えっ?!

こんなところに仏教語!

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219.無学
大人になると、学ぶ機会が少なくなってきます。高齢になればなるほど、学ぶことから遠ざかり、自分から積極的に学ぼうとしないと、学ぶことに縁が無くなってくるのです。趣味で習いごとをする方がもいますよね。カルチャーなどに通って、フラワーアレンジメントとか絵画とか書道とか習っている方もいます。お城について調べるとか、戦国武将について本を読むとか、歴史探訪などをする方もいます。あるいは、パソコンやスマホの活用術を習い、SNSを楽しんでいる高齢者の方もいます。家でボーッとTVばかり見ているよりは、外に出て習いごとをしたり、趣味仲間と研究成果を語り合ったりするのは、いいことだなと思います。いくつになっても、何かを学ぶことは大切なのでしょう。学が無い、なんて言われないためにも、最低限のことは、年を取っても知っておいたほうがいいでしょうな。
ということで、今回は、「無学」について蘊蓄を語っていきます。

一般の「無学」の意味はどうなのか、お馴染みの新明解国語辞典で見てみましょう。

十分(専門的)な教育を受けていないこと(様子)。
〔仏教では、「有学(ウガク)」の対として、真理を窮めつくして、もはや学ぶ必要が無いことを指す〕

とありまして、佛教語の無学についても、少し紹介しております。そうなんです、この解説にあるように、佛教語の無学は、一般的な無学の意味の正反対になるのです。
そこまでわかっているのですが、一応、念のために「無学」をお馴染みの仏教語大辞典で見てみましょう。

有学の対。すでに学をきわめ、もはや学ぶべきものを残していない境地、または聖者。阿羅漢果のこと。あるいは仏のことを言う。無学位・無学果・無学道ともいう。一般にいう無学(学問のないこと)は、仏教用語では、非学非無学に当たる。

とあります。つまり、悟った者は「無学」になるのですな。
阿羅漢は、お釈迦様の弟子で悟った者のことを言います。お釈迦様や菩薩と同じ境地ではありませんが、修行僧の中では最高の境地になります。阿羅漢に達すれば、輪廻から解脱したことになります。ですので、悟った者になるのですな。
有学(ウガク)とは、仏教の真理は知っているが、それを体感できていない状態、だと思っていただければいいかと思います。仏教の知識は、豊富にあり、それこそ学ぶことは無いのだろうけど、未だ悟りに至らず、という状態が有学ですね。広い意味では、学ぶことが沢山ある修行者全般、を指しますな。簡単にいえば、阿羅漢に達していない修行者のことですね。悟っていない者は、みんな有学になるのです。

世の中には、学ぶことが沢山あるでしょう。知らないことは、い〜っぱいあります。ですが、さも何でも知っているような顔をして、偉そうな態度をしているご高齢の方がいるのは、納得できませんな。たいしたことも知らないくせに、妙に威張って偉そうにしているご高齢の方を見ると、とても残念な気分になります。あぁ、無学なのに何を偉そうに、威張っていないで学べばいいのに、と哀れに思います。
知識が豊富なご高齢の方は、威張ったりしませんな。まあ、聞きたくも無い、その知識をひけらかすという下品な方もいますけどね。いろいろな知識を得ると同時に、マナーも学んで欲しいな、と思います。
イヤイヤそれよりも、もっと大事なことがあるでしょう。それは「時代」です。

昔はこんなんじゃなかった、昔はよかった、今時の者は・・・、などと愚痴っていないで、今を学んだ方がいいと思うのですよ。今という時代を誰もが学び、知っておくべきだな、と思います。
若い人たちの態度に戸惑う、若い人たち働き方に驚く、若い人たちの考え方がわからない、などという声をよく耳にします。きっと、その人たちも、若い頃そう思われていたのでしょうが、それでも自分たちの時代と今では、差が大きいと感じている方は多いのではないでしょうか。
そりゃそうですよね。私たちが若い頃も、働き盛りの中年の人たちも、若い頃にパソコンもスマホもありませんでしたからね。あっ、パソコンはあったか。でも、それほど普及はしていませんでした。また、スマホではなく、ガラケー時代でしたから、スマホほど便利では無いですな。

今の時代、分からないことは、スマホでチャチャチャと検索すれば、すぐにわかりますな。私たちの時代は、あっちの本を調べ、こっちの資料を当たり、などと苦労したのですが、今は簡単ですよねぇ。でも、そのせいか、頭には残らないですな。苦労して調べたことは、頭に残りますが、スマホで見たことは、頭には残らないです。また、調べればいいか、という思いもありますしね。

今の時代は、スマホができて、SNSができて、パソコンなんぞも使えて・・・という時代ですな。そういう時代に少しでもいいから、ついて行こう、現代を学ぼうという気持ちを持たないと、そのうちに「老害」の仲間に入ってしまうのですよ。
無学はダメですな。学ぶことはいっぱいあります。「もう学ぶことは無くなった、悟ったぞ!」という佛教語の「無学」になるまでは、学び続けた方が自分のためにも周囲のためにもいいですよね。
今からでも遅くはありません。世の中には、知らないことが沢山あります。大いに学びましょう!
合掌。


220.志願
衆議院選挙も終わりまして、果たしてどのような結果になったのかは、現時点では分かりません。しかし、選挙区によっては、結構な人数の立候補者がいたり、えっこれだけ?と言う選挙区もあったりしますよね。特に都心部は、立候補者が多いように思います。無所属だったり、全く知らない政党だったり、まあ、様々ですな。しかし、供託金が必要なのに、よく立候補するな、と思います。ある程度の票が取れないと、供託金は没収。ということは、よほど自信がある、と言うことなのでしょうな。だからこそ、志願して立候補できるのでしょう。じゃないと、供託金がもったないですからね。
さて、「志願」です。この言葉も佛教語中にあるのですよ。今使われている「志願」の意味からすると、佛教語でどう使われているのか、想像できませんね。今回は、そのあたりのことをお話しいたします。

まずは、一般の「志願」の意味はどうなのか、お馴染みの新明解国語辞典で見てみましょう。
その団体のメンバーになりたいと希望し、願い出ること。[転じて、有名人のまねをして自分もそうしてみたいと思うことや、自分からその役を買って出る意にも用いられる。以下例なので省略]
とあります。
ある団体があって、その一員なりたいと思って、「メンバーに入りたいでーす」と申し込むことが「志願」と言うことですね。まあ、あまりいい例ではないですが、とある国の兵隊組織に入りたいときに、志願する、といいいますな。志願兵という言葉にもなります。ほかには、これもいい例とは言えませんが、自殺志願者とかね。このように使いますが、まあ、最近では、あまり使われなくなってきたかな、とも思います。

さてさて、佛教語の「志願」は、どうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典で見てみましょう。結構違うんですよ、今の志願とは。
@心を向けること。
Aこころざし。ねがい。
B誓願に同じ。
とあります。@心を向ける、というのは、わかりにくいと思います。まあ、そのまんま受け止めていただければいいかな、という感じですね。心を向けるだけ、です。
主には、Aの意味で使われたようです。こころざし、ですね。願いでもあります。なにか願うこと、それが志願だったのですな。そこから、誓願へと発展していったようです。
「誓願」とは、心に願うこと。願い、の意。とありますが、どちらかというと、壮大な願いのときに用います。例えば天界に生まれ変わって神になるとか、一切の衆生を救うとか、ですね。観音様が、一切の衆生を救うまでは如来にならない、という御誓願を立てられた、と言う場合ですな。小さな願いではなく、大きな願い、のときに「誓願」を使います。「志願」は、どちらかというと、もう少しスケールが小さい場合に使いますな。

さて、立候補された皆さん。政治へ志願したのですね。少しでも、日本の政治をよくして、日本をもっと住みやすい国にしたい、という志を持って立候補したのだと思います。決して、売名行為やふざけ半分で立候補したのではない、純粋な気持ちで、大きな志をもっ立候補したのだと思います。
ですから、当選した暁には、その志を忘れず、国のために働いて欲しいですな。まあ、忘れるんですけどね、多くの場合・・・。
きっと、初めは志を持って国会に臨むのでしょうが、まあ政治の世界のドロドロに影響を受けて、変わって行くんでしょうな。ま、青臭いことばかりや理想論ばかり唱えていても、政治は成り立ちませんからね。理想論ほど、邪魔なものはないですからね。現実を見て、それにあわせ、妥協して進めるのが政治ですからね。初志も、ある程度は変えていかないとならないでしょうな。
それでも、いつか自分が権力をふるえる立場になったときは、初志を思い出して欲しいですな。
当選した皆さん、ういういしい志をどうか忘れずに、国政に臨んでください。大きな誓願ばかり立てる、口ばかりの政治家にならないようにね。よろしくお願いいたします。
合掌。


