バックナンバー1、第1回〜第15回


第1回 お墓なんていらない
題名が題名であっただけに、随分と誤解を受けたようですが、内容は非常識な事ではありません。少々過激だっただけです。
どういう内容だったかと言いますと、「無理してお墓を持つ必要は無い」というお話でした。

魂しいは、骨にあるわけではありません。ですから、いくらお墓の骨を拝んでいても供養には、ならないのです。供養は、お坊さんに頼んでしてもらうものです。お墓参りは、先祖へ、自分たちの元気な姿を見せることであり、そうあるのは先祖のおかげと感謝するために行なうものです。
また、骨に魂しいがあるわけではないのですから、無理してお墓を持つ必要も無いのです。散骨でもいいのです。それが忍びない・・・・というのでしたら、お寺に納骨すればいいのです。何も高いお墓を購入する必要はないのです。

それに、お墓を持つと後々まで面倒を見なければなりません。少なくとも、盆と正月、春秋の彼岸、祥月命日くらいは、お墓を訪れ、きれいに掃除をし、お花と線香を供えて、お参りしに行かねばなりません。転勤の多い世の中、それもままならないでしょう。さらには、少子化の昨今ですから、後々面倒を見てくれる人がいない、なんてこともあるのです。そうなると、お墓があること自体、問題になってしまいます。
面倒を見られないと思うのなら、或いは自分の代以降、面倒を見てくれる人がいないなら、さらにはお墓の購入費用に困っているのなら、なにも無理してお墓を購入する必要は無いのですよ。散骨やお寺への納骨(永代供養ですね)でも構わないのです。

骨に魂しいがあるわけじゃないのですから、何も「お墓を持たなければならない」、と考える必要は無いのです。大切な事は、供養をすることなのです。供養さえ怠らなければ大丈夫なのですよ。


第2回 戒名「戒名は二文字でいい」
仏教形式でお葬式をすると、戒名が付きます。これは、出家した、お釈迦様の弟子になった、ということを表しています。つまり、戒名とは出家者の名前なんですよ。
戒名には、いろいろあります。院号がついていたり、四文字であったり、釈○○であったり・・・。でも、そのどんな場合でも、戒名と言えるのは、その中の二文字だけなんです。ちょっと例をあげてみましょう。

「○○院××**居士」という戒名があったとします。この場合、戒名にあたるのは「**」の部分です。○○院というのは、お寺の名前です。××は雅号ですね。道号とも言います。ですから、この場合、「○○院というお寺の××という雅号を持つ、出家者**」という意味になります。信士や信女、居士や大姉なども、本来は不要なものです。「信士、信女、居士、大姉」は、在家につく称号のようなものですから、出家者には本来つくものではありません。ですから、本当は不要なものです。ただし、生前、在家であったか出家者であったかどうか、区別がつきやすいし、区別したい場合は、信士などを付けるのもいいでしょう。(戒名の説明については、「あの世の旅バックナンバーに詳しく載ってます。)

例えば、私が亡くなった場合はどうなるのか・・・。
「法恩院第○世 廣栄」で終りでしょう。廣栄の下につくのは、「僧正」とか「不生位」くらいのものでしょう。それでいいのですよ。「廣栄」が戒名なのですからね。

ということで、戒名は、実は長くてもあまり意味が無いものなのです。戒名と言えるのは、二文字だけなんですから。無理して院号をつけたり、六文字戒名だの居士だの大姉だのつける必要は無いのですよ。「釈○○」で十分なのです。詳しくは、「あの世の旅」のバックナンバーを読んでみて下さい。
あまり長い戒名をつけると、あとの子孫が大変ですよ・・・・・。


第3回 葬式「葬式には二つの意味がある」
お葬式には、二つの意味があります。一つには、亡くなった方の出家の儀式。もう一つは、亡くなった方をあの世へ送るための儀式です。
葬式では、亡くなった方に戒名を授けますね。これは、お釈迦様の弟子になったという証しです。で、その儀式−出家式−を葬式で行なうのです。真言宗の場合は、さらに、灌頂なども授け、ちゃんとした僧侶とする儀式まで行ないます。
もう一つのあの世へ送る式のほうは、死者に「あなたは死んだのだ」という自覚を促し、さらに「出家もしてお釈迦様の弟子になって、これからあの世へ行くのだ」と亡くなった方に伝え、あの世の門を開き、死者をあの世へ送り出すということをします。
亡くなった方を、お釈迦様の弟子として、あの世へ送り出すんですね。これが、葬式の意味なのです。決して無意味なことではないのですよ。ちゃんと意味があるのです。ですから、「葬式なんてやらなくていい。」などといわずに、葬式はちゃんとやってもらったほうがいいですね。
別に派手にやる必要は無いですよ。身内だけでもいいのです。ただ、お坊さんに頼んで、戒名を頂いて、引導の作法をしっかりしてもらいましょう。大きな祭壇も本来は必要の無いものです。真言宗ならば、不動明王と十三佛、弘法大師の掛軸と、お花・香・灯明・お供えがあれば十分です。大事なのは、祭壇が立派だとか参列者が何人来た、と言うことではなくて、戒名を頂き、ちゃんとあの世へ引導してもらえたかどうか、と言うことなのですからね。見栄よりも内容です。


第4回 占い「占いは100%当るものではない」
ほとんどの占いは、統計学です。いにしえの賢人達が膨大な資料に基いて分類し、分析したものが占いです。四柱推命・姓名判断・手相・人相・地相・家相・宿曜占術・西洋占星術・タロット・風水などなど、様々な占いがありますが、そのほとんどが統計によるものなのです。統計学に入らないのは、いわゆる霊視と言われるものぐらいでしょう。霊視・霊感の類は、統計とは異なりますね。しかし、その他は、皆統計です。占いは、統計学なのですよ。

