バックナンバー11・高僧部

高僧部 

空 海 その5

空海さんが、帰国をしたのが806年(大同元年)10月、空海さん33歳のときでした。翌年の2月ごろは、大宰府にいたことが判明しています。で、次に居場所がはっきりするのが大同4年のことです。その年の8月、朝廷からの命により、京都の高雄山寺(現・神護寺)に住することになったのです。それまでは、居場所がよくわかっていません。
一説によると、久米寺にいたとか、槙尾山寺(大阪府和泉市、現・施福寺)にいたとか言われていますが、定かではありません。空海さんが帰国した翌年の10月・・・ですから、空海さん帰国1年後ですね・・・平城天皇の弟である伊予親王の謀反事件が起きました(事件の真相は濡れ衣です)。その翌月に空海さんは久米寺にて大日経の講釈をおこなった、とされています。しかし、これはちょっと考え難いようです。なぜなら、空海さんの叔父が、伊予親王の家庭教師だったからです。その叔父のお陰で空海さんも讃岐から京へ上ることができました。その叔父が関わっている親王の事件が起きたときに、関係者である空海さんが動けるでしょうか?。様子を見に行った・・・ということも考えられますが、どうもしっくりきません。
おそらく、高雄山寺に行く少し前には、槙尾山寺には入っていたとは思われます。
また、天台宗側の資料によりますと、大同4年2月に空海さんと最澄さんが会っていることになっています。が、これも定かではありません。空海さんから、わざわざ最澄さんに面会を求める・・・・というのは、どうも考え難いですしね。
過去の資料というのは、自分の都合に合わせて改ざんされることもありますしね。天台側の資料を裏付ける資料がないので、このことも確定ではないのですよ。

さて、大同4年8月、空海さんは、朝廷の命・・・すなわち天皇(この時は嵯峨天皇)の命令・・・によって、京都の高雄山寺に入ります。空海さん36歳のときです。
そんなころ、最澄さんの使いの弟子が高雄山寺を訪れ、手紙を出します。そこには、
『経典を借り受けたい。大日経略摂念誦随行法一巻、大日経・・・・。』
と記されていました。最澄さんが望んだ経典類は、全部で12種類に及びました。
なぜ最澄さんが、空海さんがこのような経典を持っているかを知っていたのか・・・・。
それは、空海さんが唐より帰って書いた『御請来目録』を読んだからです。空海さんが唐より持ち帰った経典類、論書、図画などを記した目録です。最澄さんは、当時の仏教界では最も天皇から信頼を受けていた身分ですから、当然この目録を読んでいるんですよ(当時の最澄さんは、最澄さんの生涯では絶頂期でありました。最澄さんの項目を参照してください)。

最澄さんも密教を持ち帰っていました。しかし、それは不完全なものでした。最澄さんの目的は天台の教えを学ぶことだったからです。密教はついでだったんですよ。ところが、帰国してみると、都は密教ブーム。そこへ不完全ながらも最澄さんは密教を持ってきてしまったんです。
時の天皇、桓武天皇は喜びました。早速、密教の儀式を行うように最澄さんに命じています。困ったのは最澄さん。自分の密教が不完全であることを十分承知していました。で、悶々としていたのですねぇ。最澄さんは、超真面目ですから、自分の密教が不完全であることが悩みの種だったのです。
そこへ完全な密教を持ってきた空海さんが現れました。朝廷からの報告によると、密教経典類を完璧に持ち帰っているとのこと。実際、自分でも目録を見たことでしょう。で、こう思ったに違いありません。
「おぉ、これで私の密教も完璧になる。これらの経典類を書写しなければ・・・。」
あくまでも、最澄さんは経典を蒐集することに目がいっていたのですねぇ。
が、待てど暮らせど空海さん本人が都に来ません。朝廷側は空海さんを罰する気持ちはなかったようですが、当の本人になかなか連絡がつかないんですね。そりゃそうです。本人は行方不明なんですから。
そんな折、空海さんが高雄山寺いるという情報が最澄さんのもとに入ります。で、早速の経典を貸して欲しいという手紙となったわけです。

空海さんは、快く経典類を貸しますが、多少の疑問・・・・最澄さんに対する疑問・・・・は持っていたと思われます。また、そのころの最澄さんは飛ぶ鳥を落とす勢いであり、不完全ながらも密教の儀式を行い、奈良の大寺の僧侶たちに灌頂まで授けています。
「大日経すら手に入れていないものが、どうやって灌頂などを行ったのか・・・・?。密教の儀式は真似事ではできないのだが・・・・。それに、経典だけを読んでもわからないのに・・・・。まあ、しばらく様子を見てみるか・・・。」
といったような思いを持っていたのではないでしょうか。
空海伝の中には、空海さんはこのころの最澄さんをよく思っていなかった、敵対視していた、などと書いているものもあるようですが、そこまでは思っていなかったでしょう。そうであるならば、経典の貸し出しを断ればいいのですから。自分で取りに来い、といえばいいのですから。
なので、私は、このころの空海さんは、「様子を見てみよう、それよりも自分の進むべき道だ」と思っていたのではないかと思います。やっと都へ出てきたのですからね。

         

御請来目録(施福寺蔵)
大同4年4月、平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位します。このとき嵯峨天皇24歳です。この嵯峨天皇が空海さんに大変興味を持っていたのです。それで、空海さんを都へ呼び寄せたのでしょう。
なぜ、嵯峨天皇は空海さんに興味を持ったのか・・・・。それは、空海さんが完璧な密教の法を使えるからです。平城天皇は、上皇になりましたが、腹の中では不服だったようです。本心はまだ譲りたくはなかったのでしょう(平城天皇は病気になったため譲位しました。その病気は、伊予親王の亡霊が原因といわれています。伊予親王は服毒自殺しています)。体調が戻ると、何かと口出しをしたようです。そこで、嵯峨天皇は、「まだ誰の味方にもなっていない空海さんと、誰の手にも渡っていない密教」が欲しかったのでしょう。
平城天皇には最澄さんがついています。また、他の僧侶も祈祷をしたことでしょう。しかし、嵯峨天皇は即位したばかりですし、前の天皇の息のかかった僧侶に祈祷を頼むわけにはいきません。で、空海さんに白羽の矢が立ったわけです。
嵯峨天皇は、空海さんに近づきます。

大同4年10月、嵯峨天皇の使者が屏風を持って高雄山寺にやってきます。書をかけ、というのです。空海さんは、命に従い、その屏風に筆を振るいます。ここから、のちに「平安三筆」といわれるようになる「空海さん、嵯峨天皇、橘逸勢」の親交が始まるのです。
大同5年9月半ば。上皇とその愛人薬子(くすこ)、薬子の兄が「嵯峨天皇を降ろし、平城天皇再び!」と兵を挙げます。いわゆる薬子の乱です。一説によると、この乱の平定祈願を嵯峨天皇は空海さんに依頼した、とあります。その祈願が効いたのか、嵯峨天皇の軍隊は上皇や薬子らを包囲し、大きな被害もなく謀反は終わったのです。上皇は出家、薬子は自殺、薬子の兄は処刑されました。この月に改元がおこなわれ、この年の9月下旬からは弘仁なります。
弘仁元年、空海さんは東大寺の別当に任ぜられます。別当とは、寺の事務を統括する長官役です。薬子の乱の平定祈願の成果・・・と思われます。
これを契機に、空海さんの活躍が始まるんですよ。空海さん37歳です。

