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第二話 心算はある種で最高の暴力〜Bittersweet〜


 その瞬間のことを、今でもよく覚えている。

 長いトンネルを抜けた直後の、視界いっぱいに溢れた光のように、自分の中にある何か
が大きく拡張されたときのことを、俺は今でも鮮明に思い出すことができる。
 世界の果てしなさを知ったとき、胸が躍った。
 自分を構成していた世界が狭苦しいことを知ったとき、未来が見えた。
 なんだ、世界はちゃんとしているじゃないか。そう感じた。
 何をどうしたらいいのか、解らなくなるくらいの可能性を感じた。
 だから思った。
 俺は、俺の未来を、俺の思うように描いて良いのだと。
 俺は自由に自分の道を進んで行けるのだと。

 確かに、想い描くことは許されていた。
 自分の道を自由に進むことも。
 だから俺は、当時の俺が思う限りで最高の未来を描いた。
 でも、そのときの俺は知らなかった。
 夢は、思うだけでは形にならないことを。努力が伴うことを。
 ちゃんと親の言うことを聞いて、ちゃんと好き嫌いなく食べ物を食べて、ちゃんといい
子にしていれば、きっと想い描く未来に行き着くのだと、なぜか妙な確信を持って思って
いた。

 結局、当然ながらそんなものは根拠のない話であって、俺はまったくもって何も知らな
いクソガキだったのだと、後で思い知ることになるんだけど。

 それを思い知ったとき、俺はようやく理解したんだ。
 俺が全力で掲げていた未来が、あまりに儚く、あまりに脆く、あまりに冗談に過ぎる、
遠い遠いものであることを。

 陳腐だ。
 どこまでも、どこまでも。

 世の中には、どう足掻いても届かないものが在るのだと理解した。
 俺は妥協することを知った。
 夢は夢で、心に抱いている程度のレベルで良い。
 夢は、生きていく為の力にはなるが、現実的に物理的に、必ずしもこの手に掴んでいる
必要性はないのだ。夢を形にしていなくとも、生きていくことはできるのだから。
 完全に捨てるわけでもなく、完全に求めるわけでもなく。
 ゼロとイチの二択しかできない世界から、微調整が可能になった。
 デジタルからアナログに進化したんだ。
 ちょっと、笑える。
 けれど、それが後々、俺を静かに追い詰めていくことになるなんて、俺は全く解ってい
なかった。

 なぜなら、その瞬間その瞬間に、俺はいつだって、最良だと思える選択をしてきたつも
りだったのだから。
 なぜなら、何が何にとって最良なのかを、俺は考えていなかったのだから。

 ああ、ひどく、ほんやりしているな。
 これほどまでにぼんやりとした思考にどっぷり浸かっているのは、本当に久しぶりだ。
 しかし、不自由。
 今のこの状況は不自由だよ。
 何も生み出せず、何ももたらすことができない。
 ただ在るだけ。
 ただ居るだけ。
 それは、つい先刻まで俺が感じていたものと同種だ。
 自由に過ぎると、不自由になる。
 面白いジレンマから逃れられない。
 だから、逆の発想はそこから生まれる。
 不自由を作り、自由を生み出すんだ。
 今はただ何も無いこの世界にひとつの基準を確立すれば、そこから自由が確約される。
 その基準から生み出せる自由を。
「…基調は灰色」
 それは、確かに声となって発現し、空気を振動させたのだろうか。
「構成素材は見知ったもののみ」
 それは、確かに俺の頭の中で発生した、俺の思考なのだろうか。
「雨。流されそうなほどの」
 それは、確かに俺の中に存在していた、俺の認識だったのだろうか。
「気配はある。しかし接触できない」
 それは、確かに俺の望む、俺にとっての最良だったのだろうか。
「永遠の単独」
 それは、確かに俺という存在を示していたのだろうか。
「何一つ不自由はなく」
 それは、確かに不可能な話だと、俺は理解していたのだろうか。
「何もかも自由」
 それは、確かに矛盾していると、俺は気付いていたのだろうか。

