バックナンバー10・高僧部

高僧部 

最 澄 その2

最澄さんは、延暦23年、39歳の時に、遣唐使の船に乗って唐に渡りました。そのときの船は4艘。第1船にはまだ無名の空海さんが乗っていました。最澄さんは、第2船です。
遣唐使の船は、日本を出向した後、間もなく嵐に遭います。唐へたどり着けたのは、空海さんが乗った第1船と最澄さんが乗った第2船のみでした。後の船は行方不明です。
空海さんの乗った第1船は都から遠く離れた南方の福建省は赤岸鎮に流れ着きました。最澄さんが乗った第2船は2ヶ月ほど漂流し、第1船より遅れて天台山に近い明州の港に着きました。これは、最澄さんにとって幸運でした。2ヶ月も漂流したのに、到着した港は自分の目的地台州の天台山に程近かったのですから、失った時間を十分取り戻すことができたのです。明州の港も台州の天台山も浙江省にあります。

最澄さんは、他の留学生たちと別れ、早速天台山に向かいました。その途中の台州の街で、台州の長官により天台山の高僧道邃(どうずい)が講演しているところへと導いてもらいました。
道邃は、最澄さんの決意に感動し、写経の職人を集め、天台山にある経典のすべての写経を手配してくれました。また、道邃から天台の奥義と大乗菩薩戒という戒律を授かります。そして、天台山に登り、行満(ぎょうまん)から天台教学のすべてを学んだのです。
道邃と行満は、共に天台中興の祖・湛然(たんねん)の弟子で、その弟子となった最澄さんは正式な天台教学の継承者となったのです。
天台のすべてを学び、またすべての経典を手にした最澄さんは、
「もはやここにいる意味がない、日本に帰ろう。」
ということで、意気揚々明州の港に向かいます。

明州の港に戻ると、なんと船が出るのは1ヶ月先ということでした。暇をもてあました最澄さんは、最近唐で人気のある密教をついでに学んでおこうと思い、明州に近い越州の竜興寺に向かい、そこで順暁(じゅんぎょう、胎蔵界系の密教僧)に密教を少々学びました。また経典も150巻ほど書写しました。
そんなころ、ようやく船が出るというので、最澄さんはあわただしく明州の港に向かい、日本へ向けた船に乗り込んだのです。唐に滞在した期間は約8ヶ月半ほどでした。
「私は、すべての仏教を学ぶことができた。天台の教え、密教、禅、菩薩戒・・・・。戒の上に禅、禅の上に密、そしてすべての上位に天台教学の円がある。これを円密禅戒と呼ぼう。この教えを比叡山を中心に世に広めるのだ。」
最澄さんは、決意を新たにしたのです。こうして、比叡山を本山とした日本天台宗が誕生したのです。

日本に戻った最澄さんは、すぐに桓武天皇に報告します。病床にあった桓武天皇は最澄さんの報告書を読み、喜びました。しかし、その第一声は、最澄さんが意図したこととはずれていました。なぜなら、そのとき桓武天皇が興味を持ったのは、神秘の儀式で鎮護国家を確実に実現するといわれる密教の法だったからです。
「すぐに灌頂の用意をしろ。最澄に従って、南都の僧侶に灌頂を受けさせるのじゃ。」
灌頂とは、密教の最重要儀式であり、灌頂を受けたものは、灌頂を授けた僧の弟子となるのです。この天皇の命により、南都の僧から8人が選ばれ、京都は高雄山寺にて日本初の灌頂が行なわれたのです。
さらに桓武天皇は、宮中にて自分のために密教の祈祷を行なうように命じます。こうして、最澄さんの名声は一気に高まりました。ところが持て囃されるのは密教の儀式のみ。多少の不服はあったことでしょうが、天皇の力を手放すわけには行きません。
この勢いに乗って、延暦25年の正月、最澄さんは年分度者(国が認めた僧侶の数。国から給料が出る正式な僧侶。有力な寺院ほどその数が多く認められていた)についての提案書を出します。つまり、比叡山に多くの正式な僧侶を認めて欲しい、ということですね。その当時は、1年間に認められる僧侶は10人でした。その10人は、三論宗と法相宗で分け合っていました。それを
「華厳宗2人、天台宗2人、律宗2人、三論宗と成実宗に3人、法相宗と倶舎宗に3人、合計12人に改めて欲しい」
との要望書を出します。
この要望は、天皇以下、他の宗派の僧侶も認めたため、すぐに許可が下りました。しかし、その決定書を見て最澄さんは愕然とします。そこには、
「天台宗に2人の年分度者を認める。ただし、一人に大日経を読ませ、一人に摩訶止観(まかしかん)を読ませよ。」
とあったのです。大日経は密教のお経、摩訶止観は天台の教えです。決定書には、先に大日経が書かれていたことにより、天皇は天台よりも密教を上位に置くと意図していることが最澄さんに伝わりました。このことは、今後の最澄さんの行く末を予言しているかのようでした。

とはいえ、天台宗は、南都六宗と並んで扱われるようになったことは事実です。最澄さんにとっては、喜ばしいことでした。
延暦25年3月、最澄さんを庇護していた桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位します。宮中の流れは、最澄さんから離れ始めていました。しかし、それが顕著に現れるのはまだ先のことです。
3年ほど、最澄さんにとっては充実した時が流れました。唐より持ち帰った経典類の整備、円密禅戒の体系付けに没頭していたのです。
そんな折です。空海という無名の僧が、唐より完全な密教を持ち帰ったという知らせが届いたのは・・・。



最澄さんのお姿は、この頭巾(帽子)を被った姿が有名です。
最澄さんは、空海さんが持ち帰った密教経典類の目録を見て、驚きます。それは、自分が学んだ密教が遠く及ばないことを示していました。知らない経典、見たことのない経典ばかりだったのです。
「こ、これは・・・。これが本物の密教なのか。私は、密教のほんの一部を持ち帰ったに過ぎない。あぁ、なんということを・・・。天皇の命とはいえ、私は灌頂をしてしまった。大それた間違いをしてしまった・・・・。」
生来生真面目な最澄さんは、自分の密教が不完全なのに、密教の奥義である灌頂を開いてしまったことを大いに恥じました。早速、最澄さんは空海さんに手紙を出します。
「どうか、あなたが持ち帰った密教経典を書写したいので、お貸しください。」
と。手紙を読んだ空海さんは驚きます。なんと、末尾に「下僧最澄」という署名があったからです。当時の最澄さんといえば、南都六宗に対し対等以上の力を持っていました。南都六宗を敵に廻し、論破するほどの高僧だったのです。そんな高僧が無名の空海さんに対し「下僧」とへりくだっている・・・・。
「なんとも真面目なお方よ・・・・。」
空海さんの最澄さんに対する印象は、こうでした。これより、最澄さんと空海さんの交流が始まります。
最澄さんは密教経典を次から次へと借り、書写していきました。さらに、密教を完璧に学ぼうと思い、灌頂を受ける決意までします。灌頂を空海さんから受けるということは、空海さんの弟子になることを意味しています。最澄さんの弟子は反対しました。特に後継者として名指しされている泰範(たいはん)は、強く反対をしました。それでも、最澄さんは自分の意見を曲げませんでした。
「自分の名誉名声などはどうでもいいことだ。それよりも、この比叡山がすべての仏教を完全に掌握することがだいじなのだ。あらゆる教えをこの比叡山に完璧に納めるべきなのだ。そのためには、私はたとえ年下の無名の僧にでも弟子となろう。」
最澄さんの決意は固かったのです。しかし・・・・。

しかし、最澄さんが受けた灌頂は「結縁灌頂」という極一般的な、在家の人間でも受けられる灌頂でした。最澄さんは空海さんに尋ねます。
「金・胎両部の灌頂は受けられないのでしょうか?。」
と。これに対する空海さんの答えはちょっと意地悪いというか冷たいものでした。
「私の元で学んで・・・・3年はかかるでしょう。」
3年は長すぎます。自分は天台宗の祖でもあるのです。比叡山の整備も進んでいません。宮中の風はすべて空海さんに吹いていました。いまや最澄さんは忘れ去れたも同然の状態だったのです。病気もしました。余生も少なくなってきました。大願である比叡山に戒壇院を造る計画も進んでいません。仕方がなく、最澄さんは弟子に密教を学ばさせることにしました。その中でも特に一番弟子である泰範には期待をしました。泰範を空海さんに託したのです。
「私は、比叡山のことで忙しく、とても密教を学ぶ暇がありません。そこで、弟子の泰範を託しますゆえ、この者に密教を伝授してください。」
と。こうして、最澄さんが比叡山の将来を託した泰範を空海さんのもとに送ったのです。

