バックナンバー3、第21回〜第25回


第21回 守護霊「守護霊は先祖の中にいる」
「守護霊」は、誰にでもあるものです。ただし、その守護霊というものは、あなたに憑いているのではありません。あなたのそばにいる、とでもいいましょうか。あなたのそばで、あなたのことを守っている方、それが守護霊です。

守っている方・・・といいましたが、実はそうばかりとは限らないんですね。確かに、守護霊は、あなたのことを守護するべき霊的存在のことを言います。ところが、守りたくても守れない場合があるんです。ここが問題なんですね。
ま、そのことは、後ほどお話することに致しまして、まずは、どんな霊的存在が守護霊になってくれるのか、ということからお話いたしましょう。

誰が守護霊になってくれるのか・・・・・。
その前に・・・・。守護霊のない方は、いませんので、それはよく覚えていてください。もし、守護霊がまったくない、という方がいれば、その方は、本当に悲惨です。運が悪すぎ、になります。生きていくのが非常に困難です。
守護霊がない、ということは、自分の徳しか頼るものはない、ということです。前世で積んだ、己の功徳しか、自分を守ってくれるものはないのです。
普通は、守護霊があって、自分が前世から持ち越した徳があって、それに守られて、この世で生きていきます。もし、このどちらかが欠ければ・・・・・・。そりゃ、運が悪くても仕方がないでしょう。
極普通の生活をしているだけなのに、生きていること自体が不思議、とも思えるくらい、運が悪くなります。
こんな方は、まずいらっしゃらないでしょう。ですから、ほとんどの方には、ちゃんと、守護霊はあるのです。いくら運が悪いように思えても、守護霊はちゃんといらっしゃるのですよ。
それは、ほとんどの場合、守護霊になるのは、あなたの家のご先祖のなかのどなたか、或いは、あなたの縁者なのですから。先祖も無い、縁者も無い、そんな方はいませんからね。

そうなのです。一般的に、ほとんどの方の守護霊が、ご先祖様なのです。あなたの家のご先祖のどなたかが、あなたの守護霊になってくれます。それは、一人ではありません。あなたの家のご先祖様のうち、あなたと縁のある、複数のご先祖様が、あなたの守護霊となっています。とは言え、その複数のご先祖様がすべて守護してくれているかというと、それは別です。中には、ただ見守っているだけ、という方もいます。まあ、多くはそういう存在でしょう。
で、その複数の守護霊の中で、中心になっている方がいます。その方が、あなたの守護霊の中の守護霊です。本命の守護霊、とでも申しましょうか。
その本命の守護霊が、あなたの導き手であり、あなたを守護する役割であり、あなたに幸運をもたらすものであるのです。

守護霊になってくれる先祖、といっても、そんなに遠い先祖ではありません。最も近ければ、親、ってこともありえます。おじいちゃん・おばあちゃん、という例は、最も多いようですし。
ちょっと、例をあげて説明したしましょう。

あなたが生まれた時、お爺さんお婆さんが、まだ健在だったとします。あなたは、祖父母にかわいがられて育ちます。ご両親も健在です。
ところが、ある日、元気だったお爺さんが亡くなってしまいます。あんなにあなたのことをかわいがってくれていたお爺さんが、亡くなってしまいます。その後、数年して、おばあさんも亡くなってしまいます。
さて、あなたは、すっかり成長して、もう大人です。お爺さんやお婆さんのことも忘れていました。そして、あなたは、結婚をし、子供を持ちます。
ある日、ある霊能者に、あなたの守護霊は、おじいさんですよ、といわれます。おじいさんが、あなたを見守っています、と・・・・。あなたは、そこで、はたと気がつく。そう言えば、子供の頃、おじいさんにかわいがってもらっていました・・・と。おじいさんが、あなたの守護霊となっていたのです。

が、ここで問題です。おじいさんは、いつあなたの守護霊になったのでしょうか。おじいさんが守護霊になる前は、どなたが守護霊だったのでしょうか。
おじいさんが、あなたの守護霊になる前は、もちろん、あなたの先祖のどなたかが守護霊となっています。で、縁の深かったおじいさんが亡くなり、ある期間が過ぎ、おじいさんが守護霊になりうる存在になった時に、それまで中心的存在であった先祖のどなたかと交代するのですね。次の世代にバトンタッチするのです。

もう一つここで問題です。
おじいさんが、守護霊になりうる存在になれなかった時、そんな時はどうなるのか・・・・。それまで、あなたを守護してきた先祖のうちのどなたかは、早くお役ごめんになりたい、そう願っています。引退したいんですね。もっと上の存在になりたいのです。いわば、現役を退いて、会長職に納まりたい、そう願っているのです。ところが、自分と交代すべきおじいさんの霊が、守護霊になりえるほど力を得てきていない。さぁ、困ってしまいました。交代の期限は来てしまっています。前守護霊は、その役を退かねばなりません。ところが、おじいさんは、それどころではない。自分自身が苦しみの世界に行ってしまっている。子孫の守護どころか、自分の事で精一杯だし、むしろ、おじいさんが助けてもらいたいくらいの状態なんですね。
さて、困りました。こうなると、守護霊が不在になってしまいます。ということは、運が、一気に落ちていってしまう、ということです。
これが、初めの方に言った、「守りたくても守れない状態にある守護霊」です。

ところで、上の例で「おじいさんやおばあさん」のところは、あなたの家のご先祖ならば、どなたでも構いません。あなたが産まれる前に、おじいさんやおばあさんが亡くなっていれば、あなたが生まれた時から、あなたの守護霊になっている可能性は高いでしょうし、あなたのご両親が早くに亡くなっていれば、ご両親が守護霊になる場合もあり得ます。或いは、叔父さん・叔母さんというケースもあります。
また、交代しない場合もあります。祖父母さんが、早くに亡くなっている場合などは、その祖父母のどちらか、或いは両方が、ずうーっと、あなたの守護霊であったりもします。ケースバイケースですね。
いずれにしても、あなたの家の先祖、亡くなった方々の中のどなたかが、守護霊になっていくのです。そのうちの誰か、というのは、「あなたに縁の深い方」という以外、言いようがないです。


