ばっくなんばー30
145.大いなる涅槃1 翌日のこと、仏陀はアーナンダと数名の弟子を連れて、チュンダの家に向かった。仏陀たちは、作法に従って、席についた。食卓には、地方の村にしては豪勢な食事が並んでいた。 食事も終わろうとしていた時、チュンダが言った。 「最後になりますが、とても珍しいキノコのスープを用意いたしました。是非、お召し上がりください」 食卓にそのスープが並べられた。すると仏陀が 「このスープは、修行者には食べられない。如来しか食べてはいけないものだ。すべて私の前におきなさい」 といったのだ。そして、仏陀一人でアーナンダら修行者に出されたスープを食べてしまったのだった。その仏陀の姿を見て、修行僧たちは心の中で (世尊にしては珍しい。いったいどういうことだ) (世尊はどうされたのだ。あまりにもいやしいではないか・・・) などと思っていた。仏陀は、そうした修行僧の心の中を見抜いてはいたが、何も答えず 「残ったスープは、家の隅に穴を掘って埋めてしまうこと。決して、誰も食べてはならない」 とチュンダにきつく命じたのだった。 チュンダの家で、食事を済ませ、一通りの教えを説いた仏陀は、 「他の長者の接待は断るように。すぐに旅に出る。クシナガラを目指そう」 とアーナンダに告げた。仏陀たちは、果樹園で修行をしていたの残りの修行僧たちと合流し、旅へと出たのだった。 その途中、仏陀に異変が起きた。激しい腹痛と嘔吐が襲ったのだ。仏陀は、歩くことができなくなり、木の傍らに身体を横たえた。 「しばらく一人にしてくれ」 仏陀はそういうと、静かに眠り始めた。その様子を見て、アーナンダたちは一安心し、仏陀のそばを離れたのであった。 しばらくして、不気味な笑い声が響いた。しかし、その声は仏陀にしか聞こえないものだった。 「うわははは。仏陀よ、約束の3カ月が来た。お前ももう終わりだ」 「マーラか。そろそろ現れるころだと思っていた。約束のことは覚えている。だからこそ、あの毒キノコのスープを私が引き受けたのだ」 「わははは。バカなヤツだ。わざわざ自分から死を選ぶとは。あんなものは、弟子に食わせればよかったのだ」 「マーラよ、お前は勘違いをしている。毒キノコのスープはきっかけにしか過ぎない。あのスープを私が口にしなくても、私には別のことで死が訪れよう。それがわかっていて、なぜあのスープを避ける必要があろうか?。肉体の死へのきっかけを先に延ばせば、さらに苦しみは増大するであろう。ましてや、毒キノコのスープとわかっていて、弟子に飲ませる者がいようか?。マーラよ、お前は何が欲しいのだ?。私の死が欲しいのであろう?。ならば、静かに待つがよい」 「ふん、死にかけのくせにエラそうなことを言うな!。ふっふっふ、しかし、チュンダも罪な奴よ。仏陀を殺した者になるのだからな。毒キノコのスープを飲ませ、ブッダを殺した犯人はチュンダだ。あの者は、多くの人々から罵られ、そしられ、叩かれてひどい目にあうだろう。それもお前があのスープを飲んだからだ。お前が飲まなければ、チュンダも罪を犯さずに済んだものを。チュンダは、これで地獄行きだな。最も苦しい地獄行きだ。お前がそうしたのだ、仏陀。お前のおかげで、チュンダは苦しむことになるのだ。わはははは」 「黙れマーラよ。口を慎むがよい。チュンダは、地獄に行かぬ。むしろ天界へ生まれ変わるであろう。仏陀に最後の接待をした者して、大きな功徳を得たのだ。チュンダには罪はない。毒キノコのスープが食卓に出たのは、すべて自然の導きであり、真理なのだ」 「くっそ!、あーいえばこー言いやがる。死にそうでフラフラのくせして、偉そうなこというな!」 「マーラよ。そんな悪態しかつけないとは、見苦しいものだ。哀れなものだ、マーラよ。私の肉体の死は間もなく汝のものだ。それまで静かに待つがいい」 そういうと、仏陀の顔色がにわかに戻ったようだった。仏陀は起き上がった。 「アーナンダよ、水が欲しい。汲んできてくれないか」 仏陀は、アーナンダにそう頼んだ。アーナンダはすぐに川に向かった。しかし、近くの川は沢山の商隊の馬車が通ったばかりでひどく濁っており、とても飲めそうになかった。アーナンダは仕方がないので、その水をくみ、仏陀の元へ戻っていった。 「世尊、川の水がひどく濁っております。ですので、足をふく程度のことしかできません。この少し先の川まで行きますので、しばらくお待ちください」 その言葉を聞いて、仏陀は静かに瞑想をした。そして 「アーナンダよ、近くの川に行き、水を汲んできてくれ。私は水が飲みたい」 とアーナンダに言ったのだった。アーナンダは、再び「いや、ですから近くの川は・・・」と言いかけたが、仏陀の目があまりにも澄んでいたので、「わかりました」と言って近くの川に向かった。 すると、先ほどまで濁っていた川の水が、ものの見事に澄んでいたのだった。アーナンダは、仏陀の神通力に改めて驚いたのだった。 水を飲んでいる仏陀にアーナンダは、 「世尊のこの体調不良は、チュンダのキノコのスープが原因ではありませんか。もしそうならば・・・」 と仏陀に尋ねた。 「アーナンダよ。私は、もう食事はしない。水のみを口にする。したがって、チュンダの食事は如来が取った最後の食事である。如来の最初に食事を供養した者と如来に最後に食事を供養した者は、同等の功徳を得る。よいか、誰も決してチュンダを責めてはならぬ。チュンダには私から話をしよう」 と仏陀は、力強く答えたのであった。 仏陀が病で倒れた、と聞いたチュンダは、「もしや・・・」と思っていた。もしかしたら、あのキノコのスープにあたったのではないかと思い、どうしていいのかわからず、家の中に閉じこもってしまっていた。仏陀の体調が悪いのは、チュンダのせいではないか、という噂もそろそろ出始めていたのだ。 アーナンダは、チュンダの家に行き、仏陀が快方に向かっているから来るようにと告げた。チュンダは、大いに喜び、仏陀の元へと向かった。