ですから、必ず例外があります。100%当るというものではありません。必ず、例外が出てくるのです。人間ですもの、当たり前でしょう。千人いたら千人の魂しいがあるのですから、いくら誕生日が一緒と言っても、同じである事はありません。例えば、双子でも異なる人生を歩むでしょ。四柱推命や西洋占星術で占えば、双子は同じ運勢になってしまいます。しかし、実際には、双子でも全く一緒と言うことはありません。似てはいますけどね。
それは、当然でしょう。魂しいが違うのですから。ですから、占いは、100%当るものではないのですよ。

私も相談を受けたりする時に、姓名判断や宿曜占術を使って、運勢を判断したりしますが、それに100%頼っているわけではありません。参考にする程度です。
なぜなら、例えば、姓名判断や宿曜占術で悪い運勢が出たとします。何て悪い運勢の人だろう、という判断ですね。ところが、実際に会って話を聞き、観てみますと(いわゆる霊視ですね)、それほど悪くない、ということがあります。逆に、名前や生年月日で見る運勢はいいのだけれど、実際に会ってみると、えっ?こりゃ参った・・・ということもあります。
まあ、大半の場合、姓名判断と宿曜占術を併用する事で、ほとんど当ってはいるのですが・・・・。しかし、100%当るわけではないのです。これは、どんな占いでもそうです。

ネット占いが盛んな昨今ですが、どんな占いでも、100%当ると思わないほうがいいでしょう。西洋占星術で12分の1でしょ。ホソキなんとかは六星ですか?。6分の1ですね。ましてや血液型占いなど笑止千万。お遊びでしょう。このHPの占いでも9分の1です。当る人もいれば当らぬ人もいるし、当る時もあれば当らぬ時もありますよ。
本当に困って、迷ってしまってどうしようもなくなった時は、個人的に占ってもらったほうがいいですね。しかも、ネット上でなく、対面で。ちゃんと、そこの場所まで足を運んで、真剣に占ってもらったほうがいいと思います。電話やネットでなくね。それぐらいの努力はしたほうがいいと思いますよ。

それから、あまり占いに頼りすぎないほうがいいですね。占い依存症ってのも、このごろはあるようでして。自分で決める事ができない人間になってしまっては、これまた困り者ですからね。
占いは、人生の地図のようなものです。迷った時に頼りにすればいいのです。人生の岐路に立ったときや、重要な判断を迫られ迷った時に頼るものです。なんでもかんでも占いで決める・・・・なんてことはやめましょう。上手に付き合ってください。


第5回 供養「供養は自分の為にする」
先祖供養は、何のためにするのでしょうか。
それは、実は、自分たちのため、子孫のためにしていることなのです。ただ、先祖のためだけに供養をしているのではないのですよ。
木に例えてお話をしましょう。木の根っこが先祖にあたります。幹が自分たちです。もしくは親世代ですね。枝や葉、実が子や孫の世代です。つまりは子孫ですね。
いい実を実らすにはどうすればいいでしょうか。木を大きく青々と育てるには何が必要でしょうか。それには、その木に、水と光と、そして栄養を十分与えることが必要ですよね。供養もこれと同じなんですよ。

いい実=いい子孫になってもらうには、その木に栄養を与えなければなりませんね。木の根っこに肥料をやらなければいい実はできません。水も必要だし、光も必要でしょう。手入れもしなければなりません。
普段の仏壇へのお参りやお墓参りは、いわば木に水をあげたり光を与えたりするようなものです。ちょっとした他人への親切や、他人への思いやり、お寺への信心参りや霊場巡りなどは、木の手入れをするようなものです。
そして、お坊さんによる先祖供養は、その木に肥料をやるようなものです。

先祖供養をすれば、その家自体に栄養が行き渡り、木が生い茂るように、子孫が繁栄していくものです。先祖供養は、決して先祖のためにだけに行なっているのではなく、私たちや子孫が、繁栄していくために行っていくものなのです。ですから、「何で先祖供養なんか・・・」などと言わずに、自分たちのためだと思って先祖供養をするといいですね。そうすれば、あなたを守護してくれている先祖も力をつけて、あなたをいい方向へと導いてくれる事でしょう。
自分の幸せを願うのなら、先ずは先祖の供養をして、力強く守護してもらうようにするといいでしょう。先祖供養は、自分の幸せのために行なうんですよ。



第6回 魂「魂は本当にあるのか」
人魂を見たことがある方はいらっしゃるでしょうか。人魂を見た・・・、否、それは目の錯覚だ・・・・・。さて、実際に魂は存在するのでしょうか。
仏教学者の方でも、「仏教は魂の存在を認めない」とおっしゃる方が多いようです。また、お坊さんの中にも、魂の存在を認めない方もいらっしゃるようです。しかし、これは本当は間違っています。仏教は魂の存在を決して否定しているわけではないのです。

仏教学者やお坊さんで、魂の存在を否定する方は、おそらく仏教の基本的な教えの「諸法無我」に基いておっしゃっているのでしょう。しかし、この「諸法無我」というのは、「この世の一切の生あるものには、我というものは存在しない」という意味でして、「魂がない」と言っているわけではありません。「我」と「魂」とは異なるものです。

「我」というのは、字の通り「われ自身」のことです。「私自身」が永遠と認識したり、あらゆるものに「私」というものの存在や固執を認識する事をいいます。従って、それはそのものの魂の事ではないのです。
簡単に言えば、「我」とは「自分やものに対しての執着」であって、「魂」とは「命そのもの」とでも言えばよくわかるでしょうか。

ちょっと考えてみてください。
「あなたは、なぜあなたの家に生まれてきたのでしょうか?。他の家に生まれてきてもよかったでしょう?。」
「あなたは、なぜあなたに生まれてきたのでしょうか?。犬などに生まれてきてもよかったでしょう?。」
さて、この質問に対して答えができるでしょうか。「魂」という考え方抜きで・・・・。

