バックナンバー13・高僧部

高僧部


西 行

西行さん(1118〜1190)は、平安後期の、僧侶というよりは歌人として知られた方です。新古今和歌集には西行さんが詠んだ歌が94首も収められています。
が、しかし、本業は歌人ではなく僧侶なのですよ。

もとは武家の子でした。天皇家を守る衛兵の家の生まれです。16歳で徳大寺家に仕えます。その後、鳥羽上皇に北面の武士(天皇の地位を譲位した上皇を守る武士のことを「北面の武士」といった)として仕えます。武家としては、腕もよく、鳥羽上皇からも可愛がられ、生活には何不自由ない状態でした。
ところが、22歳の時、友人の急死を切っ掛けに出家してしまいます。
出家後は、陸奥へ旅に出ますが、やがて高野山にて修行に入ります。高野山での滞在は長くなります。高野山を下るのは「鳥羽上皇ご危篤」の知らせが届いたときでした。
このころ、天皇家では不穏な空気が流れていました。有名な崇徳天皇の件です。

白河法皇の子が鳥羽上皇です。鳥羽上皇には璋子(しょうし)という妻がありました。その第一皇子が崇徳天皇です。が、実は崇徳天皇は鳥羽上皇の実子ではありません。なんと白河法皇の子なのです。簡単に言えば自分の息子の女房を父親が奪ってしまい妊娠させたわけですね。
白河法皇健在のとき、崇徳に鳥羽天皇に天皇の座を譲位させます。こうして、白河法皇・・・鳥羽上皇・・・崇徳天皇というつながりができます。
なお、鳥羽上皇には他に得子という女性がおり、上皇は得子を寵愛しておりました。二人の間には皇子がおりました。
白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は崇徳天皇を追いやり崇徳院としてしまい、まだ2歳になったばかりの皇子を天皇の座につけます。これが近衛天皇です。このことから、崇徳天皇は鳥羽上皇や近衛天皇に対し、強い怨みを持ちます。
さらに、近衛天皇はわずか16歳の若さで亡くなってしまいます。当然、その次の天皇は崇徳院の皇子だと、誰もが予測していました。ところが、またまた鳥羽上皇が口を挟み、次の天皇を崇徳院の弟(こちらは鳥羽上皇の実子)を後白河天皇と名乗らせ即位させます。崇徳院に権力を渡さないためです。こうしたことから、崇徳院の鳥羽上皇関係者に対する怨みはさらに深いものとなったのです。
今、鳥羽天皇が亡くなろうとしています。一部始終を近くで見てきた西行さんは、不穏な空気が流れていることを知っていました。鳥羽天皇がなくなることで、それが一気に爆発しないかと心配したのです。なので、西行さんは高野山を急ぎ駆け下りていたのでした。

西行さんの心配の通り、鳥羽上皇の初七日法要後、崇徳院は軍勢を結集させます。しかし、その3日後、平清盛らにより崇徳院の軍勢はあっさり壊滅させられます。崇徳院は捕らえられ仁和寺に幽閉されます。
西行さんは、危険を顧みず崇徳院に面会に仁和寺を訪れます。が、崇徳院との面会は許されず、仕方がなしに
 「かかる世に 影も変わらず 澄む月よ
       見る我が身さえ 恨めしきかな」
という歌を詠み、崇徳院に渡すよう伝言し仁和寺を去ります。
なお、崇徳院はその後、讃岐の国へ流罪となります。崇徳院は失意の中、二度と都に戻ることなく讃岐の山の中で生涯を閉じます。その怨念は今も続いていると言われるくらいです(このことを題材にしたホラー小説やミステリー小説がたくさん出ています。興味ある方は一読を・・・)。これが保元の乱です。西行さん40歳近くの頃のことです。

西行さん、己の無力さを痛感したようです。その後は、高野山に戻り修行に励みます。ということですが、しばらくは不明の状態です。山野を駆け巡っていたのか、高野山に引き籠っていたのか・・・・。おそらくは、高野山を中心にその周辺を旅していたのではないかと思われます。一説によると、このころ怪しい秘法を行ったという伝説もあります。それは死者を生き返らせる秘法だったそうです。とはいえ、あくまでも伝説です。確たる話ではありません。
西行さんが次にはっきりした行動を示すのは、50歳のころ、崇徳院が讃岐の地で亡くなって2年後のことでした。

西行さんは、高野山において、崇徳院の皇子であった元性法印(げんしょうほういん)から崇徳院が都を、天皇家を強く怨んで亡くなったことを聞かされます。そこで西行さん、崇徳院の怨念を鎮めるため、讃岐へ旅に出るのです。ついでにといっては語弊がありますが、弘法大師御生誕の寺・善通寺で修業をすることを目的としていました。
やがて、崇徳院の墓所である白峰寺を参拝し、崇徳院の菩提を祈り、歌を詠みます。
「よしや君 昔の玉の 床とても
         かからむ後は なににかはせむ」
この時、崇徳院の墓が揺れ動き、西行さんをあわてさせたという伝説が残っています。
崇徳院の墓参りを済ませた西行さんは、予定通り善通寺にて滞在します。ついでに弘法大師ゆかりの地も参拝したそうです。
こうして、四国での予定をこなした西行さんは再び高野山に戻るのです。高野山に戻った西行さんには大きな仕事が待っていました。

当時、高野山は、長きにわたって争いが残っていました。その争いとは、弘法大師以来の金剛峯寺側と高野山が衰退し始めたころに覚鑁上人が興した伝法院との確執でした。伝法院はやがて根来に地を移しますが、高野山側との争いは激しく、納まるところを知りませんでした。
しかし、これではいけないという意見が出始め、なんとか金剛峯寺側と伝法院側の争いを緩和する方法はないかと模索していたところ、高野山の壇上伽藍に堂(蓮華乗院)を建て、お互いに問答をしようという話になりました。その初の奉行の任にあたったのが西行さんなのです。
蓮華乗院(現在の蓮華乗院ではありません。伽藍の大会堂のことです)は無事建立されました。そして、その横の堂(現在の三昧堂)にて長日談義が行われたのです。それは50日にも及ぶ金剛峯寺側と根来側との問答でした。
なお、三昧堂横には西行さんが長日談義の記念に植えたという桜があります。西行桜と呼ばれています。

高野山での大仕事を終えた西行さんは、都のはずれに草庵を結びます。そこで歌を詠んで暮らしていました。このころ、藤原俊成とも親しくなっています。
ところが、平家対源氏の争いが激しくなったので、巻き込まれるのをおそれ、伊勢へと隠棲します。そこへ戦乱で焼かれた東大寺と大仏再建のため勧進をしていた重源がやってきます。重源はかつて高野山で修業した仲間でした。その重源から勧進の協力を頼まれます。陸奥の藤原家に赴き、砂金を手に入れてきてほしい、ということでした。
重源の願いであり、東大寺再建のためであるので、西行さんは引き受けます。
実は西行さん、どちらかというと平家と親しかったため、源氏である源頼朝は知らぬ仲でした。しかし、陸奥から金を届けてもらうためには、頼朝の通行許可と護衛が必要でした。まずは頼朝に近づかねばなりません。そのために西行さんは鎌倉へと足を運びます。

しかし、懸念されていたこともなく、西行さんは頼朝に歓迎されます。それは、
「西行といえば有名な歌人である」
という評判が鎌倉の地にも広まっていたからです。僧というよりは、歌人で有名だったのです。早速、鎌倉では歌会が開かれたり、都での文化談義に花が咲きました。それだけではなく、西行さんが武士時代弓の名手だったことを知るや、武芸の話にまで及んだのでした。
頼朝はすっかり喜び、陸奥から奈良への護衛を保証したのでした。
なるほど、芸は身を助く・・・とはいいますが、習っておいて無駄なことはない、と思いますね。もし、西行さんが歌も詠まない、文化的な話もできない、武芸も達者でないとしたら・・・・。しかし、過去を振り返ってみますと、大きな仕事を成し遂げた人は、たいていいろいろな技を持っているものですよね。技術も言葉もなにもない凡人は、まあ、凡人ですよね・・・・。

さて、東大寺の勧進の協力も無事に終えた西行さん、京都は嵯峨の地でしばらくのんびりとした日々を過ごしましたが、やがて河内の弘川寺に行き、その山中に草庵を結びます。しばらくして、その地で死を迎えます。72歳の年でした。
死を迎え少し前の歌会で、詠んだ句が最後の句となりました。有名な句です。
「願わくば 花の下にて 春死なむ
         そのきさらぎの 望月のころ」
「花の下にて春死なむ」という言葉は、小説などにもよく登場する言葉となっています。もとは、西行さんの句だったのですね。
この句の通り、2月15日、花が咲いている満月の夜、西行さんは亡くなったのです。それはそれは、静かな死だったそうです。奇しくも、2月15日は、お釈迦様が入滅された日でした。僧侶としては、最高の死を迎えられたといえるでしょう。
なお、西行さん没後15年目に新古今和歌集が編纂されています。西行さんの詠んだ句は94首収められています。



