バックナンバー14・高僧部

高僧部

天 海

今回は、黒衣の宰相と謳われた天海僧正(1536?〜1643)についてお話しいたします。
天海僧正の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。徳川家康の知恵袋、家康を裏で操っていた僧侶、呪術が巧みな怪しい坊さん・・・、といったイメージを持っている方が多いのではないかと思います。しかし、こうしたイメージは実は誤解なのです。実際は、裏で人を操るような僧侶でもなかったですし、権力に擦り寄るような僧侶でもなったのです。結果的にそうなっただけなんですね。もちろん、このところは評価が分かれるところでもありますが・・・。
まあ、それはいいとしまして、とりあえず、その生涯を追ってみましょう。

天海さんは、会津高田の出身です。子供のころは泣き虫の少年だったそうです。出家のきっかけもその泣き虫に由来しているという伝説があります。
兵太郎(天海さんの幼名)は、とてつもなく泣き虫で、大声で泣くし、泣き出したら止まらないくらいでした。親たちは、兵太郎が泣き始めると、あまりのうるささに家を飛び出して、泣きやむまで放っておくことにしていました。泣きやんだらら家に戻る、という日々だったのです。
兵太郎が10歳のある日のことです。その日も、兵太郎はいつものように大声で泣き始めました。母親は外に飛び出します。母親が、家の近くの大きな木の下で兵太郎が泣きやむのを待っていたところ、たまたまそこを通りかかった旅の僧に声をかけられます。
「あの家からとてもきれいな大きな声のお経が聞こえるが、どなたが唱えているのか」
なんと、旅の僧には兵太郎の泣き声が読経に聞こえたのです。しかも素晴らしく美声の読経に・・・。母親はびっくりします。「子供が泣いているだけですが・・・」と言って母親は旅の僧に家の中を見せます。
「おぉ、なるほど、確かに子供が経を読んでいる。何とも素晴らしいお経だ・・・・」
旅の僧にはどうしても兵太郎の泣き声が読経の声に聞こえたのですね。これがきっかけで、兵太郎は会津高田の龍興寺で出家し、名を隋風と改めました。
3年ほど、龍興寺で学びますが、14歳のとき下野国(栃木県)宇都宮の粉河寺(現廃寺)で天台教学を学びます。さらに、18歳のころ(1553年ころ)比叡山に入り、本格的に天台教学を学ぶのです。さらには、三井寺や京都・奈良などで倶舎論、唯識、三論、華厳、禅、真言密教も会得していきます。そればかりか、中国文学、儒学なども習得します。まさにすべての教学を学び、理解していったのです。天才的ですね。
その後、36歳になっていた隋風(天海の最初の僧名)は、再び比叡山に入ろうとしますが、なんとこの年、比叡山は信長によって焼き討ちに遭うのです。1571年(元亀2年)のことでした。

そんなころ、甲斐国の武田信玄のもとには多くの僧が集まっていました。隋風もその集まりに参加し、その博識と素晴らしい弁舌を披露します。信玄は隋風の智慧に驚き、彼に帰依したのです。このことは、戦国大名の間でも有名になります。
2年後の1573年には、会津の戦国大名・蘆名氏の招きで会津高田の黒川稲荷堂で武家や庶民に教えを説く生活を始めます。その間にも禅の「碧巌録」の提唱を聞いたりもし、学ぶことを怠りませんでした。
1589年、蘆名氏が伊達政宗との戦いに敗れたのをきっかけに、いったん江戸崎の不動院の住職になりますが、翌年には川越の無量寿寺(後に喜多院となる)の豪海に弟子入りし、名を天海と改めます。この時、55歳でした。こんなころ家康と対面します(一説によると、対面は関ヶ原の戦いのあと、1608年ころとも言われています)。
1599年、天海は豪海の後を継ぎ、無量寿寺の住職となります。天海さん、64歳になっていました。
1607年、72歳のときに比叡山復興のため、比叡山に登り、南光坊に住みます。後の話ですが、徳川家光に願って、比叡山の復興を実現しています。

家康と知りあったことは、天海さんにとって大きなことでした。1612年、天海さんは家康に呼び戻されます。このとき77歳ですね。天海さんは川越の喜多院(前・無量寿寺)に住します。翌年、家康から「関東天台宗法度」がでます。これには、関東の天台宗はすべて比叡山の支配から離れ、喜多院を本山とし、喜多院の支配に属すること、となっていました。このことにより、天海さんは関東天台宗の頂点に立ったのです。
また、この時、喜多院の山号を「東叡山」と改めてもいます。これは東の比叡山という意味です。こうしたことは、家康の策略です。天海さんが望んだのではないようです(もちろん、一説には天海さんの策略という説もあります)。
戦国時代のように、比叡山が大きな権力を持つことを家康は嫌ったのです。そこで、比叡山の力をそぐために、権力意識のない天海さんの元に関東の天台宗の寺院を集めたわけです。家康は、天海さんに政治に口出しする意思がないことを知っていたわけです。もし、天海さんが、政治に口出しをするような僧であるならば、天海さんの元に比叡山の力を集めるようなことはしなかったでしょう。当時は、寺院の権力を握ることは、大きな力を得ることだったのです。

翌年、天海さんは日光の管理も命じられます。天海さんは、日光山に光明院を復興します。これはのちに輪王寺となります。天海さん78歳になっていましたが、なんと日光・川越・江戸と行ったり来たりの生活をしています。日光の管理に、川越喜多院での住職としての仕事、そして江戸城で家康に教えを説いたり、相談を受けたり・・・・の日々でした。さらには比叡山の復興も手掛けています。また、このころには、家康に血脈を与えているとも言われています。これは、家康が天海さんの弟子になったという意味があります。
マルチですね。驚きですよね。78歳といえば、現代でも隠居の年。ですが、天海さんの場合は、まだまだ活躍のピークを迎えてはいないのです。

天海さんがその立場を堅固にしたのは、家康の死後でした。
家康は大坂夏の陣を終え、駿府に隠居していました。1616年、鯛のてんぷらにあたった家康はそのまま死去します。その時の遺言に
「遺体は久能山(静岡県)に葬り、葬儀は増上寺で行い、位牌は大樹寺(愛知県岡崎市)に立てよ。一周忌が過ぎたら日光山に堂を建て、わしの御霊を勧請し祀ること。必ずや関八州の鎮守となろう」
とありました。家康は、その遺言通りにされます。が、一周忌のあと、家康の御霊を勧請し、神として祀るのですが「権現」として祀るべきか、「明神」として祀るべきか、論争が生じました。権現を提唱したのは天海、明神を主張したのは金地院崇伝でした。

金地院崇伝は、家康の片腕、天海さんと並んで「黒衣の宰相」と称された禅僧です。天海さんよりも33歳ほど若かく、戦国時代からその頭角を現していました。江戸時代が長く続く元となった「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」の草庵を作ったのが崇伝で、政治に関して家康が頼りにしていたようです。

さて、その崇伝と天海さん、初めて揉めます。どちらも譲りません。権現か明神か・・・。天海さんは
「家康公は天台の血脈を受けている。ならば、天台の教えである山王一実(仏も神も一つという天台の本地垂迹説、難しいので詳しくは説きません。神は如来や菩薩の化身である、という教えですね。なので、神とは、神そのままの明神ではなく、如来や菩薩が変化した姿である権現としての神であるのだ、という説です)でもってお祀りいたすのが正道。明神ではないのだ」
と強く主張しました。天海さんは、日頃、強く自己主張をしなかったようです。しかし、この時ばかりは頑として譲りません。崇伝もびっくり、立ち会っていた二代将軍秀忠も驚きでした。秀忠は問います。
「天海、そこまで言うのなら何か根拠があるのだろうな」
「もちろんあります。豊国明神のその後はどうなりまりましたか」
天海さん、逆に質問します。豊国明神とは、豊臣秀吉公を神として祀った明神さんです。秀吉は明神さんとして祀られたのですね。そして、その子孫は・・・・滅んでしまいました。これは不吉です。秀忠も崇伝も見落としていたんですねぇ。二人声をあげます。
「あっ、そうか・・・・これは・・・・不吉・・・・」
こうして、家康公は権現さんとなったのです。日光は東照大権現の誕生ですね。
このことがきっかけとなり、崇伝は失脚。天海は秀忠にも信頼を得たのです。そして、それは三代将軍家光まで続きます。

1617年、82歳にして家康公を祀るため、日光に東照宮を建てさせます。当初の予定より絢爛豪華となったそうです。家康は小さな堂でよい、と遺言したそうですが、とてつもなく大きな堂となりました。それは、天海による徳川の安泰を願っての配慮だったようです。
90歳のとき、江戸城の鬼門守護のため、上野に寛永寺を建立します。そして、その山号を東の比叡山という意味で、東叡山とします。喜多院の山号を持ってきたのです。
その後は、12年ほどかけて大蔵経(すべての経典を集めたお経。一切経ともいう)6323巻を完成させます。これが「天海版一切経」です。木活字版ですね。信長の焼き打ちに遭い、比叡山からはお経が消失してしまいました。天海さんは、これを大変無念に思っていたのです。なんとか、一切経を復活させたい・・・それが自分の仕事である・・・。そう思っていたのでしょう。90歳を超えて、一切経の復活に情熱を燃やしたのです。
その間、天皇家での揉め事の仲裁に入ったり、沢庵さんらが寺院法度を破ったとして崇伝に訴えられた「紫衣事件」に関して、流罪にあった沢庵さんらを許すよう懇願したりもしています。
一般的には、やり手で抜かりない、ちょっと怪しい僧侶のように思われがちですが、その実は、争い事を嫌い、天台の教えの布教と比叡山の復興、民衆の平和を強く願っていたのです。徳川家との関係も、民衆の生活が安泰であるためだったようです。再び戦乱にならぬよう、世が乱れぬよう、徳川安泰を願ったのでしょう。
時は過ぎ、一切経も完成することができ、世は安泰となった頃、天海さんは108歳となっていました。上野寛永寺で静かに入滅したそうです。その最後まで、天海さんは
「世にあふれている浪人や流人を救わねば・・・」
と語っていたそうです。

