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第245回
無理な意地を通そうとするのは愚かな行為である。
もし、意地を通したいのなら、その理由や根拠、裏付け、計画性が必要だ。
周囲が納得できないような意地は通してはいけない。


いつまでやっているのか、と思いませんか? もちろん、プーチンのことです。当初の計画とは大きく異なって、ロシア軍も疲弊気味な状態なのに、未だに自分の意地を通そうとして躍起になっています。どうしても、我を張りたいようですね。どうしても、自分を通したいようですね。端から見れば、愚かな人だとしか見えないのですが、御本人は意地に固まっているのでしょう。引くに引けないのでしょうね。本当は、引くのは簡単なのですが……。
迷惑なのは、ウクライナの人たちは当然ですが、ロシアの人たちも迷惑を被っているのではないでしょうか? 物資は不足しているようですし、今では軍人・兵士も不足しているとか。徴兵に反対する人も出ているそうです。いずれ、戦争に使う費用も不足してくるでしょう。そうなると、あのプーチン、どうするのでしょうかねぇ。強制的に兵隊を集めるのか、強制的に国民から金を集めるのでしょうか? まあ、あの意地張りプーチンならやりそうです。で、逆らうモノは皆殺し……。ありえそうですよねぇ。恐ろしい国です。いや、一人の妄想に取り憑かれた人間の意地を通すという、たったそれだけのことで、国民が不幸になるのですから。たった一人の意地だけで……。

似たようなことは、よその国にもありますよね。そう、中国。アレは何なんでしょうか? ゼロコロナ政策ですよ。なぜ、あんなにこだわっているのでしょうかねぇ。あれも習近平の意地ですよね。そこにこだわらなくても、欧米やよその国のようにウィズコロナでいいと思うのですが。どうも、もう意地になっちゃって、ロックダウンだぁ〜、を続けています。国民は、いい迷惑です。たった一人の意地に付き合わされて、自由を奪われ、苦しい生活を強制されています。いつまで続けるつもりなのか。本当にコロナがゼロになるまで続けるのでしょうかねぇ。完全なゼロにしようなんて、無理な気がするのですが。まあ、あの国のことですから、数が極端に少なくなってきたら、たとえゼロになっていなくても、ゼロコロナ達成!とかいうのでしょう。で、大きな顔をして威張るのでしょう、習近平。意地張りオヤジ、ここにあり、ですね。

もう一人、意地張りオヤジがいます。そう、北朝鮮のあの男です。アメリカに対して意地張って、ちょっかいを出しています。そんなに意地張らなくても、日本みたいに媚びってしまったほうが楽なのに、と思うのですが。寄らば大樹の陰ですからね。国民の貧乏なんぞなんのそので、軍費に巨額を注いでます。そんなに兵器を開発したって、結局、使えないのにと思うのですよ。いや、下手に使ったら、まあとんでもないことになるでしょう。ひょっとしたら、国自体がなくなってしまいそうです。意地張って、いくら逆らってみても、アメリカと北朝鮮では、国力が違いすぎるでしょう。身の程知らずもいいところですよね。いつまでも意地を張っていないで、素直に「助けて」と言えばいいものを、と思います。

こうしてみると、無理な意地を張って、国民を苦しめているのは、社会主義国だけのように思います。まあ、社会主義国では、どうしても独裁国家になりやすいですからね。民主主義国家のように、皆で話し合い、妥協点をみつけ、皆がうまくいくようにしようね、という感じではありませんから。とにかく国の方針に従え、文句は言うな、お前たちに自由はない、と言うのが、社会主義国ですからね。そのトップの意向が重要になってしまいます。トップの考え一つで、大きく変わってしまいます。恐ろしい主義ですね。
なので、そのトップが、訳の分からない意地を張り出したら、国民は、それに無理矢理付き合わされることになってしまうのですよ。それがいいことならいいのですが、悪いことだと、不幸でしかありません。意地を張ると言うことは、一つ間違えれば、不幸しか生まないのですよ。

