バックナンバー5
22回のテーマは 輪廻について |
仏教は輪廻思想を否定していません。輪廻という考え方を取り入れています。そもそも、お釈迦様自身、輪廻から脱出したいが為に出家したのですから。 お釈迦様がいらした頃のインドでは、すでに輪廻思想が定着していました。人々は、生きているときに悪いことをすれば地獄に落ち、いいことをすれば神々のいる天界に生まれ変わることができる、という輪廻思想を信じていました。当時のインドでは、それは常識だったのです。 次の世に生まれ変わる・・・・ということは、当然今の姿も生まれ変わりです。すなわち、前世が存在していた、ということです。前世があり、現世があり、そして来世がある。生きているものは、幾度となく、この生まれ変わりを繰り返しているのです。これが輪廻思想です。もう少し詳しく見てみましょう。 生きているものは、必ず死にます。死ねば、次の生命体に生まれ変わる、というのが輪廻思想の基本です。生命体、生きているもの、といったのは、輪廻するのは人間だけではないからです。すべての命あるものが輪廻する仲間です。犬も猫も蛇もトカゲもハエもゴキブリも、死ねば何かに生まれ変わるのです。 では、どういったところに生まれ変わるのでしょうか。それは、次の六つの世界とされています。悪い順に、簡単に書いておきます。 @地獄・・・云わずと知れた地獄です。地獄は大きく分けて八つの地獄に分かれます。大きく分けて・・・といったのは、さらにその八つの地獄に副地獄というのがくっついているからです。この世界は、どなたもご存知でしょうが、もっとも苦しい世界です。誰もが行きたくない世界ですね。生きているときに、極悪非道なことをしたものが行く世界です。 A餓鬼・・・何も食べられない、何も飲めない、という世界です。生きているとき、貪欲で物を惜しんだもの、欲に対し執着が強かったものが行く世界です。 B畜生・・・人間以外の動物です。昆虫等も含みます。よく人は人以外に生まれ変わることはない、などという方がいますが、そんなことはありません。動物や昆虫などにも生まれ変わります。生きているとき、愚痴ばかりのもの、怠けたもの、淫欲に耽っていたものが行く世界です。 C修羅・・・戦いの世界です。修羅界という世界で、いつも戦いに身をおいているのです。常に死の恐怖がつきまとう世界です。生きているとき、暴力を振るったり、ケンカばかりしたり、怒ってばかりいたものが行く世界です。 D人間・・・人間界です。説明の必要はないですね。 E天・・・神々の住まう世界です。神の覚りの度合いによって、世界がいくつにも分かれます。この世界に生まれ変わったからといって、神になれるのではありません。神が統治する世界の住人としての生を受けるのです。 と、まあ、生あるものはこのような六つの世界を行ったりきたりしているわけです。これを「輪廻転生」、或いは単に「輪廻」というのです。 お釈迦様は、この輪廻を脱出したい、と思ったのです。それには、出家して修行しなければならない、修行して覚りを得て仏陀にならなければならない、というのが当時のインドでの常識だったのです。ですから、お釈迦様もそれに従い、出家したのですよ。で、その結果、お釈迦様は仏陀になったのです。 仏陀になって、お釈迦様は、六つの世界の上位に四つの世界があることを知ります。そして、その世界は、神々をも超える世界で、その四つの世界のどれかに達することができれば、輪廻から解放されるのだと知るのです。 その四つの世界とは、次の世界です。 F声聞・・・しょうもん、と読みます。この世界は出家者がいける世界です。主にお釈迦様の弟子がいたる世界です。声聞とは、お釈迦様の教えを聞いて悟ったもの、という意味です。教え・・・つまりお釈迦様の声を聞き悟る、から「声聞」というのです。お釈迦様の教えを聞いて、「あ、わかった」と理解したものは、輪廻から解放されるのです。輪廻から解放されるには、もっとも手が届きやすい世界ですね。 G縁覚・・・えんがく、と読みます。この世界は、誰に教えを与えられることなく、自然の中に暮らし、その自然を通じて「世は無常なり。世は苦なり。」と悟るものが行きつく世界です。自然の縁により覚りを得るので「縁覚」といいます。まあ、いわば仙人のような、そんな人ですよね。ですから、人里はなれ、俗世から離れ、ひっそりとした生活をしなければ、この世界には至れません。一般の方には難しいですね。 H菩薩・・・云わずと知れた菩薩の世界です。次の仏界とどう違うのかといいますと、菩薩は完全な覚りを得てはいるのですが、ただ唯一「慈悲の心、生あるものを救いたいという心・欲」が残っている(無理に残している)ので、次の仏界へは至らないのです。 I仏・・・仏界といいます。完全なる覚りの世界です。救うとか、救いたいとか、そうした欲もない世界です。 輪廻を解脱すると、以上のような四つの世界のどこかにいけるわけです。 余談ですが、以前ある宗派の尼僧さんが書いた本を見せてくれた方がいるのですが、その本を見て、私はびっくりしてしまいました。その本には、輪廻の世界とそれを解脱した世界が、図式で描かれていたのですが、なんと仏界の上に神々がいる天界が書かれているのです。輪廻の世界の一つである天界が、仏界の上にあるのですよ。ちょっと、ショックですよね。いったい何を学んできたのか・・・・。こんなのが堂々と本になっているなんて・・・。恐ろしい限りです。みなさんも、間違った知識を得ないようにご注意ください。 さて、お釈迦様の弟子の多くは、声聞の世界へ行っています。生きているうちに。お釈迦様の教えを直接聞き、「あ、わかった」となるのです。すると、お釈迦様は、「このものは解脱した。輪廻を離れた」と認めてくれるわけです。こういうシーンは、よくお経の中に出てきます。この場合のお経は、現在読まれているお経ではありません。初期経典である「阿含経(あごんきょう)」類です。(とある新興宗教が「阿含経」から名前を取っていますが、この経典に従うなら、あの新興宗教のやり方はまったくのデタラメですね。阿含の名をつけるのなら、出家主義・・・金銭を持たず托鉢して修行をするという方法・・・を取るべきでしょう。こうしてみると、如何にデタラメが多いことか・・・。) 初期経典には、お釈迦様の教えを聞いて「悟った、解脱した」と、お釈迦様から認定されたものが多く紹介されているのです。 お釈迦様は、輪廻からの解脱を認めていました。ということは、輪廻の思想を受け入れていたわけです。輪廻を認めていたということは、前世もあるということも認めていました。来世は認めるが、前世は認めない、などといういい加減なことは言ってません。来世を認めるなら、当然前世も認めます。でないと、筋が通りませんよね。お釈迦様は、ちゃんと前世の話をしているのです。有名な話がありますので、紹介しておきましょう。 お釈迦様の一族、釈迦族はマガダ国の王子ビルーダカに滅ぼされてしまいます。