その年の10月、空海さんは、まず「鎮護国家」の修法を高雄山寺で行うことの許可を願い出ます。まずは、国家の安泰を願ったのです。国家が安泰しなければ、天皇以下、公家も民衆も落ち着いて生活ができないし、衣食住も不安定になってしまうからです。
許可はすぐに下りました。空海さんは、翌11月1日より、高雄山寺にて仁王経(にんのうぎょう)による鎮護国家の行を修法したのです。
その効果は大きなものだったようで、翌弘仁2年からは、平穏な日々が続きます。感激した嵯峨天皇は、多くの贈り物をしました。また、世の中が落ち着くと、空海さんに書や詩文を書くよう命じます。空海さんの評判はますますあがっていきました。
「空海の密教の力は本物である」
嵯峨天皇はそう確信したのでしょう。弘仁2年の11月、突如、空海さんを乙訓寺(おとくにでら)の別当に任じ、鎮護国家の修法を止めさせてしまいます。
これには理由がありました。まずは、世の中が落ち着いたこと。もう一つは、この乙訓寺が嵯峨天皇の悩みの種の一つだったのです。

乙訓寺は、その当時、怨霊の寺として知られていました。
時は桓武天皇の時代です。桓武天皇は弟の早良親王(さわらしんのう)をこの乙訓寺に幽閉します。謀反の疑いあり、というわけですね(親王は、無実だったと思われます)。ひどいのは、その処遇でした。桓武天皇は、早良親王にほとんど食事を与えず、餓死させてしまうのです。寺の中で・・・・。
桓武天皇はこれより後、早良親王の怨霊に悩まされるようになります。奇行が目立ち、乱心乱行はもちろん、熱病に侵されたりして苦しみます。
その後即位した平城天皇も、早良親王の怨霊に悩まされたそうです。やはり乱行はげしく、その挙句が伊予親王を自殺へ追い込むことになるのです。平城天皇は、自分も桓武天皇と同じことをしたと悔やみますが、乱心はまだ続き、薬子の乱を起こすまでに至ります。
嵯峨天皇は、自分の身にも同じことが起こらないかと心配だったのです。自分も乱心乱行しないだろうか、怨霊にとり憑かれないだろうか・・・と恐れたのですね。
そこで、空海さんに頼んですべての元凶である乙訓寺の早良親王の怨霊を鎮めてもらうよう願ったのです。それが、乙訓寺別当の命でした。

命には従わねばなりません。空海さんは乙訓寺へ向かいます。京都は山城の山中です。高雄山寺からは離れ、不便な場所でした。
寺は荒れ放題に荒れていた・・・・そうです。修繕しなければ住めません。鎮護国家の修法どころではありませんでした。経典の整理も、密教の儀式を行うこともできません。
「よわったのう・・・。まあ、仕方がないか。」
このときが、空海さんにとって初めてのピンチ・・・・だったかもしれません。
合掌。


空 海 その6

乙訓寺は、荒れていました。それもそのはず、そのお堂で早良親王が餓死させられているのですから。誰もそんな寺の面倒を見たくはありません。おそらくは、何人かの僧侶が入寺したのでしょうが、続かなかったのでしょう。
何もないかもしれません。ただ、噂におびえ、自らに幻覚を見せ、幻聴を聞かせていたのかもしれません。が、しかし、荒れていたのは事実でした。
密教は、特殊な修法をするためにいろいろな道具を使います。まず、第一に必要な道具は「護摩壇、または大壇」です。これがなくては、密教の行ができません。また、その壇の上に様々な仏具が乗ります。まずは、そこから準備しなくてはなりません。空海さんの苦労は大変だったろうと想像できます。密教の寺院でないところを密教の僧侶が任されるというのは、すべて初めから準備しなくてはならないことと同じなのです。本堂とご本尊があるだけが救いですけどね。しかも、多くの経典類は高雄山寺に置いてきてあります。不便この上ないですよね。それでも、天皇の悩みを解決してあげねばなりません。それができるのは空海さんだけだったからです。

乙訓寺には約1年滞在しました。その後、高雄山寺に戻っています。きっと、乙訓寺に漂う様々な怨霊は鎮まったのでしょう。つまり、怨霊を鎮めるのに1年ほどかかったわけです。空海さんほどの高僧でも1年かかったのですから、他の僧侶が鎮められないのは当然です。それほど怨念が深かったのでしょうね。ですので、空海さんも、相当なプレッシャーだったでしょう。もし怨霊を鎮められなかたっら・・・・。密教を日本に広める、密教で人々を救うという空海さんの計画はすべてパァーです。焦りもしますよね。そのためか、乙訓寺にいる間、空海さんはちょっと不可解な行動をとります。
一つには、天皇に乙訓寺の庭に実ったミカンを献上したことです。当時、ミカンは珍しい食べ物でした。しかし、目上の者に食べ物を献上するという習慣はありませんでした。それは失礼に当たる、と考えられていたようです。そうした習慣は、もちろん空海さんも知っています。が、食べ物であるミカンを目上である天皇に献上したんですね。普通では考えられない行動です。
学者さんは、純粋に贈り物として贈っただけ、習慣にとらわれず、素直な気持ちの表れ・・・と解釈したり、天皇の位さえも密教の前においては関係ない、と言う気持ちの表れ、と解釈したりしています。
どっちもどっち、なんですが、私は、このミカンは、きっと
「乙訓寺の怨霊も鎮まってきているようです。やがてこのミカンのように、この寺も見事な実がなるでしょう。」
という意味なんではないかと思います。空海さんの決意を込めていたのかもしれません。絶対、怨霊を鎮め、立派な寺にしてやる、と言う決意です。で、ついつい習慣も忘れ、
「大変だけど、修めましょう。必ずや、安心できる寺にして見せましょう。」
と伝えたかったのではないかと思うのです。なぜなら、そのミカンに添えられた漢詩の意味が、
「ミカンは寒さや霜に耐えて美しく実る。星のように玉のように黄金だ。献上するに値するものだ。」
と言うような意味なんです。このミカンを乙訓寺に置き換えれば、
「この寺は怨霊の苦しみに耐えています。しかし、やがては星のように玉のように輝くでしょう。天皇にお返しするに差し支えのない寺になるでしょう。」
となりますよね。ですので、一種の決意表明であり、同時に自らに気合を込めていたのではないかと思うのです。それほど、怨念が深かったのかもしれません。気を抜くと、負けそうになったのかもしれませんね・・・。

もう一つ、不可解なエピソードがあります。それは、乙訓寺を訪れた最澄さんに対し、失礼にも
「結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受けよ」
と説いています。結縁灌頂は在家や密教の初心者が受ける灌頂です。曲がりなりにも唐において密教をかじってきた最澄さんにいうべき言葉ではないように思えます。しかも、最澄さんは年長ですし、比叡山の長でもありますし。尤も、経典で密教を学ぼうという最澄さんの態度に立腹していたのかも知れませんが・・・。
というのも最澄さんは、ちょくちょく密教経典を空海さんに借りていました。それは乙訓寺に空海さんが移ってからも続いています。しかし、乙訓寺にはあまり密教経典類を持ってきてはいません。最澄さんはなぜだか焦っていたようで、もっとたくさん経典が借りたかったようです。そのこともあってか、最澄さん奈良の帰りに乙訓寺によります。で、一泊していくんです。その時に、空海さんは
「結縁灌頂を受けよ」
といったのだそうです。空海さんも最澄さんの態度にイラついていたのかもしれません。あるいは、暗い陰気くさい乙訓寺に気が滅入っていたのかも知れません。で、密教について話すうち、ついつい、口調が強くなったのかもしれません。
最澄さんも結縁灌頂がどのようなものか知っています。初心者向け、在家でも受けられる、受けたものは事実上指導者(この場合は空海さん)の弟子になる・・・・。
比叡山延暦寺の住職であり、代表者であり、当時の仏教会ではトップクラスの地位であり、7歳も年上の大先輩に、在家と同じ灌頂を受けよ、私の弟子となってやり直せ、と言ってのけたのです。
空海さんの性格からすると、
「経典では密教は学べません。その世界に飛び込まねばなりません。一度、比叡山を離れ本格的に密教の修行をされますか?。」
と聞く程度ならわかります。まずは相手の気持ちを尋ねてみる、ということです。それが、どうも結果を急ぎすぎたような、焦ったものの言い方になっているんですよ。空海さんもどこかイライラしていたのかもしれません。
いずれにせよ、この時点で密教に対する考え方の違いははっきりしていたのですが、何と最澄さん、結縁灌頂を受ける、と言っちゃったんですよ。真面目すぎですねぇ。
「それは無理なので、弟子を何人か預ける。そのものを育てて欲しい。」
とでも言えばいいんですけどね(いずれ、そういうことになるのですが・・・)。最澄さんも焦っていたのでしょうね。
ということで、乙訓寺の一夜でとんでもない約束がなされてしまったのです。これも、怨霊のなせる業?、だったのかもしれませんねぇ・・・・。

