父方の実家の近くを走っているようなローカル列車の中に、僕だけがいた。 やけに揺れて、風通しが良くて、玩具のように安っぽくて。 いつの間にこんな状況下にいるのか、全く思い出せない。 あの車掌のような格好をした男の姿は、どこにも見えない。 窓の外に広がる濃い青色の空と、小麦粉みたいな地面が延々と続く世界を見ながら、僕 はふと、小さい頃のことを思い出した。 あの頃、好きな特撮ヒーローをテレビで見ながら、世界を混乱に陥れるこの悪者がいつ か僕の前に現れて、その悪巧みを阻止しようとヒーローが現れると信じていた。つまり僕 は、ヒーローと一緒に戦いたいがために悪者の登場を望んでいたわけで、その子供らしい 思考は今になってみると、寒気を覚えるほど純粋で。 そうやって、当時にどれだけ望んでも実現されなかった別世界が今、目の前に存在して いるというのに、僕はあまり気持ちの昂りを感じなかった。それはもちろん、その別世界 の根本にいるのが兄貴であるからだ。 「……」 車窓の景色に変化がないせいか、頭の中で考えることも限られてくる。 とりあえず来いと言われて、思わずついて来てしまったけど、それで本当に良かったん だろうか。確かに兄貴のことは気になるし、兄貴が存在しないかのように振舞う両親と、 あのまままともな生活が続けられたとも思えない。遅かれ早かれ僕の頭はおかしくなって いただろう。でも、だからといって、今のこの状態に足を踏み入れたことが良かったかと 問われれば、正直「わからない」としか言えない。そもそも、まだ何も起こっていないわ けだし。 なんだか、やけに落ち着いているなと、思った。 こんな、ありえない状況の中にいるのに。 『ありえないって言葉はさ、あんまり使いたくないんだよね』 ふと、前に兄貴が言っていた言葉を思い出した。 『ありえないって、何を根拠に言ってんだろうなって思っちゃうんだよ、俺』 『じゃあ、超能力とか未確認飛行物体とか、信じるの?』 『……極端だな、お前。でもまあ、信じてるよ。否定できる根拠ないし。分からないもの とか、不思議なものとか、俺は結構好きかな。幽霊とかも信じるし、死後の世界もあった らいいなーとは思う』 『……そういや兄貴、空想系の小説とか漫画とか、よく読んでるよね』 『それは偏見だぞ。ミステリも読むし、サスペンスも読む。今度、お前に二時間ドラマの 素晴らしさを教えてやろう』 『……いや、いいよ、別に』 『そう言うなって。これが休みの日の昼間にうっかりテレビのスイッチ入れたりすると、 もうダメだ。その日の午後が完全に消える。中でも俺が好きなのはな――』 結局、くだらない話になったんだっけ。 でも、兄貴はそれなりに楽しそうだった。普段はあんまりおしゃべりな方じゃないんだ けど、あのときはやけにしゃべっていた。 何も問題なんてなかった。 問題なんて、あるようには見えなかった。 なのに。 ――違ったの、兄貴? あの車掌のような男は、僕に言っていた。少なからず気付いているはずだと。兄貴のこ とや、世界のことや、僕自身のことを。 それは、つまり。 「……兄貴が世界から消えて、世界中の誰もが兄貴のことなんて忘れているのに、なぜか 僕だけが兄貴のことを憶えている?」 「その通り」 不意な声の闖入にギョッとする暇さえ与えず、気が付くと前の座席に車掌のような男が 座っていた。足を組んで余裕のポーズ……と言いたいところだが、表情は相変わらず暗が りの向こうで、読み取れない。 「……い、いつからそこに?」 驚きで強くなった心臓の鼓動を自覚しながら、尋ねる。 「特に意味のある問いには思えないけれど、君が私を認識した瞬間から」 「びっくりするよ、急に現れたりしたら」 「君がたった今、私を意識したから、私がここにいるのだよ。急だというなら、それは君 の認識が急だったというだけじゃないかな」 「……僕のせいってこと?」 「それはまるで非難するかのような物言いだね。そのようなつもりはないよ。ただ、あえ て原因が何かと言われれば、それは間違いなく君のことだろうけど」 僕の部屋で話したときから感じていたが、どうも回りくどい言い方をする。これからど れだけの時間、この人と関わることになるのかわからないけど、どうにも面倒なやり取り を覚悟する必要がありそうだ。 と、思っていたら。 「……今、面倒そうだと思ったね」 「えぇっ?」 心を見透かされたようにズバリと言い当てられて、声が上ずってしまう。 しかし、対する彼は、まったくもって落ち着いたものだ。 