バックナンバー12・高僧部

高僧部


円仁と円珍

今回は、天台宗の高僧、円仁(えんにん)と円珍(えんちん)について紹介いたします。
この二人は、最澄さん亡き後、天台宗を現在の密教を主体とした宗派へと変革し、現在の天台宗の基礎を固めた高僧です。今の天台宗があるのは、このお二人の力によるものが大きいのです。まずは、円仁からです。

円仁(えんにん、794〜864)
出身は下野国です。幼くして父親を亡くし、母親に育てられました。長兄が漢詩に通じており、兄について学問を学びます。そして、8歳になった時、地元のお寺に弟子入りします。そこで才能が開花するんですね。数年でその寺にあった経典類すべてを理解してしまうんです。
で、田舎のお寺にいてはもったいないというので、14歳で比叡山に登り最澄さんの弟子になります。808年(大同3年)のことです。このころは、最澄さん全盛期のころ(やや陰りが見え始めたころですが)ですね。最澄さんは、宗教界のトップですから、とうぜん天才肌であった円仁は比叡山へ行きます。
しばらく比叡山で修業を重ねますが、この間、比叡山の盛衰を目の当たりにします。822年には最澄さんが寂しく涅槃を迎えます。円仁さん28歳の時ですね。世間では空前の密教ブームとなっています。天台の教えは忘れ去られたかのようでした。
円仁さん、何を思っていたのでしょうか、それから6年後、34歳の時(828)、故郷に布教のために戻ります。が、故郷での生活は長く続かず、思うところあり再び比叡山に戻ってしまうのです。で、現在の横川中堂に籠ります(このときに籠った草堂が後の横川中堂となるのです)。
都は密教一色。空海上人が大活躍でした。どこへ行っても、どこから聞こえてくる話も
「空海上人がすごいことをした」
ということばかり。最澄さん亡き後は、直弟子の義真が第2世天台座主(ざす)を務めていましたが、相変わらず都は密教密教・・・。
「このままではいけない。このままでは天台の灯が、比叡山の灯が消えてしまう・・・・」
きっとそう思われたことでしょう。そこに一つのチャンスが生まれます。空海上人が入定された、という話が舞い込みます。835年のことです。
「もし、私が密教を学んだとしたら・・・」
そう円仁さんは考えたのかも知れません。そうすれば比叡山は再び盛況になるであろう・・・・と。
これはあくまでも想像ですけどね。しかし、実際に円仁さんは、838年40歳のとき、密教の巨星空海上人が入定されて3年後、唐へ渡ったのです。
40歳にして唐へ渡るというのは、無謀でしょう。まあ、逆に余命いくばくもないから最後の賭けに出た、とも思えますが。いずれにせよ、この入唐は大成功でした。唐に滞在すること10年。円仁さんは天台教学と当時の唐の密教を学んで帰国したのです。50歳になっていました。

帰国後、比叡山の教学を密教化することに心血を注ぎます。法華経第一と並行して、天台教学に密教を溶け込ませるという新たな教えを確立したのです。そして、854年、円仁さんは60歳のとき、第三世天台座主になったのです。
こうして、死を迎えるまで10年間にわたり、天台宗本山である比叡山の復興に尽力したのです。円仁さんにより、現在の天台密教が確立されたのですね。
つまり、円仁さんによって最澄さんが興した日本天台宗は、最澄さんの思惑とはやや変わって、密教化されたのです。しかし、単に密教一色だけではなく、法華・涅槃・禅すべてを並列に学ぶという最澄さん以来の伝統は残りました。
まあ、これが後々、鎌倉時代の新仏教を生む原因となるのですが・・・・。
現在の比叡山の教学を確立した円仁さん。この方の存在は大変大きなものなのです(最澄さんは、その才能にあまり気がついていなかったようですが・・・・)。
なお、円仁さんは、死して2年後866年、最澄さんに伝教大師の号が贈られたとき、一緒に慈覚大師の称号が贈られました。




円珍さんです。お大師さんに似てる?かな・・・。

円珍(えんちん 814〜891)
天台宗には、もう一人の天才が存在しています。円珍さんがその人です。日本天台宗の発展には、円仁さんだけでなく、円珍さんの力も大変大きなものとなっています。天台宗は最澄さんが開いたのですが、基礎を確立したのは円仁・円珍の両名だとも言われています。
で、その円珍さんですが、なんとこの方、一説によると弘法大師空海さんの甥っ子と言われてるんですね。もしくは、お大師さんの姪の子供・・・とも言われています。有力な説は「甥っ子」のほうです。我々も、そう学びました。お大師さんの家系は天才が生まれる家柄なのでしょうか?。
それにしても、なぜお大師さんの甥っ子が高野山ではなく比叡山?、真言宗ではなく天台宗?と思われるのではないでしょうか。当然、叔父さんである空海上人の活躍や評判は耳にしていたでしょうからね。
なぜ、天台宗なのか・・・。
それについては、後ほど私見を述べさせていただきます。

空海上人の甥っ子ですから、出身は讃岐国です。やはり幼少の頃から学問に秀で、15歳の時、都に出て比叡山に登り、第2世天台座主義真の弟子となります。最澄さんはすでに涅槃に入っています。ですので、最澄さんの直弟子ではありません。
15歳の時ですから、829年ですね。お大師さんのそのころはというと、綜芸種智院を開いた翌年です。空海上人全盛期ですね。なのになぜ比叡山?。
ま、その疑問の答えは後回しにして、比叡山に登った円珍さん、故郷から戻ったばかりの円仁さんからも教えを受けています。むしろ、義真よりも円仁さんからの影響は強かったでしょう。円仁さんも円珍さんの才能を早くから見抜いていたようです。
円仁さんが唐へ渡る決意ができたのも、円珍という天才が比叡山にいたから・・・という見方もできます。もし、自分の身に何かあっても、円珍に後を託せる・・・・そう思ったからこそ、唐へ渡る決意ができたのでしょう。
円仁さんが帰国したのち、円珍さんは唐での教えを円仁さんから学びます。それに感化されたのか、本場の密教を学びたいと強く思ったのか(たぶんこっちでしょう)、ついに円珍さん853年39歳にして唐へ渡るのです。

唐へ渡った円珍さん、まずは天台山にて仏教の基礎と梵字を学びます。そして、叔父さんである空海上人が修行した青竜寺に向かいます。そこで、当時の青竜寺座主から密教を学びます。空海上人の甥っ子でもあったし、才能も豊かであったので、金剛界・胎蔵界の両部に加え、その当時に生まれていた新しい密教・・・・私たちは後期密教と呼んでいます・・・・である蘇悉地(そしっち)の法を受けてきます。これは、真言宗にはない教えでした。特に、円珍さんが請来した「五部心観(ごぶしんかん)」は有名で、瞑想の修行上、大変重要な法でもあります。
858年44歳のときに帰国し、天台密教の興隆に努めます。円珍さんが持って帰ってきた密教は、真言の教えにはないものだったので、都の受けは良かったようです。今も昔も日本人は新しいもの好きだったのでしょう。公卿などの協力者も現れ、864年には宮中で胎蔵界の灌頂を行うまでになりました。
さらに円珍さんの勢いは増します。868年54歳で第5世天台座主に就任します。この勢いは止まりませんでした。宮中の信頼を得、それまで東寺や真言宗が中心であった宮中に天台宗が食い込んできます。ついには883年69歳の時、法眼和尚位を受け、宮中の祈祷を一手に引き受けるまでに至ります。
また、同時期、近江の園城寺(三井寺)を復興します。そこに灌頂壇を開きます。これが比叡山を二分するもめ事に発展するのです。
こんなころ、実は比叡山内は大きく二手に派閥ができていました。円仁の流れをくむ本来の天台の教えを中心とした円仁派と、密教色の強い円珍派です。比叡山内はこの二つの派閥の間で軋轢があったようです。
そんなとき、円珍が園城寺に灌頂壇を開いてしまったのです。円珍にしてみれば布教の拠点は多くあるほどいい、と思っただけかもしれませんし、もっと思惑があったのかもしれませんが、この園城寺の灌頂壇を開いたことが円仁派に火をつけてしまいます。このことで、円仁派VS円珍派が表面化するんですね。しかし、円珍さんが生きているときは、この争いは表面化することなく治まっていました。
891年円珍さん77歳のとき、入滅します。その後、927年に智証大師の号を賜りました。叔父さんの空海上人が921年に弘法大師の号を贈られてますから、そのあとすぐですね。

さて、円仁さんと円珍さんが残したものは、天台密教・・・台密(真言密教は略して東密)・・・だけではありません。困ったものも残したのです。それは対立です。
比叡山内の円仁派VS円珍派は、円珍さん入滅後さらに悪化します。そして、ついに円珍派は、993年に比叡山を下り園城寺に篭ってしまいます。
こうして比叡山に残った円仁派は「山門派」と呼ばれるようになり、園城寺に下った円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになります。この対立はその後長く続くことになります。
しかも、比叡山の園城寺に対する物理的攻撃も始まり(投石や放火など)、園城寺の僧侶は武士化していきます。ついには「僧兵」が誕生するのです。当然、比叡山も武力化します。
こうして都に「僧兵」が歩く姿が見らるようになるんですね。弁慶もそうですね。弁慶も元は比叡山で修業した僧兵なんですよ。
円仁さん、円珍さんは、法華経至上主義の天台宗を密教化し、荒廃しかけていた比叡山を復興し、大きくしました。その功績は素晴らしいものです。しかし、一方、僧侶同士での対立を生み、「僧兵」なる僧侶の武力化を造ってしまったのです。どうも比叡山の僧侶は血の気が多いのか、最澄さん以来、争いが好きなようですね。

