バックナンバー5・天部



1回目 弁財天(弁才天)

今回から、新しく天部に入ります。天部とは、いわゆる神様です。ただし、天部には寿命があります。明王・菩薩・佛は、もう生まれ変わることはなく、永遠の存在となりますが、天部はそうではありません。しかし、神であることは確かですから、人間の及ばない存在であることは間違いがありません。
さて、天部の第一回目は、華やかに弁天様からお話いたしましょう。合掌。

弁天様は、弁財天とも弁才天とも書きます。「財」の字を使った場合は、「金運、財産、商売、事業」の向上を受け持つ神様になります。「才」の字の場合は、「才能、芸能、芸術、智慧、学業」が中心となります。
とはいえ、どちらの弁天様にも、「金運向上、財産倍増、商売繁盛、事業繁栄、才能向上、芸能上達、芸術向上、学業成就」を祈って大丈夫です。なぜなら、才能が発揮されれば、金運も上がってくるでしょうから。
それともう一つ。「美」を祈るのもいいですね。なんせ、弁天様は、世界一、いや、宇宙一、美しいお方なのですから。

弁天様は、弁財天とも弁才天とも書きますが、もとはインドの神様です。仏教とともに、日本に入ってきた神様なんですね。まあ、日本の神様は、外来の神・・・主にインド・・・が多いのですけどね。仏教の神様、いわゆる天部の神は、皆インドがもとです。元々は、インドの神様だったのです。
弁天様も、インドの神で、サラスバティーという河の化身である女神が元なんです。サラスバティーは、人々に五穀や魚などの食料、水、生産や繁栄をもたらす神様です。人は、水がなければ生きてはいけません。また、水があれば、土地は豊かになり、作物ができます。さらに、水に生息する物を食すこともできます。河の周りには人々が住まい、村を形成していきます。こうして、人々は繁栄をしていくのですね。ですから、河から生産と繁栄をもたらす神が生まれたのです。
その神、サラスバティーが、仏陀であるお釈迦様の教えを受け、仏教の神様となっていくのです。仏法を信じる者が、豊かな生活ができるように、すばらしい才能を発揮できるようにしてあげる、という役割を担うようになったのです。こうして、サラスバティーは、弁財天となったのです。


                

1、弁財(才)天          2、八臂弁財(才)天        3、当山の弁財天
弁天様の姿は、図1のように琵琶を抱えて座っている姿で描かれることが多いですね。有名なところでは、江ノ島の裸弁天がそうです。この弁天様は、裸で琵琶を抱えて、横すわりをしています。なかなか色っぽい弁天様です。
しかし、本来の弁天様の姿は、八臂(はっぴ、手が八本ある)で、様々な武器を持っています(図2参照)。中には白蛇を握っている弁天様もあります。(ここから、白蛇は金運の象徴、という言い伝えが生まれたわけです。)。
広島は宮島の弁天様は、この八臂のほうです。八臂の像も座像になっています。つまり、座った姿ですね。他に、立っている弁天様もあります。うちのお寺の弁天様は琵琶を抱えて立っております(図3参照)。これは、遊行の姿をあらわしています。琵琶を弾きながら、自分に成功を願う者を探している・・・・のだそうです。

事業をしている方、商売をしている方、芸能関係の方、仕事に才能が関係している方は、ぜひ弁天様をお参りするといいでしょう。弁天様の信者になるといいですね。弁天様が、「この者は!」と見込んでくれたら、大成功間違いなしです。宇宙一美しい弁天様に惚れられると、大成功は当然ですよ。

特に独身の男性や独身の女性は、弁天さんに祈るといいですよ。結婚しなければ、尚いいですね。一生独身を通したいと思っている男性や女性で、商売や事業をしている方、芸能関係の仕事をしている方は、弁天様は、ピッタリ合っています。(独身を通すのが条件ですが、遊ぶのは自由です。ご自由に遊んでください。)
もっとも、独身でなくても、ご利益を早く欲しいと思う方は、弁天さんは祈願するといいですね。惚れこんで下さい。

しかし、祈り続けなければいけませんよ。これは、天部の神々すべてに通じていえることですが、天部の神は、ご利益を与えてくれるのが結構早いんです。しっかり祈願すれば、ご利益が早くやってくるものです。成功も早いです。
しかし、成功したからといって、祈願を忘れると大変です。元々、神様の力を借りて得た成功です。祈ることを忘れれば、元の木阿弥・・・・。あっという間に成功は、消えていってしまいます。下手をすると、元よりも落ちぶれてしまうことも・・・・。
ですから、天部の神々に祈るときは、気をつけてくださいね。裏切らないように、祈りを忘れないように・・・。