一般の家庭でも、意地張りジイサンや意地張りババアがいますが、本当にいい迷惑です。もう今の時代にそぐわない人たちが、昔を持ち出して意地を張っても、滑稽なだけです。愚かとしか言い様がありません。年を取って、時代について行けないな、と思ったら、若い者に任せて、自分は自分の楽しみを見つけ、優雅に生きるようにしたいですね。それが、年を取った者が、見せる手本でしょう。そうすれば、嫌われることなく、尊敬もされると思うのですが、どうも逆をやるご老人が多いようで……。残念なことです。

意地を張りたいのなら、その理由を周囲に納得させる必要があるでしょう。なぜ、意地を張るのか、なぜ、意地を通したいのか。そのことによって、周囲の人たちに、こんなにメリットがあるのだ、これは有意義な意地なのだ、と説明する必要があるでしょう。そういう意地でなければ、張っていけません。通すのはダメです。
周囲も納得し、理解し、歓迎してくれるような意地、それなら大いに通してもいいと思います。いや、むしろ、応援されることでしょう。しかし、周囲に迷惑をかけるような、そういう意地は、全くダメなのですよ。プーチン、習近平、金正恩……。あんな人間になってはいけません。身勝手な意地を通そうとして、国民を苦しめるような、そんな意地を通すのは、愚か者がすることです。
愚か者にならないよう、周囲からみて滑稽な人に見られないよう、無理な意地は通さないようにしましょうね。

合掌。



第246回
順調に生活できる者とそうでない者の違いは何か?。
それは、やるべきことをやり、止めるべきことを止める
これを実践しているかどうかであろう。
わかっているのにできない者は、苦を味わうこととなる。


SNSなどで「これをやったら運気が急激にアップします」なんてことを言っているスピリッチャルな方がいますよね。まあ、私は滅多に見ないのですが、YouTubeを見ていると、たまに入ってくるんですよ、そういう番組?が。要らないのに迷惑な話なのですが、そういうのを見ると「はっ、くっだらないな」と思います。本当、バカバカしいですよね。そんなことで、運気アップとか、ありえません。もし、それで運気がアップして思う通りになるのなら、その番組をやっている本人がもっと有名になっているでしょう。どこの誰だか分からないような者が、何を言っているんだか、と思います。他人に言う前に、自分の運気を上げたらどう?とね。

なお、たまたま運気が上がったと感じた方は、洗脳されやすいタイプか偶然ですね。そういうのを信じてしまっている時点で、半分洗脳されているようなものですし。はっきり言っておきます。そう簡単に運気アップとかは無いです。そもそも、自分で努力もしないで、運気アップを望むのは、横着でしょう。それは、残念な人ですね。

あぁ、風水も同じですね。ここにこの色の物を置くと運気がアップします……。くだらないですよね。そんなことで、人の運が変わるならば、誰も皆やっていますよ。たまに、風水に凝って、家中カラフルになっている方がいますが、で、その方、幸せか?と申しますと、そうでもないのです。幸せなら、私の所に相談など来ないですからね。風水はどうなった?と思いますが、まあ、あまり突っ込みません。きっと、これは趣味なのだろうと思って、スルーします。趣味は自由ですからね。他人の趣味に口を挟むような野暮なことはしません。
そうそう、パワースポットも同じですね。いくら巡ってみても、思うようなラッキーは得られないものです。得られたときは、偶然ですね。
こうしたことは、気休めならいいですが、本気になってはいけません。あくまでも息抜き、気休め、ちょっとした安心、それで十分なのです。その効果のほうが大事ですね。
いずれにしても、運気なんて当てにしてはダメです。悪いときは悪い、いいときはいい、それでいいじゃないですか、と思うんですけどね。

よく「あの人はいつも順調ね」とか「あの人、何をやってもうまくいっているね」という会話を耳にしませんか? あなたもよく言っている? そう、世の中には、何事も順調で、何事もうまくいっている人がいるのですよ。で、多くの人々は、そういう方を羨ましく思うのです。
しかし、そうした順調な人、成功した人に話を聞くと、結構な努力をしているというのが、真実なんですよね。影の努力が、意外にも一般の人より何倍って感じなのです。それだけやれば、そりゃ成功するでしょ、レベルなのです。