まあ、ともかくも怨霊は鎮まりました。その証拠に、嵯峨天皇は怨霊に悩まされることなく、乱心もなく乱行もなく過ごしましたから。それに、乙訓寺も復興し、拡大したのですから、空海さんは大変な思いをしたけれども、成すべき以上のことを成し終えたのです。怨霊を鎮めるということだけでなく、成果は大きかったのですよ。空海さんにとっては、長い1年だったでしょうけど・・・。

           

左)弘法大師から最澄への手紙 風信帖(ふうじんちょう)と呼ばれている(弘仁3年ころ 東寺蔵)

右)灌頂歴名(かんじょうれきめい) 弘仁3年12月14日、胎蔵界の結縁灌頂を受けた者の名簿
最澄さんの名前もみられる(右から三行目と、左上のほう墨で汚れているところ) 神護寺蔵
空海さんが乙訓寺に入ったのが弘仁2年11月です。で、何とか怨霊を鎮め、高雄山寺に戻ったのが弘仁3年10月末ころです。丸1年、乙訓寺で過ごしたのです。
高雄山寺に戻った空海さん、さっそく結縁灌頂の準備にとりかかります。その年の11月15日には我が国初の結縁灌頂(このときは金剛界)を行いました。受けたのは、最澄さん・最澄さんの弟子17人・俗人3人でした。俗人や自分の弟子と同列にされた最澄さんなんですが、潔癖で真面目な最澄さんは、怒ることもなくふてくされることもなく受けております。
翌12月14日、胎蔵界の結縁灌頂が行われます。このときは、最澄さんを含め、僧俗145名の者が受けました。
さて、その後のことです。最澄さんは空海さんに「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」を受けたいのだが・・・、と申し出ます。
伝法灌頂とは、阿闍梨(密教の指導者)の資格を有するために受ける灌頂です。ですので、阿闍梨になれる素質や理解力があるかどうか、いわば密教に向いているかどうかを見極めなければなりません(現代では規定の修行を終えたものはすべて受けられますが)。なので、簡単に受けられるものではないのです。それをいとも簡単に最澄さんは、
「次の伝法灌頂はいつかな?。」
って聞いてしまったんですね。最澄さんに悪気はありません。結縁灌頂をうけたから、次は伝法灌頂かな、という程度のことでしょう。今でいう「天然」だったのかもしれませんね。
それが、空海さんには許せなかったんでしょう。「密教を何だと思ってるのか、灌頂の儀式をどう心得ているのか、わかっているのかこの人は!」、と思ったかもしれません。否、きっと思ったのでしょう。なので、
「あなたが伝法灌頂を受けるには3年かかります。」
と答えました。いくら天台の教学を学んだ者であっても、密教的考え方ができない以上、3年は見といてくださいね、と言う意味だったのでしょう。なるほど、と私は思います。否、きっと3年たっても、最澄さんには密教は理解できなかったと思いますけどね。
もちろん、空海さんもそのことを見越していたと思います。3年も比叡山を離れて高雄山寺に篭れるわけがない、と言う腹積もりだったのでしょうね。体よくお断りしたわけです。尤も、最澄さんが、3年ならば高雄山寺に篭る、といったなら、それはそれでよかったのでしょう。きっと、そういう答えをすれば、3年もかからずに伝法灌頂を受けられたでしょう。でも、最澄さんは、予想通りこう答えました。
「そんなにかかるなら無理だな。じゃあ、弟子を預けるから教えてあげてくださいね。」
どこまでいっても、「天然」だったのでしょうね。空海さんの真意は伝わらなかったのです。空海さんにしてみれば、
「天台を捨てるつもりでかからなければ、密教はわからないですよ。経典を読んだだけでは理解できないんですよ。弟子に教えてあげてって、あなたにとって密教とはその程度のものなのですか・・・。あぁ、失望した・・・・。」
と思ったことでしょう。
で、翌年の弘仁4年の正月、最澄さんは3人の弟子を空海さんに託して、高雄山寺を去ります。その3人の中に後々問題となる「泰範(たいはん)」が含まれていました。
高雄山寺を去った後も、最澄さんは弟子17人に金剛界の伝法灌頂を受けさせています。最澄さんに3年かかる、といった伝法灌頂を最澄さんの弟子にはすんなりと授けているんですね。これも変な話です。最澄さんの必死さに空海さんも断りきれず、弟子ならば・・・と引き受けたのか、はたまた、イヤミなことをしたのか・・・。
しかし、このときは、最澄さんとまだもめていませんでしたから、きっと最澄さんの強い依頼もあったのでしょう。でなければ、「私でもいいじゃないか」となりますからね。この伝法灌頂のときは、最澄さんは受けてませんから、お互い納得した上での伝法灌頂だったのでしょう。しかし、避けられない決裂はやがてやってきたのです。それは、その年弘仁4年11月のことでした。

弘仁4年11月23日、空海さんのもとに手紙が届きます。その内容は「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)を貸して欲しい」というものでした。
「理趣釈経」とは、我々真言僧が毎日読んでいる理趣経というお経の注釈書です。注釈書とはいえ、ただの注釈書ではありません。それは秘伝中の秘伝です。やたらめったら公開していいものではありません。そもそも理趣経自体が、読み方を間違えれば誤解を生じる経典です。実際、真言立川流という邪教が誕生したことがあるくらいです。字面だけを読んで解釈すればとんでもないことになるのです。その注釈書は理趣経の真髄を解説したものですから、やはり字面だけ読んでいるとアブナイんです。密教には、そういうところがあるんです。文字だけでは理解できない部分がたくさんあるんです。だからこそ、空海さんは最澄さんに再三、経典だけではわかりませんよ、実践を学んでください、と注意していたのです。が、それは届いていなかったんですねぇ。最澄さんも頑固な人だったのです。否、最澄さんにとって密教は天台教学の中の一つに過ぎず、経典さえ揃えばいい、と言うものだったのでしょう。密教を学ぶ、密教的考えかたを身につけることはどうでもよかったのでしょう。ただ、自分の宗派内に欠けている教えがあることが許せなかっただけ、なのでしょう。だからこそ、経典を補えばそれでよかったのです。根本的に密教に、否、仏教そのもの対する考え方、姿勢が異なっていたのです。最澄さんは学者さん、空海さんは実践派だったのです。今でいえば、最澄さんは大学の仏教学の教授、空海さんは一僧侶だったのでしょう。意見が合うわけがないのです。