ちなみに、よくカップルで弁天様をお参りすると、弁天様がやきもちを妬いて別れてしまう・・・・という伝説がありますが、これはウソです。だいたい、宇宙一美しい弁天様が、人間にやきもちを妬くわけがないでしょう。あちらから見れば、どんなに美しい女性でも、たかが人間です。妬くようなことはありません。
これは、実は男性側が撒いたウソなんです。弁天様が祀られているところは、離島が多いんです。弁天様には、必ず水が必要です。なので、小さなところでは池がありますし、大きなところは海の中の島になっているんです。
で、そういう離島には、たいていの場合、昔は遊郭がありました。男性が集まりやすい場所ですからね。そうなると、行くのは男性のみ。女性を連れて行くわけには行きません。夫婦やカップルで弁天様参りをするわけにはいかなかったんですね。
で、夫婦やカップルで弁天様をお参りすると別れてしまう・・・という噂を作ったわけです。男の都合による勝手のいい迷信なんですよ。
なので、安心してカップルでお参りに行って下さい。合掌。



2回目 四天王

四天王という天部の神がいるわけではありません。ある四人の天部の神のことをまとめて、四天王というのです。どんな神様かといいますと、持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん、別名・毘沙門天〈びしゃもんてん〉)の四人の天部の神様のことです。
(便宜上、「神様」という言葉を使いますが、仏教の神様は日本の神様とは異なりますので、その点、混同されないようにご注意ください。ここでお話しするのは、あくまでも仏教の神様についてです。)

この四天王、どんな働きをしているのかと申しますと、一言で言えば、ガードマンですね。仏様の住まう場所をガードしているのです。守っているんですよ。ですので、大きなお寺には、必ず四天王が祀られています。お寺のご本尊様を守っているのです。で、一人一人担当する場所があるんです。どの位置を守るか、決まっているんです。
古来より、仏様の住まわれる世界は、人間の世界と同様に、一つの王城のように考えられてきました。仏様の住むところが、中心ですね。周りは頑丈な塀で囲まれています。そして、四方に門があるのです。出入り口ですね。これは、インド古来の王城の造りなのです。
日本でも、中国でも、国家の中心の建物は塀で囲み、四門を造りますね。四方に出入り口を作ります。で、その門にそれぞれ守り神をおきます。中国や日本の場合は、道教の影響で東に蒼竜・南に朱雀・西に白虎・北に玄武を描きますよね。
それと同様に、仏教では、この四門に四天王を配するのです。どの位置にどの神様を配するのか、それぞれお話していきましょう。

1、持国天(じこくてん、図1参照)
この方は、東方を守護しています。本尊様を中心として、東の門のガードマンなのです。たいていは、ヘルメットのような兜を被っています。右手には宝珠を持つことが多く、左手に剣や刀を持つことが多いですね。
多い、と書いたのは、たまに持ち物が変わるからです。まあ、武器を持っていることには変わりはありませんが。このことは、他の四天王にもいえることです。持ち物はしばしば変わりますので、ご注意ください。


              

図1 東・持国天                    図2 南・増長天


               

図3 西・広目天                    図4 北・多聞天

      
2、増長天(ぞうちょうてん、図二参照)
この方は、南を守っています。南門のガードマンですね。兜を被ってはいない場合が多いようです。たいていは、髪の毛を頭上で束ねています。多くの場合、右手に戟や独鈷(とっこ)などの金剛杵を持っています。右手は挙げている場合が多いです。左手は、剣や戟(げき)を握ったり、腰に手を当てたりしています。

3、広目天(こうもくてん、図3参照)
この方は、西を守っています。西門のガードマンですね。この方は、ヘルメット状の兜を被っています。持ち物ですが、この広目天は変わっています。武器を持つタイプと、筆と経文を持つタイプとがあるのです。武器を持つタイプでは、右手に戟やロープ(索−さく)を持ち、左手に剣や戟を持ったりします。筆と経文の場合は、右手に筆を左手に経文を持ち、書写するような格好をしています。

4、多聞天(たもんてん、図4参照)
この方は、北を守っています。北門のガードマンですね。この方は、多聞天というより、毘沙門天といったほうがわかりいいでしょう。四天王の中の多聞天は、毘沙門天と同じなのです。
多聞天は、兜を被っている場合と冠状のものを被っている場合とがあります。持ち物は、右手に多宝塔、左手に戟という場合が多いです。左右が反対の場合もあります。
尚、四天王の中でも、この多聞天だけが、毘沙門天という名称で、単独に祀られたりします。本尊にもなったりするのです。また、七福神にも入ってますよね。このことは、次回に詳しくお話します(ということですので、次回は毘沙門天についてお話したします。)

四天王は、ガードマンですので、どなたも皆怒ったような顔をしています。憤怒尊(ふんぬそん)の形相ですね。ガードマンが優しい顔をしていては、ガードマンの役を果たさないですからね、これは当然といえば当然です。各門にいて、仏様に悪いものが近付かないように見張っているのですから。
また、このような意味合いから、仏教形式での地鎮祭のときには、この四天王の真言を唱え、その土地の四方を守ってもらうようにします。その家に災いが来ないように守護してもらうわけですね。きちんと拝めば、仏様の世界だけではなく、我々の家や土地も守護してもらえるのですよ。
家に災いがあるように思う方は、一度お祓いを受けて、四天王に守護してもらうのもいいかも知れませんね。
合掌。



