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第一話 行き先は切符が示している〜Lemures〜


 小さい頃、駅前のイベントホールでやっていたヒーローショウには歓喜していた俺も、
クリスマスの朝に届けられるプレゼントの送り主が、自分の両親だということくらいは知
っていた。ヒーローの必殺技を声高に叫んで、なりきる高揚感に酔っていた俺だが、正月
と言えば親戚に愛想を振りまいてお年玉という収入を得る、貴重な一日だと割り切ってい
た。そうでなければ、誰が素面で酔っ払いの大人の相手をするというのだ。
 あの頃、世の中の色々なことに納得ができず、不条理さを感じ、それでも、親が言うこ
とは神様の決定と同じくらい絶対的で、そんな中で、限定された自由を無意識に謳歌し、
いつか来る未来を夢見ていた俺たちは、やがて歳を取り、今度は二度と手に入らない過去
の幻影に振り回される羽目になる。
 クリスマス前夜に気持ちの昂りから眠りにつけず、親に早く寝なさいと叱られるような
ことはなくなったが、翌朝の枕元にプレゼントが置かれることも、いつしか無くなった。
 御節料理の味をようやく理解できるようになり、酒を飲めるようになっても、お年玉は
もらえなくなった。
 そして。
 いつの間にか、俺の中にいたヒーローは、消え去ってしまっていた。
 いい加減ガキじゃねえんだから、と自分に歯止めをかけたのは、果たしていつのことだ
ったのか。そもそも俺たちは、いや俺は、どの瞬間でガキでなくなったのか。
 夏休みのラジオ体操に行かなくなった瞬間か。
 声変わりした瞬間か。
 父親や母親の存在をうるさく感じた瞬間か。
 受験の為に遊ぶことを犠牲にした瞬間か。
 明確に将来を考え始めた瞬間か。
 ごく単純に成人式を迎えた瞬間か。
 職に就いた瞬間か。
 自分に生命保険をかけた瞬間か。
 …いや、それらは全て不要な思考。
 俺は知っている。
 その瞬間が、どこにあったのか。
 道を選ぶことにことごとく「理由」を付けるようになった、まさにその瞬間、俺はガキ
ではなくなったのだ。理由がなくては身動きひとつ取れなくなったとき、俺は世に言う大
人というやつになったのだ。
 小さい頃、父親に必死にねだって買ってもらった、ヒーローの必殺武器のレプリカは、
いつ頃からか玩具箱の奥底に追いやられるようになり、いつかの大掃除で不燃ゴミに出し
てしまった。久しぶりに手に取ったとき、俺の中には懐かしいという気持ち以外に何もな
く、自分はもうこんなもので遊ぶような歳ではなくなった、と誰が決めたわけでもないの
に勝手に線を引いて、範囲外の全てを不要として排除した。
 そこには純粋さなど欠片もない。
 優しい時間の残滓。
 あるいはそれは、どこまでも残酷で残忍な。
 そして気付く。小さい頃の、冗談みたいに果てしなかった自分自身に。

 いつから変わった?
 何が、変わった?

 胃にずしりと重たい朝飯の残響を感じながら、俺はまるでベルトコンベアのように決ま
あったルートを進み続ける時間の流れに乗り込む。
 自宅から最寄りのバス停へ徒歩七分。バスに乗り込んで正味二十分ほどで目的の停留所
に到着。そこから五分で勤務先に到着。コンビニに寄っていけばプラス五分少々。午前九
時半に仕事を開始。午前十二時から一時間の休憩。午後一時から仕事再開。午後二時から
午後三時にかけて強烈な睡魔と闘い、午後六時半には退社。行きと同じ時間をかけて帰宅
後、夕食を取って二時間ほどで風呂に入り、午後十時ごろになってようやく自由な時間を
取得。日付を跨って午前二時くらいにベッドに入り、気付けは翌朝午前七時。眠い目をこ
すりながら家族と朝食を取り、仕事に行く準備をして家を出る。そしてまだ最寄りのバス
停へ徒歩七分。
 いつからか俺は、自分の世界の狭苦しさに、息が詰まるようになった。それはひどくゆ
っくりとした流れで俺の中に浸透してきたようで、明確な時期を特定することができず、
本当に「気が付いたら」、俺はそうなっていた。
 全くどこのどいつだ、世界は広いなんて言ってくれたのは。きっと、「世界」という上
等な言葉のもたらすイメージに、よほど壮大なものを感じてしまったのだろう。迷惑この
上ない。
 世界などというものは、自分を中心とした半径数メートルと、その自分が移動するいく
つかの拠点。それが全てだ。この眼で見たことの無い光景、この足で立ったことの無い場
所、この手で触れたことの無い物体、この耳で聴いたことの無い音、この舌で感じたこと
のない味、そうしたものを自分の世界とは呼ばない。そうしたものを自分の世界の一部と
している人間は、病院に行ったほうが良い。病院に行って、そのまま二度と出てこなけれ
ば良い。
 世界はひとつだと言う者がいるが、そんなもの、物理的には最初からひとつだし、精神
的なレベルでは、おそらくこの先いつまで経っても、世界がひとつになることは無いだろ
う。全てをひとつにしたいというのは、人間特有の合理主義が生み出す思考だろうか。だ
としたら、人間というのは本当に、不自然な生き物だと思わされる。
 ときどき思うのだ。
 自分以外の全ての音が、潮が引くようにフェードアウトし、自分を含めた全ての景色が
色を喪失し、自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる瞬間、海辺に顔を出した綺麗な貝
殻に気付く感覚に似た、すごく自然な、純粋な気持ちで思うのだ。
 世界なんか無くなれば良いと。
 だが、ここで言う世界というのは、あくまでも俺の世界を指し示すから、要するに、俺
は広義での世界から消え去りたいのだろうなあと、他人事のように理解する。その他人事
のような感覚が、少し面白い。
 世界は決してひとつになり得ないが、完全に断絶されもしない。どこかで、何かで、必
ず別のどこか、何かと関わっている。無関係ではいられない。全くどこのどいつだ、世界
をこんな面倒臭い構造に作り上げたのは。
 それにしても、全てから断絶された世界というのは、どんな世界なのだろう。俺が煩わ
しいと思っている全ての事象から解放された世界は、どれほど魅力的なのだろう。
 そんな世界があるのなら、行ってみたい。
 俺の世界が無くなろうと知ったことか。
 俺はもう退屈しきったんだ。こんな世界にはいたくない。
 毎日毎日同じようなことをしていくだけの人生は嫌だ。
 二十年、三十年先の未来が簡単に見えてしまう。
 なんて詰まらない世界なんだろう。
 いつからこんなふうに、世界を詰まらなく思うようになったんだろう。
 記憶の端を風のように過ぎ去っていく光景は、いつも鮮やかで、心地良い。
 夏の緑。
 虫篭と虫取り網。
 振り向く満面の笑み。
 小学生の俺。
 耳をつんざく蝉の声。
 走り去る。
 何も知らずに。
 知らないことを罪だとするのは、知ってしまった者の負け惜しみだ。
 知らないことは、眩しい。
 太陽のように。
 だから直視できない。
 手を翳せば、思い知る。
 もう戻れないこと。
 もう取り返せないこと。
 もう味わえないこと。
 もう、どうしようもないこと。
 だから、知ろうとする。
 知る以外に、道はないから。
 だが、もし。
 もし、許されるなら。
 もう一度――。
 でも、俺は知っている。そんなことは無理だと。
 淡い期待だ。いや、期待すらしていない。
 こんな日は何をする気にもなれなくて、でもそれを理由にはできないから、朝には普通
に家を出て、家族の前ではいつも通りを装う。けれど、気持ちはやはり、いつも通りであ
ることを拒む。どうしようもない衝動が突き抜けて、職場に休みの連絡を入れる。適当な
理由で。
 よく思うのが、こうした衝動は殺意に似ているということだ。いくらかの罪悪感と、そ
れを超える充足感の構造体。俺には人を殺した経験はないけど、きっと、誰かの命を奪っ
たら、こんな気持ちになるのだろう。
 そして例外なく後悔する。先に立たないとはよく言ったものだ。
 気持ちが晴れきったことなど一度もなかった。
 だが、そうするしかなかった。
 奇妙な感覚。
 俺は冷静かつ現実的に世間を見ていながら、一方で、この世界とは全く別の、俺の期待
や希望を全て形にしたような世界が存在していると、どこかで信じていた。
 証明はできない。しかし、否定できるだけの根拠もない。だから信じられる。ありえな
い、という言葉は嫌いだ。価値観の押し売りに見える。
 信じてどうなるものか、それは分からない。信じれば叶うなどと、幼い子供のために用
意されたような言葉で気持ちを切り替えられるほど、俺はイカレてなんかいない。
 そうだ、俺はマトモだ。正常だ。異常なのは世界の方だ。
 ああくそ。今日は本気で駄目だな。何もしたくないや。
 家族は今日も、俺が普通の生活を送っていると思っていることだろう。上司にケツを蹴
り上げられ、すみません申し訳ありませんとペコペコ頭を下げながら、それでもいつかは
伸し上がってやろうと密かな野望を抱きつつ、真夏の冷房みたく冷えきった典型的な縦社
会の中を生きる、そんな普遍的な俺を。
 しかし俺は職場に休みの連絡を入れる。職場の上司は俺が自宅にいるとでも思うことだ
ろう。電話口で苦しそうにしながら申し訳ありませんお休みをいただきますと懇願する俺
に、表向きには優しげな口調で大事にしろと言い、心の中では役に立たないクソ野郎がと
罵りながら、それでも仕方なく俺を許し、以降は俺のことなどいない人間と同類に扱うの
だ。
 さあ、これで俺の本当の居場所を知る者はいない。俺は自由だ。
 今日という日を、どう過ごそうか。
 どこへ行くのも、何をするのも、全ては俺の思うまま。
 とりあえず……そうだな。
 決められたルートを走るだけのこのバスの、どこか空いた席にでも座ろう。
 適当なところで降りて、あとは好きなようにすれば良い。
 職場には頃合を見計らって連絡して、家にはそれらしい時間帯に帰れば良い。
 何事もなかったように一日を終わらせて、俺は俺だけの時間を過ごすさ。