仏陀は、木にもたれながら、チュンダに優しく話をした。 「チュンダよ、汝の接待は大変良いものであった。気に病むではない。しかし、キノコには、毒のあるものがある。有毒か無毒かは、専門家にしかわからない。今後は、山で取ったキノコの料理は控えるがいいであろう。今まで誰も死者が出なかったのは、たまたま運が良かっただけのことである。キノコを食べたいのならば、市場で買ってきたほうがよい。よいか、チュンダ。汝には罪はない。私は汝の接待を受けなくても、寿命がやってくるのだ。汝の接待を受けなかった場合、おそらくは毒蛇にかまれていたことであろう。死というものはそういうものである。それが来るときは、山に逃げても海に潜っても、どこへ逃げ隠れしても、逃れることはできないのだよ。だからこそ、今を大切に生きることが必要なのだ。チュンダよ、汝、罪を犯さず、善行をし、布施の心を忘れず勤めなさい」 チュンダは、涙を流して喜んだのであった。 翌日のこと、仏陀は立ち上がった。 「クシナガラはすぐそこだ。そこまで行こうではないか」 仏陀は杖を突きながらも、前に進んだのであった。 クシナガラの手前の小さな村で、仏陀たちはひとまず休むことにした。布を四つにたたんでその上に仏陀は身体を横たえた。そこに旅の者が仏陀の教えを聞きたいとやってきた。 「世尊は、今体調がすぐれず、横になっております。明日にしてもらえませんか」 アーナンダが、その者にいうと 「明日は、私も旅立ってしまうのだ。仏陀とお会いできる、こんないい機会はもうないのだよ。ほんの少しの時間でもいい、何とかならないのかね」 と旅人は頭を下げたのだった。その様子が聞こえていた仏陀は、アーナンダの心の中に語りかけた。 「アーナンダよ。私に会いに来たものを追い返してはならぬ。こちらへ案内しなさい」 その声にハッとしたアーナンダは、 「わかりました。世尊のお許しが出たので、あなたを世尊の前に案内します」 と旅人に行ったのだった。 その旅人はプックサという者だった。以前は、アーラーダ・カーラーマの元で修行もしたことがあるというものだった。 「横になったままで教えを説くつもりか」 プックサは、横になっている仏陀に開口一番、そう文句をつけた。 「横になっていても法は説ける。法は、どのような状況であろうとも説くことは可能だ。ただ、聞く側の力量がなければ、どのような姿で、どのような法を説いたとしても、それは単なる言葉にしか過ぎないであろう。法は、説く者の姿形によって、その内容が変わるわけではない。なぜならば、法は真理だからだ。あなたは、法を聞きに来たのか、それとも横たわる老人を貶しに来たのか?」 仏陀は、横になったままそう答えた。仏陀の言葉に、プックサはすぐに五体投地し、 「これは失礼いたしました。私が間違っておりました。法をお説きください」 と懇願したのだった。仏陀は、丁寧にこの世は諸行無常であり、我は存在しないものであり、そして苦の世界であることを説いた。そして、その苦の原因は己の愚かさにあること、そうしたことが縁となり、様々な現象を生んでいるのだという、教えの基本を説いたのであった。プックサは、一言ももらすまいと、懸命に聞いた。そして、 「あぁ、わかりました・・・。なるほど、原因があって、いろいろな縁が絡み合い、そして結果が生まれてくるのですね。そして、その結果は、また原因となり、縁を得て次の結果へとつながっていく・・・。あぁ、なるほど・・・。そのつながりの中に我々は生きているのだ。そして、そのつながりをどこかで断たないと、輪廻からは逃れられないのですね。あぁ、そうか・・・。我が身におきるすべての現象を素直に受け入れ、自分の我を滅し、怒らず、不平不満を言わず、妬まず、ただ己を見つめ、善行を無し、他を害することを慎み、暮らしていく・・・。あぁ、きっとそうなれば、心安らかになるでしょう。あぁ、私は何と愚かだったのだ。何と高慢な嫌な人間だったのだ。私の生き方は間違っていました。しかし、今、素晴らしい教えを聞くことができました。この教えを私は在家の信者として、世に伝えていきます。世尊、お大事にして、いつまでも我らを導きください」 と涙を流して教えを守ることを誓ったのであった。 「私の肉体は間もなく滅ぶであろう。しかし、私の教えは永遠に続く。この世のすべての者が輪廻を解脱するまで、私の教えは、表現は変わるかもしれないが、その真理は永遠に生き続けるのだ。プックサよ、そしてアーナンダよ、私を頼ってはいけない。法を頼るのだ。そうすれば、汝らは、法の中に私を見るであろう」 仏陀は、優しくそう説いたのであった。 プックサが帰った後、仏陀はアーナンダを呼んだ。 「アーナンダよ、クシナガラに向かう。おそらくそこが最後の地となろう」 仏陀は立ち上がり、歩きはじめた。杖にすがりながら、ランニャヴァティー河を渡り、クシナガラの村に入った。その村には、2本の大きなサーラ樹が立っていた。それは、この村の象徴のようであった。 「あのサーラ樹の下まで行こう」 仏陀は、ゆっくりとサーラ樹に向かった。そこに上衣を四つにたたみ、頭を北にし、右を下にして身体を横たえた。そして、 「今宵、大いなる涅槃に入る」 と一言だけ言って、目を閉じたのである。 146.大いなる涅槃2 仏陀が横になったサーラ樹は、2本生えていた。双樹になっていたのである。そのサーラ双樹は、花が咲く季節ではないのに次第につぼみをつけ始めた。そして、夜になると一斉に花が咲き始めたのである。 どこからともなく芳香が漂い始めていた。天上からは光がさし、仏陀とその周辺を照らしていた。何とも言えぬ心地よい音楽が流れていた。キラキラと光る花びらが空から舞い降りてくる。 「こ、これはいったいどういうことでしょうか・・・」 アーナンダは、その光景に戸惑っていた。 「天界の神々が降りてきているのだよ」 仏陀は優しくアーナンダに言った。 「アーナンダよ」 そう声をかけてきたのは、高弟のアヌルッダだった。 