さて、初めに残しておいた疑問、「なぜ円珍さんは叔父の空海上人を頼らず比叡山を選んだのか」の答えです。
これに関しては、明確な答えはありません。未だに「なぞ」です。ですから、あくまでも私の想像・・・私見です。
一つには、高野山及び東寺の密教・・・真言密教は、お大師様が完璧に仕上げてしまっていました。もう完成していたんですね。ところが、比叡山はそうではありません。当時はボロボロの状態でした。最澄さんは他宗派の僧侶との論争の中で失意のうちに入滅しています。都からも天台宗の存在感が希薄になっていました。
完成された真言宗・・・・。未完成の天台宗・・・・。
さて、思いっきり活躍できるのはどちらでしょうか?。
甥っ子の円珍さんにしてみれば、叔父さんの空海上人を超えることは無理・・・と思ったのではないかと思います。そこで、まだまだ未完の天台宗を選んだ・・・・のではないでしょうか。天才的頭脳をもった円珍さんにしてみれば、完成されたものを維持するだけでは面白くなかったのではないかと思うのです。
「自分も叔父さんみたいに一つの宗派を創りあげたい」
そう思ったのかも知れません。それで比叡山を選んだ・・・・のではないかと思います。
これが理由の一つだと想像されます。

もう一つ。比叡山を選ぶにあたり、お大師さんのアドバイスがあったのではないかと、私は思っています。というか、お大師さんには大きな望みがあったように思うのです。それはなにか・・・。それは
「日本密教化計画」
です。つまり、日本の仏教宗派をすべて密教にしてしまおう・・・そんな思いがお大師さんにあったのではないでしょうか。それには、高野山・東寺と並んで比叡山の協力が絶対必要でしょう。比叡山が密教化しなければ、その計画は実行できません。
高野山・東寺軍団はいいのです。空海という大天才がいますから、十分密教を確立できています。ところが比叡山はダメです。最澄さんが密教人間でなかったですし、二代目の義真もぱっとしません。そこで、お大師さん、甥っ子に目をつけたのではないでしょうか。で、円珍さんにこうささやいたのです。
「よいか円珍。わしのもとにいても仕方がない。わしのもとにいたのでは、お前の才能は発揮できない。そこでだ、お前は比叡山に登れ。そして、比叡山を密教化するのだ。このままでは比叡山は滅ぶ。あの二代目の義真はダメだ。円仁とかいう僧侶はなかなかできるから、円仁について学び、いずれ唐に渡り密教を学ぶのだ。それでな、ここからが大事だ。この日本の宗教をすべて密教にしてしまうのだ。よいか、日本を密教の教えで守れば、こんな堅固なことはない。日本を密教の曼荼羅そのものに変えるのだよ。そのためには、比叡山が密教の教えで統一されねばならん。お前ならできよう。だから、お前は比叡山に登れ・・・・」
いかにもお大師さんが言いそうな感じがしませんか?。
円珍さんが比叡山に登ったのは、このような背景があったのではないかと、私は想像しています。尤も、結果は半分までしか成功してませんけどね。比叡山の完全な密教化はできなかったわけですから・・・・。

さて、奇しくもお大師さんの血縁者によって比叡山は密教中心の教えを伝える宗派になったのです。こうして、比叡山は円仁・円珍の二人で基礎固めをしたのですよ。しかし、真言宗のように完璧に密教で固められなかったがため、平安後期から鎌倉時代に至って、多くの宗派や名僧・高僧を生み出すのです。真言宗は、高野山にしろ東寺にしろ、それほど突出した名僧は排出していません。お大師さんを超えるような僧侶は出てこなかったんですね。
ということで、今後ここで紹介する高僧・・・特に宗祖・・・は、ほとんどが比叡山出身です。高野山出身ではありません。
天才の弟子は、あまり大きなことはできないんですね。師を越えられませんからね。できの悪い師は、多くの天才を生み出すことができるものなのでしょう。ダメ親の子供はしっかりしている・・・ですね。
合掌。



法然

法然上人は、浄土宗の開祖です。今回は、その法然上人のお話です。
法然(ほうねん、1133〜1212)
平安時代末期の生まれですね。このころは、地方に武士が誕生していました。法然さんは、その地方武士・・・美作国稲岡荘(岡山県久米郡)の漆間時国(うるまときくに)・・・の子として誕生しました。誕生に関しては、やはり伝説があります。母親は美作の豪族秦氏の娘でした。法然さんの両親は、よい子が授かるようにと美作の天台宗の寺・本山寺に21日間籠ったそうです。で、最終日の夜、母親は青く光るカミソリがのどに入った夢を見たそうです。そしてご懐妊。それが法然さんでした。

法然さんは、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。この幼名からしてすでに仏縁を感じますよね。子供時代は、優秀ではありましたが、ちょっと変わった子供で他の子供とは一緒に遊ばなかったようです。やはり、後に名を残すような人は、子供時代から少々変わっているんですね。
父親の時国は、押領使(おうりょうし)という、兵を率いてその地域、稲岡荘の治安を担当する職についていました。ところが、その稲岡荘の管理者にあたる明石定明と揉めていたのです。法然さんが9歳の時、定明は時国に夜襲をかけます。重傷を負った時国は法然さんに
「定明を怨まず、仇も討たず出家して争いの世界から離れよ」
と言い残して亡くなります(一方の定明も逃げ出し、どこかで出家してしまったそうです)。こうして一家は離散。法然さんは、母親の弟が住職をしている菩提寺という寺に預けられます。そして、4年後の13歳の時、比叡山に登ることになります。
2年ほどは小僧として雑用に追われる日々でしたが、それでもずば抜けて優秀であったため、15歳になって出家し得度を受けました。そのときいただいた名が「法然房源空」です。

法然・・・という名は出家名ではありません。房名といいます。いわばどこの所属か、ということがわかる名前です。房とは大寺院の中に所属する寺院の中の僧坊のことです。正式な僧侶の名前は「源空」のほうです。
法然さんの当時の師は皇円という方で、当時の比叡山では右に出るものがないというくらいの僧侶でした。しかし、法然さんは、その皇円をもしのぐ才覚を持っていたのです。3年ほど皇円のもとで学びますが、18歳の時、黒谷青竜寺に入ります。
比叡山西塔の山麓に黒谷の別所というところがあり、修行僧が多く集まり行に励んでいました。法然さんも比叡山で学ぶより、黒谷に入ったほうが、より修行ができると考えたのでしょう。
この時(1150年)は、平安末期で武士が台頭し、乱世の時代でした。比叡山も政治に参加し僧兵が歩きまわるようになっていました。法然さんは、
「これでは、本当の修行ができない、今の比叡山では・・・」
と疑問に思ったようです。それで、修行集団がいる黒谷に入ったのでしょう。そこで法然さんの心に響いたのが、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏の声だったのです。
黒谷では、毎月15日特別の法会が行われていました。それは、10世紀末の僧・源信が中心として作った法会でした。源信は「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」として知られています。日本で初めてといっていいでしょう、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて極楽へ往生することを説いた高僧です。その著作に浄土門の基本ともいうべき「往生要集」があります。浄土門は源信さんが祖なのです。

無心に念仏を唱えるということに感化された法然さんは、学問的仏教に行き詰まりを感じ始めました。そこで、24歳の時、旅に出るのです。京から奈良へ、様々な寺を巡り、様々な高僧や学僧と話をしたり教えを受けたりしましたが、どうしてもピンとこないんですね。そんなとき、奈良で浄土門の思想と出会います。特に大きな感銘を与えたのは永観(1111年没、奈良で華厳・法相などを学ぶが浄土信仰に傾向する)の記した「往生拾因(おうじょうじゅういん)」という論書でした。そこには「南無阿弥陀仏と10回唱えれば戒を受けていないものでも女人でも極楽往生できる。それが阿弥陀如来の誓願である」という趣旨のことが書いてあったのです。
当時は、女人は救われないというのが仏教の定説でした。法然さんには苦しみの中で亡くなった母親を救いたかった、という思いがありました。そんな中での「女人も往生できる」という言葉は法然さんに一筋の光明を与えたのです。

黒谷に戻った法然さんは、浄土三部経と言われる「阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経」、中国で浄土門を大成した善導の論書を読み漁ります。
そして、ついに至るのです。
「南無阿弥陀仏と唱えるのは、何回でもいいのだ。回数が問題ではない。心から信じて、ただただ唱えればそれでいいのだ。しかも、そこには戒も禅定も教学も必要ないのだ。男性も女性も、僧も俗も、ただただ心より南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できるのだ。他のすべての行を捨て、念仏だけに生きればよいのだ」
これを専修念仏(せんじゅねんぶつ)といいます。
こうして法然さんは黒谷を出る決心をします。乱世で苦しむ人々に阿弥陀如来の救いを説くためでした。1175年、法然さん43歳のとしでした。

京都の東、現在では知恩院がありますが、法然さんはその場所に小さな庵を結びます。名を「吉水の庵」といいました。法然さんの教えは瞬く間に広まっていきました。戒律を受けなくても、禅定のような修行をしなくても、難しい教学を学ばなくても、男性でも女性でも、出家者でも俗人であっても、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる、と説く法然さんの教えが広がるのは、当時の社会情勢からして当然だったでしょう。人々は、とにかく救いを求めていたのです。難しい修行を求めていたのではなく・・・・。
たとえば、酒好きの者には飲酒を禁止することはありませんでした。また、女性の不浄日の参拝を禁ずるという差別もしませんでした(仏教にはもともと差別はありません。それは儒教的迷信です)。
高名になると、論争を挑んでくる僧侶もいましたが、法然さんの態度は一貫していました。初めから論争などしない、です。
「皆さんの教えは大変すぐれております。わたしごときは、そうした器ではありません。わたしたちのような愚かな者が救われるには、ただただ弥陀の慈悲にすがるしかありません。ですから、南無阿弥陀仏と心から唱えるのです」
これが、法然さんの姿勢だったのです。これでは、初めから勝負は決まっています。

