バックナンバー3・その他の菩薩部




1回目 地蔵菩薩

今回は、お地蔵様です。お地蔵様を知らない方は、まずいないでしょうね。坊主頭に地味な衣装。手には錫杖(しゃくじょう)を持っています。道路の脇や、お寺の門前でもよく見かけますよね。最も、親しみのある仏様でしょう。今更説明の必要も無いように思いますが、そこはそれ・・・・。皆さんが知らないことも有るでしょうからね。ですので、ちょっとマニアックなお話を・・・・。

お地蔵様は、この娑婆世界の菩薩様です。この世界は、お釈迦様の仏国土であり、「娑婆世界」と呼ばれています。お釈迦様が涅槃に入られたので、この娑婆世界には、実在の仏陀はいなくなってしまいました。次にこの世に仏陀が現れるのは、約56億7千万年後です(一説には5億6700万年後)。気の遠くなるような数字ですよね。次の仏陀は、現在は弥勒菩薩と呼ばれている菩薩です。その弥勒菩薩が、約56億7千万年後にこの世に人間の子として生まれ、仏陀になるのです。それまでは、仏陀は現れません。これは、お釈迦様が説かれたことです。

と言うことは、現在は、仏陀のいない時代、無仏の時代です。この時代は、荒れます。よくありません。不安が渦巻き、人々は苦しみ、迷います。その無仏の時代を苦しみながら生きる人々を救う仕事をしているのが、地蔵菩薩・・・・お地蔵さん・・・・・なのです。お地蔵さんは、お釈迦様から直接、その仕事を託されたそうです。
「クシティガルバ(お地蔵様の本名)よ、私が涅槃に入った後、この娑婆世界は、無仏の時代となる。この暗黒の時代を救うのは、お前だよ。お前が中心となって、この世で苦しんでいる人々を救い、幸福へと導くのだ。否、生きている者たちだけではない。地獄や餓鬼、畜生、修羅の世界で苦しんでいる者や、天界の神々をも覚りへと導いてあげるのだ。」
こうして、お地蔵さんは、この世に生きている人々だけでなく、地獄や餓鬼、畜生、修羅の世界を彷徨う魂や、天界の神々をも救うために日夜働いているのです。六道に迷うものを幸福へと導くために働いているんですね。
それがお地蔵様です。

ちなみに、観音様は、この娑婆世界出身の菩薩ではありません。阿弥陀如来の極楽浄土から、お地蔵様を助けるために出張してきているのです。この娑婆世界は、苦しんでいるものがたくさんいます。真理を知らず、無知蒙昧に生きている人々がたくさんいます。お地蔵様は、大忙しです。で、それを見かねた阿弥陀如来が、観音様をこの娑婆世界に派遣したんですね。極楽浄土は、無智な者はもうすでにいません。誰もが、仏法を学んで、正しい生活を送っています。ですので、観音様もヒマなんですね。やることがない。救うべき人がいないんですよ、極楽には。なので、娑婆世界に手伝いにきているわけです。

 
                      

1、地蔵菩薩(座像)      2、地蔵菩薩(立像)     3、地蔵菩薩(曼荼羅上)       4、笠地蔵           

お地蔵様のお姿は、一般的に、図1のような、お坊さんのような姿をしていますね。座っていても、立っていても、一般的には、大変地味です。あまり目立たない格好をしていますよね。たまに、図2のような、色つきのお地蔵さんもいないではないです。うちの寺の地蔵菩薩立像も、木製ですが彩色が施されています。ちょっと、派手ですね。とは言え、観音様などのように、派手派手ではありません。ちょっと色がついている、という程度です。
しかし、本来は、お地蔵様は他の菩薩のように派手なのです。曼荼羅上では、図3のように普通の菩薩形で描かれています。冠も被ってます。髪の毛もあります。衣も派手な色がついています。実は、お経には、お地蔵さんの姿は、そう説かれているんですよ。本来は、派手だったんです。

しかし、お地蔵さんは、この娑婆世界の菩薩です。観音様は、言わば客分ですよね。他の菩薩様も、どちらかというとお客様のようなものです。この世界を救え、と言われたのはお地蔵様です。お前が中心になって救え、と言われたのは、お地蔵様なんですね。だから、お地蔵さまは、裏方に回り、派手な表舞台を観音様などの菩薩様に譲ったんです。裏方の地味な仕事に徹しているんですね。ですから、なるべく目立たないようにしているわけです。

それともう一つ。お地蔵様がお坊さんの姿をしているのは、すべての僧侶の理想像を示すためでもあります。お地蔵さんは、坊さんが目指すべき姿なのです。何の飾りもなく、頭を丸めて、人々を救う仕事に徹する。
その姿は、お坊さんがすべき姿です。なのに、今の坊さんはいけませんね。髪の毛を剃ってない坊さんはいるし、派手な衣装に身を包んでいる坊さんはいるし、高級車を乗り回している坊さんはいるし・・・・・。坊さんの理想像たるお地蔵さんからは、程遠いですよね。残念なことですが・・・。(否、私も反省・・・ですね)。

