ばっくなんばぁ〜



NO1、水場を清する者は運を制する
この開運法は、最も基本の開運法です。これは、簡単に言えば、家の中の水場を清潔にせよ、ということです。つまり、「あなたの家の中の水場−お風呂、トイレ、洗面所、台所−を清潔にしておけば、開運できますよ。」ということなのです。水場を清潔に保てば、運を制することができるんですね。
それは、なぜなのか・・・・・。

水場というのは、家の中でも汚れやすいところです。また、人間の汚れを落とす場所でもあります。こういうところを汚くしておくと、それは運を落とすことになります。なぜならば、不潔を「魔」が好むからです。
運をよくしようと思うのならば、幸運の神様に宿ってもらうのが最も手っ取り早いですね。それには、清潔にしておかねばなりません。幸運の神様というのは、不潔を嫌うからです。逆に、不運の神−貧乏神や疫病神−は、不潔を好みます。汚いところが大好きなんですね。だから、汚れを落とす場所であるお風呂やトイレを特に好みます。そういう場所が、掃除していないと、喜んで不幸の神はやってきます。
不幸の神様に宿られたら大変ですよね。何をやっても不幸になってしまいます。
そうならないためには、水場を先ず清潔にしておくことです。そうすれば、不潔が大好きな不幸の神もよりつけなくなるでしょう。そして、幸運の神に宿ってもらうのです。
運をよくしたいのなら、清潔第一。不潔にしておくと運が悪くなりますよ。特に水場はね。



NO2、家相をあなどってはいけない
何をやっても運が悪い、うまくいかない、そういう方は、一度、今住んでいる家の相が悪いんじゃないか、疑ってみてください。意外と家相と言うのは影響を及ぼすんです。
うちの寺に相談に来られる方は、何らかの不幸を抱えています。それは当然で、悩んでいなければ相談などには来ませんからね。そういう方達の中で、家相の悪い方が結構いらっしゃるんです。

昔から、鬼門に注意しろとか、仏間を西に持っていけ、などと言われますよね。これって、決して迷信ではなく、本当に注意しないと、やっかいなことになるんですよ。特に水場の位置には注意が必要ですね。
最近では、家相を気にせず、便利さを追及した家が多くなっていますが、これが案外、後から結構苦労されることになるんですよね。あぁ、家のあの部分がいけなかったのか・・・・ってね。

ところで、家相が悪いと指摘されたら、これはどうすればいいのでしょうか。家を建て直すのにも、リフォームするのにもお金がかかってしまいます。賃貸ならば、いじることもできません。困ってしまいますよね。
でも、ご安心下さい。悪い家相の災いを防ぐ御札がちゃんとあるんです。その御札を家相の悪い部分にはれば、その影響は抑えられるのです。先人の智慧は素晴らしいものです。御仏の力は、たいしたものです。災いを避けることができるよう、救ってくださいますからね。
で、家相が悪い、と言われたなら、その災いを排除する御札を張ってください。そうすれば、家を建て直すことも、リフォームする必要もありません。引越しすることもありません。

尚、家相が悪いかどうかは、専門家にご相談ください。ご自分で判断なさらぬようにしてくださいね。自己診断は、間違いの元となりますので。また、家相を見てもらうときは、家の図面に正確な方位を書き入れることを忘れないようにしてください。



NO3、名前を変えれば運勢も変わる
これも家相とよく似ています。名前はその人の運勢に大きく影響しています。昔から、「名は体を表す」ともいいますからね。それに、最近でも、商品の名前を変えたら売れ出した、なんてこともありますし、芸能人などでも、改名したら売れた、ってことも聞きますよね。名前は重要なんですよ。

やはり、うちの寺に相談に来られる方の多くは、名前があまりよくありません。名前がよくない、というと誤解が生じやすいのですが、名前そのものが悪いのではなくて、名前の字が苗字と合っていない場合が多いんですね。バランスが取れていないんです。画数ももちろんそうですが、それだけではないんです。
そうそう、姓名判断って、よく名前の文字の画数だけで判断される方が多いようですが、実は、それだけではないんですよ。画数だけでは判断できないものなのです。陰陽や字のバランス、意味合いなどなど、様々な要素が絡み合って、判断されるものなのです。ですから、安易に画数だけで見ないで下さいね。
さて、名前がよくない、と言われてしまったあなた、どうしますか?。名前を変えますか?。