しかし、専修念仏は一つの危険をはらんでいました。それは、悪人でも罪人でも念仏を唱えれば往生できる、という点でした。本来は、「心から唱えれば、慈悲の心が自ずと湧きあがり己の罪を深く反省し、二度とすまいという心が現れ、救われていく」と説いているのですが、これを逆手に取るものが出てきたのです。すなわち、
「南無阿弥陀仏と唱えれば何をやってもよい」
です。こうして、念仏集団の中には、悪人の集団も登場してきました。これが、社会的問題になってきたのです。
加えて、出る杭は打たれるの通り、比叡山や奈良仏教寺院が法然さんら浄土門を敵対しするようになってきたのです。これは、かなり厳しいものがあったようです。法然さんは、ことを荒立てることをよしとせず、比叡山側や南都仏教寺院に何度も頭を下げにいっているようです。
しかし、弾圧は止むことはありませんでした。京都の河原で門弟が二人、処刑されることになったのです。発端は、上皇の院の女官をこの二人の僧が出家させたことにあります。これ自体は何の違法もありません。ただ上皇の怒りにふれた(その裏には比叡山や南都仏教の圧力があった)に過ぎません。しかし、法然さんは、弟子のしたことの責任を取ります。法然さん75歳の春(1207年)、名前を「藤井元彦」と改名させられ、土佐に流されることになったのです。

しかし、この流罪は早くに解けます。その年の年末には大阪に戻っています。もともと、比叡山や南都寺院の圧力に応えるための処置でしたので、彼らが納得すればそれでよいことでした。が、京には入ることはできませんでした。大阪にとどまること4年。79歳にして、ようやく京都に戻ります(1211年)。
庵に戻った法然さん。ほっとしたのか、翌年の正月には病に倒れます。そんな状況でもあったにもかかわらず、法然さんは弟子に教えを説きます。そして、筆をとり「一枚起請文(いちまきしょうもん)」を書きあげます。それには
「本当の念仏とは、観念の念仏でもなく、学問の念仏でもない。極楽往生のためには南無阿弥陀仏と唱えれば間違いなく極楽往生すると決めて念仏するだけである。念仏を信じる者は、一字も知らない無知愚鈍の身となってただ一心に念仏せよ」
というものでありました。これこそが、真の念仏なのです。念仏は、決して易行(簡単な修行)ではない、ということです。
これを記した二日後、法然さんは念仏のを唱えながら死を迎えたそうです。

念仏を唱え、極楽往生を願うというのは、実は結構難しいことなのです。まず、無知愚鈍になって・・・つまりまっさらな心で・・・念仏を唱えることは大変難しいのですよ。いろいろな知識が邪魔をしますからね。法然さんはそこを説いたのですが、ちょっと現代の念仏は・・・ですねぇ。
ま、どの宗派も・・・なんですが。
京都知恩院、機会がありましたらご参拝されるのもいいと思います。
(二月に行ってまいりました。山門が公開されていましたので、参拝してきたのです。寒かった・・・。法然さんのいい写真がありませんでしたので、今回は写真はなしです。ご了承ください)
合掌。



栄西

鎌倉時代に開かれた禅宗には二種類あります。一つは栄西の臨済宗、もう一つは道元の曹洞宗です。今回は、臨済宗の栄西についてお話しいたします。
栄西は、「ようさい」とも「えいさい」とも読みます。1141年〜1215年の人です。臨済宗の開祖であるとともに、日本にお茶を飲む習慣をもたらした方でもあります。
平安時代末、永治元年の生まれです。備中吉備津宮の神官の子として生まれました。鳴り釜神事で有名な神社です。神官の子として生まれましたが、三井寺(天台宗園城寺)で学んだこともある父親に仏教の基礎を教えられた影響で、幼くして出家の志を抱くようになりました。そこで、父親の近所の友人の寺・安養寺に預けます。栄西さん11歳の時でした。
安養寺の住職・静心は、天台宗の僧でした。栄西さんは、14歳で比叡山にて得度しますが、しばらくは安養寺にて修行します。17歳の時、師の静心が亡くなったため、三井寺に入ります。ここで、天台密教を学ぶのです。
そんなころ、こんなエピソードがあります。18歳の時です。生まれつき身体が小さかった栄西さんは、同じ修行仲間から
「頭はいいが、背が低いため目立たない。大勢の中では無視されてしまうだろう」
と悪口をよく言われたそうです。栄西さんの才能に対する嫉妬ですね。栄西さんもそのことはよくわかっていたらしいのですが、生来の負けず嫌いであった栄西さん、何とか背を伸ばしたいと思います。そこで・・・。
なんと、虚空蔵求聞持法を修行することにしたのです。この法は、頭脳明晰、記憶力増大にするといわれている法で、お大師さんが修行したことで知られています。お大師さんはこの法により、虚空蔵菩薩の力を得たのです。それを、栄西さんは身長を伸ばすために行ったのですね。
その結果、なんと12センチほど身長が伸びたそうです。求聞持法にこんな力があったとは・・・・びっくりです。
それはさておき、それからというもの栄西さんは、背が低いことでバカにされることはなくなったそうです。

19歳になった栄西さん、比叡山延暦寺に入ります。本格的に天台宗の教えを学ぶことになるのです。ところが、このころも延暦寺と三井寺との対立は激しく、焼き打ちなどの荒事に出る僧侶もいました。僧兵ですね。また、公家との癒着も甚だしく、公家出身の僧侶か、もしくは公家のパトロンがつかないと、出世はできないありさまでした。あいかわらず、比叡山は公家たちとべったりの関係だったのです。
こんな状況に嫌気がさしていた栄西さんでしたが、一介の修行僧には何ともしがたく、悶々とする日々を送っていたのでした。しかし、心のうちには、秘めたる決意があったのです。それは徐々に強くなっていきました。それは、宋に渡り、新たなる仏教を学び、腐りきった日本の仏教を打破することでした。

そのチャンスは28歳の時(1168年)に訪れます。栄西さんは念願かなって、商船で宋に渡ったのです。宋での旅の途中、東大寺の僧重源と出会います。そして、二人で天台山を目指すのです。
栄西さんは、天台山に登った際、前世の記憶がよみがえったそうです。はるか昔、天台山にインドの僧として住んでいた、という記憶です。それは、栄西さんの益々の自信につながったのです。
天台山は、宋の時代は宗派が異なってしました。かつて最澄さんや円珍さんが修行に来たときは、法華一乗が教義の中心でしたが、宋時代は、禅が主流だったのです。
栄西さんはその時は、禅がまだよく理解できなったようです。宋の禅僧に禅の心得なるものを尋ね、
「今までの考えにとらわれず、自分自身の心をしっかりと見据え、修行に励むこと」
と教えられます。この言葉は、栄西さんの胸を強く打ちましたが、未だ禅の境地には達することはなかったようです。
また、ある日のこと、暑いさなかに行脚をしていたとき、倒れそうになったことがあったそうです。茶店で休息をとった栄西さん、その時出されたお茶によって身体を回復することができたのだそうです。
「持ち帰らねばならぬものは、何も天台教義ばかりではないのか・・・・。宋は奥が深い」
と感じ入ったようです。
しかし、時間がありませんでした。重源が帰国することになり、栄西さんも一緒に日本に戻ることにしたのです。とりあえず、入手した天台宗教義に関する文献も比叡山に納めたかった、ということもありました。それで、帰国することになったのです。宋に滞在したのは、約半年間でした。

帰国後、早速比叡山に天台宗の教義に関する論書60巻余りを納めます。座主からはねぎらいの言葉をもらいますが、他の修行僧からは「ごますり」、「出世欲の固まり」などと陰口をたたかれたため、比叡山の僧侶の体質に嫌気がさし、山を下りました。
いったん帰郷しますが、岡山方面は戦乱の気配が漂って危険でした。平安時代から鎌倉時代への過渡期です。平氏対源氏の戦いが勃発している状態でした。そこで、現在の九州福岡に滞在することになります。
鎮西に住むことになった栄西さん、ここで書をなし、布教活動に励みます。それは20年近くにも及びます。
この間、宮中で雨乞いをして成功させたりもしました。公家に信者もできました。宮廷にも人脈ができてきたのです。しかし、それに満足するようなことはありませんでした。再び、宋・・・さらには天竺へ行きたくなったのです。

1186年、栄西さん47歳のころ、再び宋の地にいました。さらに天竺へ進もうと思い許可申請をしますが、当時天竺への道が宋の支配下にないため、許可がおりませんでした。しかたがなく、名僧と評判になっていた天台山の虚庵懐敞(こあんえんしょう)を訪ねます。これは栄西さんにとっては、運命的な出会いとなります。虚庵を一目見て
「わが師を得たり」
と思ったのです。早速、入門し、弟子となりました。こうして栄西さんは、虚庵の受け継ぐ「臨済宗黄竜派」の禅を学ぶことになったのです。
修行は4年余りに及びました。虚庵からは、悟りを得たことを認められていました。臨済禅を受け継ぐものとなったのです。
1191年、栄西さんは日本に戻ります。宋から寺院建立のために木材も積んできました。早速、九州各地に寺を建立します。特に日本初の禅寺を博多に建立します。聖福寺です。こうして九州の地から禅を広めていきました。
栄西さんの禅は、瞬く間に京の都でももてはやされるようになったのですが、これを妬む者たちがいました。比叡山の僧侶です。
比叡山は天台宗で、その大元は中国の天台山です。最澄さんもその地で学びました。栄西さんの禅も天台山で学びました。栄西さんを非難するということは、本場の天台山に対する非難となり、最澄さんへの非難にもなります。が、そんな理屈は比叡山の僧侶には通じません。自分たちを脅かす勢力は排除するのみ、というのが比叡山の姿勢でした。栄西さんは、都を追われます。そして、鎌倉の地に迎え入れられたのです。