3回目 毘沙門天

毘沙門天(びしゃもんてん)は、前回お話したように、四天王のうちの一人、北方を守護する多聞天と同一です。四天王として、仏様を守る役目を果たしているときは、多聞天と呼ばれるのが一般的です。毘沙門天と呼ばれるのは、七福神の一人として祀られるときや、単独で祀られるときです。
毘沙門天は、守護役のほかに、福徳富貴をもたらす神という役割も持っています。ですので、いつの時代か、福神ばかりを集めた七福神に入れられたのでしょう。そして、その祀られている状況に応じて、姿形・表情も多少異なってくるのです。

*守護として祀られる場合
四天王のうちの一人として祀られるときは、守護役・・・ガードマン・・・ですから、大変に厳しい顔をしております。一般的に岩の上にしっかりとした足で立つ姿で表現されています。武器も持っていますし、兜も被っていることが多いです。いかにも、悪は通さないぞ、といった感じを与えます。

*七福神として祀られる場合
この場合の毘沙門天は、大変リラックスした表情で描かれることが多いですね。また、色合いも派手な場合が多いです。七福神の性格上、縁起物として描かれたり表現されたりすることが多いからでしょう。
なぜ、毘沙門天が七福神に取り入れられたかといいますと、毘沙門天に福徳富貴をもたらす働きがあるからでしょう。
どのような福徳をもたらすのかといいますと、それはズバリ財宝です。毘沙門天が手にしています塔は、実は宝を生み出す宝塔なのです。毘沙門天は、宝塔を人々に見せて、この宝塔の中から生み出される財宝を受け取ってくれる者を探しているのだそうです。また、商売や事業をするものをよく守護し、幸運をもたらすという働きもあります。
七福神の毘沙門天は、福神の中にいても、単なる福を授けるだけでなく、礼拝するものを守護する役割もあるのです。


        

毘沙門天と邪鬼(天邪鬼)

*本尊など、単独で祀られる場合
この場合は、また厳しさを増します。姿も守護の場合と同様になりますが、明らかに違うのは、その両足で邪鬼(じゃき・・・天邪鬼)を踏んづけていることです。
邪鬼といいますのは、皆さんもよくご存知の天邪鬼(あまのじゃく)のことです。人の反対ばかりを言う、へそ曲がりの鬼ですね。これを一匹ないしは二匹、踏んづけているんです。
これは当然のことながら、人間の心に巣くう頑固な心、偏屈な心、素直でない心を抑えていることを表しています。ですから、頑固で偏屈で素直になれない方は、毘沙門天に祈願するとよいでしょう。また、周りにへそ曲がりな方がいて悩んでいる方も、毘沙門天に祈願するといいかもしれませんね。そういう人を何とかして下さい・・・と。
また、邪鬼は、邪気でもあります。よこしまな思いを取り除いてくれるだけでなく、邪悪な気・・・つまり病気ですね、それも払い除けるという意味もあります。
さらに、富貴をもたらす働きも、当然のことながらあります。ただ単に、心の邪鬼や邪気(病気)を祓うだけでなく、福徳や財を授けてくれるのです。

つまり、毘沙門天は、礼拝するものをよく守護し、邪気を祓い、正しい心を持つようにし、富貴繁栄を授けてくれる・・・という神様なのです。ですから、戦国時代には毘沙門天を本尊として仰ぐ武将が多くいたのでしょう(代表的な武将に上杉謙信がいますね)。
しかし、初めから財宝を求めて拝むのも、よこしまな心があるようで、素直にはお願いできないですね。まずは、自分の邪気を祓うことを願ってみたほうがいいでしょうね。

ちなみに、毘沙門天には、鞍馬寺で祀られている遠方を見るような姿で表現されている像もあります。また、「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」と呼ばれる異形の毘沙門天もあります。働きは同じですが、より戦闘的に表現されているともいえます。
尚、毘沙門天には部下がいます。その部下は、「五太子」と称する五人の部下であったり、「八大薬叉大将(はちだいやくしゃたいしょう)」と呼ばれる八人の諸大将であったりします。いずれも毘沙門天の手先となって働きます。ご参考までに。
合掌。



4回目 吉祥天

吉祥天(きっしょうてん)は、女性の神です。名前の如く、吉祥を与える女神ですね。仏教では天女といいます。元は、古代インドの神様でした。それが仏教に取り入れられて、吉祥を与える神となったのです。

吉祥天は、古くから幸運の女神として、日本でも多く祀られました。その姿は、中国の唐代の貴婦人の姿を模倣して表現されています。その衣装は見るからに、楊貴妃を思い起こさせるように見えますよね。