しかし、今まで慣れ親しんできた名前を、あっさり捨てられますか?。まったく知らない名前にころっと変えられますか?。
普通、抵抗ありますよね。親につけてもらった名前ですしね。そう簡単に変えるわけにはいかないですよね。たとえば、めぐみさんが、今日からけいこさんになるなんて、ちょっと変ですよね。その人の周りの人も「そりゃ変だ」と思うでしょうし、付き合いもやりにくいでしょう。
そこで、私の場合は、文字のみを変えることにしています。「めぐみ」さんは「めぐみ」さんのままで、「けいこ」さんは「けいこ」さんのままで、読み方を変えずに、文字のみを運のいい、苗字にあった、バランスの取れた文字に変えるのです。そうすれば、読み方は変わらないですから、違和感は少ないでしょう。

それだけで、本当に運が改善されるのか?。そう思われる方もいるでしょう。
大丈夫です。それだけで、意外と運が変わってくるものなのです。その新しい文字に慣れれば慣れるほど、その文字が廻りの人々に浸透すればするほど、運は変わっていきます。
名前の文字を変えた方は、ある日、ふと思うでしょう。「あれ、最近、結構運がいいよな。なんか、うまく行っているよな」って。そういうものなのですよ。ですから、名前を変えた日から、急に運がよくなる、というものではありません。徐々に徐々に、変わっていくものなのですよ。

尚、名前の文字を変えても、戸籍は変わらないです。最近では、改名したことを証明できるもの−手紙とか−を数年間ためておいて、その文字しか、周りが本人と認めてくれないくらいになると、戸籍も変えられることもあるでしょう。まあ、戸籍まで変える必要はないですが。



NO4、自分に合った道を早く見つけよ
会社でちっとも芽が出ない、仕事をしていてもなかなか覚えがよくない、よく失敗をする、仕事運が悪い、という方・・・・。そういう方は、その仕事が自分に合っていないのではないか、ということを疑った方がいいですね。合っていない仕事につくと、努力してもなかなか芽が出ないものです。逆に合っている仕事を持てば、ほんの少しの努力でも実力が発揮できるようになりますし、出世もできるものです。

勉強でもそうですね。向き不向き、というものはあるものです。私自身そうでしたからね。初めは理系の大学に進みましたが、どうもこれが合っていないようでした。成績も悪かったし、学校にも興味を失っていました。ところが、高野山大学に行くと、これがそんなに勉強しなくても、わかってしまうんですね。
否、自慢しているわけじゃないですよ。実際に、理系の大学時代は、超落ちこぼれでしたし・・・。それが、全く違う分野では、成績優秀になってしまうのですから。(自慢しているわけじゃないです。)
合っている場合は、そんなものなのです。合わなければ、努力しても、なかなかうまく行かないものなのです。

ですから、どうせ進むのなら、あなたに合った道を早く見つけたほうがいいのです。そうすれば、勉強も仕事もそんなには苦労しなくても済むでしょう。何も、無理して合わない道に進むことはないのです。
たとえば、進学でもそうです。大工さんになれそうないい腕を持っているのに、大学に進むことはないのです。素晴らしい美的センスを持っているのに、何も大学へ行くことはないのです。その人の才能を活かすことができる道があるのならば、早くにその道を歩かせればいいのです。身につけるべきは、社会常識やマナーであって、役に立たない授業なんて必要ないのです。才能がいまだ見つからない、進むべき道がよくわからない方のみが、大学へ進めばいいのです。

ここで気をつけて欲しいのは、合っている道と好きな道は異なることがある、ということです。たとえば、弁護士を目指して勉強している方がいるとします。その方は、弁護士という職業が大好きなんですね。でも、その人に合っていないがため、なかなか司法試験に合格しない・・・・・。
こういう話、聞きませんか。好きであっても、合っていなければ、うまく行きにくいものなのですよ。合っていない道にとらわれると、結構悲惨かも知れませんね。

どんな道が合っているのか・・・・。それは、占いでもわかることです。もし、あなたが気になるようでしたら、占ってもらうのもいいのではないでしょうか。早く、合っている道を見つけるといいですね。