     ◇◆◇◆◇

 東側の窓から差し込んできた朝日はカーテンで緩和されて、僕を眠りの世界から引き摺
り出すほどの威力は持っていなかった。ただただ心地良い暖かさが、かえって僕の眠りを
安らかにするばかりだ。
 しかし、そんな僕の眠りも、さすがにこの一言には敵わない。
「いつまで寝てるつもりー? 早く起きなさい」
 朝にめっぽう弱い僕の頭は、まともな思考力など持ち合わせてはいない。なんとなく起
きないとヤバそうだから起きて、しばらくベッドの上でぼーっとしている。五分ほど同じ
状態を継続したところでようやくエンジンが温まってくるので、僕はやっと動き出す。
 いつもと何も変わらない、平凡極まりない一日の始まりだ。
 部屋を出て、誰を憚ることなく盛大に欠伸をし、眠気まなこをこすりながら、朝メシの
良い匂いに引っ張られるように、階段を下りて一階のリビングへ。
 白米と味噌汁と目玉焼き。別段、珍しいメニューというわけでもないが、この平凡さが
たまらない。しかも美味いんだから。やっぱり、日本の朝は和食だよ。
「いただきます」
 軽く合掌。いざブレックファスト。
 …というところで、僕はあることに気付いた。
「あれ? 兄貴は?」
 いつもなら、僕が食事を始めようとする頃には半分くらい朝食を食べ終えている兄貴が
今日はいなかった。ちなみに親父は、とっくに出勤している。
「もう会社。朝から会議だって」
 母の声を聞きながら、僕は改めて朝メシを食べ始める。
 兄貴、今日は早かったのか。
 七つ年上の兄貴は、高卒と同時に就職した二十四歳。大学に行くことが可能であったに
も関わらず就職を選び、一人暮らしはしないで実家から職場に通い続けるという、僕の持
つ社会人のイメージからは少し離れたスタイルで活動している。どこか掴み所のない性格
をしてはいるが、年齢差の割に壁を感じることがなく、時おり眠る前のわずかな時間をな
んでもない会話で過ごすこともある。昨晩の夜も、そうだった。
 全てがいつも通りであることを、今朝に限って特別に願ったわけではないし、逆に拒ん
だわけでもない。むしろ、そういったことはデフォルトで意識の外にあって、そうした認
識でいるからこそ、今朝は唐突で、意外な展開となっていた。それだけのこと。
 放っておいても過ぎていく時間の中で、僕は高校へ行く準備をする。食事を済ませたら
歯を磨き、部屋に戻って制服に着替え、荷物のチェック。よし、忘れ物はないな。
 いってきます、と、いってらっしゃい、のやり取りをして、学校指定の自転車に乗って
登校する。春と夏の間の、今みたいな過ごしやすい時期が僕は好きだ。友人には、「雪山
にも海にも行けないこんな微妙な時期が好きとは、正気の沙汰とは思えん」って言われた
けど、僕にしてみたら、暑すぎたり寒すぎたりする方がいいなんて言っていること自体、
正気の沙汰とは思えないね。僕だって夏の海で泳ぐことや、冬の雪山でスキーやスノーボ
ードをすることは好きだけど、欠かさずというほどじゃない。機会があれば行く程度だ。
それくらいが丁度いい。
 けれど、そうした行為に気持ちのベクトルを大きく傾けられる神経は、正直にすごいと
思うのだ。僕などは、これからの将来に対する明確な目標も曖昧で、とりあえず来年の就
職活動に困らない程度の成績は取ろう、というレベルで勉学に運動に励んでいる。まあそ
れなりに満たされた学生生活を送っているし、自分で希望した進路を快く承諾してくれた
両親には、人並みながら感謝もしている。兄貴からも激励を受けた。
 別に、そうしたものを背負って、というわけではない。僕は僕として、今の生活を気に
入っている。それだけのことだ。あとは、タイミングをそう見誤らなければ、就職だって
それなりにできるだろう。両親にできるだけ負担をかけないようにしつつ、少しずつでも
自立できれば結構だ。特に目新しくなくても、珍しくなくても良い。人生なんてものを語
れるほど経験は無いが、それでも、そんな人生で良いのじゃないかと思う。それで天寿を
全うして、老衰で死ねれば万々歳じゃないか。
 いつのことだったか、何かの拍子に、そんな話を兄貴としたことがある。兄貴は苦笑し
ながら、それは一番難しいことだぞ、と僕に言った。
 実際、それはそうだな、と今でも思う。世の中というのは、まるで出来上がったパズル
と同じだ。一見、完成されているように見えても、それは小さなピースの集合体で、継ぎ
目は必ず存在している。自然に見えても、不自然の固まりなのだ。思い通りにいくことな
ど、そうそうあるものではない。
 でもまあ、思い通りに物事が運びすぎても、きっと退屈するのだろうなあと思う。自分
が予想した通りの結果が常に付きまとったら、僕はきっと狂ってしまうことだろう。とこ
ろが、逆に全く先が見えないと、今度は不安で仕方がなくなる。わがままな話。それでい
て自然。しかも自由。
 とても、安定しているんだ。

