宙を舞った。 傘が。 持ち主を失って。というか、持ち主に放られて。 くるくる、くるくる、冗談みたいに回って、垂直に近い弧を描いて。 落ちた。 裏返って、パタパタと雨に打たれて。 そこに、すぐに小さな水溜りができていく。 傘って面白いな。普通に使うと雨よけなのに、裏返すと水を溜めるんだ。 でも、そこに持ち主の姿はない。 「……」 傘の持ち主が走り去った方向を、ぼんやりと見遣る。 高校生くらいの少年だった。駅の方からやってきて、今また駅の方へと走り去った。 俺を見た瞬間、なぜか嬉しそうに表情を輝かせていた。が、早く帰った方がいいと俺が 声をかけた瞬間、傷付いたように表情を歪ませた。何かを俺に言おうとして、それを躊躇 して口を閉じ、もどかしそうに肩を震わせたかと思ったら、軽く頭を下げて振り返り、逃 げるように走っていってしまった。 どうしたんだろう。 俺、何か悪いことをしただろうか。 「…………あ」 そうか。 ああ、少しぼんやりしすぎてた。 何があったにせよ、こんなところに来る羽目になって、誰もいないで心細かったのかも しれない。それでようやく人間らしい人間に会ったと思ったら帰れと言われれば、それは 凹みもするだろう。彼のことを思って言ったつもりが、裏目に出てるだけじゃないか。 「……言い方、ちょっと冷たかったかな」 「誰に言っているんですか」 軽薄そうに、しかしふざけた様子ではなく、俺の言葉に応じる人物が残っていた。 ひとまず俺は、真っ先に気になっていることを尋ねてみることにする。 「あの子はなんです?」 「あの子?」 「言わなくても分かってるくせに。さっきの男の子ですよ。あなたが特例措置だと言って いた」 「ええ、先ほども言いましたし、あなたも言ったように、特例措置です」 いや、そういうことを聞いたつもりじゃなかったんだけど。 「……ええと。いや、だから、どうして、その特例措置が発生したのか、それを知りたい わけで」 「それは、私の判断ではないので分かりません」 にべもない。 「何か、気になりますか? 彼のことが」 気になる? 俺が、あの子のことを? 「どういう意味ですか、それ」 「ずいぶんと彼のことを知りたがっているように見えたので」 「対応が悪かったかなと思っただけです。俺にだって、それくらいの良心はありますよ」 「ええ、分かります」 あっさりと返された瞬間。 俺の中で、何かが蠢いたような気がした。 「……分かる?」 「ええ。分かります」 「……ハッ」 思わず笑ってしまった。 分かります、って。 なんだよそれ。 なんなんだよ、分かりますって。 ――蠢く。 ……分かってたまるか。 俺のことを、そう簡単に分かってたまるか。 何を知ったようなことを言ってくれるんだ、あんたは。 「……ずいぶん簡単に分かってくれるんですね」 「事実を言ったまでです」 「事実?」 「ええ。世界から自分の存在を消そうとするあなたなら、あるいはそう不自然なことでは ないだろうと」 「そんなことは、」 「世界がなくなればいいと思いたがる人間は多くいます。私も多く見てきましたから。し かし、あなたは違う。心の中で気まぐれにそう思うことはあっても、それを本気で願うこ とはできない。なぜなら、あなたは何が問題なのか、その本質を理解しているからです。 ……違いますか?」 「……そんなことは」 違う。 俺は違う。 そんなやつじゃない。 俺がどんなやつかなんて、俺が誰よりも分かってるんだ。 「……そんなこと、ありません。俺のことを知ったふうに話すのはやめてください」 「気分を害したなら謝りましょう。ですが、私の謝罪であなたの心の奥底にあるものが消 失するわけでも、昇華されるわけでもありませんよ」 「……」 くそ。 いちいち正論で怒る気も失せるよ。 「……分かってます。 ただ、関係のある人間ならともかく、知らない人間が出てきたもんだから、どういうこ とかと思っただけです」 「そうですか」 それだけを返した彼の言動から、言外に話は終わりだと言われたような気がした。 「ところで……あなたは、こんなところで何を?」 改めて尋ねられて。 「何をって、俺は……」 また、どこかぼんやりとしながら、眼前の建物を見遣った。 なんてことはない一戸建て。似たようなものは他にいくらでもあって、これが何か特別 という感覚はしない。 ……なんで、わざわざこれを眺めていたんだろう。 「その家が何か?」 尋ねられても分からないよ。 