それは、理性の範疇ではない。 十中八九、本能の領域だと思う。 最初は、そんな状態の自分を見て、これは理性の範囲だと思っていた。自分で自分を制 御できていることに、微塵も疑いを持つことなどなかった。 しかし、よくよく冷静になって考えてみると、今まで自分が如何(いか)に恐ろしいこと をしていたか、そして今も続けているか、その重大さから目を逸らすことはかなわない。 だが、それでも今の状況が自分にもたらしてくれるものは、あまりに魅力的なのだ。 まるで全てを征服したような感覚。 何もかもが思い通りになりそうな、この途方もない浮遊感はどうだ。 どんなに楽しめる異性より、強く感じられる。 どれだけ大金を積んでも得ることのできない、最大級の幸福感。 力は、人間と違って、決して裏切りはしない。こちらの要求に、最大級の援助で応えて くれる。そこには情など関わらない。力はとても純粋だ。だからこそ、昨日は誰かの手元 にあったものでも、今日は自分の手元で解放される瞬間を待ちわびていることとて、何も 珍しいことなどない。 そう。 力とは、その効果を発揮してこそ、最高に輝くものだ。 その輝きを奪うなど言語道断。 それは力に対する激しい冒涜である。 理解しがたい。 無意味を通り越して、それは無駄だ。 無駄遣いだ。 果てしない浪費だ。 いや、使っているわけではないのだから、持ち腐れか。 どちらにしても、もったいない。 その点、私はとても有意義に力を使っていると言えよう。 今、私の手元にあるこの力≠ヘ、一七〇年前にこの星を訪れたとされる来訪者が所有 していたものである。 その名を、偽り無き世界、〈オール・トゥルー〉。 この、片手にすっぽりと収まる直径五センチほどの深緑色の宝玉には、最大半径二キロ メートル範囲にいる人間の精神意識へのダイレクトなアクセスを可能とさせ、宝玉の所有 者の精神容量を擬似的に増加させる。早い話が、精神を乗っ取っているのと大差ない。主 に人ひとりの精神容量では成し遂げることのできない何か≠するとき、精神エネルギ ーを補うことに利用される道具のようだが、魔法術や気孔をはじめ、精神エネルギーをな んらかの方法で具現化させる技術を持っていなかった来訪者たちにとって、この道具がな んの役に立っていたのか、今となっては知るよしもない。 だが、その真意はさておいても、魔道士である私にとって、この道具が素晴らしい逸品 であることに変わりはない。宝玉の効果の範囲内にいる他人の精神領域が、例え永久にと はいかなくとも、一時的にとはいえ私のものになるのだ。 …しかし、この世に完全なものが存在しないのと同じように、来訪者の高度な技術も、 決して完全というわけではない。 この〈オール・トゥルー〉、どうやら効果範囲内にいる人間の精神意識下の情報を解析 し、人間一人一人が持つ精神波の波長を計算し、その波長を、宝玉の持ち主の精神波長に 同調させることで効果を発揮するようなのだが、この精神意識下の情報を解析する作業に 結構な時間がかかる。無論の事ながら、効果範囲内にいる人間の数に比例して、この解析 時間は多くなる。 しかしその言葉、裏を返せば、その条件すらクリアできればそれでいいということに他 ならない。気の利いたことに、範囲内にいる人間の中で、誰の精神解析を終えたかという ことまで、私の精神に直接教えてくれる。その原理は全く想像もつかないが、これは、す さまじいとしか表現できない。 甘い囁き。 私は条件を呑むことにした。 別にその代償を求められているわけではないのだ。呪術などより、よほど役に立つ。 あとは、この胸に湧き上がる欲望を、ストレートに具現させるだけ。 その欲望とは、すなわち、征服欲。 まず私は一ヶ月かけて、サンマリノに住む住民全ての精神意識下を解析し、それを自分 のものにした。その間、解析を一足早く終えた住民を、彼ら自身の精神容量を利用して操 作魔法術をかけて操り、目立たない程度の範囲で、街を訪れた旅人を消した。 無論、誰が旅人消失の犯人であるか、それを知られては元も子もない。同じ街の住民が 犯人であることを、まだ精神解析の終えていない他の住民に見付からないよう、この頃は 細心の注意を払った。 ターゲットに旅人を選んだのは、旅をする者に付きまとう『命のリスク』の高さから、 彼らなら、不意に姿を消しても怪しまれないだろうと思ったからだ。 それ以外に理由はない。 理由など、ないのだ。 