ただし、吉祥天の像には、決まりがあります。それは、左手に宝珠を必ず持っていること、です。これがなければ、いくら唐代の貴婦人の姿をしていても、吉祥天とはいえません。宝珠を左手に持つことで、吉祥天は、吉祥天となっているのです。
なぜなら、この宝珠は、あらゆる吉祥を生み出す珠だからなのです。これがなければ、吉祥天は、吉祥をもたらす女神として、働けなくなってしまいます。
なお、右手は、多くの場合、手のひらを見せ、前にだらりと出す与願印(よがんいん)か、胸の前で手のひらを見せる施無畏印(せむいいん)にしています。
いずれにしても、中国風の衣装に身を包み、左手に宝珠を持っていたらならば、それは吉祥天です。見分けは非常に簡単ですね。

吉祥天に似た天女で、宝蔵天女(ほうぞうてんにょ)という天女がいます。この天女も左手に宝珠を持っていますが、右手と衣装が異なります。
この天女は、右手を何かをつまむような印をしています。また、衣装は中国風ではなく、平安朝の女性の衣装を身につけています。
とはいえ、この天女も吉祥天の変化した姿ではあります。つまりは、同じ、ですね。名前が少々変わっただけです。

また、中国風の衣装に身を包み、花を持った鉢を持つ姿で描かれる天女もありますが、この天女は、功徳天(くどくてん)と呼ばれています。この天女も、吉祥天の変化した姿です。


          

吉祥天

さて、これは俗説なのですが・・・といってもある経典には説かれていることなのですが・・・・、吉祥天は、毘沙門天の奥さんである、のだそうです。そしてまた、弁財天の姉である、のだそうです。
如来や菩薩、明王は妻や夫を持つことはありません。なぜなら、如来も菩薩も明王も、性を超えた存在だからです。妻とか夫とか、恋愛とか、男とか女とか、そうした俗世間のことは、超越してしまっているのです。ですから、結婚などということとは、一切関係ありません。
ところが、天部の神々はそうではないのです。天部といえども、輪廻の世界の一員です。まだまだ、欲はあります。特に、天部でも欲界に属する天部は、人間と似たようなものです。ただ、人間より仏法を重んじ、その教えを理解しようとし、また、仏教の信者を守護する、という役目を持っているだけのことです。また、神通力が使えるというだけのことですね。

ですから、天部の神々は結婚をします。性的な欲求も行動もあります。
たとえば、弁財天は、自由に男性と付き合います。弁財天は結婚をしてません。フリーです。ですから、自分が気に入った人間の男性を応援し、成功させ、死後、弁財天界へ迎えたりします。あるいは、他の神々とも自由に遊んでいるかもしれません。一説には、梵天と夫婦関係があったとか・・・。(離婚の理由はなんだったのでしょうか?)。

吉祥天の場合は、毘沙門天の奥さんなのです。この二人は、夫婦仲は良いようです。毘沙門天が浮気した・・・などという話は一つもありませんし、吉祥天がやきもちを妬いた、よその神と遊んだ、などという話もありません。
実は、吉祥天は、女性の望むすべての幸福を手にいれた天女でもあるのです。よき夫とともに、人々から崇められる女性・・・。人間の女性の憧れでもあったわけです。
また、男性にとっては、幸運をもたらす女神であるわけですから、誰もがそのような女性を望んだことでしょう。
こうした背景もあって、吉祥天信仰は盛んになったのでしょう。

素晴らしき夫、幸運な人生を望む独身女性は、ぜひ吉祥天をお参りするといいでしょうね。また、幸運を与えてくれる女性とめぐり合いたい、という独身男性も吉祥天をお参りするといいでしょう。
いやいや、独身者だけではありません。既婚者だって、夫婦仲が良くなるよう、幸運な家族であるように、吉祥天に願うのもいいでしょう。
吉祥天が手にした宝珠から、幸運を与えてください・・・と。
合掌。



5回目 帝釈天

帝釈天といえば、皆さんよ〜くご存知の葛飾柴又の帝釈天ですよね。寅さんで有名です。しかし、名前は知っていても、姿形や、どんな方なのかは、あまりご存知ではないのではないでしょうか。

帝釈天は、天部の神々の中では王様的存在です。元は、ヒンドゥーの中心的な神である「インドラ神」です。つまり、仏教の神ではないのです。他宗教の神が、仏陀であるお釈迦様に帰依したのです。仏陀は、当時のインドではすべての宗教に共通した聖者ですから、他の宗教の神が仏陀であるお釈迦様に従うのは、不思議なことではありません。同様に、元々は、インドの庶民の宗教の神だったのが、仏教に取り入れられてしまった・・・・ということは、よくあります。帝釈天は、その代表ですね。ですので、帝釈天は、ヒンドゥーの「インドラ神」の名残で、別名を因陀羅神(いんだらしん)とも呼ばれたりします。
ちなみに、中国や日本では天帝(てんてい)とも呼ばれています。これは、道教の神の影響もあるのでしょう。または、雷を自由に操るため、雷霆神(らいていしん)とも呼ばれたりもします。