お地蔵さんが手に持っているものを皆さんは、ご存知でしょうか。
杖を持っているのは、知ってますよね。たいていは、右手に持っています。この杖は錫杖(しゃくじょう)というものです。先っぽに金属製のワッカがいくつかついています。先端は槍状にとんがっています。
この杖は、昔、インドを旅していた人々が持っていた武器の一種です。この杖は、先を振るとジャラジャラ音がします。先っぽについているワッカが揺れて音が出るんですね。そのように作ってあるんです。これは、実は蛇除けなんです。昔のインドでは、旅をするとき、よく毒蛇に出くわしました。旅人は、随分、この毒蛇の被害にあっていました。ところが、毒蛇は、なぜか、このような金属製の音が嫌いなんです(なのだそうです)。で、先に金属の輪がついている杖を振りながら歩いたのです。毒蛇の被害を避けるために。
これが転じて、魔を除ける錫杖となったわけです。お地蔵さんが持っている錫杖は、魔除けの道具なんですよ。

さて、では、左手はどうでしょう。饅頭のようなものを持ってますよね。もちろん、饅頭ではありません。これは、宝珠です。宝珠については、如意輪観音の項でも少し話しました。宝を生み出す珠ですね。このように、お地蔵さんは、人々から魔を取り除き、宝を与えてくれる、という姿をしているんですよ。

お地蔵さんは、あちこちで見かけます。道路わきに立っていたり・・・・。しかし、手を合わすのは、どのお地蔵様でも構わない、と言うわけではありません。道路わきに立っているお地蔵さんは、ほとんどの場合、そこで事故に遭われた方の慰霊のためのお地蔵様です。身内の方、事故に関わった方が手を合わせるのは当然ですが、関係のない方は手を合わせないほうがいいですね。ちなみに、墓地にある無縁仏の碑なども手を合わせるのは、やめておいたほうがいいでしょう。
手を合わせてもいいお地蔵さんは、お寺にあるお地蔵さんです。お寺で祀られているお地蔵さんは手を合わせてお祈りしてもいいものです。余談でしたが・・・・・。

お地蔵さんは、地蔵菩薩、というより、やっぱりお地蔵さんでしょう。昔話の笠地蔵でも親しまれているように、人々の生活の中に溶け込んできました。とても身近な仏様です。
お地蔵様が微笑んでいる姿を見るだけで、嫌なことも、悩み事も忘れてしまえるような、そんな感じですよね。人々にやさしい姿のお地蔵様・・・・。それは、私たちが、忘れてしまった微笑み・・・・なのではないでしょうか。




2回目 文殊菩薩

今回は、文殊菩薩です。文殊菩薩といえば、「三人寄れば文殊の智慧」という諺があるように、「智慧」の仏様として有名ですよね。受験の時期になりますと、文殊菩薩がご本尊のお寺は、試験合格祈願でにぎわいますよね。
智慧の仏様ですから、さぞ優しいお顔・・・・・かと思っていたら、ちょっと違います。文殊菩薩は、どちらかというと、菩薩の中では、キリッとした、やや厳しい感じのする表情で描かれたり、造られたりします。これは、智慧の鋭さ、理知的、といったことを表現するためなのでしょう。

イメージ的に、文殊菩薩、というと優しそうなイメージを思い浮かべませんか。しかし、実際は、顔の表情は、やや厳しい感じですし、右手には剣を持っています。また、通常、獅子(ライオンですね)の上に座っています。これを獅子座(西洋の占いの星座のことじゃないですよ。発音は、ししざ・・・じゃなくて、しっしざ、です。)といいます。
そう、文殊菩薩は、獅子の上に座り(下図1)、右手に剣を持ち(下図4)、左手に経本や経典(巻物)(下図3)を持って、眼光鋭く、キリリとした表情で表現されるのです。以外・・・・な感じがしませんか?。

ところで、智慧の仏様なのに、なぜ、剣を持っているのでしょうか。この剣は、「文殊の利剣」といわれる剣です。この利剣は、世間のあらゆる間違った理論、屁理屈、たわごと、偏見による言論(これを戯論−けろん−といいます)をバッサリと切ってしまうための剣なのです。「文殊の利剣は諸戯を断つ(もんじゅのりけんはしょけをたつ)」と弘法大師も説いています。
つまり、文殊菩薩の智慧は、くだらない理屈や言論をバッサリ切ってしまい、正しい教えを説くための智慧なのです。

屁理屈をこねてなかなか行動に移らない学生や若者、頑固な主張を押し通す御老体、くだらないおしゃべりをピーピーし続けているオバサン方、現実を直視せず感情的な言動を繰り返す方々など、世の中には、筋の通らない言動をする方が多々おりますよね。そういうくだらない言動を文殊菩薩は、バッサリと切ってしまい、正しい言動へと導いてくれるのです。そのような筋の通らない言動で困っている方は、一度、文殊菩薩に祈願するといいかもしれません。
文殊菩薩の剣は、そのための剣なのです。



              