最澄さんと空海さんの交流は順調に続いていました。ところが、事件が勃発します。それは理趣釈経という理趣経の解説本をめぐってのことです。最澄さんからまた経典の貸し出し願いの手紙が来ました。空海さんは、手紙を見て怒ってしまいます。
「相変わらずわからぬ人だ。真面目はよいのだが、あの方は密教が読んで理解できるもの、と思っている。密教は体験しなければ理解できぬものなのに・・・。な、なんと、今度は理趣釈経を貸せと申すか・・・・。馬鹿なことを!。理趣経は字面だけを読んでいてはとんだ誤解をしてしまう経典だ。しかもその論書である理趣釈経は秘儀中の秘儀。密の中の密。読んでわかるものではない。まだわからぬのか、あの方は!。」
この怒りは、最澄さんへの返事に現れています。空海さんの返事は実に辛辣なものでした。
「文を読んで理解しようというものは法を盗むものと同じだ。昔の人は道のために道を求めた。名誉や利益のために求めるのは道を逸脱するものだ・・・・。」
この手紙を読み、最澄さんはガックリとします。
「空海さんは、誤解しておる。最近の若い僧は、手紙の書き方も知らぬようだ。」
と怒ります。
空海さんの怒りは尤もなことなのです。密教は字面だけではわかりません。実践が伴わなければ理解できないのです。いくら経典や論書を読んでも、体験がなければ理解は無理なのです。学と行、この二つが揃ってこそ密教なのです。それなのに最澄さんは経典のみで密教を理解しようとしていました。しかも、比叡山にすべての経典を納めるためにです。比叡山の名誉のために密教経典を借り出していたのです。空海さんは、それを承知で経典類を貸し出していました。しかし、さすがに理趣経となると話は別です。理趣経は、その内容があまりにも過激なため、生真面目な最澄さんには理解できないとわかっていたからです。むしろ、理趣経を読めば生真面目な最澄さんは、
「これは仏陀の教えではない」
と叫ぶことは目に見えています。なので、理趣経・理趣釈経の貸し出しを断ったのです。ただ、流石の空海さんも、ついつい怒りが文章に表れてしまったのです。表現が辛辣になってしまったのです。こうして最澄さんと空海さんの交流は断たれるのです。しかも、縁を断ったのは空海さんだけではありませんでした。

理趣経の貸し借りで決別してから3年ほど後、最澄さんは、空海さんに預けてあった弟子の泰範に比叡山に帰るよう命じます。最澄さんは51歳になっていました。比叡山の将来を心配したのです。しかし、泰範は密教を学ぶに従い、天台の教えよりも密教が上と理解し、比叡山に帰ることを拒否したのです。その拒否の手紙を空海さんが代筆しています。それは、大変意地の悪い文章で、最澄さんが初めて比叡山に篭ったときの願文をもじったものでした。こうして、最澄さんと空海さんの仲は完全に断たれたのです。(これ以来、比叡山と高野山は不仲である、といわれています。今はそうでもないと思いますが・・・・)

最澄さんは失意の中にありましたが、決して挫折するようなことはありせんでした。南都六宗と論戦をし始めたのです。いまや、最澄さんに勝てる僧侶はいませんでした。南都六宗は悉く、最澄さんに打ち負かされ、とるに足らぬ教え、とされてしまったのです。そうなれば、南都六宗は存在意義を失ってしまいます。
そんな中で、空海さんは違った行動をとりました。南都六宗に対し、敵対せず、取るに足らない教えなどと否定せず、いつの間にか仲間になってしまい、南都六宗の教えも密教の中の一部なんだ、と取り込んでしまったのです。最澄さんに攻撃され、対抗手段を失った南都六宗にしてみれば、空海さんは救いの主でした。空海さんは、最澄さんを決して攻撃することなく、また南都六宗の教えも下に見ることなく、仲間にしてしまったのです。
最澄さんは孤立しました。そこで、52歳の年に最澄さんは東国へと旅たちます。日本を天台の教え「法華一乗」で固めよう、という計画を持ったのです。栃木や群馬に行き、教えを説いて廻りました。さらには東北へと足を伸ばしたのです。現在、東北方面は天台宗が多いのも、最澄さんが開いたお寺が多いことに由来しているようです。
東北へ出発する前には、法相の僧である徳一(とくいつ)と激しい論戦を繰り広げます。この論争は5年にもわたり、最後には最澄さんの法華秀句という3巻の論書で終わりました。論争は、最澄さんの最も得意とすることでした。思えば、最澄さんは絶えず誰かと論戦をしていたようです。生真面目であるがゆえに、とことん追求する性格が論戦という形に表れたのでしょう。

東北を巡った後、最澄さんは弟子を集め、宣言します。
「具足戒を捨てる」
と。具足戒とは、僧侶になるための基本的戒律のことです。僧は250、尼僧は350の戒律があります。それを捨てて、大乗菩薩戒のみ守っていくのだ、と決意宣言をしてしまうのです。それは、具足戒が小乗の戒律、南都六宗の教えの従っているものであり、東大寺でしか受けられないものだったからです。具足戒を捨て、完全なる大乗の戒律「大乗菩薩戒」のみにすればいい、というのが最澄さんの考えでした。そして、その戒を授けるための戒壇院を比叡山に設けよう、というのです。
これは、最澄さんの長年の夢でもありました。最澄さんは、天皇に願いでました。比叡山での戒壇院の設立を・・・。
何度も天皇に上奏文を書きました。しかし、悉く他宗の僧侶からの反対にあい、結局は認められなかったのです。その許可が下りたのは、最澄さんが亡くなって初七日のときでした。実際に戒壇院ができたのは、最澄さん没後5年を経ていたのです。

最澄さんは、最後まで他宗の僧たちと戦い続けていました。未熟な自分が許せなかった若い時代、唐に渡り天台を学んだらすぐに帰途に着こうという生真面目さ、帰国後の論戦。周りをすべて敵に廻してしまった不器用さ。生真面目ゆえの不器用さだったのでしょう。生真面目さが誤解を生んでいったのです。
こうして、最澄さんは論戦の中で死を迎えたのです。57歳の生涯でした。弘仁13年6月4日のことでした。残ったことは、すべて弟子の義真に託されました。
そして、最澄さんの死後45年がたったとき、清和天皇より「伝教大師」の称号が贈られたのです。

これは一般的な説ではありません。ある説によりますと、最澄さんの最後は失意の中にあったと伝えられています。最後の言葉の中に、
「叡山には貧と寒と湿しかない・・・・。」
というものがあったそうです。その頃の比叡山は、注目を集めているわけではなく、むしろ忘れ去れていたようです。世間は空海さんの密教一色。南都六宗もいつの間にか密教に取り入れられてしまっていました。南都六宗の寺院の中に真言院という派ができており、真言宗に入っていたのです。
比叡山は孤立していました。援助は少なく、貧しい経済状態だったようです。比叡山は寒い場所です。湿気も多いようです。それが、最澄さんに嘆きの言葉を吐かせたのかもしれません。ただし、これは真実なのかどうかわかりませんが・・・・。

いずれにせよ、最澄さんの生真面目さは、よい面に出たときはいいのですが、それは得てしてあまりにも狭量となってしまうのです。他を容認できない、自分すら容認できない・・・・。
空海さんは、その点が全く逆でした。その違いを次回「空海伝」で理解してください。合掌。



空 海 その1

初めにお断りをしておきます。私たち真言宗の僧侶は「空海」と呼び捨てにすることに大変な抵抗感を感じます。自分自身では絶対に言わないし、他の人がそのように呼べば、イヤ〜な感じがします。が、しかし、普段、我々が呼んでいる「お大師さん、お大師様」と、ここで記すのは、これも違和感があります。ですので、ここはグッと堪えて、「空海さん」と呼ぶことにいたします。南無大師遍照金剛。