この家に何かあるなら、それは俺の方が知りたいくらいだ。 「……知りませんよ。そんなの」 「でしたら、ひとまずここを離れてみてはどうですか? まあ、この場に残って何か得ら れるものがあるのでしたら、その限りではないと思いますが」 「……」 何かがあって、ここに来たのかもしれないけど。 「……忘れちゃったんだ」 雨音の中に、言葉が吸い込まれていく。 「…………忘れちゃったんだ」 知ってる。 俺は、この建物が何を意味するものなのかを、知ってる。 ここにはきっと、俺が俺でいるための空間があった。 家庭と呼ばれる類のもの。 ここだけじゃない。さっきのオフィスビルには職場と呼ばれるものがあって、この街に は、俺を作り上げた日常と呼ばれるものが、そこかしこに存在していたに違いない。 知ってるんだ。 でも。 言葉の意味がわかるだけで、そこに実感が付いてこない。 何も感じない。思えない。 そこには、確かに何かが在ったのだろうけど、今の俺には、わずかな必要性さえ感じら れない。 心が動かない。 何も無いのと同じだ。 忘れて、しまったから。 「……」 腕の力が抜ける。 手にしていた傘が落ちる。 逆さまになって、雨を受けてる。 ――遠ざかる。 「……ときどき、思うことがあるんだ。絶望的な気分になりたいって」 言葉を止められない。 止めていたものが、今はないから。 俺の中にいて、とどめていたものが、今はないから。 「死にたいんですか?」 すごいこと聞いてくるなあ。あっさりと。 笑えるよ、それ。 「そんな分かりやすいことじゃないですよ。 なんか、こう……なんとかなるんじゃないかとか、きっと大丈夫だとか、そんなことを 考えそうになるとき、そこに救いなんて少しもないんだと思いたくなるんです」 「なぜ、そう思いたくなるのですか?」 なぜ? なんでそんなこと聞くんだ。 聞かなくたって分かるじゃないか。明確だよ。 「諦められるから」 諦めることができれば、揺らがずに済む。 「ついさっきまで思っていたことと、違うことを思う自分が嫌なんです。手のひらを返し たみたいで、汚いやつに見えるから」 自分が汚いなんて思いたくない。 いつだって清廉潔白でありたい。 でも、自分がもう汚れてしまっているんだと分かると、 ――なんだか、安心する。 「あなたに限った話ではないと思いますが?」 「他人のことなんて、どうでもいいんです。俺が俺自身に納得できるかどうか、それだけ です、問題なのは」 「ずいぶんと自分に厳しいんですね」 「厳しい? 俺がですか? そんなわけないでしょう。……結局、また前と違うことをし ようとするんだから」 また違う。また違う。 何かをするたびに、その言葉が自分の中で堆積していくような気がする。 いつまで経っても消化されずに、やがて腐敗して悪臭を放っていくような気がする。 これが俺だ。 こんなのが、俺なんだ。 「そうすることがその時点での最良だと、あなた自身が判断したからでしょう。それは、 あなたが綺麗か汚いかとは別の問題です」 「……そうだとしたら、どれが、本当の俺なんでしょうかね」 誰に何を聞いているんだろう。 「今の俺は、本当に俺なんでしょうか? そもそも俺っていうのはなんなんでしょうか? ここに来ることを望んだ俺は、俺の中の本当の俺なんでしょうか? いやその前に、俺 の中に本当の俺はいるんでしょうか?」 「それを明確にすることを望んで、ここへ来たのでは?」 これだ。 この人はいつも、俺が核心に踏み込もうとするとはぐらかす。 何かを知っているんだ、この人は。 「少しでも構いませんから、教えてくれませんか?」 「……教える?」 言われていることの意味が分からない、といった様子の彼に、俺は頷いた。 「ええ。俺のこと、何かご存知なんでしょう? 俺の知らない俺のこととか」 「あなたの知らない、あなた」 学習し始めたばかりの人工知能みたいな反応をして。 「そんなものが、あるわけないでしょう」 ゾクリとするほどの、なんの迷いもない、明確な断言だった。 「おかしなことを聞きますね。あなたのことをあなた以上に知っている者が、一体どこに 存在していると?」 「……い、いや、分かりません。分かりませんけど、あなたはなんだか、俺のことをなん でも知っているような気がしたので」 「……悪い癖ですね。あなたのそういうところは」 「え?」 「あなたはたびたび自棄になったような素振りを見せていますが、その実、恐ろしく冷静 です。