221.悪所
早いものでもう12月、師走ですね。なぜか日本は、コロナも落ち着いてしまい、多くの人が出歩いております。これから年末に向け、もっと人出は増えるのだろうな、と思います。が、それでも感染者数は増えないのでしょうな。まあ、マスクの効果が大なんでしょうね。欧米の人たちは、マスクしてないでからね、あれじゃ、感染は広まるでしょ。ワクチンを信じすぎなんじゃないかと思いますな。
さて、年末も押し迫ると、悪いところに悪いやつが集まり悪い相談をすることも増えてくるのではないかと思いますな。強盗だの、詐欺だの、泥棒だの、年末は増えますよね。今も、妙な事件が増えております。気をつけないといけないですね。
また、色町に繰り出すオジサンたちも増えそうですな。江戸時代は、悪所なんて言いました。遊郭のことですな。ま、どこへ行くのも自由ですが、くれぐれもマスクを忘れないようにしたいですね。
さて、今回は、オジサンたちの憧れ?の悪所についてお話いたします。

悪所とは、まあ、悪いところなんでしょうが、一応、国語辞典でおさえておきましょう。お馴染みの新明解国語辞典によりますと
@道の、危険な所
A「遊郭」のえんきょくな表現。
@は、山の中の崖崩れをした場所とかを指すのでしょう。まあ、あまり使わないです。Aのほうは、時代劇や時代小説にはよく登場しますな。悪所通いの若旦那、なんて感じですね。遊郭、特に吉原をそう言ったようですな。

では、仏教語の悪所はどうでしょか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
悪趣に同じ→悪趣
とあります。なので、悪趣を調べてみましょう。
@悪いところ。悪行の結果として衆生が行かねばならない所の意。悪行の結果として受ける生存の状態。苦しみの生存。行為の報いを受けて生まれる迷いの世界。悪道とも言う。地獄・餓鬼・畜生を三悪趣という。これに修羅を加えて四悪趣。三悪趣に人間・天上を加えて五悪趣・五道ともいう。五悪趣に修羅の加わったものを六道といい、人間は六道を輪廻するともいう。(中略)人間界も、さらに天上界も悪趣と考えられていることは注目すべきで、古代インド人にとっては、人間に生まれ変わらないことが大きな願いであった。
とあります。長いですな。長いですが、言っていることは、悪所=悪趣であり、悪いことをしたものが生まれ変わる場所、ということです。

しかし、この仏教語大辞典の解説を読みますと、どうやら古代インド人は、六道・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・・・すべてがダメで、生まれ変わらないことがベストだ、とそう考えていたようですな。つまり、悟ることですね。悟ること以外どこだって悪趣じゃん、ということですね。
その後の仏教では、悪趣と言えば、地獄・餓鬼・畜生のことです。三悪趣ですな。ここに生まれ変わるものは、特に悪業が深い者、といわれます。
地獄は、殺人・強盗・邪淫を犯した者が行く世界です。餓鬼は、貪り・妬み・ひがみ・怨み・羨みなどがひどい者が行く世界ですね。畜生は、怠け者・性行為にばかり耽る者が行く世界です。どこも、苦の世界ですね。この中でも特に注意が必要なのが、餓鬼界です。

地獄に行こうと思っても、そう簡単にはいけません。よく「これじゃあ、地獄行きですかねぇ」と聞かれることがありますが、そう簡単には地獄へは行けませんな。地獄行きの条件は、まずは、犯罪・・・最低でも殺人・・・を犯さないとダメですからね。殺人か強盗殺人か複数の強姦か、そうした極悪の犯罪を行わないと、地獄へはいけません。
畜生界も、行く人は少ないかな、と思います。まあ、引きこもりは畜生界ですな。あと、邪淫に耽っている者もですな。しかし、引きこもりも増えたとは言え、大量にいるわけでもなく、邪淫に耽る者は、ごく少数でしょう。一般人は、邪淫に耽るほどヒマも金も無いですしね。

ところが、餓鬼界は違います。もっとも人が行きやすい悪趣になっています。なぜなら、誰の心にも、「貪り・妬み・ひがみ・怨み・羨み・蔑み」などの思いがあるからです。これらのどれかが、あるいは複数がエスカレートしてしまうと、餓鬼界まっしぐらですな。下手をすると、生きたまま餓鬼となってしまうこともあります。
餓鬼はどこにでもいます。気をつけないと、ちょっとしたことで餓鬼に好かれ、取り憑かれれしまうこともあります。この頃、妬みの心が強いなとか、ひがみっぽくなっているとか、恨み言ばかり言っているとか、イライラが収まらないとか、そんな状態だったら、要注意ですな。餓鬼界への危険度アップです。そうした気持ちにとらわれてしまうと、アウトですね。

悪行の末、行き着く場所が悪趣(悪所)ならば、悪いことをしなきゃ行くことはありません。関係ない場所となりますな。まあ、多くの方は、関係の無い場所だと思いますが、そういう場所があることだけは、知っておいて欲しいですね。悪行の報いは必ずあり、自分が苦しむことになるのだと。
年末で、財布のヒモも緩み、悪所通いをしないように気をつけてくださいね。気がつけば、スッカラカンとならないよう、特にオジサマ方、要注意ですな。悪所通いの報いが、奥様の怒りとならないよう、お気をつけください。
合掌。


222.神通力
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。合掌。
1年が経つのは早いですね。というか、年を取るほどに時の流れが早く感じますな。これは、一説によると、人生の残り時間が短くなるから、時の流れを早く感じるようになるのだとか。まあ、人生を焦ってしまうわけですね。残りに限りがあるから、ということなのでしょう。
しかし、佛教で説くように、来世があると思えば、焦る必要は無いんですけどね。まあ、先が見えるわけではないから、来世があると言われてもねぇ・・・、と一般の人は思ってしまうのでしょう。先が見えるような、神通力でもあれば、安心できるのかも知れませんが。
ということで、今回は神通力についてお話しいたします。

お正月になると、最近では見かけなくなりましたが、昔はTV番組で1年の動向を占ったものです。あるいは、芸能人の今年の1年を占いました。最近では、いつでもどこでも勝手に占っているようですけどね。
で、その占い。そもそもは、占いは統計学に基づくものです。いにしえからの統計によるものですな。ですが、中には統計に寄らないモノがあります。いわゆる霊感占い、という胡散臭い占いですな。なんでも、霊感によって、先が見えるのだそうで。まあ、一種の神通力ですな。いったい、いつどこでそのような大それた神通力を身につけたのか、聞いてみたいものです。

佛教で説く、というか、インド古来からの神通力には、6種類あります。お馴染みの仏教語大辞典によりますと、神通力とは
@超人的な力
A聖者の具備する六つの不思議な力、すなわち六神通のこと。六神通とは、天眼通・天耳通・他心通・宿住通・漏尽通・神境通。
とあります。この六神通は、聖者が備えていたものなのですよ。

インドでは、古来、聖者になるために修行をすると、神通力が自然に身についたそうです。つまり、修行をしないと、神通力は身につかないのです。なので、いわゆる不思議な超人的力というのは、簡単に手に入るものではなく、すんごい修行をしないと身につかない、と言うことですな。ですが、我が国には、修行もしないで、摩訶不思議な力・・・霊感・・・を備えている方が、妙にたくさんいるのですよ。一体何なんでしょうね?

と、その話に入る前に、一応、六神通の説明をしておきましょう。
@天眼通・・・超自然的な眼。死後の世界を見通すこと。天界から地獄の世界を見ることができる。
A天耳通・・・自在に一切の言語・音声を聞くことのできる能力。
B他心通・・・他人の心のありさまを知ることができる。他人の心がのぞける能力。
C宿住通・・・自他の身の過去世における生死の相を知る智慧。自分や他人の前世が分かる能力。
D漏尽通・・・煩悩の汚れがなくなったことを知る智慧。もう生まれ変わることがなくなったと知る能力。
E神境通・・・空を飛行し、身を隠すなどの超人的な能力。どこでも自在にいける能力。
となっています。
この中には、未来を見通す能力はありません。なぜなら、未来は決まっていないからです。こうなりそうだ、という可能性なら示すことはできるのでしょうけど、こうなるのだ、と言う決定は、未来のことにおいては不可能なんですよ。お釈迦様も、そう説いておりますな。未来は未決である、と。
なので、先を見通す神通力は、ないんですね。ましてや、修行もしていないのに、未来が分かるなんてことは、あり得ないんですよ。皆さん、欺されないように気をつけてくださいね。