1、文殊菩薩         2、五 髻           3、経 典       4、利 剣

次に、左手に持っている経典についてです。その経典は、蓮華の花の上にのっています。つまり、文殊菩薩は直接、経典を持っているわけではなく、左手に持っているのは蓮華であって、その蓮華の上に経典がのっているのです。この経典ですが、図3のように経本の形で描かれるものや、巻物で描かれるものがあります。いずれにせよ、蓮華の上にのっているのは、お経なのです。
これは、文殊菩薩が、すべてのお経の守護仏であることを表しています。文殊菩薩は、お釈迦様のすべての教えを把握している、覚えているのです。すごい記憶力です。八万四千あるといわれている教え(経典)をすべて覚えているのですからね。智慧の仏、といわれる所以ですね。

さて、もう一つ、文殊菩薩の姿には特徴があります。それは髪型です。文殊菩薩は、髪の毛を束ねていますが、その束の数によって、意味が変わってくるのです。通常は、図2のように、髪の毛を5つに束ねています(これを五髻−ごけい−といいます)。まあ、簡単に言えば、髪の毛の饅頭を五つ作っているわけですね。このような文殊菩薩を「五髻文殊(ごけいもんじゅ)」といいます。或いは、その髪の饅頭に合わせて、真言が5文字ですので、「五字文殊」ともいいます。この他に、一髻・六髻・八髻の文殊菩薩があります。やはり、真言がそれぞれ一字・六字・八字となっています。
で、この饅頭が一つの場合を「一髻文殊」もしくは「一字文殊」といいます。この一字文殊菩薩は、お顔が子供っぽく表現されます。いわゆる童形ですね。この場合は剣を持たず、蓮華の上も経典ではなく、宝珠になっています。増益(そうやく)やお産、雨乞い、止雨を祈る時の文殊菩薩といわれています。
六髻文殊または六字文殊は、手に何も持たず、印を結んでいます。滅罪や調伏の祈願の本尊として祀られます。八髻文殊または八字文殊は、右手に剣を持ち、左手には、五鈷を載せた蓮華を持っています。息災、調伏などの本尊として祀られます。この八字文殊菩薩は、星供養護摩でも祀られます。それは、文殊菩薩が諸星・宿曜の仕組みを説いているからです。いわゆる文殊師利宿曜経ですね。なので、星供養護摩にも登場するのですよ。

その他に、年を取ったお坊さんの姿をした文殊菩薩があります。僧形文殊と言われる姿で、戒律の本尊とされたり、食堂の本尊とされたりします。主に天台宗系のお寺で祀られることが多いようですね。

文殊菩薩が登場するお経で有名なお経があります。それは、「唯摩経(ゆいまきょう)」というお経です。これは、唯摩居士という方が病になって、それを文殊菩薩がお釈迦様の代理でお見舞いに行くという設定のお経です。内容は、唯摩居士と文殊菩薩の問答が中心になっています。お釈迦様の説く、「執着心を捨てる、越える」ということはどういうことか、をテーマに話が進んでいるのですが、お釈迦様の高弟が、みんな唯摩居士に論破されてしまい、ただ文殊菩薩のみが渡り合う、というお話になっています。これがなかなか面白いのす。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

もう一つ、文殊菩薩について楽しい話を・・・・。
文殊−もんじゅ−というのは、インドの言葉の音写です。本来の発音は「マンジュー」といった感じですね。文殊菩薩のことを「文殊師利菩薩」とも言いますが、この場合は「マンジューシリー」となります。意味は、「マンジュー」は「やわらかい」、「シリー」は「吉祥」です。
さて、お気づきの方はいらっしゃるでしょうか。それは、「マンジュー」という言葉のことです。これは、実は「饅頭」の語源でもあります。饅頭は、「やわらかいもの」だから「マンジュー」なのです。インドの「マンジュー」そのまんまですね。つまり、「饅頭」と「文殊」は同じ語源なのですよ。片方は「やわらかいもの」だから、文殊さんは「頭が柔らかい、柔らかい智慧を持っている」から、なのです。
ですから、これからは、饅頭をいただく時は、文殊菩薩の智慧をいただく、と思って食べるのもいいんじゃないでしょうか。文殊菩薩の・・・・までとはいかないけれど、智慧がついたり、いいアイディアが浮かぶかも・・・・しれませんからね。

さて、次回は、普賢菩薩ですが、今回お話した文殊菩薩と次回の普賢菩薩は、お釈迦様の両脇を固める菩薩様でもあります。お釈迦様を中心として文殊菩薩と普賢菩薩を合わせて、釈迦三尊ともいいます。お釈迦様の両脇にいらっしゃるのは、文殊菩薩と普賢菩薩、と決まっているんですよ。




3回目 普賢菩薩

今回は、普賢菩薩です。前回の文殊菩薩とあわせて、この普賢菩薩は、お釈迦様の脇侍としても知られています。また、是非は別として、原発の名前としても知られています。
さて、この普賢菩薩ですが、タイプ的に三種類に分かれます。一般的な普賢菩薩と、延命を祈るための普賢菩薩と、密教の普賢菩薩です。このように三種類に分かれるのですが、共通していることもあります。それは、象に乗っているということです。
文殊菩薩は獅子に乗っていましたが、普賢菩薩は象に乗っています。しかも、その象は、インドでは最高の象、伝説の象といわれている、6本の牙を持つ白象です。こういう象に乗っているのが、基本です。
普賢菩薩像を描いたり、造ったりする場合、必ず象の上に乗った姿を描いたり、造ったりします。ただし、象の姿は様々で、言い伝えの通り6本の牙の白象である場合や、単なる白象である場合、或いは、多数の白象に乗っている場合などがあります。しかし、いずれにせよ、普賢菩薩は白象に乗っています。白象に乗った仏様がいましたら、それは普賢菩薩だと思って頂いていいでしょう。