さて、天海さんの生涯は以上です。ここで、少し天海さんにまつわるエピソードを。
有名なエピソードは、江戸城築城に関してでしょう。風水を屈指して江戸城が安泰であるように設計した、ということは有名な話です。まあ、風水というよりは、密教の結界術による、と言ったほうがいいかも知れません。
密教では、その建物が永く安泰であるように、土地に埋めものをします。何を埋めるかは、秘密ですね。そのことにより、あらゆる禍から、その建物を守るのです。とはいえ、それも永遠ではありません。江戸城も焼けています。敷地は残っていますが。これは、さすがに天海さんらしいですね。密教の力を屈指しています。一説によると、「私は空海上人の生まれ変わりだ」と言っていたとか。本当かどうかは知りませんが、密教の祖である空海上人・・・弘法大師を敬っていたのかも知れません

また、天海さん50歳代のころのこと。天海さんは常陸国の不動院にいました。そのころ、常陸国はひどい干ばつに見舞われます。民衆に請われ、天海さん雨乞いをします。その時に若い娘さんが現れ、「この五鈷を使ってください」と言われ、五鈷を手渡されます。村人は、娘さんのあまりにも天海さんとの親しそうな態度にちょっと怪しみます。「いいのかこの坊さん。あんな若い娘と・・・・大丈夫か」と言ったところでしょうか。ところが、娘さんにもらった五鈷を使って御祈祷をすると、その五鈷から娘さんが現れ、その娘さんが獅子に乗った文殊菩薩へと変化するではないですか。そして、瞬く間に雨が降り出したのです。村人は、少しでも天海さんを疑ったことを恥じ、ますます帰依したそうです。

もう一つエピソードを。
晩年の話です。108歳という長寿を全うした天海さん、家光に言葉を贈ります。
「気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそくして こころひろかれ」
人生訓でもあり、長寿の秘訣でもありますね。このことばは、のちのち、
「気は長く、心は丸く、腹立てず、口慎めば 命長し」
という言葉となります。これは、よくお土産屋さんに手拭いに印刷され売っているのを見かけますよね。もとは、天海さんの言葉だったのです。天海さんは、「色うすく(好色をつつしめ)」だったのですが、民衆に対してのことだったので「口慎め」に変わったのですね。

怪しいイメージが強い天海さんですが、その素顔は意外に優しく民衆思いの人だったようです。崇伝と相まって怪しいイメージがついてしまったのでしょう。尤も、崇伝も世の平和を願って法度を制定したのですけどね。ただ、崇伝よりも天海さんの方が、懐が深かったようです。その違いですね。
合掌。



沢 庵

今回は、御漬け物「タクアン」を作った人として知られる、沢庵さん(1573〜1645)についてお話しいたします。
沢庵さんといえば、漬物のタクアン(タクワンという方が多いと思いますが、正式名はタクアンです)のほかに、吉川英治さんの「宮本武蔵」にも登場します。それをもとにしたマンガ「バガボンド」(井上雄彦作)にも登場します。しかし、実際の沢庵さんは、武蔵とは関わりがなかったようですね。ですが、その人物像は、「宮本武蔵」に登場するような、反骨の禅僧、権力に屈しない禅僧、だったようです。
なお、沢庵さん、正式な名前は沢庵宗彭(たくあんそうほう)といいます。沢庵は道号、宗彭が僧名ですね。

沢庵さんは、室町幕府が滅んだとされる1573年、但馬国出石(兵庫県出石町)に武士の子として生まれました。戦国時代真っ只中の生まれです。父親の秋庭氏が仕えていたのは出石城主の山名氏でしたが、その山名氏は沢庵さんが8歳のときに織田軍の秀吉に滅ぼされます。そのため、一家は没落。それでも2年ほどは何とか過ごすのですが、10歳のとき、出石の浄土宗のお寺・唱念寺(しょうねんじ)に預けられ、春翁(しゅんおう)と名付けられます。なかなか利発で堂々とした子供だったそうで、その時の逸話をひとつ紹介しておきましょう。
ある日のこと、弟子仲間の一人が住職さんが大切にしていた茶碗を割ってしまったという事件が起きました。当時、茶の湯がもてはやされており、多くの有力者が茶碗の名器を集めておりました。唱念寺の住職さんが持っていた茶碗もすばらしいできの茶碗だったのです。その茶碗を弟子仲間が割ってしまったんですね。その弟子は困ってしまいます。そこで春翁(沢庵さん)は、自分に任せろ、というのです。住職さんが帰ってくると、春翁は住職に尋ねます。
「無常とは生きるものだけに限るものでしょうか」
「ほう、なかなか良い質問じゃ。無常は生き物だけのことではない。すべての存在が無常なのじゃ」
「では命通わぬモノも、無常なのですね」
「そうじゃな」
「その無常を超える手立てはあるのでしょうか」
「ない、な。この世のあらゆる存在はすべて無常であり、それを超えることはできぬ」
「ならば、これも無常のあかしでしょうか」
と春翁は、壊れた茶碗を差し出します。住職さん、真っ青ですね。しかし、怒るに怒れません。すべては無常なのですから。それを超える手立てはないのですから。ここで怒ってしまったら、住職さんは「ただの人」に落ちてしまいます。偉そうな説法は今後できません。なので、うなずくしかありませんでした。さらに春翁
「この無常の器はいかがいたしましょうか」
と問いかけます。住職さん
「好きにせい」
というしかありませんよね。
これは、一休さんのトンチ話に出てくるような逸話ですが、沢庵さんは浄土宗のお寺に入ったにもかかわらず、その頭は禅的な頭だったようです。こうした機転がきくのは禅ならではですよね。
そういう理由もあって、浄土宗の教えになじまなかったのか、沢庵さんは14歳のとき、出石の禅寺・宗鏡寺(そうきょうじ)の塔頭寺院・勝福寺(しょうふくじ)に移ります。その時に名前を秀喜(しゅうき)と変えています。このころは、宗派を変えることができたのです(今でも宗派変更はできますが、手続きが面倒です)。ここで禅の基本を学びますが、19歳のとき師事していた住職が亡くなります。困っていたところに、京都大徳寺から董甫宗仲(とうほそうちゅう)が宗鏡寺にやってきます。これが大きな転機でした。

董甫は優れた禅僧で、沢庵さんは本格的な禅を学ぶことができました。2年後の22歳のとき、董甫が京に戻るのに伴い、一緒に京都大徳寺の塔頭寺院・三玄院に入ります。三玄院は董甫の師である春屋宗園(しゅんおくそうえん)が住職をしていました。董甫は春屋一門ですから、沢庵さんも春屋門下に入ったのです。そこで名を宗彭と改めます。
この春屋宗園という禅僧、当時はかなりの権力を誇っており、大徳寺でも有力な僧でした。しかし、実体は贅沢に耽り、権力を貪るという、まあ僧侶としては堕落しきった人だったようです。沢庵さんは春屋を嫌悪します。自分の師は春屋でなく、董甫だと言い張っていたくらいです。
当時、大徳寺での修行僧の生活は貧乏を極めていました。沢庵さんは一番下っ端なので、着るものは一枚きり、食費を得るために写経や写本などのアルバイトをしなければならなかったくらいです。ですから、そうした修行者には目もくれず、贅沢三昧に走っている春屋が大嫌いだったのです。
29歳のとき、師の董甫が亡くなります。そうなれば大徳寺にいる理由がありません。さっさと大徳寺を去り、大坂の大安寺の文西(もんせい)に儒教と詩文を学びます。2年ほど学びますが、文西が死去するとともに、大阪は堺・南宗寺の陽春庵一凍(いっとう)に弟子入りします。この一凍禅師は春屋の弟子でしたが、やはり禅風が合わず(というか春屋を嫌い)、庵を結んでいました。そうした禅風が沢庵さんもよかったのでしょう。で、ここで禅を学ぶことにしたのです。
しかし、沢庵さんの禅はもうできていたようです。一年もたたずに、沢庵さんは一凍より印可(いんか・・・悟ったという証明)をもらいます。で、その時に「沢庵」という道号もいただいたのです。
こうして、禅僧・沢庵宗彭ができあがったのです。32歳の時でした。

その2年後のこと、春屋と沢庵さんが遭遇するという事件がありました。ある法要の席で出くわしたのです。一発触発。緊張したムードが二人の間を漂います。春屋は沢庵さんが自分を嫌っていることを十二分に知っていたのです。春屋さん、しかけますな。沢庵、如何ほどのものか!、というところでしょう。
「宗彭、汝に問う。一切の存在の中に包み込まれてしまわないものが、お前の中にあるか」
沢庵さん、すかさず両手を八の字に開きます。ここで、沢庵さんの答えがわからなければ春屋の負けです。で、春屋は、沢庵さんの示した意味がわかりませんでした。
「ど、どういう意味じゃ」
たじたじですな。こうした問答の説明は、禅にあってはナンセンスですね。沢庵さんの心中は如何ほどであったでしょうか(きっと、贅沢三昧ばかりしているから禅がわからんのだ、と思ったのでしょう)。ため息をつきながら(かも知れないと想像して)、少しだけ説きます。
「目にあっては見(けん)といい、耳にあっては聞(もん)という」
これでも春屋さん、わかりません。焦ってきます。ちょっと怒り気味に
「結局、どういう意味だ」
と問います。もう全然ダメですね。沢庵さん、仕方がなく答えます。
「すなわち、全体作用なり」
春屋さん、「ちっ」と思ったのでしょうね。
「おしゃべり上手なヤツめ」
と嫌味を言って立ち去ります。完全に春屋の負けです。
・・・・と、この禅問答の意味するところがわからないといけないので・・・というか一般の人はわからないでしょうから・・・説明をしておきます。
春屋の質問は
「一切の存在から解放されているものが、お前にはあるか」
と問うたのですね。禅は、その究極はすべての存在からの解放にあります。ようは「お前は悟ったのか」と嫌味の質問をしたのです。
で、沢庵さんは、素直に両手を広げます。すなわち、「ごらんの通りです」というわけですね。「見りゃあわかるだろ、ボケぇ〜」てなもんですな。それで春屋がわからなかったから、
「目も耳も、すべて包まれることなんてないですよ」
と説明したんですね。で、負けちゃった春屋は、苦し紛れに
「理屈がうまくなったな」
と捨て台詞を言ったわけです。
一切の存在に包みこまれないものとは、人間のあらゆる行為です。人間のあらゆる行為は、その実、宇宙を超え、どこまでも広がっていくものです。それが禅の悟りなのです。そのことが認識できれば、悟りを得たことになるのですね。
沢庵さんは、春屋の質問に、すべての広がり、という意味で両手を八の字に開いたのです。つまりは、私の全部が宇宙に広がっており、何ものにも包み込まれていません、と答えたのです。春屋さん、完全にノックダウンですね。
このときの問答は、こうした意味があるのです。
こうしたことがあって、沢庵さんの評判は当然のことながら上がっていきます。