私の所に相談に来て、
「こうするといいですよ、早めにこういうことをしてください。そうすれば、現状が変わってきます。苦しみから解放されるでしょう」
という答えをもらっていく方が、結構います。相談に来ているのですから、現状打破!が目的です。なので、そのための方法を説くわけです。しかも、その人ができることで。できないことを言っても仕方が無いですからね。
私の言ったとおりに、その方法をされた方は、現状打破できています。しかも、順調に物事が運び始めます。望み通りになっていきます。
一方、言われたことをなかなか実戦しない人は、現状打破にはならず、現状維持どころか益々悪化していきます。そりゃあ、当然のことでしょう。回復の見込みが無い、悪化することがわかっているから相談にくるのですから。モタモタしているうちに、どうにもこうにもならないような状態になることもあります。
「やるべきことをさっさとやっていれば、こんなことにはならなかったろうに」
と私も本人も思うのですよ。

何事も順調にいっているような人、成功を収めている人、そうした人は、
「今やるべきことを早く実行する」
を実戦している人なのです。だから、次への扉が開くのです。
しかし、そのためには、やはり努力が必要になるのです。ボケーとしていては始まらないのですよ。やった方がいい、と言われたなら即実行。止めた方がいいと言われたら即ストップ。それができるからこそ、何事も順調に進んでいくのです。

とある建築関係の社長。キャバクラ通いが大好きです。お気に入りの女の子もいて、この子に入れあげてます。しかし、いくら会社が儲かっているとは言え、そうそうキャバクラにお金は使えません。会社のお金は、会社のお金であって、社長のお金ではないです。ここを勘違いしてしまうと、会社のお金に手をつけてしまいます。そうなると、会社は、傾き始めます。会社を個人で食い物にし始めると、どんな大きな会社でも、どんなに設けている会社でも、傾き始めます。会社と個人を線引きできない経営者は、会社にとっては、病原菌です。
で、その建築関係の会社、当然傾き始めます。借金がかさみます。困った困ったとなり、私の所のに相談に来ました。まあ、簡単な相談ですよね。キャバクラ通いをやめればいいのですから。でも止めないんですよ、こういう人。
止めなきゃいけない、と言うことは、分かっているんですよ。重々承知しております。でも、夜になるとメールが来て……行ってしまうんですよね。バカだ、と本人もわかっています。やめたい、と本人も思っています。でも、決意がつかないのです。綺麗なおねーちゃんと別れたくないのです。彼女は仕事でやっている、と言うことも知っています。半分、イヤ全部欺されている、いいように踊らされている、ということもわかっています。
が、止められない。

ここが運命の分かれ道なのです。
意を決して止めてしまえば、運命の扉は開き、会社は持ちこたえるでしょう。
どうしても止められず、そのまま進んでしまえば、運命の扉は閉ざされたままで、会社は倒産へと向かっていくでしょう。
やるべきことをやり、止めるべきことを止める、たったそれだけで人の進む道は大きく変わってしまうのです。

風水だの運気アップだのパワースポットだの、そんなものに頼っていてはいけません。頼るべきは、自分の行動です。生き方です。
「やるべきことをやり、止めるべきことを止める」
たったそれだけです。わかっているのに止められない、それが最悪です。
運気をよくしたい、順調な生活を送りたい、成功したい……そういう方は、
「やるべきことをやり、止めるべきことを止める」
ます、これを行ってください。その上でやる風水や運気アップ、パワースポットなどはいいでしょう。そうしたことをお気楽にできるようになりますからね。
ちなみに彼の建築関係の社長さん、大いなる決意をしてキャバクラ通いを止めました。会社も再建に入っています。御本人、止めてよかった、とつぶやいていました。
合掌。


第246回
正しい道に導くためならば、法律に触れなければ、
どんな手段を使ってもいいであろう。
方便は究極である。


他のページ(こんなところに仏教語)にも書いたのですが、最近コミックの「聖☆おにいさん」に嵌まっています。初めは、嫌悪していました。聖者を漫画にするなんて巫山戯ている、と。でも、あるきっかけで読んでみることにしました。これが意外に面白いんですね。玄人側の私にも、「へぇ〜、一般の人はこう捉えているんだ」という部分もアリ、参考になります。面白かったのは、東京渋谷の「109ビル」を「煩悩の数+1の塔」と表現していたことですね。なるほど、と思いました。こういう表現の仕方があるのか、とね。そこに一般の読者の方も気付くといいのですが……。このコミックの読者の方も、これをきっかけに本当の仏教やキリスト教に興味を持っていただけるといいかな、と思います。そこが、信仰の入り口になる……かも知れません。