で、最澄さんの申し出に対する空海さんの手紙なんですが、これが辛らつな内容でした。空海さん、怒り大爆発・・・だったのです。


空 海 その7

最澄さんの「理趣釈経」を貸してほしい、という手紙に対して、空海さんは完全に怒ります。その返事は辛辣なものでした。それは、理趣についてわかってないから教えてあげよう、という内容だったのです。
「理趣といいますが、理趣にもいろいろあります。いったいのどの理趣を貸せというのでしょう。(略)理趣には三つある。一つは聞くことができる理趣、二つには見ることができる理趣、三つには思うことができる理趣である。聞く理趣を求めるならそれは自分の言説にあり、他人の言葉に求めるものではない。見る理趣を求めるなら自分自身の肉体を見ればいい、他人の身体に求めるな。思う理趣を求めるなら、自分の心中にあろう。他人の心中に求めるものではない。(略)文章に頼ってはいけない。それは愚かなことなのだ・・・・。」
言葉はかなりきつい表現を使ってます。「盗法」とか「仏をあざむいている」とか「愚人だ、愚人になるな」とか・・・・。7歳年長の最澄さんに対して使うような言葉ではありません。大変失礼な表現です。しかも、かなり長くくどい手紙でした。それほど空海さんは頭に来ていたんですね。
こんな失礼な手紙をもらった最澄さんも頭に来たようです。
「最近出てきた真言家は、手紙の書き方を知らない。書の伝授の大切さを滅ぼす」
というような内容の言葉を書き残しています。

経典を読むことで悟りを得ようとした最澄さん。
経典を読むだけでなく実践で悟りを得よと説いた空海さん。
相容れることは無理なんですね。まったく正反対の位置にいるのですから。しかも、最澄さんは、それが理解できない人だったのですから。実践業の意味がわからない人だったのですからね。
このことがきっかけで、最澄さんと空海さんの仲は壊れてしまったのです。
で、困ったことが起こりました。最澄さんは、自分の後継者にしたかった泰範(たいはん)を空海さんのもとに預けているのです。自分が密教を学ぶことができないから、空海さんのもとでしっかり学んで比叡山に帰っておいで・・・、ということで空海さんに託していたのです。
泰範を預けたころは、まだ最澄さんと空海さんが仲のよいころでした。まあ、空海さんにしてみれば、頑固で文章でしか密教を学ぼうとしない最澄さんに対しては、苛立ちがあったことでしょうが、最澄さん側にはなんのわだかまりもありません。空海さんの気持など気づきませんからね。
しかし、理趣釈経事件があり、二人の仲は決裂。最澄さん、面白くありません。で、最澄さんは泰範に比叡山に帰ってくるように手紙を出します。が、返事がありません。また出します。返事はなし・・・・。
最澄さん、再三手紙を泰範に出しますが、泰範は動きません。動きがあったのは、理趣釈経事件の3年後、弘仁7年のことでした。
最澄さんのもとに泰範から手紙が届きます。それは「比叡山には帰りません、空海上人のもとで修行を続けます、さようなら」という最澄さんとの決別の手紙でした。しかも、なんとその手紙は泰範の文字でなく、空海さんの文字だったのです。そう、空海さんが代筆をしたのです。
後継者にしようと思っていた弟子をとられてしまった・・・・。最澄さんはそう思ったことでしょう。悔しかったでしょうね。でも、実際は泰範が「帰りたくない、空海上人のもとにおいて欲しい」と頼んだんですけどね。まあ、最澄さんにはそれはわかりませんからね。空海さんが意地悪をした、としか思わなかったのでしょう。
これが、最澄さんと空海さんの決別の決定打となったのです。
ちなみに、最澄さんが期待を抱いていた泰範ですが、その後ぱっとしません。空海さんは、真言の後継者としては泰範は選んでませんから。事務的なことはできたようですが、密教的ではなかったようです。最澄さんの目は、どうしても事務処理能力を優先していたようですね。ここにも空海さんとの違いが明確に表れています。



益田池碑銘(陽明文庫蔵)

大和国益田池の工事も弘法大師が担当した。民衆の嘆願によっての工事である。
これは、その池が完成したときの碑銘である。沙門(しゃもん・・・僧侶という意味)遍照金剛とある。
さて、この年・・・弘仁7年・・・は、空海さんにとっても大事な年となります。空海さん43歳の年です。空海さんは、この年に嵯峨天皇に真言密教の根本道場・修行道場として高野山をください、と願い出ています。
高野山は、現在の和歌山県にあります。標高約900mほどの山です。周囲を八つの峰で囲まれ、山頂は平らになっています。それはあたかも、胎蔵界曼荼羅の中心部分のような地です。空海さん、若いころ(大学を辞めてしまったころ)に奈良などの山野を駆け巡っていたのですが、そのころに高野山と出会っていたんですね。で、高野山が修行場としてこの上なく素晴らしい「気」をもった土地だとわかっていたのでしょう。
時機到来。空海さん43歳にして、嵯峨天皇に「高野山をください」と願います。この願いは即座に許可がおります。空海さんはすぐに弟子を高野山に向かわせます。そして、自分自身も翌年には高野山に登ります。
さて、ここで一つ有名な伝説があります。それは空海さんが、高野山に登り、あちこちを見て回っていた時のことです。弟子のひとりが、平たく広がった所に生えていた松の木を指さして言いました。
「あの松の上が光り輝いています。なんでしょう?。」
空海さんをはじめ、弟子らとともに松の下まで行くと、何と光り輝いていたのは密教の仏具の一つである「三鈷(さんこ)」でした。それも大きめのものでした。
「おやおや、あの三鈷は、私が唐で投げたものじゃないか・・・。」
そうなのです。空海さん、唐から日本に帰る時に、
「私が日本で密教を広めるための根本となる場所を教えてください」
と願って海岸から日本に向かって三鈷を投げたんです。その三鈷が、高野山の松に引っ掛かっていたんです。
「そうか、やはりこの地で正解だったのだ。この地こそ、密教の根本の聖地になる場所なのだ。」
と、空海さん大喜びしたそうです。
その後、その松は「三鈷の松」と呼ばれ、現在も高野山の伽藍・御影堂(みえどう)の前に植わっています。(三代目、という話らしいです)。実はこの松、葉っぱが変わっております。松は、通常葉っぱは2本でています。二股になっているんですね。ところが、高野山のこの松の葉っぱは、3本なんです。あのツンツンの葉っぱが2本じゃなく、3本なんですね。三鈷が引っ掛かっていたから3本の葉っぱになった・・・・そうですが、あくまでも伝説ですからね・・・・。

さて、空海さん、このころより大忙しとなります。高野山に七堂伽藍も造りたい。そのために資金集めもしなきゃいけない。しかも、天皇からの呼び出しもある・・・・。大変です。身は一つですからね。
弘仁8年、天皇から呼び出された空海さん、高雄山寺に戻ります。そこで、中務省勤務を命じられます。この仕事は、天皇そばに仕えて詔勅文や上表文を受け付ける役目です。つまり、都の人々や地方の人々の嘆願書を受け付けるのです。また、全国の僧侶や尼僧の名簿などの整理、国史の編纂なども行ったようです。
まあ、それは名目だったのでしょう。本当は、嵯峨天皇は空海さんを自分のそばに置いておきたかったのでしょう。空海さんがそばにいないと不安でどうしようもなかったのでしょうね。で、高野山に行ったきり帰ってこない空海さんを呼び戻すために役職を与えたのです。嵯峨天皇は、何かと空海さんを頼っていたのです。
空海さんは、人々の嘆願を聞く仕事は嫌ではなかったようです。中には、願いを聞いて、
「よし、わしが嘆願書を書いてやろう」
と代筆を引き受けてもいたようです。詔勅文・上表文、いくつも代筆をしていたようですね。つまり、自分で書いて願い出て、それに自分で答える・・・・ということをやっていたようです。これも人々のため・・・・、と思っていたようです。
空海さんは、忙しいのです。一つには天皇の相談役をやらねばなりません。一つには民衆の嘆願書にも目を通さねばなりません。また、一つには高野山の開創にも指示を出さねばなりません。資金集めも引き続き行わねばなりません。
そのころ、最澄さんはというと、南都仏教の僧侶たちと揉めていました。最澄VS南都仏教が、いよいよ激しくなってきたのです。空海さんはというと、われ関せずでした。自分のことで精いっぱい、といったところだったのでしょう。

