バックナンバー4、第26回〜第30回(最終回)


第26回 お札とお守り「気休めなんかじゃないのだ」
新年を迎えると、新しいお札やお守りを頂いてくることがありますよね。あるいは、お祓いなどをしてお札をはったり、悪い方位を除けるためのお札をはったりしてある家庭もありますよね。
また、お守りも、新年ごとに新しいのを身につけたりします。あるいは、一代守りといって、死ぬまで持っていていい、というお守りを持っている方もいると思います。
しかし、そうしたお札やお守りというのは、そもそも、いったいどういうものなのでしょうか。

私は、まだ坊さんになる前、宗教的なことが大嫌いでしたので、当然、お守りも御札も持ちませんでした。そんなの持っても意味無い、と思っていましたので。御札は単なる紙、お守りは気休め、そんな印象しかありませんでした。ですから、年末やお正月などにニュースで見る、縁起物を買う商売人の皆さんの姿が、変に思えたものです。あんなの買って、本当に商売繁盛するのか?。買うだけ損じゃないのか・・・・と。
ところが、実際は損じゃないんですね。無意味でもなかったんです。御札やお守りって、ちゃんと意味があるし、役割もあるし、しっかり働いているのです。

御札やお守りは、御仏や菩薩、神様などの力を紙や板に入れ込んで、それを持っていたり、家に張ったりすることで、災いから逃れるためにあるものです。そういう御札やお守りを、魔が嫌うんですね。御札があると、厄が避けるんです。
ですから、御札もお守りも、単なる紙切れや板などではありません。その祈願にあわせて、お坊さんや神主さんが、よぉーっく祈願し、御仏や菩薩、神様の力をその御札やお守りに入れ込んでいるのです。それが、御札やお守りなんです。ですから、どんな御札やお守りであれ、それには御仏や菩薩、神様の力が込められているのです。御札やお守りを用意するお寺や神社は、そうやってしっかり祈願しているんですよ。
ですから、決して疎かにしないように、大事にしてくださいね。
ただし、大事にして、しまっておいてはいけませんよ。御札はちゃんとしかるべきところに張って、お守りはちゃんと身につけて、或いは、いつも持っているようにしてください。そうじゃないと、本当に意味をなさないものになってしまいます。折角の御札やお守りなんです。ちゃんと、働けるようにしてあげないとね。

実際に、こういう例があります。(こういう例は、よくあることです)。
「身代わり大師」という薄い板のお守りがあります。身代わり大師の「大師」とは、もちろん、弘法大師のことです。高野山や高野山真言宗の寺院には、たいてい置いてあるお守りです。(うちの寺もあります)。その「身代わり大師」というお守りは、怪我や病気などをそのお守りを持っている人の代わりに、お大師さんが引き受けてくれる、というお守りです。
その身代わり大師、実際に身代わりになってくれるんです。

ある大工さんがいました。その方は、大師信仰の篤い方でした。いつも、身代わり大師を腰にぶら下げていました。ある日、その大工さん、ちょっと風邪気味で仕事をしていたためか、屋根の上でめまいを起してしまったのです。あっ、という間もなく、その大工さん、屋根から滑り落ちてしまいました。
ところが、幸いにも怪我一つなく、起き上がったのです。すぐさま、病院に行きましたが、どこも怪我をしていない。かすり傷すらありませんでした。
皆さん、もうお気付きでしょう。そう、お守りの身代わり大師です。板でできていた身代わり大師が、真っ二つに割れていたのです。それは、見事な割れかたでした。身代わり大師が、その大工さんの身代わりになってくれたのです。

身代わり大師とは、こういうお守りなのです。こうした例は、よく聞きます。交通事故にあっても怪我がなかったとか、階段から落ちても無事だったとか、雪で滑って転んでも平気だったとか・・・・。たいてい、そういう時、身代わり大師は、きれいに割れています。これが、身代わり大師守りの役目なんですね。
もし、その時、お守りを持っていなかったら・・・・・。こういう経験をされた方は、そう思うと、ぞっとするでしょう。ですから、お守りは、机やタンスの引出しの中にしまっておくのではなく、身につけていて欲しいものなのです。

ところで、皆さんは、御札やお守りをいつ手に入れますか?。多くの方は、お正月に初詣に行ったときなどに、買ってきたりするのではないでしょうか。或いは、厄除けの御札とかお守りならば、節分に頂いてくるのではないでしょうか。
で、その御札には、「無病息災」とか「家内安全」とか、書いてありませんか?。或いは、ご商売をされている方なら、「商売繁盛」の御札を購入しているかも知れませんね。
お守りには、「身代わり守り」とか「厄除け守り」、「交通安全」とか、書いてありませんか?。外側に、そう書いてないでしょうか。中味は開けない方がいいですよ。仏様や神様が入っていますからね。

御札やお守りには、様々な種類があります。一生張っておいてもいい御札や、一年で取り替える御札、特殊な御札などいろいろです。お守りももちろんそうですね。身代わり守りや交通安全、開運厄除、学業成就など、これもいろいろあります。

一年ものの御札には、お正月に頂いたものや、その年の厄除けの御札などがあります。たとえば、お正月に神社やお寺で購入してくる御札は、その御札が「家内安全」であれ、「無病息災」であれ、「商売繁盛」であれ、その御札の内容がどうであれ、その年の祈願を込めた御札ですから、有効期限は一年となるのです。
つまり、その年が「家内安全」に過ごせるように、「無病息災」であるように、「商売繁盛」であるようになどと、祈願した御札なのです。その年のみ、そういう効果があるように、御仏の力を御札に入れ込んだものなのです。ですから、有効期限が一年なんですね。
また、節分の厄除けや星祭りの御札も有効期限が1年です。これは、その年の厄を祓うための御札だからです。年が変われば、厄も変わりますので、前年の御札を張っておいても意味がありません。
こういう御札は、何年も張っておいてはいけないんです。一年でちゃんと入れ替えないとね。

お守りもそうですね。お正月に買ったりするお守りは、一年ものです。その年の1年間の安全を守るお守りなんです。ですから、ちゃんと一年で交換してください。古いお守りをいつまで持っていても、それはよろしくないことです。