仏教には、方便を重要視する教えがあります。普通の大乗経典……法華経など……にも、方便は重要だと説きます。密教経典の大日経には、「方便を究極となす」とあります。
この際の方便とは、「正しい教えに導くための手段、方法」のことです。そして、その手段・方法は、どんな手を使ってもいい、と説いているのです。ただし、法律(戒律)に触れなければ、ですが。法律や戒律に触れては、意味が無いですからね。
でも、そうでないならば、どんな手段を使ってもいいのですよ、正しい仏教の道に導くためならば。

こうした思想は、何も大乗仏教にだけあるものではありません。案外、お釈迦様も手段を選ばないことがあります。たとえば、こんな話があります(随分、昔に読んだエピソードなので、記憶が正確ではありません。主旨はあっていますが、細かいところは、ちょっといい加減です。ご了承ください。詳しく知りたい方は、ご自分で調べてみてください)
ある新婚のカップルのご主人、あることがきっかけで仏教教団に出家をしました。出家したのですから、当然ながら家庭を出て、仏教教団内で生活をします。出家を決めたくらいですから、その志たるや堅固なものでした。絶対悟ってやるぞ、という決意が固かったのですね。
ところが、いざ修行に入ると、家庭に残してきた……本当は離婚してるはずなんですが……妻が気になりだしたのです。彼の奥さん、超べっぴんで超セクシー。他の男は放っておかないぞ、というくらいの奥様だったのです。
本来は、出家した以上、そんな気持ちは捨てなければいけません。しかし、まだ出家したてのほやほやの修行者です。そう簡単に未練を捨てられるものではないですよね。ついに修行どころかうつ状態になってしまいました。
それを心配したお釈迦様。彼を神通力を使って地獄に連れて行きます(餓鬼界だったかも知れません)。そこで、地獄の血まみれの女性を見せます。
「この地獄の女性と汝の妻と、どちらが美しい?」
お釈迦様は、そう聞きます。そりゃ、答えは決まっていますよね。「奥さんですぅ〜、比べ物にならないですぅ〜」となりますよね。彼は泣きながらそう答えます。
次にお釈迦様、彼を天界に連れて行きます。それもかなり上の方の天界です。で、天界で自由に飛び回る天女に引き合わせます。で、彼に尋ねます。
「この天女と汝の妻と、どちらが美しい?」
初めて天女の姿を目にした彼は、もうビックリ仰天。
「いや、もうっそりゃ、天女さんですよ。この美しさとはないです。妻がさっきの地獄の血まみれ女と同じくらいにみえます」
(今時、こんな話をしたら、女性蔑視だと怒られますが、これはあくまでも方便のの話なので、主旨を間違えないようにお願いいたします)
お釈迦様、彼にさらに尋ねます。
「この天女を手に入れたいか?」
「もちろんです」
「ならば、修行に励むことだ。修行すれば、自由に天女に会える神通力も手に入れることができよう」
このことがきっかけで、彼は修行に励みます。そして、いつしか……。彼は、天女のことなどどうでもいいという境地に達します。つまり、悟りを得てしまったのですよ。
悟りに導くためには、こうした手段も許されるのです。ただし、問題は、正しい道かどうか、と言うところですよね。

最近、またあの悪名高き統一教会が話題になっています。霊感商法の担い手だった統一教会ですね。彼らの手口は、他人の弱みにつけ込んで、金品を巻き上げるというものです。正しい導きはありません。ですが、誘われた方は、気が弱っている状態ですし、誘い文句がこれまた素晴らしい内容なので、ついついその気なってしまうのです。で、いつの間にか入信し、金品を巻き上げられているのです。でも、本人は洗脳されているので、そのアホさ加減には気がつかないのです。
これは、方便を悪用したパターンですね。多くの新興宗教にこうした傾向が見られると私は思っています。方便も、使い方によっては、間違った方向に進んでしまうのです。