鎌倉幕府は、都と一線を引きたかったのでしょう。栄西さんの禅を庇護することになりました。禅の教えが武士の心得に適していたこともありましょう。禅は、武家の間に広まっていきました。
1202年、栄西さん62歳の年、源頼家が京都に栄西さん迎え、建仁寺を建立します。建仁寺は、単なる禅宗寺院ではなく、天台・真言・禅の三宗派を兼学できる寺院としました。比叡山からの弾圧を避けるためと同時に、対抗する意思もあったようです。
東大寺の勧進の任も受け、その復興に努めました。法勝寺九重塔の再建もしています。また、茶を栽培し、薬としての茶を飲む習慣を広めたのも栄西さんです。
こうして戦乱で焼け落ちた大寺の復興をなしとげ、禅風を広め、茶を広めた栄西さんですが、75歳でその生涯を終えます。臨終のとき、寺には虹がかかったと伝えれているそうです。
合掌。

臨済禅は、どちらかと言えば、座禅よりも問答を重んじる禅風です。看話禅(かんなぜん)とも言われ、問答や公案を通して悟りを開くというのが臨済宗の特徴です。
それに対し曹洞宗の禅風は、問答や公案よりも座禅することに重きを置いています。黙照禅(もくしょうぜん)と言われています。禅宗でも臨済宗と曹洞宗では、異なるのです。
なお、武家に受けがよかったのは、臨済宗の禅風です。
参考までに・・・・。合掌。



親 鸞

今回は、親鸞さんについてお話しいたします。親鸞さんは、エピソードの多い方ですので、3〜4回程度に分けてお話する予定です。
親鸞さんは、1173〜1262の人です。鎌倉時代まっただ中ですね。生まれは公家の日野家の長男でした。幼名を松若丸といいました。公家と言っても、日野家は当時立場が弱く、貧困にあえいでいました。親鸞さんが幼少の時に母親は亡くなり、父親の日野有範は途方に暮れ、子供を連れて京都は宇治の天台宗寺院・三室戸寺に隠棲してしまいます。この時、親鸞さんは8歳だったそうです。
翌年、親鸞さんは比叡山に入り出家します。京都の山科方面に青蓮院という天台宗のお寺がありますが、確かその寺の隣に、親鸞さん出家の御堂があったと思います。興味のある方は、お立ち寄りください。

比叡山に修行すること10年ほどの頃、親鸞さんは大いに悩んでいました。時は平安末期。世は乱れていました。一説には、末法の世に入ったのだ、世も末だ、と人生を捨ててかかる者たちも増えていました。僧侶たちも乱れに乱れ、戒律を守る者は少なくなっていました。それは、比叡山が提唱した大乗菩薩戒の影響もありました。古くからおこなわれている僧250戒、尼僧350戒の受戒を捨て、細かいことにとらわれず、人々を救うことに専念すべき、そのためには方便もやむなし、という風潮だったのです。また、浄土思想が流行り始め、僧侶と雖も南無阿弥陀仏と唱えれば、肉食妻帯してもよいのだ、という浄土思想の曲がった教えが蔓延し始めていたのです。そのため、僧侶の肉食妻帯を行うものも増え、色街に通うものや、中には人妻と姦通する出家者もいたのです(現代では珍しい話じゃないですが)。
そんな時代でしたから、比叡山の僧侶といえども、女性と交わることを羨ましく思う僧侶も多くいました。浄土門の僧侶を批判しつつ、心の中では羨んでいたのです。

親鸞さんは、そんな同僚たちを横目に見て、悩んでいました。一つには、いくら修行しても僧の位が上がらない、ということでした。
当寺の比叡山内では、僧位が上に行ける者は、有力な公家の出身と決まっていました。あるいは、朝廷内に有力な協力者がいる必要があります。いくら優秀でも、こればかりはどうにもなりません。親鸞さんは公家出身ではありましたが、貧乏公家です。家も没落してしまいました。僧位が上がる条件は一つもありません。
「あぁ、私はいくら頑張ってもせいぜい堂僧止まりだ。やるせない・・・・」
堂僧というのは、最も低い役職で、雑役僧だったのです。それ以上は、親鸞さんは望めなかったのです。
親鸞さんには、もう一つ悩みがありました。それは抑えがたき性欲だったのです。
「はぁ・・・。巷では女犯(にょぼん・・・女性と性行為をすること)をしても、念仏すれば極楽往生できるという話になっている。そんないい加減なことでいいのだろうか・・・・。ここ比叡山でも女性と交わる僧もいるようだ。女性を見てあからさまにいやらしい目で見る者もいるし、話をする者もいる。なんと堕落したことか・・・・。が、自分も同じだ。こんなに悶々としているのだ。女性を求める己がここにいるのだ。あぁ・・・どうすればよいのだ。いけないとわかっているのに身体が求める。私も女性を抱いてみたい・・・・」
出世はできない、性欲は強い・・・。親鸞さんの懊悩は、大変深いものだったのです。

そうした自分自身を許せなかったのでしょう、ある日のこと親鸞さんは、聖徳太子の磯長(しなが)の御廟(大阪府南河内の叡福寺内)に篭りました。その二日目のこと、親鸞さんは不覚にも失神してしまいます。が、そのとき、聖徳太子が朦朧とした意識の中に現れたのです。そして、こう告げました。
「汝の命はあと10年余りだ。その命が尽きたら、速やかに清らかなる世界に入っていくであろう。信ぜよ、よく信ぜよ・・・・・」
自分の寿命を宣告された親鸞さんは、かなりのショックを受け、そして焦りました。10年で何ができるのかと・・・。
苦悩しながらも比叡山での勤めはしなければなりません。在家の家に法要をしに行かねばならないこともありました。
その日も、ある在家での法要の帰りでした。少しでも苦悩から救われたいと願う親鸞さんは赤山明神(京都左京区、赤山禅寺内にある天台宗の守護神社)に参拝をしました。
「さて、比叡山に戻ろうか」
そういって振り返った親鸞さんの前に美しい女性が立っていました。その女性は
「比叡山へはどうやっていけばいいのでしょうか」
と親鸞さんに尋ねました。女性の美しさに圧倒されつつも、親鸞さんは答えました。
「ひ、比叡山は、女人禁制ですが・・・」
「なぜ、女人禁制なのですか」
その女性は親鸞さんに迫ります。
「女性は救われないというのですか」
「なぜ女性は差別されるのですか」
「経典に山川草木悉有仏性と説きますが、それは嘘なのですか。女性は虫や獣、草木にも劣るというのですか」
「虫や獣にもメスがあるのに、人間の女性だけが救われないのですか」
矢継ぎ早に繰り出される質問に親鸞さんは一言も答えられませんでした。その女性は、
「ふん、あなたにもいずれわかるときがくるでしょう」
と捨て台詞を残し、どこかへ消えてしまったのでした。親鸞さんは、またまたショックで倒れそうになってしまったのです。

親鸞さんの苦悩は続いていました。それは28才になったその時も納まることはありませんでした。
「もう少しで寿命がくる」
「出世はできない。自分は無能だ。女人の質問にすら答えられなかった」
「女人・・・・抱きたい。女性を知りたい・・・・」
「私はダメな僧侶だ・・・」
来る日も来る日も、頭にはそのことばかりがよぎったのです。
親鸞さんは、比叡山内の無動寺に篭ります。自分のイライラと焦りを何とか打開したかったのです。その満願の日を迎えようという夜中のことでした。彼は、夢を見ていました。その夢に如意輪観音が現れたのです。そしてこう告げました。
「善き哉、善き哉。汝の願いは今かなうところだ。それはまた我の願いが満足することでもある」
「私の願いがかなう?。それは如意輪観音様の願いがかなうことでもある?。どういうことだ・・・。否、どういうことであろうと、如意輪観音様が願いがかなうとおっしゃったのだ。・・・そうだ。山を降り、頂法寺にこもろう」
頂法寺は、如意輪観音の霊験があらたかな寺であり、聖徳太子が創建した寺でもありました。そこで親鸞さんは100か日籠ることを誓ったのです。

寺に篭ること95日目の明け方、親鸞さんは夢の中でお告げを受けていました。如意輪観音の化身であり、聖徳太子の会得した菩薩でもある救世観音が夢に現れたのです。
「修行者よ。汝がどうしても男の欲望から解放されないのなら、私が女性となり汝の相手をしてあげよう。そして、欲望から解放し、汝の一生をこの上もなく尊いものにしてあげよう。ついに死が訪れても、必ずや極楽へ導こう。汝ばかりではない、すべての衆生を救おう。それが私の願いである。汝は、私のこの願いを世に広く伝えよ」
親鸞さんは歓喜の涙を流していました。
「菩薩様は、女犯をお許しになった。こんな私を見捨てることなく、お救いくださった・・・。ありがたい、あぁ、ありがたい。そうだ、この救いを世に伝えねばならない。それが私のなすべきことなのだ。私は、今日、生まれ変わったのだ」
己の性欲と出世欲にさいなまれてきた親鸞さんは、この日死んだのです。そして、新たなる親鸞さんが誕生したのです。それは、磯長でのお告げの通りだったのです。
こうして、生まれ変わった親鸞さんは、ついに法然さんのもとを訪れるのです。その出会いは、運命的なものでした。法然さんのもとに日参し、教えを請うた親鸞さんは、法然さんを最高の師と慕うようになったのです。
法然さんの浄土思想を快く思わない僧たちや公家の間では、「法然は地獄の落ちる。それに従う者も当然地獄行きだ」と言われていました。しかし、親鸞さんは、それに対し平然と言ってのけたのです。
「たとえ法然上人が地獄へ行こうと、私は法然上人の行かれる所についていきます」
もはや、親鸞さんの中には、法然さんの教え以外、なにも見えてはいませんでした・・・。

