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第五話 君を救えるのは君しかいない〜Salvation〜


 大雨のせいで濁流になっている河川を、橋の上から見下ろしている。
 どこだっけ、ここ。
 なんだか、ぼんやりとした既視感がある。
 いつだったか、今みたく雨の強い日に、ここから濁流を見下ろした記憶がある。遠ざか
る憧憬のように、狭まっていく視界のように、大きくも小さくも、哀愁と安堵がじわじわ
と近付いてくる。
 そのとき何を思ったのか、それは思い出せない。でも、きっとロクなことじゃないんだ
ろうなとは思う。雨の日に濁流を見下ろすなんて、結局はまともな思考じゃないんだ。特
に俺の場合は。
 ……ああ、でも、こう考えることもできるかな。
「その状況に陥る自分を、他人事のように見ているのが楽しい」
「そう、それ」
 来るような気がしたから、驚かない。
 結局、ロクなこと考えてないよね、俺。笑えるよ。
 声に振り向くと、そこには確かに、彼の姿があった。表情が黒い闇の向こう側にいて読
み取れないのは、黒い雨傘を差していることとは無関係だ。
「こんなところで何を?」
 さっきも聞いたよ、その話。
 答えなんかわかってるくせに。
「何をしているんでしょうかね、俺は」
「その問いは、おそらくあなたの根本的なところに繋がると思います」
 言いそうな気がしてたけどね、そんな感じのこと。
 それに、言われなくても分かってるっていうか。じゃあ聞くなよって? 俺も今そう思
ったとこ。
 ついでに、最初の問いの意味するところも、自覚している。彼はきっとそれを知ってい
て、俺の口からそれを言わせたいんだろう。
 わかってるよ、そんなこと。
 もう、面倒なことは嫌なんだ。
「……たぶん、失くしたものをそのままにしていいものか、迷っています」
「聞きましょう」
 空いた右手を軽く広げて、受け入れるパフォーマンス。
 思わず笑ってしまってから、俺はなんとなく歩き始めた。
 来た道を戻っていく。遡るように辿ってきた道を。
 歩きながら零し続けていたものを、少しずつ拾い集めるように。
 さあ。
 何から、話したものかな。
「……自分を、特別不幸だと思ったことはありません」
 発した声は、決して大きくはない。もしかすると雨音にかき消されて、彼には届いてい
ないかもしれない。でも、それでも良かった。むしろ、それでいいんだ。聞こえてなくて
も構わない。きっと、聞いてもらいわけじゃなくて、言いたいだけなんだから。
 それは、彼もきっと、察しているはずだから。
「家は金持ちじゃないですけど、経済的に困窮してるわけでもなくて、平々凡々とした、
割と平和な家です。父と母は基本的に優しくて、歳の離れた弟とは大した喧嘩も起こらな
かった」
 幼稚園からの友人とは今でも酒を飲み交わす間柄だし、その後の様々なタイミングで築
いてきた多くの人々との関わりも、俺にとっては得がたいものばかりだ。
 それを幸福なことなのだと自覚できたのは最近の話で、こういうことを思考するという
のが歳をとるということなのだしたら、俺はきっと健全に歳を重ねているということなん
だろうなと、安心しているんだか切ないんだか分からない感情をたまにアルコールに溶か
したつもりで飲み込めなかったりで、ぼんやりとした、どこか複雑な気持ちを抱えるよう
になったのは、一体いつからだったのか。
「……たぶん、ずっと前から、俺の中にはそれが在ったんだと思います」
 幼い頃は、思考することにひとつひとつ理由を求めたりしなくても、起こす行動にその
つど意味がなくても、何も問題はなかった。それは無邪気と呼ばれるもので、幼少期にの
み許される特別なスキルだったからだ。しかし、成長とともに世間の様々な知識を得るに
従って、そのスキルは無邪気という領域に収まれなくなる。無邪気を、そうでないものと
して認識するような境界を自分で見定めてしまったとき、そこに意味を持たせなければな
らなくなったとき、俺は俺の中で、こう思った。
 ――どうせ何かをするなら、周囲の人間が嫌な思いをしないことがいい。
 喜んでほしいとか、嬉しい気持ちになってほしいとか、幸せな思いをしてほしいとか、
そんな高いレベルの話じゃなくて。自分の言葉が、行動が、自分の周りにいる人々に不快
な思いをさせないで済むようにしたい。そう思った。
 生意気だった。本当に。
 今だからわかるってわけじゃないけどね。人生のなんたるか、なんて。
 誰かと関わっていると、その誰かが俺を必要としてくれているような気がした。それな
ら、その気持ちに応えたいと思った。そうしていくことが、自分の役目のような気がして
いた。喜んでもらえるのは気分がいい。相手も自分も気持ちいいなら、こんなに良いこと
はない。そう思った。
「……思っていた、んだけどね」
 いつの間にか、懐かしい街並の中に入っている。まっすぐ進んで最初の十字路を左。角
の喫茶店から美味しそうなパンとコーヒーの匂いがしていた。車の通行が割合多い通りを
進んでいくと神社が見える。夏祭りはここで夜店のチョコバナナを父さんにねだった。父
さんは俺のわがままを聞いて、カキ氷やらフライドポテトやらフランクフルトやらを買っ
てしまうものだから、帰ってから母さんの作った夕食を食べられなくなって、親子で怒ら
れたんだ。そこからさらに直進して、次の郵便局の角と右。そこに小学校が見えてくる。
「……優しい子だとか、いい子だとか言われることが、自分にとって最も大事な条件であ
るような気がしていました。大人に誉められることが、たまらなく気持ちよかった」
 決して、誤った判断ではなかったはずだ。
 大人たちに気に入られるには、その大人たちの言うことを聞いていればいいということ
に、小賢しい幼少期の俺は早い段階で気付いていた。もっと言えば、そうやって大人たち
が思った通りの反応を示すことが、楽しくて仕方なかったのかも知れない。いずれにして
も、そうやって大人たちが気に入るように振る舞う自分が本当の自分だということに、微
塵の疑問も抱かなかった。
「……気付いたんですね。声に」
「……ええ」
 最初は声じゃなかった。
 何かが違うような……何かおかしいな、っていう、もっと曖昧で、もやもやした、小さ
な違和感のようなものでしかなかった。少しピントがずれてぼやけたような、気にするほ
どじゃないかもしれないけど、ちょっと気になるかな、っていうくらいの。
 それが。