一 休

今回は、超有名な僧侶の一休さんです。が、しかし・・・・。皆さんがご存知の一休さんは、「とんちの一休さん」ではないでしょうか。TVアニメで大ヒットしましたからねぇ。どなたでも一休さんと言えば、「かわいいとんちの一休さん」をイメージすると思います(あのアニメの一休さんを知らない若い世代の人たちは、一休さんすら知らないそうです。嘆かわしい・・・・)。
ところが、実際の一休さんは、あのアニメのような一休さんではないのですよ。一休さんほど、イメージと現実がかけ離れている方はいないんじゃないでしょうか。実際の一休さんを知ったら、ちょっとびっくりするかも知れません。皆さんが持っているイメージを壊すことになるかも知れませんので、覚悟して読んでください。

一休さん(1394〜1481)は、室町時代の禅僧(臨済宗)です。父親は、なんと後小松天皇です。天皇が女官に手をつけまして、生まれた子供が一休さんなのです。いわば、天皇の御落胤(ごらくいん、オトシダネのこと)というわけです。
一休さんの母上様(アニメでもそう呼ばれてましたねぇ)は、美形で賢く、そのためか天皇に寵愛されました。そして身ごもってしまうのですが、宮中では妬みも多く、ずいぶん意地悪をされたようです。さらには、天皇の子を身ごもったということで、不穏な空気が流れるのを恐れた天皇が、一休さんの母上を身重な体のまま宮中から追い出してしまいます。母上様は、京都は嵯峨の隠れ家をあてがわれました(実は天皇は彼女を大事にしていたようです。政治的に仕方がなしに追いだしたのでしょう)。そして、そこで子供を産みます。それが後の一休さんですね。

一休さんは幼名を千菊丸(ちぎくまる)といいました。母親は追い出されたとはいえ、天皇の子を身ごもった人ですから、衛兵も女官もつきます。千菊丸の世話も乳母がしていました。
この乳母、色黒な人だったそうで、千菊丸は「おくろ」と呼んでいたそうです。ある冬のこと、嵯峨に大雪が降ります。その大雪を見て千菊丸は
「おくろも雪に降られれば、色白になろう」
といったそうです。で、そのときに歌を一首詠んでいます。
「降る雪が 白粉(おしろい)なれば 手にためて おくろの顔に 塗りたくぞ思う」
このとき千菊丸は4〜5歳くらいだったそうです。しかも、誰も歌などは教えていませんでした。見よう見まねで覚えた歌を詠んでしまうところは、さすが一休さん、というところでしょうか。また、その内容は、後々の一休さんらしい、ちょっと皮肉な内容かな、と思います。

さて、天皇周辺では千菊丸をめぐって不穏なうわさがたち始めていたそうです。生まれたのが男の子ですから、仕方がないですよね。天皇に敵対するグループが、いつ千菊丸を担ぎ出すかも知れません。それを恐れた母上様は、千菊丸を出家させてしまいます。千菊丸は安国寺の像外鑑公(ぞうがいかんこう)のもとに預けられてしまうのです。千菊丸、5歳のときでした。こうして母上様とは別れてしまうのです。

安国寺に入った千菊丸は、名を「周建(しゅうけん)」と改められます。もう千菊丸ではないのです。
像外和尚は周建を可愛がり、仏教や作法を教えました。周建は大変聡明で、11歳のときには維摩経の講義を大人に交じって聞き、それを理解していたそうです。
12歳になり、建仁寺に入ります。ここで、禅や詩文などの手ほどきを受けます。しかし、いつの時代もそうなのですが、このころの禅僧も腐敗していたようで、自分の出自を自慢する者や、権力にすがり出世を望む者が多くいたようで、周建はこれを大変嫌っていました。権力者やそれに媚を売る僧侶が許せなかったようです。これは、後の彼の生き方に大きく影響しています。

16歳になった周建は、京都五山の腐敗した僧侶を見るのが嫌になったのか、ここでは修行ができないと思ったのか、一切の権力に媚びず、禅にひたすら打ち込んでいた為謙宗為(いけんそうい)の庵に行き、その門下に入ります。
宗為は、妙心寺で修業し、開悟(大悟したんですね)したにもかかわらず、その証明である印可状を受け取ることを拒否したほどの、まあいわばへそ曲がりな、いやいや立派な禅僧でした。そんな禅僧だったので、権力には媚ません。したがって、宗為の庵は、貧しい庵でした。
周建は、ここで名を「宗純(そうじゅん)」と改めます。宗為から頂いたのですね。一休さんは、本当の僧名を「一休宗純」といいます。その宗純は、この時につけられた僧名だったのです。
宗純は、宗為のもとで4年ほど修行しました。ある日のこと、宗為が宗純を呼び、こう告げました。
「禅について教えるべきことはすべて教えた。もう何も教えることはない。しかし、わしが師から印可状を受けていないから、お前にもやらん」
宗純はこれを聞いて、「これぞ本当の禅僧だ」と思ったようです。書状や名前が問題ではなく、その人そのものの生き方が大事なのだ、ということをここで学んだのです。
その翌年の12月こと、宗為は寂滅します。師を失った宗純は、しばらく庵に滞在しますが、年が明けてすぐ母親の元に帰ります。しかし、母親と再開したのもつかの間、すぐにそこを出て石山観音(滋賀県大津市にある石山寺)に7日間参籠します。しかし、気持ちはすっきりとせず、師を求めて托鉢しながら琵琶湖周辺をさまよっていました。

そんなある日のこと、旅の僧から
「近江には、華叟宗曇(かそうしゅうどん)という禅僧がいる。どこに住んでいるかは知らぬが、相当な禅僧らしい」
という話を聞きます。そこで、宗純は華叟がどこに住んでいるかを尋ね歩きました。そして、ついに華叟の庵を見つけるのです。しかし、これがとんでもない禅僧だったのです。

華叟は堅田に禅興庵という庵に住んでいました。この華叟という禅僧、あの大徳寺の住職にもかかわらず、ほとんど大徳寺に行ったことがないという偏屈者でした。一切の権力を嫌い、自らの禅風を貫き通した本物の禅僧だったのです。
禅興庵を訪ね、入門を願い出た宗純ですが、華叟の返事はNO!でした。何度も頭を下げる宗純、何度も否!と答える華叟。宗純、
「ここへ来たのは、石山観音様の導きです。他に行くところはありません。どうか弟子に!」
と必死に願います。すると華叟は
「ならば、庭づめの試練を受けてもらおう。一日中、そこを動かず地べたに頭をつけておれ」
と怒鳴りました。
庭づめの試練とは、禅寺に入門する際に行われることがあるテストのようなものです。その寺に入門を願うものは、門に入り、玄関の前で頭を地面につけ、
「もうやめてよい、中には入れ」
という指示があるまで、じ〜っとしている試練なのです。まさしく試練ですよね。しかし、これが入門テストになっているのです。庭づめに耐えられないようでは、入門しても無意味なのですよ。修行に耐えられないのですね。しかも、「入ってよい」と言われるのが、一日後なのか、三日後なのか、一週間後なのかはわかりません。ですから、多くの場合は、耐えきれず逃げ出してしまうそうです。
現代では、この庭づめの試練は、行われているのかどうかは知りません。まあ、たいていはゆかりの寺院に入門できますし、あるいは禅寺関係の学校に入りますから、厳しい庭づめの試練はないとはお思います。もしかしたら、あるかも知れませんけど。
いずれにせよ、一休さんがいた当時は、普通の作法だったのですよ。多くはなれ合いで、一応の儀式、という扱いだったようですが、なかには華叟さんのように本気で庭づめを行う禅僧もいたようです。禅にはこうした厳しさがつきまといますからね。
さて、一休さんこと宗純は、華叟の言いつけ通り庭づめの試練を受けることになりました。いつまで続くともわからぬのに、です。


「そこを動かず地べたに頭をつけておれ」
と華叟に言われた宗純。言われたとおり、玄関先で地面にひれ伏していました。一日中です。真冬ですから、寒さも身にしみます。動くわけにはいかにので身体も痛んできます。もちろん、のども渇くし、小便にも行きたくなります。が、動いてはいけません。その場を立ち上がったら、弟子になることは絶対に許されないのです。宗純は耐えました。
夜になり、やがて寺の灯も消え、静寂が辺りを包んだころ、ようやく宗純は立ち上がります。一日中動かなかったことによる身体の痛みと寒さと空腹によりふらふらでした。そんな身体で琵琶湖まで歩き、小舟の中に身体を横たえたそうです。空腹は琵琶湖の水を飲んでしのぎました。そして夜明けとともに華叟の元へ行き、再び玄関先でひれ伏すのです。しかも、ときには
「さっさと去れ!」
と華叟から水を浴びせられることもあったのです。宗純は、ずぶ濡れで凍えるような寒さの中、それでも耐えたのです。いつ許しが得られるかわからないにもかかわらず、です。

