HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 淡い幻想のリィンロヴル


第二幕 成熟の基準について


「愛というものを自由の象徴だと位置付けるのであれば、その対象を異性に限定すること
は、大きな矛盾と言えるのではないでしょうか?」

     ◇

「コーヒー、ブラック」
 瞬間。
 世界が凍りついたんじゃないかと思いたくなるほどの静寂が、狭い店内を覆った。
 市街北部の裏通りにあり、穴倉のような隠れ家的たたずまいがひそかに人気の喫茶店、
デント・デ・ライオン。そこで、その事件は起こったのだ。
「……正気か、リックス?」
 ずんぐりとした体型と黒眼鏡が特徴の店主、ムジナがようやく口を開くと、リックスは
頬を膨らませて講義した。
「コーヒー注文しただけで正気を疑うなんて、どんだけひどいんだよ、おっさん」
「正気を疑いたくなる俺の気持ちも分かるだろう。だいたいお前、いつもは」
「いいから、くれよ。コーヒーブラック!」
「……やれやれ」
 ぼやいて、ムジナは大きく吐息した。
「……残しても金はもらうぞ」
「いや残さねえし!」
 何を言っても無駄だと諦め、ムジナは盛大な溜め息とともにセスタを見た。
「お前はいつも通り、ブラックでいいな?」
「いえ」
 セスタは人差し指を持ち上げて微笑んだ。
「せっかくなので、僕は紅茶にしてください。ミルクは多め、角砂糖は四つで」
 ――え?
 思わず上げそうになった声を飲み込んで、リックスはセスタの横顔を見た。
 紅茶に多めのミルクと角砂糖四つ。それは、いつもリックスが注文するものと全く同じ
ものだ。普段のリックスなら、コーヒーをブラックでなど、絶対に飲まない。砂糖とミル
クと入れても飲まないくらいだ。それでも彼がコーヒーを、しかもブラックで飲むなどと
いう無謀な挑戦をしようとしているのは、それを同い年のセスタが美味しそうに飲んでい
るからに他ならない。なぜかと問われれば、それを明確に言葉にすることはできないが、
ただリックスには、共有することが大切なような気がした。それなら、なんとかなるよう
な気がしたのだ。
 ――せっかく同じものを飲もうと思ってたのに。
 今さら注文を変えたら、それこそ不自然に思われてしまう。
 地味にへこんだリックスの横で、ムジナとセスタのやり取りは続く。
「……なんなんだ一体。お前まで」
「大丈夫です。残さず飲みますし、お金も払いますから」
「当たり前だ」
 まったくどいつもこいつも。釈然としない様子ではつぶやきながら、ムジナは渋々作業
に取り掛かる。二つのポットに水道水を入れて火にかけ、その間に手動式のコーヒーミル
を準備し、豆を挽き始めた。
「おっさん、豆とかこだわってるのに、水は水道水なんだな」
「この街の水道水は軟水だからな。ヘタな水を使うよりいいんだよ」
「ふぅん」
 コーヒー豆を適度に挽いたところで、ポットのひとつの火を止め、ティーポットとティ
ーカップ、そしてコーヒーカップに湯を注いで温める。ティーバッグに紅茶の葉を入れ、
コーヒーのドリップに使うペーパーフィルタを用意する。
「おい、リックス。一体どういう心境の変化だ?」
 急にコーヒーを注文した理由について尋ねていることは、リックスにもわかった。しか
し、同じ質問をセスタにはしなかったことにツッコミを入れる余裕は、今のリックスには
なかった。まさか本当の理由を口にするわけにもいかず、彼は口を尖らせ、ムジナから視
線を逸らして呟く。
「……コーヒーって、オトナのオトコの飲み物なんだろ?」
 ぐらり――と、ムジナの体が大きく揺らいだように見えた。
「……お前、今いくつだ」
「え? 十七」
「……。なのな、リックス。非常に残念な話なんだが」
「ん?」
「コーヒーを飲めるかどうかは、大人の条件とは全く関係がない」
「えぇッ!」
 リックスはあからさまに動揺した。