                                  ――嘘つき。

 ある日突然、声になって俺を責めた。
 一瞬、何を言われたのか分からず、戸惑った。
 何かの聞き違えじゃないかって、そう思ったんだ。
「それは、誰の中にも現れる存在です。その声はあなたを責めているのではなく、あなた
の本質を訴えているに過ぎません。大概は聞き流すか、そんなことは自明だと納得して片
が付く。しかし……あなたは、その声を聞き流せなかったのですね」
 小学校の正門の前を通り過ぎて、さらに先へ進む。次の角を左。小学校の体育館、それ
から、プールを左手に見ながら進む。塩素の匂いは、実は嫌いじゃなかった。あの匂いが
鼻を刺激すると、夏が来たなと実感できた。それが面白かった。最近はプールどころか、
泳ぐことさえご無沙汰だけど。また行けたらいいな。
 気にしないようにすればするほど、その声のことが気になって仕方なかった。そいつに
聞きたかったんだ。俺が一体、何に対してどんな嘘を言っているというのか。理由が欲し
かった。納得できる理由さえくれれば良かったんだ。でも結局、その声は明確な理由を口
にはせず、ただ何かと俺の中に現れては、俺を嘘つきだと責め立て、すぐに姿を消してし
まう。
 いつまでもキリのないそれに、次第に俺は苛立つようになった。なんなんだ一体。人の
ことを好き勝手に、しかも理由もなく罵りやがって。言いたい放題言っておいて、俺の質
問には何ひとつ答えず消えるくせに。お前は俺の、何を知ってるっていうんだ。俺の何を
知ったつもりで、お前は俺にケチをつけるんだ。

 お前は一体、何様のつもりだ。

「何様のつもりか。――そう、そうでしょう。そう思うことでしょう。そう思うのは当然
です。なぜならそれは、あなた自身なのですからね」
 中学校が見えてくる。小学校からの友人、新しい友人。世界がひとつ拡がった。彼らは
今でも、何かと声をかけてくれる良い友人たちだ。担任だった先生たちは別の学校に赴任
したり、教職自体を辞めていたり、中には亡くなった人もいて、確実に重ねていく年月の
恐ろしさを、飲み会で笑いながら話したものだ。そうそう、次は誰が結婚するか、なんて
話も面白かったな。
 あるときを境に、それは明確に俺の姿をして現れるようになった。鏡に写した……なん
て出来のいい話じゃない。俺の姿をしたそれは、まったくもってひどい顔つきだった。今
にも泣き出しそうで、そのくせ微笑んですらいる。ジッとこちらを見て、視線を逸らそう
としない。ただ、気になることがひとつ。姿を現すようになってから、そいつは全く喋ら
なくなった。何を聞いても無言で、ひたすらこちらを見ている。この姿を見て何もわから
ないのかと、言外に強い蔑みがあるような気がして、つらかった。
 落ち着かない。
 なんだよ、その顔。そんな顔されたってわからないよ。
 言いたいことがあるなら……。
「……言いたいことがあるなら、」
 言えば…………いいのに。
「そうです。言えば良かったのです。自身の想いに正直に振舞えば良かった」
「……そんなこと」
 できるわけがない。そんな恐ろしい真似。
 今までやってきたことを捨てるなんて、絶対にできない。
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、って」
 なんだよ。そんな言い方しなくてもいいのに。
「いえ。責めているわけではありませんし、蔑んでもいません。そもそも、そういった感
情は持ち合わせていませんのでね。ただ、誰もが自己を成立させることに注力することは
当然であり、それがあなたがたの自然でもある、ということを言っておきたかっただけの
ことです」
 足を止め、俺は彼を見た。
「……じゃあ……それじゃあ、俺だけどうして」
「どうして?」
 感情の全く感じ取れない声音に、ゾッとして言葉に詰まる。
「そうやって、自分の中で分かりきっていることを他者の口から聞こうとするのは、あな
たの癖ですか?」
「……」
 答えられない。
 言葉が出ない。
 何て言ったらいいのか、わからない。
「今も言いましたが、責めてはいません」
 ほんとかよ。
「そういった感情は持ち合わせていません。これも、今言ったことですが」
「……」
「歩いてください」
「え?」
「足を止めずに、進んでください。立ち止まっていたら、」