先にお断りしておきます。これは伝説です。史実かどうかは不明です。ご承知の上、お読みください。
弘仁9年、空海さん45歳の年。その年の春に都に疫病がはやります。かなりひどい有様だったようで、道端に遺体が転がっているほどであった、そうです。このことを憂いた嵯峨天皇は空海さんに相談します。すると、
「紺色の紙に金泥で般若心経をお書きください。書き終えたら、そのお写経にて修法いたします。」
と嵯峨天皇に告げます。天皇は言われたとおり、紺紙に金泥で般若心経一巻を写します。天皇、それを空海さんに渡します。空海さんは、その写経を元に般若心経の内容を講じ始めます。
「般若心経とは・・・・・」
と。すると、その講義が終わる前に、人々の疫病は回復に向かい、助かった人々で街はあふれかえったそうなのです。空海さんは、
「人々が助かったのは、私の修法によるものではない。天皇陛下が般若心経を書写した功徳によるものだ。」
と人々に教えました。
これが、のちにまとめられて「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という書になっているのです。
この書の奥書に
「時に弘仁九年の春、天下大疫す。ここに帝王自ら黄金を筆端に染め・・・般若心経一巻を書写し奉る。・・・蘇生の輩道にたたずむ・・・・。」
とあります。このため、弘仁九年に疫病が流行し、お大師さんが般若心経の講和を行ったがために疫病は治まった、という伝説が生まれたのです。
この伝説は、本当かどうかはわかりませんが、これ以来、「般若心経秘鍵」は病気平癒や諸願成就、魔除けに効果がある、とされてきました。なので、今でも我々が日常使っている経本の中に、この秘鍵が含まれています。
このほかにも、このころいろいろな伝説を生む事柄があったようです。

さてはて、史実に戻りましょう。
中務省の仕事を受けてから2年ほどたってからのこと、空海さんにとっては大事な請願書が朝廷に出されました。それは、空海さんの故郷、讃岐の国からのものだったのです。


空 海 その8

弘仁12年、空海さん48歳の年、空海さんは故郷讃岐の国へと向かいます。その前年、中務省に勤める空海さんのもとに一通の嘆願書が出されました。差出人は讃岐の国司です。それは、満濃池の修築の願いでした。
「去年より修築工事をしている満濃池ですが、未だに完成しません。雨が降れば瞬く間に堤は決壊してしまい、多くの民の命が奪われています。中務省の空海様は我が讃岐の国のご出身。その名声は都より讃岐まで届いております。どうか故郷の讃岐を救ってください。空海様を別当に任命していただき、堤の完成をしていただきたい。」
満濃池は西暦700年頃から造られた広大な溜池です。三方の山を利用し、一方に堤を造るという構造でした。雨の少ない讃岐の田畑のための池です。しかし、あまりにも大きな池であるため、堤は水圧に耐えきれず、しばしば決壊したのです。ひとたび堤が決壊すればそのあたりの村落は水浸しでした。多くの死者も出したようです。そんな水との戦いが120年ほど続いていたのです。
空海さんは立ち上がりました。
「私に任せなさい。」
そういうと、空海さんは讃岐国に向かったのです。

讃岐の国に到着すると、空海さんは早速、満濃池付近の岩山に護摩壇を築きました。
「私がここで御仏様に護摩をたいて祈り続けましょう。みんなは私が書いた図のように池の工事を行うのです。そこを丸くし、堤を弓なり状に築くのです。さぁ、工事に取り掛かろう。」
空海さんの指導のもと、讃岐の人々はよく働きました。空海さんは毎日護摩をたき続けた、ともいわれています。
工事すること約3か月。満濃池の堤は完成しました。3年かかっても完成しなかった堤が3か月で出来上がってしまったのです。そして、その後、この満濃池は一度も堤が決壊することなく、民衆の田畑を潤したのです。
満濃池がなぜ決壊しなったのか。それは、池の底をアーチ状にして、水圧が分散するようにしてあるからなのだそうです。この工法は現在でも用いられているそうです。水底をアーチ状にすれば堤にかかる水圧をも逃がしてくれるのだそうです。難しいことはわかりませんが、空海さんはこの工法を唐に行った時に学んできたようです。空海さんが滞在してころの唐は、数学も物理学もほぼ現在と同等レベルまで進んでいたそうです。大きな建造物を作っていた唐の都ですからね、当然といえば当然かもしれません。
空海さんは、求聞持法を成功させていますから、一度書物を読めばすべて記憶できますからね。唐で学んだ密教以外のことがらも、ずいぶん多くあったようです。それは、水の出ない村で水脈を見つけたり、有毒ガスを含んだ熱湯(温泉の源泉)の利用法を教えたり、水銀の鉱脈を見つけたり、原油の使い方を教えたり、広範囲に渡っています。こうしたことが、後々弘法大師伝説を生んでいくのでしょう。唐に渡って、自分の目的である密教だけを学ぶのではなく、学べるものはすべて吸収しようというところが、最澄さんと大きく異なるところですね。最澄さんは、自分の学ぶこと以外、目に入らない方だったようですから。まあ、実直といえば実直なんですが・・・・。

余談でした。
讃岐から帰った空海さん。またまた、日常の忙しさに追われます。
翌年、弘仁13年。最澄さんが入滅します。空海さんと決裂し、南都の僧たちと争い、都からも次第に離れていってしまった最澄さん。自説にこだわりすぎ、他を容認できず、孤高の人であった最澄さん。
「大きな星が一つ消えた・・・・。」
空海さんにもショックがあったことでしょう。
しかし、世間は空海さんを離しません。弘仁14年、空海さん50歳の年、嵯峨天皇より
「東寺を鎮護国家の寺とし、空海がその任にあたよるよう命ずる。」
という勅書が届くのです。


      

三十帖冊子(仁和寺)

お大師様が恵果阿闍梨から受けた教えを書写した冊子。お大師様だけでなく橘逸勢による書もある。
東寺は都が京に遷都されて間もなく建立され始めましたが、30年ほどたっても完成には程遠い状態でした。元来、都の裏鬼門を守るため建立され始めた東寺なのに、それがいまだ完成していないのは朝廷にとっても大きな問題でした。空海さんは、120年もの間、不出来を繰り返してきた満濃池をたった3か月で完成させました。天皇にしてみれば、
「そんなこともできるのか!。」
と驚きだったようです。そこで、遅々として進まない東寺の完成を任されたのです。空海さんはこれを大いに喜びました。
「東寺か・・・。ならば、ここを密教の根本道場としよう。」
ようやく空海さんの夢がかなうチャンスがやってきたのです。
空海さんは、高野山は都から遠いため、修行道場としての役割を持たせたかったようです。人里離れた山中のほうが、密教の理解・・・・自然と一体化する、御仏と一体化するという体験・・・・が深まると考えたのでしょう。しかし、都から遠いということもあり、なかなか足を向けられません。寺院建立の工事の費用も空海さん個人で賄わねばならず、工事自体は遅れておりました。密教を布教する場所として機能するには、まだまだ時間がかかりそうでした。
そんな折の東寺の御下賜です。費用は国が負担してくれます。都にも近い。空海さんには願ってもないことでした。

