「紅蓮の舞い、〈レッド・ダンス〉」 言葉とともに、彼女の払った手のひらの軌跡を、無数の火球が描いていく。本来の数を 遥かに上回る火球の数は、明らかに街の人間の精神容量を使用していることを物語ってい た。 気でも触れたかのように見開かれた瞳と、常軌を逸したその微笑みを朱に照らしつつ、 生み出された火球は周期的に明滅を繰り返していた。 「――相手を一瞬にして消し去るような、強力な一撃ってのはね」 火球群の向こう側で、彼女は言った。 「あっけないもんさ。むなしくなるほど、拍子抜けするほどにね。 でも、その分――」 火球群の明滅が、一斉に止まる。 「――爽快なのさ」 その言葉を待っていたかのように。 明滅をやめた火球群が、今度は一斉にルーティンたちを目掛け、殺到する。 「壁よ阻め、〈フォース・フィルド〉」 言葉とともに突き出された、ルーティンの両手の数センチ先を起点に、後方数メートル にかけて空間が波打ち、ロックとレジィすらも包み込む力場の障壁が発生する。 炸裂する火球群の衝撃は、瞬きすら満足にできない時間を経て訪れた。 巨大な精神容量を生かした、異常な量を誇る火球群。一つ一つの威力はそれほどでもな いが、これだけの数を生身で受けたら、間違いなく死ぬだろう。 狂ったような高笑いが、爆発音の中に聞こえてくる――。 「…ロック」 ルーティンは、彼女に対する注意をそのままに、背後にいるロックを呼んだ。 「今回は、俺に任せてくれないか」 「ち、ちょっとルーティン、正気なの?」 ロックよりも早く、レジィが入り込んできた。 「今のあの人は、この街に住んでる人間全員の精神容量を持ってるのと同じよ。話を聞い てなかったわけじゃないでしょう!」 「だからこそ、さ」 焦りなど微塵もなく、淀みのない落ち着いた表情に笑みすら浮かべて、ルーティンは言 った。 「俺ってあんまり器用じゃないから、この状況でお前らのことを気にしながら戦える自信 は無いんだよな。一対一だったら自分のことだけ考えてりゃ済むし、魔法術も気兼ねなく 使い放題だ」 「駄目よ。いくらなんでも危険すぎるわ。 自分の言ってること、分かってるの?」 「何をやっても結局は危険さ。 どっかで思い切った行動に出る必要があるんだ。それを俺がやる」 「…見込みはあるのか?」 それまで静かに黙していたロックが、そう切り出す。荒れ狂う爆音の中、掻き消されて しまいそうな声音だった。 一瞬の間を空けて、とぼけたようにルーティンは聞き返す。 「なんの見込みだよ?」 「わざわざ一人で戦って、事態が好転する見込みのことを聞いてんだ」 即座に返してくるロックは、呆れ半分であった。 「ぶっちゃけた話、止めなきゃなんねぇとは言っても、殺すことはできねぇだろ」 「それはどうかな。…最悪、それくらいの覚悟はしてるけど」 あまりと言えばあまりの言葉に、ロックとレジィは言葉に詰まった。 「…本気か?」 「誰かがやらなきゃならないことなんだ。 今までは、誰一人としてここまで辿り着いた人間はいなかった。けど、俺たちはここま で来ちまった。偶然泊まった宿屋の女将が相手だからって、それを今さらやめるわけには いかないだろ」 「…そりゃそうだけどよ、だからって、お前がやる理由はないんじゃないか?」 「俺の魔道士としてのエゴさ。大丈夫。こんなところで死ぬつもりはないから」 「当たり前だろ」 きっぱりと言い切って、ロックは苦笑した――ような気がした。前方に集中しているル ーティンに、背後のロックの表情は読み取れない。そんな気がしただけだ。 「とにかく、ここは俺がなんとかする」 これ以上の反発を受けないよう、極力自然に、極力やんわりと話を押し切る。 「相手が相手だし、これ以上、のたくた言い合っている暇はないんだ。 ロック、お前は、あの人の精神容量として機能してる街の人間の意識を、少しずつでも 確実に落としてくれ。あの人の能力に直結したダメージを与えられる」 「…そんな、何人か黙らせたくらいで意味あるのか?」 「頼む。あの人に近い人からやってくれ」 「…解った」 ロックは素早く切り替え、ルーティンの言葉に応じる。 