 ――追いつかれてしまいますよ。

 体を、妙な悪寒が伝う。息が苦しい。
「……嫌だ」
 何かから逃げるように、歩き始める。
 追ってくる。
 追いつかれる。
 追い越される。
 後ろにいたはずのものが、いつの間にか隣にいて、気が付くと前にいる。
 横に並んでいたはずのものが、遠くに行ってしまって。もう届かないくらいに。
 置いていかないでほしいと思った。一緒にいきたいと願った。
 ……でも、動けなくなった。
 今とは違う自分を、望んでしまった。
 今までの自分は、本当の自分じゃないんだと思ってしまった。
 自分で望んでそうしてきたのに、それを否定しようとしてしまった。
 しかし、それ以上にタチの悪いことに、
「あなたは、そのどちらかに自分を傾けることができなかった。これまでの自分を護ろう
としながら否定しようとし、今までにない自分を求めながら、そんなことは望むべくもな
いと達観しようとした」
 どれが自分なのか、わからなくなった。
 どれも正しいような、どれも間違っているような、でも、どうもはっきりしない、ぼん
やりした感覚だけが、妙に現実的で。
 何よりも空っぽで、虚ろで、実感のないものが一番近くにある。
 それを感じたとき、思ったんだ。
 ――ああ、そうか。これが……。
「……これが、自分なんだ」
「しかし、それを思うことがどういうことか、あなたはすぐに気付いたはず」
 気持ちが定まらない。
 どう振舞ったらいいのか、わからない。
 自分の存在に、価値を見出せない。
 生まれてから今までの時間を費やして出来上がった『自分』が否定されたら、俺はどう
なるんだ。今までの自分はなかったことにして、ここから新しい自分を始めるのか。無理
だ、そんなこと。もう二十年以上もこうやって生きてきたのに、その時間をどうやって今
から取り返すんだ。できるわけがない。
 たぶん、そのとき俺は、自分が「嘘つき」呼ばわりされた意味を、ぼんやり理解したん
だ。今の自分を脱ぎ捨てたいと思うのは、今のその自分が、いざとなったら捨てられる程
度の、ただそれだけのものでしかないということを、認めることなんだと。
 でも、もっと恐ろしいことに、すぐ気付いた。
 今の自分とは違う自分を思い描きながら、でも今の自分を捨てられず、相も変わらず自
分以外の誰かに向けた言動をしながら、それは自分の本心とは違うかもしれないと疑念を
抱き続ける。
 ……そんなことを、

 ―ーそんなことを、死ぬまで続けていくつもりか?