さて、先ほどお話した三種類の普賢菩薩ですが、どこが異なっているのか、順にお話していきます。
*一般的な普賢菩薩。
これは、下の写真の図1,2のようなタイプの普賢菩薩です。
姿としては、白い象に乗り、合掌をしています。これが、最もよく見られる普賢菩薩像です。この場合の普賢菩薩は、慈悲の菩薩としての働きがあります。
文殊菩薩が、理論・智慧を担当しているのに対し、普賢菩薩は慈悲を担当しているのです。これは、文殊菩薩と普賢菩薩で、お釈迦様の徳を表しているのです。つまり、文殊菩薩がお釈迦様の智慧の部分を、普賢菩薩がお釈迦様の慈悲の部分を表しているのです。
特に、平安時代後期になると、普賢菩薩が法華経を信心する女人を守護する菩薩として、女性の間に多くの信仰を集めました。これも、普賢菩薩が慈悲の菩薩である、という点に由来しているのでしょう。

*延命を祈るための普賢菩薩。
これは、どちらかと言うと、後ほどお話する密教の普賢菩薩の性質があります。ですので、密教の普賢菩薩に含んでもいいかと思うのですが、あえて別にしました。それは、延命を祈るための普賢菩薩が、「普賢延命菩薩」として、特別に祀られているからです。
密教では、普賢菩薩には延命の徳があると解釈され、盛んに普賢菩薩の延命法が修法されました。特に、天台密教では盛んだったようです。
この場合の、普賢菩薩の姿は、下図3のように、多臂(たひ−手が多い)像で表現されます。また、足下の象も一匹ではなく、複数で描かれたりします。
延命は、言うまでもなく、長生きを祈ることです。また、病者の延命を祈ることもあります。昔から、誰もが長生きをしたかったのでしょうね。いつの時代になっても、長く生きたいと願うのは、人間の基本的欲求なのですね。
長生きしたい方、普賢菩薩に延命を祈るのもいいかと思いますよ。


               

1、普賢菩薩      2、合掌型       3、普賢延命菩薩      4、金剛サッタ型

*密教の普賢菩薩。
密教では、普賢菩薩は、特別な菩薩として捉えられています。姿としては、図4のように、右手に五鈷杵を持ち、その手を胸の前にあてます。左手は、五鈷鈴と言う仏具を持ち、腰にあてます。これは、密教の教主である大日如来の化身である金剛サッタと同型です。で、普賢金剛サッタ、とも言われています。
密教の修行者は、この普賢菩薩を目指す、というか、普賢菩薩と同等にならねばならない、と言われております。普賢菩薩こそ、修行者の理想の姿であり、修行者は、普賢菩薩の境地に達することを必要とされるのです。
難しいですね。つまり、密教の普賢菩薩は、密教の修行者の象徴でもあるのです。
ですから、私達が特別な修法をする時は、
「普賢行願皆令満足(ふげんぎょうがんかいりょうまんそく)」
と唱えます。普賢菩薩の修行と願いが、すべて満足にできますように、と祈るのですね。そして、我々のこの命を無駄にしないように、仏様の手伝いが少しでもできますように、と誓いを立てるのです。
この誓いを三昧耶戒(さんまやかい)と言い、その誓いの真言が、
「オン サンマヤ サトバン」
なのです。これは、普賢菩薩のご真言と同じなのです。

密教の普賢菩薩は、実は大変厳しい菩薩なのです。魔に惑わされないよう、怠らないよう、命を無駄にしないよう、絶えず慈悲の心を持ち続け、人々を救うことを実践するようにと、説いている菩薩なのです。
私達、密教の僧侶は、この普賢菩薩の誓いを忘れてはならないのです。(よく忘れますが・・・・)。

このように、普賢菩薩は、慈悲に溢れ、延命を願い、人々が修行に目覚めるようにと導いている菩薩なのです。
なお、普賢菩薩は、辰年と巳年生まれの守護佛でもあります。辰・巳生まれの方は、ご真言をお唱えて、お参りするといいですね。真言は、
「オン サンマヤ サトバン」です。

前回言い忘れましたが、文殊菩薩は、卯年生まれの守護佛です。卯年生まれの人は、お参りするといいですね。ご真言は、「オン アラハシャノウ」です。



4回目 弥勒菩薩

今回は、弥勒菩薩です。弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の弥勒菩薩像は、有名ですよね。
岩の上に座っていまして、左足を下にのばし、その左足の上に右足をのせています。で、左手で右足を抑え、右手は親指と薬指で輪を作り、中指を右頬につけています。そう、有名なあの弥勒菩薩像です。あの姿を、半跏思惟(はんかしい)像といいます。
弥勒菩薩の姿といえば、皆さん、この半跏思惟像の弥勒菩薩を思い出されるのではないでしょうか。あまりにも有名で、定着してしまっていますからね。