ということで、もうおわかりでしょう。先を見通せるような霊感なんぞ、この世には存在していないのです。なので、霊感で先が分かる、なんていうのは、嘘なのですよ。というか、霊感で先が分かれば、私は、占いなんぞしないで、株を買いますけどね。その方が儲かりますから。競馬でもいいですね。大穴を当てることができます。それをしないって言うのは、おかしな話ですよね。まあ、言い訳として、「自分の事は分からないんです」とおっしゃるようですが、じゃあ、他人から質問させろよ、ということになりますからね。別の人が、株を買うから何がいい?と質問させればいいだけの話ですな。
なので、霊感で先が分かる、なんてことは、まあ、大嘘なんですよ。皆さん、信じないようにしましょう。

さらに、生まれつき霊感がある、と言う方がいますが、これはちょっと危険なんですよ、本当はね。先にも言いましたように、霊感などの神通力は、修行しなければ身につかないものです。生まれつきある、というのは、その理由が肝心になります。その理由に、3種類あります。

一つは、先祖の因縁による霊感。これは、ご先祖の中に、拝み屋さんか巫女さん、ものすごく信心深い人がいたことにより、その因縁を引き継いでしまった、と言う場合ですね。この場合は、できれば出家して修行をして欲しいです。霊的なことをしていると危険なこともあるのですよ、実際に。なので、自分の身を守る方法や、ちゃんとした正式な供養の法を学んだ方がいいのです。霊感があるからと言って、自惚れていると、痛い目に遭いますな。

二つ目は、いわゆる低級な霊に操られている場合ですね。こういう場合もあるんです。信じられないかも知れませんが。この場合は、いずれ金儲けに走るか、とんでもないことを言い出すか・・・あなたの前世はヨーロッパのお姫様ですとかナントカ・・・ということをしますな。勝手に訳の分からない御札を作ったりね。意味の分からないことをしますな。こういう人には気をつけてください。こういう人は、口がうまいので欺されないようにご注意ください。

三つ目。単なる勘違い人間。つまり、自分は霊感があると思い込んでいる人ですね。たまたま、言ったことが当たったという経験がある方が多いですな。そこから、勘違いして、自分には霊感があるのだ、特殊なのだ、と思い込んでしまった人です。こういう人、案外多いんですよ。ウチの寺にも来ることがありますけどね、勘違いですよ、と諭します。勘違いと言うことを受け入れられないのなら、高野山に修行に行きなさい、と言います。はっきりするから、と。まあ、全員拒否しますけどね。勘違いで、いい加減なことを言って、金儲けをしている・・・なんて占い師もいますから、困ったものですな。

神通力・・・普通の人にはない超人的な能力・・・を求めてはいけません。そんな能力があったなら、むしろ不幸でしょう。下手な能力なんてない方がいいのですよ。映画に出てくるスーパーヒーローやヒロインだって、みんな苦労しているじゃないですか。他の人にない能力があると、余計な苦労がやってくるのですよ。なので、求めてはいけないのです。もし、求めるのなら、ちゃんと修行をしましょう。
また、修行もしていないのに、不思議な能力がある、霊感がある、なんていう話は、信じない方が無難ですね。怪しいし、胡散臭いですな。簡単に信じちゃダメです。正しい神通力、不思議な能力は、修行しないと身につかないのですよ。

お正月早々、怪しい占い師や霊感師に欺されないようにご注意くださいね。
合掌。


223.安全
お正月や、節分などには、家内安全を願う方が多いのではないでしょうか? お正月の御札にも、厄除けの御札にも「家内安全」と書かれていることがあると思います。まあ、家内安全は、大事ですからね。家族共々、皆無事で安全に過ごせることは何よりと思います。なお、「安全」は、佛教では「あんぜん」ではなく「あんせん」と読みます。「家内安全」は、「かないあんせん」ですね。祈願を読み上げるとき、よく聞いていると「○○家、かないあんせんの為に」と読んでいることに気がつくと思います。もし、そのような機会がありましたら、よ〜っく聞いてみてください。

ところで、実は、「安全」と言う言葉は、佛教語にはありません。これは、いつの時代にか作られた、日本での言葉なのです。古い経典には、出てこないんですよ。今、我々が読み上げているお経には出てきます。祈願の言葉として。ですから、その読み上げがいつからあったのかは知りませんが、古くからある言葉だとは思います。決して、明治や大正、といった感じではないのでしょう。案外、昭和かも知れません。
いずれにせよ、いつからあるのかは知りませんし、オリジナルの佛教語ではないのですよ。

では、安全を表わすような言葉は、佛教語にあるのでしょうか?
最も近いのが、「安穏」でしょうか? 意味は、今使われている安穏と同じです。何事も憂うことなく、のほほんと過ごしている状態ですね。ただ、安全には、「セーフティ」的な意味もありますから、少し異なるのかも知れません。
ほかには、「安心」という語もあります。この場合、読み方は「あんじん」です。佛教では、「あんしん」とは読まないですね。なお、安心は、本来は、
「佛教によって、心を集中させる境地、心の安らぎを得て動ずることの無い境地」
を主に示していますから、今の安心とはちょっと異なりますね。安全とは、意味が違うように思いますな。

安全というと、確かに何事もなく無事に過ごす、ということでしょうが、そこには、セーフティ的な意味もあるでしょう。守られている、というのでしょうか、そういう意味もあると思います。交通安全がその最たる例でしょうか。事故から守られるように祈願をするのが、交通安全祈願ですからね。単なる、安穏、安心とは違います。

本来の佛教では、守護してもらえる、という思想は、少ないと思います。いや、無い、と言った方がいいでしょうか。神仏からの守護を得られる、というのは、大乗佛教から生まれた思想でしょう。初期佛教は、ひたすら悟りを目指す、自分の修行ですからね。神仏の守護、と言う考えは薄いと思いますな。
と言うことは、安全と言う言葉も、大乗仏教が誕生して以降の言葉でしょう。守ってもらえる、守ってもらえるように願う、それは大乗仏教的考えですからね。

家内安全、交通安全などなど、安全を願う気持ちは、大事だと思いますな。神仏に守ってもらえるように願うことは、いいことだと思います。ただし、そういう祈願をしたからと言って、安心しきってはいけませんな。油断大敵です。どこに危険があるか分かりません。安全を願うのもいいですが、安全を心がけることも大事でしょう。
無茶なことはしない、無謀を慎む、危険を回避する、防犯に気をつける、これくらい大丈夫だろう、という気の緩みに注意する・・・、などなど、自分でできる家内安全や交通安全もありますな。

神仏に願うことはいいですが、自分でできることは、自分でした方がいいですね。神様仏様任せ、では、ちょっと横着かな、とも思います。
交通安全のお守りをぶら下げながら、無謀な煽り運転をするようではいけません。安全を願うのならば、自らも安全を心がけることです。そういう気持ちがあるからこそ、願いが神仏に通じるのだと思いますよ。願いっぱなしではなく、自らも注意したいですね。
合掌。


224.殺生
殺生というと、「そんな殺生なぁ、勘弁してんか」と、なぜか関西弁の台詞を思い浮かべてしまいます。子供の頃、吉本新喜劇で育ったせいかもしれません。その関西弁の「殺生」の響きは、あまり深刻でなく、「ホント、嫌だなぁ、冗談でしょ」的な軽い感じを伴っていたように思います。まあ、笑いも誘っている場面だったりしますしね。しかし、本当の殺生は、意味が重いんですよ。今回は、その殺生についてお話いたします。

世界の多くの宗教は、その戒律で「殺生」を禁止しています。不殺生ですね。まあ、中には我が教えに従わない者は殲滅してしまえ的な宗教もなきにしもあらずですが……。
とは言え、無用な殺生は、多くの場合、宗教上禁止しています。そりゃ、まあ、そうですよね。そこを認めたら、法律も無視することになりますし、秩序が保たれなくなりますからね。当然、殺生は禁止でしょう。

さて、佛教で言う「不殺生」です。佛教には、在家の五戒というのがあります。在家信者が、守るべき戒律ですね。その一番が、「不殺生」です。次いで順に、、不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒です。
不殺生というのですから、これは、「殺してはいけない」という戒律ですね。不偸盗は、盗んではいけない、と言う戒律です。これには、盗み聞き・盗み見も含まれます。不邪淫は浮気や性に溺れることを禁止しています。不妄語は、嘘をつかないことですね。不飲酒が入っているのは、当時、お酒で身を持ち崩す人が多かったせいでしょう。飲酒による犯罪も多かったのだと思います。深酒は自制心を奪いますからね。

さて、不殺生です。不殺生は、殺してはいけない、という戒律ですね。殺してはいけない対象は、すべての生き物です。生きとし生けるものですね。ですが、とりあえず、まずは人に関してお話ししましょう。