なので、経典には、こう説かれています。「般若に基づいた方便」と。「般若」とは智慧のことですね。ですから、智慧に基づいた方便じゃななきゃダメ、ってことです。つまり、その人のためを思って、その人が良くなるように、社会的にいい人になれるように、よく考えて導く、それが大事なのですよ。よくよく考えられた方便、それが大事なのです。

たとえば、新入社員や部下に対して辛くあたる上司がいたとします。その上司、心底意地悪な性格な人は別として、一般的には、新入社員や部下が成長するように指導しますよね。まあ、その指導の仕方が問われるのですが。しかし、その上司も悪気があってやっているばかりとは限りません。その新入社員や部下がちゃんと成長するように考えていると思うのです。つまり、成長のために厳しい手段を使っているとも考えられます。成長のため、正しい社会人となるため、厳しく接しているかも知れませんよね。そういう手段もあるし、そういう手段もOKです。まあ、フォローは必要でしょうけど。
逆に、新入社員や部下は、「こうした厳しさは、自分たちを正しい方向に導いてくれているのだ」と理解すれば、上司の厳しさにも耐えられると思うのですよ。そのあたりは、考え方が大事ですね。

いずれにせよ、他者を正しい方向に導く場合、導く側の度量が問題になってはきます。導くこと、指導することは大事だし、いろいろな手段を使うことも大事でしょう。しかし、その際には、その手段が正しいかどうかと言う智慧や考えが必要なのですよ。また、自分が行っていること、推奨していることが、社会的に見て本当に正しいことなのかどうかも、よく吟味しないといけませんよね。偏った考えに基づいていないか、世間では否定されないか、そうしたことも考えないといけません。

社会において、人を導くと言うことは大事なことです。新入社員や部下を育てるだけでなく、子供を育てる、それも導きです。教育そのものが導きですね。だから、学校はいろいろな手段を使って脳の活性化を促すのです。家庭でもそれに協力するのが、正しい導きですね。また、師が弟子を育てる、それも導きでしょう。その際に、智慧の無い育て方をすれば、歪んだ弟子ができあがってしまいます。

導く手段、方法、方便は、数多くあります。嘘も方便というくらいですから、時には嘘もいい方法でしょう。ただし、間違った手段はダメですね。正しい導き、そこが大事なのです。そのためには、よくよく考えることです。
この方法ならこうなるだろう、この手段ならこうなるかも、これは使えるな、これは無理だな……などと、相手の力量にあわせて手段や方法を選ぶことです。
それができれば、「方便は究極」となるのですよ。
合掌。


第246回
まず、自分は愚か者だと知ることが大事だ。
己は賢い、できる、すごいなどと自惚れていては、
幸運はやってこないだろう。
自分の事を「愚か者だ」と認識している人は、ほとんどいないでしょう。お釈迦様がいう「人は愚かな生き物」と、誰が意識しているでしょうか? お坊さんでも少ないと思います。
人は「あぁ、しまった、なんてバカなことをしたんだ。自分はバカだ!」と思うことはあるでしょう。しかし、それは自分は愚かである、と認識しているのではなく、ただ後悔しているに過ぎません。それは、よくあることですよね。で、そうした後悔は、何度も繰り返されるのです。まあ、それが人間、と言ってしまえば、そうなんですが。

最近、すごく愚かな事件や事故、マナー違反が増えているように思うのですが、そう思っているのは私だけでしょうか? 行動制限がなくなり、ほぼ自由に過ごせるようになって、世間には人があふれています。コロナで、2年間ほど縛られていた反動なのか、ちょっと浮き足立っているように思えるんですよね。で、くだらない、えっ?と言うような、事件や事故、出来事が増えているように思えるのですよ。
例えば、北海道のあの水の噴き出し。水柱が立っていますが、それを見物に来る人が増えているのだそうです。また、ワイドショーなんぞでやると、益々増えるように思うのですが、マスコミはそんなことは気にせず、正義の味方気分で報道しますけどね。ちゃんとフォローすればいいのに、と思いますな。決して行ってはいけませんとね。