世界から消えたいと言いながら死にたいのではないと言い、知ったようなこと言う なと私に言いながら、自分自身が一番自分を分かっていないと思っている。誰かや何かに 救いを求めながら、結局のところ自分自身をどうにかできるのは自分だけであることを知 っている。全てを捨てると決断しておきながら、ひとまずその身から離すにとどまってい る」 「……そんな、できた人間じゃないですよ、俺」 「人としてできているかいないかは、別の問題です」 そこまで言うと、彼は身を翻した。 「あ、あの、」 「あなたは、私から何かしらの同意を得たいのですか? あるいは、あなた自身を肯定し てもらいたいのですか?」 「……」 「違うでしょう。あなたは誰の肯定も必要としていないし、誰かの救いも必要とはしてい ない。なぜかは、あなたが誰よりも理解している。しかし、それでは足りない。あなたに は、まだ理解しなければならないことが残っている。問題なのは、それが探し出さなけれ ば見付からないような、難しいものでは決してないということです」 「……何の話をしているんですか」 「あなたの話を」 彼は簡潔に言った。 「あなたには、誰よりあなた自身に認めてもらわなければならないことがあります。先ほ どの少年に、誰より彼自身が気付かなければならないことがあるように。もっとも、彼は もう間もなく、辿り着くでしょうけど」 「さっきの子が、俺と何か関係あるんですか?」 「関係ないと思いますか?」 「……」 「あなたがどこまで踏み込もうとしても、私にできるのはこの程度の情報を提供すること だけです。近道を通ろうとする前に、真摯に自分自身を御覧なさい」 ――カシャン。 持ち上げた右手の中に、いつの間にか開いた懐中時計が収まっていた。 いや、そもそもこれは、本当に時計なんだろうか。 まず文字盤からしておかしい。二十四時よりも半端に長い。二十五より多いけど、二十 六はない。数字と数字の間に、六つの目盛り。何を示した文字盤だろう。しかも、この時 計は左回りで、針は一本しかない。 ――カタン。 その一本しかない針が、やけに重厚な音を立てて、「七」を指す。左回りだ。 これ、ゼロになったらどうなるのかな。 そんなことを思っていると、彼が残りの一言を発した。 「言うまでもなく理解していると思いますが――」 「はい?」 ぼんやりと時計を見たまま、反応だけ返す。 「――あまり長居はできませんよ」 「え?」 懐中時計の文字盤から視線を上げると。 そこにはもう、彼の姿は無かった。 ◇◆◇◆◇ 気が付くと、また駅前のロータリーにいた。 よく覚えていないけど、どうやらどこかで傘を落としてしまったらしい。すっかりずぶ 濡れで身体が重たいのか、それとも、ここまで走ってきたせいで身体が重たいのか。 ああもう。最悪だよ。悪い夢だ、こんなの。 ……まあ、こんな世界に来ている段階で、夢みたいなものだけど。 「……はぁ」 でもまあ、少し落ち着いた。 雨に打たれてずぶ濡れになっているベンチのひとつに、構わず僕は腰掛ける。どうせ僕 も濡れてるんだ、構うものか。 「……」 思考の波が、安定していく。 ついさっきまで考えたくもなかった、あの兄貴の姿を思い出す。 僕だって、それなりに現実的な思考でここまで来たつもりだ。兄貴に会えば全てが解決 するとは思っていなかったし、兄貴に帰ることを拒否されるくらい、当然想像していた。 でも。 ――君さ、何があってここまで来たのか知らないけど、早く帰ったほうがいいよ。 兄貴の方が僕を忘れてるとか、もう、なんかさあ。 なんのためにここまで来たんだろう。 僕は分かってなかったんだろうか。 生まれてから今日までの十七年間、一度だって疑わなかったこと。 でも、それは思い込みでしかなかったんだろうか。 解っているつもりに、なっていただけだったんだろうか。 僕は、兄貴のことなんて、これっぽっちも解っちゃいなかったんだろうか。 「……ああもう」 まったく、中途半端に僕だけ兄貴のことを覚えているから、こんな面倒なことになった んだ。ちゃんと僕も兄貴を忘れていれば問題は―― 「……なくはない、か」 そうだ。彼が言っていたじゃないか。世界から消えたいと願ったのは兄貴らしいけど、 兄貴の存在を消したのは世界であって、兄貴自身じゃないって。世界中の誰もが兄貴を忘 れてしまったのに、僕だけが兄貴のことを忘れなかったのはm兄貴に問題があったからじ ゃなくて、世界が僕の中から兄貴の存在を消さなかったからだって。 そう、疑問はずっとそこだ。 