よく、小学生の生徒が、先生に「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問をして、先生が答えに困る、という話を耳にします。私は、なぜ答えられないの?と思いますが、皆さんは如何でしょうか。
なぜ、他人の命を奪ってはいけないのか? 答えは簡単です。その人の生きる権利奪ってしまうからです。
誰にでも、生きる権利があります。殺生は、それを奪ってしまう行為です。ですから、禁止されるのです。生きる権利は、他者が奪っていいものではないのですよ。
さて、人間に関しては、なぜ殺生がいけないのか、分かっていただけたと思います。では、その他の生き物に関してはどうでしょうか?
お釈迦様は、不可抗力による殺生は仕方が無い、と言う立場にあったのではないかと思います。
インドの雨季の際、修行者は「雨安居」といい、精舎にこもり外に出歩きません。それは、無用な殺生を避けるためです。雨季の時は、草が芽吹き、虫たちが這い出し、命が育まれるときです。なので、その時期に出歩くことは、多くの命奪うことになるので、精舎にこもるのです。

ですが、佛教教団は、初めからこの雨安居を行っていたようではありません。周囲の宗教団体にあわせて行うようになったようです。つまり、積極的に雨安居をしたのではなく、周囲からの意見を取り入れて行ったようです。ということは、お釈迦様はそこまで細かく不殺生を求めていたわけではにように思うのです。
どんな生き物に対しても、あえて命を奪うことはいけないでしょう。どんな生き物にも生きる権利があるからです。しかし、知らず知らずのうちに殺生している場合もあるのです。それは問わない、というのがお釈迦様の態度だったのではないかと思いますね。

戒律というのは、どんな場合でも、大事なのはその背景でしょう。殺したくなる理由、他者のものを盗りたくなる理由、浮気をしたい性に溺れたいと思う理由、嘘をつきたくなる理由、酒を飲みたくなる理由、その理由のほうが大事なのです。ただ、理由を追及する前に行為に及んでしまうから、禁止事項としたのでしょう。本来大事なのは、その行為をしたくなる心の欲望なのですよ。

仕方が無く殺生をしなければいけない事情が、生きている上では生じます。農家の方の獣害もそうでしょう。害虫処理もそうです。食料もそうです。直接では無いですが、殺生した物を我々は食べています。それは、動物であろうと植物であろうと、です。命をいただいているのですね。他の命を奪わないと、生き物は生きていけないのです。殺生しなければ、生きてはいけないのです。ですから、あえて、お釈迦様は、殺生について、細かく追求はしていないのでしょう。細かく、とことん追求してしまえば、生きること自体、否定することになってしまいますからね。

なお、殺生には、暴力も含みます。相手を滅ぼそうとする行為、全体を殺生の枠に入れています。暴力行為、威嚇、それらも広い範囲での殺生ですね。
いずれにせよ、そうした行為に及びたくなる衝動、それが大事です。支配欲なのか、怨みなのか、金銭を奪うための目的なのか、快楽なのか……。殺生したくなる、殺生しなければ、という考え自体に問題があるのですよ。心の闇ですね。そちらが重要なのです。

「そんな殺生なぁ」と言えているときは、まだ大丈夫です。「アイツを殺さなきゃ、アイツをなんとか排除しなきゃ」などと思うようになったら危険です。自分の欲を叶えるために、他者の命を奪ってはいけません。重い心の闇に取り憑かれそうになったら、早めに周囲に相談することです。何も、他者の命を奪うことをしなくても、問題の解決方法はあるはずです。愚かな行為に走ってはいけませんね。それは、個人も国も同じですな。
殺生は、最も愚かな行為なのです。
合掌。


225.演説
相変わらずウクライナ情勢は、落ち着きませんね。停戦協議も行われているようですが、最終的にプーチンが何というかでどうなるか分かりません。先行きは不透明ですな。それにしても、ウクライナの大統領、ゼレンスキーさん、演説がうまいですな。各国で演説していますが、気持ちを掴むのがうまいですな。まあ、情勢が情勢ですから同情は集め安いし、感情に訴えやすい、というのはありますが、話し方がうまいな、と思いました。どこかの国の代表者とは違うな、とね。
さて、この演説ですが、これはもう元は佛教語なんですよ。今では、普通に使っていますが、元々は佛教の専門用語なんですね。今回は、この演説についてお話しいたします。

まずは現在、一般に使われている演説についておさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
公衆の前で自分から進んで意見・主張をのべること。
とあります。また、狭義では政権演説を指す、ともあります。まあ、簡単に言ってしまえば、よく選挙前になると立候補者が街頭演説をしていますよね、あれのことですな。これが、現代の演説の意味ですね。

では、佛教語の演説はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@教えを説くこと
A教えを述べた文句
となっています。全く、公衆の前で意見を述べるというような意味はありません。単に佛様の教えを説くこと、と言うだけなんですよ。

そもそも演説とは、多くの人々に「教えを説く」という意味でした。あるいは、後には「教えを述べた文句」
、つまりお経ですな、そのことを示したようです。ということで、演説とは、教えを説くこと、それ自体を意味していたのです。
「多くの人々に教えを説く」という行為は、単体の多くの人ではなく、大勢の前で教えを説く、一辺に多くの人を相手にして教えを説く、というやり方もあります。つまり、法話会ですね。多くの人に向かって、お話をするのです。
それが、やがて人々の前、公衆の面前で教えを説くから、公衆の面前で意見を述べる、ということへと解釈の範囲が広がり、公衆の面前で意見・主張を述べること、となっていったのでしょう。おそらくは、明治の時代の頃から使われ始めたのではないかと推察します。あの頃は、自由民権運動など、街頭演説がよくあったそうでうから。

しかし、演説も中身がない演説は、聞くに堪えないですね。そもそもは、お釈迦様の教えを民衆に説いたことを演説と言ったのですから、今の時代に演説をしている人も、中身をしっかりして欲しいですな。現政権への批判ばかりでなく、どうすれば世の中が善くなるのか、と言ったことを真剣に説いて欲しいと思いますな。しかも、理想論でなく、現実的に可能かどうか、そうしたことを主張して欲しいですね。多くの政権演説の場合、与党は甘いことを言って、現政権のあるかないかのような実績を延々と述べているに過ぎませんし、野党は、終始批判ばかりなように思います。全く内容がない、聞くに堪えないような話ばかりのように思えるのですよ。まあ、話し方も下手ですしね。特に野党などは、ギャーギャーわめいているにしか聞こえませんな。
大きな声を上げて怒鳴っても、聞く方は耳を貸しません。心地よく聞いてもらえるには、どうやって話をすればいいのか、ということも考えて欲しいですね。少しは、ゼレンスキー大統領を見習ってみては、と思いますな。

いくらいい話であっても、いくらいい主義主張であっても、聞いてくれる人がいなければ何もなりません。同じく、我々もそうですね。いくらいい教えを述べても、聞いてくれる人がいなければ何もなりません。相手に届く話し方、それも大事でしょう。
演説もいいですが、その演説の内容を人々に届けて欲しいですな。まあ、自己反省も含めてですが……。
合掌。


226.有無
「有無は言わさぬぞ」
なんていう言葉は、今ではあまり聞きませんよね。どうも時代がかったセリフに思われます。が、まれに上司から部下に「有無を(は)言うな」という言葉は、あるようですな。ちょっと圧迫気味な言い方でね。ギリギリ、パワハラにはならないような言い方でね。言われた部下は「う〜む」とうなるしかないですよね、こういう場合は。
さて、この「有無」ですが、これも元は佛教語です。今回は、この有無についてお話しいたします。

まずは、現代使われている「有無」の意味を押さえておきます。お馴染みの新明解国語辞典によりますと
@うんと言うか、いやと言うか。
A「有無」(と書いて)
  1、有るか無いか。
  2、有るものと無いもの。
@を有無と書くのは、借字。
とあります。ちょっと複雑ですかね。
いわゆる「有無を言わさぬ」は、@の場合ですね。で、この場合、本来は「うむ」とひらがなで書くのが正しいのだそうです。有無と書くのは、借りに書く、と言うことですな。で、有無と書く場合はAの意味の方になるのです。
つまり、「有るか無いか」ということに関して「有無」と書くわけです。国語辞典によれば、本来は、これが正しい「有無」なのだそうです。例えば「在庫の有無を調べろ」とか「証拠の有無はどうなんだ」という場合ですかね。一般的というよりは、ある特殊な仕事に関して使われるのかな、という感じがします。一般的には、@のほうなのではないかと思いますな。
ちなみにAの2は、「有るものと無いもの、お互いに相通じる」とか「有りあまる方から無い方へ回す」のような意味で使うのだそうです。こういう使い方は、あまり無いような気がしますが、いかがでしょうか?
まあ、「有無」単独で言えば、「有無を言わさぬ」がポピュラーでしょうね。

では、佛教語の「有無」どうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@有と無。存在と非存在。佛教ではこの二つの極端の見解をしりぞける。
A有の無。
B快不快。
C事物を有とみなし、また無しとみなすこと。事実を真に有るとみなすのも、真に無しとみなすのも、ともに誤った見解だとされている。
とあります。ちょっと、こちらも話が難しくなっているようですな。