法然さんのもとには、身分の差を越えて様々な人々が集まっていました。公家から僧侶、一般庶民に至るまで、法然さんのもとに集まっていたのです。
ある日のこと、親鸞さんは妻帯の是非について法然さんに尋ねます。法然さんの答えは
「妻帯したほうが念仏に身が入るのでしたら、妻をとればいい」
というものでした。すべては念仏にあり、ということだったのです。これを契機に、親鸞さんは結婚をします。それは隠し妻のような状態でなく、堂々とした結婚でした。ですので、親鸞さんはどこへ行くのも妻と二人連れだったそうです。当時としては、僧侶の結婚もさることながら、女性といつも二人連れということは、驚くべきことでした。
やがて長男が誕生します。名を善鸞といいます。後に、親子の間で確執が生まれることはこの時点では誰も知りません。

親鸞さんは、法然さんのもとで頭角を現し始めます。となると、出る杭は打たれる・・・の如しで周囲のやっかみが始まります。いつの時代も、どの世界も同じですねぇ。人間は醜いものです。しかし、親鸞さんは、力強い信念のもと、それらを何なく切り抜けていったのです。信の一念はなによりも勝るのでしょう。
そんなころ、法然さんの教団に対し、比叡山の弾圧が本格的になってきました。法然さんの弟子の中にも過激な行動に走る者も出てきたので、いい切っ掛けになったのです。ついに過激グループの僧が、後鳥羽上皇の寵愛する女官と密通する事件を起こします。このため、法然さんの教団は大弾圧を受けることとなるのです。密通した僧二名は死罪、法然さんは俗名に改名させられ土佐へ流されました。親鸞さんも還俗させられ、藤井善信(よしざね)という名で、一人きりで越後へ流されました。法然さん76歳、親鸞さん35歳のときでした。この時の心境を、親鸞さんは後に「教行信証(きょうぎょうしんしょう)の末にこう記しています。
「・・・・本当に罪があるのかどうかも考えず、不法にもある者は死刑に、ある者は僧の身分を奪い俗人として島流しにした。自分もその一人である。しかるに、私はもはや僧でもなく俗人でもない。それゆえ、破壊僧の異名である禿(とく)というあざなを姓とした・・・・」
これが、「非僧非俗」であり「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」の誕生なのです。親鸞さんは、「僧にもあらず、俗にもあらず、単なる愚かなハゲ」と自分のことをいったのです。それは、一種の悟りの境地でしょう。一つの空であるのです。

越後時代の親鸞さんは、当初、ずいぶんと苦労をしたようです。まず、食に困りました。罪人として流されてきたので、初めの1年間は米と塩だけが支給されましたが、それ以降は何も支給はされません。2年目からは自給自足をしなければならないのです。僧ではないので、托鉢は禁止されていました。物乞いもダメです。親鸞さんは、農耕の経験も知識もありません。しかし、
「これも阿弥陀様の御心だ」
と、地元の農民のまねをして、畑を耕し、田植えをするようになったのです。この経験は、農民との交流を生み、貧しい人々の気持ちを知るきっかけとなりました。親鸞さんには、庶民こそが念仏をとなえ極楽に往生すると説いてきた法然さんの真意がわかった時期でもあります。越後での経験が後の親鸞さんの布教活動の大きな礎となるのです。
そうこうするうち、親鸞さんの一途な姿に、その土地の豪族・三善氏の娘が恋をします。彼女は、献身的に親鸞さんの世話をするようになるのです。やがて、二人は深い仲になるのです。父親の三善氏は、当初反対していましたが、娘の余りの激しい愛情に根負けし、食べるに困らないだけの土地と下男をつけて、親鸞さんのもとへ嫁がせます。こうして、越後で親鸞さんは二人目の嫁をもらったのです。
越後で4年ほどが過ぎ、子も生まれました。そして、罪も解かれ京に戻ってもよいという許可が出ます。師である法然さんも京に戻ってきているとの知らせを聞き、すぐにでも京に帰りたかった親鸞さんでしたが、子供は赤ん坊、季節は11月。とても京へ行ける状況ではありませんでした。そこで、春まで待つことにするのですが、翌年のこと、法然さんの死を伝える悲報が届くのです。法然さんの死をとの再会を果たせなかった親鸞は、血の涙を流したとさえ言われています。

京へ戻る意味を失くした親鸞さんは、越後に留まり、布教活動に専念することにします。しかし、これにも随分と苦労がありました。貧しい農民や悪人にも教えを説こうとしますが、なかなかうまくいきません。また、人々の質問に適切に答えられず、おろおろすることもしばしばあったようです。そのたびに、仏教の学び直しをしたのです。親鸞さんの布教は、教えを説き、反省し、記録し、学び、そこから新たな発見をするということの繰り返しから始まりました。教えながら学ぶ、というのが親鸞さんの布教だったのです。
こうした活動を重ねていくうちに、信者も徐々にできてきました。自信のついた親鸞さんは鎌倉へ行こうとしますが、あてもなく途方にくれました。すると、妻の父・三善氏から、常陸に領地があるので、そこを拠点するといい、という応援があったのです。親鸞さんは、喜んでこの申し出を受け、常陸の国へと向かったのです。

常陸へ向かう途中、親鸞さんは、またも不思議な体験をします。親鸞さんは、新天地へ向かうとういうことで気持ちが高ぶっていました。また、衆生を救済するのだ、という強い意気込みがありました。そのため、道中浄土三部経の千回読誦を始めました。その5日目のときです。心の内から声が聞こえてきました。
「親鸞、お前は何をしているのか。念仏を唱えるだけが正しい行だ。それだけで十分なはずだ。何を迷っているのだ。すべてを弥陀のお力に委ねたはずなのに・・・・。情けない、情けない。まだ自分に執着しておる。まだ、自分を捨て切れていない・・・・」
この言葉に衝撃を受けた親鸞さんは、経典の読誦をきっぱりとやめます。法然さんの下で唱えていた浄土三部経の読誦さえ、自分の計らいであり阿弥陀仏の計らいではない、としたのです。ここに、法然さんの教えとは違う、親鸞さんの教え・・・念仏だけでいいという教え・・・が誕生したのです。これが、浄土宗と浄土真宗の違いでしょう。親鸞さんは、念仏に徹底したのです。

常陸の国での布教は、やはり当初は困難を極めました。しかし、親鸞さんは、地元の人たちと同じような習慣を身につけ、同じように振舞い、決して上からものをいうような態度はしませんでした。人々とともに集い、笑い、話し、泣き、生活をしたのです。そうして、やがて人々は親鸞さんに従っていくようになっていたのです。そこには、阿弥陀如来に対する強い信念があったのです。それが人々にも伝わったのでしょう。親鸞さんは
「真の信念を持つことができれば、その人は直ちに死後の極楽往生が約束されるのです。なにも願わなくとも、極楽往生を願わなくとも、南無阿弥陀仏と一心に唱えたとき、まったく新しく生まれ変わることができるのです。殺生をしなければいけない者も、貧しく暮らしているが故悪事に手を染めるものも、一心に南無阿弥陀仏と唱えればよいのです。むしろ、悪人である者のほうが苦しみにあるからこそ、救われるのです。ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけなのです・・・・」
と説いて回りました。この言葉は、貧しい暮らしや苦しい暮らしを強いられている人々にとっては、この上ない救いだったのです。
ここに、真の念仏が誕生しました。極楽往生を願う念仏ではなく、ただ心から南無阿弥陀仏と唱えるだけの、究極の念仏に至ったのです。その念仏には、願いも思いも苦しみも何もありません。唯の念仏です。それが他力本願、弥陀の心の向くままに・・・なのです。

念仏の輪は次第に広まっていきました。そうなれば、他宗派との衝突や攻撃は避けられません。中には、親鸞さんの命を狙う者まで出てきました。修験者の弁円という者でした。弁円は、親鸞さんが毎日通る道で待ち伏せを図りましたが、親鸞さんは通り道を変えたのか、いつもの道を通らなくなりました。仕方がなく弁円は、親鸞さんの庵に乗り込みます。親鸞さんを殺害しようとして刀を振り上げる弁円。が、親鸞さんと眼があった瞬間、弁円は振り上げた刀を落としてしまいます。そして
「弟子にしてください」
と頭を下げました。しかし、親鸞さんは
「弟子は取りません。しかし、一緒に念仏は唱えられます。いっしょに念仏しましょう」
と言ったのです。
親鸞さんを慕うものは多くいましたが、親鸞さんは彼らを弟子という眼では見ていませんでした。そういう意識はなかったのです。集まってくる人々は、皆仲間、同朋、同行・・・だったのです。いわば、みんな念仏の仲間、ということでしょう。

関東での親鸞さんの布教は、妨害などに遭いながらも順調に進みました。親鸞さん自身も「教行信証」の執筆に取り掛かっており、充実した毎日を過ごしていました。二人目の嫁である三善氏の娘は、親鸞さんのもとで尼僧となり恵信尼と名乗っていました。二人で力を合わせ、念仏の輪を広げていったのです。やがて、念仏の信仰者は十万人を超す勢いとなっていました。
そんな親鸞さんのもとへ、京の都では念仏者への激しい弾圧が行われているという知らせが届きました。
法然上人没より12年後、延暦寺内からの念仏者の追放。
その三年後、法然上人の墓が天台宗の衆徒により暴かれる。
本願念仏集の版木の焼却。
念仏の指導者たちを流罪にし追放。
比叡山からの念仏者への迫害は、激しさを増す一方だったのです。
こうした知らせに、親鸞さんは京へと向かう決意をしたのでした。