 いつも変わらない。
 何も、変わらない。

 今日に限って違う何かが起こることを期待していたら、それこそ体がいくつあっても足
らないわけで、僕の生活は普段となんら変わりない。
 朝のホームルームは退屈だし、今日一日の長さを考えながらうんざりしている。一時間
目の国語は眠くて、いまいちエンジンがかからない状況。二時間目の数学は、ぶっちゃけ
朝からそんなに頭を使わせて欲しくないと思う。三時間目の体育は腹が減る。それに尽き
る。昼飯はお袋の作ってくれた弁当を友達と屋上で食べる。午前中の授業の先生のことと
か、昨日テレビでやってた音楽番組の話とか、週刊少年各誌の話とか、今日の午後に暇だ
ったらどこか行かないかとか、どうでもいいけど面白い話で盛り上がって、あっという間
に昼放課を過ごして、午後の授業に突入する。四時間目の社会は正直睡魔との戦闘がメイ
ンで、僕の中では気に入っているゲームのボス戦の音楽が、エンドレスリピートで流れま
くっているような状態だ。五時間目になれば眠気はすっ飛ぶが、帰りにコンビニでも寄っ
て軽く買い食いするかとか、駅前のショッピングモールにでも出掛けて少し遊んで来よう
かとか、そういうことばかりが頭の中を行進してくれて、物理の先生の話なんか頭に入っ
てこない。六時間目はもう完全に帰る気満々で、それどころか、なんで自分はこんな時間
までここにいなきゃならんのだと詰まらない苛立ちを感じ始める。そういやなんの授業だ
ったっけ?
 下校時刻になっても太陽が明るいこの時期は、すぐさま家に帰るのは勿体無い気分で、
そのまま駅前のショッピングモールに遊びに行った。駅前のモールは数年前にできた比較
的新しいもので、建設当時は地元商店街とのお約束のような悶着があったようだが、結局
は建設されて、皮肉にも駅周辺の大きなシンボルになっている。地元の受け入れも意外と
すんなりしていて、人の精神のなんとドライなことかと子供心に思ったことも、今ではな
んだか遠い話。
 すっかりこの街に溶け込んだこのモールの入口に差し掛かる。まだまだ駅前は人通りが
多くて、まだまだこれから、という雰囲気。
 モールに入って、本屋とCD屋を梯子して、一時間くらい時間を潰して、空が少し橙色
に染まってきた頃、なんということもなくモールを出たところで、思わぬ人物と出くわし
た。
「…兄貴?」
 そう、兄貴だ。
 見慣れた紺のスーツ姿に、いまいち緊張感に欠ける表情をくっ付けて、兄貴が僕を見下
ろしていた。
「…何してるんだ、こんなところで?」
 兄貴は、なぜか驚いたような表情で僕に言う。
「…いや、学校の帰り、だけど」
「…あー、そうか。もうそんな時間か。
 つうか、家と正反対だぞ、こっちの方向」
「ちょっと本とCDが見たかったから」
「そうか」
 兄貴はそれ以上の追及をしてこない。
 普通だったら、暗くなる前に帰れとか、兄貴ヅラするんじゃないのかと思うんだけど、
兄貴にはそれがない。だからだろう。七つも歳の離れた兄貴に、あまり距離や壁を感じた
りしないのは。
「兄貴は?」
「外回りの帰り」
「じゃあ、今日はもう終わり?」
「いや、これから会社戻って、報告書を書かないといけないから」
 今日も遅いんだ。
 気持ちが、少し低いところに遷移する。
 最後に兄貴と、家族四人で食事したのはいつだったかな、なんてことを考えたりした。
「それ、今日じゃないと駄目なの?」
「それ?」
「報告書」
「あー。
 まあ、強制じゃないけど、後回しにすると、結局は自分がつらくなるだけだから」
「メシは?」
「母さんに連絡入れておいた。今日も自分で食べる」
「今日も遅いの?」
「タクシー使わんで済む程度には、適当に切り上げて帰って来るさ」
 それ遅いってことだよ、兄貴。
「兄貴、ちゃんと寝てる?」
「寝てなかったら、今頃ぶっ倒れてると思うけどなあ」
「メシも、ちゃんと食ってる?」
「少し太った。俺もおっさんの仲間入りかな」
 笑って言うことじゃないよ、兄貴。
 それじゃあ行くわ、と言って、兄貴は軽く手を上げて駅の人ごみの中へ消えていった。
 …僕は。
 なんだか、妙に気持ちが冷めてしまって。
 何をどうしたら良いものやら、不思議な心を持て余しながら、自転車に乗って、家路に
ついた。

