えっ?!

こんなところに仏教語!

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204.三世
「三世」と言えば、多くの方が「ルパン三世」を思い浮かべるのではないでしょうか?。私もその一人ですね。ルパン三世・・・あまりにも有名ですな。知らない人はいないんじゃないかと思います。ちなみに私は初代のルパン三世が好きですね。緑ジャケットです。声優さんもいいですな。シーズン2からは、まあ子供のころは見てましたが、あまり見なくなりましたね。映画も初期の声優さんまでですね。カリオストロの城はよかったですな。名作ですね。
しかし、声優さんが変わると、何となく違和感はありますね。今のドラえもんは「ドラえもんじゃないな」と思ってしまいます。現代のお子さんは、今のドラえもんがドラえもんなのでしょうけどね。それにしても、時代が進んでも昔からのアニメが代々見られるというのは、驚きですな。ルパン三世にしてもドラえもんにしてもね。
三世といえば、私はもう一つ思い浮かべる言葉があります。それは「降三世明王(ごうさんぜみょうおう)」ですな。それほど有名ではありませんが、五大明王のうちのお一人です。今回は、その名前にもなっている「三世」についてお話いたします。

まずは「三世」の一般的な意味ですが、実は「ルパン三世」のような「三世」の読み方「さんせい」で辞書を引くと出てきません。「さんぜ」でないとダメなんですよ。「三世」と書いて「さんぜ」と読むのです。これは、仏教語の読みと同じです。仏教では「三世」は「さんぜ」ですね。
ということで「さんぜ」で新明解国語辞典で調べてみますと
@(仏教で)前世(ぜんせ)・現世(げんせ)・後世(ごせ)の三つの世。
A三代。
とあります。「ルパン三世」は当然ながらAのほうですね。
@の方は、もはや一般的には使われないのではないでしょうか?。こっちが本来の意味なんですけどね。

では、本来の仏教語の「三世」はどうでしょう。もちろん、@の意味は出てくるのはわかりますが、他にもあるかも知れませんので、確認をしておきましょう。お馴染みの仏教語大辞典では
@過去・現在・未来の三つをいう。仏教における世界の時間的区分。三つの世。三つの時。
過去(過ぎ去ったものの意)と現在(生起したものの意)と未来(いまだ来ないものの意)。略して過現未。已今当ともいう。仏教では時間を実体視せず、実在するものとみず、変化する存在の変遷の過程の上に、仮に三つの区別を立てるにすぎない。
A三際ともいう。過去・現在・未来の総称。
B現在の一生涯を現世、世に生まれ出る以前の生涯を前世、そして死後の生涯を来世とする三世をいう。
とあります。ABはわかると思います。そのままですね。@は、三世の意味はわかると思いますが、仏教的時間の概念の説明がわかりにくいでしょうか?。

仏教における時間は、簡単にえば「滅びと再生」でしょうか。すべては移り変わる、すべては誕生した瞬間に滅びに向かう、その過程が仏教でいう時間なのです。そして、それが過去世から来世に渡ってつながっていく、のです。
時間の概念がたまに話題になることがあります。時間とは・・・ですね。時間の存在とは、時間は存在するのかとか、難しい話があります。が、時間って、そもそも人間が決めたことですよね。人間が存在しなければ時間なんてどうでもいいことです。動物が時間を気にするでしょうか?。植物が時間を計って花を咲かすのでしょうか?。違いますよね。動物は本能的に移動するし、自然に行動し、子孫を残していくのです。なにも時間を計算しているわけではありません。ちなみに、犬でも過去や現在、将来、ということはわからないのだそうです。昨日何を食べたか、昨日何をしたか、そういう時間の流れはないのだそうです。昨日今日明日がないんですね。その必要がないから、別にかまわないのですな。

そう、人間だけが時間を気にするのです。自然に移り変わっていく様、移り変わっていく世界に対し、時間という物差しをつけただけなのですよ。本来は、時間なんてないのです。滅び、生まれ、滅び、生まれ・・・の繰り返しですね。それが仏教で言う時間になるのですな。

よく前世占いなんてのがありまして、前世は何だったか、などと宣う占い師がいますが、まあいい加減だと思ったほうがいいですな。何年か前、スピリチュアルな方がTVで「あなたの前世は・・・」などと言ってましたが、証明できない以上、信じることはできません。まあ、ウソだと思ったほうがいいですね。いい加減で適当、ですな。
お釈迦様は、
「前世を知りたいなら、現世の自分をよく観察しなさい」
と説いてます。同様に
「来世を知りたいなら、今の自分をよく見つめよ」
と説いていますな。
現在、金銭的に苦しんでいるのなら、それは前世において他者を金銭的に苦しめた報いである、現在、人間関係に苦しんでいるのなら、それは前世において他者をないがしろにしたからである・・・。
前世の報いが今に反映している、と説くのが仏教ですからね。
もし、今何かに苦しんでいるのならば、それは前世において自分がなしたことの報いなのだから、受け入れるべきである、ということなのです。

じゃあ来世は・・・。
もし、今、他人を苦しめるようなことをしたのなら、来世は他人に苦しめられることになります。もし、今、働かずグータラな生活をしているなら、来世は働いて働いて苦労するという人生になるでしょう。いやいや、下手をしたら人間でなく動物や虫に生まれ変わるかもしれません。現世の行いが来世に反映するのですからね。

ルパン三世は、基本的に泥棒ですな。まあ、たまにいいこともします。悪い者を懲らしめたり、苦しんでいる人を救ったりしますな。泥棒は、罪なことです。当然ですね。なので、来世は人間に生まれ変わることができず、忌み嫌われる生きものに生まれ変わるかもしれません。ですが、いいこともしていますから、その分は差し引かれますな。むしろ、苦しんでいる人を助けたならば、マイナスよりプラスが大きいかも知れませんね。だから、次はひょっとしたら銭形警部の子孫になるかもしれませんな。あるいは、三世に渡って泥棒をしているかもしれません。三世に渡るルパン、過去世も現世も来世も、ルパンはず〜っとルパンかもしれません。いかにもルパン三世らしいですな。
合掌。


205.所有
ちょっと前、断捨離という言葉が流行りました。まあ、今でも断捨離を行っている方は、結構いるんじゃないかと思います。そういえば、自粛期間中、断捨離を行った方がたくさんいたそうで、古着がたいそう捨てられたそうですね。で、その古着の行き場に困っているそうで。
古着は、他国へ輸出されるそうですな。しかし、新型コロナで輸出がストップ。で、行き場を失った古着が大量に山積みになっているのだそうです。新型コロナは、あちこちで悪影響をもたらしておりますね。
それにしても、年を取るほどに所有物が増えてまいりますな。うちの寺の屋根裏倉庫ももはや満杯状態。ここらで処理をしないといけなくなりました。自分の所有物とはいえ、屋根裏倉庫に入ったものは使わないんですよねぇ。何が存在しているかすら忘れてしまいます。ダメですな、こういうの。所詮、ものは多く所有してはいけませんな。
ということで、今回は「所有」についてお話いたします。なお、仏教語としては「所有」は「しょう」と読みます。「しょゆう」ではないのでご注意を。

さて、まずは一般的な「所有(しょゆう)」について確認しておきましょう。新明解国語辞典によりますと
自分に属するものとして、自由な使用(処分)が認められること。
とあります。まあ、つまり、「自分のものだから、どうしようこうしようと勝手だろ」といえるもの、ですな。それが所有ですね。簡単に言ってしまえば、「自分のもの」ですな。

では、仏教語の「所有(しょう)」はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@あらゆる。すべて。あらゆるもの。
Aいかなる・・・でも。
B・・・に属する。
C有ること。
とあります。@以外、ちょっとわかりにくいですよね。

仏教では、所有といえば、「すべて、あらゆる」という意味になります。「すべてのもの、あらゆるもの」でもいいです。「所有衆生」となれば「あらゆる生きとし生けるもの、あらゆる生命体」となりますな。「一切」と同じような意味ですね。
ですが、その他があります。特にBは、現在使われている「所有」の意味に通じるものでしょう。「・・・に属する」ということですから、何かに属しているわけですね。属するということは、仲間でもあるのですが、個人に属するもの、ということになれば、個人の所有、という意味にもとれます。新明解国語辞典の意味でも「自分に属するもの」という解説がありました。ですので、このBが現代語の所有の意味になっていったのだと思われますな。

Cの「あること」とは、「存在していること」という意味になります。「いまここにある」、「いまある」ということですね。それが何であろうとも・・・物であっても現象であっても・・・・有ることならば、所有になるのです。
なのですが、Cの意味ではあまり使用することはないようです。
Aですが、これは「どんなものでも」という意味になりますね。「・・・」は物であってもいいし、現象であってもいいです。つまり、「この世に存在する物質でも現象でも、どんなものでも」ということですね。これは、Cと同じ意味になりますな。
ACは「有るところ」なのですよ。「存在しているすべてのもの、現象」ということです。これはつまり、「一切」と同じような意味になります。ということは、@と同じ意味になりますな。

「所有」は、「すべて、あらゆるもの」を表す言葉なのですが、そこにはもっと便利な言葉「一切」があります。なので、「すべて、あらゆるもの」を表すのは「一切」が主流になってしまいました。一切の方が言いやすいし、意味が通じやすいですしね。で、残った意味が「所属」なのですな。「個人に属する」という意味ですね。で、現代の「所有」になっていったのだと思われます。もしくは、「個人に属する」の意味の「所有」が仏教の方に取り入れられたのかもしれませんけどね。その当たりのことはわかりませんな。

本来、出家者は無一物、無所有です。何も持たない、自分のものは何一つない、というのが教えですね。出家者だけではなく、あらゆる生き物は、個人のものなど何一つない、のです。仏教ではそう説きます。
「自分の身体ですら自分ものではない、ましてやほかのものが自分のものであろうはずがない」
これが仏教の教えですね。

昨今、お子さんの虐待が問題になっております。
「自分の子供なんだから、どう扱おうと私の勝手でしょ」
と開き直るバカ親もいるそうで。困ったものですな。自分の子供であっても、「自分のもの」ではないのに、それがわからないのですな。
自分の身体ですら、自分の思うようにはならないのです。なぜなら、自分の身体ですら自分のものではないからです。ならば、自分以外のものが自分の勝手になるわけがないですな。自分の思うように子供が行動しないからといって、子供を虐待するなんて、もってのほかですな。子供は自分ではないのですから、思うようになる方がおかしいのですよ。同様に、自分以外の人、他人が自分の思うようになる、と考えるほうがおかしいのですな。自分は自分、他人は他人、あくまでも違う存在なのですから、他人は自分の思うようにはならなくて当然なのです。
ですから、他人が自分の思うようにならないと言って、他人が自分と同じ行動をとらないからといって、怒ることは間違いなのですよ。

自分が所有していると認められる物・物質に関しては、断捨離だろうが捨てようが生かそうが、それは自由でしょう。しかし、他人の物・物質や他人は、自分が所有しているものではありませんな。ならば、自分に従わないからといって、自分が気に入らないからといって、罰を与えたり処分したりするのはいけませんよね。
誰の所有なのか、自分の所有なのか、他人の所有なのか、それは物・物質なのか生命なのか、そうしたことをしっかり認識しないといけませんな。
合掌。