それとは、異なる御札やお守りもあります。特別製の御札やお守りですね。いわゆる霊符とか、秘符といわれる特殊なお守りや御札ですね。そういう御札やお守りには、祈願の内容によって、期限付きのもや、無期限のものがあります。霊符を作る側も、それをよく考慮に入れて祈願しています。

たとえば、恋愛成就のお守りや御札は、期限付きです。その祈願である恋愛が成就すれば、不要になるものです。また、試験合格の御札やお守りもそうですね。有効期限付きですね。その試験が合格か不合格かに関わらず、試験が終わったら、役目も終りです。もし、不合格で、次の年に試験を受ける、という方は、あらためてお守りや御札を受けてくるといいですね。
まあ、尤も、試験に落ちてしまった時のお守りなんて、縁起が悪いから、持ち越す人はいないでしょうけどね。
こういったお守りや御札は、期限があるものです。
その他に、旅行安全のお守りとか、依頼事が成就するお守りとか、縁切りの御札とか・・・・。様々な種類がありますね。

これとは違って、期限のない御札やお守りもあります。
たとえば、悪い家相の災いを除けるための御札。これは、その家に住んでいる限り、有効です。交換する必要はありません。また、お祓いをした後で張っておくような、怨霊除けの御札も無期限です。ただし、お祓いが必要ではありますが。お祓いしていない場合は、できれば、1年で交換したいものですね。
そのほかにも、夫婦が一生円満ですごせることができるような御札とかがあります。こいうものは、一生涯有効な御札ですね。

このように、御札やお守りも種類によって、様々です。よく注意してください。折角の一生ものの御札を納めてしまう方もあります。とてももったいないことですね。
また、ご利益がたくさんあるから・・・・などと言って、お守りや御札をいっぱい持っている方がたまにありますが、これはよくないですね。できれば、御札もお守りも一箇所の神社やお寺に絞っておきたいものです。あちこちの神社のお守りをいくつも持っていても、ご利益が増える、ということはありません。むしろ、返ってよくないですね。神様の方でも、お互いに、「お前が守ってやれば」などと、責任を押し付けあいそうですからね。(冗談じゃないですよ)。
それよりも、一箇所の御札やお守りを大事にして、信心したほうが効果があります。たくさんお守りを持てばいい、と言うものじゃないんですよ。気をつけて下さいね。

ところで、一年の終わりには、古い御札やお守りは、それを頂いたお寺や神社に持っていて御札納めをしてください。そして、新年の御札やお守りを頂いてきてください。そうして、また、1年の無事を祈るのです。
また、特別な祈願がある方は、特別に御祈祷を受けるなりして、それにあった特別のお守りや御札を授かってください。家相の悪い方は、早めに災いを取り除く霊符を張ったほうがいいですしね。また、幽霊が出る、なんて方も、一度、よく観てもらったほうがいいですよ。御札で納まることもありますからね。

決して御札やお守りは、気休めなんかじゃありません。ちゃんと効果があるものです。しかし、だからと言って、全く頼り切ってしまってはいけません。たとえば、試験合格のお守りがあるからといって、勉強しなかったり(実際にそういう方がいたのですから驚きです。)、悪い家相除けの御札を張ってもらったから、悪いことをしても大丈夫だとか、恋愛成就のお守りを持っているから家で待っていれば王子様がやってくるとか、厄除けのお守りを持っているから泥棒しても捕まらないとか(いるんですよ、こういう泥棒が)、無病息災の祈祷を受けたからと言って、暴飲暴食したりとか・・・・・。

お守りや御札は、確かに効果があるものです。しかし、万能ではありません。それは、お守りを持っている方の行動や心によっても、効果が変わるものです。御札もそうです。それが張ってあるからといって、何をやってもいい、というわけではありません。本人の日頃の行動や努力、心構えにもよるのです。その点をどうか、お忘れなきように・・・・。合掌。



第27回 お布施「請求するものじゃないんですよ」
そもそも、お布施って何なのでしょうか。お布施の本来の意味は、文字のとおりなんです。つまり、「布を施すこと」なんです。
お釈迦様がいらした頃の出家者たちは、お金を持ったり、使ったりはしませんでした。お釈迦様に従って、その弟子になった者は、ものを買ったり売ったりすることは禁止されていたのです。出家者が個人で所持していいものは、「三衣一鉢(さんねいっぱち)」だけだったのです。
「三衣」とは、「下着、上着、袈裟」のことです。「一鉢」とは、托鉢の時に食事を入れてもらうための鉢です。当時の托鉢は、鉢の中に余りものの食事を入れてもらい、それが出家者の食事になりました。その托鉢は、午前中に行なわれます。で、食事も午前中に済ませました。午後からは、水分と果物を取ることだけ許されておりました。そういう生活だったのですよ。ですから、食料を買う必要がなかったのです。従って、お金も不要なわけです。

ところが、着るものだけは、布を手に入れないと困ってしまいます。衣は、いつかボロボロになってしまいます。あまりにもボロな格好をしていると、修行者と思われないでしょう。ですので、お釈迦様の教えを信じている人々は、出家者の為に布を寄付したのです。
これは、出家者一個人に寄付されるのではありません。仏教教団全体に寄付されるのです。寄付された布は、どなたに渡るかはわかりません。
たとえば、寄付される方が、
「この布は、ぜひシャーリープトラ様に使っていただきたい」
と願っても、それは聞き入れられないのです。個人への寄付は受け付けなかったのです。あくまでも、出家者全員への寄付だったのです。

仏教教団が受け取った寄付は、この他に、灯明やそれに使う油、お香です。また、食事のご招待もありました。ですが、最も多く寄付されたのが、布だったのです。ですから、「布を施す」ことから、「布施」という言葉が生まれたのです。

