「…裄武」 横になって荒い呼吸を繰り返していた少女の口が、小さく少年の名を呼んだ。 「…まだ、そこに居てくれていますか…?」 「…無論だ、絹姫」 少年が静かに、しかし力強く応じた。 「心配することはない。俺はここに居る。 貴方が安らかな寝息を立てるまで、俺は貴方の傍に居よう」 障子を一枚隔てて聞こえてくる少年の言葉は、ただ耳にするだけで、少女に不思議な活 力を与えてくれるようだった。 「…今夜は、冷えますね」 「ああ、雪が舞っている。とても風情ある光景だ。貴方にも見せたい」 「雪が舞っていますの?」 「ああ」 「裄武、わたくしをそちらに連れて行ってくださいまし。雪が見たいわ」 「すまないが、それはできない。あなたの病弱な身に、この寒さは応える。どうか俺の言 葉を聞き入れ、安静にしていて欲しい」 「わたくしの体のことを御心配なさっておいでなら、それには及びません。医家の許可は 得ていますもの」 「…お言葉だが絹姫よ。つい先日も同じことを俺に言って部屋を出たところで医家に見付 かり、大目玉を食らったばかりではないか」 「今回は本当です」 「前回は謀だったのか…?」 「自分の身のことくらい、自分でわかりますと伝えました。どうせ長くないのなら、せめ て残された時間を好きにさせてくださいと申しましたら、快諾してくださいましたわ」 「…いや、それはおそらく、快くはなかったと思うが…」 少年は小さく唸った後、諦めたようにため息をついた。 「わかった。貴方の言葉を信じよう」 「では早速、」 「ただし、俺の言うことをひとつだけ、聞き入れて欲しい」 「何かしら?」 少女が問いかけると、少年は「失礼する」と一言断って、障子を開けた。冬の寒風をま とって現れた少年の姿は、白色と空色の袖なし羽織に、藤色の袴。両腕両脚には物々しい 籠手と脚絆を着け、額には露草色の鉢巻を巻いていた。 少年は障子を開けたまま部屋に入ると、横になっている少女の傍らに歩み寄って腰を下 ろし、少女の上体を優しく抱き起こした。少女の視界に、障子の向こう側で舞い落ちる雪 たちの幻想的な光景が飛び込んだ。 「…医家が何を言ったか知らないが、俺には俺の心配がある。……絹姫、外まで連れ出す ことは、勘弁してもらえないか?」 「……」 少女は、無言で少年の顔を見た。 少年が入ってきた障子までは、少女の歩幅でも十歩ほどだ。その、たった十歩の距離を 歩くことさえも、少年に心配を抱かせてしまうのかと思うと、少女は心苦しさと、申し訳 なさとを織り交ぜた、不思議な感覚になるのだった。 視線を、雪の舞う世界へ向けて、少女はつぶやく。 「…本当のことを申しますとね、雪のことなど、どうでも良いのです」 「何?」 「貴方の傍に居られるのなら」 押し黙った少年の緊張が、少女の体を支える両腕から伝わってくるような気がする。 少女は、白磁のように白く細い指先で、少年の腕に触れた。 「…冷たい」 「すまない。少しだけ我慢してくれ」 「そうではなくて。わたくしの体を心配する前に、ご自分の体の心配をしてください」 「俺のことなら心配無用だ。この程度の寒さには慣れている」 「慣れの問題ではありません。 裄武。貴方は、わたくしを護ってくださると言ったじゃありませんか。その貴方が体を 壊したとあっては、元も子も無いでしょう。仮にそうなったとしても代わりは居るだなど と、冗談にでも仰ったら、さすがのわたくしも怒りますよ」 「い、いや、」 「それとも、そのようなことは万にひとつもあり得ないと、そう仰るの? それならその 根拠を伺いたいわ」 「……」 困ったように言葉を詰まらせる少年に、少女は畳み掛ける。 「あるいは、理由も無く女と同じ部屋に居ることに抵抗を感じていらっしゃるのなら、そ の理由をわたくしが用意して差し上げます。――草見清之介裄武」 「はい」 一変して厳かに名を呼ばれた少年は姿勢を正しながら、この病弱な少女には確かにこの 家の次期当主となるべき気品と思慮があるのだと、今さらのように感じた。 「九城絹が命じます。……ご自愛なさい。その上で、この病に伏せる憐れな女を、護って やってくださいまし」 「承知」 「それと、もうひとつ」 「はい」 「…時折で構いませんから、お暇なときで構いませんから、部屋から出ることさえ難儀な わたくしの、お話し相手になってくださいまし」 「…はい…」 少年の返答は、潰れて消えた。 彼が、心を痛めてくれている。たったそれだけのことが、少女にはとても嬉しく、そし て、とても痛かった。 不意に息が詰まり、咳き込む。 「絹姫」 「…大丈夫。いつものことです」 気遣ったつもりだろうか。しかし少年は、少女が咳をひとつするたび、その都度、口元 を押さえた少女のてのひらに赤い華が咲くのを見るたび、少女の命が少しずつ、しかし確 実に磨り減っていくのを、生々しく突きつけられた現実として思い知る。 やつれた少女の体を支えながら、少年は思っていた。 もしも、この世に、どのような運命さえも捻じ曲げるだけの絶対的な力が存在するのな ら、どうか、この少女に課せられた理不尽な死の運命を捻じ曲げ、彼女にひとりの人間と しての生を与えてやってほしい。それ以外の特別なものなど必要ない。自由に歩き回り、 好きなものを食し、年頃の娘と同じように笑って生きてほしい。 その為に対価が必要だというのなら、自分の命を持っていってくれてもいい。 少年は、心の底から、そう願っていた。 それが少年の、少女に対する想いの証であった。
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