206.法事
今回の仏教語は「法事」です。「そんな言葉、仏教語に決まってるじゃないか。今更、なにを!」という声も聞こえてきそうですが、法事について詳しくご存知の方は、どれほどいらっしゃるでしょうか?。
「よく知ってるよ、亡くなった方の〇〇回忌にお経を読んでもらうことでしょ」
「家族や親せきが集まって、亡くなった方の〇〇回忌にお寺さんに行くか来てもらって、供養すること。で、そのあと、みんなで会食をすること、でしょ」
と、多くの方がこのように答えるのではないかと思います。もちろん、間違ってはいません。正解です。その通りですね。ですが、これは日本の仏教、というか、日本の仏教行事のみに通用することなんですよ。元々の仏教では、法事は別の意味合いもあったのです。今回は、そこのところを解説していきたいと思います。

とりあえず、まずは、法事の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと「法事」とは
死者の冥福を祈るために、忌日に行う仏教の行事。
とあります。まさに、皆さんのご存知の意味ですね。
では、仏教語大辞典ではどうかと言いますと、
@真理というもの。
A教団のなすべき事がら。
B仏法を宣揚することや、その修行。
C仏事。シナ(ママ、中国のことです)では法要などの仏教行事をいう。
D死者の冥福を祈り、善根を積むために仏を供養し、僧に施したりすること。日本では、平安時代以後行われた。江戸時代以後はもっぱら死者追福の忌日法要を称するようになった。
とあります。つまり、皆さんご存知の法事は、江戸時代以後に行われるようになったのです。ということは、それ以前は、今のような法事はなかったわけですな。だからといって、法事をしなくていい、というわけではありませんよ。誤解なきよう、お願いいたします。

そもそも、法事とは、「法の事」です。法とは教えであり、真理でもありますな。なので、@の意味が出てくるのです。法は、教えでもあり、真理でもありますから、法を実行するには、修行僧も教団も為すべきことがあります。つまり、仏教教団のなすべき事がらは、すべて法事ですね。これがAにあたります。
教団のなすべき事がらの中には、布教があります。そして、僧侶それぞれの修行があります。布教は、仏教を広めることですな。仏教を広めるためには、広める役割の僧侶がちゃんと修行ができていないといけません。法事とは、仏教を広めることや、そのために修行をすることでもあるのです。これがBの意味ですね。

仏教が中国に入ってきまして、いろいろな行事が行われるようになりました。主には、鎮護国家ですね。国を守り、人々が平穏であることを仏様に祈るという行事です。そのほかに、国王の身体健全ですな。あとは、五穀豊穣、天候が安定していることでしょうか。平穏無事を祈る行事が盛んにおこなわれるようになります。こうした行事は、当然日本にも伝わっています。ですから、特に平安時代以前の仏教は、鎮護国家のための仏教だったり、天皇の身体健全のための仏教だったりしますな。庶民の仏教とは言えません。こうした、国家のための仏教行事を法事と言ったのですね。これがCです。一般の人々のための法事は、まだまだ先ですな。

平安時代に入りまして、お大師様が密教を唐から持ち帰ったことにより、益々鎮護国家の法事は行われるようになりますな。しかし、それだけではなく、庶民のための仏事・・・法事・・・も盛んにおこなわれるようになります。しかし、それらの行事は、あくまでも大掛かりなものであって、個人的なことではありません。個人的な法事が進むようになったのは、平安時代も中ごろ以降でしょう。

平安時代も後期になりますと、極楽浄土へ生まれ変わりを願う人々が増えてまいります。特に高貴なお方・・・お公家さんの間では、死後は極楽浄土へ行きたい、と願うようになりました。
そのためには、どうすればいいのか・・・。まずは、善行をし、徳を積むことが大事だと当時の僧侶は説きますな。もっとも、今でもそうです。極楽浄土に行きたいのなら、「ナンマンダブ ナンマンダブ」と唱えるんじゃなくて、善行をし、徳を積むことが大事ですね。そして、深い信仰をもつことですな。「ナンマンダブ ナンマンダブ」と唱えても、嫁や他人の悪口を言っていては極楽へはいけませんな。
善行をし、徳を積むにはどうすればいいか・・・。
貧しい人々を救うこともいいですね。食事を与えることはとてもいいことです。他には、先祖を敬うことも大事でしょう。先祖が迷っていては、自分だけ極楽へ行くというわけにはいきません。まずは、御先祖様から極楽へ行ってもらわねばなりませんな。そのためには、仏様や僧侶を供養するのがベストです。
仏様の供養とは、仏様にお供えをしたり、あるいはお寺を建て、仏像を造ったりすることですな。お金がない人は、ほんの少しの食料をお供えすればいいのです。できる範囲で結構ですな。お金持ちのお公家さんは、お寺を建て、仏像を造り、人々の心のよりどころを造るのがいいですな。
僧侶への供養とは、お坊さんが食べて行けるようにしてあげることです。あるいは、お坊さんへの食事の接待です。その事によって、徳が積めるわけですな。
お坊さんは、というと、そうした施しのお礼にお経をあげますな。お経をあげて、先祖の冥福を祈ったり、施主の身体健全や家内安全を祈ったわけです。こうした習慣が、徐々に根付いていったのですな。

しかし、こうした習慣も一般庶民にはなかなか広まりませんな。なぜなら、お金がかかるからです。結局は、お公家さんの間や大名家、大商人の間だけで行われてきたのです。そもそも、一般庶民には、葬式すらなかったですからね。葬式をしてもらえるのは、特権階級だけですな。
しかし、戦国時代も終わり、平和な江戸時代になりますと、ある程度の費用があれば、葬式もしてのもらえるようになりますな。お金がなくても、その村を仕切っているお寺が、お葬式くらいはしてくれますな。
それまでは、特権階級のみ行われていたことが、庶民の間でも行われるようになってきたのです。こうして、一般庶民にも、年忌法要が広まってきたのですな。ただし、それは徳積み、というわけではなく、亡くなった方の冥福を祈る、という意味で、ですね。

江戸時代の人々は、亡くなった方の冥福を祈ることを、当たり前のように行っていたようです。ちょっとお金のある商人ならば、お寺へ行って、あるいはお坊さんを呼んで、年忌供養などをしていたようですね。お金のない庶民も、小さな位牌くらいは持っていたでしょうから、それに手を合わせていた、ということはあったようです。まあ、貧富の差がありましたからね。一般論では言えないことですな。
とはいえ、今、皆さんが知っている法事は、江戸時代以降に広まっていったわけですな。

人が亡くなって、一番最初に行われる法事は、葬式ですね。しかし、法事とは言いませんな。葬式と言います。しかし、葬式も法事のうちですね。
次に来るのが、四十九日ですな。本来は、七日毎に法事があります。初七日・二七日・三七日・・・と七日毎に法事があります。詳しくは「あの世の旅」を読んでください。長いですが・・・。
とりあえず、四十九日の法事はしますね。これをしないと大変な目にありますな。次は、一周忌ですね。おっと、百か日をとばしてはいけません。まあ、最近では省略されることが多いですが。
次が、三回忌ですね。その次は、七回忌。そして十三回忌、、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌と続きます。
そして、五十回忌で終了ですね。五十回忌が済みますと、やっと先祖の仲間入りが許されますな。それまでは、個人ですね。御先祖様ではありません。
ですが、最近では五十回忌まで行うことは少なくなったそうです。三十七回忌が終わったら終了のようですな。なぜなら、人々が長生きになったからです。

五十回忌をしようと思うと、亡くなった方が早くに亡くなって自分が長生きをしないといけません。孫が五十回忌をする、と言っても、あてにはなりませんな。だいたい、孫どころか、ひ孫が五十回忌をやらねばならない、くらいになってしまいます。ひ孫にしてみれば「知らないし」となるでしょう。なので、三十七回忌が限度になってしまいますな。あとは、お寺さんにお願いしておくことですが、お寺さんも代替わりをしてしまえば、そんな約束はどこかへ行ってしまうかもしれません。ちゃんと引継ぎをしておかないとね。そこのところは、お寺の和尚さんにしっかりとしてもらわねばなりませんな。

ところで・・・。なんと新型コロナのせいで、法事がキャンセルされることが増えているそうです。親戚一同が集まり、密になるから法事はできない、ということらしいですな。また、お寺側から断りが入る場合もあるのだそうです。新型コロナなので、今年は見送りましょう・・・ということらしいですね。私には理解できませんな。
親戚一同、呼ぶ必要はないですよね。施主の家だけで、ひっそりと法事を行えばいいじゃないですか。施主一人だっていいです。とにかく、亡くなった方の年忌供養くらいは、すべきでしょう。それが日本の法事なのですから。

お坊さんも、コロナが怖いからと言って檀家さんの家に行けない・・・というのはどうなんでしょうね。ちゃんとマスクして、手洗いうがいをして、檀家さんとの距離を取っていれば、それほど怖がることじゃないと思いますが・・・。お坊さん側も、やみくもに怖がらないで、また檀家さんたちにも、ちゃんと説明して密にならないようにして法事をすればいいと思いますな。
なかには、リモートで法事を・・・というお寺さんもあるようですが、これはどうなんでしょうね。まあ、法事をやらないよりは、いいかと思いますが、私は古い人間なので受け入れがたいですな。リモートはどうもねぇ。その人の感情が伝わらないように思いますし、やはり会ってナンボとも思いますしね。ま、やらないよりはマシですが。

確かに目に見えないウィルスですから、怖いかもしれません。連日マスコミも煽っていますしね。でも、正しく理解し、正しく対処していれば、そんなに怖がらなくてもいいと思いますな。ましてや、僧侶たるものが、怖がってどうするのか、と思いますね。もちろん、無茶はいけませんが、ちゃんと対処していれば、大丈夫だと思います。
なによりも、仏様の御加護があるじゃないですか。コロナを理由に、法事をさぼっちゃいけませんな、と思いますね。
合掌。


207.地味
今年の初め、初観音法会の際に「今年は地味に過ごした方がいい」と言いました。そのときは、なぜ地味に過ごす方がいいのかわかってはいませんでした。しかし、蓋を開ければ新型コロナ。地味に過ごす方がいいどころか、地味に過ごせざるを得ない状況ですね。派手に動けば、どこで感染するかわかったものじゃありません。まあ、地味に過ごして無難ですな。
さて、この「地味」なんですが、仏教語では意味が全く異なります。今回は、この「地味」についてお話しいたします。

まずは、現在使用されている「地味」の意味をおさておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
人の興味・関心をひくような目立つ点がない様子。
とあります。なんだか、この解説を読んでちょっと言い過ぎなんじゃ・・・と思いましたが、う〜ん、まあ、地味ってそういうことになるか、と納得もします。けど、なんだか残念な表現な気もしますね。というか、お坊さんの場合、周りにそういう人が多いようにも思い、「地味」って言われるのはいいけど、この解説のようにあからさまに言われると、なんだか救いがないような・・・。まあ、確かに坊さんは地味ですが、人の興味や関心を引くような目立たない存在じゃないですよね。こういう解説を読むと、日頃地味と言われる人が、ちょっとかわいそうな気もしますな。あまり他人に「地味だね」と言わない方がいいと思いますな。

ちなみに、国語辞典では、「じみ」とひらがな表記でした。普通は「地味」と書く、とあったので、ひょっとしたら漢字は当て字なのかも知れません。そもそもはひらがな表記が正しいのかも知れませんね。

さて、では仏教語の「地味」です。おなじみの仏教語大辞典によりますと
@大地の精分。
A大地から現われる好適なるもの。食物など。
とあります。ね、全く意味が異なるでしょ。仏教語の「地味」は、自然に関係する言葉なのですよ。