その原因は、釈迦族の子供たちがビルーダカをバカにしたため、怨まれたことによりますが、根本の原因は別にあるのだ、とお釈迦様は説いています。 「遠い昔、釈迦族は漁に出て、取らなくてもいい量の魚を取ってきた。しかもその魚を無駄にして捨ててしまった。また、漁村の村人を傷つけたりしたのだ。今、その報いがやってきた。過去世での罪が、この世にやってきたのだ。だから、私は一族が滅ぶのを黙って耐え忍んだのだ。過去世で犯した罪の報いは、いつか受けるときが来るものなのだ・・・。」 釈迦族にまつわる前世の話をお釈迦様自ら解き明かしているのです。 こうした前世を語る話は、数多く出てきます。コーサラ国のプラセーナジット王の死に関する前世の話や、目連尊者の死に関する話、また母に関する話など、ことあるごとにお釈迦様は解き明かしています。つまり、 「このように前世の報いで今の状況があるのだから、その報いは素直に受け入れ、この世では来世に持ち越さないように罪を犯すな」 と説いているのです。そして、その前世の報いを受け入れる気持ち、心が覚りへとつながるのだ、と説いているのです。それが輪廻を解脱する方法なのだ、と・・・・。 仏教は、輪廻を否定しません。むしろ、輪廻をベースに教えを説いています。お釈迦様の教えの背景には、輪廻思想があるのです。仏教から、輪廻を取ってしまうと、単なる道徳になってしまいます。解脱も慈悲も、覚りもなくなってしまうのです。 輪廻思想は、仏教の基本ですので、正しく理解して欲しいと思います。 さて、次回は、輪廻の世界をもう少し詳しく見ていきたいと思います。どんな世界か、なぜそこへ生まれ変わったのか、そうしたことをお話しいたしましょう。では、また。合掌。 |
23回のテーマは 輪廻の世界 @地獄の巻 その一 |
今回から、生まれ変わる先の世界、輪廻する世界についてお話いたします。輪廻の世界は六種類ある、と前回お話いたしました。その一つ一つを詳しく説いていきます。まずは、地獄からです。 *地獄の世界@ 地獄へ行くもの 地獄は、極悪人が行くところです。この世界へ生まれ変わるものとは、 「人の命を奪ったもの、自分の利益のために多くのものを犠牲にしたもの、多くのものに苦しみを与えたもの、戒律違反をした僧侶、仏教を利用して個人的利益を得たもの」 です。こうした罪を犯したものは、たいていは、裁判を経ずに(参考に「あの世のたび」を読んでみてください。死後の裁判について書かれています。)、地獄へ直行します。死後に地獄からのお迎えが、やってくるわけです。 「人の命を奪ったもの」・・・というのは、わかりますよね。尊い命を奪ってしまった、生きる権利を奪ってしまったのですから、地獄に落ちても仕方がないでしょう。 ちなみに、この中には「自殺者」も含まれています。自殺とは、自分の命を奪うことです。生きる権利を放棄したもの、のことです。ですから、地獄へ行くことは免れません。苦しみから逃げようとして、さらに苦しみへはまる・・・。そういうものなのです。受けなければいけない苦しみは、逃げて通ることはできないのです。逃げれば、さらに苦しみが大きくなるだけなのですよ。 なぜ、人の命を奪ってはいけないのか・・・。これはわかりますよね。生きる権利を奪うことは罪です。一般的に誰もが、命を奪われることを拒否します。恐れます。他人に恐怖を与えることはしてはなりません。自分だって恐怖を与えられるのは嫌でしょう。自分がされて嫌なことは、他人だって嫌なのです。 では、自殺はなぜいけないのか・・・。 一つには、この世は己を磨く場所であり、自分自身が前世で犯した罪を清算する場所である、という考え方からきています。自殺すれば、罪の清算ができなくなります。魂の修行もできなくなります。すべてを放棄してしまったものは、あの世に行って罪の清算をするしかありません。しかも、自らの命を奪ってしまったという罪が加算されています。地獄に行くのは仕方がないでしょうね。この世の苦しみから逃げたため、さらなる苦しみの世界へ入っていくのです。 もう一つ。 これは、人の命を奪ってはいけない、ということにも共通する理由です。人間の命はとても尊いものです。どのくらい尊いものかといいますと・・・・。 人間に生まれ変わるチャンスというものは、とても少ないのです。お釈迦様が説くところによりますと、 「大海原に大きな板が浮いていたとします。その板には、大き目の丸い穴があいています。さて、その大海原には、百年に一度、空気を吸いに来る大きな亀がすんでいます。生命が人間に生まれ変わる確立とは、その亀が、息を吸いに来たとき、海に浮かんでいる板の穴に頭を突っ込む確立と同じくらいです。それぐらい、人間に生まれ変わるのは難しいのですよ。」 とのことです。わかりますか?。大きな海、太平洋でもいいです。そこに浮かんでいる大きな板の穴に、百年に一度海面に顔を出す亀が、首を突っ込む確立・・・・それが生命が人間に生まれ変われる確立と等しい、そうお釈迦様は説いているのです。 人間に生まれ変わるということは、とても難しいことであるし、とても貴重なことでもあるのです。 この世に限ったことだけでも、生まれてくる確立は低いものなんですよ。なぜなら、数多くの精子の中でたった一つの精子が卵子に出会い、受精して肉体を形成していくのですからね。選ばれた精子のみがあなたになったのです。いわば、精子の中のエリートがあなた自身を作っているのですよ。これは、精子の数から言ったら、大変低い確立になりますよね。 人間に生まれてくることは難しいのです。 そのこの世に生まれる難しい命を、いとも簡単に奪ってしまう、捨ててしまう・・・・。やはり、それは大きな罪ではないでしょうか。 こんなことをよく聞かれることがあります。 「私の祖父は、戦争で多くの人の命を奪ってしまいました。祖父は、やはり地獄へ落ちているのでしょうか。」 それに対し、 「それは、祖父さんの心次第です。」 と答えています。 たとえば、その祖父さんが、 「俺は多くの敵兵をやっつけた。そのおかげで勲章ももらった。偉いだろ。」 と思っているのか、 「私はとんでもないことをしてしまった。国の状況が状況とはいえ、敵兵とはいえ、命には変わりがなかろう。なのに、その命を奪ってしまった。私は、恐ろしいことをしてしまった・・・。」 と思っているのか、その差によります。 つまり、命を奪ってしまったことを自慢に思っているのか、深く反省しているのか・・・・の差なのです。 時代も悪かった、状況もいけなかった。戦争は人を狂わせます。その状況下で「正常でいろ」という方が難しいことでしょう。否、戦争に対し疑問に思っていた方も多くいたことと思います。しかし、それを口にすることすら許されなかった時代です。(もちろん、最後まで抵抗した方もいます。立派だと思います)。この世が地獄だった時代です。そこに生きた人々に、選択の余地はなかったのでしょう。 しかし、そういう状況下であったとはいえ、敵兵であったとはいえ、命を奪ったことには変わりはありません。それは罪になることでしょう。地獄へ行かねばいけない・・・・と、普通ならなります。 