空海さんは、唐から持ち帰った密教経典や仏像、法具、曼荼羅などの佛画をすべて東寺に集めました。そして、密教以外の僧が住まうことを禁じ、密教一色に統一したのです。
「東寺を今後、教王護国寺(きょうおうごこくじ)と改名し、我が真言宗以外の宗派は禁ずる。」
空海さんが、真言宗という一宗派を名乗り始めたのは、遡ること10年ほど前のことです。弘仁3〜4年ころのこと、と言われております。空海さんは、東寺を真言密教の専門道場としたのです。
(今でも東寺は「東寺」と呼ばれていますが、教王護国寺という名も残っております。というか、正式名が「教王護国寺」、通称「東寺」です。なお、真言密教を「東密(とうみつ)」、天台密教を「台密(たいみつ)」と呼びますが、東密は「東寺の密教」という意味です。)

30年かかっても完成しなかった東寺ですが、空海さんが任に当たってから3年で講堂が完成しました。その講堂の中には、21体の仏像を安置しましたが、これは立体的に曼荼羅を造りだしたものです。日本初の立体曼荼羅が東寺の講堂に現れたのです。天長3年のことです(なお、嵯峨天皇は弘仁14年に譲位した。翌年から天長となる。即位したのは、淳和天皇。一説によると、譲位を勧めたのは空海さんらしい)。
この年、空海さんは引き続き五重塔の建立に取り掛かります(完成は50年後のことです。なお、9世紀に焼失。その後再建された。日本最大の五重塔。国宝)。

さて、東寺にばかり関わっていられないのが空海さんです。忙しいのです。東寺を賜ったその年に、嵯峨天皇に譲位を勧めました。嵯峨天皇は疲弊していたようですね。もともと政治家というよりは文化人であったようです。上皇となった嵯峨天皇は、今の大覚寺に住まわれました(大覚寺は真言宗大覚寺派の本山ですが、もとは嵯峨天皇の隠居所だったそうです。時代劇にでてくるお白州が有名です)。
翌年、天長元年には雨乞いをしています。この年、都は大干ばつに見舞われます。雨が一滴も降らないんですね。空海さんは東寺のことで忙しかったので、初めは別の僧侶達が雨乞いをしたそうです。しかし、効果なし。そこで淳和天皇、
「空海上人、忙しいところ悪いんだけど、雨乞いしてよ。他の坊さんに頼んだんだけど、ち〜っとも効果がなくって・・・。」
と空海さんに雨乞いを命じます(命令ですので、口調はもっと固いですよ)。
空海さん
「わかりました。やりましょう。では、竜神に祈るので、神泉苑を貸してください。」
いとも簡単に引き受けたのです。
もちろん、効果抜群。空海さんが祈ると、善女竜王が降臨し、瞬く間に雨を降らしたそうです。
この業績により、少僧都(しょうそうず)に任命されますが、空海さんは辞退されています。(当時の僧の位は天皇が決めていました。官位の一種だったのです。ほとんどは律師。しかも、各宗派によって人数が決められていました。僧都(そうず)の位に上がるには、それ相応の働きがないとあがれません。当時は、僧都に上がるには、大変苦労したようです。現在の真言宗では、少僧都は中の下ほどの位です。)
空海さんは、官位にはまったく興味がなったようです。天長4年には大僧都に任ぜられていますが、これも辞退したようです。官位に縛られるのが嫌だった、とも思われますし、天皇から位を頂かなくても御仏様にいただいているから・・・・という思いもあったかもしれません。

さて、空海さんの仕事は順調に進んでいきます。東寺も先が見えてきました。工事も順調です。天皇に呼ばれていろいろな修法もしました。民衆のためにも働いています。そんな中、空海さんにはもう一つ夢がありました。それは、民衆のための学校を開くことです。
「さて、そろそろ次にいくかのう。次は、学校だな。」
日本初の民衆のための総合私立学校のオープンです。


空 海 その9

天長5年、空海さん55歳の年、空海さんの夢の一つであった民衆のための学校を開きます。その学校の名前は
「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」
といいます。東寺の隣に創られました。
当時の学校といえば、諸国には「国学」という地方官僚育成のための学校があり、また中央に高級官僚養成のための(公卿の子息のための)大学がありました。かつて空海さんも讃岐の国学で学び、中央の大学にはいりました。半年で飛び出しましたが・・・。それ以外には、和気広世や藤原冬嗣が開いていた私塾がありました。しかし、それらはいずれも公卿の子息のためのや豪族の子息のためのものでした。一般庶民のための学校はなかったのです。
空海さんが目指したのは、一般庶民のための学校です。貧富の差に関わらず、学びたいという志があればだれもが入れるという学校でした。しかも、その学校は仏教を学ぶだけの学校ではありません。生きるための智慧や技術を学ぶための学校だったのです。
「綜芸種智院」という名は、いわば「総合技術・諸教育の学校」と言えるでしょう。「綜芸」とは、「あらゆる技術、芸術」という意味です。「種智」とは「いろいろな知識、知恵」です。そうしたことを庶民に教えるのが、空海さんの学校だったのです。
したがって、その学校では「医術、土木建築技術、科学、その他の工芸技術、音楽、調理、仏教、儒教、道教、陰陽道、和歌、漢詩、書道、社会常識」などを教えていました。ありとあらゆることを教えていたので、この学校を卒業すれば、どんなところでも生きていける・・・という人間になったのです。
それだけではありません。この学校は一切費用がかからなかったのです。

「綜芸種智院」の運営は、公卿による寄付金で賄っていました。公卿がスポンサーだったのです。ですので、この学校で学びたいと思う者は、誰でも入学できたのです。衣食住を完全提供したのです。学校としては、理想的ですね。
この理念は、現在の学校教育にも通じるものがあるでしょう。教育を志す方は、ぜひこの「綜芸種智院」の理念を学んでほしいものだと思います(お大師様の著作に「綜芸種智院式」という、この学校の理念を説いたものがあります。読んでみてください)。

が、しかし、費用をすべてスポンサーに任せる、というのは限界があります。「空海」という大きなカリスマが存在していた時はいいのですが、空海さんが入定されたあとは、思うように費用が集まらず、やがて「綜芸種智院」は閉校となります。お大師様がいたからこその学校だったわけですね。
ですが、お大師様の意志は引き継がれ、「綜芸種智院」は「種智院大学」として復活しております。もちろん、京都にあります。学生数も多いようですよ。ただし、衣食住を無料提供しているわけではないので、ご注意ください。普通の私立大学と同じです。

さて、空海さん、自分の持ってい夢を次々と実現してしまいました。そう、もうやることが無くなったのです。朝廷守護のための、鎮護国家のための寺・東寺(教王護国寺)もほぼ完成しています。学校も創りました。都も落ち着いています。平安時代で、この時期が最も平穏無事だったころでしょう。もう都でやることはありません。一つ、やり残していることといえば、真言宗の修行道場である高野山の整備です。大伽藍の整備ですね。空海さんは、高野山に戻りたかったのです。
ところが、天皇は空海さんを離したがりません。少僧都は辞退しましたが、今度は大僧都です。辞退しましたが、許されていません。何度も病気を理由に辞任届を出していますが、受理されないのです。
空海さんの辞任が受理され、一切の役職から解放されるのは天長9年、空海さん59歳の時でした。

       

左)御遺告(ごゆいごう)  中央)弘法大師   右)大師行状図画 入定留身(にゅうじょうるしん)

いずれも高野山金剛峯寺蔵
「やっと高野山に戻ることができた・・・。やれやれだな・・・。さて、伽藍の整備をしなければな・・・。」
と、空海さんは決意を新たにしたのではないかと思います。
高野山を参拝された方ならわかると思いますが、高野山はやはり特別です。他の真言宗寺院や密教寺院にはない、他宗派の本山にはない、独特の深さと大きさがあります。確かに空のように大きく、海のように深い・・・・そういう感じがします。高野山は御仏が生きている、曼荼羅そのものなのです。それは、お大師様がどうしてもこの世に実現したかったであろう、曼荼羅の世界なのです。