佛教では、有るとか無い、という極端な考えはダメとされています。「有るのだが無い、無いのだが有る」、これが正しい考え方ですね。有るとか無いとか、決めつけてはいけないのですな。これが、「空」なのですよ。
「有るのだが無い、無いのだが有る」「有るけど無い、無いけど有る」「有の中の無、無の中の有」
こうした考え方が「空」ですね。般若心経に説くところです。
ようは、
「有ると言うが、本当に有るのか? じゃあ、その実体はどうなのか? どこに有るのか?」
「無いと言うが、無いというものは、いったいどう言うものなのか? 無いを見せてみろ」
となると、どっちも「不明」ですよね。「有るか無いか」は分からないんです。

よく使われるたとえですが、
「ドーナッツの真ん中の空間は有るのか無いのか?」
と聞かれたらどう答えますか?
ドーナッツの真ん中の空間は、有りますよね。でも、取り出すこともできなければ、その実態を掴むこともできません。ましてや、ドーナッツをかじれば、真ん中の空間はなくなってしまいます。さっきまであったのに。有から無へ、となったわけですよね。でも、有ったことは確かです。
そうなると、ドーナッツの真ん中の空間は、「有るけど無い」となりますよね。まさに「空」です。

難しい考え方だと思います。ですが、簡単に言ってしまえば、「有るとか無いとかこだわるな」と言うことなのです。有るものはやがて無くなるし、無いといってそのままの状態ではなく、人はいつかものをそろえます。つまり、有になります。なので、「有るとか無いとか、まあこだわることはなかろう、自然の流れに任せなさい」というのが、正解なのでしょうな。

ですから、「あー、アレがない」とか「有りすぎでしょ」とか、そうそう騒ぐことはない、有から無へ、無から有へと流れていくのですよ。だから、どちらにもこだわらないように生きる、それが「空」を生きる、ということですな。
有無を言わず、流れに任せていくことも大切なのですよ。
合掌。


227.微塵
小学校5年か6年の時、ミジンコを飼ってました。チョコマカ泳ぐ姿が面白かったんです。で、しばらく飼っていたのですが、すぐに飽きてしまい、田んぼに流しました。ミジンコ、結構面白かったんですけどね。ミジンコを漢字で書くと微塵子になるそうです。細かい生き物、という意味だそうです。
微塵……木っ端微塵と言う言葉もありますが、この微塵、これも佛教語なのですよ。今回は、微塵についてお話いたします。

まずは、いつものように現代語の微塵の意味を見てみましょう。お馴染みの新明解国語辞典によりますと
(細かい、ちりやほこりの意)もと、ある形を持っていた物が外界の力を受けて細かい破片の状態になったもの。(微量の意にも用いられる。例……)
とあります。例としては、みじん切り、さような考えはみじんもない、木っ端微塵、微塵子、微塵粉(もち米をひいていった粉)となっています。
細かい、と言うほかに、元の形を細かくした場合に用いる、ということですな。

では、佛教語の微塵です。こちらもお馴染みの仏教語大辞典によりますと、
目に見える最小のもの。ごく小さいもの。非常に微細な物質。原子。
とあります。
経典を読んでいると、時々驚かされることがあります。この微塵もそうですが、いったい古代のインド人は、どこまで分かっていたのか?と思いますな。
初めは、微塵は目に見える範囲での最小のものだったのでしょう。しかし、そのうちに、もっと細かいもの、になっていくのです。例えば、点の中に点があり、そのさらに点の中に点がある。さらに細かく見ていくと、まだ点がある……。で、最終的に原子に至るのですな。

微塵衆(みじんしゅ)と言う言葉もあるのですが、これは原子の集合体を意味しています。お釈迦様も、この世の物質は「細かい微塵の集合体だ」と言っています。当然、人間の身体もそうですな。
すでに、今から2500年前にインドでは、物質は原子の集合体だ、という考えがあったのですよ。まあ、原子、と言う言葉はなかったにせよ、とても細かい目に見えない物の塊だ、と言うことは分かっていた、と言うことですな。恐るべしいにしえのインド人、ですな。ほかにも驚くことは多々ありますが、それはまたの機会に……。

さて、物質を作る最小の物質とは? と問われれば、それはニュートリノですね。すべての物質は、ニュートリノによって作られています。のだそうです。まあ、私も詳しくはありませんが、原子よりももっと小さい物質、最小の物質は、ニュートリノになるのだそうです。このニュートリノ、見つけるのが大変だそうで。岐阜県にあります、カミオカンデという研究施設でニュートリノの研究がなされていますな。このことで、ノーベル賞もとっております。どなたでしたか、名前は忘れました。まあ、調べればすぐに分かるのでしょうが。
ともかく、ニュートリノより小さい物質は、ないのです。つまり、ニュートリノが微塵になるのですよ。

ところで、ニュートリノが存在しているならば、反ニュートリノがあるはずだ、という研究がされているのだそうです。で、今から4年ほど前でしょうか? ヨーロッパのとある国の(どこの国かは忘れました)研究所で、反ニュートリノを発見したのだそうです。しかも、捕まえることにも成功したのだそうです。当時の読売新聞の一面にそう書いてありました。その内容が「へぇ〜」だったので、覚えております。何が「へぇ〜」だったのかというと……。
反ニュートリノを発見したという科学者の会見に来ていた記者が、その科学者に質問をしました。
「ニュートリノは物質を作る最小の物質です。ならば、反ニュートリノは何を作っているのですか?」
発見したという科学者が答えますな。
「そうですね、神々の世界、と言うほかに言い様がありません」

つまり、反ニュートリノは、精神世界を作っている、ということになるのです。ということは、この世には、精神世界が存在する、ということになってしまうのですな。いわゆる、霊的世界が存在する、ということですな。
まあ、驚きですね。科学者が、そんなことを言うのか、それを認めるのか、ということです。ここのところをもっと記者は突っ込むべきだったのでしょうが、その先の質問はなかったようです。掲載してあった読売新聞も、さらに突っ込むことはなく、掘り下げることもなく、終わっておりました。
「おいおい突っ込めよ。神々の世界ってなんやねん!って突っ込めよ」
と思うのですが、まあ、記者も驚いて言葉も出なかったのかも知れませんな。あるいは、ツッコミはあったけど、読売新聞が端折ってしまったのか……。
しかし、いずれにせよ、精神世界はある、ということですな。

私の所には、いろいろな人がやってきます。その中には、霊的世界、幽霊や妖怪の存在を否定している、全く信じていない、というかたもきます。そういう方に対して、私はニュートリノと反ニュートリノの話をします。科学的に精神世界は証明されているんですよ、と。
科学的根拠がある、といえば、大抵はうなずかずにはおれませんな。しかし、人間は自分が信じたいことしか信じない、と言うところがありますから、精神世界を信じない人に反ニュートリノの話をしても
「う〜ん」とうなるだけのようです。

考えが狭い、視野が狭い、と言う人は、損をしますね。「へぇ〜、そんなこともあるんですね」と興味を抱く方が、視野が広くなり、考えも多角的になります。そうなれば、今まで気がつかなかったことにも気がつくようになりますよね。はなから
「そんなこと、あるわけないじゃん」
と否定するよりも
「そういうこともあるんだ」
と肯定した方が、頭は柔らかくなります。この柔らかさ、柔軟性が大事なのですよ。特にこれからの時代、柔軟な頭がないと、ついて行けなくなりますな。時代に取り残されます。

おそらく、昔のインド人は、ものすごく柔軟な頭脳を持っていたのでしょう。まあ、だから0(ゼロ)も発見できたのでしょう。微塵も同じですね。そういえば、お釈迦様は、人間の皮膚には目に見えない無数の虫が存在している、とも説いていますな。いやはや、なんでそんなことまで分かるかな、と思いますな。

否定よりも肯定、拒否よりも受け入れ。それが大事でしょう。「前例がないから」などと否定から入らずに、「まあ、ともかくやってみよう」、「そういう考えもいいんじゃないか」、「前例は自分たちが作ればいいじゃないか」という、肯定的考え方をしたほうが、何事も発展すると思うのですよ。そして、なによりも、新しい物が生まれてくると思うのですよ。
これからの時代、自由な発想、肯定的考え方、それが大事だと思いますな。何でも否定しちゃダメですよ。
合掌。