 発した言葉は残響し、その上に次の言葉が重なる。連なる。
 響き合い、同調し合い、増幅し合う。
 そして生み出される。
 俺の為だけの、俺の世界が。

     ◇◆◇◆◇

 翌日も、だから特にどうというわけもなく、一日は平々凡々と始まった。
 相も変わらず朝に弱い僕は、相も変わらず目覚まし時計の音など生温い限りであり、し
かし、お袋の「起きなさい」の一言には、まるで遺伝子に刻み込まれた原始の血が反応し
ているかのように抗えず、半分は寝惚けた状態で居間に行き、朝食を取る。
 兄貴はすでにいなかった。そのことをお袋に問うと、寝惚けたこと言ってないで早く食
事を済ませなさいと苦笑気味に言われ、また今日も朝から会議かな、なんて適当な理由を
つけて頭の中ではとりあえず問題を処理した。食事が終わる頃にはそれなりに意識もはっ
きりしてきて、あとは身支度を整えて家を出るだけだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 ほぼ一日に一回は行うやり取りを経て、僕は高校へと向かう。
 今朝もよく晴れていた。こりゃあ午後の授業で寝るな、と妙な確信を抱く。
 緩い下り坂を自転車の惰力で走ると、鼻腔に入り込んできた風がわずかに温度を上げて
いるような気がして、もうすぐ春が終わって夏が来るなあと、これから訪れるであろう炎
熱地獄を容易に頭の中でイメージし、犬みたいに口をだらしなく開けて虚ろな瞳で空を見
上げる自分の姿が容易に想像できた。
 空気を裂いて、というよりは、空気を押し退けるようにして走ると、その押し退けた空
気の中に、いくつかの「おはよう」が混ざっていた。僕と同い年か、その前後であろう年
齢の学生たちが、友人と交わす毎朝の挨拶。何気ない日常の、小さなポイント。
 僕だって、その御多分に漏れることはないわけで、「よう」とか、「おはよ」とか、幾
人かの友人に声をかけられた。自転車で走り去っていったり、走り去りそうになる僕を見
付けて声をかけてくれたり、何気ないけど、そういう一言がちょっと嬉しい。だけど、尋
常じゃないくらいの気恥ずかしさがあるから、改めてそれを声に出すつもりは、さすがに
無いんだけど。
 こうやって毎日、同じ道を同じ手段で学校まで通って、スケジューリングされた六時間
の授業を、合間に昼飯挟んで受けて、指が軽く痛くなるくらいペンを走らせて勉強して、
眠気とは少なからず仲良くして、先生に起こされて、十分足らずの休憩時間で昨日の出来
事を友人と語り尽くそうとして、そりゃもちろん無理だから次の休憩時間に持ち越すかと
思いきや、その頃にはもう別の話題で盛り上がっていたりして。
 なんだか、破線のような。
 連続しているようなしていないような、そんな生活。
 ときどき……本当にときどきなんだけど、こんな同じような毎日を過ごしていて、よく
飽きないなあと、他人事のように思うことがある。
 飽きない、ということは、何かが常に変化しているということだ。変質しているという
ことだ。だから僕は、この世界に対して常に新鮮さを感じている。新鮮さを感じているか
ら、絶望しない。絶望しないでいるから、生きている。ということ、だろうか。
 …なんだか最近、兄貴に似てきたかな。妙な自己問答が増えてきたような気がする。
 歳の離れた兄貴ではあるけど、やっぱり兄貴が兄貴であることは事実で、僕はやっぱり
兄貴を兄貴として認識して、意識する。意識しないで生きていくことはできない。
 いや、できない、というのは少し語弊があるかもしれない。僕は別に、兄貴の存在をう
るさく思ったことはないし。歳が離れているせいか、大きな喧嘩もした記憶がない。特筆
するほど兄弟愛に満ちていたわけではないけど、お互いをお互いに激しく嫌悪するような
間柄でもない。えらく絶妙な距離だ。
 兄貴が僕のことをどう思っているかは、当たり前だけど兄貴にしかわからない。でも、
少なくとも僕にとって、兄貴の存在は道標のようなものだった。だった、というか、今で
もそうだ。
 僕の行く少し先を歩いている。僕の前、誰よりも近い位置に、兄貴はいる。それは決し
て意識的なものではなくて、無意識の中で道をあらかじめ均し、無意識の中でルートを示
し、無意識の中で同じ距離を置いて先を歩いている。僕は兄貴の作ってくれた道を、倣う
様に進もうとしている。
 反発力は小さい。
 この道に倣えばいい。
 もちろん、その全てが正しいわけではないことは、分かっているんだ。
 それも、兄貴が示してくれている。
 安心できる。
 決して安全ではないかもしれないけど。
 でも、それだけのものを、兄貴が示してくれている。
 それが、例え無意識であっても、だ。
 だから、そこに僕は焦りを感じない。
 そんな必要、無いじゃないか。
 最低限、必要なものを兄貴が作ってくれている。
 僕は、その上で、僕の道を模索することだけに力を注げば良い。
 だからかな、僕が僕の中に、いつでも妙な余裕を感じられるのは。


 放課後、僕は昨日と同じように駅前に行った。
 昨日は、兄貴と偶然駅前で遭遇して、なんだか調子を崩されたような感覚で、結局は本
屋にもCD屋にも寄らずに帰って来てしまったから。
 本だCDだと言っても、学生の身分でそうそうポンポン買えるわけはなく、だいたいは
週刊少年誌の立ち読みだったり、試聴機で数十秒間だけのサビを楽しんだり、そういうの
がほとんど。たまに買うのは中古だ。本にしろCDにしろ、わざわざ新品を買う理由はな
いからね。
 コミックの新刊をいくつか見かけたけど、それは全て兄貴が買っている。

『いいよ。その本、俺が買っとく。俺も前から買うつもりだったし、それくらいの給料は
もらってるから。
 つうか、これからは、新しく買うつもりのもんがあったら、お互いに一言断ることにし
ねえ? 俺もそうするから。中古にしたって金が出てることに代わりないんだし、兄弟揃
って同じ本買ってたら、すげえもったいないし、すげえ間抜けじゃん』

 いつだったか、一緒に本屋に寄ったとき、そんなことを兄貴が言っていた。それ以来、
僕はよく兄貴の部屋に出入りして、兄貴の本棚からコミックを借りて読むことが多くなっ
た。
 兄貴は、僕が部屋に入ることに対しては、特に何も言わない。もちろん、兄貴が在室し
ているときのノックは「礼儀としてやってくれ」と言われているけど、いないときに入る
なとは言われていない。