仏教は、生まれ変わりを認めています。生あるすべてのものは、必ず六道−地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天−のどこかの世界に生まれ変わる、ということを認めています。
ですから、もちろん、前世や来世も認めます。
ということは、それは、必然的に魂の存在を認めていることになりましょう。魂は存在しない、となれば、生まれ変わりもなくなってしまいますからね。生まれ変わる元である魂がなくなってしまう、ということなのですから。
ですから、仏教では魂は否定していないのです。

よく思うのですが、お坊さんで魂の存在を否定している方、そういう方は、いったい仏様を拝む事をどう思っているのでしょうか。魂の存在を否定してしまったら、お釈迦様も薬師如来も観音様もお地蔵様も不動明王も神様も、その存在がなくなってしまうではありませんか。お釈迦様の魂が、その像に入っている、と思っているから拝むのでしょう。薬師如来の魂が、薬師如来像に宿っている、と信じているからこそ、薬師如来に病気の平癒を願うのでしょう。観音様の像に、観音様の魂が入っているからこそ、様々な祈願をし、手を合わせるのでしょう。そういうことをしている一方で、「魂はない」というのは矛盾していませんか。

「魂」は存在しています。その存在を否定してしまったら、生まれ変わりを説く仏教そのものを否定してしまう事になります。「魂はない」とすれば、生まれ変わりはなく、この世代だけで生を終える事になります。
ならば、悪い事をしても、人の道に外れるような事をしても地獄に落ちる事はないし、いい事をしても極楽へ行くことはないでしょう。何をやっても勝手・・・・ですよね。それでは、悲しいんじゃないでしょうか。

魂の存在を否定するより、その存在を認め、命を大切にする事を教え、学ぶ事のほうが大切なのではないでしょうか。世の中には、理屈や科学で説明できない事は、いっぱいあるんですよ。


第7回 運命と運勢「運命は変えられないが、運勢は変えられる」
占いをされる方でも「運命」と「運勢」を混同して使っている方がいらっしゃるようですが、「運命」と「運勢」は、基本的に異なります。

「運命」というのは、生まれた時から決まっている「基本的路線」のことです。
「運勢」というのは、その「路線を進んでいく勢い」のことをいいます。

例え話をしましょう。
運命は、例えば、川のコースのようなものでしょう。川のコースはなかなか変えられません。昔から大体決まっています。そのコースを変えようと思えば、地震でもおきて地形が変わってしまうか、大きな工事を行なってコースを変えるか・・・・しかありません。いずれにせよ、巨大なエネルギーを使いますね。ちょっとやそっとではできませんね。
運勢は、この川を進む船と思ってください。

あなたは、この世に生まれてきました。あなたの生を乗せた船のスタートです。あなたの船がたどる川のコースはどんなコースでしょう。流れの勢いはあるでしょうか。途中で支流に流れていってしまわないでしょうか。二手にコースが分かれていないでしょうか。あなたの生を乗せている船は頑丈にできているでしょうか。
あぁ、大変、大きな岩があります。ぶつからないように注意して進んでください。
おぉ、滝があります。慎重に流れていって下さい。

わかりますよね。岩や滝は、人生でぶつかる壁や困難のことです。支流に行くのは、人生の迷い道に入ったりすることですね。コースが分かれている方は、人生の選択に迫られる時がくるでしょう。船そのものは、あなたの身体ですね。丈夫が何よりでしょう。
船が進む勢いが弱ければ、船は途中で止まってしまうかも知れません。船の舵取りが下手であれば、岩にもろにぶつかってしまうかも知れません。船が弱いと滝に落ちて木っ端微塵・・・・ということもあるかもしれません。

運勢は、その岩や滝をうまく乗り越えるためのエネルギーです。人生の困難である岩や滝をうまく乗り越え、分岐点や支流で迷わないようにするためのエネルギーやテクニックなのです。
運勢がよければ、難なく人生をいう川を最後まで流れていく事ができるでしょうし、運勢が悪ければ、迷い、苦しみながら進んでいくでしょう。最悪の場合、途中で沈んでしまうかも知れません。

人生のコースである運命は変えることは困難です。ならば、そのコースをなるべく楽に安全に、快適に進んでいけるように運勢をよくし、強くしたほうがいいでしょう。
運が悪いと思う人や人生によく迷う人は、途中で諦めずに、運勢をよくするようにして下さいね。
尚、開運の方法は、「開運道場」をご覧下さいね。


第8回 おみくじ「おみくじはその時の運を見る」
みなさんは、おみくじを引いた事がありますよね。その時、どこを読みますか?。どこに注目しますか?。吉とか凶、大吉・中吉・大凶・・・・などと書いてあるところに注目しますか?。
多くの方が、吉という文字に喜び、凶という表記にゲッ!と思うことでしょう。しかし、おみくじで注目すべきは、その部分じゃないんですよ。大事なのは、その内容です。

おみくじは、元来、密教系のお坊さんにのみ伝わっていた占い方法です。それを天台宗の元三大師が、一般の方にもわかるように、現在の形に整理したのです。もとは、具体的な質問に関して占う、特別な占術でした。
例えば、病気について、「この病気は治るでしょうか」と、信者の方が尋ねたとします。すると、お坊さんは、一度よく本尊さんを拝んで、精神を統一して、無の状態に入りおみくじを引きます。その結果が、仏様の答え・・・・という訳です。本来は、おみくじは、こうしてお坊さんに引いてもらうものでした。しかも、一つの質問に対し、一回おみくじをひく、というものでした。

つまり、おみくじは、一度おみくじを引いて、いろんな項目を見るのではなく、ひとつの悩みに対し、一回引く、というのが本来のおみくじの引き方なのです。
先ほどの病気に関して言えば、「この病気は治るだろうか」と思い、よく精神統一して無の状態に至った瞬間に引くのです。そして、そのおみくじの病気のことに関する項目のみを見るのです。
これが、おみくじでの占い方なのです。
病気以外の悩みがあるときは、もう一度その悩み事を思い、おみくじを引きなおすべきでしょう。一度引いたおみくじで、あれもこれもと占うのは、実は間違っているんですよ。種々の悩み事に対しては、何度も引いてください。そして、その悩みの項目だけを読んで下さいね。