「レジィ、ロックのフォロー頼む」 「…」 ルーティンの言葉に返される言葉はなく、明らかに不服そうな空気が背中に伝わってく る。 「…強力な助っ人なんだろ?」 もう一声。 「…分かったわよ」 さすがに無反応というわけにはいかなくなり、レジィは渋々ながらに承知した。 「でも、あんまり無茶は――」 「無茶しないでなんとかできるんだったら、苦労はないんだけどな」 「…」 反射的に返した言葉に、重い沈黙が返ってくる。 背中に伝わってくる空気は、心なしか刺々しい。 「…まあ、それなりに気をつけるさ」 念のため適当にフォローしておき、ルーティンは注意を前方に集中させた。 目を閉じ、心を閉ざす。 防護魔法術の障壁を通して感じる爆発の衝撃は、だいぶ弱まっていた。 もうすぐ、動くべき瞬間が来る。 「――この爆発が完全に途絶える直前に、動く」 ルーティンは前を向いたまま、背後の二人に言った。 「俺が合図したら――ロック、レジィ、頼むぞ」 「おう」 「…ええ」 レジィは、もう何も不服を言ってはこなかった。 もう、もうすぐ――間もなくだ。 待っていた瞬間が来る。 そろそろ覚悟を決めよう。 来訪者の技術に振り回されてしまった彼女を止める、覚悟を。 最悪の瞬間が訪れてしまったとき、それでも彼女を止める、覚悟を。 (――なんだかんだ言って、俺はまだ、自分で意識して覚悟を決めないと、動くべきとき に動けない) 今までは、それでもよかった。 それほど切羽詰った状況に、立たされたことがなかったから。 (――いや、そうでもないか。 色々あった。今までも) そしていつも、いつでも、その瞬間だけを精一杯に。 未来のことなど、常に後回しだった。 後で後悔するのが、たまらなく嫌だから。 (――だから) だから、今この一瞬を、考えつく限りで最良の一瞬にするために。 (――絶対に迷っちゃいけない。 俺は、俺の正義で戦うと、決めた。決めたんだ) 閉ざしていた心のシャッターを、閉じていた瞳を、開く。 見つめるものは、まっすぐ前に。 見据えるものは、その先に。 「――レジィ!」 「阻む者、〈フォース・フィルド〉!」 レジィが防護魔法術を発動させるのと同時に、ルーティンは自分が発動させていた防護 魔法術を解いた。すぐさま身を屈め、利き手――右手の手のひらを足元の地面に当てる。 「導け白翼、〈フリップ・フラップ〉!」 一瞬にして全身を包む、心地好い浮遊感。 ルーティンは地を蹴り、勢いよく上空へと舞い上がった。 と――。 「それで逃げたつもりかい!」 すさまじい――他に表現の仕方が思い付かない――形相とともに、彼女は頭上のルーテ ィンを仰ぎ見た。獲物を狙う獰猛な肉食動物のそれを思わせる視線は、爛々と見開かれ、 鈍く光を放っている。そしてその視線は、正確にルーティンを追っていた。 彼女が右手を振り上げ、叫ぶ。 「風刃の断罪、〈ブラスト・ブレード〉!」 激しく渦巻く空気の刃が無数に現れ、一瞬にしてルーティンに牙を剥く。 しかし、直線的なその攻撃を、ルーティンは難なく回避する。 「…ッ!」 ぎり、と彼女は歯を食いしばった。瞬きすることすら忘れいるかのように――もしかす ると、ルーティンを一瞬でも見失いたくないのかも知れないが――目を見開いたまま、次 なる魔法術を放つ。 「業火の喚泣、〈ヘル・フレア〉!」 生まれたのは、人の頭部ほどの大きさを持つ火球。数は、数える気にもなれないほど無 数である。 着弾せずとも爆発で、標的にはダメージを与えられる。今度こそ逃れられはしないと彼 女は確信していたに違いない。 しかしながら、そんな自信とは裏腹に、またもルーティンを仕留めることは叶わない。 炸裂して撒かれた爆炎に、時おり彼が包まれているような状況も見られた――少なくとも 彼女にはそう見えていた――が、その後のルーティンの挙動に大した変化が見られない辺 りからも、ダメージを与えられたとは考えられなかった。 思い通りにならない。 「雷鳴の狂気、〈マッド・レヴィン〉!」 彼女の迷いを薙ぎ払うように、激しい光の明滅。耳をつんざく爆音が轟く。