『別に、入られて困るようなもの、置いてないし。
 そもそも入られたくないなら、最初から鍵でもかけておくし』

 ただし、ほとんどの事項に関して寛容で寛大な兄貴だけど、ひとつだけ、僕に絶対守れ
と言っていることがある。

『俺の部屋から持ち出したものは、必ず同じ場所に戻しておくこと』

 これだけが、兄貴の課した唯一の条件だ。
 曰く、

『結局は、知らない間にいじくり回されていた、と思わずに済めばいいんだ。
 俺が出勤する直前まで見ていた光景が、帰って来たときに成立していればいい』

 ということ、なのだそうだ。

『それって、兄貴にとってどんなメリットがあるの?』

 尋ねると、兄貴は少し恥ずかしそうに、頬を掻きながら答えた。

『安心できる。大事だろ?』

 兄貴のセンスは、ちょっと面白くて好きだ。
 子供みたいな理論で、型にはまらない。
 でも、決して幼いわけじゃない。
 精神が拡張されるような気分になる。
 だから、兄貴との会話は、面白くて好きだ。

     ◇◆◇◆◇

 列車に乗っているのは、俺ひとりだけだった。
 先頭から最後尾まで、全ての車両を見たから、間違いない。
 間違いない、と思う。
 そもそも運転席にも誰もいない時点で、現状はすでに異常だ。そのうちひょっこり、誰
かが現れるかも知れない。もし本当にそうなったら、そのときこそ物語が進行するタイミ
ングになるだろう。心して待つことにしようじゃないか。
 窓の外は、油絵みたいに圧倒的な質感の蒼穹と、少し黄色がかったきな粉みたいな白い
大地が続いていた。線路は地の果てに吸い込まれていて、駅らしきものも、街らしきもの
も、何も見えない。見えてこない。まったくもって退屈な限りの光景が続いている。しか
し、今まで経験の無い状況にいることは確かな話で、俺は不思議な高揚により、気分だけ
は最高に良かった。
 この列車が行き着いた先に、俺の世界があるんだろうか。
 だとしたら、それは、さぞかし衝撃的なことだろう。