さて、その問題の、「守りたくても守れない状態にある守護霊」の場合です。
以前、「霊障などという目にあうのは、その人自身の守護霊の力が弱いからです。守護霊がしっかり力を持っていれば、霊障にあうこともないでしょうし、運も悪くはならないでしょう。」というお話を致しました。
この「守りたくても守れない状態にある守護霊」というのは、まさに守護霊の力が弱い状態にある、ということなのです。守護霊が、しっかり力を持っていない、という状態なのです。
ですから、様々な悪い霊や悪運から、守ってもらえなくなるのです。病気になったり、災難にあったり、悪いことばかりが起きるんですね。それは、守護霊が守護霊になりきれていないことに原因がある場合が多いのです。

じゃあ、どうすればいいのか。どうすれば、守護霊が力を得てくれて、自分を守ってくれるのか・・・・。
それには、供養しかないのです。守護霊に力を得てもらうには、その守護霊であるその霊自身を供養するしかないのです。守護霊は、あなたの家のご先祖の中のどなたかです。ですから、その守護霊がどなたなのか、それを見極め、その方を供養するしか方法はないのです。と同時に、その力のない守護霊の前の守護霊の方にも、新たな守護霊が力をつけるまで、もう少し留まってくださるよう、お願いもしなければなりません。
ですから、新たな守護霊の方を供養すると同時に、その家のご先祖の方、全体も供養する必要が生じるのです。
また、ひどい状態の場合には、ご先祖全体が、すでに力を無くしてしまっている場合もあります。守護霊になる方どころか、ご先祖のどの方も守護できる状態にない、という場合もあるのです。こうなると、供養すべき先祖は、複数になってしまいます。

いずれにせよ、守護霊に力を持ってもらうためには、先祖の供養をするしか、方法はないのです。しかも、それは、1回したから大丈夫、というものではありません。守護霊になりうるまで、続けるべきなのです。
「守りたくても守れない状態にある守護霊」は、例えて言えば、マイナス状態にあるのですから、それをプラスに転じなければならないのです。しかも、そのプラス状態を維持していく必要があります。ですから、供養は、続けなければいけないのです。

昔は、どんな地域でも、お寺さんが、毎月その家にやってきて、お仏壇の前でお経を唱えたものでした。最近では、こういう習慣は少なくなってきましたね。特に都会では、月参りということは、あまりやらないようです。
月参りは、毎月お坊さんがお経を唱えることによって、その家のご先祖に、守護霊になれるように力を送っていたのですね。意味のないことではないのです。
供養というものは、何度も言ってきましたが、お坊さんにお経を唱えていただくことによって、初めて供養になるのです。自分でお墓参りに行ったり、お仏壇にお参りするのは、供養ではなく、ご挨拶なのです。ここのところを間違えると、ご先祖に守護霊になれるだけの力がなくなってきてしまうんですね。

ところで、幼い頃から親や親類縁者がいないくて、施設で育った、という方は、どうなるのかと申しますと、それでもやはり先祖はあるのですから、守護霊になる方は、その先祖の中にいらっしゃいます。しかし、どんな先祖がいるかわからない、おじいさんもおばあさんもわからない、という状態でしょう。ですから、そういう方は、守護霊に力を持ってもらうには、「先祖代々」で供養していけばよいのです。それで、次第に先祖が力を持っていってくれるでしょう。
また、養子縁組された方は、どうなるのでしょう。
そういう方は、養子に行った家の先祖の中から守護霊になってくださいます。ですから、養子に行った先の先祖の供養をしていけばいいのです。基本的には、ですが・・・・・。
お嫁さんも、これと同じですね。嫁に行った先の先祖のご供養をしていけばいいのです。とは言え、ご実家の先祖の方が守護霊として、いつまでも守っている場合もありますので、そういう方は、ご実家の先祖供養にも参加されるか、ご自分で縁のあるお寺などに行って供養されるといいですね。

ちなみに、「私の守護霊は、○○の神様です。」などという方がいますが、これはあまり信用できません。もし、神様が守護霊になっていたら、とても幸運です。やることなすことすべて、その方の都合のいいほうに転がっていきます。とんでもなくラッキーです。その辺りで霊能者などをやっている必要などありません。それどころか、一代で大きな財産を短期で築き上げてしまうでしょう。そんな方は、まあ、いないですよね。
また、仏様が守護霊になることもありません。もし、仏様が守護霊になっていたら、そうとうな修行者になっているでしょう。世俗からは離れて暮らしているはずです。本人も世俗を超越しているでしょうね。きっと、聖者になっています。そういう方は、やはり、今の時代いませんよね。
ただし、縁のある神様や仏様はいます。
あなたは、この仏様に縁がありますよ、この神様に縁がありますよ、という方はいます。そういう方は、縁のある仏様や神様をお参りすると、運がよくなってきます。特に、特定の神様に縁のある方は、その縁のある神様にお参りを続ければ、幸運度アップすること間違いなしですね。

災いにあわない、病気になるべくならない、不運にならない、幸運をつかみたい、幸せになりたい・・・・・。
そう思うのでしたら、あなたの守護霊を強化することです。回りくどいようですが、それが早道なのです。まずは、守護霊に強くなってもらうこと、これが一番いいのです。
やがて、あなたの守護霊が力を持った時、あなたは幸運の中にいることでしょう。合掌。


第22回 前世「あなたの前世は誰?」
「前世」とは、この世に生まれる以前の生・存在のことです。しかし、それは、一度だけではありません。何度も生まれ変わっていますので、前世も何度かあるわけです。しかも、人間だったとは限りません。犬だったかも知れないのです。何度も何度も生まれ変わっている間に、いろいろなものに生まれ変わっているのです。
と言われても、にわかには信じられらないでしょう。前世って本当にあるのでしょうか。