NO5、笑顔で接すれば、幸運を招く
これはおわかりでしょう。笑う門には福来る、って昔から言いますものね。仏頂面していては、皆逃げていってしまいます。人が逃げる、人が避ける、ということは、幸運も逃げていく、幸運も避ける、ということです。人に嫌われたりすれば、運にも嫌われる、ということですね。
ブスッとしていれば、周りの人も嫌がるでしょう。にっこり微笑んでいれば、自然と、周りに人が集まってくるでしょう。愚痴ばかり言っていると、周りもいやな顔をするでしょう。泣いてばかりいると、周りがうんざりするでしょう。たとえ、つらいことがあっても、にっこり微笑んでいれば、自然に心も軟らかくなってくるものです。
笑顔で他人に接することを、仏教では「和顔施(わがんせ)」といいます。これは、一つの布施の修行でもあります。笑顔で、柔和な顔で他と接すれば、それは、周りの人の心をほぐしてくれるでしょう。逆に、ムスッとしていれば、周りの人を不快にさせます。ですから、笑顔で接することは、人に幸福感を与えていることになるのです。そうすれば、それは、やがて自分の所に幸福となって返ってくることでしょう。
ですから、笑顔で接すれば、幸運になっていくのですよ。



NO6、守護霊を強くすれば幸運となる
今まで紹介してきた開運法をやっても、何だか今一つ運がよくない、なかなかうまく行かない、という方は、守護霊が弱っているのではないでしょうか。
守護霊?、というと、信じない方もいますが、信じたほうがいいですよ。運をよくしたいのならね。
守護霊、というから胡散臭くなるのかもしれませんね。背後霊、というともっと怪しい。ご先祖様、と言えば、納得してもらえるかもしれませんね。

そうです、あなたを守護し、あなたが幸せになれるよう、導いてくれるのは、ご先祖様なのです。それを我々は、一般的に守護霊、と呼んでいるのです。つまり、守護霊というのは、あなたの家のご先祖様、もしくは、あなたに縁のある家のご先祖なのです。
ご先祖といっても、そんなに古い方ではないでしょう。何百年前、なんてことはないです。もちろん、極最近亡くなった方だけ、と言うことも無いです。たいていは、複数ですから。その家の先祖全体で見守ってくれています。

その中でも、あなたに大変縁の濃いご先祖が、中心の守護霊となってくれています。例えて言えば、守護霊たちの主役ですね。その主役の守護霊が力を持っていれば、あなたを導いている守護霊劇団の公演は大成功となるわけです。(これは、たとえ話ですよ。) いわば、あなたは興業主ですね。

興業主であるあなたは、人生と言う舞台を是が非でも成功させたいと願っています。成功するためには、あなたの守護霊劇団が実力を持っていないといけません。特に、主役が肝心です。主役が大根役者なら、興業は失敗。あなたの人生と言う舞台は、ダイナシになってしまいます。
ですから、劇団員であるご先祖、特に主役であるあなたに縁の深いご先祖を鍛えなければなりません。実力をつけてあげないといけないんですね。
そのためには、どうすればよいのでしょうか・・・・。

答えは簡単です。ご先祖の供養をすればいいのです。これが最も効果的で、最も早い特訓です。しかし、いくら先祖供養という特訓をしても、やり方を間違えたりしては、何にもなりませんね。
たいていの方は、「ご先祖の供養をするといいですよ」と言うと、「やってます」とお答えになります。でも、守護霊劇団は、実力を持っていないんですね。だから、運が悪いんです。うまくいかないんです。だから、私のところへ相談に来るのです。これは、守護霊劇団の特訓の仕方が間違っているんです。
「供養してます」という方のほとんどが、自分でお仏壇やお墓にお参りしている、とおっしゃいます。これまで何度も言いましたが、これでは「供養」にはなっていません。ご自分でお仏壇やお墓にお参りするのは、供養ではなくて、ご挨拶や報告などです。中には、仏壇を前にして、愚痴っている方もいますよね。これじゃあ、供養にはなりません。

興業主が、いくら守護霊劇団にゲキをとばしても、「お前に言われたくはないよ・・・・」と言われるのが落ちでしょう。何といっても、劇団員は、あなたのご先祖なのですからね。ご先祖あっての自分の存在なのですから。向うの方が偉いのは、当然でしょう。
やはり、特訓には、「先生」が必要なのです。