 気が付いたら、俺はこの列車に乗っていた。
 本当に、気が付いたら、ここにいて。

 こんな簡単に世界が切り替わるなら、もっと早くやってくれりゃ良かったのにと、拍子
抜けしながらぼんやり思った。市バスに乗ったのに、いつの間にか列車に乗っている現状
の不思議さなど、俺にとってはひどくどうでも良いレベルの話で、さっきまで俺がいた世
界に存在していた、あらゆる事象や現象を、全てどうでも良いものにしてくれるだけの絶
対的な力が、現状には満ちていた。
 その問答無用さ加減が、また、たまらなく。
「――いかがですか、乗り心地は」
 誰も居なかった列車の中で、俺以外の何者かの声が、俺に向けて問いかけてくる。
 ほら見ろ。俺の予想した通り、ひょっこり現れただろ?
 俺は全ての感情を心の奥底に素早くしまい込んで、声の主を見た。
 そいつは、車掌だった。
 相手が名乗ったわけじゃないが、格好がそんな感じだった。
 背の高さは、俺より少し高いくらいだろうか。見るからに細長い。帽子を目深に被って
いて、表情が読み取れない。というか、いくら帽子を目深に被っているからといって、夜
の闇みたいなその影の入り方は尋常じゃないだろう。
 人じゃないのかもしれない。
 いや、人じゃないんだろうな、きっと。
「乗り心地は……普通、ですかね」
 おかしい。
 取り繕う意思が削がれる。
 これは、いつもの俺じゃない。
 俺はもっとこういうとき、相手が気に入るような返答をするんだ。
 差し障りの無い言葉と、長年培ってきた経験がモノを言う笑顔で。
 でも、今は思い通りにならない。
 どうして?
 ……ああ、そうか。
 まだ、ここは俺の世界じゃないんだ。
 ここの法則は、俺から全ての飾りを奪っていく。
「良くはないかもしれないが、少なくとも悪くはないのですね。それなら、良いと解釈す
ることも十分に可能。であるなら、高評価と判断しましょう」
 回りくどい言い回し。
 声質は……俺の耳では、男性に近いものと判断できる。
 それなら、これからは彼と表現することにしよう。
「何か質問はありますか?」
 全ての前置きを省いて、彼は尋ねてくる。
 まったくなんてことだ。
 素敵すぎて泣きそうだ。
 余計なものが何もない。
 回りくどいことも、しなくて良い。
 おそらく、彼は知っているのだ。
 今この場において、俺が最も尋ねたいことを。
 そして、俺がそれを真っ先に尋ねることを。
「……僕は、」
 これまで生きてきた時間を全て掻き集めて差し出すような感覚で、俺は彼に尋ねた。
 それを対価に成立させようとしている自分の姿に、少し笑えた。
「…僕は、救われますか?」
 対する彼は、表情こそ暗闇に飲み込まれて全く解らないが、少なくとも明らかに楽しそ
うな様子で、俺に言った。
「この現状において、これ以上、貴方はどんな救いを求めるのですか?」
 一瞬。
 ほんの一瞬だけ、呆気にとられて。
 俺は思わず笑ってしまった。
 ああ、まったく。
 本当に、こんなことが起こるなんて。
 そうだ。そうだよ。そうなんだよ。
 これ以上、俺は何を求めるっていうんだ?
 そんな必要ないじゃないか。
 俺はこれから、俺が望んだ世界に行くのだから。
「…確かに、そうですね」
 笑える。
 ああ、まったく、本当に笑える。
 こんなにも愉快なのは、生まれて初めてだ。
 見てくれ。なあ、見てくれよ。
 俺が信じていたものは、ちゃんとここに存在しているじゃないか。
 俺の願いは、ちゃんと届いたじゃないか。
 腹が痛くなりそうなくらいの笑いたい衝動を必死に抑え込んで、俺は彼にさらなる質問
を投げかける。
「…なぜ、僕はここにいるんでしょう?」
「それは、貴方が望んだから」
 至極当然、といった雰囲気で、彼は言った。
 だが、俺はまだ納得できていない。
 我慢などするものか。
 今の俺は、あらゆる表面的な要素を排除しているんだ。
 今の俺は、どんな些細な不満だって、飲み込んだりしないぜ?
「でも、望んだからといって、誰もがここに来られるわけではないでしょう?」
「その通りですが、極めて稀有だというくらいです。
 貴方が何かしら、他者の追随を一切許さないような何かを持っていて、それが選ばれた
から、という理由では、少なくともありません」
 俺が特別ってわけじゃないのか。
「それじゃあ、どうして僕は、望んだだけでここに来られたんでしょうか?」
「それは、」
 彼はそこで言葉を区切った。
 その先を口にするべきか躊躇している……わけではない。
 決定打なのだ。言うなれば。
「それは、その方が都合が良いと判断されたから、じゃあないですか?」
「都合が良い? 一体、誰に?」
 ほとんど反射的に尋ねていた。
 すると、彼は「どうしてそんなわかりきったことを聞くのか」と問いたそうな、困った
ような口振りで俺に言った。
「それはもちろん、貴方をここにつれてきた者、でしょう?」
 そりゃそうだ。
 …じゃなくて、それが誰なのかと聞いたつもりだったのだけど。
「知る必要のないことです」
 何故?
「知ったところで、それが貴方にどんな利益を?」
 おかしなところに疑問を感じるんだな、と思いながら、俺は答える。
「利益というか……安心します」
「安心」
 復唱が返される。
 俺はうなずいた。
「ええ。疑問が一つ減ると、安心しません?」
「残念ではなく?」
「…は?」
 質問に質問を返されて、俺は言葉に詰まった。
 残念?
 それこそ、どうして?
「なるほど、いつの間にか実感できなくなってしまったのですね。
 しかし、貴方は知っているのですよ。疑問が昇華した瞬間の感覚を。
 開放感と安堵感、そして終局がもたらす、物悲しさの構造体を」
 そうなんだろうか。
 ……そう、だったのかもしれない。
 本来の俺は知っているのだ。それを。
 ただ、今の俺は、それを実感できず、体感できないでいる。
 また知りたい。そう感じている。
 でも。
 それを改めて知ってしまった俺は、今のままの俺であり続けることができるのか?
「考える必要のないことです」
 脳髄に浸透してくるような不思議な響きをもった声で、彼は言った。
「それを知ったとき、貴方は今のことなど、思い返すことさえ無いのですから。
 今はゆっくり、おやすみなさい。次にその目蓋を上げたとき――」
 力が抜ける。
 踏ん張ろうとして、失敗した。膝が折れる。
 狙ったように座席に座って……ああ、座席に吸い込まれそうだ。
 ずぶずぶと。
 沈んでいく。
 深い、深い、意識の暗闇の底に。
 なんだか。
 ……塗り潰されていくみたいだ。
「――そのときには、貴方の目の前に理想的な世界が広がっていますから」

     ◇◆◇◆◇

 迷子の青年が意識を失うところを確認して、行き先のない列車の車掌をしていた彼は、
くるりと踵を返してその場を後にした。
 彼の思考の中に、青年のことは既に無い。
 なぜなら、青年の存在は彼の手を離れたから。
 あとは、これから青年の向かう世界が、決めること。
 そして、青年自身が、決めること。
 今の彼の思考の中にあるのは、青年が置き去りにしてきた世界の綻び。
 青年が全てを断ち切ったつもりで残してきた綻び。
 青年に最も近しい存在。
「さて、今度は彼の方を迎えに行く準備をしなくては、ね」
 独り言。
 彼の言葉に感情はなく、楽しそうでも詰まらなそうでもなく、ただ淡々と己の作業をこ
なすだけの、妙に機械じみた思考だけが稼動していた。

     ◇◆◇◆◇

 ……何かが、違う。
 と、そう思えるほど明確なものではなかったけど、僕が何か得体の知れない違和感を覚
えるようになったのは、最後に兄貴と駅前で話をしたあの日から、五日目のことだった。
いや、一応断っておくけど、別に兄貴と会ってない時間を指折り数えるようなブラコン精
神は持ち合わせていない。それは断じてない。
 何か引っ掛かるものを感じる程度なら、数日前からそれはあった。ただ、それが結局何
なのか、その本質を明確に実感することができずにいた。
 普段注意していようといまいと、見慣れた景色に対する認識というものは思っている以
上に曖昧で、何かが少し変化したくらいじゃ気にならないものなんだ、ということを思い
知る。結局、分かっているつもりになっているだけなんだ、と。

