バックナンバー9・高僧部

1、インド高僧編

達磨大師など

インドの高僧編といいましても、なかなか図像として残っている方は多くはありません。また、宗派の流祖として登場してくるインドの高僧もいらっしゃるので、そういう方はその宗派についての項目で紹介することにします。ですので、ここでは本当に有名なインドの高僧のみを紹介しておきます。

*達磨大師(だるまだいし)
インドの高僧で有名なのはダルマさんでしょう。そう、あの「達磨さんが転んだ」のダルマさん、「達磨さんにらめっこしましょ」のダルマさんです。あのダルマさんは、インドの高僧だったのです。
ダルマさん。名前は「ボディーダルマ」といいます。中国や日本では「菩提達磨(ぼだいだるま)」と音写して呼びます。名前自体、仏教語です。意味は、「ボディー(菩提)」は「覚り」、「ダルマ(達磨)」は「法」です。なので、彼の名前そのものが「覚りに至る法(覚りに至る教え)」という意味になります。
ダルマさんは、南インドのある国の国王の第三王子として生まれます。その後、仏法に目覚め、修行し、言葉では伝わらない部分の教えを覚ります(難しい言葉で言うと、「教外別伝(きょうげべつでん・・・教えのほかに伝えるものがある)」、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」というもの)。
インドから中国は北魏に入り、武帝に教えを説きます。後、あのカンフーで有名な「少林寺」に滞在し、一人坐禅を組み、真の覚りを得たのです。これが、禅の始まりです。
ダルマさんが覚った禅の境地は、少林寺で受け継がれ、中国全土に広まり、やがて中国から日本へと伝わります。なので、禅の開祖はダルマさんなのです。

さて、武帝に面会したとき、ダルマさんは武帝から
「仏法とはなんぞや」
と尋ねられます。仏教がよくわからないから教えてくれ、ということだったのです。ダルマさんは、即座に
「善いことをして、悪いことをしない。それが仏法だ。」
と答えます。その答えに武帝は
「そんなことは三才児でも知っておるわい!。」
と怒りますが、ダルマさん、涼しい顔をして答えます。
「だけど、できませんよねぇ・・・。」
と。知ってはいるが実行できないんじゃ意味がありませんよ、ということですね。
このエピソードを一言にまとめたのが、
「諸善奉行 諸悪莫作(しょぜんぶぎょう しょあくまくさ)」
といいます。善いことをして、悪いことをしない・・・。これは仏教の基本です。それを説いたのですね。
(この言葉は、よく禅語として掛け軸などになっています。禅僧が好んで書く文章ですので、どこかで見かけるかも知れませんよ)。

もう一つダルマさんで有名なエピソードを。
それはなんといっても「面壁九年(めんぺきくねん)」でしょう。少林寺にある山の洞窟の中、九年間坐禅をし続けた、という話です。そのために手も足もなくなってしまった・・・という伝説が生まれ、ここからあの七転八起の縁起物、目を入れる「ダルマ人形」が生まれたのです。これが生まれたのは、江戸中期のことです。なお、このダルマ人形があるのは日本だけです。ちなみに、私はあのダルマ人形が嫌いです。どうも達磨大師をおもちゃにしているようで・・・。ダルマさんの説いたこと、禅の姿、そうしたものが、なんだか卑下されているようで・・・。しかも、禅寺でそれを売るのはねぇ・・・。ちょっと、わかりませんねぇ・・・・。
なお、禅宗では、達磨大師の図像をよく書きます。特に室町以降、水墨画で達磨さんを描くことが流行します。下の図もそうしたものです(現代版ですが)。禅は、絵や書にもその精神が表れます。あるいは、庭でも表現できます。言葉以外のもので禅の教えを伝えるのが禅なのですよ。

意外と身近にいるダルマさんですが、本当は禅の開祖であり、仏教の伝道者としては、偉大な方なのですよ。なお、禅の境地を次に託したダルマさんは、その後インドに戻り、布教に専念したそうです。亡くなったのは、西暦530年ころといわれております。



達磨さんです。こうした水墨画が流行ったんですよ。
*竜樹(りゅうじゅ)
西暦150〜250年ころの高僧です。インド名を「ナーガールジュナ」といいます。漢訳して「竜樹」です(ナーガは竜や蛇のこと、ジュナは樹のことです)。
初期の大乗仏教をまとめあげた高僧です。ですので、すべての大乗仏教の祖、ともいえる方です。
南インドのバラモンの家に生まれ、すべてのバラモンの学問を修め、のちに仏教に転じました。多くの仏教についての論書を残しております。有名な著作に「大智度論」があります(なお、これが竜樹の作かどうか疑わしいという説もあります)。「空」や「中観(ちゅうがん)」についての思想を確立し、その後の仏教の思想に大きく影響を与えました。なので、「すべての大乗仏教の祖」といわれるのです。
なお、真言宗の祖(真言宗では、弘法大師に至るまで七人の祖がいるとされています。いずれ紹介いたします)である竜猛と混同されることがありますが、別人です(といわれています)。


*鳩摩羅什(くまらじゅう)
西暦344〜413(350〜409という説もある)ころの高僧です。名前を「クマーラジバ」といいます。これを音写したのが鳩摩羅什です。一般に「羅什」と省略されて呼ばれます。
インドの貴族とさる王国の娘が結婚し、生まれたのが羅什です。7才の時に母と共に出家しました。初め初期仏教を学んでいましたが、後に大乗に転じました。
晩年に中国は長安に入ります。ここでなんと女性と交わるという戒律違反を犯してしまいます。しかし、その後、10年ほどで、目覚しい活躍をします。
女性と交わった後、俗人的な生活するようになります。しかし、仏教を捨てたのでなく、彼はサンスクリットで書かれたお経を多数漢訳するのです。今、私たちが読んでいる大乗経典の多くは鳩摩羅什が漢訳したものです。特に、般若心経や法華経は羅什の訳したお経として有名ですね。
また、多くの弟子を育て上げます。その数三千人とも言われております。大乗経典の祖とも言われるような存在です。


*馬鳴(めみょう)
西暦100年ころの高僧です。特に仏教詩人として知られています。お釈迦様の教えを讃じた「ブッダチャリタ」はよく知られています。彼の存在は、鳩摩羅什の「馬鳴菩薩伝」のほか、多数その生涯を伝える著作がありますが、その存在の確証はなく、そのため伝説の仏教詩人とも言われているようです。
もとは、マガダ国のバラモンの人でしたが、仏教の尊者と論戦し負けたため、出家しました。問答に負け、仏教の方がすごい、と覚ったわけです。
その後、よく修行し、仏教を広め、インド内の各国の500人もの王子を出家させたという伝説があります。
なお、仏教を学ぶ者なら誰もが一度は学ぶという「大乗起信論(だいじょうきしんろん)」は、馬鳴の著作といわれてますが、疑わしい面があるそうです。(私も大乗起信論の授業、確かに受けましたが・・・・さっぱり忘れました・・・)。

とまあ、以上、インドの高僧として紹介いたしましたが、このほかにもインドの高僧は多々いらっしゃいます。宗派の祖となっている方や「不空(ふくう)」のように唐時代に暗躍した高僧もいます。そうした方は、また今後登場すると思います。ですので、インドの高僧は、とりあえず今回だけにしておきます。合掌。