しかし、本当は、あの姿のほうが特殊なんです。あの半跏思惟像は、弥勒菩薩がちょっと瞑想をしている時の姿であって、人々に見せる姿としては、特殊なんですよ。
基本的な、本来の弥勒菩薩の姿は、下の図のような姿です。このお姿が、一般的な弥勒菩薩ですね。
右手には蓮華に載せた水瓶を持っています。左手は、下図のように施無畏(せむい)印にしているか、もしくは、だらりとひざの上にたらして、地面に指先を触れています(触地印)。
これが、弥勒像の大きな特徴ですね。蓮華の上に水瓶を載せた像があったら、それはおそらく弥勒菩薩像でしょう。
もう一つ特徴といえば、半跏思惟像でもそうですが、弥勒菩薩は、だいたいにおいて、痩せ型に造られたり、描かれたりするようです。華奢な感じがします。
それは、弥勒菩薩が、未来の如来であるから・・・・なのかもしれません。



            

     1、弥勒菩薩              2、水瓶(すいびょう)

弥勒菩薩は、皆さんもご存知かと思いますが、お釈迦様が入滅されて(つまりは肉体の死ですね)、56億7千万年後に、お釈迦様の次の如来として現れる方です。今は、まだ菩薩です。如来ではありません。つまり、仏陀にはなってないのです。今は、菩薩であって、兜率天(とそつてん)という天界で、教えを説いています。
弥勒菩薩は、その名をマイトレーヤ(この名前については後ほどお話します)というのですが、実在の人物と言われております。実際にお釈迦様の弟子だったそうです。しかし、早くに亡くなられたそうで、その時に、お釈迦様から、
「次は、お前が仏陀になる番だよ。」
と告げられたそうです。そして、兜率天に昇り、法を説くこととなったのです。

仏陀としてこの世に現れる前、つまり、菩薩の時代は、過去のどの如来も、兜率天で教えを説く決まりになっています。ですから、お釈迦様も、この世に仏陀として現れる前の生、つまり前世では、菩薩であって、兜率天にて教えを説いていたそうです。
弥勒菩薩は、次に現れる如来−仏陀−です。ですから、菩薩といえども、他の菩薩ほど派手ではありません。そういう理由もあって、やや痩せ型に描いたり、造像したりしたのでしょう。お釈迦様の覚る前、苦行時代を考慮したのかもしれませんね。

さて、弥勒菩薩は、次の如来ということで、多くの信仰を集めました。誰もが、死後、兜率天に昇って、弥勒菩薩の教えを聞くことを望んだのです。その意味では、阿弥陀さんの極楽往生を願う信仰と対を成していた、とも言えます。尤も、極楽往生は、一般市民の間に多く広がりましたが、弥勒信仰は、庶民の間では広がらずに、貴族や僧侶の間でのみの信仰に終わりましたが・・・。
しかし、今でも、高野山では、高野山の僧侶が肉体の死を迎えると、兜率天への転生を祈るという習慣があります。これは、弘法大師が入定された時、
「我は弥勒菩薩を学びに兜率天へ行く。そして、弥勒菩薩が如来となって、この世に現れる時、我も再びこの世に現れよう。」
と言い残されたことによります。ですから、兜率天は、高野山真言宗のお坊さんでいっぱいかもしれませんね。
また、弘法大師そのものを、弥勒菩薩と重ねる、という信仰もあります。ですから、弥勒菩薩の種字(しゅじ。その仏様を現す梵字。イニシャルの梵字)と、弘法大師の種字は、同じ「ユ」の字を使います。
つまり、弘法大師は、弥勒菩薩の化身・・・・・ということですね。

その弥勒菩薩の本名である「マイトレーヤ」という名を、かつて、とんでもない罪を犯した宗教団体の指導者側の者が名乗っていました。これは、大きな罪です。この者はとんでもないバチアタリな者ですね。この「マイトレーヤ」という名を、一体どう思っているのでしょうか。自分が、その名を名乗るのに相応しいと思っていたのでしょうか。こういうものを増上慢というのでしょう。弥勒菩薩の名は、そんなものに利用されていい名前ではありません。
「マイトレーヤ」とは、翻訳しますと、「慈しみの者」と言う意味になります。ですから、弥勒菩薩のことを「慈氏菩薩」ともいいます。弥勒菩薩は、すべての生あるものに対し、慈しみの心で接しているのです。そういう気持ちがなければ、「マイトレーヤ」は名乗ってはいけないのす。その名は、大きな意味を含んでいるのです。

さて、半跏思惟像の弥勒菩薩。一体何を瞑想しているのでしょうか。愚かな衆生を歎いているのか、さてはてどうやって人々を導こうか考えているのか・・・・。
深く、深く、瞑想をしている姿を、あなたはどう思うのでしょうか・・・・・。合掌。



どんな場合でも例外はありますので、その点はご了承ください。合掌。



5回目 虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩という菩薩は、その名の通り、虚空の如く徳の蔵を持つ・・・・という菩薩です。つまり、この菩薩の徳は、虚空の如く広大無辺なのです。なので、その広大無辺の蔵には、様々な徳が詰まっているわけです。

