「あーーーっ!!」
頓狂な声で呼び止められたのは、対局室のある六階、エレベーターを降りたところで、だった。
振り返るまでもなく、誰の声かはわかっていた。こんなところで何を騒いでいるんだ・・・と呆れながら、それでもアキラは声の方に向き直った。
「おはよ・・・」
「やっぱり!この服ー!」
駆け寄ってきた進藤ヒカルは、アキラの言葉も聞かずに彼の着ていたニットのセーターに目を落とした。
「もーっ、ダメっつっただろー!手合の日にコレ着てくんなよなー!」
「着てくるなって・・・別にボクが何を着ようと勝手だろう?」
「勝手じゃなぁーい!ダメったらダメ、ゼッタイにダメ!」
話は十日ほど前にさかのぼる。
その日、ヒカルは塔矢家を訪れていた。
行洋氏も在宅で、アキラと三人で少し話をした後、アキラの部屋で一局打とうと立ち上がると、行洋氏の好意で塔矢家の対局室を使わせてくれた。
同じ年頃の友人を、息子が家に連れてくることなど今までなかったせいか、ヒカルが訪れるといつも明子夫人は歓待してくれる。区切りついたらいらっしゃいね、ケーキと紅茶用意するわね、という明子夫人の声を背に、二人は対局室に向かった。
部屋に入ると、閉め切った和室の独特の匂いがした。真新しい、畳の匂い。
「いいニオイする。ココの畳、最近張り替えた?」
「ああ。先週、畳屋に来てもらってたよ」
庭に面した障子を開け放し、碁盤の向かいに腰を下ろすアキラの姿を何気なしに目で追っていたヒカルは、唐突に、常日頃から気になっていた「あること」の答えに気付いた。
常日頃から気になって仕方なかった「あること」。
「オマエってさー・・・、」
「え?」
座る動作が、なんかエロいんだよ。
・・・などと率直に言ったら殴られそうなので、ヒカルは口をつぐんだ。
「なに?」
「い、い、いや何でもない。じゃ打とうーか!」
塔矢って、座る動作がなんかヤラシー。
そう思うようになったのは、結構前からだ。
なぜそう感じるのか、よくわからなかったのだが、さっき彼が向かいに座ろうとする一連の動作を見ていて、突如、回線がつながるようにその答えがわかった。
まず、髪のせいだ。
前屈みになった瞬間、サラサラの真っ直ぐな髪が頬にこぼれてきて、普段あまり目にすることのない耳朶が見え隠れする。一瞬垣間見える、耳の下から顎へと続くきれいなライン。触りたい、と思うのだが、さすがにそれはなかなか言い出せずにいた。
それと、目。
腰を下ろす時、なぜか塔矢は目を閉じる癖がある。
正確には極端な伏目になるだけなのかもしれないが、長い睫毛が目元に影を落とし、いつも真っ直ぐに前を見据えている彼とは違った表情を見せられて、ヒカルはいつもドキドキしてしまうのだ。
そういえば以前、棋院での手合の時、ヒカルのいる場所からよく見えるところにアキラが背中を向けて座っていたことがある。対局開始のブザー直後、おねがいします、と頭を下げる彼の後ろ姿を目の端で捉えていたヒカルは、アキラのほっそりした襟足から髪が左右にこぼれて白いうなじが一瞬だけ露出する瞬間を目の当たりにしてしまった。
それはかなりショッキングな光景だった。これから大事な対局だというのに、何てもの見せるんだよっ・・・と内心で焦りながらも、平常心を取り戻すために、ヒカルは向かいに座っている対局相手の男性の、左右の鼻の穴からはみ出ている鼻毛の本数を必死で数えた。おかげでアキラのうなじは一旦意識の外に追い出すことが出来た。
・・・コイツって、自分の無意識の動作の罪悪を、わかってねえよな。
そしてこの一連の動作は、当然、対局開始時の礼でも繰り返されるわけで。
「おねがいします」
「おねがいしま・・・」
それでもやはりこっそりと見ずにはいられない自分がカナシイと思いながら、ヒカルは向かいで頭を下げるアキラの方をちらりと盗み見た。
「・・・!?」
この日のアキラは、上はネイビーブルーのゆったりしたセーター、下はベージュ色のジーンズという格好だった。
普段、襟元のきっちり詰まった服装が多いアキラには珍しく、首まわりをかなり大きく切り取ったVネックのセーターだった。左右にまっすぐ綺麗に伸びた鎖骨が丸見えで、塔矢家の玄関先でアキラに出迎えられた瞬間からヒカルは気になって仕方なかった。しかもシンプルなデザインのそのセーターは、なめらかな素材のせいか、ゆったりとしたサイズの割にはアキラの動作に沿って彼の細い身体のラインを逐一くっきり浮かび上がらせるため、あらぬ妄想をかきたてられてしまう。
おねがいします、と頭を下げた瞬間、大きく開いたVネックの胸元から、奥の方まで丸見えになっているのが目に入り、ヒカルはにわかに血流が速まるのを感じた。
だいたい、見えるか見えないかという中途半端さが妙にヤラシーのだ。
わかってはいたけど、今日、このセーター、素肌に一枚で着てるんだよな・・・
シャツやトレーナーならどうってコトないのに、セーターだと妙にヤラシイような気がするのは何故なんだろう。いや、これがほかの誰かだったら大した問題ではないのだが(当たり前だ)、いつもきっちりと(特に襟元は)ガードの固い塔矢アキラが。逆立ちしたらそのまま全部ずるっと首まで脱げてしまいそうなゆったりしたセーター一枚でウロウロしているというのが、ヒカルにとっては大問題だった。
・・・あの裾から、簡単に手とか突っ込めそうだし・・・。
いや、違うだろ!今は、そうじゃなくって!
