ばっくなんばー3
11.平 穏 シッダールタとヤショーダラーの新婚生活の場は、それから間もなく完成した。それは、四季に応じた住まいで、春と秋に過ごす宮殿、夏に過ごす宮殿、冬に過ごす宮殿と三種類造られたのであった。 『父王は、またこんなものを造られてしまったのか・・・・。』 シッダールタにとって、負担なことがまた一つ増えたのであった。 「どうじゃ、シッダールタ。この宮殿は素晴らしいであろう。季節ごとに快適に過ごせるようになっている。ここで二人で暮らせば、結婚生活も、さぞ楽しかろう。そのうちに子もできるだろう・・・。いや、なに、別にあわてなくてもよい。ヤショーダラー姫は、まだ子供だからな。ハッハッハ・・・。」 シュッドーダナ王は、ご機嫌であった。予定通りシッダールタが競技に勝ち、王子の座を堅固にし、妃ももらった。国の内外にも、王子の勇敢さを印象付けることもできた。すべては、国王の思う通りに進んでいたのだ。機嫌がよくなって当然であった。 「のう、宰相、いろいろ気をもんだが、シッダールタもどうやら落ち着いたようだな。このままいってくれれば、6人の預言者の予言どおり、シッダールタは転輪聖王になってくれよう。あとは、世継ぎだけじゃな。 そなたにも、随分苦労をかけた。ここまで、よくシッダールタを導いてくれた。感謝するぞ。」 「何をおっしゃいます国王様。これも、釈迦族安泰のためです。しかし、王子様が、転輪聖王になるまでは、油断はできません。今でも、瞑想は続けられているようですし。何とか、アシタ仙人の『王子は出家して仏陀になる』という予言だけは外れるようにしませんと。」 「おぉ、そうだ。よく注意してくれ。」 「大丈夫です。新しい宮殿は、三重の城壁で囲ってあります。見張りもいます。そう簡単には抜け出せません。」 「そうか、そうか。これで、安心じゃな。あとは、世継ぎじゃな。」 「はい、ですが、ヤショーダラー姫は、まだお若い。15歳になったばかりです。あわてないほうが、よいでしょう。」 「そうだな。まあ、今しばらくは、様子を見る事にしようか。」 シッダールタとヤショーダラーは、新しい宮殿で、新婚生活を過ごす事となった。シッダールタにとっては、気重ではあったが、ここは逆らわず、素直に宮殿に入ることにしたのだった。ヤショーダラーもまだ少女であったし、今ここで揉め事を起しても、周りに迷惑をかけるだけだと判断したからであった。 新婚生活と言っても、シッダールタは、ヤショーダラーに触れる事はなかった。ヤショーダラー自身も、 『まだ私が少女だから魅力を感じないのでしょう。いずれ、私を抱きたくなるに違いないわ・・・・』 と思っていたので、積極的にシッダールタを誘惑するようなことはなかった。したがって、二人は、まるで兄と妹のような関係であった。 そうした平和な日々が数年続き、ヤショーダラーも20歳になろうとしていた。 シッダールタは、相変わらず、自分からは、決してヤショーダラーに触れるような事はしなかった。ヤショーダラーはというと、ここ2〜3年で女性らしくなり、魅力的になっていた。 『私は、もう女だわ。こんなにも魅力的になっている。なのに、王子様は私に触れようともしない。何とかして王子様をその気にさせないと・・・・』 ヤショーダラーは、シッダールタをその気にさせようと、いろいろな方法に出た。ある時は、 「一緒にお酒でも飲みましょう。」 と言って、酒に酔った振りをして、しなだれかかったりしたが、 「お酒は好きじゃないので・・・・。」 と、あっさり避けられてしまった。 ある時は、シッダールタに突然抱きついたりしたが、シッダールタは、すぐにヤショーダラーから離れてしまうのだった。二人の結婚生活は、およそ夫婦とは言い難いものであった。 ある日、ヤショーダラーは、溜まりかねてシッダールタに尋ねたのであった。 「シッダールタ様、何ゆえ、私を避けられるのでしょうか。確かに、シッダールタ様は、結婚する気はない、私にも触れる気はない、とおっしゃいました。ですが・・・・。私は、それほどまでに魅力のない女なのでしょうか。それとも、他に理由があるのでしょうか。」 この言葉を聞き、シッダールタは悲しそうな顔で答えた。 「すまないと思っています。しかし、結婚が決まった時にも言ったように、私は結婚する気はなかった。今でもないのです。とはいえ、事実上、結婚してしまった。あなたには気の毒な事だと思っています。あの時、素直に私の言葉に従って、国に帰ってくれればよかったのですが・・・。」 「そのような事を聞いているのではございません。私に魅力があるのかどうかと聞いているのです。私を抱かない理由を聞いているのです。」 「あなたに魅力がないわけではありません。私も迷う事があるのです。やはり男として女性に心が惹かれることはあります。抱きたい、抱き寄せたい、と思うこともあります。しかし・・・。」 「そう思うのでしたら、抱いてくださればよろしいでしょう。なのに、王子様は、いつも私を避けていらっしゃる。私がいくらお誘いしても、いつも離れていってしまわれる。寝所を共にしたこともない・・・・。毎晩、隣の部屋に行って一人で寝てしまわれる。夫婦なのに、私は妻なのに、なぜ・・・・。」 ヤショーダラーは感極まって泣き出すのであった。 シッダールタはしばらく黙っていたが、 「私は、きっと怖いのだと思う。否、怖いのだ。あなたを抱くことが怖いのだ。快楽に溺れてしまうことが怖いのだ。