青白く光を 弾けさせる何条もの電撃の鞭が、生き物のように不規則なうねりを見せ、縦横無尽に暴れ 回る。 しかし、それらに周囲を囲まれてもなお、ルーティンの冷静さは崩されなかった。飛行 魔法術の能力を最大限に活かし、また信じられない洞察力と反射神経を発揮し、青白い光 の鞭を片っ端からよける。 「――!」 にわかな焦りが、彼女の表情を走った。 無理もない。これほど自由自在に飛行魔法術を操る魔道士など、彼女は見たことがなか ったのだ。 「…知らなかったかい?」 つぶやくようなルーティンの声は、なぜか不思議によく響いた。 「…飛行魔法術ってのは、これで結構、使い勝手のいい魔法術なんだ。 ただ、本来空を飛ぶことのできない人間だから、たいていの魔道士は、飛行魔法術が使 えるっていうだけで満足するし、いい気にもなる。だから、普通はそれ以上の研究をしな いんだよな」 「……」 「これでも一応、一流を自負してる身だからね。タダでやられるつもりはないよ」 「…大したプロ精神だね。 でも、ただ飛んでるだけじゃ、あたしは止められないよ!」 自身の不安を――振り払い切れない不安を振り払うように叫び、彼女は再び右手を頭上 にかざし――。 「――!」 彼女は瞳を大きく見開いた。 視線の先で、ルーティンの掌が彼女をとらえている。 彼の飛行魔法術は、起動したままだ。 ――まさか。 「――当たり」 彼女の驚愕に応えるように、ルーティンは口の端を上げて笑みを見せた。 ▼――平行起動、パラレル・マジック。 「咆哮に振り返れ、〈ウィン・シュリーク〉!」 引き裂くような――それこそ、悲鳴のような甲高い音が、鼓膜を鋭く振動させた。 さながら断末魔のような叫びを上げて、生み出た空気の珠の群れ。人魂を思わせる不思 議なゆらめきを残し、一斉に彼女を襲う。 …いや。 ルーティンの攻撃は彼女に届かなかった。殺到したと思われた吸気の珠の群れが、こと ごとく彼女の周囲の地面に当たったからだ。彼女には、その一つすら当たっていない。 「…」 戦慄の後、自分の身に起こった信じがたい事実に唖然としながら、彼女は自分の周囲の 状況と、何より自分の身の安全を確認する。 ゆっくりと地上に降りてきたルーティンには――彼がまるで風の一部にでもなったかの ように、音もなく降りてきたので――しばらく気付かなかった。それでも、その存在に気 付くや否や、彼女は激しい敵意に満ちた視線でルーティンを射抜いた。 「どういうつもりだい」 低く、唸るような声。 「…考え直してくれないか」 限りなく感情を殺した声で、ルーティンは無表情に応えた。 「あんたは、俺には勝てない。 技術や経験どころか、単純な魔法術の使い方だけでも違う。それは、例えこの街に住む 全ての人間の精神容量をあんたが手にしたって、埋まるようなものじゃないんだ。魔法術 を使ってるのは、あくまで、あんた一人なんだから。魔道士なら、あんただって十分に分 かってるはずだろう?」 「冗談じゃないね!」 彼女は全く応じず、片手を掲げた。 「極寒の誘い、〈セビア・ブルー〉!」 彼女を中心に急激に気温が下がり、空気中の水分が結晶化。人の身長ほどはあろうかと いう氷の錐が彼女に周囲に次々と生まれ、生まれたそばからルーティンを襲う。 …はずだった。 しかし、彼女の言葉に魔法は応えない。 まったく、なんの反応も見せなかった。 「……え……?」 呆然と呟く彼女の脳裏に、致命的なメッセージが浮かんだ。 ▼警告、精神容量の絶対的不足を感知。魔法術起動を解除。 ▼警告、精神容量の絶対的不足を感知。魔法術起動を解除。 馬鹿な。 馬鹿な。 彼女は混乱に揺れる。 そんなはずが。 この街に住む何千という人間の精神容量を手にしているのだ。精神容量が足りないなど という冗談が起こるはずはない。 ない、はずなのに。 「…〈オール・トゥルー〉には、ひとつの特性がある」 彼女の混乱を柔らかく解きほぐす、静かな声が響いた。 魔法術を極めし者。 マジック・マスター。 ルーティン=アーキテクト。 「せっかく精神容量を確保しても、その領域が分散していたり、遠くにあったりすると、 領域の使用に手間がかかる。非効率的だ。