「いや、特別なことではないよ。ただ私は、君に面倒だと思われるような態度をとってい ただけだからね。あとは君がそれらしい反応を示せば、私はそれを指摘するだけで済むと いうわけだ」 「……もし、そう思ったわけじゃなかったら?」 「そのときは、なら良かったと、言うだけだね」 「それ、予想通りになってないんだけど」 「つまり、その程度のことでしかないという、ただそれだけの話だよ」 駄目だ。もう完全に会話の主導権が握られてる。 「……無駄なことが好きなの?」 「それは、無益なことが好きなのか、という問いと近いね。だとしたら、嫌いではない」 「……ええと?」 「無駄なことをするのは、とても高尚な行為だよ。いや、むしろ、無駄を究極に省いた生 き方を良しとするからこそ、無駄を高尚とする思考が成立する。これは君たちの考え方を 基にしているわけだが、とても哲学的とも言えるね」 「哲学的な話は、もっと歳を取った人とするべきじゃない?」 「面白い物言いだけど、哲学は年寄りの偉大な学問ではないよ。むしろ幼い子供の純心に 近いものだ」 「僕は年取りでも子供でもないんだけど」 「……なるほど」 何がなるほどなのかわからない。それは今さらすぎるよ。ひどすぎる。 しかし、彼は数秒ほど思案するような仕草を見せたかと思うと、何事もなかったように こう切り出してきた。 「ねえ、比較的という言葉は、とても便利だと思わない?」 「……どうして?」 彼はニヤリと笑った。 いや、笑ったように見えた。なぜか、そう思えたんだ。 「君は、比較的幼い。違うかな?」 なんとなく、そう言うと思ったよ。 ここまで徹底して面倒だと、こっちも思い切って開き直れるというものだ。 比較的って何に対してだよ、とか聞いてみようかと思ったが、やめた。 きっと、それは無意味だから。 「……あの」 「何かな?」 「おじさんの名前、なんていうの?」 「……」 彼は一瞬硬直して、首をかしげた。 「……おじさん?」 「……いや、正直に言うと、おじさんでいいのかどうか、そこから確認したいんだけど」 何しろ顔がわからない。声は年齢どころか、性別すら判別できない。 「おじさん、じゃなかった? もしかして、お兄さんくらい? っていうか、まさかのお 姉さんとか?」 「君の解釈に物申すつもりはないよ」 「……じゃあ、なんで聞き返したの?」 「それより、名前は何かと聞いたようだけど」 「スルーですか」 「名前が必要?」 「…………え?」 なんてことだ。まさかそんな切り返しで来るとは。 「いや、えっと……あとあと、何かと不便じゃないかな、って」 「ここには私と君しかいないのに?」 「不便を感じない?」 「名前は、多数の中で個人を特定する程度に機能すれば十分だよ。今の我々には不要じゃ ないかな。無くてもお互いを特定し、識別し、認識して、関わりを成立させられる」 「……そ、そう」 どうしよう。胃が痛くなりそうだよ。 「……これから、どこに行くの?」 「端的に言えば、君のお兄さんのところへ」 「兄貴、本当にいるの?」 「質問の意味がよくわからないね。なぜ本当かどうかに疑問を持つのかな?」 だって明らかに胡散臭いんだもん。 と、言うわけにもいかず、かといって何か別の言葉が浮かぶわけでもなく、僕が返答に 窮していると、彼が続けて言葉を紡いだ。 「そもそも君は、なぜ私について来たのかな?」 「それは、」 「言わずとも理解しているよ。あの世界において、君以外にお兄さんのことを認識してい るのが私だけだったから、だね」 「……そう」 「少なくとも私に同行することが、お兄さんに近付くためには一番の近道なのではないか と解釈した。だから、私が何者かを考えるより早く、君は私の差し伸べた手を取った」 「……うん、そう」 「なら、その点に不安を抱く必要はないよ。私は確実に君をお兄さんのところに案内する から。ただ、私が何を説明しても、君にとっては半信半疑だろう。それは仕方のないこと だ。だから、ついて来なさい。理解を超える範疇の物事は、目で見て理解することが一番 だよ。理屈は、得てして大した意味を伴わないことが多い」 「百聞は一見にしかず、ってこと?」 「その通り」 「でも、見たものが真実とは限らないでしょ?」 「その認識は正しいね。真実ではないかもしれない。しかし、真実であるかもしれない」 「……どっち?」 「事実ではある、というだけの話。それをどう解釈するかは、君の自由」 「……」 僕は考える。 僕にとっての事実。それは、たったひとつしかない。 兄貴がいなくなった。 