 嫌だと思った。
 そんなことをあと何十年も続けて生きていかなければならないなんて、もう気が狂いそ
うだ。そう思ってしまった。
「それこそが、あなたの中にある停滞の本質。五年先、十年先も変わらないのは、世界で
はなくあなた自身の方。あなたは、それを自覚していた。だから、追いつかれる、置いて
いかれるという本能的な恐怖を感じた。あなたは思ったはずです。今すぐにでもこんな状
況から離れたいと」
 どこかに行きたいと思った。
 極端な物言いだと自覚していることを前提に言わせてもらえば、いっそ死んでしまえる
ならそれが一番楽だろうなと思ったことが、一度もないと言ったら嘘になる。簡単な話な
んだ。終わらせればいい。それが一番手っ取り早い。煩わしい全てから解放される。そう
思ったこともある。
 でも。
「それは……なんだか、違うような気がして」
 どんな手段で実現しても痛そうだし、苦しそうだし、家族や知り合いにも色々と迷惑か
けそうだし……そんなことを考えているうちに、現実的じゃない気がしてきて、結局やめ
たんだ。
 いつだってそうだ。
 いつだって、そうやって、近くにいる誰かのことを気にしてしまう。
 自分のことを考えているはずが、いつの間にか、自分のことよりも誰かのことが気にな
って、仕方なくて。
 思い切れなくて、善人にも悪人にもなれない。近くにいる誰かを気にして、自分のこと
を後回しにしようとする。自分より辛そうにしている人を見ると、自分はまだ大丈夫なの
じゃないかと錯覚した。でも、本当はわかっていたんだ。そうやって誰かのために何かを
しようとしているときだけ、自分がこの世界に居てもいいような気がしていた。
「……いや、違うか。たぶん逆だ」
 自分がこの世界に居てもいい理由を作るために、誰かと関わろうとしていた。そういう
ことだ。そうやってずるずると生き続けている自分に、ますます嫌気がさしたりして。
 だから、どこかに行きたいと思った。
 俺のことを知っている人間が、誰もいないところに。関わることのできる誰かが、一人
もいないところに。
「しかしそれも、自分以外のものに対する否定ではありませんね。自分の存在を消したあ
なたの判断は、本質的には何も変わっていない」
 疲れたんだ。
 何をしようにも誰かを気にして、自分の思うように振る舞えないことをその誰かのせい
にして、そのくせその誰かとの関わりを断ち切れるわけでもない。一方で、関わってもら
えることに安心して、喜んで、必要とされてるんじゃないかと期待して近寄っていこうと
する自分がいる。でも、何かの拍子にそれが幻想だと思い知って、自分の勘違いが死にた
くなるほど恥ずかしくて、腹立たしくなる。でも、すぐにそれが自分の気持ちの問題でし
かなくて、周囲にいる誰かが悪いわけじゃないことに気付いて、熱が冷める。落ちたとこ
ろでまた誰かが接触してきて、また関わろうとしてしまう。
 同じことの繰り返し。先に進めていない自分を何度も何度も目の前に晒されているよう
な、この表現しがたい気持ち。その隙間を縫って首をもたげる乱暴な発想。死にたいと思
うのはこういうときだ。世界なんか、人間なんか、とありふれた自棄の言葉を並べて、あ
る意味で心を静めようとしている自分がいる。その自分を、遠くから別の自分が睥睨して
いる。そんなつもりもないくせに、と。
「あっちへ行ったり、こっちへ来たり……ははっ、今の俺と同じだな……」
 声が震える。呼吸が乱れている。自分は今、泣いているんだろうか。
 いっそ、誰かがとどめを刺してくれればいいのにと、期待していた。
 突き放して、心無い言葉でも叩き付けて、お前はいらないんだと、見捨ててくれたら。
「……それだけで……諦め……ッ、諦められたのに……!」
「それも違いますね。いえ、それが違うということを自覚した上での発言、と言うべきで
しょうか」
 膝が折れる。
「誰も言わなかったでしょう。あなたのことを不要だなどと。言うわけがありません。も
しあなたに、あなたの存在を否定するような言葉を投げかける者が存在するとしたら、そ
れは誰でもない、あなた自身しかいません」
 心の奥底から聞こえてくる、誰かの声にいつも怯えていた。
 お前は、今この場所に存在しているだけの価値があるのか、って。
 だから、それが怖くて、価値が欲しいと思った。
 自分がこの世界に存在していてもいいだけの価値が。
 そうじゃないと、自分が生きていてはいけないような気がした。
「自分を肯定することも、否定することも、あなたは自分以外の誰かに求めた」
 自分で自分の存在に価値を見出せないと、自分以外の誰かの言葉で自分の価値を量ろう
とした。
 自分は必要なのか、不要なのか。
「しかし、誰がどんな言葉を並べても、それを納得して受け入れられるわけではないであ
ろうことに、あなたは気付いていたはず。だからこそあなたは、ひとりになることを望ん
だのでは?」
 周りから聞こえてくる色々な言葉に振り回されていることは、自分が一番よくわかって
いた。もちろん、彼らにそのつもりがないことも。けれど、その中から良い意味で自分に
都合の良いことだけを取捨選択できるほど、俺の心には余裕がなかった。
 ひとつひとつに一喜一憂していたら、きっと何も変わらないし、何もわからない。
 ひとりになれたら。
 自分しか、自分に価値を与えられる者がいないなら。
 きっと、自分で自分にケリを付けられるような、そんな気がしていた。
 だから、自分しかいない世界を望んだ。自分以外の全ての要素を省いて、自分の意識だ
けで、自分をどうするのか、自分はどうしたいのか、それを考えたいと思った。
「自分以外の何かや、誰かのせいだと思わないで済むように、ですね」
 耳触りのいい物言いだ。
 俺は首を横に振る。
「……そんなもんじゃないです」
「本当にそうでしょうか?」
「……」
 この人との問答も、本当にキリがない。
 行き先の書いていない切符を初めて見たとき、悪い冗談だと思った反面、本当は少しだ
け、胸の奥がざわつくのを感じた。変われない自分の中で、錆び付いた何かが動き出すよ
うな。忘れかけていたものを思い出す瞬間のような、すごくわくわくする気持ち。
 この世界に来て、自分の中にいる色々なものを減らしていこうとした。重荷だと思って
いたものや、うるさいと思っていたものや、自分を甘やかしてくれるものを。捨てような
んて思っていたけど、実際は違う。一時的に置いていっただけだった。
 捨てられなかったから。
「そのおかげで、ずいぶんと苦労した人物がいましたけど」
 誰のことを言っているのかは、すぐにわかった。
 あいつには、本当に悪いことをしたと思ってる。
「……弟は今、どうしていますか?」
「待っていますよ。あなたの出す結論を待つ列車の中で、あなたのことを」
 弟を忘れていたことには、一切触れてこない。
 それを優しいと受け取るべきなのか、少し悩む。
「とりあえず、大丈夫なんですよね」
「ええ。そもそもがイレギュラーな存在ですから、ここで見聞きしたものは全て忘れた上
で帰ってもらいます。ここでの記憶を残したままあちら側に戻って、今度は彼の存在が世
界を不安定にしてもらっては困りますから」
「……そうですか」
「どんな気分だったでしょうね。あなたの存在が消え去った世界で、唯一あなたのことを
忘れないまま生きていくというのは」
 耳が痛い。返す言葉もない。この街を歩き回って、その場その場に置いてきたものを順
繰りに拾い集めてきた今なら、自宅の前で俺から走り去った弟の気持ちも、少しはわかろ
うというものだ。忘れてくれるにしても、次に俺から声をかけるときは、いつもより勇気
が要りそうだ。
「でもまあ、帰れるなら良かった」
「良くはありません。まだあなたのことが片付いていないですからね。それが終わらない
ことには」
「……まあ、それはそうですね」
 折れた膝を奮い立たせて、立ち上がる。
 前に進まなければ。
 せめて、自分のことくらい、自分で片を付けなければ。
「……ひとつ、聞いておきたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なんでしょう?」