     ◇◆◇◆◇

 そのときの俺が何を思っていたのか、それを客観的に精確に、しかし主観的な視点を失
わずに、つまり正直に言うとしたら、それは拒否しながらの期待と表現できる。家族にも
職場にも嘘をついた俺が、こうして知り合いにばったり出くわすような場所をわざわざ選
んでうろついていたのは、間違いなくそういう感情だ。
 可笑しい話じゃないか。そうだろう? 表面では拒絶しているのに、その実、内側では
どこか求めて、待っているなんて。しかし、実際に誰かしらと遭遇すると、これは思った
以上のプレッシャだ。相手が自分の弟だっただけ、まだ良かったと思うべきなんだろう。
 その日の俺は、俺自身にとっても、思った以上に不可解だった。
 目覚めから家を出るまでの、家族とのあらゆるやり取りには、特別なことなど何もなか
った。驚くほど平静としていて、自然で、唐突なことなど何一つない、極めていつも通り
の時間が過ぎた。ところが、家を出て徒歩七分の間に気持ちが切り替わった。ひょっとし
たら俺の中にはスイッチがあって、俺の意識とは別の思考回路でオンとオフをデジタルに
切り替えているんじゃないかと思うほど、俺にはとても理解できない切り替わりっぷりだ
った。しかしその段階では、まだ決定は下されていなかった。三者の多数決で一人目と二
人目が正反対の解答を出して、三人目に全てが委ねられるような、そんな感覚だ。その三
人目が決定を出したのは、バスに乗り込んで数分後。俺は普段なら通過するだけのバス停
留所であっさりとバスを降り、すぐ近くのコンビニのトイレに駆け込み、朝食をリバース
する。別に朝食が悪かったわけじゃない。拒否反応が食事方面で顕著に出ただけだ。他の
何かが悪いわけじゃない。
 体調が落ち着いてきたところで、職場に連絡を入れた。無論、体調不良による休日の届
出だ。今月に入ってもう三度目。先月は二度だ。翌日には何事もなかったように変調が無
くなり、職場にも普通に出勤する。自分でも薄々気付いてはいるのだが、どうにもそれを
認めることに抵抗があって、職場では自分の体調管理に問題があるだけだから、と馬鹿み
たくヘラヘラして言っている。職場はそんな俺に、それならなんとかしろよ、と冗談交じ
りに言ってくる。少なくとも仕事に支障さえ出なければ、文句を言われることはない。
 まったくもって何事もない。
 まったくもって、面白くない。
 午前中の数時間を潰す為に、ただそれだけの為に、全国チェーンのカフェに入って、ア
イスコーヒーをちびちび飲みながら煙草をふかした。幸い、持ち歩いている鞄の中に文庫
本を一冊入れておく癖があったから、それを読むことで少しは退屈も解消できていたが、
それもはじめのうちで、すぐに飽きた。いや、飽きたというのは転嫁かな。本の世界にど
っぷり浸かっていけるほど、気持ちが安定していなかっただけだ。
 安定していなかった? それも違うだろう?
 落ち着かなかっただけだ。自分のした事に対して。
 不可解で仕方ない。
 自分で決定を下した事項だというのに、揺らいでいる。
 いつだってそう。
 自分だけで決定すると、本当にその決定が正しいのか不安になる。
 自分に都合の良い、他の誰かの賛同を求める。
 本音だろうと建前だろうと。
 そこに意味はなく。
 自分の決定は安全だという安心を求めている。
 いずれその決定に不安要素があったとき、転嫁できるから。
 自分は悪くないという安心。
 感知。
 キャッチ。
 認識。
 ズレている。
 これ以上の思考は無意味。
 無意味なら無効。
 無効であるなら、有効へ。
 有効なら有意義、あるいは有意味へ。
 転換を。
 変換を。
 複数の個性が同一の判断を下した。
 多数決は安心。
 安全でなくても、安心。
 安心であることは重要だ。
 時には、安全であることよりも。
 昼飯を普段より一時間くらい早めて、ファストフード店に寄ってハンバーガーのセット
を食べた。他にも色々メニューはあるが、俺はこの一番ノーマルなハンバーガーが好きな
んだ。費用対効果がさ、最高だろ? いくら働いているとはいえ、財布の中身がいつでも
心配御無用ということはないからね。いつどんなところで金がかかるか解らないし。
 …とはいえ、ことあるごとに財布の紐をきつくしているわけでもないのだけど。
 自分が欲しいと思ったものがあれば、そのときそのときの価値観で、自分で決めていた
制限をあっさり解除する。我ながらビックリするぞ、まったく。
 昼飯を早めるということは、昼時を避けるということであって、混雑した人ごみを避け
るという重要なファクタを成立させる。混雑していたり煩雑だったりする空間があまり好
きではない俺にとって、これはとても大事なことだ。
 昼を過ぎて少しした頃、携帯電話に友達の一人からメールが入っていた。こんな俺でも
懲りずに関わってくれる人間がいることに、俺は純粋な喜びと、そしてなぜか、少しばか
りの煩わしさを感じる。
 次の金曜の夜にでも会って、どこかに酒でも飲みに行かないか、という内容のメールだ
った。そういや少し前まで花の金曜日なんて言葉が使われていたけど、最近はすっかり消
え去ったなあ、なんて、またどうでも良いことを考えながら、俺はその友人にメールを返
信しようとする。
『悪い。今度の金曜は職場の飲み会があるんだわ』
 そこまで入力して、いったんは送信ボタンを押そうとするが、しかしすぐに思い直して
言葉を追加する。
『せっかく誘ってくれたのに、本当に悪い。埋め合わせするからさ』
 メールを打っている間の俺の表情は、それはもう冷え切ったものだった。
 何が『埋め合わせはするからさ』だよ。気持ち悪い。
 自分のことで手一杯なら、それなりの対応で終わらせりゃいいのに。どうしてもそれを
思い切れなくて、気遣うようなことをしてしまう。
 他人のこと気遣ってる場合じゃないよ、俺。
 俺が気遣ってほしいくらいなのにさ。
 しかも、実現するつもりのない約束なんかするなよ、俺。
 すげー嫌だ。
 なんでもかんでも表面上はキレイに収めようとしてさ。ふざけてくれるなよ。
 本当。マジでさ。ふざけるなっつの。
「…ひっでえ」
 言葉にして呟いた後、少し笑いそうになった。
 心にもない笑いを。
 携帯電話をバッグにしまった。すぐに相手からの返信があって、バイブしているのが手
に伝わってきて解ったけど、なんだか面倒になって無視した。
 メールしたのに反応ねーとか、電話したのに出ねーとか、俺はお前ら専属のベルボーイ