どんな徳があるかといいますと、まずは金運ですね。あとでお話ししますが、虚空蔵菩薩には、金剛界の虚空蔵と胎蔵界の虚空蔵がありまして、その姿は、それぞれ違うのですが、どちらも「宝珠」を持っております。
この「宝珠」は、以前にもお話ししたと思いますが、正式な名前を「如意宝珠」といい、「金銀財宝を意の如く生み出す」というものです。ですから、この虚空蔵菩薩に祈れば、金運は意のまま・・・・のはずです。
金運が欲しい・・・という方は、虚空蔵菩薩に祈るのもいいですね。

もう一つ、大きな徳があります。こっちのほうが有名だと思います。それは、記憶力を得る、ということです。ただの記憶力じゃありません。一度見たものは絶対に忘れない、という記憶力です。
たとえば、本を読みます。参考書でもいい。それを一度読んだだけで、全部記憶してしまう、というすばらしい記憶力が身につくんです。すごいでしょ。この記憶力が身につけば、受験なんてなんでもない。どんな試験でもヘノカッパですね。
で、その記憶力を手に入れる方法ですが(気になるでしょ。聞きたいでしょ。)、それは「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう−略して求聞持法)」といわれるものです。聞いたことがあるのではないでしょうか。
この法は、虚空蔵菩薩の御真言(求聞持法用の真言)を百万遍唱える、という方法です。
百万遍・・・と一口に言いますが、これ大変です。しかも、何日もかけてだらだらと唱えるのではありません。決まりがあります。
全部は教えられませんので(秘法なので)、簡単に紹介しましょう。
期間は、50日間かもしくは100日間です。この間で百万遍となえるのです。50日だと一日2万回、100日だと1万回ですね。
最終日は、必ず満月の日、新月の日でないといけません(月蝕、日蝕のある日がベスト)。また、明星(金星ですね)が輝いていないといけません。
ほかにも細かい決まりがあるのですが、それは省略します。
金星は、虚空蔵菩薩そのもの、といわれております。ですので、求聞持法は、金星が見えないとだめなんです。
どうですか?。あなたも挑戦してみますか?
ただし、一回の求聞持法で成功するとは限りません。何回かかるかはわからないのです。成功したかどうかは、その兆しがあります。まあ、奇跡みたいなことがあるんですね。
ちなみに、弘法大師空海さんは、この求聞持法を何度か行っています。で、明星が口の中に飛び込む・・・という体験をしています。そのとたん・・・・。虚空蔵菩薩の智慧が身につくんですね。
世に求聞持法を行ったことがある・・・というお坊さんは、何人かいらっしゃいます。しかし、成功したかどうかは知りません。もし、成功していたなら、偉大なお坊さんになっているでしょうね。

            

   1、虚空蔵菩薩(胎)         2、虚空蔵菩薩(金)       3、求聞持法の虚空蔵菩薩

さて、虚空蔵菩薩のお姿ですが、三種類にわかれます。図がわかりにくくて申し訳ないのですが、図1から説明しましょう。
図1は、胎蔵界の虚空蔵菩薩です。右手に剣を持っています。その剣には火焔が取り巻いております。左手は、宝珠を乗せた蓮華を持っています。
図2は、金剛界の虚空蔵菩薩です。右手は指を伸ばし手のひらを見せる与願印。左手には、宝珠を載せてます。
図3は、求聞持法の虚空蔵菩薩です。右手は、図2と同じく与願印です。左手は、図1と同じく宝珠を載せた蓮華を持っています。

各姿に共通しているのは、宝珠を必ず持っている、ということと、冠にあります。
虚空蔵菩薩は、かならず五智宝冠(ごちほうかん)という冠をかぶっています。この冠には、それぞれの曼荼羅の(金剛界、胎蔵界)中央に鎮座する五如来が施されています。冠の正面が曼荼羅の中央の如来になっているんです。これは、虚空蔵菩薩が、その五如来の智慧を持っているということを表現しているのです。

虚空蔵菩薩には、五大虚空蔵菩薩というものがあります。これは、金剛界の五如来が虚空蔵菩薩に変化した姿です。金剛界曼荼羅の五如来の智慧をわかりやすく、虚空蔵菩薩の姿で示しているんですね。親しみやすくしたわけです。
ですので、虚空蔵菩薩は、もともと如来、それも曼荼羅の中心である大日如来と密接な関係にあるわけなのです。ですので、虚空蔵菩薩は、かならず五如来の姿がある五智宝冠を被っているのです。
なお、五大虚空蔵菩薩は、国家安泰、天変地異の消除の祈願をするために祀られたののです。

このように、虚空蔵菩薩は、大変現実的な菩薩です。現実的なご利益を与える、という菩薩です。そういう意味では、今の世の中にあっているのではないでしょうか。
ちなみに、虚空蔵菩薩は、丑年・寅年生まれの方のご本尊です。私は丑年なので、虚空蔵菩薩が守り本尊です。そのせいなのか、私も現実主義者・・・なんですよ。合掌。