さて、空海さん、この世に誕生されたのは、宝亀5年(西暦774)のことでした。生誕地は讃岐国多度郡屏風浦(さぬきのくに たどのこおり びょうぶがうら)です。現在の香川県善通寺市にあたります。四国88ヶ所の札所である善通寺があります。この善通寺こそが、空海さん誕生の地なのです。
父親は、佐伯直田公(さえきのあたい たきみ)という地方豪族の長でした。母親は阿刀氏(帰化人らしい)です。空海さんは、その家の三男として生まれました。幼名を真魚(まお)といいました。
空海さんの誕生には、ちょっとした伝説があります。そういえば、最澄さんには、ほとんど不思議な伝説というものはありません。空海さんには、数多くの不思議な伝説があります。弘法大師伝説、というのもは各地に残っていますよね。最澄さんも、東北地方へ旅に出ているのですが、伝説は残っていないようです。まあ、空海さんは、どちらかといえば民衆のためにいろいろなことしました。最澄さんは、教学のかたでしたからね。ここに大きな違いがみられますね。

話を戻します。空海さんの有名な誕生伝説を一つ紹介しておきます。
ある明け方のころ、空海さんの母親は夢を見ました。その夢の中には、インドの僧がでてきました。
「我は天竺の僧侶である。汝の腹を借りる。」
その僧は、こういったのだそうです。その後、妊娠が発覚いたしました。両親は、
「今度生まれてくる子は、天竺の高僧の生まれ変わりに違いない。」
と大変期待したそうです。
これは伝説ですから、真実かどうかはわかりません。がしかし、幼少の頃の空海さんは、確かに聡明でした。仏教にも通じていたようです。また、唐での師である恵果阿闍梨(あじゃり)の師・不空三蔵が涅槃に入ったとき
「私はこれより東の島国に生まれ変わり、密教を学ぶため汝の弟子となるであろう。」
と言葉を残したという伝説もあります。
ですので、あながちウソと否定するのもどうかと思ったりします。まあ、真言宗の僧侶である私は、贔屓目に見ますからね、どうしても・・・・。

さて、真魚と呼ばれた幼少の頃の空海さんは、大変聡明でした。おそらくは地方の国学にも通っていたのでしょうが、そこで学ぶことは全く無くなってしまったくらいに勉学ができたそうです。
また、ここでも伝説がありますが、国学へ上がる前の幼少の頃より、土で仏像を作ったり、塔を作ったりして遊んでいたとか、四天王が頭上に傘(天蓋という仏様にさす傘のこと)をさしていたとか・・・・。
最も有名な伝説は、7才の時に崖から飛び降りた、というものでしょう。
7才になった真魚は、果たして自分が仏教を広める人間として資格があるのかどうか、不安になりました。そこで、
「お釈迦様、多くの菩薩様、私はこれよりこの崖から飛び降ります。私に人々を救う資格が無いようでしたらそのまま死なせてください。もう一度あの世で修行しなおし、生まれ変わってきます。人々を救う資格があるのでしたら、どうぞお救いください。」
と祈り、崖から飛び降りたのです。それを見た仏様や菩薩様が、
「あら、大変。」
といって、手を差し伸べてくださり、空海さんを手のひらに乗せ、ゆっくり地上に降ろしたのだそうです。
映画「空海」では、このシーンは、幼少の時ではなく、行方不明時代(後にお話します)の時のこと、となっていますが、伝説では、幼少時のことです。

と、まあ、幼少の頃より多くの伝説を持つ空海さんですが、実際のところは、まだ仏道を目指していたわけではないようです。将来どうなるかは、まだ決めていない状態、と思っていただいて結構でしょう。現代の若者と同じですね。
ともかく、勉強はできました。讃岐国で一番できたのでしょう。両親も大いに期待したのです。
そこで、母親方の叔父である、阿刀大足(あとの おおたり)に家庭教師を頼みました。
阿刀大足は、後に桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師(侍講という)にまでなった学者です。その学者について学んだのです。空海さんにとっては、大変な幸運でした。自分の叔父さんが都にまで聞こえるほどの大変な学者さんだったのですから。
地方の国学は、13歳から学べます。空海さんも当然通ったようですが、あっという間に学ぶことがなくなったので、叔父さんに学ぶこととなったのです。
2年間ほど地元の讃岐で叔父さんから漢詩や文章を学びました。その後、都へ上ることとなった叔父についていき、都の大学へ入ることを目指します。空海さん、15歳のときでした。両親は、
「立派な行政官になるのだぞ。」
という思いで見送ったことでしょう。空海さんも、国の仕事をするのだろうな、となんとなくぼんやり思っていたのではないでしょうか。都に行き、大学を出て官僚になる・・・。現在のエリートコースですよね。学力的には、何の問題もありませんでした。

都へ上ってもすぐに大学に入れるわけではありません。当時の大学は、貴族の子孫のための大学でした。つまり、親の身分が高くないと入学できないのです。貴族の子は、一般的に16歳で入学します。空海さんも、入学できる年齢になっていました。しかし、大学には入れなかったのです。
学力的には何の問題もありませんでした。身分がいけなかったのです。身分が地方豪族の子では、入学できないのです。仕方がないので、そのまま叔父について学問を学んでいました。入学のことは叔父さんが何とするということだったので、空海さんとしては待つしかなかったのです。
叔父さんが伊予親王の家庭教師である、という身分が幸いしたのでしょう。その家庭教師の甥っ子はかなり優秀である、という噂が聞こえたこともありましょう。
18歳のとき、ようやく大学への入学が許可されたのです。空海さんは、明経課という行政官になるためのコースに入学しました。他の入学者より2年遅れで入学したのです。現在で言えば、東大に二浪して入ったようなものです。ただし、試験では受かっているのですが、身分で落ちたのですからね。当時は、如何に貴族本意であったことか・・・。




修行大師と呼ばれる弘法大師の姿です。
さてはて、やっとのことで入学した大学でしたが、すぐに嫌になってしまいます。
「つまらん。おおいにつまらん。全く面白くない。あまりにもくだらん。あぁ、もっと面白い勉学は無いものか・・・。」
毎日が憂鬱だったのではないかと思います。周りは貴族の子。当然ながら空海さんを見下しています。
「は、田舎の豪族の子が何でここにいるんだ?。田舎臭くってたまらん。」
などと悪口を叩かれたかもしれません。しかし、そんなことは空海さんにとっては小さなことでした。それよりも学問がつまらなかったようです。
「あぁ、もう学ぶことは無い。ここでやっていることは全部知っていることばかりだ。これじゃあ、大学にいる意味が無い。さて、どうするかなぁ・・・・。」
悩んだあげく、暇があるたびに寺めぐりをするようになりました。それも、貴族がお参りに行くような大寺ではなく、誰もお参りしないような小さな寺や、寂れた寺を巡っていたようです。そうした古い寺や荒れた寺は、山の中にあることが多く、空海さんは自然と山歩きもするようになっていました。

そんなあるとき、ある山中で怪しげな坊さんと出会います。身なりはボロボロ。かろうじて錫杖(しゃくじょう)を持っており、袈裟のようなものを身につけ、髪を剃っていたので、僧侶とわかる、というような坊さんでした。その坊さんは、空海さんに話しかけました。
「お前、なかなかの相をしておる。それほどの相を持ちながら、こんな山中で何をしておるのか?。」
「はぁ、大学へ入ったはいいのですが、授業が退屈で・・・・。それでこのあたりの寺を巡っていたのです。」
「ほほう・・・なるほどな。それが自然の導きなのだろう。よし、わしが、少々仏法を教えてやろう。」
「仏法ですか?。」
「学んでおるか?。」
「はい、ある程度は・・・・。」
「ふん、どうせおぬしらの学んだ仏法は、人の役に立たぬ経文を読むだけの仏法であろう。貴族のための仏法、威張った僧侶がもうかるための仏法であろう。そんなものは、真実の仏法ではない。」
「そうなんですか・・・・。そうですよね。私も以前から疑問に思っていたのです。仏教は、人々を救うためにあると経文には書いてあるのに、実際に救われているのは貴族であり、僧侶です。民衆は救われてはいません。国は荒んでいます。国が安定し、民衆が平和に暮らせるようにするのが、真の仏教なのではないか、と考えていたのです。」
「ほほう、なかなかよいところに気がついたな。よし、気に入った。わしが取って置きの秘法・・・虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)・・・を教えてやろう。お前さんなら、必ずや成功するであろう。しかし、その前に真実の仏法を教えてやる。着いて来なさい。ふっふっふ、あははは。」
こうして、空海さんは、そのボロボロの怪しげな坊さんに仏教を学ぶことになったのです。