なお、おみくじは、持って帰るのが本当です。それが吉であれ、凶であれ。吉であっても、凶であっても、そこに書いてある事を参考にして対処していくのですから、持って帰ったほうがいいのですよ。おみくじを持って帰ったからといって、災いがあるわけではありませんから。


第9回 輪廻転生「あなたの前世は先祖の中」
仏教は、輪廻思想に基いています。ということは、すべての生あるものは、死すれば必ず生まれ変わる、という思想があるのです。思想だけじゃないですね。実際、生まれ変わっています。生あるものは、死すれば、必ず六道のうちのどこかに生まれ変わるのです。特例を除いてね。

特例といいますのは、覚った方のことです。覚りを開いた方は、六道輪廻から外れ、二度と生まれ変わる事のない仏様の世界に入ります。ですから、特別なのです。まあ、そういう方は、まずいませんが・・・・。
もう一つ、特別があります。それは、極楽浄土へ生まれ変わる事です。これも輪廻から外れてしまいます。実際には、なかなか難しい事です。極楽へいけるほどの極善人にならなければ、極楽へはいけません。ややこしいですが、まあ、すごく善人にならなきゃ、極楽へはいけない、ということですね。
葬式などで、「故人は極楽へいかれたでしょう」という坊さんがいますが、まあ、これは建前であって、本音ではありませんので、悪しからず。尤も、そんな席で「故人は地獄へ落ちたでしょう」などとはいえませんけどね。

ということですので、あなたも誰かの、何かの生まれ変わりなのです。では、誰の、何の生まれ変わりなのでしょうか。
よく、前世占い、などという怪しげ占いを耳にします。いわく「あなたは、戦国武将の生まれ変わりです」、「あなたは平安時代の貴族の生まれ変わりでしょう」、「あなたはそこらへんにいたカエルの生まれ変わりですね」・・・・。そういう占い、聞いたことありませんか?。はっきり言ってくだらないですね。

前世が何であったか、証明の仕様がないでしょう。ですから、その時思いついたことで、何とでもいえますよね。勝手なことを言えばいいのです。証明も確認もできませんから。
しかし、先祖の中に戦国武将がいたり、貴族がいれば、当らずとも遠からず、ということもあるかもしれません。なぜなら、あなたは、きっとあなたの家の先祖の中の「誰か」の生まれ変わりなのですから。

そうです。あなたは、あなたの家の先祖の中から生まれ変わってきているのです。あなたの前世は先祖の中にあるのです。ほとんどの場合ね。
希に、先祖が飼っていた犬とか、隣近所で親しかった方とか、その地域を縄張りとしていた野生動物とか・・・・そういうことはあります。希にですが。
尤も生まれ変わりは一度だけではありませんからね。例えば、その地域を縄張りとしていた野生動物が、次の生の時、その地域の家の飼い犬となり、次の生でその家の嫁にやってきて、次の生の時、その家に生まれ変わる・・・・・というように、順を経て行きますからね。

また、生まれ変わるには、その家に「縁」が存在します。縁がなければ、その家に生まれ変わってくる事はありません。前世でその家に変われていた犬であったり、近所の将棋仲間であったり、恋人同士であったり、使用人と雇い主の関係であったり・・・・・。いずれにせよ、なんらかの縁がなかったら、その家に生まれては来ないのです。縁がないものには生まれ変わらないし、縁がない家にも生まれ変わりません。

まあ、しかし、前世を知ったからといって、どうということはないですけどね。ただ、生はこの世で終りなのではなく、必ず生まれ変わるのだ、ということは知っておいて欲しいと思いますし、信じて欲しいと思います。
生まれ変わるから、来世を期待する事もできるし、この世で悪事を働く事もなくなるでしょう。この世の行為が来世へも影響をするのです。


第10回 聖者「聖者なんていない」
この世に聖者はいません。今、もし「私は聖者である」と言っている方がいれば、その方は、まぎれもなくニセモノです。本物の聖者ではないのです。

聖者とは、どんな人物なのでしょうか。
聖者とは、すべてを覚ったもの、のことでしょう。つまり、それは、仏陀のことでしょう。神ではなく、仏陀・・・・生きている如来・・・・なのです。
仏陀とは、お釈迦様のことですが、すべてを覚ってしまったものの事を言います。すべてを覚ったものは、すべての欲望を超越し、この世の真理をすべて知リ得ます。そうしたものが、仏陀であり、聖者なのです。
ここで重要な事は、「すべての欲望を超越した」ということです。そう、聖者と呼ばれるものは、すべての欲望を超越していなければなりません。

お釈迦様は、聖者について
「よく己の欲望を制御し、悪をなさず、迷いなく、疑うことなく、恐れなく、怒りなく、真実を語り、それによって人の感情を害することなく、諸々の情欲を断ち切り、冷静であり、すべてに執着なく、正しく生きる人のことを聖者という」
と説いています。これを読んでどう思います?。
「こんな人いない!」
と思うでしょ。聖者はいない、って納得できるでしょ。実際、まず最初の「己の欲望を制御し」で、誰も該当者がいなくなってしまいますよね。欲望を制御できる人なんて、そうザラにいませんからね。
世界には、様々なカルト教団があって、その中心人物は「聖者」と呼ばれているようですが、どう贔屓目に見ても「よく己の欲望を制御している」とは思えないですよね。