あなたの魅力にとり憑かれるのが怖いのだ。そして、美しいあなたも、実は不浄なものを体内に抱えているということを知ってしまうのが怖いのだ。私もあなたも抱き合えば、その不浄さをさらけ出してしまうであろう。それが怖いのだ。それに、私には・・・・いずれ将来・・・・・。否、何でもない。」 と告げたのであった。ヤショーダラーには、その言葉がわからないようであった。 「王子様、私には王子様が言っている意味がわかりません。私たちは、夫婦なのですから、結ばれるのは当たり前でしょう。それに溺れても構わぬではないですか。この宮殿には、誰も近付きません。公務も休むと言えばそれで済むことです。不浄と言いますが、その行為が不浄なのでしょうか。それならば、王子様も私も不浄な行為によって生まれた不浄な人間なのでしょうか。もしそうならば、人は生まれてはいけないことになってしまいます。どなたが聞いても、私のほうが正しい事を言っているというでしょう。王子様の言葉は、私にはわかりません。」 そういうと、ヤショーダラーは泣きながら、シッダールタに抱きついたのであった。 シッダールタには、なす術がなかった。理不尽な事を言っているのは、自分自身であることは、よくわかっていたのだ。結局、シッダールタは、その夜、ヤショーダラーと結ばれたのであった。 こうして、二人は、極普通の夫婦生活を送るようになったのである。またしても、ヤショーダラーの思うように、ことは運んだのであった。 カピラバストゥは、ここ何年も平和な日々が続いていた。国王も、シッダールタたちが、極普通の夫婦生活を過ごしていると聞き、満足していた。何事も心配なく、平穏な日々が続いていたのである。ただ、待たれているのは、シッダールタとヤショーダラーとの間に、子供ができる事である。すでに、シッダールタは27歳、ヤショーダラーは22歳になっていた。世継ぎが生まれるのは、今ではカピラバストゥ全体の話題であった。城下町は、いつもその話で盛り上がっていた。城下の人々も平和であった。ただ一人、シッダールタ王子を除いては・・・。 ただ一人、シッダールタだけは、得体の知れない不安を抱えていた。ここ1年ほど、毎朝目覚めた時から、その不安が襲ってくる日々が続いていた。初めのうちは、それほど大したことはなかったのだが、日を追うにつれ、その不安感は強くなっていったのである。最近では、何をしても、仕事をしていても、瞑想をしていても、城内を散策していても、その不安が付きまとっているのであった。そのため、夫婦関係もなくなっていた。 ヤショーダラーは、王子の体調が悪いのではないか、何か病気にでも罹ったのではないかと心配していた。ある日、ヤショーダラーは、思い切って、王子に尋ねてみた。 「王子様、どうされたのですか。ここのところ、あまり調子がよろしくないようですが。夜も早くに一人で休まれているようですし。それに、いつも何かを考え込んでいらっしゃるような様子ですが。どこか、お身体でも悪いのではないでしょうか。お医者様に診ていただいたほうがよろしいのでは・・・。」 「いや、身体は悪くはないんだ。ただ、気分がすぐれない。というよりも、気が晴れないのだ・・・・。」 「いつからですか?。このところずうっとですか。」 「まあ、そうだ。どうも気がスッキリしない。どうしたものか・・・・。何をやっても気が重いのだよ。」 「そうだったのですか。それは・・・・申し訳ございません、気が付きませんでした・・・。」 「否、そなたのせいではない。そうじゃないんだよ。ただ、気分が重いだけなんだ。」 「そうですね。どうでしょう、一度、城外に出てみるというのは。馬車に乗って、少し遠出をしてみては如何でしょう。私もご一緒しますわ。気分転換にもなると思います。」 「そうだね・・・・。うん、それはいい案だ。そうだ、そうしよう。では、明日にでも出かけるとしよう。どこへ行こうか・・・・。そうだ、そうだ、東の門から出ることにしよう。よし、さっそく準備をさせよう。馬車の用意をさせてくる。」 シッダールタはそう言い残し、軽い足取りで部屋を出て行ったのであった。 シッダールタの反応に、ヤショーダラーは返って驚くのであった。普段、あまり外には出たがらないシッダールタが、遠出を喜んでいる。このところ暗い顔ばかりしていたが、ヤショーダラーの提案に、笑顔が戻っている。 ヤショーダラーは、シッダールタに笑顔が戻った事を素直に喜び、翌日の遠出を楽しみにしているのであった。 12.老 人 その日は、すばらしい晴天であった。シッダールタとヤショーダラーは、朝早くから目覚め、その日の遠出を心待ちにしていた。 「もう、準備はできているのだろうか。久しぶりの遠出だ。なんだか、今日は、朝から気分もいいようだ。」 「よかったですわ、王子様。今日は、顔色もよろしいようです。」 「あぁ、このところにない、気分のよさだ。準備ができたら、すぐにでも出発しよう。昨日のうちに、今日の昼食の用意や馬車の準備などを手配しておいたのだが・・・・。」 「間もなく準備が整いますでしょう。ところで、今日はどこへ出かけるのでしょうか。」 「それは・・・・、出かけてみてのお楽しみだね。東の門から出発しようと思っている。なぜか、東方面に行きたくってね・・・・。」 シッダールタにしては珍しく、明るく微笑んでいたのであった。 「準備が整いました。王子様、お妃様、どうぞ東玄関にお越しください。」 侍女がシッダールタたちの部屋に準備が整った事を告げに来た。