上の会話はあくまでも想像です。お大師さんが残したその頃の話には、
「一人の僧と出会う。虚空蔵求聞持法を授かる」
とあるだけで、詳しい内容は不明です。いつ、誰に、どのように教えてもらったか、ということはわからないんですね。おそらくは、勝手に僧侶になった私度僧(しどそう)なのでしょう。この頃は、僧侶になるには国の許可が必要であり、東大寺で戒律を受けなければなりませんでした。しかし、中にはそんなことをせず、勝手に僧侶になるものもいたのです。そうした僧侶を私度僧と呼んだのです。
私度僧は、主に山岳に多くいたようです。山で修行したのですね。おそらくは、役行者の流れなのでしょう。そうした私度僧は、いろいろな秘法を使い、民衆を救っていたようです。もちろん、そんな中には、物乞い専門の私度僧や泥棒を働いていた私度僧もいたことでしょう。しかし、空海さんが出会った私度僧は、いろいろな秘法を知っていた私度僧だったようです。
その私度僧から、虚空蔵求聞持法を教えてもらったのですが、出会っていきなり教えてくれるものではないでしょう。大学で学問ばかりしていた空海さんに、まずは民衆のための仏教を教えたのではないかと思います。その頃より、空海さんは大学に行かなくなるんです。その私度僧のところへ通っていたのでしょう。

さて、その私度僧と出会ったことにより、空海さん、大学を辞めてしまいます。私度僧から学ぶことの方が面白いし、ためになったのでしょう。
「俺は、もう大学には来ない。こんなつまらないところはもうゴメンだ。」
といったかどうかは定かではありませんが、ついに大学を辞めてしまったのです。それは入学して半年ほどたった頃だそうです。
叔父さんもこれには驚いたでしょう。しかし、空海さんはどこにいるのかわかりません。行方不明です。まあ、実際には、かの私度僧のもとに通っていたのですけどね。ですので、本当の行方不明ではありません。本当の行方不明は、もう少し後のことになります。
ともあれ、空海さん、私度僧の元に通いっぱなし。ついには、宿舎にも帰ってこなくなります。やがて、その私度僧から、秘法中の秘法「虚空蔵求聞持法」を伝授されるんです。
この法は、虚空蔵菩薩のご真言を百万遍唱えれば、一度読んだ書物をすべて理解し、暗記することができるようになる、という秘法です。いわば、脳みそをスーパー活性化するわけです。私は「脳を100%働かせる秘法」だと思っています。
ただし、一度やったからといって成功するものではありません。空海さんも何度もチャレンジしています。一度やったからといって、天才脳になるわけではないのですよ。まあ、一度やっただけでもたいしたものでしょうけど。
ちなみに、私はやっておりません。挑戦していません。だってね、過酷ですからね。簡単にはできませんよ。百万遍ですよ。しかも、いろいろ細かい規制があるんですよ。そう簡単にはできません。さらには、一度やっても成功しない確率のほうが高いのです。というか、一度くらいじゃ成功しません。お大師さんでさえ、7回以上やっているのです。
そりゃあ、無理でしょう。辛いのが嫌、という方はできませんよね。なので、私もやってません。

それはさておき、虚空蔵求聞持法を知った空海さん。挑戦し始めるんですよ。若き日の空海さんは、虚空蔵求聞持法を成功させるための毎日を送ったのです。18歳からのことです・・・・。


空 海 その2

大学を半年ほどで放り出してしまった空海さん、どこに行ったかと言いいますと、それは四国の地でした。ふるさとへこっそり帰っていたのです。
しかし、実家に戻っていたのではありません。四国の海岸や山々を巡り歩いていたようです。求聞持法にふさわしい修行地を求めて・・・。
空海さん自身が残した伝によりますと、阿波(今の徳島県)の太滝岳・土佐(今の高知県)の室戸岬・伊予(今の愛媛県)の石鎚山などで修行したようです。太滝岳や室戸岬では、谷が響いたり明星が飛んできたりしたようです。特に室戸岬では、明星が口に飛び込んできた、のだそうです。
実は求聞持法が成功したかどうかは、こうした現象がなければなりません。明星は虚空蔵菩薩の象徴です。その明星になにか大きな変化がなければ、求聞持法が成功したとはいえないんですよ。そうした現象があるまで、何度も続けなければ、求聞持法の効果は得られないんですね。お大師さんのように口に飛び込む・・・・とまでは言いませんけどね。ですから、求聞持法というのは大変難しい秘法なのです。

さて、空海さん、四国の地にて求聞持法をしながら修行の旅をしていました。やがて求聞持法も成功し、一度読んだ書物はすべて暗記できるという頭脳を手に入れました。
「うん、やはり仏道は最高だ。これに勝るものはない。私の進む道は仏道しかない。しかし、親も叔父も反対するだろうな・・・・。よし、仏道が如何に優れているか、書き物にして読んでもらおう。そうすれば、私の決意も伝わるであろう・・・。」
と思ったかどうかは知りませんが、四国の地から都に戻った空海さんは、「三教指帰(さんごうしいき)」という物語を書き上げます。実際には、その前に「聾瞽指帰(ろうこしいき)」をまず書き上げました。で、それをさらに書き直したのが「三教指帰(さんごうしいき)」です。
「三教指帰」は、空海さんの出家宣言書とも言われている書き物です。内容は、戯曲風に儒教・道教・仏教を比較検討しています。どんな内容か簡単に説明します。
ある儒教家の不良息子を儒教の大先生が説教し立ち直らせますが、そこに居合わせた道教の仙人が親への忠孝よりも自由に生きる仙術のほうが優れていることを説きます。不良息子とその親、儒教の大先生は仙人のいうことに納得します。そこへ仮名乞児という旅の僧が現れ、儒教も仙術も世俗の教えに過ぎず、因果を解き明かしていないことをつき、因縁や諸行無常、衆生救済などの仏法を解き明かし、不良息子とその親、儒教の大先生、道教の仙人を教え導きます。
仮名乞児は、空海さん自身でしょう。儒教の大先生は叔父さんだといわれています。で、儒教の教えを中心とした大学を捨ててしまうことで、親に心配をかけているけれども、儒教よりも多くの人々を救うという尊い仏教を学ぶのだからいいでしょう、という空海さんの気持ちを書き表しているのですね。
三教指帰は、現代語訳も出ていますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

さて、突如、都に戻った空海さん、そのときはすでに24歳になっていました。三教指帰を叔父さんに渡したのかどうかは定かではありませんが、それを残して再び忽然と消えてしまいます。
ところで、このとき空海さんは、「空海」と名乗ってはいませんでした。もちろん、本名は「真魚(まお)」ですが、その名前もすでに捨てていたようです。
前回、お話いたしましたが、そのころ空海さんは、ある私渡僧(しどそう・・・勝手になった僧侶)について仏法を学んでいました。求聞持法もその僧に教えてもらったわけですね。で、一緒に修行したり、一人で四国の山や海で修行したりしていたのですが、当然、空海さんの立場も「私度僧」です。私度僧ですから、僧名も自分で勝手につけていたようです。(一説には、勤操・・・ごんぞう・・・という僧に従って得度したとされるが、それはもっと後のことのようです)。
最初は「教海(きょうかい)」と名乗っていたようです。後、「如空(にょくう)」と改めます。「空海」と名乗るのは、もう少し後のほうですね。三教指帰を書き残して消えたころは、如空時代だったのではないかと思われます。