この胸の奥底で果てなく膨張するものは、まるで私の身体を突き破り、体外に解放され んことを望んでいるかのように、しきりに私に叫ぶのである。 ――もっと満たされたい。 ――もっと、もっと満たされたい。 ――例え何を犠牲にし、どれほど人の道を外れても。 それはとても単純であり、私にとっても理解しやすいことこの上ないものだった。 今の私には、それを現実にできるだけの力がある。 考えてみれば、私の理性はとっくに消え失せていたのかも知れない。 〈オール・トゥルー〉を使い始めてから二ヶ月が経過した頃、街では旅人の連続消失が にわかに囁かれ始めた。当時、最も有力とされた犯人像は『通り魔』であったが、言うま でもなく実際にそんな通り魔は存在しないのだから、犯人が捕まるわけがない。 誰にも目撃されることなくなく現れ、旅人をさらって霧の如く消える。 つかみどころのない怪人の出現に、街の住民は面白いほど恐れ戦いた。が、それでもど こか完全な緊張感に欠けていたのは、被害者に街の人間がいないという事実があったため であろうか。自らの危機は何にすがってでも助かろうとし、他人の危機には中身のない同 情で応える、なんとも人間らしい反応ではないか。 しかし、それでは私の心が満たされない。 私の欲情を満たすのは、ただ純粋な『力による征服』のみ。 〈オール・トゥルー〉の使用開始から三ヶ月が経過しようというとき、ここで私は大々 的に事態を進行させようと考えた。 その内容は、いたって単純。 街の全住民を、彼らの精神容量を用いた操作魔法術で操り、街を訪れた旅人を襲撃させ るのだ。 だが、この街の事実を知った標的が、そのままなんらかの方法で逃げ去ってしまっては 色々と面倒なことなことが起こる。第一、それでは私が満たされない。 そこで私は、並大抵の衝撃では破られない強固な結界魔法術を用い、街を覆うことにし ようと考えた。 ここで、魔法術についてある程度の知識を持つ者なら、私の言葉の矛盾に気付いたこと だろう。 通常、ほとんどの魔法術は、その威力や効果範囲などが固定ではない。可変である。同 じ魔法術でも、使用者の持つ精神容量の広さや、使用者の組み上げた魔法術の構成(通常 はロジックと表現される)によって、それらはいくらでも変化する。とりわけ魔法術の構 成は人によって全く様々で、熟達した魔道士ほど、その構成には無駄がない。 それは丁度、プロの料理人と、包丁すら持ったこともない人間とが、一斉に同じ料理を 作り出す状況に似ている。プロの料理人が、長年培ってきた技術と勘をフルに活用させ、 最小限必要なだけの食材を無駄なく使用して料理を作るのに対し、素人は慣れない手付き で材料を調理していくものの、途中には失敗も決して少なくなく、その分、材料を無駄に 使ってしまう上、出来上がった料理は、味がいまいちだったりする。 魔法術の構成を組み立てる行為も、それと同じようなものである。魔法術についての正 しい知識を持たない者の中には、魔法言語を精神意識下に焼き付ける、いわゆる導入(通 常はインストールと表現される)のプロセスをクリアすれば、あとは発動させたい魔法術 を言葉で起動させてやればいい――と、そう思っている者がよくいるようだが、それは間 違いである。 魔法術の元となる魔法言語は、あくまでも魔法術を作り上げるための材料でしかない。 さすがに材料を料理とは呼ばないだろう。問題は、その材料から如何にして魔法術を作る か、である。 魔法術のロジックから無駄を省けば、いざ魔法術の起動時、魔法術による精神容量の占 有を削減することができる。魔法術による精神容量の占有を削減することができれば、魔 法術使用後、占有されていた精神容量を解放して次の魔法術を組み立てるまでのタイムラ グが短くなる。タイムラグが短くなれば、魔法術の速射性が向上する。本当の意味での魔 道士の実力というものが、いかに強力な魔法術が使えるか、いかに広い精神容量を持つか に左右されるものではないことなど、今さら改めて言うまでもないだろう。ましてや言葉 によって起動し、ただ効果を発揮するだけのものを『魔法術』と呼ぶなど、戯言以外のな にものでもない。 前置きが長くなったが、つまり魔法術は、より効率良く効果を発揮できるよう、ロジッ クの組み立て方が今も研究されている。 ところが、操作系魔法術は元よりロジックが大きいため、ある程度の無駄を省いても大 した効率向上にはならない。並の人間の精神容量では、どう頑張っても一人を操るので精 一杯である。 そうなると、どうなるか。 