世間の人々は、一休さんの生涯の中にこのような苦難の日々があったことをご存知ないでしょう。おそらくは、一休さんは生まれつき頭がよく、何の苦労も苦痛もなく、高僧と尊敬されるようになった・・・・と思っているのではないでしょうか。否、一休さんだけではありません。尊敬されるような人物は、その裏で壮絶な苦労や苦難の日々を過ごしてきていることが多いのですよ。成功した姿からは想像もつかないような苦しみに耐えてこそ、成功が得られるんです。多くの苦しみに耐えられないようでは、「大事な何か」をつかむことはできないのです。

宗純は、耐えに耐えました。そして、ついに華叟は入門を許すのです。宗純の意志の固さを認めたのです。しかし、本当の厳しさは、そこから始まったのです。
まずは貧乏に耐えねばなりません。華叟は、京の僧侶のように権力者に近付き布施を得るようなことはまったくしませんでした。なので、いつも貧乏だったのです。食事が得られない日など当たり前。野草を刻んで食べることもしばしば。禅の修行に追われながらも、薬草を探して薬に加工し、街で売るということもしました。もちろん、日課の修行ができていなければ寺を追い出されてしまいますので、寝る間もない位に働いたのです(現代の人が、休みがなくって苦しいから仕事をやめました・・・・なんていっているのを聞くと、一休さんはどういうのでしょうかねぇ。贅沢なもんじゃのう、とでも言いますかねぇ)。
ある日のこと、華叟から公案を出されます。宗純は、これを苦心の末、解き明かしました。華叟は
「見事じゃ。よく解いたのう。これより、お前は一休と名乗れ」
「一休ですか・・・。一休み一休み・・・。ありがとうございます」
宗純は一休という名が大変気に入ったのです。そのときに詠んだ句があります。
  「有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」
一切のこだわりをなくし、一休みをしている・・・すなわち空の状態にある・・・ことを詠んだ句です。
こうして、宗純は一休となったのです。一休さん、24歳のときでした。

一休さん、26歳の5月20日のこと。その夜、一休さんはなぜか琵琶湖に小舟を出して漕いでいました。空には雲がかかり、星ひとつない闇夜でした。静寂と暗闇の中、一休さんは小舟の上で瞑想をしていました。そのとき・・・・。
突如、カラスが一声鳴き声をあげました。それが切っ掛けでした。
「わかった・・・・」
すべてが抜け落ちた境地だったそうです。ついに悟りを得たのです。
翌日、その境地を華叟に伝えました。華叟は
「それはまだ自分だけの悟りじゃ。小乗の覚者、羅漢に過ぎん。真に優れた禅僧は羅漢をもしのいでいる」
と答えました。それに対し一休さんは
「この境地が羅漢に過ぎぬというのなら、それで結構です。これ以上の者にはなろうとも思いません」
ときっぱりと答えました。すると華叟はニヤリと笑って
「お前こそ真の禅僧じゃ」
そして、悟ったという証明である印可状を授けようとします。が、一休さん、
「そんなものは不要です」
と断ってしまいます。さすが、一休さんですね。悟りの境地に達した者にっては、印可状など不要なのです。そんなものは紙切れ一枚にしかすぎないんです。もう一人の師であった謙翁の境地を貫いたのです。
ちなみに、この華叟からの印可状は、死期を覚った華叟から門下の者に託されたようです。その印可状の末尾には
「正法もし地に落ちなば、なんじ出世し来たってこれを扶起せよ。なんじはこれ我が一子なり」
とあったそうです。華叟の一休さんに対する気持ちがよく表れています。

さて、そんなころの一休さんらしいエピソードをひとつ紹介しておきましょう。
師の華叟は、持病の腰痛が悪化し、下の世話が必要になるくらいでした。一休さんは、かいがいしく華叟の世話をしました。そんなある日のこと、華叟の師の33回忌の法要が行われることとなりました。腰痛で思うように座れない華叟も、さすがにこの日は金襴の豪華な袈裟をつけて導師を務めます。同門の者や華叟の弟子も多く集まりました。皆、一様に金襴の袈裟をつけて法要に出席しました。ただ一人、一休さんを除いて。
一休さんは、普段托鉢するままの、破れ衣のまま法要に出たのです。さすがに師の華叟もびっくりして
「一休、お前はもう金襴の袈裟をつけられる位ではないか。さすがにその汚い身なりでは先師に対し失礼ではないか」
と一休さんをたしなめます。すると一休さん
「わたしは皆さんのりっぱな姿を引き立てているのです。それでよいではありませんか。表はきれいごとばかり、裏は肝心の道心を忘れたニセ坊主。そんな者のまねごとは御免こうむります」
ときっぱりと答えます。華叟もこれには何も言えず、そのまま法要は始まりました。周囲の坊さんたちは
「狂っておる、気が変な坊主だ」
「風狂の僧とは一休のことだ」
と口々に悪口を言い合っていました。
法要が終わり、華叟も床につきました。そこへ弟子が一人やってきて、華叟に尋ねます。
「こんな時になんですが、お聞きしたいことが」
「なんじゃ」
「師の仏法の跡を継ぐ者は誰ですか」
「一休じゃ」
「一休?、あの狂い僧の?、あの変わり者の一休ですか?」
「そうじゃ。今日も一人ボロの衣で法要に出ていた。皆は風狂だの、気が狂っているなどというが、そうではない。一休には禅僧としての信念がある。誰にもわからんがのう・・・・」
まさしく一休さんの信念を示したエピソードですね。しかし、一休さんも一休さんなら、それを理解していた華叟もなかなかの人物です。この師にしてこの弟子あり・・・・といったところでしょうか。もし、華叟に出会っていなかったら、一休さんは一休さんであり得なかったのでしょう。すぐれた師との出会いは、本当に大切ですね。その人の能力や個性を最大限に引き出させてくれる師は滅多に巡り合うことはできません。一休さんは幸運だったのです。もちろん、そうした師に応えるべく、それだけの努力もしていますけどね。
禅を継ぐということは、このようなことを言うのでしょう・・・・・。

一休さんが34歳の時、師の華叟は滅します。後を引き継ぎ大徳寺の住職となったのは、兄弟子の養叟でした。
養叟は、師の華叟とは正反対の人でした。つまり、それは一休さんとも正反対の人だったのです。養叟は、積極的に権力者と交わり、また堺の豪商とも親しくなり、資金の提供を受けるようにしました。こうして、大徳寺を高名な寺にまで発展させたのです。さらには、華叟への朝廷からの禅師号の下賜をされる運動をし、これを成就させました。その上、自らも禅師号を賜ったのです。
一休さんは、この兄弟子である養叟の方針に腹を立て、自著に
「紫野大徳寺が始まって以来、このような大悪党の邪師は聞いたことがない。これより養叟を大胆厚面禅師と呼ぼう」
と記しています。この時期、一休さんは大徳寺と対立していました。
一休さん46歳の6月の時、大徳寺の長老に請われ、山内の如意庵に留まることとなります。その月は華叟の13回忌に当たっていました。一休さんは、ひっそりと師の年忌法要を営みました。
ところが養叟は、大々的に年忌法要を行いました。それだけならいいのですが、大勢呼んだ客人に、帰りに如意庵によるように言います。おかげで一休さんは、独り静かに師を偲ぶこともできず、客人の対応に振り回されてしまいました。これは養叟の一休さんに対するあてつけだったのです。
翌日、一休さんは書置きをして出ていってしまいます。
「庵で十日あまり住職を務めたが、全く人の出入りが激しくて気持ちが落ち着かない。拙僧はまだ足の裏に赤い糸のような血筋が透けて見える赤ん坊と同じで、迷いの多い悟れない僧である。もし拙僧を探すなら近在の魚屋か酒屋か女郎屋にいることだろう。そのあたりを捜して欲しい」
痛烈なあてつけの手紙を残し、ぶらっと出ていってしまったのです。
この手紙、それは破戒宣言書でもありました。魚屋は肉食することを意味し、酒屋は飲酒することを示し、女郎屋は女犯に耽ることを宣言しているのです。姿かたちばかり立派でも、中身は金と名誉を追い求めて腐っている養叟への嫌味だったのです。
もちろん、一休さん、この宣言通りの行動をします。魚を食らい、酒を飲み、女を抱きます。しかし、その精神は一本の禅の境地に貫かれています。肉を食べても空、酒を飲んでも空、女を抱いても空・・・・。空の境地にあって、決して欲望を貪るようなことはしませんでした。外面は立派でも中身が腐っている僧よりも、外面は破戒僧だが中身は禅者、というのが一休さんの姿だったのです。それは養叟を始め、権力や金にすり寄る僧侶への批判だったのです。