さて、帝釈天の住まいですが、天界の「刀利天(とうりてん)」というところの中心にあります。「刀利天」というのは、天界の中では下から2番目に当たります。一番下が、四天王が住む下天(げてん)です。刀利天はその上ですね。その上に、4つの天界があり、さらにその上に17の天界があり、さらにその上に別の天界があります。ですから、刀利天は、下のほうであって、人間界に大変近い存在でもあります。とはいえ、寿命は3600万年あります。神様ですから、当然ですよね。
で、その刀利天には、33の世界があります。簡単に言えば、33カ国ある、と思ってください。帝釈天は、その33カ国の中心の国の王なのです。つまり、刀利天という世界の王様であり、配下に32の国々がある、のです。

帝釈天は、天界に君臨する王なのでそのエピソードも王様らしいものが多いようです。多くは、仏教を信じ、戒律を守っている修行者をいろんな方法で誘惑し、その修行者の心が堅固であるかどうかを試す・・・・というものです。帝釈天がテストをするのですね。で、そのテストに合格すれば、その修行者を褒め称え、天界に帰っていきます。もし、テストに不合格なら・・・。帝釈天は、怒りの雷(いかずち)を落としたりします。しかし、ご安心ください。びっくりさせるだけで、命までは奪いません。で、そのあとで、お釈迦様の元へその修行者を連れて行き、教え諭すのです。その後、帝釈天は、その者が二度と誘惑に負けないよう、守護をするようになってくれるのです。
と、まあ、このようなエピソードが多いのですが、とんでもない話もあるのです。いかにも、天界の王様らしいというか、いいのかそれで、というか・・・。そんな話を紹介致しましょう。


                     

帝釈天

最も有名な話は、阿修羅(あしゅら)との戦いでしょう。ある日のこと、帝釈天は刀利天を散策していました。すると、きれいな女神がいるではありませんか。帝釈天はその女神をナンパします。ところが、その女神、断るんですね。実は、その女神は、密かに帝釈天を好いていたのですが、できればナンパではなく、正式に交際を申し込んで欲しかったのです。なので、その場は断って、後日、自分の親を通して、交際しましょう・・・と帝釈天に告げたのです。ところが、帝釈天は王の中の王ですから、それが気に入らないのです。
「何が後日、親を通してだ!、今すぐわが城に来い。」
といって、さらっていってしまいます。誘拐ですね。で、自分の妻にしてしまうのです。
これを知ったその女神の親は当然怒ります。その親が、実は阿修羅なのです。阿修羅は、帝釈天に歯向かっていきます。戦いを挑むのですね。ところが、全く歯が立ちません。何度、戦いを挑んでも簡単に負けてしまいます。それでも阿修羅は、何度も何度も、しつこくしつこく、帝釈天に向かっていきます。わが娘を返せ!と。
しかし、実のところ、阿修羅も娘を帝釈天の嫁にしたいと以前から思っていたのです。ただ、誘拐という形じゃなく、正式に嫁入りさせたかったのですね。それで、怒りが収まらなくなっていたのです。誇りが傷ついた、といったところでしょう。
ところが、父親の怒りをよそに、娘の女神は、もうすっかり帝釈天の恋女房となっていたのです。二人は大変仲の良い夫婦になっていたのです。いつまでも怒っているのは父親の阿修羅だけ。夫婦とは認めない!と叫んでいるのは阿修羅だけでした。
そのために、阿修羅は天界を追われ、修羅界という怒りの世界を作ってしまうことになったのです。
ま、帝釈天も良くないところはありますが、いつまでも怒り続けるというのも良くないですね、というお話なのです。

このように、帝釈天は、しばしば問題を引き起こしていたようです。特に女性問題は多かったようです。一度は、あまりにも酒色に溺れていたので、罰があたって、身体に千もの女陰が刻まれてしまったそうです。そのショックで帝釈天は反省をし、修行をして、その女陰を神の眼に変えたそうです。修行すれば覚りをも得られるくらいの才能はあるのですが、どうも帝釈天は神の王という立場が好きなようですね。欲が捨てきれないのでしょう。
他にも、修行者を試すのは、実は自分の神々の王の座を、その修行者に奪われるのではないか、と心配だからわざと誘惑して堕落させるのだ、とも言われています。こうしてみると、帝釈天って、すごく人間に近いですよね。人間以上にわがままかもしれません。

しかし、ちゃんと天界の王たる働きはしているのですよ。特に修行者には厳しく、修行を怠けているお坊さんには、怒りの雷を落としたりします。また、帝釈天を拝むものには、その者が真面目に努力するならば、その力を貸してあげよう、とも言っているのです。仏法をよく学ぶもの、実践するものに対しては、大変心強い神でもあるのです。