2、中国高僧編

玄奘三蔵など

今回は中国の高僧です。あまり知られていない高僧と超有名な高僧を紹介いたします。ただし、各宗派の祖といわれている方は抜いています。各宗派の祖は、次回以降紹介いたします。

*吉蔵(きちぞう)  546〜623
六朝の末から隋を経て唐の初期にかけて活躍した学僧です。三論教義の大成者として知られています。
三論とは、空の思想を体系づけた中論、仏教以外の教えを打破するための百論、空の思想の入門とも言える十二論の教えのことです。つまりは、空の思想を中心とした教義ですね。経典は般若経を中心に教えを説いたそうです。
また、その他にも法華経、華厳経、維摩経、涅槃経などの講義もしています。嘉祥寺(かじょうじ)という寺に住したため、嘉祥大師と称せられています。
一般的には知られてはいませんが、空の思想を体系づけたという功績には大きなものがありますね。


*玄奘(げんじょう)  602〜664
言わずと知れた玄奘三蔵、三蔵法師です。あの孫悟空が登場する西遊記で有名ですよね。
はじめ涅槃経や大乗論などを学んだのですが、唯識学や般若について学びたくなり、当時最も仏教学が盛んであったインドのナーランダー寺院を目指し、長安から旅に出ました。この長安からインドのナーランダー寺院への旅は、「大唐西域記」としてまとめられました。これは、元や明の時代にいたり、「西遊記」として物語化され、我々が知る孫悟空の話となったのです。玄奘三蔵の活躍は、西遊記を見ればわかります(私としては、夏目雅子さんが玄奘役を演じた西遊記がいいと思います)。
さて、玄奘がインドから持ち帰った経典は、75部(75種類)で1335巻もの数なんだそうです。この経典はすべて梵本(ぼんぽん)です。つまりサンスクリット語ですので、翻訳しなければいけません。玄奘は、それをやり遂げたのです。しかも、その訳は原典により忠実でした。玄奘の訳し方は、その後の手本とされ、漢訳の原則を確立したのです。
なので、玄奘が翻訳した以前の経典は「旧訳(くやく)」と呼ばれ、玄奘やそれ以降の訳を「新訳」として区別されています。
玄奘が翻訳した経典で最も有名なお経といえば、般若経600巻でしょう。大般若経として知られていますよね。真言寺院や禅宗の寺院などで「大般若法会」という法会が行なわれます。ご存知の方もあることでしょう。経典をパラパラと早送りのようにして「だ〜い般若経第○○巻・・・・・」などと大声で唱える法会です。この法会をすれば、一切の禍が消滅するといわれています。真言宗や禅宗の大きな寺院では、毎年行なっているお寺がありますので、一度参拝してみてもいいと思います。
なお、三蔵とは、経(教え)・律(戒律)・論(解説)の三種類の教えに通じているお坊さんのことを三蔵法師というのです。玄奘だけの呼称ではないのでご注意ください。


*基(き)  632〜682
一般に窺基(きき)と呼ばれていますが、本名は「基」だけです。玄奘の弟子になり、玄奘が持ち帰った経典の翻訳を手伝いました。特に唯識学には詳しく、古い唯識学を打破し、新たなる唯識学を確立しました。
唯識学とは、簡単にいえば、この世のすべての存在や現象は、ただ心が変化して現れたものであり、何事も心を離れて存在はしない・・・・と説く教えです。ですので、意識を深く分析し、深層心理に至るまで奥深く、細かく心について分析しているのです。
唯識学は、お釈迦様が入滅してからほどなく現れた学問です。覚りの境地を細かく分析し、分類し、心の動きを解析したものです。ですので、心の奥深くまで入り込んでいます。今で言う深層心理ですね。西洋の心理学が確立するはるか昔に、仏教では深層心理について細かく分析し終わっていたのです。それをまとめ、学問として確立したのが基なのです。いわば、深層心理学の祖でもあるのですよ。
なお、基は「慈恩大師」と称されています。

         

玄奘三蔵                 鑑 真   
*法蔵(ほうぞう)  643〜712
唐の初期のころの学僧です。主に華厳経を中心に学び、華厳経の教えを広めました。
華厳経というのはお釈迦様が覚りを得て、初めて説いた教えの内容を説いています。お釈迦様が初めて五人の苦行者に教えを説いた内容であって、その教えを聞いた五人の苦行者は全く理解できませんでした。ですので、華厳経は、お釈迦様が覚ったことをそのまま説いたお経であり、理解しにくいお経である、といわれています。すなわち華厳経は、覚りそのものを説いたお経、それ以外のお経は、聞くものの資質に合わせて説いた方便のお経、といわれています。
ですので、華厳経の内容は古来より難解である、といわれています(密教経典ほどではないのですが)。その難解な経典である華厳経をよく解説したのが法蔵だったのです。


*鑑真(がんじん)  688〜763
「天平の甍」で有名ですよね。知らない方は、映画があると思いますので、ぜひご覧になってください。鑑真の信念がよくわかります。
様々な師から多くの教えを受け、また戒律にも通じ、40歳のころには早くも出家作法や戒律を授ける「伝戒師」となっていました。これは、当時としては異例であったようです。
そのころ、日本は奈良時代の中期でした。天平時代といわれるころです。その当時、日本では仏教が発展し始めたころでしたが、統一された戒律や規律がなく、僧としての基本がバラバラでした。そこで、唐より正しい戒律や出家作法、僧侶としての規律の統一を授けてくれる高僧を招こう、ということになったのです。そうして、日本から栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という学僧が唐へ派遣されたのです。
二人は、鑑真に要請しました。なぜなら、若くして伝戒師となっていたからです。中国から日本へ来るには、高齢では無理です。しかし、若い僧侶で戒師ができるものはいません。そのころの唐には、若い戒師は鑑真以外いなかったのです。
鑑真は、喜んで日本へ行くことを承諾しました。しかし、簡単にはいかなかったのです。まずは、鑑真を日本へ渡したくないという弟子や信者たちが妨害しました。また、嵐に遭ったり、流されたりして、ついに鑑真は失明してしまいます。それでも鑑真はあきらめませんでした。五度の来日の失敗を乗り越え、ついに753年に来日が叶ったのです。鑑真は65歳になっていました。
来日した鑑真は、目が見えないにも関らず、すべてを見通しました。日本に何が足りないのか、どこが間違っているのかを。鑑真は、早速東大寺にて戒壇を築き、上皇や天皇らに菩薩戒を授けています。さらに、正しい戒律や正しい受戒作法を伝え、日本における出家作法の基礎を確立しました。これより、出家、受戒の国家統制が始まったのです。
晩年には、伽藍を建て、唐招提寺と名づけられました。
鑑真は、わが国にとっては、大恩のある高僧です。鑑真がいなければ、日本の仏教の発展は、さらに遅れていたことでしょう。鑑真の信念のおかげで、日本の仏教の基礎が築かれたのです。


以上、中国の高僧として紹介いたしましたが、このほかにももちろん高僧は多数いらっしゃいます。が、とりあえず、この程度にしておきます。次回からは、宗派の祖となっている高僧を紹介いたします。合掌。


3、真言八祖の@

今回から、宗派の祖となっている高僧を紹介しようと思いましたが、まず初めに真言宗の祖であります、弘法大師空海に至るまでの高僧についてお話いたします。真言宗では、真言八祖として、祀られています。真言宗の教えである密教は、今回紹介する高僧によって弘法大師空海に伝えられ、わが国にもたらされたのです。