都での、念仏宗への激しい迫害を懸念して、親鸞さんは関東の地を離れ、都へ向かいます。都で待っていたのは、亡くなった前妻の息子善鸞(ぜんらん)でした。そのころの都には平穏な日が訪れていました。親鸞に対する妨害は、なぜかなかったのです。
ところが親鸞が去った関東で問題が勃発しました。親鸞の教えをめぐって対立が生じ、混乱を極めたのです。それは、「念仏をしていればなにをしてもいい」、「悪いことをしたほうが救われる」という間違った念仏の解釈が横行し始めたのです。
これには親鸞さんも困り果てました。関東を去ってそれほど時間がたってもいないのに、この有様です。親鸞さんの心痛は大変なものだったでしょう。
これが「悪人正機」の間違った解釈なのです。「悪人ほど救われる、だから悪いことをしよう」という誤った解釈が勢力をつけ始めたのでした。親鸞さんはこれに対し、手紙をせっせと送りました。
「悪人は、善人よりも自らを省みる機会に恵まれている。自らを省みて救いを求める機会に恵まれている。だからこその悪人正機である。悪いことをしなさい、という意味ではない」
といったことを手紙にしたのです。しかし、その手紙の効果は全くと言っていいほどありませんでした。
さらには、前妻の息子である善鸞と後妻の恵信尼が不仲になり、当然ながら親鸞と恵信尼の子とも善鸞はうまくいきませんでした。また、関東からの親鸞に対する仕送り金も途絶えてしまい、経済的にも行き詰ってきました。その上、恵信尼の父親の領地を管理する者がいなくなり、つには恵信尼は末娘だけを親鸞のもとに残し、4人の子供を引き連れ実家に戻ってしまったのです。

そんな中、建長7年、関東では念仏者に対する弾圧が始まります。念仏者の悪行が原因でした。念仏を唱えながらの悪行三昧に、ついに幕府は弾圧を始めたのです。
念仏者の悪行は過激を極めました。ありとあらゆる悪行を行い、社会の規律を大きく乱したのです。もはや親鸞の手紙など、紙くず同然でした。そこで親鸞は息子善鸞を関東の地へ行かせました。しかし、これは全くの逆効果を生みます。善鸞は関東の念仏者を鎮めるどころか、悪い念仏者に担がれ、その中心的人物として祭り上げられてしまったのです。
善鸞は、有頂天になってしまったのか、「父親鸞の神髄は自分しか引き継いでいない。今まで親鸞が説いてきたことは違っている」などと言いふらしたり、正しい行動をとる親鸞側の念仏衆を撲滅するため、暴徒の罪を彼らになすりつけたり、さらには念仏自体を弾圧するよう領主と手を結ぶまでに至ったのです。すなわち、善鸞は親鸞に真っ向対立してしまったのです。
善鸞の謀反を知った親鸞さんの胸中はどんなものだったのでしょうか。年老いた親鸞さんにとってこれほどつらいことはなったことでしょう。それでも「これもすべては阿弥陀仏のお心・・・」と、嘆き悲しむことをこらえたそうです。そして・・・。
建長8年、親鸞さんは善鸞に対し
「お前はもはや我が子でもなければ、私を親と思うこともならない」
という絶縁状を送ります。
この絶縁状により、正しい念仏者に対する誤解は解け始めました。しかし、まだ弾圧が終わったわけではありませんでした。親鸞さんは、まめに門弟たちに励ましの手紙を送り続けました。その効果があったのでしょう、堂々とした門弟たちの行動に、ついには念仏者たちの無罪が認められ、混乱の中心人物は善鸞であると断定されました。そして、善鸞は念仏の教団から追放されました。親鸞にとっては最もつらいことであったのでしょうが、二年にわたる念仏への弾圧は終止符を打ったのです。

親鸞さん85歳のころ、目はほとんど見えなくなりました。さらには、寄宿先が火事になり、親鸞さんも焼け出されるという不幸に遭ったりしました。また、妻子の実家の貧窮も親鸞さんの耳に入ってきました。それでも、親鸞さんは嘆くことなく、ひるむことなく念仏を唱え続けていたのです。
90歳にて親鸞さんは亡くなります。遺言で、「自らの遺体は川へ流し魚のえさとしてくれ」としていたのですが、それは守られることはなく、京都東山の延仁寺で荼毘に付され、遺骨は大谷に埋葬されました。

親鸞さんの一生は、貧乏と苦難の連続であったのです。しかし、
「それもこれもすべては阿弥陀如来の計らい。ありがたいことだ、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・・・・」
と唱え続けました。これが、親鸞さんが唱えた念仏の真髄なのです。よく、「念仏は易行」といわれますが、決して簡単な行ではありません。すべてを阿弥陀如来に託さねばならないからです。実は、大変な行でもあるのです。
真の念仏を理解している方は、果たしてこの世に何人ほどいるのでしょうか・・・・。


以上で親鸞さんは終了です。合掌。


道 元

曹洞宗の開祖、永平寺を開いたことで有名な道元さんは、1200年〜1253年の人で、鎌倉時代真っ只中の方です。
道元さんは、天皇家の流れをくむ血筋の生まれで、父親は久我通親で、土御門天皇の外祖父で、大いに権力を振るっていた人です。が、道元さんが3歳のときに亡くなります。母親は藤原基房の娘でしたが、こちらも道元さんが8歳のときに亡くなってしまいます。高貴な家柄の出身の道元さんですが、不幸にも幼少にして両親を亡くしてしまったのです。これは、幼少期の道元さんにとっては大きな影響を及ぼすこととなります。
当時、公家は権力を失いつつあり、良くも悪くも公家の間では無常観を学ぶことが流行っていました。道元さんもそうした周囲の影響からか、母親を亡くした翌年には仏教書を読むようになっていました。しかし、4歳にして漢詩の書を読破したといわれる道元さんにとっても、仏教書は理解が難しかったようです。針で腿を刺し、眠気に耐えて読んだという話が伝わっています。道元さんは、激しい負けず嫌いであり、向学心旺盛な子供だったようです。

道元さんは、そのその聡明さを見込まれ、叔父の藤原師家の養子となっていましたが、13歳の時、屋敷を抜け出し、比叡山へと向かいます。比叡山のふもとには、母方の叔父である良観という僧が住んでいました。良観は道元を返そうとしますが、道元さんは頑なにこれを拒否します。どうしても出家したいというその決意の固さに、良観は道元さんを比叡山横川へ送ります。こうして道元さんは、13歳の春ころより、比叡山横川般若谷の千光房という道場で暮らすこととなったのです。

翌年の4月、道元の名前を得ます。正式に得度し、本格的な仏道修行に入りました。が、比叡山にとどまったのはわずか二年のことでした。得度した翌年には、比叡山を降りてしまったのです。
当時の比叡山は、世俗化も甚だしく、僧兵が騒ぎ、権力へのすり寄りが横行し、酒を飲み、戒律も守れていないような乱れようだったのです。天台宗本来の教えは消えかけ、密教の呪術だけがもたはやされたり、浄土思想が盛んであったりしたのです。その状況に道元さんは失望しました。
道元さんには一つの疑問がありました。それは
「人は本来覚っていると説く。であれば、何を修行するというのか。本来覚っているはずならば、修行は不要ではないか。本来仏というならば、なぜ迷いや苦しみがあるのか」
というものでした。これは、仏道修行者ならば一度は持つ疑問です。普通は、師が導いてくれるのですが、当時の比叡山にはよき導き手がいなかったのでしょう。それよりも、死んでから極楽を望む浄土系の教えやただただ呪術に明け暮れ現世利益のみを追求する曲がった密教が横行していたのです。ですから、道元さんの疑問に答えるものはいなかったのかも知れません。なので、道元さんは比叡山に見切りをつけたのでした。

15歳にして放浪の旅へと出ることとなった道元さん。各地をめぐり、自分の疑問をぶつけてみますが、どうもしっくりきません。そんな道元さんに初めて「おやっ」と思わせる答えを出したのは栄西さんでした。栄西さんは道元さんの疑問に
「仏のことなど知らん。猫や牛なら知っておるがの」
と答えたのです。なるほど禅僧ですね。理屈じゃないんだ、と説いたわけです。道元さんもこの答えに惹かれました。しかし、このとき道元さんは栄西さんに師事しませんでした。栄西さんの教えには確かに惹かれたのですが、栄西さんは当時は大スターです。あまりにも華やかでした。それが道元さんの正確にはあわなかったようです。教えは学びたい、しかし、人となりが嫌だ、ということですね。そこで、再び旅に出るのです。
ところが、結局はいい師には会えませんでした。仕方がなく、栄西さんのいた建仁寺に舞い戻ります。が、すでに栄西さんはなくなっていました。栄西さんの後を継いでいたのは、明全でした。この時道元さん18歳の年でした。
明全は、比叡山横川の出身でした。戒律主義的なところがあり、自分の厳しい僧であり、栄西禅を継ぐものであったので道元さんは、この人なら・・・と思ったようです。こうして、初めて師のもとで仏教を学ぶこととなったのです。