修行大師と呼ばれる弘法大師の姿です。
24歳から7年間、空海さんはまったくの消息不明、完全な行方不明になってしまいます。唯一、残っているエピソードは、奈良の久米寺の東塔で大日経を見つけた、ということです。行方不明の7年間のうち、いつのことかはわかりません。ただ、
「お前の求めている経典は、久米寺の東の塔にある」
というお告げを受けたらしく、果たして久米寺の東の塔に行くと、ほこりにまみれた大日経があったのです。
「おぉ、これぞ求めていた大日経。ふむふむ、なになに・・・。」
と読み進めていきます。しかし、第一品(だいいちぼん・・・第一章のこと)はわかりますが、それ以降はよくわかりません。
「う〜ん、これは・・・手印(しゅいん)か・・・。この作法は・・・。意味はわかるが、やり方がわからぬ。おや・・・これは梵語だな。困った。正確な読みがわからぬな。これでは、大日経を知った意味がない。」
大日経は、教えも説かれているのですが、その内容の多くは作法や曼荼羅の書き方などが中心になっています。実際に師について教えてもらわなければわからないように書かれているのです。
「やはり、唐に渡らねばならぬか・・・。」
そのとき、空海さんはそう思ったようです。大日経は、密教の経典です。当時、日本には密教をマスターした僧侶はいませんでした。密教を学ぶには、唐へ渡らねばならないのです。
「そうか、唐へ行かねばならぬか・・・。それにはまず資金が必要だな・・・。」
唐へ渡るのは、大変危険なことでした。唐へ渡れるかどうかはわからないのです。むしろ、無事渡れることのほうが少ないのです。しかし、空海さんは、危険よりも資金のことが心配でした。
唐へ渡るには、最澄さんの伝記でも書きましたが、国が認めたものしか行くことができません。しかも、短期で帰ってこれる還学生(げんがくしょう)にはなかなかなれず、一般のものは20年間という長期の留学生(るがくしょう)として渡らねばなりません。20年は長いです。そのための資金が必要です。仕送りなどは期待できませんし、唐で働くわけにもいかないでしょう。
「うん、金をためるか・・・。」
空海さんは、きっとそう決意したのではないかと思います。なぜなら、この空白の7年の間に、莫大な資金をためたのですから・・・。
多くの学者さんは、空海さんの行方不明の7年間は、山野やいろいろな寺院で仏教を学んでいたのではないか、また、唐の言葉を学んでいたのではないか、と推測しています。もちろん、それも的外れではないでしょう。しかし、それだけではないはずです。おそらくは、金策をしていたと思われるのです。なぜなら、消息を絶って7年後に人々の前に現れた空海さんは、現代のお金で言えば2億円(一説には、5億とも、20億とも・・・・。ともかく、莫大なお金です)ほどのお金を持っていたのですから。
「金は集まった。あとは、正式な僧侶になるだけだ。今の資格では船に乗せてもらえぬからな・・・。」
ということで、空海さん・・・そのときは如空・・・、奈良の勤操(ごんぞう)という僧侶に従って得度し、受戒を受けたようです。このときより、正式に「空海」と名乗るようになったようです。31歳のときでした。
「よし、これで準備はすべて整った。後は船に乗るだけだ。」
と勢い込んだ空海さんですが、なんと、船は出航した後だったという報告が届きます。最長さんが天台学を学ぶために乗った船ですね。次の船はいつ出るのかはわかりません。
「なんだと、それは困った!。う〜ん、さてどうしようか。ま、御仏が私を見捨てるわけがない。何とかなるだろう。」
そういったかどうかは知りませんが、なんと思いが通じたのか、それともそれが御仏の力なのか、時代が空海という僧侶を求めていたのか、出航した船は暴風雨にあい破損。修繕が終わるまで九州で待機となったのです。
「なんと言う幸運。やはり私の進む道に間違いはない。御仏を信じてただひたすらに進めばよいのだ。南無大日尊、南無大日尊・・・。」
まるで、空海さんを乗せるための暴風雨だったかのようです。ひょっとしたら、空海さん、何か修法をしたのかもしれませんけど・・・・。いずれにせよ、空海さんは、この幸運を喜び、九州は大宰府へ向かいます。

1年後、延暦23年7月6日、第一船には空海さんが、第二船には最澄さんが乗り込んだ遣唐船が九州の港を出港しました。二人はまだまったく面識はありません。最澄さんは、国が認めた還学生で国費で唐へ渡っています。一方空海さんは20年間の留学生、唐の言葉に堪能であったため「通訳にでもなるし・・・・」、などという扱い。しかも自費留学です。このときは、最澄さんと空海さんの間には、大きな差があったのです。
さて、二人を乗せた船は、一路唐へと向かうのですが、その先は過酷な旅が待っていたのです・・・。
合掌。


空 海 その3

遣唐使船は船底が平らで、現在のような船の形をしていませんでした。なので、横波には大変弱く、壊れてしまいます。また、当然ながら羅針盤もありません。風の向くまま、波に流れるままに船を任せるしかありませんでした。船が無事に唐へ行き着く確立は、きわめて低かったでしょう。従って、唐へ渡るということは、死を覚悟していないといけないのです。貴族の誰もが遣唐使になるのを嫌いました。
さて、空海さんを乗せた遣唐使船の第一船、空海さんとともに乗っていた方は、橘逸勢(たちばなのはやなり)と遣唐大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)でした。(もちろん、そのほか商人や雑用の人足も乗っていましたよ。)
橘逸勢は、後に嵯峨天皇・弘法大師空海と並んで、書道の三筆として名を残します。しかし、当時はまだ無名の貴族の息子でした。
いよいよ出港です。船は第四船まであります。連なって海へと出て行きました。
空海さんは超然と、いやワクワクしていたことでしょう。
「う〜ん、海はいいなぁ。どこまでも広く、深さは底知れぬ。この青空と海。御仏様の懐に抱かれているようだ。」
と感動していたかもしれません。しかし、遣唐大使や橘逸勢は憂鬱だったようです。おそらくは、こんな会話がなされていたでしょう。
「おい空海。お前怖くないのか。」
「なんで怖いのだ?。」
「いや、唐に行き着かぬかも知れぬぞ。途中で嵐に遭って、ち、沈没するかも知れぬ。おぉ、おそろしや〜。」
「逸勢、何を恐れる。大丈夫だ。必ず、唐に行き着くさ。この俺が乗っているのだからな。行き着かぬはずがない。」
「ほ、本当か?。信じていいのだな・・・。」
「信じていいさ。唐どころじゃない。天竺に行ってもいいぞ。」
そう笑い飛ばしていたことでしょう。そこには強い信念があったのです。

しかし、遣唐大使の藤原葛野麻呂には多少冷たかったかもしれません。彼は、上から指図するからです。
「く、空海とやら。そなた、それほどの法力があるのか?。あるのなら、毎日祈れ。我々が無事に唐に着くように祈るのだ。」
「法力?。そんなものはありませんねぇ。まあ、出家者ですから祈ってもいいですが、全員無事に行き着くとは限りませんよ。途中、大波を受けて一人や二人、海に投げ出されることもありましょう。船は無事であっても、中の人間までは、どうですかねぇ・・・。」
な〜んてちょっとイヤミをいったかもしれません。さぞ、藤原葛野麻呂はびびったことでしょう。なぜか、空海さん、藤原葛野麻呂にはちょっと冷たく意地悪だったようです。(後にもそのように感じられることがあるんですよ。)

出港してまもなく、船は嵐に遭います。連なっていた四艘の船はばらばらになってしまいます。空海さんの乗った船は約1ヶ月の間海をさまよい、福州の南のほう赤岸鎮(せきがんちん)という田舎に漂着します。しかし、そこでは上陸させてもらえず、福州の役所のあるところまで船を回されました。赤岸鎮に漂着してすでに2ヶ月が過ぎていました。
が、福州でも上陸は認められませんでした。国書(天皇からの遣唐使である証明書)を失っていたためでした。しかも、遣唐使船は福州のような南方には来ないのが常です。福州の役人は、空海さんたちが乗った船を海賊船と決め付けてしまいます。
「船の中の者、全員降りて砂浜に座れ、と言っているようですね。」
空海さんは、唐の言葉がわかります。福州の唐の言葉には、多少の訛りがあったでしょうが、通訳はできたようです。しかし、福州の役人には説明はしなかったようです。当時は、言葉は信じられていません。いくら言葉で説明しても、証明書がなければ信用されないのです。ましてや唐は書の国、文章の国です。言葉だけでは海賊と疑われても仕方がありません。船に乗っていたものは、全員罪人扱いでした。
藤原葛野麻呂は困ってしまいます。
「どうしたものかのう、逸勢殿、何かよい知恵はないかのう・・・。」
葛野麻呂は、空海さんには相談はしませんでした。たかが留学生、たかが私度僧あがり、たかが地方の豪族出身、たかが無名の僧侶、と見下していたようです。唐の言葉ができるから通訳には便利、と思っていた程度だったのです。ですから、なにかにつけて橘逸勢を頼っていたようです。
「大使様、唐は書の国です。上陸の許可を願う書を提出してはどうですか?。」
「うむ、そうじゃのう、そうしよう・・・。」
ということで、葛野麻呂は自分たちが日本から来たこと、上陸の許可が欲しいことなどを書にしたためました。が、
「なんじゃこれは?。日本国の役人がこんな下手な文章を書くわけがない。やはり、偽者だな。」
と、葛野麻呂の書いた願書は認められませんでした。しかし、葛野麻呂としてはあきらめるわけにもいかず、3度も許可書を出しました。が、やはり結果は同じです。それを横目に空海さんはつぶやいたことでしょう。
「あんな文章じゃ、認められないだろうな。」
「なんだ空海、あの文章じゃダメなのか。」
「あぁ、ダメだな。唐は書の国、文章の国だぞ。もっと高貴で格調高い文章をまず書かなければいけない。」
「おいおい、それがわかっているなら、助けてやれよ。」
「あぁ、しかし、頼まれてないからな。」
「意地を張るなよ。このままだと、お前も囚われの身になるぞ。」
「そういう可能性もあるが、そのときは何とかなるだろう。そのときは、逸勢、お前も助けてやろう。」
「わかったわかった・・・。空海の役人嫌いも困ったものだ。まあよい、俺が葛野麻呂に、空海に頼むようにいっておくから、素直に受け入れてくれよ。面倒はごめんだよ・・・。」
というようなやり取りが空海さんと橘逸勢の間であったのではないか、というのが一般的な説のようです。定かではありませんが・・・。