なんだろう。 何が違うんだろう。 僕以外の人間の中からは消した兄貴の存在を、どうして僕の中からは消さなかったんだ ろう。 「……消さなかった?」 そうだ。 確か、彼がそんなことを言っていた気がする。 僕が兄貴を忘れなかったわけじゃなくて、世界が僕の中にある兄貴の存在だけを消さな かったんだ、って。 意図的な理由がある? だとしたら……だとしたらその理由はなんだ? 兄貴に対する、僕と、僕以外の人間との違いはなんだ? 「……家族だから?」 いや、それなら、親父やお袋が兄貴を忘れるのはおかしい。 親父やお袋と、僕の違い? 二人にとって兄貴は息子だけど、僕にとって兄貴は兄貴で。 でも、だからなんだっていうんだ? ――気付いている? 何か、あったはずだ。 何かがあったはずなんだ。 何か。 ――お兄さんは普通の人間だ。 ――他者と異なる要素はない。 彼の言葉をどこまで信用していいものか、分からないけど。 ――君自身が、その答えを出すべきだよ。他の誰よりもね。 何を? ――この世界は、保守の状態にある。 そういえば、保守ってなんだろう。 正常な状態を保とうとする意識。 そんな意識を世界が持った? 世界から消えたいという兄貴の願いを聞き入れたのに? 正常な状態を維持したいなら、そもそも兄貴をどうこうしなければ良かったんだ。それ を実現しておいて正常な状態とか、なんだか……。 なんだか、早まってミスって、慌てて軌道修正しようとしてるような。 「……嘘でしょ」 兄貴を消して終わりになると思ってた? なのに、僕だけが兄貴を忘れなかった。……それが予想外だった? だとしたら、僕の中にある兄貴の存在を、世界は消さなかったんじゃなくて、消せなか ったことになる。 待て。 落ち着け。落ち着け。 もう少しだ。 もう少しで辿り着く。 慎重に進めるんだ。 そもそも、存在を消すっていうのは、どういう理屈だろう。 僕はともかく、みんながみんな兄貴の存在を忘れている世界。 他人どころか、親父やお袋まで例外なく同じ状態だった。 最初から存在しなかったみたいに。 「……最初から存在しなかったみたいに」 知り合って、そこに生まれた関わりを、消す。 知り合う瞬間にまで遡って、そもそもその事実を消し去ってしまう。 それは、つまり。 「関連性を断つのだよ」 彼だ。 僕の前に、いつの間にか立っていた。黒い雨傘を差して。相変わらず、暗がりの向こう 側にいるような表情には、何も見えない。飄々としていて存在感すら掴めないけど、確か に存在している誰か。 「……」 なんとなくだけど、分かってきた気がする。 彼が僕の前に現れる、理由のようなもの。 そして、僕が僕自身で出すべき、僕の答え。彼はそれを確かめに来た――というより、 彼はもう知ってるんじゃないだろうか。 僕の、答えを。 「関連性は出会うことから始まるからね。そこまで遡ってそもそもの出会いを無かったこ とにすれば、あとは全ての記憶が連動して修正される……気が付いたね」 「でも、それが僕にはなかった」 そりゃそうだ。僕が生まれた瞬間から兄貴は存在していて、つまりそれは、僕の人生に おいて兄貴が存在しなかったことなんて、一瞬さえなかったことを意味するんだから。 こんな簡単な答えに、今まで気が付かなかったなんて。 「本当に、気付いてみれば道理でしかないというのは、難儀なものだよね」 「……知ってたの?」 「教えて、どうにかなることではなかったのでね」 僕が続けようとした質問を先回りして、彼が答えた。 「ただ、厳密に言えば、世界は君の中にあるお兄さんの存在を、消せなかったわけではな いけどね」 「……」 「君も理解している通り、君とお兄さんの存在は切り離せない。君の中からお兄さんを消 すことは、君の存在を消すことと同義だから」 来たぞ。今度は僕が先回りする番だ。 「世界がそれを渋ったんだ。そうでしょ?」 「そう」 「……ええと」 あまりにあっさり肯定されて、ちょっと落ち着かない。 「……それ、本当に?」 「そうは言うけどね。人ひとりの存在を消すのは、なかなかの労力なのだよ」 彼は、わざとらしく肩を竦めた。 「少し考えてみるといい。お兄さんを消した上に君まで消した場合……そうだね、まず分 かりやすいのは、君たちの住んでいる家、かな」 世界の全てが、凍りついたような気がした。 「……は?」 我ながら間の抜けた声を上げたものだと、遠巻きに驚く。 「……家? 今、家って言った?」 「そう、君たちの住んでいた家のこと。