「あなたは、俺のことをどこまで知っているんですか?」
「全てを」
 淀みなく、彼は答えた。
 なんだか、驚きはない。そんな気がしていたせいかも知れないけど。
「あなたは、一体誰なんですか?」
「聞きたいことは、ひとつだと言っていましたが?」
「……」
 容赦ねえな。
「まずは、ご自身の終着を目指すことを考えた方がいいでしょう。今の質問への返答は、
その後でも遅くはないはずです」
 まあ、そりゃそうだけど……と言いかけて、やめた。言っても無駄だ。そんなに長くな
い付き合いだけど、それくらいはわかる。
「……」
 雨を吸って重たくなったスーツを引き摺るように、重たい足を一歩ずつ刻んで、俺はど
こに向かうんだろう。ひとりになりたくてこんな世界に来たのに、元の世界への未練を捨
てきれず弟に手間をかけさせることになってしまった。しかも、置き去りにしたそれぞれ
の記憶を拾い集めたりして、結局は元の俺に戻ろうとしている。自分を殺すことができな
いから、自分を消すことを考えたりして、でも完全に消え去ることはできなかった。
 だって。
「……この街にいればいるほど、思ってしまうんだ」
 元の世界のことを。
 そこで生きている自分のことを。
 下らない自分に関わってくれる誰かのことを。
 この世界が嫌いなんじゃない。でも、この世界にいればいるほど元の世界が頭の中にチ
ラついて仕方ない。
 どうしてなんだろう。
「ここにいると、元の世界のことを思い出すんです。元の世界にいた家族や、友人や知人
のことを」
「それは、そういった人々がこちら側にはいないからです。孤独を知ることは、関わりを
知るということです。その関わりによって生まれるものを知るということでもあります。
あなたが孤独を知らなければ、その逆もまた知ることはできない。あなたがそれの魅力を
知っているということは、あなたが孤独を知っているのと同義です」
「どうでもいいことで馬鹿みたいい笑っている自分を」
「それは、この世界にあなたの悲哀があるからです。歓喜を知るためには、悲哀が必要で
すからね」
 悲哀だって?
 そんなはずはない。だって、ここは、俺が望んだ、俺の理想の世界のはずなんだ。その
世界に、どうして悲しいなんて感情があるんだ。
「明解でしょう。なぜなら、あなたがこの世界に望んだものは、自身の幸福ではないから
です」
「……え?」
「あなたは最初からわかっていたはずです。あなたがこの世界を望んだのは、そもそも幸
福になるためではないことを。先ほどご自身で言っていたではありませんか。自分を特別
不幸だと思ったことはない、と」
「……」
「では、あなたは一体、何を望んでこのような世界を求めたのでしょうか」
「……何をって……」
「考えてください。自分の心の一番奥底にあるものを正面から見据えて、あなたがこの世
界に望んだものが何なのか」
「……」
 何なのか、なんて言われても。
 俺の考えることだ、ロクなことじゃないに決まってる。
 逃げたかっただけだ。いろんなものが煩わしくて、自分のことを他人のせいにして、そ
んな自分が嫌で、誰かの前にいるのが、恥ずかしくて。
「確かに、逃げたいと思ったことはあったかもしれません。ですが、この世界を望んだの
は、逃げるためではない。そもそも、そのような世界が実現することなど、あなたは微塵
も期待していなかったはず」
 そうだ。
 期待どころか、そんなものの存在なんて、考えるわけもない。
 無いものねだりをするほど暇じゃないんだ。
 人生は短い。だらだらしてたら、あっという間に過ぎ去ってしまう。今でも親しい友人
たちと過ごした学生時代が終わりを告げたとき、それを知った。
 のんびりなんか、していられない。
 何かをしなきゃ。
 せっかく生まれたんだ。
 いつかはみんな、どうせ死ぬんだ。
 それなら、どうせなら、何かを残してから死にたいな。
 後ろ向きなんじゃなくて、悲観しているわけでもなくて。
 ものすごく遠くにうっすら見える、決して平等とは言えない、けれど圧倒的に絶対的な
終着点までの間に、自分らしい何かを残していけたらと。
 そう、思って。
「…………ぁ」
 そうだ。
 そうだよ。
 どうして忘れていたんだろう。
 最初は違ったんだ。
 自分にしかない、何かがあると信じることができて。
 その気持ちだけで、何にでも向かっていける気がして。
 つらいと思うことや、もうたくさんだと思うことがあっても、そこに立ち返ることがで
きれば、まだ大丈夫だと、まだやっていけると思えた。自分のことで精一杯で、他人のこ
となんて目もくれずに走るしかなかった。自分自身に全力を傾けることが気持ちよくて、
それが結果につながるかどうかなんて、どうでもよかった。
 いつから変わったんだろう。
 自分を試すのが怖くなって、ほどほどに平穏無事な毎日を送ることに安心するようにな
った。自分はこんなもんだと限界を勝手に決め付けて、その世界にうまく合わせようとし
た。そうすることが大人になるということなんだと、思い込もうとした。でもやっぱり自
分に嘘はつけなくて、本当はこうしたいのにな、ああしたいのにな、という、懐かしい夏
の日を追い求めるような、ノスタルジィを楽しむようになった。幼い頃を思い出しては、
あの頃は良かったと思うようになった。未来よりも、過去ばかりがキレイに見えて、振り
返ることしかできなくなっていた。こんなのが自分なのかと、絶望的な心持ちになった。
 歳を重ねて、結婚する友人や出世する友人が現れたとき、ふと自分の足元の危うさを見
せ付けられたような気がした。
 自分は本当に今のままでいいのか?
 気持ちは理解できた。だが、その本能的な疑念に従って自分を突き動かせるだけのもの
が、自分の中にはないような気がした。
 自分には、もしかしたら、何もないのではないかと、そのとき思った。
 考えてから、恐ろしくなった。
 でも、一度浮かび上がったその気持ちを消すことはできなかった。
 周りの全てが、先に行ってしまうような気がして、さらに慌てた。
 なんとかしなきゃ。
 早くなんとかしなきゃ。
 曖昧な何かに追い立てられながら何かをしたところで、うまくいくはずもなくて。
 うまくいかない。
 何もかもうまくいかない。
 それだけ置いていかれてしまうのに。
 遠ざかっていく。
 待ってくれ。
 置いていかないでくれ。
 お願いだ。俺だけをここに置いていかないでくれ。
 いつの間にか、そんな言葉さえ出てこなくなった。
 またうまくいかなかったら――そんな思いが強くなって、身動きがとれなくなっていっ
た。周りが見えなくなって、自分がどうしたいのかもわからなくなった。
 戻ることはできない。
 でも、先に進むこともできない。
 完全な停止。それは死と同じだ。
 今ここに在る自分が、根本を揺さぶる疑念に取り憑かれる。
 じゃあ、なんで自分は生きているんだろう?
 どうして生まれてきたんだろう?
 こんな命に、どれだけの意味があるんだろう?
 どんどん、どんどん思考が乱れて、深みにはまっていった。どこに向かって進んでいっ
たらいいのかもわからないまま、それでも生きていくしかできない毎日が拷問のように思
えた。懐かしいあの頃に戻れたらと強く思うようになったのは、そこからだ。
「しかし、この世界はあなたの追い求める『あの頃』とは違います。つまりそれは、あな
たの求めたものが、『懐かしいあの頃』ではないという、何よりの理由になるのでは?」
 確かに。
 過去を至上の楽園とでも言わんばかりに眩しく感じながら、いざどの時点に戻りたいか
という命題には明確な解を持たなかった。漠然とした憧れを抱いて、実感の伴わない陽炎
のような遠い世界を追っていただけで、そこに辿り着くことを目的とはしていなかった。
 逃げたいわけでも、戻りたいわけでもない。
 留まっているのが、止まっているのが、ただ嫌なだけだ。
 次に進みたい。
 先に進みたい。
 少しでも早く、少しでも前へ。
 そのために、自分を取り囲む色々なものに惑わされてしまうなら、一人で考える時間が
ほしいと思った。
 自分しかいない場所を、求めた。
「繋がりましたね」
 