しかし、聖者と自分で言っている人が、本物かどうか見分けるのは大変ですよね。
まあ、まず、自分で自分の事を
「私は聖者である」とか、「私はすべてを覚った」とか、「私は最終解脱者だ」とか、「私はお釈迦様の生まれ変わりだ」とか、「私は仏陀だ」とか、「私こそ最後の僧侶である」とか、
言っていている人は、間違いなくニセモノでしょうね。こう言う人は、先ほどのお釈迦様の言葉を知らない人です。「私は・・・・」とか「私こそ・・・・」などと、自分に固執しているようでは、聖者の域まで達していないのは明白です。聖者は、自己の自慢などしないからです。何もかもわかってしまったような顔をしている者に本物はいません。その態度で本物かどうかわかる、というわけですね。

もう一つ、重要な事があります。それは、清潔さです。聖者は清潔でなければなりません。
かつて、日本でも聖者マガイのものがいまして、自分の事を「最終解脱者」といっていたようですが、あの人、清潔感なかったですよね。もう、見るからに不潔そうでした。それなのに、多くの方が騙されて、恐ろしい事件を起してしまいました。残念な事です。あの姿を見れば、本物ではない事はわかる事なんですが・・・。

お釈迦様は、清潔と言うことに大変注意されていました。
朝起きて洗顔し、川で沐浴し、香を身体に塗り、身を清潔にしてから托鉢に出かけます。食後は必ず歯磨きをします。歯磨きの習慣を始めたのもお釈迦様です。排便の後は必ず川で沐浴しました。絶えず清潔を心掛けていました。弟子に剃髪させていたのも、清潔のためでもあるのです。もちろん、口臭にも注意をしていました。それほど、他人に与える不快感に対し、注意を払っていたのです。
「修行者は、まずその身の清潔さを心掛けよ」
だったのです。見るからに不潔感を与える聖者は、聖者ではないのです。見た目も肝心なのですよ。

聖者は、この世にいません。最終解脱者もいません。
しかし、だからといって悲観する事はありません。なかには、正しく宗教活動をしている方も多々あります。聖者に近付こうと努力をしている方もいます。
そういう方を早く見つけて、よりよい指導をしてもらう事です。それには、まず、その人が正しいかどうかを見分けるような知識を持つ事ですね。もし、その人が、「私は聖者です」とか、「最終解脱者です」とか、「私ほどの霊能力のあるものはいない」とか、「私ほど力のあるものはいないんですよ」などと自慢するような方なら、怪しいと思ったほうがいいでしょう。正しきものは、そういう自慢はしないものですから。
また、清潔感のない人は、初めから避けたほうがいいでしょうね。清潔そうに見えない人は、妖しいもの、でしょうから・・・・。
ニセモノに引っ掛からないよう、十分ご注意くださいね。


第11回 水子供養「供養するのが当然だ」
水子供養というと、なんだか怪しい宗教や怪しい自称霊能者の金儲けの脅し文句に使われている、というイメージがあります。水子が憑いている、祟っている、などと脅迫して(まさに脅迫です!)、高い供養料を取ったり、高額なお祓いをしたり、とんでもない壷や仏塔を売りつけたり・・・・・。実際に、そういう被害にあっている方もいます。水子・・・というとロクなイメージがありません。
しかし、これは、水子を悪に利用する、金儲けに利用する方が悪いのであって、何も水子自体が悪いのではありません。水子自体は、実際には悲しい存在なのですよ。

水子は、この世に生まれてこれなかった子供です。一度は、母親の胎内に宿った命です。それを親の身勝手な理由や都合により、堕胎してしまう。この世から抹殺してしまう。無かったことにしてしまう。
これって、間違ってませんか。一人の命を亡くしたのですよ。この世に生まれていないというだけで、堕胎しても(つまりは抹殺しても)罪には問われない・・・・・。
この世に生まれていれば、もっと大切に扱われていたでしょう。名前もつけられていたでしょう。なのに、その存在が許されない、都合が悪いからと言って、闇から闇へと葬り去られてしまう。無かったことにされてしまう。これって、悲しくないでしょうか。
もちろん、望んでいたのに流産してしまった・・・・という場合もあります。それはそれで、親子ともども悲しいことでしょう。残念なことだと思います。
だけど、葬式はしますか?。望まれていないで堕胎した場合でも、望んでいたけど流産してしまった場合でも、その子のために、葬式をしますか?。まず、しないでしょうね。一人の命を失っているのに・・・・・。

この世に生まれていない、という理由だけで、堕胎にしろ、流産にしろ、その子に対しては、何もされない。葬式もされなければ、供養もされない。それっておかしくありませんか?。命は、この世に生まれてくる以前に授かっているのですよ。
ならば、せめて、供養くらいはしてあげるのが人の心、ってものではないでしょうか。人としてのやさしさじゃないでしょうか。命に対する優しさじゃないでしょうか。

注意して欲しいのは、「水子の祟り」という言葉です。これと水子供養の大切さとを混同しないで下さい。よく、怪しい霊能者などが「水子が祟っている」といいますが、水子は祟りません。「水子が祟る」などという霊能者がいたら、その人は霊のことをよく知らない者です。水子は祟らないのです(ちなみに、先祖も祟りません)。
祟ることはありませんが、「供養をして欲しい」という要求はします。それが、身体の変調に現れたり、何らかの悪影響があることはあります。これは、祟りではなく、救いを求めているのです。救ってくれ、と訴えているのです。そこに悪意はありません。その点をよく注意して欲しいですね。

いずれにせよ、水子供養は大切なことです。この世に生まれていないからといって、なかったことにしないで、せめて供養くらいはしてあげて欲しいものです。変な霊能者に脅されてからではなく、自分の犯した罪をよく懺悔し、亡くしてしまった子供のために供養をしてあげてください。それが、命を大切にする心でしょう。

ちなみに、供養されるときは、ちゃんとした供養をしてあげてください。できれば永代供養でね。一回こっきり・・・・じゃなくて、後々も供養し続けてもらえるようなお寺を選んでください。尚、永代供養を謳っているお寺でも、一回目の供養はしても、あとはそのまま放置、というところもありますから、よく注意してくださいね。