そもそも発音も違います。一般の「地味」は平たく発音しますよね。アクセントがありません。仏教語の「地味」は「地」にアクセントを置きます。「地」が強くて「味」が弱いです。「味」と言った感じですね。

で、意味なのですが、仏教語の「地味」は、「大地の恵み」という意味だと思ってくださって結構です。大地から人々が得られる、人々にとって良い物のことなのです。つまり、「地面の味(あじ)」なのですよ。
人々は、地面を耕し、いろいろな種をまき、実った作物を収穫して生きていきます。また、大地に生えている草を動物に食べさせ、その動物の乳や肉を食べて生きています。野菜も穀類も乳や肉も大地がなくては得ることができません。ですから、大地が荒れれば、私たちは途端に食べ物を得られなくなるのです。大地あってこその生命なのですね。

インドには、古くから、この大地を安定させるのが「地天」という大地の神様である、という教えがあります。昔のインドには様々な宗教がありましたが、どの宗教も神々は同じですな。バラモン教もヒンドゥー教もゾロアスターもジャイナ教も仏教も、登場する神々は、まあ大体同じです。名前が多少変わってはおりますが同じですな。
ですので、仏教でも地天は登場します。大地の神として祀りますな。で、この神様が中心になる行事があるのですが、それが仏教で行う地鎮祭ですな。地鎮祭の中心は、地天なのです。

もう少し詳しく話しますと、地鎮祭は、不動明王を本尊として行います。なんだ、地天じゃないじゃないか、話が違うじゃないか、と突っ込みが入りそうですが、ちょっとお待ちください。話は最後まで聞いてください。
実は、地天は不動明王の化身、とされているのですよ。地天の元は不動明王と言うことですね。なので、地鎮祭は不動明王を本尊として行うのですが、地天も当然のことながら、祀ります。御真言も唱えます。
願文にも地天に祈願する、と唱えますな。その願文に、
「地天が喜ぶときは、大地に実りが増える」
と言うことをちょっと難しい言葉で唱えます。昔から、作物の実りを増やして欲しければ地天に祈ることが大事、と言われていたのですよ。古来インドの教えですね。大地の安定を祈るのも地天ですな。地面を司るのが地天ですから。なので、地鎮祭は地天を祀るのです。で、その大本である不動明王も祀るのですな。

大地は、普段あまり意識しませんよね。「おぉ、今日も大地に立っているぞ」なんて意識している人は、ものすごく少ないと思います。そういう意味では、大地は地味ですね。空気や海は、やれ大気汚染だ、海を廃棄物が汚しているなどと騒がれていますが、地面に関してはあまりとやかく言われません。そこら中、穴を掘って開発しているのに、「大地を傷つけるな!」という騒ぎにはなりませんよね。空気・水・大地、どれも人間が生きていく上で大事な要素なのですが、どうも大地は忘れられがちです。そう、大地は地味なんです。
大地は、我々に多くの恩恵をもたらしています。仏教語で言う「地味」を与えてくれています。でも、その存在は、現代語で言う「地味」なのですよ。地味は地味、っていうことですな。そういうところから、目立たないことを地味と言ったのかも知れませんが、まあ、それはこじつけになりそうですね。

さて、世の中には、地味な人が結構多くいます。かくいう私も地味な方ですね。まあ、坊さんで派手好きって言うのは、あまりいませんし、いたらドン引きですな。坊さんは、地味で当たり前ですね。
一般社会の人でも、地味な人は意外と多いと思います。
すごく地味→地味→ちょっと地味→少し派手→派手→すごく派手
といった感じで分類してもいいかもしれませんね。で、派手側からすれば、地味な人は
「あの人、地味よねぇ」
的な話題の対象者となりやすいですな。「その地味さ、なんとかならないの?」と言われる方もいるかも知れませんね。陰で悪口を言われていることもあるかも知れません。まあ、派手な人からしたら、地味な人は、ちょっとイラつかせる場合もありますな。
しかし、地味な人は、それがよくて地味なのだと思いますな。無理に派手になることはないと思います。地味が性に合っているのでしょうから、なにも無理して派手な人のまねなんぞする必要はありませんよね。地味で十分、何が悪い、だと思います。

もし、あなたが地味で、そのことを周囲から揶揄されているようでしたら、
「地味で何が悪いの?。私は、大地のように周囲の人に『地味』を与えるような、地味な人でありたいの」
と堂々と言えばいいと思いますな。なんじゃそれ?、と思われるでしょうが、そうやって煙に巻いてしまうのも一つの方法ですよね。
地味な人、大いに結構じゃないですか。大地が人々に、人々が気付かないうちに恩恵を与えているように、地味な人は、周囲に「地味」を与えればいいのです。自分なりの「地味」をね。そうすれば、いつの間にか、周囲にとって大事な人になっていくことでしょう。
派手に上っ面だけ着飾っても、派手に行動しても、大地にしっかり足がついていなければ、あっという間に流されてしまいます。また、批判の対象にもありますな。風当たりも強くなります。それよりも、大地にしっかり根付くこと、地味に過ごす方が安定しますな。と言うことは、地味な方がいい、と言うことです。
地味で結構。地味が一番、ですね。
合掌。


208.正義
最近は、すっかり耳にしなくなりましたね。何のことか?・・・自粛警察って言葉ですよ。自粛中は、よくTVで騒がれていましたよね。「マスクしろ」、「自粛しろ」、「営業やめろ」みたいなことを言ったり張り紙したりした人たち。今ではすっかりなりを潜めておりますな。そういえば、SNSでの誹謗中傷も話題になっていませんね。ひところは、「煽り運転の人間違い拡散」なんてのが話題になっていましたが、今ではすっかりありません。秋風とともにクールダウンしたのですかねぇ???
こうした自粛警察やマスク警察、SNSの拡散は、正義心から来ていることが多いそうですね。正義の心、正義感から注意したくなってしまうのだそうです。正義心が強く、親切心が大いにある方・・・・言い方を変えれば余計なお節介焼き・・・・が、ついついやってしまうのだそうです。なので、SNSでは「正義マン」とも言われていました。この正義、悪いことではないのですが、行き過ぎてしまうと、どうもよろしくありませんな。そんな正義について、仏教語の「正義」は、どうなっているのかと言うお話を今回はいたします。

まずは、現在使われている「正義」の意味について新明解国語辞典で確認しておきましょう。
道理にかなっていて正しいこと。
とあります。さらに正義派の意味を参考に掲載しています。
「正義派」 不正を憎み、情実を排し、正義を守ることだけを考え(て行動す)る、純粋な心の持主。
SNS上の「正義マン」や「自粛警察」「マスク警察」と言われていた人は、この「正義派」に当たるのでしょう。まあ、ちょっと過激ですけどね。純粋と言えば純粋ですな、こういう人は。私なんぞ、絶対に正義マンにはなれないですね。純粋じゃないですからね。
まあ、それはいいとして、正義は、本来は「道理にかなっている」ことが大事で、その上で「正しいこと」なんですな。どうやら、正義が過ぎると「道理」が引っ込んでしまうような気もしますな。ちゃんと道理をわきまえていれば、批判されるような正義マンにはならなかったんじゃないかと思いますね。

さて、仏教語の「正義」はどうなっているのでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@一つの学派における伝統的な見解。
A正しい意義。
とあります。あぁ、ちなみに仏教語では「正義」は「せいぎ」と読みません。「しょうぎ」と読みます。発音は「将棋」と同じではなりません。「しょう」にアクセントがありますね。「しょうぎ」ですな。
現代の「正義」に通じている意味はAの方でしょう。それでも、仏教語の正義は「正しい行動」ではなくて「正しい意義や主張」となります。まあ、現代語でも本来の「正義」の意味に近いですね。
@はといいますと、仏教学の派閥のことですね。お釈迦様が涅槃に入って何年も経過すると、いろいろな学派が出てきます。簡単に言えば、お経の解釈の違いで流派が生まれてしまったんですよ。もっとも、そもそもお釈迦様が涅槃に入って間もなくアーナンダのグループやマハーカッサパのグループなどができていますからね。いずれ仏教教団も分裂していくのは、まあ自然の流れと言えば流れですな。
そうして、いろいろな派が生まれてくるのです。今でもいろいろな宗派があります。その元と思っていただければいいですな。
で、その学派の見解は伝統となっていきますな。それぞれの仏教学派には、決して揺るがない確固たる見解があるわけです。その伝統的な見解のことを「正義」と仏教では言ったのです。

この伝統的見解は、決して揺るがない見解です。その学派にとっては「正しい見解」ですな。他から何を言われようとも、決して他の意見を聞こうとはしません。妥協なんてありません。
「我が派の考えが正しいのだ、正しいったら正しいのだ」
と言うことですな。これって現代語の「正義」であった「正義派」の意味に近いと思いませんか?。
きっと、その学派は
「我が学派の教えのみが正しくて、その正しい教え・見解を守っていくことが大事だ」
と純粋に信じていたのでしょう。で、それを押し通していたのでしょうな。まるで日蓮聖人のようですな。

日蓮さんは「法華経こそが唯一、人を救うことができる経典。法華経以外はダメだ」と言った方ですね。ですので、他宗派を排斥しております。誹謗中傷もひどいですな。真言宗なんぞ、亡国の教えとまで言われています。まあ、ひどい言われようですな。
日蓮さんにしてみれば、法華経のみが正しいのですから、
「みんな法華経だけを読めばいいのだ。法華経のみになれば世界は救われるのだ」
という思いで行動していますよね。もう法華経愛が止まりません。それを押しつけています。そう、まるで規模の大きい「自粛警察」みたいですね。
日蓮さんは純粋なんですよ。一途なんですね。法華経のみが正しいのですから、すべてが法華経になったほうがいい、と純粋に信じているのですな。で、それを実行したに過ぎないのです。
ですが、これは大きなお世話だし、間違った正義心ですよね。

正義も一途になってしまえば、たとえ純粋な心に基づいているといえども、間違った方向に進んでしまいますな。SNSで悪者の話を拡散してしまう人と同じですよね。彼らは正義心に基づいて行っています。悪意があって拡散したわけではないのでしょう。自粛警察の人もそうでしょう。決して悪意があってやっているわけではないのだと思います。純粋に正義の心を持て行動してしまうのですな。正義が過ぎてしまい、悪意に取られてしまうのです。「正義も過ぎれば悪になる」ということですな。

正義は、その立場の人にとっては正義でしょう。ですが、立場が変われば正義も変わるのです。日蓮さんにとって法華経は正義ですが、真言宗にとっては理趣経が正義なんですね。いくら自分にとって最高であっても、他人に取っては興味がないものかもしれないじゃないですか。そこを日蓮さんは理解していなかったのですな。他人の気持ちを慮ることなく、自説を押しつけていただけなんですね。

「正義も過ぎれば悪になる」
「立場が変われば正義も変わる」
このことを理解していないと、正義マンは同じ過ちをしてしまいます。自粛警察だってそうですね。自分の意見が絶対正しい、絶対間違っていない、ということはない。それを理解していないと、再びSNS等で誤った行動をしてしまいますな。自分では正しいと思ったことは、他人には誹謗中傷となることだってある、それを知るべきでしょうね。
「自分が絶対正しい」は、ないのですよ。
合掌。


