「そもそも、愛するという行為が異性に対してのみ成立するものだという認識自体、僕に はとても興味深いことです」 ◇ ちらりと横顔を覗き見れば、短い黒髪を潮風になびかせ、セスタの穏やかな視線は濃い ブルーフレームの眼鏡を通して、遥か遠くを見ていた。ひどく穏やかで、満たされた表情 をしている。いったい何を見ているのか知らないが、そういう視線を自分に向けてくれた ことはあったかなと、ふとそんなことを思ってしまう。 ――……なんだかなあ。 思わず吐き出しそうになる溜め息を、リックスは慌てて飲み込んだ。 街の南側にある海岸から見える景色が好きだと、セスタは言った。それほど楽しいもの なのかと問いかけたリックスに、セスタは笑ってこう答えたのだ。 「違うよリックス。別に楽しいわけじゃない、ただ、好きなんだよ」 さっぱり意味がわからなかったが、セスタが好きなものなら好きになりたいと――なれ るはずだと、根拠のない確信でセスタに同行した。 が。 五分と経たずに飽きた。 実を言えば、多分こうなるだろうとは思っていた。寄せては引いていく波をただ眺めた り、流れていく雲をただ目で追ったり、少しずつ傾いていく太陽をただ見送ったりするこ とが、お世辞にも楽しいわけはなく、結果は試すまでもなく明白であった。 けれど。 それが好きだと言ったから。 セスタが、そう言ったから。 「……」 しかし、さすがに限界だ。正直な話、今は一秒でも早く帰りたい。 「……なあ、セスタさあ」 「楽しいわけじゃないって、言っただろう?」 リックスのぼやきを先回りして、セスタは笑った。 「だから、やめておけば良かったのに」 「楽しいわけじゃないけど好きだとか、お前が変なこと言うから、どういうことか気にな っちまったんだ」 「別に変なことじゃないよ。好きか嫌いかと、楽しいかつまらないかは別物だもの。同じ 括りで考えることじゃないよ」 「……ええと、うん?」 「難しく考えることはないよ、リックス。そういうものなんだと思うくらいで十分さ。そ れで、ご感想は?」 「……まあ、ちょっと退屈、かな」 「ちょっと?」 まっすぐに瞳を覗かれる。動揺を見抜かれそうで、リックスは慌ててそっぽを向いた。 「……ごめん死ぬほど退屈」 軽く両手を上げて『降参』のジェスチャ。 「素直でいいね。うん、とてもいい」 セスタは声を上げて笑う。この笑顔を最も引き出すことができるのは自分だという自負 が、リックスにはある。 言っていることは回りくどいし、面倒くさいし、本心なのか建前なのかわからない。大 人びたことを言っているかと思えば、子供のようにはしゃぐこともあって、あっさり手の ひらを返すような危うさで、こちらをいつも振り回す。 なのに……なのか、だからこそなのか、リックスはこの同い年の少年を気にしている。 自分とは全く違う思考回路を持つこの少年が、いつか自分に新しい何かを与えてくれるは ずだと、それこそ根拠のない確信をリックスは持っているのだ。だから、セスタが好きだ と言うものは同じように好きになりたいし、セスタが楽しんでいることは一緒に楽しみた い。セスタが感じ取っている世界を、自分も感じ取ってみたいと、そう思う。 「セスタ、あのさあ」 「うん?」 「なんで、この景色が好きなんだ?」 「……え?」 セスタは、なぜか意外そうに聞き返した。 「……ええと……なんとなく?」 「なんだよそれ。ありえねぇ」 眉間に皺を寄せるリックスに、セスタは苦笑を返した。 「いや、でも、改めてなぜかと聞かれて、この気持ちをどう伝えたらいいかを考えると、 それはとても難しいんだよ」 それからセスタが語ったことは、リックスには確かに難しい話だった。 曰く、好きだとうのは「気に入っている」という意味合いで口にしたことであり、気に 入るという行為は感覚的で直感的で生理的で、詰まるところ抽象的であるから、なぜかと 問われても明確に伝えることはできないのだという。 ……なんのこっちゃ。 「……俺、どうしたらいい?」 「たぶん、気にしないのが一番いいんじゃないかな」 言って、また笑う。 笑った顔が思ったより幼いことは、リックスが誰よりもよく知っている。 ひとしきり笑うと、セスタは再び、視線を景色へ向けた。黒い瞳がまっすぐに正面を見 ている。 ――……ああ、そういえば。 そういえば、水平線というやつは、だいたい五キロメートルほど先にある計算になるら しいと、セスタがそう言っていた。その情報自体はリックスにとってどうでもよいものだ ったが、セスタが自分に向けて口にした言葉であるなら、それは大事なものとなる。 「水平線、見てるのか?」 「うん」 「そんなにいいもん?」 「何度見ても素晴らしいよ」 セスタは右手を持ち上げると、人差し指で水平線をなぞった。 「距離感、質感、円弧の描く曲線。何もかもが計算し尽くされている。こんなものが自然 に発生したなんて、とてつもない驚異だと思わないかい?」 「……よくわかんねえ」 「本当にリックスは正直だね」 セスタは笑って。 「でも、」 次の瞬間、リックスの心臓が飛び出そうな一言を放った。 「君のそういう正直なところ、僕はとても好きだよ」 「ハァッ?」 ひっくり返るリックスの声に、セスタは笑いながら、 「だからね、君のそういう正直なところ、僕とても気に入っているって言ったんだよ」 「誰が説明しろって言ったよ!」 リックス自身も驚くほど声を上げて抗議すると、セスタはきょとんと目を瞬かせた。 「……なぜ、慌てているんだい?」 「あ、慌ててなんかねえよ、バカ!」 「……なぜ、急に怒り出したんだい?」 「お、怒ってもいねえよ! バカ! バーカ!」 「?」 セスタは釈然としない様子だったが、怒ってはいないというリックスの言葉をひとまず 受け入れたのか、その後、そっぽを向いたリックスに声をかけることはなかった。 ――好きだよ、なんて。 そんなつもりで言ったわけじゃないってことくらい、わかってる。 でも、その言葉が頭の中でぐるぐる回って。 リックスは、ふと聞いてみたい衝動にかられた。 この海岸から見る光景と、リックスに向けたものと。 セスタの言った二つの「好き」は、どちらが大きいものなのだろうか、と。
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