かよ。チップもよこさないで百パーセント確実な対応求めてんじゃねーよ。俺の人生は携
帯電話様を中心に回ってねーんだよ。それとも何か、俺は俺の人生をどうするか、いちい
ちお前らにお伺い立てなきゃならないのか? 勘弁しろよ。いつからお前ら俺の保護者に
なったんだよ。それなら俺の携帯料金とか払えよ。
 あー、もう最悪だ。
 自分のことだが、これはひどすぎる。
 誰一人、悪くはない。
 悪いのは、いつだって俺だ。
 それが解っているから、ブチ切れて喚きだしたり暴れだしたりしない。できない。
 俺がもう少し、そっち方面に緩い思考の持ち主だったら、適当に騒いで勝手に沈静化し
て、何事も無かったようにレッドゾーンから抜け出して生活してるんだろうに。面倒くさ
いもんだよ、本当に。
 学生の頃、クラスに数人は必ず存在していた悪ガキに対して感じていた、心の片隅にこ
びり付いたような感情の一部を思い出す。
 羨望を。
 あのときも不思議な感覚だった。わざわざ教師に挑発的な態度を取る同級生の姿を、俺
の気持ちの大多数は軽蔑していた。だってそうだろう。リスクに見合ったものが何も得ら
れない。
 幼い自己主張。
 子供にも劣る発想。
 赤ん坊だって、言葉を使えないという理由をもって泣き喚くのに。
 勢いだけで理由も無く、後先を無視した理性を欠いた行為。
 馬鹿ばっかりだと思った。
 そして同時に思った。
 俺は違う。あんな奴らとは違う。
 一時の感情で集団を乱したりしない。わざわざ枠から外れるような真似もしない。
 そうやって意識して、ちゃんと収まってきたんだ。
 しかし、俺の気持ちのいくつかは、そんな存在に興味を持っていた。
 彼らの思考に何があるのか。何が彼らを駆り立てているのか。彼らはなぜリスクを冒す
のか。どうしたら彼らのように、弾けることができるのか。
 膨らませ過ぎた風船のような。
 いつ破裂するかな、なんて、常にドキドキしているような、不思議な高揚を隠せない。
 その高揚を、俺は今になって、必死になって感じようとしているのだろうか。
 出来るだけ波風を立てないようにしながら。
 誰にも届かない自己主張をして。
 俺は、何を感じようとしているんだろう。
 青い空が少し赤みを帯びてくる頃、駅前の居酒屋に入った。チューハイを飲みながら適
当に料理を食べて、また煙草を何本もふかした。他人と飲みに行くと馬鹿みたく飲んでヘ
ラヘラ笑って騒ぐくせに、一人だと驚くほど飲む気が起きなくて、不安定な酔いのせいで
むしろ気分は悪かった。楽しいわけでもないから金を使う気も弱くて、頃合を見計らって
会計を済ませて、その金額でまた無駄遣いしたなあとか思って気分が低空飛行する。バス
に乗ったはいいものの家に帰る気も起きなくて、川近くの停留所で降りて、川沿いのベン
チに座ってまた煙草を吸う。これが昼間だったら、会社にリストラされたことを家族に言
えずに時間を潰すサラリーマンみたいに見えるのだろう。空はすっかり暗闇で、川の流れ
る音が不気味に響くと、得体の知れない巨大な奔流が自分を飲み込もうとしているような
気になって、飲み込むなら飲み込んでくれていいけど一気に頼むな、とか、誰に対するも
のでもない都合の良い懇願をしたりした。
 しばらくはそんな感じでボーッと過ごしているが、バスが無くなって家まで徒歩という
のはさすがに嫌で、また適当な頃合でバスに乗り込み、家路につく。出勤の早い父や、そ
の父親の弁当を作る母は朝が早いから、俺が帰る頃にはとっくに床に就いていて、部屋の
明かりも消えている。七つ年下の弟は勉強熱心で、よく夜中まで勉強しているようだ。い
つも部屋の明かりは点いている。今日もそうだった。俺は帰宅とほとんど同時に風呂に入
り、あとは自室でようやく自由な時間を得る。家族と夕食をする日と、今日みたいな(理
由はどうあれ)遅い帰宅となる日は半々で、今日みたいな日は特に顕著に、今日一日で家
族と交わした言葉はいくつだっただろう、などとどうでも良いことを寝る前の貴重な自由
時間に考える。
 おいおい、貴重な自由時間だって?
 今日一日、あれだけ好き放題の時間を過ごしてきたのに?
 しかし俺はすぐに思う。
 好き放題イコール自由じゃないだろ、と。
 自分に都合の良い思考だが、他人に迷惑をかけなければ、その思考は自由であり、救い
もある。
 そうして、自分の思考が堂々巡りを始めていることに気付くと、俺はいよいよ寝ること
にする。眠ってしまうことは勿体無いと思うのだが、だからといって無駄に考えて脳を働
かせても意味がない。意味がないなら、眠った方がよほど身体には有益だ。
 それじゃ寝るか、とわざわざ自分のスイッチを意識的に切り替えて、愛用の眼鏡を自分
のデスクの上に置いたとき、俺はそこに置かれた一通の封筒に気付いた。
「…ん?」
 宛名だけ書かれた、送り主の書かれていない白い封筒。ルームライトに翳してみたが、
中身を透かして見ることはできない。
 もう一度だけ宛名を確認し、それが俺であることを確認し、そして裏返して、やはり送
り主が書かれていないことを確認する。何かを送りつけられるような覚えは、少なくとも
俺には無い。しかし、少なくとも相手は、俺を特定して発信してきている。
 それにしても、宛名のみってのは、どうなんだ。
 よほどのせっかちか。
 それとも、わざと書いていないのか。
 どちらにしても言えるのは、
「…中身見たくなくなるようなことするなよ」
 小さくぼやいて、デスクの引き出しからメールオープナーを取り出す。
 まあ、どこの誰とも知らん奴から手紙が来たって、今さら驚きゃしないけど。
 封筒の中身も薄っぺらそうだし、直接的な被害を受けるようなもんじゃないだろう。
 オープナーでさっさと封を開けて、引っくり返して軽く上下させ、中身を手のひらに落
とす。
 それは。
「……切符?」
 すっぽり手のひらサイズの、薄い横長の長方形。
 白地の表面の中央に、右向きの大きな矢印があり、その左側にはよく解らんフォントの
文字で、こう書かれていた。
 ――今現在、この場所、この時間。
 そして、矢印の右側には、何も書かれていない。
 出発点が今現在、この場所、この時間で、行き先は未記入。
 貴方の行きたいところへ導いて差し上げます、ってか?
 こんなもんで救われるなら、世界中の人間がとっくに救われているだろうに。
「…悪い冗談の極み、だな」
 俺は即座にその切符を、封筒ともどもゴミ箱に放り込んだ。
 行き先はそこだよ。くそったれ。