209.閑
一年が経つのは早いものですね。もう師走ですよ。今年は、ゴーンさんの逃亡劇に始まって、コロナコロナで大変でしたね。未だに収束する兆しは無く、というか悪化しているし・・・・。そりゃ、そうですよね、あんなキャンペーンやっていたら感染者が増えるに決まっていますよね。誰もがわかっていることなのに、まあ偉いお方たちは認めませんな。仕方が無いですね、経済を止めるわけにもいきませんから。それにしても、これから年末にかけてどうなるのでしょうかねぇ。忙しい師走のはずが、皆さんどこにも出かけずに自主的自粛で過ごすのでしょうか?。忙しい師走ではなく、暇な師走になるのでしょうか?。まあ、それも案外いいのかも知れません。忙しいのが大好きな日本人ですからね。たまには「閑」を味わうのもいいんじゃないかと思いますな。
ということで、今回は一般的な「閑」と仏教語の「閑」の違いについてお話ししたいと思います。

「閑」といえば、忙中閑ありと昔から言われるように、のんびりとした時間、と言うような意味に使いますよね。一応、念のために新明解国語辞典でその意味を押さえておきましょう。
「することが無くて、ひまなこと。」
とありますな。ちなみに、熟語になると
@邪魔なものが無く、落ちていること(「閑静、閑寂、閑談」)
A注目しないこと(「閑却、等閑」)
と言う意味で使われます。熟語でない場合は、「ヒマ〜、やることがない!」という状態ですな。長閑になれば、「落ち着いて静かな様子、天気が良くて風も無く暑くも無く寒くもない様子」になりますね。

では、仏教語の「閑」はどうなのでしょうか?。なお、仏教語では「閑」は「かん」と読みません。「げん」と読みます。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
「仏道の修行に堪えるところ。人間と天上との二界の善悪業をつくらないひまな人。生活がやや安穏を得て仏道を求める者。仏道修行のひまがある所。」
とあります。
「仏道の修行に堪えるところ」とは、「仏道の修行に値する場所」と言う意味です。仏道修行にふさわしい場所、ということですね。
仏道の修行は、どこでもできるわけではないのです。やはり環境は大事ですな。集中できる静かなところがふさわしいですね。まあ、熟練者になれば、どんなところでも、いつでも瞑想には入れますけどね。しかし、その領域までになるには、それ相応の場所が必要になりますな。場所は大事ですね。

「人間と天上との二界の善悪業をつくらないひまな人」とは、人間界と天界において、善業も悪業もしない、何もしないひまな人」ということです。そういう人のことを「閑」と言ったのです。悪くもないが善くもない、何も業を作らない人、ということです。まあ、そんな人はいませんな。何もしないように見える引きこもりでも悪業を作っていますからね。引き籠もること自体が悪業ですからね。家族に迷惑をかけていますから。
じゃあ、どんな人が「何もしない人」に当たるのかといえば、熱心に仏道修行に励んでいる人でしょうかねぇ。悟りを得た人は、善業しかしません。しかも人々を導かねばならないので暇人ではないですな。修行中のみとなれば、善業もするし悪業もするのが普通ですね。どっちもせず、何もせずヒマに過ごしている人が、もしいたならば・・・・。その人は「閑」ですな。人里離れ、托鉢のみで生活し、熱心に仏道修行に励めば、「閑」になれるかも知れません。たった一人で、山の中で、托鉢だけで暮らせば、善業も悪業もしないかもしれませんな。まあ、そういう人が「閑」なのですよ。

そこまで行かなくても、「生活がやや安穏を得て仏道を求める者」のことも「閑」と言ったようですね。そういう方は、案外いらっしゃるのではないでしょうか?。定年退職をして、あるいは、生活に余裕(金銭的にも時間的にも)ができて、仏道を学びたい、ちょっと修行したい、と思う人は少なくはないでしょう。そうした人たちの中でも、ちょっと熱心に仏道を求める方のことが「閑」になるのですね。あなたの周りにも「閑」の方はいらっしゃるのではないでしょうか?。

最後の「仏道修行のひまがある所」とは、「仏道ができる余裕のある場所」のことです。修行するのに窮屈ではいけません。少しは余裕が無くてはなりませんな。起きて半畳寝て一畳とは言いますが、さすがにそれでは仏道修行はできないでしょう。面壁九年とも言いますが、目の前が壁では修行にはなりませんよね。少しは壁まで距離が無くては息が詰まりますな。壁に向かわない座禅の場合は、目の前に空間が広がっていなくては、うまく集中できませんよね。私たちが行う月輪観や阿字観では、月の掛け軸や阿字が書いてある掛け軸を使うのですが、ある程度距離を取って座ります。空間が無くてはできません。最低でも3畳間は必要でしょう。修行するにも余裕がある場所が必要なんですよ。

ということで、仏教語の「閑」の場合は、「やることが無くてヒマ」な状態では無く、「仏道修行をする余裕のある人や場所、悪でも善でもない人」のことを意味しているのですな。なので仏道修行をする人は、みんな「閑」になるのですよ。
ということは、お坊さんは、みんな「閑」ですな。まあ、お坊さんは結構ヒマな時間を過ごしていますからねぇ。

私たち真言宗の僧侶は、時間があったら「行法(ぎょうぼう)」をせよ」と言われます。「行法」とは、修行の作法のことです。「供養法(くようぼう)」とも言われますな。お坊さん専用の修行法ですな。
その行法は、本当は毎日するべき作法です。自分の修行なのですから、本当は毎日しなきゃいけないのですよ。しかし、これがなかなかできないんですね。特にお寺を一人で切り盛りしている場合、何かとやることがあって、ゆっく行法をしていられないのが現状です。ほっと一息つきたい時間も欲しいですしね。
なので、「ヒマがあったら」と言われるのですな。「ヒマがあったら行法せい」というのは、「ヒマが無かったらできなくても仕方が無いな」と言うことですな。まあ、ヒマはつくるものだ、とも言われますけどね。

せかせかバタバタしていると、修行なんてできないのですよ。もちろん、広い意味で言えば、日常の仕事・・・・供養や祈願、掃除、参拝者との話などなど・・・・すべてが修行ではあります。しかし、そのほかに、自分を磨くための修行があるのですな。自行(じぎょう)と言われますが、それをしないと悟りへの階段を上がれませんな。なので、私たちは、ヒマがあったら行法をしなければいけないのです。しかし、ヒマが無いとできません。その行法も数分で終わることではないですからね。しかも、準備も必要です。終わったあとは片付けもあります。なので、ある程度の時間が必要なのですよ。あれもしなきゃ、これもしなきゃ、なんて思っているときは、できませんな。時間的余裕、精神的余裕が無いと、修行の時間はとれません。

師走で何かと忙しい毎日を過ごすことと思います。ましてやコロナで何となく落ち着きませんよね。不安な毎日を過ごすことにもなります。しかし、せかせかバタバタして、焦ったりイライラすると、返ってよくないと思いますよ。そうなるとストレスがたまって、免疫力が落ちてしまいますな。いくら忙しくても、少しは余裕を持たないと、コロナやインフルに狙われてしまいますな。忙しい中にも、ほっと一息付ける時間をもたないと、心も体も安まりませんよね。
何事にも「閑」は必要なのですよ。余裕を持って新年をお迎えください。
合掌。


210.難
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
まあ、しかし、去年は大変な年でしたね。今年はいったいどうなることやら・・・。不安な年ですよね。せめてワクチンがうまくいってくれればいいのですが、それが効果がないとなると、ちょっとマズイですよね。それこそ、国難となってしまいます。本当に、先が見えない難しい年になりそうですな。難なく過ごせればいいのですが、どうなることやら・・・・。
で、今年の一発目の仏教語は、縁起が良くないのですが、「難」で行きます。難がないように願って難についてお話しいたします。

まずは、現在使われている「難」の意味を押さえておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
@災い。災難。
A非難すべき所。欠点。
Bむずかしいこと。困難。
とあります。Aなどは、「少々難あり」とか表示がしてある安売り商品を思い浮かべますな。皆さんよくご存じのように「難」は、災いや欠点、むずかしい、と言うことを意味していますな。

では、仏教語の「難」はどうなのでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@論難。非難。難詰。異議。異論。
A討論すること。論議すること。
B誤った非難。
C難点。
D困難であること。
E「なんず」。難解だとしている。
F難処。
G雑染(ぞうぜん)に同じ。
H遅鈍。ぐずぐず。
Iはばかる。
とあります。

仏教語での「難」は、そもそもは、非難のことを意味しています。それも正しい非難ではなく、根拠のない非難、どちらかというと誹謗中傷に近い非難ですね。
たとえば、ある僧侶が教えを説いたとします。その教えに対して、屁理屈をこね、曲解をして、その教えに難癖をつけて、やり込めようとする行為、それが教えを説いた僧侶にとっての「難」になるのです。ですから、「難」は、論議や討論における非難や、教えに対する誤った非難のことを意味していました。
そこから、C以下の意味が派生したようです。
Eは単に「難解」のことです。
Fは修行しがたい場所のことです。仏教語大辞典によりますと、
蟻の塚、獅子などの猛獣の獣窟、淫女のいる所、酒店などの修行の障害となるところ。
とあります。「淫女のいる所」とは、表現が差別的で申し訳ないですが、今で言う風俗店のことですね。また、風俗店だけでなく、個人的に性に淫らな女性が住んでいる住宅周辺でもあります。まあ、昔は托鉢でしたから、托鉢に家に行ったときに淫乱な女性に修行者が誘われた、と言うことがあったのですよ。ただし、お釈迦様がいらした当時のインドでの話です。酒店などとは、酒屋も含めてお酒が飲める場所のことですね。ちなみに、修行にふさわしい場所は、そうした俗世間の場所から遠からず近からず、が理想だそうです。街から遠くても行けないし、近くてもいけない、人々の生活圏から適度な距離のあるところが修行にふさわしい場所になりますね。

Gは、善・悪・無記の三つの性質を兼ねていることで、貪のことでもあります。簡単に言えば、善もあるけど、悪い心も有り、そのどちらでもない心も有り、貪欲でもあることですね。雑な心に染まっているということで雑染なのですな。それは、まあ「難」でしょう。難点であることは確かですね。
Hは文字通りグズのことです。グズグズしていることを「難」と言ったのでしょうね。Iもそのままです。「世をはばかる」の「はばかる」ですな。

いろいろ意味はありますが、「難」の最も大事な意味は、「非難」です。それもいわれのない、根拠のない非難ですな。屁理屈をこねて相手を論破したり、誹謗中傷することです。それが「難」なのです。
確かに、誹謗中傷されるのは災難ですね。言われなき非難・誹謗中傷は大きな災難でしょう。昨今、ネット上では、よく見かけることですが、まあ、よろしくはありませんな。なんでそんなに誹謗中傷したいのか、訳がわかりません。見えない相手だから、心の底に溜まっている泥のような、いやヘドロのような悪くて嫌な思いが出てきてしまうのでしょうかねぇ。他人のことなんてどうだっていいのにね。たとえ、それが芸能人であっても、他人のことですから、とやかく言う必要はないと思うのですけど、言いたい人は黙ってられないのでしょうかねぇ。

まっとうな非難ならいいと思います。また、言い方も大事でしょう。相手を傷つけるような言い方はダメですな。言葉は刃物を含んでいます。昔から「人を殺すには刃物はいらぬ、言葉一つあればいい」と言われるように、言葉は恐ろしい武器にあります。それを忘れてはいけないと思いますな。相手を批判するときは、言葉に注意したいですね。間違っても、誹謗中傷にならないようにしなくてはいけませんな。