道元さんが24歳の時、師である明全と中国に渡ることとなります。明全は40歳でした。入宋の船はひどく荒れ、師である明全は随分うろたえたようです。その姿は、道元さんが宋へ渡る前から持っていた小さな疑問を大きくするものでした。それは、明全の教えが小さなものであるように思えていたことです。はたして、この師に従っていていいものか・・・というものだったのです。宋へ渡る船の中の姿は、道元さんに決意させます。
一ヶ月半の船旅のあと、無事宋についた道元さんでしたが、師の明全とは行動を共にしませんでした。宋の寺院には行こうとせず、昼間は街をぶらつき、夜になると船に戻るという生活をしていました。これぞ!という人物を探していたのです。
ある日のこと、阿育王山(あいくおうざん)という禅寺から老僧が街に買い出しにやってきました。その老僧は、典座という役職でした。その老僧に道元さんは話しかけますが、老僧は皆が待つからと帰ろうとします。そんな老僧に道元さんは、言いがかりをつけます。
「他にも食事係くらいはいるのではないですか」
「いないではないが、折角ついた役職、他の者には譲りたくはない」
「その年になってまで、なぜ食事係などをするのです。そんなことは若い者に任せ、禅問答に励むべきではないですか」
「おや、あなたは禅のなんたるかを知らないようだ。まあ、せいぜい修行なされよ、ほっほっほ・・・」
これが道元さんの負けず嫌いに火を付けました。老僧を憎んだのではありません。己の愚かさを知ったのです。
「自分は、禅のことが一つもわかっていない。生活の中の禅を学ばねばいけないのだ。禅問答や座禅だけじゃないんだ」
こうして、道元さんは天童山へ向かいます。そこは、禅の聖地となっているところでした。が、やはりそこも比叡山と同様に、俗がはびこっている世界でした。それでも、学ぶことはあったようで、1年ほど滞在します。しかし、その後、宋においても遍歴の旅に出てしまうのです。
しかし、いい師に巡り合うことはできず、日本に帰ろうかと迷い始めたころ、
「今度の天童山の住職は、今までにない禅僧だ」
という噂を耳にします。そこで、さっそく天童山に戻ることになったのです。
天童山の新たなる住職は如浄といいました。如浄が指導する姿を見た道元さんは、この人だ!と思ったそうです。それは大変厳しい禅だったのです。如浄もまた、道元を一目見て、これぞ真の弟子、と思ったようです。これより、警策で容赦なく打ちすえる厳しい座禅を道元に教えたのです。宋に入って2年のこと、道元26歳のことでした。

数ヶ月たったある日のこと。道元さんは、いつものように他の修行僧とともに壁に向かって座禅をしていました。その時、となりの修行僧が
「座禅とは身心脱落なるぞ!、居眠りするとは何事ぞ!」
と打ちすえられました。それは道元さんに
「そうか、身心脱落、脱落身心・・・・・わかった!」
と悟りをもたらしたのでした。
「仏が修行するのは覚りを得るためではない。覚っているがゆえに修行するのだ。修行こそ本来の仏の姿なのだ。そこには目的などないのだ。人もまた同じ。仏性があるから修行ができる。仏性がなければ修行はできない。そこには目的などない。ただひたすら座禅するだけなのだ。それがすなわち仏なのだ!」
この悟りは如浄に認められた。さらに道元は修行を重ね、ようやく2年後には、正式に法を継ぐものとして認められたのでした。28歳の年でした。

宋において4年を過ごした道元さん、いよいよ帰国します。一般に、留学僧はたくさんの経典類を持ち帰るのですが、道元さんは手ぶらでした。こういうところが禅僧らしいところですね。
師である如浄には日本に戻ったら禅を広めるよう言われていました。道元さんは、師の言葉に従うべく、建仁寺に戻り、自分の禅を書に記し始めます。それは「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」という書物です。そして、従来の仏教を激しく非難し、ただひたすら座禅すること・・・・只管打坐(しかんたざ)・・・・を説いたのです。
こうした道元さんに対し、比叡山は大きな圧力をかけてきます。したがって、建仁寺を追われることになります。道元さんは、建仁寺を出て山城に移りました。そこでもいろいろな書を記します。「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を書き始めたのもこのころです。
そうこうするうちに、道元さんの説く禅は、民衆に受け入れ始められます。ただ南無阿弥陀仏だけ唱えればいい、という教えに満足できない民衆が、道元さんのもとに集い始めたのです。しかし、それは、比叡山からの圧力が強まるきっかけにもなりました。
道元さんは、困りました。都にいて自分の純粋さを捨て民衆を導くべきか、民衆を選んで自分の純粋な教えを貫くべきか・・・・。衆生救済は重要だが、己を曲げる必要はあるか・・・。道元さんは迷いました。
そんな道元さんのもとに手紙が届きます。それは如浄の語録でした。道元さん43歳の時です。その中でも目を引く言葉がりました。それは道元さん帰国するときにかけられた言葉でした。
「街に住むな。権力に近づくな。深い山に暮らし、一人でも、否その半分でも人を導き、禅を伝えよ」
この言葉に従い、道元さんは翌年、京を出て越前に向かったのです。越前を選んだのは、信徒の波多野という武将の領地であったことと、師の如浄が越州の人であったことにちなんだためでした。
こうして、越前、今の福井県に永平寺ができるのです。道元さん、47歳の年でした。

永平寺において、只管打坐の日々を過ごし、後継者を育てる毎日を過ごしていた道元に鎌倉への招待が来ます。時の権力者、北条時頼からの依頼でした。道元は仕方がなく、鎌倉へ行きますが、それは失望するだけの旅となりました。鎌倉には道元の禅を理解するものはいなかったのです。ただ、その時時頼の求め応じて読んだ有名な句があります。
「春は花 夏ほとどぎす 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」
すべては自然のまま、本来の姿そのものを見るがよい、という句です。
しかし、道元の教えは広まることなく、道元は
「やはり如浄の説く通り、街には行くな、権力者には近づくな・・・・だな」
と、永平寺に戻るのでした。
その後、道元さんは決して俗に交わることなく、山深い永平寺で座禅に明け暮れる日々を過ごすのでした。
そんなおり、病に倒れます。療養のため、京都に向かいますが、それがかえって病を重くしました。1253年8月28日の夜半、道元さんは詩文を残します。
54年の生涯、ただひたすら宇宙を照らす。
今やこの世界を超越し、打ち砕いてしまった。
ああ、
わが全身にいっさいの欲望なし。
生きながら冥土に落ちていこう。
道元さん、54歳の時でした。

只管打坐・・・ただひたすら壁に向かって座禅する。それが道元さんの主たる教えです。他には何もありません。覚るのが目的ではありません。ただ座る、なのです。目的も何もないのです。座るから座る。食べるから食べる。起きるから起きる。寝るから寝る・・・・。すべては自然なんのです。人の行動に理由づけなどいらないのです。
そう悟れば、己の行動に言い訳とか、自信がないとか、どうしていいかわからないとか、そう言ったことはなくなるのです。
迷ったら、壁に向かってただ座ってみるのもいいのではないでしょうか。
なお、こうしたことから、曹洞宗の禅は黙照禅といわれています。考案や問答はほとんどしません。また、臨済禅は壁を背にして座ります。曹洞禅とは反対ですね。
禅もいろいろあるのですよ。合掌。



日 蓮

日蓮さん(1222〜1282)は、鎌倉中期の僧で、日蓮宗の開祖です。生まれは千葉県安房の小湊です。親は網元をしていました。
幼名を薬王丸といいます。両親は、頭がよかった薬王丸を12歳の時、近くの清澄寺(きよすみてら)に預けます。そこでも非凡な才能を発揮した薬王丸は、4年後、正式に出家します。その時の名を是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)といいました。蓮長となった薬王丸は、清澄寺を後にし、鎌倉に出ます。
が、鎌倉ではあまり得るものがなかったようで、4年で清澄寺に戻ってきています。しかし、向学の気持ちは薄れることなく、ますます仏教を学びたいと強く願うようになりました。そこで京都は比叡山を目指しました。20歳の時です。
念願かなって、比叡山をはじめ京都の各宗派の寺院で仏教を学びます。それは11年間に及びました。
31歳となった蓮長は、比叡山での修行を終え、故郷の清澄寺へ戻ります。

清澄寺へ戻った蓮長は、とんでもない教えを説き始めました。それは・・・・。
「念仏無間。念仏を信ずるものは地獄に落ちる」
当時、念仏は大流行していた信仰でした。念仏を唱えることに、誰も異を唱えることはしなかったのです。蓮長の話を聞きに集まった人々はびっくり仰天です。しかも、清澄寺でも念仏行事があったのですから、その場にいた民衆はびっくり仰天を通り越していたかも知れません。
そんなことは何とも思っていない蓮長、さらに続けます。
「禅天魔。禅は天魔の教えである。真言亡国。真言宗を信ずれば国が滅ぶ。律国賊。律宗の坊主は国賊である」
禅宗・真言宗・律宗は、当時念仏とともに代表的な宗派でした。つまり、蓮長は、その当時の代表的な宗派をすべて否定したのです。
(まあ、馬鹿げていますね。どれも同じお釈迦様の教えを元にした教えですからね。全否定すれば、己も否定することになる、という矛盾は無視しているわけです。
もちろん、当時の各宗派の僧侶を批判するならわかります。しかし、教えそのものを否定するのはどうかと思いますよねぇ・・・。いくら信念が強いからと言っても、これは賢いやり方ではありません。余談でしたが・・・)。
蓮長は、その当時の僧侶の行状があまりにもひどいことを嘆き、経典をつぶさに読んだところ、末法の世に入っているということを確信したのです。末法の世には、僧侶は乱れ、その時の仏教には人々を救う力はない、ただ法華経のみが世の中を救うことができる、と法華経に説かれていることに着目したのです。
法華経のみが末法の世を救える・・・・。
これは、蓮長・・・日蓮・・・にとっては、覚りでした。そうした信念があったればこそ、その当時の既成仏教を激しく非難したのです。しかし、この他宗派非難が蓮長に災いをもたらすのです。