6回目 勢至菩薩

勢至菩薩さんは、阿弥陀さんと観音さんと一緒に、阿弥陀三尊として祀られたり、像が作られたり、絵が描かれたりすることが多く、勢至菩薩のみで祀られたりすることは大変少ないです。
勢至菩薩がご本尊、というお寺さんは、まずないでしょう。それほど地味な菩薩様なのです。
これといって特徴もあまりないんです。ですが、午年生まれの守り本尊でもあります。であるにもかかわらず、図像も少なく、その働きについての記述も少ないんですよ。ごく一部の経典に登場する程度なんですね。

一応、その像の特徴を述べておきます。
右手は印を結んでいます。ちょっとわかりにくいですが、下の図1,2を参照してください。たいていは、右手の親指と薬指か中指で輪を作って正面に向けています。または、人差し指を伸ばし、胸の前で仰向きにしています。
左手は、蓮華を持っています。これは、開いた蓮華の場合と、まだ開いていない蓮華の場合があります。
ぱっと見たところ、きっと観音さんと間違えることでしょう。
まあ、しかし、先ほども書いたように、勢至菩薩のみで、描かれたり、像にされたりすることは、「ない」ので、見間違えることはないと思います。単独の勢至菩薩は、まず「ない」のですから。


              

   1、勢至菩薩像         2、勢至菩薩像       3、阿弥陀聖衆来迎図の一部

図3は、阿弥陀聖衆来迎図という大きな掛け軸の一部です。この図は、人々が臨終を迎えるとき、阿弥陀如来の名を唱えれば、極楽浄土から阿弥陀如来が多くの菩薩や天人を伴って迎えに来てくれる、という教えが描かれています。阿弥陀如来を中心に、向かって右に蓮台をもった観音様、左に合掌する勢至菩薩、背後にその他の菩薩、天人を描いています。
ここでの勢至菩薩は、合掌の姿をしています。阿弥陀さんと観音さんと一緒の阿弥陀三尊の場合は、勢至菩薩は合掌の姿をしている場合が一般的ですね。

勢至菩薩は、大勢至菩薩・得大勢至菩薩とも呼ばれています。一般的には、冒頭に書いたように阿弥陀三尊として祀られることが多いですね。密教では、胎蔵界曼荼羅の観音様の場所に入っています。
密教では、勢至菩薩は観音様の大悲の力によって、衆生に菩提心の種を与える、という働きをしている、と説かれています。
つまり、人々の心に、覚りを得たい、幸せになりたい、安定した生活を送りたい、といった気持ちを植えつけるのです。ですから、心がすさんでいる方や、他人に対して優しくなれない方、心貧しき方たちは、この勢至菩薩に祈るといいでしょう。
また、身近な方が、心すさんだ生活をしているようでしたら、勢至菩薩に
「どうか、安定した生活を望む心を持つようにしてください」
と、お願いするといいでしょう。

なお、勢至菩薩に祈るときは、
オン サンザンサク ソワカ
と唱えるといいでしょう。合掌。




7回目 その他の菩薩

今回は、その他の菩薩ということで、あまり有名ではない菩薩様を紹介いたします。初めにお断りしておきますが、今回紹介する菩薩様の資料が、手元にあまりなかったため、写真が見難いです。ご了承ください。

1、日光菩薩・月光菩薩(にっこうぼさつ・がっこうぼさつ)
この菩薩は、薬師如来の両脇侍です。薬師如来とセットで祀られています。単独で祀られることはありません。一般的に薬師如来の向かって右側が日光菩薩、向かって左側が月光菩薩です。
日光菩薩は手のひらに日輪を、月光菩薩は月輪(がちりん)を持っています。或いは、蓮華上に載せた日輪や月輪を持っています。それで、どちらが日光菩薩か月光菩薩かわかるでしょう。
この両菩薩は、薬師如来の両脇に侍って、24時間人々の病が治るように働いている菩薩です。つまり、日光菩薩と月光菩薩で、昼と夜を現しているのです。
薬師如来は、24時間私たちの祈りを聞いてくれているわけです。

2、薬王菩薩・薬上菩薩(やくおうぼさつ、やくじょうぼさつ)
この菩薩も日光・月光菩薩と同様に、薬師如来のもとにいる菩薩、とされていますが、まれに、お釈迦様とともに祀られることもあるようです。
その働きは、薬師如来同様、人々の病を治す菩薩です。
薬王菩薩は、右手に薬草を握り、左手はこぶしを握る印(拳印−けんいん)をしています。薬上菩薩は、薬つぼを持っている場合が多いようです。

3、大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)
平安後期時代の真言宗において、この菩薩の陀羅尼(ダラニ)を唱えることが流行しました。何を祈ったかというと、「無限の罪を消し去る」、「戦乱・兵による火災を鎮める」、「風雨を止める」ということでした。また、「子授け」の働きも伝えられています。
非常に密教的菩薩で、その姿はあまり描かれたり、像に残されたりはしていないです。ただ、この菩薩の陀羅尼を唱えることを重視したようですね。
確かに、無限の罪を消し去る・・・という働きは、魅力的ではありますね。かといって、罪を犯していい、ってことではありませんが。