しかし、大の大人が相手の非難ばかりして提案をしない、という国ですからね、この国は。万年野党も仕方がないですな。あ、何年か前に政権取りましたが、ボロボロでしたねぇ。これは非難じゃないですよ、結果です。いつもいつも非難しかしないからそうなるのでしょうな。ちゃんと提案しないとね。
しかし、お釈迦様は言いますな。
「黙っている者は非難される。少し話す者は非難される。多く話す者は非難される。この世に非難されない者はいない」
とね(非難は、批判でもいいです)。
黙っていても非難される世の中です。必要なときに必要な言葉だけをその場にふさわしい言葉遣いで話すのが無難でしょうな。
今年こそは、「難」にあわないように、言葉をちゃんと選んで、必要なことを伝えるようにしたいですね。
合掌。


211.差別
世界には、昔から「解決すべき問題」が存在しています。大昔から存在しているのに、未だに解決できていない問題ですね。そうした問題が、世界にはいくつか存在しているのです。
その中の一つに「差別問題」があります。人種差別、国による差別、宗教上の差別、身体的差別、性的差別、職業差別などなど、様々な差別があります。それは、未だに解決されていません。
一見、差別がないように見えていますが、いざとなると、隠された本性が出てきて差別が顔を出してきますよね。日頃、きれい事を言っている人でも、いざとなると差別意識は出てくるものです。差別しない人間はいない、と言ってもいいくらいでしょう。それくらい、差別問題は根が深いのですよ。
仏教語にも「差別」という言葉があります。仏教では、「さべつ」と読まずに「しゃべつ」と読みます。今回は、その「差別」についてお話しいたします。

さて、まずは一般的な差別の意味を押さえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
@比較される双方に構造(形態)上明らかに認められる区別。
A本質的に異なる物事のどちらに属するかについての、微妙な判断を要する違い。
B扱う対象を何らかの観点によって区別すること。
C優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に不当に低い待遇を強いる。
とあります。
@〜Bは、差別というよりは、区別ですね。種類分けというか区分けというか、まあ区別ですな。普段、日頃使われている差別の意味は、Cになりますね。これが問題の差別ですな。優越感を得るための差別、偏見による差別、それによって相手を低く見たり、バカにしたり、隷属させたり、蔑んだりするのですな。それが世界で問題になっている差別ですね。

さて、仏教語の差別(しゃべつ)はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@区別すること。
A異なること。異なった。
B区別。相違。
Cあり方の区別。種類。
D特殊。
E同義語のこと。
Fいろいろの。種々の。
G難しいので省略します。
H平等に対する。それぞれの物が異なる独自のすがたをもって存在しているすがた。
とあります。仏教語では、「区別」という意味しかないのですよ。

仏教では、「差別」という言葉は、「区別」のことなのです。それ以外の意味はないのです。Hは「有り様の区別」ですね。仏教では、差別は「他と異なる、種別、種類、区別」と言った意味しかないのです。そこには、現代にあるような差別問題に使われるような意味はないのです。

本来、差別は区別だけだったのでしょう。そこに、人間の余計な感情が乗ってしまうのですよ。これが問題なのです。仏教では、差別は悪いことではありません。悪い意味もありません。ただ、区別するだけが仏教での差別なのです。そこに生まれてしまう好き嫌いの感情や優越感、偏見などは、二次的な心の働きになるのです。差別自体の働きではありません。
つまり、差別という言葉自体は、単なる区別を表すことで、何も問題を含んでいないのです。「差別問題」と言われる場合は、「区別によって生じる悪感情、悪い心の働き」となるのです。差別という言葉自体は、悪くないのですな。
ですから、仏教では「差別するな!」という注意はありません。「差別によって、悪い心の働きを起こしてはいけない」という注意になるのですね。差別すること自体は、何の罪もないのです。罪があるのは、差別をすることによって生まれる、偏見や優越感、嫌悪、蔑みの心などなどですな。

アメリカでは、未だに人種差別が根強く残っていますよね。コロナ騒動で、それがあぶり出されました。ヨーロッパの国々だって、日頃は人種差別はしないよ〜のような顔をしていますが、コロナが流行り始めたとき、やっぱりアジア人への差別がありました。欧米では、未だに肌の色によって、優劣が存在しているのです。そういえば、オリンピックでアジア系の人たちが金メダルを取ると、次のオリンピックでは欧米人に有利なようにルール変更されていますよね。特に日本人が金メダルを取ったりすると、そういう傾向が目立ちますな。いやいや、ひがんでいるわけではありません。まあ、事実ですよね。皆さんよくご存じだと思います。まあ、欧米の白人至上主義は根強いですよね。

と言っている我々だって、職業差別はするし、出身地での差別は未だに残っていますよね。今は言わなくなりましたが、出身地によっては結婚をさせない、なんて差別が存在していたことがあります。今でも、田舎に行くとお年寄りが「あいつは、○○の出身だから」とか「○○出の人間とは付き合うな」なんてことを言う場合もあります。お年寄りが若かりし頃は、そう言った差別が根強く残っていた証拠ですな。
職業だって、差別をする人はいますよね。特に風俗関係で働く女性を蔑視する人は、まだまだいると思います。エリート家族の中には、肉体労働者の人を低く見る傾向もありますしね。最近では、性的差別も表に出てきています。マイノリティの人たちが不当な差別を受けるということもありますよね。こちらの場合は、まだまだこれから理解が進んでいくのかな、進むといいな、と思います。
まあしかし、差別がない社会、というのはむずかしいですな。

人種や肌の色、職業、出身地、宗教、身体的なこと、性的なことなどで、差別を受けるのは、間違った世の中でしょう。差別されるべきは、差別をする人間の心の方じゃないかと思いますな。妙なエリート意識や人をバカにしたような態度、優越感、蔑みの心、そうした意識を持った人間のほうが差別されるべきだと思いますな。
どんな人だって、どこの出身だって、どこの種族だって、どんな肌の色だって、どんな職業だって、どんな体型だって、どんな性だって、その人の行動や言葉が、正しければ何の問題もないでしょう。差別する方がおかしいですよね。大事なことは、その人自身の言葉や行動なのです。そこで、判断されるべきなのでしょう。差別されるべきは、醜い心の方なのです。
合掌。


212.禅問答
コロナ禍の中、いろいろなところでリモートが進んでいます。会社もなるべく出勤を減らし、リモートで・・・と国からお願いもされています。大学も多くがリモート授業になっています。リモートは、このまま定着していくのでしょうかねぇ。
リモート推進がある一方、リモートの弊害も耳にします。時間の配分が難しい、運動不足になる、会議がわかり難い、伝わり難い、授業が理解し難いなどなど・・・・。会って話さないとわかり難いというところは、あるのかも知れませんね。まだ、リモートに慣れていないと言うこともあると思いますが。
伝える方も聞く方も、リモートに慣れていないとことが進み難いことはあるでしょう。会議などでは、話し合っている当事者はわかっているけど、周りはわかっていない・・・・と言うこともあるようです。唯でさえ、会議なんてわかりにくいことが多いのに、リモートになると、どうも伝わらない、何を言ってるかさっぱりわからない、もう禅問答だね、なんて声も聞こえてきます。いやはや、やり難い世の中になってきました。伝わらない、というのは辛いですねぇ。禅問答ではダメなんですけどねぇ。
ということで、今回は「禅問答」についてお話しいたします。

まず、お断りを。「禅問答」という言葉は、経典には出てきません。元々の仏教語ではなく、日本で作られた仏教語です。ですので、いつものお馴染みの仏教語大辞典で調べても、この言葉は出てきません。ただし、「問答」は出てきます。ですので、仏教語大辞典に掲載されてある「問答」の意味を紹介いたします。
問答
@問いと答えとを互いに繰り返すこと。
A修行者が仏法についての疑問を問い、師家がこれに答えること。禅の修行法の一つ。
参考までに「不随問答」という言葉が紹介されています。この言葉の意味は、
問われても別のことを答え、あるいは沈黙して他人を悩ますこと。
とあります。
またAは、「問禅」とも言われています。

では、現在使われている禅問答の意味はどうでしょうか。新明解国語辞典によりますと
禅宗のお坊さんが行う問答(のように、当事者以外には、何を言っているのか分からない問答や、押え所の無い返事)。
とあります。どちらかというと、()内の意味のほうで使われることが多いんじゃないでしょうか。たとえば、
「あの人たち何言っているのかさっぱりわからない」
「まるで禅問答だね」
というパターンですね。もっとも、最近の方は「禅問答だね」なんて言葉自体使わないでしょうけど、まあ、本を読んでいたりすると出てくることもあるので、この際、覚えておくのもいいかもしれません。

それはさておき。何を言っているのか分からないのが「禅問答」なのです。確かに、仏教関係の本に紹介されている禅問答は、一般の方には通じませんな。師と弟子が「俺の悟りはこうだ」と殴り合うとか、犬に仏性があるかないかを問い、答えられなければ猫を殺しちゃうぞ、とか。意味がわかりませんな。昔のアニメの一休さんにも、こうした意味のわからない問答がトンチとして出てきました。そもそも始まりの屏風の虎を捕まえろって話自体、訳が分かりません。今じゃあ、その問い自体が通じませんな。
「何バカなこと言ってんの? そんなの無理に決まってんじゃん」
で終わりです。
あるいは、有名な禅問答で
「あの旗が揺れているのはなぜか?」
という問いに対して
「心が揺れているからです」
と答えるものがありますが、これも現代じゃあ通じませんね。こんな答えをしたら、
「はっ?、バッカじゃないの。風があるからに決まってるでしょ」
で終わりですな。もはや、禅問答の奥ゆかしさは伝わりません。

奥ゆかしさ、と言いましたが、そう感じる人は少ないでしょうね。禅問答を面白がる人は、まあ少ないでしょうな。むしろ、伝わらないことにもどかしさを感じる人は多いでしょう。というか、禅問答の、はぐらかしの答えや真正面から答えない態度にむかつく人のほうが多いのではないかと思いますな。
「なに政治家みたいなことを言ってるの。まともに答えろよ」
と思う方が多いでしょう。まあ、その方が正解なんですけどね。

「あの旗が揺れているのはなぜか?」
答えは決まっています。風があるからです。心が揺れているから? それはないでしょう。心が揺れていなくても風があれば旗は揺れます。心が揺れていても、風がなければ旗は揺れません。それが真実ですな。原因があって結果がある、それは真理です。心の動きで現象が左右されることはありません。それは、たんなる「印象」であり「感傷的」(最近はエモいとか言うらしいですが)であるだけですな。自然現象に心理的要素を入れているだけです。自然現象はあくまでも自然現象に過ぎません。そこに心理的要素、感情を入れてしまうからわかりにくくなるのでしょう。

もっとも、わざとわかりにくくしている問答もあります。先ほど紹介した「不随問答」に当たる問答ですね。わざとはぐらかす、論点をずらす、わかりにくくして煙に巻く、いきなり記憶になくなるなどなど、お馴染みの国会答弁などは「不随問答」のオンパレードですな。国会議員、いや国会議員だけじゃなく、すべての議員さんや官僚の皆様は、禅問答が得意なようですな。何を言っているのかさっぱり通じません。きっと、素晴らしい悟りを得ているのかも知れませんな。いっそのこと、参禅していただくのがいいかと思いますな。