前世の思想は、インドに始まります。それは、仏教が誕生する以前からあった「輪廻思想」に基いています。インドには、「生き物はどんなものでも、その生を終えたら、また別の生に生まれ変わる」という思想がありました。仏教もその思想を取り入れています。
仏教では、すべての生き物は、その生命を終えると、六つの世界に生まれ変わる、と説きます。その六つの世界とは、下から「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」の世界です。
地獄は、よくご存知ですよね。非常に重い罪を犯した生き物が生まれ変わるところです。餓鬼は、大変欲の深い者が生まれ変わる世界。畜生は、怠惰と性欲を貪ったものが生まれ変わる世界。修羅は、戦いや暴力に明け暮れていたものが生まれ変わる世界。人間は、極普通の常識的生活をしていたものが生まれ変わる世界。天は、人の為によい事をしたものが生まれ変わる世界です。
生あるものは、このような世界を何度も何度も生まれ変わっているのです。だから、輪廻する、というんですね。この生まれ変わりの輪から脱出するには、覚りを得るか、極楽へ生まれ変わるか、それしかないのです。

と、このような六つの世界に生まれ変わるのですが、地獄にいたものがいきなり人間界に生まれ変わってくる、ということは、あまりないようですね。それは、地獄での寿命がとても長いからです。特殊な場合を除いては、地獄から人間へと生まれ変わることは、希なことです。ただ、その他の世界から、人間に生まれ変わってくる、ということは、あることです。
しかし、例えば、前世が「蛙」だとか「ゴキブリ」だとか、そういうことはありません。(逆はありうるかも・・・・)。そこから、人間になることは、「ない」ことです。
では、前世は、どこの世界にいたのでしょうか。あなたの前世とは、いったい何だったのでしょうか。

最も可能性が高いのは、あなたの家の先祖の誰か、です。ご先祖のうちのどなたかが、今のあなたに生まれ変わってきている・・・・。それが、一番可能性が高いですね。
ご先祖、といっても、何代前かはわかりません。しかし、例えば、平安時代のお公家さんだったとか、戦国武将だったとか、そんな古い方の生まれ変わり、ということはありません。

あっ、言い忘れましたが、前世を一度前の生としておきます。初めにも言いましたように、私たちは、何度も生まれ変わっていますので、最も近い生を前世としておかないと、大変なことになってしまいますからね。
ですから、多くある前世の内には、お公家さんだったことも、戦国時代の武士だったことも、農民だったこともあるかもしれません。それらすべてを探っても意味の無いことですし、探るのも大変でしょう。
なので、とりあえず、前世は、今の生の一度前の生としておきましょう。

話を元に戻しましょう。あなたの前世で最も可能性が高いのは、あなたの家の先祖のどなたかです。その先祖が、父方の先祖なのか、母方の先祖なのか、何代前くらいの人なのか、それはわかりません。親類や従姉妹もその中には入っています。あなたの先祖の血縁者・婚姻の縁のあった者、それらの中で、最も縁のある人が、「今のあなた」と思われます。

次に可能性があるのは、あなたのご先祖の親しかった友人・知人のどなたか、です。血縁や婚姻の縁はなかったが、非常に親しく、親類以上の付き合いをしていた友人・知人、という可能性もあります。そういう友人・知人どうしが、亡くなる時に、「今度は、兄弟として生まれてきたいな・・・・」などと望めば、そうなる可能性はあるのです。

その他には、その家で飼っていた犬や大事にしていた動物、という場合もあります。冗談でしょう・・・・と思う方もいるかもしれませんが、そんなことはないんですね。犬は、たいへん、人間に近いものがあります。割合、人間に生まれ変わりやすいものなんですね。また、その家で大事にしていた大型の動物、例えば馬とか牛とか・・・が、生まれ変わってくる場合も、大変低いのですが、可能性としてはあるのです。
また、逆もありますね。今飼っているペットが、実は先祖の生まれ変わりだった・・・・という、そういうことはありますね。動物から人間よりは、人間から動物、という場合の方が生まれ変わりやすいですね。

ある人の家で、犬を飼っていたのですが、その犬は、変わったところがありまして、その家の座敷の縁側に座りたがるんです。その犬がその家にもらわれてきた当初から、その犬は、よく縁側に座っていました。特に天気のよい日は、縁側に座ってポーっとしていたりしてました。その犬、年を取ってくると、新聞を咥えて縁側に座るようになりました。まるで、新聞を読んでいるように、縁側で新聞を足で押さえてぼんやりしていました。
ある日、その家に、久しぶりに親類のおばあさんがやってきました。で、縁側に座っているその犬を見て、びっくり。
「あら、お父さんそっくりだわ。この犬、どうしたの?」
その犬のしていることは、その家の今は亡き曽祖父にそっくりだったのです。
その後、その犬は、曽祖父の年忌の年に亡くなったそうです。こういうこともあるんですね。

あなたの先祖を遡っていくと、あなたにそっくりな癖を持っている方がいるかも知れません。趣味や嗜好が似ている方がいるかも知れません。もし、そういう方がいれば、その方は、あなたの前世かも知れませんね。

この世で知り合う人たち、友人・知人、恋人、仕事仲間、奥さんやご主人さん、そうした人たちも前世で何らかの縁があった方たちです。この世で付き合いの深い方は、前世でもある程度縁が深かった方でしょう。
たとえば、前世では友人だったけど、この世では恋人になっているかも知れませんし、前世では夫婦だったけど、夫婦仲が悪かったために、この世では、会社内でのライバルになっているとか、けんか友達になっているとか、そういうこともあるでしょう。前世では姉と弟の関係でしたが、この世では、恋人同士になっているとか・・・。だから、どうしても結ばれない、結婚できないとか・・・・。

前世があって、この世の姿があるのです。この世で関わりあう方たちは、前世でも何らかの関わりがある方たちなのです。ちょっと、肩が触れ合っただけの関係かも知れないし、道を尋ねただけの関係かも知れないし、隣のオジサンだったかもしれません。しかし、この世で何らかの関係のある人は、前世でも関係があるのです。前世からの知り合いなのです。
と言うことは、この世で知り合った方たちは、来世でも何らかの関わりを持つことになるでしょう。この世では、単なる友人だったかもしれませんが、来世は恋人になっているかも知れませんし、或いは、どちらかが犬に生まれ変わって、飼い主とペットの関係になっているかも知れません。
人間に生まれ変わることができなくて、子孫に助けを求めるようなことになっているかも知れません。いずれにせよ、あなたの魂は、過去から現在を経て、未来へと繋がっているのです。