「今、天界のすべての神々がここに降り立っている。汝はまだ悟りを得ていないから見えぬだろうが、この光は天界からさしている。この光る花びらは天女が振りまいているのだ。この美しい音楽も天女が奏でているのだ。そこには帝釈天が、こちらには梵天が、そして大自在天らがサーラ双樹の周りを囲んでいるのだよ」 アヌルッダに教えられ、アーナンダは驚いていた。 「もう間もなく、周辺の弟子たちや在家の信者たちが集まってくるであろう。アーナンダよ、世尊の最後の言葉をよく聞いておくのだ。その役目は汝である」 アヌルッダに言われ、アーナンダは仏陀のすぐそばに跪いた。アーナンダは泣きながら 「せ、世尊、このような小さなひなびた村で涅槃に入ることはないかと・・・。せめて大きな精舎・・・祇園精舎や竹林精舎、霊鷲山、ヴァイシャーリの精舎などに移動されてからではいけないのでしょうか?」 と仏陀に訴えた。 「アーナンダ、汝はまだわからぬのか。まず、涙をこらえよ。生あるものは必ず死ぬのだ。しかし、如来にあっては、それは単なる肉体の滅びだけのことである。如来は永遠にあるのだ。悲しむことではない。我は教えの中に生きている。我を見る者は法を見るのだし、法を見る者は我を見るのだ。 アーナンダよ、如来がどこで涅槃に入るかは自由である。その土地に、村に、街に優劣があるわけではない。この台地は一切平等である。どこで涅槃に入ろうが、同じである。すべては平等なのだよ」 仏陀がアーナンダをそう諭した時、サーラ双樹を取り囲んだ弟子たちの輪の外の方で誰かが騒いでいた。 「通してください。仏陀が涅槃に入られるというではないですか。お願いです、ここを通して世尊に会わせてください。教えを・・・教えを聞きたいのです」 その声が聞こえたのか、仏陀がアーナンダに言った。 「法を聞きたがっている者がいるようだ。ならば、何人たりとも拒んではならぬ。法を聞きたいものがあれば、ここに通しなさい」 「しかし、世尊は今・・・」 「アーナンダよ、世俗的な心配などいらぬのだ。どんな状況にあれ、法を説くのが如来の姿である。それがまだわからぬのか」 アーナンダは渋々、騒ぎの起きている方に向かった。そして、 「世尊が会ってもよいとおっしゃっています。どうぞこちらへ・・・」 と、その者を仏陀の前にまで案内した。 「私はスパドラと申します。どうしても教えていただきたいことがありまして・・・。こんな時に申し訳ないですが、世尊がいなくなれば私に教えてくださる方もいなくなってしまうと思いまして・・・」 スパドラが、言い訳めいたことを言った。 「スパドラよ、質問があるなら早く言うがよい。時はもうあまりない」 仏陀はスパドラをせかした。スパドラは「では・・」というと、仏陀に問いかけた。 「世尊よ、世の中には多くの有名な宗教家がおります。その者たちは、いずれも皆『我こそは聖者であり、悟りを得ている者だ』と称しております。世尊、彼らは本当に悟りを得ているのでしょうか。それとも悟りを得ていないにもかかわらず、ウソを言っているのでしょうか。あるいは、悟りを得たと思い込んでいるのでしょうか」 「スパドラよ、そのような質問は個人を批判することである。そうした質問には答えられないし、そのような疑問を持つことはやめたほうがよいであろう。それよりも、大事な教え・・・法を説いて聞かせよう」 「はぁ、法ですか・・・」 仏陀の答えにスパドラは、少々がっかりしたようであった。スパドラは、仏陀が「それらは皆偽物である。悟りは得ていない。悟りを得たのは私一人だ」と答えることを期待していたのだ。しかし、仏陀はスパドラのその考えを見抜き、直接には答えなかったのである。そして、スパドラに教えを説きはじめたのであった。 「スパドラよ。もしある宗教において、八つの正しい道を説いていないならば、そこには正しい修行者は存在しえない。八つの正しい道とは、正しい見解であり、正しい決意であり、正しい言葉であり、正しい行為であり、正しい生活であり、正しい努力であり、正しい思念であり、正しい瞑想のことである。この正しい八つの道が説かれ、それを守る修行者がいる宗教こそが正しい宗教である。そして、その修行の結果、悟りを得た阿羅漢が生まれるのである。その正しい八つの道を説くのは、私の教えだけである」 「あぁ、なるほど・・・・よくわかりました」 スパドラは、すべての疑問に答えを得たのであった。仏陀は続けた。 「スパドラよ、私は29歳の時、善き道を求め出家した。それいらい50年がたっている。汝には、その長年説いた正しい教えの中の一部分を説いた。まずは、これを修行するがよい。その中に修行者は存在するのだ」 「世尊、私は弟子になりたいです。どうか、戒をお授けください」 スパドラは、仏陀に出家を願い出た。 「スパドラよ。汝は、よその宗教に属している者であろう。そういう者が、我が教団で出家し直すには、4カ月の見習い期間が必要なのだ。その期間が過ぎ、長老たちが承認をすれば、出家が認められ戒が授かるのだ。ただし、私が『この者は』と認めた者ならば、その制限はない」 仏陀がそういうと、スパドラは 「教団の規定が4か月ならば、私は4年でも待ちましょう。4年のあいだ、見習い期間をすごし、長老に認めてもらうように修行に励みます」 と誓いを立てたのであった。その言葉を聞き、仏陀はアーナンダとアヌルッダを呼び寄せた。そして 「スパドラの出家を直ちに認めよう。灌頂の用意をせよ」 と命じたのであった。こうして、スパドラは、仏陀自らに出家を認められ、灌頂を受け戒を授かったのである。彼は、仏陀の最後の弟子となったのだった。 夜もだいぶ更けてきた。仏陀はアーナンダを近くに呼んだ。 「アーナンダよ。汝に伝えておくことがいくつかある。よく聞きおぼえておくがよい。 まずは、私の遺体についてだ。アーナンダよ、汝ら出家者らは、如来の葬儀に関わってはならぬ。如来の葬儀は、在家信者によって行われるべきである。