なお、帝釈天の姿は、多くはちょっと威張った感じで表現される場合が多いようです。いかにも国王、と言った感じですね。密教系の図像では、3本牙の白象に乗っている場合が多いようです。また、手には金剛杵(多くは独鈷、たまに三鈷)を持っています。合掌。



6回目 閻魔天

今回は、閻魔様です。閻魔(えんま)様は、実は天界の神だったのです。この世で罪を犯したものを裁くエンマ大王として知られていますが、それはある一面だけなのですよ。本当の閻魔様は、あんな怖い方じゃないんですよ。

閻魔様といえば、死者の生前の悪い行いを浄玻璃の鏡に映して死者を裁く・・・・ということで有名ですよね。恐ろしい顔をして、死者を威圧します。(下図、閻魔天A参照)
「うそをつくと舌を抜くぞ〜。」
というのが、閻魔様の有名なセリフです。みなさん、よくご存知ではないでしょうか。
しかし、本当の閻魔様は、実は下図、閻魔天@のほうなのです。Aは、仕事の顔であって、本当の顔は、@なのですよ。

閻魔様は、本名を「ヤマ」といいます。ヤマは、人間の死者第1号なのです。つまり、この地球上で初めて死んだ人間は、ヤマ・・・閻魔様・・・だったのです。
ヤマは、あの世の旅にでます。暗い道をひたすら歩んでいくんですね。すると、素晴らしい世界にたどり着きます。緑にあふれ、水は美しく、鳥はさえずり、果物がなり、暑くもなく寒くもなく、とても快適な世界・・・・楽園・・・・にたどり着くのです。
そこは、仏様や菩薩の住まう場所でした。仏様は、
「ついに人間がこの地にやってきた。ヤマよ、この地を汝にゆずろう。ここを人間の死者の楽園とするがよい。」
といわれ、その地をヤマにゆずってどこかへ旅立っていってしまいます。
こうして楽園を手に入れたヤマは、現世から楽園まで、死者がたどる道を造ります。そのおかげで、死者はヤマの楽園に次から次へとやってくるようになったのです。やがて、楽園は、ヤマ天と呼ばれるようになり、ヤマを中心に一つの世界を創り出していったのです。そして、そこに住まう死者を神と呼ぶようになったのです。ですので、ヤマは、人間から神になった第1号でもあるわけです。
その時のヤマの顔、つまり閻魔様の顔は、下図@の顔なのですよ。


        

閻魔天@                          閻魔天A     
 
当初は、人間の死者が次々とヤマ天にきてもよかったのです。ヤマ天にも現世にも悪者はいませんでしたから。ところが、現世に悪者が生まれてくるようになると、当然、その悪者が死ぬと、ヤマ天にも悪者もやってくるようになります。人間の死者が行くところは、ヤマ天以外になかったのですから。
悪者達は、ヤマ天をのっとろうとしました。ヤマを始め、初期の死者がそのヤマ天を取り仕切っていたのが気に入らなかったのです。これに対し、ヤマを中心にその世界を仕切っていたものたちは、悪者を住まわせる場所を創りました。それが地獄です。
ところが、困った問題が起こりました。その死者が悪者かどうか誰が判断するのか、ヤマ天へ来てもよいのか、地獄なのかを誰が振り分けるのか、という問題です。つまり、裁判官をだれが受け持つのか、ということなのです。
ヤマ天にいた、ヤマ以外のものは、
「それはヤマがやるべきだ」
という意見でまとまりました。人の良いヤマは、
「わかりました、引き受けましょう。」
といって、死者を裁く役目を担ったのです。

当初は、ヤマ天か地獄か、しかありませんでした。しかも、地獄もただ単に暗い不便な場所、というだけでした。しかし、死者はいろいろな者がやってきます。そこで、ヤマは、初期の良い死者と力をあわせ、仏様たちの智慧を借り、地獄も罰則を与える場所に変更し、また、死者の罪や徳によって、行くべきところをいろいろ創り出したのです。
それが六道の世界・・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・・・・なのです。
こうして様々な死者に対応していろいろな世界を作り出したのはいいのですが、どの死者をどこへ入れるか、判断に困ってしまいます。死者もウソをつきますし、到底ヤマ一人では判断できません。ということで、裁判を七回行うことにしました。しかも、死者の巧みなウソに対して、優しい顔をしていてはいけないということになり、怖い顔をするようになったのです。さらにいろいろなアイテムも使うようになりました。(図A。裁判の様子では浄玻璃の鏡も見える。)
こうして、死者の裁判制度が確立しました。