その「先生」に当るのが、お坊さんです。お坊さんは、守護霊劇団が実力をつけるための特訓方法を学んだ者です。ですから、どんなに堕落した坊さんでも、一応、特訓方法は知っています。(指導の仕方のうまい・下手はありますけどね。) できれば、上手な特訓をしてくれるお坊さんを選んだ方がいいでしょうけどね。
こうして、お坊さんによる、月一回の特訓を、そうですねぇ、まずは一年ほど続けることです。できれば、その後も続けていくといいのですが。特訓に終わりはないですからね。サボっていると、実力が落ちてしまいますし、ライバルに追い抜かれてしまいます。人生と言う舞台を成功させたい、と願っているのは、あなただけではないですから。しかも、中には、初めから劇団員が実力を持っている場合もありますからね。
また、一回や二回、特訓をしたからといっても、これはダメですよね。いわゆる「付け焼刃」です。本当の実力にはなっていないでしょう。やはり、しばらくは続けないといけません。

そうすれば、あなたの守護霊劇団は、次第に実力をつけ始めます。特に、主役は誰であるかを見てもらい、その方を中心に特訓すれば(供養すれば)、あなたの守護霊劇団は、すばらしい興業を行ってくれるようになるでしょう。あなたの人生と言う舞台を大成功へ導いてくれるでしょう。
あなたが、幸運をつかみたい、開運したい、幸せになりたい、と願うのなら、あなたの守護霊に強くなってもらうことです。それが、あなたの人生を成功させるコツですね。



NO7、自分をよく知れば、運は開く
運が悪い、と感じている方の中には、実は自ら不運を招きいれている方もいらっしゃるんですよ。それが、以外に少なくないんですね。
「あぁ、わざわざ好んで不幸になることも無いのに・・・・・」などと、こちらは密かに思ってしまったりもするのです。

最近は、仕事面において、リストラの恐怖・不景気の恐怖があるからでしょうか、必要以上に仕事を抱え込んでしまい、悩む方が増えているようで・・・・・。そんなに抱え込んでもね、自分の力量以上の事は、なかなかできないものなんですけどねぇ。
と、思って、「もう少し楽になったらどうです。」と言うのですが、そこはどうして、「そんなわけにはいかない。自分ならば、なんとかやり切れると思っているし、上司や周囲の期待もある。」などとおっしゃるんですね。で、結局、大変ダァ、つらいぃ、寝られないぃ、どうすりゃいいんだぁ・・・・と、悩んでいる。

あのねぇ、仕事をやり切れるだけの実力があれば、そんなに悩まないんですよ。普通はね。少しは、正確で冷静な自己評価をしてはどうですか。自分を過大評価すると、疲れるだけですよ・・・・。
仕事だけじゃないですね。多いのは、恋愛関係。自分のことを棚に上げ、「こういう女性はいやだ」、「こんな男性はダメだ」なぁーんて、言わない方がいいと思うのですが。縁があれば、ある程度の妥協は、必要だと思います。

人は、往々にして「自分の事を棚に上げ」ですよね。過小評価しろ、と言っているのではありません。そんな必要はないです。でもね、過大評価はいけません。自分の力量、才能、容姿、器量、性格、その他もろもろを、よぉ〜く観察して、冷静に見極め、よぉ〜く知っておいた方が、人生うまくすごせると思いますよ。
自分の事をよく知っていれば、余分に仕事を背負い込んだり、無闇な夢を抱いたり、折角のいい縁を蹴ったり、なんて事はなくなりますからね。自惚れはいけません。分相応がいいのです。そのためには、しっかり自分を知りましょう。



NO8、神仏に祈願して、運を開け
神仏に祈る、祈願することは、決して悪いことではありません。大いに結構なことだと思います。ご利益を求めて、神仏に祈ることは、決して間違ったことではありません。坊さんの私が言うのですから、大丈夫です。お大師さん(弘法大師空海)も、ご利益を願って祈りなさい、と説いております。
それに、お大師さん自身も
「苦しいこと、辛いことがあったら、南無遍照金剛と唱えよ」
と説いておりますからね。実際に、お大師さんに救われた人々が、高野山を数多く参拝に訪れています。
ただし、祈願には、注意することがあります。それは、祈願と言うのは、願った通りの結果を生む場合と、そうでない場合とがある、ということです。ですから、
「祈願しても、ちーっとも効かない。あんなの意味無いことだ」
と思われる方がいても仕方がないんです。