汝ら出家者は求道者であり、真理を求めるものである。世俗の行事に関わってはならぬのだ」 仏陀はそういうと、遺体は転輪聖王と同じように処理することを伝えた。即ち 「遺体は香油で清め、新しい綿布で包み、棺に入れ、香木を組んだ上に乗せ、火葬にするのだ。骨は、壺に入れ、塔・・・ストゥーパ・・・を建て、その中に安置せよ。在家の者は、我に会いたくば、その塔を礼拝するがよい。また、仏陀の関わった聖地・・・誕生の地であるルンビニー、無上の悟りを開いたブッダガヤ、初めて法を説いたサールナート、そして涅槃の地であるここクシナガラ・・・を巡るとよい。これら四つの聖地を巡るものは、死後天界に生まれ変わるであろう」 アーナンダは泣くのをこらえ、仏陀の言葉を一言も聞き漏らすまいと集中していた。 「アーナンダよ。私の入滅後、『教えを説く師はすでになく、自分たちには師はいない』と考えたり、嘆いたりしてはいけない。私が説き、制定した法と律とが私の入滅後の師であるのだ。よいか、法と律が我が師である、と心得るのだ。 アーナンダよ。汝らは教団内で修行者に対して、誰彼無しに『友よ』と呼びかけている。しかし、私の入滅後は、これを改めよ。先輩の修行僧が後輩に向かい『友よ』と呼びかけるのは構わないが、後輩の修行僧が先輩の修行僧に声をかけるときは『尊者』もしくは『大徳』と呼びかけるべきである。戒律にそのように加えるのだ。 アーナンダよ。教団の希望や時代によっては、戒律がそぐわないことも出てくるであろう。その際には、長老たちがよく話し合い、細かな戒律の項目の削除をしてもよい」 そこまで仏陀はすらすらとアーナンダに伝えた。そして一呼吸置くと 「アーナンダよ。チャンナのことである」 と言った。 チャンナは、仏陀が王子時代に馬の世話をしていた者である。年齢も近く、仏陀が王子の時代・・・シッダールタと呼ばれていたころ・・・城の中でチャンナは、シッダールタ王子の遊び相手にもなっていた。シッダールタが修行のために城を出た時もチャンナが馬の世話をし、一緒に城を出ている。その時、チャンナとともに城を出たシッダールタは、城から離れた森の中で、チャンナにシッダールタが身に着けていた首飾りなどの装飾品や剃髪をした髪の毛などを渡し、「国王に私はもう城に戻らぬ。修行者になったのだと伝えてくれ」と伝言を頼んでいる。チャンナは、忠実にシッダールタの命に従い、国王に伝言を伝えた。その後、シッダールタが悟りを得て仏陀となり、カピラバストゥへ布教のために帰郷した際、チャンナは大勢の出家者とともに出家したのだった。以来、チャンナは修行者となったのである。しかし、彼は傲慢であった。特に高弟のシャーリープトラやモッガラーナの悪口をいつも言っていた。 「俺は仏陀が王子の時代から世話をしていたんだ。仏陀のそばに座るのは、俺の方なんだ。シャーリープトラやモッガラーナなんて仏陀のそばに座っていい連中じゃない。後から入った癖にエラそうにしやがって」 などと、いつも彼らへの不平不満を口にしていたのだった。そのチャンナの口は、益々ひどくなっていった。次第に、修行などせず、精舎内をぶらつき、長老たちの悪口を言いふらすようになった。悪口だけでなく、石を投げたり、瞑想中に水をかけたり、いろいろな邪魔をしたのだ。その都度、仏陀は注意をした。仏陀に注意をされると、チャンナは反省の言葉を口にし、進んで懲罰を受けた。しかし、チャンナの悪行はいっこうに改まらなかったのだ。悪行をする、仏陀に注意をされる、反省をする、自ら懲罰を受ける・・・しばらくすると、悪口が始まり、悪行が始まるのだった。仏陀は、このチャンナのことが気がかりだったのだ。 「チャンナ・・・ですか」 アーナンダは気が重そうに言った。彼もチャンナには随分といたぶられているのである。 「私の入滅後、チャンナにはブラフマダンタという罰を与えよ」 「そ、それはどんな罰ですか」 仏陀は、もの悲しげにその罰について説明をした。 「すべての修行者は、決してチャンナと話をしてはいけない、という罰だ。たとえどんな状況にあろうとも、一切チャンナとは話をしてはいけない。彼の存在そのものを無視するのだ。チャンナに注意をしてもいけない、教えてもいけない、罰を与えてもいけない、何もしてはいけない。完全なる無視をするのだ。それが彼の救いになる」 アーナンダは、ブラフマダンタという罰の内容を聞いて、震えあがってしまった。もし、自分がその立場に置かれたとしたら・・・。そして、チャンナの普段の言動を思い起こし、「仕方がないことなのだ」と納得したのだった。 「わかりました。チャンナには、私から世尊のお言葉を伝えます」 「アーナンダ、よろしく頼む。アーナンダよ、修行者たちを集めよ。最後の法を説く」 仏陀の言葉を受け、アーナンダは集まっていた修行者、在家の人々を咲き乱れたサーラ双樹の下で横たわる仏陀の周りに集めた。最後の法話が始まるのであった。 147.永遠なる世界へ 仏陀は、集まった修行者たちに言った。 「修行者たちよ、もう最後である。誰でも佛なり、悟りなり、教団なり、修行法なり、疑問に思うことがある者は、遠慮なく訊ねるがよい。あとになってから、『如来の在世中に聞いておけばよかった』と言って後悔せぬように・・・」 仏陀はこの言葉を三度繰り返した。しかし、誰一人質問をする者はいなかった。そこにいた弟子たちは、世の無常を悟り、また仏陀であろうともその例外にはならない、ということを確信していたのだった。誰もが悲しみをこらえ、この世は無常であることを噛みしめていたのだった。 「では最後に説いておこう。悟りを得た者は、肉体は滅びるが、如来としてその精神は永遠の世界に入るのだ。我を思う者は我が姿を見よう、我が救いが必要な者は、そう願えば救いに来よう。我は永遠の世界にいるのだ。汝ら修行僧よ、汝らも輪廻を解脱し、常楽我浄の世界・・・永遠であり、安楽であり、存在を保つことができ、清浄なる世界・・・へ来るがよい。最後に汝らに言う。 