第12回 檀家制度「こんなものは必要なし!」
檀家制度と言うのは、江戸時代の遺物です。江戸時代に、キリシタン対策のために創られたのが檀家制度です。江戸時代、お寺は戸籍係を勤めました。その地域に住む者は、その地域の指定のお寺に戸籍を届け出ることが義務付けられていたのです。それにより、キリシタンを防止したのですね。これが檀家制度の始まりです。
このために、その地域に住む人々は、お寺を指定され、葬式をするのも供養をするのも、その指定のお寺がすることになったのです。こうして、先祖代々のお寺が決まっていたんです。

時は明治に移り、戸籍は役所が扱うことになりました。お寺は戸籍係から解放されたのです。しかし、檀家制度だけは残ってしまいました。先祖からの指定のお寺、というのは、そのまま慣習として残っていったのです。それが、現在も続いているのです。

私は、決して「檀家制度が悪い」と言っているのではありません。ただ、檀家制度にこだわっているお坊さんがいるから、檀家制度なんて必要ない、と言っているのです。
ある檀家寺のご住職さんの言葉です。
「檀家抜けをすると、先祖が怒ってあなたの家を祟りますよ。不幸なことや災難が次々と起こるでしょう。それでもよければ檀家を抜けるがいい。」
これって、もうほとんど脅迫ですよね。こんなことをいわれたら、怖くって檀家寺を変えることなんてできません。坊さんが、こんなことを言って、いいのでしょうか?。これが、同じ坊さん仲間かと思うと、とても残念です。
先ほども書きましたが、檀家制度は江戸時代の遺物です。本来、仏教とは何の関係もありません。ですから、どこのお寺で葬式をしてもらおうと、どこのお寺で供養してもらおうと、全く関係ないのです。どこの檀家になろうと、それは自由なのですよ。
先祖代々から続くお寺でなくても、どこのお寺でもいいのです。どこのお寺で葬式しても、戒名をつけてもらっても、供養してもらっても、先祖が怒ることはありません。ましてや先祖が祟るなど、ありえません。大切なのは、どこのお寺、じゃなくて、しっかり供養してくれるかどうか、なのですから。お寺や宗派が問題じゃないんですよ。そのお坊さんが、しっかり供養してくれるかどうかが問題なのです。

まあ、檀家寺にしてみれば、檀家が抜けるということは、檀家が減るということで、それはそのまま寺の収入も減るのですから、死活問題になりますからね。だから、ついつい語気が荒くなったり、脅しのような言い方になるのかもしれませんね。
しかし、檀家が減らないように日ごろから、檀家の方たちと交流をもったり、努力をすればいいのであって、檀家を脅すようなことは、やっぱり避けて欲しいですよね。

というわけでして、何も檀家寺に縛られる必要はありません。これからは、皆さんがお寺を選ぶことも大切になってくるのではないでしょうか。ナマグサ坊主の寺や、仏教のことをよく知らずに金儲けに走ったり、欲望丸出しのお寺は、見切りをつけたほうがいいかもしれませんねぇ。


第13回 お坊さん「お坊さんの仕事とは何だ?」
お坊さんの仕事は、葬式や供養することだけと思われがちですが、それだけではありません。葬式や供養は、坊さんの仕事の一部にしか過ぎないのです。
お坊さんとは、出家修行者のことです。お釈迦様の弟子ですね。ということは、本来目指すものは「覚りを得る」ことです。お坊さんは、覚りを得るために日夜修行に励んでいる・・・・はずなのです。

お釈迦様のいらした頃の出家修行者−お坊さん−は、覚りを得るために日夜修行に励んでいました。托鉢や瞑想、教えを聞くことも修行のうちの一つですね。
その修行の中に、在家の仏教信者の悩み事を聞いて、アドバイスしてあげる、ということがあります。悩める人々は、お釈迦様や出家修行者が集う精舎を訪れ、悩みを打ち明け、相談にのってもらっていたのです。お釈迦様を始め、出家者は、人々の悩みを聞き、その悩みの根源は何か、どう対処すればいいか、ということをアドバイスしていたのです。実際、お釈迦様や高弟は、在家信者の悩みを聞いて、様々なアドバイスをしたり、教えを説いたりして、その悩みを取り除いてあげてしました。

お寺は、お釈迦様時代の精舎と同じですから、本来、その地域の人々などが、何でも相談を持ちかけることができたところでした。ご住職さんにお話を聞いてもらい、様々な悩み事・問題ごとを解決してもらうところでした。今でも、お寺がそういう機能を果たしている地方もありますね。
お寺はよき相談所、住職さんはよきカウンセラーだったのです。

お坊さんの仕事は、まず覚りを得ること、そのために日夜修行に励むことです。そして、その修行の中で、人々の悩みを聞いてあげ、よきアドバイスをしてあげること、なのです。葬式や供養だけが坊さんの仕事じゃないのです。
否、むしろ、悩みを聞いてあげ、解決してあげることのほうが、お坊さんの仕事としては本来的でしょう。それは、菩薩行と言われるものなのです。人々の苦しみを取り除いてあげ、楽を与えてあげる(これを「抜苦与楽−ばっくよらく」と言います)。生きるヒントや活力を与えてあげる・・・・。それが、お坊さんの本当の仕事なのですよ。


第14回 密教「密教は怪しい宗教じゃない」
密教と言うと、妖しげな呪術を使い、いろいろな願いをかなえたり、呪いをかけたりするような、そんなイメージで取られることが多いようですが、決してそんな妖しい宗教ではありません。
密教と言うのは、「秘密仏教」の省略です。「秘密仏教」といっても、やっぱり怪しく聞こえるかも知れませんね。秘密の仏教・・・・。変な感じがします。
しかし、「秘密の仏教」じゃなく、「仏教のなかの秘密」と言えばどうでしょうか。仏教の中の秘密の部分。そういえば、あんまり怪しくないでしょ。
そうなのです。密教とは、仏教の中でも、非常に難解な、ある一部の僧侶のみに伝えられた秘密の教え、のことをいうのです。だから、仏教の中の秘密−秘密仏教−なんです。