一祖、龍猛(りゅうみょう)  2世紀中〜3世紀中
竜樹(バックナンバー9参照)と同一人物とされるが、別人という説もあります。南インドのバラモンの出で、幼少より仏法を学んびました。初め、小乗仏教を学んだが、のちに老僧から大乗を学んびました。また、大龍菩薩から龍宮で大乗の中でも無上の経典を学んだという伝説もあります。大乗経典、般若経典などの注釈書を多数書いており、すべての宗派の祖としても仰がれています。この点は、竜樹と同じですね。
密教では、次のような伝説がああります。
南インドに鉄塔がありました。この鉄塔はナゾの鉄塔で、どうやってもその扉が開きませんでした。ある日のこと、龍猛がその鉄塔に行きました。その鉄塔内に治めてある経典を手にし学ぶがよい、といお告げがあったのです。しかし、その鉄塔の扉は開きません。そこで、龍猛は一心に祈念をした芥子の実(一説には辛子の実、胡麻の実という説もあり)を投げます。すると、扉は開き、中にいた金剛薩垂(こんごうさった。垂の字は本来は土偏がつく)から、金剛界と胎蔵界の両部の教えを授けられたのです。こうして、密教が人々に伝えられる第一歩が記されたのです。
密教関係の書には、「発菩提心論(ほつぼだいしんろん)」、「釈摩訶えん論(しゃくまかえんろん)」があります。(とされていますが、これを記したのは別人、という説もあります)。
いずれにせよ、真言宗の伝持の第一祖、として祀られているのです。


二祖、龍智(りゅうち)
生没年は不明です。一説によると、5世紀〜6世紀の頃の人、といわれていますが、龍猛の弟子とするならば、年代が離れすぎています。あるいは、弟子の弟子の弟子・・・・であったかもしれません。その間の人物は名を残さなかっただけかもしれません。いずれにせよ、謎の多い高僧です。
一説には、龍猛に直接密教を学び、700歳という寿命を身につけた、とも言われています。この説は、次の第三祖である金剛智も第四祖である不空も、この龍智に密教を学んだ、といっているところから、生まれました。
金剛智や不空は、龍猛が晩年過ごしたといわれる吉祥山で隠棲している龍智より密教を授かった、と伝えているのです。
おそらく、吉祥山にて、龍猛より代々細々と密教を伝えていたのでしょう。で、代々龍智を名乗っていたのでしょう。でないと、いくらなんでも700年は生きられません。
また、一説によると、龍智として金剛界系の密教を授け、ダルマグプタという名で胎蔵界系の密教を伝えていた、ともされます。
詳しいことは一つもわかっていない、謎の高僧です。ただ、金剛智と不空の師である、ということから、第二祖として祀られることになったようです。

            

 龍 猛           龍 智             金剛智          不 空 

第三祖、金剛智(こんごうち)  671〜741
中インドのある大国の王子という説と、南インド・マウリヤ国のバラモンの子という説があります。10歳で当時有名な寺院であったナーランダー寺で出家し、ここで大乗・般若・唯識などを学びました。さらに、南インド吉祥山で金剛界系の密教を学びました。
密教には、金剛頂経系の金剛界の密教と大日経系の胎蔵界の密教があります。第一祖の龍猛は両方とも授かったとされていますが、第二祖の龍智は金剛界系の密教のみを伝えていました。(ダルマグプタという名で胎蔵界系の密教を伝えていたともされる)。
いずれにせよ、金剛智は、龍智から金剛頂経を中心とした金剛界系の密教を学びました。その後、インドやセイロンを巡り、船で中国へと入ります。こうして、中国に初めて密教が入ったのです。(同時期に、善無畏が大日経系の胎蔵界の密教を中国に伝えます。これについては、次回にお話しいたします)。
時は唐の時代です。皇帝は玄宗でした。金剛智は、密教の鎮護国家の秘法を玄宗の元で修法します。このことにより、密教の基礎を築くことになるのです。
金剛頂経系の経典を多数漢訳しました。もっとも、唐の国に密教を定着させたのは、次にお話しする不空です。

第四祖、不空(ふくう)  705〜774
怪物、とも称されております。唐において密教が認められた功績は、この不空によるものです。不空の活躍は、目覚しいものでした。多数の密教経典を漢訳しただけでなく、皇帝のために数多くの修法をし、実績を残しています。私たち真言僧が今日読んでいる密教経典の大半が不空の漢訳によるものです。経・律・論に通じていたため、不空三蔵とも言われております。

不空三蔵は、北インドのバラモン出身の父親と西域の母親との間に生まれました。早くに親を亡くし、10歳で出家し、金剛智の弟子となります。金剛智より金剛頂経系の密教を学び、金剛智の没後、インドに渡り、各地で教化をしながら南方の吉祥山に向かい龍智に金剛界密教の秘法を授かりました。そして、密教経典の原典500部をもって唐に帰えりました。
唐に戻るとすぐに宮中に迎え入れられ、国家のために多くの修法をしました。特に、請雨止雨(しょうしう・・・雨乞い、雨止め)の法は得意で、この功績により玄宗皇帝から「智蔵」の称号を与えられます。玄宗皇帝・楊貴妃の信任厚く、唐の国に密教を隆盛させました。
安禄山の乱に際し、鎮護・謀反鎮圧の修法を行い、功績を挙げています。このように、内乱や外敵の攻撃に際し、数多くの修法をし、成功を収め、鎮護国家、国内平和のために働きました。その法力は、すばらしいもので、他のどの僧も及ばなかったようです。このため、「大広智三蔵(だいこうちさんぞう)」の称号を授けられています。

晩年、文殊菩薩の旧蹟とされる五台山に金閣寺を建立し、密教の道場とし、文殊信仰を広めました。また、弟子には、弘法大師空海の師である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)がいます。
伝説によると、寂滅に際し、弟子の恵果に
「これより東の国に生まれ変わる。いずれ、汝の弟子となり、密教をすべて学ぶ。そして、東の国で密教を広めよう。」と伝えたそうです。不空三蔵が入寂した日は、6月15日。日本では、宝亀5年の6月15日、弘法大師空海が誕生した日だったそうです。

現在、我々が密教を学ぶことができるのも、密教の修法をし、人々のためになることも、また、皆さんが様々な仏様をお参りできるのも、この不空の活躍による部分が大変多いと思います。まさに、怪物・不空三蔵といえるでしょう。


3、真言八祖のA

前回の続きで、真言宗の歴代の祖を紹介いたします。なお、弘法大師空海については、別にお話いたします。今回は、お大師様に至るまでの高僧についてお話いたします。
前回は、金剛界系の祖について紹介いたしました。今回は、胎蔵界系の祖についてお話いたします。そして、この金剛界系と胎蔵界系の流れは、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)で一つになります。その流れを踏まえて、読んでみてください。

