「ダメったらダメ、ゼッタイにダメ!」
棋院六階のエレベーターホールの前で血相を変えているヒカルの方を、横を通る人たちが振り返った。
「進藤・・・声が大きいよ」
「うっ・・・」
たしなめられて、ヒカルは声を落とした。「ダメだっつったのに、何で着てくるんだよー!」
あの日と同じ、ゆったりした紺色のセーターに身を包んだアキラは、意味がわからないというふうにヒカルの顔を見た。
「なんでそんなにこだわるんだ」
「いいから着替えろって!」
「バカ言うな」
靴を脱いで下駄箱に入れようとしたアキラが上体を屈めた瞬間、またもや、大きく開いたVネックの胸元からその奥の白い肌が丸見えになって、ヒカルは悲鳴を上げそうになった。
「もうっ、いいから来いッ!!」
アキラの腕を掴み、対局室から離れた場所まで引っ張ってくると、ヒカルは自分が羽織っていた厚手のシャツを脱いで突きつけた。
「これ。上に着ろ」
「なんで」
「なんでも!」
「いらないよ別に。暑い」
「頼むから着てくれ」
「・・・何かの罰ゲームなのか?」
「いやそうじゃなくて」
「キミはその格好じゃ寒いだろう」
ヒカルは薄手の長袖Tシャツ一枚になっている。
「別に寒くねーよ」
「あとになって風邪をひいたなんて言われても困るよ。状況を説明してくれないと、ボクも協力は出来ない」
こんな時に堅苦しい動機付けを求められると、ますます言いにくくなってしまうが、こうなるとアキラは絶対に引かないだろう。
ヒカルは観念して口を開いた。
「・・・そのセーター、ちょっと開きすぎ」
「?」
「ここ。このへん。・・・屈んだら胸まで見える」
ぼそぼそと言うヒカルに、少し呆れたようにアキラが溜め息をついた。
「別に・・・平気だよ、女の子じゃないんだから」
「オマエが平気でも、オレはヤなの!」
「べつにキミが嫌がる必要ないだろう?」
「ヤなんだよっ、あんまし、ほ・・・ほかのヤツに見られるのっ・・・」
耳の端を赤くして、ヒカルは目を逸らした。「ちゃんと言ったからな。コレ着ろよ」
(・・・やれやれ。何を言い出すかと思えば。)
呆れる気持ち半分、くすぐったい気持ち半分で、アキラは苦笑しつつうなずいた。
「・・・いいけど。セーターの上にこれはちょっと暑いな」
和谷義高がエレベーターを降りたとき、対局室のほうに入っていく塔矢アキラの姿が目に入った。
見た瞬間、あれ?という違和感を覚えた。
髪型と姿勢で塔矢だとわかったのだが。
服装が。
下は白いチノパンツ、これはよく見る気がするが、上が。
クリーム色のカットソーの上に、エンジ色とオレンジ色をベースにした大きめのチェックパターン生地のシャツをラフに羽織っていた。
塔矢がこんなラフな格好してるのって珍しいな、との思いで、思わずしげしげと眺めてしまった。どっちかといえば、進藤みたいな格好だ。
その進藤ヒカルは、自販機のそばで冴木と話をしていた。
和谷の姿にすぐ気付き、ヒカルは、おはよう、と笑顔を向けてきた。いつもと変わらない姿だが、何かが違う。
髪型?
いや、服装のせいだ。
紺無地の、ゆったりしたウールのセーター。進藤にしては上品な趣味だと思った。襟元をやや深めにカットしたVネックで、等身の見た目のバランスの変化と、視線を上に集める分、普段より少し背が高く見える。下は裾の擦り切れたワイドシルエットのジーンズで、腰にウォレットチェーンがぶら下がっているところはやはり彼だが。
「・・・。」
「和谷ー?どうかしたのか?」
「いや・・・珍しいよな、おまえがそういうの着てるのって」
「・・・・・、」
目を白黒させているヒカルには構わず、和谷は店屋物の注文書にペンを走らせた。
洗って返すから、と言い張り、結局この日は互いに取り替えた服を着て帰宅してしまった。
セーターの襟元を引き上げて顔を埋めると、塔矢の匂いがするようで。間接キスならぬ間接抱擁だなぁ、何だかとーやに抱き締められてるみたい・・・などと思うと自然に顔がにやけてくる。
しかし、間もなくヒカルは、これを着て帰宅してしまったことを後悔した。
このセーターを見ていると、当然、これを着ていたアキラの姿が浮かんでくるわけで。
きれいな鎖骨とか、胸元とか、動きに沿って浮かび上がる、カラダの線とか。
つまり、イケナイとは思っても、イロイロ妄想をたくましくしてしまいたくなるワケで。
でもそれじゃ、まるでソレ目的で着て帰ったみたいじゃんかよ!ソレってヤじゃないか!?
塔矢が。
欲望とプライドとアキラへの想いの間で葛藤しながら、ヒカルは悶々と眠れない夜を過ごすハメになってしまった。
ちなみに。
十日前にヒカルが塔矢家を訪れたあの日、アキラがおろしたての真新しい紺色のセーターを着ていたのは、元々ヒカルが原因だった。
以前、アキラの鎖骨を見たヒカルが「オマエのココ、すげーキレイだなー!」と何故か異常に嬉しそうに言っていたのを何となく覚えていて、ヒカルに会うあの日、半分無意識にそういうデザインの服を選んでいた。ところが今度は「緊張感のない格好をするな」とクレームをつけられたのでは、アキラが気を悪くするのは尤もといえば尤もである。
ただ、カラダに厚みのないアキラがああいうセーターを着ると、本人が想像もしないほど襟元から中身が丸見えになるのは必至で、それはヒカルの平常心を粉砕するのに十分すぎた。けっして確信犯ではないアキラを責めることはできないが、それ以上にカワイソウなヒカルをもまた、誰も責めることはできないのである。
もちろん、誤解の解けた後、アキラがあのセーターを着て出かけるときは、インにきちんと襟の付いたシャツを合わせて着るようになった。
それを見てほっと胸を撫で下ろす反面、ちょっと惜しいかも、などと勝手なことを考えているヒカルだった。
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