お釈迦様は、
「この世の姿をじっくり眺めてみなさい。そうすれば、あなたの前世がわかるであろう。そして、あなたの来世もわかるのである。」
と、説いています。どうです、みなさん。今の自分をじっくり省みて下さい。あなたが前世においてやってきたことが、何となくわかってきませんか?。そして、今のところ、あなたは来世、どこに生まれ変われそうですか?。天女の舞う、天界へ行けそうですか?。それとも・・・・・・。
あなたの前世はどうだったのでしょうか。そして、あなたの来世はどうなのでしょうか・・・・。合掌。


第23回 成仏「成仏するのは難しい」
よく葬式などで、「故人は成仏されました」と言いますよね。また、TVなどで、変な霊能者のような方が、お祓いをして、「これで悪い霊は成仏しました」とか言っていますよね。どちらも、簡単に「成仏した」と言ってますが、本当に成仏しているのでしょうか。
どうしてそんなことを・・・・と思う方もいるかも知れません。なぜ、こんな疑問を持つのかと言いますと、「成仏」しているとは、思えないからです。

「成仏」というのは、「仏に成る」と書きます。この場合の「仏」とは、当然、「仏陀」のことですね。つまり、「成仏」とは、「仏陀に成る」と言うことです。
仏陀に成る、ということは、完全なる覚りを開くことです。これは、ちょっと無理な話です。今まで、何度も言ってきましたが、我々が、完全なる覚りを開いて、仏陀となることはできません。それに近い存在になることは、可能かもしれませんが、仏陀には成れないのです。つまり、成仏はできないんです。そう、私たちは、仏陀にはなれません。

では、亡くなった者たち、霊的存在、魂しいは、成仏できるのでしょうか。
これも、実はちょっと無理なようです。余程古い先祖の中には、仏陀に限りなく近付いている霊もあるかもしれませんが、新しく亡くなった方や、ここ数十年の間の先祖では、なかなか成仏などと言うのは、程遠いものがあります。
そう簡単には、仏陀には成れないのですよ。いくら霊であってもね。

ということは、お葬式などに、「故人は成仏されました」というのは、ウソなのでしょうか。
これは、もちろん、悪気があってのウソではありません。習慣として、亡くなられたことを「成仏しました」というだけで、深い意味はないのです。深い意味で、「成仏しました」と言っているわけではないのです。
しかし、霊能者のような方が、お祓いなどをして、「もう悪霊は成仏しました」というのは、間違った使いかたですね。そう簡単に悪霊が成仏する−仏陀に成る−わけがないでしょう。また、TVで、問題のある霊の供養などをして、「これで成仏しました」というのも、間違った使い方です。
少なくとも、お祓いをしたり、供養したりする方であるならば、そのあたりの使い分けはしてもらいたいものですね。

それにしても、なぜ、成仏できないのでしょうか。
成仏−つまり、仏陀に成る、ということは、大変難しいことです。仏陀に成るということは、すべての欲望を超越しなければなりません。今まで、何回となくお話したと思います。これは、霊においても同じです。
霊的存在になっても、その霊は、思いを持っています。子孫の繁栄を願ったり、よりよい世界へと生まれ変わりたいと願ったり、生きている時にやり残したことなどへの未練を持ったりもします。そういう思いを持っていては、とてもじゃないですが、仏陀にはなれません。成仏どころじゃないですね。

しかし、成仏できないからと言って、先祖を放っておいてはいけませんよね。放っておくと、子孫に様々な問題を起こす元となってしまいます。
ですから、供養をして、少しでも仏陀・・・仏の世界・・・に近づけるようにするのです。もちろん、一度や二度供養をしたからといって、仏の世界へいけるわけでも、近づけるわけでもないですね。先祖を仏の世界に近づけるくらいまでにするには、長年の供養が必要となるでしょう。
毎月、毎月の供養を長年し続ける。故人の年忌を五十回忌までやり遂げ(少なくとも37回忌まで)、そして、その故人が先祖の仲間に入り、それ以後は、その家の先祖代々として供養されつづけていく・・・・・。
このように供養が続けられていく過程の中で、先祖の霊は徐々に仏の世界へ近付いていくのです。
こうして、成仏していくんですね。成仏するには、時間と供養が必要なのです。

ちょっとまってください、では、真言宗で言うところの、「即身成仏」はどうなるのでしょうか?
と思った方、あなたは、結構仏教の通ですね。なかなか鋭い見識を持っています。まあ、それはいいのですが、「我々は成仏できない」ならば、「即身成仏」はどうなってしまうのでしょうか。あれは、うそなのでしょうか・・・・。

「即身成仏」とは、「この身このまま、生きたまま仏と成る」ことです。これは、正式な密教を日本に伝えた弘法大師空海が、説いたものです。ですから、ウソではありません。
お大師さんが、密教を伝えた当時の僧侶は、「いくら修行しても、この世で仏陀にはなれない。覚りなど得られない。」と悟って(?)、堕落していました。そこへ、お大師さんが密教を伝え、即身成仏できるんだ、ということを発表します。実際に、お大師さんは、他宗の僧侶の目の前で、大日如来となった・・・・と伝えられています。
そうです。実は、即身成仏できるんです。が・・・・・。一般の方では、仏陀になるのは、やはり無理でしょう。
じゃあ、出家者は?。
今の出家者では無理でしょうね。私も含めて、今の僧侶では、即身成仏なんて、やはり程遠いでしょうね。

しかし、成仏の意味を広義に考えてみてください。
例えば、先祖にしても、仏の世界には、なかなか行けないけど、そこへ近づくことはできる、と先程いいましたよね。時間と供養をかければ、徐々に、仏の世界へと近付いていく、と。仏の世界に近付くと言うことは、その前に、天部も通過していく、と言うことです。つまり天界、神々の世界をも越えていく、と言うことですね。神以上の霊格になるということです。
そう、たとえ、成仏しなくても、神以上の存在には成れるのです。先祖の霊も、仏の世界に向う過程において、神以上の存在にもなっていくのですよ。