それがなぜ、お金になったのでしょうか。
現代では、否、日本では、仏教が伝わった当時から、もうすでに布を施すという習慣はなかったようです。大乗仏教が起こり、その頃には、托鉢で食事を得るという初期の仏教教団のような習慣はなくなり、現在のようなお寺形式の教団へと移行していきました。そういう大乗仏教以後の仏教が、日本には伝わっていますので、日本に仏教が伝わった時は、すでに托鉢により食事を得るのではなく、人々や国王などの寄付などにより、出家者は、生活するようになっていたのです。

こうして、お布施が「布の施し」から「金品の施し」へと変わっていったのですね。時代の変化とともに、お寺の維持の仕方も変わっていったのです。
これが、お布施の歴史なのです。


では、お布施は、いったいどのくらい出せばいいものなのでしょうか。これが、皆さん、最も気になるところじゃないかと思います。
たとえば、お葬式の場合、これは、お布施といわれても、大体決まっているところが多いようですね。その地域での「相場」のようなものがありますから。地域間格差も激しいようです。東京や大阪などの大都市圏では、高額なことを言われますが、地方はそうでもないようです。葬式は、地域によって大変異なる部分が多いので、葬式の場合は、葬儀屋さんか、お寺さんに聞くのが一番いいでしょう。聞くことは、決して失礼じゃありません。お寺さんも、葬儀屋さんも、その地域の相場を知っていますから、聞いたほうがいいのです。
尤も、お寺さんや葬儀屋さんから指示がある場合が多いですけどね。

葬式が終り、初七日も終りました。続いて、二七日・三七日・・・・・七七日と続きます。こういう場合のお布施はどうでしょう。たいていの場合、二七日〜六七日までは、そんなに高額ではないですね。お経もそんなに長くないですし。普通の月参り程度のお布施でいいでしょう。
と書くと、「だめだよー、うちの地域じゃ、七七日までは高額なんだから」というお寺さんもいますので、やはり、これは、お世話になっているお寺さんに聞くのが一番いいですね。
で、七七日ですが−いわゆる四十九日ですね−、これは、一種の法事と同じですので、他の七日ごとのお参りとは、異なります。何せ、四十九日で、とりあえず、生まれ変わる先が決まりますので、しっかりお勤めをしなければなりません。ですので、四十九日は、少々金額が上がります。
とはいえ、これも、地域によって差がありますので、やはり、お寺さんに聞くのが一番いいです。葬式関連は、通夜から四十九日まで、どのくらいのお布施が妥当なのか、通夜の時に葬儀屋さんに聞いておくのが一番いいと思います。葬儀屋さんは、よくご存知ですからね。
それに、お寺さんに直接聞きにくいことも、葬儀屋さんを通して聞いてくれるので、安心できますからね。わからないことは、素直に聞きましょう。


では、たとえば、うちのお寺のような、相談や供養、祈願の場合のお布施はどんなものでしょうか。
うちの場合、一応、目安として、だいたいこんなくらい、という金額がHPに載せてありますよね。ご覧になってない方は、見てみてください。しかし、それを見ても、「お布施です」というところもありますよね。その方が多いと言えるかも知れません。
さて、困ったぞ、お布施だってさぁー、どうしよう・・・・。
と、思われる方も多いのではないでしょうか。お布施なんて言ってないで、はっきり○○円と決めてくれ、と思われる方もいらっしゃることでしょう。でもね、やっぱり決められないんですよ。
決まっているものもありますよね。供養料とかね、決めてあります。けど、最近のこのご時世です。供養したくても供養料が・・・・という方もいらっしゃるでしょう。ですので、そういう方は、相談してくださればいい、と思ってます。ですから、本当は、全部金額を決めたくはないんですよ。お布施でいいんです。

そうじゃないと、本当にお金に困っている方は、相談もできないでしょ。お金がなければ救われないのか、となってしまいます。ただし、無料はダメです。メールのみならいざ知らず、予約を取って、対面で相談される場合は、無料では致しません。たとえどんな金額でもお布施は頂きます。それが、平等ですからね。でないと、けじめがつかなくなってしまいますからね。
ただ、金額は決められないです。お布施ですから。人それぞれ、お金の価値観も違いますから。

遊びに来るのは別ですよ。
「今日、和尚さんヒマ?。時間ありますか?。遊びにいっていいですか?」
と言って、仏教の話や、宗教の話、世間話をするために来られた場合は、ぜんぜん手ぶらで構いません。それは、相談でもなければ、供養でも無いし、祈願でも無いからです。遊びに来ただけなのですからね。お布施は不要ですね。余談ですが・・・・。

お布施というのは、お布施なんですよ。金額が決められないんです。それは、人それぞれのお金の価値観も違うし、自由になる所持金も違うし、どこから来られるか、と言うことも違うし、そもそも人格が違うので、決められないんですよ。
毎日サイフに十万円持っている人の千円と、サイフに数千円しか入ってない人の千円と、自ずとお金の価値観も異なるでしょ。また、生活がかかっている方と、余裕がある方と、お金の自由度が違うでしょ。
ですから、決められないんですよ。別に、私は、金額が多いからその人を優遇するとか、金額が少ないからその人を冷たくするとか、そんな差別はしませんしね。
お布施の多い少ないは、関係ないことなんですよ。私が頂くわけじゃないしね。お寺が頂くのですから。個人の収入じゃないですからね。あくまで、お寺の収入なんですよ。
ですから、お布施が多かろうと少なかろうと、そんなことはいいんです。人それぞれの価値観ですからね。

ただし、遊びに使うお金はあるのに、贅沢するお金はあるのに、供養や祈願や法事、相談に回すお金はない、というのでは、ちょっといけませんよね。遊びも、法事などのお布施も平等に考えてくれないとね。携帯や洋服や旅行には、何万円も使えるのに、供養には千円すら惜しい、というのは、これはいけないですよね。供養のことも、ファッションや趣味、遊びに使う場合と同等に扱って欲しいですね。

しかし、供養などにお金を使いたくない、という気持ちは、わからないでもないです。これは、ひとえにお坊さん側が悪いんじゃないなかな、と思ってます。お坊さんの中には、ひどい方もいますからね、正直なところ。
たまにね、こんな話を聞くんですよ。あるお寺さんに、法事を頼んで、お布施を出したら、
「何だ、これだけしかないのか」
と怒られたとか、お布施の相談をしたら、結構な額を言われ、その上、食事の仕出屋まで指定された、とか・・・。
これは、そのお坊さんが悪いんです。そんなことを言うお坊さんは、いけません。