閻魔様は、「怖い顔をしてる」、「地獄の番人」、「恐ろしい裁判官」などと思われがちですが、実際は、優しい人なのです。人がいいものだから、自分の天界であるヤマ天に君臨せず、裁判官の役を押しつけられ、おまけにせっせと死者の行く場所を創り、働いてばかりです。同じ天界の住人である帝釈天とは、働きが違いますよね。貧乏くじを引かされているようで、どこか哀れな感じもします。
閻魔様の世界であるヤマ天(夜摩天)だって、場所的には四天王がいる下天や、帝釈天などがいる刀利天よりも上の世界です。弥勒菩薩のいる兜卒天の下です。ですから、帝釈天よりも上役に当たるのです。
しかし・・・・。

なぜか、待遇はよくないんですね。死者の裁判官でも、第5番です。あまり重要そうなポストではない、という印象を受けます。自分より下の世界にいる神々が、結構楽しんでいたり、神々として祀られたりしているのに、閻魔様は人に嫌われ、畏れられる存在です。崇められるような役割ではないですね。
閻魔様は、本当に人がいいのですよ。嫌な役割を引き受けてしまう。神々も嫌がるような仕事を引き受けてしまう。本当にいい人なんですね。
いや、そうでなければ、仏様から楽園は与えてもらえなかったでしょう。いい人だったからこそ、楽園に行き当たることができたのでしょうし、仏様に認められることができたのでしょう。いい人だったからこそ、帝釈天よりも上の楽園である天界をもらったのでしょうね。

閻魔様は、実は怖くはありません。いい人なのです。死者を裁くときの恐ろしい顔は、無理した顔なのです。仕事上、仕方がなく、ああいう顔をしているのです。本当は、実に優しいお顔をしているのですよ。慈愛に満ちたね。
それを知っていれば、あなたが寿命を終え、閻魔様の前に出たとき、
「閻魔様、私は知っているのですよ。閻魔様は慈悲深いお方だということを。お仕事お疲れ様ですね。ご無理をなさらぬようにしてくださいね。」
などと声を掛ければ、きっと、閻魔様の本当の住まいである、仏様から頂いた楽園に行けるかも・・・・知れませんね。
合掌。



7回目 梵天

梵天、あるいは大梵天は、あまり知られているほうではありません。梵天だけで本尊となることはないです。しかし、インドでは、帝釈天とともにメジャーな神様です。インド名を「ブラフマン」といいます。(ちなみに帝釈天は「インドラ」といいます。) 聞いたこと、あるでしょうか?。

インドの神ブラフマンとして崇められていたときも、仏教の天部の中の神として祀られるようになてからも、梵天の働きは、宇宙の創造です。つまり、宇宙を創り続けているのです。
この宇宙は、梵天が創り始めたのだ、とインドの神話では説かれています。なぜ創り始めたか、誰かの命によって創り始めたのかは、わかりません。しかし、梵天は、宇宙を創り始め、今も、宇宙の中心に存在し、宇宙を創り続けているのです。

宇宙の中心と言うと、仏教をよくご存知の方は、大日如来を思い浮かべるのではないでしょうか。大日如来は宇宙の中心である、と説かれた仏教書や解説書がありますからね。
しかし、それはちょっと違います。大日如来は、真理です。真理そのものが大日如来なのです。ですから、宇宙でもあり、宇宙以外でもあるのですよ。
つまり、大日如来は、宇宙の物質や空間ではなくて、宇宙をも含んだ、真理そのものを具現化したもの、なのです。ですから、大日如来には、本来姿形もありません。真理そのものですからね。
梵天は、真理としての宇宙ではなくて、物質的宇宙を創っているのです。宇宙空間や銀河、星、星雲などを作り出しているのですよ。そうした活動は、真理の中、すなわち大日如来の中で行われているのです。
ここが、宇宙を作り出している梵天と大日如来の違いですね。


          

     梵天@                          梵天A     
 
      
さて、本来インドの宗教の神であった梵天が、なぜ仏教に取り入れられたのか。それには、こんなわけがあります。
当時のインドの宗教においても、仏陀は望まれる存在でした。バラモン教やヒンドゥー教を信仰する人々の間でも、仏陀は伝説の聖者であり、その出現は誰もが望んでいたことなのです。それは、神々も同じことでした。神々も仏陀の出現を待っていたのです。
そんな時、お釈迦様が仏陀となられました。覚りを得たのですね。神々は喜びました。
「仏陀が出現した。安楽を得られる教えを聞くことができる。この上ない教えが聞けるのだ。」
と。
ところが、仏陀であるお釈迦様は
「私が得たこの真理は、とても難しく、深いものであるから、きっと誰も理解できないであろう。神々であっても、理解はできないであろう。」
と考え、教えを説こうとはしなかったのです。自分ひとりで覚りの喜びに浸っていたのです。
それでは、困るんですね、神々も人々も。そこで、神々を代表して、梵天がお釈迦様に教えを説くようにお願いに行くのです。
「お釈迦様、どうか教えをお説きください。」
と。ところが、お釈迦様、
「ブラフマン、私の教えは誰にも理解されないであろう。それを説けば、教えを受けたものの中に迷いが生じるだけだ。だから、教えを説くことはできない。」
といって、断るのです。それで簡単に引き下がる梵天ではありません。なにせ、神々の代表としてお釈迦様にお願いに来ているのですから、ただじゃあ帰れませんよね。で、しつこく食い下がります。その結果、お釈迦様は真理の教えを説くことを約束したのです。
ということは、今、我々が仏教を学べるのは、梵天のおかげなのですよ。梵天が、必死にお釈迦様に法を説くように頼んだからこそ、我々は仏教を知ることができるのです。
こうしたことから、梵天は仏教の神として祀られるようになったのです。