それと同じで、即身成仏も、何も仏に成る必要はないのです。仏のように成ればいいのです。仏に近付けばいいのです。それならば、できそうでしょ。仏や菩薩のような、そんな人間にならば、努力すれば、成れるのではないでしょうか。なにも、仏や菩薩、そのものにならなくてもいいのです。「のような存在」に成ればいいのです。

もっと、「成仏」のハードルを低くしてみましょう。
仏陀とは、心に不安のない方です。どんな状況にあっても、何の不安も持たないで、いつも心が安定しています。そういう心、そういう気持ちを持つことは、我々でも可能でしょう。
そう、即身成仏とは、「この世で、心の安定を得ること」でもあるのです。何も、この世で仏陀になる必要はありません。何の不安も無い、或いは、いつも心に余裕があり、安定している、そういう状態になればいいのです。
もっと、簡単に言えば、「この世で幸せをつかめばいい」のです。まあ、それがなかなか難しいのですけどね。でも、できないことではありませんよね。
これが、一般の人々にとっての即身成仏なのです。(出家者は、もっと修行しないといけませんねぇ・・・。反省です。)

「成仏」とは、「仏陀になること」ですが、何も「仏陀」になる必要はないのです。先祖においては、それに近付くよう、時間をかけて、しっかり供養してあげればいいのです。
ただ、「成仏しました」という言葉を使う時は、注意したいですね。「成仏」したのではなく、「落ち着いた、行くべきところへ行った。」というほうが、正しいでしょう。
「成仏」・・・遠いようで近い、近いようで遠い・・・ようですねぇ・・・。合掌。


第24回 相性と縁「相性と縁は異なるものである」
相性というのは、確かにありますよね。これは、男女の間だけではなく、同性の間でも感じられることです。どうもアイツとは合わない、なぜか気があってしまう・・・・。そういうことって異性間や同性間をとわず、感じられるものです。
でも、特に気になるのは、やはり異性間の相性ですよね。どうせ、お付き合いするならば、相性がいい方がいいに決まってます。好き好んで、相性の悪い方と付き合いたい、と思うへそ曲がりな方は、いないでしょう。
確かに、相性がいいもの同士は、付き合っていても楽しいものです。気が合いますからね。しかし、いくら相性がよくても、いくら気が合うといっても、結婚できるかどうかは別問題なのです。

相性と結婚は、実は別物です。いくら相性がよくても、結婚できるかどうかは別なのです。それは、「縁」が絡んでくるからです。ただ、相性がいいからと言っても、縁がなければ、結婚できることはないのです。また、逆に相性が悪いからと言って、結婚しないかというと、そういうことも無いのですよ。結婚するかどうかは、二人の間に縁がどの程度あるかどうかで決まってくるものなのです。

相性と言うのは、各種占い等で簡単にわかりますよね。私のところにも、相性がいいかどうか尋ねてくるメールがよくやってきます。これは、異性間だけでなく、社員として雇うのに相性がいいかどうかとか、社内での相性とか、様々です。異性間にしても同性にしても、人間関係は、相性がいい方がいいですからね。相性がいいかどうか、聞きたくなるのも当然でしょう。殊に、異性間の場合は、深刻ですよね。
で、生年月日や名前でその方たちの相性を見てみます。占術で相性は出てきます。いい相性・悪い相性などなど・・・。しかし、私は、「これはあくまでも相性であって、縁ではありません」と書き添えておきます。
そうなんです。いくら相性がよくても、結婚できるかどうかはわからないんですよ、占いではね。相性がいいからできれば結婚したほうがいいとか、この相手は相性が悪いからやめたほうがいい、とは言えますけどね。

だけど、そんなことを言っても縁がなきゃどうしようもありません。また、逆に相性が悪くても縁があれば、避けられない場合もあります。
例えば、あなたがいくらアイドルと相性がいい、と言われても知り合うきっかけがないでしょう。「キムタクと、とぉーっても相性がいいですよ、だから一緒になりなさい」と言われても、そりゃ無理な話ですよね。まあ、これは極端な話ですけどね。
でも、例えば、名前も生年月日も知っている友人なんだけど、この人と付き合えるでしょうか、という質問の場合−これはよくありそうな話ですよね−、いくら相性がよくても、その二人の間が友人止まりの縁ならば、これはどうしようもないですよね。この「縁」については、占いでは出てこない部分なのです。

一口に「縁」といってもいろいろあります。とってもいい縁や悪い縁、腐れ縁、すれ違いの縁など、様々です。大まかに、どんな縁があるかあげておきましょう。

*良縁
これは、まさしく良縁です。とってもいい縁、です。相性は関係なく、いい縁、です。相性がよかろうが悪かろうが、この「良縁」の前では全く意味なし、ですね。まあ、この場合、相性が悪いってことは、あまりないですけどね。いい結婚生活を送りたい、と望む方は、この良縁を早く見つけることが大切ですね。

*良縁だけどすれ違い縁
これは、確かにいい縁なんですが、どうもいつもすれ違いが多い、という縁です。例えば、結婚したのはいいけど、仕事の関係上、生活の時間帯が合わないとか、単身赴任が多いとか、そのようなすれ違いが多い縁です。この縁の場合、無理やりに一緒にいようとすると、ついケンカが生じたり、かえって窮屈を感じてしまう場合が多いようですね。すれ違いがあって、お互い気楽にいられる、という縁です。
ただし、この縁の場合、他に良縁かもしくは悪縁が現れてしまうと、別れの危機が訪れやすいので、十分注意が必要ですね。
付き合っている頃、お互いにすれ違いが多いな、相性はいいのに、一緒にいると楽しいのに、なかなか二人で合う時間を取るのは難しいな、と感じたら、この縁かも知れませんねェ。

*悪縁
これは避けたほうがいい縁です。避けたくても避けられない場合もありますので、注意が必要です。この悪縁で一緒になってしまうと、これは辛いです。別れたくても別れられない、或いは、別れるのにものすごく時間と費用を使ってしまうということがあります。(基本的に、別れるのは難しいですけどね)。できれば、結婚をする前ならば、こういう悪縁は、切っておいた方がいいですね。で、その上で、良縁を探しましょう。でないと、ずるずると悪縁に引っ張られて、泥沼へ・・・・という、最悪な状態にもなりかねませんからね。