                                  ――カタン。
 
 ハッとする。
 駅前のロータリィ。
 この世界の始点。俺の世界の始点。
 いつの間に、こんなところにまで来ていたんだろう。
「……戻って、きたのか」
 改札の向こう側に広がる白い靄を見ながら、ぼんやりとつぶやいたその言葉に、彼が応
える。
「そうです。戻ってきました。――あなたの求める答に」
 ……え?
「これが答?」
「ええ。あなたに与えられた圧倒的かつ絶対的な終着点に至る、その道程に散りばめられ
た小さな終着のひとつ。あなたの刻んだ足跡の証明。あなたをあなたたらしめる、あなた
の世界の根本」
「…………ぁぁ」
 息と声が混ざったような、なんとも中途半端な。
 そうか。そうなのか。
 ……そうなのか?
「…………ぁぁ」
 気持ちに、何の盛り上がりもない。
 歓喜も落胆もない。納得も不満もない。目の前に転がってきたその事実は、なんの変哲
もなく当然のように存在していて。
 ……なんだ、この気持ち。
 これが、俺の求めたものだったのか?
「ええ。あなたは初めから、落雷に打たれるような衝撃も、目が覚めるような目新しい発
見も求めてはいなかった。あなたが望んでいたのは、当たり前に存在し、すぐ近くにある
はずなのに見えなくなったそれを、再び認識できるようになること」
 孤独になれば誰かとの関わりを求め、満たされない想いを抱えるほど満たされたいと望
み、今の不幸を嘆けば意外と幸福だった以前を知り、死にたいと思いながら明日の楽しみ
を探してしまう。
 一方が欠ければ、もう一方も決して成立できない、この情報の精密さ、緻密さ、絶妙な
バランス感覚。
 そういうこと。
 ただ、それだけのこと。
 何ひとつ捨てられるわけがないということ。
 総じて、何も変わらないということ。変わりはしない、ということ。
 でも……ああ。
 そうだな。
 今ならわかるかもしれない。捨てようと思いながら置いていったものを、ひとつひとつ
漏らさず拾い集めてきた今なら。
「…………ぁぁ」
 体の力が抜ける。
 緊張が解れる。
 背負っていたものを下ろしたような、この身軽さはどうだろう。
「……はは」
 笑ってしまう。
 こんなところまで来て、弟を振り回して、やっと辿り着いたものが、この完結した簡潔
なアンサーだなんて。
 こんなことをわざわざ確認するために、堂々巡りを繰り返していたなんて。
「どうして今の今まで気付かなかったのかと、そう思うでしょう。そういうものです。探
し物はえてして、身近なところに転がっていることが多い」
 唇が震える。
 言葉をうまく発することができない。
 なんだか、少しーー寒くなってきた。
「元の世界との繋がりが戻りつつあるようですね」
「……え……?」
「この世界と、あなたに与えられていた猶予も、あとわずかです。間に合って良かった、
と言うべきなのですかね」
 ふと頭の中で閃くものがあり、俺は上着の内ポケットに手を入れた。細い鎖の付いた懐
中時計を取り出し、開く。
 一本しかない針が、『一』を指した。