 何かが、いつもと違う、はずなのだけど。

 その日、僕は朝から、視覚や聴覚を中心とした五感による情報に、片っ端から注意して
いた。得体の知れない、しかし見過ごせるほど小さくは無いその違和感の正体を、絶対に
見落とさないよう努めていた。
 確たる何かがあるわけじゃないのだけど、あえて言わせてもらうとしたら、それは「本
能がそう警告している」と表現できるレベル。真っ暗な思考の中に一瞬、光が走るような
感覚。ちりちりとした微妙な緊張。これを見逃すと、僕にとってあんまり良くないことに
なるような気がする。
 危機感と呼べるものを、これまでにも何度か感じたことがあると思っていたけど、今の
危機感に比べれば、それらは危機感と表現することさえ恥ずかしいような、瑣末な問題だ
ったのかもしれない。こんな感覚、初めてだ。
 でも、それが一体、何なのか。僕には、全く解らない。
 いや。解らないというより、知らない感覚に近い。
 僕の知らないところで、僕の知らない何かが起こっている。それに薄々感付いている自
分に、緊張している。
 しかし、世界は今日もいつも通りだ。朝になると目覚まし時計では起きられずにお袋の
一声で飛び起き、親父と兄貴が出勤した後のリビングで一人、朝食をとる。お袋はキッチ
ンで食器を洗っている。「今日、いつもと何か違う?」と訪ねた僕に、「そう? 違うっ
て、何が?」とお袋は答えた。朝食をとった後は高校に行く準備をし、いつもと同じよう
に「いってらっしゃい」と「いってきます」のやり取り。あくびを噛み殺しながら自転車
を走らせて学校に行き、授業は普通に眠いが友人との休憩時間はやけに元気で、昼飯を食
いながらバカな話で盛り上がる。僕の中では、いよいよその違和感が無視できない状態に
なっているのに。
 そう、急速に。
 僕の中で、それは大きく膨らみ、加速していくようだった。
 何かが進行していくとき、それが終着するまでのペースはずっと同じというわけじゃな
い。どこかでスイッチが切り替わって、速度が一変する。今がまさにその状態だ。
 もうすぐ、大きく何かが変化しそうな気がする。
 でも、できれは、その変化の正体を前もって知っておきたい。
 いきなり目の前に突き付けられるのは、どうも良くない気がしてならない。


 無くしたものを真剣になって探していると、探せど探せど何故か出てこないのは、よく
ある話で。
 ところが、もういいかと諦めかけた瞬間、視界の端に探していたものが案外あっさり入
ってくることもまた、よくある話で。
 そんなときは、ようやく探し物を発見できた安堵感と、どうして今まで真剣に探してい
たのに出てこなかったんだと、よくわからない苛立ちを感じてしまう。

 ――そのとき。

 僕が、この世界に起こった重大な変質に気付いたとき。
 感じたものは多分、そういうものに近かったはずだ。
 絶対に何かがおかしいと感じているのに、それを探そうと思えば思うほど、世界はまる
で主張するかのように変哲の無さを僕に見せ付け、そのくせ、確かに何かがおかしいとわ
かるだけの残り香のようなものを残していくものだから、タチが悪い。
 後になって考えてみると不思議な話で、いざ探し物の在りかを見つけると、どうしてそ
こに目が向かなかったんだろうかと思うのだ。そしてその直後には、都合の良い思考を働
かせて「あそこ何度も探したんだけど」とか平気で考える。
 虫の知らせ、という言葉があるけれど、あれにしたって、現実には後付けの理由にしか
ならない。「そういや、あのとき」というオチがつく。それだけだ。今回に限って言って
も、そんなものは全くアテにならないってことを、思い知る結果になる。

 ――その瞬間。

 その瞬間の僕の心中を、どう表現したら良いものか。
 本当に、「呆気に取られる」というのは、ああいうものを指すのだろうと実感した。
 呆気に取られながら、そう思った。

 それは、まったくもって当然のように訪れた。
 いつもと同じように、親父とお袋と三人で食べる夕食のときのことだった。
 兄貴が夕食にいないのは、ほとんどデフォルトみたいな状態になっていて、けれども兄
貴は律儀なことに、毎日必ず連絡だけは入れてくる人間で、そういや今日はその連絡が無
いなと、なんとなく思ったときだった。

「七月の連休なんだけどさ」

 突然、親父が一ヶ月も先の連休の話を始めた。
 兄貴ほどではないにせよ、親父だって忙しくないわけではない。しかも一ヶ月も先の休
みの話なんて、急にどうしたんだろうかと思ったのは確かだった。

「三連休、ちゃんと取れそうなんだよ。
 二人とも、予定が無かったら、久しぶりに夏祭り、行かないか?」

 夏祭りは、街の港で毎年行われる恒例のお祭りで、大掛かりな花火も打ち上げられる盛
大なものだ。年を重ねるごとに人出が増えていることで有名でもある。
 僕は毎年、特定の誰かと行くということはなく、その年の最初の誘いに乗ることにして
いて、去年は兄貴の誘いが一番、一昨年は同級生、そして今年は親父だ。