第五祖、善無畏(ぜんむい)  637〜735
善無畏は、マガダ国の国王の家系に生まれました。元の名をシュバカラシンハといいます。幼少からすぐれた統治能力を発揮し、神の子と呼ばれるくらいでした。なんと10歳の時には軍を統監したそうです。たった10歳の子供に軍隊が従ったのです。その後、長男ではなかったにもかかわらず、13歳で王位を継ぎ、国王となりました。家臣や人民からの信頼も厚く、善政を行なったのですが、兄たちがクーデターを起こします。兄たちとの戦いの際に、頭に流れ矢を受け大怪我をします。このとき、世の虚しさを知り、国の統治を兄たちに譲り、出家を決めます。
天才的頭脳を持っていたので、出家後間もなく悟りを得ます。教えを説くこともうまく、各地で法を説き、その名声は全インドに広がったそうです。
しかし、一般の仏教に飽き足らず、ナーランダー寺でダルマグプタに密教を学びます。この密教が、金剛智に伝えられた金剛界系の密教ではなく、胎蔵界系の密教でした。金剛智も善無畏も同じナーランダー寺で学んだのですが、金剛智は金剛頂経を伝えられ、善無畏は大日経を伝えられたのです。
当時、ナーランダー寺には、金剛界系密教も胎蔵界系密教も両方とも伝わっていたそうです。金剛頂経と大日経ですね。それが、この時代に金剛智には金剛界系、善無畏には胎蔵界系と分けられてしまったのです。なぜ、分けられたのかはわかりませんが、おそらくは両方を継承するには不足があったのでしょう。密教は継承者の器を重視します。受け取る側が、金剛界系にあっているのか胎蔵界系にあっているのか、両方受け取れる器なのか、吟味されるのです。
このとき、金剛智にも善無畏にも、その両方を受け取るだけの器はなかったのかもしれません。幼少の頃より天才的才能を発揮した善無畏だったのですが・・・・。

それはともかく、胎蔵界系の密教を学んだ善無畏は、師の命に従い唐の国へ向かいます。玄宗皇帝からは国師として迎え入れられました。長安の興福寺南塔に住み、多くの弟子を持ちました。
724年、洛陽の大福光寺に移り、大日経七巻を漢訳します。ちなみに、この漢訳本は奈良時代には日本に伝えられています。しかし、誰にも理解されることがなく、久米寺の塔に納められてしまいます。その大日経は、若き弘法大師空海に発見されるまで、その塔の中で眠り続けるのです。若き日の空海は、この大日経の発見により、唐へ渡ることを決意するのですが、そのことについては別の機会にお話しいたします。

善無畏は、大日経の講義を得意としていました。その講義内容を弟子の一行に書き取らせたのが「大日経疏(だいにちきょうしょ)十四巻」です。つまり、大日経の解説本ですね。この解説本は、実に詳細に大日経について説き明かしています。大変難しい内容ですが・・・・。
そのほかにも、胎蔵界系の作法を記したお経を多く漢訳しています。我々真言宗の僧侶は大いにお世話になっています。
なお、これは伝説ですが、善無畏は、木星の衛星を見つけていたそうです。いったいどういう眼をしていたのでしょうねぇ(そのことを記した伝記があるそうです)。


第六祖、一行(いちぎょう)  683〜727
この方は、インドの人ではありません。中国人です。河北省の人と伝えられています。やはり幼少時から聡明で、特に記憶力にすぐれていたそうです。21歳の時に父母が死去し、それを契機に出家します。初め禅を学びました。その後、律と天台教学を学びます。天台教学とは、法華経を中心とし、すべての仏教を普く学ぶことです。すべての仏教の教えで最もすぐれているのは法華経である、と位置づけたのも天台教学です。日本の最澄さんは、この天台教学を学ぶために唐に渡ったのです。わが国の天台宗の名は、中国の天台教学から得ているんですよ。
こうして、一行さんは、禅・律・天台を学んだのです。つまり、ほとんどの仏教(小乗から大乗まで)を学び終えていたわけです。しかし、それに飽き足らず、善無畏に弟子入りし、胎蔵界密教を学びます。また、金剛智のもとで、陀羅尼(ダラニ)の秘印(陀羅尼とは、長い真言のことです)の伝授を修めます。さらには、道教まで学んでしまいます。その上、算術や暦学、占星術なども学ぶのです。
ここに、禅・律・天台・密教・道教・占星術等を学んだ人間が完成されるのです。それは、密教的思考に基いていたのでしょう。人々のために役立つものはすべて学ぶという貪欲さは、まさに密教的といえます。曼荼羅の精神ですね。
漢訳も著作も数多くあります。それは仏教や密教に限らず、道教や天体についてや易、占星術などにも及んでいます。その中には、星祭りで修法する「星供養護摩(北斗七星法)」の方法を説いた経本もあります。数多くの作法書を記しています。


              

善無畏                一 行                恵 果 

 
第七祖、恵果(けいか)  746〜805
この方も中国の人です。西安出身だそうです。幼い頃に出家しています。もともと密教寺院である青龍寺(しょうりゅうじ、せいりゅうじ)にて出家したようです。不空の弟子となり、20歳にて密教の法を授かります。このときは、不空の系譜ですので、金剛界の伝授ですね。その後、22歳で、善無畏の弟子である玄超から胎蔵界の伝授を受けます。こうして、恵果は金剛界・胎蔵界の両方の密教を学び、阿闍梨(あじゃり、密教の先生、正式な密教僧)となります。恵果阿闍梨は、金剛界と胎蔵界の教えを纏め上げ、現在我々真言僧が授かる両部の法を学びやすいように体系付けます。
30歳のとき、青龍寺東院に灌頂(密教の特別な儀式)の道場を皇帝より賜ります。宮中からの信任も厚く、国家鎮護のために多くの修法をしました。また、44歳のとき、徳宗帝から雨乞いを命じられ、見事に成功させています。
802年、病に倒れ、引退を願いますが、皇帝はこれを許しませんでした。恵果阿闍梨に代わるほどの法力を持った僧がいなかったのです。
その後、病の身体ではありましたが、修法をこなしていきます。特に請雨法(しょううほう、雨乞いのこと)は得意だったようで、何度も成功を収めています。(この法は難しく、成功することは少ないです)。
805年、ですから、寂滅する年に、運命的な出会いが恵果阿闍梨に訪れます。そう、空海が密教を学びにきたのです。空海をみた恵果阿闍梨は、
「私はずうっと前からあなたが来るのを待っていた。さぁ、時間がない、早速灌頂を・・・。」
といって、弟子入りしたばかりの空海に、金剛界と胎蔵界の両部の大法を授けるのです。これは、前代未聞のことでした。特に、金剛界・胎蔵界の両方を伝授される弟子は少なく、多くは片方だけの伝授でした。しかし、空海の器は、片方だけでは不十分であり、両部ともどころか、それ以上のものであることを恵果阿闍梨は即座に見抜いたのです。なので、多くの弟子をさしおいて、空海に恵果阿闍梨が知りうるすべての教えを伝えたのです。
すべてを伝え終えた恵果阿闍梨は、静かに寂滅しました。

恵果阿闍梨の像を見るとわかるのですが、恵果阿闍梨の像には必ず従者が一緒に描かれています。上の図もそうですね。この従者は、実は女性です。というよりも女の子です。少女ですね。この少女は、恵果阿闍梨が得意とした「大自在天法」という修法のためにいます。大自在天法は、大自在天を天界から呼び、少女に乗り移らせて、様々な予言やお告げをするという秘法で、恵果阿闍梨のみが用いることができたそうです。
大自在天のような高レベルな天部は、清浄なものにしか宿りません。そこで、少女を用いるのです。ちなみに、わが国でも神が降りたとか言うオバサンがいますが、そういうオバサンには高レベルな神は降りてきません。高級な神々は、清浄なる女性・・・つまり処女である少女・・・にしか降りないのです。オバサンに降りてくる神は、そこら辺にいる低級霊の可能性が高いようですよ。ましてや、男には降りてはきません。
話はそれましたが、恵果阿闍梨の後ろに立っている人物は、大自在天法のための少女なんですよ。