修行者よ、もろもろの現象は移りゆく。怠らず努力するがよい。それだけだ・・・」 仏陀は、禅定に入った。呼吸が深く長いものになった。さらに深い禅定に入る。呼吸は、しているのかいないのかわからないほどになった。そして、さらに・・・さらに深い禅定に入った。もはや呼吸は停止しているかのようであった。 やがて、仏陀は北に頭を向け、右を下に横たえたままの姿で入滅したのであった。 その時、地面が大きく揺れた。そして、雷鳴がとどろいた。すぐに、さわやかな風が吹いた。空からは、天女が花びらを散らした。その花びらが舞う中、いく筋もの光がさしていた。その光を反射して、空気がキラキラと輝いていた。 帝釈天が涙をこらえ立ち尽くしていた。梵天が跪き、地面をこぶしで叩いて嘆いていた。その他の多くの神々が神の振る舞いとは思えぬほど嘆き悲しんでいた。 悟りを得ている弟子たちは、この世の無常を思い、目を閉じ、口を閉じ、悲しみに耐えていた。まだ、悟り得ていない弟子たちは、声をあげ、腕を伸ばし、泣き叫んでいた。数多くの森の動物たちも集まってきていた。彼らも打ちひしがれ、涙を流していたのだった。 これが、仏陀・・・釈迦牟尼如来の現世での最後の姿だったのだ。 アーナンダがアヌルッダに尋ねた。 「大徳よ、世尊はすでに入滅されたのでしょうか?」 「アーナンダよ、如来は入滅されたのではない。深い深い禅定に入られたのだ。つまり、この世での肉体のみ滅したのであり、その精神は滅してはいないのだ。永遠の世界に存在し、深い禅定に入っているのだ」 アーナンダは、深くうなずいたのだった。しかし、悟りを得ていない弟子たちが 「あぁ、世尊はあまりにも早く入滅された。世界の光は消え、世界の眼は閉じられてしまった」 と嘆き叫んだ。 「修行僧たちよ!」 アヌルッダは、嘆き悲しむ修行僧たちを見て、立ち上がって大きな声で言った。 「諸々の現象は無常である。世尊が最期におっしゃっていたことを覚えているであろう。それは真理であるのだ。どうすることもできないことである。修行僧よ、悲しむな、嘆くな。この世の存在するすべてものは、必ず離れなければならないのだ。生じたものは滅する。これはどうすることもできない真理である。滅びるな、と言っても止めることはできないのである。このことを悟り、修行に励むのだ。それが世尊のお言葉である」 アヌルッダの言葉に、嘆き悲しんでいた修行僧は、涙をこらえたのであった。 その夜は、アヌルッダが修行僧たちやそこに集まっていた人々に教えを説いた。それは世の無常と、その無常を嘆くことによる愚かさと、その愚かさにより輪廻を解脱できないでいる愚かさ、そして、輪廻を解脱したのちに得られる世界を説いたのだった。修行僧たちは、永遠の世界・・・真理の世界を目指して修行に励むことを誓ったのであった。 夜が明けた。 アーナンダは、仏陀の残した指示通りに、クシナガラのマツラ族の長に仏陀入滅を告げに行った。知らせを受けた長は、マツラ族の代表者たちを集会所に集め、仏陀の入滅を嘆き悲しんだ。彼らは、クシナガラにある、ありとあらゆる香木と花を集め、仏陀が横たわるサーラ双樹の元へ運んだ。 マツラ族の人々は、その日のうちにサーラ双樹の下に集まり、それぞれが様々なお供え物をした。演奏者たちも集まり、供養の曲を奏でた。また、マガダ国を始め、大小の国々に世尊の入滅の知らせの使いを出したのであった。 その一方で、クシナガラの中心地の広場に香木で壇が組まれた。壇が組み終わると、仏陀の遺体はサーラ双樹の下で真新しい布でくるまれ、転輪聖王が納められるという見事な装飾が施された棺に納められた。仏陀入滅二日後の朝のことであった。 「仏陀の棺を町の中心に組んだ香木まで運びます」 マツラ族の長が宣言し、マツラ族の代表者たちで棺を担ぎ、街中に運んだのであった。 壇組がしてある香木の上に棺を乗せるとマツラ族の長が 「何ともしのびないが、いつまでもこのままでもいけない。世尊のご遺体に火をつけます」 と言い、壇に組まれた香木に松明を差し込んだ。しかし・・・。 火は燃え上がらず、すぐに消えてしまった。 「おかしいな・・・。火がつかない」 長は、三度をこれを繰り返したが、火は決して燃え上がらなかった。その時、アヌルッダが言った。 「マハーカッサパ尊者がまだ到着していないからであろう。もう、あと五日ほどで到着するので、それを待たれよ。その間に、多くの人々が世尊のご遺体を礼拝するであろう」 アヌルッダの言葉通り、仏陀入滅の知らせを受けた各国の人々が続々と集まってきた。彼らは、皆手に花をささげ、仏陀の棺に供えたのである。 仏陀入滅から七日目のこと、ようやくマハーカッサパが五百人もの弟子を連れ、祇園精舎からクシナガラに到着したのだった。 「マハーカッサパ尊者よ、あなたの到着を待っていました」 アヌルッダが言った。 「遅れて申し訳なかった」 マハーカッサパは一言そういうと、清浄な水で沐浴を済ませ、口を漱ぎ、香油を身体に塗り、自らを清めてから仏陀の棺に礼拝をした。 マハーカッサパは、仏陀の棺の周りを右回りに三度回った。そして、正面に出ると、礼拝の言葉を唱えながら五体投地を三度して礼拝した。 「では、これより火をつけます」 マハーカッサパはそういうと、自ら松明を持って香木の壇の中に火を差し入れた。火はすぐに大きく燃え上がったのだった。 香木も棺も、そして仏陀の遺体もきれいに燃え尽きた時、その火を消すかのように雨が優しく降り注いだ。やがてその雨がやむと、そこには真っ白な、粒状の遺骨のみが残っていたのだった。マツラ族の長は、その粒状の遺骨をすべて拾い集め、宝冠壺という壺に納めたのだった。そして、その壺は、街の中心にある集会所に安置され、兵隊が周囲を固めたのであった。 「マツラ族の長よ、あなたの村で仏陀の御遺骨を独占するのはズルイではないか」 最初に声を上げたのは、マガダ国のアジャセ国王であった。 