35歳のとき、師の一凍が亡くなった後を継いで南宗寺の住職となります。そして、その2年後には、勅許を得て大徳寺の第153世の住職となるのです。
当時は、大徳寺の住職は特別職で、天皇の許しがないとなることができませんでした。そこで、大徳寺の住職となることを「奉勅入寺(ほうちょくにゅうじ)」とか「出世入院(しゅっせにゅういん)」といったりしたのです。そして、この入寺を契機に紫の衣を着てよい、という許しが出ます。
お坊さんの衣の色ですが、通常は黒や茶色(鳶色)が主流です。あるいは、ウコン色(濃いめの黄色、ウコンで染めたもの)の衣を身に付けます。宗派によっては派手な緑色や黄色などを着用する派もありますが。そんな中でも、紫色は特別でした。特に当時は、天皇の許しがないと紫色の衣は着れないのです。(現在では、その宗派での僧階・・・僧侶の位・・・によって衣の色が定められています。一般的に、僧正以上が紫が着用できる、とされています。僧階が低い者は、紫は着用できません。修行するなり年数が経るなりしないと僧階は上がりません)。
このことは、後々に大きな事件まで発展することになるのです。

さて、沢庵さん、まだこの時は大きな事件に自分が巻き込まれるなんてことはつゆ知らず、大徳寺の住職をさっさと辞めてしまいます。一説によると、三日で辞めてしまったそうです。で、南宗寺に戻ってしまうんですね。
その後、大坂夏の陣で南宗寺が焼失してしまうと、その復興のために奔走します。復興がかなうと、後を託し、自分は旅に出てしまいます。自由でいたかったのでしょう。ですから、しばらくの間は、行方知らずのような状態が続くのです。
沢庵さん、旅に出て10年ほどたったある日のこと。故郷の宗鏡寺にボロボロの汚い旅の僧が一人現れます。なんと、それは沢庵さんだったのです。沢庵さんは、そのとき48歳になっていました。沢庵さんは、そのまま宗鏡寺に庵を造り、住み込みます。庵の名は「投淵軒(とうえんけん)」といいました。沢庵さんは、ここでのんびりと過ごしていたのです。

そんなころ、江戸幕府は崇伝の草稿により「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」や「大徳妙心諸法度」を制定し、大徳寺と妙心寺に対し、圧力をかけてきます。具体的には、大徳寺と妙心寺の住職になるには、幕府が決めたある一定の条件を満たし、幕府の許しを以て任ずる、というものでした。また、紫の衣の着用も幕府の許可を得たものが許される、としたのです。
もともと、大徳寺と妙心寺の住職は、印可を得た経験豊富な禅僧、あるいは住職経験者たちが、適任者を天皇に推挙し、天皇が許可を与える、という形をとっていました。本来、大徳寺も妙心寺も、その住職は、禅の悟りを得たものがなるべきであり、それを決めるのは、印可を受けている禅僧(つまりは悟った禅僧)たちが決めることです。ですから、経験者で推挙し、天皇が許可を与える、とう形が成り立っていたのです。そこには、幕府が葉いる隙間はありませんでした。
幕府は、大徳寺や妙心寺の力を恐れていました。京にあり、絶大なる力を持った宗派は比叡山と大徳寺や妙心寺です。比叡山は、天海により、幕府方になりました。あとは、大徳寺、妙心寺グループです。これを掌握するために崇伝により考えられた策が先の法度なのです。
しかし、大徳寺は、この法度を守りませんでした。従来の習慣通り、禅僧が推挙し、天皇が許可するという形式のまま住職を決めていたのです。
幕府は当初これを黙認していました。なぜか10年余りの間、なにも手だてをしなかったのです。

沢庵さん55歳のころ、寛永4年、幕府は突如として動き始めます。大徳寺に対し、元和元年以降住職になり、紫の衣を着用していいと言われた僧侶から、紫衣(しえ)着用の資格を剥奪するとしたのです。
これを知った沢庵さん、あわてて上洛します。これが後にいう「紫衣事件」となるのです。

のんびりと平穏無事に暮らしていた沢庵さんのもとに知らせが入ったのは、沢庵さん55歳のときのことでした。寛永4年のことです。
幕府は、寛永4年(1627年)、突如として大徳寺・妙心寺の紫衣(しえ)着用について、口を挟んだのです。幕府の言い分は、
「元和元年(1615年)以降、大徳寺・妙心寺の住職になったものから紫衣着用の許可を剥奪する」
というものでした。理由は、先に制定した「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」や「大徳妙心諸法度」に則った住職でないと認めない・・・・すなわち幕府の認可を得たものでない限り、大徳寺・妙心寺の住職として認めない、ということでした。しかし、きっかけは、大徳寺の慣例に従い、沢庵さんが寛永3年に大徳寺住職に玉室の弟子を推挙し、住職にしてしまった、ということがあったのです。幕府内で、このことは大いに問題となります。法度を無視した行為は、他の法度の無視につながる・・・ということだったのでしょう。そこで、今まで不問にしていた大徳寺と妙心寺の住職任命権について、法度通りに行うよう圧力をかけてきたのです。

この騒ぎを知った沢庵さん、切っ掛けが自分にもあったことから、安穏な生活を捨て、京に上ります。大徳寺につきますと、寺内は幕府に従おうとする妥協派とあくまで大徳寺の権威を守ろうとする抵抗派に分かれていました。沢庵さんは、もちろん抵抗派に属し、先頭を切って大徳寺の意見をまとめあげました。それは、大徳寺・妙心寺による幕府への抗弁書となったのです。
抗弁書の起草は沢庵さんが受け持ちました。他に大徳寺第147世玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、156世江月宗玩(こうげつそうがん)の二名が連署しました(ちなみに沢庵さんは153世)。
沢庵さんをはじめ、3名の僧は、幕府に呼び出されます。沢庵さんと親しかった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は天海僧正とともに沢庵さんらの擁護をしますが、法度の起草者である金地院崇伝(彼は天海さんにも遺恨があったので、余計に燃え上がったのです。詳しくはバックナンバー天海さんを参照してください)の抵抗にあい、沢庵さんと玉室の流罪が決まってしまったのです。妙心寺からも沢庵さんらに加担したことから、二名の僧が流罪となりました。沢庵さんは出羽上山藩(山形県)に蟄居となったのです(玉室は陸奥国棚倉藩・・・福島県)。さらにこのことは、後水尾天皇による幕府への抗議としての譲位までに発展してしまいました。
これが「紫衣事件(しえじけん)」です。
しかし、民衆は沢庵さんらに同情し、幕府へのあてつけの楽書(らくしょ)などがかかれるようになったそうです。

さて、出羽へ流された沢庵さん、実は思いがけず幸運にあいます。沢庵さんを預かることとなった城主の土岐頼行は大の禅好きだったのです。熱心な禅の信仰者だったのです。したがって、沢庵さんは流罪の身でありながら、庵を造ってもらい、自由に暮らせるようになったのです。沢庵さんは、城主をはじめ武士たちに禅を指導し、平穏な日々を過ごすのです。
禅者である沢庵さんにしてみれば、出羽の山中も江戸も京も同じでしょう。一切は空、すべては己の中、宇宙と一体化していれば、どこでも同じ・・・・。そうした境地にある沢庵さんとってみれば、贅沢な暮しだと思っていたに違いありません。
寛永9年、二代将軍秀忠が没します。大赦によって沢庵さん、江戸に昇ることを命じられます。しかしこの時、沢庵さん
「御意なれば 参りたく庵 思えども  武蔵汚なし 江戸はいやいや」
という句を詠みます(御意だから仕方がないけど、できれば行きたくない。武蔵の国は汚いから、江戸はイヤ)。
幕府の命であり、また従わなければ土岐氏や柳生宗矩、天海僧正にも迷惑がかかるし、しかも秀忠の死による大赦ですから、沢庵さんは仕方がなく、江戸に行きます。
江戸で庵を結び禅三昧の日々を過ごしていたころ、柳生宗矩が頻繁に沢庵さんのもとを訪れました。禅と剣術は相通じるものがあります。ともに心をし〜んとさせていなければなりません。剣術も極めれば、それは禅の境地と変わらないのです。なので、宗矩はその境地に至るべく、沢庵さんのもとを訪れたのです。それは、精神の統一、無我の境地へとなり、剣術は剣道という禅の境地に至る道へと昇華させました。それが後に沢庵さんが柳生宗矩に贈る「不動智神妙録」という書になります。