一休さんのことを人々は「風狂の僧」と言います。その行動はエキセントリックで、非常識で僧としては信じられないことばかりです。その代表的な行動が、正月の骸骨でしょう。
ある年の元日の朝、人々はお正月を迎えたことを喜び、祝っていました。すると、そんな中を
「御用心御用心」
と大声で唱えながら歩いてくるボロボロ姿の僧がいました。その僧は、髑髏を竹の先につけ、家々を廻ってはその髑髏を見せ、
「御用心御用心」
と叫んでいました。これが一休さんです。これには歌があります。
「門松や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
一休さんが詠んだのかどうかは怪しいものですが、正月だからと言ってめでたいわけではない、と説いたのですね。
このことは63歳のときに記した「骸骨」という書物につながっていきます。
その中では、骸骨の遊女が鼓を打ち、骸骨の客が酒を飲み、骸骨の男女が交わるという姿が描かれています。そして
「こなたへ寄らせたまえ。いつまでも同じ年まで、永らえたく候え、誠にさておぼしめし候わん。これも同じ心にてこそ候え」
という詩文が添えられています。いつまでも永遠な姿なんぞない、諸行無常じゃ・・・・ということですね。さすがに風狂の僧です。

63歳の時、薪村(現在の京田辺市)に酬恩庵という庵を結びます。ここでその後を過ごすわけです。現在では、一休寺となっております。あるいは、別名一休ランドとも呼ばれているそうです。一休さんのことをもっと知りたい、と思う方は一度参拝されるのもいいでしょう。
さて、酬恩庵に籠る一休さんですが、このころも養叟への批判は終わりません。むしろ激しくなっていったようです。ニセ坊主ばかりで、自分以外は禅のことなどわかっておらん・・・などという内容の詩文も残しています。この庵で一休さんは一休さん独自の禅を追及していたのですね。
さて、そんな一休さんの晩年に、一休さんは今までにない出会いをしてしまいます。それは一休さんが78歳のころといいますから、かなり高齢のときですよね。その高齢の一休さん、なんと恋に落ちてしまうのです。
相手は森女(しんじょ)という30歳半ばの盲目の旅芸人でした。彼女は、一休さんを慕い、庵を訪ねてきたのです。やがて、一休さんの世話をするようになるのですが、その世話は、単なる老人の世話に終わりませんでした男女の中へと発展してしまうのです。
一休さん、70歳代にしてフォーリンラブ・・・・してしまったのです。


森女(しんじょ)は、盲目の旅芸人でした。一説によるとその出自は高貴(貴族の妾の子)であった、ともされています。が、そうであったとしても、いずれは旅から旅を繰り返す、遊芸人です。
一休さんが、森女とであったのは、77歳のころと言われています。旅の途中で、一休さんは森女の歌を聞き、たいそう感動したのだそうです。で、そのときに森女に優しく接したのですね。おそらくは、男女の関係をもったのでしょう。
一休さんは、そのときは一時の情け・・・として終わっていたのでしょう。しかし、森女の方は、そのときの一休さんを忘れることはできなったのです。
一年後、森女は、不自由な目でありながら、酬恩庵に一休さんを訪ねてきます。
「おぉ、そなたは・・・。こんな庵でよければあがりなさい」
一休さんは、森女を庵にあげてもてなします。森女は思いのたけを一休さんに打ち明けます。
「一休様が恋しくてここに参りました」
一休さん78歳、森女30代半ば過ぎ。40歳ほど離れた、年の差カップルがここに誕生したのです。

一休さん、毎日のように森女と情事をかわしたようです。その愛は、大変深いものだったようです。森女との愛の日々は、漢詩として残っています。
吸美人淫水(美人の淫水を吸う)という題の感師が有名ですので、書き下しで掲載しておきます。

     美人の淫水を吸う・・・・美人の陰に水仙花の香有り
  楚台(そだい)応(まさ)に望むべし
  更に応に攀(よ)ずべし
  半夜、玉床(ぎょくしょう)、愁夢(しゅうむ)の間(かん)
  花は綻(ほころ)ぶ、一茎(いっけい)梅樹(ばいじゅ)の下(もと)
  凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)る

この詩は、古代中国の楚王の伝説を踏まえて書かれています。ある日、楚王が楼台で遊んでいた時のこと。楚王は、楼台で昼寝をしていると、夢の中に仙人の女性が現れ、楚王と男女の交わりをしました。別れ際に仙人の女性は、
「これから雲となったり雨となったりして現れますからそれを形見としてください」
と言って消え去ります(このことから、「雲雨(うんう)という言葉が性行為を表す言葉となったそうです)。
上の漢詩の三句までは、この楚王のエピソードのことを示しています。楚王が仙人の女性と交わった話を思い出して下さいな、ということですね。あの話のように私たちも・・・・と後の句に続きます。
四句めの「花」は森女でもあるし、彼女の秘部でもありましょう。それが綻んでいるんですね。で、その花の元に「梅の木のひと茎」があるんです。これは、一休さんの男根のことですね。これにどんな意味があるかは、大人ならわかるのでこれ以上は説明不要ですな。
五句の「凌波仙子(りょうはせんし)」とは、中国故事にもとづいており、仙人の女性が波の上を軽やかに楚々として渡る様子のことだそうです。これは、水仙の別でもあるのだそうです。すなわち、水仙とは仙人の女性(仙女)を意味しているんですね。で、その仙女の腰の間をめぐるわけです。つまり・・・・野暮な解説はよしましょう。
このように、一休さんは森女を仙女のように思っていたのですね。で、仙女と情交をしていると感じていたわけです。
ちなみに、淫水はそのころまでは不浄の水とされ、忌み嫌われていたそうです。一休さんは当然そのことを知っていて、あえて淫水を美しい愛の水として昇華させたといわれています。ま、一休さんらしいといえばらしいですね。

もう一つ、一休さんの森女との関係を詠んだ漢詩を紹介しておきます。

  木は凋(しぼ)み、葉落ちてさらに春を回(めぐら)す
  緑を長じ、花を生じて旧約新たなり
  森也が深恩もし忘却せば
  無量億劫(おくごう)畜生の身

森女との愛によって、枯れ果てた身と心に再び春がやってきた。森女の深い愛情に応えられなければ、私は未来億劫、畜生の身となるであろう。
という意味です。一休さんは、森女を心から愛していたのです。
男性から見れば、大変羨ましいといえば、羨ましいですねぇ。一般の男性にはありえない生活でしょう。80歳近い一休さんに驚きつつ、羨ましくもあります。

そんな森女と愛の日々を過ごす一休さんのもとに、後土御門天皇から大徳寺の住職となるよう命令されてしまいます。一休さん、やむを得ず命に従いますが、たった一日で辞去してしまいます(三日ほどいたという説もあり)。
このころ、大徳寺は戦乱で荒れていました。そこで、一休さんに再建を託したのです。が、一休さんはそれを放り出して森女との生活に戻ってしまったのですね。
とはいえ、一休さんを慕って集まっていた当時のビッグな文化人が協力してくれたようです。まあ、
「一休殿は何もしなくてよろしい。我らにお任せあれ」
てなもんでしょう。当時、一休さんの庵に集まっていた文化人や商人はそうそうたるんメンバーだったのです。
たとえば、連歌師の柴屋軒宗長・杉原宗伊、漢詩人の南江宗げん、茶人村田珠光、画僧の墨渓・曽我蛇足などの当時の一流文化人が集っていたのです。そうなれば当然、商人も集うことになりましょう。したがって、金銭的には不自由はなかったようです。
もちろん、一休さんは、そんな事にはお構いなし、だったようですけどね。それよりも、森女・・・だったのですから。

そんな日々を過ごしていた一休さんにも死が訪れます。一休さんは、予感があったのか、辞世の漢詩を残しています。当時、辞世の漢詩を残すのは禅者の間では当たり前になっていたようで、中には死にかかっている師の手を無理やり弟子がとり、無理やりに書かせた、なんて話もあるそうです。一休さんの場合は、以前から残していた節があります。そのことは後からお話しします。まずは、その辞世の漢詩(これを「辞世の頌(じゅ)」といったそうです)を紹介しましょう。

  須弥南畔(しゅみなんばん)         須弥山のもと人々の住む世界で
  誰会我禅(たれか我が禅をえする)     いったい誰が私の禅を理解することができよう
  虚堂来也(虚堂来たれり)          私のことを虚堂(中国南宋の禅僧)の再来というが
  不直半銭(半銭にあたらず)         もはやそれも意味を失った