     ◇◆◇◆◇

 向かいの部屋の主が帰宅したタイミングで時計を見たら、午後十一時だった。
 確かにタクシーは使ってないようだけど、終電ならぬ終バスって、大差ないよ兄貴。
 集中力がちょうど切れたので、両手を組んで頭上に持ち上げ、大きく伸びをする。イス
の背もたれにかけている力を大きくしたり小さくしたりして、天井の蛍光灯が視界の上下
間を行ったり来たりしているのを見ていると、妙な催眠術にかかりそうな気分になった。
 報告書ってそんなに時間がかかるものなのかな、なんて思って、報告書ってレポートみ
たいなもんかな、それならそんなに時間かからなそうだけどな、なんて思った。もしかし
たら兄貴は上司の人とかに良く思われてなくて色々要らないお小言を言われいてたんじゃ
ないかとか、わざわざ会社に戻ったことをいいことに要らない仕事を押し付けられたんじ
ゃないかとか、そんな想像が頭の中をいくつか通過していった。
 別に兄貴が弱いと思ってるわけじゃなくて、ただ僕の知っている兄貴は、頼まれると上
手く断れない性格で、嫌なことを言われてもあんまり顔に出さないから、損してるんじゃ
ないかなって、そう思っただけだ。
 けど、そういう心配くらい、したっていいじゃないか。
 兄貴はすぐ笑って、お前が気にしたって仕方ないだろって言うけどさ、そういうところ
が心配なんだって。
 さも何事もないような顔をするんだ。兄貴は、いつも。
 それで後になって「実は」って展開が待ってる。
 結果オーライだから良かった良かっためでたしめでたし、みたいな話になっていつも終
わるけど、僕は正直のところ、気が気じゃないっていうか。
 最近、ちょくちょく思うことがある。
 兄貴が表立って何事もなさそうなときこそ、実は危険なんじゃないかって。
 なぜそんなことを不安になるのか、よく解らないのだけど。
 なんか危うい感じがする。
 不安定?
 いや、不安定は不安定なんだけど、少し違う。
 かろうじて保っているだけ。
 いつでもすぐに崩れて。
 あっという間に消え去ってしまいそうな。
 手のひらから零れ落ちる砂の流れ。
 形が定まってなくて。
 掴めない。
 液体ではないけど、流動物?
 不安定というより、不安。
 暗闇の中を歩いているような、覚束なさ。
 伸ばした指先を掠める。
 何も掴めない。
 いや、むしろ。
 触れた瞬間に、壊れる?
「…ん〜〜〜〜!」
 駄目だこりゃ。思考が完全に乱れた。もう勉強どころじゃないや。
 ノートに教科書、筆記用具を片付けて、ほとんど役に立ったことのない目覚まし時計を
セットし、僕はベッドに寝転がった。
 ああ、天井の蛍光灯が点灯したままだ。消し忘れてしまった。
 やっぱり乱れている。
 低い周波の音。
 ブ……ン……。
 ゼロを基準に、規則的なプラスとマイナスを繰り返す。
 なんだろう、これは。
 乱れているのに規則的?
 不思議だ。
 けど。
 明確。
 今の状態は良くない。
 空回りするトルクみたいで、運動エネルギィが全く意味を成してない。
 浪費している。
 何を?
 時間? それとも熱量? あるいは、思考とか?
 いや、全部かな。
 何をしたら無駄でなくなる?
 何が無駄?
「…もしかすると、これは致命的かも」
 フェイタル。
 死に至るほどの?
 それじゃあリセットしなきゃ。
 生き返るために。
 いや。
 リインストールは蘇生とは違う。
 全くの別物。
 外見だけ同じで中身が違うような。
 別人格に近似。
 だとしたら、それは。
「…やり直しがきかないってことじゃん」
 兄貴、本当に大丈夫?
 兄貴は本当に大丈夫なの?
「…おお」
 ようやく正常な思考回路が働き始めた。
 けれど。
「…もう眠い」
 タイムアップが先に来た。
 僕はだるい気分を引き摺りながら、蛍光灯に手を伸ばす。
 シャットダウンのわずか手前。