江戸へ入って二年後、ようやく大徳寺に入ることを許されます。3代将軍になった家光は朝廷との関係修復のためと天下へ威厳を示すため、大軍を率いて京へ上ります。その際に、天海僧正と柳生宗矩の計らいで沢庵さんは二条城で家光と会見をします。沢庵さんは乗り気ではなかったのですが、なんとこの会見を機に、沢庵さんは家光に気に入られてしまうのです。
この会見のあと、沢庵さんは故郷の宗鏡寺に戻るのですが、寛永13年、家光の命で江戸に呼び寄せられます。それ以降、家光は沢庵さんをそばに置いて離そうとはしませんでした。
その当時、幕府の相談役でもあった金地院崇伝は死去していました。天海僧正は百歳を超す高齢となり、幕府の仕事は遠ざかっていました。家光にとって沢庵さんは、よき相談相手であったのです。また、これには柳生宗矩も関わっていました。家光と宗矩、両者にとって沢庵さんはなくてはならぬ人物だったのです。
沢庵さんは、宗矩の別邸内に庵を造らせてもらいます。その名は「検束庵(けんそくあん)」といいました。家光と宗矩に拘束されている、という嫌味を込めての名付けだったのですが、両者とも意に介さなかったようです。

寛永16年、家光はとうとう品川に東海寺という寺を建立します。沢庵さんを留めておくためでした。口さがない江戸の人々は、
「さすがの名僧も将軍の前では兜を脱いだ」
「名僧といっても欲には勝てない」
などと噂しあったようですが、沢庵さんにとっては、それは予想していたことでした。それよりも、沢庵さん自身は
「己は幕府という猿廻しにつながれた猿じゃ」
と自嘲していたようです。しかし、それはすべて大徳寺・妙心寺の紫衣に関する解決のためでした。沢庵さんが家光の依頼を断るたびに、家光は
「大徳寺も妙心寺も自由になりたいだろうな」
などと言って横目で見てはニヤついていたのです。大徳寺・妙心寺の幕府からの解放をエサに沢庵さんを縛りつけていたのでした。沢庵さんは、仕方がなく、耐えていたわけです。
その甲斐あって、寛永18年(1641年)沢庵さん69歳のとき、ついに大徳寺・妙心寺の特権が認められます。幕府からの解放です。耐え忍んだ価値はあったわけです。
沢庵さんは、そのころはもう東海寺になじみ、そこで晩年を過ごすことになります。家光や後水尾上皇らは、沢庵さんに教えを継ぐ弟子を設けることを勧めますが、沢庵さんは固辞しています。修行者を迎え入れても、自分の弟子は持たない、自分の禅は自分の禅であって、それを嗣がせることはない、というのが沢庵さんの心情だったようです。
そして、1645年(正保2年)の暮れのこと、修行僧に囲まれた沢庵さんは、その一人に請われ「夢」と一文字書き上げます。しばらくして、静かな死を迎えました。73歳の年でした。

さて、家光と沢庵さんは、大変仲がよかった、良い友人だったと言われておりますが、沢庵さんの内心ではそうではなかったようです。大徳寺・妙心寺のために仕方がなく付き合っていた、という面があったことは否めません。しかし、一方では、こんなエピソードもあります。
ある日のこと、沢庵さんが考案した漬物を家光に持っていきました。家光は大そうこれを気に入り、食事時は必ず、それ以外でもおやつなどに食べるようになったそうです。それが今でいう「たくあん漬け」です。命名は、家光だとか。
それがやがて江戸庶民にも伝わります。そしてそれは日本全国へと広まっていくんですね。
また、沢庵さんは剣術や茶にも通じていたので、その交際範囲はかなり広かったようです。何事にもこだわらない、かといって権力におもねらない姿勢が、人々の好感を呼んだのでしょう。
沢庵さんは、書を請われると、よく「夢」と書いていたそうです。夢を捨ててはならぬ、それに向かって突き進むこと、夢を忘れてはならぬ・・・・という教えだったのでしょう。大徳寺・妙心寺の幕府からの解放という沢庵さんの夢も、その夢があるからからこそ嫌なことも耐え忍べたのですし、それが自分の修行ともなっていたのです。そして、それもついには叶ったのです。夢は持たねばいけませんし、捨ててもいけません。夢を持つことは大切なことです。
夢がない現代においてこそ、沢庵さんの教えや生き方が必要なのではないかと思います。
以上、沢庵さんについての話でした。
合掌。



隠 元

皆さんは、隠元豆をご存知でしょう。知らない方は少ないと思います。しかし、この隠元豆の名前が、お坊さんから名付けられていることはご存知でしょうか?。そう、隠元豆は、中国から渡来した隠元さんというお坊さんの名前からつけられているのです。今回は、その隠元さんのお話です。
隠元さんは、日本の方ではありません。中国から日本に禅を伝えに来られた僧侶です。正しい名前を隠元隆g(いんげんりゅうき)といい、1592〜1673年の方ですから、中国では明の末期ですね。明から清へ変わろうとしているころの方です。
生まれは中国福建省です。6歳のときに父親が行方不明となります。隠元さんは、少年のころより出家を望んでいたのですが、母親を養うためにも身を粉にして働いたのです。そして、出家の望みがかなったのは、29歳のときでした。出家は、中国の黄檗山(おうばくさん)でした。中国禅は、古くからの臨済禅(りんざいぜん)を引き継いでいました。中国では、禅の流れは他の宗派に比べ盛んだったのです。黄檗山は、その中でも随一でした。隠元さんは、黄檗山で臨済禅を極めます。
33歳のころ、一度黄檗山を出て、他の禅者から教えを受けますが、6年後、黄檗山に戻ります。そのまま、黄檗山で修行し、46歳にて(中国の)黄檗山万福寺(まんぷくじ)の住職となります(中国の、と付けたのは、後で話をしますが、日本にも黄檗山万福寺があるからです。混同しないよう、ご注意ください)。その後、63歳になるまで、万福寺の住職を務めます。
なぜ63歳で住職をおりたのか・・・。それは、日本に渡来したからです。

当時の日本は、言うまでもなく江戸時代です。江戸の初めのころは、前回お話ししたように、沢庵さんが登場し、禅ブームを起こしていました。ところが、隠元さんが日本に来たころは、禅は下火になっていたのです。
沢庵さんが亡くなった後、沢庵さんのような禅者は現れなかったのです。さらに家光のあとの四代将軍家綱の時代になると、大徳寺や妙心寺の力も弱まり、キリシタン弾圧も強化され、寺院諸法度・寺請制度(てらうけせいど)・本末制度(本山と末寺の関係を明らかにする)が強化されもしたのです。寺院は幕府の体制に従属的になってしまいました(やがて、本末制度は有名無実となっていきますが、寺請制度はキリシタン弾圧のためにも明治時代まで続きます。いわゆる壇家制度のことで、人別帳といわれ戸籍の役割をしていました。尤も、やがて人別帳から外れる人も多く出るようになっては来ますが・・・・)。
このような、気骨のある禅者が誕生しにくい状況もあり、日本での禅は衰えかけていたのです。それを危惧したのは、妙心寺の僧侶たちや、長崎の興福寺住職・逸然でした。また、当時、長崎に滞在して商売をしていた中国の商人たちも中国からの禅者を日本に要請することを望んでいました。
こうした希望に応え、隠元さんは30人の弟子を引き連れ、来日したのです。隠元さん63歳、1654年のことです。

隠元さんは、3年後には中国の黄檗山に帰る、と言い残して、日本にやってきます。ところが、それは許されないような雲行きでした。
日本に来て、早速、長崎は興福寺にて禅を説くことになります。その噂を聞きつけ、集まった修行僧は数千人だったそうです。しかし、この状況は、隠元さんには、喜ばしくないことでした。それは、日本の禅が低迷していることの証でもあったのです。日本には、優秀な禅者がいないことの証明になったのですから。
隠元さん、長崎興福寺の住職となり、日本の禅の指導に当たることを決意します。おそらくは、
「3年で帰ると言ったが・・・・これでは無理であろう。この国の禅の法灯を決して消してはならぬ・・・。私が頑張るしかない」
と決意したのでしょう。しかし、なかなか日本に善き禅者は現れませんでした。
妙心寺は、そんな隠元さんを京都へ招こうとします。が、反対派も多く、妙心寺内は、二つに分かれてしまいます。結局は妙心寺に迎えることは困難となり、大阪の普門寺に招くことにしました。それは隠元さんが日本に来た、翌年のことでした。
しかし、妙心寺派の中には、隠元さんに対し、強く反発する者がいました。その代表が愚堂東寔(ぐどうとうしょく)でした。彼は、日本の臨済宗が中国の黄檗禅に染まることを嫌ったのです。日本の禅は日本の禅であり、中国の禅とは異なる、中国の禅者に頼らず、日本の禅を復興すればよい、というのが、愚堂の考えでした。
こうして日本の臨済禅と隠元さんの間には、溝ができたわけです。
隠元さんや、隠元さんを支持するグループは、幕府に働きかけをし、新しい禅を説く場所を開くことを許可してくれるように陳情します。隠元さん自身も67歳のとき、将軍家綱に謁見しています。しかし、新しい禅を広める場所を創る許可が得られるのは、その3年後、1661年、隠元さん70歳の時でした。

隠元さん、70歳になるその年。幕府は、隠元さんに京都は宇治に寺を創ることの許可を与えます。それが、後に黄檗宗(おうばくしゅう)となる、日本の黄檗山万福寺です。隠元さんは、中国の黄檗山万福寺と同じ名前を日本の寺にもつけたのです。それには、3年で帰るという約束が果たせなかった想い、日本で中国黄檗山の禅を広めるための決意、が込められていたのでしょう。
隠元さんのそうした想いや決意は、宇治の万福寺を見ればよくわかると思います。万福寺は、日本風の寺院建築ではなく、中国風の建築様式になっています。長崎ではよく見られた造りでしょう。屋根の四方が極端に反り上がる、独特の様式でたてられています。異国情緒がたっぷりといった、日本では珍しい様式の寺院ですね。
そこで隠元さんは、生涯を終えることとなります。それは、1673年、82歳の年でした。