シッダールタは、足取りも軽く、にこやかに 「さぁ、行こうか。」 とヤショーダラーに声を掛けるのであった。こんなことは、今までになかったことで、ヤショーダラーは大いに驚いていたが、自分の思う方向に王子が反応してくれたので、密かにほくそ笑んでいた。 (きっと、王子様は、無理やり自分を自分の中に閉じ込めておいでだったのだわ。本来の自分の姿は、今の王子様なのよ。それなのに、無理にご自分を律していたのだわ。もっと自由にされればいいものを・・・。まあ、いいわ、これからは、私が王子様を変えていくわ。今日のことも私の提案によるものだし。こうして、一つずつ私の思うように進めていけばいいのよ。ゆっくりとね・・・・。) 「さぁ、出発しようか。」 シッダールタの明るい掛け声とともに、王子とシッダールタ、侍女らを乗せた馬車が、東の門から軽やかに大通りへと出て行ったのであった。 「天気もいいことだ、屋根の覆いをはずそう。こうしたほうが外がよく見える。」 そういうと、王子は、馬車の幌をはずした。平和な日々が続き、活気に溢れたカピラバストゥの城下町の様子が、王子達にも伝わってきた。沿道で商売などをしている人々は、馬車が通りゆくのを見て、 「あっ!、王子様だ。お妃様も。」 と叫びつつ、手を振るのであった。王子達もそれに応え、手を振りかえしたりしていた。楽しげなシッダールタとヤショーダラーであった。 しばらく進むと、王子が前方を眺めながら、御者に向って、馬車の速度を落とすように言った。 「ちょっと速度を緩めよ。・・・・・あぁ、そうだ。うん、ゆっくりと進みなさい。」 「どうかされたのですか、王子様。」 また、いつものように気分が滅入ってきたのかと心配になって、ヤショーダラーは、王子に声をかけた。 「あぁ、いや、大した事ではではない。・・・・・おい、君、そこで止まりなさい。」 王子は、御者に馬車を止めるように命じた。 「えっ?、ここで止めるんですか。街中の道の真中ですが、いいのですか。」 「あぁ、いいのだ、早く止めなさい。君には、あの老人の姿が目に入らぬのか。」 王子は、御者に、やや強い口調で言った。御者は、馬車を止めながら王子に聞いた。 「老人ですか?。あぁ、あの老人・・・・。この道を横断しようとしていますね。」 「そうだ。この広い道をあの老人は、横断しようとしている。先ほどのまま走りつづけていたら、あの老人を撥ねてしまうだろう。だから止めたのだよ。」 御者との会話にヤショーダラーが入ってきた。 「王子様、何も老人が道を渡るのを待たなくても、先に私たちが老人の前を通り過ぎればよろしいのではないでしょうか。どうも、あの老人、足が不自由なようです。この道を渡るには時間がかかりましょう。その間、私たちは待たねばなりませんわ。」 「ヤショーダラーよ、それぐらいよいではないか。別にあわてているわけでもない。老人は、いたわるものだ。あのご老人が、道を渡るのをゆっくりまとうではないか。それぐらいの余裕が欲しいのだよ・・・・。」 その言葉を聞いて、ヤショーダラーは (やはり、王子様は、心がお疲れのようだわ。ゆっくりとした時間が欲しいのね。余裕が欲しいのだわ。ここは、王子様の言う通り、ゆっくりとしたほうが王子のため・・・・いえ、私たちのためになるわ。) と思い、にこやかに微笑んで 「そうですわね。少し余裕を持ったほうが楽しいですし。ほら、花の香りが漂ってきますわ。」 と王子に語りかけたのであった。 「うん、カピラバストゥは、花に包まれているからね。四季折々の花が咲き乱れている。あぁ、いい香りだ。外に出てよかった・・・・。」 「本当にそうですわね。陽気もいいですし・・・。」 などと、王子達は会話を楽しんでいた。それにしても、その老人は、道を横断するのが遅かった。少しずつ、少しずつ、曲がった腰で、足を引きずるように動かし、進んでいたのである。 「全く、それにしても、あの爺さん、遅すぎだぜ。このままじゃ、日が暮れちまう・・・。」 御者のぼやきに、シッダールタとヤショーダラーは、その老人にあたらためて眼をやった。 (なるほど・・・。確かに、あの老人の動きは遅い。何とも辛そうではないか・・・・。手を貸したほうがよかろうか・・・。それとも、もう少し様子を見てからにしたほうがいいか・・・・。) (本当に、何てノロマな年寄りなの。なんで、あんな年寄りがこんな広い道を渡る必要があるのかしら。あぁ、まったく・・・・。あんなの放っておいて、早く先に行きたいわ。王子は何を考えているのかしら・・・。) その時であった。シッダールタは、 「あれでは、道を渡るのは大変だな。よろしい、私が助けてあげよう。」 と言うと、周りのものが止める間もなく、さっさと馬車を降り、老人のもとへと駆け寄っていた。 「ご老人、大丈夫ですか。私が手を貸しましょう。」 王子は、老人に近寄りそう言うと、老人の手を取った。が、しかし・・・。 (あぁ、く、臭い・・・・。い、いけない、そんなことを思ってはいけない。これはご老人の体臭だ・・・・。これは、老人特有の・・・・。あぁ、この手は、もう朽ち果てているような・・・。カサカサで、ボロボロの手だ・・・・。背もこんなに縮んでいるし、腰も曲がってしまっている・・・・・。眼は涙目だ、目やにもこびりついている。あぁ、息も匂う・・・。よだれまで・・・・。このうつろな眼はどうだろう。一体何を見ているのか・・・・。