228.正体
夏ですね。今年は、関東の梅雨がものすごく短かったですね。それにしても、いきなり気温35度の連続は、身体に堪えますな。熱中症には、くれぐれもお気をつけください。
夏と言えば、昔は怪談話で盛り上がったのですが、今はあまり聞かれませんね。TVもそうした番組は少ないようです。まあ、TVの場合は、くだらないですが……。落語の怪談話特集なんてやっているのでしょうか? 
怪談と言えば、私たちに染みなのは、四谷怪談ですかね。お岩さんですな。ほかには、牡丹灯籠とか。一枚二枚の番町皿屋敷もありますな。鍋島化け猫騒動なんていうのもあります。まあ、しかし、これらは物語でして、幽霊話ではありますが、もちろん作り話です。元の話……事件……は有ったのでしょうが、多くは歌舞伎の物語ですな。ま、幽霊の正体見たり枯れ尾花でして、怪談話も突き詰めれば、作り物なんですよね。
で、今回は、その正体についてお話しいたします。

まずは、いつものように現代語の正体の意味を見てみましょう。お馴染みの新明解国語辞典によりますと
@仮面をかぶって人前に現れているものの、本来の姿。
Aその人が正常な精神状態でいる時の、しゃんとした所。
とあります。まあ、簡単に言ってしまえば、取り繕った姿や態度をしている人の、本当の姿、のことですな。もっとも、人は常に本性を現していませんから、正体はいつもは不明ですね。本当の姿は、そうそう出さないのが人間ですからね。本当の姿、本当のその人の性格、本性、それらはすべて不明です。多くの人が、正体不明の謎の人物なのですよ。

では、佛教語の正体です。こちらもお馴染みの仏教語大辞典によりますと、
@本体。本質。
A経典の正しい説。
B目的完成に直接関係する行為。
とあります。ちょっとわかりにくいのもありますね。

本来は、正体の意味は@です。本体や本質のことです。とくにその人の、本当の性質、真の心の姿、それが正体ですね。人間の正体は、心にある、ととらえているのですよ。
ABは、あまり使われていません。特にBは、特定の書物にあるだけで、まあみないですな。Aは、どこかで目にすることがあるかも知れませんが、まあ少ないと思います。@がメインですね。

人は、なかなかその本性を現すことは無い、と思っています。必ず、隠し事、隠したい性格、があるはずです。あっけらかんの開けっぴろげ〜なんて言う人は、少ないでしょう。必ず、どこかに……心の中なのか身体的なのか……他人には見られたくない知られたくない、そんな部分があると思うのです。
表向きはいい人なのに家に帰ったら暴君だ、なんていう旦那は、多くいますよね。私も随分と、そういう昭和のオッサンを見てきました。外面はいいけど家では……と言う人ですな。まあ、最低のオッサンだと思います。奥様が、そんな話をしても「まさか、あなたのの旦那が?」と笑われる始末。本当の姿なんて知らないくせにね。

よく犯罪を犯してしまった際のインタビューなどで、
「あのいい人が……信じられません」
「まさか、あの人が? そんな風には見えませんよ」
なんて答えている方がいます。そういうインタビューを聞く度に、その人のこと、あなたはどれだけ知っていたの? と聞き返したくなりますな。他人のことなんて、本当は関心ないくせにね。

他人の本当の姿なんて分かるわけがありません。なぜなら、誰もが、他人に知られたくない、プライベートな部分、秘密の部分があるからです。それは、主に心のこと、考え方、性格などでしょうが、まあ身体的特徴というのもあるでしょう。いずれにせよ、人は、他人には知られたくない、詮索されたくないことがあるのですよ。誰でもね。

ですから、その人の真の正体を知っている、とは言えないのが本当のところでしょう。余程、親密な関係にならないと、その人の本質には触れられないのではないかと思うのですよ。それでも、正体不明、と言うこともありますからね。表面と裏の顔、それは異なるのが人間だ、と思っていた方が正解でしょう。誰もが、仮面を被っているのです。それがいい仮面か、悪い仮面かは別として、ですな。悪い仮面を被り、その上に悪くないように見える仮面を被った人には、要注意ですよね。二重の仮面ですな。欺されないように、ご注意ください。

さて、今月は参議院選挙もあります。皆さん、口ではいいことを言ってますな。私に任せれば幸せですよ!なんて口々に言っております。まあ、嘘なんですけどね。そう簡単に社会が変わることも無いですし、難問が多いですから、そう簡単に解決できることではありませんな。皆さん、本質を隠していらっしゃる。正体不明ですよね。実際、立候補者は、立派なことを言っていますが、私生活はどうか分かりませんしね。いやはや、正体が分からない立候補者、政党だらけですな。

皆さん、お気をつけください。ちゃんと正体を見てくださいね。その人の本質はどうなのか、と探るつもりで話を聞きましょう。話の端に、その人の正体がわかるヒントがあるかも知れません。
また、態度ですよね。偉そうにしているのか、謙虚なのか、その謙虚は芝居なのか、よくよく観察することです。そすれば、その人の正体があぶり出されるかも知れません。
まあ、これは選挙に限ったことでは無いですが、何でも鵜呑みに信じ込まず、相手の正体を見極めようとする、そうした考えが大事ですよね。
正体見たり枯れ尾花……なんてことにならにようにしたいですな。
合掌。


229.聖
仏陀とイエスが、東京の立川のアパートで同居して過ごすという、ふざけた不敬なコミックがあります。初版は2008年だそうです。そんなころ、「こういうコミックがあって、面白いですよ」という紹介を何人からもされました。知っている人も多いと思いますが、そのコミックの題名は「聖☆おにいさん」ですね。
で、人から勧められる、そのたびに私は、
「聖者を笑いのもととする行為は、どうもねぇ、受け入れられないよね」
と答えていました。ところが……。
ここ何日かの間に、来られる方が「聖☆おにいさん」の話をしていくのですよ。最近は、「あぁ、知ってます。読まないですけどね」と答えていました。当然、その話をした方も「そりゃ、読まないですよね」と言います。でも、そんな時に、
「まあ、堅く考えないで、読んでみたら」
という声が聞こえてきたのですよ。幻聴かも知れませんが。
が、私は素直なので(笑)、「聖☆おにいさん」読んでみました。これが、結構面白いんですよ。なるほど、一般の人は、そう捉えているのか、あぁここは正しいな、これは説明が必要だな、といった事が分かるんですね。結構、参考になります。素直に読んでみてよかったですね。まだ、初めのほうだけですが。
でも、確かに、ふざけていることはふざけています。間違っている・誤解している部分も、なきにしもあらず、ですが……。いや、でも、作者はよく勉強していますよ、と思いました。

で、今回は、その「聖☆おにいさん」にちなみ、「聖」についえてお話します。

「聖」というと、何となくキリスト教っぽい感じがしますが、佛教にも「聖」はあります。ただし、佛教では「聖」を「せい」と読むことは滅多にありません。「聖者・聖人」くらいでしょうか。でも「聖者」は「せいじゃ」ではなく「しょうじゃ」ですしね。「聖人」という言葉は本来はないのですが、日蓮聖人とも言いますし、この場合も「しょうにん」です。つまり、仏教では「聖」は、「しょう」と読みます。「聖観音」も「せいかんのん」ではなく、「しょうかんのん」が正しい読み方ですね。その点、ご注意ください。

さて、「聖」の意味をおさえておきましょう。まあ、なんとなく分かるとは思いますが、一応ね。お馴染みの新明解国語辞典によりますと

@(儒教で)知徳がすぐれ、すべての人から指導者と仰がれる人。「聖人・聖賢・大聖」
A(キリスト教で)高徳の人、または信仰の対象とされることを表わす。「聖母・聖像・聖書・聖夜・聖ヨハネ・聖家族」
B天皇に関する表現に添える。「聖上・聖業・聖徳・列聖」
C神聖。「聖域・聖火・聖地」
Dそれぞれの専門の分野で最高の評価を受けている人の称。「歌聖・楽聖・詩聖・棋聖」

とあります。儒教が最初に出ていたのには驚きましたが、こうしてみると、普段我々が使っている「聖」は、やはりキリスト教に多いように感じますな。儒教的な言い方は少ないし、天皇に関しては、庶民には関わりが無いところでしょう。Dなんぞは、たまに見かけますよね。特に「棋聖」は、その趣味があればご存じの言葉でしょう。
これが現在使われている「聖」とその意味ですな。

では、佛教の「聖」はどうでしょうか? こちらもお馴染みの仏教語大辞典によりますと、

@高貴な人。立派な人。もとアーリア人に由来することと考えられていた。
A正の意味。正道を証したことをいう。
B聖者。凡夫の対。
C特に釈尊のこと。
D無漏(けがれなき)なる人。
E鈍根の聖者たること。
F仙人。
G聖人のこと。
H信頼されるべき人。
I往昔の師。

とあります。@は、当時の(古代の)ネイティブなインド人にとっては、アーリア人は高貴に見えたのでしょう。アーリア人は、眼が碧く、西洋系の姿形をしていましたし、文明も発展していましたから、高貴な人に見えたのだと思います。まあ、しかし、この意味では「聖」は使いません。
主に使われるのはABCですね。DEは、A〜Cと同じ意味です。Gもそうですね。かろうじてFもA〜Cに含まれますな。HIに至っては、現在のDとほぼ同じですね。
現在も佛教語も、「聖」は、尊い人に使う言葉が中心のようですな。