・・・胸元からでも簡単に手とか突っ・・・
いやだから、そうじゃねぇだろ!
ここ、塔矢先生んちの対局室だぞ!塔矢と塔矢先生が、毎日真剣に打ってる場所だぞ!ここで、塔矢先生と門下の人たちが研究会開いて、緒方先生や芦原さんたちが真剣に検討してる場所なんだぞ!そんな神聖な場所で、さっきからナニ考えてるんだオレはぁぁ〜〜!!
考えまいとすると、思考はますます深みにハマっていき、ヒカルは慌てた。
どうやら、息が漏れてしまったらしい。
顔を上げたアキラが怪訝な表情でヒカルのほうを見ている。
「進藤・・・?」
「え・・・っ、あ?何」
「何、じゃないだろう」
アキラは少し憮然とした口調で言った。「さっきから何か言いかけてやめたり、溜め息ついたり。言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれないと、わからないんだけどね?」
「ち、違うって!」
「何がどう違うんだい」
「だ、だから・・・」
「だから?」
「いや・・・、オマエのその服、なんだけど・・・」
言えない。
オマエの鎖骨と胸元が気になってムラムラきてる、なんてゼッタイに言えない。
「・・・そういうカッコ、珍しいなーと思って・・・」
「・・・?」
「その・・・、このへん、大きく開いてるカッコ、オマエあんまりしねーから」
そう言って、ヒカルは自分の鎖骨の辺りを撫でた。
「あ・・・これは・・・、たまたま、色が気に入ったから・・・」
少し言い訳がましそうに呟くアキラの声が、何故か尻すぼみになる。
「何か、変、かな・・・」
「い、いや、別に全然、変とかじゃねーんだけどさ・・・」
言いかけて、ヒカルははっと気付いた。
もしアキラがこんな格好で手合に出たら、当然、その日の対局相手は、いま自分が見ているのと同じものを目にすることになる。盤の前に腰を下ろし、おねがいしますと頭を下げて、その一連の動きのあと、碁盤を挟んで向かい合っている間、ずっと!
それって、なんか、すごく、ヤだ。
そんな勿体無いこと、させてもいいのだろうか。(いや、よくない)老若男女、相手が誰だろうと、ゼッタイに良くない。
「塔矢っ!」
「え?」
「オマエ、その服、手合ん時にはゼッタイ着てくんなよ!」
「何なんだ、急に・・・」
「そ、そういう・・・、」
ヤラシー格好、じゃなくて。「き、緊張感のない格好はよくないだろ!」
ヒカルのこの発言に、アキラは眉をひそめた。
「緊張感のない、って・・・キミにだけはそんな事言われたくないな」
「う・・・」
そうなのだ。本人は特に意識してないのだが、常日頃まるで緊張感のない服装で棋院に出入しているのはヒカルのほうである。アキラの言い分は尤もだった。
「ともかく、ソレ着てくんな!ゼッタイダメだからな!」
「余計なお世話だよ。そんなふうに言われる筋合いはないね」
何が気に食わないのか、アキラの機嫌は急速に悪くなった。
結局、雑念に取り憑かれたまま集中できないヒカルは、何故か怒っているアキラに容赦なしに打ち込まれてボロ負けした。
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