4、般若菩薩(はんにゃぼさつ)
般若の智慧を象徴する菩薩です。すべての覚りの得ようとするならば、この菩薩を拝むとよいでしょう。なにしろ、如来の究極の智慧を象徴している菩薩ですから。
般若経典の本尊としても祀られます。たとえば、大般若転読(だいはんにゃてんどく)の法会が奉修される場合は、この般若菩薩を祀ったりします。(ただし多くの場合は、お釈迦様を本尊としますが・・・)。
また、不動護摩の場合、5段の護摩のうち、第2段で般若菩薩に祈ります。どんな場合も、如来の智慧の裏付けが必要なのです。
その姿は、通常、六臂(ろっぴ)で、多くは印を結んでいますが、必ず般若経典を持っています。
この菩薩は、智慧の菩薩です。勉強ができる・・・というのではなく、覚りを得るほうの智慧ですね。ですので、覚りを得たい、心の安らぎを得るための智慧が欲しいという方は、この菩薩に祈るのがいいでしょう。


                  
 
1、日光・月光菩薩像          2、般若菩薩像            3、五秘密          

5、持世菩薩(じせぼさつ)
財宝を雨の如く降らし、世間を安堵させて、それを維持する、という働きのある菩薩なので、持世菩薩、という名がついています。尤も一般的には祀られることはありません。

6、転法輪菩薩(てんぽうりんぼさつ)
正式な名前は、纔発心転法輪菩薩(さいはっしんてんぼうりんぼさつ)といいます。極めて密教的な菩薩です。法を説くことにより、人々に菩提心(ぼだいしん−覚りを求める心)を起こさせる菩薩です。弥勒菩薩と同体の菩薩、つまり、弥勒菩薩が変身した姿、と伝えられています。

7、香王菩薩(こうおうぼさつ)
普く人々を自由自在に救う菩薩です。財を増やし、罪を滅する菩薩でもあります。その意味で、観音様とも同体、とされいるようです。姿も似ていて、左手に蓮華を持ち、右手を下の伸べる施無畏印(せむいいん)をしています。まあ、ほとんど観音様ですね。

8、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)
別名、蚕神とも言います。貧困の人々に衣服を与える菩薩としてや、養蚕業の神として祀られることが多かったようです。姿は、馬にまたがり、脇侍を従え、馬の周辺に数名の童子を連れ、雲の上を移動しているという図で表されます。とはいえ、図像などは、ほとんど存在していません。
もとは、中国の神だったようで、それが仏教に取り入れられたもののようです。

9、五秘密(ごひみつ)
金剛薩埀(こんごうさった)を中心に、欲金剛(よくこんごう)、触金剛(しょくこんごう)、愛金剛(あいこんごう)、慢金剛(まんこんごう)の四人の菩薩で現される菩薩です。
その画像も、金剛薩埀を中心に描かれています(図3参照)。
この菩薩は、極めて密教的な菩薩です。人々の断ちがたい煩悩−異性への欲求、異性への接触、異性にたいする愛、そして満足(まあ、異性じゃなくてもいいんですが、ようするに性に対する欲全般ですね)−を超越するために、この五秘密を瞑想するための菩薩です。つまり、密教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」を現しているわけですね。密教経典の「理趣経(りしゅきょう)」そのままの世界を現している、ともいえましょう。
(煩悩即菩提とは、煩悩を消して覚りを得るのではなく、煩悩をそのまま大きなものに昇華して覚りを得る、というものです。難しいですね。まあ、煩悩があっても大丈夫なんですよ、ということなんですよ。)
異性にたいする煩悩が強い方、耐えがたき欲望のある方、性的欲求不満で悶々としている方、五秘密を前に、深い瞑想をするか、理趣経を読み続けるかして、煩悩を昇華させるのがよいのではないでしょうか。

10、五大力菩薩(ごだいりきぼさつ)
この菩薩の画像は、高野山の宝物館である「霊宝館」によく展示されていますので、一度参拝されるといいでしょう。菩薩といっても、明王のように憤怒(怒りの姿)尊で描かれています。
もとは、仁王経(にんのうきょう)に説かれる法を守るための菩薩として祀られます。もとは、憤怒の姿ではなく、一般の菩薩と同様の姿だったようです。
密教では、五大明王(いずれお話します)と関連させたようで、憤怒尊になったとされています。
五大力というくらいですから、5人の菩薩がいます。
東に金剛手(こんごうしゅ)菩薩       南に金剛宝(こんごうほう)菩薩
西に金剛利(こんごうり)菩薩        北に金剛薬叉(こんごうやくしゃ)菩薩
中央に金剛波羅蜜多(こんごうはらみった)菩薩
難しい名前ですよね。私も覚えていません。

まだまだ菩薩はたくさんいらっしゃいますが、これ以上紹介しても、一般的ではないですし(今回の菩薩もあまり一般的ではないですが・・・)、名前だけで詳しい説明がない場合がありますので、省略いたします。
大切なことは、菩薩は、絶えず私たちを助けるために働いている、ということです。
悩み事や困ったこと、願いごとがあったなら、菩薩に祈願してみる、祈ってみるのもいいのではないでしょうか。
合掌。




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