逸勢の根回しにより、遣唐大使の葛野麻呂は、空海さんに頭を下げます。葛野麻呂としては屈辱だったことでしょう。しかし、空海さんは、飄々としていました。
「はい、いいですよ、やりましょう。」
というような具合です。
早速、空海さん、上陸の許可並び都へ行くことの許可を願う書をサラサラと書き上げて提出します。すると、福州のお役人、びっくりしてしまったのです。
「な、なんというすばらしい文字。こんな字を書けるのは、わが国にも数えるほどしかいない。しかも、この美しい文章は・・・。これは、まさに名文。間違いない、かの者たちは日本からの遣唐使たちだ。無礼があってはならん、すぐにここにお通ししなさい。」
というわけで、一発で上陸の許可が下りてしまったのです。葛野麻呂の顔は丸るつぶれでした・・・・。
こうして、空海さんたちは都の長安に行くことができるようになったのです。

私が想像するところですが、お大師様は、葛野麻呂の顔をつぶすのが嫌だったのではないかと思うのです。できれば、自分がでしゃばらずに使者である葛野麻呂が治めてくれれば、と願っていたのではないかと思うのです。それが、彼の仕事なのですから。葛野麻呂にしてみれば、身分が下であるお大師さんに願書を書いてくれ、と頼むことはありません。命令するわけにも行きません。部下ではないのですから。それが、当時の貴族であり、役人なのです。プライドが高すぎるんですね。ですから、お大師さんが出ることで、葛野麻呂の大使としての顔は丸つぶれです。プライドもズタズタに切り裂かれたでしょう。葛野麻呂にしてみれば、
「あぁ、何たること、たかが豪族出身の得体の知れない坊主に負けたとは・・・。俺の顔をつぶしやがって・・・。」
といったところでしょう。お大師さんとしてみれば、感謝はされません。恨まれるだけです。
「葛野麻呂が書いたことにすればいいじゃないか」
という意見もあるでしょう。しかし、お大師さんが書いたものを葛野麻呂が書いたことにしても、字や文章でばれてしまいます。ウソをつけば、恥の上塗りになります。葛野麻呂の立場はますます悪くなるでしょう。
こうした面倒ごとが、きっとお大師さんは嫌だったのではないか、と思うのです。だから、ぎりぎりまで、出なかったのでしょう。頼まれるまで、動かなかったのでしょう。葛野麻呂の立場を守ってやろうとしたのです。でも、葛野麻呂はきっと恨んだでしょうね。ま、能力がありすぎるのも、時には疎まれるものなのですね。
ともかく、一行は長安に向かうことになりました。福州からは陸路で長安に向かいます。


      

遣唐使船の図です。一番右が、真ん中の船の絵のお大師様です。
福州を出て3ヶ月ほど、日本を出向して半年、ようやく空海さんたちは長安に入りました。当時の長安は、世界でも有数の文化都市でした。最も発展していた都市であったと思われます。世界中の文化や宗教、物資が入り、技術も大変優れておりました。世界中の人が集っていたのです。
空海さんたち一行は、長安に入り唐の皇帝に接見を許されました。そのとき、ばらばらになった遣唐船の第二船が無事に到着したことを知ります。
空海さんや橘逸勢たち留学生は西明寺というお寺を宿舎としていました。空海さんたちは、西明寺で、留学生としての生活が始まります。なお、葛野麻呂たち役人は、この後1ヵ月半ほどして帰国しました。

「さて、長安に着いた。まずは、見物だな。」
空海さんは、きっとそうつぶやいたでしょう。それを聞いた橘逸勢などはびっくりしたことでしょう。
「お、おい、空海、お前は仏教を学びに来たのではないのか?。」
「いや仏教ではない、密教を学びに来たのだ。」
「ならば、見物なんてしていてはいかんだろう。」
「なんでだ?。長安の都をまず知るべきじゃないか。ここにはありとあらゆるものがある。宗教も、仏教や密教だけじゃなく、マニ教や拝火教、イスラム教もある。キリスト教などというもっと西の国の宗教もある。それだけじゃない、様々な国の人がいる。どうだ、市場を見てみろ。目が青い人間がいる、金髪の人間がいる、背の高い、鼻の高い女性もいる。あれが女性だぞ?。すごいじゃないか。あぁ、日本はなんて小さな国だ。そう思わんか?。せっかく遠くはるばる来たんだ。まずは見物だろう。この国の文化を知らねばな。」
「しかし・・・、俺たちはこの国に20年もいるんだぞ。何もあわてなくても・・・。それにだ、かの最澄殿は、長安に入ってすぐに天台へ法華経を学びに行ったそうではないか。おまえ、いいのかそんな不真面目で。」
「そうだな、いいんじゃないか。それに先のことはわからん。何年この地にいるのかはわからんだろ。それにな、目的だけ果たせばいい、というものでもない。いろんなことを知っていて損はないさ。さぁ、街へ出かけよう。」
当時、密教のお寺といえば、青竜寺(しょうりゅうじ、せいりゅうじ)が最も有名でした。青竜寺の恵果阿闍梨(けいか−あじゃり)の右に出るものはいませんでした。そのことは、都のものなら誰でも知っていました。

「よいのか空海、青竜寺へ行かなくても。」
「いいのだ。どうせ今行っても理解できないからな。」
「じゃあ、どうするのだ。」
「都を探索していろいろなことがわかった。いいところを見つけてきたよ。まずはそこへ行く。」
そうして毎日のように空海さんが通った先は、醴泉寺(れいせんじ)というお寺でした。空海さんは、そこで般若三蔵(はんにゃさんぞう)と牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)というインドの僧侶から梵語を習っていたのです。
もちろん、虚空蔵求聞持法を修めスーパー頭脳を手に入れてましたから、空海さんは瞬く間に梵語をマスターしていきました。
と同時に、街の人々とも交流があったようです。市場へ行っては、珍しいものを見つけると、そこの商人たちに話を聞いたりしていたようです。また、土木建築にも興味を持ち、唐の都の建物や灌漑用水設備、池や川の土手の造り方など、ありとあらゆる知識を吸収していきました。また、酒席にも招かれれば行ったようで、その場で即興の漢詩を作ったり、書を披露したりもしていたようです。
やがて、「日本から来た留学生の空海という男はすごい」という評判が都で聞かれるようになったのです。

余談ながら、我々真言僧は、お大師様はきっと長安の都の色町にも行ったことがあるだろう、と信じています。私だけでなく、おそらくは多くの真言僧がそう思っていると思います。お大師さんは、こだわりがない方です。青竜寺に行く前ならば、別にいいんじゃないの、と思っていたのではないか、と思うのですよ。おそらく興味深かったのでしょう。何でも知りたかった、のではないかと思います。日本人だけでなく、他国の人間の男女の身体も知っていて損はない、と思っていたことでしょう。ですから、酒の席のついでに色町も・・・・とも思うのです。お大師さんは、天才扱いされていますが、まあそうなんですが、意外と庶民的だったのですよ。最澄さんとは違って・・・。