失踪したなんてレベルじゃない。世界中が兄貴を忘れた。最初から存在しなかったみた いに扱った。 でも、僕だけは忘れなかった。 僕がけが、世界で唯一、兄貴のことを忘れなかった。 「……あれ?」 「どうかしたかな?」 「どうして、僕だけ?」 「何が?」 「どうして、僕だけが兄貴のことを忘れなかったんだろう」 「それは少し違うよ」 彼は冷静に訂正した。 「君がお兄さんのことを忘れなかったわけではない。世界が、君の中にあるお兄さんの記 憶だけを消さなかったんだよ」 「どうして?」 「どうして、というのは?」 「だって、おかしいよ。僕だけが覚えてる必要性、ないもん。僕も一緒に忘れた方が、何 もかもスムースに進むんじゃない?」 「スムースというのは、何に対して?」 「ええと……僕のいた世界、にとって?」 「正しい理解だと思っていいよ」 考えながら言葉を紡ぐ僕とは対照的に、彼は全く淀みない。 「ええと……あなたはさっき、僕のことを……世界の綻びだと言ったけど、そもそもの綻 びは兄貴のほうだよね?」 「そもそもの話をすれば、発端はお兄さんだね」 「兄貴が何をしたのか知らないけど、とにかく兄貴の存在が世界にとって不都合になった っていうことだよね」 「そうだね」 「その不都合を世界が修正しようとして、兄貴が消えてしまった……いや、違うか、消さ れてしまった」 「うん」 「でも、僕だけが覚えてるってことは、正確に言ったら、兄貴はまだ消えてはいないわけ だよね?」 「そうだね」 「どうして? 兄貴の何が、そんなに不都合だったの? それって、世界から消えなきゃ ならないほどのこと? だって、兄貴は普通の人間だよ?」 「普通か、そうでないかが問題なのではないよ。君も言ったように、君のお兄さんは普通 の人間だ。なんら他者と異なる要素はない。問題なのは、君のお兄さんが強く願ってしま ったということ。そしてそれを、世界が聞き入れてしまったということ」 「ちょっと待って。……兄貴が、願った?」 「そう」 「何を?」 「聞かなくても分かっているよね?」 「……」 兄貴が願った? 世界から消え去ることを? 最初から、存在しなかったみたいに。 でも、それならなおさら、おかしい話になる。 「どうして、兄貴の存在をすぐ消さずに、僕ひとりにだけ覚えさせておくような、その… …面倒なことをしたんだろう? そんなことしない方が、」 「ねえ」 彼が言った。今まで僕の言葉に反応するばかりだったのに、初めて僕の言葉を遮った。 「……気付いている?」 表情は暗闇の向こう側。それはずっと変わらない。 だから、わからない。 彼が何を考えているのか。 彼が何を言おうとしているのか。 「……何が?」 何か、寒気のようなものを感じながら、尋ね返す。 彼は、まるでそれが当然だと言わんばかりに、恐ろしくあっさりと言い放った。 「君は今、とても重要な発言をしている」 「……え?」 「よく考えたほうが良い。 君自身が、その答えを出すべきだよ。他の誰よりもね」 「……それ、どういう……」 どういうこと? もう一歩踏み込もうとしたそのとき、車体が進行方向に対して左側に傾いた。 「駅が近いね」 彼の言葉を背中で受けながら、車体が描く大きな円の内側にある窓から、外を見た。 列車の先頭の延長線上に、真っ白な駅のホームが見える。 ……でも。 「お兄さんは、あの街にいるよ」 「街?……駅のホームしか見えないよ?」 そう。ホームが存在しているだけだ。街なんて見えない。 「ホームに降りてみればわかるよ。街は存在している。そして、君のお兄さんは、その街 の中にいる」 兄貴がいる。 あの真っ白な駅で降りた先にある、街の中に。 なんだろう。なんだか、ピンとこない。 「街って、広い?」 「それなりに。でも、君にはそれほどでもないかもね」 「え、なんで?」 「行けばわかるよ。お兄さんも、案外早く見付かるんじゃないかな」 「……なんだか、すごく久しぶりな気がする。兄貴に会うの」 「それは良かった」 全く気持ちの込められていない言葉を、僕は聞き流した。 吹き付ける風が、耳元で騒いでいる。 ――ああ、きっとそうだ。 だから、彼が続けた言葉も、空耳に違いない。 僕は、そう自分に言い聞かせた。 「まあ、君にとってもお兄さんにとっても、それが良いのかどうかは分からないけどね」 ◇◆◇◆◇ 雨音が、耳の奥で響き続けている。 じんじんと震えて、ヒリヒリと痺れていく。 これは、体温が奪われていく実感だろうか。 視界が左右に揺れて、安定しない。