「あなたたちの村で仏陀が入滅されたことに敬意を祓い、今まで何も言わず黙っていたが、御遺骨まで独占されるのは納得がいかない」 アジャセ国王の言葉に、他の国からきている代表者たちもマツラ族に異議を唱えた。彼らは、「我も我も」と仏陀の遺骨を求めたのである。 「マツラ族よ、あなたたちが聞く耳をもたないのであれば、武力に訴えるしかないぞ。それでもよいのか」 アジャセ国王は真剣だった。また、他の国の代表者もアジャセに賛同したのだった。 「いやいや、待ってください。我々は何も独占しようなどとは考えていません。どのように分けるか、それを悩んでいるのです」 マツラ族の長は、あわてて弁解をしたのだった。しかし、各国の代表者たちは、マツラ族の長を囲んで、今に殴り掛からないばかりの状態だったのだ。 「まあまあ、皆さん待ちなさい。そんなに争っていては、仏陀世尊も嘆き悲しみますよ」 そう言って間に割って入ったのは、クシナガラのドローナというバラモンであった。 「私にいい考えがあります」 彼はそう言って、仏陀の遺骨・・・仏舎利・・・を八等分に分けたのだった。それをマツラ族を含めた8か国の代表者に配ったのだった。各国の代表者は、その仏舎利をすぐに宝や黄金で造られた壺に納め、満足そうに帰って行ったのであった。そのすぐ後のことであった。 「いや、遅れてしまった・・・」 と集会所に入ってきたのは、ピッパリ村の長であった。その長は、仏陀の遺骨が、マガダ国・ヴァイシャーリー・カピラバストゥ・アルラカッパ・ラーマ村・ヴェーダディーパ・ヴァーパー・クシナガラの八か国に配分したことを知り、 「あぁ、遅かったか・・・せめて仏陀世尊を火葬にした際の炭でもいい・・・」 といい、炭を持ち帰ったのだった。その他にも、小さな村の長が訪れ、消し炭や灰、挙句の果てには火葬にした後の土を持ち帰っていったのであった。 こうして、仏陀の葬儀は終わったのである。 「すべて滞りなく終わった・・・・。さて、修行僧よ。皆、各精舎に戻り、修行に励むのだ。もはや、我々を導き指導してくださる世尊はいない。汝ら、自らがしっかりと教えを守り、修行に励まねばならぬのだ。心して、決して怠らぬよう、努力してください」 マハーカッサパがそういうと、何千人にも膨れ上がっていた弟子たちの中の一人が 「ふん、やれやれ、これでうるさく言うお人がいなくなった。あれしちゃダメ、これはいかん、と本当にうるさかったからな。これからは適当に修行するか。戒律も全部覚えているヤツなんぞいないしな。なあ、おい」 と周囲に話しかけていたのである。マハーカッサパの耳には、その言葉が届いていた。もちろん、周囲の修行僧は、その者の言葉を無視したのであった。しかし、マハーカッサパは、これではいけないと思い、 「この中には、教えをいい加減に聞いている者もいるようだ。戒律も守れていない者もいるであろう。したがって、世尊の教えを今一度、確認をする必要がある。戒律も当然である。そこで二週間後、ラージャグリハの精舎にて、長老たちによる教えの確認を行いたい。参加資格は、悟りを得た者に限る。特に弟子を抱えている長老は、必ず参加していただきたい」 と高らかに宣言したのであった。そして、 「ラージャグリハの精舎は、しばらく世尊も弟子たちも滞在していなかった。だから、少々荒れている。それでは、集会もままならぬであろう。早速、ラージャグリハに向かい精舎の修繕と清掃をしようではないか」 と呼びかけたのであった。マハーカッサパにアヌルッダが言った。 「世尊の教えを確認することには賛成です。しかし、人数を絞ったほうがよいのでは?」 「ふむ、確かにそうだな。では、悟りを得た500人としよう。そして、教えに関しては200人、律に関しては150人、論に関しては150人と、それぞれ得意分野で振り分けよう」 「そですね。それがいいです。では、人選はマハーカッサパ尊者にお願いいたします」 アヌルッダがそういうと、マハーカッサパは大きくうなずいた。そして、 「アーナンダを加えたいのだが、彼はまだ完全な悟りを得ていない。アヌルッダ尊者よ。あなたたちで彼を導いてあげてください。私は一足先に、ラージャグリハに向かい結集の準備をします。くれぐれもアーナンダのことをよろしくお願いします」 とアヌルッダにアーナンダの悟りへ導きを託し、マハーカッサパはラージャグリハへと旅立ったのであった。 アヌルッダは、 「アーナンダよ。我々も後片付けが終わったら、ラージャグリハへ向かおう」 とアーナンダに声をかけた。アーナンダは、涙をこらえながらもうなずき、旅立ちの準備を始めたのであった。 148.第一回結集・・・最終回 仏陀が入滅して半月が過ぎた。もう間もなく雨期が始まる頃であった。 「雨期も近付いた。安居も始まる。世尊の教えを確認し合うにはちょうど良い時期だ。精舎の整備も終わった。あとは選ばれた長老を迎えるだけだ」 マハーカッサパは、マガダ国の首都ラージャグリハの精舎で、そうつぶやいたのだった。 翌日から、マハーカッサパが人選をした500人の修行僧たちが精舎に集まってきた。マハーカッサパは、その一人一人に挨拶をし、丁重に精舎に迎え入れた。そして、最後にやってきたのは、アヌルッダとアーナンダであった。 「おぉ、アーナンダ。よくぞ間に合った・・・」 マハーカッサパは、大喜びでアーナンダを迎えいれたのだった。 ちょうどその一週間前のことである。ラージャグリハの精舎の近くの森でのことであった。 「アーナンダよ。汝は、世尊の教えをたくさん聞いている。それを思い出せば、自然に悟りに至れるのだよ。何も焦る必要はない。まだ、結集には一週間もある。ゆっくり瞑想をすればよいのだ」 悟りを得られないと焦るアーナンダにアヌルッダは優しく言った。アーナンダは、その言葉にホッとしながらも、もし悟りを得られなかったら、自分は結集には入れてもらえないのだと思うと苦しくなってきたのだった。 「マハーカッサパ尊者は、大変生真面目で律や戒を決して曲げない方だ。