東の空に、太陽がやっと姿を見せた早朝、ルーティンたちは丁度、サンマリノを出よう としていた。 「…眠ぃ」 ロックはぶっきらぼうにつぶやいて、恥かしげもなく盛大に欠伸をする。朝に対して極 端に弱い彼の脳は、まだ稼働率一桁である。 とはいえ、数時間前まで元気に――この表現には語弊があるが――動き回っていたので ある。いくら若いといっても疲労は溜まっているはずだ。その上、満足に睡眠を取ること もままならなかったのでは、誰にロックを責められようか。 そんなことを考えながら、レジィも一つ、控えめに欠伸をした。寝不足は美容の大敵で ある。例え一晩といえども手入れをおろそかにするわけにはいかない。しかし、昨晩はそ んなことをする気にもなれないほど疲れ果てていた。 ――結局。 あの時、破壊された〈オール・トゥルー〉は、残された時間と能力の全てを最大限に活 用して、記憶のデータを本来の持ち主の中に戻すという行為に出た。それが製作者のせめ てもの良心の現れなのか、それは解らない。結果としてそういう行為に出た、というだけ のことだ。その対象となる者たち全員の精神へのアクセスが可能だった彼女の精神は、そ の行為のパイプ役になってしまったのだ。結果、怒涛のように流れ込んでは流れ出ていく 記憶データの奔流に、彼女の精神は耐えられず、パンクしてしまった――と、ルーティン は二人に説明してくれた。 そのルーティンは今、まだ朝早く人通りも全くない、サンマリノの街並を振り返ってい る。 『――なんでもかんでも思い通りにしようと思うことが、傲慢なのは分かってるんだ。実 際、あのときの俺には二つの選択しかできなかった。起動した〈オール・トゥルー〉を破 壊して街の人間を助けるか、〈オール・トゥルー〉を停止させてから破壊して、あの人だ けを助けるか、そのどちらかだ。 俺は……迷った。一瞬だけだったけど、確かに迷ったんだ。この街に住んでる何千もの 人間より、あの人を助けたい気持ちを捨てられなかった』 だから、彼女に説得を試みた。だから、彼女が〈オール・トゥルー〉を破壊しようとし たとき、思わず叫んでいた。 『結果的に、助かったのは街の人間の方だった。でも、それは俺が自分で選択したわけじ ゃない。俺はただ見てただけだ。 もしあの時、あの人があんなことをしなかったら、俺はどうしただろうな』 やや自嘲気味につぶやいてたルーティンの言葉の真意を、彼女は追究しなかった。ただ 一つ、大多数の面識もない人間たちと、たった一人の面識ある人間とを天秤にかけたルー ティンの精神は、レジィにも理解できた。 何をもって正しいとするか。時にそれは、とてつもなく繊細で微妙な問題となる。それ でいて、その根本は誰でも主観的である。考える人間によって基準は変わってくる。仮に ルーティンが大多数よりも一人の人間を助けたとして、それを間違いだと指摘することこ そ間違いでないとしても、それが本当に間違いかどうかは、誰にも決められないし、誰に も分からない。無論、数の多い方こそ正しいというのが、間違った考え方だというわけで はない。問題なのは一方的であることだ。どちらにしても、これ以上なく愚かであり、そ して悲しい話だ。 「…なあルーティン、本当に歩くのかあ?」 何やら不満げに、緊張感とデリカシーの欠ける声で、ロック。 ルーティンは振り返り、相棒に苦笑した。 「このまま街にとどまって、大陸鉄道が来るのを待っててもいいよ。後で色々とややこし い話になってもいいならな」 「面倒なのはやだー」 「じゃあ我慢してくれ」 「でも大陸鉄道に乗りたいー」 「わがまま言うなよ」 「腹減ったー」 「これからそういう場所を探せばいいだろ。宿場町とか」 「楽したいー」 「いきなり抽象的な…。 あのな、そういうことは自分の財布の中身と相談してから言ってくれ」 一応、宿代は置いてきた。そうしたところで、彼女がそれを理解できるとも思えなかっ たが。 「楽をするってことは、金がかかるってことなんだよ」 「ぶー」 「膨れっ面しても、駄目なものは駄目。 てゆーかお前、贅沢言い過ぎだぞ。これからまだ長いんだから、できるだけ節約しない と。今回の報酬だって、レジィを家に送るまでもらえないんだからな」 「…正直、土壇場で『そんな約束してない』とか言われそうな気がする、俺」 「同感。覚悟はしとくべきかもな」 「……」 いつの間にやら失礼な物言いの二人を睨んで、レジィは吐息した。気遣うだけ損だった かも知れない、と少しだけ後悔しながら。 何にせよ、三人は歩き出した。 いつまでも留まっていたところで、何も始まらない。何も終わらない。 とりあえず歩いてみよう。 道は在って、無きに等しい。気の向くままに歩いてみれば、そのうち何かにぶち当たる はずだ。 それが嬉しいことなら、心の底から喜べるように。 それが悲しいことなら、それを少しでも和らげられるように。 そしてそれが、何を差し置いても妥協できないことなら、例え相手が運命であっても、 立ち向かう。 遠い未来の幸福よりも、まずは今日一日を幸福に過ごせるように。 一瞬一瞬を、後悔しないように。 必要なのは、自分自身に対する正直さ。 ただ、それだけである。 ※ ルーティンたちが街を出てから数時間後。 表大通りから少し道を外れたところで、早朝ランニング中の青年が女を見かけた。 見慣れた顔だった。青年の家の近くで、宿屋兼食事屋を営んでいる女主人だ。 いつものように声をかける。 だが、その日の女主人は少し変だった。 照明系だろうか、そんな感じの魔法術を唐突に使って見せて、得意げになっているので ある。 ――あたしね、魔法術の才能があるって言われたの。いつか魔道士になれるかも。すご いと思わない? 彼女はそう言って、子供のように無邪気な笑みを見せたというが。 それはまた、別の話。 ――了――
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