忘れたわけではないよね?」 わあ、びっくりするくらい冷静。 「……ええと、急に何の話をしてるの?」 「情報の連動性と、その改変に関する落とし穴について、ね」 芝居がかった口調。 「あの家は、子供のいない夫婦が住むには大きすぎる。そもそもあれは、君のお父さんが 家族四人で住むことを想定して購入しているものだ。その家族が半減したら、あの家の存 在意義が大きく揺らぐ」 「大きい家買っちゃった、じゃ済まないってこと?」 「そこに、どれほど些細な疑問も持たれてはいけない、ということ」 彼は、どこまでも淡々と事実だけを告げていく。 「人の選択には、必ず何かしらの理由がなければならない。その理由に違和があってはな らないんだよ」 「納得しないとダメってこと?」 「少し違うね。満足しているか不満かに関わらず、理由があるということ。その理由に不 都合があると、世界に綻びが生まれる。君にも心当たりがあるんじゃないかな」 言われてみれば、親父とお袋に兄貴の話をしたとき、世界が固まるような……なんだろ う、世界が軋むような感覚になったことがあったけど。 「ああ、それは危なかったね」 「え?」 「もう少し踏み込んでいたら、世界が凍結するところだった」 「凍結?……それ、どうなるの?」 「そうだね。再構築して不都合を取り除いた世界にするか、それが面倒だと感じたら、世 界を閉じるかな」 「……閉じるって、どういうこと?」 「有り体に言えば、破棄されるということだね。全て無かったことにする」 「……冗談でしょ?」 「解釈は自由」 勘弁してよ。本当に。 「……はあ」 「おや、ため息」 「ため息くらい、つきたくもなるよ」 「でも、答えに辿り着いたね」 ぼんやりと重たい頭を持ち上げて、僕は彼を見る。 「……え?」 「言ったよね。君自身が、他の誰よりも、その答えを出すべきだと」 「……どうして僕だけが、兄貴を忘れなかったのか、ってやつ?」 「そう。あのお兄さんを見て君が走り去ったときには、もう少し時間が必要かと思ったけ どね」 「あの兄貴に驚いたのは本当だし、あのときは確かに、あんな兄貴から少しでも遠くに離 れたかったっていうのが、正直な話、僕の本心だったと思う」 「君のその冷静さには、最初から驚かされている」 「……全然、冷静じゃないよ」 「解釈は自由」 さっきと全く変わらないトーンで、同じ言葉を口にする。 その無感情な喋り方には、最初から驚かされてるよ。 「理解をしたのだね。君の存在がお兄さんを救うわけではないことに」 僕は無言で頷いた。 「その様子だと、世界の気まぐれが引き起こした傍迷惑な出来事にも、もう気付いている のだろうね」 「……本当に、世界が早まっただけなの?」 「そう」 事も無げに、彼が頷く。 いよいよ僕は疲れ果てた。ベンチに浅く腰掛けて、だらしなく 「……冗談じゃないよ、もう」 「とはいえ、君のお兄さんの望んでいたことが、お兄さんの本心なのは本当だけど」 「どうだっていいよ、そんなこと。結局は兄貴と世界の問題であって、僕は変なことに巻 き込まれちゃっただけだった、ってことでしょ?」 「そうだね」 「僕は、意味の無いことに走り回ってたわけだ」 「そうは言っても、実際に走っていたのは、さっきお兄さんから離れるときだけだったけ どね」 「……」 あのときの僕を、兄貴から「逃げた」と表現しなかったのは、この人なりの気遣いなん だろうか。 「ともあれ、君の行為は無駄ではないよ」 「そう?」 「君の行為を、自身を維持するための行為と位置づければ、君にとってこれほど意味のあ ることはないよね」 「屁理屈じゃん、それ」 「しかし、真理だ」 「……はは」 思わず笑ってしまう。 なんて都合のいい言葉の使い方だろう。今さら驚きはしないけど。 「……兄貴はどうなるの? やっぱり、消えちゃうの?」 「答えを急ぐ必要はないよ。お兄さんには、必ず答えが出される」 答えが「出される」と、今確かにそう言った。 彼が一体何者なのか……少なくとも、この世界や兄貴をどうこうした存在じゃないって ことは、はっきりしたと言ってもいいのかも知れない。 「お兄さんは何かしらの選択をするかもしれないし、あるいは選択しないかもしれない。 ただ確実なのは、どのような選択をするにしろ、また選択しないにしろ、世界はお兄さん を救うということ。そして、世界がどのような救済を施したとしても、それを君のお兄さ んが救いとは認めないだろう、ということ」 「……僕は?」 