世尊は、時には律を曲げても、時には戒に会わなくても、本人の気持ちによっては許して下さった。しかし、マハーカッサパ尊者は、それはない。断じて有り得ない。私が悟りを得られなかった場合、私抜きで結集を始めるのは間違いない。なんとしても私は悟らねばならぬ。世尊の教えを最も多く聞いているのは私なのだから・・・・」 それ以来、アーナンダの厳しく苦しい瞑想の日々が始まったのである。 「世尊はなんておっしゃっていたか・・・。この世は無常である。日々、変化していっている。永遠はない、必ず老い、死に至るのだ。それは万物すべてにおいてである。そして、いま存在している我は、これも永遠ではない。本来、我はないのだ。我と思っているのは、実は意思であって、我というものが存在しているわけではない。我ではないのだ。意思や想い、念、思考・・・といったものがあるに過ぎない。それを我という存在と勘違いしているだけだ。ならば、自分とは?。あぁ、自分というのも、そう考えているだけなのだ。自分なんていうものは、本来存在していない。そう思い込んでいるだけだ。それは、自分と思い込んでいる意思、想い、思考、念なのだ。この身体は、意思や思考、想い、念をもつ器だ。その器がなくなってしまえば、器に入っていた意思や思考、想い、念などというものもなくなってしまうのは当然であろう。器がなくなれば、その中身も無くなるのは必然である。我々は勘違いをしている。器の中にある思考や意思や念、想いを自分だと思っているのだ。そんなものは、初めからない。あれば、器が壊れても残るはずだ。否、もし残っていたとしても、器がなければ存在することができない。器があり、その中に意思や思考、想い、念というものが入って初めて人間が形成されるのだ。そう、人間という者は、このように何ともあやふやな存在なのである。それはわかる。理解できる。理解できるが、それは悟りとは違うのか?。それとも悟っているのか?。どっちなのだろうか・・・・」 アーナンダの思考は、毎日その繰り返しであった。彼は、仏陀の教えをよく理解はしていた。理解はしていたが、その中に溶け込んではいなかったのである。理解はしていても身には付いてはいないのだ。それは、悟りではないのである。 結集が翌日に迫っていた。アーナンダは焦りはじめていた。焦るアーナンダをアヌルッダは優しく遠くから見守っていた。 「あぁ、いまだに私は悟れない。このままではアヌルッダ尊者にも迷惑をかけるであろう。きっと、マハーカッサパ尊者は、アヌルッダ尊者を叱咤するに違いない。『お前が指導してしたのに、なぜアーナンダは悟れないのだ。お前の指導が悪いのだろう・・・・』。マハーカッサパ尊者は、アヌルッダ尊者を責め、精舎に入ることを許さないであろう。思い返せば・・・・マハーカッサパ尊者は厳しい方だった。いつも叱られていた。世尊のそばについていながら、なぜそのように迷うのだ、と・・・・。尼僧を世尊に認めさせた時もだ。世尊が否定したことをなぜひっくり返すのか、と強く責められた・・・。あの時は、シャーリープトラ尊者とモッガラーナ尊者が間に入ってくれたのだった。あの方たちは優しかった・・・。いつも優しく私を導いてくれた。よく話を聞いてくれた。あぁ、あの方たちが今いてくれたら・・・、きっと教えを確認し合う結集も、違う形になっていたのではないだろうか?。きっと、私が悟りを得られなくても、結集の一員に加えてくれたことだろう・・・。しかし、彼のお二人も今は涅槃に入られてしまった・・・。それは誰にも止められないことなのだ。世の中は、思うようにはいかぬものだ。それは世尊であっても、なのだ」 アーナンダは、そのようなことを考えているうちに、次第に深い瞑想へと入って行った。そしていつしか、眠っているのか起きているのかわからないような状態になっていた。 静かな夜だった。それは突然、アーナンダにやってきたのだった。 「あぁ、わかった。そういうことだったのか。世尊の教えの深さがようやくわかった。世尊が説いたことが、今よく分かった」 アーナンダは、そう叫んだのだった。それは結集の日の明け方のことだったのだ。 「アーナンダ、よくぞ間に合った。さぁ、精舎の中に入るがよい。汝で最後だ」 こうして、結集に選ばれた修行僧たち500人が、精舎に集まったのである。 「これより、世尊の教えの確認にはいる。もう間もなく雨期も始まるので、ちょうど安居もかねてできる。安居の間の食料は確保してある。また、皆さん大徳たちが指導をしている弟子たちも、この近くの精舎で安居できるように準備してあります。皆さんは、何も心配することなく、世尊の教えを確認し合い、そしてそれを弟子へ、またその弟子へと、伝えていってください」 マハーカッサパは、挨拶代わりにそう言った。そしてアーナンダの方を見て厳しい顔をして言った。 「アーナンダよ。よくこの結集に間に合った。それは大変、喜ばしいことだ。だが、アーナンダよ、汝には五つの大罪がある。それをまず諸大徳の前で懺悔しなくてはならぬ」 マハーカッサパの言葉に、多くの修行僧たちは首をかしげた。また、罪があると言われたアーナンダも、いったい何のことかよくわからなかった。 「アーナンダも諸大徳もわかっていないようなので、私から指摘をしましょう。 先ず一つ。アーナンダよ、汝は世尊が入滅される直前、『些少の戒めは捨ててもよい』と世尊がおっしゃった際に、些少の戒めとは何かということをお尋ねして明確にしなかった。これが罪である。 二つ目。以前、世尊の衣を縫った時、その衣を足で踏んで縫ったという罪がある。 三つ目。世尊の御遺骨を女たちに先に礼拝させ、その女の涙で世尊んお御遺骨を濡らし、汚してしまったという罪。 四つ目。世尊が『如来は望まれれば永遠に留まることができる』とおっしゃった際に『この世にいつまでも留まってください』と願わなかった罪。 五つ目。世尊が拒んだにも関わらず、女性の出家を世尊に認めさせ、千年続くはずの正しい教えの期間が五百年に縮めてしまった罪。 