なお、この書は酬恩庵にて常時拝観できるそうです(実物ではなくレプリカかも知れませんが)。

さて、一休さん、87歳の11月21日。そのころ一休さんは重い熱病に侵されていました。その状態では、当然辞世の漢詩など書けません。おそらくは、前から用意してあったものを弟子に託したのでしょう。実際には、一休さんは森女に抱かれ、彼女の胸の中で息を引き取った、と言われています。そして最後の言葉が
「まだ、死にとうない」
だったそうです。一休さんは、森女ともっともっと愛し合いたかったのでしょう。何も飾ることなく、純粋で、本音で生きてきた一休さんらしい最期だな、と私は思います。
人までは、きれい事ばかり口にし、いい子ぶって、偽善者でありながら、裏に回ると遊び放題で金まみれである僧よりも、裏表なく、本音で生き抜いた一休さんは、すごい存在だと思いますね。真似できないな・・・と。
世の中、どうしてもいい子ぶってしまうことの方が多いのではないでしょうか。世間一般に政治がらみや経済がらみ、犯罪などのアンケートを取ると、「おりこうさんの答え」が大変多いですよね。おもわず「うそつけ」と思ってしまいます。「本音は違うだろ」と。
「よそいきの答え」なんて意味がありません。それは偽善なのです。本音を言えばいいのに、なぜいい子ぶるのか、なぜ理想論をのたまうのか・・・・。きれいごとばかり言っていても、世の中変わりません。いい子ぶったって、誰も褒めてはくれませんし、世の中よくはなりません。もっと本音をぶつけてもいいんじゃないでしょうか。
だからこそ、一休さんの生き方にあこがれるのでしょうけどね。まあ、一休さんのように、本音で生きてしまったら
「変人」
と言われるのは覚悟しないといけませんけどね。


前回まで、一休さんの生涯についてお話してきましたが、皆さん如何がだったでしょうか?。一休さんのイメージが随分変わったのではないでしょうか。
おそらく、皆さんがご存知の一休さんは、「トンチ小僧の一休さん」なのではないでしょうか。将軍や蜷川新右衛門、桔梗屋などが登場し、無理難題を一休さんが得意のトンチで解決していく・・・・そうした一休さんのイメージがあることと思います。これは、ひとえに彼のアニメの影響なのです。実際の一休さんとは、程遠い感じがします。
実際の一休さんは、少々意気地がなく、変わり者で、自殺まで考えてしまうという思いつめるタイプであり、かといって権力には媚びず、自分の考えを貫き通すという強さは持っており、さらには甘えん坊でマザコンっぽいところがある、ちょっとお茶目で破天荒な人です。本人も言っているように「風狂の僧」なのです。まあ、変わり者、変人ですね。
そんな一休さんがトンチの一休さんになったのは、江戸時代のころです。トンチの一休が初めて登場するのは、江戸の初めのころだそうです。

江戸の初めのころ、寛文8年(1668年)「一休ばなし」という書物が刊行されました。これには、一休さんの説話が48話ほど掲載されているそうです。その中には、
「この橋わたるべからず」
と立て札が書かれた橋に皆が困っているところを、一休さんが真ん中を渡って行った・・・という有名なトンチ話や、
和尚さんが「わしに食われて仏果を得よ」と言って鯉を食べたのを見て、自分も食べたくなり「生きているより俺の糞となれ」と言って鯉を食べた話や、
正月に街中を髑髏を竹につけて「御用心御用心」と歩き回った狂い僧としての一休さんが登場します。
この書物がもととなり、トンチの一休さんが誕生していくのです。

とはいえ、しばらくは一休さんの話は話題にはなりませんでした。一休さんが人気を得るのは、天保7年(1836年)に刊行された「一休諸国物語図絵」5冊です。そして、さらに8年後に「拾遺(しゅうい)」三冊が刊行されます。
これらは、それまでに生まれた一休さんにまつわる伝説や説法、簡単な教え(法語)、狂歌や狂詩、道歌(庶民に教えを説いた和歌)を集めたものでした。
この一休諸国物語は明治19年に洋書となって再登場しました。数年間かけて出版されたそうです。これがなんと大ヒットとなり、一休ブームが起こります。こうして、一休さん伝説は庶民の間に広く伝わったのです。
こうしたブームを背景に一休さんの伝説は、講談にも取り上げられるようになりました。一休さんと将軍の「屏風の虎退治」は有名ですね。明治時代には、多くの一休話が講談で生まれています。
こうして、一休さんは、「トンチで、イジワルな将軍や商家、悪い武士を懲らしめるヒーロー」となったのです。その集大成があのアニメなのでしょう。

しかし、話の内容は作られたものであったとしても、その話の根底にあるのは、権力に対する批判や権力に媚びる者への批判、弱者への愛情、そして確固たる一休さんの禅風でしょう。実際の一休さんも、トンチの一休さんも、「こだわらない生き方」、「自由な、何ものにも縛られない生き方」をしていたからこそ、庶民に愛されたのではないでしょうか。
晩年、僧侶であるにもかかわらず、女性に溺れ、毎日のように性交を繰り返していた一休さんを、その当時の文化人も僧侶も誰一人批判をしなかったのです。それは一休さんが「空を生きている」ことを誰もが知っていたからなのではないでしょうか。
さらには、自分の立場や周囲のしがらみ、影響など一切こだわらず、自由な行動をしていた一休さんにあこがれていたのではないでしょうか。
「あんな生き方ができたら・・・・」
当時、一休さんの周囲に集まっていた庶民や文化人、商家、武家の人々は、皆そう思っていたことでしょう。だからこそ、江戸時代になっても、明治時代になっても、そして現代でも親しまれているのでしょう。

最後に、いかにも自由に生きた一休さんらしい伝説を一つ紹介しておきます。
一休さんが旅をしていたある日のこと。一休さんはある村にやってきました。その村では、村の平和と安全のためにお地蔵様を造ってお祀りしようということになり、一休さんがその村に訪れたそのころ、ちょうどお地蔵様が完成したので開眼の法会をしようということになっていました。
「あの有名な一休さんがこの村に来ているそうな」
村長さんは、それを聞き
「それならこのお地蔵様の開眼供養を一休様に頼もう」
と思い、一休さんにお願いに行きます。一休さんは、
「あぁ、いいよぉ。じゃあ、明日の朝」
とお地蔵様の開眼供養を引き受けます。
翌朝のこと、なかなかお地蔵様のところに来ない一休さんを村長さんが呼びに行きます。一休さんは、
「あ〜、悪い悪い、待たせたのう」
というと、いきなりお地蔵様の前に立ち、おしっこをチャ〜・・・・・。
村長や村人は、もうびっくり仰天。
「な、何てことを!、罰当たりな!。一休さんといえどもこれは許しがたい!」
と怒りだします。そんなことは何とも思っていない一休さん、
「あんたらがびっくりしたように、お地蔵様もわしのおしっこでびっくりしたことじゃ。これでお地蔵様も目が覚めたじゃろう。がっはっは」
と大笑いしながらさっさと去っていくではありませんか。村人たちは、怒りながら追いかけてきます。お地蔵様に謝れ、と。でないと村に禍が起きる、と・・・・。しかし、一休さん
「怒らんでもいいじゃないか。そんなら、ほれ、ワシのふんどしでもかけておけ。これで罰は当たらん」
といって、自分がつけていた赤いふんどしを手渡したのです。
それ以来、お地蔵様に赤いよだれ掛けがつけられるようになったとか・・・・。
本当かどうかは知りませんけどねぇ・・・。

一休さんらしいですよね。開眼供養などという儀式的なことをしなくても、お地蔵様はちゃんと目が覚めているのだ、みんなが拝めばいいのだ、ということを教えたかったようです。くだらない儀式に金などかける必要なし、ということなのでしょう。
当時、庶民に宗教儀式をやらせて金を貪っていた高僧がたくさんいたのでしょう。私自身は、開眼供養というものは必要だと思っていますが、一休さんの考えもわからないわけではありません。開眼供養も必要だけれど、それだけではないと思うのです。仏像を造り、お祀りし、開眼供養ををしても、後は知らん振り・・・・では何にもなりません。自分たちで拝むことがなければ、祀る意味がないですからね。
まあ、一休さんらしい伝説ですよね。

さて、4回にわたりまして一休さんについて話をしてまいりましたが、今回で終わりです。合掌。




明 恵

今回は、明恵上人(1173〜1232)についてお話しいたします。
明恵上人といっても、知っている方は少ないのではないでしょうか。京都の高山寺を再興された僧と言えばわかりますかねぇ。または、安徳天皇の母親の建礼門院の師と言えば、「あぁ・・・あの・・・」と思う方もいますかねぇ。あるいは、「あるべきようは」という言葉を生んだ僧、といえばわかりますかねぇ。まあ、いずれにしても高僧ではありますが、誰もが知っている高僧ではないようです。
今回は、その明恵上人をご紹介いたします。

