人生いろいろ

「青年と旅人」

 一日のなすべき事を終え、風呂にも入り終わり、後は寝るだけになり扇風機の風を受けるひと時に、またとない幸せを感じる事が多いこの頃である。小学校5年生の事だった。確かな記憶ではないが、国語の教科書に[青年と旅人]という題だったと思う話があった。内容はおおよそ次のようなものだった。旅人が歩いていると一軒の小さな小屋にさしかかった。窓から覗いて見ると、中にはこれといった家具も無く、小さなランプの下で、粗末なテーブルに一人の青年が座っている。見ていると青年はひとりつぶやいた。「ああ、今日も力いっぱい働いた。ご飯も今腹いっぱい食べた。後は寝るばかりだ。何と私は幸せなんだろう。世界中で私ほど幸せな者は居るまい」という内容だった。其の後も話の続きがあったのかどうかは覚えていない。おそらくそれで終わっていたのではないかと思う。其の時担任の桑原先生は私たち生徒に質問をされた。「さてこの青年は本当に幸せでしょうか?」私は即座に「この青年は幸せではありません」と答えた。こんな貧乏な暮らしをしているのに幸せだなんて、この青年は思い違いをしていると確信していた。ところが続いて佐藤君が[この青年は幸せだと思います]と答えた。私には佐藤君の考えが理解できなかった。他の人の意見は無かった様に思う。私は先生が私の意見が正しいといってくれるものと期待していた。しかし先生は「さあ、どちらでしょうね」と云われただけだった。私は大変不満で、その場はそれで終わりになったがこの事は何となくいつまでも心に残っていた。

 佐藤君の意見が正しく、私は間違っていたと気付いたのはそれから何年も経ってからの事だった。その後はどうしてそんなことが私には分からず佐藤君に負けてしまったのかと恥ずかしく思っていた。四十年以上も経ってから同級会で佐藤君にこの事を話してみた。勿論彼は覚えていなかったが、「今でも同じ様に考えると思うよ」ということだった。

 最近になってまたこの事を思い出す事があり、考えも少し変わってきた。あの時の私の答えは純粋な子供の考えとしては間違いだとはいえないかもしれないと思いだしたのである。戦後間もない当時は日本全体が貧困のどん底にあった。この時代での私の答えは愛すべき素直さであり、ひょっとしたらかなりの子供は私の意見だったのではないだろうか。佐藤君の答えを出せるほどのおませな子供は少数派だったのではないかと思うのである。大人に同じ質問をすれば、私を含めて大多数の人は佐藤君の意見になるのだろう。しかし私たちは「健康で何とか食べられればそれで幸せだ」と口では言う一方で、金や富を求めてきゅうきゅうとし、時には犯罪まで犯してしまう事さえある。さらに思う。路上生活者もそれぞれ精一杯に生きている。彼らは幸せといえるかもしれない。しかし私たちの大部分は自らすすんでそうなろうとは思わない。どうやら頭で考える幸せと現実のそれは違うようだし、他人の幸せと自分のでは判断基準が違うのである。結局他人が人の幸せを判断するのは所詮無理であり、本人が幸せと思えばそれは間違いなく幸せだし、それを他人がどう判断しようが、それは他人の判断でしかなく、どちらが間違いというものではないようである。

 桑原先生があの時どちらが正しいと言われなかった理由が今になって少し分かったような気がする。今度佐藤君に会った時にはもう一度この話をしてみたいと思っている。               (00/8/8國雄)