さて、ここで隠元さんの禅と日本の禅・・・臨済宗や曹洞宗の禅・・・の違いについて簡単ではありますが、述べておきます。
日本の禅は、中国で言えば宋の時代に流行した禅でした。臨済宗は問答や公案を重視し、いわばひらめきを誘発して悟りを得るという禅です。曹洞宗は、ただひたすら座禅をし、悟りを得るという禅です。どちらも、宋の時代に流行した禅を日本に持ち込んで、さらに日本にあったように練り込んでできあがった禅です。
隠元さんの禅は、それよりも時代が下り、明の時代の禅です。その当時の禅は、宋時代のような公案や問答、座禅に打ち込むという禅よりも、念仏禅と言われる座禅と念仏をともに修めるという禅でした。
たとえば、万福寺では浄土経なども読まれますし、さらには真言密教ので唱える陀羅尼(だらに、ご真言の長いバージョン)なども唱えます。当時にあった日本の禅とは、少々異なっていたのです。ただし、黄檗宗の浄土観は、日本の浄土系の宗派とは異なり、死後の西方極楽浄土を望む教えではなく、この身の内に浄土を感じるという浄土観です。これを「己身(こしん)の弥陀、唯心(ゆいしん)の浄土」といいます。自分自身が阿弥陀如来であり、己の心のみが浄土である、という教えですね。
隠元さんの禅は、こうした禅だったのです。ですから、妙心寺内でも隠元さんの禅に反対する者が出てきても当然なのですよ。反対者が決して悪者であるわけではないのです。
しかし、時代のニーズと言いましょうか、隠元さんの禅は、当時は人気を得たのです。念仏と禅の融合ですから、人々にも受け入れやすかったのでしょう。ですが、隠元さん自身は、
「念仏はあくまでも方便である」
としています。真実は別にあるのだと。ただ、
「日本人は、禅を受け入れるには未熟である。多くの日本国民が、禅を理解することはできない。だから、禅をそのまま説くのではなく、念仏という方便を使って、禅に導いているのだ」
と説いています。当時の日本人の多くは、禅の深い教えが理解できなかったのでしょう。もしくは、禅をうまく説くことができる僧が少なかったのかも知れません。どちらかと言えば、禅は武家のものでした。一般庶民には、高度な教えだたったのかもしれません。その当時、日本の禅僧の中に、庶民的な禅僧がいなかった、とも言えますね。
このような理由から、隠元さんの説いた念仏禅は、人々に受け入れらたのです。
しかし、それも長続きはしませんでしたが・・・・。なぜなら、日本には、やがて白隠禅師というとてつもない禅僧が現れるからです。それは、次回にお話しすることにしましょう。

隠元さんは、日本に新しい禅をもたらしました。新風を吹き込んだわけです。このおかげで、眠っていた臨済禅の僧たちは、活気づいてきたことは否定できません。大きな刺激になったのですね。隠元さんの来日は、日本に黄檗禅をもたらしただけでなく、日本の禅も発展させたのです。
それだけではないですね。庶民には隠元豆をもたらしてくれました。また、西瓜も隠元さんが持ち込んだそうです。隠元さんのおかげで、夏に冷たい西瓜が食べられるようになったそうですよ。そう言った意味では、日本人の多くの人が、隠元さんに感謝すべきなのでしょうね。
そのほかにも、弟子の木庵、即非と三人で、江戸の三筆と呼ばれる書を残しています。さらには、普茶料理(普く人々にお茶を中心とした健康食を施すという教えに基づいた精進料理)も隠元さんが始まりです。
隠元さんが日本に与えた影響は、禅だけでなく、文化的にも大きかったのです。
以上、隠元さんでした。
合掌。




白 隠

今回は、臨済宗中興の祖と言われております、白隠禅師についてお話しいたします。
白隠(1685〜1768)さん、その名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。水墨画や書でも有名です。江戸中期のかたですね。
生まれは駿河です。現在の静岡県沼津市ですね。父親は、その地区の宿場(浮島河原宿)の郵便業務の長をしていました。飛脚の管理者ですね。姓を長沢といいます。ごく普通の子供時代を過ごしていた白隠さんですが、11歳のころ地元のお寺で聞いた地獄の話に恐怖してしまいます。昔は、浄土宗や浄土真宗などのお寺では、地獄極楽図を見せて、地獄の話などをし、悪さをしてはいけないぞ、などという教訓的な話を子供たちにしたものです。私の子供時代でも、そう言うことはありました。そうした寺で行う、子供対象のお話会がいつから無くなったのかは知りませんが(たぶん、TVが普及してからでしょうね)、今では地獄極楽の話をしているお寺は・・・・ないのでしょうねぇ(一説によると、PTAや学校から抗議があったとか。ありもしない地獄絵図を見せて子供を威すな!、ということだったそうです。そういうことをいうバカ親が日本の子供をダメにしたんですねぇ)。
ま、それはさておき、地獄絵図を見せられ、地獄の恐ろしい話を聞かされた白隠さん、とんでもなくビビってしまいます。お風呂に入っているときに地獄の釜を思い出し、泣き出してしまうほどだったそうです(11歳で、です。今では考えられないほど純粋ですよね。今のガキと言えば・・・・)。
「このままでは、私は地獄に堕ちるだろう。あぁ、怖い。なんとか助かりたいものだ・・・。それには・・・出家するしかない」
と頑なに思いこんでしまいます。で、出家を両親に願い出るのですが、簡単には許してはもらえません。白隠さんは、男3人女2人の末っ子だったので、後継ぎというわけではありませんでした。しかも、父親は後に白隠さんが出家する寺・松蔭寺を中興した住職の甥にあたります。出家に反対する理由はなかったのです。が、両親は、強く出家を反対しました。しかし、白隠さんの出家の志は変わることがありませんでした。そうして、出家の許しが出たのは、その4年後、白隠さん15歳の時だったのです。出家先のお寺は、もちろん、ゆかりのある松蔭寺でした。その時の師は、単嶺祖伝(たんれいそでん)と言います。で、白隠さんは慧鶴(えかく)という出家名をいただきます。
(白隠さん、と呼び習わしていますが、出家の名前、僧名は「慧鶴」です。白隠は号ですね。禅宗の場合、僧名よりも房号で呼ぶことが多いです)。

白隠さん、それ以来、猛烈に勉学に励みます。また、古くからの禅の習慣に従って、各地の高名な禅者のもとを訪ね、参禅します。24歳のとき、越後高田の英巌寺の性徹(しょうてつ)のもとで座禅をするのですが、この時に悟りを得ます。ある晩のことでした。一晩中座禅をしていた白隠さんに遠方から夜明けを知らせる鐘の音が聞こえてきました。それを聞いた白隠さん
「ふむ、そうだったのか」
と大悟します。しかも、
「この悟りで、古人の禅の心がわかった!」
と喜びます。24歳にして早くも悟りを得てしまったのです。
ところが、その後、長野は飯山城下にいた正受老人(道鏡慧端・・・どうきょうえたん・・・飯山城主松平遠州の子とも、真田信之の子とも言われる。いずれにしても武士の子であり、16歳のとき階段から落ちて死にかけ、その時に「大悟した」と大笑いしたそうです。飯山山中に隠棲し、「坊主は天地の大極悪なり。所作なくして渡世す、大盗なり」・・・坊主は極悪人だ、何もせず世の中を生きていく。まるで盗人だ・・・と豪語するような異色の禅師でした)に出会い、
「悟っただと。何をぬかすか!、この穴ぐらの死人坊主め!」
と罵られてしまいます。これで白隠さん、ショックを受けるんですね。で、八ヶ月の間、正受老人のもとで鍛えられるのです。

確たる悟りを得ぬまま(とはいえ、ある程度の悟りは得ているんですよ。正受老人の域には達していない、というだけで)、白隠さんは34歳のとき、妙心寺第一座の位につきます。この時に初めて「白隠」という号を名乗るのです。それまでは、「慧鶴」ですね。
42歳の秋のこと。白隠さん「法華経」を読んでいました。軒下ではコオロギが鳴いています。そのとき・・・。
「あぁ、わかった・・・。そうか、そういうことか・・・・。今までの私の悟りは本物ではなかった。正受老人の心が、今わかった・・・」
大悟したのです。

それからの白隠さんの活躍は目覚ましいものがあります。書画や禅の講和、さらには今でも禅問答でよく紹介される
「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」
も白隠さんの禅によるものです。(「隻手の音声」とは、「片手の音を聞け」というものです。もう15年ほど前になるでしょうか。朝日新聞社の記者さん・・・今はもう故人となってますが・・・の講演の中で、妙心寺の座主と「右手の音は如何に」という禅問答を行ったという話を聞きました。その問答のもとの公案は白隠さんの片手の音を聞け!だったのですね。この話を書いていて、ふと思いだしました。なお、その記者さん、答えに窮し、座主のほっぺたを張ったそうです。で、「よろしい」といわれたそうです。禅は・・・・面白いですね)。
そのほかにも、古人の禅問答や公案を体系的にまとめ、禅僧が学びやすいようにしたり、仮名法語(かなほうご)という一般の人々に向けた教えを書いたり、歌や手紙も記したりしました。特に書や水墨画は有名ですね。

妙心寺の座主まで至った白隠さんですが、その後、故郷の松蔭寺の住職となります。そこを中心として活躍していたのです。
53歳のときには、他派の招きに応じ、碧巌録の講話を行っていますし、あちこち精力的に動き回り、大いに語り、大いに叱責し、大いに人びとを導きました。75歳という高齢になっても滅びた寺の跡地を購入し、その寺を復興させたり、新たに禅寺を建立したりと、老いてもなおその活動は止まりませんでした。
しかし、84歳の12月11日のこと、
「う〜ん」
とうなり、入滅したのです。
(禅では、亡くなるとき「大吽一声(だいうんいっせい)」といって、「う〜ん」と唸って亡くなるのがよし、とされているようです)。