たとえば、法事のお布施の金額ですが、これは、先ほども言いましたように、その地域でだいたい決まっています。ですから、それに準じて用意すればいいです。もし、わからなければ、お寺さんに聞けばいいです。あまりに高額でしたら、お寺でHPを持っているところがありますので、そういうところに聞いてみればいいでしょう。もちろん、うちでも構いませんが、できれば、同じ地域の方がいいかと思います。

また、食事の仕出屋や料理屋を指定してくるような坊さんなら、そんなお寺とは付きあわないほうがいいですね。それは、もう坊さんじゃないです。出家者じゃないですね。お寺屋ですね。そんな坊さん、ロクなもんじゃないですよ。


お布施には、「三種清浄」という条件がついています。三種とは、1お布施をする人、2お布施を受け取る人、3お布施そのもの、のことです。これらの三種のものが、清浄でなくてはならないのです。
1、お布施をする人が清浄とはどういうことでしょうか。
これは、お布施をする人の心が清浄である、ということです。つまり、出し惜しみをしていない、ということなのです。いやいやお布施をしていない、ということですね。しょうがないなぁー、とか、もったないけど・・・・などと思わないで、気持ちよくお布施している、ということです。
また、お布施によるご利益を期待しすぎない、ということも大事ですね。お布施したから、絶対ご利益がいっぱい来るだろう、などと思わないことです。
皆さん、初詣いかれましたか?。お賽銭投げていっぱいお願いしませんでしたか?。これ、本当はいけないんですよ。お賽銭は、一種のお布施ですよね。お布施は、何も考えず、ご利益も期待せず行なうものです。ご利益は、自然にやってくるものです。過度な期待は慎みましょう。
これが、お布施をする人が清浄である、ということです。

2、お布施を受け取る人が清浄であるとは、どういうことでしょうか。
これは、お坊さんの心が清浄である、ということですね。お布施を受け取る時の心がきれいである、と言うことです。つまり、お布施を受け取って、「えっ、たったこれだけ?」とか「こんなものいらんぞ」とか、思わないようにしなさい、ということなのです。
昔話にこんな話があります。
あるところに、とても霊験あらたかなお坊さんがいました。このお坊さん、どんな悪霊も退治してしまうし、どんな幽霊も成仏させてしまうという、すぐれたお坊さんでした。ですので、多くの方から慕われていましたし、多くの弟子もいました。そのお坊さんもやがて、死を迎えました。それは、そのお坊さんらしく、立派なものでした。誰もが、そのお坊さんは御仏の元に旅立ったと思っていました。
しばらくして、そのお寺があった村や近在の村で、葬式の時に死者を食う羅刹(らせつ・・・まあ、鬼ですね)が現れるようになりました。ある時、霊験あらたかだったお坊さんの弟子の一人が、近所の村で葬式をしていると、噂どおり、羅刹が飛び出てきました。
「死体をくれ〜。死体をくれ〜」
と、その羅刹は唸りながら棺桶に取り付きました。その羅刹の顔を見て、葬式をしていた坊さんはびっくりしてしまいました。変わり果ててはいたものの、その羅刹は自分の師である、あの霊験あらたかなお坊さんだったのです。
「師よ、どうされたのですか。そのお姿は!」
「う、うぅ、お前であったか・・・。これは恥ずかしい姿を見せた。」
「あの師が、なぜこのような姿になってしまわれたのですか。」
「うぅ・・・。それはじゃな・・・・。わしは、確かに法力がすぐれていた。しかし、そのことで天狗になり、いつもお布施のことばかり気にするようになってしまったのじゃ。今日は、いくらもらえる、沢山か、少ないか。多くもらえるならいいが、少なかったら、どうしてくれよう。呪ってやろうか。お布施が多いといいのじゃが・・・・、とばかり考えるようになってしまたんじゃ。その罪で、こんな姿に生まれ変わってしまったんじゃ。何とかしてくれ〜、助けてくれ〜。」
その、もと師であった羅刹は泣きながら訴えました。弟子は、お寺の財産を持ち出して、多くの人々に食事の接待をしました。そのおかげで、羅刹に生まれ変わった師は、天界に行けたそうです。

ちょっと長くなりましたが、受け取る側が清浄でないと、このような話の坊さんになってしまうんですよ。昔話と笑い飛ばさないで、僧侶たるもの、心して欲しいですね。もちろん、自分も含めて、です。

3お布施が清浄とは、どういうことでしょうか。
これは、他のものを奪ってお布施をするな、ということです。お布施をするために銀行強盗をしました、ではダメなんですよ。人を騙して巻き上げたお金でお布施をしちゃいけないんですよ。お布施は、自ら正しく働いて得たお金でお行なわなければいけないんです。

長々と書いてきましたが、おわかり頂けたでしょうか。お布施については、大変デリケートな問題ですので、どうしても長くなってしまいました。一応、ちょこっと、まとめておきましょう。
@お布施は、お坊さん個人が受け取るものではなく、お寺が受け取るものである。
Aお布施に金額の多い少ないはない。それは、価値観の問題である。無理をしないで、長続きできる金額にするとよい。わからない時は、お坊さんに直接聞くとよい。
Bお布施をするときは、出し惜しみしないで、気持ちよく出す。また、私は多額の寄付をした、などと奢らないこと。お布施をしたからご利益がいっぱい来る、などと思わないこと。

とまあ、こんなところですか。いずれにせよ、お布施は、受け取る側も、出す側も、その金額に執着しないことですよね。それぞれの価値観が問題なのですから。

ちなみに、お金のかからないお布施をご紹介しておきます。「無財の七施」といわれるものです。これは、素晴らしいお布施なので、ぜひ実行して欲しいですね。徳積みの修行にもなりますよ。
1、眼施(がんせ)
優しい眼差しをむけることです。相手を睨んだり、きつい目つきをしないで、優しく相手を見ることです。(変に誤解されると困りますけど・・・・)。

