HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第一幕 青空は自由をくれるか


 街の南側に広がるレモレ海が、朝日に白く煌く頃、人気のない海岸に二つの人影があっ
た。
 一人は二十歳の女。長い黒髪を首の後ろでまとめている。砂浜を歩く足取りに乱れはな
く、直線のような理想的な姿勢で前を見ている。
 その視線の先には、十代後半の少年がいる。短い黒髪を潮風になびかせ、濃いブルーフ
レームの眼鏡の奥にある瞳は穏やかで、年齢相応の幼さと、不相応な冷静さを同時に存在
させている。気のせいか、靴を通して伝わってくる砂浜の感触を、意図的に確かめて楽し
んでいるように見えた。
「昨日は、何の話をしたかな?」
 振り向きもせずに、少年が尋ねた。無論、背後にいるであろう女に対して、だ。
「物理的に高い地点を求める、ある種の人間の精神性について、です」
 女は淀みのない柔らかな受け答えで応じる。「うん、そうだね」と、少年は満足そうに
頷いた。
「そう、ある種の人間はどういうわけか、そういった思考回路を持っているね。特に空、
あるいはそのさらに高みを望む者に顕著だ」
「彼らはそこに、何を見ているのでしょう?」
「空を行く鳥を見て、同じように空を飛びたいと願う思考さ」
「なぜ空を飛びたいと思考するのでしょう?」
「この青空を自由に飛ぶことができたなら、それは気持ちが良いだろうと思うからさ」
「青空は自由を与えるのでしょうか?」
「まさか」
 少年は小さく笑った。
「例えば空を飛べたとしても、重力の存在から逃れられるわけじゃない。そもそも、飛行
という行為に必要なエネルギィは、結局は自分で生産しなければ意味がない」
「なぜでしょう?」
「自分の力で飛ぶ必要が無いなら、空を飛ぶことはそれほど難しい行為ではないからさ。
彼らが求めているのは、あくまでも自力なんだよ。…………さて」
 少年は、軽く肩を竦める。しかし、視線はやはり前を見たままだ。
「この状況について考えてみよう。この状況は自由かな?」
「自由です」
「どうして、そう思うんだい?」
「人が悪いですわ。それは、あなたが一番よくご存知のはずです」
「君の口から、君の声で聞きたい」
「それは意味のある行為でしょうか?」
「もちろんだよ。それが目的なのだからね。意味は目的に付随するものだ」
「……わかりました、お答えします」
 諦めたような、しかし決して気分を害したわけではないような、そんな小さな吐息を、
少年は背中越しに聞いた。
「なぜなら、自由は束縛と同義だからです」
「うん、その認識は正しい。互いに寄り添っているイメージだね。どちらかひとつでも消
えたら、もうひとつも消えるしかない」
「片方だけでは立っていられない……成立することができないから、ですね?」
「そうだね」
「自由を与えてくれるのは、青空ではなく、飛行という行為そのもの、ということでしょ
うか?」
「その通り。空を飛ぶことが目的であるならね。意味はそこに、自然と付随する」
「では、青空は自由ですか?」
 少年は足を止めた。
 女も、ほぼ同時に足を止めた。
 少年は女を振り返り、口元だけで微笑んで見せた。
「君のそういうセンス、僕は好きだ」
「嬉しい言葉です。青空は自由ですか?」
「もちろんだよ」
 迷わず肯定して、少年は再び歩き始める。
 女も同様に、歩き始めた。
 二人の間の距離は、変わらない。
「なぜ青空は自由なのですか?」
「それは簡単だよ。青空は大地にはなれない。永久にね。それこそが、明確な束縛と言え
ると思わないかい?」
「天地の逆転という発想もあります」
「あれは意味そのものを逆転させるものだよ。全く異質のものだ。逆転の前後の情報は共
存できない」
「共存できませんか?」
「共存できたら、世界は破綻してしまうだろうね。どちらも満たしているということは、
どちらも満たしていないのと同義だから。そういったものを、人は世界とは呼ばないよ」
「何と呼ぶのですか?」
「混沌、と」
「混沌は自由ですか?」
「真面目だな、君は」
 少年は声を上げて笑った。声を上げて笑うほど、少年は機嫌が良かった。珍しい現象だ
と、少年は思っていた。
「うん、自由だよ。数学的な意味でのゼロと同義だ。全てを無意味にできる意味であり、
しかし、自らは無意味になれない」
「では」
 女はそこで言葉を切り、足を止めた。
 少年は、一瞬送れて足を止め、女を振り返る。
 二人の間の距離が、少し大きくなった。
「では、セスタ。あなたは自由ですか?」
 女の問いかけに、少年は目を見開いた。目を見開くほどの驚愕を覚えた。またしても珍
しい現象だと、少年は自覚していた。
 狂ったように笑う方法を知りたいと、思った。
「もちろんだよ、アイサ。
 僕も自由さ。…………不自由だからね」
 少年は、目を細めて答えた。