晩年の空海さんは、この世に御仏の世界・・・・浄土(密教では密厳浄土・・・みつごんじょうど・・・といいます)を造りたかった、のでしょう。その浄土にいだかれ御仏と共に修行する聖地が高野山なのです。
高野山に戻った年の秋に万灯万華の大法会(この法会は現在でも毎年10月1日〜3日の間、行われています)を行います。その時の願文に空海さんの本心が表れています。大変有名な句なので、掲載しておきます。
「虚空つき、衆生つき、涅槃つきなば、わが願いもつきむ」
意味は、
「この宇宙がなくなり、生きとし生けるものもなくなり、覚りもなくなったならば、私の願いもなくなるであろう」
ということです。つまり、
「宇宙も生命体もなくなってしまい、覚りだの迷いだのということがなくなるまで、私は命が幸せになることを願い続けます」
ということですね。これは、菩薩そのものの境地なのです。なんと大きな願いでしょうか・・・・。ここに弘法大師様の大きさがうかがい知れますね。

天長10年の春、淳和天皇は嵯峨天皇の皇子に譲位します。その年の秋ころより、空海さんは食欲が極端に落ちてきていました。「穀味を厭いて、専ら坐禅を好む」と「御遺告(ごゆいごう、お大師様が入定する前に弟子に書き取らせた遺言)」にあります。体調をかなり崩していたようです。
翌年、承和元年の末、空海さんは玉体安穏・五穀豊穣・鎮護国家を祈るために宮中に真言院を創設することを願い出て、許可されています。許可が下りましたので、翌年承和2年の正月には宮中の真言院にて御修法(みしゅほう)を奉修しています(これは現在も高野山など真言宗各本山にて奉修されています)。
続いて、東寺に毎年3人の真言宗専門の僧侶を得ることが許可されています。さらに2月には高野山金剛峯寺が定額寺(国から資金が供給される寺院)に認定されます。このように、承和に入り、一気に様々な許可が下りているのです。
空海さんは、急いでいたようです。体調はかんばしくなく、食も進んでいませんでした。というよりも、五穀を断っていたようです。そして、弟子たちを集めて言葉を残します。
「吾永く山に帰らむ。今年三月二十一日の寅の刻に入定する」
と。すなわち、自らの肉体が滅することを予言したのです。が、それは同時に、高野山に永遠に住み続けるのだ、という言葉でもあります。
「永く山に帰る」
いかにも、お大師さんらしい言葉ではないでしょうか。

そして、予言通り、承和二年(西暦835年)三月二十一日寅の刻、空海さんは現在の高野山奥の院に入定されたのです。しかし、空海さんは亡くなったのではありません。今も生き続けています。よくよく精神を集中して、祈り続ければ、必ずやその声が聞こえるでしょう。多くの人々が、お大師様の声を聞くため、出会うために、高野山に登り、奥の院の御廟前にて額ずくのです。
なお、「弘法大師」の号を天皇より賜ったのは、醍醐天皇の時代、延喜21年(西暦921年)の時です。空海さん入定後、87年を要しています。最澄さんが「伝教大師」の号を賜ったのが最澄さん入滅後44年ですから、空海さんの活躍の割には大師号を賜ったのは遅かったようです。空海さんの弟子たちは、宮廷に取り入るのが下手だったのでしょうね、きっと。
とはいえ、
「大師は弘法にとられ」
という諺にもあるように、大師といえば弘法大師です。皆さんは他の大師を何人ご存知でしょうか?。それほど、弘法大師は特別な存在として民衆の中に溶け込んでいるのです。それは、各地に弘法大師伝説が残っていることでもわかることでしょう。
合掌。


空 海 その10

今回は、各地に残る「弘法大師伝説」を少々ご紹介いたします。
弘法大師伝説は、全国各地に残っている、と言っても過言ではないでしょう。九州から東北地方まで、各地に「あれはお大師様だったんだ」というような伝説が残っています。
もちろん伝説ですから、真実かどうかはわかりません。それに「弘法大師」という号は、お大師様が高野山に御入定されてから80年ほどのちのことです。ですから、「あれはお大師様だった」というのは、後付けですよね。
お大師様は、若いころ、何年も行方不明になっています。そんなころ、全国各地旅をしていたのかも知れません。近畿や中国・四国・九州地方はきっと巡り歩いていることでしょう。関東から東北は、ちょっと不明ですが・・・・。で、そんなころ、各地で水を出したり、温泉を出したり、病気を治したりなど、いろいろ不思議なことをしたのかも知れません。それが、その地に残って語り継がれ、やがては・・・
「そういえば、じい様から聞いているお坊様のお話は、きっと弘法大師様だったんじゃのう」
「このあたりに伝わる昔話の偉いお坊様は、きっとお大師様に違いない」
というように、伝説はできあがっていったのではないかと思うのです。伝説って、そういうも・・・ですからね。
と、伝説の内容を深く勘ぐるのは止めまして、素直に読んでみたいと思います。昔話として・・・。

「弘法も筆の誤り」伝説
「弘法も筆の誤り」という諺の元になった伝説です。京都御所の「応天門」に額を掲げることになったお大師様。さささっと見事に「応天門」と書き上げました。で、門にその額を掛けてみると・・・・、なんと「応」の字の点が一つ抜けています。
「おぉ、これはいかん、応の字の点を一つ書き忘れたわい」
「こ、これはいけませんねぇ。額を外しましょうか?」
お役人がお大師様にそういうと、お大師さまは
「いやいや、そのままでよい」
と言うや否や・・・・ひょいっと筆を額に向けて放りあげた。すると・・・。
見事、筆は額にあたり、書き忘れた応の字の点がつけ足されたのです。
お大師様のような書の達人でも書き損じをするのですよ。間違いは誰にでもあるものです。他人の間違いは、笑って許してあげることも大事ですな。それと、どんなに慣れたことでも油断大敵。
弘法も筆の誤り・・・・のお話でした。


「弘法の手ぬぐい」伝説
旅の僧が、小川で大根を洗っていた下女に
「すまんが大根を一本譲ってくれんかのう」
と頼んできた。その下女は、旅の僧が困っていると知って、快く大根を僧に差し上げた。
下女は、そのことを奥さまに報告すると、
「このバカ女が!。さっさと大根を取り戻してこい!」
と叱られてしまった。
下女は、奥さまの言いつけ通り僧に大根を返してくれるように頼みに行った。
「ふむふむ、そういうことか。お前さんも大変だのう。よし、大根は、まだ食うておらんからお返ししよう。それとじゃ、これをお前さんにあげよう。お前さんの心の優しさへのお礼じゃ」
そういうと、その僧は大根と一緒に手拭いを下女に渡したのだった。
「毎朝、その手拭いで顔を拭くといい」
と言いながら。そして、その僧は旅立っていった。
下女は、その僧の言いつけの通りに、毎朝もらった手拭いで顔を拭いた。すると、下女の顔は日増しに美しくなっていくではないか。
日に日に美しくなっていく下女をこっそり見ていた奥さまは
「ははぁ〜ん、あの手拭いがあやしい。取り上げてやる」
と、下女から手拭いを取り上げてしまった。そして、毎日自分の顔をその手拭いで拭くと・・・・。
なんと、奥さまの顔は見る見るうちに醜くなっていったそうな。
きっと、その手拭いをくださったのは弘法大師様に違いない。お大師様のお力のこもった手拭いだから、その手ぬぐいで顔を拭くと心の中身が顔に出てしまうのじゃ・・・・と噂し合ったそうである・・・・。

心美しき者は姿も美しくなり、心醜い者は姿も醜くなる・・・というお話ですな。強欲な心を持っていると、顔も強欲になる・・・・ということです。心は顔に現れますからねぇ。