お大師様(空海)が、恵果阿闍梨より伝授を受けていなかったならば、現在の真言宗はなかったでしょう。日本に密教は伝わらなかったかもしれません。また、恵果阿闍梨により、私たちはシステム化した無駄の無い修行法を受けることができるのです。恵果阿闍梨は、我々の師であるお大師様の師ですから、我々にとっては、大変大切な方でもあるのです。

以上、真言宗の伝持の祖である高僧を紹介いたしました。合掌。


4、日本の高僧

奈良時代頃

今回より、日本の高僧について紹介いたします。まずは、奈良時代ころから始めます。日本の仏教の初期の時代ですね。有名人からあまり知られてない方まで、ざっとご紹介いたします。なお、南都(なんと)とは平城京のことです。

行基(670〜749)
和泉国の人です。その生まれには、ちょっとした伝説があります。
行基は、異常出産(当時の話です。ちょっと変わった出産は忌み嫌われておりました)であったため、忌み事とされ産まれてすぐに榎の枝にぶら下げられました。翌日、父親が亡くなったかどうかを確かめに行くと、なんと榎の枝が光り輝いていました。驚いた父親が近付き「夢か・・・、昨日の忌み子が輝いている」とつぶやくと、「夢ではない」と答えたそうです。
不思議な誕生であった行基は、行基丸と名づけられました。幼少より頭脳明晰で教えられてもいないのにお経を読み、教えを説き、木っ端で仏像を彫ったりしたのだそうです。
父親は帰化人で中級の官吏だったそうです。また、母親は薬師でした。長じて人々に薬を与えたのは、母親による教育だったと思われます。
15歳で出家し、道昭・義淵(後述)らに法相の教えを学びました。707年母を生駒山に迎え入れて修行をしていましたが、710年母親の死に際し、諸国を巡ることを決意します。3年間、各地で布教をしました。各地にいろいろな話が残っていますので二つほど紹介いたします。
行基が、阿波国の坂の多い難所を歩いていたときのこと。馬の背に大量の塩鯖を積んだ男とであった。行基は、その男のよく深さを見抜き、鯖を一匹施してくれるように頼むと、思ったとおり男は無碍に断った。そこで、紙を男に渡した。その紙には、「大阪や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹病む」と書いてあった。男は字が読めなかったが、もともと欲が深いため、もらえるものはもらっておこうと紙を懐に入れた。そのとたん・・・。馬が腹を痛め苦しみだしたのである。驚いた男は、僧に施しをしなかったためバチが当たったと思い、あわてて行基に謝り、鯖を一匹渡した。行基は、先程の紙を返してもらい、「大阪や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹やむ」と書き直すと、馬の腹痛はとまったという。行基の霊験はすごいものだと噂が広まったそうな・・・。

行基がある村を歩いていたときのこと。その土地の若者たちが宴会を開いていた。若者たちは酔っていたためか、行基に
「おい坊主、ここになますがある、食え。」
と無理やり迫った。行基は断ったが、若者たちは食わねば通さぬ、と行基を取り囲んだ。仕方がなく、行基は
「では一切れほど・・・」
といい、なますを口に入れた。若者たちは、もっと食えと迫った。結局、行基はそこにあったなますを全部口に入れた。若者たちは
「生臭坊主だ。結局、坊主は口だけだ。魚を食った!。」
と囃し立てた。行基は、水を張った桶を見つけると、その中になますを吐いた。
「げ〜、この坊主、吐いてやがる!」
若者たちはからかった。が、次の瞬間、彼らは固まってしまった。なんと、口から吐き出されたものは、小魚だったのだ。水の中には小魚が泳いでいたのである。
若者たちは、その場に土下座して謝ったそうである・・・・。

こうした伝説は、多々あります。まあ、弘法大師伝説には負けますけどね・・・・。いずれにせよ、民衆の中にいて、多くの人々を導き、救ったのです。ことに、戦で食べていけない人々、病で苦しむ人々を受け入れるため、多くの寺院を建立したことは、特筆されることでしょう。そして、そうした寺を中心に、田畑を開墾し、安楽な生活を送れるようにしたのです。
一時は、朝廷からの弾圧も受けましたが、庶民からの信仰が厚いとわかり、天皇も行基を認めるようになりました。(いつの世も、正しいことをしていると弾圧されるのです。朝廷に悪い噂を流したのは、きっと腐った僧侶でしょう。)
やがて、行基は大僧正に任ぜられます。東大寺の大仏造像においても、尽力しました。人々からは、行基菩薩と呼ばれ、多くの民衆を救ったのです。81歳の長寿を保ちました。


役小角(えんのおづぬ 634〜?)
実在人物なんでしょうが、伝説の人ですね。神変大菩薩とも称されます。修験道の開祖でもあります。
出身地などについては詳細は不明です。生まれた年は634年となっていますが、本当にそうなのかはわかりません。わかっているのは、葛木山(現在の葛城山・・・奈良県と大阪府の間)を拠点とした修行者・仙人であった、ということです。以下、伝説です。
役小角は、葛木山にて修行中、孔雀明王の秘法を取得し、また中国の道教を学び仙術を手に入れていました。数々の呪術をこなし、その力は神々も及ばないほどでした。彼は、神々を支配し、その神々を使役して葛木山と金峰山(きっぷせん)の間に橋を掛けようとしていました。
役小角は、たいした修行もせずに難しい講釈ばかりをたれ、朝廷から大金をもらい贅沢な暮らしをしている、そのころの僧侶に対し不信感を持っていました。僧侶は、もっと民衆の中に溶け込むべきであり、民衆のためになる教えを説くべきだと思っていたのです。民衆のためになってこその仏教である、ということですね。そうしたことから、橋を掛けたり、人々の病気を治す祈祷をしたり、人々の暮らしが楽になるようなことに力をそそいだのです。
しかし、そうしたことに神々を使うということに不満を持っていた神がいました。葛木山の神・一言主之大神(ひとことぬしのおおかみ)です。その神は、計略を持って、役小角が天皇に対し謀反を企てているとの噂を流します。また、役小角の弟子であったにもかかわらず彼に対し怨みを持っていた韓国連広足(からくにのむらじひろたり)を使って、
「葛木山の行者は幻術をつかって民衆を惑わしている。これは朝廷に楯突くための力を貯えているのだ」
という噂を葛木山周辺の人々に吹き込みました。
噂は瞬く間に広まり、葛木山周辺の人々の不安は増大し、役小角追放運動へと発展しました。その声に、かねてから役小角を警戒していた朝廷が乗じ、役小角を伊豆の大島へ流刑に処したのです。
しかし、役小角は、平気でした。大島にて修行をし、毎晩富士山や筑波山に神通力を使って飛んで行き、更なる修行をしていたのです。そのことを知った島の人々は、役小角を崇め奉ったのです。そして、その話は、中央の人々にも届いていたのです。
そんな中、大宝律令が発布されたことにより、多くの恩赦がありました。役小角もその恩赦で葛木山に帰ることができました。久しぶりの葛木山では役小角にとっては驚きのことが起きていました。大島での彼の神通力の話が届いており、誰もが、役小角を崇めたのです。もしろん、神々も彼に逆らうことをしませんでした。
役小角は、ようやく自分の思うように修行ができるようになりました。誰にも邪魔されず、民衆の中にいて、民衆のために呪術をしたり、教えを説いたりしたのです。
ある日のこと、金峰山で修行を続けていた役小角の前に大きな火焔に包まれ、右足を上げた忿怒の相の仏様が現れました。そして、こういいました。
「われは蔵王権現である。この金峰山の守護者である。そして、お前の修行を見守ってきた。今日より、われを守護神とし、われを祀れ。乱れたこの世では、優しい仏や菩薩では、民は耳を貸さぬ。力強さが必要なのだ。この金峰山にわれを祀り、修行の場とせよ。」
役小角は、その言葉のとおりに金峰山を修験道の根本道場としたのです。
やがて、役小角の姿は金峰山辺りから消え去りました。しかし、各地の険しい山々で「役小角を見た」という噂が流れてきました。あるいは、どこそこの山の上を飛んでいた・・・・とも言われました。役小角は、日本各地の山々を巡っているのかも知れません。