コミュニケーションは大事です。言わなくても伝わるだろう、はありません。以心伝心は、本当にわかり合った人同士だけで使える技であり、いきなり一般の方が使えるものではないですね。それくらい察しろよ、と言われても、鈍い人だっているのです。察することなんてできないほうが普通だと思った方がいいでしょう。特に最近では、
「言われてないから分かりません。教えてもらってないからわかりません」
が多くなってきています。「見て覚える」なんて言うのは、過去の話ですな。一から十まで教えて、さらにマニュアルがあって、初めて行動できるようになるのが今の人たちなのでしょう。そういう現代人に、リモートは返ってキツいんじゃないかと私は思いますな。余計に伝わり難いのではないかと思うのですよ。そばにいて、手取り足取り懇切丁寧に指導されないと、身につかないんじゃないかと思うのです。

言葉を惜しんだり、訳の分からないことを言っていては前には進みませんな。禅問答は、禅の修行をしている修行者にとっては大事なことですが、一般の人々にとっては全く意味の無いことです。意味不明な言葉を発していないで、中身のある言葉を発し、はっきり伝えるよう努力しないと、リモート中心の社会では生きていけないのではないでしょうか。同時に、聞く力も重要になってきますし、疑問に思うことを恥ずかしがらずに質問することも大事になってくるでしょう。リモートだと、疑問に感じたそのタイミングで質問をしないと、流れていって忘れてしまうことが起こりそうですからね。
分からないことを問う、それにしっかり答える、ちゃんと教える、親切に指導する・・・・。それが大事でしょう。
間違っても「不随問答」にならないようにして欲しいですな。
合掌。


213.忖度
忖度、忖度と騒がれていたのは・・・・もう一昨年のことですかねぇ。あの頃は、森カケ問題やら桜の会やらで、あちこちで忖度という言葉が飛び交っていました。TVをつければ忖度、新聞広げれば忖度。そんな日々でしたね。その忖度も今はどこへやら。コロナウィルスのおかげで吹っ飛んでしまいました。
で、なんで今更「忖度」? と思った方は多いのではないでしょうか。忖度という言葉を思い出して欲しいが故に・・・などという思いは全くありません。たまたま仏教語大辞典を見ていたら、見つけてしまったんですよ、「忖度」を。そう、仏教語大辞典にあったんですな。まさか、仏教語に忖度があるとは・・・・。ちょっとびっくりしたので、今回は「忖度」についてお話しいたします。

まずは、騒がれた忖度の意味を押さえておきましょう。よくご存じとは思いますが、念のために新明解国語辞典によりますと、
「他人の気持ちをおしはかる」意の漢語的表現。
とあります。あの人たちも、総理の気持ちをいろいろ推し量ってしまったんですな。で、それを一言で表現したのが「忖度」という言葉なのです。ま、簡単に言えば
「少しは他人の気持ちを考えろ!」
というところを
「少しは忖度しろ!」
となるのですな。他の言い方をすれば、「察しろよ」ともなりますかねぇ。

では、仏教語の忖度はと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典によりますと
思考。推理。論理。げち慧(げちはKに吉)・乾慧(けんね)ともいう。
とあります。つまり、忖度は、「思考や推理、論理」の意味なのです。ちなみに、「げち慧」とは
@さとい。さかしい。巧みな。
A智慧あること。
とあります。また「乾慧」とは
考察。まだ水にたとうべき理に達していないので、「乾く」という。
とあります。
仏教語の「忖度」は、思考や推理という意味だったのです。理論的に思考すること、ですね。理論的思考から、推理となるのですな。また、そうした智慧をも意味しています。ただし、その智慧は、仏様の智慧ではありません。即ち最高の智慧・・・般若・・・ではないのです。つまり、乾慧の意味にあるように「水」に例えられる智慧までには至っていないのです。

「水」は、仏教ではよく仏様の智慧や仏様そのものの例えに使われます。なぜならば、
@水はどんな形のものにもあわせられる。形を問わない。
A何ものにも引っかからないで(こだわらないで)、流れていく。
B清らかである。
C汚れを清める。
という特徴があるからです。この特徴が悟りそのものだということですね。悟った者は、水のようになるのです。だから、完全なる智慧も水に例えられることがあるのです。
で、忖度は、その水にまで達していない智慧なのです。

忖度は、そもそもは、理論的な思考による推理だったわけですから、そこから現在使われているような「他者の気持ちを慮る」ような意味の使い方へと変化していったのでしょう。
つまり、忖度は、仏様の智慧のような、とても深い深い智慧ではないので、まあ間違いも起こしますな。推理が違えば、答えも自ずから間違いますよね。
推理小説には、ミスリード・・・あえて間違った方向へと推理を進める・・・という手法がありますが、まあそれと同じようなもので、人間の推理も間違った方向へ進むことがあるのです。推理が間違えば、正しい道から外れてしまいますので、正しい結果へは行き着きません。下手な推理はしない方がマシ、ということですな。そういえば、昔の探偵映画などには、必ず間違った推理を進める役の刑事さんがいましたよね。まあ、今でも2時間ドラマには出てくるようですが、まさにあれですな。官僚の皆さんも、間違った推理、間違った慮りをしてしまったのでしょう。推理力が弱かったのかも知れませんね。

下手な忖度なんてしない方がいいんですよ。どうせ賢くないのですから、忖度したって的が外れるだけです。下手な忖度は、ドラマの推理がいつも外れるドジな刑事のように、外れてしまうものです。忖度は、所詮、推理・・・つまり予測・・・ですから、外れる場合も多いのですよ。
ならば、忖度せずに、相手に聞けばいいのです。「これはこうしたほうがいいですか?」ってね。そうすれば、何も問題なんて起きないのです。深い深い智慧もないくせに忖度なんてするからいけないのですな。

下手に相手の腹を探って想像したり、推理したり、勝手な考えを起こしたりするのはよくありませんな。それは事実とは異なります。相手の気持ちを察しろ、なんて言いますが、その立場にならなければ、そうそう察することは難しいでしょう。また、それには多くの経験も必要となってくるでしょう。また人の感情や思考を理解する、想像する、推理するという智慧も必要になりますな。そんな難しいことは、本を読まなくなった昨今の人たちや経験の無い若い人たちには無理でしょう。
だから、忖度なんてしてはいけません。
「忖度しろよ」とか「察しろよ」なんて言われたら、「よくわかりません。どうすればいいんですか?」と素直に聞き返した方がいいですな。一番よくないのは、わかったふりです。わかったふり、わかったつもりになって、下手な智慧を振り絞ってもうまくはいきません。わからないことはわからないでいいから、そのときは問うべきですな。
下手な忖度はダメですよ。
合掌。


214.光明
なかなか落ち着かないコロナ感染者数ですね。減ったかと思えばまた増えて、しかも変異ウィルスなんぞも現われまして、もう大変ですな。一体いつになったら先が見えるのか、不安な日々ですよね。特に飲食関係の皆さんは、この先どうなるのか、いつまで続くのか深刻な問題です。一筋の光明であるワクチンも、まだまだ行き渡っていないのが現状です。明るい光が差すのいつなんでしょうねぇ。
と、ちょっと暗くなってしまいましたので、今回は先への期待を込めまして「光明」についてお話しいたします。

「光明」と言えば、いかにも仏教語という印象はありますね。仏教語の「光明」が一般でも使われるようになったのは、どなたも分かることだと思います。しかし、まあ、仏教語の「光明」と一般の「光明」では、やはり違いがあります。そこの所を詳しく見ていきましょう。
まずは、一般の「光明」の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
くらやみを照らす、明るい光。
とあります。解説に「逆境にある時に見いだす前途の希望の意にも用いられる」となってます。また、「佛などの光が、まぶしく輝くこと」という例も掲載されていました。まあ、使用例は、苦しいときが終わりそうな場合に、「一筋の光明が見えてきた」、などと使いますよね。別の言い方をすると、「長く暗いトンネルの出口が見えてきた。光が差してきた」と言った感じになりますね。

では、仏教語の「光明」はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
仏・菩薩の智慧を象徴するものとして用いる。迷妄の闇を破り、真理を表すからである。阿弥陀仏を讃歎して無量光・無礙光など十二光をもっていうのはその一例である。この光明は、智光(心光)と身光(色光)とに分けるが、前者は智慧そのものの威光を表し、後者は、智慧の外に現われた具体的表現である。仏身から発する光。以下略。
とあります。
主には、仏様や菩薩様の智慧を象徴として光にたとえたわけですね。仏様の智慧は、いろいろ悩み苦るしむ我々凡夫を導くからですね。それを暗闇で迷っているときの救いの光に例えたわけです。それが「光明」の本来の意味ですな。そこから発展して、阿弥陀如来の様々な光の名称が生まれたりしたのです。
しかし、大きく分ければ、光明は「智慧の光」と仏様が放つ「身体的な光」になります。

「智慧の光」は、導きや教えのことですね。例えば悩みの相談に来られた方に、いろいろな仏教的考え方による智慧でお話しした結果、
「あぁ、なんとなく分かりました。そうだったんですね。あぁ、そうか、光が差してきました。先が見えてきました」
と言った状態になれば、智慧の光である「光明」が差した、となるのですな。
一方、身体的な光は、どちらかというと奇跡的現象ですね。お寺などで一心に祈っていたら、突然ご本尊が輝いたように見えた・・・。という経験がある方もいると思います。そのときの光が、身体的光明になるのでしょう。まあ、この光明に照らされることは少ないですけどね。

意味は違うのですが、「飛んで火にる夏の虫」と言われるように、虫は光に集まってきます。コンビニなどで誘蛾灯に虫が集まってきて「バリバリ」って感電死してますな。実際は、火の光に集まってくる虫は、火の中には飛び込みません。熱くて近寄れませんからね。虫もバカではないですな。火の光に集まってきても周辺で着地してしまいます。誘蛾灯は熱くはないですからね。ついつい虫も飛び込んでしまいますな。
虫だけでなく、暗闇で光が差せば、生き物は集まってきますな。鵜飼いも同じですね。かがり火に集まる鮎を鵜に取らせます。イカ釣り漁船も同じですな。光に集まる習性を利用していますね。
暗闇は不安を煽りますからね。やはり、明るい光がさしている方向に向かっていきますな。それが生き物の習性でもあるのでしょう。そんな習性が人間にもあるのですな。だから、ネオン街に人が集まるのでしょうね。それは、一種の自然現象なのかも知れませんね。

誘蛾灯に集まる虫のように、人間も歓楽街のネオンや照明に導かれて、せっせと足を運びますな。それほど大事な用もないのに、なぜか足が向いてしまうという方も多いのでしょう。コロナの影響で歓楽街の照明が消えれば、公園などの外灯の下に、手にお酒やおつまみを持った若者(結構な年齢の方もいるようですが)が、集まってきますな。そういうニュースを見ていると、公園の外灯に集まる虫とあまり変わらないように思えてきますな。あぁ、あの連中は虫並みなんだ、と。なんだか、惨めだし、汚らしいですよね。本当の光明は、そんなところにはないのに、そんな偽物の光明を追い求めて何になる、と思うんですけどねぇ。

今何をすべきで、今何をしてはいけないか。それが理解できないのでしょうか?、と思います。まあ、私は実際に見たわけではなく、聞いただけなので真実は知りませんが、巷では、マスクなし会食をして、お酒を飲んで大声で話している人々が結構いるのだそうです。このご時世に、です。いい加減に今行うべきマナーを身につけたらどうか、と思いますな。静かに、しっとりと、小声で上品に・・・・と振る舞えないのでしょうか?。つまらない歓楽街のネオンや照明など求めないで、本当の光、求めるべき光明をなぜ求めないのでしょうか?
飲食店や人流が問題になっていますが、本当の問題点は、人々の意識の方でしょう。心から、コロナウィルスを収束させたいのなら、人々が本当の光を求めるべきなのでしょう。意識を高く持って、
「大声でしゃべらない。マスクをなるべく外さない。静かに上品に過ごす。群れない。酒はたしなむ程度で終える」
と言うようなことを心がけることが、収束の光明につながるのでしょう。また、飲食店も感染予防を徹底することが大事でしょう。特に接待を伴うようなキャバクラ系の店は、そこが重要ですな。