さて、白隠さん、80歳以降、よく書に
「南無地獄大菩薩」
と大書していました。子供のころ、恐れていた地獄も、今は慕うほどの世界になったのでしょう。あるいは、老年に至り、地獄が再び恐ろしくなり、すがっていたのでしょうか?。それは定かではありません。
しかし、白隠さんの禅は、正受老人の弟子らしく、禅僧に対し激しいところがあります。たとえば、お堂にこもって禅に耽る僧に対し
「お前は怠け者か!」
と罵るくらいでした。お堂にこもって禅に励むばかりの者は、己の小さい悟りに執着する小乗仏教の者だ、ということですね。それでは、真の禅僧とは言えず、禅僧ならば人々のために菩薩行をせよ、ということなのです。そのために、白隠さんは、絵画や書、歌、手紙、仮名による書を数多く記したのです。そうした手紙や書の中には、大名や大商人などの贅沢を痛烈に批判したものもあります。庶民にはあくまでも優しくわかりやすく禅を説き、贅沢三昧に耽る者や怠け者、筋の通らない者には、激しく毒を吐いたのです。
いくら悟ったとしても、その後の活動が大事なのです(これを悟後の修行というそうです)。白隠さんはそれを弟子たちに伝えたかったのかも知れませんね。

なお、白隠さんの書画は永青文庫(布袋携童図、猿猴図など)、松蔭寺(龍頭観音図、達磨大師図など)などで見られるそうです。
以上、白隠さんでした。合掌。



覚 鑁(かくばん)

今回は、時代が平安末期にまで戻ります。
皆さんは、根来(ねごろ)という地名なり、言葉なりを聞いたことがあるでしょうか。歴史好きな方か、忍者好きな方ならば、根来衆という忍者がいた・・・・なんていう話を聞いたことがあるのではないでしょうか?。実は、その根来には大きなお寺があります。新義真言宗の本山・根来寺です。その寺の開祖が今回お話しする覚鑁(かくばん)(1095〜1143)さんです。

覚鑁さんは、平安時代末期の1095年、肥前国藤津荘(佐賀県鹿島市の誕生寺)で生まれました。父親は伊佐平次兼元という豪族の血をひく武士でした。しかし、身分は低く、暮らしは豊かなものではなかったようです。覚ばんさんは、4人兄弟の三男でした。
覚鑁さんが幼少のとき、父親がその地域の税吏に無理難題を押し付けられ、いびられているのを目撃します。これは、覚ばんさんにとっては、かなりショックなことでした。一家の主である父親がいびられ、抵抗できずに平身低頭している姿は、見るに堪えなかったのです。父親の姿にがっかりしてしまった覚ばんさんは、一番上の兄に
「この世で最も尊い方は、いったい誰なのですか?」
と尋ねます。兄は、
「税吏より宰相が、宰相より天子が、天子より神が、神より仏が・・・尊いのだ。その中でも大日如来が最も尊い」
と答えます。それが切っ掛けとなって、覚ばんさんは大日如来を求める決意をしたのです。
その後、間もなく父親が亡くなります。母は、4人の子供を連れ、地元の寺で子供とともに出家します。こうして、覚ばんさんは、希望通り僧侶の道を歩むこととなったのです。

藤津荘は、京都は仁和寺・成就院の寺領でした。その縁で、覚鑁さんは13歳で京都に上り、成就院に入ります。成就院の寛助大僧正の弟子となったのです。しばらくは、見習い僧(シャミといいます)をしていましたが、16歳のとき正式に出家を認められ、覚鑁という名をいただいたのです。
4年ほど、京や奈良の各寺院で仏法を学びますが、大日如来を求める気持ちが抑えられず、20歳のとき、高野山へ登りました。
高野山へ登ったその日、覚鑁さんは青蓮上人という僧と出会います。この青蓮上人は、高野山の念仏道場にいる上人で、のちに各地で見られる高野聖のトップにいた僧侶でした。その上人さんに覚鑁さんは、
「私の草庵にきなさい」
と誘われます。青蓮上人も初めて会った覚鑁さんに、並々ならぬものを感じたのでしょう。また、そのような高僧に出会う覚鑁さんも、幸運の星の下にあったのでしょう。覚鑁さんは、青蓮上人の誘いに従い、しばらくの間、上人の下で密教と浄土を融合した教えを学ぶのです。
翌年、覚鑁さんは青蓮上人のもとを離れ、最禅院の明寂に師事します。とはいえ、青蓮上人と縁を切ったわけではなく、二人から教えを受けたのでした。
修行は厳しく、27歳になるまで、8回もの伝法灌頂(でんぽうかんじょう、阿闍梨・・・あじゃり・・・となるための灌頂。普通は一回しか受けない。私も一回受けています)を受けています。また、その翌年には、8回目の虚空蔵菩薩求聞持法を成功させています(とんでもない苦行です。私は行っていません。そんな大変な修行は・・・・できませんよ)。
覚鑁さんは、厳しい修行を精力的にこなしていったのです。それもひとえに、大日如来に近づくため・・・・だったのでしょう。このような覚ばんさんだったので、若くして頭角を現してきたのです。

当時の高野山は、三つのグループに分かれていました。これを「高野三方(こうやさんかた)」といいます。その三つのグループとは、
@学問を中心に修行をする学侶(がくりょ)
A山岳修行を含め、主に実践行を修行する行人(ぎょうにん)
B高野山はこの世の浄土であること、弘法大師の救済を広めることを担当した聖(ひじり)
です。この三つのグループは平等ではなく、支配的立場にあったのは、学侶でした。学侶たちは、本山の金剛峰寺を中心に勢力を誇っていました。
一方、覚鑁さんは、聖系に属していました。というより、聖たちから大いに慕われていたようです。覚ばんさんも、お堂に閉じこもって密教学にばかり励んでいる僧侶たちとは、合わなかったのでしょう。32歳のとき、高野山を世に知らしめるという発願をしました。
当時、朝廷は比叡山の強大な力で抑えられていました。また、全国各地には阿弥陀浄土の教えが急速に広まり、もはや高野山や弘法大師は、忘れられたかのような存在になっていたのです。そこで、覚鑁さんは、高野山を、密教をもっと世に広めるため、高野山内に新しいお寺を造ることを誓ったのです。
朝廷に新しい寺を作る許可を願い出ること数年。覚鑁さん、37歳のときにようやく鳥羽上皇からの指示で認可がでます。
翌年には新寺は完成します。それは大伝法院と密厳院(みつごんいん)という名の寺でした。その年の10月には鳥羽上皇を高野山に迎え、盛大な落慶法要を営みました。

当時の真言宗には、色々な流派がありました。覚鑁さんは、それらをすべて学び、各流派を一つにまとめ上げ、伝法院流と言う流派を創設しました(ちなみに今の高野山は中院流です)。また、大日如来は如来の中でも最上位にあるのだから、阿弥陀如来の西方浄土は、大日如来の密厳浄土(みつごんじょうど)に含まれているのだ、と聖たちに説き、浄土の教えは密教の中に含まれていることを教えたのです(今では、これは当然の教義です。大日如来の浄土は宇宙そのものです。ですから、その中に阿弥陀浄土や薬師浄土、娑婆浄土などの浄土が存在しているのです。密教はすべてを包括するのですね)。こうして、浄土信仰に対抗できるよう聖たちを鼓舞したのです。

覚鑁さんを支持する僧侶は爆発的に増えていきました。その勢いは、本山である金剛峰寺の勢力を上回るほどだったのです。覚鑁さんの勢いはとどまらず、40歳のとき、朝廷より金剛峰寺の座主(ざす・・・代表のこと)をも命じられます。大伝法院と兼職になったわけです。
面白くないのは、もともと金剛峰寺にいた学侶たちです。自分たちの実力のなさを棚に上げ、覚鑁さんの足をひっぱることを画策しだしたのです。出る杭は打たれる。まさにその言葉の通りなのですね、いつの時代も、どこの世界も・・・・。
翌年のこと、金剛峰寺の学侶たちは、覚鑁さんに寺領の領有権について因縁をつけ、争いをしかけたのです。覚鑁さんにとっては寝耳に水のことでした。まあ、学侶たちのやっかみだな、とは当然気づきます。そこで覚鑁さんがとった行動は、金剛峰寺の座主も大伝法院の座主も辞めてしまったことでした。就任してたった二ヶ月ほどのことでした。
学侶たちの行動に嫌気がさした覚ばんさん、自坊にこもり、千日間の無言の行に入ってしまったのです。41歳の時でした。
千日間の無言の行・・・・どれほどのものか想像がつくでしょうか?。私などは、一日無言でいろ、と言われただけで気が狂いそうですね。一言もしゃべってはいけないのです。そりゃあ、つらいでしょう。もちろん、独り言もだめですよ。お経は黙読です。修行法も無言で行います。御真言も心の中で唱えます。それは・・・・無理ですよね。ついつい言葉が出てしまいますからね。それを覚鑁さんは、千日間行ったのです。
この千日間の無言の行の間に、覚鑁さんは「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげもん)」という懺悔の文を作ります。

一方、学侶たちは覚鑁さんが自坊に籠ったことをいいことに、大伝法院や密厳院を破壊するという暴挙に出ます。また、覚鑁さん方についていた僧侶たちを、こともあろうに殺害するまでに至ったのです。覚鑁さんは、弟子たちや覚鑁さんの支持者たちに一切抵抗しないよう命じました。そして、このままでは益々高野山が荒れることを憂い、千日間の無言の行を終えると、さっさと高野山を下り、根来の地に向かったのです。
根来には、覚鑁さんが神宮寺を造っておりました。そこへ多くの弟子(約700人ともいわれている)とともに移り住んだのです。これが、のちの新義真言宗の本山、根来寺となるのです。
覚鑁さんは、根来の地で新たなる真言宗を広めることを決意したのです。それは、高野山の僧侶に絶望したからなのかもしれません。
鳥羽上皇は、そんな覚鑁さんに、高野山へ戻ってはどうか、と促しますが、覚鑁さんは頑なに断ったのです。その時の気持ちを和歌にして詠んでいます。
「夢の中(うち)は 夢もうつつも 夢なれば 覚めなば夢も うつつとをしれ」
よほど、高野山での学侶方の行為がショックだったのでしょう。寺を打ち壊し、僧を殺害するという姿が信じられなかったのかもしれません。そんなむごい世界に覚鑁さんは、当然ながら帰ることはできなかったのです。