「だっておっさん、誰かにこの前『お前さんみたいな大の男が紅茶か』って言って、見せ
付けるみたいにコーヒー飲んでたじゃん! セスタ、誰だっけ?」
「あれは確か……クライヴさんだよね。タング通りのクライヴさん」
「待て。あれは印象の話をしただけだ。あの巨漢が紅茶なんて上品なものを好きだと抜か
しやがったんだぞ。俺の受けた衝撃の大きさがお前らにわかるか?」
「おっさんに嘘つかれたー!」
「誰も嘘なんかついてねえよ。だいたいお前、セスタは大人じゃないのにコーヒー飲んで
るじゃないか。……って、おいセスタ、自分だけ無関係装って笑ってんじゃねえよ」
「あ、いや、すみません。でもムジナさん」
「なんだ」
「ポットのお湯が沸騰してますよ。沸かしすぎはいけないんじゃなかったでしたっけ?」
 ムジナはさらに何か言いたそうであったが、ひとまずは喫茶店の店主としての理性が勝
ったようだった。火を止め、ティーカップとティーポット、コーヒーカップに注いでいた
湯を捨てる。ティーポットにはティーバッグを入れ、コーヒーカップにはフィルタをセッ
ト。沸いたばかりの熱湯を注ぎ、ティーポットはティーマットの上に置いて蒸らし、その
間にコーヒーをゆっくりとドリップさせる。
 見事な手際で用意された紅茶とコーヒーが、セスタとリックスの前に並んだ。
「……まあ、アレだ。残したら俺が責任持って飲んでやる」
「金は取るのかよ」
 誤解を生んだことに多少なりとも責任を感じたらしい、ムジナの微妙な譲歩にすかさず
ツッコミを入れながら、リックスは褐色の液体を覗き込む。香りが鼻腔をくすぐった段階
で、これを飲み干すのはムリだと思えた。本来がミルクティーに砂糖なのだ。苦いものが
受け付けられないのは言うまでもない。だが、事情と経緯がどうあれ、残さないと大見得
を切ったからには、少なくとも口をつけないわけにはいかない。というか、セスタの前で
そんな格好の悪い真似をすることだけは、なんとか避けたいという思いの方が強い。
 ちらりとセスタを見やる。彼の挙動は普段と何も変わらない。落ち着いた様子で紅茶に
ミルクを注ぎ、なんの躊躇もなく角砂糖と四つ入れ、手にしたティースプーンでクリーム
色の液体に円を描いている。羨ましいほどの余裕で。
「お、お前、本当に大丈夫か?」
 思わず尋ねると、セスタは「え?」とリックスを見た。
「何が?」
 自分が好んでいるものを、セスタが受け付けられなかったら、まるで自分が受け付けら
れないと言われているような心持ちになりそうで、急に怖くなった。
「それ、いつものコーヒーのブラックと、全然違うじゃん」
「それはリックスも同じじゃない?」
「……う」
 今なら、互いのオーダーを入れ替えれば普段と何も変わらなくなる。そんな下心を読ま
れたわけではないだろうが、セスタに痛いところを突かれてしまう。
「……い、いや、俺はともかく」
「うん」
 深く追求してこないところが、ときどき有り難いこともある。
「そんなの、甘ったるくて飲めないんじゃないか?」
「うーん、どうかな。甘いのは嫌いじゃないけど……正直に言って初めてだから、よくわ
からないよ。でも」
「でも?」
「試してみるっていうのは、大事だよね」
 その言葉が、リックスに冷静さを取り戻させた。
 ――そうだ。落ち着け俺。前向きに考えろ俺。
 人生の一大事とばかりに考えているが、もしかしたら、思っているほどではないのかも
しれない。無駄に身構えていた自分を思い出して、思わず笑ってしまうくらいに。
「さあ、冷めないうちにいただこうか」
「あ、ああ。そうだな」
 退路を断たれたことで覚悟は決まった。
 表情を引きつらせたリックスと、どこまでも余裕のある表情のセスタは、ほとんど同時
にカップを口元へ運び。
「……ッ!」
「……うん」
 カップに口を付けたまま硬直したリックスの横で、セスタは満足げにうなずいた。