「これからどうしたら良いか、という意味なら、答えはひとつ」 彼は右手を持ち上げ、ピンと人差し指を立てた。 「待っているだけでいい。それ以外で君にできることは、何もないよ」 「……なんにも、ないんだ」 「そう。幸いなことにね」 「……幸いなのかな」 「解釈は自由」 それは三度目だよ。 「僕、何をしにここへ来たんだろう」 「それは違うね。君はここへ来る羽目になっただけで、自発的にこの場所を訪れたわけで はない。そもそも、この場所に来る理由がなかったのだから、当然、目的など発生するわ けもない。ついでに言えば、君がこの場所に呼ばれたのも、不都合を最小限にしたいとい う世界の意思、ただそれだけのこと」 少しの例外もなく、僕はただ巻き込まれただけだった、ということか。 まったくもって、本当に、報われないというか、なんというか。 「……はぁ」 息を吐き出す。体温を帯びた呼気が、雨で冷え切った世界に白く靄を描く。 煙みたいだ、と思った瞬間、兄貴のイメージが脳裏を掠めた。 ――煙草吸い始めたの? ――父さんと母さんには内緒な。何かあったんじゃないかって心配するから。 ――何かあったんじゃないの? ――ないよ。職場の喫煙室のシークレットトークに加わろうと思ってさ。 ――何それ。 ――主婦の井戸端会議? みたいなもん? ――聞かれても。ていうか、わざわざ煙草吸う必要あるの? ――え? ――喫煙室に行くだけでいいじゃん。 ――喫煙室に、喫煙しない人がいたらおかしいだろ。 ――いや、よくわからないんだけど。 ――うん。今のは冗談。 ――今やめて。そういう冗談。 ――まあ、面倒なところでさ。煙草休憩は気分転換だと思われるんだけど、ただダベっ てると怒られるわけよ。 ――ふうん。まあ、どっちでもいいんだけどさ。 ――どっちでもいいんかい。 ――なんか、似合わないよね、兄貴。 ――あー、それは俺も思う。多分キャラじゃないんだな。まあ見てろ。いずれ俺の煙草 を吸う姿に女の子たちが黄色い声を上げる日が来る。 ――そんなつもりないでしょ。最初から。 ――うん。ない。 兄貴は、どんな結論を出すんだろう。 できるなら、こんなことになる前と何も変わらない世界であればいいと思うけど。 「……あれ?」 気が付くと、もう彼がいない。本当に神出鬼没だ。彼の言葉を信じるなら、僕が望まな くなったから消えてしまった、ということらしいけど。 「……何もしないで待ってろ、か」 腰を上げる。 見渡すのは、誰もいない世界。こんなに見慣れた街並なのに、別物のような世界。兄貴 の望んだ、兄貴のために用意された世界。兄貴ひとりだけの世界。 本当に何もなかった。人がいないだけだったのに。 今頃、兄貴はこの世界のどこにいるんだろう。まだ僕らの家の前にいるだろうか。それ とも、他の場所に行ってしまっているだろうか。 「……」 どんなことを思うのが正しいのか、わからない。 現実の世界でただ一人兄貴を覚えていても、ここに来て何かができるわけじゃない自分 に、安堵しているのか、落胆しているのか、わからない。 でも、なんだろう。 ある種の爽快感のような、達成感のような、何かが片付いてすっきりしたような感覚が 多くを占めているのに、誰もいない改札を通ろうとして、足が止まった。 なんだろう、これは。 ちょっと……なんていうか、なんだか……。 「振り返らずに帰りなさい」 片足が半歩後ろに動いた瞬間、背後から彼の声が聞こえた。 「君がここに留まる理由は、もうないと思うけどね」 彼が現れるべき何かを、僕が望んだんだろうか? 「言ったはずだよ。お兄さんには、必ず何かしらの結論が出される、と。それを忘れたわ けではないと思うけど」 「……」 沈黙を返す。 でも。 「……ここに残る理由を、探そうとしているね」 当然のように、見抜かれる。 見抜かれるけど、それをあっさり認めてしまうのは、なんだか嫌で。 「……そんなことは、」 「ない、と言い切れる?」 「……」 一応の否定を試みてみるけど、全て言い切る前に聞き返されて、結局は沈黙を返すだけ だったりで。 「魅せられ始めているね、この世界に」 「……え?」 「何も考えずに戻った方がいい。わざわざ理由をつけてまで留まる場所ではないよ。そう 遠くないうちに消え去る世界だ。巻き込まれたら、君の存在も危うくなる」 「……僕も消えちゃうってこと?」 「僕も、という表現が面白いね。