本当の光は何なのか? 歓楽街のネオンや照明ではないのです。公園の外灯でもありません。コロナ禍から救われるために求めるべき光明は、自分たちの心の中にあるのでしょう。その心の光明に従って、行動を取るべきなのです。
真実の光明を求めて行動したいですな。間違っても誘蛾灯に誘われるような行動はしてはいけませんよね。
合掌。


215.善良
少人数のマナーの悪い人たちのせいで、ちゃんとマナーやルールを守っている人たちが迷惑を被る事ってよくある話ですよね。最近では、バーベキュー場やキャンプ場などで、ゴミをそのまま放置しておくマナーの悪い人たちのせいで、そのバーベキュー場やキャンプ場が閉鎖、なんてことがあります。楽しみにしていた人たちにとっては、いい迷惑なことです。まあ、すぐに閉鎖してしまうのも何ですけどね。
それにしても、いつも迷惑を被るのは善良な市民なのですよ。マナー違反、ルール違反している者は迷惑を被りません。損をするのは真面目な善良な人なのです。理不尽ですよね。今回は、その善良についてお話しいたします。善良は、仏教語にもあるんですよ。

まずは、一般に使われている善良の意味をいつもの新明和国語辞典でおさえておきましょう。
性質がおとなしく、悪気が無い様子。
とあります。何だか、ちょっとピンとこないですが、まあ、説明しようとするとこうなるのでしょうね。悪いことなどしない、マナーやルールをちゃんと守ること、と言った方がわかりやすいかも知れません。

では、仏教語の善良はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典では
「ぜんろう」ともよむ。いかなるものをも知っていること。
とあります。つまり、何でも知っていることを「善良」といったのです。となると、善良な市民、と言えば、「何でも知っている市民」になってしまいますな。なので、仏教語では「善良な市民、善良な人々」という表現はあり得ません。「あの人は何でも知っている物知りだ。善良なんだ」という使い方になりますな。仏教語と現代の「善良」では大きく違いますね。

人間は、否、生物は集団になると、その中で能力差によって自然に区別が出来るそうです。ごく大雑把に説明しますと
1割の超優秀グループ、1割の優秀グループ、6割の普通グループ、1割の劣ったグループ、1割の超劣ったグループ。
となるのだそうです。なお、6割の普通グループも、その中で格差が生まれるそうです。優秀グループに近いか、真ん中か、劣等グループに近いか、という格差ですね。
この格差は、どうしても生まれてしまうものなのだそうです。劣等グループが邪魔だからと言って排除しても、普通グループから劣等グループが生まれてしまうのだそうです。で、同じ状態になってしまうのだそうです。これは、集団を形成すると自然にできあがる格差なのです。
学校時代のクラスを思い出せば、納得できるのではないでしょうか? 一部生徒は優秀、一部は不良か落ちこぼれているか、そしてその他大勢の普通組。クラス分けをしてもこの状態は変わらないですね。で、マナー違反やルール違反を犯すのは、2割の劣等グループなのですな。こういう組は、大人になっても同じ事を繰り返すのです。だから、大事なのは、このグループへの教育になるのです。

私は、勉強などはそんなに出来なくてもいいと思っています。読み書きそろばんが出来れば、何とか生きていけますよね。それで十分、とは言いませんが、まずは基本的に読み書きそろばんが出来ればいいでしょう。それよりも、社会での守らねばいけないことを教えた方がいいと思うのです。集団で生きるとはどういうことか、と言うことの教育ですな。
普通以上の人たちは、まあ、学校や家庭などを通して、善良であることを学びますな。また、そうあろうとする傾向があります。しかし、劣等グループは、自分勝手が多いので、善良と言うことを意識しない場合が多いように思います。
ゴミだってポイ捨て、態度が悪い、やる気が無い、自分勝手・・・まあ、皆さんもそう思っているのではないでしょうか? こういう、クラスのやる気の無い者たちには、私は勉強など教えなくてもいいと思っています。否、興味のあることだけ学べばいいと思っています。で、もっと大事なのは、社会的ルールを守る、と言うことだと思います。勉強よりもルールを守る、人に迷惑を掛けないようにする、と言うことを教えた方がいいと思うのですよ。勉強しなくてもいい、だけど社会のルールは守ろう、それでいいのだと思います。
まあ、しかし、こういうグループの場合、往々にして家庭にも問題があることが多いのです。親がDQNだったり、親がすさんでいたり、まあ、そこには生活困窮もあったりするのでしょうけど、多くの場合、家庭にも問題があるのでしょうね。だからこそ、学校でカバーしてやる必要が出てくるのだと思います。
ですが、日本の教育は、ダメですからね。そこまで配慮はできなのでしょうな。

日本の教育は、こうした落ちこぼれてしまった者たちは冷たいですからね。先生も大変だとは思いますが、もう少し配慮があってもいいと思いますな。そもそも愚民教育と言われているくらいですからね、日本の教育は。多くの物を知らない、善良な市民を作るのが日本の教育ですから。深く考察し、観察力があり、多くの知識を持ち、相手の心理や裏を読み、国の不正を暴くような、そんな市民は要らないのです。搾取されていることに気付かない、のほほんとした善良な市民が多くいればいいのですな。その方が国にとってはやりやすいですからね。うるさい人間はいらないのですよ。だから、劣ったグループがいても、強くは規制しないのですな。文句を言わない、多くの善良な市民に我慢を強いれば済むことですからね。

本当の意味での善良な市民を作る教育が大事なのに、まあ、ダメですな。教育を根本から変えないとね。社会という集団で生きると言うことの大切さをもっと真剣に教えていかないとダメなのだと思いますよ。ですが、そうはならないから、個人的によく物を知っている本当の意味での「善良な市民」を目指すしかないのでしょう。
真実を見抜く力を身につけるには、よく物を知ることから始まります。まずは、仏教語の意味での善良を手に入れることが大事ですな。
合掌。


216.愚痴
先月の初め、両手の指を怪我しました。で、数日してよくなってきたから、指にテーピングしてボルダリングに行きました。ちょうどホールド替えして(新しい課題ばかり)だったので、ついつい張り切ってしまい、なんと指から出血。ここでボルダリング中止。まあ、またしばらくすれば治るだろうと思っていたら、どこかで雑菌が入った模様で、指先が化膿。病院に行って診てもらったら「一ヶ月はボルダリング禁止です」と言われてしまいました。あ〜、調子がよかったのに、ノリノリだったのに!と思っても仕方がありません。まあ、自分でやってしまったことですからね。とはいえ、身体が動かせない、好きなボルダリングができないとなると、ストレスが溜まりますな。ついつい出てくるのがグチ。あーでもない、こーでもないとグチグチ。愚痴っても何も変わらないんですけどね。でもつい出てしまうのがグチですな。今回は、そんな愚痴についての話です。愚痴も元は仏教語なんですよ。

まずは、一般に使われている「愚痴」の意味をいつもの新明和国語辞典でおさえておきましょう。
(道理が分からない意)言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと。
とあります。まあ、そのまんまですね。愚痴は、いくら言ってもどうしようもないことです。どうしようもないから、愚痴になって出てくるんですな。

では、仏教語の「愚痴」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典では
@愚かなること。
A無知。真理に対する無知。心が暗くて一切の道理に通じる智慧に欠けたありさま。それが誤った行いの原因となる。
B迷妄。迷い。錯覚。妄想。(知的な事がらに関する)迷い。愚かさ。無明・癡に同じ。心の迷い。物事に的確な判断を下せないこと。煩悩の根本で、三毒(貪・瞋・癡)の一つ。
C愚迷な。
D煩悩の迷い。ものわかりの悪いこと。
E凡夫。
F十二因縁の第一の無明。
G愚かな凡夫のことをいう。道理をわきまえる智慧のない者。
H通俗的には、心愚かなため、言っても効果が無いことを並べたてるのを、愚痴をこぼす、という。
とまあ、沢山の意味があります。沢山ありますが、一つにまとめてしまえば「愚か」になりますね。そう、愚痴は、愚かなことなんですよ。

真理を理解しない、道理を理解しない、迷って迷って、いろいろ愚にもつかない妄想に嵌まり、その迷いから脱出できない、智慧の無い愚かなことを「愚痴」と言ったのですね。で、そこから、現在の愚痴の意味にも通じるHの意味が生まれたわけです。
愚痴は、愚かな考えから生まれてくるのですな。だから、愚痴・・・愚かな痴と書くのです。愚痴の痴も、愚かという意味ですからね。つまりは、愚痴は、愚か愚か、愚かの二乗、と言うことですね。

世の中は、コロナ禍でもう大変ですな。オリンピックは何が何でも開催、客だって入れちゃうよ的なごり押しムード。緊急事態宣言や万延防止で大打撃を受けている飲食関係や観光関係の皆さんにしてみれば、政府の無策ぶりに愚痴も言いたくなりますよね。愚痴っても何も変わらないのですが、愚痴くらい言いたいでしょう。それでストレスの発散になるのなら、愚痴ってもいいのではないかと思いますな。

ただし、愚痴に嵌まってはいけないと思います。愚痴に嵌まるとは、愚痴ばかり言って何も考えなくなる状態のことです。これはいけません。思考がストップしてしまいますな。
そもそも愚痴は、考えても仕方が無いこと、手立ても何もなくどうしようも無い状態のことを言います。そこから愚痴が口から出てくるのですね。クソ、ムカつく、イライラする、ため息しか出ない、どうしようっていうのだ、あ〜もう!・・・などという心の状態が、口から出てくるのが現在使用している愚痴ですな。本来の愚痴は、口から出る前の心の状態です。この状態になると、軽いうちはいいのですが、深刻になれば思考はストップ、一つ間違えばあらぬ方向へと心が動き、それに従って行動してしまうことになります。最悪、事件を起こしたり、犯罪に走ったり、自殺・・・と言うこともありますな。愚痴に嵌まるのは、恐ろしいことなのです。

少しくらいなら愚痴ってもいいと私は思います。ストレス発散程度の愚痴ならね。笑って済ませられる愚痴、「こんなこと愚痴っても仕方が無いんだけどね」と自覚できる愚痴は大丈夫でしょう。
しかし、笑って済ませられない愚痴、目が真剣になってしまっているときの愚痴、視野が狭くなり、思考能力が落ち始めたときの愚痴は、これは危険ですな。もし、そういう愚痴が口からで始めたときは、ご注意ください。周りの人にも言っておくといいですな。「深刻な愚痴を吐き始めたら止めてくださいね」とね。

あ〜、早く指が治って欲しいですな。医者から言われた一ヶ月のボルダリング禁止も、もうすぐ解禁。本当に治っていればいいんですけどね。ちょっと心配ですな。もし、また悪化してしまったら、愚痴のオンパレードになってしまうかも知れません。愚痴に嵌まらないように注意しないといけませんね。皆さんも、何となく暗いムードのコロナ禍の中、笑いながらの愚痴はいいけど、深刻な愚痴になったら、ご注意くださいね。くれぐれも、愚痴に嵌まらないようにしてください。
合掌。