*腐れ縁
まさしく腐れ縁です。切れそうで切れない、縁がなさそうである、切れたかなと思っても、またやってくる・・・・・。いつまでたっても、ハッキリしないんですよ、こういう縁は。放っておけば、本当に腐れ縁で、付き合うでもない、別れるでもない、でも関係を持ったりもする・・・・・。いったいどうなってるの?、と聞きたいくらいの、ハッキリしない縁です。その中でも、縁の強弱がありますから、注意が必要です。
この腐れ縁は、上手に運べば、いい結果を招くことがありますので、腐れ縁と言っても、がっくりする必要はありません。付き合い方に注意すればいいのですからね。
また、この場合、相性がモノを言います。腐れ縁だけど相性がいいからがんばりましょう、という場合と、腐れ縁だし相性も悪いからやめておいたほうがいいよ、という場合があります。そのあたり、微妙な縁ですね。

*無縁
これは、縁がない、という場合です。いくら相性がよくても、他の占い師さんにいい相性、といわれても、縁がなきゃ仕方がないですね。あなたがどんなに想い続けていても、縁がないものはどうしようもありません。こういう場合は、さっさとあきらめてよい縁を探したほうが幸せでしょう。
無縁の中には、まったく知り合わない究極の無縁から、知り合うけど仲良くはならない、付き合うけど結婚までは行かない、結婚はしたけどすぐに別れてしまった・・・・など、種類がいろいろあります。

この他にもいろいろ縁はありますが(こまかく分ければ)、基本的にはこのような縁でしょう。
縁は、相性とは別のものです。それは、前世から繋がっているものです。前世で友人だった、前世でも夫婦だった、前世で親子だった、兄弟姉妹だった・・・・などなど。前世での縁の深さがこの世にも反映しているんですね。だから、その縁を無視して、無理やりに結婚しようと思っても、うまく行かないのは当たり前なんです。

ただし、折角の良縁でも、それを受け入れなければ何ともなりません。「これはいい縁ですよ。幸せになれますよ。」といっても、「こんな人いやだ」と言われれば、どうしようもないですからね。また、悪い縁ならば、自ら切ろうとしなければ、切れません。「この人はやめておいたほうがいい、一生苦労するよ。」と言っても「この人が絶対いいんです。」と言われれば、何とも仕方がありません。
でもね、こういうことをしていると、本当に良縁を逃がしてしまい、婚期も逃がしてしまうんですよねぇ。相性がよくて、良縁であるならば、ちょっと付き合ってみてもいいんじゃないかな、と思いますねぇ。まあ、趣味の問題があるから、無理強いはできませんけどね。

ちなみに、こうした「縁」は、同性の中にでもあります。同性であっても、知り合ったり、仲良くなったり、共同で事業をはじめたり、部下にしたり、同僚であったり、そういう間柄の中には、良縁もあれば、悪縁もあるし、腐れ縁もあります。ですから、長続きする間柄や、使いやすい部下や、うまく行かない共同事業ということが起こるわけですね。
また、仕事にも「縁」があります。その人に縁のある仕事、つまり、あっている仕事ならば、何かとうまくいきやすいんです。ところが縁のない仕事、あわない仕事だと、どうしてもうまく運ばない。すぐに止めたり、失敗したり・・・。いい縁の仕事につくことが肝心ですよね。

「縁」は、不思議なものです。縁がなければ、知り合うことも無いし、深く付き合うことも無い。たとえば、このHPを見るも見ないも縁ですからね。縁がなければ、たとえこのHPの存在を知っていても見ることはないでしょう。或いは、見てもなーんとも思わない、とかね。
お釈迦様が覚りを開いてすぐの時、ある人に教えを説くのですが、その人は「そんなこともあるかな」と言いつつ、立ち去ってしまいました。その時、お釈迦様は、「縁無き衆生は度し難し(縁のない衆生は救いにくい)」と歎きます。
お釈迦様ですら、縁のないものは救いようがなかったのです。

縁・・・・縁があるのか、良縁なのか、悪縁なのか・・・・。いずれにせよ、悪縁、と言われたのなら、やはり避けたほうがいいでしょう。また、良縁を願う気持ちは持った方がいいと思います。
まだ、見ぬ良縁の相手を求めて・・・・・ね。合掌。


第25回 仏壇「仏壇の意味とは?」
あなたの家には、お仏壇はあるでしょうか。昔の家庭には、たいてい仏壇があったと思いますが、最近では、核家族化が進んでいますから、仏壇のない家庭も増えていると思います。
「うちでは、誰も亡くなっていないから・・・・。」
というのが、仏壇のない理由でしょう。そうですね、普通、その家でどなたかが亡くなったら、仏壇を購入します。どなたも亡くなっていない場合、仏壇は必要ないでしょうから。たいていは、親のところ、実家、ふるさとの家に仏壇があることでしょう。結婚して家庭をもっても、親と同居しない場合は、仏壇とは無縁のものですね。法事などで実家に戻った時くらいでしょうか。仏壇と出会うのは・・・・。
しかし、すでにご家庭で、不幸にも亡くなった方があった場合、仏壇はあることでしょう。その中には、ご本尊のほかに、亡くなった方の位牌もあることと思います。

ところで、仏壇にはどんな意味があるのか、ご存知でしょうか。何ゆえ仏壇を安置するのか・・・・。
仏壇の歴史は以外に古く、すでに「日本書紀」に「仏壇」という言葉がでてきます。と言いましても、当時の仏壇は、現在のそれとは意味合いも、形も違っていたようです。
そもそも仏壇とは、その家の「守り本尊」として、家の中で祀られたのが始まりです。いにしえの人々は、災難除けや病気にならないよう、或いは、病気が治るように、お寺にお祈りに行きました。(現在でも、行きますが・・・・。)。一部の有力な貴族などは、自分の家の繁栄、権力の維持のためにお寺を建立したりしました。藤原一族などは、顕著な例ですよね。(ちなみに、そういうお寺を氏寺−うじでら−といいます。)
しかし、そんな大金持ちの貴族などは、ほんの一部です。ほとんどの貴族は、寺を建立したくともできない状態でした。