こ、こんなにまで人は老いるのか・・・・・。私もいずれこのように老いていくのか・・・・。私も・・・。恐ろしいことだ・・・。) シッダールタは、老人を間近で眺め、手が震えだしてしまった。老人のあまりの姿に恐怖を感じてしまったのである。しかし、一度手を貸した以上、最後までシッダールタは、その老人に付き添った。侍女や御者の、 「私が代わりましょう。」 と言う言葉も聞き入れず、その老人が道を渡りきるまで手を貸したのである。蒼ざめながらも・・・・・。 その老人が道の奥へと入っていくのを見届け、シッダールタは馬車に戻った。すぐに、ヤショーダラーが、おしぼりをさしだした。 「王子様、手をお拭きになってください。」 「あぁ、ありがとう。」 シッダールタは、暗い顔をしてそう言うと、おしぼりで手を拭いたのであった。そのおしぼりをヤショーダラーに返そうとすると、ヤショーダラーは思わず 「やめてください!。け、汚らわしい!」 と叫んでしまった。その瞬間、王子の顔はゆがんだ・・・。 「汚らわしい?。このおしぼりが汚らわしいのですか?。」 王子は、ゆっくりヤショーダラーに問いかけた。ヤショーダラーは、あわてて、 「いえ、あの王子の手が汚らわしいとかではなくて、その・・・、もし、あの老人が病気でも持っていたら、と思いまして・・・・。その・・・。申し訳ございません・・・・。」 と弁解したのだが、その声は、最後は消え入るようになってしまった。王子の顔が、怒っていたのある。 気まずい雰囲気であった。沈黙がしばらく続いた。と、突然、王子が 「もうよい。先に進みなさい。」 と告げた。そして、王子は、そのまま一言も口を利かなくなってしまったのである。 城へ戻ると、王子は一人でさっさと自室に篭ってしまった。ヤショーダラーにとっては散々な遠出であった。 (王子様は、私のことを怒っているに違いない。あぁ、私ったら、思わず叫んでしまった。失敗だったわ。何とかしなければ・・・・・。このままでは・・・・。そう、あれは誤解ですのよ、と微笑かけようか。それとも、今日のことは、まったく無視して、日常に戻ったほうがいいのか・・・・・・。それにしても、あのジジイ、どこの下賎の者なのでしょう。今度見つけたら、ただじゃおかないわ・・・・。どうしましょう、困ったわ・・・・。) 一人途方にくれるヤショーダラーであった・・・・。 一方王子はと言うと、一人自室に篭りきり、考え込んでいた。 (人は、皆老いていく。それは、当然のことだ。父王も最近ではめっきり老けてきた。誰もが、年を取っていく。年をとれば、身体も思うように動かなくなるであろう。今日の老人のように、腰は曲がり、足はヨボヨボになり、身体もふらつき、自由が利かなくなる。眼はよく見えなくなり、涙目になる。目やにもこびりつこう。よだれや鼻水が止まらなくなることもあろう。皮膚はつやを失い、カサカサになり、シワが増えていく。老人特有のシミも出てこよう。そして、なによりも、あの体臭だ。老人特有のあの体臭だ・・・・。 どんな高貴なものも、どんなに美しいものも、みんな同じように年を取っていく。そのことに特別はない。王子である私も、侍女も、御者も、城下の人々も、貧しいものも、富めるものも、等しく年を取るのだ。誰もが老人になる。それなのにヤショーダラーは、まるで不潔なものを見るような眼で、あの老人を見ていた。 否、そうじゃない、見てはいたが、見ていなかった。見ようとしなかった。すぐに眼を背け、見ようとはしなかった。避けていた。避けていたのだ。 ヤショーダラーだけではない。侍女も御者も、あの老人を厄介者としてしか見ていなかった。邪魔者としてしか見ていなかった・・・・・。 あの老人は、家の中でもそのような扱いを受けているのであろうか。みじめだ。あまりにもみじめだ。あの老人本人は、一体どう思っているのだろうか。辛くはないのだろうか。苦しくはないのだろうか。否、苦しいに違いない、あの息遣い、辛そうな顔・・・・。あの老人は、苦しんでいた。誰も手を貸さなければ、生きていけないだろう。 あぁ、何ていうことだ。人は、すべてあのように年を取っていくのだ。何も知らずに、ただ年を取っていくのだ。この先に何があるのか、どんな苦しみがあるのかも考えずに、日常の生活に追われ、ただ、ただ年を取っていくのだ。こんなことでよいのであろうか。年を取ることの苦しみを、ただ待つだけでいいのだろうか。 この苦しみから逃れる方法はないものだろうか・・・・。) 来る日も来る日も、シッダールタは同じことを考えていたのであった・・・・。 13.病 者 東門から遠出をし、あの老人と出会った日から、幾日が過ぎたであろう。シッダールタは、一日の大半を自室に篭って過ごしていた。もちろん、ヤショーダラーと夜を伴にすることはなかった。むしろ、シッダールタは、ヤショーダラーを避けていた。ヤショーダラーもそのことには気付いていた。 (シッダールタ様は、私を避けているわ。やはり、あの老人のことが原因なのね。どうしたらいいのかしら・・・。宰相様に相談してみようかしら・・・・。) シッダールタ自身も、ヤショーダラーがどうしたらいいのか悩んでいることを知っていた。 (はぁ・・・・。いつまでもヤショーダラーを避けているわけにはいかないな。彼女も、あの時は、たまたま口が滑ってしまったのだろう。普段から勝気なところがあるからな。気位が高いようだし・・・・。しかし、いつまでも無視したり、避けたりしていても仕方がない。