しかし、覚鑁さんには、新たなる夢がありました。根来寺を拠点として密教と浄土を融合した教えを世に広めることです。しかしながら、その夢は道半ばで次の者たちに託されました。高野山を下りて4年後のこと、根来寺の円明寺にて風邪をこじらせ亡くなっています49歳という若さでした。550年後、興教大師(こうぎょうだいし)という名を贈られています。

さて、新義真言宗ですが、根来寺のほかに京都の智積院を本山とする智山派(成田山や川崎大師も智山派です)、奈良の長谷寺を本山とする豊山派などがあります。
現在では、真言宗は、高野山や東寺などの古義真言宗と合わせると、18の本山に分かれています。関東は新義真言宗が多いようですね。

また、「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげもん)」は一度は読んでみるといいと思います。
「人間って・・・・本当だめだなぁ・・・・」
という、深いショックを受ける内容です。日ごろの罪とがを懺悔するには、いい文です。この機会に、根来寺に足を運んで、日ごろの反省をするのもいいかもしれませんね。
以上、覚ばんさんでした。合掌。


仙 香iせんがい)

今回は、再び江戸時代に戻ります。江戸時代の名僧というか怪僧というか、ともかく奇抜な禅僧であった仙香iせんがい、1750〜1837)さんのお話です(PCによっては仙香E・・せんがい・・・さんの「がい」に当たる文字が表示されないことがあります。ご了承ください)。
仙高ウんは、美濃国武儀郡武芸村高野(みのこくむぎのこおりむげむらたかの・・・現:岐阜県武儀郡武芸川町)の山番の子として生まれました。家は貧しく、身分は低い家柄です。山番とは、山の管理をする仕事です。雑木を刈ったり、雑草を取り除いたりして山を守る役目ですね。仙高ウんは、幼少のころより父親について山へ行き、管理を任されている山のそばにある清泰寺(せいたいじ、岐阜県美濃市、臨済宗)の境内地で絵を描いたりして遊んでいたそうです。幼いころから反発心が強く、特に畑を荒らす武士は大嫌いだったようです。
清泰寺の第十世住職の空印は、そんな仙高ウんに非凡な才能があることを見抜き、仙高ウんは11歳のとき寺に連れて来られ出家します。その時与えられた名前が義梵(ぎぼん)でした。
それから8年ほど空印のもとで禅の修行に励みますが、19歳のとき空印の勧めで武州永田(現:横浜市南区永田町)の東輝庵(とうきあん)に隠棲していた月船(がっせん)禅師のもとに参禅します。当時、月船禅師は高名な禅僧で、多くの弟子が集まってきていました。弟子の多くは裕福な家の出身で東輝庵近辺の下宿屋に寄宿して月船禅師のもとへ通いましたが、仙高ウんのような貧しい家柄の者は近所の牛小屋や物置を借りて寝泊りしていたそうです。
仙高ウん、東輝庵にて長く修行しました。月船禅師のもとに通い始めて13年が過ぎようとしたころ、月船禅師が亡くなります。
「師からはすでに印可は受けているが・・・・。まだまだだからなぁ・・・・」
仙高ウんは、月船禅師から印可を受けていたので、すでにどこの住職にもなれる位を持っていました。しかし、自分の禅に満足できず、師の死をきっかけに旅に出ます。仙高ウん32歳の夏のことでした。

鎌倉は円覚寺に学び、江戸で遊学し、そこから松島へ流れ、北陸の寺を巡りながら琵琶湖周辺の寺院を巡って、美濃の清泰寺に戻ってきました。清泰寺を離れてすでに20年ほど時は流れ、仙高ウんも38歳となっていました。
しばらく清泰寺にとどまりますが、大垣(おおがき、現:岐阜県大垣市)の小さな無住の寺(住職のいない寺)に住み始めます。清泰寺の空印から跡をついで清泰寺の住職になるよう推挙されますが、檀家たちが
「身分の低い山番の子に、清泰寺の住職をさせるわけにはいかん」
と反対をします。これには仙高ウんカチンと来たようですが、師の空印の手前、大人しく引き下がったのです。しかし、その怒りは別の方面に現れました。
そのころ大垣藩の政治は乱れ、民衆は苦しんでいました。仙高ウんは、そのことを戯れ歌を書いて批判したのです。それがこの歌です。
「よかろうと 思う家老が 悪かろう もとの家老が はやりよかろう」
(いい家老だと思っていた家老は実は悪い家老だった。前の家老が良い家老だったのだ)
大垣藩の現家老の批判ですね。このことがきっかけとなり、仙高ウんは美濃国追放となります。そこで仙高ウん、こんな国はさっさとおさらばさ、と言わんばかりに
「唐傘を 広げて見れば 天(あま)が下 身はぬるるとも 蓑は頼まじ」
(傘を広げて見れば空が見えるような破れ傘で身体は濡れるが、蓑は身につけない・・・・どんな境遇にあっても美濃は頼らないぞ)
と一句を残して美濃を出て行ってしまいます。このころから仙高ウんの本領が発揮されるのです(美濃の国は、大変な損失をしたのです。人が見えない者が上に立つと世は乱れ、民は苦しみますね、いつの時代も)。

その年の11月には京に滞在していました。美濃を出て間もなく師の空印は没しています。かといって美濃に帰る気もなく、暇を持て余していたころ、博多の聖福寺(しょうふくじ、福岡県福岡市の古刹)から手紙が届きます。それは月船門下で仙高ウんとともに修行をしていた太室玄昭(たいしつげんしょう)が書いたものでした。玄昭は大宰府の観世音寺の住職をしていたのです。それはこのような内容でした。
「聖福寺は栄西禅師が開いた日本最古の禅寺である。その寺がお前を住職に迎えたいと言っている。博多は明るくて活気に満ちた街だ。一日も早くお前が来ることを待っている」
といったものでした。
翌年の4月、仙高ウんは博多の地にいました。しばらくは、玄昭の世話になり、博多周辺を散策していました。そして翌年、仙高ウん40歳のときに聖福寺第123世住職となるのです。美濃は大きな禅師を手放したのですねぇ。仙高ウんの人柄を見抜けなかったのですねぇ。駄目ですねぇ美濃。

仙高ウんは住職となったからと言ってのんびりと過ごす人ではありませんでした。もちろん、威張る人でもまりません。近在に大蔵経(すべてのお経を網羅したお経)があると聞くと、おにぎりを持って早朝から経蔵に籠り、すべてを三回読破したのでした。
また、このころから仙高ウんの書画が世間に評判になってきたのです。
仙高ウんは、子供のころから絵を描くのが大好きでした。その作風は飄々として、人を和ませるものでした(出光美術館に多数あります)。それが世間の人々に受けたのです。
博多の土地柄か、また仙高ウん人柄なのか、おそらくは両方なのでしょう、人々は明るく気軽にお寺にやってきます。寺にやってきては何かと相談ごとや愚痴をこぼしていくのです。仙高ウんは博多の人々に慕われていました。
そんなエピソードがたくさんあります。有名なところを紹介しましょう。
*エピソードその1
ある元旦の朝のこと、寺に男が駆け込んできました。
「和尚様大変だ。となりの夫婦が大喧嘩している。なんとか止めてください」
「ほう、ケンカの原因はなにかね?」
「女房が元旦の雑煮を煮過ぎて餅をトロトロに溶かしてしまったんですよ。で、旦那が怒って鍋をひっくりかえしてしまったんでさぁ」
「ふむふむ、そうか。ならばケンカを治める妙薬を作って信ぜよう」
仙高ウんそういうと、富士山の絵をさらさらと書き、賛をつけました。
『富士の白雪 朝日に溶ける、今朝の雑煮は煮て溶ける、夫婦喧嘩は寝て解ける』

*エピソードその2
ある年の夏、博多はコレラが大流行しました。しかも、かぼちゃを食べるとコロリ(コレラ)に罹るという噂がたち、かぼちゃが売れなくなり農家や八百屋は大変困っていました。聖福寺に出入りしている八百屋や農家も大弱りでした。
「和尚様、何とかならないですかねぇ」
「それは気の毒な・・・・カボチャを食べてもコロリにはならぬのになぁ・・・・。う〜ん、よしわしが何とかしてあげよう。あすの朝早くにかぼちゃを全部門前に運んでおきなさい」
仙高ウんそういうと、翌朝の早くから小僧に手伝わせ施餓鬼棚を急造しました。で、かぼちゃが届くと早速かぼちゃの中身をくりぬき、中にローソクを立てました。小僧たちにもそうさせました。そして、立派な衣と袈裟を身につけ
『コロリ除け祈祷かぼちゃ、大売り出し』
と大書して門前に並べたのです。かぼちゃは飛ぶように売れたのでした。そのかぼちゃは、お盆の迎え火と送り火に使用され、お盆の終りには火をともし川に流されたのだそうです。

*エピソードその3
ある秋の日、武家屋敷から仙高ウんのもとにお使いがきました。茶を一服差し上げたいので来てほしいとのことでした。仙高ウん、かたじけない、すぐに参りましょうと使いの者につき従って武家屋敷に向かいます。
武家屋敷では、街で評判の仙高ウんを試してやろうと黒田藩の若侍が数名待ち構えていました。実は床下に鉄砲を持った若侍が一人潜んでいたのです。鉄砲の音でびっくりさせて笑ってやろう、という算段だったのです。そうとは知らず仙高ウん、座敷に上がり茶を飲みますな。
「結構なお手前で・・・・」
などとかしこまって言っているとき、鉄砲のパーンと大きな音がしますな。しかし、仙高ウん平然としています。それどころか、「おかわりを・・・・」などと図々しいことを言いますな。仕方がなく武家屋敷の者は、もう一服茶をたてます。仙高ウん黙って茶を飲み干すと
「御馳走はこれで終わりですかな。そうですか。では拙僧も返礼をせねば・・・」
というと、立ち上がって侍たちの前に尻を向けると
「ぶ〜」
と思いっきり屁をこいたのですな。
「ではもう一服のお返しを」
驚いて目を白黒させている武士たちに向かって、もう一発屁をかましたのです。で、悠々と帰って行ったのだそうです。