     ◇◆◇◆◇

 翌朝は通常通りの時間に起きた。さすがに二日連続で早朝ミーティングってのも妙な話
だし、わざわざ別の理由をこさえてまで家を早く出る必要性がないからだ。
 二階の自室を出て、一階の居間、テーブルの所定の位置につくと、ちょうど母さんが俺
の前に味噌汁を置き、こう聞いてくる。
「昨日は遅かったの?」
「あー、いや、遅いことには遅かったけど、日付が変わる前には帰ってきたから」
 嘘は言っていない。
 嘘は、何一つ、口にしていない。
「あんた最近ずっとそんな感じじゃない? 大丈夫なの?」
「大丈夫じゃかなったら、とっくにぶっ倒れてると思うけどねえ」
 笑う。
 笑って済ませることは得意だ。
 何年この性格で生きてきていると思ってるんだ?
「本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。俺よりキツい状況の人間、職場に何人もいるから。
 昨日だって、俺が最後じゃなかったんだよ? 泊まるって言ってた人もいたんだから。
もしかすると、今日行ったらグロッキー状態の人間が何人かいるかもね」
「それにしたって…」
「大丈夫だって。それに、俺だけそういうこと、言ってるわけにもいかないから」
 よく言う。
 昨日、平気でバックれたくせに。
 胸が痛む。
 平然と欺いている。
 それが、最も波風を立てず、俺を囲んでいる人々に対して害をもたらさない方法だと言
い聞かせている。
 気持ちが悪い。
 いつものように、俺が朝食を食べ始めてしばらくすると、母さんの声で起きてきた弟が
眠たそうに欠伸をしながら居間に現れる。我が弟は本当に朝に弱い。これだけは昔から変
わらない。成人しても同じなのかと思うと心配になるが、学生生活に支障がないなら、社
会人の生活にも大した支障はないだろう。
「おはよ」
 テーブルの所定の位置、俺の隣に座った弟に声をかける。
 弟は俺をボーッとしばらく見てから、
「…ん」
 こっくり、と頷いてくる。毎日見慣れてはいるが、本当に大丈夫かこいつは。
 将来、大学とか通い出して、一人暮らしとか始めたら、どうやって毎朝起きるつもりな
んだろう、とか余計な心配をしてしまう。こういうのが兄バカなのかと思うと、結局は杞
憂に終わるのだろうという結論に落ち着くのだけど。
 そんな弟が食事をするにつれて意識をはっきりさせてくる頃には、俺はもう食事を終え
て出勤の準備をする。身嗜みを整え、身なりを整え、いつもの時間に家を出る。
「今日は遅くなるの?」
「んー、ちょっと解らない。今の段階で遅くなるようなことは無いけど、とりあえず遅く
なるようなら、また連絡入れるから」
 玄関先でのやり取りも、いつもとそんなに差異は無い。
 家を出てすぐに、鞄の内側のポケットから携帯の音楽プレイヤを出して、イヤホンを耳
に差し込む。ちょうど気に入っているアーティストの新曲の終わりがけだった。少しだけ
損したような気分。リピートをかけてあるから、すぐにまた聴くことができるけど。
 バスでの二十分間も、ずっと同じ曲を聴き続けた。バッテリが続く限りのエンドレス・
リピート。ここだけ時間が回転している。行っては戻り、また行く。
 俺は進み続ける。
 コンビニに寄って、今日発売の週刊少年誌を立ち読みして、缶コーヒーと煙草を一箱買
う。ありがとうございました、と言いながら笑顔で釣銭を渡してくるレジの女性店員を見
て、この女はどれだけこの仕事を楽しんでいるんだろうかと、何気なく思った。
 職場に着くと、すぐに上司が俺に声をかけてくれた。
「体調は大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です。御迷惑をおかけしました」
「それなら良かった」
 俺の言葉に上司はうなずく。
「昨日、客先から何本か連絡があった。メールを送ってるそうだから、確認しといて」
「了解です」
 軽くおどけて復調を示し、席につく。
 俺のデスクには社内回覧がいくつか乗っていた。パソコンを起動し、立ち上がるまでの
時間を利用して、それらをチェックする。来月に行われるレクレーションの話や、人事部
からの異動の話、今年の社員旅行でどこに行きたいかのアンケート等々。それらを見てい
る間にパソコンが立ち上がり、俺はパスワードを入力してログインし、メールソフトを起
動する。先ほど上司が言っていた客先からのメールの他に、俺とは別の部署にいる同期か
らの飲み会の誘いが来ていた。今度の金曜にでも同期で集まって飲み会でもどうか、とい
う内容だった。俺は参加する意思を返信する。
 あれ、そういえば昨日も似たような話が無かったっけ?
 ……ああ、そうか。そういえば昨日も金曜に飲み会がどうとか、そんな連絡があったっ
けな。あれは断ったんだっけ? 確か断ったよな。昨日は断って、今日は同じ誘いに承諾
とは、つくづく困ったもの。
 ときどき、何か不思議な力が働きかけているんじゃないかと思うほど、ひどく調子の良
いときがある。今日はまさにそんな勢いだった。仕事をすればとてつもない集中力を発揮
し、次の客先打ち合わせ用の資料を作れば一発で上司からOKをもらい、母さんに作って
もらった弁当には俺の好物がひしめいており、午後になっても一向に俺の集中力は途切れ
ることなく続き、明日やる予定だった仕事までいくらか片付けてしまい、どうしていつも
この状態にできないのだろうかと、理不尽な不満を感じたりしていた。
 しかし反面、俺の体調を気にかけてくれている多くの職場の同僚たちに対して、心苦し
い気持ちをどうしても否定できなかった。当たり前の話だが、馬鹿みたく正直なところを
誰か喋るわけにもいかず、でも誰か本気で心を許せる相手なら、そういうことを告げても
良いのじゃないかとか、まるで戦国大名が自分の娘を敵対する大名に嫁がせるような気持
ちになったりしていた。すると、そこまで心を許せる人間が果たして自分の周囲にどれだ
け存在しているかと考え出し、俺は自分基準の天秤の上に、家族や友人や知人を次々とか
けて評価していく。結局、その基準を完全に満たす人間など、この世に一人たりとて存在
しないことを思い知り、つまるところ、俺も俺以外の全ての人間にとってその程度なのだ
ろうと思い付き、薄ら寒いものを感じる。
 それが一体、どういうことなのかというと。
 要するに、表面上は俺の心配をしてくれている多くの人間たちも、心の底では何を思っ
ているか解ったものじゃないと考え、きっと世の中こんなものだと思おうとする。でも、
やっぱりそんな世の中にも救いがあって良いはずだという思いが捨てきれず、結局は最初
の心苦しさに逆戻りしてしまう。
 優しさの、冷酷で冷淡な一面を垣間見てしまう一瞬。


