員にこう質問したそうです。
「なぜ君はわが社に入れたのか?」
と。問われた新入社員は、みなさんこう答えました。
「一応、それなりに優秀な大学を出て、努力した結果、就職できました」
ごく当たり前の答えですね。松下さん、さらに質問を重ねていきます。新入社員との問答ですな。
「その大学はなぜ行けたのか?」
「自分も勉強を努力して、親も学費を払ってくれました。自分の努力と親のおかげです」
「ふむ、もっともなことが、私が尋ねていることはそういうことではない。その大学へ君がいけたのは、その大学があったからではないか?」
「はぁ、確かにそうです。その大学があったから、その大学に入ることを目標に努力しました」
「うん、まあそれはいい。じゃあ君に尋ねる。その大学はなぜあったのか?」
「えっ?・・・」
「その大学は誰が創って、どのようにして運営しているのか?・・・。わかりませんか?。では、こういおうか。あなたは、小学校も中学校も高校もいきましたね。それらの学校は、どのようにして成り立っていて、どのようにして運営されているのですか?」
新入社員さん、モーレツに考えますな。で、もともと頭がいいですから答えを見つけます。
「それは、税金で成り立っています」
「そうですね。あなたは、わが社に入るまで、たくさんの人々の恩を受けてきた。たくさんの人々が払った税金で、あなたはここまでこれたのですよ。親だけではありません。あなたは多くの人々の恩を、たくさん受けているのです。それが分かりますか?」
「はい、わかります」
「そう、ならば、あなたは、その恩に報いるような社員になりなさい。社会に対して、恩返しができるような、そんな社員になりなさい」
自分たちが受けている恩は、親の恩だけではないのです。親の恩よりも、もっとたくさんの恩を社会から、多くの人々方受けているのですな。松下幸之助の考え方は、大変仏教的、いや、密教的な考え方なのです。だからこそ、経営の神様とまで言われたのでしょうな。こういう考え方をする経営者は、果たして現代にいるのでしょうか。もし、いたとしたら、世の中もっと良くなっているような気がしますよね。残念ながら、松下さんのような経営者は、今じゃあいないのでしょうな・・・。

「親の恩に報いる気はないのか」
「少しは親孝行をしろ」
「ここまで育ててやった恩を返せ」
などという親は、仏教の教えからすれば、捨てておいてもいいのです。そんな親には直接恩返しなどしなくてもいいのです。それよりも、社会に返したほうが価値がありますな。
なので、もし、あなたが、上記のようなことを言われたら
「親孝行しますよ。恩返しもします。親の恩に報いる気もあります。だけど、対象が違います。私が受けた恩は、社会に返します。そのほうが、親のためにも徳が付きますからね」
と応えればいいのですよ。また
「お前が結婚しないから家が絶える。この親不孝者が・・・」
というようなことを言われたら、
「そうたいした家でもないし、絶えてもいいじゃないですか。江戸時代じゃあるまいし。ちゃんと供養はしておくから、心配しなくてもいいですよ」
と応じればいいのです。
直接、親に恩返しをしなくても親不孝にはなりません。
家が絶えてしまっても、それは親不孝にはなりません。先祖へ不義理なことをしたわけではありません。
あぁ、ちなみに
「家が絶えたら先祖が恨む」
とか言う方がいますが、家が絶えたら恨む相手もいませんから。先祖も恨みませんしね。
ちなみに、たまにお坊さんで「家を絶えさせてはいけない、先祖が苦しむ・・・」なんてことを言う方もいますが、これは嘘です。檀家寺の場合、家が絶えるということは檀家が減るということですから、死活問題になるのですな。だから、家を絶えさせてはいけない、というのです。家を絶えさせる者は親不孝だと・・・。

仏教的には、家を絶えさせようが、親不孝にはなりません。そんなことはどうでもいいことなのです。極端なことを言えば、人類が滅ぼうがどうなろうが、仏教的にはどうでもいいことなのですよ。人類が滅ぶ前に、少しでも覚りに近付くことが重要なことなのです。仏教にとって、最重要事項は、個人の覚りなのですよ。ま、ちょっと極端な話ですけどね。どうか、誤解のないようにお願いいたします。
ま、余談はさておき、仏教的な親孝行とは、
「親に直接、恩返しをしなくてもよい。社会に対して恩返しをすればよい」
というものなのです。ならば、最も親孝行な行為と言えば、立派な社会人として働き、たくさん税金を納めればいい、ということになりますな。たくさん税金を納められない方は、少しでも社会貢献をすればよい、ということになります。結婚しようがしまいが、子供を産もうが産ままいが、それは親孝行とは関係のないことなのです。社会人として、独り立ちできることが親孝行なのですな。
ですから、家の中に引きこもって、「働いたら負け」などと嘯き、ニートを決め込んでいる若者が親不孝者だということになります。

親孝行は、決して直接親に返すべき行為でなくてもいいのです。家を絶えさせれば親不孝者というのならば、お釈迦様が最も親不孝者になるでしょう。なんせ、釈迦族は滅んでいますからね。
もし、あなたが親から
「親の恩を忘れたのか。誰がお前をここまで育ててやったんだ。恩返しをしたらどうだ」
と迫れられたなら、
「忘れていませんよ。親の恩はありがたいと思っています。だから、私は社会にその恩をお返しします。お釈迦様もそれが最も親孝行な行為だ、と説いていますから」
と答えればいいのですよ。

親孝行をしろ、と強要されている方は案外多いようです。そんなことを迫る時点で親失格だと私は思うのですが、「恩返ししなきゃ」とけなげに思う方も多いようです。私のように捻れていれば、そんなことで悩むことはないのですが、親の恩というプレッシャーに苦しんでいる方もいるのですよ。でも、そういう方も悩む必要はありません。堂々と胸を張って、
「社会貢献という形で恩返しをしています」
と答えましょう。それが、仏教的親孝行なのですよ。
合掌。


ばっくなんばぁ〜12


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