もしかしたら、足元がふらつているのかもしれない な。確認は面倒だからしない。視線を下げる意味が見出せない。結局は倒れなければ大丈 夫だろう。倒れたら倒れたで、何とかなるだろうさ。 ――カタン。 駅前ロータリィから、とりあえず南側に向かって歩き始めた。繁華街の先にあるビジネ ス街に、俺の職場がある。まず、そこに行ってみよう。そう思った。明確な理由があるわ けではないが、いきなり自宅に向かう気には、どうにもなれなかった。もっとも、どちら を先にしたからといって何があるわけでもないだろうし、誰かと遭遇するわけでもないの だろうが。 人がいなくなっただけで、華やかでも賑やかでもなくなった繁華街を南下する。静けさ が不気味だ。徹夜で仕事した後の、早朝の帰宅時だって、雀のさえずりくらいは聞こえる だろうに。きっと、こういうのをゴーストタウンと言うのだろう。誰もいない世界で、存 在意義を失った信号機が、ただ規則的な明滅を繰り返している。無意味、ここに極まれり だ。 片道三車線の大通りを、堂々と横切ってやる。完全な赤信号。走る車どころか、それを 運転する人間がいないのだから、咎められることなどないはずだが、小さな悪事に心がざ わつく。幼い子供がイタズラをしたときの、バレたらどうなるんだろうかと不安になる心 持ちに似ている。 ……楽しいじゃないか。 小さかろうと大きかろうと関わり無く、今までしなかったことをしているその事実が、 純粋に面白いと思える。 そして、この光景。 似て非なる世界。 俺の知っていた街。今は知らない街。 ――カタン。 また。 聞こえる。古い時計のような音。 洋館のロビーとかにありそうだな。大きな古時計? あんな感じ。 ここに来てから、あの音を何度か耳にしている。何の音なのかは分からないが、あの音 をひとつ耳にするたび、なんだか気持ちが楽になっていくような気がする。そういえば、 どこから聞こえてくる音なんだろうか。どこで聞いても、同じ音量で聞こえてくるような 気がするんだが……。 そんな、どうでもいいのか良くないのかわからないことを考えながら十五分ほど歩いた ところで、見慣れたオフィスビルの前に来た。 俺が学生を卒業してから世話になっている場所。 何が不満というわけじゃない。他がどうなっているのかは知らないが、人も、環境も、 決して悪くはないはずだ。満たされていた、と言ってもいい。 そこにいた。 そこにいた俺が、今はここにいる。 俺が今、心の中に描いているものは、こちら側には存在しない。 全て、あちら側だ。 きっと、あちら側では今頃、同僚も上司も部下も、誰もが奔走しながら労働しているの だろう。 自分の稼ぎのために。 あるいは好きな趣味のために。 そしてあるいは、愛すべき、守るべき誰かのために。 人間がひとり消え去ったことなんて、誰ひとり気付くことなく。 何も変わりはしないし、誰も困りはしない。時間は過ぎていくし、誰にもそれを止める ことはできない。 俺だけが、取り残されていく。 置いていかれる。 ……なんだよ、寂しいのか? 寂しいだって? 俺が? 冗談じゃない。寂しいわけがないじゃないか。 寂しいなら、なんで誰もいない世界なんて望む必要がある。 俺は一人になりたいんだ。 誰からも干渉されず、誰にも干渉しないで済む環境を望んだ。それだけだ。 今さら、自分以外の誰かのことなんて、 …………構うものか。 ――カタン。 この存在に、いかほどの価値も見出せない。 無意味な命なんてないと言う人間もいるが、あれは詭弁だ。極端な物言いだと承知の上 で言わせてもらえば、虐待されて命を落とす子供にも意味はあるのか、ということだ。生 き残った側のためになっても意味がない。世の中には確かに、意味の無い――いや、生ま れてこない方が良かった命が存在する。俺もそのひとつだ。 「……はは」 ……誰に言い訳してるんだろうな、俺は。 どこかで間違った。そうでなければ、初めから間違えてばかりだった。多分、そういう ことなんだろう。 少し笑える。 いや、これはそんな壮大な話じゃないし、難しい話でもない。 俺は単純に思ったんだ。 これから先の五年や十年、今と変わらない毎日を過ごしているんじゃないか。新しい何 かがあるわけでもなく、三十になろうと四十を越えようと、今と変わらない日々の連続な んじゃないか。 もしそうなら、この人生に何の意味があるのか。 生まれた瞬間から恐ろしく緩やかに、死に向かって進んでいくその過程の中に何の起伏 もないなら、俺は何のために生まれて、何のために生きているんだ。