祈願は、あなたの願っている通りの結果をもたらすとは、限りません。なぜなら、それは、その祈願が祈願をしているその人にとって、本当に利益になるかどうか、それを仏さん側が判断するからです。
たとえば、よくある「恋愛の復活」祈願。
別れた相手との復活を願って、祈願寺なり神社なりで一生懸命祈願をします。しかし、復縁はできず、相手の方は別の人と結婚してしまった・・・・。
「なんだ、一生懸命祈願したのに、効果ないじゃないか。神も仏もあるものか!」
と、祈願された方は思うことでしょう。無理もありませんよね。

でもね、真実は違うんです。仏様は、神様は、「それがあなたにとっていいことだ」、と判断されたのです。ですから、恋愛が復活できなかったのです。復縁できなかったことが、復縁を祈願した人にとって、最大のご利益だったのです。きっと、もっと素敵な方と巡り会えるのでしょう。或いは、復縁を願った相手が、あなたと一緒になると、あなた自身不幸になってしまうのでしょう。
だから、一見効果がなかったように見えるのですが、実は、大変な効果があったんですよ。
たとえば、運が悪くて、いろいろ開運の法をやってみたが、うまくいかない。そこで、神仏に開運祈願をしたとします。それなのに、怪我をしたり、病気になったりした・・・・。そうなると、「なんだ、祈願の効果がないじゃないか、所詮、祈願したって・・・・」、と思うでしょう。
違うんですよ。そういう時は、きっと、祈願をしてなければ、もっとひどい怪我や病気をしていたかも知れないんです。

それは、言い訳、詭弁・・・と思われるでしょう。しかし、人は同時に違う人生を歩むことはできません。祈願しても効果がなかったように思い、「こんなことならば祈願するんじゃなかった」と思っても、祈願しなかった場合どうなったかは、わからないんです。わかりますか?。
「開運の祈願をしたが、ちっとも開運していない」、という現実は、「開運の祈願をしなかった場合どうなったか」という仮定のことと比較はできないのです。開運の祈願をしなかった場合を経験していませんからね。

こんな話があります。あるお寺さんで、ある方が、車のお祓いを受けました。事故の無いように、怪我の無いように、と祈ってもらいました。しかし、その方、そのお寺の帰り道、お寺をすぐ出たところで、車をぶつけられてしまいました。その方、頭に来てお寺へ走って怒鳴り込んでいきました。
「お祓いしたのに何だ!。すぐに事故したじゃないか!。祈願料返せ!」
とね。ところが、和尚さん、ニコニコして言います。
「あんた、あんなひどい事故してるのに、無傷じゃないか。ここまで走って来れたんだから。それがご利益じゃよ。」と。
そのお寺は、山の上。長い坂を登るか、階段を昇らなきゃお寺までこれません。お寺からは、下の道がよく見えます。下の道では、大破した車が二台。普通ならば、亡くなっていた事故でしょう。なのに、山上のお寺まで階段を走ってこられた。これが、仏の利益と言わずしてなんぞや、というわけです。

この考え方が大事なんですね。祈願が効かない、じゃなくて、効いているのです。祈願した状態が、祈願の結果如何に関わらず、今のあなたにとってベストな状態なのです。そういう考え方が、幸福を運んでくるのですよ。
祈願したのに・・・・と歎くのじゃくて、祈願したからこうなんだ、これでいいのだ、という考え方ですね。これが大事なのです。祈願しなかった場合は経験できないのですから、比較しようがないでしょ。
ならば、歎くのではなくて、あるがままを受け止めればいいのですよ。それが、祈願をした場合のご利益の受け止め方なのです。
とはいえ、実際に願いが叶う場合もあります。思ったとおりに事が運んでいく方もあります。それは、そのかたにとって、よいことだからでしょう。祈願とは、その人にとって、叶えてもいいものかどうかは、仏様側、神様側がちゃんと判断するものなのですよ。

また、やたらあちこちの神社へ祈願に行く方がいますが、あまり関心はしません。できれば、祈願に行くところは、統一したほうがいいでしょう。札所めぐりや、七福神めぐりは別ですけどね。神様は、浮気を嫌いますからね。あちこちのお守りや御札をごっちゃにしないほうがいいですね。
よく、占いなどで、「今日はここへお参りに行きなさい」、「明日はここへ行きなさい」、「○月×日は、どこそこへお参りに行きなさい」なーんてのがありますが、それはナンセンスです。
なぜなら、神様の場合、仏教系の神様と日本古来の神様があるからです。それを混同して、脈絡も無くお参りしてもねぇ・・・・。神様には、得意分野があるでしょうし。
たとえば、商売繁盛や芸事・才能の向上などは、弁天様がいいでしょう。農業などの豊穣にはお稲荷さんが最適です。厄除けならば帝釈天。恋愛ならば聖天様とかね。これらは、仏教系ですね。
学業成就ならば天満宮がいいですね。これは、日本古来の神様。菅原道真ですからね。神社ならばどこでもいい、ってもんじゃないですよ。