尊い人=聖者。こうした人になるのは、ほど遠いと皆さん思われるでしょう。まあ、簡単なことではないですよね。少なくとも、専門分野で、トップを取らないといけません。将棋や碁ならば最高のタイトルを。研究分野ならばノーベル賞を。音楽にしても、バレイにしても、芸術にしても、「聖者」的な扱いをされたいならば、その分野で最高峰の立場に立たねばなりません。
宗教で言えば、悟りの境地に至った者か、仙人のように過ごしている者か、ですよね。悟りの境地に至るのも仙人の暮らしをするのも、まあ、確かにほど遠いですな。偽物はいっぱいいますが、本物はいませんね。
でも、「聖☆おにいさん」の表紙の大きなタイトルを見て、私はふと閃きました。そう「聖」の字をよく見て閃いたのです。
「聖」の字は、「耳」と「口」と「王」でできています。つまり、「耳」と「口」の「王」となれば、「聖」になるのですよ。「耳」と「口」の「王」とは、いったいどういうことでしょうか。

「王」とは「支配者」のことですね。自由自在に支配することです。ということは、耳と口を自由自在に支配できれば、聖者になれるのですよ。具体的にいいますと、
1、耳で聞くことを正しく理解する。他人の言うことや、世の中で流れているすべての音について、何を言っているのか、何を表現しているのか、正しく理解すること。決して自分の感情をはさまず、絶対的客観の立場で音を聞き、理解すること。
2、正しく理解した音に対して、正しく答えを持つこと。他人の言葉ならば、何が言いたいのかをよく理解し、それに対して正しい言葉で導くことです。その他の音に関して言えば、正しく評価すること、ですね。あるいは、何を意味しているのか正しく理解し、それを伝えることです。

なんだ、そんなの難しいじゃないか、と思ったかたは、正解です。はい、すべてクリアしようと思えば、それは至難の業でしょう。でも、他人の言葉に耳を傾け、何を言っているのか理解し、的確な言葉で導く、事くらいは、なんとかできそうじゃないですか? 実際、会社内で、そのようなことができる人は、社員から尊敬されているのではありませんか? そういう人がいる会社もあるのではないですか?
尊敬できる人って、多くは、よく話を聞いてくれるし、よく理解してくれるし、的確なアドバイスをしてくれる人じゃないですか?
そういう人って、たまにかも知れませんが、いますよね。聖者みたいな人。と言うことは、聖者はいますし、なろうと思えば、誰でも聖者になることができるのですよ。
本来、それは宗教者がやるべき事なのですけどね。今の宗教者は、金の亡者のようになっていますから、聖者からはほど遠いですな。

人の弱みにつけ込んで言いように苦しんでいる人をコントロールし、金を出させる。これが、新興宗教のイメージですよね。多くの方がそう思っているのではないでしょうか。
確かに、彼らは、苦しんでいる人の言葉を聞き、理解してくれるし、その人の心にしみるような言葉もかけてくれるでしょう。そこまでは聖者と言ってもいいかもしれません。ですが、その後が悪魔なのですよ。金品を要求するのです。そこが、新興宗教のダメなところですな。

聖者は、最後まで正しくなければなりません。正しく聞き、正しく理解してあげ、正しい言葉で、正しい道を示す、それが聖者でしょう。
もはや、そうした聖者のような宗教者が期待できない今現在、その代わりをあなたがしてもいいのではないでしょうか?
本来聖者であるべき宗教者を蹴散らし、一般の人が聖者になってもいいのですよ。それほど、今の宗教者は、ダメダメなんですよね。

私とともに、聖者を目指しましょう。腐った欲まみれの宗教者・偽聖者に欺されないように、自分自身が聖者を目指せばいいのです。その方が、苦からも逃れられるのですよ。
まずは、正しく聞く「耳」を持つことです。それから、口に進んでいきましょう。そして、最後は、耳と口を支配するのです。難しいことではありません。日頃、心がけていれば誰にでもできることです。
今日からあなたも、聖者にチャレンジです。
合掌。


230.無尽蔵
好きなものが、際限なくいつまでも出続ける……そんな蔵があったら、最高でしょう。好きなモノだけでなく、食べたいものや着たい服など、自分が求めるものがいくらでも出てくる、無尽に出てくる蔵、そりゃああればいいですよね。そんな蔵のことを「無尽蔵」と言いますな。しかし、でも、実際にはそんな蔵は存在しません。そんな欲深い蔵などないのですよ。
お釈迦様は、「たとえ黄金の雨を降らそうとも、人間の欲望は尽きない」と説いています。人間の欲望って、際限が無いんですね。恐ろしいことですな。人間の欲望のほうが無尽蔵かも知れませんね。
さて、今回は、ある意味恐ろしい蔵、「無尽蔵」について、お話しいたします。

まずは、いつも通り、新明解国語辞典で、無尽蔵の意味をおさえておきます。なんと、「無尽蔵」では載っていませんでした。「無尽」の中に解説がありました。
無尽蔵……(有用なものが)無限にありそうに見えること。
ありました。「そうに見えること」とあるのは、実際には無尽などと言うことは無いからでしょう。尽きることなく物が出てくる、なんてことは無いですからね。なので、「見える」となったと思われます。

では、仏教語の「無尽蔵」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@徳が広大であって尽きることのない蔵の意。仏教にたとえていう。
A庶民の金融機関として寺院に設けられた質庫。シナの南北朝時代から設けられた。
B唐の信行の教団のつくった経済機構。多少を問わず信者の喜捨を蓄積して、低利で信用融資した。
とあります。主な意味は、@ですね。まあ、この意味以外では使うことはないでしょう。そう、仏教の場合、蔵に詰まっている物は、物ではなく、徳なのです。仏教は、その教えを守れば、無尽に積めるのですよ。また、仏教には、無尽に徳があるのです。だから、そに 仏教の無尽の蔵から、徳を取っていけばいいのですな。そうすれば、徳がつくのです。
どうすれば、無尽の徳の蔵から、その徳を得られるのか。それは、正しい仏教を学び、実践していくことです。仏教には、在家ができる実践もあります。まずは、それを学ぶことですね。

Aは、質のことです。庶民のために、質入れをさせてお金を貸していたようです。もちろん、金利は取ります。低いですが。その金利で、寺院運営の足しにしていたのでしょう。
Bも同じですね。こちらは、質を取らず、寺院への寄付金を元金として、それを人々に貸していたようです。信用貸しなので、担保は取らなかったようですね。こちらも、低金利ですが、一応、金利は取っていたようです。これは、唐の信行という僧侶の教団が始めたことのようです。まあ、一種の銀行ですな。

さて、もし無尽の蔵があったら、皆さんは、その中身は何がいいでしょうか? お金? 徳? 健康? 安心?……まあ、多く方は、「お金」と答えるのではないでしょうか。そりゃまあ、そうですよね。世の中、まずはお金があれば何とかなります。それが無尽にあれば、最強でしょう。そんな蔵があればいいのにな、と思ったことがある方もいるのではないでしょうか? 私は、元来の怠け者の故、そういうことを夢想したこともあります。しかし、現実にはそんな蔵はないのですから、健康に気をつけて働くしかないんですよねぇ。それが現実ですな。

ところが、仏教の世界には、虚空蔵という蔵があります。その蔵には、何と智慧と財宝があるのだそうです。しかし、その蔵は鍵がかかっていて中には入れないのです。ですが、その蔵の鍵を得る方法もあるのです。それが
「虚空蔵求聞持法」
という、秘法ですな。お大師さんも、若いときに何度も行いました。確か、7度目の時でしたか、金星が飛んできて口の中に入ったのです。で、お大師様は、智慧と財宝の蔵の鍵を手に入れたのですな。なので、見たこと聞いたことは一度で覚えられるようになりました。そして、唐への当時大金が必要であった留学費用(一説によれば現代の2億円ほどとか?)を手に入れることもできたのです。

ところが、この「虚空蔵求聞持法」は、一般の方にはできません。お坊さんでもちょっと無理かな。
相当の覚悟が無いとできない秘法です。細かな決まりもありますが、ざっくり言えば、虚空蔵菩薩様の御真言を百日もしくは五十日で百万遍唱えるという作法です。まあ、とてもじゃないけど、できませんよね。五十日で唱えるとすると、一日2万遍唱えなければなりません。一般に虚空蔵菩薩様の御真言を千回唱えるとすると、一時間以上はかかります。2万遍というと、その20倍ですから、20時間以上かかることになります。まあ、苦行ですな。100日でも、一日1万遍ですからね。こんなことは、在家の皆さんには無理でしょう。私もやっていません。無理です。その自信があります。なので、初めから手を出しません。そんな無謀なことはしません。