                                  ――カタン。

 何度か耳にした覚えのある音。
 頭の中で、何かが急速に繋がっていく。
「……これ……」
「それが何か、今のあなたならわかるでしょう。それこそがあなたに与えられた猶予。あ
なたが元の世界で築き上げてきた時間。あなたとあちら側の世界の関わりを証明するもの
です。世界があなたを消去するより先に、あなたは自分の居場所をあちら側に再認するこ
とができた。あなたの目的は達成され、あなたはあちら側に戻る。この世界は必要性を失
い、消える」
 その瞬間。
 見慣れた景色の、その遠くに、何かが見えた。
 線画のような雨粒の落下に逆らうように、白くて細かい何かが、飛び散ったガラス片の
ように舞い上がる様だ。
「世界が終わります」
 はらはらと、紙吹雪のように少しずつ舞い上がるそれが、景色の破片なのだとすぐに気
付いた。映像そのものを砕いたように、その破片のひとつひとつの中で、何事もないかの
如く雨粒が落ち続けている。
 閉じていく世界を眺めながら、不意に子供の頃のことを思い出した。
 出したいだけ出して遊んでいた玩具を、片付けるよう言われたときのこと。
 好きなように広げていた世界を閉じていく、物悲しさ。
 ……ちょっと、惜しいような。
「その感覚を残したまま、自分の世界にお帰りなさい」
「……俺は、忘れないんですか?」
「忘れてもらっては、意味がありませんから。あなたには、ここで見聞きした全てのこと
を記憶したまま、残りの時間を生きてもらいます」
「……それ、大丈夫なんですか?」
「……大丈夫?」
 意味がわからない、といった様子で、彼が聞き返してくる。
「それは、いつかまた今回のようなことになるのではないか、という不安ですか?」
「……ええ、まあ」
「あなたがまた、自身に絶望的な想いを抱いたり、そのために世界から消えることを望ん
だりしない限り、そうそうこういったことになる可能性はありません」
 ずいぶん辛辣な物言いだな……。感情がないから怒れてこないけど。
「じゃあ、とりあえずは大丈夫なんですね」
「不要な思考だと言っておきます。仮にまた同じことが起こったときには、あなたは猶予
もなく世界から消えるでしょうから、心配には及びません」
 それ、大丈夫って言えるの?
「総じて、問題ないと言って良いでしょう。あなたにも、あちら側の世界にも、苦痛は一
切ないのですから」
 そういうものか。まあ、せいぜい自分の消滅を望まないよう、気を付けなきゃな。
 少しずつ近付いてくる世界の端。ずっと眺めていようかと思ったけど、それを見届ける
のもなんだか複雑な心境で。
「……」
 砕けて、舞い上がっていく世界の破片を見ながら、思った。
 帰ろう。
 結局はそうなるんだ。手放そうとしても手放せないのが普通なのに、こんな世界に来た
りするから、手放せそうな心持ちにもなったけど。それでもやっぱり、俺は結局、元の世
界が嫌いじゃないと思っている。捨てようと思ったものも、何ひとつ捨てられなかった。
今の俺は、ここに来る前の俺と何も変わっていない。
 自分の居場所は、あちら側の世界にしかないんだ。
「……色々とすみませんでした」
「謝罪するなら、弟さんにでしょう」
「……それは、まあ、そうなんですけど」
「謝っていただく必要性はありません。これは役目ですから」
 役目。
「そういえば、言っていましたね。私が一体誰なのかと」
「……あ、ええ」
「とはいっても、あなたはもう気付いているでしょう。弟さんは惜しいところまで気付い
ていましたが、本質は見えていなかった」
「……あの、本当に?」
 本当に俺が想像しているような存在なのか、という意図で口にした言葉に、
「ええ」
 彼はあっさりとうなずいた。
 右手を胸の前に持ち上げ、語る。
「其の世の誰もが知る存在。其の世の誰もが一度は意識する存在。
 あるときは唯一絶対とされ、あるときは万物に宿るとされる存在。
 全てを知り、全てを司るとされる存在。
 世界を創造したとされる存在。
 誰もが信じ、同時に誰もが信じていない存在。
 奇跡の象徴であると同時に、絶望の象徴でもある存在。
 祈る者が在り、願う者が在り、望む者が在り、否定する者も在る。
 詰まるところ、私の存在は私を意識する者の中に在り、私という存在はその者の認識に
よって千変万化する。そこにただひとつ共通していることは、何者の中に現れようとも、
その者が望まない限り私は現れず、その者の中で私を望むことが無くなれば、私の存在は
意味を失くす、ということ。故に我々は――今はあえて、こう自称させていただきましょ
う――我々は意味を与えられて意味を持ち、意味を奪われて意味を失う。意味に付随する
ことで意味することを許容される意味。
 我々は存在ではありません。我々は、概念なのです」
 崩壊していく世界の端が、だいぶ近くにまで迫ってきている。
 もう、あまり時間はなさそうだ。
「あなたたちが概念で、意味に付随する意味なら……あなたの意味は?」
「今ここにいる私の意味は、あなたという存在の意味に、解を導き出すこと」
 解と呼べるほどたいそうなものなのかは、わからない。でも、彼が言っていたように、
俺の目的は達成されている。もう、自分の世界をただ全否定するようなことはない。ここ
ではないどこかなんて、羨望することはあっても、心の奥底から望むことなんて、これか
らはきっと起こらない。
 この世界はもうすぐ終わる。それは、世界として存在している意味が無くなったという
ことなんだろう。
「これで、俺は良かったんでしょうか?……あ、」
 また聞いちゃったよ。自分でわかってること。
「そうですね。良かったのか悪かったのか。それは、あなたがこれから決めることです。
これから決めれば良いことです」
「……お別れ、ですよね」
「そういった感傷的なものではありません。もう接触する必要がなくなったという、ただ
それだけのことです」
 きっと、もう、二度と会うことはないのだろう。短くはあるが薄くはない、その関わり
の消失を悲しむのは、余計な感情だろうか。
「そんなことはありません。あなたはあなたであり、私ではない。認識の違いは、その正
誤とは関係しません」
 どこまでも淀みなく、冷静に。
 俺の思考の真逆を行くようで、その言動は必ずしも俺を否定するわけではない。そして
その言動を、俺は何かを正しいと感じ、納得し、受け入れてしまう。俺という存在に解を
出すためだけに存在した、彼という『意味』。
 ジリリリリリ、と改札の向こうから聞こえてきたベルの音が、最後を知らせた。