その点、お寺は、そんなことはないですね。仏・菩薩は、心が広いですから、来るものは拒まず・去るものは追わず、ですから、どこのお寺や神社にお参りしようとも関係ないです。檀家寺はここだけど、祈願は別のお寺、ということをしても何の問題も無いです。やっかむのは、そのお寺の坊さんくらいです。(そいいう坊さんもいるんですよ。実際に。)



NO9、継続することは、運を強める
今までで、8種類の開運法を紹介いたしましたが、それらは、一度やればいい、と言うものではありません。中には、一度でいいものもありましたが、多くは継続を必要とするものです。運を強くしようと思うのなら、継続することも大切な要素なんですよ。

たとえば、NO1の「水場を清する者は運を制す」。これは、水場を清潔にすることにより運を向上させることなのですが、一度水場を清潔にすればいい、と言うものではありません。それは、ずぅーっと継続する必要があるものです。何ヶ月も、何年も続けていくことが必要な開運法です。
たとえば、笑顔で接することも、継続していかなければならないことです。たまに笑顔で、たまに不機嫌な顔で・・・・というのでは、意味がありません。笑顔で得た運も、他の日の不機嫌な顔で帳消し・・・・なんてことになってしまいます。いつもニコニコ、優しい笑顔。これを継続していくことが大切なんですよ。

たとえば、守護霊を強くするために行なう供養でもそうです。
よく、「いつまで供養すればいいですか?」と聞かれることが多いのですが、本当ならば、供養に期限はありません。まあ、目安として、「最低でも1年間は続けるといい」とはいいます。たいていの場合、1ヶ月に1回の供養を1年間続ければ、変化は生じます。多少の個人差はありますが、いい方向に向いてくるものです。しかし、1年で終わってしまえば、その時の運どまりでしょう。また、あとは徐々に落ちていくのみです。
折角、守護霊に1年かかって力をつけても、その後何もしなければ、守護霊はいずれ力を使い果たしてしまうでしょう。力を与えつづけなければ、また、元の木阿弥。もう一回初めからやり直さねばなりません。できれば、月一回の供養を始めたら、継続していって欲しいですね。

たとえば、神仏に祈ることでもそうです。一回こっきり祈願したから大丈夫だろう・・・・では、問題あるでしょう。まあ、祈願の種類にもよりますけどね。その年の厄を祓う祈願ならば、1年に一回でいいでしょうけど、何か自分の望みをかなえて欲しい、という願いならば、継続して祈願したほうがいいと思います。
或いは、今自分が経営している会社の事業繁栄や商売繁盛を願うのでも、一回すればいいと言うものではなく、月に一回くらいの祈願はしたほうがいいのではないでしょうか。
一度祈っただけで、何でも望みが叶ってしまう、なんてことは、まずないでしょう。それは、夢物語です。祈り続けることが大切なのですよ。
たとえば、札所巡り−八十八ヶ所や三十三観音巡り−も、一度行ったからもういい、と言うものでも無いでしょう。何度巡ってもいいものです。願いがあるたびに、何度巡ってもいいことです。或いは、幸運を継続するために、何度巡ってもいいことなんですよ。

「継続は力なり」といいます。日々の努力の積み重ねが、運を開いていく早道なのです。
「しばらく続けたのに、ちーっとも変わらない。もうやーめた。」
なんて、途中で投げ出さずに、少なくても1年くらいは継続してみてください。急には変わってきませんが、必ずいい方向に向かって行きますから。
それに、急激な変化は、急激に衰えるものです。開運法は、一度に180度転換させるものではありません。そういう無理をすれば、必ずどこかに歪ができるものです。反動があるものです。じれったいかも知れませんが、徐々に変化させていった方が安全なのです。
そして、変わり始めたら、さらに幸運になるように継続していってください。セッカチに結果を求めず、焦らず、気長に続けることが、運を強化するために必要なことなのです。