それよりも、老人を敬うことを教えたほうがいいだろう。誰もが年を取る、誰もが老いていくのだ、ということを説いてあげたほうがいいのだろう。問題は、きっかけだ。ヤショーダラーが、私の話を聞き入れる環境を作ってやらねばならない。彼女は、気位が高いから、なかなか話を聞き入れないところがある。さて、どうしたものか・・・・。) シッダールタもまた悩んでいたのであった。 そんなすれ違いの日々が続き、季節は夏へと移り変わっていた。その年は、特に暑い日が多く続いていた。街では水浴を楽しむ人々でにぎわっていた。金持ちの商家の人々や、身分の高い貴族などは大きな川まで遠出して、水遊びに興じているのであった。シッダールタの耳にも、そんな街の様子が伝わってきていた。 シッダールタは、窓の外を眺めながら、ぼんやり考えていた。 (確かに今年はいつもの年より暑いようだ。水浴か・・・・。いいかもしれない。うん、これは、いいきっかけになるかもしれないな。ヤショーダラーを誘って、水遊びに出かけるか。先ずは、近場から行ってみよう。何回か近場で楽しんで、次第に遠くの川に行くのだ。遠くの川へ行く時、その道中で話をすればよい。今は、私もあなたも若々しいが、いずれ年を取るのだよ、と。いずれ老人になるのだと。だから・・・・。そう、だから老人を毛嫌いしてはいけない。避けてはいけないのだ、と・・・・。楽しみを与えながら話をすれば、聞く耳を持つだろう・・・・。うん、それがいい。よし、ならば、早速準備に取り掛かるとしよう。まずは、近くの泉から始めるとしようか・・・・。) シッダールタは、早速侍女を呼び、水浴に行く準備を始めるように命じたのであった。 ヤショーダラーは、シッダールタの水遊びの誘いに、大いに驚いたが、飛び上がるほど喜んだのだった。 「王子様が、そうおっしゃったのですか。わかりました。喜んでご一緒しますと伝えてください。」 (どうしたのかしら、シッダールタ様は。まあ、いいわ。この機会に何とか仲直りしないと・・・。今度は、老人を見ても毛嫌いしないようにしないと・・・・。私は、すぐに顔に出てしまうから、気を付けないといけないわ・・・・。) などと思いながら、そそくさと支度をするのであった。 城から近い泉や川での水遊びが何回か続いた。近場ということもあり、シッダールタ達は、老人どころかに誰に出会うこともなく、楽しい時間を過ごせていたのであった。しかし、シッダールタは、心から楽しんでいるわけではなかった。ヤショーダラーに「人は誰でも老人になる」という話をするきっかけを模索していたのだ。 何度目かの水遊びのことだった。その泉も、そろそろ来慣れてしまっていたころであった。 (だめだ・・・。やはり近場では、すぐに水遊びに興じてしまう。話をするきっかけがつかみにくい。やはり、初めの計画通り、遠出することにしようか・・・・。ここからなら、カンダク河がいいかな。そうだな、そうしよう・・・。) 「シッダールタ様、何を考えているんですか?。せっかく泉に来ているのに、水浴されないのですか?。」 「あぁ、いや、ちょっと考え事をしていた。これから水浴します。あぁ、ここの水は冷たくて気持ちいいな。」 「そうですね。でも・・・。ちょっと狭いのが残念ですね。それに浅いですし。私、泳ぎは得意なんですよ。ここでは、その泳ぎが見せられなくて残念だわ。シッダールタ様は泳がれないのですか?。」 「いや、泳げますよ。修練所時代に泳ぎを覚えましたからね。そうですね、ここでは、浅いから泳げないですね。あなたの得意の泳ぎも見てみたいですね。」 「えぇ、私もシッダールタ様の泳ぎが見てみたいですわ。ここからでしたら、どこへ泳ぎに行くのかしら。」 「そうだね、ちょっと遠いけど、カンダク河が一番いいかな。遠いといっても、馬車で行けばそんなに時間はかからないですね。あの河なら充分泳げますよ。流れも緩やかだし、水も澄んでいるし。」 「あぁ、カンダク河なら行ったことがありますわ。あそこならきれいですね・・・。ちょっと、遠いかしら・・・。」 (遠出か・・・・。今度は大丈夫かしら。前のようなことはないわよね、きっと。まさか二度も嫌なことにはならないわよね。ちょっと気が重いけど、でも、河へは行きたいわ。一日中シッダールタ様と過ごせるし。ここでは、短時間しか楽しめないし・・・・。) ヤショーダラーは、多少の不安はあったが、楽しみへの誘惑は断ち難かった。それに、まさかまた老人が邪魔をするとは思えなかったのだ。だから 「どうですか?。カンダク河まで出かけてみませんか。」 という王子の誘いに、 「えぇ、行きたいですわ。是非に・・・。私、見事な泳ぎをお見せしますわよ。きっと、シッダールタ様より上手よ。」 と喜んで答えたのであった。 こうして、二人は、また遠出をすることになったのである。 その日、ヤショーダラーは忙しい時を過ごしていた。日が昇ると同時に起き出し、従者を呼び寄せたのであった。 「いいこと、今日は、カンダク河まで遠出する日です。先日、あなたに命じたように、万事うまくやってくださいね。」 「はい、承知しております。王子様とお妃様が行かれる道から、事前に老人を排除しておきます。」 「そうです。忘れずに老人を排除しておくのですよ。御者に道順をよく聞いておくのですよ。間違いのないようにね。いいこと、私達の道中に一人たりとも老人の姿がないようにするのですよ。」 「はい。間違いなく、そのように致します。お任せください。」 