梵天は、今もなお宇宙を創り続けています。その姿は、上の写真のようです。顔は四つ、手も四つ。優しい顔をしています。また、なぜだかわかりませんが、4匹のガチョウに乗っています。このガチョウに乗って、宇宙空間を自由に行き来しているのだそうです。
空を見上げたとき、その中心に梵天は存在しているのです。じーっと空を見ていたら、ひょっとしたら、梵天が見えるかも知れませんね。ガチョウに乗った梵天様が・・・・。
合掌。



8回目 火天と水天

今回は、火天と水天についてお話しいたします。

<火天>
「かてん」と読みます。読んで字のごとく、火の神です。それ以外の何者でもありません。火の神ですが、仏教ではあまり「神」とは言いません。「天」といいます。ですので、「火天」となるのです。
姿は、ちょっと貧乏くさい老人の姿で表現されています。水牛の上に座っている姿で描かれることが多いです。手は二本の場合と4本の場合があります。四火臂像では、胸前の右手に火を表す三角形のものを持ち、もう一つの右手は念珠を持っています。
ひざ前の左手は瓶を持ち、もう一本の左手は、杖を持っています。この杖は、仙人の杖で、修行者の姿を表現しています。
身体の色は赤色で、髪の毛は白になっています。ご老体ですね。

火天は、災害除けを祈念される神ですが、単独ではあまり祀られることは少ないです。しかし、我々真言僧は、よく火天のお世話になってます。
というのは、不動護摩など、護摩法を修するとき、必ず火天を祀るのです。まず、火天に願うのです。なんといっても火の神ですからね。無視はできません。
もちろん、メインは不動明王ですが(不動明王護摩の場合)、護摩法は仏の智慧の火を操る作法ですから、火天の力も必要なのです。
なので、火天は、一般的にはあまり表に出てきませんが、護摩祈願をされた方は、必ずお世話になっているのですよ。


              

     火天                          水天     
 
<水天>
「すいてん」と読みますが、いわゆる水神です。日本的呼び方をすれば、水神になるだけです。元は水天です。もともと、インドの古い神で、夜の神として祀られていたようです。後に水の神として祀られるようになり「水天」となったのです。

水の神でありますから、竜神を操ります。竜神の主でもあるのです。ですから姿は、頭に蛇(小型の竜)を載せています。また、左手には竜でできた紐(竜の姿をしたロープ)を握っています。右手は水の鋭さを表している剣を持っています。また、多くの場合、亀に乗っています。

水天は、水神でもありますから、古来より水辺で祀られることが多いですね。今でも、川や海などに「水神さん」として祠があることが多く見られます。水の氾濫や水運の安全を祈願したわけです。
また、水の神であるところから、雨乞いの本尊としても祀られることがあります。

水辺の神といえば、弁財天が思い浮かびますが、弁財天は水がもたらす利益を司る神です。つまり、現実の利益、商売繁盛、五穀豊穣などの祈願の対象となりますが、水天はそうではありません。水天は、水そのものを司る神なのです。つまり、水の流れや水流の多い少ない、雨の降る降らない、そうした水そのものに関ることを担当しています。水辺に祀られる神様でも、それぞれ担当があるんですよ。


仏教では世界を構成する要素として、地・水・火・風(ち・すい・か・ふう)をあげています(これを四大−しだい−といいます。)。世界のすべての物質、もちろん肉体も、すべてこの四大でできあがっていると考えています。
自然はわかりますよね。地があり、水があり、火があり、風があります。では、肉体はどうでしょうか。地というのは、肉体そのもののことです。水は血や水分・体液などのことです。火は身体の熱のことですね。風は呼吸のことです。身体の場合、この四大に、空(身体の空洞のこと)と識(しき、意識のこと)を加えて六大とします。(密教では、すべてが六大で構成されている、と考えます。つまり、すべての存在に四大だけではく空も識もある、ととらえます。)

で、この四大にはそれぞれ神が存在しているとしています。地には地天(ぢてん)、水には水天、火には火天、風には風天(ふうてん、有名ですね)というように。(空と識には神は存在しません。物質的なものではないからです。)
自然にそれぞれ神の存在を認識していたわけです。そうして、古来の人々は、自然を畏れ、大切にしてきたのでしょう。現代人も、そのことを忘れないで、自然に神の存在を感じてほしいですね。



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