NO10.「愚痴・妬み・恨みは運を損ねる」
運のよくない方、何をやってもついていないという方は、愚痴っぽくなりませんか?。身近な運のいい人を妬んでいませんか?。心の奥底で、「こいつさえいなければ・・・」なーんて思ってませんか?
そういうことを思っていると、運をますます無くしますよ。愚痴や妬み、恨みは幸運を損ねますからね。

「隣の芝生はきれいに見える」・・・・って言いますよね。とかく、人は他人の生活がよく見えるものです。
「隣は、いいわね。毎週日曜日には、ご家族で楽しくお出かけ。奥さんはきれいだし、ご主人も若く見えるし、お子さんも賢そうで、いい子ばかり・・・・。それに引き換えうちの亭主は・・・・。休みになれば寝てるか、パチンコ。子供は『うるせー。めしー。カネー。』だけ。ドラ息子にバカ娘。あーあ、こんなんだったら、もっといい人と結婚すればよかった。私って、なんて運が悪いのかしら・・・。」
なんて愚痴っている方、いませんか?。これね、運を悪くしてるんですよ。

ただ単に、羨ましいな、いいなぁ・・・と思う程度ならばいいんです。或いは、「いいなぁ、私もああなりたいな」と思って、それに向って努力するならば、これはとってもいいことです。目標を持って、努力することは、やがて道が開くこともあるでしょう。成功に至らないまでも、努力したことは身に付きますから、決して無駄にはなりません。他日の幸運に結びつくこともあるでしょう。いずれにせよ、努力することは運を開くことにもなるのです。

ところが、改善の努力もせずに、グチグチ愚痴っていると、それは運を損なうもの以外なにものでもありません。愚痴っているだけでなく、何が悪いのか、どこがいけないのか、どうすればいいのか、を考えなきゃね。で、わからなければ、そういうことがわかる方に相談すればいいのですよ。
何も自ら努力せず、ただ己の不幸を愚痴っているばかりでは、幸運なんてやってくることは無いでしょう。それどころか、愚痴はやがて妬みへと発展していってしまうんですよ。

妬みを持つと、これは心が半分麻痺している状態になってしまいます。「いいな、いいな、いいな、あの人いいな。」という羨む気持ちから、「あんなヤツ、不幸になればいいのに。ああいうヤツに不幸が訪れないかな。」という気持ちへ変化していくと、危ないですよ。これが、妬みの状態ですね。
この妬みにとり憑かれると、人の不幸を願ってばかりいるようになってしまいますから、知らず知らずのうちに自分が不幸になってしまいます。
幸運を得ようと思うのなら、幸せを願うのなら、人の不幸を望んじゃいけません。ましてや、その妬ましい相手を落し入れるような言動を取るなど、もってのほかです。

世の中には、人の不幸を見て喜んでいる、心の貧しい方がいます。そういう方には、幸運は訪れません。はっきり言います。人の不幸を願ったり、喜んだり、落し入れようとする者には、幸福はやってこないでしょう。

例えば、それが、恨みがある相手だったとします。長年、いじめられたり、いやな目に合わされたり、いたぶられたりした相手だったとします。で、いつか見返してやる、いつかこんなヤツラ・・・・と思っていた相手だったとします。
長年、いじめられたりすれば、恨んだりもするでしょう。その相手の不幸を願うこともあるでしょう。その相手に不幸が訪れることを願うでしょう。
しかし、それは、自分自身をも不幸にしていることなのです。そこに気付いてほしいですね。

人をいじめたりしてきた連中は、それなりに心貧しき者たちであり、そういう者は、放っておいても不幸になっていくものです。他人をいじめて不幸をもたらしたものは、己自身もやがて不幸になるものです。だから、恨む必要なんてないんです。それよりも、そんな連中のことなど忘れて、或いは、不幸な人たちだと哀れんであげたほうが、幸運を早くつかむものです。

いつまでもグチグチ愚痴ったり、他人を羨んだり、妬んだり、恨みを持っていると、幸運なんてやってきませんよ。開運したい、幸運をつかみたい、幸せになりたい、と思うのなら、他人を羨んだり、妬んだり、恨んだりしないことです。
で、愚痴など言わずに、努力することです。愚痴ったって、なんにも解決しません。それよりも、なぜそうなるのか、ということをよく考え、原因がわかったら、それを改善するように努力しましょう。
羨み、妬み、恨みは、不幸を招くだけですよ。





ばっくなんばぁ〜2へ         表 紙 へ