217.呪
最近のアニメですか? 呪文が重要なアイテムというか、呪文を使って戦いをするというアニメが流行っていたと思います。呪文は、今だけでなく、昔から流行はありましたけどね。まあ、昔は忍者モノでよく見かけましたね。あぁ、そういえば、コミックとアニメの「ナルト」でも呪文や印が登場してました。忍者モノといえば、大抵はお不動様の印を結び九字を切る、というのが定番でしたな。まあ、我々プロから見れば、笑えるレベルなんですが、まあ、そこはそれ。あくまでもショーですからね。
「呪」は、もともと佛教系の言葉ですね。「呪印」も佛教系というか密教系の言葉ですな。今回は、正確な「呪」についてお話しいたします。

まずは、現代使われいる「呪」について抑えておきましょう。いつもの新明和国語辞典によりますと、
(もと、仏教語の陀羅尼の訳)鬼・悪事を払い、病気を治すために、口で唱える秘密の文句。
と、あります。これが、現代の「呪」の理解なんですな。まあ、そのまんまって感じですな。

一方、仏教語の「呪」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典では
@まじないの文句。
A不可思議な験を有する秘密語。呪は本来シナでは秘密語を意味し、その用例がdh?rani(陀羅尼)に類似していたため、これが訳語として用いられた。
B祝詞。呪文。真言。mantra(この語はもとはヴェーダの神歌を意味した)
とあります。「呪」は、本来は、秘密語なのです。

とはいえ、現代語の「呪」も仏教語の「呪」も意味は同じですね。使用目的も同じです。一応、陀羅尼は「呪」の長いもののことです。「呪」は、主に真言に用いますな。まあ、陀羅尼も真言も、全部ひっくるめて「呪」であることには違いないですが。
また、「呪」は祝いの言葉で唱えれば、それは「祝詞」となりますね。悪い意味で使えば「呪い」となります。「呪印」とは、「呪と印」のことです。「手に印を結び呪を唱える」と言うことですね。大きな法会の際、願文を唱える役割の僧がいますが、この僧のことを「呪願師」とも言います。まあ、正式の法会の場合のみですけどね。

また、本来「呪」は、素人さんが使っていいものではありませんでした。誰でも自由に唱えていいものではなかったのですよ。一応、灌頂を受けた者でないと、公に「呪」を唱えることは禁止されていたそうです。ですから、いわゆる街の「拝み屋さん」や「霊感占い師」みたいな人が、唱えていいものではないのですな。まあ、あの人たちは、見よう見まねでお祓いなどをしている節がありますからね。真言もいい加減な場合があります。

TVでは見なくなりましたが、最近ではYouTubeで、霊感師的な人が出ているそうで。そういう人は、きっといい加減な「呪」を唱えているのでしょう。困ったものですな。正式な「呪」を授かっていないなら、見よう見まねやネットで得た知識だけで霊感師的なことをするのは、よろしくないと思います。
私は、霊感がある、と言ってうちの寺に訪れる人には、
「霊感があるなら、修行しなさい。もし、その霊感が本物ならば、あなたはとてもいい僧侶になるし、もし、その霊感が怪しいものなら、その霊感は消えるでしょう。はっきりさせるためにも修行に行くべきです」
と答えるようにしています。ですが、今までに修行に行きます、と言った人は一人もいません。それでよく分かりますよね。自信が無いことがね。

「呪」は、皆さんが思っているほど簡単なものではありません。唱える人の心情によっては、正しい「呪」も間違った「呪」になる可能性もあります。また、意味のない「呪」になる場合もあります。これが、一つ間違えば、「呪い」にもなります。
一般に唱えてよいとされている真言は、気にすることはないのですが、ネットに流れている特殊な真言・・・「呪」・・・は、素人さんが扱っていいものではありません。危険が伴います。ましてや、他人を呪うために唱えるのは、もってのほかですね。

人を呪わば穴二つ・・・呪いの報いは必ず自分にも返ってきます。危ないことは、してはいけませんな。また、簡単にネットに上げている人たちも重々知るべし、ですね。やっていいことと、やってはいけないことがあります。「呪」は、秘密語である、と言うことを忘れてはいけませんね。
取り扱い厳重注意なのですよ、「呪」はね。
合掌。


218.俗
年齢を経てくると、徐々に世間の流行に疎くなっていきます。疎くなるというか、目には入らないし、耳にも入らなくなるんですね。特に流行りの曲とか、若い人の音楽とかが、ま〜ったく耳に入りません。雑音にしか聞こえないのです。私だけかな?、世間と隔てた時間が多いからかな?、と思ったのですが、同年齢の方に聞くと、その多くの方が「あるある」と言います。まあ、「オヤジ・オバサンあるある」なのかな、のようですね。特に、坊さんの生活は、俗世間と離れていますから、流行ものには、疎いところはありますな。
ということで、今回は、「俗」について蘊蓄を語っていきます。

一般の「俗」の意味は、どうなのか、まあ想像はつくと思いますが、一応念のためお馴染みの新明解国語辞典で見てみましょう。
【1】@世間普通(に行われていること)。
   A世間一般の人の興味・関心の的である様子。
【2】@出家していない人。
   A民間に自然発生的に行われるならわし。
とあります。【1】@は、平凡とか価値が低い、という意味で使われるそうです。「俗だねぇ〜」という言い方になるのでしょうか。ちょっと小ばかにしたような言い回しですね。「そりゃ、俗語でしょ」とか「俗説だな」などともいいます。
Aのほうは、金銭や名誉に関わる事なのだそうです。「俗人だ」、「俗物だ」、「低俗だ」という使用例が掲載されています。いずれにせよ、小ばかにしたいい方になりますね。
【2】@は、そのままです。出家していない俗人のことですね。出家した人・・・僧侶・・・が、一般人に戻るときは「還俗」といいますな。「俗に還る、俗人に戻る」という意味ですね。ということは、僧侶は、俗人ではない、ということになりますな。このことは、後で話しますね。
Aは、習俗とか、風俗とか、のことです。いつの頃からからか、習慣になっていることとか、村や町での決まり事などのことですね。お祭りとかも含まれますね。ちなみに、風俗とは、よくいう「性風俗」のことではありません。村や町に伝わる「習慣、ならわし」のことです。ご注意ください。

では、仏教語の「俗」はどうなのでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@風俗。習慣。ならわし。
A世間のこと。出世間に対していう。
B俗人。僧侶の対。出家していない人。世間一般の人。世俗の略。
C省略
Cを省略したのは、全く使われていない意味であることと、一般の方には無意味な内容なので、省略しました。詳しく知りたい方は、調べてみてください。まあ、調べても「へぇ〜、よくわからんな」で終わると思いますが。

さて、仏教語大辞典でも、「俗」は、風俗とか習俗のことが、第一に上がっています。もとは、習慣や習わしのことを意味していたのですね。いつ始まったかわからないような、自然にできた習わし、習慣のことを「俗」といったのです。その俗から、習俗や風俗という言葉が生まれたのですな。なので「俗」単体になりますと、一般の、世間一般、という意味が強くなってきます。いわゆる「俗世間」のことですな。こちらのほうが、今は多く使われていますね。

皆さんは、「俗」の反対語をご存じでしょうか? 俗に対する言葉は、「雅」と「僧」なのだそうです。
「雅」は、まあ、俗ではないですね。こちらは、俗の意味の中の「低俗」についての反対語になるのでしょう。「雅」は、高貴ですからね。上級なのです。俗は、底辺ですからね、印象的に。もちろん、習俗となると、そこには伝統文化的な匂いもしますが、どちらかと言うと庶民の文化ですよね。そう、俗は、あくまでも一般庶民系の言葉なのですな。なので、「雅」が反対語になるのだそうです。

もう一つ。「僧」ですな。僧侶といえば、出家の身ですね。なので、俗世間とは離れているのが当然なのです。僧侶は、俗世間と縁を切って、出家するのですな。悟りの世界へ向かうため、修行に専念するには、俗世間と縁を切らねばいけないのですよ。ということで、俗の反対語に「僧」が出てくるわけです。確かに、僧から俗人に戻るとも言いますしね(これを還俗といいますな)。
今でも、一度出家をし、修行も一通り終えたのに、なぜか還俗する方がいます。もったいないな、と思いますな。還俗しなくても、俗世間と交流は持てますからね。僧のまま、俗世間に生きても構わないと私は思うのですが、けじめをつけたいのでしょうか? しかし、極端はあまりよくないと思います。極端な考え方は、思考を狭くしますからね。還俗するには、それなりの勇気も必要でしょうから、どういういきさつでそうなったか、聞いてみたいものです。まあ、私は、話を聞いた場合、還俗は止めますけどね。だって、気が変わるかもしれないじゃないですか。人間は気まぐれですから。
還俗した場合、僧侶になるには、また一から修行をしなければなりません。初めからやり直しです。ならば、還俗せずに、僧侶の資格を持ったまま、俗世間で働けばいいと思うのですが。まあ、本人の気持ちの問題ですけどね。僧侶になっても、俗世間と完全には切れませんからね。

そもそも、僧侶で完全に俗世間と切れている人なんているのでしょうか? 過去にも現在にも、まずいないのではないでしょうか?
俗世間と完全に切れているならば、当然ネットなんてできませんし、TVやラジオもダメですな。新聞だって読んじゃなダメです。もちろん、俗世間の人と交流はあってもいいですが、寺を訪れる人のみの交流でしょう。スポーツジムに通うなんてもってのほかですな。
こういう生活を送る・・・まあ、世捨て人のような生活ですね・・・のは、果たして正しいのでしょうか? こんな生活を送っていたら、世間のことはまずわからないでしょう。世間話もできません。ということは、一般の人と交流があっても、何がなんやらわからない事だらけになってしまうでしょう。
実際、俗世間と交流のある私でも、最近の流行には疎いです。「へぇ〜、そんなことが流行っての?」などということはよくあるし、新しい施設ができたという話だって、「へぇ〜」てなもんです。俗世間と完全に縁は切れていないのに、俗世間のことには、疎くなりますな。

俗にまみれ、低俗な坊主になってはいけないと思います。かと言って、世間知らずの坊主もダメですな。それでは、一般の方とお話ができませんからね。そこの線引き・・・どの程度、俗とかかわるか・・・は、僧侶にとって大事なことですな。あまり世間ずれしててもいけないし、世間知らずもいけない。そのバランスが大事なのです。ところが、このバランスを崩すお坊さんもいるようで・・・。

お坊さんだけでもないですね。一般の方も、低俗になってはいけないと思います。ある程度の「品」は、保ってほしいですな。あまり下品で、低俗になると、周囲から相手にされなくなりますよね。下品は、嫌われます。かといって、ツンとお高くとまっていても、相手にされなくなりますな。多少は、俗っぽい話にも加わらないと、仲間はできにくいですね。

俗か、俗でないか。俗か雅か、俗か僧か・・・。そのバランスが大事なのですな。理想は、俗世間のことはよく知っているけど、決して俗に染まっていない、だけど、ツンとしているわけでなく、ざっくばらんで話しやすく、上品ぶっていないけど下品でもない、気さくな人物・・・といったところでしょうか。
俗人であっても、出家者であっても、そうありたいですな。俗と俗でない世界を自由自在に行ったり来たりするけど、俗に染まらない。そういう生き方が、いいんじゃないかと思います。
なお、お坊さんの場合は、俗に染まらないように気を付けることですな。俗にあっても、心は解脱の中、それが僧侶の立場ですな。僧俗不二、それが大事ですね。
合掌。



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