ならば、自宅に仏様を祀ればいい・・・・・。
そう考えたのでしょうね。寺を建立できない多くの貴族達は、自宅の一室に仏様を安置するようになったのです。その仏様は、多くは厨子に入れて、一段高いところへ安置されました。お寺のように、ローソク立てや線香立て、花立も置きました。お経を読めるように、机も置きました。
こうして、自宅の一室が小さなお寺のようになったのです。そこで、貴族達は、我が家の繁栄を願い、無病息災を願い、心願成就を願ったのです。
実は、これが仏壇の始まりなのです。初めは、我が家の繁栄を願うため、無病息災や願い事を祈願するための、その家の守り本尊だったのです。これを「自仏(じぶつ)」と言います。そして、その自仏が安置していある部屋を「自仏間(じぶつま)」と言います。

ところが、そのうちに、自分の家が繁栄するためには先祖を敬わねばならない、先祖を大事にしなければならない、と言われるようになりました。確かに、先祖の供養をしっかりやっている家庭は、繁栄していくのは間違いのないことです。氏寺を持っている貴族達は、自分の寺で、毎月、先祖の供養の法要を営むようになっていたのです。多くの坊さんを呼んで・・・・。それを行っている藤原一族は、確かにどんどん繁栄していきました。(いずれ没落するのですが、それは別の理由からです。しかし、藤原一族は、現在にまでその血筋を残しています。)

ならば、我々も・・・・・。そう考えたのは至極当然ですよね。で、自宅の自仏間に僧侶を招き、その家の先祖の供養のため、お経を読んでもらうようになったのです。藤原一族が氏寺で行うように、大勢の坊さんは呼べませんが、その権力の具合によって、坊さんの数も五人だったり、三人だったり、一人だったりしたわけですね。そして、お寺での法要と同じように、先祖の位牌を置いて、供養をするようになったのです。それは、毎月一回、必ず行われるようになったのです。
このようにして、初めは、祈願のための守り本尊だったのが、その家の先祖を供養するための本尊へと変化していったのです。現在の仏壇の基礎が出来上がってきたわけです。

やがて、その習慣は、有力な商家に広まり、一般の人々の間にも広がっていきました。尤も、金持ちの商家は別として、一般の人々には、厨子入りの、立派な仏像を安置することも、大きな仏像を持つことも、仏間を持つこともできません。
そこで、現在に見られる仏壇形式が考案されたのです。つまり、仏間を一つにまとめてしまおう・・・・というわけですね。大きな本尊はいらない、位牌も小さくてよい、線香立ても、ローソク立ても、花立も、みーんな小さくて構わない・・・・。こうして、出来上がったのが、現在の仏壇なのです。

ですから、仏壇とは、簡単に言えば、ミニお寺ですね。その家専用のお寺なんです。ミニサイズのね。初めは、氏寺を真似たものからスタートして、庶民に行き渡るにしたがって、どんどんミニサイズへ変化していったのです。

お寺というのは、仏界を表しております。仏様の世界の再現が、お寺です。かつて、藤原一族は、死後極楽へいけるようにと願い、氏寺をいくつも建立しました。そして、その寺で先祖の供養を幾度となく行いました。しかし、その法要は、「悪いことをしているのに、その罪を消して極楽へ行くことを願う」という、明らかに身勝手なものでした。だから、やがて没落していくのですが、それでも、先祖の供養をしただけのことはあります。お寺を建立しただけの功徳はあります。現在でも藤原家は、多くの傍系を残して、その血脈を保っていますからね。

話がそれましたが、氏寺を持てない人々は、仏壇に向って、先祖の供養と自分の死後の極楽行きを祈ったのですよ。少し余裕のある人々は、お坊さんを呼んで、先祖に力をつけてもらい、自分の死後、極楽へいけるように、迎えに来てもらうために祈ったのです。少しでも、仏界に近付きたい、極楽へ行きたいと思って、人々は我が家に仏壇を置いたのです。家庭に仏様の世界を再現したかったのでしょうね。
こうして、仏壇を安置する習慣が定着していき、現在のように、「先祖を祀るための仏壇」と言う意味合いが強くなっていったのです。

習慣になってしまった以上、やはり自分が死んだのなら、仏壇で祀られるようになるんだな、という意識は残ります。また、遺族の側も、仏壇を通して、亡くなった方たちと接触できるのではないか、仏壇に向って話し掛ければ、通じるのではないか、と意識するようになります。そういう意識が、日本人には根付いているのです。遺伝子が、古くからの習慣を伝えているんですね。
ですから、現代社会においても、なぜか仏壇の前に座ると、なんとなく落ち着くのでしょう。身が引き締まるのでしょう。そうじゃないでしょうか。お寺に行くと、気分が落ち着くのと同じようなものです。仏壇の置いてある部屋は、空気が少し違うような、そんな感じ、しませんか?。

亡くなった方がある家庭は、ついつい仏壇に話し掛けていませんか。それはね、すごくいいことです。仏壇は、先祖と我々生きている子孫をつなぐ、通信機のようなものでもあるのですから。
「お父さん、元気にしてる?。私は元気よ!」とか、「あなた、うちの子ったらね・・・・」とか、
「お前がいなくなって、寂しい思いをしているが、何とかやっているよ・・・・」などと、話し掛けていませんか。
仏壇は、そういうものだから、それでいいのです。きっと、あなたたちの声は、ご先祖に届いていることでしょう。
が、しかし、願い事はしないほうがいいです。ご先祖に願うのは、ちょっとお門違いなのです。日々の報告はいいのですが、願い事は別です。一番いいのは、感謝の言葉を述べることですね。
「ご先祖のおかげで、今日もみんな元気です。」というような・・・・ね。或いは、
「こっちのみんなは、しっかりやっているから、安心して仏様のもとで修行して下さい」
とかね。こういう言葉が、いいですね。もちろん、お経を読める方は、読んでください。

現在では、仏壇は、先祖の安置場所になっています。いわば、ご先祖の住まい、ですね。ですから、願い事を言うのは、相手が異なります。願い事は、先祖にお願いするのではなくて、仏様、菩薩様、明王、神様に行うものです。願い事をするのなら、お寺や神社に行きましょう。仏壇は、あくまでも先祖の住まいなのですから。