だから、確保した精神容量を、使用者のできる だけ近くに、一箇所に集めようとする特性が働く」 「…!」 彼女は目を見開いて、ある方向を振り向いた。 気付いてはいた。 ロック=トーレス。彼が瞬間的に、彼女の周囲にいた人間を、一瞬にして打ち倒したこ とを。 驚きはした。伊達に閃光の如き衝撃などという二つ名で呼ばれてはいない。 だが、些事だと捨て置いた。たかだか数人を倒された程度で、彼女の戦力に大した影響 が起こるわけはないと思っていたからだ。 なんという。 なんということ。 こんなにもあっさりと、優位を崩された――! 「…俺の行為を無駄だと思ってたろ」 構えを解き、ロックはニヤリと笑って見せた。 表情を引きつらせる彼女に、再びルーティンの声が、静かに響く。 「特性を逆手に取って、利用させてもらった。 何事にも言えることだけど、使い方を解っているだけじゃ意味がない。特性もそうだけ ど、構造や作用を理解しなければ、最大限に活かすことはできない」 思い通りにならない。 「……どうして……?」 思い通りにならない。 「…どうして…!」 思い通りに、ならない。 「――どうして!」 彼女は髪を掻きむしった。 全てを拒絶するように、己の両腕で震える己の身を包み込む。 爆発する感情が、全て魔法術として具現化される。 「どうして!」 どうして、思い通りにならない。 「どうして!」 どうして、お前だけ。 「どうして!」 この力を手にして、全てを思い通りにしてきた。 「どうして!」 同じ人間の命をも、鷲掴みにした感触が、確かにあったのだ。 「どうして!」 それを、どうして。 「どうしてッ!」 どうして、こんな子供一人に、これほどの屈辱を。 「あんたも…。 あんたもあたしの思い通りになるんだよ! あたしのモノになるのさ! ルーティン=アーキテクト!」 「…悪いけど、その気はない」 感情のおもむくままに発現した、彼女の魔法術の数々。 炸裂する火炎、包み込む水冷、暴れ回る稲妻、一瞬の閃光。その全てが、それまでとは まるで比較にならないほど低いレベルの魔法術。しかも、冷静さを失った彼女の攻撃は、 的確な標的の捕捉すらできていない。ルーティンどころか、あらぬ方向へと飛び散り、そ れぞれ効果をもたらすことはなかった。 ルーティンの静かな足音が、彼女に近付いてくる。 「…あんたに…!」 呻くように、彼女は言葉を搾り出した。 「あんたに、あたしをどうこうできる権利なんかないだろう!」 最早、自分の言っていることの矛盾点にすら、気付かない。あるのは、ただとめどなく 胸の奥から溢れてくる、どす黒い感情の奔流だけである。 「…そうだね」 彼女から十メートルほど距離を置いたところで足を止め、ルーティンは言った。 「…俺に、あんたをどうこうできる権利なんかない。…あんたに、街の全ての人間をどう こうできる権利がないのと、同じように」 「あたしには力がある!」 「…あんたの力じゃない」 ルーティンは優しく遮った。 「来訪者が作り出した、人の心を壊すだけのガラクタの力だ」 「あたしは力を手に入れたんだよ! 例えそれが運であっても、あたしが手に入れた力なんだよ! それをあたしがどう使お うと、あたしの勝手だろう!」 「…そうだよ。 それは、あんたが手に入れたものだ。あんたがどう使おうと勝手だし、俺が何を言える 立場でもない。でも、あんたの言い分は、街ひとつの人間を引っ掻き回して許されるもの じゃない」 「分かってる! 分かってるよ! そんなことは!」 分かっていた。 ただ、目を背けていただけで。 目の前に突然現れたものが、あまりにも魅力的だったから。 「分かっているなら、もうやめよう。 それは、使っちゃいけないものだ。それは本来、俺たちが目にする必要の無かったもの なんだから」 差し伸べられる手。 優しく包んで、狂った世界から、連れ出してくれる? ――いや、違う。 この手が奪うのだ。 あたしが手に入れた、あたしだけの大切なものを、あたしの手から、あたしの手の届か ない、遠いところへ。 …奪われる。 奪われるのは。 ――イヤ。 「…嫌…」 誰にも渡さない。 