            

   行基                  役小角
道昭(どうしょう 629〜700)
法相宗(ほっそうしゅう)の第一人者です。法相宗とは、当時の中心的な宗派です。弘法大師によって正しい密教が入ってくるまでは、法相宗・三論宗・華厳宗・律・唯識・雑密(ぞうみつ)があった程度でした。(禅や法華もありましたが、それほど注目はされていませんでした。)
道昭は、法相の教えを極めるため唐に渡り、玄奘三蔵に師事し、唯識学と法相の教えを学びます。また、さらには禅も学び、日本に伝えました。さらには、土木建築なども学んだようです。
日本に戻ってからは、諸国を遍歴し、井戸を掘ったり、船や船着場を造ったり、橋を掛けたりと、社会事業に力を注ぎました。また、死後、遺言により火葬にされました。これは、わが国で初めての火葬です。これより、土葬だけでなく、遺体を火葬にすることが広まったそうです。


義淵(ぎえん 644〜728)
大和の人。幼少から優秀だったそうです。一説によると、父母が観音様に祈ってできた子であったため、幼少からすぐれていたのだそうです。そのことを天智天皇が知り、天皇家にて育てられた、という説もあります。
長じて、天智天皇から岡本宮を賜ります。これは、今の岡寺(奈良県。西国7番札所。弘法大師中興。)のことです。各地に師を求め、修学しました。教えることが得意だったようで、弟子に、行基・道慈・玄ム・良弁・道鏡など、その時代の高僧を多く生んでいます。


道慈(どうじ 671?〜744)
大宝元(701)年に唐に渡り、法相・華厳・律・密教を学びました。養老2(718)年に帰国し、食封50戸を与えられました(当時は、これはかなり優秀な僧侶として認められた、ということになります。国が認めた僧侶しか生活はできませんでしたからね。)
729年には、律師(りっし、当時では上位の地位です)になります。その後、順調に出世街道を進みます。主に、天皇の安泰、鎮護国家を祈りました。
大安寺(奈良市。南都七大寺の一つ。弘法大師も別当を勤めた。)に入り、当時の仏教界を批判しました。この頃、初期の密教(雑密・・・ぞうみつ・・・という)にも傾倒し、一部には、道慈は密教の祖、とする説もあります。


玄ム(げんぼう 691?〜746)
霊亀2(716)年唐に渡りました。20年間唐に滞在し、法相の奥義を学び、経論5千巻・諸仏像を持ち帰ったといわれています。帰国後2年で、僧正(ほぼ最高位)に就任します。興福寺(奈良市。南都七大寺の一つ)にて教えを広めました。藤原宮子の病を祈祷で治したことにより、政治的な力も得ますが、僧侶としての行いでないという批判を受けたりもしました。やがて、筑紫の左遷され、禄も取り上げられ、失意のうちに死を迎えたと伝えられます。
一説によれば、玄ムが大宰府観世音寺の供養の導師として腰輿に乗っていたところ忽然といなくなり、後日その首だけが興福寺に落ちてきたという話があります。恨んでいたんでしょうかねぇ。まあ、坊さんが政治に関れば、ろくなことはありません・・・・。


良弁(ろうべん 689〜773)
近江の人です。義淵に従って法相・唯識を学びました。主に華厳経を教えることを得意とし、華厳宗発展のために尽力しました。東大寺の開山として知られてもいます。僧侶としては、実に順風で、官位を順調に昇っていきました。最終的には、僧正までになりました。まあ、真面目ではありますが、それだけでして、他には特に目立つことはないようですね。この時代には、官位につくと、とたんに権力を振りかざす僧侶が多かったようですが、良弁はそうならなかったようです。


道鏡(どうきょう ?〜772)
弓削の道鏡として知られる。河内の国の小さな豪族弓削氏の出身でした。若いころから葛木山中にて苦行をし、密教経典や梵語にも通じ、祈祷を得意としてたため、宮中に設置された祈祷僧として、宮廷に入りました。やがて、その法力が認められ、琵琶湖ほとりに隠居させられていた孝謙上皇(女性です)の看病禅師という、上皇専門の病気平癒の祈祷僧となります。762年上皇の病気を完治させたことにより、上皇からの寵愛を受けることになりました。
(上皇は、幽閉の寂しさからくる欝だったそうです。道鏡は、その相手をしていたわけですね。ですので、当然、その仲は深いものとなっていたと思われます。男女の仲ですね・・・・。)
この頃、都(平城京)は、藤原仲麻呂に牛耳られていました。孝謙上皇が隠居させられたのも、仲麻呂の陰謀によるものでした。仲麻呂により、政治は乱れ、国も乱れ、民は苦しみの中にいました。上皇はそのこと憂い、何とかしたいという願いをもっていたようです。そこに道鏡が目をつけたのか、はたまた道鏡自身も始めは純粋に国を憂いていたのかそれはわかりませんが、道鏡は上皇に都に戻るように勧めます。上皇は、道鏡に従い、急遽、平城京に入ります。
初め、上皇は尼僧となり、役人の賞罰に関してのみ権限を握りました。しかし、仲麻呂の抵抗が強く、ここに争いが起きます。道鏡は吉備真備を大宰府から呼び寄せ、仲麻呂に対抗しました。この結果、仲麻呂は失脚、上皇は称徳天皇となり、すべての権力を握ることとなったのです。すべては、道鏡の思惑通りでした。
道鏡は、汚い策略を以って、天皇の側近から反道鏡の者を排除しました。こうして、僧侶でありながら、政治にかかわることになったのです。そして、ついには、皇族に相当する位である法王の地位に着いた。僧侶としては、最高位でした。
道鏡は、この地位に満足せず、さらに野心を抱き、宇佐八幡宮の神託を捏造し皇位につこうとしました。それは、宇佐八幡神が「道鏡を天皇にすれば天下泰平になる」という内容の神託でした。しかし、これには道鏡を寵愛していた天皇も、不審を抱きます。そこで、和気清麻呂に調査を命じました。道鏡は、清麻呂を脅しますが、清麻呂はそれに屈せず、偽の神託であることを暴露します。こうして、道鏡の立場は悪くなっていったのです。
一つの策略がばれると、次々に道鏡のウソが暴露され始めました。ついに、誰も道鏡に従うものはいなくなりました。そんなとき、称徳天皇が崩御されます。それがきっかけでした。道鏡は捕らえられ、下野(しもつけ、今の栃木県)の薬師寺別当に左遷され、そのまま没したのです。道鏡が、孝謙上皇に付き従ってほぼ13年ほど、権力を掌握してから数年での失脚でした。道鏡は、左遷されてから1年数ヶ月の後に、ひっそりと死を迎えました。
道鏡は、僧侶であるのにも関らず、天皇家でないのにも関らず、天皇になろうとした唯一の人間でした。権力の魔力にとり憑かれた哀れな僧侶だったのです。
このような最悪の僧侶と言われる道鏡ですが、墾田を貴族には禁止し寺院のみに認めるなど、寺院を優遇し、放生(ほうじょう)司を新設し、猟の禁止・肉や魚を御贄(にえ)にすることを禁じたりもしました。殺生の禁止ですね。また、西大寺や西隆寺を建立してもいます。尤も、自分の権力を行使したに過ぎませんけどね。
悪僧であることは、間違いありません。