が、そうばかりではないのですよ。仏様は、そんなに非常じゃありません。その人の心で判断することもあるのです。 戦争に限らず、人の命を奪ってしまったものが、心から反省した場合、地獄行きは免れることでしょう。もしくは、地獄へ直行ではなく、裁判を経て、行き先が決まっていきます。その時に、もし地獄行きとなっても、地獄での扱いが変わります。罪が軽くなるわけです。情状酌量ですね。 ところが、反省なき場合、これは情状酌量はありません。地獄直行便に乗せられます。いくら、戦争であったとしても。 ですから、心の問題、心次第、となるのです。これは、他の罪にも言えることです。罪を犯してしまった方、心から反省し、懺悔(さんげ)すれば、情状酌量はあるかもしれません。 しかし、情状酌量を期待して反省する、という本末転倒なことをすると、余計に罪が重くなるので注意しましょう。反省するときは、まっさらな気持ちで反省するべきでしょう。 さて、命を奪ったもの、自殺したものが地獄へ行かなければならない理由はおわかりいただけたと思います。では、他のものはどうでしょうか。 「自分の利益のために多くのものを犠牲にしたもの、多くのものに苦しみを与えたもの」とは、典型的な例は「政治家」でしょう。私服を肥やすため、国民を犠牲にした政治家ですね。こういうものは地獄へ行って当然です。 官僚の中にもいますよね。国民の税金を無駄に使い、自分の利益のために業界と癒着するもの。こうしたものも、地獄直行便です。 ただし、ここで一つ、情状酌量の余地を残す方もいます。それは、確かに自分の利益のために国を動かし、国民に苦を与えた政治家であっても、国の利益や国民の利益になることもしているかどうか、ということです。つまり、いいこともしているだろう、ということが考慮されるのですね。 悪いことばかりする政治家や官僚もいることはいるでしょう。しかし、多くの政治家や官僚は、国や国民にも利益になることを与えている、のではないでしょうか。 政治の宿命といいますか、政治は国民全員の意見を取り入れるわけにはいきません。そんなことをしたら、国が立ち行かなくなります。国の恩恵を受け、豊かになる国民もいれば、割を食う国民もいます。どちらが多いのか、という問題だけですね。一部の人間だけが裕福なのか、多くの国民が裕福なのか、です。 一部の人間のためだけに動けば、それは罪が増大するであろうし、多くの国民が裕福になるように働くのであれば、たとえ私服を肥やしていても、罪の軽減はされることでしょう。 こうした「善いこともしたよ」という場合は、地獄直行便ではなく、裁判を経て行き先が決まっていきます。 変な宗教団体や怪しい団体の教祖もこの枠に入りますね。自分の利益、名誉のために、多くのものから「脅し」でお金を集め、私服を肥やす。よくあるパターンです。 「つぼを買え、買わねば不幸になるぞ。」 「この仏様を祀らねば、あなたの家は不幸だらけじゃ。」 などと、恐怖をあおってお金を集め、私服を肥やすものは、多くに人々の犠牲の上に成り立って生きているのですから、地獄へ落ちても当然でしょう。特に、仏教を使ってそのような行為をしたものは、情状酌量の余地はなしです。 怪しい宗教団体の教祖は、地獄へ落ちることを覚悟で、罪を犯していることと思います。 そのような怪しい宗教がはびこるのも、坊さんがいけないんですよね。これは僧侶の罪です。葬式に明け暮れ、高い戒名をつけ、檀家のうえに胡坐をかき、金に囚われてしまった僧侶がいかに多いことか・・・・。 ですから、地獄にも坊さんは多いのです。そりゃそうでしょ。坊さんは、一般の人と違って、やってはいけないこと、が多々あるからです。国の法律以外の、守らねばならない戒律がたくさんあるからです。それを破れば、地獄行きは仕方がないですよね。かくして、地獄は坊さんだらけになってしまうのです。 僧侶にとって一番重い罪は、何かわかるでしょうか?。 お酒を飲むこと?、女性との戯れ・邪淫?、金儲けに走る?、贅沢三昧すること?・・・・。いずれも悪いことではあります。しかし、最も悪いのは、そうした行為がでてきてしまう欲にあるのです。欲を断ち切っていない、そこが問題なのです。つまり、坊さんが坊さんでなく、俗人と同じになっている、というところに問題があるのです。 ということは、僧侶にとって最も重大な罪は、 「僧侶が僧侶を忘れている、捨てている」 ことにあるのですね。もちろん、そんな坊さんだけではありません。真面目なお坊さんも多々いらっしゃいます。また、お付き合い程度はするけども、欲におぼれず、欲をうまくコントロールして、世間との折り合いをうまくつけている方もいます。 いけないのは、欲におぼれてしまい、僧侶の本分を忘れている僧侶なのですよ。 僧侶に中には、本山の名誉職を求めいろいろな画策を使う方もいれば、そんな名誉はいらぬと清廉潔白に生きる方もいれば、檀家から入る収入で贅沢三昧する方もいれば、いくら檀家が数多くあっても慎ましく生活する方もいます。自堕落な生活をするものもいれば、規律正しい生活をするものもいます。 昨今、坊さんは悪く言われる対象になっています。曰く 「髪を伸ばし、高級車に乗り回し、お経は10分しかあげない」 「夜遊びばっかりして、飲んだくれている」 「高級クラブで女性と戯れている、芸子さんを上げて騒いでいる」 「ちーっとも仏教のことを知らず、ただお経をあげているだけ」 「勉強不足」 などなど。坊さんに対する批判を上げたらキリがありませんよね。それだけ、堕落した坊さんが多い、ということなのでしょうね。そんなことはない、真面目な方のほうが多い、と思うのですが・・・・。(もっとも勉強不足、というのは当たっているとは思いますが)。 僧侶には、「衆生を救うお手伝いをする」という大事な役目があります。これを忘れている、捨てているんですね。そういう坊さんが地獄へ行くのです。そういう役目があるからこそ、仏様は坊さんには厳しいのですよ。仏様の教えの上で、生かされているのですから、当然でしょうね。私たち坊さんは、「仏教を利用して生活をしている」のですから、その自覚を失って、欲にまみれてしまえば、「地獄へ行け」といわれても、仕方がないことでしょう。 ま、「たとえ地獄へ落ちようとも構わぬ」という覚悟で遊んでいるのなら、それはそれで一種の悟り?なのかも知れませんけどね。 このように、地獄へ行くものは限定されています。さて、あなたはあてはまるでしょうか?。あなたがお坊さんなら、気をつけたほうがいいですよね。私も、なのですが・・・。一番地獄に近い存在ですからね、坊さんは。 他の方は、まあ安心なのではないでしょうか?。とりあえず、他人や自分の命は奪ってはいないでしょう。或いは、事故で命を奪ってしまった・・・という方がいたとしても、その方は当然深く反省し、後悔の中で生活をしていらっしゃるでしょうから。 この先、あなたが政治家になったとしても、私服を肥やさず、国民のために政治を行えば地獄へは行かないでしょうし、官僚になっても国民の下僕として謙虚に仕事に励めば、地獄へ行くことはないでしょう。 地獄行きの切符を手にしないよう、心がけてください。合掌。 |