ヤショーダラーは、前回の遠出のように、邪魔をされたくはなかったのだ。あんな失態は、二度としたくはなかったのだった。そこで、今日の遠出の道筋から老人を排除させるように命じていたのだった。 シッダールタとヤショーダラー、侍女を乗せた馬車は、城の南の門からカンダク河を目指して出発した。馬車を扱う御者は、前回とは異なる者で、やや年老いてはいたが、老人というほどではなかった。ヤショーダラーは、その御者の姿を見て、ドキッとしたが、王子が何も言わないので、黙って過ごしていた。 しばらくは、城下町を走り抜けていった。道には、あまり人影がなく、老人の姿は全く見られなかった。それどころか、所々にきれいに花が飾ってあるのだった。その様子に、ヤショーダラーは、満足していた。 (ふっふっふ。順調だわ。うまくやってくれたみたい。老人もいないし。花まで飾ってくれたのね。なかなかやるじゃない。帰ったら、褒美を取らせてあげないといけないわね。) 「今日は、何だか街が静かなようだね。それに花があちこちに飾ってある。どうしたんだろう。道もきれいに掃き清められているようだ。」 「暑い日が続いていますので、みんな家の中に入っているのでしょう。花のいい匂いが漂ってきますわ。」 「あぁ、そうだね・・・・。いい香りだ・・・・。」 (これでは、話のきっかけがつかめないな。こう静かじゃ・・・・。困ったな。もう少し待ってみるか・・・。) シッダールタは、老人についての話をするきっかけがつかめずに、ヤショーダラーのたわいのない話をきくばかりであった。 馬車は、城下町を通り過ぎ、森林へと進んでいった。その時である。御者がいきなり馬車を止めたのだ。 「どうしたのだね。なぜ、突然止まったのだ。」 「王子様、この先は、今日は進まないほうがいいようです。」 「どうしたというのだ。」 「疫病が出たようです。あそこをご覧下さい。あの煙が立っているところです。小屋が燃えているでしょう。」 そう言われて、シッダールタやヤショーダラー、侍女が馬車を降りて外を見てみた。確かに、遠くに小屋が燃えているのが見えた。 「あぁ、確かに小屋が燃えているな。それが何だというのだ。」 「あそこは、王子様や城下の皆さんは、知らない地域です。奴隷が住んでいるところです。おそらく、奴隷の村に疫病が出たのでしょう。疫病が出たら、ああやって病人ともどもその村全体を燃やししまうのが、奴隷村の慣わしなんですよ。」 「な、なんだと。中に生きている人がいるのに、火を放ったのか。」 「へい。それが、あの村の掟なんでさぁ・・・・。かわいそうだが、城下へ疫病が入ってきたら大変です。ですから、ああやって焼いてしまうんでさぁ・・・。」 「な、何ということだ。彼らには薬は与えられないのか。医者はいないのか。」 「へい。なんせ、身分の低い者ですから。焼くしか仕方がないんですよ。他の連中にうつってもいけないし、まして城下町に疫病が入ってきたら大変です。病気は人を選びませんからね。身分が高い人も低い人も、病気にはなりますから。城下に住む身分の高いものは、病気になっても医者に診てもらえますが、ああいう身分の低いものは、燃やすしかないんですよ。尤も、城下の人でも、貧乏人は医者には診てもらえないですけどねぇ・・・・。」 「そ、そうだったのか。知らなかった・・・・。あのような村があるなんて・・・。何とか救えないものなのか。」 「救えないですなぁ。あの村には出入りしないほうがいいです。しかし、疫病が出たとあっちゃあ、今日の遠出は止められたほうがいい。河の水も汚れているでしょうから。病気ばかりは、人を選びませんですからね。」 「これ、あなた、なんてことを言うのですか。失礼な御者ね。さっきから聞いていれば。気分が悪くなります。いい加減に黙りなさい。」 溜まりかねてヤショーダラーが御者を叱った。 「シッダールタ様、帰りましょう。折角の遠出がこれでは台無しですわ。お城に戻りましょう。」 シッダールタは何も答えなかった。ただ、蒼ざめていた。血の気が引いた顔色で、ぼんやり煙の立っている方向を眺めていた。悲しみに満ちた瞳で・・・・。 「そうか、救えぬのか・・・・。確かに、この国には、身分制度があったんだ。身分か・・・・。身分があっても病気は人を選ばぬか。そうだな、たとえ高貴な身であっても、病気にはなろう・・・・・。 わかった。仕方がない、城へ戻ろう。」 そうシッダールタはつぶやくと、馬車に乗り込んだのであった。馬車は、来た道を戻り始めた。誰も口を開こうとはせず、重苦しい帰途であった。 城に戻ると、シッダールタ達は、すぐに沐浴をした。疫病の出た村からは遠かったのではあるが、用心のために汚れを洗い流したのだ。そして、薬樹の香油で身体を清めたのであった。 シッダールタは、それだけのことを終えると、蒼い顔のまま、また自室へと篭ってしまった。一方、ヤショーダラーは、従者を呼びつけていた。 「あなた達は何をやっているのですか。なぜ、疫病が出たことを報告しないのですか。」 「な、なんとおっしゃいますか?。疫病ですか?。それはどこで出たのでしょうか。」 「城下町を抜け、森林に入ったところです。あの森林の奥、カンダク河下流の方向で、煙が上がっていたのですよ。御者の話では、あの方向は、奴隷村があるとのことでした。」 「確かに、あの方向には奴隷村がございますが、カンダク河の水行場とはだいぶ離れており、随分下流になります。