話を戻します。
水柱の見物に、人が来るのは、まあ仕方がないのかも知れません。見たい、と思うのはアリでしょう。でもね、その際のマナーが、ひどいようなのです。路上駐車は当たり前、他人の敷地に入ってもお構いなし……。それも、結構なお年寄りがやっていたり、分別があるだろうという者がやっていたり、あげくには子連れでやっているんですね。教育に悪いだろう、と思うのですが、こうした人たちは、愚か者なんでしょうね。自分たちの行動が間違っていると認識していないのですよ。で、注意されると逆ギレするんです。愚かしいことだと思います。そこまで落ちなくても、と思いますね。

ビーチも今年はひどいそうです。何がひどいって、ゴミの放置です。ゴミをそのまま残して帰ってしまう若者が増えたのだそうで。コロナの影響で、監視する人が足りないそうで、なかなかゴミのことまで、手が回らないのだそうです。また、注意すれば、やっぱり逆ギレするそうで、始末に負えないのだそうです。まあ、若者特有の悪ぶっている方がかっこいい的な行動なのででしょうね。そういう行動は、かえってバカ丸出しで、品位に欠けるものだと思わないのですよ。

交通事故も増えているのだそうです。理由は、高齢者ドライバーの逆走、ふらつき運転、アクセルとブレーキの踏み間違え、不注意などだそうで、それが増えているのだそうです。2年間、ドライブできなかった高齢者がでかけるようになったこともあるかもそれません。まあ、高齢者の方は、自分の運転がヤバイなんてことは、これっぽっちも思っていませんから、事故の確率は増えますよね。アブナイと、認識していれば注意力も増すと思うのですが、まあ、期待はできません。
高齢者ばかりじゃありません。どうも、自分勝手運転も増えているようです。右折車線からの直進、さらには左折、信号無視、歩道を走るバイク、お店の駐車場からの飛び出しなど、注意力を欠くどころか、むちゃくちゃな運転をする者も増えているのだそうです。で、事故るのですよ。ひどいのは、スマホ見ながら運転です。私もたまに見かけますが、よくやるなぁ、と思います。自分の運転はすごいから大丈夫、とでも思っているのでしょうか。そう思っているのなら、愚かの極みでしょう。

さらには、未だに煽り運転も多くあるそうで、それも事故の元ですね。YouTubeを見ておりますと、毎日のように煽り運転が、流れています。ナンバーもさらされているのに、と思います。今は、どこでも撮影されていますから、それを知った方がいいんじゃないか、と思いますよね。どこで誰が自分の事をネット上に流しているか、わかりませんから。
そもそも、運転技術もダメになっているのではないか、と思うことがよくあります。距離感が分からないのか、ここで出て来る? ここでそんなスピード出す?なんてことが結構あるのですよ。
こうしたことは、若者や高齢者だけじゃなく、結構なオジサンやオバサンもやっているのですから、この国はどうんなだ?と思ってしまいますよね。

殺人事件も毎日のように報道されています。どんだけ愚かなの、と思いますが、こうした事件もなくなりませんね。事件を起こす前に、考えることをしないのかな、と思いますが、究極的な精神状態に追い込まれると、それも無理なのでしょう。そうなる前に誰かに相談できればいいのでしょうけどね。特に若い方には、そうした事件を起こさないように願います。

人間は愚かです。で、自分の愚かさを少しもわかってはいません。しでかしてしまってから、「あぁ、バカだった」と思うのせいぜいです。いや、しでかしてしまっても、「くっそ、運が悪かった」としか思わない、超愚か者もいるでしょう。誰も、自分は愚かだ、とか思いませんから。

自分の事を賢いとか、自分はすごいとか、自分はできるとか、そうしたうぬぼれている人は、行く末ダメでしょう。結局、メッキが簡単に剥がれ、周囲からバカにされるようになるのです。そして、孤独が襲ってくるのですよ。威張って過ごした人間にやってくるのは、孤独しか無いのです。
人間は愚かな存在だ、自分も愚か者だ、と少しでも知っている人は、謙虚でしょう。自然に謙虚になってくるのだと思います。そうした人は、高齢になっても人が周囲にいるでしょうし、尊敬もされるものです。幸せな晩年を過ごすことができるでしょう。
孤独を選ぶのか、尊敬される人間を選ぶのか。それはあなたの考えに従うことです。自分は愚か者なのだ、知ることがまず第一歩ですね。
合掌。