24回のテーマは 輪廻の世界 @地獄の巻 その二 |
今回は、地獄の世界を訪ねてみたいと思います。どんな世界なのか、楽しみですね。 *地獄の世界A 地獄廻り壱 地獄は、8種類に分かれています。八大地獄・・・という言葉を聞いたことがあると思います。これは、8種類の地獄がある、ということですね。この地獄には、熱地獄と寒地獄があります。一般に知られているのは、熱地獄の方です。正確には、「八大熱地獄」となるのです。 一方、寒地獄の方はあまり知られていません。確かに寒すぎる世界も苦しみの世界ではありますが、どうもイメージがわきませんよね。ただただ、ブルブル震えているだけ、そのうち眠くなって・・・・といったイメージでしょうか。熱地獄に比べてあまり苦しそうではありませんよね。 そのためなのか、それともインドという国が寒くなかったためなのか、経典に出てくる地獄の話も寒地獄に関する話はあまりありません。ほとんどが熱地獄です。熱があるなら寒もあるだろう、程度の発想だったのでしょうか。名前が紹介されている程度しか載っていないんですよ。 ですので、まずは、八大寒地獄からお話しいたします。 *八大寒地獄 苦しみの軽い順に紹介いていきます。 1、アルブタ地獄・・・アルブタとは「アバタ」のことです。「アバタもえくぼ」、のアバタです。この地獄は、寒さで全身にアバタのようなできものができて、その痛みで苦しむ・・・・という地獄です。 2、ニラルブタ地獄・・・ニラルブタとは、アルブタ(アバタ)が破裂して、血が噴き出した状態を言います。 3、アタタ地獄 4、ハハバ地獄 5、フフバ地獄 この三種の地獄の名前は、寒さで口が震え「アタタ、ハハバ、フフバ」としか言えないため、付けられた名前です。それほど寒くてたまらない・・・ということなのでしょう。 6、ウトパラ地獄・・・全身が青く凍傷になった状態になります。ウトパラとは、青蓮華を意味しています。 7、パドマ地獄・・・青くなった凍傷ウトパラが、赤く腫れ上がった状態をパドマといいます。本来、パドマは赤蓮華のことです。凍傷が赤みを帯びた状態が赤蓮華に似ていた・・・・のでしょう。 8、マハーパドマ地獄・・・パドマが大きくなって割れてしまった状態を意味しています。全身の凍傷が割れてしまった、ということなのですね。 (「こんなところに仏教語」のバックナンバー3「アバタ」にも、寒地獄の説明があります。なお、そのときの寒地獄の名前の表記が違っていますが、インド語の正式語か俗語かの違いだけです。「こんなところに・・・」はパーリ語で、ここではサンスクリット語で紹介しました。ややこしいですが、どちらも正解ですので、誤解のないよう、ご了承ください。) これ以上の説明は、実はないのですよ。あとは、みなさんそれぞれ寒地獄を想像してみてください。 *八大熱地獄 こちらの方は、寒地獄と違って、いろいろな話が伝わっています。まずはその名前だけを紹介しておきましょう。苦しみの軽い順に書いておきます。 1、等活(とうかつ)地獄 2、黒縄(こくじょう)地獄 3、衆合(しゅごう)地獄 4、叫喚(きょうかん)地獄 5、大叫喚地獄 6、焦熱(しょうねつ)地獄 7、大焦熱地獄 8、阿鼻(あび)地獄 聞いたことがある!、という名前もあるのではないでしょうか。 実は、地獄の世界はこれだけではありません。この8種類の地獄にそれぞれ副地獄という別室の地獄がくっついているのです。 それぞれの地獄は、一つの国のようになっています。地獄国・・・ですね。その国には、東西南北に門があります。地獄へ落ちてきた死者は、この地獄の門を通って地獄国へ入るのですね。 ところが、地獄国では対応のできぬ死者もいます。あるいは、地獄国の苦しみでは足りぬものもいます。そういうものは、地獄の門の外にある副地獄で苦しみを受けるのです。特別扱いですね。そういう副地獄が、東西南北の門の外にそれぞれ4つずつあります。つまり、一つの地獄に16の副地獄が付帯設備としてあるわけです。 ということは、地獄は8種類あるので、副地獄は「16×8=128」あるのですよ。これだけあれば、どんな罪にも対応して苦しみを与えることができます。恐ろしいですね。 前回、お話ししましたように、地獄へ生まれ変わるものは、生前大きな罪を犯したものです。つまり、生前に犯した罪の報いを受けるために地獄へ落とされたわけですね。すなわち、地獄へ来たものは、「罪人」なのです。ですので、これからは、地獄へやってきた死者のことを「罪人」と呼びます。 そして、その罪人は、地獄へ生まれ変わっても姿かたちは生前と変化しません。現世で生きているときと同じ姿かたちのまま、地獄の住人となるのです。それは現世において、罪を犯した者が刑務所に入る・・・ということと同様だと思ってください。ただ、地獄という刑務所は、刑期がとてつもなく長く、刑罰がとてつもなく恐ろしい、というところだけが異なっているのですが・・・・。 さて、前置きはこのくらいにして、地獄廻りへと参りましょうか。まずは、最も軽い等活地獄からです。 1、等活地獄 この地獄の門をくぐると、空気は一変します。蒸し暑いのです。それは人間界の蒸し暑さなんて比べ物にならないくらいの蒸し暑さです。罪人たちは、門をくぐったとたん、この蒸し暑さにイライラし始めます。門の中では、罪人たちがあまりのイライラから、あちこちでケンカを始めています。目が合ったといっては殴りあい、肩が触れたといっては取っ組み合いをし・・・・といった状態です。門を入ってきたばかりの新入りの罪人も、あっという間にケンカに巻き込まれます。いやむしろ、進んでケンカを始めてしまいます。そう、ここは常時ケンカばかりしている世界なのです。罪人同士がお互いにケンカしあい、殺しあう世界なのです。なぜなら、ここに来る罪人たちは、生きているとき、殴り合いのケンカばかりしあっていた者、その挙句に命を奪ってしまった者だからなのです。 しかし、ケンカしあうだけでは終わりません。これで終わったら、地獄じゃありません。これでは、彼ら罪人は生きている時と同じ事をしているだけになってしまいます。ここは罪の報いを受けるところです。ケンカをするところではありません。ですから、ケンカや殴り合い、殺し合いを止めに来るものがいます。そう、それは地獄の番人・牛頭&馬頭です。(牛頭&馬頭というと、可愛く聞こえますが、牛の頭や馬の頭を持った人型の鬼ですから、気味が悪いですよ。しかも、人間なんて踏み潰せるくらい大きいのです。まあ、大きさは自由に変化できるのですが。)。 牛頭や馬頭は、殴り合っている罪人を見つけると、そのケンカを止めに入ります。もちろん、「まあまあまあ、お互いにケンカなんて止めましょう、仲良くしましょう」なんていって止めるわけではありません。もっと恐ろしいです。彼らは、こうしてケンカを止めるのです。 「おいこら!