生まれたのは鎌倉時代、1173年のことでした。父親は高倉上皇の武者所に勤める下級武士でした。子に恵まれなかった明恵の父母は、子宝祈願のため京都の寺・・・法輪寺や六角堂・・・に日参したそうです。そうして授かったのが明恵でした。生誕地は、紀伊国在田郡(現・和歌山県有田)です。
幼い頃からお寺詣りが好きな子供だったようで、特に清水寺はお気に入りだったそうです。明恵3歳のとき、父親が
「我が息子は立派な姿をしている。将来は御所へ武士として勤めさせよう」
と言った言葉を聞き、
「それはたまらない、私は法師(僧侶)になりたいのに・・・。いっそのこと、身体を怪我をして武士になれぬ身体にしてしまおう」
と思い、縁側から落ちたり、真っ赤な火箸を身体にあてたりしたそうです。なんとも、まあ、恐ろしいお子様だったことで・・・・。
しかし、そんなことはしなくても、運命というものは巡るものでして、定められた道は自然と開いてくるのです。
7歳のとき、母親を失くします。続いて、同じ年、平家方の武士であった父親も源氏との戦いで命を落とします。相次いで両親を亡くしたのです。母方の親類に引き取られた明恵は、翌年の夏、高雄は神護寺の文覚上人に預けられることになりました。こうして、明恵が幼いころからの望みであった法師への道が開かれたのです。
12歳のころ、明恵は迷いの中に落ちてしまいます。一つには、修行に対する迷いでした。
「このまま高雄山中で修業していいのだろうか・・・・」
そう思った明恵は山を下りようとしますが、夢に八幡菩薩の使いであるという巨大なハチが現れ、
「今は降りる時期ではない、引き返せ」
と言われます。これで、山を下りることは断念しました。続いて悩んだのは、肉体的なことです。当時の12歳といえば、幼いようですが、もう3年もすれば結婚・・・という場合もありました。身体は思春期を迎えているんですね。つまりは、肉体的煩悩にさいなまれていたのです。そこで明恵は、自分の身体が嫌になり、墓場で寝ることにします。野犬に食われようと思ったのです。
しかし、血の匂いや肉の匂いのしない明恵には、野犬は眼もくれません。何事もなく、夜が明けてしまいました。明恵は気付きます。
「あぁ、なんという私は愚かものなのだろう。死も生も前世からの定めなのだ。それなのに、私は迷いから逃げたいばかりに身を捨てようとした。あぁ、愚かものだ・・・」
それ以来、ますます修行に励み、15歳のとき、正式に出家し、東大寺にて戒を授かったのです。

明恵は、子供の時からしばしば夢のお告げを見ました。夢のお告げによって導かれることが多かったようです。18歳になったころ、ある夜の夢にインドの僧が現れたそうです。その僧が言うには
「密教を学べ、理趣経(りしゅきょう)を学べ・・・」
とのことでした。不思議な夢を見るものだ、と思って起きた翌日のこと。いつものように修行をしていると、どこからともなく理趣経が聞こえてきます。明恵はなんとこれを書き留め始めました。よくわからない部分があると、「もう一度きかせて欲しい」と願えば、はっきりとした声で理趣経が聞こえてきたそうです。
あるいは、夢で
「雀の子が蛇に狙われている。助けなさい」
と言われ、その夢にあった場所に行くと、本当に蛇が雀の子を狙っているところでした。このような夢のお告げがしばしばあったため、同僚の僧侶からは「菩薩だ」言われ、尊敬されていたそうです。
しかし、そうした不思議な出来事にも明恵は決して驕るようなことはありませんでした。あくまでも謙虚に修行をつづけたのです。

21歳のとき、高雄の僧侶が朝廷のご機嫌をとるため、朝廷にごまをするようになったのに嫌気がさし、志を同じとする仲間とともに高雄を下り、紀伊国へ向かいました。
生まれ故郷に戻った明恵は、栖原村というところに庵を結びます。海岸に面した村で、その村の山の上に庵はありました。明恵は、その庵に釈迦如来を安置します。明恵はお釈迦様をたいそう慕っていたのです。
ある日のこと、釈迦如来を思いつつ、瞑想にふけっていた明恵は自分の未熟さにうんざりしてきました。
「あぁ、私は出家の身でありながら、時に財欲におぼれたり、木の実を欲しいままに貪ったり、色欲にとらわれたりして、道を外れてしまうこともある・・・。こんなことで修業がなるものか・・・。釈尊(しゃくそん。お釈迦様のこと)が出家者に頭をそらせたのは、一切の飾りを捨てさせるためだ。なのに、今の僧侶といえば、坊主頭に金襴の帽子をかぶり、金襴の袈裟をつけ、自慢しあっている。なんとバカげたことよ・・・・。そうだ、私はおごりを捨て去ろう。その誓いのために身体の一部を切り落とそう・・・・。そうすれば、私も煩悩にさいなまれることはなくなる」
そう思った明恵は、なんと耳を切り落としてしまうのです。激痛に襲われた明恵は、経文を唱えながら耐えたそうです。

その後、淡路島に渡り、庵を造るのにふさわしい場所を探していると、高雄山から師の文覚上人が危篤だという知らせが届きます。明恵はさっそく高雄に戻ります。高雄に戻った明恵は、文覚上人から高雄に庵を結んで、残るように懇願されます。師の文覚上人の願いとあっては断るわけにもいかず、明恵は高雄に留まることになります。それを喜んで運慶が釈迦如来像を造り、明恵の庵に安置しました。
しばらく高雄山で主に華厳経についての講義を行っていました。そんなころのエピソードとして、次のようなものがあります。
春日神社で神楽が奉納されたときのこと。巫女に春日の神が宿ることがありました。
「我は春日大明神なり。高雄での華厳経の講義は真理を説いておる。誠に喜ばしい限りである。皆もこれを聴くがよい」
巫女はそう言うと倒れたそうです。
この話は瞬く間に京都中に広まり、向学の僧侶はこぞって高雄山に講義を聴きに来たそうです。しかし、こうした平和は長くは続きませんでした。

明恵26歳のとき。高雄に騒動が起きます。明恵はこうした争い事が大嫌いでした。すぐさま高雄を離れ、紀伊国の白上の峰の庵に戻ります。そして、さらに人里離れた山中に入り、小さな庵を造り、そこに引きこもりました。
明恵はこの草庵で自分の考えをまとめます。それが「唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)」と「解脱門義(げだつもんぎ)」です。これらは、どちらも華厳経の入門書のようなもので、華厳経ガイドブックとも言える書でした。
そんなころのある夏の日、明恵が弟子とともに木陰を散歩していると、老人が二本松のところで首をつろうとしている姿が見えました。早速、弟子にそれを言い、助けるように指示します。弟子が、二本松のところまで走ると、今まさに老人が首をつろうとしているところでした。わけを聞くと、日照りで土地が乾燥し、田畑の野菜も米もすべてダメになってしまったとのことでした。明恵は、これを聞き、すぐに雨乞いをします。
三日目の昼下がりのこと、明恵の庵から二匹の竜が天に昇った姿を村人たちは見ました。そのとたん、天は曇り、雷鳴がとどろき、激しい雨が降り出したそうです。

32歳のころ、明恵はあこがれであったインドへ渡ることを思いつきます。しかし、そう思ったとたん、明恵は病に倒れてしまいます。とはいえ、その病は不思議な病で、食事はとれるし、修行もできるし、講義もできるが、ことインド渡航の話になると身体中に激痛が走るという病だったのです。
不思議に思った明恵は、みくじを3本引くことにしました。1本は釈迦如来に祈願したみくじ、1本は春日大明神に、もう1本は善財童子に祈願したみくじでした。明恵は、3本すべて渡航してよしとでたら、インドに行くことに決めていました。
その結果は、釈迦如来のみくじはみくじ箋がどこかへ行ってしまい不明、春日大明神と善財童子のみくじは不可でした。こうして、明恵はしぶしぶインド渡航をあきらめたのです。そのとたん、病は治ってしまいました。
しばらくしたある日のこと、明恵の知り合いが、春日大社で巫女の舞いを見ていると、突然巫女がその知り合いにお告げをしたのです。
「明恵を天竺へ行かせたくはなかったのだ。明恵が天竺に行けば、明恵はこの国には戻らぬだろう。明恵のような僧はこの国にはいない。この国の宝を渡すわけにはまいらぬ」
このことはすぐに明恵の耳にも世間の人々の耳にも入ったそうです。明恵はこれで不思議な病のことも理解できたのでした。

翌年のこと、後鳥羽院から勅旨がでます。明恵に栂尾山(とがのおさん)を与える、というものでした。明恵はこれを有り難く頂き、そこにあった古いお堂を建て直し、新たに高山寺と名付け、華厳経を広める拠点としたのです。
翌年には、東大寺尊勝院の学頭を命じられます。34歳での学頭は、早い出世でした。もちろん、明恵自身は何とも思っていませんでした。ただ、華厳経の講義ができることが嬉しかったようです。
今で言えば、若くして東大教授になった、というところでしょう。ですから、若い僧侶は皆明恵にあこがれていたようです。
したがって、明恵のもとには多くの弟子たちが集まるようになっていました。また、他の宗派との親交もあったようで、特に禅の栄西とは親交が深かったようです。栄西のもとで禅を学んでもいます。
ある日のこと、宋から戻った栄西から茶が届きました。栄西の添え書きの通りにして茶を飲んでみると頭がすっきりし、眠気も飛んでしまいました。その話を医者にすると、
「それは茶の効用です」
と教えられました。そこで、早速栄西から茶の木の種を分けてもらい、庭で茶の木を育て、多くの人々に茶を進めたそうです。
当時の人にとっては、茶のカフェインの効果は絶大だったのでしょう。飲んだことがないですからね。それ以来、茶を飲むようになった日本人は、身体が茶のカフェインに慣れてしまい、絶大な効果は得られなくなったようです。DNAに記憶されていき、効果が薄れていったのでしょうね。余談でしたが・・・。
また、ある時には、安徳天皇の母親である建礼門院が明恵のもとを訪れ、明恵を師と仰ぎ、出家したのです。明恵のもとには、平家方も源氏方も関係なく、多くの人々が集まったのです。