君のお兄さんは、厳密にはまだ消えていないよ」 「……」 「安心していい、という言い方が適切かどうかは君の解釈に委ねるけど、君を責めるつも りで言ったわけではないよ」 「……それ、何かのフォロー?」 「こちらの意図と異なる伝わり方をするのは本意ではないのでね」 どっちかというと、自分に対するフォローってことね。 「どうせ消えるなら、自分も一緒に消えたいと思った?」 問われて、逡巡する。しかし、わかりやすい答えは出てこない。 「……よくわからない。でも、兄貴が何をしたくてこんな世界を望んだのか、それが気に なってる。……それに、」 「それに?」 「……僕が、どれだけ兄貴のことをわかってるのか、それがわからなくて」 今まで僕が見ていた兄貴は、本当の兄貴の何パーセントくらいなんだろう。 もしかしたら、今までの兄貴は、本当の兄貴じゃないのかもしれない。 ここにいる兄貴を見ていたら、それが少しわかるんじゃないかと、そう思ったんだ。 「わかったつもりになっていた?」 「自分で思ってるより、僕は兄貴のことをわかってないんじゃないかなって、ちょっと思 っただけ」 「ここに残ったら、お兄さんのことが少しでもわかると思った?」 「本当にちょっとだけね」 「それで、本当のお兄さんとやらが少しでも見えたら、君はそれで満足するかな?」 そうだ。 多少知ったところで、それで兄貴を知ったことにはならない。 かといって、兄貴の全て見えたところで、僕はどうするんだろう。 人が、表に出すまいとしている何かがあるとして。 それが、兄貴にもあるとして。いや、きっとあるんだろう。 「……」 少し、気が引ける。 覗き見するみたいな後ろめたさがある。もちろん、覗き見をしたことはないけど。つま り、その、感覚的な話。 「帰った方がいいっていうのは、そういうこと?」 「それと別に、根本的な理由がもうひとつ」 彼が右手の人差し指を立てた。 「あちら側に戻ったら、君はここで見聞きしたことを全て忘れる」 「……え?」 「おや、予想外だったかな? 当然といえば当然なのだけどね。君はもともとここにはい ないはずの存在だし、ここで得た情報を持ち帰ると、それはそれで世界の安定感が揺らぐ から」 「……兄貴は?」 「また自棄になってもらっては元も子もないからね。彼には、ここで見聞きしたものはも ちろん、思考したことも行動したことも、その全てを覚えておいてもらう。それが彼の責 任だよ。望んだものに対する当然の対価だ」 ここにいても、いずれ存在ごと消えてしまう。けれど、戻ったとしても、ここでの出来 事を一人だけ忘れられない。 それが、兄貴の責任。 「まあ、いずれにしても、全てはお兄さんが無事に戻ったとしての話だけどね」 「……」 「君がそれでもお兄さんを見届けたいというなら、止めるつもりはないけれど」 「…………やめとく」 「そう」 「やめとく」 その一言をきっかけにするように、僕は改札を通過する。 振り返らずに進んでいく。彼の存在が今そこに在るのか無いのか、それを確認すること さえしないで。 本当に、どこまで行っても、兄貴に何もできない。 本当に、どこまで行っても、ここは兄貴のための世界で、兄貴が答えを出す以外に、何 もないんだ。 ホームに待っている、発車時刻を律儀に待つ列車。 僕ではなく、もうひとりの乗客を律儀に待つ列車。 だからといって、僕を拒絶するわけでもないから、何も断らずに乗り込むけど。 ――断るって、誰に? ベタベタになった全身が冷えて、寒い。あの街にいるときは、特にそんなこと感じなか ったのに、どうしたんだろう。ふと気が付くと、どの席にも白いタオルが畳んで置いてあ る。誰だか知らないが用意のいいことだ。広げてみると意外と大きなそれで顔を拭き、頭 を吹き、上着を脱いでズボンを脱いで軽く全身を拭く。誰もいなくても下着まで脱ぐのは 抵抗があって、なんだか中途半端だ。そのまま全身をタオルで包んで、隣の席にあるもう 一枚をさらに被るようにして身体を包む。暖かくて、優しい感触が心地好い。どうせ乗る 人間なんか限られるに違いないんだ。一枚くらい多く使ったところで誰も困りはしないだ ろう。 膝を抱えて窓際の席に座り、車窓からホームを覗き込む。来たときと同じように、雨音 だけは聞こえているけど、改札の向こう側に広がっているはずの世界は見えない。彼の姿 も、そこには見えない。 「…………ぁぁ」 息と声が混ざって漏れる。唇の震えが止まらない。 なんだろう。 少し……息苦しい。 でも、ほっとしている。……なんでだろう。 