第247回
人は一人で生きているわけではない。

多くの協力者、助け、支援があってこそ生きられるのである。

そのこと決して忘れてはいけない。
「私は、一人で生きてきました」
などという方は、今ではほとんどいないと思います。昔は……私が子供の頃は……TVドラマなどで、先ほどのような台詞を耳にしましたけどね。そんな台詞は、まあ、聞きませんね、現代では。
ですが、一人で生きていない、誰かの世話になっている、と思っている人、意識している人は、どうなんでしょうか? 果たして多くいるのでしょうか? 多くの人は、普段そんなことを考えてもいないと思います。
「いろいろな人の協力や助けがあって、今の自分があるのだ」
などと思って生活している人は、少ないのではないかと思います。

かく言う私も、その一人でした。いろいろな人の助けがあって、やっと生きていられるのだ、などと意識したことは、そうそうありません。というか、そんなことすら思ってもみないで、生活していました。まあ、それが普通だと思いますけどね。
ですが、個人的な修行を通して、私は、「あぁ、多くの人に助けられているのだ」と言うことを実感しております。そう、人は誰かの助けが無いと生きてはいけないのですよ。それを、知識としてではなく、実感しているのです。何というか、身体の中に入り込むような感覚で実感しております。

そもそも、人は一人では生きていけません。
「いや、そんなことはない。私は、衣食住、一人でまかなっている。誰の世話にもなっていない」
という方はいるのではないかと思います。でも、言いたいですね、
「あなたが身につけているものは、あなたが作ったのですか?」
と。
人は、必ず誰かの世話になっています。まあ、普段は忘れていますけどね。着るものだって、食べものだって、どこかの誰かが加工したり、作ったものでしょう。それを私たちは利用しているのです。決して、たった一人で生きているわけではありませんよね。

衣食住、一人でまかなっている。一人暮らしだから、誰の世話にもなっていない……。
確かに、見知らぬ人の世話にはなっているかも知れないが、知っている人には世話にはなっていない。
一人で生きているんです。
という方もいるでしょう。
しかし、よく考えてみてください。職場で世話になっていませんか? 助けてもらっていませんか? たった一人で誰とも関わらず、働いているのでしょうか?
そんなことは不可能でしょう。働いていれば、必ず誰かと関わっているはずです。関わっている以上、お互いに助け合っていると思うのですよ。そう、片方だけが助けるのでは無く、お互いに助け合っているのだと思うのです。

人は一人で生きているのではありません。いろいろな人と関わり合って生きているのです。そのなかで、お互いに協力したり、助け合ったり、といった関係が生まれているのです。特に家族があれば、家族同士、お互いに関わり合って、助けあって生活しているはずです。
「家族は何にもしてくれない」
などという若い人がいますが、そんなことはないでしょう。本当に何もしない家族なら、それは異常であり、ネグレクトかも知れないですね。そうした場合は、積極的に自ら家族に絡むか、外に助けを求めるべきですね。
そう、助けを求めることも大切なのです。なぜなら、一人では生きてはいけないからです。

高野山に大師教会という建物があります。そこに
「相互供養 相互礼拝」
という言葉が掲げられています。
「お互いに助け合おう お互いに大事にしあおう」
という意味ですね。お互いに助け合う、お互いに認め合う……。とてもいい言葉だと思います。

人は一人でいきられないからこそ、お互いに助け合い、認め合い、尊重し合う、それが大切なのです。
それを忘れてしまえば、人は単なる傲慢な生き物に堕してしまうでしょう。そうなれば、人としての姿、心を忘れてしまうことになるのです。それは、もはや人ではない生き物ですね。
人は一人で生きているわけではない、多くの人の助けがあって生きているのです。これを忘れれば、人は人ではなくなってしまうのですよ。決して忘れ無いよう心がけてください。
合掌。





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