争い事が嫌いで、なるべく隠棲したいと願っていた明恵ですが、法然上人の考えだけは許せなかったようです。明恵は法然の他力本願・専修念仏(せんじゅねんぶつ)は、間違った菩提心の解釈に基づいていると批判したのです。それは、法然が仏法は時間の経過とともに衰える、とした点を特に批判しました。当時、お経の解釈によって、末法思想がはびこっていました。法然は「末法の世の中だからこそ、誤った仏法が世の中に流れている、こうした時代には阿弥陀如来に頼るしかない」と阿弥陀信仰、念仏を提唱しました。しかし、明恵は
「時間が経過したか仏法は衰えたのではない。時間が経過したから、悪僧がはびこっているのではない。菩提心(悟りを求めようとする心)を正しく起こしていないから仏法が衰えているのである。仏法の興廃は時間に左右されるのではなく、人に左右されるのだ。人こそが、仏法を衰えさせているのだ」
と説いたのです。
これは、その通りなのです。明恵さんの言う通りですね。仏法の荒廃は時間によるものではなく、人の心・行動によるものです。つまり、悪僧によるものなのです。お釈迦様が入滅してから時間がたったから悪僧が生まれたのではなく、悟りを求める気持ちなくして出家した者が増えたから悪僧が増え、仏法が廃れたのです。すべては、菩提心によるものだ、と説いた明恵は正しいのですよ。このことはお釈迦様も、弘法大師も説いています。時間が問題ではなく人なのだ、と。
こう言う点は、華厳経や密教を深く理解する者しか、気がつかなかったのです。今思えば、当たり前のことなのですが、当時は末法思想がはびこっていた時代です。それに異を唱える者は少なかったのです。

46歳のとき、高山寺内で争い事が起きます。争い事が大嫌いな明恵さん、4年ほどで高山寺を出てしまい、賀茂に移り住みます。賀茂神社関係者が生活を支えたようです。たまに、高山寺にも戻りましたが、賀茂を中心に活動をしました。
そして、承久の乱のあと、戦争未亡人を救うため、高山寺に尼寺の善妙寺を建てます。善妙という名は、新羅の華厳宗の祖「義湘(ぎしょう、625〜702)」を慕った中国人の女性の名前です。善妙はいろいろな奇跡を起こし、義湘の布教活動を助けたそうです。その逸話の一つに、善妙が竜に化身し、義湘を背中に乗せ唐から新羅に飛んだ、というものがあります。明恵上人としては、善妙のごとく華厳経の教えを学んでほしい、という思いで、善妙寺という名をつけたのでしょう。しかし、尼僧の中には、明恵上人を師以上に慕った者もいたようです。尤も、怪しい関係になったわけではありませんが。明恵さんは、男女平等に優しかったので、尼僧からも慕われていたのですよ。まあ、それが後々、問題を起こすこともあったようですが・・・。

さて、戦乱も終わり、平和な日々が続きます。明恵は、高山寺において華厳の教えと密教を融合した厳密と呼ばれる教義と実践を説きました。多くの著作もこのころ書きあげます。教えを説くのもうまく、多くの弟子ができました。当時の高山寺では収容しきれないくらいだったそうです。
1231年10月のころより、病に伏せるようになります。翌年の正月19日、明恵上人は弥勒菩薩を念じつつ、多くの弟子に囲まれ入滅しました。行年60歳でした。

明恵上人の遺訓があります。その中に
「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)と云う七文字を持つべきなり」
という言葉があります。
「あるべきようわ」
それは「そのものがあるようにありなさい」という意味の言葉です。すなわち、「僧は僧のあるべき様に、俗は俗のあるべき様に、帝王は帝王のあるべき様に、臣下は臣下のあるべき様に」とうことなのです。つまり、自分の立場のままありなさい、ということなのです。
これは、いつの時代も大事なことだと思います。特に今の時代にはとても大事なことでしょう。
政治家は政治家のあるべき様に、先生は先生のあるべき様に、官僚は官僚のあるべき様に、親は親のあるべき様に、子は子のあるべき様に、商人は商人のあるべき様に、学生は学生のあるべき様に、マスコミはマスコミのあるべき様に、そして僧は僧のあるべき様に・・・・・。
今の時代、あるべき様な姿にない、と思える時代です。
「あるべきようわ」
あなたは、あなた自身の「あるべきようわ」でしょうか?。これは、自分自身にも問いかけるべき言葉ですよね。多くの人々が、今、自分自身に問いかけて欲しいと思います。
自分は「あるべきようわ」だろうか・・・・と。
明恵上人のこの言葉は、現代に投げかけるべき言葉だと思います。

以上、明恵上人伝でした。簡単ではありますが、明恵上人についてはこれで終わります。
合掌。


蓮 如

今回は、蓮如上人(1415〜1499)についてお話しいたします。
蓮如さんの名前を聞いたことがある方は、結構いらっしゃるのではないかと思います。本願寺中興の祖として、知られています。現在の浄土真宗の基礎を固めた方、と言ってもいいのではないかと思います。
親鸞さんは、自分の遺体を鴨川に流してくれと遺言しますが、そうはならず、親鸞さんの子孫(娘たち)は京都東山大谷に墓を造ります。その後、親鸞さんの娘さんの系統の曾孫の覚如がその地に本願寺を建立します。以来、代々世襲によって本願寺の住職を決めております。それは現在でもつながっています。一本山が世襲式というのは、ちょっと珍しいですね。大きな本山では、浄土真宗くらいでしょうか。一般的に、各宗派の本山の代表・・・管長といいます・・・は、互選で就任します。任期もあります。それは本山は公共のものだからです。地方の一カ寺のように個人的な運営をなされているわけではないので、世襲にはないっていないんですね。まあ、それが本当だろうとは思いますが、浄土真宗だけは、考えが異なるようでして・・・・。血筋を重んじるのでしょうか。それは本来の仏教とは反することなんですがねぇ・・・。

それはともかく、本願寺は世襲なので、いずれ本願寺第8世となる蓮如さんも、当然ながら第7世の子供だったのです。ただし、正妻の子供ではありませんでした。
第7世の存如(ぞんにょ)は、ある日、使用人の女性に手をつけてしまいます。親鸞さんもそうでしたが、浄土真宗の方は女性に弱いんですかねぇ。色欲が強いのでしょうか?。あるいは、僧侶という自覚が無いのですかねぇ。
当時、本願寺はさびれにさびれていました。そんな状態で、使用人の女性に手をつけて妊娠させるなど・・・本当に坊さんか?、と問いたくなりますが、まあそれはさておき、その時できたお子が後の蓮如さんです。その使用人の女性は、正妻にはなれず・・・まあ、身分違いということなのでしょうね・・・存如が正妻を迎えると、放り出されてしまいます。まあ、なんともひどい仕打ちなんですが、大金持ちの家ではよくありそうな(安物のドラマのような)話なんですが、事実なんですねぇ。
で、蓮如さん、幼少時代は継母のもとで不遇の生活を送ります。しかも、本願寺はさびれておりましたので、貧しくもありました。当時、念仏宗は本願寺が主流ではなく、仏光寺派や高田派が主流で、権力をもっていたのです。
そんな状態では、不良化するか反骨精神が身につくか、ですよね。幸い蓮如さんは、反骨精神が養われました。
「くっそう〜、いつかは必ず、この本願寺を復興してみせる!。今に見てろ!」
と誓ったのが15歳のことでした。

蓮如さん、猛烈に勉強します。しかし、浄土真宗の教えを父から学んだ以外は、独学でいろいろな教えを得ていきます。17歳のとき、京都は青蓮院にて得度します。青蓮院は親鸞さんも得度をした天台宗のお寺です。その後、しばらくはパッとしません。蓮如さん19歳のときには、異母弟に応玄も生まれ、継母のイジメはエスカレートします。部屋住みの冷遇された状態は続くのです。
32歳(1447)のとき、東国へ旅に出ます。そのまま親鸞さんの足跡を訪ねる旅を続け、東北方面を廻ります。このころの蓮如さんの特筆すべきことはありません。蓮如さんが実力を発揮するのは、第8世となってからのことなのです。