何のために生きてい くんだ。いつか誰にでも訪れる、死の瞬間のために生きていくのか。死ぬために生きるな んていう矛盾を抱えたまま、俺はあと何年生きていかなきゃならなくなる? 考えるだけ で十分に恐怖だ。 そんな生き方はごめんだ。 そう、 「……俺は、いつ死んでも後悔しない生き方をしたいんじゃない」 ――カタン。 改めて口にした言葉が、現実味を帯びる。 何かが、世界の空気を変えていく実感がある。 それでいい、と誰かが言ったような気がした。 そうだ。俺はそんな生き方がしたいわけじゃない。だからここに来た。 ここで全てを捨てる。 この街で、俺は全てを捨てる。 その初めに、あのビルの中で得たものを捨てよう。 同僚も、上司も部下も、彼らの家族との交流も。 この場所に哀愁を覚えるのは、今この瞬間が、最初で最後だ。 ――カタン。 「……」 夢から覚めた瞬間のように、ぼんやりと。 街中で雨に濡れながら、眼前のオフィスビルを見上げている自分に、 「……あれ?」 違和感。 「なんで、ここに来たんだっけ?」 この感覚には覚えがある。何かをしようとして、いざその場所に辿り着くと、何をしよ うとしていたのかを忘れてしまう。あの感覚に似ている。 さて、なんでここに来たんだったかな。 忘れるくらいだから、きっと大したことじゃないだろうけど、ちょっと気になる。 気になるけど……なんだか、嫌な感じもする。 なんでだろうな。 「……」 しばらく考えた後、なんとなく本能的に、その話は後回しにしようと思った。 こういうのはアレだ。知らないほうがいいことってやつだろう。俺はそういうところ、 結構柔軟にできているつもりなんだ。気にしないぞ。絶対に気にしたりしない。 「さて、本当、どうするかな」 ここまで来た目的は忘れちゃったし、ここにじっとしていても仕方ないかもな。……っ ていうか、仕方ないな、絶対。 それより、目下なんとかしておきたい懸案事項がある。 「……傘、ほしいな」 さっきまで何も思わなかったのに、急にどうしたんだろう。濡れすぎて体温が下がって きたせいかな。なんか気持ち悪くなってきた。 でも、なんか、変な気分だ。着ている服が雨を吸って重たくなっているのに、なんだか 軽くなったような……。 軽く。 ……何が? 「……いや、だから、とりあえず傘だって」 瞬間的に我に返り、自分にツッコミを入れた瞬間。 ――カタン。 右手に何かの感触があり、視線を向けると傘を握っていた。 「あれ?……なんだ、持ってんじゃん、傘」 どうしてとか、なんでとか。そういうのは、どうでもいい。 この世界においてそれが通常であり、そうなることが当然であるなら、俺が口を挟む理 由はないし、その余地もないだろう。 「……お、さすが俺」 期待を裏切らないワンタッチ式。手軽なことは良いことだ。効率的だからね。 バスン、と張りのいい音がして、傘が開く。どっちでもいいけど、これ新品かな。そこ まで考えてなかったから。まあ、新しいものは何にしても嬉しいし、楽しいものだしね。 ここに来た理由が無くなったなら、次の場所をどこにするか決めなくては。この街の、 今まで行ったことのない場所まで足を伸ばしてみる、っていうのはどうだろう。なかなか 面白そうじゃないか。でも、来た道を戻って、駅前のショッピングモールに行ってみるの もいいな。誰もいないモール内を歩き回るのも新鮮な気持ちになれそうだ。あるいは人気 の無い商店街。これも静まり返って不気味なんだろうな。なんだかワクワクする。 ……ああ、でもやっぱり。 「行ってみるか、家」 指折り目的地を数えていながら、心の奥底には結局その存在があった。 さっきまで家に行くのは嫌だったのに。 傘の件といい、本当にどうしたんだろう。 わからない。何が、気持ちをそちらに持っていったのか。 明確な何かがあるわけではなく、急にそんな思いが強くなったんだ。 そんな理由でも、理由は理由だから。 「よし。やっぱりまずは家、だな」 当面の目的地を決めてから、俺は今一度、眼前のオフィスビルを見上げた。 きっと、ここには、俺にとっての何かがあったんだろう。 でも、もう何もない。なくなったんだ。 こんなにあっさりなくなるんだから、俺にとっては、それほど重要なことじゃなかった に違いない。 だから、もうさよならだ。 「ばいばい。……よくわからないけど」 ――カタン。 無機物に手を振っている自分の姿に、思わず笑ってしまう。 本当、何をやっているんだろうね、俺は。 