「…誰にも…渡さない」 これは、あたしだけのモノ。 「…あたしの、モノ」 彼女はどこからともなく、それを取り出した。 片手にすっぽりと収まる、直系五センチほどの深緑色の宝玉。 百七十年前、来訪者によってもたらされたオーバー・テクノロジー。 知るはずのなかったもの。 知ってはならなかったもの。 過ぎた技術、アウター・テクノ。 偽り無き世界、〈オール・トゥルー〉 「…だれにもわたさない。 これはあたしだけのモノなんだから」 宝玉を頬に摺り寄せ、彼女は満足そうに微笑む。 開かれた瞳は、虚空に何を見ているのか。それを知る術はないが、少なくとも、そこに ルーティンは映っていなかったはずだ。今再びルーティンを見る彼女の、その瞳に浮かぶ 明らかな敵意の感情を見れば、それは明白であった。 「…あたしを止めるんだろう? ルーティン=アーキテクト」 「…」 「あたしを、殺すかい? 多分、それが一番、手っ取り早いさね。そうすれば全て終わる」 「他人の生き死にを決められるほど、俺は傲慢じゃないよ」 「…ルーティン・ザ・マジック・マスターも、所詮は子供ってことだね」 嘲笑のような、そうでないような笑みを見せ、次の瞬間、彼女は叫んだ。 「いいかい、生きていくってのはね、そういうことなんだよ! 『みんなで仲良く』でき るんだったら、最初から誰一人、何一つ苦労してない! あたしたちはね、自分の理想を 形にするために、他人の理想を蹴落とさなきゃならないんだよ! 命すら!」 「…だから、その理想を形にするために、一人を選んだのか?」 この街の住民は、全て記憶を混濁させ、誰が誰なのか、自分が何者なのかも判別できな い。互いの接触を断って孤独の中を生きる、生きたゴーストタウンと化した街の中で、彼 女だけが普段と同じように過ごしているのは不自然だ。彼女は自分の理想を形にするため に、孤独を受け入れるほかなかった。 だが、その孤独を受け入れてでも、その理想を形にしたかったというのか。 「…そんなもの、あたしにとっては大した問題じゃないさ。あたしは今までずっと独りだ ったからね。誰にも期待なんかかけなかったし、誰かにかまってもらいたいなんて思った こともない。愛情とか友情とか希望とか、そんな絵に描いたようなキレイで脆い物、邪魔 になるだけで役に立たないじゃないか」 「…よく言えるな、そんなこと」 ルーティンは、はっきりと悲哀の色を瞳に滲ませた。 先ほどまで自信に満ちていた、壊してしまいたいほど憎たらしかった瞳に、今は彼女を 気遣うような感情が浮かんでいる。 ザマァない。所詮は子供だ。大人ぶっていても、積み重ねた年齢が織り成す感情までは 真似できない。 「独りは楽でいいよ。他人を気にして自分を押し込む苦痛がない。自分を好き放題に表現 できる。誰も何も言ってこないからね。表面上だけの仲良しなんて、あたしは要らない」 「…」 「そう。あたしはずっと独りだった。独りで生きてきたんだ、誰にも頼ることなく」 「それは……違う」 ルーティンの瞳に、再び揺るぎない意志の光が宿った。 「あんたが今日までどんな生き方をしてきたかは知らない。俺には重過ぎるかも知れない し、話したところで、あんたが辛いだけかもしれないから、聞かないけど。 でも、あんたは気付いてる。あんたは求めていたはずだ」 自分以外の誰かからの情を。 「本当は……恐かったんじゃないのか?」 「…なんだって?」 知った風なことを言う。 彼女の中で、再び憎しみの炎が黒々と勢いよく盛った。 「あんたは、絶対なものが欲しかったんだ。 一瞬でも、一回だけでも、どんなに些細なことでも、裏切られるのがたまらなく我慢で きなかった。だから、絶対に自分を裏切らないものだけを欲しがったんだ。…自分は自分 を裏切らないからな。唯一、例外なく、確実に思い通りになる」 ――うるさい。 全てお見通しだとでも言うのか。生まれて十何年しか経っていないような子供が。 「独りで生きるなんてのは、物理的に絶対不可能だよ。 食事はどうしたんだ? 食材は食材屋で調達してきたんだろう? 記憶をメチャクチャ にされて、生きることすら苦痛としか感じられない店員を相手に、金を払って買ってきた んじゃないのか?」 