『今日は遅くなります。夕食は自分で食べることにします』
 午後六時半、俺は職場を出ると同時に、母さんにメールを送っておいた。
 なんだか気分が悪い。
 しばらく、誰とも関わりを持ちたくない。
 ひどい自己嫌悪だ。
 解っている。全て問題なし。
 何ひとつ、誰ひとり、許容範囲内。修正可能範囲内。表立っての補いを必要としない。
 問題があるのは俺の方だ。
 プログラムに入り込んだ小さなバグのように。
 バグなら修正しなきゃならない。
 さもないとシステム全体に多大な影響を及ぼす。
 下手をすると致命的な欠陥をもたらす。
 しかし、俺はそれほど大それた問題だろうか?
 この世界がこの世界たりえるかどうかを左右するほどのバグだろうか?
 さりとて、俺は現在のシステムと共存できるほどの小さな問題だろうか?
 共存できるのだとしたら、それは結局、俺がこの世界に居ようと居まいと大した差を持
たないことを示すだけだし、逆だとしたら、俺は早急に修正される必要がある。
 それが意味するところ。
 それは、システムに必要だというポイントが無い、ということだ。
 必然性を欠いている。
 あったらあったで役に立つ、というレベルにすら到達していない。
 それは存在の価値を揺るがす。
 存在するに足る価値を。
 つまり、
「…要らないってことじゃないか?」
 では、理由はどうだ?
 存在する理由はどうだ?
 俺はなぜ、今この場に存在している?
 俺は何のために存在している?
 俺は一体、何をどうしたいんだ?
「…解き放たれたい」
 そうだ、それだ。
 先の見える詰まらなさから。
 同じことを繰り返すだけの退屈さから。
 徹底できない自分という煩わしさから。
 全ての、関わりから。
「……ふん」
 思わず鼻で笑ってしまうような思考だ。
 稚拙でわがまま。まるで子供じゃないか。
 全てと無関係で生きていけるわけがない。
 俺だって、この世界に生きているからには、誰かしら、何かしらと関わらずに生きてい
くことが不可能だということくらい、理解している。ひとりで生きていくなどと、クソガ
キのような狂った発想を俺は持ち合わせていない。
 そうだ。俺はマトモだ。
 何度だって繰り返せる。俺はマトモだ。
 ああ、だがしかし、今は、少しばかり脳が病んでいるな。
 この状態で思考するのは危険だ。
「…酒でも飲んで帰るか」
 わざわざ言葉に出して、気持ちを切り替えようと努める。
 最近、こうやって何気なく飲み屋に寄っていく癖がついた。別に一人で酒を飲んだって
楽しいわけじゃないし、酒を飲まなきゃやってられないとか、そういうわけでもない。た
だ、酒を飲むと気持ちが少し柔らかくなる。そして少し大きくもなる。生きていけそうな
気になるんだ。ほんの少しの間だけだとしても、それが俺をこの世界に繋ぎ止めてくれて
いる。
 だって、そうだろう? この世界に繋ぎ止めておけなくなったら、俺は。
 俺は、この世界から消える以外に、どんな方法を、どんな手段を、持っていると言うん
だ。
「…あー、くそ」
 だから、その思考をやめろと言っているのに。
 乱暴に髪を掻き乱して気持ちを入れ替える。
 俺は何をするんだった?
 そうだ飲みに行く。飲みに行くんだったよな?
 だったらとっととどこでもいいから店に入って、適当にアルコール摂取して気分を落ち
着けないと。
 そういや金あったかな。最近ちょくちょくこういうことしてるから、気付くと財布が寂
しいことになってるんだよなあ。
「二十代前半で飲み屋に入り浸りかよ」
 少し笑える。
 俺はスーツのポケットから財布を取り出し、持ち金の残高を確認する。
 千円札三枚と五千円札一枚を確認したところで、俺の手が止まった。
 財布の札入れには紙切れが五枚入っていた。
 その五枚目が、俺の手を止めた。
 引っ張り出したそれは、昨日の差出人不明の封筒に入っていた、行き先の書かれていな
い切符だった。
「……」
 俺はその切符を呆然と見つめる。
 吸い寄せられる感覚。
 捨てたはずのものが自分の財布に入っているという、軽くホラーな出来事より、俺には
重要なことがあった。
 それは、昨日は確かにくそったれだと思ったその紙切れが示すものを、なぜか俺が理解
できていたということだった。昨日は問答無用でゴミ箱に放り込んだその紙切れを、しか
し今は、この手から離したくないと強く感じる。
 なぜかは解らない。
 しかし、はっきりと解る。
 俺は、この紙切れに救われる。
 俺は救われるのだ。

     ◇◆◇◆◇

「お兄ちゃん、今日も遅くなるって。御飯も自分でなんとかするって」
 携帯メールを確認した母さんが、僕と父さんに向かって言った。
 近ごろ兄貴はずっと帰りが遅い状態が続いていて、家族での食事も三人ですることが多
くなった。
 当然、僕が心配しているようなことは、とっくに両親も心配しているわけで、「いつ頃
まで今みたいな状態が続くんだろう」とか、「仕事があるだけ良いとは言っても、身体を
壊しでもしたら本末転倒だ」とか、「毎日あんな状態で、ちゃんと休むことができている
んだろうか」とか、「食事はちゃんと摂ってるんだろうか」とか、今ここでいくら考えて
もどうしようもない言葉がいくつか続く。けれど、そうやって不安要素を口にして確認し
たくなってしまう気持ちは、僕にも少し理解できて。
 兄貴の、底抜けに明るいところとか、スポンジみたいになんでも吸い込んでしまうとこ
ろとか、そういうのが気になる。やっぱり気になる。でも、実際に兄貴と面と向かって話
しをすると、「心配し過ぎかも知れない」とも思ってしまう。僕が知らないだけで、兄貴
はどこかで、上手く立ち回っているんじゃないだろうか、と。僕は兄貴の全てを知ってい
るわけじゃない。勝手に兄貴の境遇を決め付けて、勝手に兄貴を「不幸な人」みたいに考
えるのは、それこそ兄貴に対して失礼な気もする。こんな僕の思考も、両親の会話と同じ
くらい、いくら考えてもどうしようもないのだけど。
 テレビでは、いつものチャンネルでいつものキャスターが、いつも通りにニュースを読
み上げる。毎日のように発生する殺人事件には滅入るし、政治家の「足の引っ張り合い合
戦」みたいなのは正直スケールが小さくてどうでもいい。どこかの土地にあるなんとかっ
て食べ物が名物だとか、そんなこと言われても、リポーターが満面の笑みでそれを頬張る
姿は羨ましいの一言に尽きるわけで、別にこっちの腹が膨れるわけじゃないから面白くも
ないし。
 兄貴、今日は何食べるんだろう。
 普段はどんなものを食べているんだろう。
 ちゃんとした食事だろうか。
 変な栄養補助食品とかで済ませていないだろうか。
 しかし、いくら僕が口先で、あるいは思考の中で兄貴を本当に心配していると言ってみ
ても、兄貴のことだけを考えて生きていけるわけはなく、食事が進めば両親との何気ない
会話に華が咲き、容姿ばかりで演技力の欠片も無い俳優のドラマは文句を言いながらも結
局は最後まで見、父さんが晩酌をする頃には僕は風呂に入っており、兄貴のことなんてす
っかり思考の奥底に埋まって気付かないくらいになっていて、自室のベッドに入って、時
計の針の音だけを聞いているときに一瞬、兄貴まだ帰ってこないな、なんて無責任なこと
を考えたりする。
 その夜、兄貴は結局、僕が起きている間には帰ってこなかった。兄貴が帰ってくるのを
待ってから寝ているわけでもないし、部屋を分けているのだから兄貴がいないと寝られな
いわけでもないけど、普段当然のように近くにあるものは、こうやってなんでもない瞬間
に遠くに行くのだろうと想像でき、しかしそれは、あくまで想像の域を出ることはなく、
僕もそんなことを身近に感じられるほど精神的に成熟しているわけでもなく、緊張感の無
い危険な想像は、僕の身体をゾクゾクと震わせた。
 僕は何も解っちゃいなかった。
 兄貴の心の奥底に蠢いていた黒い何かを。
 兄貴の心の奥底に埋まっていた遠い日の想いを。
 兄貴の心の奥底で押し潰されようとしていた、兄貴の気持ちを。
 けれど、このときの僕は、解っていない自分すら、解っていなかった。

 翌朝、いつものように半分は寝ているような状態の僕が、それでも居間に兄貴の存在が
無いことに気付いて問いかけたとき、困ったような顔で僕に言い聞かせる母さんの声は、
やけにあっさりと脳に浸透して、溶けて消えた。

「まったく、まだ寝惚けているの?
 ちゃんと起きて、ちゃんと御飯を食べてちょうだい。すぐに学校行く時間が来るわよ」

 そのとき、すでに。
 兄貴は、この世界から消えていた。