、またケンカしてるな、そんなに殺し合いがしたければ、俺が殺してやる!。」 そう叫ぶと、手に持っている金棒で殴り合っている罪人を叩き潰します。牛頭や馬頭が来たことにいち早く気付いた罪人は、ケンカを止めて逃げ出しますが、逃げ切れるものじゃありません。あっという間につぶされます。ぐちゃっ!っとね。 或いは、牛頭や馬頭は、ケンカし合っているものに 「仲良くしようじゃないか、一緒にな!」 と声を掛け、ケンカしている者同士を一本の鉄の串で突き刺します。で、ザックリと引き裂くんですね。恐ろしいことに。 が、これでその罪人の罪が終わったわけではありません。一回だけ牛頭や馬頭に殺されればいい、ということではないのです。地獄の刑期は長いのです。牛頭や馬頭に殺された罪人は、ほんのしばらくすると、涼しい風が吹いてきて、死ぬ寸前の状態で生き返ります。地獄に来たときと等しい状態で復活するのです。だから、等活地獄、というのですよ。 復活した罪人は、牛頭や馬頭に殺されたことを覚えています。だったら殴り合いのケンカなんてやめればいいのに、ついついしたくなってしまうのがこの世界なのです。ですので、復活した罪人は、お約束通りケンカをし始めます。殴り合い、取っ組み合いですよね。すると、またまた牛頭&馬頭がやってきて・・・・・。 この繰り返しが延々と続くのですよ。その長さ、およそ1兆6200億年。と、いわれていますが、そんなに長いわけがありません。この数字は、当然大げさな数字です。とてつもなく長い、という意味ですね。私の経験から言えば、地獄の長さは、短いところで、まあ、ざっと数百年でしょう。(経験者は語る・・・?)。 地獄の刑期が、なぜにこんなとてつもない長い数字になったかといいますと、インド人は数字の概念がめちゃめちゃ大きいことが理由の一つ。そして、想像できる範囲では、面白くないからという理由が一つです。さらに、嫌なことや苦しいことは長く感じるものだ、という理由もあります。たとえば、つまらない話を聞いているときなどは、たった30分でも数時間のような感じがするでしょ。私もある偉いお坊さんの自慢話に付き合わされたとき、たった1時間が数時間のように感じられましたからね。(ま、途中で逃げましたが。ちなみに、これも一種の相対性理論なんだそうです。かのアインシュタインも「美女とダンスをすると時間が早くたってしまうが、針の椅子に座れば短い時間でも長く感じる。相対性理論はそれと同じですよ。」といってます。余談でしたが・・・。)。 というように、苦しみは短時間でも長く感じるものなのです。それを数字で表現したら、1兆6200億年となったわけです。(この数字は、一説には・・・・です。計算の仕方によっては変わってきます。が、たとえ一桁変わっても大差はないですが・・・・)。 さてさて、このとてつもなく長い間、罪人はケンカしあい、殴り合い、殺し合い、あげくは牛頭&馬頭に潰されたり、突き刺されたりするのですよ。何度も何度もね。そうならないためには、生きているとき(今現在ですね)、ひどいケンカや殴り合いなどをして人を傷つけたり、命を奪ったりしないで、楽しく生きることです。 最近、親が子供を虐待死させる事件が多いようですが、そういう親は等活地獄行きになってしまいます。また、ちょっとした言い合いから電車のホームへ突き落としたり、ナイフでグサッと刺したりして命を奪ってしまうケースが見受けられます。その犯人も、この世では逃げおおせたとしても、等活地獄へ行くことは間違いないですから。少しでも地獄での刑期が短くなるように、自首することですよね。 以上、これが等活地獄です。 |
25回のテーマは 輪廻の世界 @地獄の巻 その三 |
*地獄の世界B 地獄廻り弐 2、黒縄地獄(こくじょうじごく) この地獄は、その刑が二番目に軽い地獄です。まだまだ楽な方ですね。とはいえ、この地獄の苦しさは、前回の等活地獄の10倍、刑期は8倍です。 等活地獄は、イライラして殴り合いのケンカをしあい、そこへ牛頭&馬頭に潰されたりする、という地獄でした。それも一回こっきりではなく、わずかな時間をおいて、地獄に来たときと同じ姿に戻り、再びケンカが始まり、牛頭&馬頭に追い回される・・・・というものでした。これが1兆6200億年続くといわれています。 この黒縄地獄は、苦しさがその10倍、刑期が8倍ですから、そりゃあもう、気の遠くなるほど苦しい・・・、いや想像を絶する苦しさなんですよ。でも、これで2番目に軽い方ですから。いやはや、地獄とは恐ろしいところです。 さて、その黒縄地獄ですか、どんなところかご紹介しておきます。 黒縄地獄の黒縄とは、大工さんが持っている墨つぼのことです。大工さんは、柱や板を切ったりする時、墨つぼから糸を出して、その糸を指ではじき、線を描きますよね。墨打ちというのですが、見たことはないでしょうか?。板や柱の上で、この墨打ちをすると、直線が引けるのです。大工さんは、その線に従ってノコギリで板や柱を切っていくんですね。この地獄では、その墨打ちが板や柱ではなく、人間の身体で行われるのです。 罪人は、牛頭&馬頭に連れてこられると、台の上に寝かせられます。もちろん、逃げられないように裸にして大の字に縛り付けられるんですね。で、その身体に、墨打ちをするのです。つまり、罪人の身体に墨で線を描くわけですね。 碁盤目状にきれいに線が打たれることもありましょう。あるいは、ひし形に線が引かれることもあるかもしれません。または、適当にめちゃめちゃに墨打ちがされることもあるでしょう。どんな線が引かれたにせよ、牛頭&馬頭はその線に従って、罪人を切っていくだけのことです。きっと、罪人の頭の上で 「こうやって線を引くのはどうだ?。いいデザインだろ?。」 「う〜む、なかなかやるなぁ。じゃあ、俺はこう引こう・・・。画期的なデザインだ!。」 などと言い合っていることでしょう。それを罪人は聞かされるのですよ。 もっとも、いきなり心臓の辺りや頭を切ったりすることはないと思いますので、安心してください。きっと、手や足など末端から切っていくと思います。なぜなら、その方がより苦しいでしょうからねぇ、イッヒッヒッヒ〜。 もちろん、この罰が一回で終わるわけではありません。バラバラにされた罪人は、その辺に捨てられます。すると、涼しい風が吹いてきて、バラバラの体が、また元に戻っていくのです。記憶とともにね。そして、元に戻った罪人は、逃亡することもできず、あっさり牛頭&馬頭に捕まって、台の上に乗せられるのです。再び切り刻まれるために・・・・。 あぁ、恐ろしい・・・。これが、なが〜い年月の間続くのです。記憶が伴いますから、恐怖は以前の倍増。恐怖は増していきます。 しかし、いつまでも同じ行為をされていると、人間というのはそれがどんな苦しみであっても、慣れてしまうものです。拷問慣れ、とでもいいましょうか。初めの頃に感じた恐怖がマヒしてくるのです。そこで、新しい刺激が必要になってきます。罪人に安楽は許されません。罪人は、常に恐怖におびえていないといけないのです。 