でも、気分はとても良好だ。 少し高く傘を持ち上げ、見上げる。傘布をボツボツと打つ雨粒の音が、一際よく聞こえ るような気がした。地面に落ちていく雨粒たちの音に紛れていく。 なんだか楽しい。 いつか目にした、古い映画のワンシーンを思い出す。 雨の中を歌いながら、軽やかに踊って見せたあの俳優は誰だっただろう。 今なら、できるかもしれない。あのタップダンス。 いや。タップダンスどころじゃない。 今の俺なら、空だって飛べるかもしれない。 それくらい、なんだか軽いんだ。 体が、なのか。 心が、なのか。 それは、わからないけれど。 雨の中で歌っている ただ雨の中で歌っているだけさ なんて素敵な気分だろう 幸せだよ 雨雲に笑いかけよう 空はどんよりと曇っているけれど 太陽は心の中にあるから 愛の始まりにはうってつけ ……確かに、新しい始まりにはうってつけかもな。 ◇◆◇◆◇ 「……ええと」 真っ白な駅に降り立ったと同時に、その奇妙な時計が目に付いた。 ――カタン。 いや、目に付いたというのは、少し違う。見ろと言わんばかりに、その時計が異様な存 在感で僕の前に現れたんだ。 なんだろう、これは。そもそも、本当に時計なんだろうか。 まず文字盤からしておかしい。二十四時よりも半端に長い。二十五より多いけど、二十 六はない。数字と数字の間に、六つの目盛り。何を示した文字盤だろう。しかも、この時 計は左回りで、何より動きが乱れている。針がひとつ動くのにやけに時間がかかったり、 かと思えばすぐに動いたり、なんだか取り留めない。 ――カタン。 一本しかない針が、ちょうど二十一を指す。 「……あ」 針の音が呼び起こしたかのように、僕は重大な事実に気付いてしまった。 列車から降り、改札に立っているこの状況。 そう、改札だ。人の姿は見えないが、それでも改札であることに変わりはない。 ということは必然、切符という存在がなければならないが。 「切符なんて……持ってませんけど」 元の世界で彼の手を取って、気付いたらあの妙な列車の中だった。それだけだ。それ以 外は何も記憶に残っていない。念のためズボンのポケットやシャツの胸ポケットを探って みるけど、それらしいものが出てくる様子はない。 やっぱり、ない。 「……」 いくらか表情が引きつっていることを自覚しながら、僕はもう一度、改札を見た。 無人の改札。 ……通ったら、まずいだろうか。 まずいに決まっている。 いやしかし、いわゆる近代的な自動改札じゃないから、通れないことはない。 通ろうとして、もし誰かに声をかけられたら釈明すればいいじゃないか。 勝手に乗せられて、意味も無くここに連れて来られました、って。 でも、誰に? って聞かれたらどうしよう。 さっきまで電車に乗ってた車掌っぽい人で、名前は知らないけど僕を列車に乗せてくれ た人で、なんかこう喋り方に特徴があるというか、いちいち人をイラつかせるというか、 良い言い方をすれば天然という感じの。 「…………」 ……ああ、もう。面倒くさい。 「……ええと、すみません。切符持ってないけど、通りますよー……」 誰に断ってるんだか、自分でも意味がわからなくなりながら、恐る恐る改札を通り過ぎ ようとする。次第に胸の中に募っていく、腹立たしさ。まったく、気分のいい話じゃない よ。僕が悪いわけじゃないのに。 「僕が意識したら出てくるとか言ってたのに。どうでもいいときばっかり出てきて、回り くどい話してさ」 消化しきれない想いをブツブツと言葉にして零しながら、若干乱暴になった足取りで改 札を抜けた。 長いトンネルを抜けた瞬間のように、視界の中心から世界が広がる。 「……え?」 瞬間、妙な感覚にとらわれた。 見慣れた駅前ロータリィ。バスのターミナル。隣接するショッピングモール。駅の正面 から南側に延びる、片側三車線の大通り。 僕の住んでいる街だ。どしゃぶりの雨だけど、その光景は間違いなく、僕と兄貴が居た 場所で間違いない。 でも、どうして? 現実の世界を離れて、わざわざやってきた場所が、元の世界と同じっていうのは、どう いうことだろう。いや、この光景が広がっているということで、この街のどこかに兄貴が いるであろうことにはようやく確信が持てそうだけど、それにしても兄貴の真意がわから ない。 「現実から離れたのはいいけど、やっぱり戻りたい、とか?」 「悪くはないけど、その解釈は少し短絡的かな」 「わッ!」 背後からの不意な声の闖入に、僕は飛び上がりたいほど驚いて声を上げた。全身が縮み 上がり、胸の鼓動が強く早く感じられる。 