似たような話に「継子いじめ」の話があります。
先妻の子に機を織らせ、自分の子には贅沢をさせていた女房がいた。ある日、旅の僧がその家によって足を拭く布を所望したので、機を織っていた先妻の娘が織っていた布を施した。その僧は御礼に顔を拭く布をくれた。先妻の子が毎日その布で顔を拭くと、とても美しい娘へと変わっていったのだった。
それを知った後妻は、慌てて自分の娘に機を織らせ、それを旅の僧に渡した。僧は顔を拭く布を渡す。ところが・・・。
後妻の娘がその布で顔を拭くと、たちまち醜い顔になってしまったのだ。
慌てて心にもない善行をしても、旅の僧はちゃんと見抜いていたのだ。きっと、その旅の僧こそ弘法大師に違いない・・・。
という話です。
こうした話は東北地方に多いそうです。それにしてもお大師様、ちょっと罰が厳しいようで。継子いじめの場合など、後妻が罰を受けるべきなんですけどねぇ。ま、先妻の子を親子でいじめていたのかも知れませんけどね。




旅姿のお大師様。こうして各地を巡り、伝説を残していかれたのでしょうか・・・。

温泉を出すことでもお大師様は知られていますよね。有名な伝説は、伊豆修善寺の「独鈷の湯」でしょう。
「独鈷の湯」伝説
弘法大師様が伊豆の修善寺あたりを旅していた時のこと。大師は川面から湯気が立ち上るのを見た。
「ほほう、これはこれは・・・」
そういうと大師は、加持祈祷を始めたのだった。そして、そばの盤石を
「えいっ!」
と言って、独鈷つくと、熱湯がほとばしったのであった。それは薬湯であった。
大師は村の皆に、病に効く湯であることを伝えた。村人は、その湯を引いて温泉とし、身体を癒したのである。
これが修善寺温泉の由来である。

似たような話は、各地にあります。たとえば、群馬県の川湯温泉もそうです。
旅の僧がある村にやってきた時のこと。老婆が小さな桶で不自由そうに洗い物をしていた。旅の僧は、ちょうど喉が渇いていた。
「婆さんや、ちょっとでいいから水を頂けぬかのう」
「お坊様、今すぐ水を差し上げたいのだがのう、ほれ、この通り水は汚れておる。ちょっと待っておくれ。今、水を汲んでくるからのう」
「婆さんや、どこまで水を汲みに行くんじゃ」
「ここでは水がでないんじゃ。だから、そこの山を下った谷川まで汲みに行くんじゃ。水には苦労しております」
「ほう、それは気の毒な・・・・。婆さんや、その桶に残った水をそこに置いてある鉢に入れなされ」
婆さんは、変なことをいうお坊様じゃ・・・と思いつつもその僧の言うとおりにした。するとその僧は、何やら呪文のようなものを唱えると
「えいっ!」
と言って持っていた錫杖で鉢をついたのだった。錫杖は鉢を割って地面に深く突き刺さった。すると・・・・
「うわ、なんじゃなんじゃ。あ〜、お湯じゃ、お湯が湧きよった」
なんと、錫杖でついた所からお湯が湧きだしたのである。
「この湯は飲める湯じゃ。もちろん、浸かれば身体にいい。これで水に難儀せんじゃろう」
そういうと、その僧は旅立っていったのだった。
「ありがたや、ありがたや。あのお坊様はきっと弘法大師様に違いない。あぁありがたやありがたや・・・」
老婆は、いつまでも手を合わせていた・・・・。
心根の優しい人には、どこまでも慈悲深いお大師様なのです。


旅をするお大師様。たまにはちょっと嫌味なことをして人々を戒めたこともあります。
旅が長く、衣も袈裟もひどく汚れ、ボロボロになっていたお大師様。それでも構わず、托鉢をしながら旅を続けていた。
ようやくある村に辿り着いたときのこと。その村の長者らしき家に立ち寄り、食を乞うた。しかし、あまりのみすぼらしい姿に
「お前さんに食わせるものはない」
と、むげに断られてしまった。そのあと、どの家に行っても
「ご無用じゃ」
と断られてしまう。
「ふむ・・・。そういうことか」
お大師様、大きな木の下で結跏趺坐をして何やらお経を唱えると・・・・、なんと立派で豪華な袈裟を衣つけた姿に大変身された。
その姿で村の長者の家に行くと・・・。
「これはこれは、立派なお坊様。旅の途中でいらっしゃいますか。さぞやお疲れでしょう。どうぞ中でお休みください」
そういって長者は、お大師様を座敷に案内した。そして、
「これは当家で作ったぼた餅です。どうぞお召し上がりください」
と言って、あんこたっぷりのぼた餅を差し出した。
「これはこれはありがたや。では頂くとしましょう」
お大師様はそういうと、なんとぼた餅を袈裟や衣に塗りたくったのだった。
「これはこれは、お坊様。なんてことをなさる」
驚いた長者は、あわててお大師様の手を止めようとした。
「いやいや、いいのじゃ。このぼた餅をもらったのはわしじゃない。この衣や袈裟なんだからのう」
そう言って、ニヤッと笑ったお大師様。
「あぁ、そのお顔は・・・先ほどの乞食坊主!。あぁこれは・・・いやはや・・・。ははぁ、恐れ入りました」
「さて、衣も袈裟も腹が膨れたようだから、帰るとするかのう」
そういうとお大師様、もとのボロボロの姿に戻ったそうな。後に残ったのは、口をあんぐり開けっ放しの長者様だった。
人を外見だけで判断してはいけない、というお話ですね。


最後にちょっと心温まるお話を・・・。
ある雪の深い村を旅していたお大師様。村はずれの一軒家に辿り着いた。月も凍りつくほどの寒い夜であった。
「申し訳ないが、今夜一晩世話になれないかのう」
その家には、老婆が一人で住んでいた。
「寝るだけしかできませんが、それでもよろしければ休んでいってくだされ」
老婆は、お大師様を家の中に入れたのだった。
「ほんに、何もなくてのう・・・。お坊様に差し上げる食べ物は、なんにもあらせん・・・」
「いやいや、火があれば結構です。これで凍えて死なずにすんだ」
「そうや、お坊様、ちょっと待っておくれやす。よっこらしょっと・・・」
そういうと、老婆は足を引きずりながら、外へと出ていった。
しばらくして帰ってきた老婆の手には大根と菜っ葉があった。
「これでも煮て食べて下され」
老婆そう言うと、囲炉裏にかかった鍋に大根と菜っ葉を放り込んだ。
「婆さん、済まぬのう。温まるわい」
そういうと、お大師様はお経を唱え始めた。すると・・・。
「おや、急に雪が降り始めた。さっきまで星が輝いていたのに。不思議じゃのう」
その雪は、一晩中降り続けた。そして、他人の畑を歩いた老婆の足跡を消し去ったのであった・・・・。

お大師様は、他人の畑から盗んでしまった老婆を守るため、雪を降らせたのです。他人の畑には、足を引きずったとわかる足跡がくっきり残っていました。翌日、老婆は村人に責められるでしょう。村人から見捨てられひっそりと生きる哀れなる老婆。責められるのは慣れている、殴られて死んでも構わないと言わんばかりにお大師様に施した老婆。その心根に打たれたお大師様だったのです。
このお話は、中部地区の雪国に残っているお話です。長野から飛騨地方ですね。「跡隠しの雪」という題名が付いています。


大師伝説は、この他にもたくさんあります。天の邪鬼と喧嘩するお大師様の話(大師は、天の邪鬼が苦手だったという伝説もあります)や、女難に遭う話(落語になっています)もあります。興味のある方は、ネットでも出ているようですので、調べてみてもいいですよね。
さて、弘法大師空海伝は、今回までにいたします。次回は、別の高僧についてお話いたします。合掌。



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