2、和顔悦色施(わがんえっしきせ)
和やかな顔をして、いつもニコニコしていることです。優しく微笑んでいることですね。

3、言辞施(ごんじせ)
優しい言葉で話す事です。乱暴な言葉を使わない、ということですね。

4、身施(しんせ)
身体を施すことです。と言っても、身売りしたり、売春したりすることではもちろんありません。「身体で払ってもらおうか」ということではないですから、ご注意ください。これは、力を貸してあげることです。たとえば、おばあさんが重い荷物を持って歩いていたら、そっと手助けしてあげるとか、電車の網棚に荷物を載せようとして困っている方がいたら助けてあげるとか、家庭で庭を作ろうと奥さんが頑張っていたらそれを助けてあげるとか・・・・。まあ、ともかく、力仕事を手伝ってあげる、と言うのがこの身施ですね。

5、心施(しんせ)
これは、一言で言えば、気配りのことです。相手に、気を使いましょう、ということですね。それと、相手の心を落ち着かせてあげるとか、話を聞いてあげるとか、そういうことも心施にはいります。心を和ませてあげること、自分の心も穏やかにすること、ですね。

6、床坐施(しょうざせ)
これは、座る場所や寝るところを作ってあげることを言います。たとえば、バスや電車の中で、席を譲ってあげたり、通路をあけてあげたりするのもそうですね。また、家庭内で、ご主人やお子さんの寝床を用意したり、奥さんやお子さんと会話する座を設けたりすることも、これにふくまれます。

7、房舎施(ぼうしゃせ)
これは、住まいや近所などを掃除することです。たまに、ボランティアで公園などを掃除している方がいらっしゃいますが、そういう方は、この房舎施を行っている方ですね。

これらが、無財の七施と言われるものです。全部は無理でしょうが、一つくらいはできそうですよね。あなたも挑戦してみてはどうですか?。合掌。




第28回 おまじない「遊びじゃないんですよ」
おまじない・・・というと、「チチンプイプイ」から、何やら怪しい儀式を行うようなおまじないを思い浮かべるのではないでしょうか。その中には、子供向けのかわいい、罪のないおまじないもあれば、一般の方には決して教えてはならないような、危険なものまであります。
ところが、最近は、その危険なおまじないが、本やネットで紹介されています。中には、そりゃないだろう、インチキだろ、というものまで含まれています。
で、そういうインチキくさいのが、また人の注目を集めてしまうんですよね。困ったことです。下手にそういう、おかしなおまじないなんて実行すると、かえってよくないことが起こったりすることもあります。おまじないって、一般の方が無闇に手を出していいものじゃないんですよ。

そもそも「おまじない」とは、どういうことなのでしょうか。一般的な辞書によりますと、「神仏の力を借りて、災いを避けたり、特定の相手に災いを与えたりする術。または、その時唱える言葉。」とあります。
ようするに、「ある行為をして神仏の力を借りて、災いを避けたり、願いをかなえたりすること」であり、「そのときに唱える呪文」のことを言うわけですね。これが、本来の「おまじない」なのでしょう。言い方を変えれば、「おまじない」は「呪術」になります。

「おまじない」は、漢字で書きますと「お魔事無い」と書きます。つまり、「魔の事がない」ということであり、それは「災いが無い」ということでしょう。まじないをすることは、魔を無くすことであり、災いを消し去ることだったのです。具体的に言えば、病気を治すためのおまじないであり、天変地異から人々を守るためのおまじないであり、悩みや苦しみを取り除くためのおまじないだったのです。実際には、そういった「よいこと」に対して、まじない(=呪術)が行われていたわけですね。

こうしたことは、実はお釈迦様がこの世にいらしたころから、行われていました。しかし、おまじないは、不可思議な力を使う行為なので、お釈迦様は一切を禁じたのです。おまじない、呪術の使用を禁止したわけです。
ということは、実際に効果があったわけです。効果があったからこそ、それは危険であり、使用するものが正しき心を持っていないと、悪用されてしまうと考えたのでしょう。乱用を恐れたのです。
なので、そうした呪術は秘密として伝わっていきました。それが、秘密仏教である密教の中に多く残っているのです。
確かに、密教の中には、「呪詛(じゅそ−呪いをかけて相手を不幸にすること)」があったり、「呪禁師(じゅごんし−呪術を使って祈祷・祈願を行うもの。密教の灌頂を受けている必要がある)」なるものがいました。実際、真言の教えは、現世利益を認めていますし、真言を唱え、印を結び、心に仏を願い、祈願を叶える法でもあります。私たちも、護摩をたいたりして、個人の祈願が叶うように、祈ったりします。
そういう意味では、私たちも呪術師なのです。
しかし、そうした呪術は、正しく使わないといけないものです。決して呪詛をおこなったり、人を呪うようなことをしてはいけないのです。

ところが、それがどうしたわけか、いつのころからか、個人的怨みを晴らすためとか、誤った個人的願望を得るための「おまじない、呪術」が独り歩きを始めてしまったようです。
人間の欲望は際限が無く、自分勝手な願望を叶えるためには、おまじないも使えば、呪いも使ったのですね。また、そういう者に協力する僧侶がいた、ということも間違いの元なのでしょう。金のため、名誉のため、いずれにせよ現世的欲望を叶えるため、秘密にしておかねばならない、乱用してはならない、誤った行為に使用してはならない呪術を使用したり、公開したりした僧侶がいたのは、悲しいことです。
しかも、昨今の陰陽師ブームにのっかって、いい加減なおまじないや呪術を売り物にしている者や本などが出ています。あるいは、ネット上に、密教系の秘法を公開している者もいます。
そうまでして、お金が欲しいのでしょうか、名誉が欲しいのでしょうか、目立ちたいのでしょうか・・・?
自分たちがしている行為が、のちにどのような災いをもたらすかもしれない、ということを考えているのでしょうか。否、いないんでしょうね。そうじゃなきゃ、「丑の刻参り」セットなんて販売しないでしょう。