それに、私どもが朝見回ったところ、疫病が出たなどという話はありませんでした。」 「でもね、城下町は静かだったのよ。みんな家の中に引っ込んでいたようだわ。」 「はい。城下の人々には、少々小銭を与え、家の中に入っているように頼んでおきましたので。」 「ふん、下手な言い訳は聞きたくないわ。なんでもいから、このような失敗は二度としないようになさい。」 従者は、訳もわからず、ヤショーダラーに叱責されたのだった。それは、ほとんど八つ当たりであった。 (いったいどういうことなのかしら。まるで、私達が遠出するのを邪魔しているようだわ。こうなったら意地だわ。もう一回遠出してあげる。それでまた何かあったら、占い師を呼んだほうがいいわね。誰かが、私達のことを呪っているのかもしれないし・・・・・。そうね、試しにもう一度出かけてみるべきだわ。頃合いを見て、シッダールタ様を誘ってみましょう。まあ、当分は無理でしょうけど。また、しばらく、王子様は引きこもりでしょうからね・・・・。) ヤショーダラーは、怒りながらも、もう一度遠出をする計画を練るのであった・・・・。 14.死 者 シッダールタは悩んでいた。 (一度目の遠出では老人に出会った。そして、二度目は病人に出会った・・・・・。これは、偶然なのか・・・。いやいや、老人や病人に出会うことなど、よくあることだ。その出会いが、特別と言うものであるはずがない。城下を歩けば、老人に出会うことは多々あることだし、疫病が流行ることもあるだろう。しかし・・・。 しかし、あのような奴隷の村があり、奴隷達が疫病にかかればその村自体を焼いてしまう・・・などというのは・・・・。あまりにもひどい・・・・。そうだ、この国は、厳しい身分差別があるのだ。四階級の中にすら入れないような人々も確かにいるのだろう。 私はこれでいいのだろうか・・・・。王家の中で、恵まれた生活をしていていいのだろうか・・・・。 人は誰でも老いるし、病気にもなる。私自身もこの恵まれた環境にいる間に、年老い、病気になったりするのだ。そしてやがては・・・・。 そう言えば、幼い頃から私はよく病気をした。ひ弱だ、ひ弱だ、と言われていた。確かに、疲れやすく、すぐに気分が悪くなってしまう。腹痛にもよく悩まされた。今でこそ、比較的健康ではあるが、体力はないし、疲れやすいほうであることに変わりはない。 なぜだろう・・・・。人一倍力持ちで、健康な者もいれば、私のように病弱なものもいる。 なぜだろう・・・・。私のように恵まれた環境にいる者もいれば、あの奴隷村で生活している者もいる。 この差はなんだ。なぜ、このような差が生まれるんだ・・・・。) シッダールタの悩みは尽きることはなかった。 しかし、いつまでも自室に篭り、悩んでばかりいるわけにはいかなかった。王子としての仕事もある。シッダールタは、日常の業務をテキパキとこなしていた。その様子からは、シッダールタが悩んでいるということなどは、微塵も伝わってこなかった。ただ、一日の仕事を終えると、自室に篭って考え事に耽る毎日であった。ヤショーダラーとは、食事の時や、用事があるときなど、普段と変わりなく接してはいたが、寝室を共にすることは無かった。 ヤショーダラー自身も、シッダールタが篭りがちであることに、今更、騒いだり、怒ったりはしなかった。それよりも、もう一度、遠出をする機会を狙っていたのだった。 (どうしても、もう一回遠出をしてみたい。それで、また、邪魔が入るようだったら、占い師に占ってもらう必要があるわ。ひょっとしたら、誰かが、呪いをかけているのかもしれないから。シッダールタ様は、あれで、各国の王女から人気があったから・・・・。多くの王女やバラモンの娘などが、シッダールタ様と結婚したがっていたから・・・・。 私は妬まれているのかも知れない。 シッダールタ様は、聡明そうで、男前で、きりりとしているし、武術も強い・・・・。確かに評判通り、素敵な王子様だった・・・・。だけど、あんなにひ弱だったとは・・・・。あんなに偏屈だったとは・・・・。ちょっとしたことで、すぐに自室に篭ってしまう・・・・。こんな美しい私を抱こうともしない。 この世には、何もかも忘れさせてくれる快楽があると言うのに・・・・。あぁ・・・虚しい。寂しい・・・・。 それと言うのも、あの東門からの遠出がいけなかったのよ。なんで、遠出しようなんてしたのかしら・・・・。きっと、誰かが私のことを妬んで、呪いをかけているに違いない。いいわ、もう一度遠出をして、それを確かめてやる。みてらっしゃい。人の幸せを妬むと、ろくなことがないのよ・・・・・。) そんな日々を過ごしている二人に、国王からの呼び出しがあった。 「どうじゃ、仲良くやっているか。なかなか子ができないのは、残念だが、まあいい。お前たちはまだ若いからな。まあ、気長に待っているよ。」 「王様、ご用件はなんでしょうか。」 シッダールタが、父王に尋ねた。 「おぉ、そうそう、用件だが、何、収穫祭前の穀物の出来具合を視察する件だ。」 カピラバストゥでは、秋の収穫祭の前に、毎年、国王が穀物の出来具合を視察して廻ることになっていた。 「お前も知っている通り、毎年、穀物の出来具合をワシが見て廻るのだが、どうも、歳のせいか、体調がよくないのだ。だから、お前たちが代わりに行ってはくれないか。」 ヤショーダラーにとっては、渡りに船だった。 「私達でできることでしたら、よろしいのではないでしょうか、ねぇ、シッダールタ様。