最 澄 その1

最澄さんといえば、日本天台宗の開祖であり、比叡山延暦寺を開いた日本を代表する高僧です。弘法大師空海と並んで、日本の仏教を築いた人物でもあります。今回は、その最澄さんについてお話いたします。

最澄さん(766〜822)は、近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市、比叡山のふもと)に生まれました。父親は帰化人で、その地方では裕福な家柄でした。名を三津首百枝(みつのおびとももえ)といいました。彼は熱心な仏教信者ではありましたが、子に恵まれませんでした。ある日、百枝は比叡山に篭り、子宝を願ったのだそうです。そうして生まれたのが最澄さんでした。
最澄さん・・・・幼名を広野・・・は、地元の帰化人たちだけで作った私学で学びましたが、幼い頃より頭脳明晰で、なによりも生真面目でした。この生真面目さは、最澄さんの生涯を通じて貫かれています。そしてそれは、最澄さんの人生に光をあてるときもあれば、影を落とすこともありました。時に生真面目さは頑固さとなり、融通の利かない狭量さになるものです。それは、幼い頃から見られたようです。

ともかく真面目な最澄さん、あらゆる勉学を学びます。それは周りの大人を驚かせるほどになりました。親たちは、そのまま帰化人の私学で講師をするように勧めますがこれを断り、13歳のとき近江の国分寺で行表(ぎょうひょう、?〜797、唐から帰化した僧。近江大国師、大国師とはその地域の僧や尼僧を監督する役職)の弟子となります。
とはいえ、当時は僧侶の数は国が管理しており、簡単には僧侶にはなれません。欠員が出たり、有力者の推薦があったりすれば早く僧侶になれますが、そうでない場合は順番が廻ってくるまで待たなければなりません。
最澄さんは、真面目に学びました。勤勉さにおいては誰にも引けはとりませんでした。
15歳のとき、その勤勉さが認められたのと欠員が出たという幸運に恵まれ、得度(見習いの僧侶となる初めての儀式)を受けます。このときに最澄という名をいただきました。
それからさらに5年後の20歳のとき、東大寺にて戒律を受け、正式の僧侶となったのです(当時、正式な僧侶となるには、東大寺にて戒律を受けなければならない規則がありました。それを受けていない僧侶は偽の僧侶とみなされていたのです。正式な僧侶は国から税の免除をされ、給与がもらえました)。
正式な僧侶となった最澄さん、このときもその生真面目さが顔を出してきました。最澄さんは、
「自分は正式な僧侶となるには力不足ではないか、その資格が本当にあるのか。」
と思い始めたのです。そして、力不足の自分を鍛えるために比叡山に篭ってしまうのです。

最澄さんは、戒律を受けた年の7月、比叡山に入り、草庵を造ります。そこで五つの誓いを立てました。それは、
1、六根(眼耳鼻舌身意)が清浄とならないうちは、世のために働かない。
2、真理を明らかに認識できないうちは、知識や能力を発揮しない。
3、戒律が完璧に守れないうちは、施主の法会には出席しない。
4、一切の執着から脱した境地に至らないうちは、世間の人たちと関らない。
5、この世で自分の修める功徳は、自分だけの身に受けず、あまねく人々に及ぼす。
というものでした。そしてさらに、
「願わくば、六根が仏と同じく清浄となって神通力を得たとしても、私は仏とならないで、何度も生まれ変わり、生きとし生けるものを仏に導くために、未来を尽くすまで仏の仕事を勤めんことを・・・・。」
と誓ったのです。
いかにも最澄さんらしい誓いです・・・。

ちょっとここで、余談ながら解説を。
最澄さんらしいというのは、いかにも実直で真っ直ぐで、真面目、ということです。しかし、この真面目・実直・真っ直ぐというのは、意外に窮屈であり、実は大乗仏教にはあてはまらないところもあるのです。
なぜなら、大乗仏教とは、
「自分は劣っていてもいい、自分は後回しでもいい。自分よりも先に多くの人々が救われるようにお手伝いできればいい。」
という心が基本なのです。自分は完璧でなくてもいいのです。自分は修行ができてなくてもいいのです。それでも構わないから、人々が救われるお手伝いをしましょう、というのが大乗仏教の基本なんですね。
ここのところを最澄さんは、真面目に考えすぎてしまったのです。
自分は劣っていてもいいのに、
「劣っている自分ではダメなんだ・・・。」
と思い込んでしまったのです。ここが生真面目さの悪い面なのです。生真面目すぎるが故に、勘違いをしてしまったのですね。こうした考え方が、後々大きく最澄さんに影響してくるのです。
上の五つの誓いをもう一度よく読んでみてください。これを読むと、私などは
「あぁ、いかにも最澄さんらしいな」
と思ってしまいます。特に、3ですね。戒律を完璧に守るまでは施主の法会に出ない、つまり布施をもらわない、ということです。完璧主義もいいところですよね。こんな堅物の相手していたら、つまらないでしょう。世の中というものは、そういうものです。あまりにも堅すぎれば、世間には受け入れられなくなるのです。
この堅苦しさ、生真面目さをよく覚えて置いてください。今後の最澄さんの生涯を読んでいけば、
「あぁ、なるほど・・・」
と納得できるでしょう。ともかく、最澄さんは、真面目すぎたのです・・・。

ともかく、最澄さんは自分で立てた誓いを決して破ることなく、一歩も比叡山を下りませんでした。それは12年間に渡るものでした。
その12年間に最澄さんの噂を聞いて修行にやって来る僧侶がいましたが、多くはその厳しさに逃げ帰ったそうです。しかし、それでも一人残り、二人残りして、年々修行仲間が増えていきました。やがて、延暦7年に仲間と共に一乗止観院というお寺を造ります。それは、いつの間にか比叡山寺と呼ばれるようになったのです。この名は、最澄さんの死後、比叡山延暦寺と呼ばれるようになります。