「……ほんと、びっくりするってば、急に出てこられたら……」 「少し前にも同じことを話したね」 駄目だこれは。 ああもう、心臓に悪いことこの上ないよ、まったく。 「ところで」 僕の隣に立った車掌姿の彼は、僕を見て小さく首を傾げた。 「君は面白い反応をするね」 誰のせいだと思ってんですか。 「いつからそこに?」 答えなんか最初から分かっていて、嫌味を込めて言ってみるけど、 「その質問は二度目だね。回答を忘れたわけではないだろう? そういった行動は君とい う人物の評価を不用意に下げるよ。誤解につながる。やめたほうがいいね」 僕はあからさまに納得していない表情を見せたが、彼はそんなことなどどこ吹く風、再 びどしゃぶりの雨の街を眺める。 「この意味は、比較的明確だと思わない?」 「……えっ?」 唐突に話し始めるの勘弁してよ、と抗議する間もなく、彼は僕のほうを向いて左手の人 差し指を持ち上げた。 「この世界。君は不思議に思ったようだけど、別段おかしい話ではないかもしれない、と いうこと」 そして、お得意の謎掛けだ。 「……どういうこと?」 「君とお兄さんのいた世界が、この場においてそのまま再現されているということは、お 兄さんにとって、世界そのものには問題を感じていなかったということだ。これが何を意 味するか」 「……」 「気付いていたよね。この世界を見た瞬間に」 「いや、それはさすがに……」 「全く、何も思わなかった?」 「……」 「君はさっき、現実から離れたものの結局戻りたくなった、とお兄さんの心境を分析して いたね。あれは、何を思ってそう結論付けたのかな」 「……」 一瞬。 この街を見た瞬間、ちょっとだけ安心したんだ。 兄貴の中に、この街があること。 なんだ兄貴、やっぱり元の世界に戻りたいんだな……って。 なんでそう思ったのか、よくわからない。ただ単に、僕自身が兄貴のことに安心したか っただけなのか、それとも、生まれてからずっと兄貴と一緒に生きてきた、僕の直感に近 い感情が導き出した答えなのか。 ただ、どちらにしても言えることが、ひとつだけある。 「僕が何を考えても、兄貴の気持ちは、兄貴にしか分からないよね」 「それは正しい解釈だね」 彼は小さく頷いた。 「確かに、お兄さんの気持ちはお兄さんにしかわからない。でも、この街の中で君のお兄 さんが向かうとして、それがどこになるか……それは、君にもある程度の予測が可能だと 思わない?」 分かりきったことを、わざわざ聞いてくる。 「……家、ってこと?」 「行ってみようか。運が良ければ、すぐさまお兄さんに会えるかもしれない」 いつの間に、どこから取り出したのか、一本の雨傘を僕に差し出し、もう片方の手で雨 の街へ促す。暗闇の向こう側には、今どんな表情が貼り付いているんだろう。 「……」 窺い知ることのできない感情をいくつか想像してみるけど、どれもピンと来なかった。 よくしゃべるけど、彼はなんだか無感情だ。今さらそんなことに気付きながら、差し出 された雨傘を受け取った。 「……あ、ワンタッチ式」 「それ、君たち兄弟のこだわりか何か?」 「え?」 「いや、大した話じゃないから気にしないで」 「……?」 変なの。自分から話しかけておいて引っ込めるなんて。 気にするなと言われた通り、気にしないことにして、僕は傘を開いて雨の街に一歩、踏 み出した。 ザァ―――――――― 雨粒の音というよりも、音そのものが降ってきているような。 傘を持った右手に、圧倒的な数の衝撃を感じながら、灰色の街を進んでいく。 その振動が、心地よい。 痺れていく。 これは、振動のせい? それとも、雨で体感温度が下がっているせい? 進んでいるこの先に、兄貴は本当にいるんだろうか。 本当にいるとして、兄貴は何がしたいんだろう。みんながいる世界から、わざわざ誰も いない世界に来てまで、兄貴は何がしたいんだろう。 何が。 ザァ―――――――― 足が止まる。 数歩、先に進んだ彼が、振り返って僕を見る。 「どうかした?」 尋ねてくる。 どうかしたかって? 「……どうしたいのかな?」 意味がわからない。 兄貴よりも先に、僕はどうなんだろう。彼の言うとおりにしてここまで来たけど、僕は ただ、僕だけが兄貴のことを覚えている世界が不自然に見えて、その違和感に耐えられな かっただけだ。兄貴がいないことを当然のように振舞う世界から、ひとまず離れたかった んだ。 そして、ここまで来た。 ここまで来て、兄貴に会おうとしてる。 