「久しぶりねえ、お祭りなんて」

 お袋の言葉に、心中で同意する。
 そういえば、お袋はいつ頃からか、僕や兄貴の外出に付き添うようなことをしなくなっ
た。兄貴は歳が離れている分、気が付いた頃には夜遊び(といっても友達と遊んでくるだ
けなんだけど)をするようになっていた。僕自身も、何事もなかったようにお袋の付き添
いから離れて、こうしたイベントに友達とだけで行くようになっていた。
 僕は、どこかで自分の親離れを主張していただろうか?
 自覚がない。
 けれど、これまでの長い時間の中で、僕が確実にそうなっていったことは、間違いのな
い事実なんだろう。

「お前はどうだ? もう誰かと行く予定になっているか?」

 親父の問いかけに、僕は何気なく答えた。
 本当に何気なく、答えたんだ。
「いや、今年はまだ兄貴からも何も話が来ていないし、学校の友達からもその話は来てな
いからフリーだよ」

 言った瞬間。
 ぎしり、と、何かが大きく崩れる一歩手前にあるような、そんな不快な音が、聞こえた
ような気がした。

 親父とお袋は揃ってきょとんと僕を見ている。
 こいつはいったい何を言い出したんだ、とでも言いたそうだった。
 なんだ、この感じ。
 僕が言ったことの、どこかがおかしかったとでも言うのだろうか。
 どこがおかしかったと言うのだろうか。

「…ええと、何?」

 やっとの思いで言葉を搾り出したとき、また先ほどと同じような不快な音が聞こえた。
 親父とお袋の表情が、何事もなかったかのように穏やかになった。
 この違和感はなんだろう。
 ああ、僕はこの違和感を知っている。
 最近ずっと感じている、あの得体の知れない違和感だ。それに近い。
 いや、むしろ、同質?
 その正体が近付いてきている。そのことを、実感できる。
 ダメだ。やばい。
 今はまだ準備ができてない。
 準備? 何の?
 ……心の。

「そうか、フリーか。よしよし」
「じゃあ今年は久しぶりに、家族三人でお祭りね」

 三人?
 今、家族三人って、言った?
 いや、待ってよ。
 親父もお袋も、どうかしているよ。
 どうして「うちは家族三人で全員」みたいな顔しているんだよ。何が家族三人で夏祭り
だよ。僕には兄貴がいるじゃないか。兄貴がいるはずじゃないか。うちは家族四人のはず
じゃないか。
 心の奥から湧き出てきた不安のようなものを、しかし僕は口に出さなかった。
 出せなかったんだ。それを口に出してしまったら、決定的な部分に触れてしまうような
気がした。核心に触れて、平静でいられる自信が無かった。
 でも、心の半分は、その核心に触れたいとも思っていて。

