翌朝、弟の登校に合わせて、家を出た。 少し弟と話がしたかった。あんなことがあった翌日の朝に、弟がどんな話をするのか、 聞いてみたい気がした。あの世界での出来事を、ほんの少しでも覚えているのかどうか。 本当は、朝飯のときでも真っ先に聞いてみれば良かったんだろうけど……まあ、基本的に 寝起きには弱すぎる弟だし、同じ食卓を囲む父や母の見ているところで、妙なやりとりを するのは気が引けて。 家を出てすぐ、珍しいね、と弟が言った。ここ最近、会議やら何やらを理由にして早く 家を出ていたから、そのことを言っているのだろう。確かに、そういう日もあったのは事 実だけど、全部が全部そうだったわけでもない。そういうときは、一秒でも早く、一秒で も長く独りになりたかっただけの話で、つまるところは仮病みたいなものと大差はない。 実際、仕事に行くふりをして仕事を休んだ日もあったしな。そういう色々なことを思い出 しながら、もうそろそろ早出も落ち着いてくるんじゃないかな、と最後になってほしい嘘 をつき、弟の言葉をかわした。 道すがら弟は、今日は朝からやけに気だるいと訴えた。「昨日はそんなに疲れるような こと、してないはずなんだけどなあ」とぼやく。思わず苦笑してしまう。弟は、あちら側 での出来事には一切触れてこない。どうやら本当に、何も覚えていないようだ。ただ、弟 は昨晩見た夢のことが頻りに気になっていた。確かに何かの夢を見たのに、それが何だっ たのか思い出せないという。わずかな残滓を拭うように、俺は弟に言った。 「忘れる程度なら、きっと大した夢じゃなかったんだろ」 バス停に着いたところで、弟とは別れる。さり気ない手振りとともに歩き去る弟の背を 見送り、タイミング良く滑り込んで来たバスに乗り込んだ。下車した客がさっきまで座っ ていたのだろうか、運良く空いている一人用の座席に座り込む。ほどなくして、窓外の景 色がゆっくりと流れ始めた。 結局また、この朝を迎えている。 自分で選んだ結果とはいえ、不思議だという認識もある。あんなにうんざりして、抜け 出したくて、いっそ無くなればいいとさえ思っていた世界なのに。 いや、それは少し違うか。 俺がうんざりしていたのは、悲劇を抱えたがる俺自身であって。 俺が抜け出したかったのは、狭い価値観に囚われていた俺自身であって。 いっそ無くなればいいと思っていたのは、打ちのめされた俺の存在そのものであって。 どれもこれも、全部俺で。 無私のつもりが自己中で。 自分の中にある弱い何かを、隠して守ろうとした自分がいただけの、ただ、たったそれ だけの話で。 ……ああ、こういう自己嫌悪みたいな発想、なんとかしたいけど、きっとこれからも幾 度となくこういう心境になるんだろうな。面倒だけど、だからって無くすことができるも のでもないし。 あの世界から帰ってきたことで、何もかも受け入れられるというわけじゃない。弱い自 分は嫌いだし、それを他人に晒すことも気に入らない。俺の中には、俺なりの自尊心がい くらか在る。でも、そういうものと、以前よりはうまく関わっていけそうな気がする。折 り合いをつけて、付き合っていけそうな気がするんだ。俺のために作り上げられたあの世 界で、俺が探し出そうとしていたのは、おそらくそういうものだったのだろう。何かが特 別変わったわけじゃないが、確かに大きく変わった何かがある。俺は俺のままだが、それ で大丈夫だとわかった。それだけわかれば十分だ。 それに、得たものばかりじゃない。喪失したものもある。以前の俺を他人事みたく認識 している今の俺に、以前の俺を理解してやることはできない。同調できないんだ。どうし てあんなことを考えていたのか、今の俺にはもう、わからなくなってしまった。この先、 俺が以前の俺と似た境遇の誰かと会っても、それは揺らがないのだろう。 そのとき。 俺は、どんな顔をするのだろう。以前の自分もそうだったと、どこか人生の先達を気取 るのだろうか。それとも、うざったいくらいに親身に関わろうとするのだろうか。どちら にしても、突き放すような真似だけはしないでほしいと、切に願う。今の俺には、そのと きを想像することもできないから。 ああ、でも。 そのときは、試しに『彼』のような接し方をしてみるというのも、いいかもしれない。 ……いや、やっぱり駄目かな。あんな特殊な状況下だから良かったんだ。なんせ、あの出 逢いが遭遇だったのか邂逅だったのか、今でも俺にはわからないんだから。 此の世の誰もが知る存在。 此の世の誰もが一度は意識する存在。 あるときは唯一絶対とされ、あるときは万物に宿るとされる存在。 全てを知り、全てを司るとされる存在。 世界を創造したとされる存在。 誰もが信じ、同時に誰もが信じていない存在。 奇跡の象徴であると同時に、絶望の象徴でもある存在。 祈る者が在り、願う者が在り、望む者が在り、否定する者も在る。『彼』は『彼』を意 識する者の中に在り、『彼』はその者の認識によって千変万化する。そこに共通すること は唯一つ、何者の中に現れようと、その者が望まない限り『彼』は現れず、その者の中で 『彼』を望むことが無くなれば、『彼』は意味を失くす。故に、『彼』は意味を与えられ て意味を持ち、意味を奪われて意味を失う。意味に付随することで意味することを許容さ れる意味。 存在ではない存在。 概念の類。 その概念を、俺たちはこう呼んでいる。 カミサマ、と。 ― 了 ―
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