「うるさいよ!」 「水はどうしたんだ? まさか海水をここまで運んできて、ろ過して使ってるわけじゃな いだろう? 暖炉の薪は? 自分で森まで行って切ってきてるわけじゃないよな? 家具 は自分で作ったのか? 窓ガラスは自分で加工したのか? ベッドのシーツは自分で織っ たのか? 服は? 装飾品は? あんたの宿屋は、あんたが自分で建てたのか?」 「――ッ――!」 「そんなこと、って思ったかい? でも、これが現実だよ。独りで生きてきた、なんて、 思い違いもいいところだ。誰にも頼ってないって? 冗談じゃない。あんた一人が生きる ために、どれだけの人間が苦労してると思ってるんだ? 食材も、水も、家具も、服も何 もかも、誰かが作ったものだ。あんた一人の命が、それだけの人間に支えられてんだよ。 あんたは、そういう人たちの苦労を当然みたく足で踏みつけておいて、それでも自分は独 りだったと言い張る。 …残念だけど、あんたが言ってるのは、ただの子供のわがままと同じだ。実体のない、 口先だけの産物だ」 「――!」 彼女は叫んだ。 外界からの全てを拒絶するように。 内側の全てを吐き出すように。 何もかも一切をリセットするように、彼女は叫んだ。 愛情を欲した自分。 希望に縋った自分。 未来を夢見た自分。 幸せを疑わなかった自分。 気付いてしまった。気付いてはならなかったこと。 自分は求めていた。誰よりも強く、誰かからの情を。 自分は決して独りではなかった。ただ表面上の、感情の部分が問題を起こしているだけ だった。 正当化していただけだ。手に入れた力を使いたいがために、自分の中で理由をこじつけ ていたに過ぎない。 全ては、わがまま。 ただの子供のわがままと、同じ。 ――どうして――。 どうして気付かせた。 どうして、放っておいてくれなかった。 「…どう…して…」 感情が高ぶり、視界が熱く滲んだ。 景色がゆらめき、頬を何かが伝っていく感触を感じる。 …涙。 滴り落ちるそれに触れた瞬間、彼女の中で何かが、音を立ててひび割れた。 亀裂の音。 ――壊れる。 漠然とした、しかし異様な不安と恐怖が掻き立てられた。なんとかしなければならない という思いが、膨らんだ。 何が……何がいけなかったのか。 連鎖する自壊を食い止めようと、精神が原因を探り始める。 ――何がいけなかった? 何も間違ってはいないはずだったのに。 ――何がいけなかった? 何を間違ってしまったのか。 ――何がいけなかった? どこを間違えてしまったのか。 ――何がいけなかった? どこから間違えてしまったのか。 ――何がいけなかった? ……最初から、全て間違えていたとでもいうのか。 ――何が、いけなかった――? 今までの人生が、決して幸せ一色でなかったことは言うまでもない。そんなもの、存在 するわけがないことなど分かっている。 生きていく不安は確かにあった。未来への不安もあった。自分の存在を限りなく空虚に 感じたこともあったし、自分の無力さに辟易したこともあった。絶望したことすらあった が、その反面、自分を否定できるほど強くはなかった。何かにつけ立ち止まり、考え込ん でしまうことは幾度となくあったが、結局は流されるように生きるしかなかった。 それでも、自分が生きているという確かな実感が、何よりもこの身を支えていた。食事 屋兼宿屋を営めば、近所の人間から旅人まで様々な客が訪れ、酒に心を委ねながら、あれ これと思いを口にしていく。その言葉を聞いているうちに、ふと、気付いたのだ。彼らと て、自分と同じだなのだということに。 日々の何気ない事々、小さな愚痴、届かぬ想い、今の幸せ、明日への不安、運命への嘆 き……嬉しくも悲しくも楽しくも苦しくも、それら全てを受け止め、いつか必ず訪れる平 穏と安息を信じて、彼らは生きていた。 そのときだ。自分はどうだろうと考え、とてつもなく淋しくなったのは。 魔道士として成功できず、間に合わせのように始めた料理屋兼宿屋。様々な人間との関 わりが新鮮で、これはこれで楽しいものだと思っていた。 が、やはり違うのだ。