おまじないは、呪術であり、それはその呪術を正しく学んだ者、正しいことにのみ使える者に許された祈願法です。それを公開したり、素人さんが本やネットを見て、闇雲に実行してはならない行為なのです。誤った作法でおこなえば、大変危険なものでもあるのです。
また、丑の刻参りなどのような、相手を呪う行為は、必ず自分にその報いが戻ってくるのです。人を恨むようなことに神仏が力を貸してくれるわけがありません。それは「魔」の力なのです。
これでは、「魔事無い」であるおまじないが、「魔」を呼ぶことになってしまいます。

決して、くだらないまじないなどには手を出さないでください。祈願がある場合は、祈願法ができる僧侶に頼むべきです。
まじないはお遊び・・・・などと思ってはいけません。それは、昔から続いてきた願望成就法の一種なのです。誤った方法でおこなえば、必ずしっぺ返しがきます。素人さんは手を出していけないのです。
本屋さんにあふれているおまじないの本や、ネットに流れているおまじないの法は、決して実行しないようにしてください。下手をすると、「魔」を呼び込むことになりますよ。合掌。




第29回 極楽「簡単には往けない」
極楽というと、「西のほうにあって、この世でとってもいいことをした方が、死後に生まれ変わる場所、阿弥陀さんの世界」ということで知られていますよね。「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と唱えれば、極楽に行ける、な〜んて話もありますが、まあ、それはないですよね。極楽は、そんなに簡単に行けるところではないのです。

初めにお断りしておきますが、極楽というのは、天国とは異なります。キリスト教などで言う「天国」は、仏教では、どちらかというと「天界」に近いでしょう。とはいえ、仏教には、いわゆる「天国」はないのです。「地獄」はあるんですけどね。
それともう一つ。ここでいう極楽は、西方浄土のこと、と限定しておきます。つまり、阿弥陀如来の佛国土のことですね。
如来は、それぞれ自分の国土を持っています。お釈迦様はこの世である「娑婆世界」、薬師如来は東方にある「浄瑠璃世界」、毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)の「蓮華蔵(れんげぞう)世界」など、それぞれに自分の世界をもっているのです。極楽といった場合、一般的に阿弥陀如来の世界である「西方浄土」のことと思われがちですが、本来は、他の如来の世界も含んで言いいます。
が、ここでは、極楽は、一般的な意味である「阿弥陀如来の西方浄土」として、話を進めていきます。

さて、極楽はどこにあるかご存知でしょうか。経典によりますと、「これより西のほう、十万億の佛土を過ぎたところにある」のだそうです。さっぱりわかりませんね。
「佛土」というのは、「佛国土」のことです。一つの佛国土の大きさが、いわゆる三千世界です。三千世界の大きさは、われわれが住んでいる世界の十億倍です。どれくらいなのか、想像もつきません。ですので、間違っているかもしれませんが、三千世界を太陽系くらいの大きさ、と考えてください。
で、それが十万億ぶん通り過ぎたところに、極楽はあるのです。
まあ、つまり、簡単にいえば、太陽系が存在するといわれている銀河系以外の銀河・・・・とでも言えばいいでしょうか。宇宙は広いですからね、そんな世界が宇宙のどこかにあるんです。信じる信じないは別として(私は信じていますが)、そういう世界がある、ということをお釈迦様が説いていたのです。(つまり、お釈迦様は、宇宙にはわれわれ以外にも、生命があると説いていたわけですね。で、そこはすばらしい世界であるのです。)
これで、極楽の場所がおわかり頂けたでしょうか。西のほう、宇宙はるか彼方に極楽はあるのです。

では、そこはどんな世界なのでしょうか。
極楽というと、な〜んにもせず、のんびりと、のほほ〜んと生活しているような、そんな世界だと思っていることでしょう。
実際に、経典にもそのような感じでとかれております。たとえば・・・・。
食事は、食べたいと思った時に、食べたいと思ったものが、自動的に現れてくれるのだそうです。着る物も、着替えたいと思ったときに、着たい服装が現れてくるのだそうです。
で、極楽に生まれた人々は、蓮華を住まいとしています。蓮華の花の中で生まれ、育ち、生活を送るのです。或いは、金・銀・瑠璃・水晶でできあがった宮殿に住まう、とも説かれています。
空気はきれいで、季節はいつも一定で過ごしやすく、芳香が漂い、空からは天界の花が降り、地面は黄金に輝き、美しい音楽が流れています。
もちろん、この世界には悪人はいないので争いごとはありません。また、欲深な人もいませんから、多欲にはなりません。皆、穏やかな、優しい気持ちでいっぱいです。
しかも、男女の差がありません。性別がないのです。ここへ生まれ来る人々は、性を超越しているのです。ですから、恋愛に悩む必要はありませんし、性行為もありません。
また、容姿が醜いとか、美しいという差もありません。尤も、美しいとか醜いなどを気にするような人は一人もいないし、そういう差別感を持つ人も一人もいません。すべての人々が、まるで仏様のような人々なのです。すばらしい世界ですよね。理想郷です。

こんな世界の人々は、いったい何をしているのかといえば、それはひたすらに修行をしているのです。いくら仏様のような人々であっても、覚りを得ているわけではありません。なので、覚りを得るために、ひたすらに仏法を学んでいるのです。ある時は、美しい宝石に輝く池の周りで瞑想にふけり、ある時は、阿弥陀如来の教えを聞き、またある時は、子孫のために力になってあげる・・・・。
そうした、仏道の修行をこの極楽世界で行っているのです。そうして、何年か過ぎ、やがて仏陀となるのです。極楽世界の誰もが・・・・。

これが極楽の世界です。他の如来の佛国土も大体同じようなものです。ただ、異なるのは我々が住んでいる「娑婆世界」のみです。それは、まだ娑婆世界が発展途上にある世界だからです。他の佛国土の世界は、如来がすでに、ものすごく気の遠くなるような年月をかけて完成させた世界なのです。ですから、極楽のような世界になっていますが、我々が住んでいる娑婆世界は、まだ仏陀が現れて二千数百年しかたってません。まだまだこれからなのです。