で、墨打ちの刑に慣れた罪人は、縄渡りの刑場に連れてこられます。縄渡り・・・つまり綱渡りですね。どんな綱渡りかといいますと、これがなかなか恐ろしい綱渡りなんですよ。 刃物の木が生い茂る山と山の間に黒い縄が一本渡してあります。罪人はその山を登ります。登るだけでも身体は血だらけになってしまいますが、死にませんので大丈夫です。頂上に到着した罪人は、牛頭&馬頭に重い荷物を背負わされます。その状態で綱を渡るように命じられるんですね。これは当然落ちます。いや、絶対落ちるんです。生前、サーカス団などのメンバーで綱渡りが得意だった人でも落ちるんです。なぜなら、落ちるように牛頭&馬頭が綱を揺らすからです。しがみついてもダメです。綱にはとげとげがいっぱいついているから、しがみついたら痛いんですよ。手が切れてしまいます。 で、罪人は意に反して、綱渡りができずに落ちていくんですね。早めに落ちた場合は、刃物でできた木の生えた山の上。身体は、木には引っ掛かることなく、バラバラになって地面の上ですね。中央あたりで落ちた場合は、熱湯の釜が待っています。熱湯地獄ですな。 また、鉄でできた網を真っ赤になるまで焼いた上に突き落とす、という刑も用意されています。人間の網焼きですね。でも、ただの網ではありません。その真っ赤に熱せられた網は、そこに落ちた罪人の身体にまとわりついてくるのです。あわれ罪人は、熱せられた網で包まれて焼かれるんですねぇ。 こんなところへ来たくない方は、他の命を奪うような暴力行為はもちろん、盗みも働かぬことです。ここは、殺人と盗みの罪を重ねたものがやってくるところです。強盗殺人などを犯したものは、残念ながら黒縄地獄行きは、間違いないですね。 ちなみに、不倫の果てに殺人・・・という場合は、ここじゃあありません。次の地獄です。なぜなら、殺人・盗み(他人の妻・夫を盗んだ)・邪淫の三つの罪が重なっているからです。黒縄では終わらないんですよ。 3、衆合地獄(しゅごうじごく) この地獄は、初めの等活地獄の100倍の苦しさといわれています。刑期は16倍です。1兆6200億年の16倍ですから・・・・。計算するだけ虚しいですね。とてつもなく長い、のです。それでも、ここは上から3番目。まだまだ軽いほうなんですよ。 さて、ここは主に邪淫の罪を問われます。邪淫の果てに相手を殺した・・・、という場合ですね。そんなことはしないだろう、なんてことはありません。不倫の果てに殺人まで発展したケースはままあります。相手の家族の命を奪ってしまった、ということもあります。あるいは、ネットで不倫相手の妻や夫の殺人依頼をした、という事件もあります。実際には命を奪うまではいってませんが、殺人を依頼した時点でアウトですね。この地獄へ来ることは間違いないでしょう。 いずれにせよ、不倫相手の配偶者、家族に対し、殺意を抱いた時点で衆合地獄行きの切符は手にしているんですよ。たとえ、不倫相手の妻や夫の命を奪ってはいなくても、 「あぁ、あの人に奥さんがいなければ・・・。」 「君に夫がいなければ・・・。」 などと、不倫中に話し合っただけで、この地獄へ来てしまうのです。ただ、命を奪ったものに比べて、刑期が短いだけです。不倫は、割に合わないです。不倫になる前に、手を引きましょう。気をつけてくださいね。 邪淫を中心とした地獄ですから、その刑罰も特色があります。地獄の中では、大変ユニークな刑罰なので、楽しめます。どんな刑罰かといいますと・・・・。 この地獄に来たものは、まず刃物でできた木が生えた森を歩かされます。木と木の間を通り抜けるだけで身体は傷つきますが、でも罪人は歩いていってしまいます。なぜなら、向こうの方に自分好みの異性がにこやかに待っているからです。それは、ペ・ヨンジュンに似た男性かもしれません。伊藤美咲に似た女性かもしれません。いずれにせよ、自分の好みの異性が微笑んでいるんですね。そうなればその森を走り出すかもしれません。 で、ふと気がつくと、その異性は木の上にいるんです。いつの間にか、自分の求めていた異性は、木の上で微笑んでいるんです。 「早く、ここに来て〜。」 といいながら。(それが男性の場合なら、「さぁ、ここへおいで。」とでもいうのでしょうか?。) そんなことを言われれば、あなたが男性であろうと女性であろうと、その木を登りたくなりますよね。刃物でできた木であろうと、その隙間をぬって、木のてっぺんにいる異性のもとへ行きたくなるのが人情ってもんです。 そんなことはない、そんな危険を犯してまで異性を手に入れようとは思わない、この地獄はおかしい、と思う方もいることでしょう。でもね、そういう方は、この地獄へは来ていないんですよ。この地獄へ来るものは、現世において、危険を犯してまで異性を奪い取ったものが来るところなのですから。そういう要素を持ったものしかこないのですから、刃物の木でさえ登ろうとするのですよ。 さてはて、罪人は必死になって、てっぺんにいる異性を目指して木を登ります。全身、刃物の葉っぱで切り刻まれながら、血だらけになりながら、罪人は異性のもとへ至ります。 「あ〜、やっとたどり着いたよ。さぁ・・・。」 と、周りを見渡すと、求めていた異性の姿はどこにもありません。すると声が聞こえてきます。 「あぁ、待ちきれなくて、下へ降りてきたのよ。私はここよ。せっかく降りてきたのに・・・。あなたも早く降りてきて〜。」 (それが男性ならば、「君を待ちきれなくて木の下まで迎えにいったのに。さぁ、ここへ降りておいで・・・。」かな?。) なんと、木の下で、罪人の求めていた異性が待っているではありませんか。罪人は 「わかった、今行くよ〜。」 といいながら、木を降りていきます。刃物の葉っぱで切り刻まれながらね。 さて、みなさん予想できるでしょ。罪人が木の下に至れば、その異性は・・・・。そう、木の上にいるんです。そして、罪人はまた木を登り始める・・・・・。これを何度も繰り返すんですね。 罪人は、刃物で切られる痛みに耐えながら、木を登ったり降りたりするのです。途中で死にますが、すぐに生き返って続きを始めます。愚かなことですよね。そうまでして、異性を求めたいのか・・・・。そう思うでしょ。そう思うのなら、邪淫の心はおこさないようにしましょう。不倫はいけませんよ。 もちろん、ここでの刑罰はこれだけではありません。 罪人は不倫相手と手に手をとって焼け爛れた大地を走っています。牛頭&馬頭が追っかけてくるからです。逃げ惑った二人は、山と山の間に逃げ込みます。もちろん、これは罠です。牛頭&馬頭に、そこに追い込まれたのです。二人が、その山と山の間に入った瞬間、両側の山が動き、二人は潰されてしまいます。そんなに一緒にいたいのなら、ぐちょぐちょに押しつぶして、いっしょにしてやる、というわけですね。ぺったんこになった二人は、重ねて放置されます。そして、重なったまま生き返ります。潰された瞬間の記憶を持ったまま・・・。 二人が生き返ると、再び牛頭&馬頭が追いかけてきます。二人は手に手をとって逃げます。ふと横を見えると、潰れた異性の顔が脳裏に浮かびます。