ですが、ここに救いがあります。毎日少しずつ、虚空蔵菩薩様の御真言を唱えていれば、いつか……何年かたてば……百万遍に達するかも知れません。そうすれば、智慧と財宝の鍵を手に入れることができるかもしれません。もし、興味があるなら、お試しください。
なお、智慧と蔵の鍵を手入れたかどうかは、そのサインがあるのだそうです。お大師様は、金星が口に飛び込んできました。そうした現象があるのだそうです。もし、その現象がなければ、失敗となります。お大師様も成功したのは、5回目とか7回目とか言われております。それくらい過酷な作法なのですよ。

そりゃそうでしょう。智慧と財宝が無尽に詰まった蔵なんて、そう簡単に手に入るわけがないでしょう。そんな難しいことをしなくても、人は智慧も財宝も手に入るじゃないですか。無尽じゃないかも知れませんが。
世間を知り、読書をし、よく考え、よく観察し、よく学び、経験を積み重ねれば、大きな智慧が身につくのですよ。そして、あなたにとっての本当の財宝を見つけるのです。それは、家族であったり、心の安定であったり、健康であったり、人それぞれ異なるでしょう。お金が欲しいなら、懸命に働けばいいのだし、家族が欲しいのなら、いい出会いを求め、お互いによい家庭を築き上げる努力をすればいいのです。そう、財宝は、目の前にあるし、それを手に入れる努力を怠らなければ、手に入るものなのです。高望みを得ず、分相応ならばね。

無尽蔵の徳の蔵は、皆さんの目の前にあります。その鍵をい手に入れるのは、怠らず努力し続けることです。たまの息抜きやストレス解消はいいですが、遊んでばかり、他人の財布を当てにする、犯罪に走るなんてことをしていては、一生、無尽蔵の蔵の鍵は手に入りませんよね。
日頃の働き、努力が、智慧と財宝の蔵の鍵を手に入れる唯一の方法なんですよ。
合掌。


231.無理
無理難題を押しつけられたことはあるでしょうか? あるいは、無理強いされた、無理を通そうとしたなどなど、無理をしたこと・されたことは、誰もが一度はあるとは思います。
「無理」という言葉は、まあ、いい言葉では無いですね。そこには、何か脅迫めいたことや、暗さがつきまといます。その印象のように、無理というのは、良くないことだと思いますな。その暗い言葉の「無理」について、現代語と仏教語を比較してみますね。

まずは、現代で使われている無理についてです。お馴染みの新明解国語辞典には、
@そうするだけの理由が無く、筋道も通っていない様子。
A客観的に見て困難である上に、それを強行すればしわよせが関係方面に及ぶと予想される様子。
B不結果を構わず、何かを強行する様子。
とあります。後は、熟語の紹介ですね。
で、思ったのですが、私が思っていた「無理」が入っていません。それは、無理の本当の意味ではないのですね。私が思っていたのは「拒否」の意味での無理です。よく口にするかと思いますが
「もう無理!、もう嫌!」
といった使い方の「無理」です。これが入っていないんですね。無理の使い方は、「もう無理!」のほうが、多いように思うのですが、本来の意味にはないんですなぁ。

では、仏教語の「無理」はどうでしょうか? こちらもお馴染みの仏教語大辞典によりますと
@理にかなわぬこと。
A無理由。
B不合理。不適当。不正当。
とあります。ものすごくあっさりしていますな。
@Bは、簡単にいってしまえば、「筋が通らない」ということでしょう。まあ、どれも現代語の「無理」と同じですな。
強いて言えば、「無理由」がちょっと特殊ですかね。

無理は、理が無いと書きますね。その通りで、理が無い、つまり、そこにちゃんとした理由が無い、根拠が無い、と言う意味になります。理由がないことをやれ、と言われても、それは納得いきませんよね。無理強いというのは、そういう事ですな。それをやるべき根拠が無い、それをやるべき理由が無い、それを「無理」というのでしょう。

無理して何かをする、というのは、たいてい、いい結果が望めませんよね。
「ほらやっぱり、そんな無理をするから」
というのが、よくあるパターンでしょう。無理はしない方がいいのですよ。

社会に出ると、いや、学生さんもかな、結構無理をすることがあります。しかし、その無理には、ちゃんとした根拠があるのでしょうか? そこまで無理してやらねばならない理由はあるのでしょうか?
根拠のないことを信じて、無理に行動しなくてはいけないのでしょうか?
無理からは、何も生まれません。否、生まれるのは、落胆や疲れ、ですよね。無理はしてはいけないのです。

できもしないこと、先の見通しが立たないこと、筋の通らないこと、根拠のないこと、それをすべき理由がないことなどを無理矢理押しつけられた、無理強いされたならば、断固拒否しましょう。
「それは私には無理!。どうしてもそれをやれ、というのなら、あなたがやってください!」
無理を押し付けられ、無理をして、「もう無理!」と泣き叫ぶよりは、評価が落ちてもいいから、無理なことは避けるべきでしょう。また、そうした主張が、世の中を変えていくのですよね。昭和的無理強いを無くすことになります。だから、
無理なものは、「無理」
とはっきり言いましょう。それが、わたしたち現代に生きる者の生き方だと思います。
合掌。


232.歓喜
サッカーのワールドカップが始まりました。私自身は、あまりサッカーに興味が無いので、せいぜいスポーツニュースで見るくらいです。が、気になることが一つあります。最近は聞かなくなりましたが、あの「ドーハの悲劇」です。しつこいくらいに「ドーハの悲劇、ドーハの悲劇」と言ってました。興味のない私にとっては、もううんざり、いったいつまで過去を引きずってんだよ、情けない!、としか思えないのですよ。
それが、今やすっかり「ドーハの歓喜」に変わっているじゃないですか。ドイツに勝った途端? まあ、悲劇悲劇と言われるより、歓喜だ歓喜だ、と騒いだ方が健全ですけどね。
さて、コスタリカにも勝ち、快進撃の日本チーム。決勝戦に出場ができれば、もうこれこそ歓喜ですな。どうなりますやら……。
ということで、今回は、「歓喜」ついて話いたします。

まずは、現代で使われている無理についてです。お馴染みの新明解国語辞典には、
(表情、態度などに おのずとあらわれるほど)喜ぶこと。
とあります。はい、たったこれだけです。あっさりしたものです。まあ、確かに喜ぶこと、ですからね。

ではでは、仏教語の歓喜はどうなんでしょうか? こちらもお馴染みの仏教語大辞典によりますと
@よろこび。歓喜は宗教的に満足したときに起こる、全心身をあげてのよろこびをいう。またよろこぶこと。
A歓喜地に同じ。以下省略。
B親鸞が説くところによると、「歓は身体の喜び、喜は心を喜ばすこと」とある。
C浄土宗では、死後の往生を歓喜とよんだ。
D南方、相宝仏の国土の名前。
今回、ABCは、まとめさせてもらいました。そのまま書くとめちゃめちゃ長いので。

仏教語の歓喜は、ただ喜ぶだけで無く、全身全霊を持って喜ぶこと、です。サッカーファンが、日本がドイツに勝ったときのような喜び方でしょうな。深い深い喜びとでも言いましょうか。
Aの歓喜地とは、菩薩のくらいのことです。菩薩には、その悟りに応じて、十段階有ります。これを十地と言います。その一番最初が、歓喜地です。悟り至り、歓喜の状態、というでしょう。
Bは、そのまま、親鸞さんの解説ですな。
Cもそのまま。浄土宗では、極楽往生することを歓喜とよんだそうです。今もそう言っているかは、しりません。
Dは、お経で説かれている、宇宙のどこかにある仏教国土のことです。架空、と言われればそうかもしれませんが、宇宙は広いから、ひょっとしたら、そんな国があるかも知れませんね。

この歓喜に天が着くと、歓喜天になります。歓喜天=聖天さん、とも言います。ガネーシャがだきあっているすがたをしていますな。この歓喜天さん、実に怖い神です。我々は、滅多に祀りません。作法も独特ですし、条件も厳しいのです。その像は、秘仏として厨子に入っており、開けられることはほとんどないですね。なので、たとえ歓喜天さんがうちの寺にやってきたとしても、祀ることは無く、ひっそりと秘仏のまま、となるでしょう。まあ、来ることはないでしょうけど。

さてさて、日本はコスタリカに負けてしまいました。これは、誰もが予想外の事だったと思います。まさかね、と言ったところでしょう。しかし、勝負事にはこういうこともあるのですよ。油断大敵。
この先、日本のチームはどうなるのでしょうか? 決勝トーナメントに出られるのかな?
それこそ、ドーハの悲劇が、カタールの歓喜に変わる事はあるのでしょうかねぇ。
ま、それは、神のみぞ知る、ですな。
合掌。



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