なので、この世界で極楽を期待はできません。極楽の世界を望むのなら、他の佛国土へ生まれ変わらなければいけないのです。では、それにはどうすればよいか・・・・。
経典には、
「どんな人であっても構わない。心の底から阿弥陀如来を信じ、極楽浄土に生まれたいと願い、『南無阿弥陀仏』と十度唱えたものは、必ず極楽浄土に生まれる」
と説かれています。
「な〜んだ簡単じゃないか」
と思った方、それは間違っています。そんなに簡単じゃありません。

どこが難しいのか・・・・。それは、「心の底から阿弥陀如来を信じ」の部分です。あなたは、心の底から阿弥陀如来を信じられますか?。
自分に都合のいい信じ方はダメですよ。自分勝手な信じ方はダメです。
たとえば、
「どんなに悪いことをしてもいいんだ、俺は阿弥陀さんを信じているから。だから、悪いことをして、警察に捕まって、極刑になっても平気さ」
では困るでしょ?。根本的に間違っていますよね。
阿弥陀如来のことや極楽のことを説いたのは、お釈迦様です。つまり、阿弥陀さんも極楽も仏教のうちです。仏教の基本は、簡単に言えば、「よいことをして、悪いことはしない」です。まず、そこから出発しないといけません。なので、悪いこをしても、極楽に生まれることができる、というのはウソです。
浄土系の教えに「悪人正機(あくにんしょうき)」という教えがあります。これをよく勘違いして、「悪人こそが救われるのだ」という方がいますが、そういう方は、仏教を根本的に学びなおしたほうがいいですね。全く意味が違いますからね。
これは、簡単に言えば「悪人であっても、仏教を学んで、正しく生きなおせば救われる」ということであり、「悪人であるから、心を入れ替えるのだぞ、と諭される機会が多い。だからこそ、悪人であっても正しい道に入ることができる」と説いたものです。まあ、罪を犯せば、それだけ諭される機会が増えるので、一般の人より仏法にも触れやすくなるから、そう説いたのでしょう。

話がずれました。何が言いたかったのかというと、「心の底から阿弥陀如来を信じ」ている者が、そうそう悪いことなどしないだろう、ということを言いたかったのです。
つまり、心の底から阿弥陀如来を信じているものは、善人なのです。心の底から阿弥陀如来を信じている人は、どんなにつらい目にあっても、どんなにひどい目にあっても、どんな境遇であっても、「すべては阿弥陀様のお計らい、阿弥陀様のなされるがまま・・・・」といって、すべてを受け入れるでしょう。どんな運命も素直に受け入れてしまうでしょう。
そういう人は、愚痴などはいいませんし、わがままなどはいいませんし、恨むこともなく、妬むこともなく、羨むこともなく、怒ることもなく、欲深くなることもないでしょう。そして、そういう人は、罪などは犯さないのです。

ある仏教の宗派では、亡くなった方はみんな極楽へ往った、とされます。ですから、あえて供養する必要はない、とも説きます。せいぜい年忌の供養を行えばよいと・・・・。
とんでもない。そんなに簡単に極楽にいけるわけがないでしょう。どんなに頑張ってみたって、極楽にはいけないんです。阿弥陀如来や極楽の存在を信じていないものが往けるわけがないのです。そう思いませんか?
普段、仏教だの極楽だの阿弥陀さんだのを信じてもいないのに、葬式をしたとたん「極楽に行きました」はないでしょう。本人だってびっくりしますよ、そんなことを言ったら。それこそ「坊さんはうそつき」になってしまいます。
まあ、慣例として「極楽へ・・・」とは言いますが、それはあくまでその場での言葉。実際には極楽に往けるわけがないんです。
尤も、心の底から阿弥陀如来を信じていた方は、亡くなってすぐに阿弥陀様が25人の菩薩を引きつれ、お迎えにきてくださいます。ですので、極楽を望む方は、心の底から阿弥陀如来を信じてください。

じゃあ、その他の方はどうすればいいか。それは、こちらから亡くなった方の供養をしっかりやって、極楽へ生まれ変われるように力付けてあげるしかないのです。亡くなった時、とはいかなくても、供養をしっかりしてあげれば、そのうちに極楽へいけるでしょう。
ですので、子孫に「私が死んだら、極楽へ往けるように、しっかり供養してね」と頼んでおくといいですね。

まあ、しかし、そんな死んでからの安楽を望むより、私は、生きているうちに安楽を望んだほうがいいとは思いますけどね。
「この世で幸せにならずして、何が仏教だ!」
ですよ。この身体があるうちに幸せをつかみたいものですね。合掌。





第30回 宗教「宗教は生き方」
今回で、真実の部屋も30回目になります。ちょうどキリがいいので、今回で最後にしようと思います。っていうか、決定してます。長かったような、短かったような・・・。いろいろ薀蓄をたれまして、失礼なことも書いたかと思います。しかし、真実なんだから、仕方がないですよね。
さて、最終回らしく、今回は「宗教」についてお話をしましょう。
つまり、「宗教」とはなんぞや? ですね。

辞書や辞典で「宗教」を調べると、たいていは「安心や慰め、心の支え、幸福を得ようとして、神や仏を信仰すること・・・・・。」などと解説されていると思います。まあ、これが一般的な解釈でしょうね。
で、これで宗教の本質ってわかります? 宗教の意味ってわかりますか?
ま、宗教ってこんなものかな、とは思うでしょう。しかし、これでは、宗教の意味を表しているとは思えないんですけどね。

私が思うに、「宗教」というのは、「生き方」でしょう。或いは、「死に方」でもいい。まあ、生き方=死に方でもあるのですから、どちらでも構わないのですが、やはりここは「生き方」としておきましょうか。

世の中には様々な宗教があります。世界三大宗教といえば、仏教・キリスト教・イスラム教です。その他に有名なところでは、日本神道、道教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、ラマ教、ブードゥー教なんていうのもありましたね。儒教というのもあるし、シーク教というのもあります。未開の地には、未開の地なりに土着の宗教がありますし、それぞれの宗教もさらに様々な派に分かれています。
さらに、新興宗教、新・新興宗教を入れれば、大変な数に上ります。(白装束軍団なんてのもいましたね。あれも一種の宗教なんでしょう。わけがわかりませんが・・・。)

そりゃ、そうでしょう。宗教とは生き方なんですから。そう考えれば、宗教がいっぱいあっても納得いくでしょ。
というよりも、「生き方」が先にあって、あとから宗教へと発展していくのでしょう。わかりますか?