「あれが、日本から来た留学生の空海か・・・。」
「なんでも、この国の言葉はペラペラらしい。」
「それだけじゃない。梵語も話せるそうだ。」
「漢詩もできる、書もすばらしいという評判だ。」
都では空海さんが通れば、そんな声が聞こえてくるくらい有名人になっていました。

「さて、梵語もできるようになった。天竺の宗教も理解した。なかなか面白いぞ、天竺の土着宗教は。仏教とは一味違ってな。密教は、その融合体なんだろうな、きっと・・・。わかるか、逸勢。」
「何を言ってるのかさっぱりわからんよ。なんだ、もう学ぶことはない、ということなのか?。」
「いやいやこれからが本番だ。ようやく密教を学ぶ下地ができたところだ。長安についてすぐに青竜寺に行っても、おそらくは密教は理解できなかっただろう。密教を受け入れるだけの基礎ができていなかったからな。だが、今は違う。ようやく基礎ができた。大事なのは基礎だからな。」
「よくはわからんが、いよいよ行くんだな、青竜寺へ。」
「あぁ、そうだ。青竜寺へ行く。密教を学びにな。」
長安に入って半年近くが経過していたのです。
合掌。


空 海 その4

空海さんが、密教の総本山ともいうべき青竜寺へ行ったのは、空海さんが長安に入ってから半年が過ぎてからでした。青竜寺は、当時の唐では随一の密教寺院でした。ご住職は恵果阿闍梨(けいかあじゃり)です。
密教には、二つの流れがあります。金剛界(金剛頂経系)と胎蔵界(大日経系)です。この二つの流れは、別々に伝授されていました。が、恵果阿闍梨にいたって、この二つの流れが一つになったのです。恵果阿闍梨が初めて、両方の伝授を受けた方なのです。そのため、恵果阿闍梨は、密教の第一人者となったのです。
さて、青竜寺を訪れた空海さんを待っていたのは、恵果阿闍梨その人でした。
「密教を学びに来ました空海と申すものです。ぜひ、密教の伝授を・・・・・。」
「汝のことは聞いておる。街で評判になっておるようだからな。いつ来るか、いつ来るかと待っていた。ふむ、よい相じゃ。では、さっそく灌頂を受けよ。まずは、胎蔵界からじゃ。」

灌頂というのは、密教の伝授の際に行われる儀式です。簡単に作法を説明しましょう。灌頂を受けるものは、まず目隠しをされます。で、手に特殊な印を組み、その印の中指に樒(しきみ)をはさみます。お堂の中には密教専用の壇を用意し、その上に曼荼羅を敷きます。曼荼羅には、様々な如来や菩薩、神々が描かれています。
灌頂を受けるものは、指に樒をはさんだまま、曼荼羅の前まで誘導されます。そして、
「樒を投げよ。」
といわれます。まあ、簡単に投げられるものじゃありませんし、投げてもどこへ飛んでいくかわかったものじゃありません。曼荼羅までには、少し離れていますしね。多くの人は、せいぜい端のほうに落ちるようです。中には、曼荼羅の上に乗らない人もいるようです。
この儀式は、灌頂を受けるものがどの如来や菩薩、神々と最も縁があるかを判断する儀式です。樒が落ちたところの如来や菩薩、神々が、その人の縁のある仏様、ということですね。で、その縁のあった仏様の供養の仕方を伝授されるのです。たとえば、樒が観音様の上に落ちたらなら、観音様の拝み方の作法を伝授されるわけです。これが、灌頂です。ぜひ体験したい、と思う方は、高野山にて受けることができます。仏様と縁を結ぶための「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」という灌頂です。ゴールデンウィークのとき(金剛界)と、10月1〜3日の万灯会のとき(胎蔵界)に受けられますので、ぜひどうぞ。

恵果阿闍梨の言葉は、異例中の異例でした。普通は、いきなり灌頂を受けさせてもらえないのです。受けることができるのは、在家用の結縁灌頂くらいのものです。それがいきなり胎蔵界の灌頂を受けよ、ということになったのです。恵果阿闍梨の他の弟子たちは、さぞ驚いたことでしょう。しかし、驚くのはまだ早かったのです。
なんと、空海さんが投げた樒は曼荼羅の中央に鎮座される大日如来の上に落ちたのです。
「だ、大日如来だ!。」
儀式に立ち会っていた恵果阿闍梨の弟子たちは、びっくりしたことでしょう。おそらくは、樒が大日如来の上の落ちた弟子を、初めて見たに違いありません。ただ、恵果阿闍梨一人はわかっていたようですが・・・。
「ふむふむ、やはりのう・・・・。」
とニヤついていたのではないかと思います。
そして、その一ヵ月後、金剛界の灌頂を受けます。そして、予想通りというか、周囲の期待通り、空海さんが投げた樒は、金剛界曼荼羅の大日如来の上に落ちたのです。
「おぉ、またもや大日如来・・・。阿闍梨様、この日本から来た空海という僧はいったい・・・・。」
と尋ねた弟子たちは多かったのではないかと思います。それに恵果阿闍梨がどう答えたのか、それはわかりませんが、恵果阿闍梨は当初より空海さんの素質というか、器というか、空海さんそのものの大きさ深さを見抜いていたようです。

灌頂の儀式が終わったあとは、大日如来の供養作法の伝授が始まりました。まずは、十八道から始まり、金剛界・胎蔵界・護摩法へと進みます。これは、空海さんによって日本に伝えられ、現在でも真言宗の僧侶は、みんな伝授されております。もちろん、私も受けました。「加行(けぎょう)」という修行で、およそ100日間の修行です。我々真言僧は、この修行を受けることによって、お大師様が恵果阿闍梨から受けた修行を追体験しているわけです。ありがたい修行なんですよ(と、わかるのは後になってからのことなんですけどね)。

こうして、周りの弟子が驚くような速さで様々な教えを伝授された空海さん。ついに、すべての伝授を終え、最後に伝法灌頂という密教最高の灌頂を受けます。そして、「阿闍梨(あじゃり)」の位を授けられたのです。阿闍梨とは、密教のすべての教えを学び、後継者として認められたものだけが持つ位です。そして、
「さて、汝も阿闍梨じゃ。空海という名のほかに、『遍照金剛』という名を授ける。これよりは、遍照金剛と名のるがよい。」
と、灌頂名と呼ばれる名をいただいたのです。このことは、恵果阿闍梨の正式な後継者は、空海さんである、ということを意味しています。その証拠に、恵果阿闍梨は、師より代々伝わってきた様々な法具(密教の仏具)を空海さんに渡しています。
空海さんが、青竜寺を訪れてから、2ヶ月あまりのことでした。これは、とんでもないスピードでした。一般には、数年、あるいは、一生かかっても無理、という弟子がいる中で、この速さは前代未聞、ありえないことだったのです。
そして、
「もう伝えることはない。すべての経典類、絵画、曼荼羅、法具など、必要なものを急いで揃えよ。そして、早く帰国せよ。密教を汝の国で広めるのだ。」
と帰国を急がせました。

ちなみに、現在では、誰でも先ほどお話した「加行」を受けることができますし、それをやり終えたものは、伝法灌頂を受けることもできます。で、みな阿闍梨さんになります。私も阿闍梨です。加行を終え、伝法灌頂を受けたものは、みんな阿闍梨になれるんですよ、現代では。灌頂名も与えられます。尤も、お大師様のように、空海という僧名のほかに名を与えられるのではなく、自分の僧名に「金剛」をつけて名のってよい、とされるだけですけどね。ま、お大師様のようにならないのは、当然のことですけどね。阿闍梨の位ですら、おこがましいと思えるくらいですからね。
とまあ、現在では、阿闍梨さんはたくさんいます。密教の後継者の一人なんですよ。

さて、青竜寺。空海さんにすべてを伝授し終えた恵果阿闍梨は、その年の12月に涅槃に入りました。空海さんがすべての伝授を終えたのが8月ですから、それから4ヶ月ほどのことです。恵果阿闍梨にしてみれば、すべてを伝える弟子ができたことにホッとしたのかもしれません。それにしても早すぎる涅槃でした。齢六十だったのですから。

      