以上の五つの罪をアーナンダ、汝は犯しているのだ。まずは、それ懺悔するのだ」 マハーカッサパの指摘に、首をかしげる修行僧もたくさんあったのだが、アーナンダ反論することなく、 「尊者がおっしゃることは事実です。謹んで、ここに懺悔いたします」 と、深く頭を下げたのであった。 そして、いよいよ教えの確認が始まったのであった。 「このように私は聞きました」 結集は、アーナンダが中心となって進められていった。アーナンダが、いつ、どこで、どういう理由で、誰のために、どのような教えを説いたのか、ということを語り、その時そこにいた長老たちが、それを確認していく、という方式で、教えを確認していったのであった。それが、 「如是我聞・・・・このように私は聞きました。ある時、仏陀世尊が祇園精舎にいらっしゃった時のことです。そこには、シャーリープトラ尊者、モッガラーナ尊者、アヌルッダ尊者、ウパーリ尊者・・・・などがいらして、世尊を囲んで座っていました。世尊は、諸大徳の顔を見回して話を始められたのです。それは、このようなことでした・・・・」 「おぉ、そうであった。あの時、世尊はそのように説かれた。確かに私は聞いた」 「そうである。私も確かに聞いた。」 「よろしい。では、その教えは世尊の正しい教えであると、ここに皆で認めよう。では、続いてアーナンダよ、話すがよい」 「はい、このように私は聞きました。ある時、世尊が・・・・」 このようにして、教えは一つ一つ確認されていったのであった。それは、何日にも及んだのである。 雨期も終わりが近づいたころ、ようやく教えの確認が終わった。それは、膨大な量であった。しかし、確認作業はそれだけでは終わらなかった。戒律に関しての確認が残っていたのだ。 「戒律については、ウパーリ尊者、汝が一番詳しい。戒と律にして、一つずつ挙げて解説をしてください」 マハーカッサパは、ウパーリを指名した。ウパーリは、戒律に関して、いつどこで、なぜ制定されたのかということをすべてを覚えていたのである。 雨期が終わりを告げたころ、ウパーリによる戒律の確認作業が終わった。それによると、男性の修行僧・・・比丘に関しては、250の戒律があり、女性の修行僧・・・比丘尼には、350の戒律があることが確認されたのだった。 「この結集で確認された教えと戒律以外は、世尊の教えではありません。決して誤った教えを含むことなく、純粋に世尊の教えのみを後世に伝えていってください」 マハーカッサパは、そう集まった修行僧たちに宣言したのであった。指導的立場にある修行僧・・・長老たちは、それぞれの弟子を率いて、それぞれの修行場所に散ったのであった。 「私はここに残り、若い修行僧を指導していく。アーナンダよ、汝はどうするのか?」 マハーカッサパは、そうアーナンダに尋ねた。 「私は、一度、カピラバストゥの城の廃墟でしばらく過ごします。その後は、世尊のように旅を続けたいと思います」 アーナンダは、そういうと一人旅立っていったのであった。 それから20年のこと。マハーカッサパは、ラージャグリハの精舎や霊鷲山などで多くの弟子を指導した。そして、 「そろそろ私もこの世を去るときがきた。この峰を割って、私はその中に入る。そして、弥勒菩薩がこの世に現れるとき、私も一緒に現れて、弥勒如来とともに過ごそう。そのとき、この世尊の衣と鉢を弥勒如来に渡すのだ」 と願って、仏陀の衣と鉢を持ち、霊鷲山の岩山深くへと入って行ったのであった。 そしてさらに20年の後。アーナンダは、ヴァイシャリーの街で多くの人々に教えを説いていたが、 「いよいよ、私も涅槃に入る時が来た。思えば、もう120歳になる。長かったようで、、短い時であった。そう、時に長い短いなどないのだ。これも自然の流れである」 といって、ヴァイシャリーの人々に見守れながら、涅槃に入ったのであった。 仏陀の教えは、その後何度かの結集で確認されることにより、後世へと伝えられていった。やがて、仏陀が涅槃にはいって、250年も過ぎたころ、 「仏陀の教えを書き残しておこう。そうでないと、やがて間違った教えが入ってしまうであろう。記憶もあいまいになっていくであろう」 という理由から、経典が作られるようになったのである。 やがて、マハーカッサパ系の修行僧中心の教えの派と、その他の弟子・・・特に一般大衆を相手に教えを説いていたアーナンダ系の派が生まれてきたのであった。彼らは、それぞれの教えの正当性を訴えるかのように、次々と経典を作り始めた。 さらに時が流れ、大衆相手の教えを説いていた派が分裂や誕生を繰り返し、発展していったのであった。それが、大乗仏教へとつながっていくのである。 一方、マハーカッサパ系の修行僧を中心とした教えは、小乗仏教と揶揄されながらも、その教えを伝えていき今日に至り、現在では、上座部仏教とか初期仏教と呼ばれるようになったのである。 しかし、仏陀の予言通り・・・諸行無常である。正しい教えは500年しか続かない・・・に、インドでは仏教は滅んでしまった。しかし、仏陀の教えは、中国を経て、日本で生き残っているのである。 その教えは、今では、「世界で最も平和な宗教」とされ、世界からの注目を浴びているのである。 そう、仏陀の教えは、最も平和を愛し、暴力を憎み、一切が平等である教えなのだ。身分や人種、職種、出身などを問わず、一切を平等をした宗教は、世界でも類を見ない。そこに仏陀の教えの奥深さを知ることができよう。 このように世界でも稀な宗教、真理に到達できる唯一の宗教である、仏陀の教えが伝わっている日本は、世界に誇るべきなのであろう。 多くの人々が、仏陀の教え・・・仏教・・・を学び、少しでも迷いや悩み、苦しみから解放され、真理に至ることを願うものである。 14年ほどの長きに渡って、お付き合い下さったことに感謝いたします。これにて、私家版「お釈迦様物語」を終了いたします。 ありがとうございました。合掌。 完。 |