「悪くないね。普段飲んでいるものとは真逆に位置するけど、これはこれで美味しい」
 引き剥がすようにコーヒーカップから唇を離し、水を飲みたい衝動を必死に抑えつつ、
リックスも同調する。
「お、俺も、思ったほど悪くっ……なかったな。コーヒーのブラックってのも」
「本当? それは良かった。口に合わなかったらどうしようかと思ったよ」
 同じようなことを考えていたことを嬉しく思う反面、めったなことを言わなくて本当に
良かったと心から思う。
 と。
「でもさ、リックス」
 ここで、セスタが思わぬ言葉を口にした。
「お互い、やっぱり一番好きな飲み物っていうのは、あるものだよね」
「……え?」
「僕はコーヒー。君はミルクティー。自分の好きな飲み物を気兼ねなく飲めるっていうの
が、一番だと思わないかい?」
「……えーと、うん?」
 セスタの言わんとしていることを想像し、ふとリックスは気付いた。
 ――もしかして、交換を提案されている?
 しかし、セスタはミルクティーを気に入って飲んでいる様子だった。わざわざ交換する
理由がない。
 ――あれ?
 さらに気付く。
 ――そういえば、そもそもどうしてセスタはミルクティーを注文したんだ?
 しかも、普段リックスが注文するものと全く同じものを。
 ――まさか。
 最初からこうするつもりだった?
 厳密には、リックスがコーヒーをブラックで注文した瞬間。あのときから、セスタはこ
の未来を見据えて行動していたというのか。
 なんのために?
 決まっている。無謀な挑戦をしたリックスの顔を立てるためだ。
 お互いに一口ずつでも口を付けて、それなりのコメントを口にできれば、それぞれ相手
の好きなものを受け入れたというテイは保たれる。しかも、そこでセスタから交換を申し
出れば、リックスはそれ承諾するだけで全てが片付く。セスタが言うなら仕方ない、とい
う展開になるだけだ。
 ――まさか、そこまで考えてたのか?
 何かひとつでも想定と違う展開になっていたら、どうしていたのだろう。
 例えば、リックスが結局コーヒーを一口も飲まなかったら。または、口を付けても「マ
ズイ」と言ってしまっていたら。
 ――いや。
 きっとセスタは、どんな状況であっても、リックスだけが損をするような流れにはしな
かっただろう。リックスが一口も飲まずにギブアップすれば、同じように口を付けずにギ
ブアップしたかもしれない。リックスが「マズイ」と言ったら、同じようにセスタも「口
に合わない」と言ったかもしれない。
 もし、本当にそこまで考えていたのなら。
 ――かなわないな。
 想像の域を出ない。が、もうしそうなら、セスタにばかりそんな立ち回りをさせるわけ
にはいかない。
「……ああ。俺もやっぱり、いつものやつが一番いいかな」
 素直な感想を口にした瞬間、気持ちがぐっと軽くなったような気がした。
「決まりだね。とりかえっこしよう」
 互いのカップを交換して、リックスは飲み慣れたミルクティーの味に安堵する。やっぱ
りこれが一番だと、全身が言っているような気がする。
 ちらりとムジナを見やると、いつの間にか流し台で食器を洗い始めていた。リックスと
セスタのやり取りに気付いていないわけはないだろうが、あえて何も言ってこない気遣い
を、嬉しいと感じた。
 ――なんか、いいかも。
 が。
 ――あれ?
 お互いに口を付けたカップ。
 リックスの手にある、セスタが口を付けたカップ。
 すでにリックスが口を付けた、ついさっきセスタが口を付けたカップ。
 セスタもリックスも、利き手は同じ右側。
 ということは。
「……あ」
 気付かなくても良いところにまで、気付いてしまった。
「え?」
 きょとんと聞き返してくるセスタに構わず、リックスは蹴飛ばすようにイスを倒して。
「あーーーーーーーーーーーーーッ!」


 リックスの絶叫は、表通りの喧騒の中でも聞き取れるほどに、響き渡ってしまった……
らしい。