その話を聞いた黒田藩の家老、仇を取ってやろうと仙高ウんを食事に招きます。食事の席には大勢の武士たちが座っています。その中で家老が仙高ウんに問いかけます。
「和尚は絵が上手とか。苦手な絵はありますか」
「いや、下手な絵ですが、その代わり何でも描きます」
「ほう、何でもとな・・・。では太鼓と笛の音を絵に書いてください」
家老の注文に周囲の武士たちはニヤニヤしながら囁き合いますな「それは無理だろう、いくらなんでも・・・」と。
が、仙高ウん座敷の真中に進み出ると「墨と紙を」と言いますな。で、さささ〜っと描き上げます。その絵は紙の上半分に大きな太陽が書かれ、下にはヤリが一本太陽を突き刺すように描かれていました。
「ど、どういう意味じゃ。音が聞こえて来ぬぞ」
家老が意地悪く言いますな。仙高ウん、少しもあわてず
「わかりませんかな。天突く天突く(テンツクテンツク)、冷やり冷やり(ヒーヤリヒーヤリ)」
太鼓の音はテンツクと表現されます。また博多では笛の音は「トッパイヒーヤロヤロ」と言ったそうです。

*エピソード4
黒田藩藩主の黒田斉清(なりきよ)は、花を愛でるのが好きでした。特に庭にある梅と菊は斉清の自慢でした。
その菊が見事に咲いたある秋の日のこと、一人の若侍が過って菊を数本折ってしまったのです。報告を受けた斉清は激怒し
「手打ちじゃ!、そのものは手打ちじゃ!、明日の朝、手打ちに致す!」
と、若侍の手打ちを決めてしまいます。
この話を聞いた仙高ウん、その夜カマを持って城に侵入し、斉清の菊園に入って、すべて刈り取ってしまったのです。見張りの者が叫びます。
「殿、曲者が菊を刈り取っています!」
怒り狂った斉清、「成敗いたす〜!」と刀をとって駆けつけます。で、捕まっていた曲者を見てびっくり。
「せ、仙腰a尚殿・・・・これはいったい・・・・」
菊園の前には、ぬぅっと首を差し出した仙高ウんが座っていたのです。
「あぁ〜、こりゃまいった。わしの負けです。わしは軽率でした。もう少しで世間の笑い物になるところでした。たかが菊で人の命を奪おうなどとは・・・・。いやはや和尚には感謝いたす。わしの目を覚まさせ、家来の命を救ってくれた和尚にお礼がしたいのだが・・・」
そういう斉清に、仙高ウん図々しくも
「そうですか、ならばそこの梅の木をくださいな」
これには流石の斉清も二の句が告げられませんでした。その梅は「雲井の梅」と呼ばれ、斉清がたいそう大事にしていたものだったのです。あんぐり口をあいたままの斉清に向かい仙高ウん、追い打ちをかけます。
「そこに咲いていると、いつまた拙僧が切りに来るかもしれんしのう。聖福寺の庭にあれば、切られることもありますまい。いやなに、梅が咲くころにはいつでも寺においでくだされば結構じゃ。お茶なともてなしましょう」
「いやはや和尚には・・・・どうぞお持ちください」
こうして聖福寺の庭に雲井の梅が植わったのです。

まだまだ沢山あるのですが、次の話を最後にしましょう。
このような仙高ウんでしたが、その仙高ウんにも悩みがありました。それは弟子の湛元(たんげん)のことです。湛元は優秀な弟子でした。のちに博多の俗謡に「一に仙香A二に竜門、三四がなくて五に湛元」と謡われたほどの高僧になります(竜門は博多・承天寺の住職で書で有名だった)。その湛元が若かりしのこと・・・・。
学問でも善でも優秀な湛元でしたが、仙高ウんを悩ますことが一つだけありました。それは湛元の夜遊びです。毎晩のように塀を乗り越え遊郭に遊びに行っているのです。
「如何としようものかのう・・・・」
と悩んでいた仙高ウんでしたが、ある日のこと、独楽遊びをしてる子どもたちの
「和尚、見て見ておいらの独楽、座って透き通っているよ」
という声にハタと気がつきます。
「そうか、わしがブレずに座ればいいのじゃ。透明になればいいのじゃ」
と思い至ります。その夜のこと、塀をくるりと回り湛元が乗り越えそうなところを探しだしました。そこには、ちょうどいい足場になりそうな石があったのです。仙高ウん、その石をどけ、自分がそこに座りました。
闇が辺りを包み、境内は真っ暗です。鼻をつままれても分かりません。その暗闇の中、足音が近づいてきました。その足音は遊郭に向かおうとしている湛元です。そして、じ〜っと座っている仙高ウんの頭に足を乗せたのです。そのとたん、石だと思っていた足場がグニャっとします。
「あ、あれ?、石じゃない・・・・あーっ!」
「石じゃないわい、人間じゃ、あたたたた・・・・」
その叫び声を聞いて寺男がたいまつを持って駆けつけました。湛元はというと、いつの間にか逃げていました。
「お、和尚さん、どうなさったね、頭から血が・・・・いったい何をやっているのやら。変わり者の和尚さんとはよく言ったものじゃ」
「いやはや、独楽になるのは難しい。あたたたた・・・、あはははは」
その後、湛元は遊郭通いをピタッと止め、修行に励んだそうです。

62歳となった仙高ウん、聖福寺の住職を湛元に譲り、自分は聖福寺の裏にある小さな庵・虚白院に隠居したのでした。しかし、隠居してからも訪れる人の絶え間はなく、忙しい毎日を送っていたのです。その人たちは、食べ物や野菜、生活品などを置いていく代わりに紙を持ってきました。仙高ウんに絵を描いてくれ、というのです。仙高ウんの絵はたいそうな値で売れ、男どもにとっては酒代になったのです。仙高ウんは、当然そのことを知っていましたが、快く庵を訪れる人たちのために絵を描き賛をつけました。その中の一つにはこのような賛があります。
「うらめしや わが隠れ家は雪隠か 来る人ごとに紙置いてゆく」
嫌みを言いつつも楽しんでいる仙高ウんが思い浮かびますよね。
また、仙高ウんのニセモノの絵を作る者もあらわれました。ある日のこと、仙高ウんの庵にその贋画を持ってきた人がいました。それを見た仙高ウん
「おぉ、うまく描けておる。いかんせん、足りないものがある」
といって、仙高ウんの落款を押したのです。これでその贋画は本物になってしまいました。それ以来、その贋画を描いた本人が仙高ウんの庵を尋ねるようになったそうです。仙高ウんの庵は毎日、いろいろな人が訪れ賑わっていたのです。

そんな平穏な日々を過ごしていた仙高ウんですが、その晩年に大きな問題が起きます。弟子で聖福寺の住職だった湛元が強引な寄付金集めがもとで、流罪になってしまったのです。仙高ウん87歳の時でした。仕方がなく仙高ウんは聖福寺の住職に復帰します。が、その年の9月に病で倒れます。病は回復せず、10月7日、
「墨と紙を・・・」
というと
 来時知来処  (来る時 来る処を知る    生まれ来るときに生まれ来るところを知る)
 去時知去処  (去る時 去る処を知る    死に際して去るときに去るところを知る)
 不撒手懸崖  (懸崖より手を放さざれば   とはいえど、一度崖から手を離してみなければ)
 雲深不知処  (雲深くして処を知らず     深い雲の下はわからないものだ)
と書き、息を引き取りました。その4年後、仁孝天皇は「普門円通禅師」の名を贈り、仙高ウんを讃えました。

このような仙高ウんを端的に表している話があります。私はこの話が大好きです(まあ、仙高ウんの話はどれも好きなのですが・・・。私はきっと前世のその前世のその前世の・・・どこかで禅宗のお坊さんだったのかもしれません。禅の話がしっくり耳にはいってくるんですよねぇ・・・・)。それを最後に紹介しておきましょう。
ある日のこと、弟子たちが大勢で考案の修行をしています。あぁでもない、こうでもない、と臨済宗のテキストである問答にチャレンジしているのですね。喧々諤々、俺はこう思う、否それはこうだ・・・とやっているわけです。そこへ現れた仙高ウんに弟子たちが
「この考案はこうですよね」
「否、違いますよね」
と言いよってきます。すごい形相をしている者も中にはいますな。鬼気迫るといいますか、真剣そのもの。気合が入り込み過ぎ、という状態です。で、仙高ウん、その場に座り込むと紙と筆を用意させ、大きく書きます。
『○△□』(正確にはこれが重なっています。確か、出光美術館にあると思います)
で「これじゃ」と一言残してその場を去っていきます。今まで考案の回答に騒いでいた弟子たちはそれを見て
「どういう意味なのだ・・・・」
と考え始めますね。新たな考案ができたおかげで静かになったとか・・・・。
仙高ウんらしい話だと思います。答えはいくつもあるでしょう。それぞれ自由に考えてくださって結構だと思います。しかし、この○△□により、一同は頭を冷やすことができたのではないかと思います。ヒートアップした頭では、いい考えは浮かびません。そんな状態では解決できることも解決できません。答えはいろいろ、○があってもいいし、△があってもいい、□があってもいい。あるいは、○のような人がいていいし、△の人がいていい、□の人がいていい。または、何も意味がなくただ単に○△□なのかもしれない。カチカチにマジメ一辺倒ではなく、リラックスするのも大切でしょう。
仙高ウんの賛にこのようなものがあります。
「学者の学者くさきはなお忍べるが、仏の仏くさきは忍ぶことができない」
学者が学者然としているのはまだ耐えられるが、坊さんが坊さんくさいのは耐えられない、という意味です。
仙高ウんは如何にも坊さん、如何にも住職、となることを嫌っていたようです。いつも世間の人々とともにあり、何ものにも染まらず、風の如き、雲の如き、水の如きに生きたのでしょう。それが仙高ウんの禅風だったのでしょう。
何ものにも染まらない、何ものにも偏らない・・・・。禅の境地ですよね。
こんな生き方ができたら、楽なんだろうな・・・・と思います。
以上、仙高ウんでした。合掌。


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