「……会って、どうするんだろう」 僕の言葉に、彼は答えない。 いや、答えが欲しいわけじゃないことを、彼は分かっているんだろう。 やけに重たい、一歩を踏み出す。 それをひとつひとつ重ねて、歩みに変える。 確実に前へ進むことを優先しながら、考える。 兄貴に会って、どうするか。 一緒に帰ろうって、言うことはできる。でも、それを断られたら? いや、むしろ断ら れる可能性のほうが断然高い。だって、兄貴は自分で望んでここにいるんだから。この世 界に来ることが――兄貴にとって、もしそれが救いであるなら、僕にそれ以上の何ができ るっていうんだろう。 なんか、変だ。今までそんなこと、少しも疑問に思わなかったのに、今になって急に考 え出すなんて。 「……おかしいよね」 同調するように、彼が言う。 「お兄さんに会うこと、戸惑っている」 「それは、でも……」 「ああ、それは勘違い」 「え?」 まだ、ほとんど何も言っていないのに。 「言わなくても分かる。君を責めているわけではないよ。その反応は、むしろ自然」 「もしかして、気付くの遅いくらい?」 「速さは問題ではないよ。その事実に気付けばいい」 事実。 「……兄貴は多分、戻りたくないって言うよね」 「なぜ?」 「だって、ここは、兄貴が居たいと思っている場所なんでしょ?」 「今は、ね」 「今は?」 「お兄さんの望んだ世界が、元の世界と似ても似つかないものだったら、君の解釈を支持 するところだけどね。しかし、この世界はあくまでも、元の世界を基準にして作り上げら れている」 「……元の世界に戻りたいってこと?」 「その解釈は飛躍しすぎだと思うけど、元の世界に何も未練がないわけじゃないのは、確 かなんじゃないかな。ただ……」 「ただ?」 「元の世界に近いければ近いほど、何が決定的に違っているかは、よく考える必要がある ね。それが、お兄さんの望んでいることの本質でもある」 「……」 元の世界との決定的な違い。 この街に入った瞬間に感じた、あの妙な感覚、今ならその正体がわかる。 見知っているはずの街並みに、確かに感じた違和感の正体。 人がいないっていう、たったひとつの事実。 たったひとつだけど、元の世界と大きく決定的に違っているポイント。そこに気が付い ていたんだ。 そしてそれは、兄貴が望んでいることの本質。 「……」 再び足が止まる。 数歩、先に進んだ彼が、振り返って僕を見る。 「どうかした?」 「……やっぱり、僕」 兄貴に会うの、やめとこうかな。 言おうとして、彼を見た。 彼は、 「残念だけど、もう遅いよ」 首を横に振った。 その彼を通り越して、視線の延長線上、生まれてからずっと住んでいる我が家の前に、 この街に来てから始めての人影を見た。 見間違えるはずのない人影だった。 「……兄貴」 本当にいた。 「……はは」 なんだ兄貴、結局ここに来てるんじゃないか。 でも、なんだか様子がおかしい。 傘を差しているのに、どう見ても全身ずぶ濡れだ。僕らの帰る場所を――なんだろう、 なんだか……他人のもののように、ぼんやりと見上げている。 思わず呼びかけようとした瞬間――まるでそれを察したかのように――兄貴がこちらを 見た。それほど長いわけでもない前髪が額に張り付き、そこから滴る水滴が滑らかな鼻筋 をなぞって唇に届く。虚ろな瞳が僕の姿を認める。 と。 「……あれ?」 わずかに目を見開いたものの、ずいぶん薄い反応を示した。 「……ここには、俺以外の人間はいないと思ってました」 僕への興味などすぐに無くしたような淡白さで、兄貴は彼に向けて言葉を紡ぐ。責めた り咎めたりしているのではなく、ただ純粋に疑問を口にしただけ――そう見えた。 「僕、何か間違えましたかね?」 苦笑を浮かべた諦観の表情で尋ねる兄貴に、彼は「いいえ」と答え、小さく肩を竦めて 見せた。 「少々、事情が変わりまして。貴方に問題があったわけではありません。いわゆる特例措 置だと考えてもらえれば結構です」 僕には友達みたいに話しかけるのに、なんで兄貴には丁寧な言葉遣いなんだろう――ど うでもいい部分に疑問を抱いていると、「特例かあ」と兄貴がつぶやく。じゃあ仕方ない か、と言わんばかりに大して気にする様子も見せず、兄貴は再び僕を見て。 そして、言った。 言ったんだ。 「……君さ、何があってここまで来たのか知らないけど、早く帰ったほうがいいよ。あん まり長居すると――帰れなくなるから」
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