この蓮長の説法が土地の領主である東条景信(とうじょうかげのぶ)に知れたのです。彼は熱心な念仏信者でした。さっそく、蓮長を捕らえよ、という命が下されます。
また、清澄寺でも蓮長の説法に非難の声があがりました。捕らえられるべきだ、という声もあがりました。どこにも蓮長の味方はいなかったのです。しかし、師だけは蓮長をかばい、景信の追手や清澄寺の批難から蓮長を逃がすのです。蓮長は、船に乗り、鎌倉を目指します。

1254年、蓮長32歳のとき、日蓮と名前を変え、鎌倉の地に草庵を構えて法華経の布教に精を出していました。当時、鎌倉は地震や洪水、、異常気象などの天変地異で人々は苦しんでいました。この天変地異は翌年も続いたのです。日蓮は、
「念仏や祈祷、禅に明け暮れる僧侶・信仰が日本をこのようにしている。間違った信仰により、神仏が日本を見捨てたのだ。ただ救われる方法は、法華経に頼るのみ、南無妙法蓮華経のお題目を唱えることだ」
と説いて廻っていました。そうして、その思想をまとめた「立正安国論」を鎌倉幕府に上程したのです。日蓮38歳のときでした。それには、
「法華経信仰をしなければ、災害はますます激しくなり、自国内に叛逆がおこり、他国が攻めてきて、日本は滅びてしまう」
と書かれていたのです。しかし、幕府は立正安国論に対し、何の反応も示さず、黙殺してしまったのです。ところが、この立正安国論が念仏衆の耳に入ってしまったため、念仏衆のあいだで
「日蓮討つべし」
の声が上がったのです。それは、実行に移されました。日蓮のいた草庵が放火されるのです。誰もが、日蓮は死んだと思いました。しかし、翌年の春、日蓮は再び辻説法に立ち、一層激しい念仏批判を始めたのです。
念仏衆たちの怒りは頂点に達し、幕府に日蓮捕縛を願い出ます。幕府要人には念仏信仰者が多く、日蓮捕縛の命令は簡単に出ました。やがて日蓮は捕縛され、伊豆の伊東に流されました。日蓮はその時、
「なぜ放火された自分が捕縛されるのか・・・・。あぁ、そうだ、法華経に『末法の世に正しい教えである法華経を広めようとする者は迫害を受け難を受ける』とある。まさに今、私はその状態なのだ」
と、ますます法華経への信念を深めたのです。
(今で言えば、空気が読めない、ということになります。激しく批判すれば、捕らえられるのは当然のこと。いわば、立正安国論の自国内での反逆は自分自身になっているわけです。なのに、日蓮さんは自分の都合のいいように法華経を解釈してしまったのですね。布教の方法論が間違っているわけです。余談でしたが・・・・)

翌年、日蓮40歳の時、流罪を許され、再び鎌倉に戻ります。しかし、すぐさま法華経の布教をするわけにもいかず(多少は学習したのですね)、故郷の小湊に戻ります。そこでしばらく滞在するのですが、その年の秋のこと、東条景信の一行に命を狙われました。
日蓮は、そのとき数名の弟子とともに小湊は天津の領主である工藤家に行く途中でした。あっという間に大勢の武士たちに囲まれ、弟子たちは次々と切られていきました。いよいよ刃が日蓮に振りかかろうとしたそのとき、日蓮を囲んでいた武士たちが騒ぎ始めました。工藤家から救いの武士がやってきたのです。一瞬のチャンスを逃がさなかった日蓮は、その窮地を脱したのです。しかし、日蓮を救った工藤吉隆と弟子一名が命を落としたのです。日蓮自身も骨折しました。
こうした事件があったにもかかわらず、日蓮は動揺しませんでした。むしろ、迫害を受けることにより、ますます自信を深めていったのです(これって勝手な解釈だと私は思います。そのために死んでいった人々はどうなるのでしょうか?。ちょっと違うんじゃないかと・・・・と思うんですけどねぇ・・余談ですが)
その後4年間にわたり、下総や常陸を中心に法華経の布教に励みます。

46歳の年、日蓮は三度鎌倉の地に立ちます。そのころ、蒙古から国書が届き、鎌倉は、蒙古が日本に侵攻しようとしているという話題で不穏な空気に包まれていました。これを知った日蓮は
「私の予言が当たった」
とし、再び幕府に立正安国論の正しさを訴え、日本を救えるのは自分以外にない、とアピールしたのです。が、幕府はまたもこれを無視したのです。日蓮は、その後、何通もの幕府と宗教界を批判した書状を、幕府や要人に送りつけるのですが、これらも悉く無視されました。
その3年後、当時の仏教界の重鎮であった忍性と争うようになりました。その結果、幕府にとらえられ佐渡への流罪が決定します。

佐渡へ流罪が決定した日蓮たちは、夜中の内に由比ヶ浜から極楽寺の切通しを進んでいました。日蓮は馬に乗せられています。七里ヶ浜を行き、竜の口という刑場に差し掛かったところ、日蓮一行を囲んでいた兵士が日蓮を馬から引きずり降ろし、地に座らせます。佐渡への流罪ではなく、その場での処刑がなされようとしたのです。
兵士が刀を振り上げ、今まさに日蓮の首をはねようとした瞬間でした。すさまじい雷鳴が起こり、稲妻が刀に落ちたのです。これが有名な竜の口の法難です(一説によると、海岸にボール状の雷のようなものが浮かび、そこから稲妻が落ちた、とあります。海上にプラズマ現象が起きたのでしょう。そのプラズマから刀に電気が走ったと思われます。このような現象は、昔話によくあります。雷獣などとも言われます)
こうなっては、処刑どころではありません。日蓮は死罪を免れ、佐渡へと流されたのでした。日蓮さん49歳の年です。

52歳の年、日蓮は赦免され、鎌倉の地にいました。日蓮が記した立正安国論の内容が無視できないものとなってきたためです。蒙古襲来の危機が訪れていたのです。そこで、幕府は今まで日蓮を弾圧してきた平頼綱を使者とし、
一、日蓮のために寺院を新築する
二、一千町の田を寄進する
ことを条件に
@蒙古退散の祈祷を行ってほしい
A今までのような他宗派批判(折伏)をやめて欲しい
という要望出してきたのです。
日蓮はこの要望をあっさりと断ります。なぜなら、その時の災難や災害、政府の乱れなどはすべて他宗派の信仰があるからだ、というのが日蓮の信念だったからです。ですから、他宗派の教えを排除しなければ、日蓮の祈祷は行えないし、成功するはずがないのです(当然ながら、法華経以外の信仰が災難や災害、政治の乱れの原因ではないのですが、日蓮さんはそう信じ込んでしまっていたんですねぇ。ちょっと・・・・なんですねぇ・・・、余談でしたが)。
結局、日蓮は幕府と折り合うことなく、鎌倉を出ることにします。目指すは身延山でした。

その年の秋(文永11年10月)蒙古来襲。日蓮は、身延山中の草庵にいました。身延山中にて大曼荼羅(これは日蓮宗でいう大曼荼羅です。真言宗のそれとは異なります。法華経を元に、中央に南無妙法蓮華経と書き、周囲に様々な仏菩薩・神々の名前を書したものです。つまり、文字による法華経曼荼羅ですね)を書しています。そして、蒙古退散のため、日夜祈祷に明け暮れていました(その当時、各宗派の本山では、蒙古退散を祈願していました。高野山はもちろんのこと、東寺・比叡山・禅宗寺院・念仏宗などの各宗派は、すべて蒙古退散の祈願をしていたのです。また、太宰府では、高野山の波切り不動を借りて祀り、蒙古退散の護摩を厳修しました。どの宗派が一番ということはありません。すべての宗派の祈願が一つにまとまったからこそ、台風を呼ぶことができたのでしょう。そう考えるのが、妥当なのです。おらが宗派のおかげ、というのは愚かしいことです)。

身延山に入って7年が過ぎました。そんなころから日蓮は体調を崩しだしました。日々、身体は衰え、冬を越しても一向に回復の兆しはありませんでした。それが日蓮を弱気にしたのか、彼はもう一度故郷に戻りたいと思ったようです。そして、60歳の年、身延山を下りることにしました。
生まれ故郷を目指す旅でしたが、途中の武蔵野国池上にある池上宗仲の館で動けなくなります。その場で日蓮は弟子たちに立正安国論を説き、他宗派への排撃と権力者への批判を緩めないよう託します。そして、その年の10月、枕もとに自ら書した大曼荼羅をかけ、法華経を読誦しながら息を引き取ったのです。

日蓮さんは、実は高野山でも修行をしています。高野山内には今でも日蓮宗のお寺が裏通りにひっそりと建っております。高野山で修業した日蓮さん、一説によると、密教が理解できなかったそうです。この教えは民衆には理解不能だ、とも思ったそうです。そこで、さっさと山を下りたようなのです。
思うに、日蓮さんは、どちらかというと最澄さんに近い考え方の持ち主です。視野を大きく持つことができず、自分の信念に対して真っ直ぐ向かっていってしまう・・・・。不器用といえば不器用なのですが、正直者であることには間違いはないです。ちょっと正直すぎるのです。世渡りべた・・・なんですねぇ。
密教者からすれば、こうした生き方は真反対の生き方です。密教はすべてを飲み込んでしまう教えです。一つの宗派にこだわり、他を排撃することはありません。日蓮さんの性格からすると、なるほど、密教を理解できなくても仕方がないかな、とも思います。
苦労して他を排除してでも信念をつら抜くか、他を飲み込んで吸収して信念を通すか、それを選ぶのは自由です。まあ、才能や性格、能力の差にもよりますけどね。
いずれにせよ、大きな力が必要であることは間違いがありません。どちらも、下手には真似できないことですね。
合掌。



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