思わず手を離したくなるでしょう。お互いにね。でも、手は離れません。不倫をしてまでも二人は一緒にいたかったのです。ですから、離れることはできません。お互いに、潰れた顔で、潰れた手を握り合い、血を流し、内蔵を流しながら、走り回るのです。そしてまた、潰される・・・・。 これは、主に心中を犯したものが受ける刑罰ですが、不倫をしたものも受けます。 もっとひどい刑罰もあります。 罪人は、牛頭&馬頭に両脇をつかまれています。そこへ、自分のもっとも大事と思う人・・・それは不倫相手であったり、娘や息子であったり、両親であったりしますよね・・・・そういう人が連れてこられるのです。その連れてこられた罪人の大事な人は、罪人の目の前で裸にひん剥かれます。嫌がるのを無理やりね。それだけではありません。その大事な人が、犯されます。目の前で。ただ犯されるだけではありません。どろどろに溶かした鉄を、女性ならば女性器へ、男性ならば肛門へ流されます。あるいは、・・・あぁ、ひどすぎて書けません。気になる方は、メールでお尋ねください。あるいは、直接質問してください。ここでは、とてもとても残忍過ぎて書けないのです。 そういう残忍な行為を罪人の目の前で、罪人の大切な人にするのです。とても見ていられないでしょう。しかし、無理やり目を開けさせられます。見なければいけないように、牛頭&馬頭が仕向けます。気も狂わんばかりになるでしょう。でも、仕方がないのです。自分の犯した罪の報いなのですから。 たとえば、あなたに娘さんがいたとします。それなのに、あなたは援助交際をしてしまったとします。そういう行為をしたものは、死後この地獄へやってきて、自分の目の前で自分の娘が、牛頭&馬頭に犯されてしまうのです。 あるいは、あなたはレイプをしてしまたっとします。すると、あなたは死後、この地獄へやってきて、あなたの大事な人がレイプされるのを見せ付けられるのです。 この刑は、性に関する罪を犯したものが、必ず受ける刑なのです。そして、自分がしたことと同じ行為を、自分の大切な人がされるのを見せ付けられるのです。とても、嫌な、卑怯な刑なのですが、それを自分がしたのですから、何も文句は言えません。牛頭&馬頭はこういうでしょう。 「生前、お前がしたことだろ。お前が援助交際した娘にも親はいるんだぜぇ・・・。」 「生前、お前も同じ事をしただろ。同じようにレイプしたじゃないか。それなのに、文句を言うなんてなぁ・・・。自分の罪は棚に上げ・・・か?。虫が良すぎるんじゃないの〜。い〜っひっひっひ。」 と・・・。 はぁ〜。暗くなってしまいましたね。ま、このように邪淫の罪は、重く苦しいものです。 「へ、そんなもの、死んでからのことなんだから、平気さ。」 と思う方は、甘いですよ。生きているときにその罪の清算がやって来る事だってありますからねぇ・・・・。クワバラクワバラ・・・。 |
26回のテーマは 輪廻の世界 @地獄の巻 その四 |
前回に引き続き、次の地獄をご案内したいのですが、その前に前回の地獄の話が少々反響が大きかったので、少しお話をさせていただきます。 反響が大きかったのは、3の衆合地獄(しゅごうじごく)についてです。不倫や浮気の果てに行き着く地獄・・・・でしたね。これを読んで、心にグサリ、ときた方が多かったようです。ドキッとしたんでしょうね。 ということは、いかに不倫や浮気が多いか・・・・ということなのですが、まあ、それはいいとしまして。まあねぇ、男なら誰しも浮気心くらいはあるでしょうからね。最近では、女性だって・・・ねぇ。出会いサイトも花盛りですからね。 最も質問が多かったのは、 「不倫の結果、きっちり話し合いをして妻と離婚をしました。そして、不倫相手と再婚いたしました。相手の方もご主人ときれいに別れました。もちろん、私の妻にも、相手のご主人にも恨みはありましょう。しかし、今では、平穏無事に過ごしております。前妻も楽しく暮らしている、とのことです。それなのに、私たち夫婦は、地獄へ落ちなければいけないのでしょうか?。確かに、不倫中は私は妻を、相手はご主人を裏切り、苦しめたことでしょう。うそもつき、時間を盗み、お互いに相手の配偶者を盗みました。 しかし、今は平和なのです。反省もしました。元妻も元のご主人さんも納得しています。慰謝料も払いました。養育費も払っております。 それでも地獄へ行かねばならないのでしょうか。」 といった内容のものです。 この質問に対するお答えは、このようです。 ご心配はわかります。確かに不安になるでしょう。でも、ご安心ください。あなたたちご夫婦は、この不倫によって地獄へ落ちることはないでしょう。 なぜなら、あなたたちは反省しました。責任も取っています。その後の対応も誠実です。そのような方は地獄へは落ちないでしょう。地獄へ落ちるものは、反省なき者、なのです。 たとえば、不倫をして、お互い離婚し、一時はいがみあったりもめたりすることがあっても、そのあとを誠実に対応し、納得しあって責任を取ったならば、それは地獄行きの切符を手にした、とはいえないのですよ。 それは、知り合う順序を間違えただけなのですよ。もちろん、不倫に対する反省は必要ですけどね。 人は、縁があって結婚をします。しかし、たまに縁を間違えて結婚する方がいます。本来結婚する相手が別にいるのに、一時の感情や弱い縁で結婚してしまう場合があるのです。つまり、結婚する縁でない相手と結婚してしまう、という場合ですね。そのあと、本当の結婚相手にめぐり合うことがあるのです。そういう相手と出会うと、急速に二人の仲は進んでいってしまいます。行き着くところは不倫でしょう。(もちろん、ブレーキをかけるのが理性ですが。いくら誤った相手と結婚していたとしても・・・・)。 問題は、責任のとり方なのです。正しき相手と結婚をしなおすのか(つまり、離婚して再婚する)、不倫相手と別れて現在の配偶者とやり直すのか。 その責任がしっかり取れて、関係者が納得してしこりを残さないようにしたならば、それはそれでいいのですよ。順序を正したのか、間違ってはいたが今の縁を大事にしたか、それだけのことです。 その場合において、一度は不倫状態にはなったけども、その不倫をしたことによって地獄へ行く、ということはないでしょう。 地獄へ行かねばならないのは、反省もせず、不倫しっぱなしで責任も取らず、あるいは、真の反省をせず浮気を繰り返したりして、お互いの家を不幸にした場合です。さらには、不倫の果てにお互いの配偶者を死に至らしめたりした場合です。 また、過去に浮気を何度もしてしまった、今は落ち着いているけども・・・、という質問もありました。そんな私は地獄へ行かねばならないのだろうか、と。 そんなことはありません。地獄へ行くかどうかは、その人が反省している、後悔しているかどうかが問題なのです。 「あの頃はよかったよ、もう浮気し放題でさ」などとくだらない自慢しているのか、 「昔は、夫に内緒で遊んでいたけど、あの頃が懐かしいわ」と昔の不倫を懐かしんでいるのか、 「あの時は本当に悪かった、もうあんなことはしてはいけないのだ」と心から反省しているのか、 それが問題なのです。 