 もう、行かなければ。
「ひとつだけ、余計なことを言ってもよいでしょうか?」
「え?」
 発車を告げるような忙しないベルの音の中で、彼の全く抑揚のない声音が、やけにはっ
きりと聞こえてくる。
「あなたは、感謝の気持ちを謝罪の言葉で表すことが多いようです」
「……そうですか? あんまり意識してないですけど……」
「少し意識してみると良いかもしれません。感謝の気持ちは、感謝の言葉で表せば良いと
思いますよ」
 言いながら、彼は改札の向こうへと促す。
 もう行きなさい。そう言いたいのだろう。
「本当に、色々とすみ、」
 はたと気付いて言葉を止め、彼を見た。
 暗闇に閉ざされた彼の表情は、相変わらず読めない。しかし、少し笑っているような気
がしたのは、きっと俺の気のせいじゃないんだと、そう思いたい。
「……本当に、色々とありがとうございました」
 その言葉を別れの言葉に変えて、俺は改札を通過した。白い靄が晴れた先に、見覚えの
ある列車が止まっている。目の前にある出入り口から車両に乗り込もうとして、ふと背後
を振り返った。
 改札の向こう側は見えない。白い靄が邪魔をしている。けど、駅のホームから空を見上
げると、世界の破片が蒼穹に吸い込まれていく様が見えた。
 心が騒ぐ。
 ざわざわして落ち着かない。
 すぐに終わるとわかりきっているものを見ると、どうしてこんな気分になるんだろう。
 儚くて寂しい。でも、楽しんでいた自分に気付いたりもする。
「……ぁぁ、」
 やがて、舞い上がる世界の破片が、途切れる。
 意味の消失が、世界を消失させた。いや、そこに在る必要がなくなったという意味の出
現か。
 どちらでもいい。終わったんだ。俺の望んだ世界は。
 彼もきっと、もういない。彼自身が言ったのだ。自分の意味は、俺の存在に解を出すこ
とだと。意味を与えられて意味を持ち、意味を奪われて意味を失うと。俺が俺の中で一定
の解を導き出したなら、彼は意味を奪われて意味を失ったに違いない。彼が言っていたの
なら、それは間違いないだろう。
 彼は……俺のわがままのために生まれて、俺のわがままのために死んだんだろうか。
 いや、彼はこうも言っていたじゃないか。そんな感傷的な話ではないと。ただ接触する
必要がなくなっただけだと。しかし一方で、こうも言っていた。認識の違いは、その正誤
とは関係しないと。
 自らを概念だと言った彼は、この先どれだけの人間が俺と同じ願いを抱いて叶えても、
同じ彼ではないのだろう。
 彼という概念を望む俺のような存在の数だけ存在する、絶対的な集合体。それはもう存
在と言っても良いような気がするけど、彼らという概念は、きっとそれを否定するだろう
な。嫌がるんじゃない。事実と違うことを訂正するだけだ。
「……ぁぁ」
 もう、彼の姿を思い出せない。
 ほんの一瞬、本当に一瞬だけ、俺の前に一定の個性を持って現れた彼の存在だけど、今
はもう、俺の中にもその個性は跡形もない。その感覚が、かえって彼という存在を実証し
ている実感につながるのだから、なんだか不思議だ。
 最後の破片が見えなくなるのを見届けて、俺は列車に乗り込んだ。発車ベルが止み、ド
アが締まる。ゆっくりと動き出す列車がホームを出て、再び油絵みたいに圧倒的な質感の
蒼穹と、少し黄色がかったきな粉みたいな白い大地が続くだけの世界を進んでいく。揺れ
にバランスをとりながら車両の中へ入ると、すぐにその光景が飛び込んできた。
 脱いだ衣類を、通路を挟んだ反対側のボックス席にまで散らして、全身をタオルに包ま
れた状態で眠っている弟だ。よほど疲れているのか、列車の揺れにも全く起きる気配がな
い。……まあ、今の俺には、寝てくれているほうが都合はいいか。
 弟と背中合わせになるよう、隣のボックス席に座ろうとして、びしょ濡れになった不快
感に気が付く。今までよく何も感じなかったものだと感心なんだか呆れなんだかわからな
い感覚になりながら、とりあえずスーツの上着を脱いで向かいの席の背もたれに引っかけ
る。滴る雨水が止めどない。一枚目のタオルでとにかく髪の水分を吸い取る。張り付くカ
ッターシャツもタンクトップも脱ぎ、二枚目のタオルで上半身を拭いた。ベルトを外して
ズボンも下ろす。トランクスまで脱ぐのは抵抗があって、多少の気持ち悪さを三枚目のタ
オルでくるんで席に座った。
「……はぁ」
 ずいぶんと疲れた。少し寒い。億劫なところをもぞもぞと動き、隣のボックス席に置い
てあるタオルでさらに体を包むと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
 同じ光景が延々と続く窓外に目を遣る。もしかして、今この瞬間にも、誰かが自分の存
在の是非を天秤に掛けているんだろうか。俺と同じように、この世界のどこかで自分の本
心を確かめようとしているんだろうか。何も感じなくなった心と体で、雨に打たれている
んだろうか。世界から消えてしまいたいと、思いながら。
 関係ないと、言われてしまえばそれまでだけど。
 それでも、できることならその誰かも、俺と同じように何かしらの解を出して、元の世
界に戻ってくれたらいいと思う。気付くまでには時間が必要だし、気付いてしまえば拍子
抜けしてしまう程度のことだけど、その解は必ず在って、しかもそう遠くないところに在
るんだということには、気付いて欲しい。無責任なことは言えないけど、俺だって気付け
たんだ。きっと気付けると信じたい。……ははは、なんだよ俺。偉そうなこと言っちゃっ
てさ。
「……ぁれ……?」
 変だな。急に目蓋が重たくなってきた。緊張が途切れたせいかな。
 ……だめだ。
 これは……きっと、抵抗、できない。
 もう少し、だけ。待って。

 寒いし、疲れたし、状態は最低を通り越して最悪だ。
 でも、少し……ホッとしてる。
 ……大丈夫。今の俺なら……なんとか、生きていけそうな気がする。先に、進めそうな
気がする。なんでかな。俺は、なんにも、変わってなんかいないのに。

 目が、覚めたら……もう、元通りの世界だろう。
 退屈に、思うかもしれない。
 つらいと、思うこともあるだろう。
 もしかしたら、また同じことを考えるかもしれない。


 でも、わかるんだ。
 俺はもう、大丈夫だって。


 大概のことは、大したことじゃないんだと、わかった。


 俺が勝手に、オオゴトにしていただけだって。


 それがわかっていれば、同じことを考えても、世界が俺を消そうとすることはない。
 俺が、本気じゃないから。



 だから――