仏教は、比較的どなたにもわかりやすい顕教(けんぎょう)と、大変難解で体験をしないと理解できないという密教に分かれます。日本の仏教の宗派で言えば、密教は真言系や天台系のお寺が説いている教えで、その他は顕教にあたります。また、その顕教は、当然ですが密教の中に含まれます。つまり、密教は、総合的な教えなのです。

では、密教の教えとはどんな内容なのでしょうか。他宗派とどこが違うのでしょうか。詳しくそれを語るには、すごく長くなってしまいますので、密教の最たる特徴を少々お話しておきます。さらに詳しく知りたい方は、密教の入門書を読むか(高野山大学の教授が書かれた本がお勧めです。)、うちのお寺まで聞きに来てください。

さて、密教の最大の特徴と言えば、「即身成仏」でしょう。即身成仏とは、生きたまま、この身このまま、仏−仏陀−になる、ということです。つまり、生きているうちに、覚りを得て、仏陀と同じになる、ということですね。
よく「即身成仏」のことを、坊さんのミイラや、徳の高い僧侶の死、のことと思っている方がいますが、これは大きな間違いです。お坊さんのミイラのことを「即身仏」といいますが、これはそういう名称なだけで、「即身成仏」とは異なるのです。
「即身成仏」は、あくまでも「生きたまま」覚りを得ることです。死んでしまっては意味がありません。死んでしまっては「即身成仏」にはならないのです。「生きたまま、生きている状態で覚りを得て、仏陀と同じになる」、これが「即身成仏」ですから。

そんなことできるの?、と思われるでしょう。できるんです。できるはずなんです。弘法大師様はできました。手に印を組み、口に真言を唱え、心を仏の心と同じ状態にすると、この身このまま仏の姿となれるのですよ。
とはいえ、そこまではなかなか到達できないですよね。普通はね。まだまだ修行がたりません。しかし、仏と同じになる、までは行かなくても、この世で生きているうちに安楽を得る、ことは可能でしょう。
それを実現させることができるのが、密教なんですよ。

この世で生きているうちに安楽を得る、幸せになるには、どうすればいいのか。
一つには、身と口と心を正すことです。身で言えば、暴力を振るわない、生き物を殺さない、盗みをしない、浮気をしないことですね。で、正しい行いをするのです。
口は、悪口を言わない、ウソをつかない、ふざけた物言いをしない、二枚舌を使わない、です。で、周りの人が不快にならないような言葉遣いをするのです。
心は、欲を慎み、妬んだりせず、恨んだりしないで、何が正しいかをよく考えることです。
こういう生活をしていれば、この世で安楽を得られるでしょう。(とすれば、政治家は、絶対幸せにはなれないですね。ま、苦労が多いことは確かですからね。)

しかし、言葉では簡単に言えますが、この身と口と心を正すことは、そんなに簡単なことではありませんよね。では、どうするのか。それは、御仏の力を借りるしかないのです。この借り方が、いろんな祈願なのですよ。
この世で幸せを得るために、御仏の力(これを如来加持力−にょらいかじりき−といいます)をお借りして、少しでも平穏な日々が送れるように願うのです。そのために、密教では様々な祈願をするのです。それは、決して誤まった欲望を満たすために行なう祈願ではなく、平穏な生活、安楽を得るために行なう祈願なのです。そのために、護摩を焚いたり、呪術をするのです。決して、人を呪ったり、勝手な欲望を満たすために祈願しているのではないのです。

最近は、お祓いや祈祷、呪術などが注目を集めています。災いは何でも悪霊のせいにして、すぐにお祓いしたり、怪しげな呪術をしたりしています。しかし、それは密教ではありません。御仏の教えの裏づけのない祈祷やお祓い、呪術は密教とは違うのです。お祓いの部分、呪術の部分は、方便であって、大事なのはなぜそうなったか、であり、そうならないためには今後どうすればいいのか、なのです。その教えの部分がなくて、ただお祓いや呪術をしているのは、たんなるショーに過ぎないのです。
密教は、呪術を扱いますが、それは深い教えに基いた呪術であって、その教えの部分が欠落してしまっては、もはや密教ではなくなってしまうのです。本物の密教とまがい物とよく区別してくださいね。単なる呪術や、それを得意げに扱うものには十分注意してください。

なお、参考までに、密教の教えが他の宗派の教えにどう対応しているのか掲げておきます。
密教は、身口意(しんくい)を正すという教え(これを身口意の三密行といいます。)です。これは、各宗派の教えに割り振りされます。
身密−身体の働き−只管打座、ただひたすら座ることを説いた道元禅師の教え。曹洞宗。
口密−口の働き−ただ南無阿弥陀仏と唱えよと説いた法然、ただ南無妙法蓮華経のみであると説いた日蓮の教え。浄土宗、日蓮宗。
意密−心の働き−ただ阿弥陀如来に心を預けてしまうことを説いた親鸞の教え。即心即仏を説く臨済禅の教え。浄土真宗、臨済宗。
大雑把な説明ですが、ご参考までに・・・・。


第15回 真言「真言は呪文とは違う」
真言というのは日本語ではありません。中国語でもないです。これは、インドの古語なのです。
仏教というのは、今から約2500年前のインドで興りました。開祖は、もちろん、お釈迦様ですね。お釈迦様もインドの方ですから、話していた言葉は、当然当時のインドの言葉です。その言葉で教えを説いていたわけですね。