「…………ぁぁ」 なんで、僕は……泣いているんだろう。 発作みたいに短く息を吸って、込み上げてくる何かを吐き出す息に混ぜる。体が勝手に 呼吸を繰り返す。視界が滲んで流れ落ちるものをタオルで拭ってみるけど、あとから次々 溢れ出て止まらないそれを、いっそタオルを押し付けて覆ってしまう。 どうしたんだろう。 やっと帰ることができるから? そうかもしれない。 もう、あの街を彷徨う必要がなくなったから? そうかもしれない。 あるいは、兄貴のことに僕の存在が影響しないという事実を、やっぱり安堵しているの か。 そうかもしれない。例え血のつながった兄弟でも、人の在り方に関わるなんて、やっぱ り重たい。でも、兄貴のために何かできることがあったら良かったのにと、そう思ってい るのも本心で。 どれが本当なのか、どれも本当なのか。 どこかに、その理由はあるのだと思う。 でもそれは、きっと、気にかける必要なんて、ないことなんだ。 次に目を覚ましたとき、世界は何ひとつ違和感のない世界になっている。 ここで見たもの、聞いたことを全て忘れて、僕は何事もない毎日を送っている。 兄貴がいなくなっても、いなくなったことに違和感を覚えることなく生きている。 兄貴が戻ってきても、やっぱり何事もない毎日を送る。 きっと、そうなっている。 気にする必要がない。 気にしても、それが意味を持たない。 わかっているんだ。 彼がそう言っていたから、きっとそうなんだ。 ……けど。 それでも、やっぱり、思わずにいられない。 どうして、何もできないんだろう。 どうして僕には、何もできなかったんだろう。 ◇◆◇◆◇ 濡れた衣類を座席に散乱させ、全身をタオルに包まれた状態のまま、泣き疲れて眠って いる少年を、彼は見下ろしていた。 彼の表情には何も映らない。彼が少年に思うことは何もない。少年の存在は完全な因数 外であり、少年の存在が少年の兄の存在に影響することはない。答えは初めから決まって おり、この世界は、ただ少年の兄にそれを認めさせるためのものでしかない。そのために 用意された場所であり、そのために都合された時間なのだから。 世界の維持というものは、これでなかなか難儀でもある。精密に組み立てられた情報に は必ず関連性と根拠があり、そこに生きる者たちはそれを無意識のうちに成立させる仕組 みになっている。そうでなければ世界の秩序は崩壊し、世界は終わる。 だが、ときおりその仕組みの枠をはみ出そうとする者がおり、それを目ざとく見付ける 世界の意思がある。そのたび彼はこうして意図的に関わり、世界を修正する。彼にとって のそれは役割であり、あるいは彼そのものと言ってもよいかもしれない。そこには歓喜も 悲哀もなく、彼が彼として存在していくための理由が存在しているにすぎない。そして、 それをただ淡々と、ただ粛々と成立させていくことが自分の意味であることを、彼は知っ ている。 少年は気付いただろうか。 ここに来る羽目になった意味も、ここで何かができるわけでもない意味も、等しく少年 の存在を意味付けるものであって、少年に価値を与えるものではないことを。その意味を 所持できていることが、少年の存在にとってどれだけ大きな意味を持っているかを。 己の存在に、価値を求める。 求めたがる。求めすぎる。 その存在にどれだけの価値が与えられ、またどれだけ多くの存在から必要とされても、 その欲求には果てがない。 「君たちに与えられたその思考は、君たちにしてみればまったくもって健全なのだろうけ ど、その思考はさしずめ、呪いと同義だね」 つぶやく彼の言葉に、少年は応じない。ただ疲れて眠っている少年に、そもそも彼はは じめから、返答など期待していない。 「けれど、そうやって世界の在り方を否定するような存在が現れて、それを世界が受け入 れようとしているのだとしたら」 そこまでを言葉にして、彼は少年から離れる。 もう一人に答えを出してもらわなければならない。 用意された世界も、そろそろタイムリミットだろう。 そうして少年の兄が何かしらの答えを出せば、彼の理由もまた終わる。 理由が終われば、彼はあの世界と同じ結末を迎えるだろう。 だが、彼はそこに何も感じない。 与えられた理由が消滅するなら、当然のことでしかない。 ただ、それだけの話。 「さようなら。もう二度と会うことはないだろうし、全てを忘れる君には意味のない行為 だろうけど」
言楽〜gengaku〜 演楽〜engaku〜 VoiceBlog