街の人間一人の精神容量を利用して操作系魔法術を起動させ、別の街人を操ったとしよ う。それを繰り返していけば、街の人間全てに操作系魔法術をかけ、差し引き、彼らの精 神容量は使えなくなる。唯一、私の精神容量だけが未使用状態で残っているわけだが、い くらなんでも、私一人の精神容量で街を覆うほどの結界を作り出すなど、できるわけがな い。 ところが、現に私はこうして街の住民を全て操作術で操り、街を巨大な結界で覆ってい る。 なぜか。 なぜも何もない。 我々にとっての不可能を可能とするのが、来訪者の技術というものである。 私が手にしている彼らの技術の結晶は、何も〈オール・トゥルー〉だけではないのだ。 その名を、限り無き世界、〈インフィニティ〉。 この片手にすっぽりと収まる直径五センチほどの深青色の宝玉には、対象者の意識容量 を広げる効果がある。 私は操作術で操った街人の中から、魔道連盟・サンマリノ支部に配属されている魔道士 たちの精神意識を、この〈インフィニティ〉で拡大し、そうしてできた空き容量を用いて 結界術を起動させ、街を巨大な結界で覆った。 魔道連盟・サンマリノ支部に配属されている魔道士は、非常勤も含めて四十人前後はい る。それだけの精神容量が確保できれば、街を覆うだけの結界を作り出すなど、造作もな いことだ。 しかし、無条件に結界を張っただけでは、旅人を街に閉じ込めるだけでなく、無論、外 からの旅人の来訪をも阻んでしまう。 私が目指すものは篭城ではなく、支配。圧倒的恐怖による支配だ。 私は結界魔法術のロジックに条件を一つ加え、来る者は拒まず、去る者を決して逃がさ ない結界を張った。 サンマリノでの旅人の連続消失が、事件として周囲に波紋を投げかけ始めた頃、ある種 の人間が数多くこの街を訪れ、ことごとく姿を消している。 己の名を上げようとするハンター。 あるいは、恐いもの見たさや、興味でやって来る旅行客。 彼らは一様にして根拠のない自信を持ち、なぜかは分からないが、自分は絶対に大丈夫 だと信じて疑わない。中には例外として、無意味なほどと怯えた様相の者もいるのだが、 そういう者たちは大概、仲間内でこの街に誰が行くかを遊び半分に決めるとき、運悪くそ の役が回ってきたとか、まあそんなところだろう。要するに、肝試しの類だ。 そういう、始めから恐怖心にかられた人間も悪くないが、私としてはむしろ、前者のタ イプの人間がよい。余裕に満ちた彼らの表情を、恐怖で埋め尽くした瞬間といったら、な いからだ。 しかしながら、彼らときたら言っていることばかり大仰で、実力の方はまるで備わって いない。こと魔道士いたっては、誰も彼も操る魔法術は貧弱で、ロジックにも無駄が多そ うな感がある。何より魔法術の起動に伴う、あの意味のない上に大袈裟な身振りや手振り は、一体何を狙っての行為であろう。遥か過去より語り継がれる英雄にでも、なったつも りであろうか。もしそうなら、己がどういう状況下にいるのか、全く理解できていないの だろう。あわれを通り越して呆れ果てる。関心すらする。見上げたものだ。まず間違いな く、率先して理想を追い求めて躍進し、真っ先に命を落とすタイプである。実際に、彼ら はこの街でそういった運命に飲み込まれていったわけだが。 そうして旅の者を手玉にとる感覚は、決して悪いものではなかった。彼らが得体の知れ ない恐怖に怯える様は、確かに私の気持ちを満たしていたのだ。 だが、私は完全に満足したわけではなかった。 自覚はある。 刺激が、ないのだ。 なるほど確かに、思い通りに話が進むことは、何かを超越したような快感を約束してく れる。しかし、それは同時に、意外性を見出すことのできない、酷(ひど)く面白みのない 存在でもあるのだ。 我ながら、なんとわがままな思考であろうか。客観的に見て、それが常軌を逸している と見られても、決して否定できるものではない。それも自覚している。 だが、誰にも例外はないのだ。 同じ立場に立てば、分かる。例え口先では何を言おうと、誰もが私の気持ちを理解する はずである。 気持ちが良くないわけはない。 この身を包み込むような快感を味わうことよりも、一つ判断を誤れば崩れ去ってしまう ような危うさを持つ、張り詰めた緊張に身をさらすことの方が、他に比較するものがない ほど快感なのだ。 私の目的は変わりつつあった。 もしかすると、そう考えた瞬間から、私の目的は変わっていたのかも知れない。 