 なんだか。
 ……気分が、悪い。

 夕食を終えると、僕はそそくさと居間を後にした。
 親父とお袋、そして僕。
 それで全てが完結していて、余分もなければ不足もないと主張するかのような空間に、
長居したいとは思えなかったし、思いたくもなかった。ただ、そんな中にあっても、視界
のどこかに兄貴の存在を、その片鱗を見付けることができないものかと思っている自分が
いるのも確かで、その不安定さを、ある意味で楽しんでいるとも言える。
 何かが変わる瞬間を、期待しているのかもしれない。
 でも結局、そんなものは何も見付からなかった。やはり、意識して探そうとすると見付
からないものなのだろう。家族写真の一枚でも飾ってあれば、兄貴の存在がどうなってい
るのか、ちょっと気になる部分を確認できたのだけど、そんな簡単に見付かるようなもの
なら、僕も気付かないはずはないんだ。
 自分の部屋に入る直前、真向かいにある兄貴の部屋の扉の奥がどうなっているのか、少
し気になった。この扉を開けたら、今度こそ核心に触れられるかもしれない。いや、おそ
らく決定打になるだろう。しかし、今開けてしまって良いのか、僕にはわからない。
 とりあえずは自室に入って、兄貴から許可を得て長期に借りている文庫本を読み始める
けど、やっぱり兄貴の部屋のことが気になって、本の中身など頭に入ってこなかった。
 本を閉じてデスクの上に置き、椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げる。
 見慣れた天井。
 蛍光灯の二重丸。
 内側だけやけに明るい。少し前に取り替えたせいだ。
 上体を戻して、文庫本をもう一度手に取る。
 兄貴の一押しのミステリ。最初はミステリ小説なんてと思っていたけど、読み始めると
意外に面白くて、シリーズをゆっくり読み進めている。
 傷ひとつない表紙。折り目もない。
 不意に、「どうせ保存しておくなら、綺麗なままの方がいいだろ」という兄貴の言葉を
思い出した。
 何気なく、ペラペラとページを捲る。
 先週くらいから読み進めてきた前半部分が、一瞬で過ぎ去っていく。
 比較にならないスピード。
 今この瞬間、この本の世界は加速的に過ぎ去ったのだ。
 文庫本をもう一度、デスクの上に置いて席を立つ。
 少し落ち着かない。その自覚がある。
 充電器に差し込んだままの携帯電話を手に取る。
 待ち受け画面に変化はなく、メールの一通すら届いていなかった。
 ……待てよ。携帯?
「……そうだ、携帯」
 僕の携帯には兄貴の携帯の番号が登録されている。
 そうだよ。わざわざ探さなくたって、兄貴に直接連絡を取ればいいじゃないか。そうす
れば何もかもはっきり――
「――いや、それはやめておいた方がいい」
「っ!」
 反射的に部屋の入り口を振り返る。
 この部屋の唯一の出入り口になっているドアを塞ぐように、そいつは立っていた。
 なんだか妙な格好をしている。車掌だろうか?
 目深に被った帽子のせいか、表情は影になって見えない。
 ……いや、そうじゃなくて、そもそも――
「――どちら様?」
「うん、その反応が正しいね。しかも、ユーモアを感じる」
 声の感じは男のようだった。
 相変わらず表情は読めないが、全体の雰囲気は、やけに余裕がある。
 こちらに緊張感を持たせないほどの、どこか絶対的な。
「夜分おそれいります、と言うべきかな?」
「……いつから、そこに?」
「君が気付くより前から」
 それは当たり前。
「どこから入ってきたの?」
「そういった物理的な条件を必要としない体質なのでね」
 体質で片付けてしまう気か。あまりに強引すぎやしないかそれは。
 まともな会話を期待するのは、どうやら諦めた方が良さそうだ。
「ところで、やめておいた方がいいって、何を?」
「君がやろうとしたこと」
 いや、だから当たり前。
「僕がやろうとしたこと?」
「そう」
 彼はニヤリと微笑んだ……ような気がした。
「お兄さんの存在を確かめようとしたね」
「!」
「あまりお勧めはできない」
「どうして……」
 唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
 痛い。
 呼吸が苦しい。
 ……あれ、おかしいな。
 呼吸って、こんなに意識しないとできない行為だったっけ?
「世界が君を不都合だと判断したら、君までお兄さんと同じようになってしまうよ。まあ
もっとも、君だけでなく私自身も、ひとつの世界の中でこういった関係性を持つことは、
あまり良くないのだけどね」
 男の喋り方は、世間話をしているかのように気軽なものだった。
 だが、男の物言いは、僕という存在をこれでもかというほどに掌握していく。
 なんだか不思議だ。
 普通に考えたら、こんなの、ただの不審者じゃないか。
 だというのに。
 ……だというのに。
「兄貴のように?」
「そう、お兄さんのように。
 少なからず気付いているはずだ。お兄さんの存在のこと、世界のこと、そしてその只中
にいる君自身のこと」
 色々な思考が頭の中に浮かんでは、まともな形を成す前に崩れて消えていく。
 現状を把握しようとしている。
 でも、外部から入り込んでくる情報はどれもこれも一方的で、僕の処理能力を完全に超
えてしまっている。
 なんだろう、これは。
「理解が追いつかなくなってきているね。
 いや、しかし君は大した把握力を持っているよ。普通なら私が接触する前に混乱し、世
界が修正を入れてしまうものなのに」
「修正?」
 相手の言葉を反復することしかできない。
 これは、僕が混乱してきている為なのだろうか。
 それとも、何か別の要素が絡んでいるのだろうか。
「まあ、君がこの世界の綻びになっている以上、色々と教えてあげたいのは山々なのだけ
どね」
 綻びって何のことだろう。
 そんな疑問を口に出すより早く、男が右手を差し出してきた。
「とりあえず、こちらに来てもらえると助かるな。君の存在は世界を不安定にさせている
から」
「……え?」
「この世界は既に、保守の状態にある。出来る限り、この世界の中での不用意な行動や言
動は避けたいのだよ」
「どういうこと?」
「この世界の中にいる以上、私も改変の対象であるということだ」
 男がニヤリと笑ったように見えた。
「……」
 僕は。
 数秒ほど考えた後、差し出された男の右手を思い切って掴んだ。
 何かが強く浸透してくる感覚の後、意識が真っ白に塗り潰されるような実感があった。
 意外と躊躇は無かった。
 なんとなく。
 そうすることがこの段階で最良の選択だということが、僕には何故か分かっていた。
 ――ただ。
 その選択が何に対して最良なのか。それは分かっていなかった。

     ◇◆◇◆◇

 ――音が。
 暗闇の向こう側から、音が近付いてくる
 いや、俺が近付いているのか?
 絶え間なく一定に続く雑音。しかし、それは決して耳障りではない。
 むしろ、不思議と、心地良い。