時間を重ねるだけ痛感する。本当に自分が目指していたのは、魔 道士として成功し、確かな地位を得ること。才能を見出されながら開花できなかったなど と、落ちこぼれもいいところだ。まるで妥協したような――いや、確かに妥協し、今の行 き方を選んだ自分を、激しく悔やんだ。 認められたかった。何がそこまで気持ちを駆り立てるのか、自分自身にも理解できない ほど、周囲に認められたいという想いは強かった。それを押さえ付けて生きることなど、 できるわけがなかったのだ。 …だから。 だから、やっとそのときが訪れたのだと思った。あの日、偶然にも来訪者の遺産を手に 入れたとき、心の奥底に封印していたはずの想いが解放される瞬間を、はっきりと自覚し た。今まで押さえ付けていた分、それはより強く爆発し、散り散りバラバラになって身体 中を駆け巡った。衝動が、理性を砕いた瞬間だった。 でも、もういい。 これ以上の悲しみは、要らない。 「…お願い…」 彼女は囁くように、つぶやいた。 片手に持っていた〈オール・トゥルー〉を、両手で包むように持ち直す。 「…壊れないで…………あたし!」 目を閉じ、歯を食いしばり、一気に息を吸い込み、来訪者の遺産を持った両手を振り上 げる。 ルーティンは何かに弾かれるように飛び出し、叫んだ。 「駄目だ、やめろ! それを壊すな!」 しかし、彼女に言葉は届かない。仮に言葉が届いていたとしても、すでに動き始めてし まっている彼女の身体は、もはや止めようもなかった。 振り上げられた両手が、当然のように振り下げられる。その途中、彼女の両手に包まれ ていたものだけが、振り切られる彼女の両腕の軌道から外れて、弾かれたガラス玉のよう に、天からこぼれた流星のように、大地と激しく衝突し、砕ける。 ルーティンの目が見開かれた。 ロックとレジィは、ルーティンが叫んだ、その内容を理解できなかった。 そして、彼女は……なぜか安堵したようだった。何か、しがらみから解放されたかのよ うに。 一瞬の沈黙。 しかし次の瞬間、砕かれた来訪者の遺産の中で、急激な変化が起こった。 ▼…警告。 ▼システムに致命的な損傷(システムコードD)を確認。 ▼修復プログラム破損、修復不可能。 ▼システム完全停止までのカウントダウン開始を確認。 ▼緊急措置。 ▼占有記憶容量の解放、及び整列を開始。 ▼優先レベル、処理速度、ともに最大。 「…ッ…!」 引きつるような悲鳴が、彼女の口から漏れた。 「あ……ああっ………あああああっ……!」 何かの前兆を物語るように、それは次第に強く、長くなる。 …そして。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 人のものとは思えない、悲鳴と呼ぶにはあまりにもすさまじい悲鳴が響き渡った。 彼女は自分の頭を両手で抱えていた。飛び出さん限りに見開かれた二つの瞳は、時に白 目を剥き、時には全く別の方向へと動くことすらありながら、一所に留まることをも阻ま れるかのように振動し、揺れ動き続けた。開かれた口は彼女の悲鳴を解放することで手一 杯らしく、だらりと垂れ下がった舌と、そこから滴り落ちるものは、ただただ放置されて いた。 「あああっ! ああ! あああああああああああああああああああああああああああああ あああああああッ!」 レジィは両耳を手で塞ぎ、目を強く閉じて座り込んだ。 ロックは表情をしかめ、にわかに視線を逸らした。 そしてルーティンは。 彼女に、歩み寄っていた。 「……」 彼女は両手を首に回していた。 肺に溜め込んだだけの息を吐き出してもなお、声を上げ続けようとする自分の喉を、自 分の手で止めようというのか。 すでにかすれた吐息の音だけを生み出し続ける彼女に、ルーティンは謝罪するように言 った。 「…ごめん」 その言葉は、果たして彼女に届いているだろうか。 それを知る術は、ない。 「俺じゃ、あんたを救えなかった」 その意識下では、すでに構築された睡眠魔法術のロジックが、発現されるときを待って いる。
言楽〜gengaku〜 演楽〜engaku〜 VoiceBlog