初めは、標的をどこまでも追い詰めることで、絶対的優位に立つことが楽しくて仕方な かった。 しかし、今は違う。 今は、私を適度な緊張の中に誘ってくれる標的こそが、私を真の意味で満たしてくれる のだ。そのためには、思い通りに追い詰められていくだけの標的など、なんら意味を持た ない。 今回の標的は、そういった意味で非常に喜ばしいものと言えよう。 二人の少年と、一人の少女。見たところ、三人揃って十六、七歳といったところか。 これまでの経験から鑑みて、私は彼らになんら期待を持たなかった。若者特有の好奇心 からこの街を訪れたのだろう、という程度にしか見ていなかった。それよりも、旅人や旅 行者が原因不明のまま、しかも確実に消失しているというのに、今なお好奇心でこの街を 訪れようという神経に、私は感服していた。若さゆえの思い切った行動力には、羨望すら したものだ。 もちろんそれは皮肉の範疇を越えないものであって、正直に言ってしまえば、私にとっ て鬱陶しいものだった。こんな子供たちが私を満たしてくれるとは、到底思えなかったか らだ。 だが、私はすぐに、己の目の節穴ぶりと、先入観を持つことの愚かさを思い知ることに なる。 その子供たちが、やってくれたのだ。 長らく待っていた瞬間である。まさに私はこの瞬間、やっと理想の標的を得ることがで きたのだ。 彼らの実力は本物だった。これまで多くの人間が阻まれたいくつもの壁を乗り越えて、 彼らは今、この街を覆う結界の発生源に近付きつつある。ただ単純な強さだけでなく、結 界魔法術の発生源を特定できるだけの知識、そしてその知識をこの状況下で生かすことの できる、冷静な状況判断能力。どれをとっても、これまでの標的とは一味違う。 特に、三人の中の一人――あの魔道士らしき黒髪の少年の実力は、計り知れない。 あの魔道士の少年は、まさに本物だ。 これまでの彼らの行動は、操作した街人の視覚を通して観察している。その中で、特に あの少年は、飛行魔法術、睡眠魔法術、光弾魔法術、防護魔法術、照明魔法術、電撃魔法 術と、確認しただけでも非常に多種多様な魔法術を使いこなして見せた。口先だけの魔道 士のような大袈裟な動作もなく、しかも魔法術の発動が異常に速い。挙げ句には起動した 魔法術の効果を増幅させる技術まで有している。あれは精神にかかる負担が大きい――大 きすぎることで知られ、魔道連盟でも限られた人間にしか使用できない、高等な技術だ。 あの少年は、それを私の前で二回も披露してくれたのである。 …素晴らしい。 いくら先天的要因に左右されるものとはいえ、あの少年の持つ精神容量は並ではない。 いや、並でないのは、何も精神容量に限った話ではない。そもそもその程度のレベルで 片付く話でもない。制御はもちろん、威力、速射性、構成するロジックの無駄の無さと、 彼の魔法術は、あらゆる面で文句の付けようのない完成度を誇っている。 まさに一級品。 そして、それほどにまで魔法術に長けたあの少年は、間違いなく一流だ。 なんという才能の持ち主であろう。天才という言葉が、まるでこの少年のためにあるよ うな、そんな気すらしてくる。 私は、私自身も理解できない複雑な心境に震えた。 今のこの心境を、一体どう表現していいものか。 あえて無理矢理に言葉で表すなら、それは歓喜と恐怖の入り混じった、とても微妙な感 情だと言えなくもない。しかし、実際には何をどう感じているのか、どうにも微妙で言葉 にできない部分がある。 私は…………この感覚は、なんだ? …心地好さが、変化していく。 はがゆい。 もどかしい。 息苦しい。 なぜ私が、偶然この街を訪れた一人の少年魔道士に、こんな……胸を締め付けられるよ うな思いをしなければならない? ……まったく、気分が悪い。 早くしなければ。 早くなんとかしなければ、私が、私でいられなくなってしまう。 しかし今、ここで私が冷静さを欠き、これまで私を楽しませては悩ませた数多くのリス クを乗り越えた私の、私の苦労が、意味を無くしてしまう。 ……させはしない。 私は、まだ私は、やっとこの快感を見つけることができただけではないか。 これが最後ではない。 最後になど、させられるものか。 これから始まるのだ。私の、本当の意味で満たされる時が。 そのために、あの子供たちには礎となってもらう。 無論、ルーティン=アーキテクト…………彼もその例外ではない。
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