山での修行は厳しく、衣食がなくても不平不満は言いませんでした。むしろ、
「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心はなし」
(修行のなかに衣食はあるのだ。衣食の中には修行はない。だから、衣食を求めるな。そんなものは修行には必要ないのだ・・・・と思うこと。この言葉を覚えて置いてください。いずれ、弘法大師空海の言葉と比較しますが、お大師様はこれとは真反対だったのです。衣食は必要だ、という立場でしたから。)
と説き、あえて衣食を求めなかったのです。(これも最澄さんの生真面目さの表れでしょう。)



最澄さんのお姿は、この頭巾(帽子)を被った姿が有名です。
さて、こうして生真面目に修行しているとき、最澄さんはふと思い至ります。
「現在のわが国にある仏教では不十分だ。今、主流である教えは法相(ほっそう)の教えだが、この教えによれば、救われない人々もいることになってしまう。世尊(お釈迦様)の教えは真実であるはずだ。ならば、救われないものが出るはずなどない。ということは、法相の教えは完全ではないことになる。では、すべてのものが救われる教えとは何か・・・。それは、わが国に存在するのか・・・・。完全なる教えはわが国に伝わっているのだろうか・・・。
そういえば、華厳経(けごんきょう)の論書(解説本)に、天台智(ちぎ)師の説だが、という文章が多く出ていた・・・。智といえば法華経を極めた方。ふむ、ぜひ智師の論書を読んでみたいものだ・・・・。」

智(ちぎ、538〜597年)という方は、唐の時代、中国の天台山にて、法華経を極めた教えを説き、一宗派を開いた高僧です。その宗派は、天台山に寺院が建てられたため、天台宗と呼ばれました。唐の国において、一時は一大勢力を築いた宗派です(やがて、密教に勢力が取って代わられますが・・・)。仏教の歴史においては、重要な宗派です。智自身も天台大師と称されていました。その教えの中心は、お釈迦様のすべての教えのうち、法華経が最高位であると定義したものでした。即ち、天台宗は、法華経を最高位におき、他の教えはその下の教えで、不完全な教えである、と説いたのです。
日本の天台宗は、最澄さんが唐に渡り、中国の天台山にて教えを学んできて伝えたものです。これにより、比叡山に天台宗の本山ができたのです。
が、これはもう少し後のお話です。このとき、最澄さんは、ようやく智の教えに気付いたところです・・・・。

智の教えに興味を抱いた最澄さんは、比叡山を訪れる修行僧に智の論書について尋ねます。そして、それが東大寺にあることを知ります。やがて、智の論書の写本を手にいれるのですが、それを読んだ最澄さんは感動に打ち震えたのです。
「ここに真実の教えがある。法華経こそが、すべてのものが仏になれると説いたお経なのだ。法華経こそが真実の教えなのだ。」
最澄さんと天台宗の出会いでした。

比叡山に篭って12年が過ぎた頃、朝廷から遣いがきました。その遣いは、最澄さんに「内供奉禅師(ないぐぶぜんじ)に任ずる」という書状を持ってきたのです。このとき、最澄さんは32歳になっていました。
内供奉禅師とは、天皇のそばに仕え、病気平癒を祈ったり、怨霊退散を祈祷したりする僧侶のことです。真面目で野心のない僧侶が選ばれる役でした。最澄さんの生真面目さ、潔癖さが認められたのです。
「いい機会だ。法華経の教えを世に広められる。」
そう思った最澄さんは、この役を引き受けました。
当時、朝廷は長岡から京都に遷都して3年が過ぎた頃でした。そのときの天皇は、桓武天皇(かんむてんのう)です。最澄さんにとっては、都が比叡山と近かったことも幸いしました。真面目に比叡山と京の都と行き来していた最澄さんは、すぐに天皇の信頼を得ました。それは、最澄さんの願いが聞き入れやすい、ということを意味しています。
最澄さんは、大蔵経(だいぞうきょう。日本にあるすべてのお経と論書を示す)を書写し、それを比叡山に完備することを願います。その願いは聞き入れられ、東大寺を始め、全国の有力な寺院に手紙を書き、大蔵経書写の依頼をしました。
この大蔵経を比叡山に完備することには、二つの目的がありました。一つは、弟子の修行のためです。もう一つは、最澄さん自身が、すべての教えに精通するため、でした。それは、やがて来るであろう最澄さんと旧来の奈良仏教の僧達との対立に備えてのことでした。最澄さんは、こう考えていたのです。
「法華経を中心とした新しい教えを説けば、法相を始め、旧来の教えを説いてきた僧たちは、私を排除しようとするに違いない。なぜなら、今までの教えは、劣った教えであるからだ。それを旧来の僧侶たちにわからせるようにしなければならない。今までの教えは、すべて法華経の下の教えであることを説かねばならない。そのためには、すべての教えに精通する必要があるのだ。」
最澄さんは、旧来の奈良仏教(南都六宗・・・華厳(けごん)・律(りつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)のこと。独立した宗派があったわけでなく、当時の僧侶はこれらの教えを皆学んだ。特に法相の教えが最もすぐれている、とされていた。奈良時代は、南都六宗の僧侶が主流派であった。)を批判し、法華経の教えに従わせようと考えていたのです。
そのために、最澄さんは、もう一つの願いをします。それは、法華十講(ほっけじっこう)を開くことでした。これは、南都の有力七寺院の学僧を比叡山に招き、法華経について講話しあうというものです。この講話会を毎年11月に開くようになったのです。これにより、南都の寺院の間にも、天台の教えが浸透していったのでした。

こうした活動が実り、延暦21年最澄さんが37歳のとき、和気広世(わけのひろよ)から、自分の氏寺である高雄山寺(たかおさんじ)にて天台の講演会を開くので、出席して教えを説いて欲しいという招待状が来ます。その会には南都の高僧が14人出席しました。最澄さんは、彼らの前で法華経や天台の教えについて説き、南都の高僧を唸らせたのでした。こうして、仏教においては法華経が最もすぐれ、その解説は天台が一番であり、法相の教えは小さな教えである、と決め付けたのです。
このことは、天皇に天台の教えが重要であることを認識させました。最澄さんは、これを機会に広世を通じ天皇に、唐に渡って本場の天台の教えを学ぶことを願い出たのです。日本にある天台の教えの論書は誤字脱字がひどく、完璧なものがなかったからです。最澄さんは、完全な天台の論書を手に入れたかったのです。
当時、唐に渡って学ぶには天皇の許可が必要でした。学びに行く期間は、2年間の還学生(げんがくしょう)と20年間の留学生(るがくしょう)とがありました。
天皇の許可はすぐにおりました。最澄さんは、2年で戻る還学生として唐に渡ることを認められました。他に、留学生2名を派遣することも許されました。また、最澄さんには通訳を1名連れて行くことも許可されたのです。それは、異例なことでした。桓武天皇が最澄さんと天台の教えに大きな期待をしていたからでした。
その翌年、いよいよ最澄さんは遣唐使と共に日本を発ったのですが、6日目に暴風雨に遭い、船は破損、仕方がなく九州にて下船します。
そして、1年後の延暦23年、最澄さん39歳の年にあらためて遣唐使の船は出港しました。その遣唐使船には、空海さんが乗っていました。この時には、二人には何の面識もありません。空海さんは第一船、最澄さんは第二船でした。しかし、この後、日本の仏教に大きな影響を残す二人が一緒だったのは、偶然?、いや必然であったのかもしれません・・・・。
続きは、次回です。合掌。



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