ところで、お仏壇の中には、御本尊様が入っていると思います。否、御本尊様がいらっしゃるはずです。いなきゃおかしい。いらっしゃらない場合は、早速、あなたの家の宗派に合わせて御本尊様を安置してください。 たまに、ご家庭のお仏壇を拝見いたしますと、中味がからっぽ、という場合があります。或いは、本尊様だけで、その両脇が留守、という場合があります。これはいけません。中央にご本尊があって、その両脇にも仏様やその宗派の開祖様を祀らなければいけません。お宅の仏壇、大丈夫ですか?。

ところで、仏壇の御本尊様は、宗派によって異なりますので、ご注意くださいね。自分の家の宗派がわからない時は、ご親戚の方などに聞いてみてください。それでもわからない時や、宗派を変えたい、と思う方は、ご自分にあった宗派を選べばいいかと思います。ただし、新興宗教は避けたほうがいいですよ。これはね、やめたほうがいいです。昔からある宗派にしたほうが無難でしょう。
一応、主だった宗派の仏壇の祀り方を書いておきますね。参考にして下さい。なお、宗派内の派によっても多少異なることがありますので、ご注意ください。また、本尊様は、仏像でなくても掛軸でも構いません。両脇の仏様や開祖様は掛軸がいいでしょう。

*真言宗・・・中央−大日如来または観音、 左−不動明王、  右−弘法大師
*臨済宗・・・中央−釈迦如来または観音、 左−派の開祖(大燈、夢窓、栄西など)、 
        右−達磨大師
*曹洞宗・・・中央−釈迦如来または観音、 左−道元、 右−達磨大師
*日蓮宗・・・中央−奥に曼荼羅、その前に日蓮聖人像、左−大黒天、 右−鬼子母神
*天台宗・・・中央−阿弥陀如来または釈迦如来、 左−伝教大師、 右−天台大師
*真宗本願寺派・・・中央−阿弥陀如来、 左−蓮如上人、 右−親鸞聖人
*真宗大谷派・・・中央−阿弥陀如来、 左−南無不可思議光如来、 
           右−帰命尽十方無碍光如来
*浄土宗・・・中央−阿弥陀如来、 左−法然上人、 右−善導大師

と、まあ、こんな感じです。なお、仏壇を祀る時の注意点として、これだけは守ってください。それは、
「一つの仏壇に一つの家」
ということです。たまに、本当にたまに、ですが、一つの仏壇の中に、その家の先祖の位牌と、奥さんの実家の位牌とが混ざって置いてある仏壇があります。これは、いけません。家が異なる位牌などを一緒に置かないで下さい。
先ほども書きましたように、仏壇は、ご先祖の住まいのようなものです。たとえば、あなたの家に親戚ではあっても、別の一家が移り住んできたらどう思いますか?。
初めのうちはいいでしょう。いろいろ事情があって、不憫でしょうし。しかし、いつまでもそのまま、というわけにはいかないでしょ。家だって、決して広くはないのだし。プライバシーもありましょう。それと同じように、仏壇でも、いくら親しい間柄であっても、他家の位牌などを混ぜてはいけないのです。

たとえば、鈴木さん同士で結婚したとします。苗字は同じ鈴木。お互いに一人っ子だったとします。やがて、両家の親がなくなりまして、仏壇が必要になりました。そこで、同じ鈴木だから、一緒に祀ればいいだろう・・・・、となったのです。しかし、これはいけません。いくら同じ鈴木であっても、先祖が異なれば、それは他家です。ですから、当然分けなければいけません。同じ苗字であっても、他家のものが同居したりはしないでしょう。

いろんな家の位牌を並べてもいいのは、お寺だけなんですよ。それは、お寺が公共のものだからです。誰のものでもない、みんなのものだからなのです。檀家ならば誰でも、或いは、どなたでも自由にお参りできるのがお寺だからです。だから、お寺は、いろんな家の位牌を預ってもいいのですよ。

もし、あなたが一人っ子で、将来だれも先祖の供養をしてくれない、という場合、あるいは、お子さんがいなくて、将来だれも供養をしてくれない、という場合、そういう場合は、お寺に任せましょう。
永代供養をお寺に頼んでいけばいいのです。位牌も預ってもらえばいいのですよ。お寺は、そういうところなのですから。

また、亡くなった方がなくても、手を合わせる対象が欲しいので、仏壇をおきたい、という方は、置いても構いませんが、お参りの仕方を間違えないようにしてくださいね。先ほども書きましたように、願い事はやめましょう。
手を合わす対象として、自分の守り本尊を祀りたい、と思うのならば、これも構いませんが−−手を合わすことはいいことですから−−、大きな仏像を祀るのは避けましょう。小さめの家庭用の仏像が仏壇屋さんにありますので、その程度の大きさにしてください。大きいのは、お寺用です。お守りが大変ですので、大きな仏像は避けたほうがいいですね。
なお、仏壇を新たに安置する場合も、手を合わす対象として、守り本尊を祀る時も、お坊さんに開眼をしてもらってください。つまり、魂を入れるわけです。「仏造って魂入れず」では、何にもなりませんからね。かならず、開眼をしてもらってください。

お仏壇は、亡くなったご先祖様の安寧の場所、住まいのようなものです。ですから、粗末にしてはいけません。きれいに掃除して、お供え物を置いて、お水やお茶、ご飯などをお供えして、手を合わせましょう。できれば、月一回、お坊さんに来てもらい、お経をあげてもらうといいでしょう。(それができない方は、お寺に行って、先祖のためにお経をあげてもらうといいですね。)
ある新興宗教の中には、仏壇を捨ててしまえ、などというところもあるようです。それは、いけませんね。あなただって、今住んでいるところを追い出されたら、困ってしまうでしょ。新しい家を用意しているから、と言われても、事情もわからずいきなり引越しは納得いきませんよね。先祖も同じようなものです。

あなたの家に仏壇があるのなら、それは先祖とつながる場所でもあります。大事にしてくださいね。合掌。




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