蓮如さん43歳のとき、父の存如が亡くなります。では次は蓮如に・・・とはなりませんでした。当然ながら、継母は実子の応玄を第8世に・・・と推しました。ほぼそう決まりかけたころ、存如の弟子たちが反発します。これが功を奏して蓮如の逆転勝利となるのです。
こうして、すったもんだはありましたが、蓮如さん第8世に就任するのです。これからが蓮如さんの実力発揮となるのです。蓮如さんがとった布教方法は「御文(おふみ)」と呼ばれる手紙でした。
蓮如さんは、親鸞さんの教えを手紙形式で、仮名交じりの優しい文章で書いたのです。それをいろいろなところへ送ったのです。今でいう文書伝道ですね。これが大ヒットします。念仏宗の信者が増大していくのです。それは、内容が大変優しく、たとえば、
「親鸞さんの教えは信心だけである。もろもろの雑行を捨て、一心に阿弥陀如来を信じることが大事なのだ。そうすれば、不思議な力によって極楽へ往生できるのだ」
と言ったものだったのです。阿弥陀如来に対する信心以外、何も要らない、智慧も要らない、金持ちも要らない、貧乏も要らない、善人であっても悪人であっても関係ない、男でも女でもない、ただ信心だけでいい・・・。
これは、当時の庶民には救いだったのです。
この教えは、何のことはない、親鸞さんの教えそのものです。当時、本願寺はこうした布教は行わなかったようです。結局は、難しい教えに終始し、民衆を置き去りにしてしまったのでしょう。そうした中、蓮如さんの御文による布教活動は民衆の心をつかんだのです。世は再び念仏ブームが訪れるのです。彼らは、門徒衆と呼ばれるようになりました。

ところが出る杭は打たれるもので、蓮如さん51歳のとき、本願寺は比叡山の僧侶によって破壊されてしまうんですね。ひどいですねぇ、天台宗の僧侶は。過激すぎますな。比叡山の僧侶は、昔からこう言うことをするんですね。ちょっと他宗派が出てくると、叩こうとするのです。よほど、自分の宗派の教えに自信がなかったとみられますな。まあ、余談ですが。
しかし、蓮如さん、決して争うことなく、活動の拠点を近江の堅田へ移します。このことにより、蓮如さんの教えは東は美濃や尾張、果ては三河地方へ、西は大和や河内まで広がっていくのです。もちろん、各地で比叡山の僧侶との小競り合いはあったようですが・・・・。
54歳のとき、ついに比叡山の僧侶によって堅田も攻撃されるようになります。蓮如さん、耐えに耐えますが、57歳のとき、越前は吉崎へ移ることを決意します。
越前や越中、加賀あたりは本願寺第3世以来、ゆかりの地ではあったのですが、当時は蓮如さんと敵対する高田門徒衆の勢力下にありました。しかも、その当時が応仁の乱の影響で地方も争いの中にありました。東軍と西軍に分かれ、激しい争いがあったのです。蓮如さんは足利将軍が率いる東軍側にいました。一方、敵対する高田門徒は西軍側でした。やがて武家の争いが、門徒衆どうしの争いとなり、本願寺門徒VS高田門徒となります。この争いには、加賀国守護の富樫家の跡目争いも加わりました。富樫の跡目争いに本願寺側と高田側が、それぞれ敵対して支援をしたのです。この争いは、蓮如の高弟・蓮崇(れんそう)の戦略によって本願寺側が勝利します。このころには、蓮如自身も驚くほど、本願寺門徒が増大していました。その門徒衆を操って一向一揆をさせたのが蓮崇でした。これが有名な加賀の一向一揆です(当時、浄土真宗は「一向宗」と呼ばれていました。一向宗の一揆なので一向一揆といわれています)。門徒衆は蓮如の知らないところで、暴徒と化していたのです。
蓮如はこれを嫌い、蓮崇を破門し、自らは吉崎を出て河内国出水(大阪府枚方市)へ向かいます。蓮如さん61歳の時です。しばらくこの地で過ごしますが、3年後、京都は山科に戻り、山科本願寺の再建に取り掛かるのです。完成までには5年ほど費やしました。
この間、その活躍は目覚ましいものがあります。近江を中心に布教活動をしていたのですが、東海地方や畿内へも活動を広げ、他の念仏宗派・・・仏光寺派・木辺派・三門徒派・・・などの門徒衆を引き入れ、本願寺傘下においたのです。吸収合併し、勢力を拡大したのですね。その結果、山科本願寺に参拝する人々は、長蛇の列をなし、ことには親鸞さんの忌日に行われる報恩講には十万人に上るほどの参拝者を誇ったそうです。これらは、すべて蓮如さんの「御文」による布教活動のたまものだったのです。
こうなると、余裕ですよね。当時、蓮如さん、有馬温泉でゆっくりしていたようです。とはいえ、比叡山の弾圧もあり、油断はできない状態でした。

「功なり名をとげて身をしりぞくは天の道とあり」
と述べ、75歳にして本願寺座主の職を第8子の実如に譲り、隠居いします(蓮如さんの奥さんや子供に関しては、後でまとめてお話しいたします)。
しかし、ただ隠居生活を送っていたのではありません。引き続き布教活動は行っています。驚くのは、82歳にして後に石山本願寺と呼ばれる大坂御坊を建立します(現在の大阪城の地にありました)。これは、織田信長の怒りにふれ、目の敵にされることとなります。石山本願寺の一向一揆ですね。このころにも蓮如の活動は緩まず、60通以上の「御文」をだして、門徒の活動を応援していたのです。
その3年後、1499年85歳、山科の地で生涯を閉じます。蓮如さんほど、布教伝道を成功させ、信徒を獲得した僧侶はいないでしょう。その元に集まった人々は、10万人以上を超えるものでした。
しかし、自らの思いと異なっていたのは、一揆だったでしょう。門徒の活動が政治がらみになることは嫌ったようです。いつの時代も、多くの人が集まれば、それを政治に利用しようとしたり、己の勢力を拡大するために利用したりする者は現れるものです。
それにしても、「さびさびとした本願寺」だったのを「群参むれをなして雲霞(ウンカ)のごとし」と言わしめたのですから、たいしたものですね。現在の浄土真宗の土台を完成させた方です。蓮如なくしては、浄土真宗は現在の壇家数を獲得することは不可能だったでしょう。

さて、蓮如さん関連のエピソードをいくつか紹介しましょう。
まずは、奥さまとお子様です。
蓮如さんには奥さんが5人おります。子供は13男14女の27人。ひょっとしたら、もっといたかも知れません。公称の数がこれだけです。奥さんのほかにも女性がいたかも知れません。それは不明です。
最初の奥さんは、蓮如さんが部屋住み時代のころ一緒になっています。この奥さんとの間には4男3女生まれています。しかし、この奥さん、蓮如さん40歳のころに亡くなってしまいます。そこで、奥さんの妹と結婚します。この女性との間には3男7女もうけました。
さて、続いて蓮如さんが吉崎にいたとき、この地で蓮如さんに仕えていた女性と関係を持ちます。この女性は女の子一人を生んでます。
で、4番目の奥さんがいまして、1男1女生まれています。続いて、蓮如さん晩年のころですね、5番目の奥さんをもらいます。なんと、5男2女のお子さんが生まれています。
初めのころのお子さんと、晩年のころのお子さんでは、親子以上の年齢の差があります。まあ、なんともはや、驚きですよね。
「英雄色を好む」とは言いますが、まさにその通りで、精力的に活動する男性は、女性関係も盛んなようですね。いいのかそれで・・・と思いますが、ちゃ〜んと全員を面倒見てますし、誰にも怨まれていないから構わないでしょう。
ともかく、驚きの人ではありますね。

次に紹介する話は、直接蓮如さんには関係ありませんが、有名な話なので、掲載しておきます。皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか、「肉附きの面」の話です。
蓮如さんが吉崎の御坊にいたときのこと。ある村の嫁が毎日蓮如さんの法話を聞きに御坊に通っていました。姑はそれが気に入らず、
「憎たらしい嫁じゃ、よし、威してやろう。そうすれば、もう御坊のところへは行かんじゃろう。けけけけ」
と、嫁を威すことにしました。
ある日のこと、嫁威しの計画を実行すべく、姑は鬼の面をつけて嫁が通る道の近くの林に潜んでいました。が、しかし、面が顔の肉にはりつき、痛くて苦しくて仕方がありません。これでは嫁を威すどころではありません。引っ張ろうにもどうしても面がとれないのです。
で、ついに無理やり引っぺがすと・・・・・、姑の顔の肉をつけたまま面はとれたのです。
正しい仏法を聞こうとする、心清らかな者を邪魔をすると、こうなるぞ・・・・という戒めのお話ですね。
なお、この嫁威しの肉附き面は、吉崎に行けば今でも見られるそうです。福井県と石川県の県境あたり、福井県金津町にあります。
興味のある方は是非どうぞ。信じるか信じないかはあなた次第です。

もっとたくさんのエピソードがあるのですが、この位にしておきましょう。興味のある方は、京都本願寺などを参拝してみてください。以上、蓮如さんでした。
合掌。


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