恵果阿闍梨
すべての伝授を受けてから、空海さんは恵果阿闍梨の言葉に従い、急ピッチで密教経典や次第、法具、絵画、曼荼羅などをそろえ始めました。これには、恵果阿闍梨の弟子たちも協力し、また職人なども協力したようです。しかし、このための費用はすべて空海さんもちです。このため、20年分の留学費用は、ほとんどなくなってしまったようです。
さて、経典類をそろえるのに忙しい空海さんでしたが、周りは放っておいてはくれません。ことに唐の皇帝は、何度も空海さんを宮中などに呼び出しております。
「経典類のことは、恵果阿闍梨の弟子に任せればいい、わしの相手をせよ。」
ということだったのでしょう。なんといっても、恵果阿闍梨の後継者ですし、唐の言葉もできるし、漢詩もうまい、書も達者とくれば、皇帝は見逃しません。しばしば相手をさせられたようです。たとえば、こんなエピソードがあります。
皇帝に招かれた席で、その部屋の屏風に漢詩を書いてくれ、と皇帝から頼まれた空海さん。五本の筆を取り出すと、両手両足に筆を一本ずつ挟み、残りのもう一本を口にくわえて、一気にサラサラと書を書き始めました。その書たるや見事なもので、皇帝を始め、その席にいた人たちはびっくり仰天。これにより、空海さんは、皇帝から「五筆和尚」の名を賜ったのです。
そんなバカな・・・、と思いますよね。そう、そんなバカな、なんです。両手両足口に筆を持った、という話は後付けですね。お大師さんは、そんなパフォーマンスはいたしません。芸人ではないのですから。でも、「五筆和尚」の称号は、本当にいただいております。どういうことなのか・・・・。
どうやら、お大師様、5種類の書体で漢詩を書いたようです。楷書・行書・草書・篆書・隷書の五つだと思うのですが、その書体でサラサラと書いたのでしょう。それは見事・・・・だったのでしょうね。

さて、早く日本に帰れ、といわれた空海さん。お金もなくなったことだし、帰国するつもりになっていました。折りよく、年末に臨時の遣唐使船がやってきました。またしてもグッドタイミングです。この機会を逃す手はない、と思った空海さん、橘逸勢を誘います。
「おい、遣唐使船が来たことを知ってるか?。」
「あぁ、知ってるさ。なんでも臨時できたそうじゃないか。予定外らしいな。」
「おぉ、いい機会だ。なんという巡り合わせだ。おい、その船に乗って日本に帰るぞ。」
「な、なんだと、何を言うか、お前。正気か?。俺たちは20年の約束できた留学生だぞ。」
「じゃあ、逸勢は残っていればいい。俺は帰る。もうやることもないしな。お前だって、本当は帰りたいんじゃないのか?。それにな、次の遣唐使船は、いつ来るかわからんぞ。」
「なんだと・・・、まさか、そんな・・・。しかし、お前の言うことだからな、ありえないことはないな。それに、俺も帰りたいしなぁ・・・。お前と違って俺は言葉も未だにできない。書や漢詩の勉学といってもなぁ・・・・。日本でもできるし・・・・。女と酒にはもう飽きた。やっぱり日本の女と酒がいい。」
「そうだろう。じゃあ、帰るとしよう。」
「しかし、20年の約束を1年半で帰ったとなると、厳罰に処せられるぞ。」
「なに、それは大丈夫だ。特にお前はな。なんと言っても貴族だからな。俺は・・・・そうだな・・・、まあ何とかなるさ。そうと決まれば、遣唐大使の高階遠成(たかしなのとおなり)に頼んでみよう。」
こうして、空海さんは、遣唐大使に帰国を願い出たのです。
高階遠成は、「唐の皇帝からの許しが出ればよかろう。」と許可してくれました。しかし、皇帝は空海さんを手放したくなかったようで、
「逸勢はよいか、空海和尚はだめじゃ。」
といわれ、なかなか許可がおりなかったようです。このときは、さしもの空海さんもあわてたようです。しかし、必死の願いにようやく帰国の許可が下りました。それは、翌年の1月のことでした。

空海さんがいつ長安を出発したかは定かではありませんが、4月には越州まで来ているようです。空海さんは、すでに300巻の経典を書写していましたが、この越州でさらに経典類を集めたようです。この地は、最澄さんが帰国の際に立ち寄って密教をかじった地でもあります。おそらくは、そのことも空海さんは聞いたことでしょう。まあ、最澄さんがかじった密教とお大師さんの密教とでは雲泥の差がありましたから、
「ふ〜ん、そうなんだ。」
程度だったことでしょう。
8月には明州についています。そして、その年の10月には大宰府についております。帰りは早いんです。海流に乗ってきていますから。唐へ渡るときは、海流に逆らっていくので、時間もかかるし流される危険性も高いんです。が、日本に向かう場合は、海流に乗っていてれば、ほぼ到着することができます。
こうして日本に戻ってきた空海さん。しかし、すぐには都に上らず、大宰府に留まってしまいます。20年の約束を2年で帰ってきてしまったから謹慎する・・・ということだったようです。

大宰府についた空海さん。唐より持ち帰った経典や論書、仏具、絵画、曼荼羅などの目録を書きあげます。これは、
「御請来目録」
という題名がついております。
それには、
「20年のところ2年で帰ってきてしまい、死罪に当たるほどの罪を犯してしまいました。しかし、とても得がたい密教の経典類・・・・我が国にはまったく伝わっていない・・・を得たので、早く持ち帰りたかったのです。」
というようなことが、持って帰ってきた経典類や仏具、絵画、曼荼羅、その他様々な文献類の目録とともに書かれていました。
これを都に上る高階遠成に託し、空海さんは大宰府で蟄居生活を送る、というのです。約束違反をしたから、というのです。
橘逸勢も20年のところを2年で帰ってきました。空海さんと同じです。でも、逸勢は貴族なので、おそらくはお咎めはないでしょう。あっても、しばらくの自宅謹慎程度でしょう。
しかし、空海さんは身分も保証されていない、私度僧あがりの名もなき坊さんです。都に上れば、どんな罪に問われるかわかりません。いくらいいものを持ち帰ったといっても、です。
そこで、自分から謹慎してしまったわけです。穿った見方をすれば、とてもいい作戦です。素直に見れば、謙虚な人だなぁ、と思います。ま、どちらでもいいんですけどね。お大師さんにしてみれば、そんなことはどうでもいいことなのでしょう。それよりも、京都にすぐには上れない事情が別にあった、と思うのです。

高階や逸勢を見送った空海さんは、しばらくは大宰府にいたのでしょうが、そのあとまたまた行方不明になってしまいます。放浪癖でもあるかのように、まったく行方不明です。
ひろさちやさんは、この行方不明の間に山野を徘徊していたのではないだろうか、と推測しています。山のパワーをもらっていたのだ、と。
それも一理あると思います。山野を歩き、唐で学んだ技術や科学で、民衆を助けていたのかもしれません。各地に残るお大師さん伝説がこのときに生まれているのかもしれません。水のでなそうなところに水を出したり、荒地に野菜を植えたり、灌漑設備を教えたり、火のつく水(重油のこと)の使い方を教えたり・・・。唐で学んだ技術や科学で、人びとを助けていたのではないでしょうか?。試し、にもなりますしね。
はたまた、恵果阿闍梨から学んだ作法を日本にあったようにアレンジしていた・・・・のかもしれません。密教は、とてもシステム化された部分があります。よりよく、より効率的に「効く」ようにしてあるのです。それをさらに、日本にあったようにアレンジしていた、よりシステム化していた、のかもしれません。もちろん、試し、はしていたと思います。学んだいろいろな作法を試したりはしたと思います。いつ都へ上って、密教の作法を行え、といわれてもいいように。
私は、これが都に上らなかった、主な理由だと思っています。まずは、密教の作法をいろいろ試してみたい、その効果のほどを知っておきたい、完全にマスターしておきたい、改良すべき点があれば改良しておきたい・・・、ということだったのではないでしょうか?。
なぜか・・・。
それは、中国と日本では、土地柄も気候も人種も異なるからです。土地が違うのですから、その土地にあったようにアレンジする必要があったのではないかと思うのです。
たとえば、中国の風水をそのまま日本には適用できません。香港の風水は、香港のものです。それは、土地が違うからです。気候が違うからです。日本の風土に合ったように改良しなければなりません。
その土地の風土というものは、我々の生活に大きく影響をしているのですよ。

まあ、そんなわけで、またまた行方不明になってしまったのですね、空海さんは。本当になぞの多い方なんですよ・・・。



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