お釈迦様がいらした頃は、その教えを書いて残す、ということはされませんでした。お釈迦様自身も弟子も、お釈迦様の教えを書き留めたりはしなかったのです。皆さん、暗記していたのです。
ところが、お釈迦様が涅槃に入られてしばらくたったころ、お釈迦様の教えが混乱しそうになったのです。そこで、これではいけないということで、弟子達が集まって、お互いに受けた教えを確認しあいながら、書き残していったのです。これがお経の始まりですね。
もっとも、この時に書き残されたものは、当然、当時のインドの文字で書かれています。その一部は現存しています。そのインドの文字で書かれたお経が中国に渡り、漢訳されるようになりました。これが、我々が現在読んでいる「お経」なのです。今、私たちが読んでるお経は漢文なのです。ですから、返り点を打ったりすれば、意味がわかってきます。

ところが、インド語で書かれたお経を漢訳する時、どうしても訳せない言葉がでてきたのです。訳してしまうと、本当の意味が損なわれてしまう、表面的な意味しか残せない、或いは漢訳してはいけないぞ・・・・という言葉が出てきたのです。
そこで、当時のインドや中国のお坊さんたちは、音写という方法をとったのです。訳さないで、そのままインドの言葉の発音のまま残そう、インド語のままで置いておこう、というわけですね。例えば、菩薩という言葉とか、般若という言葉ですね。
そういう、漢訳しなかった言葉のなかに、真言も入っているのです。ですから、真言は、「漢訳できなかった、漢訳してはいけない」言葉だったのです。

般若心経の最後の言葉で話をしましょう。般若心経の最後の言葉「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソウギャーテー ボーヂーソワカ」も、実は真言なのです。これも、漢訳できなかったのです。漢訳すると意味が軽くなってしまうのです。試しに、無理やり漢訳してみましょう。
「ギャーテー」とは「行った」という意味です。「ハーラー」は「ついに、とうとう」、「ハラソウ」は「ハーラー」の強調、「ボーヂー」は「菩提」、つまり「覚り」のこと、「ソワカ」は「やったーバンザイ」です。以上をつなぎ合わせると、般若心経の最後の文の真言は、
「行った、行った、とうとう行った。ついに行き着いた。覚りよバンザイ」
となります。めちゃくちゃ軽いでしょ。もう少し、重みをつけて訳しますと、
「到達した。到達したぞ。とうとう到達したんだ。ついに行き着くことができたんだ。あぁ、覚りの世界は、なんて素晴らしいんだ!。」
となるでしょうか。それにしても、ちょっと拍子抜け、じゃないですか?
訳してしまうと、こんな具合に軽くなってしまうんです。表面上の意味しか取れないんです。本来の、もっと深い意味が流されてしまうんです。だから、あえて訳さなかったんです。訳さずに、何度も何度も繰り返し読むことによって、その意味を心で捉えることができるように・・・・。それが真言なのです。

この般若心経の真言「ギャーテー ギャーテー・・・・」は、実は、お釈迦様が覚った瞬間に発せられた言葉なのです。菩提樹の下、7日間の瞑想の後についに覚りを開く・・・・。すべてがわかった瞬間、お釈迦様は
「ギャーテー ギャーテー・・・・」
と叫んでいたのです。その時の感動、心の状態、世界観など、そうしたものは、訳してしまうと伝わってこないでしょう。般若心経の漢訳を担当した高僧たちも、そう思ったのでしょう。
「これは訳してはいけない、訳すとお釈迦様の真意が伝わらない、お釈迦様が発した言葉と同じ言葉を唱えることが大事であろう」
と考えたわけです。で、あえて訳さずに原語のまま残したのです。

そう、真言は、訳してはいけない言葉、訳せない言葉だったのです。訳すと本来の意味を失ってしまう言葉だったのです。決して怪しい呪文ではないのですよ。
このことを弘法大師は、その著作でこう説いています。(般若心経秘鍵より)
「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を證す」
(「しんごんはふしぎなり かんじゅすればむみょうをのぞく いちじにせんりをふくみ そくしんにほうにょをしょうず」)
意味は、
「真言は不思議である。真言を心に思い、口に唱えれば、苦しみや愚かさ、無智を取り除いてくれる。真言の一字一字には、数多くの意味を含んでいる。だから、真言を唱えれば、この身このまま覚ることができるのだ。」
ということです。
どうですか、あなたも真言を唱えてみませんか。悩みも吹っ飛んでしまいますよ、きっと・・・・・。

とはいえ、どんな真言を唱えていいかわからないですよね。ですので、参考までに、いろいろな仏様のご真言を紹介しておきます。また、生まれ年の本尊様とその真言を掲載しておきます。
これらのご真言も訳せない言葉であり、訳すと本来の意味を失ってしまう言葉です。その本来の意味は、これらのご真言を何度も繰り返し唱えることによって、自然にわかってきます。頭ではなく、心でわかるのです。あなたにご縁のある仏様のご真言をお唱えされるといいでしょう。

観音様・・・「オン アロリキャ ソワカ」
お地蔵様・・・・「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」
お釈迦様・・・・「ノウマクサンマンダ ボダナン バク」

ねずみ年生まれ−千手観音−「オン バザラ ダラマ キリク」
丑・寅年生まれ−虚空蔵菩薩−「オン バザラ アラタンノウ オン」
うさぎ年生まれ−文殊菩薩−「オン アラハシャノウ」
辰・巳年生まれ−普賢菩薩−「オン サンマヤ サトバン」
う ま年生まれ−勢至菩薩−「オン サンザンサク ソワカ」
未・申年生まれ−大日如来−「オン アビラウンケン バザラ ダトバン」
と り年生まれ−不動明王−「ノウマクサンマンダ バーザラダン センダ マーカロシャーダ 
                 ソワタヤウンタラタ カンマン」
戌・亥年生まれ−阿弥陀如来−「オン アミリタ テイゼイ カラウン」
以上が、生まれ年のご本尊とご真言です。ご自分の生まれ年の本尊様のご真言を朝晩、3回もしくは7回唱えるといいですね。





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