お父様のお加減もあまりよろしくないようですし。私達で参りましょうよ。」 「そうですね。国王様、私達で視察に行ってまいります。ですから、安心して休養なさってください。」 「おぉ、そうか、行ってくれるか。では、いい日を選んで、視察に行ってくれ。頼んだぞ。」 こうして、シッダールタとヤショーダラーは、穀物の出来具合を視察するために、出かけることになったのである。 ヤショーダラーは、シッダールタに尋ねた。 「王子様、私が視察に出かける日を決めてよろしいでしょうか。準備も私が致しますわ。それでよろしいでしょうか。」 「あぁ、もちろん、差し支えないです。ヤショーダラー、あなたがいいと思う日を選んでください。準備もやってくれるというのなら、いいですよ。あなたに任せましょう。」 シッダールタの許可を得た、ヤショーダラーは、早速準備に取り掛かった。 ヤショーダラーは、一人の占い師を自室に呼んでいた。今度の視察について、視察の日と道順を占ってもらうためだった。 「視察の日は、一週間後がよろしいです。お出かけになるには、西の門から出立されるがよろしい。道順は、地図に記しておきましたので、そのまま御者にお渡しになってくだされば結構です。」 占い師は、そういうと、ヤショーダラーに地図を手渡した。ヤショーダラーは、不安げに尋ねた。 「過去二度、私達の遠出に、邪魔が入りました。折角の楽しい遠出が、台無しになりました。今回はそのようなことはないでしょうか。」 「順調な視察になるでしょう。ご安心下さい。」 「今までのことは何だったのでしょう。私は、誰かに妬まれているとか、呪われているような、そんなことはないですか?。」 「まさか・・・・。ヤショーダラー妃のように、お美しく聡明な方が妬まれるなど・・・・。そのようなことはありません。過去の遠出については、偶然でしょう。」 「本当に?。あなたの占い、信じていいのですね。」 「はい、ご安心を・・・・。」 占い師は、そういうと、静かにヤショーダラーの部屋から出ていった。 「いいわ。その言葉を信じましょう。もし、何かあったら、その時は・・・・。まあ、いいわ。この道順ね。早速準備に取り掛かりましょう。」 ヤショーダラーは、早速侍女を呼んで、一週間後の遠出に備えたのであった。 一週間後の早朝、シッダールタとヤショーダラーの乗った馬車と、侍女達が乗った馬車が西の門から出発した。道のりは順調で、老人に出会うことも無く、病人に出会うことも無く、ましてや疫病で村が焼かれているような、そんなことに出くわすことも無く、馬車は順調に、農村へと向っていった。 その年の穀物も順調に育っていた。田畑は、見事な実り具合だった。シッダールタは、村長に、国王の代理で視察に来たことを告げ、 「今年も順調に実ってますね。」 「はい、天候も順調でしたし、大きな被害もなく、今年も豊穣です。収穫祭には、たくさんの穀物を神様に捧げることができます。これも、カピラバストゥが平和なお陰でしょう。ありがたいことです。」 などと会話を交わしていた。 農村地帯の視察は順調に終り、シッダールタ達は、帰りの道を走っていた。シッダールタとヤショーダラーの会話も弾み、久しぶりに夫婦になっていた。そのため、ヤショーダラーの機嫌はよかった。 (あぁ、楽しい時を過ごせたわ。このまま行けば、今夜は、久しぶりに王子様とご一緒できそうだわ。占い師に占ってもらってよかった。やっぱり、今までのことは偶然だったのね。うふふ、今夜が楽しみだわ・・・・。) そんな時であった。馬車がいきなり止まったのである。ヤショーダラーは、いやな予感がした。 「王子様、大変だ。崖崩れでこの道は通れないです。どうしましょう。」 御者がシッダールタに尋ねた。 「崖崩れだと・・・・。どれ・・・。」 シッダールタは、馬車から降りてみた。なるほど、崖が崩れて、道をふさいでいるのだ。 「どうしましょうか。お妃さまから頂いた地図では、この道を通るようになってますが・・・・。それにしても、この崖、崩れて間もないようですよ。何で崩れたんでしょうね、この崖。雨も降ってないのに・・・・。」 確かに、その崖は崩れたばかりのようだった。 「仕方がない、回り道をしよう。いいね、ヤショーダラー。」 「えっ?、えぇ・・・。仕方がないですからね・・・。」 ヤショーダラーは、無理に笑って見せたものの、顔が蒼ざめていた。 馬車は、ヤショーダラーの予感に反して、何事も無く順調に帰路を進み、間もなく、城下町に入るところだった。 (よかった・・・。無駄な心配だったようだわ。さぁ、もうちょっとよ。早く、早く、このまま走るのよ・・・・。) そう、心でヤショーダラーは、願うのだった。 が、その願いは届かなかった。また、馬車が急停車したのである。 「どうしたの?」 ヤショーダラーが、怒ったように叫んだ。 「あ、いや、お妃様方は外へ出られないほうがいいです。葬儀の列なんです。」 「なんですって!。葬儀の列?。そんなのに構ってないで、私達が優先に通ればいいのよ。」 「いえ、お妃様、そういうわけにはいかないんですよ。どんな場合でも、どんな身分の馬車でも、葬儀の列を妨げるわけにはいかなんです。葬儀の列を妨げると、その妨げた者に死が訪れるんですよ。だから、葬儀の列は、最優先なんです。」 御者の言葉に、ヤショーダラーは、唇をかんだ。その時、シッダールタが、蒼い顔をして、つぶやいたのであった・・・。 「葬儀の列・・・・。死者・・・・か・・・・。」 |