 ザァ――――――――

 圧倒的な数の主張。
 貫かんとするかのように、激しく叩き付ける。
 しかし、その本質は恐ろしく、柔らかい。
 ――ああ、そうか。
 これは、

 雨の音だ。

 それが雨音だと気付いた瞬間、視界を埋め尽くしていた暗闇が一気に引き裂かれた。
 一瞬の唐突な光に、目が眩む。
 ゆっくりと感覚を取り戻していく視覚で最初に見たのは、二人用の座席だった。向かい
合うボックス席の片割れ、俺が座っている座席とペアになっているものだ。誰も座ってい
ない。そういえば、俺はどういうわけか、行き先の知れない列車に乗っていたのだった。
「……」
 視線をゆっくりと移動させる。
 まず足元。そして床を這うようにして、通路を挟んだ反対側のボックス席を見る。やは
り誰もいない。
 と。
 そこでようやく、自分の体に余計な圧力がかかっていないことに気付き、顔を上げて窓
外の景色み目をやった。
 そこにあったのは、ただただひたすらに続いていた、死ぬほど退屈だった光景――では
なかった。
「駅、か?」
 そう、駅だ。列車は駅に到着して止まっていた。
 駅。
 白く塗装された木製のホームが見える。ここにも人の姿は見えない。だが、無人駅にし
ておくには大きすぎるように思えてならないし、何より、やけに古臭い。
 そうだ、この列車を最初に認識したときも同じことを感じていた。父方の実家の近くを
走っているローカル線みたく古いな、と。
「……あの車掌みたいな男の趣味かな?」
 呟いてから、どうしてあの男と列車や駅に接点を持たせて思考しているのか、自分の感
覚に少し疑問を持つ。その疑問を打ち消すように、雨音が少し強まって。
「……ん?」
 今この状況下において最優先で気付くべき違和感に、このタイミングで気が付いた。
 雨だ。雨音は聞こえてくるのに、少なくともこの列車の窓から見るその光景は、文句が
つけられないほど晴れている。見上げれば、眠ってしまう前に嫌というほど見ていた蒼穹
が、今も確かに存在していた。
 ――一体どこから聞こえている音だ?
 雨音の発生源を突き止めようとするが、列車の中では音が反響して分かりにくい。
 意外と躊躇なく、俺は列車を降りてホームに立った。
 両手を耳にあてて、目を閉じる。
 音だけを頼りに、少しずつ身体の方向を変えていく。
 ラジオのチューニングみたいだなと、ふと思った。意味はない。
 だいたいの方向が定まったところで、目を開く。
 視線の先に、言うまでもなく無人の改札が見えた。
「……あの向こうか」
 改札に向かって歩き出す。
 とても不思議な感覚だ。強い興味を感じている。高揚を隠せない。
 久しぶりに、楽しいという自覚がある。
 改札であるからには使うことになるであろうと、例の目的地の記されていない切符を片
手に持った。誰もいない状態でどうなるものかと期待して改札を通過すると、切符の表面
に輝く青色で小さな丸印が現れた。
 なるほど、都合よくできている。なべて世はこともなし、か。
 でも、切符自体が消えて無くならないということは、これは途中下車という扱いなのだ
ろうか。もしそうだというのなら、ここは本来、俺が降りるべき場所ではない、というこ
となのだろうか。
「……おいおい……」
 自分自身の間抜けぶりに苦笑してしまう。
 だってそうだろう。俺は誰に問い掛けている? 俺自身にか? 馬鹿な、自分では答え
が出ないからこそ問いかけようとしているのだ。だが、今の俺には問い掛けるべき相手が
いない。相手がいないのだから、答えが返ってくるわけもない。つまり、この自問には最
初から意味が無い。
 何故か?
 それは決まっているさ。

 ――お前が望んだことだからだよ。

 俺の中にいる何者かが、俺を指差し、俺を糾弾するように呟いた。

 ――ああ、そうだな。確かにその通りだ。

 俺はあっさりと認めてしまう。
 熱のある感情を向けられると、反対に俺の気持ちは冷めていく。冷静に受け止め、咀嚼
して飲み込める。
 昔から変わらない。野生動物の習性のように。
 今この場においても、それは変わらない。
 本質なのだ。つまりこれは、俺という存在の。
 今はそれが、とても嬉しい。
「……行ってみますか」
 変な話だけど、少し肩の力が抜けた。
 気持ちの昂りを宥めながら、一歩踏み出して駅を出る。
 再び強い光に目を眩まされ、ゆっくりと感覚を取り戻す視覚が捉えた世界、それは、

 俺が住む街の、見慣れた駅前ロータリィだった。

 いや、厳密に言うなら、それは見慣れてこそいるものの、全く異質のものだった。
 目が痛くなりそうな灰色の街並み。先ほどまでの青空さえ、見る影もない。
 なんだか妙に強い雨は、泥水のように濁っているのかと思ったら、背景の街並みの色を
透過しているだけだ。
 そして何よりも異質なのは、人間の姿が全くないということだ。ところが、不思議なこ
とに、人の気配のようなものは確かにあって、ゴーストタウンという雰囲気ではない。…
…もっとも、ゴーストタウンと呼ばれる空間に行ったことはないが。
「……雨が降っているって分かっていたらなあ」
 それなら傘を持ってきたのに。
 ぼやいて、しかしすぐに気付いた。
「……ああ、でも、いいか、そんなの」
 俺以外に誰もいない街で、俺は誰に何を憚る必要があるというのだ。
 右手の指先を差し出せば、垂直に落下する水滴に打たれる。
 適度に冷たく、心地良い。
 なんだが、ひどく、心地良い。
「――あめ、あめ、ふれ、ふれ、かあさんが、
 じゃのめで、おむかえ、うれしいな――」
 自然と口ずさみながら、俺は全身を雨の中に飛び込ませた。
 心行くまで、この世界を浸透させたいと思った。
 ああ、そういえば今日はスーツだったなあ。
 携帯電話とか、携帯音楽プレイヤ、壊れるなあ、絶対。
 USBメモリも終わったなあ。仕事の資料が入っていたのに。
 こんなに濡れたら風邪ひくかなあ。風邪で済めばいいけど。
 でもまあ。
「どうでもいいか、別に」
 心からそう思った瞬間。

 かたん、と。

 古い時計の針が動いたような音が、どこか遠くで、聞こえた気がした。