最初は一人の人間の「生き方」なんですよ。その人固有の考えに基づいた生き方なんですよ。で、その生き方に賛同したり、あこがれたり、真似したいと思ったりした者が集まってきて、初めて宗教になっていくんですよ。
普通の人々とは違った生き方をしている者、違った考え方をしている者に賛同する者や、その人の言うことを信じる人々が集まってきて、一つの集団を作ったとき、その時に宗教となるんですね。
それ以前では、単なる変な人なんですよ。で、誰も賛同者や信じる者が集まらなかったら、単なる「おかしい人」で終わるだけなんです。
たとえば、お釈迦様が説かれた教えを誰も理解しなかったら、誰も信じなかったら、お釈迦様は単なる修行者で終わっていたでしょう。その教えもこの世には残っていなかったことでしょう。これでは、仏教という宗教は生まれなかったことになります。
たとえば、キリスト教でもそうでしょう。だれもキリストについてこなかったら、誰もがキリストを迫害したら、キリスト教という宗教は生まれなかったでしょう。
他の宗教もそうです。その教え、生き方を信じる者がいなかったら宗教にはならないのです。

せすから、宗教とは生き方なんです。決して「安心や慰め、心の支え、幸福を得ようとして、神や仏を信仰すること・・・・・。」などではないのですよ。それは、宗教の意味ではなくて、宗教の目的でしょう。宗教の目的として、「心の安楽や慰めや支え」があるのだし、そのために「幸福を得よう」とするのでしょう。辞書や辞典に説かれるところは、宗教とは?ではなく、宗教の目的なのです。

よく宗教は怪しいもの、人間をダメにするようなもの、麻薬だ、などと言われることがあります。それは、宗教そのものが悪いのではありません。その宗教の目的としているもの、教え、内容、手段が悪いのです。一部のおかしな宗教があるために、宗教全体が怪しいもの、と解釈する方がいますが、それは大きな間違いでしょう。
どんな宗教であれ、もとはその教祖の生き方であったはずです。その教祖の考え方であったはずです。ですから、昔からあった宗教なら、怪しい宗教であることはないはずです。
ところが、実際には昔からある宗教・・・たとえば仏教やキリスト教、イスラム教などでも・・・怪しい宗教団体があることは事実です。
これは、その宗教が悪いのではないのです。その宗教を利用しているものが悪いのです。その宗教を利用して、妙な解釈を加え、妙な儀式を行うようになって、怪しい宗教にしてしまうのです。

たとえば仏教をベースにしている宗教ならば、お釈迦様の教えを中心としなければなりません。ところが、仏教系新興宗教・仏教系新・新興宗教の一部には、とてもそうとは思えない宗教団体があります。なんで、これが仏教系なの?と思える宗教団体があるんですよ。どことはいいませんが。
これは、解釈の仕方が悪いんですよ。仏教が間違っているわけではないのです。仏教を利用しているその団体の仏教に対する解釈が間違っているんですよ。
そうして、本来の仏教とは似ているけれども全く違ったものになってしまうんですね。

仏教の場合、様々な派があります。キリスト教でもそうですね。イスラム教にも派があるようです。これらは、元の教えの解釈の仕方が異なるからでしょう。ですから、どの派が正しくて、どの派が間違っているということはないのでしょう。少なくとも、仏教には宗派で正しい・間違いはありません。
教えそのものには間違いはないのです。
他の宗教でもそうだと思います。元の教えそのものには、間違いはないのでしょう。なにしろ、生き方そのものですから、間違いとか正しいとかはないのですからね。
問題なのは、その教えを解釈する側、利用する側なのです。そちら側の心の問題なのです。その解釈する側の心に悪意があるならば・・・・・。

宗教は扱う側の心の純粋さによって、悪い宗教にもなるし、正しい宗教にもなるのです。欲望にまみれたものが宗教を扱えば、悪い宗教、怪しい宗教になるでしょう。欲のないものが正しく扱えば、決して悪い宗教になるものではありません。

それだけではありません。理解の度合いによっても変わってきます。
たとえば、仏教の場合、宗派の違いだけでなく、お坊さんの考え方によっても違いがあります。同じ宗派でもお坊さん自体の考え方が随分反映されるんですよ。
怪しい坊さんもいれば、儲け主義の坊さんもいるし、ただ威張っているだけの坊さんもいるでしょう。逆に、すごく親切で、生き仏のようなお坊さんもいることでしょう。
これは、宗教そのものとは関係のないところです。宗教者の資質の問題ですからね。宗教がいいとか悪いとかの問題ではないのです。
なのに、資質の悪い宗教者がいると、その宗教が悪いように扱われるんですよ。これって、間違っていると思いませんか?

宗教そのものは、悪いものはないでしょう。どんな宗教であれ、間違った宗教というのはないのです。間違ったり、怪しくなったりするのは、その宗教を扱う側の問題なのです。
宗教とは、その教祖の生き方です。それを信じる信じない、その生き方に賛同するしない、ということが、宗教を信じるかどうかということになるのです。
ですから、その派は、本来の教えを説いているかどうかが問題になってきます。仏教で言えば、お釈迦様の教えが生きている派かどうか・・・ということですね。
この点を注意していれば、怪しい宗教や宗派に嵌ることはないでしょう。

宗教は、生き方です。ですから、たくさんあります。どの生き方に賛同するかはあなたの自由です。私はお釈迦様の生き方に賛同した者なのです。合掌。

今回を持ちまして、「真実の部屋」は、終了いたします。もし、仏教などに関して「○○についての真実が知りたい」というリクエストがありましたら、ご連絡ください。単発で掲載したいと思います。






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