つまり、過去において不倫をしたことがあっても、浮気をしたことがあっても、現在その行為を深く反省し、二度としないと決め、現在の奥さんなりご主人さんなりに尽くしているのなら、地獄へ行くことはないでしょう。 あるいは、過去の行為の結果によって、現在夫婦関係が冷めていても、今、浮気も不倫もしないで、二度と過ちを繰り返えさず、真面目に生活していたならば、地獄へ行くことはないでしょう。 そこに反省があるかどうか、二度と過ちを繰り返さないかどうか、なのです。 つまり、反省なきもの、それが地獄へ行くものなのです。 たとえば、人を殺してしまった、とします。人の命を奪えば、地獄行きは決定です。この時点で地獄行きの切符を手にします。しかし、その切符が使われるかどうかはわからないのです。なぜなら、ここで問われることがあるからです。それは、心から反省しているかどうか、ということなのです。 本当に心から反省し、後悔し、尊い命を奪ってしまったことを懺悔し、できれば罪を犯す前までに時間を戻したい、と心から思っているのなら、どんな判決が出てもそれを素直に受け入れるでしょう。たとえそれが極刑であっても。 そういう真実の反省、懺悔の気持ちがあれば、地獄行きの切符を使うことはないでしょう。地獄行きの列車に乗ることはないでしょう。 よく、裁判において、人の命を奪っていながら、極刑が言い渡されると、 「それは重過ぎる」 と控訴なり上告なりする場合があります。これじゃあ、本当に反省していないんですよ。他の命を奪っておいて、自分の命が奪われることになったら、「それは止めて欲しい」などといえるでしょうか?。心から本当に反省し、後悔しているのなら、甘んじて極刑を受け入れるのではないでしょうか?。 これでは、真実の反省・懺悔とはいえないでしょう。その場合、地獄行きの切符は有効になってしまうことでしょう。 問われるのは、真実の反省・懺悔なのです。 犯した大きな罪により、地獄行きの切符を手にしてしまいます。しかし、その切符が使われるのは、反省なきものに対してです。心から反省し、どんな罰も受け入れます、という思いがあるのなら、地獄行きの切符は消滅していくことでしょう。 仏教は、厳罰主義の宗教ではありません。むしろ、許しの宗教です。心から反省し、懺悔し、正しきものに生まれ変わろうとするものを追い込むようなことはしません。 ですので、あなたが過去に浮気をしたり、不倫をしたりしていても、心から反省し、二度とそんなことはしないと決め、正しき道を歩んでいるのなら、地獄行きの切符は消えるのですよ。 ということで、まあ、あまり神経質にならないほうがいいです。地獄へ落ちるのも結構難しいものなんですよ。 *地獄の世界C 地獄廻り参 4、叫喚地獄(きょうかんじごく) この地獄は、初めの等活地獄の1000倍の苦しさといわれています。刑期は・・・もういいですね。とてつもなく長い期間です。 この地獄でようやく真ん中です。ここへ来るものは、主に飲酒による罪を犯したものです。飲酒だけで地獄へ落ちるのか?、と思われるでしょう。しかしそうではありません。飲酒により多大な罪を犯したもの、が来るところです。 たとえば、酒を飲んで揉め事をおこし、あげくの果てに相手の命を奪ってしまった・・・というような場合ですね。 また、お酒を通じて異性と知り合い、酒の力で誘惑をしたりされたりして不倫が始まり、あげくお互いの家庭を巻き込み、多くのものを不幸にしてしまった、という場合です。 他の地獄でもそうですが、罪は一つだけということではありません。 1の等活地獄は、単純な暴力や殺人でした。 2の黒縄地獄は、暴力や殺人に盗みが加わります。強盗殺人ですね。 3の衆合地獄は、邪淫が元で他を不幸に巻き込むという暴力や不倫殺人、愛欲におぼれつくす、という罪です。 ここでは、そこに飲酒が加わるのです。 酒を飲んでいたことにより、ケンカをして命を奪った、酒を飲んでその力で盗みをした、酒の席が元で不倫が始まり家族を不幸に巻き込んだ、といった場合、この地獄へ送られるのです。 つまり、飲酒が原因で多大な罪を犯した場合、ですね。飲酒運転で人を跳ね飛ばしてしまった・・・という場合が、一番身近な例でしょう。飲んだら運転はしてはいけません。当たり前のことですが、世の中には当たり前のことができないものもいるのですから、困ったものです。いい大人がね。 さて、ここの刑罰ですが、主に口からおなかの中への罰です。飲酒が元でこの地獄に来たのですから、当然といえば当然でしょう。 罪人は、どろどろに溶けた銅を飲まされます。拒否しようとしてもダメです。牛頭&馬頭により、無理やり口をこじ開けられるからです。 「どうだ、熱燗だよ〜ん。うまいだろ。この熱燗が元でお前は恐ろしい罪を犯したのだ。飲酒は割に合わないねぇ〜。」 などと牛頭&馬頭は言うのでしょうか。 あるいは、口当たりはいいお酒風の溶けた金属を呑まされるかもしれません。その場合、飲んだあとで異常に苦しむ、という仕組みになっていることでしょう。 あるいは、酔っ払った牛頭&馬頭にひき殺されたり、殴られたり・・・ということもあるでしょう。また、大きなナベで罪人が煮込まれ、牛頭&馬頭に食べられる・・・という罰もあるようです。刑罰が牛頭&馬頭の酒席になっているわけです。 お酒を飲むときは、くれぐれも酔って罪を犯さないように致しましょう。楽しく、きれいな飲酒を心がけてください。周りに迷惑をかけるような酒席や酔っ払いは、地獄への第一歩ですからね。ご注意ください。 5、大叫喚地獄(だいきょうかんじごく) ここまで来ると、地獄も刑罰の限界がやってくるようです。もう限界・・・・って感じですか。この地獄についての詳しい解説は、実はないのです。苦しさが等活地獄の1万倍、というくらいでしょうか。 刑罰の種類は、叫喚地獄と同じようなもの、と思って頂いて結構です。ただ、この地獄へ来るものは、叫喚地獄へ来るものの罪に加えて、ウソや騙しの罪、が加算されます。 つまり、この地獄へ来るものは、酒を飲みウソや二枚舌によって他のものを不幸にしたり、異性を悪い道へ誘惑したり、他の財産を奪い、また他の命を奪ったもの、ということになります。ですので、舌は確実に抜かれます。口への攻撃は、増えるのは確実です。 「この口か、この口か、この口が罪を犯したのか。」 「お前の舌は数が多すぎるぞ。舌は一枚だけでいいのだ。だから俺が抜いてやろう。」 などという罰を受けることは確実ですね。 お酒を飲んで、既婚者の異性を誘惑したり、独身者を誘惑したりして、その異性の財産を奪ったりした詐欺師。そういうものは大叫喚地獄ですよ。くれぐれも二枚舌・ウソは慎みましょう。 さて、今回は、ここまでです。続きは、次回に致します。前回のほうが衝撃度は大きかったように思いますね。やはり邪淫の罪には、厳しいのでしょうか?。人間の本能に関ることだから、刑罰も豊富なのでしょうかねぇ。 |